峯村部材店主

太平記 11巻

ホーム太平記 全40巻・全339章← 巻第十巻第十二 →

巻第十一|目次

※読み方:軍勢の数、超人的な戦闘、瑞兆、神仏の加護、怪異、因果応報などは、『太平記』本文の叙述であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定が一般的な歴史叙述や現存史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、尺・寸・丈・町など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。一方、中世の「里」や当時の貨幣は単純に現代単位へ換算しない。


83. 五大院宗繁の裏切り――北条邦時の最期


新田義貞が関東を支配する

新田義貞は鎌倉を平定し、その威勢は遠くまで広がった。

関東8か国の大名や名門の武士で、義貞に従わず、抵抗しようとする者は1人もいなかった。

以前から義貞に従い、忠義を尽くしてきた武士たちでさえ、義貞の前では手をつき、膝を屈して命令に従った。

まして、つい先日まで北条氏の恩を受け、幕府方の陣にいた者たちは、なおさらだった。

彼らは、何とか生き延びようとして、親類や知人を頼り、新田方へ降伏した。

力のある者の馬前にひれ伏し、有力者の門前を掃くように仕えてでも、自分の罪を軽くしてもらおうと考えていた。


北条一族への追及

こうした者たちは、自分の忠誠を新田方へ示すため、北条一族の生き残りを探し出した。

すでに世を捨て、僧侶となっていた北条一族の者まで、寺から引きずり出された。

法衣は血に染まった。

また、

「亡き夫以外の男とは、二度と夫婦にならない」

と決意し、髪を下ろして姿を変えようとしていた北条一族の未亡人たちも、各地から探し出された。

夫への貞節を守ろうとした女性たちの思いも、踏みにじられた。

何とも悲しいことである。

義を守ろうとしてすぐに死んだ者は、死後も修羅道へ落ち、長い間苦しむことになるかもしれない。

一方、恥を忍んで生き残った者は、たちまち落ちぶれ、世間の人々から笑われた。

死んでも苦しみ、生きても恥を受ける。

北条方の人々は、どちらを選んでも救いのない立場に置かれていたのである。


北条邦時を託された五大院宗繁

その中に、五大院右衛門尉宗繁という武士がいた。

宗繁は、亡くなった北条高時から大きな恩を受けてきた家臣だった。

しかも高時の嫡男である相模太郎邦時は、宗繁の妹が生んだ子だった。

邦時は宗繁にとって甥であり、同時に仕えるべき主人でもあった。

高時は宗繁について、

「どのようなことがあっても、この者が裏切ることはないだろう」

と深く信頼していたのだろう。

鎌倉での戦いが始まる前、高時は宗繁に命じた。

「邦時をお前に預ける。

どのような手段を使ってでも、この子を隠して守ってくれ。

再び時機が訪れたならば、邦時を立てて北条家を再興し、死んだ我々の恨みを晴らしてほしい」

宗繁は、

「承知いたしました。何の問題もございません」

と引き受けた。

しかし鎌倉で戦いが続いている最中に、宗繁は新田方へ降伏した。


北条一族を隠した者も処罰される

それから2、3日が過ぎ、北条氏が滅亡すると、関東の武士たちは皆、新田方の命令に従うようになった。

各地に隠れていた北条一族は、次々と探し出された。

北条一族を捕らえた者には、その所領が恩賞として与えられた。

反対に、北条一族を隠していた者は、たちまち処刑されることも多かった。

宗繁は、その様子を見て考えた。

「いやいや、すでに運の尽きた者をかくまったために、せっかく助かった自分の命まで失ってはならない。

邦時殿の居場所を新田方の武士へ知らせ、私に裏切る心がないことを示そう。

そうすれば、所領の1か所くらいは、そのまま認めてもらえるかもしれない」

『太平記』作者は、宗繁が主人を守ることよりも自分の命と所領を選んだ人物として、きわめて厳しく描いている。


邦時をだまして屋敷から出す

ある夜、宗繁は邦時に申し上げた。

「若君がここにいらっしゃることは、誰にも知られていないと思っておりました。

ところが、どこから漏れたのでしょうか。

船田入道が明日、この屋敷へ押し寄せ、若君を捜し出そうと準備しているという知らせが、たった今、ある者から届きました。

今夜のうちに居場所を変えなければなりません。

夜の闇に紛れ、急いで伊豆の山中へお逃げください」

もちろん、これは邦時を屋敷から誘い出すための嘘だった。


「私はお供できません」

宗繁は、もっともらしい顔で続けた。

「私もお供したいと思っております。

しかし一族全員で逃げたならば、船田入道は、

『やはり邦時殿を隠していたのだ』

と気づくでしょう。

そうなれば、どこまでも追いかけてくるに違いありません。

そのため、わざと私はお供いたしません」

邦時は、その言葉を信じた。

もはや安心して身を置ける場所はないと思い、元弘3年(1333年)5月27日の夜中ごろ、ひそかに鎌倉を脱出した。


昨日まで天下の主の子だった

邦時は、昨日までは天下を支配していた北条高時の嫡男だった。

以前ならば、ちょっとした寺社参詣や方違えの外出でさえ、北条家の直属の武士や外様の大名たちが、立派な馬へ轡をつけて集まってきた。

500騎、300騎という軍勢が前後を取り囲み、邦時を守って行き来したものである。

ところが、時代が移り、状況は一変した。

世の変化とは、何とも悲惨なものだった。

今の邦時には、身分の低い下働きの男が1人、太刀を持って従うだけだった。

替え馬にさえ乗ることができない。

破れた草鞋を履き、編み笠をかぶり、行き先もはっきりしないまま、泣きながら伊豆の山を目指して歩いていった。

その心の内は、どれほど悲しかったことだろう。


船田入道へ密告する

こうして邦時を屋敷からだまし出した宗繁は、さらに考えた。

「自分で邦時を討ち取ったならば、

『長年仕えた主人との関係を忘れた者だ』

と、人々から後ろ指をさされるだろう。

そこで都合のよい新田方の武士に討たせよう。

そして手柄を分けてもらい、自分の所領を守ろう」

宗繁は急いで船田入道のもとへ行った。

そして言った。

「相模太郎邦時殿の居場所と、逃げる道筋を詳しく聞き出しました。

ほかの軍勢を交えず、あなたの兵だけで出陣なされば、大きな手柄になるでしょう。

このことをお知らせした忠義への褒美として、私が命のように大切にしている所領を安堵していただけるよう、お取りなしください」

船田入道は心の中で、

「何と卑しい男の言い分だ」

と思った。

しかし表向きには、

「まず問題はない。約束しよう」

と答えた。

船田入道は宗繁とともに、邦時が通る道をふさぎ、待ち伏せした。


相模川の岸で捕らえられる

邦時は、道に敵が待ち伏せしているとは、まったく考えていなかった。

翌1333年5月28日の明け方、みすぼらしい逃亡者の姿で相模川を渡ろうとしていた。

渡し守が来るのを待ちながら、川岸に立っていた。

宗繁は少し離れた場所に立ち、

「あそこにいるのが、探している邦時殿だ」

と教えた。

船田の家来3騎は馬から飛び降り、邦時に反撃する隙を与えず、生け捕りにした。


縄で縛られ鎌倉へ送られる

突然の捕縛だったため、邦時を乗せるための輿などは用意されていなかった。

兵たちは邦時を馬へ乗せ、船で使う太い縄によって、きつく縛りつけた。

そして下働きの男2人に馬の口を取らせ、真昼の鎌倉へ連れていった。

昨日まで鎌倉の支配者の後継者だった少年が、縄で縛られ、人目にさらされながら引かれていったのである。

この姿を見聞きした者で、袖を涙で濡らさない者はいなかった。


北条邦時の処刑

邦時はまだ幼い少年だった。

そのため、本人が何か重大な罪を犯したわけではなかった。

しかし新田方は、

「朝廷に背いた北条高時の長男である以上、見逃すことはできない」

と判断した。

邦時は捕らえられた翌日、元弘3年(1333年)5月29日の明け方、ひそかに首をはねられたと『太平記』は記している。

父・高時から北条家再興の望みを託された嫡男は、こうして命を奪われたのである。


程嬰と予譲の忠義

昔、中国に程嬰という人物がいた。

程嬰は幼い主人を救うため、自分の子を身代わりとして殺し、主家の血筋を守った。

また予譲という人物は、かつての主人から受けた恩に報いるため、顔や姿まで変え、命をかけて敵を討とうとした。

五大院宗繁に、程嬰や予譲ほどの忠義を尽くせとはいわない。

しかし宗繁は、長年仕えた主人の子を敵に討たせた。

自分の利益を求める欲のため、忠義を完全に忘れたのである。


人々から憎まれる宗繁

この宗繁の心は、

「何と恐ろしいことだ」

「人としての道に外れている」

と、見る者すべてから非難された。

人々は宗繁に向かって指を鳴らし、強い嫌悪を示した。

新田義貞もこの話を聞くと、

「確かに、これは許すことのできない行いだ」

と考えた。

そして宗繁も処刑することが、ひそかに決定された。


裏切り者の最期

宗繁は、自分も処刑されるという話を聞きつけた。

そこで各地を逃げ回り、身を隠した。

しかし、その悪事の報いが身に及んだのだろうか。

広い世界のどこにも、宗繁が安心して身を置ける場所はなかった。

かつての知人は大勢いたが、一度の食事を与えてくれる者さえいなかった。

宗繁はついに、物乞いのような姿にまで落ちぶれた。

そして最後には道端で飢え死にしたと、『太平記』は因果応報の結末として伝えている。

↑ 巻第十一の目次へ戻る


84. 六波羅陥落の知らせ――後醍醐天皇、船上山を出発


六波羅陥落を知らせる早馬

京都では元弘3年(1333年)5月12日、千種忠顕(頭中将)足利高氏(治部大輔。のちの足利尊氏)赤松則村(法名・円心)らが、次々と早馬を船上山へ送った。

その使者たちは、

「京都の六波羅探題は、すでに陥落いたしました」

と、後醍醐天皇へ報告した。

これを受けて、公卿たちは会議を開いた。

そして、

「後醍醐天皇は、すぐに京都へお戻りになるべきか」

について、それぞれ意見を申し上げた。


光守が帰京を止める

その時、勘解由次官光守が、天皇をいさめて申し上げた。

「確かに、京都の二つの六波羅探題は、すでに滅びました。

しかし千早城を攻めるために出陣した朝敵の軍勢は、今も畿内に満ちています。

その勢いは、京都をのみ込もうとするほどです」

六波羅探題が滅びたとはいえ、畿内にいる幕府軍がすべて朝廷方へ従ったわけではなかった。

光守は、まだ状況を安心できないものと考えていたのである。


東国の軍事力を軽く見てはならない

光守は続けた。

「世間では、次のようにいわれています。

関東8か国の軍勢は、日本全国の軍勢に匹敵する。
鎌倉に集まる軍勢は、関東8か国の軍勢に匹敵する。

それほど東国の兵力は強大なのです」

そして、承久の乱を例に挙げた。

「承久の乱の時、朝廷方が京都にいた伊賀判官光季を攻め滅ぼすことは、難しくありませんでした。

しかし、その後に関東の軍勢が大挙して京都へ攻め上ると、朝廷軍は戦いに敗れました。

その結果、天下は長い間、武家の支配下に置かれることになったのです」


朝廷方が得た勝利は、まだ一部にすぎない

光守はさらに申し上げた。

「現在の戦況を考えますと、朝廷方が手に入れた勝利は、全体を十とすれば、まだ一つか二つほどにすぎません。

古い言葉に、

君子は、処罰を受ける者へむやみに近づかない。

とあります。

危険が完全に去っていない今は、天皇のお住まいを急いで京都へ移されるべきではありません。

しばらく船上山にとどまり、諸国へ綸旨をお出しください。

そして東国の情勢がどのように変化するのかを、ご覧になってはいかがでしょうか」

その場にいた公卿たちは、皆、この意見に賛成した。


後醍醐天皇が自ら占う

しかし後醍醐天皇は、帰京すべき時期を、なお簡単には決められなかった。

そこで自ら『周易』を開き、筮竹を使った占いによって、京都へ戻ることの吉凶を確かめた。

占いでは、師の卦が出た。

そこには、およそ次のような言葉が記されていた。

軍を率いる時には、正しい道を守らなければならない。
経験と徳のある人物を大将とすれば吉であり、災いはない。

また、師の卦の最後の爻には、次のようにあった。

偉大な君主が命令を下す。
功績のある者には国を開かせ、家を継がせる。
ただし、心の正しくない小人を用いてはならない。


王弼の解釈

中国の学者・王弼の注釈には、次のように記されていた。

軍の卦の最も高い位置に達したことは、戦いが終わろうとしていることを示している。
偉大な君主は、功績を立てた者を忘れてはならない。
功績のある者に国や家を与えるのは、国を安定させるためである。
しかし小人を用いてはならない。
小人は、正しい道に従わないからである。

