266. 三種の神器なき新帝――弥仁親王の践祚
京都から天皇も座主もいなくなる
南朝と足利方との和睦が破れ、再び戦いとなった時、
- 持明院統の本院
- 新院
- 天皇
- 皇太子
- 梶井二品親王
までもが南朝方に捕らえられた。
上皇・天皇・皇太子は賀名生の奥へ、梶井宮は金剛山の麓へ置かれた。
そのため京都には在位中の天皇がおらず、比叡山にも天台座主がいないという異常な状態となった。
平安京と比叡山がほぼ同じ時期に成立してから六百年余り、一日たりとも、このような事態が起きたことはなかった。
人々は、
「これこそ末法の世となった証拠である」
と嘆いた。
承胤親王が天台座主となる
このまま天台座主を空席としておくことはできない。
梶井宮の弟子である承胤親王が、新しい天台座主となった。
承胤親王は、前の座主とは振る舞いが異なっていた。
宴会や珍しい品物を好まず、修行を怠らず、ただ比叡山の興隆だけを心へ掛けていた。
そのため従わない僧侶はいなかった。
新しい天皇を探す
次に、
「誰を天皇へ立てるべきか」
という問題が起こった。
本院の第二皇子で、三条内大臣公秀の娘・三位局、後の陽禄門院を母とする十五歳の皇子がいた。
日野保光は、この皇子を南朝方へ連れ去ろうとしていた。
しかし準備が整わず、京都へ置いたままにしていた。
その皇子を探し出し、皇位へつけることになった。
出家を免れた皇子
前年、継母の宣光門院は、この皇子を妙法院門跡へ入れようとしていた。
すでに出家させる準備まで進んでいた。
ところが外祖母の広義門院が、北斗堂の実詮法印へ、ひそかに皇子の将来を占わせた。
実詮法印は、
「この皇子には、天皇の位へつく運命があります」
と答えた。
広義門院も完全には信じなかったが、念のため出家を中止させた。
皇子は日野時光へ預けられた。
占いどおり践祚する
翌年の観応3年8月27日、皇子は突然皇位へついた。
占いの内容は、一つも違わなかった。
実詮法印は天皇から深く感謝され、多くの恩賞を受けた。
267. 三種の神器なき即位――持明院殿炎上と荒廃する京都
文和への改元
同年9月27日、年号は文和と改められた。
10月には賀茂川で御禊が行われ、翌月には大嘗会が行われた。
神器を持たない即位への反対
しかし新帝のもとには、三種の神器がなかった。
公卿の間では、
「神器なしで即位を行うことは、どうして認められるだろうか」
との反対意見が多かった。
しかし武家が強く即位を進めたため、
「どのような事情があっても、武家の意向へ従うほかない」
として、大嘗祭は行われた。
九十九代で初めての事態
神武天皇が大和国橿原宮で政治を始めて以来、当代の天皇まで九十九代に及んだ。
その間、三種の神器を持たないまま皇位を継いだ例はなかった。
朝廷の儀礼や先例へ詳しい人々は、皆、この異例の即位を批判した。
捕らわれた上皇・天皇を救おうとする
京都がひとまず静まり、新帝の地位も安定した。
それでも、
- 前の天皇
- 二人の上皇
- 梶井宮
は南山の奥へ置かれたままだった。
新帝は、
「どれほど心を苦しめておられることか」
と気の毒に思った。
何とか賀名生から、ひそかに救い出そうと計画した。
しかし天皇と上皇の周囲は、南朝方の兵が厳重に警護しており、逃れる方法がなかった。
長い時間をかけて、梶井宮だけは、どうにか救い出すことができた。
国母・陽禄門院の死
同年10月28日、国母である陽禄門院が亡くなった。
天下は服喪に入り、京都では三か月間、楽器の音も鳴らされなかった。
宮中は特に寂しく、悲しい雰囲気に包まれた。
持明院殿が炎上する
文和2年2月4日、突然火災が起こり、上皇の御所である持明院殿が焼けた。
火事そのものは自然災害として珍しくはない。
しかし近年、京都の堂舎・神社・宮殿が次々と焼け、ほとんど残らなくなっていた。
これは単なる火事ではなく、
- 仏法が滅びる前兆
- 王城が衰える兆し
のように見えた。
元弘・建武以来に焼失した御所
元弘・建武の乱以来、焼失した主な場所を挙げれば、
- 内裏
- 馬場殿
- 准后御所
- 常盤井殿
- 兵部卿宮二条御所
- 宣光門院旧宅
- 鳥羽殿
- 伏見殿
- 十楽院
- 梨本
- 青蓮院
- 妙法院白河殿
- 大覚寺旧跡
- 洞院左大臣邸
- 大炊御門内大臣邸
- 吉田内大臣北白河邸
- 近衛家小坂殿
- 和歌所
- 河原院
- 花園の邸宅
など、数えきれなかった。
