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巻第十五は、北畠顕家軍の到着、三井寺・京都・豊島河原の戦い、足利尊氏の西国退却、後醍醐天皇の京都還幸、賀茂神主の交替を描く。
巻第十五|目次
- 園城寺の戒壇問題
- 北畠顕家の奥州軍、坂本へ到着する
- 三井寺の戦い――鐘と俵藤太の故事
- 建武三年正月十六日の京都合戦
- 正月二十七日の京都合戦
- 尊氏、京都を退く――薬師丸の帰京
- 豊島河原の戦い
- 後醍醐天皇、比叡山から京都へ還幸する
- 賀茂神主の交替
※読み方:軍勢の数、超人的な戦闘、瑞兆、神仏の加護、怪異、因果応報などは、『太平記』本文の叙述であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定が一般的な歴史叙述や現存史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、尺・寸・丈・町・斗など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。一方、中世・中国説話の「里」や当時の貨幣は単純に現代単位へ換算しない。
116. 園城寺の戒壇問題
足利方が園城寺へ大軍を送る
建武3年(1336年)正月、比叡山延暦寺は二心を抱かず、後醍醐天皇を守っていた。
さらに北陸や奥州から朝廷方の援軍が到着するのを待っているという。
足利方は、
「新田義貞に援軍が合流する前に、急いで東坂本を攻めなければならない」
と考えた。
そこで、
- 細川定禅(卿律師)
- 細川頼春(刑部少輔)
- 細川顕氏(陸奥守)
らを大将として、『太平記』本文では6万騎余りとされる軍勢を園城寺、すなわち三井寺へ派遣した。
延暦寺と対立する園城寺を味方につける
園城寺は、以前から比叡山延暦寺と激しく対立してきた寺である。
足利方は、
「延暦寺を敵とする寺ならば、足利方への忠節に迷いはないだろう」
と期待した。
そのうえで園城寺の僧たちが忠義を尽くしたならば、長年の願いであった戒壇の造営について、武家が特に力を貸し、必ず実現させると約束する命令書を出した。
園城寺が求め続けた三摩耶戒壇
園城寺が求めていたのは、真言密教の戒めを授ける三摩耶戒壇だった。
この戒壇の設置については、以前にも朝廷が園城寺を尊重して許可を与えようとした。
また鎌倉幕府も園城寺へ味方し、その権力によって戒壇を造らせようとしたことがあった。
しかし、そのたびに延暦寺の僧たちが強訴を行い、激しい力で反対した。
そのため武力衝突が起こり、園城寺が何度も焼かれる結果となった。
智証大師と慈覚大師の門徒の対立
なぜ園城寺と延暦寺が、これほど対立するようになったのか。
『太平記』では、智証大師円珍を園城寺の開山として挙げ、比叡山を開いた伝教大師最澄の弟子として位置づけている。
顕教と密教の両方に優れ、知恵と修行を兼ね備えた、尊い僧だったという。
しかし伝教大師が亡くなった後、智証大師の弟子たちと、慈覚大師円仁の弟子たちとの間に、仏法の解釈をめぐる小さな論争が起きた。
それがたちまち深い対立へ発展した。
智証大師の門徒は、修禅を行う300の坊を引き連れ、比叡山を離れて園城寺へ移った。
生身の弥勒菩薩を受け継ぐ
『太平記』が語る説話では、その時、教待和尚という僧が、160年間の修行と祈りによって現したとされる「生身の弥勒菩薩像」を智証大師へ託した。
智証大師はこの像を受け取り、園城寺に密教修行の道場を開いた。
そして釈迦が一生の間に説いた教えを広める、説法の場を設けた。
智証大師の唐への旅
『太平記』では、仁寿3年(853年)、智証大師円珍は仏法を学ぶため唐へ渡ったと語る。
航海中、突然激しい風が吹き、船が今にも転覆しそうになった。
智証大師は船端へ立ち、十方の仏へ礼拝し、心を尽くして祈った。
すると仏法を守る不動明王が、金色の姿を現し、船の舳先へ立った。
さらに新羅大明神が船尾へ姿を現し、自ら櫂を取った。
そのため船は無事に明州の港へ到着したという。
園城寺は四大寺の1つとなる
『太平記』では、智証大師は唐に7年間滞在したとする。
食事や睡眠を忘れるほど修行し、顕教と密教の奥義を究めた。
『太平記』では、天安3年(859年)に日本へ帰国したとする。その後、その教えはますます盛んとなった。
智証大師と園城寺は、朝廷を支える仏教界の中心となり、天下の人々から頼られる存在となった。
園城寺は四大寺の1つとして、朝廷の法会や仏教論議へ参加し、天皇の位と国家を守る祈禱において、ほかの寺を上回るほどの働きをした。
「園城寺にも独自の戒壇を」
延暦寺には、菩薩のための大乗戒を授ける戒壇があった。
奈良の寺院には、声聞のための小乗戒を授ける戒壇があった。
そこで園城寺は考えた。
「延暦寺と奈良の寺に戒壇があるならば、園城寺にも真言密教の三摩耶戒を授ける戒壇があってよいはずだ」
後朱雀天皇の長暦年間(1037〜1040年)、園城寺の明尊僧正は、三摩耶戒壇を造る許可を得るため、繰り返し朝廷へ願い出た。
延暦寺は「園城寺は別院にすぎない」と主張する
ところが延暦寺は、戒壇の設置へ強く反対した。
『太平記』では、延暦寺側は、もともとの寺の主とされた大友皇子の後裔・大友夜須磨呂らが朝廷へ提出した古い文書を、証拠として示したとする。
その文書には、
『太平記』では、この文書を貞観6年(864年)12月5日付としている。
園城寺を長く延暦寺の別院とし、円珍を寺の管理者とする。
園城寺は天台宗の別院として、天皇と国家の平安を祈るべきである。
という内容が記されていた。
貞観8年(866年)には、
「園城寺を天台宗の別院とする」
という太政官符も出されていた。
智証大師の記録も持ち出される
さらに延暦寺側は、『太平記』が貞観9年(867年)10月3日付とする、智証大師自身の記録を持ち出した。
そこには、
円珍の弟子たちは、奈良の小乗戒を受けてはならない。
必ず大乗戒壇院で、菩薩の戒を受けなければならない。
と書かれていた。
延暦寺は主張した。
「園城寺が延暦寺の別院であることは明らかである。
本寺と末寺の関係が歴然としている以上、師と弟子が同じ立場で独自の戒壇を持つことが、どうして許されるだろうか」
後朱雀天皇が神仏へ判断を委ねる
延暦寺が証拠と道理を挙げて反対したため、後朱雀天皇も判断に迷った。
そこで、
「戒壇を認めるべきか、認めないべきかは、人間の考えだけでは決められない。
神仏のお考えに任せよう」
とした。
天皇は自ら願文を書き、比叡山根本中堂へ納めた。
願文には、およそ次のように書かれていた。
園城寺に戒壇を建てても国家に危険がないのであれば、そのことをお示しください。
戒壇を建てれば天皇や国家に災いがあるのであれば、そのしるしをお見せください。
慶命僧正が夢に現れる
願文を納めて7日目の夜、後朱雀天皇は不思議な夢を見た。
無動寺の慶命僧正が、1通の手紙を差し出した。
その内容は、
私は胎内にいた昔から、現在まで天皇の長寿を祈ってまいりました。
しかし園城寺の戒壇が許可されるならば、これまでの願いを失うことになります。
というものだった。
2度目の夢では怒りを示す
翌夜の夢にも、慶命僧正が現れた。
慶命は紫宸殿に立ち、激しく怒った様子で言った。
「昨日、1通の手紙をお見せしたにもかかわらず、天皇は少しも心を動かされませんでした。
園城寺の戒壇を許可されるならば、これまで天皇のために行ってきた祈りを、ただちに恨みへ変えましょう」
赤山大明神まで夢に現れる
さらに翌夜、弓矢を身につけた老人が、宮中へ現れた。
天皇が、
「お前は何者か」
と尋ねると、老人は答えた。
「私は天台宗を守る赤山大明神です。
園城寺の戒壇設置を天皇へ勧めている者へ、矢を1本射るために参りました」
園城寺の戒壇は認められない
夜ごとに恐ろしい夢が続いたため、天皇も臣下も恐れた。
園城寺の願いは、ついに認められなかった。
朝廷は延暦寺側の主張に道理があると判断したのである。
頼豪僧都が皇子誕生を祈る
それから長い年月が過ぎ、白河天皇の時代となった。
『太平記』では、白河天皇の時代、頼豪僧都を大江匡房の兄にあたる園城寺の高僧として登場させる。
白河天皇は頼豪を呼び、皇子誕生の祈禱を命じた。
頼豪は天皇の命令を受け、心身を尽くして祈った。
その祈りの功徳は、たちまち現れた。
承保元年(1074年)12月16日、皇子が誕生したのである。
白河天皇が望みを尋ねる
白河天皇はたいへん喜んだ。
「祈禱への褒美として、望むものを与えよう」
と命じた。
頼豪にとって、園城寺の戒壇造営は長年の願いだった。
そのため官位や収入などの褒美はすべて断り、
「園城寺へ三摩耶戒壇を造る許可をいただきたい」
と願い出た。
白河天皇はこれを許可した。
延暦寺の強訴
延暦寺はこの知らせを聞くと、訴状を朝廷へ提出した。
過去の先例を示し、戒壇の許可を取り消すよう求めた。
しかし白河天皇は、
「天皇の言葉は2度と元へ戻らない」
として、許可を取り消さなかった。
比叡山がすべての法会を停止する
延暦寺の三塔の僧たちは集会を開いた。
各谷で行われていた説法をすべて中止し、神社や寺の門を閉ざした。
朝廷のために行っていた祈禱もやめてしまった。
朝廷も、この強い抗議を無視できなかった。
仕方なく、三摩耶戒壇を造る許可を取り消した。
頼豪の怨念
頼豪は激怒した。
100日間、髪を剃らず、爪も切らなかった。
祈禱の壇から立ち上る煙に身をすすけさせ、怒りの炎で骨まで焼くような姿となった。
そして恐ろしい願いを立てた。
「私は生きたまま大魔王の仲間となる。
天皇のお体を苦しめ、比叡山の仏法を滅ぼしてやろう」
『太平記』では、頼豪はその後21日もたたないうちに、祈禱の壇の上で亡くなったと語る。