『太平記』は、この占いを、戦いが終わり、天皇が功績のある者へ恩賞を与えて国を治める時が来たことを示すものとして読んでいる。

後醍醐天皇は、

「占いの結果がこれほど明らかである以上、もはや何を疑う必要があるだろう」

と考えた。

こうして京都への帰還が決まった。


後醍醐天皇、船上山を出発する

元弘3年(1333年)5月23日、後醍醐天皇は伯耆国の船上山を出発した。

天皇を乗せた腰輿は、山陰道を東へ向かって進んだ。

その行列の装いは、通常の行幸とは大きく異なっていた。

頭大夫行房と勘解由次官光守の2人だけが、公家の正式な衣冠を着て従っていた。

そのほかの公卿や殿上人、衛府や役所に属する役人たちは、皆、戦装束を身につけていた。

前後を進む者たちも、武士の姿をしていた。


30里余りに続く大軍

天皇を守るすべての軍勢は、鎧と兜を身につけ、弓矢を携えていた。

『太平記』は、その行列が前後30里余り(中世の里程で、現在のkmには単純換算できない)にも及んだと描いている。

塩冶高貞(判官)は1,000騎余りを率い、天皇より1日先に出発して、先陣を務めた。

一方、朝山太郎は天皇の行列から1日分の道のりを後れて、500騎余りで後陣を守った。


錦の御旗と帯剣の役

金持大和守は錦の御旗を掲げ、天皇の左側に従った。

船上山で後醍醐天皇を守ってきた名和長年(伯耆守)は、天皇の剣を帯びて守る役を務め、右側に付き従った。

『太平記』は、この行列について、

雨をつかさどる神が道を清め、
風をつかさどる神が塵を払い去った。

と表現している。

天皇の周囲を諸将が守る姿は、北極星の周囲を多くの星が取り囲み、天の中心として仰いでいる様子のようだった。

たいへん厳かで、堂々とした行列だったのである。


隠岐へ流された時とは正反対の旅

元弘2年(1332年)の春、後醍醐天皇が隠岐国へ流された時、天皇は深く心を痛め、涙を流していた。

山にかかる雲や、海に浮かぶ月の色さえも、天皇を悲しませるものとなっていた。

しかし今では、同じ山陰の景色が、天皇を喜ばせるものに変わっていた。

松の木を吹き抜ける風も、

「天皇の御代が、いつまでも続きますように」

と、万歳を唱えているかのように聞こえた。

海辺で塩を焼く煙までもが、今では人々の生活が栄えていることを示す、にぎやかな民家のかまどの煙のように見えたのである。

↑ 巻第十一の目次へ戻る


85. 書写山参詣――新田義貞から届いた鎌倉平定の知らせ


後醍醐天皇、書写山へ向かう

元弘3年(1333年)5月27日、後醍醐天皇は播磨国の書写山へ行幸した。

これは以前から立てていた願いを果たすためだった。

天皇は山内の諸堂を順に参拝した後、書写山を開いた性空上人の御影堂を開かせた。

そこには長年、一般には見せずに大切に保管されてきたらしい、多くの宝物が納められていた。

天皇は寺の長老の1人を呼び、

「これらは、それぞれどのような由来を持つ品なのか」

と尋ねた。

長老は、かしこまって一つずつ説明した。以下は、『太平記』がこの長老の説明として伝える、性空上人にまつわる霊験譚である。


1枚の紙に書かれた法華経

最初に示されたのは、1枚の杉原紙を折り畳み、その中へ『法華経』全八巻と、その前後に読まれる二つの経典を、細かな文字で書き込んだものだった。

性空上人が静かな堂にこもり、『法華経』を読んでいた時のことである。

「第8の冥官」(冥界の役人)が人間の姿となって現れ、ほんのわずかな時間で、この経を書き上げたのだという。


一時のうちに35里を歩いた履物

次に、歯がすり減り、わずかしか残っていない杉製の履物があった。

性空上人は、書写山から比叡山の堂へ毎日参詣していたという。

その距離は35里(中世の里程で、現在のkmには単純換算できない)もあったが、上人はこの履物を履き、一時(およそ2時間)のうちに歩いたと『太平記』は伝えている。


天竺の池で洗われた袈裟

布で縫われた、香色の袈裟もあった。

性空上人が長年、肌身離さず身につけていた袈裟である。

いつも香をたいていたため、その煙ですすけていた。

ある時、上人が袈裟を見て、

「何とかして、これを洗いたいものだ」

と言った。

すると、いつも上人に仕えていた乙護法という守護神が、

「私が洗ってまいりましょう」

と答え、はるか西の空を目指して飛び去った。

しばらくすると、洗われた袈裟が空中に掛けられて乾かされていた。

その姿は、一片の雲が夕日に照らされているようだった。


無熱池の水

性空上人が乙護法を呼び、

「この袈裟を、どこの水で洗ったのか」

と尋ねた。

乙護法は答えた。

「日本の中には、この袈裟を洗うのにふさわしい清らかで冷たい水がありませんでした。

そこで天竺の無熱池まで行き、その水で洗ってまいりました」

無熱池は、仏教の世界観で、ヒマラヤの奥にあるとされた清らかな池である。

この袈裟は、そこまで運ばれて洗われたものだと伝えられていた。


生木から現れた観音像

生きた木から仏の姿となって現れたという、観世音菩薩の像もあった。

この像については、

生木から現れた如意輪観音を礼拝する。
生きる者の幸福と長寿の願いを満たし、
極楽浄土へ往生したいという願いもかなえてくださる。

という意味の言葉が伝えられていた。

天人たちも天から降り、この観音像を供養したという。


五大明王と2人の童子

仏師の祖とされた毘首羯磨が作ったという、五大明王の像もあった。

また、性空上人が『法華経』を読んでいる時には、不動明王と毘沙門天が2人の童子の姿を現し、上人に仕えたという。


書写山から比叡山へ届いた声

延暦寺の根本中堂で供養が行われた日、性空上人は書写山にいた。

しかし上人が風に乗せて仏をたたえる歌を唱えると、その清らかな声は遠く比叡山の雲まで響いた。

比叡山の法会に集まっていた人々は、この不思議な声を聞き、驚いたという。

寺の長老は、このような宝物や性空上人の奇跡について、詳しく説明した。


安室郷を寺へ寄進する

後醍醐天皇は、性空上人の事績や寺の宝物を知り、たいへん深い信仰心を抱いた。

そして播磨国の安室郷を、書写山へ寄進した。

これは『法華経』を決められた作法のとおり、絶えることなく書写し、読誦するための費用にあてる領地とされた。

『太平記』の語る時代まで、その修行はわずかな時間も怠ることなく続けられていたという。

まさに罪を消し、善を生み出そうとする、ありがたい願いだった。


法華山を参拝する

翌1333年5月28日、後醍醐天皇は法華山へ行幸し、山内を巡って参拝した。

その後、天皇の一行は京都への道を急いだ。

1333年5月30日には兵庫の福厳寺という寺へ入り、食事や宿泊を準備する場所として、しばらく滞在した。


赤松円心父子が参上する

その日、赤松則村(法名・円心)が息子たちとともに、父子4人で、500騎余りを率いて天皇のもとへ参上した。原文の「父子4人」は、円心と4人の息子という意味ではなく、父子合わせて4人である。

後醍醐天皇は、特に喜ばしい表情を見せて言った。