公卿・殿上人の邸宅まで含めれば、三百二十か所余りが焼けた。
寺院も次々と焼失する
寺院では、
- 法成寺
- 法勝寺
- 長楽寺
- 清水寺
- 双林寺
- 慶愛寺
- 霊山寺
- 西福寺
- 宇治宝蔵
- 浄住寺
- 六波羅地蔵堂
- 東福寺
- 大龍庵
- 天龍寺
など、三十か所余りが焼けた。
禅寺・律寺・国家祈祷所も、相次いで失われた。
京都は盗賊の町となる
東山や京都西郊では、民家が続かず、寺院もまばらとなった。
盗賊が町へ満ち、道を歩くことさえ危険になった。
鐘や法螺貝の音も、かすかにしか聞こえなくなった。
人々を迷いから目覚めさせる仏法の声も、消えようとしているようだった。
268. 山名時氏・師氏父子、足利方へ反旗を翻す
佐々木道誉への訴え
山名師氏は八幡の戦いで大きな功績を立てた。
「自分より大きな恩賞を受ける者はいないだろう」
と思っていた。
以前与えられながら、まだ実際には支配できていなかった若狭国の斎所今積を、改めて与えるよう求めた。
佐々木道誉を通して訴えようと、毎日のように道誉の屋敷へ通った。
道誉は面会しない
しかし道誉の屋敷では、
「今日は連歌会です」
「ただいま茶会の最中です」
と言い、師氏と一度も会おうとしなかった。
師氏は何時間も立たされ、日暮れまで待っても、むなしく帰された。
師氏の怒り
これが重なると、師氏は激怒した。
「周公旦は文王の子、武王の弟という高貴な身であった。
それでも髪を洗っている時に訴える者が来れば、髪を握ったまま会った。
食事中に客が来れば、口の食べ物を吐き出して会ったという」
「自分は才能が少ないとしても、将軍家の一門である」
「礼儀を知るならば、道誉は履物を逆に履いてでも庭へ迎え、袴の腰を結びながらでも急いで会うべきだ」
「それを、あの入道は無礼に振る舞った。
決して許せない」
一騎で伯耆へ下る
「かなわない訴えをするから、へつらう必要のない者へ頭を下げるのだ」
「今夜中に京都を出て伯耆へ下る。
すぐに謀反を起こし、天下を覆して、無礼な者たちへ思い知らせてやる」
師氏は屋敷へ戻ると、家臣へも事情を告げず、ただ一騎で文和元年8月26日の夜中、伯耆へ向かった。
これを聞いた家臣たち七百騎余りが、後を追った。
父・山名時氏も挙兵する
伯耆へ着くと、師氏は父の山名時氏へ話した。
「京都で面目を失ったため、将軍へ暇も告げず帰ってきました」
父も激しく怒り、すぐに南朝方の旗を掲げた。
まず出雲国にいた佐々木道誉の代官・吉田肥前を追い出した。
事情を国内へ知らせると、
- 富田氏
- 伊田氏
- 波多野氏
- 矢部氏
- 小幡氏
らも味方した。
出雲・伯耆・隠岐・因幡の四か国は、たちまち山名方へ従った。
南朝と共同で京都を攻める
山名父子は吉野へ使者を送った。
南朝からは、
「山陰道から京都へ攻め上るならば、南からも官軍を出し、同時に京都を攻める」
との返答があった。
時氏は喜び、5月7日、伯耆を出発した。
但馬・丹後勢を率い、三千騎余りで丹波路から京都へ向かった。
南朝軍も京都へ迫る
南朝からは、
- 四条隆俊
- 法性寺康長
- 和田氏
- 楠木氏
- 原氏
- 蜂屋氏
- 赤松氏範
- 湯浅氏
- 貴志氏
- 藤波氏
ら、和泉・河内・大和・紀伊勢三千騎余りが進んだ。
南は淀・鳥羽・赤井・大渡、西は梅津・桂・嵐山まで、軍勢の陣となった。
無数のかがり火が続いた。
義詮は京都で迎え撃つ
尊氏は、まだ鎌倉にいた。
京都の足利方は小勢で、大軍を防ぐことは難しかった。
土岐・佐々木勢は、
「近江へ退き、勢多で敵を待つべきです」
と勧めた。
しかし義詮は、
「敵が大軍だからといって、一度も戦わず退くことはできない」
と答えた。
天皇を先に比叡山東坂本へ移した。
自らは仁木・細川・土岐・佐々木勢三千騎余りを集め、鹿ヶ谷を背にし、賀茂川西側の敵を待った。
背水の陣にならない理由
陣の前には川、後ろには大山があった。
一見すると韓信の背水の陣に似ていた。
しかし土岐・佐々木勢は、後方に自分たちの国である美濃・近江を持っていた。
苦しくなれば、
「少し退いて休みたい」
と思うはずだった。
敵は戦う前から、その心を見抜いていた。
四条河原の戦い
文和2年6月9日午前6時ごろ、南朝軍は八条・九条の民家へ火を放った。
山名軍も梅津・桂・嵯峨・仁和寺・西七条へ火を放ち、京都へ入った。
京都内に防ぐ敵がいなかったため、南朝・山陰道勢は四条河原へ集まった。