頼豪が祈り出した皇子の死
ここからは、『太平記』が頼豪の怨霊について語る説話である。
頼豪の祈禱によって生まれた皇子は、まだ母后の膝を離れるほどにも成長していなかった。
それにもかかわらず、突然亡くなった。
白河天皇は、深い悲しみに耐えられなかった。
延暦寺の祈りによって第2皇子が生まれる
延暦寺の強訴の力と、園城寺の頼豪が示した霊験の恐ろしさは、誰の目にも明らかだった。
白河天皇は、延暦寺の名誉を回復し、皇位を継ぐ皇子を得るため、延暦寺座主の良信大僧正へ祈禱を依頼した。
祈禱中には、さまざまな不思議なしるしが現れた。
承暦3年(1079年)7月9日、第2皇子が誕生した。
延暦寺が絶えず皇子を守ったため、頼豪の怨霊も近づけなかったのだろうか。
皇子は無事に成長し、後に天皇へ即位した。
院号を堀河院と呼ばれたのが、この第2皇子である。
頼豪の霊が8万4,000匹の鼠となる
『太平記』本文では、その後、頼豪の亡霊は鉄の牙と石の体を持つ8万4,000匹の鼠へ変わったという。
鼠たちは比叡山へ登り、仏像や経典をかみ破った。
延暦寺には、これを防ぐ方法がなかった。
そこで頼豪を神としてまつり、その怒りを鎮めた。
これが鼠の禿倉と呼ばれる社である。
戒壇をめぐる争いは何度も寺を焼いた
この出来事の後、園城寺は戒壇設置への執念をさらに深めた。
何かあるたびに戒壇の許可を得ようとした。
延暦寺も以前の強訴を先例として、理屈に合わない場合でも、必ず計画を取り消させようとした。
そのため天暦年間(947〜957年)から文保元年(1317年)までの間に、戒壇問題が原因となり、園城寺は7回も焼かれたという。
足利尊氏の約束は新たな戦乱を招く
近年は園城寺も戒壇設置を求めなくなっていた。
そのため寺はかえって繁栄し、仏・法・僧の三宝も守られていた。
ところが今、足利尊氏は園城寺の僧たちを味方につけるため、比叡山の怒りを少しも考えず、軽々しく、
「戒壇造営を助ける」
という命令書を出した。
これを聞いた人々は、
「これは天魔の仕業ではないか」
「仏法が滅びる原因となるのではないか」
と、非難したのである。
117. 北畠顕家の奥州軍、坂本へ到着する
北畠顕家への出陣命令
前年の建武2年(1335年)11月、新田義貞が足利尊氏討伐の大将として東国へ向かった時、朝廷は奥州国司の北畠顕家(中納言)へも綸旨を送っていた。
その内容は、
「新田義貞と合図の時期を合わせ、東西から足利軍を攻撃せよ」
というものだった。
大軍を集めるのに時間がかかる
しかし奥州で大軍を集めることは、簡単ではなかった。
兵を招集し、出陣の準備を整えるうちに、日数が過ぎた。
さらに京都へ向かう途中でも、各地で足利方との戦いが起こった。
そのため顕家は先を急いでいたものの、あちらこちらで足止めされ、箱根・竹ノ下の戦いには間に合わなかった。
鎌倉へ入る
それでも顕家軍は、ほどなく鎌倉へ入った。
すると、
「足利尊氏は、すでに箱根・竹ノ下の戦いに勝利し、そのまま京都へ向かった」
と知らされた。
顕家は言った。
「それならば、尊氏の後を追って京都へ上ろう」
奥州軍は昼夜を問わず、西へ向かった。
東国の朝廷方が合流する
奥州軍が西へ進むという知らせを聞くと、
- 越後国
- 上野国
- 常陸国
- 下野国
に残っていた新田一族が駆けつけた。
さらに千葉氏や宇都宮氏の軍勢も、各地から加わった。
『太平記』によれば、顕家軍は間もなく5万騎余りとなった。
鎌倉から近江まで敵が現れない
鎌倉より西では、顕家軍の進路を防ぐ者がいなかった。
奥州軍は昼も夜も馬を急がせた。
建武3年(1336年)正月12日、近江国の愛知川宿へ到着した。
観音寺城を攻め落とす
その日、大館中務大輔は観音寺城を攻めた。
城には、まだ若かった佐々木氏頼(判官)が立てこもっていた。
大館軍は城を攻め落とし、『太平記』本文では敵を合わせて500人余り討ち取ったとする。
坂本へ勝利の報告を送る
翌1月13日(1336年)、顕家軍は早馬を先に立て、観音寺城を落としたことと、奥州の大軍が近づいていることを東坂本へ報告した。
後醍醐天皇をはじめ、敗れて比叡山へ逃れていた兵たちは、皆、大いに喜んだ。
希望を取り戻さない者は1人もいなかった。
700艘の船で琵琶湖を渡る
後醍醐天皇は、道場坊助注記祐覚へ命じた。
祐覚は琵琶湖の船700艘余りを集めた。
そして顕家軍を志那浜から乗せ、1日のうちに琵琶湖の対岸へ渡した。
宇都宮の兵が顕家軍から離れる
顕家軍には、宇都宮氏の紀氏・清原氏両党に属する兵500騎余りも加わっていた。
彼らは主君の招集に応じ、奥州軍とともに進んでいた。
しかし、
「宇都宮家の主君は足利将軍方にいる」
と聞いた。
そこで兵たちは顕家へ暇を願い、礼を述べた。
そして志那浜で奥州軍と別れ、芋洗を回って京都へ上った。
主君のいる足利方へ戻ったのである。
118. 三井寺の戦い――鐘と俵藤太の故事
坂本で軍議を開く
東国からの大軍が坂本へ到着した。
北畠顕家、新田義貞をはじめとする主だった武将たちは、聖女の彼岸所に集まり、今後の戦いについて相談した。
北畠顕家は言った。
「長い道のりを進んできた兵と馬である。
1日か2日は休ませてから、京都へ攻め寄せるべきだろう」
大館左馬助は即時攻撃を主張する
これに対し、大館氏明(左馬助)が申し上げた。
「長い道のりに疲れた馬を1日休ませれば、かえって体の調子を崩し、4、5日は役に立たなくなるでしょう。
また奥州の大軍が坂本へ到着したと敵が聞いても、すぐに攻撃してくるとは思っていないはずです。
戦いでは、敵の予想しない時に攻め、油断を突いて打ち破ることが大切です」
夜のうちに三井寺へ近づく作戦
大館は続けた。
「今夜のうちに志賀・唐崎付近まで進みましょう。
夜明け前に三井寺へ押し寄せ、四方から鬨の声を上げて攻め込めば、必ずこちらが勝つと考えます」
新田義貞と楠木正成も、
「その意見がもっともである」
と賛成した。
すぐに各大将へ、夜襲の命令が伝えられた。
朝廷軍が三井寺を包囲する
到着したばかりの千葉軍は、その日の夜がまだ浅いうちに、1,000騎余りで志賀の里へ陣を取った。
大館左馬助、額田氏、羽川氏らは6,000騎余りを率い、夜中に坂本を出発し、唐崎の浜へ陣を置いた。
戸津・比叡辻・和邇・堅田の者たちは、小船700艘余りへ乗り、沖に浮かびながら夜明けを待った。
比叡山の僧兵2万人
比叡山の僧兵は2万人余りだった。
その大部分は徒歩であったため、如意越を通り、三井寺の背後へ回った。
正面の軍が鬨の声を上げた時、同時に山から駆け下りる計画だった。
僧兵たちは声を立てず、静かに夜明けを待った。
三井寺は援軍を3度求める
坂本へ大軍が到着した様子は、琵琶湖を行き来する船からも見え、たいへん恐ろしいものだった。
三井寺を守る細川定禅と高大和守は、京都の尊氏へ使者を送った。
「東国の大軍が坂本へ到着し、明日にも攻め寄せるという噂です。
急いで援軍をお送りください」
3度まで願い出た。
尊氏は敵の勢力を軽く見る
しかし尊氏は言った。
「関東から、それほど多くの軍勢が上ってくるはずはない。
大部分は宇都宮氏の紀氏・清原氏の兵だと聞いている。
もし間違って坂本へ行ったとしても、主君の宇都宮氏が京都にいると知れば、すぐにこちらへ戻ってくるだろう」
尊氏は深刻に考えなかった。
三井寺へは1騎の援軍も送られなかった。
朝廷軍の主力が進む
夜が明けようとするころ、
- 北畠顕家 2万騎余り
- 新田義貞 3万騎余り
- 脇屋・堀口・額田・鳥山軍 1万5,000騎余り
が、志賀・唐崎の浜道を進んだ。
そして後続の軍が到着するのを待った。
大津・松本へ火を放つ
先陣は大津の西浦と松本宿へ火を放ち、鬨の声を上げた。
三井寺の軍勢は、以前から攻撃へ備えていた。
南院の坂口まで下り、朝廷軍へ激しく矢を射た。
千葉軍が第1・第2の木戸を破る
最初に千葉介が、1,000騎余りで攻め寄せた。
第1・第2の木戸を打ち破り、城内へ斬り込んだ。
千葉軍は3方向から敵を受けながら、半時(約1時間)ほど戦った。
千葉新介の討ち死に
細川定禅の側面攻撃を担当していた四国勢6,000騎余りが、千葉軍を包囲した。
千葉新介は、その場で討ち取られた。
千葉の兵100騎余りは、
「主君を討った敵を倒そう」
と、何度も敵中へ攻め入った。
しかし150騎ほどを失い、後続の軍へ戦いを譲って退いた。
北畠顕家軍が入れ替わる
2番目に北畠顕家が、2万騎余りを率いて攻めた。
敵味方は激しく入り乱れた。
顕家軍が1戦を終え、馬を休ませると、3番目に、
- 結城上野入道
- 伊達氏
- 信夫氏
ら5,000騎余りが入れ替わった。
彼らは後ろを振り返ることなく、激しく攻めた。
しかし300騎余りを討たれ、退却した。
細川軍が浜へ出る
三井寺側は勝利の勢いに乗った。
6万騎余りを2手に分け、三井寺の外から浜辺へ進み出た。
新田義貞はこれを見ると、3万騎余りを1つにまとめ、鋭い武器で堅い陣を破る勢いで進んだ。
三井寺軍は狭い道へ追い込まれる
細川軍は大軍だった。
しかし北側では大津の民家が燃えており、通り抜けることができなかった。
東側は琵琶湖で、水が深く、回り込むこともできなかった。
前後へ進めるのは、幅が半町(約55m)にも満たない細い道だけだった。
湖上の船から横矢を射る
和邇・堅田の者たちは、岸近くへ船を並べ、細川軍へ横から矢を射た。
そのため細川軍は、自由に進むことも退くこともできなかった。
朝廷軍は力を得て、隙間なく攻めかかった。
細川軍は500騎余りを討たれ、三井寺へ引き返した。
三井寺の入口で僧兵が防戦する
額田・堀口・江田・大館氏らは、700騎余りで逃げる敵を追った。
そして三井寺の城内へ入ろうとした。