「天下を新しく立て直すことができたのは、ひとえにお前たちが力を尽くして戦った忠義によるものである。

恩賞については、それぞれの希望に従おう」

天皇は赤松父子の功績を深く称賛した。

赤松軍は、そのまま天皇の御所を警護する役目に加えられた。


羽根をつけた緊急の知らせ

後醍醐天皇は福厳寺に1日滞在し、京都へ戻る行列と儀式の準備を整えた。

その日の正午ごろ、3騎の早馬が福厳寺の門前まで駆け込んできた。

使者たちは、急ぎの文書であることを示す羽根を首に掛けていた。

馬から降りる間も惜しむように庭まで乗り入れ、その書状を差し出した。

公卿たちは驚き、急いで書状を開いた。


新田義貞からの鎌倉平定報告

書状は、新田小太郎義貞から送られたものだった。

そこには、

北条高時以下の一族と、その家来たちを短期間のうちに討ち滅ぼした。
東国は、すでに平定された。

と報告されていた。

京都や西国では朝廷軍が勝利を重ね、六波羅探題を滅ぼしていた。

しかし後醍醐天皇は、

「関東を攻め落とすことは、非常に難しい大事業になるだろう」

と、なお心配していた。

そこへ鎌倉平定の知らせが届いたのである。


天皇と公卿たちの喜び

後醍醐天皇をはじめ、公卿たちはようやく心配から解放された。

誰もが喜び、新田義貞の功績を称賛した。

天皇はすぐに、

「恩賞は、義貞の願いに従って与えるように」

と命じた。

そしてまず、鎌倉平定の知らせを届けた3人の使者へ、それぞれ功績に応じた褒美を与えたのである。

↑ 巻第十一の目次へ戻る


86. 楠木正成、兵庫へ参上――後醍醐天皇の京都帰還


楠木正成、兵庫へ参上する

後醍醐天皇は、兵庫に1日滞在した。

元弘3年(1333年)6月2日、天皇を乗せる腰輿を出発させようとしていたところへ、楠木正成(本文では「楠多聞兵衛正成」)が7,000騎余りを率いて参上した。

その軍勢は、ひときわ勇ましく、堂々として見えた。


後醍醐天皇が正成を称賛する

後醍醐天皇は御簾を高く巻き上げさせ、正成を近くへ呼んだ。

そして言った。

「この大事業が、これほど早く成功したのは、ひとえにお前が忠義を尽くして戦ったためである」

後醍醐天皇は、楠木正成の功績を深く称賛した。

正成は、かしこまって答えた。

「これは天皇の文徳と武徳によって成し遂げられたことです。

私のような身分の低い家臣が、わずかな知恵を使っただけで、どうして強大な敵の包囲を破ることができたでしょうか」

正成は、自分の功績を誇ることなく、すべてを天皇の徳によるものとして辞退した。


正成が先陣を務める

後醍醐天皇が兵庫を出発してから、楠木正成は行列の先陣を務めた。

畿内の軍勢を従え、7,000騎余りで天皇の前方を進んだ。

兵庫から京都まで18里(中世の里程で、現在のkmには単純換算できない)ほどの道のりには、盾・矛・まさかりなどの武器を持つ兵が左右に並んだ。

天皇を左右から補佐する者たちが列を作り、全軍が決められた順序を守って進んだ。

天皇の行列は、めでたい五色の雲に包まれているかのように、静かに京都を目指した。


後醍醐天皇、東寺へ到着する

1333年6月5日の夕方ごろ、後醍醐天皇は京都の東寺へ到着した。

武士たちが集まったことはいうまでもない。

さらに、

  • 摂政
  • 関白
  • 太政大臣
  • 左右の近衛大将
  • 大納言・中納言
  • 公卿
  • 弁官
  • 五位・六位の官人
  • 朝廷内外の諸役人
  • 医術をつかさどる者
  • 陰陽道をつかさどる者

に至るまで、

「自分も人に後れまい」

と、次々に参集した。


東寺の門前に集まる人々

東寺の門前には、牛車や馬が群がった。

その様子は、雲が地上を覆っているようだった。

堂の上には、青や紫の位の高い装束を着た公卿たちが並んだ。

それは、北極星を中心として空に多くの星が並んでいる姿のように見えた。


二条の内裏へ帰還する

翌1333年6月6日、後醍醐天皇は東寺から二条の内裏へ戻った。

隠岐への配流と船上山での挙兵を経て、ついに京都の皇居へ帰還したのである。

この日、まず臨時の人事が発表された。

足利治部大輔高氏は、治部卿に任命された。

弟の足利兵部大輔直義は、左馬頭に任命された。

六波羅探題を攻め落とした足利兄弟の功績に対する、新しい官職だった。


千種忠顕が天皇の前を進む

千種忠顕(頭中将)は、天皇の剣を帯びて守る役として、天皇の乗る鳳輦の前を進んだ。

天下は平定されたばかりで、なお不測の事態に備える必要があった。

そこで刀を帯びた兵500人が二列に並び、天皇の行列を守った。


足利兄弟と5,000騎

足利高氏と直義の2人は、百官の後方を馬に乗って進んだ。

2人は武官だったため、その周囲には鎧と兜を身につけた騎馬武者5,000騎余りが従っていた。

その次には、

  • 宇都宮氏の500騎余り
  • 佐々木判官の700騎余り
  • 土居氏・得能氏の2,000騎余り

が続いた。


諸国の大名が旗ごとに進む

そのほかにも、

  • 楠木正成
  • 名和長年
  • 赤松円心
  • 結城氏
  • 長沼氏
  • 塩冶氏

をはじめ、諸国の大名たちが従った。

それぞれ500騎、300騎という軍勢を率いていた。

各軍は自分たちの旗を掲げ、一つの部隊ごとに分かれて進んだ。

天皇の乗る輦を中央に置き、諸軍は整然と京都の小路を進んだ。


これまでとは異なる還幸の行列

この時の道中の装いや行列の儀式は、それまでの天皇の行幸とは大きく異なっていた。

通常の公家中心の行列ではなく、武装した多くの軍勢が天皇を守っていた。

朝廷のすべての役所による警護も、たいへん厳重だった。


京都を埋める見物人

身分の高い者も低い者も、後醍醐天皇の帰還を見ようと道を埋め尽くした。

人々は皆、天皇の徳をたたえた。

その声は広く響き渡り、耳に満ちるほどだった。

前年、隠岐へ流されて京都を離れた後醍醐天皇は、六波羅探題と鎌倉幕府を滅ぼし、ついに勝者として都へ戻ったのである。

↑ 巻第十一の目次へ戻る


87. 菊池武時(寂阿)の討ち死に――鎮西探題・北条英時の滅亡


京都と鎌倉に続き、九州を平定する計画

京都と鎌倉は、足利高氏と新田義貞の武功によって、すでに平定された。

そこで朝廷では、

「次は九州へ討伐軍を送り、鎮西探題・北条英時を攻め滅ぼすべきである」

ということになった。

二条大納言師基を太宰帥に任命し、九州へ派遣しようとしていた。

ところが元弘3年(1333年)6月7日、菊池氏・少弐氏・大友氏のもとから出された早馬が、同時に京都へ到着した。

使者たちは、

「九州の朝敵は、1人残らず討伐されました」

と、後醍醐天皇へ報告した。

後になって、その戦いの詳しい経過を調べると、次のような事情があった。


菊池・少弐・大友の三者が朝廷方への参加を約束する

後醍醐天皇が、まだ伯耆国の船上山にいたころのことである。

  • 少弐貞経(法名・妙慧)
  • 大友貞宗(本文では「大伴入道具簡」)
  • 菊池武時(法名・寂阿)