足利軍の旗は鹿ヶ谷・神楽岡付近の山陰へ見えた。
佐々木勢と楠木軍
和田・楠木勢は法勝寺西門を通り、河原へ出た。
敵をおびき出し、兵力を見るため、射手五百人を馬から下ろした。
盾を並べ、田の畔をゆっくり進んだ。
佐々木氏頼が出家していたため、弟の佐々木五郎右衛門が近江勢五百騎余りを率いていた。
楠木軍に挑発されると、矢筒をたたいて鬨の声を上げ、攻めかかった。
楠木軍は陣を開いて誘い込み、包囲して矢を射た。
山名方の小林左京亮が七百騎余りで横から攻めると、佐々木軍は神楽岡へ退いた。
土岐軍の敗北
南朝・山名軍は勝利へ勢いづいた。
東を見ると、土岐の桔梗一揆六、七百騎が魚鱗の陣で控えていた。
山名師氏は小林勢を止め、新手千騎余りを選んで進んだ。
土岐・山名両軍は静かに近づき、矢を一度射交わした後、激突した。
二千騎余りが入り乱れ、半時ほど斬り合った。
やがて足利方の馬四、五百頭が主を失い、賀茂川西側へ走った。
土岐軍は大きく敗れた。
細川清氏の奮戦
細川清氏は味方の敗北を見ても、少しも気力を失わなかった。
吉良・石堂・原・蜂屋・宇都宮・和田・楠木ら新手が攻めても、清氏軍は賀茂川を渡り、真如堂付近まで戦い続けた。
千騎が一騎になっても退かない勢いだった。
しかし義詮の本陣が崩れ、味方との距離が開いたため、清氏も敗れ、比叡山へ退いた。
赤松氏範と長山遠江守
赤松氏範は混雑した集団戦を好まなかった。
五、六十騎だけを率い、逃げる敵を追った。
名のない敵を何百人斬っても意味がない。
「強い敵と戦いたい」
と思いながら北白川を進むと、巨大な鉞を担いだ武者がいた。
赤松は、
「長山遠江守ではないか」
と見て、後ろから声を掛けた。
「敵へ背を向けるとは、見苦しいではありませんか」
長山は笑った。
「誰かと思えば赤松氏範か。
よい敵だ。
一撃で殺すのは惜しい。
念仏を唱え、西を向け」
巨大な鉞を振り下ろした。
氏範は太刀を横にして受け流し、鉞の柄を脇へ挟んで引いた。
二人が引き合うと、樫の柄は中央から折れた。
長山は、
「力では勝てない」
と見て逃げた。
氏範は悔しがり、奪った鉞で逃げる敵を追い、次々と斬った。
足利軍の損害
美濃勢では土岐七郎ら桔梗一揆九十七騎が討たれた。
近江勢でも伊庭・蒲生・多賀氏ら三十八騎が討たれた。
ほかにも粟飯原・匹田氏らが戦死し、後藤貞重は捕虜となった。
義詮も日暮れに東坂本へ退いた。
清氏は西坂本に残り、
「味方が来れば、もう一度戦う」
と待った。
しかし翌朝、義詮から呼ばれ、東坂本へ移った。
武蔵将監の自害
そのころ故高師直の愛妾の子とされる武蔵将監が、田舎へ隠れていた。
阿保忠実・荻野朝忠らは、武蔵将監を大将へ立て、丹波・丹後・但馬勢三千騎余りを集めた。
義詮へ加勢するため、西山の吉峰へ陣を置いた。
山名軍は11日の夜明けに吉峰を攻めた。
武蔵将監軍は矢を一本射る間もなく破られ、谷底へ追い落とされた。
久下五郎ら四十人余りが討たれ、負傷者は数えきれなかった。
武蔵将監は二町ほど逃れたが、阿保・荻野から、
「もはや助かりません。自害してください」
と勧められた。
馬上で腹を切り、逆さまに落ちて死んだ。
沼田小太郎は一騎で引き返し、敵と戦った。
最後には自害し、武蔵将監の遺体を枕として倒れた。
阿保・荻野は逃げ延びた。
269. 義詮と新帝の美濃落ち――細川清氏、天皇を背負う
義詮は東坂本を離れる
義詮は、
「佐々木秀綱を警護へ置いているため、東坂本は安全だろう。
ここで諸国の兵を集めよう」
と考えていた。
しかし吉野から大慈院法印を比叡山へ送り、新しい大将とするとの噂が流れた。
東坂本を皇居とすることは危険となった。
6月13日、義詮は天皇を守り、東近江へ退いた。
天皇に従う公卿・武士
公卿・殿上人・梶井宮までが従った。
武士は義詮を大将として、
- 細川清氏
- 今川頼貞
- 土岐頼康
- 熊谷直鎮
- 佐々木氏
- 山内信詮
ら三千騎余りが、和邇・堅田の湖岸を急いだ。
堀口貞祐の待ち伏せ
新田義貞方だった堀口貞満の子・貞祐は、四、五年間、堅田へ隠れていた。
周辺の荒武者五百人余りを集め、真野浦で落ちてくる足利軍を待ち伏せた。
先頭には梶井宮と、その門徒がいた。
堀口軍は門主へ遠慮し、弓矢を用いなかった。
佐々木秀綱の討ち死に
最後尾には、東坂本の警固を務めていた佐々木秀綱が三百騎余りで進んでいた。
堀口軍は、
「比叡山の宿敵で、現職の侍所である。
討ち取れ」
と、東西から包囲した。