しかし三井寺の僧兵500人余りが関の入口へ下り、道をふさいだ。
僧兵たちは命を捨てて戦った。
朝廷軍は堀のそばで100人余りを討たれ、後続を待たなければ進めなくなった。
その間に城内から木戸が下ろされ、堀の橋も引き上げられた。
脇屋義助が木戸を破れと命じる
脇屋義助はこれを見ると、怒って言った。
「何とも情けない戦い方だ。
わずか1つの木戸に止められ、この程度の小城を攻め落とせないことがあるものか。
栗生、篠塚はいないか。
あの木戸を引き破れ。
畑、亘理はいないか。
斬り込め!」
深い堀と取り外された橋
栗生と篠塚は命令を聞くと、馬から飛び降り、木戸へ走った。
しかし塀の前には、深さ2丈余り(約6m)の堀が掘られていた。
両岸は屏風を立てたように切り立っていた。
橋板はすべて取り外され、橋桁だけが残されていた。
2人は、
「どうやって渡ればよいのか」
と、左右を見回した。
巨大な2本の卒塔婆
近くの塚の上に、巨大な卒塔婆が2本立っていた。
幅は3丈ほど(約9m)、長さは5、6丈(約15〜18m)もあるように見えた。
2人は言った。
「ちょうどよい橋板があるではないか。
卒塔婆を立てることも、橋を渡すことも、どちらも人を救う功徳に違いはない。
これを抜いて橋にしよう」
栗生と篠塚が卒塔婆を引き抜く
2人は走り寄り、卒塔婆を小脇へ挟んだ。
「えい!」
と力を入れると、地中へ5、6尺(約1.5〜1.8m)も埋められた大木だったため、周囲の土が1、2尺(約30〜60cm)ほど崩れた。
それでも2本の卒塔婆は、たちまち抜けた。
2人は1本ずつ軽々と担ぎ、堀の端へ運んだ。
2人が怪力を誇る
栗生と篠塚は自らの力を誇り、言った。
「中国には烏獲や樊噲、日本には和泉小次郎や浅井那三郎という、並ぶ者のない怪力の人物がいたという。
しかし我々より、どれほど強かったというのか。
大言壮語だと思う者は、近くへ来て、この力を見よ」
2人は同時に、卒塔婆を向こう岸へ倒しかけた。
卒塔婆の橋が完成する
卒塔婆は表面が平らで、2本が並べられた。
その姿は、京都の四条橋・五条橋のように広く見えた。
畑と亘理が橋を渡る
橋のたもとには、畑六郎左衛門と亘理新左衛門がいた。
2人は冗談めかして言った。
「あなた方は橋を架けた判官になってください。
我々は戦ってきます」
2人は卒塔婆の上を軽々と走って渡った。
堀の上に置かれた逆茂木を取り除き、それぞれ木戸の脇へ取りついた。
亘理が16本の武器を奪う
守備兵たちは3方向の矢狭間から、槍や長刀を突き出した。
亘理新左衛門は、それらを次々と奪い取った。
その数は16本にもなった。
畑が木戸を蹴り倒す
畑六郎左衛門は言った。
「そこをどけ、亘理殿。
私が塀を壊し、味方が楽に戦えるようにしよう」
畑は走り寄り、右足を上げ、木戸の横木付近を2度、3度と踏みつけた。
その力があまりにも強かったため、2本渡されていた太さ8、9寸(約24〜27cm)の貫木が中央から折れた。
木戸の扉も塀の柱も、同時に大きな音を立てて倒れた。
守っていた兵500人余りは、四方へ散って逃げた。
新田軍が城内へ入る
第1の木戸が破られると、新田軍3万騎余りが城内へ攻め込んだ。
そして比叡山の僧兵へ知らせる合図の火を上げた。
比叡山の僧兵が背後から襲う
合図を見た比叡山の僧兵2万人余りが、如意越から一斉に駆け下りた。
園城寺の各院・各谷へ乱入し、堂や仏閣へ火を放った。
僧兵たちは叫び声を上げながら、三井寺軍を攻めた。
三井寺は炎に包まれる
激しい炎が東西から吹きつけた。
敵は南北に満ちていた。
三井寺側は、
「もはや勝つことはできない」
と悟った。
ある僧は金堂へ走り込み、猛火の中で腹を切って倒れた。
ある僧は経典を抱き、深い谷へ転げ落ちた。
土地を知る僧さえ道を失う
長年三井寺へ住み、境内を知り尽くしている僧でさえ、混乱の中で逃げ道を見失った。
まして四国・西国から来た兵たちは、土地の方角も知らない。
煙の中で目を開けることもできず、迷い歩いた。
木の下や岩陰で疲れ果て、自害するほかなかった。
半日で7,300人余りが討たれる
半日ほどの戦いの後、
- 大津
- 松本
- 三井寺境内
で討たれた足利方の死者を数えると、7,300人余りに及んだという。
生身の弥勒菩薩像の首
三井寺金堂の本尊は、生身の弥勒菩薩だと信じられていた。
僧の1人が、
「このままでは仏像まで焼かれてしまう」
と考え、首だけを切り離し、藪の中へ隠した。
ところが弥勒菩薩の首は、多くの戦死者の首の中へ紛れ込んだ。
切り口には血のようなものまでついていたという。
山法師が立てた札
それを見た比叡山の僧がしたことだろうか。
大きな札を立て、説明と歌を書き添えた。
内容は、弥勒菩薩自身が語っている形になっていた。札には「建武2年」とあるが、この一連の戦いは一般的な年代では建武3年(1336年)にあたる。
建武2年の春ごろ、世の中がたいへん騒がしいように聞こえた。
もしや弥勒が現れて説法する三会の暁になったのだろうかと思った。
それならば八相成道を示し、人々を救おうと、金堂から外へ出た。
ところが激しい炎が燃え、修羅の戦いが四方から聞こえてきた。
何事か分からずにいると、仏地坊の何者かが堂内へ走り込み、理由もなく鋸で私の首を切った。
弥勒菩薩の私であっても耐えられず、その悲しみの中で歌を詠んだ。
山を我が
敵とはいかで
思ひけん
寺法師にぞ
首を切らるる
その意味は、
比叡山を自分の敵だと思ったことはなかったのに、
園城寺の僧によって、私の首は切られてしまった。
というものだった。
九乳の鐘も炎の中へ落ちる
以前、園城寺が焼かれた時には、僧たちが何よりも大切にして隠した九乳の鐘があった。
しかし今回は、鐘を持ち出す者がいなかった。
鐘は炎に包まれ、地面へ落ちた。
この鐘は、昔、竜宮からもたらされたものだという。
俵藤太秀郷と勢多橋の大蛇
ここからは、『太平記』が伝える俵藤太の説話である。承平年間(931〜938年)、藤原秀郷(俵藤太)という武将がいた。
ある時、秀郷が1人で勢多橋を渡ろうとすると、長さ20丈ほど(単純換算で約60m)という大蛇が、橋の上へ横たわっていた。これは『太平記』の説話上の巨大な蛇である。
両目は、空へ2つの太陽が輝くようだった。
2本の角は鋭く、冬枯れの森の梢のように見えた。
鉄の牙が上下へ食い違うように生え、赤い舌は炎を吐いているようだった。
普通の人が見れば、目がくらみ、魂を失い、その場へ倒れただろう。
秀郷は大蛇の背を踏んで渡る
しかし秀郷は天下第1の勇者だった。
少しも心を動かさなかった。
大蛇の背中を荒々しく踏み、何事もなかったように橋を渡った。
大蛇も驚かなかった。
秀郷も後ろを振り返らず、遠くまで進んだ。
小さな男が助けを求める
すると不思議な小男が突然、秀郷の前へ現れた。
男は言った。
「私は、この橋の下へ2,000年以上住んでいます。
これまで身分の高い者から低い者まで、多くの旅人を見てきました。
しかし、あなたほど勇気のある人物を見たことはありません。
私には長年、この土地を争っている敵がおり、たびたび苦しめられています。
どうか、その敵を討っていただけないでしょうか」
秀郷は少しもためらわず、
「よいだろう」
と引き受けた。
琵琶湖の底にある竜宮城
秀郷は小男を先に立たせ、再び勢多橋へ戻った。
2人は琵琶湖の波を分け、水中を50町余り(単純換算で約5.5km)進んだという。これも『太平記』の説話上の距離である。
すると1つの楼門が現れた。
門を開いて入ると、瑠璃の砂が厚く敷かれ、玉石の床は暖かかった。
花びらが自然に舞い散っていた。
赤や紫の楼閣が並び、欄干は玉で造られていた。
建物には金や銀がふんだんに使われていた。
これまで目にも見ず、耳にも聞いたことのないほど、美しく壮大な場所だった。
小男の正体
先ほどの小男は先に建物へ入った。
しばらくすると、正しい衣冠を身につけた立派な人物となって現れ、秀郷を客の上座へ案内した。
左右には美しく着飾った侍従や役人が並んだ。
酒宴が長く続き、夜が深くなった。
敵が近づく
竜宮の者たちは、
「敵が近づく時刻になりました」
と慌て始めた。
秀郷は、生涯肌身から離さず持っていた強い弓を用意した。
5人がかりで張るほどの弓へ丈夫な弦を掛け、口で湿らせた。
3年育った竹で作った長い矢を、3本だけ手に持った。
矢じりは、矢の根元近くまで鉄を通した特別に強いものだった。
秀郷は敵を待った。
比良山から現れる巨大な百足
夜中を過ぎたころ、激しい雨風が通り過ぎ、稲妻が絶え間なく光った。
しばらくすると、比良山の高い峰の方から、2,000、3,000本もの松明が2列に並び、その中央に島のような巨大な物が現れた。
竜宮城へ向かって近づいてきた。
よく見ると、2列の松明に見えたものは、怪物が左右の足へそれぞれ火をともしていたものだった。
百足の化け物
秀郷は悟った。
「これは巨大な百足が化けたものだ」
怪物が矢の届く距離へ来ると、秀郷は強弓を限界まで引き絞った。
そして眉間の中央を狙い、最初の矢を放った。
最初の2本は跳ね返る
矢は鉄を射たような音を立てた。
しかし怪物の体へ刺さらず、向きを変えて跳ね返った。
秀郷は、
「最初の矢を失敗した」
と悔しがった。
2本目をつがえ、先ほどと少しも違わない場所へ射た。
しかし、この矢も前と同じように跳ね返り、体へ刺さらなかった。
最後の矢へ唾をつける
秀郷は2本の矢を失い、残る矢は1本だけとなった。
「どうすればよいのか」
と考えた。
その時、あることを思いついた。
最後の矢の先へ唾を吐きかけ、3度目も同じ眉間を狙った。
百足を射殺す
『太平記』は、唾をつけた最後の矢に毒のような効き目が生じたためか、あるいは同じ場所を3度射たためか、と語っている。
最後の矢は百足の眉間を貫き、羽根の近くまで深く刺さった。