の3人は心を合わせ、

「朝廷方へ加わりたい」

と申し入れた。

後醍醐天皇は、すぐに綸旨を下した。

さらに、朝廷軍であることを示す錦の御旗も与えた。

3人はこの計画を心の中に隠し、まだ表立った行動には出ていなかった。

しかし、これほど大きな計画を完全に隠すことはできない。

間もなく鎮西探題の北条英時にも、この話が伝わった。なお、この幕府機関の歴史上の名称は「鎮西探題」であり、後世の「九州探題」とは別の制度である。


北条英時、菊池寂阿を博多へ呼び出す

英時は、

「菊池たちに本当に反逆の意思があるのか、確かめてみよう」

と考えた。

そこでまず、菊池入道寂阿を博多へ呼び出した。

菊池寂阿は、この命令を聞いて事情を察した。

「これはきっと、我々の計画が露見したのだ。

私を博多へ呼び出して、討ち取ろうとしているに違いない。

それならば相手に先手を取られてはならない。

こちらから博多へ攻め寄せ、正面から勝負を決めよう」

寂阿は、以前の約束どおり、少弐氏と大友氏へ知らせを送った。


大友は返事をせず、少弐は約束を破る

しかし大友氏は、天下の行方がまだどちらへ決まるのか分からないと考え、はっきりとした返事をしなかった。

一方の少弐氏は、そのころ、

「京都では六波羅探題が何度も朝廷軍に勝っている」

という知らせを聞いていた。

そこで自分に反逆の疑いがかかることを恐れたのだろう。

少弐氏は、菊池氏と交わした約束を破った。

そして菊池寂阿の使者である八幡弥四郎宗安を殺し、その首を鎮西探題の北条英時へ差し出した。


菊池寂阿、150騎で博多へ向かう

菊池寂阿は、この裏切りを知ると激しく怒った。

「日本一信用できない者たちを頼り、この大事を始めようとしたことが、そもそもの間違いだった。

よい。

あの者たちが味方しなくても、戦ができないわけではない」

元弘3年(1333年)3月13日の午前6時ごろ、菊池武時(寂阿)は、わずか150騎で鎮西探題の館へ攻め寄せたと『太平記』は記している。


櫛田神社の前で馬が動かなくなる

菊池寂阿が櫛田神社の前を通り過ぎようとした時、不思議なことが起こった。

戦いの敗北を神が予告したのだろうか。

あるいは、馬に乗ったまま神社の前を通ろうとしたことを、神がとがめたのだろうか。

寂阿の乗る馬が突然立ちすくみ、一歩も前へ進まなくなった。

寂阿は腹を立てて叫んだ。

「どのような神であろうと構わない。

この寂阿が戦場へ向かおうとしている道で、乗ったまま通ることをとがめるとは何事だ。

そのつもりなら、矢を1本差し上げよう。

受けてみるがよい」

寂阿は上差しの鏑矢を抜き、神殿の扉へ2本の矢を射かけた。


大蛇を射殺す

矢を放つと同時に、馬の立ちすくみは治った。

寂阿は、

「やはり、その程度のことだったか」

と笑い、そのまま進んだ。

『太平記』によれば、後になって神社の境内を調べると、2丈(約6m)ほどもある大蛇が、寂阿の鏑矢を受けて死んでいたという。

これは『太平記』が語る霊験・怪異の一場面である。


菊池軍が探題の館へ攻め込む

北条英時は、あらかじめ戦いの準備を整えていた。

大軍を館の木戸の外へ出し、菊池軍を迎え撃たせた。

菊池軍は小勢だった。

しかし兵たちは、自分の命を塵やごみほどにも思わず、守るべき道義を金や石のように重く考えていた。

菊池軍が激しく攻めたため、守る兵の多くが討たれ、残った者たちは館の中へ引きこもった。

菊池軍は勝利の勢いに乗った。

塀を乗り越え、門を破り、少しも休まず館の奥へ攻め込んだ。


少弐・大友の6,000騎が背後から襲う

北条英時は攻撃に耐えられなくなり、今にも自害しようとしていた。

その時、少弐・大友の軍勢6,000騎余りが現れ、菊池軍を背後から攻撃した。

先に朝廷方への参加を約束していた少弐・大友が、北条英時を救うため、菊池氏を襲ったのである。


菊池寂阿、嫡男・武重を故郷へ帰す

菊池寂阿は、背後から迫る大軍を見ると、嫡男の肥後守武重を呼んだ。

そして言った。

「私は今、少弐と大友に出し抜かれ、戦場で死のうとしている。

しかし、正しいと思う道に従って命を捨てるのだから、少しも後悔はない。

私はこのまま北条英時の館を枕として、討ち死にする。

お前は急いで菊池の館へ帰れ。

城を固く守り、軍勢を集め、私が生きているうちに受けた恨みを、死後に晴らしてくれ」

寂阿は若い家来50騎余りを自軍から分け、武重につけて肥後国へ帰らせることにした。


故郷へ送った最後の歌

故郷に残してきた妻や子どもたちは、寂阿が出陣した時、それが最後の別れになるとは知らなかった。

今も、

「そろそろ帰ってくるころだろうか」

と待っているかもしれない。

そう考えると、寂阿は深い悲しみを覚えた。

そこで一首の歌を書き、自分の袖につけていた笠印とともに、故郷へ送った。

故郷に
今夜ばかりの
命とも
知らでや人の
我を待つらん

その意味は、

私の命が今夜限りであるとも知らず、
故郷の人々は、
今も私の帰りを待っているのだろうか。

というものだった。


武重、父とともに死ぬことを願う

肥後守武重は父へ申し上げた。

「『太平記』本文では40歳余りとする、私にとってただ1人の父上が、

今まさに大敵へ向かい、討ち死にしようとなさっているのです。

それならば私も、同じ場所で生きるか死ぬかをともにするべきです」

武重は何度も願った。

しかし寂阿は、

「お前を生き残らせるのは、天下のためである」

と厳しく命じた。

父の言葉に背くことのできない武重は、これを最後の別れとして、泣きながら肥後へ帰った。

その心の内は、何とも悲しいものだった。


菊池寂阿と次男の討ち死に

武重を帰した後、菊池寂阿は次男の肥後三郎とともに戦場へ戻った。

100騎余りを前後に従え、背後から攻める少弐・大友軍には目も向けなかった。

ただ北条英時の館だけを目指し、攻め込んだ。

菊池軍は最後まで一歩も退かなかった。

敵と組み合い、互いに刀を突き立てながら戦い、ついに1人残らず討ち死にした。

昔、中国では専諸や荊軻が恩を受けた人物のために命を捨て、侯嬴や予譲が義を重んじて死を軽く考えたという。

菊池寂阿らの行いも、そのような忠義に並ぶものだったのだろう。


少弐・大友への非難

少弐氏と大友氏は、朝廷方へ加わる約束をしながら菊池氏を裏切り、北条英時に味方した。

その行動は、

「人としてあるまじき振る舞いだ」

と、天下の人々から非難された。

しかし少弐・大友は、天下が今後どうなるのか分からないまま、しばらく世の様子をうかがっていた。


六波羅陥落の知らせに驚く少弐

やがて元弘3年(1333年)5月7日、

「京都の六波羅探題が攻め落とされた」

「千早城を包囲していた幕府軍も、すべて奈良方面へ退却した」

という知らせが届いた。

少弐入道は驚いた。

「これは困ったことになった。

このままでは、鎮西探題に味方して菊池氏を討った自分も、朝敵として処罰されてしまう」

そこで少弐入道は、

「今度は自分が北条英時を討ち、罪を免れよう」

と考えた。


菊池武重は少弐の誘いを拒絶する

少弐入道は、まず菊池肥後守武重と大友入道へ、ひそかに使者を送った。

そして、

「ともに北条英時を討とう」

と誘った。

しかし武重は、父・寂阿が少弐の裏切りによって討ち死にしたことを忘れていなかった。

少弐の申し出には、耳を貸そうともしなかった。

一方、大友氏も菊池氏を攻撃した罪を負っていた。

そこで、

「北条英時を討てば、自分も助かるかもしれない」

と考え、少弐の申し出を固く受け入れた。


北条英時が長岡六郎を派遣する

少弐と大友は、

「今日がよいか、明日がよいか」

と、北条英時を攻撃する日を選んでいた。

しかし英時も、少弐が謀反を企てているという情報を得た。

そこで、

「話が事実かどうかを調べよ」

と命じ、長岡六郎を少弐のもとへ派遣した。


少弐の屋敷で出陣準備を見抜く

長岡六郎は少弐入道の屋敷へ行き、

「お目にかかりたい」

と申し入れた。

しかし少弐入道は、

「少し体調が悪い」

といって、面会しなかった。

そこで長岡は、少弐入道の息子である筑後新少弐のもとへ向かった。

面会を申し入れ、何気ない様子を装いながら、屋敷の中を見回した。

すると兵たちは、今にも出陣しようとしていた。

盾を修理し、矢じりを研いでいる最中だった。

さらに控えの間には、節の部分を白く削った青竹の旗竿が置かれていた。

長岡は思った。

「やはり船上山から錦の御旗を与えられたという話は、本当だったのだ」


長岡六郎、新少弐へ斬りかかる

長岡は、

「新少弐が面会に出てきたならば、その場で刺し違えてやろう」

と考えた。

筑後新少弐は、何も知らない様子で現れた。

長岡は席につくと同時に叫んだ。

「何と恥知らずな謀反の企てだ!」

そう言うと、腰の刀を抜き、新少弐へ飛びかかった。


将棋盤で刀を受け止める

新少弐は、たいへん判断の速い人物だった。

そばにあった将棋盤をすぐに取り上げ、長岡の刀を受け止めた。

そして長岡へ組みつき、上になったり下になったりしながら激しく争った。

やがて少弐の家来たちが大勢走り寄った。

長岡の体を三度刺し、新少弐を助けた。

長岡六郎は英時の命令を果たせず、その場で命を失った。


少弐・大友、7,000騎で探題の館を攻める

少弐入道は考えた。

「謀反の計画が、すでに探題へ知られてしまった。

もはや、ためらっている場合ではない」

少弐入道は大友入道とともに、7,000騎余りの軍勢を率いた。

1333年5月25日の正午ごろ、北条英時の館へ攻め寄せた。


九州の武士たちが北条英時を見捨てる

世の末になると、正義を重んじる者は少なくなり、自分の利益を求める者が多くなる。

それまで北条英時へ従っていた九州9か国の武士たちも、受けた恩を忘れ、次々と逃げ去った。

また、武士としての名誉も惜しまず、朝廷方へ寝返った。

北条英時は、わずか1日の戦いで敗北した。

英時が自害すると、一族と家来340人も、続いて腹を切った。

鎮西探題は、ここに滅亡したのである。史料に基づく一般的な歴史叙述でも、1333年5月25日に少弐貞経・大友貞宗・島津貞久らが鎮西探題を攻め、北条英時が滅亡したとされる。