足軽射手が山や谷を利用して激しく射た。
佐々木一族の主だった武士が次々と討たれた。
秀綱は、頼りとした一族や若党が踏みとどまって死ぬのを見た。
高尾四郎左衛門入道と二騎で引き返し、敵中へ突入した。
馬の膝を薙がれて落馬し、二人とも討たれた。
先へ逃げた若党三十七人も引き返し、各所で戦死した。
塩津でも休めない
その夜、天皇の輿を塩津へ止め、供の人々を休ませようとした。
しかし塩津・海津の住民は、
「軍勢が一夜でも滞在すれば迷惑である」
として、辻や丘へ登り、鐘を鳴らし、鬨の声を上げた。
一行は休むことができなかった。
輿を担ぐ者が逃げる
再び天皇を輿へ乗せた。
ところが輿を担ぐ者たちは、皆逃げて、一人も残っていなかった。
細川清氏が天皇を背負う
細川清氏は馬から飛び降り、徒歩となった。
鎧の上へ天皇を背負い、塩津山を越えた。
介子推が自分の腿の肉を切って主君へ与えたことや、趙盾を救うため車を押した忠臣の行いも、この忠義には及ばないように思われた。
美濃へ到着する
公卿たちは、
- 湖岸の月を見ながら杖をつき
- 入り江の波へ舟をこぎ
長い逃避行を続けた。
その先は大きな妨害もなく、美濃国垂井宿へ到着した。
宿の長者の家を皇居とした。
義詮以下の軍勢は周辺の民家へ宿泊し、天皇を警護した。
270. 山名父子、京都を維持できず伯耆へ退く
山名師氏は京都の足利軍を容易に追い落とした。
長年の怒りが一度に晴れたように感じ、喜ぶのも当然だった。
「援軍が集まれば、すぐ美濃へ向かい、義詮を攻めよう」
と相談した。
しかし降伏する敵はなく、招集に応じる兵も少なかった。
京都には南朝から四条少将が政務担当として置かれた。
何事も山名だけの判断では決められなかった。
山名氏の所領も京都周辺にはなかった。
出雲・伯耆から集まった兵たちは、京都での長期滞在に疲れ、少しずつ国へ帰った。
日がたつほど山名軍は小勢となった。
そのうえ、
- 義詮が東山・東海・北陸勢を率し、宇治・勢多から攻め上る
- 赤松則祐が中国地方から上洛する
との情報も入った。
山名父子は、
「四方の敵が近づく前に、退くべきだ」
と判断した。
せっかく京都を奪った功績も、天下を支配する成果には結びつかなかった。
四条少将は官軍を率いて南朝へ戻った。
山名父子も街道を掃き清めるように撤退し、伯耆国へ下った。
271. 足利直冬、南朝と結ぶ――父を討つ者に天は味方するか
山名氏が直冬を総大将へ迎える
翌年春、新田義興・脇屋義治は相模国河村城を離れ、行方が分からなくなった。
東国が静まったため、尊氏が京都へ上った。
京都は再び大軍で満ちた。
尊氏方は、
「次は山名氏を攻めよう」
として、義詮を播磨へ送った。
山名時氏は考えた。
「今回は、適切な大将を立てなければ、兵は集まらない」
そこで九州勢から見放され、安芸・周防を漂泊していた足利直冬を招いた。
直冬を総大将として仰いだ。
直冬が抱える二つの罪
しかし直冬が尊氏へ敵対すれば、子が父を討つ罪となる。
南朝天皇へ従わなければ、臣下が君主を無視する恐れもある。
そこで、
「まず南朝から赦免を受け、綸旨に従って京都を攻め、尊氏を討つならば、天の怒りも世間の非難も受けないだろう」
と考えた。
直冬は吉野へ使者を送り、
「尊氏・義詮らを討つ綸旨をお下しください。
天皇の御心を安らかにいたします」
と申し上げた。
洞院右大将が強く取り次いだため、深い議論もなく、直冬の望みどおり綸旨が出された。
朴翁の反対
遊和軒朴翁は、これを批判した。
「天下の治乱・興亡には、必ず大きな道理がある」
「直冬を大将として京都を攻めることは、一時的な計略には見えても、成功しないだろう」
その理由として、インドと中国の故事を語った。
獅子王と王妃の子
昔、インドに獅子国があった。
ある王が外国から后を迎えた。
数百台の車、十万の護衛兵が、四、五十里にわたり行列を守った。
夕暮れ、深山を通ると、二、三百頭の獅子が現れ、人々を襲った。
兵も従者も逃げられず、全員食い殺された。
獅子の王は后をくわえ、山中の岩屋へ運んだ。
そして美しい男性へ姿を変えた。
后は獅子王の妻となり、山中で暮らした。
獅子の子の誕生
初め后は、
「人間でありながら獣の妻となった」
ことを悲しんだ。
しかし岩屋は宮殿へ変わり、虎や狼は公卿・殿上人の姿となった。
獅子王は天皇のような姿となり、后は次第に山中の生活を楽しむようになった。