2,000、3,000本にも見えた火は、たちまち消えた。
島のような巨体が倒れ、大地を響かせた。
近づいて見ると、やはり巨大な百足だった。
竜神から与えられた宝
竜神はたいへん喜び、秀郷を手厚くもてなした。
そして褒美として、
- 太刀1振り
- 絹1巻
- 鎧1領
- 口を結んだ俵1つ
- 赤銅の鐘1口
を与えた。
さらに言った。
「あなたの子孫からは、将軍となる者が多く現れるでしょう」
俵藤太の名の由来
秀郷が都へ戻った後、与えられた絹を切って使っても、少しも減らなかった。
俵の中の物も、いくら取り出しても尽きなかった。
そのため財宝は倉へ満ち、衣服は身に余るほどになった。
この不思議な俵を持っていたことから、秀郷は俵藤太と呼ばれたという。
竜宮の鐘を三井寺へ奉納する
絹と俵は生活のための財宝だったので、秀郷は自分の倉へ納めた。
しかし鐘は寺院で使う物である。
そこで三井寺へ奉納した。
比叡山へ奪われた鐘
文保2年(1318年)、三井寺が炎上した時、比叡山の僧兵はこの鐘を奪い、延暦寺へ持ち帰ったという。
朝夕に鐘を撞いた。
ところが鐘は、少しも鳴らなかった。
「鳴るように撞いてやろう」
山法師たちは怒った。
「憎い鐘だ。
それならば鳴るように撞いてやろう」
巨大な鐘木を作り、20人、30人がかりで引いた。
鐘が壊れるほど、強く撞いた。
「三井寺へ帰りたい」
その時、鐘は海の鯨がほえるような声を出した。
そして、
「三井寺へ帰りたい」
と鳴ったという。
比叡山の僧たちは、ますます腹を立てた。
『太平記』では、無動寺の上から「数千丈」という高い岩場を転がり落としたと語る。単純換算なら数kmにもなるため、説話上の誇張表現として読む必要がある。
鐘は粉々に砕けた。
砕けた鐘がひと晩で元に戻る
比叡山の僧たちは、
「これでは、もう何の役にも立たない」
として、鐘の破片を集め、三井寺へ送り返した。
ある時、長さ1尺ほど(約30cm)の小さな蛇が現れた。
蛇は尾で鐘の破片をたたいた。
するとひと晩のうちに、鐘は元の姿へ戻った。
傷1つ残らなかったという。
弥勒出世の暁を告げる鐘
そのため鐘は、『太平記』の時代にも三井寺へ残っていた。
その鐘の音を聞く者は、迷いに包まれた長い夜の夢から目を覚まし、弥勒菩薩が世に現れる暁を待つとされた。
末法の世に残る、何とも不思議で霊験のある鐘だったのである。
119. 建武三年正月十六日の京都合戦
※年代について:『太平記』本文の原題は「建武2年正月16日合戦事」とするが、この一連の戦いは一般的な年代では建武3年(1336年)正月にあたる。『太平記』巻12〜22付近には年次の混乱があるため、このページでは物語の記述を残しながら、西暦と一般的な年代を補って読む。
北畠顕家は坂本へ戻る
三井寺の敵を無事に攻め落とすことができた。
北畠顕家は、
「長い道のりに疲れた兵と馬を、1日か2日休ませてから、再び戦おう」
と考え、坂本へ引き返した。
顕家に従っていた2万騎余りも、その方針に従った。
舟田経政が追撃を勧める
新田義貞も坂本へ戻ろうとした。
すると舟田長門守経政が馬を進め、申し上げた。
「戦いにおいて、勝利の勢いに乗った時には、逃げる敵を追うことほど重要なものはありません。
三井寺で討ち漏らされた敵は、馬を捨て、鎧を脱ぎ、命だけでも助かろうとして逃げています。
今すぐ追いかけ、そのまま京都へ攻め込めば、恐怖に取りつかれた敗残兵に引きずられ、京都にいるほかの足利軍も気力を失うでしょう」
小勢を隠して京都へ入る作戦
舟田は続けた。
「官軍が足利軍の中へ紛れ込み、こちらの兵数を悟らせないようにします。
あちらで火を放ち、こちらで鬨の声を上げ、縦横無尽に駆け回れば、尊氏・直義兄弟へ近づき、直接勝負を挑むこともできるでしょう。
逃げる敵は、まだそれほど遠くへは行っていないはずです。
1度追撃してみてはいかがでしょうか」
義貞は答えた。
「私も同じことを考えていた。
よくぞ申した。
それならば、すぐに追撃せよ」
義貞は再び旗を下ろし、馬を進めた。
新田一族5,000人余りを中心とする3万騎余りが、逃げる敵を追った。
山科で足利軍へ追いつく
逃げる足利軍は大軍だったため、進み方が遅かった。
追う新田軍は小勢で、身軽に進むことができた。
そのため義貞軍は、山科付近でようやく足利軍へ追いついた。
広い場所では深追いしない
由良・長浜・吉江・高橋氏らが先頭に立って追撃した。
しかし、
「大軍を侮ってはならない」
と考え、広い土地では足利軍が引き返して戦えるため、あまり深く追わなかった。
遠くから矢を射かけ、鬨の声を上げながら、静かに追った。
狭い山道では容赦なく攻める
道が狭くなり、さらに敵の進む先が険しい山道となると、上方から一気に攻め下った。
隙間なく矢を射、敵を射落とし、斬り倒した。
足利軍は1度も振り返って戦うことができず、
「自分だけでも先に逃げよう」
と敗走した。
負傷者は、そのまま人や馬に踏み殺された。
馬を失った者は逃げることができず、やむなく腹を切った。
死骸が谷や溝を埋める
戦死者の遺体は谷や溝を埋めた。
そのため追撃する新田軍にとっては、かえって道が平らになった。
まるで転輪聖王の車輪が山や谷を平らにして進むようだった。
尊氏が三条河原へ出陣する
尊氏は、
「三井寺で戦いが始まった」
という知らせを受けていた。
やがて黒煙が空を覆うのを見ると、
「味方が負けたに違いない。
急いで援軍を送れ」
と命じた。
尊氏自身も三条河原へ出て、まず軍勢を整えた。
三井寺から敗軍が戻る
すると粟田口から、馬の土煙を立てながら、4、5万騎ほどの軍勢が現れた。
誰の軍かと見ると、三井寺へ向かっていた四国・西国の足利軍だった。
誰もが激しく戦った様子で、少しの傷も負っていない者はほとんどいなかった。
鎧の袖や兜の吹返しには、折れた矢が3本、4本と刺さっていた。
義貞軍を3手に分ける
新田義貞は2万3,000騎余りを3手に分けた。
1隊を将軍塚の上へ進ませた。
1隊を真如堂の前から出した。
もう1隊は法勝寺を背後にし、二条河原へ進ませた。
そして攻撃開始の合図となる煙を上げた。
花頂山から敵陣を見渡す
義貞自身は花頂山へ上り、足利軍の陣を見渡した。
上流側は河合の森から、下流側は七条河原まで、足利軍が埋め尽くしていた。
馬の頭を三頭ずつ並べ、鎧の袖と袖を重ねるほど密集していた。
東西南北、40町余り(約4.4km)にわたり、針を立てるほどの空き地も見えなかった。
正面から戦っては勝てない
義貞は弓を杖代わりにして立ち、諸将へ命じた。
「敵の兵数に比べれば、我々は大海の1滴、9頭の牛の中の1本の毛ほどにすぎない。
普通の方法で戦えば、勝利することは難しい」
50騎ずつ敵軍へ紛れ込ませる
義貞は韓信にならった策を示した。
「互いに顔を知っている武士たちを、50騎ずつの部隊へ分けよ。
笠印を外し、旗を巻き、敵の中へ紛れ込め。
あちらこちらで足利軍へ加わったふりをし、しばらく待て。
将軍塚へ上らせた我が軍が戦いを始めたならば、こちらの本隊も攻撃する。
その時、お前たちは敵の前後左右で中黒の旗を掲げ、馬を止めずに駆け回れ。
前にいると思わせて後ろへ抜け、左にいると思わせて右へ回れ。
縦横に激しく乱れれば、敵の大軍は、かえって我々の軍勢であるように見える。
足利方は味方同士で戦うか、恐れて退くかのどちらかとなる。
尊氏に残された道は、その2つしかない」
2,000騎が足利軍へ潜入する
諸将の中から、たくましい武士が50騎ずつ選ばれた。
合わせて2,000騎余りとなった。
全員が中黒の旗を巻いて紋を隠した。
笠印も外して袖の下へ入れた。
そして、
「三井寺から遅れて退却してきた足利方の兵」
を装い、京都の足利軍へ加わった。
尊氏は義貞軍を小勢と見る
尊氏は、このような策があるとは思いもしなかった。
主だった武士たちへ命じた。
「新田義貞は、いつも平地での騎馬戦を好むと聞いていた。
それなのに山を背後にして、すぐに攻めてこない。
自軍が小勢であることを、こちらへ見せまいとしているのだろう。
将軍塚へ上った敵を、そのまま置いておくわけにはいかない。
師泰、あの敵を追い散らせ」
高師泰は、
「承知しました」
と答えた。
武蔵・相模の兵2万騎余りを率い、双林寺と中霊山の2方向から山を登った。
将軍塚の新田軍が矢を浴びせる
将軍塚では、
- 脇屋義助
- 堀口貞満
- 大館左馬助
- 結城上野入道
らが、3,000騎余りで待ち受けていた。
その中から優れた射手600人余りを選び、馬から降ろした。
射手たちは小松の陰を盾とし、登ってくる足利軍へ激しく矢を射た。
高師泰軍が山を退く
険しい山道を苦労して登っていた武蔵・相模の兵たちは、鎧を射抜かれて倒れた。
馬を射られ、落馬する者も多かった。
足利軍の進み方が鈍った。
新田軍は、
「今だ」
と太刀を抜いた。
3,000騎余りが、山全体が崩れるような勢いで、真っ逆さまに攻め下った。
高師泰の2万騎余りは、1歩も踏みとどまれず、五条河原まで退いた。
この戦いで、杉本判官と曾我二郎左衛門が討たれた。
新田軍はわざと遠くまで追わず、東山を背にして兵数を隠し続けた。
京都市中で大合戦となる
搦手で戦いが始まると、正面の新田軍も鬨の声を上げた。
『太平記』本文では、新田方2万騎余りに対して尊氏方を80万騎とする、きわめて巨大な数字を掲げる。両軍は入れ替わりながら戦った。
叫び声は天地を響かせた。
漢と楚が8年間行った戦いを1日に集め、呉と越の30回の戦いを100倍したとしても、これを上回らないと思われるほどの激戦だった。
新田軍は心を1つにする
新田軍は小勢だった。
しかし全員が心を1つにしていた。
攻める時は、全軍が1度に激しく攻めた。
退く時は、負傷者を中央へ置き、静かに退いた。