昨日の味方が今日の敵となる

何とも悲しいことである。

昨日、少弐・大友は北条英時に従い、菊池寂阿を討った。

ところが今日は、朝廷軍へ加わり、今度は英時を討った。

唐の詩人・白居易は、次のように書いている。

人の世を歩むことの難しさは、
山が険しいことでも、水が深いことでもない。
ただ人の心が、簡単に裏返ることにある。

この言葉の意味が、今こそよく分かる出来事だった。

↑ 巻第十一の目次へ戻る


88. 長門探題・北条時直の降伏


長門探題、六波羅を救うため出航する

長門探題の遠江守北条時直は、

「京都での戦いは、幕府方にとって厳しい状況になっている」

という知らせを受けた。

そこで六波羅探題へ力を貸そうと、大船100艘余りに兵を乗せ、瀬戸内海を東へ向かった。


周防で京都と鎌倉の滅亡を知る

ところが周防国の鳴渡まで進んだ時、

「京都も鎌倉も、すでに源氏の軍勢によって攻め滅ぼされた」

「天下の人々は、皆、天皇の政治へ従っている」

という知らせが届いた。

時直は、これ以上京都へ進むことを断念した。

鳴渡から船を引き返し、

「鎮西探題の北条英時と合流しよう」

と考えた。

そして九州方面へ向かった。


鎮西探題もすでに滅びていた

時直は赤間関へ到着すると、九州の様子を尋ねた。

すると、

「鎮西探題の北条英時も、昨日、少弐氏と大友氏によって滅ぼされました」

「九州の9か国と2つの島は、すべて朝廷方へつきました」

と知らされた。

これまで時直の命令によって集まり、従っていた兵たちも、この知らせを聞くとたちまち心を変えた。

それぞれ勝手に船を離れ、逃げていった。

時直のもとに残った者は、わずか50人余りとなった。

時直の船団は、柳浦の波の上を行く当てもなく漂った。


どこにも上陸できない

時直がある浦へ船を着けようとすると、敵軍が矢を構えて待ち受けていた。

別の島へ船をつなごうとすると、朝廷軍が盾を並べ、上陸すれば討ち取ろうとした。

最後まで残った家来たちの心も、今では沖の波のように不安定になっている。

引き返す場所もなく、上陸できる土地もない。

時直一行は、世間という海に浮かぶ船のように、進むための櫂を失い、望まない風に流されていた。


妻子の安否を知りたい

時直は、長門に残してきた妻や子どもたちのことを思った。

「皆は、どうなったのだろう。

せめて行方を知ってからならば、心残りなく討ち死にすることもできるのに」

時直は、しばらく命を延ばすため、1人の家来を船から上陸させた。

そして少弐氏と島津氏のもとへ、

「降伏したい」

という意思を伝えさせた。


少弐・島津が時直を迎える

少弐氏と島津氏は、長年にわたって時直と親しい関係にあった。

時直が、わずかな家来とともに海上を漂っていると聞き、気の毒に思ったのだろう。

2人はすぐに迎えの者を送り、それぞれの宿所へ時直を迎え入れた。


峯僧正俊雅

そのころ九州には、峯僧正俊雅という僧がいた。

俊雅は、後醍醐天皇の母方の親族にあたる人物だった。

笠置山の戦いが起こった時、筑前国へ流されていた。

しかし鎌倉幕府が滅びると、一度に運が開けた。

九州の武士たちは、皆、俊雅の指示に従うようになった。

朝廷から正式な命令が届くまで、九州の政治や処分は、ひとまずこの僧正の判断に任されていた。


時直が僧正へ降伏する

少弐氏と島津氏は、北条時直を連れて峯僧正のもとへ行った。

そして、

「時直が降伏を願っております」

と申し入れた。

僧正は、

「特に問題はないだろう」

と言い、時直を自分の前へ呼んだ。


平伏する時直

時直は膝をついたまま前へ進み、深く頭を下げた。

顔を上げて僧正を見ることもできず、はるかに離れた末席に座って平伏した。

かつて長門探題として権威を振るった姿は、すでになかった。

峯僧正は、その姿を見ると涙を流して言った。


峯僧正、過去の恨みを語る

「元弘の乱が始まったころ、私は何の罪もないまま、この筑前国へ流された。

その時、遠江守殿は私を朝廷の敵として扱った。

私は身に余るほどひどい言葉を浴びせられ、うつむいて涙をぬぐったこともあった。

あなたの無礼でおごった態度の前で、手をつき、恥を忍んだこともあった」

峯僧正は、流人であったころ、長門探題の時直から受けた屈辱を忘れていなかった。


昨日の悲しみが、今日は相手の身に起こる

僧正は続けた。

「ところが今、天は身分の低い者やへりくだる者を助け、不思議なほど世の中を変えた。

幸運と不運は入り乱れ、栄える者と衰える者は、その立場を入れ替えた。

まるで夢と現実のようである。

昨日は、私自身の身の上を悲しんでいた。

今日は、あなたの身の上を悲しむことになった」


恨みに恩で報いる

峯僧正はさらに言った。

「昔から、

恨みに報いるには、恩をもってする。

という言葉がある。

何とかして、少なくともあなたの命だけは助かるよう、朝廷へ申し上げよう」

時直は額を地面につけたまま、両目に涙を浮かべた。

過去に自分が虐げた相手から、今度は命を助けられようとしていたのである。


後醍醐天皇から赦免される

峯僧正は、すぐに飛脚を京都へ送った。

北条時直が降伏したことと、その命を助けてほしいことを、後醍醐天皇へ報告した。

間もなく、天皇から赦免の命令が下った。

時直は処刑を免れ、生活の支えとして大切にしていた所領も認められた。


生き残った時直への嘲笑

『太平記』は、時直が武士としての誇りを捨てて命を助けられたとして、世間の多くの人々から笑われたと描いている。

それでも時直は生き続けた。

「いつか時勢が変われば、北条一族を再興できるかもしれない」

と、その機会を待っていたのである。


病による最期

しかし、それから長い時はたたなかった。

時直は病に侵された。

一族を再興する望みを果たすことなく、夕方の草葉に置いた露が消えるように、はかなく亡くなったのである。

↑ 巻第十一の目次へ戻る


89. 淡河時治一家の最期――鎌倉川に沈んだ母子


越前国にいた淡河時治

淡河右京亮時治は、京都で戦いが続いていたころ、北陸地方の反乱を鎮めるため、越前国へ派遣されていた。

時治は、大野郡の牛原という場所に滞在していた。

ところが間もなく、

「京都の六波羅探題が滅亡した」

という知らせが届いた。

すると、それまで時治に従っていた越前の武士たちは、わずかな間に逃げ去った。

時治のもとには、妻子や親族のほか、話しかけてくる者さえほとんどいなくなった。


平泉寺の僧兵が牛原へ攻め寄せる

平泉寺の僧兵たちは、

「今こそ時治を討ち、その所領を恩賞として朝廷からいただこう」

と考えた。

彼らは越前国内だけでなく、他国の軍勢にも呼びかけ、7,000騎余りを集めた。

そして元弘3年(1333年)5月12日の昼間、牛原へ攻め寄せた。

時治は、雲や霞のように広がる敵の大軍を見た。

「戦ったところで、長く持ちこたえることはできない」

と悟った。


家族全員が出家する

時治のもとに残っていた家臣は、20人余りだった。

時治は彼らに、近づいてくる敵を防がせた。

その間に、近くに住む僧を屋敷へ招いた。

そして妻をはじめ、幼い子どもに至るまで、家族全員の髪に剃刀を当てさせ、仏門へ入るための戒めを授けてもらった。

時治たちは涙を流しながら、死後に極楽浄土へ生まれ変わるための準備をした。


妻に生き残るよう勧める

戒を授けた僧が帰った後、時治は妻に言った。

「2人の子どもは男の子である。

どれほど幼くても、敵は命を助けないだろう。

そのため、この子たちは私とともに、あの世への旅へ連れていく。

しかし、あなたは女性である。

敵が私の妻だと知ったとしても、命まで奪うことはないだろう。

この世に生き残ることができたならば、いつか誰かと縁を結び、悲しみを慰める道を選んでほしい。