三年後、男子を生んだ。
子は十五歳になると、美しいだけでなく、怪力の青年となった。
母を人間界へ連れ戻す
子は母へ言った。
「人間として生まれながら、母上は獣の妻となり、私は獣の子となっています。
前世の因果とはいえ、悲しいことです」
「獅子王が留守の隙に山を出ましょう。
私が母上を背負い、獅子国の王宮へ参ります」
二人は獅子王の留守に逃げ、王宮へ帰った。
国王は大いに喜び、后を再び寵愛した。
獅子王が国を荒らす
帰ってきた獅子王は、后と子がいないことを知った。
山を崩し、木を倒して捜した。
やがて、
「人間の国へ戻ったのだ」
と気づき、獅子国へ出た。
激しく吠え、村や町を荒らした。
人々は恐れて国を捨てた。
獅子王は王宮近くまで来て、夜ごと大地を揺らした。
獅子を討つ者への恩賞
朝廷は、
「獅子を退治した者には一国を与える」
との命令を出した。
獅子の子は、その札を見た。
「父を殺し、一国を得よう」
と考えた。
巨大な鉄の弓矢を作り、鏃へ毒を塗った。
父の獅子の言葉
獅子王は王宮へ入ろうとしたが、息子が弓を構えているのを見た。
涙を流し、地面へ伏して言った。
「后とお前を失い、恋しさのため、多くの人と国を滅ぼした」
「后とは、もう会えないだろう。
せめてお前だけでも一目見られれば、命を失っても悲しくない」
「私を討てる者は、お前以外にいない」
「自分の命を惜しむのも、子であるお前のためだ」
「お前が一国の主となり、子孫まで栄えるならば、私の命は惜しくない」
獅子王は口を開き、
「ここを射よ」
と横たわった。
父を射殺した子は賞されない
獅子王は獣でありながら、子を思う心が深かった。
子は人間でありながら、親を思う道を持たなかった。
矢は獅子王の喉を貫き、獅子王は死んだ。
子は首を王へ献上した。
国中の人々は喜んだ。
朝廷は約束どおり一国を与えようとした。
しかし公卿たちは相談した。
「命令に従った忠功はある。
しかし父を殺した罪は重い」
「褒美を与えるとの命令は変えられないため、一国百年分の税を、孤児・未亡人・身寄りのない者へ施そう」
子本人へ国を与えず、民衆救済へ使った。
朴翁は、
「親を殺して一時的に利益を得ても、最後には天罰を受ける」
と論じた。
堯帝は実子へ位を譲らない
中国の堯帝は七十年天子の位にあった。
老齢となり、
「誰へ天下を譲るべきか」
と尋ねた。
臣下はへつらい、
「皇太子丹朱へ譲るべきです」
と答えた。
堯帝は言った。
「天下は一人の私物ではない。
皇子であるというだけで、天下を任せるに足りない者へ位を譲り、民を苦しめることはできない」
許由と巣父
堯帝は賢者を探した。
箕山に許由という隠者がいた。
帝位を譲るとの使者が来ても、許由は返答しなかった。
「富貴や栄華の話を聞き、耳が汚れた」
として潁川で耳を洗った。
同じ山の巣父が、牛へ水を飲ませようとしていた。
理由を聞くと、
「そのように汚れた耳を洗った川の水を、牛に飲ませられない」
と言い、牛を連れて帰った。
舜の孝行
その後、堯帝は冀州の虞舜を知った。
舜の父は盲目で、継母は愚かで頑固、弟の象は傲慢だった。
それでも舜は、父母を養うために働いた。
舜が農業をすれば、人々は畑の境を譲った。
漁をすれば、漁場を譲った。
陶器を作れば、ゆがんだ器は一つもなかった。
舜が住む場所は、二年で村となり、三年で都となった。
人々が徳を慕い、集まったためである。
父母の殺害計画にも恨まない
堯帝は娘の娥皇・女英を舜の妻とし、九人の皇子を舜の臣とした。
さらに財産や家畜、琴を与えた。
しかし継母は実子の象を立てようとし、父・弟とともに何度も舜を殺そうとした。
穀物倉の屋根を修理させて火を放った。
舜は二本の傘を広げ、飛び降りて助かった。
次に井戸を掘らせ、上から土と石を落として埋めた。
舜は横穴を掘っていたため、逃げることができた。
舜は弟を責めない
弟の象は、
「舜は死んだ」
と思い、舜の財産を分けようとした。
舜の妻と琴を自分の物にしようとして、舜の宮殿へ行った。
しかし舜は生きており、妻たちと琴を奏でていた。
象は驚いた。
舜は弟を責めず、
「私が死んだと思い、さぞ悲しんだだろう」
と言って涙を流した。
舜は、その後も父母へ孝行し、弟を愛した。
堯帝は、その徳を認め、舜へ天下を譲った。
直冬を大将とすることへの批判
孔子は、
忠臣を求めるなら、孝行な家の門を訪ねよ。
と言った。
父へ不孝な者が、どうして君主へ忠義を尽くすだろうか。