足利軍は大軍でも統制が取れない
足利軍は大軍だった。
しかし兵たちの心は1つではなかった。
攻める時も足並みがそろわず、退く時も負傷者を助けなかった。
それぞれが自分の考えで戦った。
午の刻(午前11時〜午後1時ごろ)から酉の刻の終わり(午後7時ごろ)まで、60回余りも両軍が攻め合った。
そのたびに新田軍が優勢となった。
足利軍は数を減らさない
それでも足利方は大軍だった。
多くの兵を討たれても、軍勢は目に見えて減らなかった。
逃げる者が出ても、遠くまでは退かなかった。
大軍のまま、1つの場所で持ちこたえていた。
潜入部隊が中黒の旗を掲げる
その時、最初から足利軍へ紛れ込んでいた新田方の部隊が動いた。
尊氏の前後左右で、中黒の旗を一斉に掲げた。
そして足利軍の中で、激しく入り乱れて戦った。
どれが敵で、どれが味方なのか、見分けることができなくなった。
足利軍は東西南北で叫び声を上げ、味方同士で斬り合うほかなかった。
尊氏軍が2方向へ退く
尊氏をはじめ、吉良・石塔・高・上杉氏らは混乱を見た。
味方が敵と組み合い、後ろから矢を射られることを恐れた。
高・上杉氏らは山崎方面へ退いた。
尊氏と吉良・石塔・仁木・細川氏らは、丹波路を目指して落ちていった。
尊氏は3度自害しようとする
官軍は勝利の勢いに乗り、短い武器を持って激しく追撃した。
尊氏は、
「もはや逃げる場所がない」
と思ったのだろうか。
梅津や桂川付近で、鎧の草摺をたくし上げ、腰の刀を抜いて自害しようとしたことが3度もあった。
しかし尊氏の運がまだ強かったのだろう。
日が暮れたため、新田軍は桂川から引き返した。
尊氏も松尾・葉室の間で休み、梅の実を思い浮かべて喉の渇きを癒すように、しばらく息を整えた。
細川定禅が再戦を提案する
細川定禅は、四国の兵たちへ言った。
「戦いの勝敗は時の運によるものだから、敗北そのものは必ずしも恥ではない。
しかし今日の敗北は、我々が三井寺で敗れたところから始まっている。
このままでは、我々は世間の非難を免れない」
300騎だけで奇襲する
定禅は続けた。
「ほかの軍勢を加えず、我々だけで華々しい1戦を行い、世間の口をふさぎたい。
新田軍は1日中戦い、兵も馬も疲れている。
突然の攻撃へ自由に対応することはできないだろう。
ほかの官軍も、京都や白河の財宝を求めて散っており、1か所へ集まってはいまい。
また赤松貞範が少ない兵で下松に残っている。
これを見殺しにするのも残念だ。
蓮台野から北白河へ回り、赤松軍と合流し、新田軍へ一撃を加えてみよう」
四国の藤原・橘・伴氏の兵たちは、
「異存はありません」
と答えた。
北白河へ密かに回り込む
定禅は大いに喜んだ。
尊氏にも知らせず、伊予・讃岐の兵から300騎余りを選んだ。
北野の背後から上賀茂を通り、ひそかに北白河へ回った。
糺の森の前で300騎を各方面へ分けた。
30か所余りへ火を放つ
細川軍は、
- 下松
- 藪里
- 静原
- 松崎
- 中賀茂
など30か所余りへ火を放った。
それをそのままにして、一条・二条の間にある3か所で鬨の声を上げた。
官軍が坂本へ退く
定禅が予想したとおり、官軍は京都・白河の各所へ分散していた。
1か所へ集まる兵は少なかった。
義貞・義助は1度の戦いで不利となり、坂本を目指して退いた。
各地へ散っていた兵も突然の攻撃に慌てて逃げ始めた。
北白河・粟田口付近では、
- 舟田入道
- 大館左近蔵人
- 由良三郎左衛門
- 高田七郎左衛門
ら、主だった官軍数百騎が討たれた。
足利軍が京都へ戻る
定禅はすぐに早馬を出し、勝利を尊氏へ報告した。
山陽道や山陰道へ逃げていた足利軍も、知らせを聞き、再び京都へ戻った。
義貞の勇と定禅の知略
『太平記』本文では、新田義貞はわずか2万騎で、80万騎と記された尊氏方の大軍を追い散らしたことになる。
細川定禅は、わずか300騎で、官軍2万騎余りを追い落とした。
義貞は楚の項羽のような勇力を中心とし、定禅は漢の張良のような策略を用いた。
勇気と知恵、それぞれに優れた人物だったのである。
120. 正月二十七日の京都合戦
東山道軍も坂本へ到着する
前年の建武2年(1335年)12月、後醍醐天皇の第1皇子・尊良親王が関東へ下った時、別働隊として東山道を通っていた、
- 大智院宮
- 弾正尹宮
らは、箱根・竹ノ下の戦いには、攻撃の合図が食い違ったため間に合わなかった。
しかし甲斐・信濃・上野・下野の兵が次々と加わったため、軍勢は雲や霞のような大軍となり、鎌倉へ入った。
尊氏と顕家の西上を知る
鎌倉で戦況を尋ねると、人々は答えた。
「新田義貞は箱根・竹ノ下の戦いに敗れ、西へ退きました。
足利尊氏は追撃し、そのまま京都へ向かいました。
その後、奥州国司の北畠顕家も、尊氏を追って西へ進みました」
大智院宮らは言った。
「それならば、道中で新田軍が踏みとどまれば、大きな戦いが起こるだろう。
鎌倉へ長く滞在している場合ではない」
2万余騎で坂本へ入る
公家では、
- 洞院実世
- 持明院右衛門督入道
- 信濃国司堀河中納言
- 園基隆
- 二条為次
らが従った。
武士では、
- 島津氏
- 大伴氏
- 猿子氏
- 落合氏
- 饗庭氏
- 石谷氏
- 纐纈氏
- 伊木氏
- 津子氏
- 中村氏
- 仁科氏
- 高梨氏
- 志賀氏
- 真壁氏
らが中心となった。
『太平記』によれば、その軍勢は2万騎余りだった。
建武3年(1336年)正月20日の夕方、東坂本へ到着した。
合戦を27日へ延期する
官軍は、さらに勢いを得た。
「翌日にでも、すぐ京都へ攻めよう」
と話し合った。
しかし悪日が続いていた。
また長い道のりを激しく走ってきた馬は、足がこわばり、まったく動けない状態だった。
そのため出陣は延期され、次の大合戦を建武3年(1336年)正月27日に行うことになった。
各軍が夜のうちに陣取る
27日の戦いに備え、兵と馬を休ませるため、各軍は前夜から京都近辺へ進んだ。
楠木正成、結城上野入道、名和長年は3,000騎余りを率い、西坂を下って下松へ陣取った。
北畠顕家は3万騎余りで大津を通り、山科へ陣を置いた。
洞院実世は2万騎余りで赤山へ進んだ。
比叡山の僧兵1万騎余りは竜華越を回り、鹿ヶ谷へ陣取った。
新田義貞・脇屋義助兄弟は2万騎余りを率い、今道から北白川へ進んだ。
10万3,000余騎が京都を包囲する
正面と背後から攻める官軍を合わせると、『太平記』によれば10万3,000騎余りとなった。
全軍が前夜から京都近くへ進んでいた。
しかし敵へ気づかれないよう、わざとかがり火をたかなかった。
戦いの開始は、翌朝の午前8時ごろと決められていた。
若い僧兵が予定より早く攻める
ところが血気盛んな若い僧兵たちは、
「武士に先を越されてはならない」
と思ったのだろうか。
予定より早い午前6時ごろ、神楽岡へ攻め寄せた。
神楽岡には、宇都宮氏の紀氏・清原氏両党が城を築いていた。
簡単に攻められる城ではなかった。
道場坊の僧兵が大石を浴びる
道場坊祐覚の同宿の僧300人余りが、最初に木戸口へ到着した。
塀を挟んで戦った。
しかし高櫓から多くの大石を投げ落とされ、退いた。
南岸坊・円宗院の僧兵も退く
次に南岸坊と円宗院の同宿の僧500人余りが入れ替わり、攻めかかった。
しかし城内には名高い弓の名人が多かった。
彼らが走り回りながら矢を射ると、僧兵は次々と鎧を射抜かれた。
「このままでは勝てない」
と考え、持っていた盾の陰へ隠れ、
「別の部隊と交代せよ」
と呼びかけた。
妙観院全村の異様な武装
比叡山三塔に名を知られた荒法師に、妙観院の因幡竪者全村という者がいた。
全村は鎖帷子の上へ、目の粗い大鎧を重ねて着ていた。
菖蒲形の鋭い刃を持つ備前長刀を脇へ抱えていた。
さらに普通の人が蟇目矢に使うほど太い、3年育った竹を矢柄としていた。
長船で打った大きな鏃を、矢の根元まで鉄を通して固定していた。
36本の矢を、森のように背負っていた。
しかし弓は持っていなかった。
矢を手で突いて使うためだった。
「この矢を受けてみよ」
全村は切り立った崖の前に、仁王のように立った。
そして名乗った。
「以前、三井寺合戦の中心人物として捕らえられ、越後国へ流された妙観院高因幡全村とは、私のことである。
城中の方々へ、この矢を1本差し上げよう。
受けてみるがよい」
手で投げた矢が鎧武者を貫く
全村は背中の上部にある矢を1本抜いた。
そして櫓の矢狭間へ向かい、手で槍のように突き投げた。
矢は狙いを外さなかった。
矢狭間の陰にいた鎧武者の胸の板から、背中の金具まで、鎧と体を二重に貫いた。
矢先は背中から2寸ほど(約6cm)突き出た。
武者は櫓から落ち、一言も発することなく死んだ。
「手突因幡」と呼ばれる
城兵たちは恐れた。
「何と恐ろしい。
普通の人間の技ではない」
兵たちが動揺したところへ、禅智房・護聖院の若者1,000人余りが太刀を抜いて攻め込んだ。
宇都宮軍は神楽岡を捨て、二条方面の足利軍へ加わった。
この出来事から、全村は手突因幡と呼ばれるようになった。
援軍は間に合わない
神楽岡を守っていた者から、
「比叡山の僧兵が鹿ヶ谷から攻め、城を包囲しています」
という知らせが尊氏へ届いた。
尊氏は、
「すぐに後方から救援せよ」
と命じ、今川・細川一族へ3万騎余りをつけて送った。
しかし城はすでに攻め落とされ、官軍が入れ替わっていた。
援軍は何もできず、京都へ戻った。
楠木正成が出雲路へ火を放つ
楠木正成、結城上野入道、名和長年は3,000騎余りで糺の森の前から攻め寄せた。
出雲路付近へ火を放った。
尊氏は火を見て言った。
「これは神楽岡から来た軍勢だろう。
山法師ならば、馬上での戦いは得意ではないはずだ。
急いで向かい、追い散らせ」
尊氏は、
- 上杉重能
- 畠山修理大夫
- 斯波高経
らへ5万騎余りを与えた。
楠木正成の連結盾