私たちが死んだ後も、あなたが心安らかに生きているならば、私は草葉の陰からでも、うれしく思うだろう」

時治は涙を流しながら、妻を説得した。


妻は夫と子どもたちの後を追うと答える

妻は、ひどく悲しみ、夫へ言った。

「水に住むオシドリも、梁に巣を作るツバメも、夫婦で翼を並べた約束を忘れないといいます。

まして私は、あなたと夫婦になって10年以上を過ごしました。

同じ寝床で2人の子どもを育て、いつまでも家族で暮らしたいと祈ってきたのです。

それなのに、あなたは秋の霜に打たれた草のように倒れ、幼い子どもたちも朝露のように消えようとしています。

その後の悲しみに耐えながら、わずかな時間でも、私1人で生きていけると思われるのでしょうか。

このような悲しみに耐えられない以上、生き残れる命ではありません。

それならば、愛する人たちとともに死に、同じ墓の下まで夫婦の約束を守ります」

妻は涙に沈み、その場に伏した。


防戦していた家臣たちが全滅する

やがて、

「敵を防いでいた家臣たちは、すでに全員討ち取られました」

「平泉寺の軍勢は箱の渡しを越え、屋敷の背後にある山へ回り込んでいます」

という知らせが届いた。

もはや時間は残されていなかった。


幼い兄弟を鎧びつへ入れる

『太平記』では、時治には5歳と6歳になる2人の幼い子どもがいた。

時治は2人を、鎧を保管する大きな箱へ入れた。

そして2人の乳母に箱の前後を担がせ、

「鎌倉川の深い淵へ沈めよ」

と命じた。

時治は、その箱が遠ざかっていくのを見送った。

母親もまた、

「子どもたちと同じ淵に身を沈めよう」

と考え、箱を担ぐ縄へ取りすがりながら歩いていった。

その心の内は、何とも悲しいものだった。


「母上も、この箱にお乗りください」

鎌倉川の岸へ到着すると、乳母たちは箱を地面に置き、ふたを開けた。

2人の幼い兄弟は顔を上げ、無邪気に母へ尋ねた。

「母上は、どこへ行かれるのですか。

歩いていらっしゃると、お足が痛むでしょう。

母上も、この箱の中へお乗りください」

子どもたちは、自分たちがこれから死ぬことを理解していなかった。


「この川は極楽浄土の池です」

母は流れる涙を押さえ、子どもたちへ言った。

「この川は、実は極楽浄土にある八功徳池という池なのです。

幼い子どもが生まれ変わり、楽しく遊ぶ場所です。

私と同じように念仏を唱えながら、この川の中へ沈んでいきなさい」

2人の子どもは母とともに手を合わせた。

そして西の方角へ向かい、大きな声で念仏を唱えた。


母子と乳母が淵へ沈む

2人の乳母は、それぞれ1人ずつ子どもを抱きかかえた。

そして青く深い淵の底へ飛び込んだ。

母もその後に続いて身を投げ、子どもたちと同じ淵へ沈んだ。


淡河時治の自害

家族を見送った後、淡河時治も自害した。

屋敷は火に包まれ、時治の体は一塊の灰となった。

こうして時治一家は、1人残らず命を絶ったのである。


死後にも続く家族への執着

『太平記』作者は、「隔生則忘」「一念五百生、繋念無量劫」という仏教的な言葉を引きながら、時治一家の夫婦・親子への強い執着を哀れんでいる。

そして、死後も同じ思いの炎となって互いを求め続けるのではないか、と物語を結んでいる。これは『太平記』作者による宗教的・因果応報的な解釈である。

↑ 巻第十一の目次へ戻る


90. 越中守護・名越時有一族の自害――海上に現れた亡霊


北陸道を守ろうとする名越一族

越中守護の名越遠江守時有、その弟の修理亮有公、甥の兵庫助貞持の3人は、

「出羽・越後の朝廷方の軍勢が、北陸道を通って京都へ攻め上る」

という知らせを受けた。

3人は、その軍勢を途中で防ごうと考え、越中国の二塚という場所に陣を取った。

そして周辺諸国の武士たちを集めた。


六波羅陥落と鎌倉攻撃の知らせ

ところが、

「京都の六波羅探題は、すでに攻め落とされた」

「関東でも戦いが起こり、朝廷軍が鎌倉へ攻め寄せている」

という知らせが次々と届いた。

それまで守護の命令に従い、集まっていた能登・越中の武士たちは、放生津へ退いた。

それだけではなく、今度は守護の陣を攻撃しようと計画し始めた。


家臣も友人も敵へ回る

これまで、

「主人の身代わりとなり、命を捨てよう」

と忠義を尽くしてきた家臣たちも、わずかな間に逃げ去った。

それどころか、敵軍へ加わる者まで現れた。

朝に訪ね、夕方に帰るほど親しく交際していた友人たちも、突然心を変え、時有たちを害そうと考え始めた。

最後に残ったのは、

  • 血縁によって離れることのできない一族
  • 長年大きな恩を受けてきた代々の家臣

だけだった。

『太平記』本文では、その数はわずか79人だった。


敵1万騎が迫る

元弘3年(1333年)5月17日の正午ごろ、『太平記』では、

「敵が1万騎余りで攻め寄せてくる」

という知らせが入った。

時有たちは話し合った。

「このような小勢で戦ったとしても、どれほどのことができるだろうか。

中途半端に戦って、名もない敵に捕らえられ、縄で縛られる恥を受けることは、後の世までの笑いものになる」

そこで、敵が近づく前に最期を迎えることにした。

女性と子どもたちは船に乗せ、沖へ出て海へ沈める。

男たちは城内で自害し、火を放つことになった。


時有の妻と2人の息子

名越時有の妻は、時有と夫婦になって21年がたっていた。

2人の間には2人の男の子がいた。

兄は9歳、弟は7歳だった。

妻は長い年月を夫と過ごし、深い愛情の中で2人の子どもを育ててきた。


有公の身重の妻

弟の修理亮有公の妻は、夫婦になって3年余りだった。

妻は身ごもっており、すでに出産の時期が近づいていた。

生まれてくる子どもを見ることもなく、夫婦そろって死を迎えようとしていた。


貞持が迎えたばかりの妻

兵庫助貞持の妻は、わずか4、5日前に京都から迎えられたばかりの、高い身分の女性だった。

その美しい顔と眉の姿は、世に並ぶものがないほどだったという。

貞持は3年余りも、この女性を思い続けていた。

どうにかして手段を尽くし、ひそかに京都から連れ出し、ようやく妻として迎えたのである。


あまりにも短かった夫婦生活

貞持は以前、

「この女性と会えるなら、命に代えてもよい」

と思うほど恋い慕っていた。

ところが、ようやく夫婦となると、今度は命が惜しくなった。

恋い慕っていた3年間は、天女の羽衣を撫で尽くすほど長く感じられた。

しかし実際に夫婦となって過ごした時間は、春の夜の夢よりも短かった。

出会ってすぐに、このような死別を迎えることになった運命は、何とも悲しいものだった。


海と炎に分かれる夫婦

人は普通、草の葉の先の露と根元のしずくのように、夫婦のどちらかが先に死に、どちらかが後に残ることを悲しむ。

しかし時有たちは、さらに過酷な別れを迎えようとしていた。

妻や子どもたちは波の上で海に沈む。

夫たちは城の炎の中で焼け死ぬ。

互いに別々の場所で死ななければならない。

夫婦は名残を惜しみ、転げ回るようにして泣いた。


女性と子どもたちが船へ乗る

やがて、

「敵が早くも近づいているようです」

「東西に激しい馬の土煙が上がっています」

と、人々が騒ぎ始めた。

女性と幼い子どもたちは泣きながら船へ乗り、はるか沖へ漕ぎ出した。

追い風は少しもやまず、行く人々を遠い波路へ吹き送った。

引き潮も情け容赦なく、船を岸から沖へ誘っていった。

昔、夫を乗せた船を見送り、松浦佐用姫が山の上から領巾を振ったという悲しみも、今の光景を見れば思い知らされるようだった。


3人の妻と2人の子ども

船頭たちは櫓をこぎ、沖の波間で船を止めた。

時有の妻は、2人の子どもを左右の脇へ抱いた。

有公と貞持の妻は、互いに手を取り合った。

そして3人の女性と2人の子どもは、同時に海へ身を投げた。