獅子国では、父を殺した者は忠功があっても処罰された。
舜は孝行だったため、身分が低くても天下を与えられた。
朴翁は結論づけた。
「直冬は父を滅ぼすため、天皇の命令を借りようとしている」
「南朝がこれを認め、総大将の地位を与えることは道理に反する」
「山名氏が直冬を大将へ立てても、天下の大功を成し遂げることはできない」
後に、この言葉の正しかったことが明らかとなった。
272. 直冬の上洛と鬼丸・鬼切――源氏重宝をめぐる高経の恨み
山名・直冬軍が京都へ向かう
南朝は改めて評議し、足利直冬を大将として京都を攻める綸旨を出した。
山名時氏・師氏父子は五千騎余りを率し、文和3年12月13日に伯耆国を出発した。
山陰道の武士が次々と加わり、七千騎余りとなった。
但馬から播磨へ出た時、
- 鵤にいる義詮を攻めるか
- 丹波の仁木頼章が守る佐野城を攻めるか
相談した。
そこへ桃井直常と斯波高経から、
「急いで京都へ攻め上ってください。
北国勢も同時に進みます」
との使者が来た。
山名軍七千六百騎余りは、昼夜を問わず丹波国を通過した。
仁木頼章は戦わない
仁木頼章は丹波守護であり、当時は将軍の執事として大きな権力を持っていた。
山名軍が通れば、丹波で五度、十度の激戦が起こると思われた。
しかし頼章は敵の勢いを見て、
「戦えば勝てない」
と考えたのだろうか。
矢を一本も射ず、城の麓を山名軍へ通らせた。
敵だけでなく、天下の人々から笑われた。
尊氏は天皇を連れて近江へ退く
京都にいた武士の多くは、義詮へついて播磨へ下っていた。
遠国の援軍も、まだ上洛していなかった。
尊氏は小勢で京都へ残っていた。
「京都で戦うのは不利だ」
と判断し、直冬軍が大江山を越えたと聞くと、正月12日の夕方、天皇を伴って近江国武佐寺へ退いた。
新帝は即位して三年もたたないうちに、二度も京都から逃れた。
公卿たちも他国でさまようこととなった。
直冬が京都へ入る
13日、直冬は京都へ入った。
桃井直常と斯波高経も三千騎余りで上洛した。
直冬は七、八年もの間、継母の讒言によって各地を漂泊していた。
今は長年の不満が一度に晴れ、天下の武士から総大将として仰がれた。
人々は熱狂した。
しかし年に二度花を咲かせる木は、根が枯れるという。
今の栄華が長く続かないことを、まだ誰も知らなかった。
斯波高経が尊氏へ背いた理由
山名時氏は若狭所領の問題で義詮へ恨みがあった。
桃井直常は直義方として目的を果たせなかった恨みがあった。
二人が敵となった理由は理解できる。
しかし斯波高経は長年、足利方のために特に大きな功績を立てた。
尊氏も特別に恩賞を与え、世間も高経を重んじていた。
なぜ突然敵となったのか。
その原因は、二振りの名刀にあった。
鬼丸・鬼切を手に入れる
越前足羽の戦いで、高経は新田義貞を討ち取った。
その時、
- 鬼丸
- 鬼切
という源平代々の重宝を手に入れた。
尊氏は使者を送り、
「これは源氏の末流が持つべき物ではない。
足利嫡流の重宝として伝えるため、すぐに渡しなさい」
と、何度も命じた。
高経は偽物を渡す
高経は名刀を惜しみ、
「二振りは長崎の道場へ預けていましたが、道場が焼けた時に焼失しました」
と答えた。
同じ長さの太刀二振りを用意し、焼けたように加工して差し出した。
事情が京都へ知られると、尊氏は激怒した。
新田義貞を討った功績は大きかったが、十分な恩賞を与えなかった。
その後も高経は、たびたび面目を失う扱いを受けた。
これを恨み、直義の反乱にも加わり、今回も直冬へ協力したという。
鬼丸の由来
鬼丸は、北条時政が天下を治めた後に伝わる太刀だった。
時政の枕元へ、身長一尺ほどの小鬼が夜ごと現れ、夢とも現実とも分からない形で苦しめた。
修験者の祈祷も陰陽師の術も効果がなかった。
時政は病気となり、心身ともに苦しんだ。
太刀が老人の姿で夢へ現れる
ある夜、太刀が老人の姿となり、時政の夢へ現れた。
「私はいつも、お前を守っている」
「小鬼を退治しようとしているが、汚れた人が私を手に取ったため、さびが出て、鞘から抜けない」
「清浄な者へ命じ、私のさびを拭かせなさい」
老人は元の太刀へ戻った。
太刀が小鬼像を斬る
時政は朝早く起き、侍へ水を浴びさせ、太刀のさびを拭かせた。
鞘へ入れず、寝所の柱へ立て掛けた。
近くに火鉢があった。
その台は銀で作った小鬼の像だった。
水晶の目、金の歯を持ち、夜ごと夢へ現れた鬼によく似ていた。