楠木正成は、勇気に優れているだけでなく、知略でも第1の人物だった。
正成は軽い1枚盾を500、600枚ほど用意した。
盾の端へ鉤と輪を取りつけた。
敵が攻めてくる時には盾同士を鉤でつなぎ、1、2町ほど(約110〜220m)にわたって城壁のように並べた。
その隙間から、兵へ激しく矢を射させた。
敵が退くと、優れた騎馬武者500騎余りを選び、一斉に攻めさせた。
500騎で5万騎を退ける
足利方の上杉・畠山軍5万騎余りは、楠木軍500騎余りに激しく攻め立てられ、五条河原まで退いた。
北畠顕家軍が粟田口から攻める
尊氏が、
「敵はこの部隊だけだろうか」
と見ていると、北畠顕家が2万騎余りを率いて粟田口から攻め寄せた。
車大路へ火を放った。
尊氏は言った。
「これは北畠顕家に違いない。
敵によっては、尊氏自身が向かわなければならない」
足利尊氏は、『太平記』本文では50万騎と記される大軍を自ら率い、四条・五条河原へ向かった。
尊氏と顕家が激突する
両軍は追いつ追われつ、部隊を入れ替えながら、長い時間戦った。
尊氏軍は大軍だった。
しかし実際に戦う兵は少なく、尊氏自身も戦い疲れた。
顕家軍は小勢だったため、入れ替える新しい兵がなく、全軍がすぐに疲れた。
両軍は互いに戦い疲れ、怒りを抑え、馬へ息をつかせていた。
新田義貞が足利軍の背後へ入る
そこへ、
- 新田義貞
- 脇屋義助
- 堀口貞満
- 大館氏明
らが、3万騎余りを3手へ分けて現れた。
双林寺・将軍塚・法勝寺の前から、中黒の旗50流余りを掲げた。
二条河原を雲や霞のように埋める足利軍を、真横から突き抜け、背後を断とうとして京都市中へ攻め入った。
足利軍が一斉に崩れる
足利方は中黒の旗を見ると、
「また、あの中黒の軍だ!」
と叫んだ。
鴨川・白河・京都市中を稲や麻、竹や葦のように埋めていた大軍が、一斉に崩れた。
馬を乗り倒し、弓矢を投げ捨て、四方八方へ逃げ散った。
その姿は、秋の木の葉を山から吹き下ろす風が巻き上げるようだった。
義貞が1騎で尊氏を捜す
義貞は、わざわざ鎧を着替え、馬も乗り換えた。
そして1騎だけで敵軍の中へ何度も攻め入った。
「尊氏はどこにいるのか」
と探し、選び討ちにしようとした。
しかし尊氏の運が強く、ついに姿を見つけることはできなかった。
仕方なく軍勢を各方面へ分け、逃げる敵を追わせた。
里見・鳥山軍が全滅する
里見・鳥山氏らは、わずか26騎で丹波路方面へ逃げる足利軍2、3万騎を追った。
「あの軍の中に尊氏がいるに違いない」
と思い、桂川の西まで追った。
しかし大軍に引き返され、1人残らず討たれた。
この知らせを聞いた追撃軍は、
「無駄な深追いはするな」
と命じられ、京都市中へ戻った。
楠木正成が坂本へ戻るよう進言する
日が暮れると、楠木正成は総大将のもとへ来て申し上げた。
「今日の戦いでは、思いがけず各方面の敵を破ったとはいえ、実際に討ち取った敵はそれほど多くありません。
尊氏が、どの方面へ逃げたのかも分かりません。
こちらは小勢です。
京都にとどまれば、兵たちは財宝へ心を奪われ、どれほど命じても1か所へ集まらなくなるでしょう」
勝利の勢いを保って退く
正成は続けた。
「そうなれば前回と同じように、再び敵に攻め返され、進退を失うことは間違いありません。
敵へ少しも勝利の勢いを与えなければ、次の戦いで敵は動きにくくなります。
今日はこのまま坂本へ引き返してください。
1日、馬の足を休め、明後日ごろに再び攻め寄せ、もう1度激しく戦いましょう。
そうすれば敵を10里、20里(中世の里程で、現在のkmには単純換算できない)の外まで追い払うことができるでしょう」
総大将は、
「確かにそのとおりだ」
と同意し、官軍は坂本へ戻った。
尊氏も京都へ戻る
尊氏は再び丹波路へ退こうとして、寺戸付近まで進んでいた。
しかし、
「京都には敵が1人も残らず、全員が坂本へ戻った」
と聞いた。
そこで尊氏も京都へ引き返した。
八幡・山崎・宇治・瀬田・嵯峨・仁和寺・鞍馬路方面へ逃げていた足利兵も、この知らせを聞き、次々と京都へ戻った。
足利方は敗因を理解できない
足利軍が京都へ戻る姿は、恥ずかしいものだった。
それでも両軍の兵数を比べれば、官軍は足利軍の100分の1ほどにすぎなかった。
それなのに足利軍は毎回のように追い立てられ、見苦しい敗北を繰り返していた。
足利方の人々は、
「我々が朝敵だからだろうか」
「比叡山から呪われているからだろうか」
と不思議に思った。
しかし本当は、自分たちの戦略が拙いからである。
そのことを考えようとしない人々の心は、愚かなものだった。
121. 尊氏、京都を退く――薬師丸の帰京
楠木正成が僧たちを京都へ送る
楠木正成は坂本へ戻ると、翌朝、20、30人を律宗の僧に仕立て、京都へ向かわせた。
僧たちは各地の戦場を歩き、遺体を捜し回った。
京都にいた足利兵は不審に思い、尋ねた。
「何のため、戦場の遺体を捜しているのか」
「官軍の大将7人が討たれた」
僧たちは悲しみの涙を押さえるようにして答えた。
「昨日の合戦で、
- 新田義貞殿
- 北畠顕家殿
- 楠木正成殿
をはじめ、主だった方々が7人まで討ち死になさいました。
その供養を行うため、遺体を捜しているのです」
足利方が偽情報を信じる
足利尊氏をはじめ、高一族・上杉一族らはこの話を聞いて喜んだ。
「何と不思議なことだ。
中心となる敵将たちが、1度に全員討ち取られていたのか。
それならば官軍は戦いに勝ちながら、京都を退いたことになる。
首はどこにあるのだろう。
見つけ出し、獄門へさらし、京都の大路を引き回せ」
敵味方の遺体の中を捜した。
しかし義貞や正成と思われる首は、1つも見つからなかった。
似た首を義貞・正成と偽る
足利方は、あまりにも首を欲しがった。
そこで顔つきの似た首を2つ選び、獄門へ掛けた。
そして、
「新田義貞」
「楠木正成」
と書いた札をつけた。
落書きで嘲笑される
すると何者かが、その札の横へ書き加えた。
これは「似た首」である。
「まさしげ」と書いてあるのも、まことに偽りである。
「正成」という名と、「まさしくない」という意味を掛けた落書きだった。
足利方が偽の首をさらしたことを、都の人々があざ笑ったのである。
2,000〜3,000本の松明を別方向へ進ませる
同日の夜中ごろ、楠木正成は下働きの者たちへ、2,000、3,000本もの松明を持たせた。
そして小原・鞍馬方面へ向かわせた。
京都の足利兵は、この火の列を見て言った。
「比叡山の敵は大将たちを討たれたので、今夜、各方面へ逃げているようです」
尊氏も、
「確かにそうだろう」
と思ったのだろう。
足利軍を各地へ分散させる
尊氏は命じた。
「敵を逃がさないよう、各方面へ兵を送れ」
- 鞍馬路へ3,000騎余り
- 小原口へ5,000騎余り
- 瀬田へ1万騎余り
- 宇治へ3,000騎余り
- 嵯峨・仁和寺方面へ1,000騎、2,000騎ずつ
を向かわせた。
足利軍を配置しない場所がないほどだった。
そのため京都市中にいた大軍の半分以上が各方面へ分かれ、残った兵も役に立たない警戒を続けるだけとなった。
官軍が夜のうちに京都へ近づく
官軍は夕方から西坂を下り、
- 八瀬
- 藪里
- 鷺森
- 下松
へ陣を取った。
諸大将は全員まとまり、1つの軍となった。
建武3年(1336年)正月29日の午前6時ごろ、二条河原へ攻め寄せた。
各所へ火を放ち、3か所で鬨の声を上げた。
足利軍が戦わずに崩れる
京都の足利軍は、大軍がそろっていた時でさえ、官軍に敗れて退いたことがあった。
まして今は、軍勢の大部分を各方面へ分けていた。
官軍が攻めてくるとは、夢にも思っていなかった。
突然の攻撃に慌てふためいた。
丹波路を目指して逃げる者がいた。
山崎方面へ退く者もいた。
決心もないまま、その場で髪を剃り、禅宗や律宗の僧を装う者までいた。
味方を敵と誤解して自害する
官軍は、それほど遠くまで追撃しなかった。
しかし後方から退く足利方の兵を、
「官軍が追ってきた」
と勘違いした者が多かった。
久我畷や桂川付近では、自害した者が数えきれないほどいた。
馬や鎧を捨てた者も多く、地面には足を置く場所もないほど、武具が散乱した。
尊氏、丹波へ落ちる
尊氏はその日、丹波国の篠村を通った。
そして曾地にある内藤三郎左衛門入道道勝の館へ到着した。
四国・西国の軍勢は山崎を越え、芥川へ退いた。
敗軍の家族や主従が離れ離れになる
親子、兄弟、血縁者、主君と家臣が、互いの行方も分からないまま逃げた。
人々は、
「きっと戦場で討たれて死んだのだろう」
と悲しんだ。
しかし、
「尊氏は間違いなく無事で、尾宅の宿を通過された」
とはっきり告げる者が現れた。
兵庫から尊氏を呼ぶ
兵庫の湊川へ集まった足利軍は、丹波の尊氏へ急使を送った。
「急いで摂津国へお越しください。
軍勢を集め、すぐに京都へ攻め上りましょう」
足利尊氏は建武3年(1336年)2月2日に曾地を出発し、摂津国へ向かった。
薬師丸をひそかに呼ぶ
この時、後に熊野山の別当四郎法橋道有と呼ばれる薬師丸は、まだ少年だった。
少年の姿で尊氏に従っていた。
尊氏は薬師丸を呼び、ひそかに言った。
「敗北の原因は朝敵だからだ」
「今回、京都の戦いで味方が毎回敗れたのは、戦い方が悪かったからではない。
よく考えてみれば、尊氏が朝敵とされているからである。
そこで何とかして、持明院統の院宣をいただきたい。
争いを後醍醐天皇と持明院統の上皇との争いという形にしたうえで、戦いたいと考えている」
尊氏は、自分が天皇へ反逆する武将という立場のままでは、全国の支持を得にくいと考えたのである。
持明院統の院宣を求める
尊氏は続けた。
「お前は日野中納言殿と縁があると聞いている。
ここから京都へ戻り、持明院統の院宣をいただけないか、探ってみてほしい」