波間に漂う赤い袴

女性たちの紅色の衣と赤い袴が、しばらく波の上に漂った。

その姿は、吉野川や竜田川の水面に、花や紅葉が散り乱れているように見えた。

やがて寄せてくる波に隠れ、少しずつ海の底へ沈んでいった。


79人が城内で自害する

海へ沈む女性や子どもたちの姿を最後まで見届けた後、城に残っていた79人は、一斉に腹を切った。

そして城へ火を放ち、燃え盛る炎の中で焼け死んだ。


越中の海に残った亡霊

ここから『太平記』は、時有らの死後に起きたという怪異譚を語る。以下の亡霊の場面は、史実としてではなく、本文が伝える説話として読む必要がある。

夫婦が互いを思う執着は、死後も消えなかったのだろうか。

時有たちの魂は、その土地に残り続けたという。

後の時代、越後から京都方面へ向かう船が、この浦を通った。

すると突然、向かい風が吹き、波が荒くなった。

船は碇を下ろし、沖にとどまることになった。


夜の沖から聞こえる女性の泣き声

夜が更けると、波は静かになった。

松を吹く風と、月の光を受けた白いアシの花が、旅の船を寂しく包んでいた。

その時、はるか沖から、女性が泣き悲しむ声が聞こえた。

船の者たちが、

「不思議なことだ」

と思って聞いていると、今度は岸の方から男の声がした。

「その船を、こちらへ寄せてくれ」

何人もの男が、繰り返し呼びかけた。


3人の美しい男が船へ乗る

船の者たちは断ることができず、船を岸へ寄せた。

すると、たいへん美しい3人の男が現れた。

「沖まで乗せていただきたい」

と言って、船の屋形へ乗り込んだ。

船は3人を乗せ、沖の潮が交わる場所まで進んだ。


男たちが波の上に立つ

船を止めると、3人の男は船から降りた。

しかし海へ沈むことなく、広い波の上に立った。

しばらくすると、海の底から3人の女性が浮かび上がった。

年齢は16、17歳から20歳ほどで、色とりどりの衣と赤い袴を身につけていた。

女性たちは、理由を言うこともなく、ただ悲しそうに泣いていた。


炎が夫婦の間を隔てる

3人の男は女性たちを、たいへん親しそうに見つめた。

男と女が互いに近づこうとした、その時だった。

突然、激しい炎が燃え上がり、男女の間を隔てた。

3人の女性は、愛する夫へ近づけないことに身を焦がすような様子を見せながら、再び波の底へ沈んだ。


男たちは二塚へ帰る

3人の男は泣きながら波の上を歩き、二塚の方角へ戻ろうとした。

あまりにも不思議に思った船の者が、1人の男の袖をつかみ、尋ねた。

「それにしても、あなた方はいったい、どなたなのでしょうか」

3人は答えた。

「我々は名越遠江守時有、修理亮有公、兵庫助貞持である」

そう名乗ると、かき消すように姿を消した。


死後も消えなかった執着

インドでは、術婆伽という人物が王妃を恋い慕い、その思いの炎に身を焦がしたという。

日本でも宇治の橋姫が夫を慕い、1人で寝る袖を川の波に濡らしたと伝えられる。

これらは昔の不思議な話として、古い書物に記された出来事である。

『太平記』は、越中の海では死者たちの執着が実際の姿となって現れた、と物語る。

死後も夫婦が互いを求めながら、炎によって隔てられている。

作者は、その執着の深さを罪深く、悲しいものとして描いている。

↑ 巻第十一の目次へ戻る


91. 千早城攻めの幕府軍処分――佐介貞俊夫妻の最期


南都に残る幕府軍

京都は、すでに朝廷軍によって平定されていた。

しかし金剛山の千早城攻めから引き返した幕府軍は、まだ奈良にとどまっていた。

そして再び京都を攻撃しようとしているという情報が入った。

『太平記』では、朝廷は中院定平(中将)を大将として、5万騎余りを大和路へ向かわせた。

さらに楠木正成には畿内の軍勢2万騎余りをつけ、河内国から敵の背後へ向かわせた。


5万騎の幕府軍も士気を失う

奈良へ逃げ込んだ幕府軍は、すでに各方面へ散っていた。

それでも、『太平記』本文では、まだ5万騎余りが残っていたという。

そのため、

「もう一度、激しい戦いが起こるだろう」

と思われた。

しかし幕府軍は、以前の威勢を完全に失っていた。

わずかな水の中で、口を開けて苦しむ魚のように、何をすることもなく日を過ごしていた。


宇都宮・紀清両党が降伏する

最初に降伏したのは、奈良の第一の入口である般若寺を守っていた、宇都宮・紀清両党の700騎余りだった。

彼らは朝廷から綸旨を受け、京都へ上った。

これをきっかけとして、幕府軍は次々と降伏した。

100騎、200騎という部隊もあれば、5騎、10騎という小さな集団もあった。

皆が、

「自分こそ先に」

と争うように朝廷方へ降った。

最後まで残ったのは、北条一族と、代々大きな恩を受けてきた家臣だけだった。


北条一族が僧の姿となる

もはや頼るべき者がいない以上、北条一族の者たちは、討ち死にして名を後世へ残すべきだったのかもしれない。

しかし彼らは、生き残るために出家を選んだ。

  • 阿曾弾正少弼時治
  • 大仏右馬助貞直
  • 江馬遠江守
  • 佐介安芸守

※本文内の食い違い:『太平記』巻第十では、大仏貞直や江馬遠江守を鎌倉の戦いですでに死亡した人物として描いているが、巻第十一ではここに捕虜として再び登場する。ここでは巻第十一の記述をそのまま残す。

らをはじめ、主だった北条一族13人が、般若寺で髪を下ろした。

さらに、

  • 長崎四郎左衛門尉
  • 二階堂出羽入道道蘊

ら、関東で権勢を振るっていた有力な家臣50人余りも出家した。

彼らは戒律を守る僧の姿となり、三衣を肩に掛け、托鉢の鉢を手にして、降伏者として現れた。


縄で縛られて京都へ送られる

中院定平は、彼らを受け取った。

降伏した北条一族や家臣たちは、両手を後ろに回して厳しく縛られた。

そして馬の鞍に前かがみに縛りつけられ、その馬を数万の朝廷軍の前で引き立てられた。

彼らは真昼の人目にさらされながら、京都へ連行された。


捕虜となったこと以上の恥

平治の乱では、悪源太義平が平家に捕らえられ、首をはねられた。

平家滅亡の時には、内大臣平宗盛が源氏に捕らえられ、京都の大路を引き回された。

しかし彼らは、戦場で敵に計略を仕掛けられたか、自害する時間もないまま、心ならずも捕らえられたのである。

それでも後の世まで、人々の笑いものとされた。

その子孫たちも、100年以上後まで、この話を聞くたびに恥じたという。


戦えるうちに自ら降伏した

今回の北条一族は、敵の計略によって捕らえられたのではなかった。

自害する時間がなかったわけでもない。

まだ兵力が尽きていないうちから、自ら黒い僧衣を着て、命を助けてもらおうとした。

そのうえ縄で縛られ、顔をさらしながら京都へ連行された。

『太平記』は、これを前代未聞の恥辱だと厳しく批判している。


僧衣を脱がされ、元の名前へ戻される

捕虜たちが京都へ到着すると、黒い僧衣を脱がされた。

出家して名乗った法名も取り消され、以前の俗名へ戻された。

そして1人ずつ、朝廷方の大名へ預けられた。

彼らは秋に処刑される日を待ちながら、監禁された場所で起き伏しした。

この世の行く末を思うと、涙の乾く時はなかった。


鎌倉の妻子に起きたこと

不確かな知らせを通じて、彼らは鎌倉の様子を聞いた。

長年、同じ枕で老いるまで添い遂げようと約束した妻たちは、荒々しい田舎武士に奪われた。

それは、異国へ送られた中国の王昭君のような悲しみだった。

裕福な家の中で大切に育てられた子どもたちは、以前ならば近づくことさえ許されなかった身分の低い者の召使いとなった。

『太平記』はこれを「黄頭郎が夢」とたとえる。「黄頭郎」は船頭・水夫を意味する語で、ここでは、一時は富貴を極めながら後に困窮した中国の鄧通の故事を踏まえ、栄華が急転したことを表している。