突然太刀が倒れ、小鬼像の頭を切り落とした。
時政の病気は、たちまち治った。
それ以後、鬼は夢へ現れなかった。
このため太刀は鬼丸と呼ばれ、北条高時まで北条嫡家の守りとなった。
北条氏から新田義貞へ
北条高時が東勝寺で自害する時、鬼丸は次男の亀寿へ渡された。
その後、中先代の乱で北条時行方の武士が自害した場所から発見された。
新田義貞へ献上され、義貞は、
「北条嫡家の鬼丸である」
と大切にした。
鬼丸は奥州宮城郡の刀工・三の真国が、三年間身を清めて鍛えた剣だという。
鬼切の由来
鬼切は、もともと源頼光の太刀だった。
大和国宇陀郡の森に、夜ごと人や家畜を食べる化け物がいた。
頼光は渡辺綱へ、
「化け物を討て」
と命じ、秘蔵の太刀を与えた。
渡辺綱が女装する
綱は鎧を着て森へ通った。
しかし化け物は姿を現さなかった。
そこで髪を乱し、女のかつらをつけ、歯を黒く染め、女のように装った。
明け方、森の下を通ると、空が急に曇った。
化け物が空から綱の髪をつかみ、持ち上げた。
綱は頼光から受けた太刀を抜き、空中を斬った。
血が顔へ掛かり、黒い毛と三本の指を持つ腕が落ちた。
老母へ化けた鬼
綱は腕を頼光へ献上した。
頼光は朱塗りの箱へ納めた。
その後、恐ろしい夢を見たため、七日間厳重に物忌をした。
七日目の夜、頼光の母を名乗る老婆が門へ来た。
頼光は母と思い、屋敷へ入れ、酒宴を開いた。
老婆は、
「化け物の腕を見たい」
と求めた。
頼光が箱から腕を出すと、老婆は自分の切られた腕へつなぎ、
「これは私の腕だ」
と言った。
たちまち身長二丈ほどの牛鬼となった。
頼光が牛鬼を斬る
牛鬼は渡辺綱を左手へつかみ、頼光へ襲いかかった。
頼光は太刀を抜き、牛鬼の頭を切り落とした。
牛鬼の頭は空中へ飛び、太刀の切っ先五寸をかみ切った。
しばらく飛び回った後、地面へ落ちて死んだ。
牛鬼の体は破風から飛び出し、空へ上った。
この伝説から、渡辺党の家では破風を造らないとされた。
切っ先が再生する
横川の覚蓮僧都が七日間、太刀を加持した。
すると天井から倶利伽羅竜が下り、折れた切っ先を口へ含んだ。
太刀は元どおりとなった。
その後、多田満仲が信濃国戸隠山で再び鬼を斬ったため、鬼切と呼ばれた。
伯耆国の刀工・安綱が鍛えた剣とされる。
田村将軍、伊勢神宮を経て、夢告によって頼光へ与えられた、源氏嫡流の守りだった。
273. 神南の戦い――山名軍が義詮本陣を破る
尊氏・義詮父子の反撃準備
尊氏は新帝を守って近江国四十九院へ退いた。
義詮は西国から上る敵を防ぐため、播磨国鵤へいた。
土岐・佐々木・仁木義長勢三千騎余りが尊氏へ合流した。
四国・西国勢二万騎余りが義詮へ集まった。
畠山尾張守も関東八か国の兵を率し、まもなく到着するとの知らせが来た。
尊氏・義詮父子は、竜が雲を起こし、虎が風を生むような勢いとなった。
2月4日、尊氏は三万騎余りで東坂本へ着いた。
義詮は七千騎余りで、山崎西方の神南北側の峰へ陣を置いた。
直冬方の配置
直冬は当初、大津・松本付近へ進み戦おうとした。
しかし比叡山・園城寺の僧兵が尊氏方だと聞き、京都内で東西の敵を迎え撃つことにした。
直冬・斯波高経・桃井直常ら六千騎余りは、東寺を城として、七条から九条までに布陣した。
山名時氏・師氏ら五千騎余りは、淀・鳥羽・赤井・大渡へ分かれた。
南朝軍三千騎余りは、八幡山下へ陣を取った。
山名軍が神南へ攻める
山名師氏は初め、待って戦うつもりだった。
しかし神南の敵が、それほど大軍ではないと見抜いた。
八幡の南朝軍と合流し、神内宿へ入り、盾や馬具を整え、山を登った。
義詮軍は三つの陣へ分かれていた。
- 西の尾崎は赤松則祐一族と佐々木道誉の黄旗一揆二千騎余り
- 南の尾崎は細川頼之ら二千騎余り
- 北の峰は義詮本陣三千騎余り
だった。
西尾根の激戦
山名師氏は出雲・伯耆勢二千騎余りで、西の尾崎へ一気に登った。
狭い峰へ双方の兵が密集し、射た矢は、ほとんど外れなかった。
播磨の強弓、後藤基明が高岩へ立ち、強弓を引いて山名軍を射た。
盾も鎧も防げないほどだったため、山名兵は進めなくなった。
佐々木勢の決死の先駆け
佐々木方から、
- 江見勘解由左衛門
- 箕浦四郎左衛門
- 馬淵新左衛門
の三人が鹿垣を切って飛び出した。
「日本一の勇士が先駆けして死ぬ。
生き残る者は、子孫へ伝えよ」
と名乗り、討ち死にした。
後藤基明ら四人も敵中へ入り、
「広い戦場では、敵と最初に太刀を交えた者が先駆けである。