薬師丸は答えた。
「かしこまりました」
三草山で尊氏へ別れを告げ、すぐに京都へ向かった。
122. 豊島河原の戦い
尊氏のもとへ再び兵が集まる
足利尊氏が摂津国の湊川へ到着すると、敗戦によって意気消沈していた足利方の兵たちも、再び元気を取り戻した。
各地から次々と駆けつけたため、『太平記』によれば、その軍勢は間もなく20万騎となった。
この勢いのまま、すぐに京都へ攻め上っていれば、官軍は再び都を守りきれなかったかもしれない。
ところが尊氏は、特に理由もないまま湊川の宿へ3日間とどまった。
足利方から官軍へ移る者たち
この3日間に、宇都宮氏の500騎余りが道中から引き返し、官軍へ加わった。
八幡へ配置されていた武田式部大輔も、足利方にとどまりきれず、官軍へ降伏した。
そのほか、各地へ隠れていた兵も新田義貞のもとへ集まった。
官軍はますます大勢となり、竜や虎のような勢いを見せた。
義貞・顕家軍が芥川へ進む
建武3年(1336年)2月5日、北畠顕家と新田義貞は、『太平記』によれば10万騎余りを率いて京都を出発した。
その日のうちに、摂津国の芥川へ到着した。
尊氏はこれを聞くと、
「それならば、こちらから向かって戦え」
と命じた。
弟の足利直義へ、『太平記』本文では16万騎とされる軍勢をつけ、京都方面へ向かわせた。
豊島河原で両軍が出会う
建武3年(1336年)2月6日の午前10時ごろ、両軍は思いがけず豊島河原で出会った。
互いに旗を下ろして戦いの準備を整え、東西に陣を張った。
軍勢は南北へ長く連なった。
北畠顕家が2度攻める
奥州国司の北畠顕家が、まず2度にわたって足利軍へ攻めかかった。
しかし戦いを有利に進めることができず、いったん退いて兵と馬を休ませた。
宇都宮軍が入れ替わる
顕家軍が退くと、宇都宮軍が入れ替わった。
「1度は敵へ見事な姿を見せよう」
と激しく戦ったが、200騎余りを討たれ、退却した。
その次には、脇屋義助が2,000騎余りを率いて入れ替わった。
両軍の精鋭が激しく戦う
足利方では、
- 仁木氏
- 細川氏
- 高氏
- 畠山氏
らが、
「これまでの敗戦の恥をすすごう」
と、命を捨てる覚悟で戦った。
官軍では、
- 江田氏
- 大館氏
- 里見氏
- 鳥山氏
らが、
「ここを破られれば、もう退く場所はない」
と、自分の命をないものと考えて防戦した。
両軍とも死を恐れず戦ったが、最後まで勝敗は決まらなかった。
その日は戦い続けたまま日が暮れた。
楠木正成が遅れて到着する
楠木正成は後から戦場へ到着した。
戦いの様子を見ると、正面からは攻めなかった。
神崎方面へ回り、浜の南側から足利軍の背後へ進んだ。
直義軍が兵庫へ退く
足利直義の兵たちは、1日中の戦いで疲れ切っていた。
そのうえ、
「敵に背後を包囲されてはならない」
と考えた。
正成軍とは1度も戦わず、兵庫を目指して退却した。
義貞はすぐに追撃し、西宮へ到着した。
直義はさらに退きながらも、湊川へ陣を置いて官軍を防ごうとした。
沖に500艘の大船が現れる
建武3年(1336年)2月7日の朝、風が静まったころ、はるか沖を見ると、500艘余りの大船が順風に帆を上げ、東へ向かっていた。
「どちらの軍へ味方する船なのか」
と見守っていると、200艘余りは向きを変えて兵庫の島へ入った。
残る300艘余りは帆を下ろし、西宮へ漕ぎ寄せた。
海上で一緒だった軍勢が敵味方に分かれる
兵庫へ入ったのは、
- 大友氏
- 厚東氏
- 大内氏
ら、足利尊氏を助ける軍勢だった。
西宮へ入ったのは、
- 伊予国の土居氏
- 得能氏
ら、後醍醐天皇方の軍勢だった。
彼らは前日まで同じ港に停泊していた。
しかしこの日、それぞれ敵と味方に分かれ、別々の岸へ上陸したのである。
小清水で両軍が向かい合う
新しい軍勢が両陣へ加わったため、双方は兵を進め、小清水付近で向かい合った。
足利方は、目で見渡せないほどの大軍だった。
しかし古くから従っていた兵は、
「新しく到着した兵に戦わせよう」
として動かなかった。
大友・厚東らも、
「この戦いは自分たちだけの重大事ではない」
と考えたためか、それほど勇み立つ様子を見せなかった。
官軍の小勢は覚悟を決める
官軍は足利軍とは比較にならないほどの小勢だった。
しかし、もともと官軍にいた兵は、
「これは他人の戦いではない。
自分の命と家の運命を決める戦いである」
と考えた。
新たに到着した土居・得能軍も、
「今日の戦いで役に立たなければ、河野一族の名を失う」
と、心を奮い立たせた。
両軍が戦う前から、気力の違いは明らかだった。
勝敗の行方も、ひそかに見えているようだった。
大友・厚東・大内軍が先陣を切る
それでも新着の軍勢の力を試すため、大友・厚東・大内軍3,000騎余りが、足利方の第1陣として旗を進めた。
土居・得能軍は、その後方へ激しく攻めかかった。
そして直義が陣を置いていた打出宿の西端まで駆け抜けた。
「雑兵には構うな。大将へ組みつけ」
土居・得能軍は命じた。
「名もない兵には目を向けるな。
大将を狙い、組みつけ!」
兵たちは風のように散り、雲のように集まった。
鬨の声を上げて攻め込み、敵陣を抜けると再び引き返して戦った。
「たとえ1,000騎が1騎となっても退くな」
と互いに励まし、1度も後ろを振り返らず戦った。
足利直義が再び兵庫へ退く
直義は、
「このままでは勝てない」
と思ったのだろう。
再び兵庫を目指して退いた。
尊氏は何度も戦いを重ねたが、味方の戦いぶりを見る限り、勝利できるようには思えなかった。
尊氏自身も、次第に戦いへ疲れ、困り果てた様子を見せた。
大友氏が九州への退却を勧める
そこへ大友氏の武将が進み出て言った。
「今のままでは、どうしても戦いがよい結果になるとは思えません。
幸い船が数多くあります。
まず九州へお退きください。
少弐筑後入道は、将軍の味方です。
九州9か国の軍勢が多く従えば、すぐに大軍を動かし、再び京都へ攻め上ることができます。
そうなれば、恐れることはございません」
尊氏は、
「確かにそのとおりだ」
と思ったのだろう。
すぐに大友氏の船へ乗った。
足利軍が船へ殺到する
諸軍勢は尊氏が乗船するのを見ると、大騒ぎとなった。
「将軍が船へ乗り、逃げようとなさっている!」
兵たちは手にしていた物を取る暇もなく、
「船へ乗り遅れてはならない」
と慌てた。
300艘に20万騎が乗ろうとする
船は、わずか300艘余りしかなかった。
それに対し、乗ろうとする兵は、『太平記』によれば20万騎を超えていた。
『太平記』本文では、1艘の船へ2,000人ほどが無理に乗り込んだため、大船1艘が沈没したと語る。
※軍勢数について:20万騎や1艘2,000人などは、『太平記』本文上の巨大な数字であり、実数として確定したものではない。
乗っていた者は、1人残らず溺れ死んだ。
船へ取りつこうとする者を切り落とす
ほかの船は、この事故を見ると、
「これ以上、人を乗せてはならない」
と考えた。
急いで船を岸へつないでいた綱を解き、沖へ出た。
乗り遅れた兵たちは、鎧や衣服を脱ぎ捨て、遠く沖まで泳いで船へ取りつこうとした。
しかし船上の者は、太刀や長刀で切り殺し、櫓や櫂で打ち落とした。
海岸で自害する敗残兵
船へ乗ることができず、岸へ戻った者は、むなしく自害した。
その遺体は、磯を越えてくる波の中へ漂った。
尊氏と義貞の立場が逆転する
尊氏は、かつて福原に置かれた都の地からも追い払われた。
長い砂浜を照らす月に心を痛め、入り組んだ浦の波に袖を濡らしながら、九州へ向けて海上をさまよった。
一方、新田義貞は数々の戦いに勝利した功績を高く掲げた。
数万の降伏者を従え、天下の武士たちを率いる大将として、華やかな京都へ戻った。
喜びと悲しみがたちまち入れ替わり、現実でありながら夢のような世の中となったのである。
123. 後醍醐天皇、比叡山から京都へ還幸する
足利軍が京都を退く
建武3年(1336年)正月の晦日(その月の最終日)、足利方の軍勢が京都から退いた。
そこで建武3年(1336年)2月2日、後醍醐天皇は比叡山から京都へ戻った。
天皇は花山院を、新しい仮の皇居とした。
新田義貞が勝利して帰京する
建武3年(1336年)2月8日、新田義貞は豊島河原・打出方面の戦いに勝利した。
そして朝敵とされた足利尊氏を、遠い海の彼方へ追い払った。
義貞は、降伏した者たちについても、重い刑罰を加えず、罪を許した。
そのうえで京都へ戻った。
その姿は、たいへん堂々としていた。
1万騎余りの降伏者
この時、義貞へ降伏した兵は、『太平記』本文では1万騎余りだったという。
彼らは皆、以前つけていた足利方の笠印を、新田方の印へ書き直して身につけていた。
しかし新しく塗った墨には濃い部分と薄い部分があり、以前の紋を塗りつぶした跡が、はっきりと見えた。
五条の辻に立てられた落書き
翌日、五条の辻に高札が立てられ、1首の歌が書かれた。
二筋の
中の白みを
塗り隠し
新田新田しげな
笠符かな
足利氏の「二引両」の笠印は、2本の線の間に白い部分がある。
その白い部分を墨で塗りつぶし、新田氏の「中黒」の印へ直したことを笑った歌である。
意味は、およそ次のようになる。
二引両の間の白い部分を塗り隠し、
急に新田方らしく見せた笠印であることよ。
「新田」と「新たに塗り直した」という意味を掛けた、都の人々の皮肉だった。
義貞・義助を昇進させる
各地で繰り返された戦いの様子を聞き、後醍醐天皇は義貞らの働きへ深く感心した。
臨時の人事が行われた。
新田義貞は左近衛中将へ任命された。
弟の脇屋義助は右衛門佐へ任命された。
「建武」は公家にとって不吉な年号
天下の吉凶は、必ずしも年号だけで決まるものではない。
しかし朝廷では、
「現在の『建武』という年号は、公家にとって不吉である」
と考えられた。