生きているだけでも、まだましだった

妻や子どもが苦しんでいるとしても、

「まだ生きている」

と聞けば、それだけでも救いだった。

しかし旅人たちが道端で話す声に、

「道に衣の袖を広げ、食べ物を求めていた女性が、倒れて死んだ。あれは誰の母だったのだろう」

「粗末な服を着て、親類を頼って旅をしていた者が捕らえられ、殺された。あれは誰の親だったのだろう」

という話が混じっていた。

それを聞くと、捕らえられた者たちは、

「今まで生き残ってしまった自分の命こそ、つらい」

と、いっそう嘆いた。


阿弥陀ヶ峰で15人が処刑される

元弘3年(1333年)7月9日、

  • 阿曾弾正少弼
  • 大仏右馬助
  • 江馬遠江守
  • 佐介安芸守
  • 長崎四郎左衛門

らを含む15人が、京都の阿弥陀ヶ峰で処刑された。

後醍醐天皇が再び皇位へ戻ったばかりで、まだ新しい政治も十分に始まっていなかった。

そのような時に、刑罰ばかりを重く行うことは仁政ではないと考えられた。

そのため処刑は、ひそかに行われた。

首を町中でさらすことはなく、遺体はそれぞれ都合のよい寺へ送られ、死後の供養が行われた。


二階堂道蘊も後に処刑される

二階堂出羽入道道蘊は、朝廷にとって特に重大な敵であり、鎌倉幕府の政治を支えた人物だった。

しかし優れた才能を持つという評判は、以前から後醍醐天皇の耳にも届いていた。

そこで、

「今後は朝廷で使おう」

として、死刑を一段軽くされた。

生活に必要な所領も認められた。

ところが後に、

「ひそかに反乱を企てている」

と疑われ、同じ元弘3年(1333年)の秋の終わりごろ、ついに処刑されたと『太平記』は記している。


佐介貞俊の不満

佐介左京亮貞俊は北条一族につながる人物で、武勇と才能の両方を備えていた。

貞俊自身も、

「いずれは一方面を任される大将になるだろう」

と高く自分を評価していた。

しかし北条高時は、貞俊をそれほど重く用いなかった。

貞俊は不満と怒りを抱きながら、千早城を包囲する幕府軍の中にいた。


綸旨を受けて朝廷方へ降伏する

そのような時、千種忠顕が貞俊へ綸旨を与え、

「朝廷方へ加わるように」

と勧めた。

貞俊は元弘3年(1333年)5月初め、千早城の陣から離れて降伏し、京都で暮らすようになった。


所領を失い、阿波へ流される

しかし北条一族が皆出家して捕虜となった後、幕府に仕えていた者たちは、ことごとく所領を取り上げられた。

屋敷からも追い出され、自分1人の身さえ安心して置けなくなった。

貞俊も阿波国へ流された。

以前仕えていた若い家来や下働きの者も、今は1人もそばにいない。

昨日までの楽しみは、今日の悲しみに変わった。

日を追うごとに、暮らしは苦しくなった。


山奥へ隠れたいと願う

栄えた者が必ず衰えることは、以前から分かっていた。

しかし自分の身に起きてみると、世の中の無常があらためて深く感じられた。

貞俊は、

「どこか遠い山の奥へ身を隠してしまいたい」

と思いながら暮らしていた。


北条一族の全滅を知る

貞俊は、

「関東は、いったいどうなったのだろう」

と、人に尋ねた。

すると、

「北条高時をはじめ、一族は1人残らず討たれた」

「妻子や家来たちも、どこへ行ったのか分からない」

という知らせが届いた。

貞俊は、

「もはや誰を頼り、何を待って生きればよいのか」

と絶望した。

見聞きすることのすべてが、さらに心を打ち砕いた。


降伏した旧幕府家臣への処刑命令

やがて朝廷では、

「関東で幕府へ仕えていた者たちは、一時的に命を助けてもらうため降伏したにすぎない」

「いつか必ず反乱を企てるだろう」

という意見が出た。

そこで、その者たちをことごとく処刑することになり、佐介貞俊も再び捕らえられた。


妻子の行方を知れないことだけが心残り

貞俊は、この世に心を残していたわけではなかった。

そのため、命を惜しいとは思わなかった。

しかし故郷へ残してきた妻と子どもが、その後どうなったのかを知らないまま死ぬことだけは、心にかかった。


腰の刀を妻へ送る

貞俊の最期に立ち会い、十度の念仏を勧める僧がいた。

貞俊はその僧を通じて、長年肌身から離さず持っていた腰の刀を、貞俊を預かっていた者から返してもらった。

そして僧へ頼んだ。

「この刀を、故郷にいる妻と子どものもとへ届けてください」

僧は刀を受け取り、

「必ずご家族の行方を捜して、お渡しします」

と約束した。

貞俊は限りなく喜んだ。


貞俊の辞世

貞俊は敷皮の上へ座り直した。

そして一首の歌を詠んだ。

皆人の
世にある時は
数ならで
憂きには漏れぬ
我が身なりけり

その意味は、

北条氏が栄えていた時には、
私は重く用いられる者の数にも入らなかった。
それなのに北条氏が災難に遭うと、
私だけは、その苦しみから逃れることができなかった。

というものだった。

貞俊は大きな声で念仏を十回唱え、静かに首を打たせた。


僧が鎌倉で妻を捜し出す

僧は、貞俊の形見である刀と、最期に着ていた小袖を持ち、急いで鎌倉へ向かった。

そして貞俊の妻を捜し出し、形見を渡した。

妻は夫の死を聞き終えることさえできず、涙に沈んでその場へ伏した。

悲しみに耐えられない様子だった。


妻が小袖へ書いた歌

妻は、そばにあった硯を引き寄せた。

そして形見の小袖の裾へ、次の歌を書いた。

誰見よと
信を人の
留めけん
堪えてあるべき
命ならぬに

その意味は、

私がこの形見を見て、
生き続けると信じたから、
あの人はこれを残したのでしょうか。
けれども私は、この悲しみに耐え、
生きていけるような命ではありません。

というものだった。

妻は形見の小袖を頭からかぶった。

そして夫の刀を胸へ突き立て、その場で息絶えた。


北条氏に関わった家族の悲劇

このほかにも、夫婦で老いるまで添い遂げようと約束しながら、夫を失った妻たちがいた。

彼女たちは、別の男性へ嫁ぐことを恥じ、深い淵へ身を投げた。

また生活を支える者を失い、子どもにも先立たれた老母たちは、1日分の食事さえ得られず、道端や溝の中に倒れて死んだ。


『太平記』が語る「9代・160余年」の北条支配

『太平記』は、承久の乱以来、北条氏が「9代」「160余年」にわたって天下の実権を握ったと表現する。これは執権が9代だったという意味ではなく、実際の年数とも一致しない、本文独自のまとめ方である。

北条氏の一族は全国へ広がり、各地で大きな権威と勢力を持っていた。

探題や守護など、天下に名を知られた者だけでも800人を超えていたという。

まして、それぞれの家に仕えた家臣の数は、何1万人、何1億人と数えることもできないほどだったと、『太平記』は表現している。


わずか43日で滅びる

そのため、

「京都の六波羅探題は簡単に攻め落とせたとしても、九州と鎌倉の北条勢力を滅ぼすには、10年、20年かかるだろう」

と思われていた。

ところが全国六十余州で、まるで合図を合わせたように、同時に倒幕の兵が立ち上がった。

北条氏の勢力は、わずか43日の間にすべて滅びたと、『太平記』は急激な崩壊を強調している。

作者は、この急激な崩壊を因果応報として受け止めている。


国を治める心を失った幕府

『太平記』は、最後に北条氏の政治を批判する。

関東の勇士たちは、長い間天下を支配し、その威勢を全国へ及ぼしていた。

しかし国を正しく治める心を失っていた。

そのため、どれほど堅い鎧と鋭い武器を持っていても役に立たず、たちまち打ち砕かれ、まばたきするほどの短い間に滅亡した。


おごる者は滅びる

おごる者は滅び、慎み深い者は生き残る。

昔から今に至るまで、何度も繰り返されてきた道理である。

この歴史を振り返る者は、

「天は、満ちすぎたものを欠けさせる」

ということを知らなければならない。

それにもかかわらず、人間は限りのない欲望へ溺れ続ける。

これを迷いといわずして、何といえばよいのだろう。

↑ 巻第十一の目次へ戻る


← 巻第十太平記 全40巻・全339章巻第十二 →ホーム