生き残った者は証人となれ」
と叫んだ。
山名師氏は新手を入れ、伊田・波多野の若武者を攻めさせた。
激戦の末、後藤ら主だった兵五十人余りが討たれた。
南尾根も破られる
南の尾崎は細川頼之ら四国・中国勢二千騎余りが守った。
谷が深く、敵は登れないと思っていたため、鹿垣さえ造っていなかった。
山名時氏・小林氏・和田・楠木ら三千騎余りが、険しい山道を折れ曲がりながら登った。
矢を一度射交わした後、すぐ太刀戦となった。
四国勢の秋間兄弟や生稲一族が討ち死にした。
備前の須々木父子兄弟六人も新手として戦ったが、続く味方がなく全滅した。
福間三郎の大太刀
山名方には、因幡・伯耆の住人、福間三郎という怪力の武士がいた。
七尺三寸の大太刀を持ち、片手で薙ぎながら登った。
刃へ当たった敵は胴や膝を斬られ、峰へ当たった者は空中へ打ち上げられるか、地面へ倒され、血を吐いて死んだ。
両陣は破られ、兵は義詮の本陣を目指して退いた。
山名軍は追撃した。
多くの武将が引き返しながら討ち死にした。
河原重行の討ち死に
河原兵庫助重行は、
「今度敗れれば、必ず討ち死にしよう」
と、以前から覚悟していた。
「元暦の一ノ谷の戦いで、祖先の河原太郎・次郎が城門を越えて討ち死にしたのも二月だった」
「国も月も同じである。
自分もここで死に、祖先の名を明らかにしよう」
一騎で数万の敵へ入り、討ち死にした。
赤松朝範の奇跡的生還
赤松朝範は陣を破られたことを恥じ、笠印を隠して敵へ紛れた。
山名師氏を見つけ、背後から兜へ一撃を加えた。
しかし山名の若党三人に斬られ、頭へ三太刀を受け、倒れた。
敵は止めを刺したが、首を取らなかった。
戦いの後、朝範は草の陰から生きて出てきた。
義詮本陣の危機
山名軍が二陣を破ると、ほかの足利兵は戦う前に逃げた。
義詮本陣には、わずか百騎ほどしか残らなかった。
それでも佐々木道誉と赤松則祐は動揺せず、敷皮へ座った。
「我々が討ち死にするのを見てから、自害なさってください」
と義詮を励ました。
山名師氏の本当の目的
山名師氏は、義詮本陣に佐々木氏の四つ目結紋の旗を見つけた。
「自分が反乱を起こしたのは、天下を覆し、尊氏を滅ぼすためではない」
「ただ佐々木道誉の無礼を憎んだからである」
「あの旗の下に道誉がいる。
ほかの敵へ目を向けず、道誉の首を取れ」
六千騎余りが義詮本陣へ攻めかかった。
赤松・佐々木勢の反撃
敵が二町ほどへ迫ると、赤松則祐は幕を上げて叫んだ。
「天下の勝敗は、この戦いだけで決まるものではない」
「何のために命を惜しむのか。
名将の前で、明らかに討ち死にし、後世の記録へ名を残せ」
七人の勇士が本陣前へ出て戦った。
敵四人を討ち、三十人へ重傷を負わせた。
山名の先頭三百人は進めなくなった。
さらに足利方の新手が反撃し、山名兵を両側の谷へ追い落とした。
散っていた四国・中国勢も戻り、千騎余りとなった。
南朝軍が退く
山名師氏は再攻撃しようとした。
しかし背後へ控えていた南朝軍千騎余りが、理由もなく崩れて退いた。
山名軍も矢を使い果たし、疲れていたため、味方の退却へ巻き込まれ、山崎方面へ退いた。
今度は足利方が勝ちに乗り、各所で山名軍を遮断した。
山名軍の多数の戦死者
山名勢は、
「今度こそ京都で死ぬ」
と覚悟して伯耆を出ていた。
主だった武士八十四人、その一族・家臣二百六十三人が、四、五町の間で討たれた。
山名師氏の負傷
師氏は家臣の小林民部丞が殿軍で戦うのを見て、
「討たせまい」
と七騎で引き返した。
左目から耳の付け根へ矢を受け、さらに馬の腹へ五本の矢が刺さった。
馬は倒れた。
師氏は自害しようとした。
河村弾正が走り寄り、自分の馬へ師氏を乗せた。
福間三郎へ手綱を任せ、河村自身は徒歩で敵へ向かい、討ち死にした。
河村弾正への追善
師氏は淀へ戻った。
戦死者の名を一人ずつ書き、因幡の岩常谷の道場へ送り、供養させた。
特に河村弾正は自分の命へ代わって死んだ。
敵へ頼んで首を返してもらった。
師氏は顔を見て涙を流し、
「この乱を起こした時から、あなたは私を父のように頼り、私はあなたを子のように思っていた」
「戦場では、あなたが死ぬなら自分も死ぬと誓った」
「あなたは義のために私へ代わって死に、自分だけが生き残ったことが恥ずかしい」
「来世では必ず浄土で再会しよう」
と語った。
白馬へ白鞍を置き、葬送の馬として引かせた。
白太刀一振りを僧へ与え、河村の菩提を弔った。