『太平記』本文では、「2月25日に年号を改め、延元とした」と記す。
※年代について:史実では延元への改元は建武3年(1336年)に行われた。『太平記』研究では、建武から延元への改元記事が史実より1年早く配置されていることが指摘されている。
朝廷は再び平和を取り戻したように見える
つい先ごろまで、朝廷は逆臣のために倒されようとしていた。
しかし短い間に戦乱は静まり、天下は再び平和へ戻ったように見えた。
群臣たちは考えた。
「これは後醍醐天皇の聖なる徳が、天地の道理にかなっているからである。
これからどれほど時代が進んでも、誰がこの朝廷を倒すことができるだろうか」
危機を忘れる人の心
朝廷の人々は、先ほどまでの危険を、早くも忘れてしまった。
政治を慎み、将来の災いへ備えようとする者もいなくなった。
『太平記』は、そのようにすぐ安心してしまう人間の心を、愚かなものだと批判している。
124. 賀茂神主の交替
※史実と物語について:この章の恋愛譚と賀茂神主交替の因果関係は、『太平記』が語る物語として読む必要がある。賀茂神主の実際の系譜・交替はより複雑で、研究では貞久(定久)・教久の交替を背景に、基久の物語へ作り替えられた可能性が指摘されている。
政治を立て直す
大きな災いはひとまず収まり、天下は再び1つの支配へ戻った。
朝廷では政治を新たに始めた。
そのため、悲しむ者もいれば、喜ぶ者も多かった。
重要な賀茂神主職
中でも賀茂社の神主職は、神職の中でも特に重要な地位だった。
任命される順序や家柄も決まっており、罪がない者を簡単に解任することは、普通ならばあり得なかった。
ところが『太平記』では、足利尊氏が京都を支配していた時、賀茂社の神主・貞久を解任し、代わりに基久を任命したと語る。
わずか20日で再び交替する
基久が喜ぶことができたのは、わずか20日ほどだった。
天下の情勢が再び逆転し、後醍醐天皇方が京都を取り戻したためである。
朝廷は基久を解任し、賀茂神主職を貞久へ返した。
皇統が替わるたび神主も替わる
神主職が入れ替わったのは、今回だけではなかった。
持明院統と大覚寺統のどちらが政治を行うかが替わるたび、賀茂神主も入れ替えられた。
その変化は、手のひらを返すように激しいものだった。
なぜ後醍醐天皇は基久を憎んだのか
基久が後醍醐天皇の怒りを受けるようになった原因は何だったのか。
その理由をたどると、基久の娘をめぐる、若いころの恋愛に行き着いた。
基久の美しい娘
基久には、1人の娘がいた。
大切に育てられ、奥深い部屋で暮らしていたころから、その美しさは人目を引いた。
若紫のようなあでやかさがあり、初めて髪を結った後の、少し乱れた髪さえ、
「成長すれば、どれほど美しくなるのだろう」
と、見る者の心を迷わせるほどだった。
16歳となった娘
娘は数え年16歳ほどになった。
その姿は、中国の巫山に現れた神女が雲となって去った夢の面影を残すようだった。
また楊貴妃が太真院を出た時の、春のような美しさを持っていた。
顔や姿が世に勝れているだけではなかった。
音楽と和歌にも優れる
娘は小野小町が得意とした和歌の道を学び、優婆塞宮が愛好したという音楽の技も受け継いでいた。
月の前では琵琶を弾き、傾いていく月影を惜しんだ。
花の下では和歌を詠み、散りゆく花の色を悲しんだ。
その心と姿を知る者で、思い悩まない者はいなかった。
2人の皇子が娘を見初める
そのころ、後に後醍醐天皇となる尊治親王は、まだ帥宮と呼ばれ、目立たない暮らしをしていた。
一方、伏見天皇の第1皇子(後の後伏見天皇)は、皇太子に立つだろうといわれ、世間から大いに注目されていた。
この2人の皇子は、どのような御簾の隙間から見たのだろうか。
ともに基久の娘を見初め、
「たいへん上品で美しい女性だ」
と思った。
数えきれない恋文
しかし皇族が1人の女性を争うような行動は、軽率ではないか。
2人とも、そのことへ迷いながらも、風の便りや露に寄せて、言葉にできないほど多くの恋文を送った。
『太平記』では、その数は1,000通を超えるほどになったという。
娘は3年間、返事をしない
娘も2人の皇子からの思いを、たいへん切なく、ありがたいものと感じていた。
しかし、どちらへ心を寄せても、いつかは悪い噂が立つだろう。
風向きの定まらない浦風に、そのまま流される煙のようになってはならないと考えた。
心を強く保ち、返事をしないまま3年を過ごした。
父母が返事をするよう迫る
父の基久は神職の家に生まれたが、母は藤原氏の出身だった。
両親は、高貴な2人の皇子が娘を深く思っていると知ると、
「どうして、これほど長い間、お返事もしないままなのか」
と責めた。
娘へ恋文を届けていた2人の仲介者も、
「ご両親のお言葉にも道理があります。
そろそろ、どちらかへお返事をなさってください」
と促した。
歌によって相手を選ぶ
娘は困り果てた末に言った。
「私自身では、どちらを選ぶべきか分かりません。
今回のお手紙に書かれた歌を読んで、最も心へ深く響いた方のもとへ参りましょう」
娘は少し笑った。
2人の仲介者は喜び、急いでそれぞれの皇子へ知らせた。
伏見宮からの情熱的な歌
伏見宮からは、手に取る者の指まで燃えるのではないかと思われるほど鮮やかな、紅葉重ねの薄い紙に手紙が届いた。
文章も、あふれるほどの恋心を述べていた。
歌には、次のように書かれていた。
思ひかね
言はんとすれば
かきくれて
涙のほかは
言の葉もなし
意味は、
恋しさに耐えられず、
思いを言葉にしようとすると、
目の前が涙で暗くなり、
涙のほかには、
何の言葉も出てこない。
というものだった。
誰が読んでも、深い恋心を感じる歌だった。
帥宮からの簡素な歌
次に帥宮からの手紙が届いた。
こちらは、それほど濃い色ではない花染めの紙で、ほのかな香りがしていた。
長い文章はなく、歌だけが書かれていた。
数ならぬ
身の小野山の
夕時雨
つれなき松は
降るかひもなし
意味は、およそ次のようになる。
取るに足りない私の身には、
小野山の夕時雨のように涙が降っている。
しかし、つれないあなたという松には、
いくら涙を降らせても、
何の甲斐もない。
帥宮は、自分を取るに足りない者として、娘のつれなさを静かに嘆いていた。
娘は帥宮の歌に心を動かされる
娘は帥宮の歌を読むと、心が自然に引き寄せられたようだった。
手紙を手にしたまま、何度も歌を読み、うつ伏せになった。
もはや、どちらを選んだか改めて尋ねる必要もなかった。
帥宮の使者は、思わず1人でほほ笑みながら帰った。
深夜に迎えの牛車が来る
その日の夜が深くなったころ、きれいに整えられた牛車が、娘を迎えに来た。
迎えに来た滝口の武士は、中門の近くで待っていた。
「もう丑3つ時(午前2時〜2時30分ごろ)です」
と、出発を急がせた。
娘は牛車の簾を上げさせ、乗ろうとした。
父・基久が娘を引き止める
その時、父の基久が外出先から帰ってきた。
基久は尋ねた。
「どちらへ行くのか」
母が答えた。
「帥宮から、お召しがあったのです」
基久は強く引き止めた。
「将来のある伏見宮へ仕えるべきだ」
基久は言った。
「何という思い切ったことを計画したのだ。
伏見宮は皇太子に立つという話がある。
その方へ仕えれば、深い山へ隠れた老木まで、花咲く春を迎えるように、一族全体が栄えることができる。
それに対し、帥宮には将来の望みがあるとは思えない。
帥宮へ仕えることが、いったい誰のためになるというのか」
母も、
「確かにそうかもしれない」
と、考えを変えた。
病気を理由に迎えを断る
滝口の武士は事情を知らず、牛車の簾の前で待っていた。
月がすでに傾いていることを告げ、出発を急がせた。
母は使者へ出て、言った。
「娘が突然、普段とは違う体調となりました。
また別の夜に、お迎えください」
こうして牛車を帰した。
娘は伏見宮のもとへ送られる
帥宮は、このような事情が起きたとは少しも知らなかった。
「今日は無理でも、次こそは来るだろう」
と、昨日までの悲しみを今日の期待へ変え、何度も使者を送った。
ところが後に、
「思いがけない事情があり、娘は伏見宮のもとへ参りました」
という返事が届いた。
帥宮の深い恨み
帥宮は深く悲しんだ。
その気持ちは、次の歌の意味に重ねられる。
親が止めなかったならば、
東国の佐野の船橋のように、
たとえ危うい恋の道でも、
これほど長く渡れないまま耐えることはなかっただろう。
娘が自分を選んだにもかかわらず、父の基久が将来の利益を考えて伏見宮へ送った。
帥宮の怒りと恨みは、長く消えなかった。
後醍醐天皇、基久を解任する
後に帥宮が皇位へつき、後醍醐天皇として政治を始めた。
基久には、神主を解任されるほどの明らかな罪はなかった。
しかし天皇は以前の恨みによって、基久を賀茂神主職から解任し、貞久を任命した。
3度も神主が入れ替わる
その後、天下は大きく乱れた。
2つの皇統の天皇が、3度にわたって皇位を入れ替える事態となった。
そのたびに基久と貞久も、わずか3、4年の間に3度、神主へ任命されたり解任されたりした。
栄華のはかなさを悟る
夢や幻のように世の中が移り変わることは、今に始まったことではない。
それでも基久は、自分の身の上で、世の無常を特に深く思い知らされた。
「もはや、どうなっても構わない」
という心境となった。
基久の出家の歌
基久は1首の歌を書き残した。
うたた寝の
夢よりもなほ
はかなきは
このごろ見つる
現なりけり
その意味は、
うたた寝の中で見る夢よりも、
さらに、はかないものがある。
それは、このごろ私が現実の世界で見た、
栄枯盛衰の移り変わりであった。
というものだった。
基久は、ついに出家して俗世を離れた。
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