峯村部材店主

太平記 12巻

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巻第十二|目次

※読み方:軍勢の数、怪異、瑞兆、神仏の霊験、因果応報、人物への道徳的評価などは、『太平記』本文の叙述や作者の見方であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定・地理的数値が一般的な歴史叙述や現存史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、尺・寸・丈・町など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。一方、中世の「里」や当時の貨幣は単純に現代単位へ換算しない。


92. 建武政権の始まり――公家中心の政治と恩賞の混乱


年号を「元弘」に戻す

後醍醐天皇が元弘3年(1333年)に京都へ戻って政権を回復すると、朝廷では「正慶」の年号を用いず、元弘へ戻した。

正慶は、鎌倉幕府側が光厳天皇のもとで用いた年号である。『太平記』はこれを「廃帝の改元」と位置づけている。

そのため朝廷は、

「正慶は、廃帝のもとで改められた年号である」

としてこれを取り消し、以前の元弘へ戻した。

『太平記』は、こうして天下の政治が武家から朝廷へ移り、賞罰や法令が「公家一統」の政治から出されるようになったと描く。

世の人々は、霜に打たれた草木が春の日を浴びて再び生き返るように、新しい政治へ期待を寄せた。

一方、これまで権勢を振るってきた者たちは、鋭い刃の上を歩き、頭上に雷が鳴っているような恐れを抱いた。


護良親王のもとへ大軍が集まる

6月3日、

「後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)が、信貴山の毘沙門堂にいる」

という知らせが広まった。

すると畿内やその周辺の武士だけでなく、京都や遠国の兵まで、

「他人より先に参上しよう」

と、次々に駆けつけた。

その軍勢は、天下の半分を集めたのではないかと思われるほどの大軍となった。

護良親王は6月13日に京都へ入る予定だった。

しかし入京は延期された。

そのうえ、親王は諸国の兵を集め、盾を作り、矢じりを研がせ、合戦の準備をしているという。

誰を攻撃するつもりなのかは分からなかった。

そのため京都にいた武士たちは、

「次に討たれるのは、自分ではないか」

と不安を抱いた。


後醍醐天皇が護良親王へ使者を送る

後醍醐天皇は、右大弁宰相の坊門清忠を勅使として護良親王のもとへ送った。

天皇の言葉は、およそ次のようなものだった。

「天下はすでに平定された。

武力による威勢を収め、平和な政治を始めようとしている。

それなのに、なお武器を動かし、多くの兵を集めるのは、いったい何のためなのか。

また天下が乱れていた間は、敵から逃れるため、一時的に僧の姿を捨てて武士の姿となったことにも理由があった。

しかし世の中が平穏となった今は、急いで髪を剃り、僧衣を着る姿へ戻るべきである。

門跡寺院を継ぎ、仏道へ励むことを務めとしてほしい」

天皇は護良親王に、兵を解散し、再び僧侶へ戻るよう命じたのである。


護良親王、足利高氏の危険を訴える

護良親王は清忠を近くへ呼び、天皇への返答を語った。

「今、天下が一度に平定され、人々が平和を喜んでいるのは、天皇の明らかな徳によるものである。

しかし同時に、私が策を立て、兵を動かした功績もあったからだ。

ところが足利治部大輔高氏は、わずか1度の大きな戦功によって、天下の武士すべての上に立とうとしている。

今、高氏の勢力がまだ十分に固まらないうちに討たなければならない。

そうしなければ、北条高時の悪事に高氏の武力まで加わったような、さらに強大な存在となるだろう。

そのため私は兵を集め、武器を備えている。

これは私の罪ではない」

この発言から、『太平記』では護良親王が足利高氏を将来の危険と見ていたことが分かる。


「今は僧に戻る時ではない」

護良親王は、出家の姿へ戻るようにという命令についても反論した。

「物事が起こる前に危険を見抜けない者は、後になって態度を変え、私を非難するだろう。

確かに反逆者たちは思いがけず滅び、天下は平和になった。

しかし、その仲間たちは今も身を隠し、隙をうかがっている。

再び兵を挙げる機会を待っている者がいないとは限らない。

このような時、上に立つ者に威厳がなければ、下の者たちは必ず勝手な振る舞いを始める。

今の世を治めるためには、学問と武力の2つを、同時に立てなければならない」


仏の教えにも2つの方法がある

親王は続けた。

「仏や菩薩が人々を救う方法にも、摂受と折伏の2つがある。

摂受とは、穏やかで忍耐強い姿を見せ、慈悲によって人を導くことである。

折伏とは、強い怒りの姿を示し、刑罰によって悪を抑えることである。

今、天皇が賢い補佐役や武力に優れた人物を求める時であるならば、僧侶を俗人へ戻したり、1度退位した君主を再び皇位へ戻したりすることもある。

中国にも日本にも、その例は多い」

『太平記』本文は、中国の賈島が僧侶から朝廷の官人となった例や、日本で天武天皇・孝謙天皇が法体を改めて皇位についた例を挙げる。


僧として生きるか、武家の大将となるか

護良親王は言った。

「私が比叡山の奥深い谷へ入り、1つの門跡寺院を守るだけの生活をするのと、幕府の大将として天下を鎮めるのとでは、どちらが国家のためになるだろうか。

私を武家の大将とすることと、僧の姿へ戻さないことについて、速やかに天皇の許可をいただきたい」

護良親王は、清忠を京都へ帰した。


征夷大将軍に任命される

清忠が戻り、護良親王の返答を後醍醐天皇へ報告した。

天皇は詳しく聞いたうえで言った。

「武家の大将の地位につき、軍事を守る者となることは、朝廷のために働く人物として不自然ではない。

しかし高氏を処罰するというが、高氏にどのような不忠があるというのか。

天下が平定された直後で、武士たちは今も不安を抱いている。

罪のない者を処罰すれば、どうして兵たちが安心できるだろうか。

護良親王を武家の大将へ任命することには問題がない。

しかし高氏を討つ計画は、必ず取りやめさせよ」

こうして護良親王を征夷大将軍に任命する宣旨が出された。

親王も、将軍となる望みがかなったため、ひとまず怒りを収めたようだった。


護良親王、京都へ向かう

6月17日、護良親王は信貴山を出発した。

石清水八幡宮に7日間滞在した後、6月23日に京都へ入った。

その行列は、天下の壮観を集めたような、たいへん華やかなものだった。


護良親王の入京行列

先頭は赤松則村(法名・円心)で、1,000騎余りを率いた。

二番目には殿法印良忠が700騎余りで続いた。

三番目は四条少将隆資の500騎、四番目は中院中将定平の800騎だった。

その後には、華やかな鎧を着た兵500人が選ばれ、刀を帯びて二列に並び、徒歩で進んだ。


将軍となった護良親王の姿

護良親王は、赤い錦の鎧直垂を着ていた。

その上には、赤く輝く火威の鎧を身につけていた。

鎧の金具には、牡丹の花の陰で獅子が遊ぶ姿が、前後左右に描かれていた。

腰には兵庫鎖で飾った丸鞘の太刀を下げ、虎の皮の尻鞘をつけていた。

背中には白い矢柄へ鶴の羽をつけた征矢を36本負い、銀の飾りを打った二所藤の弓を手にしていた。

尾やたてがみの豊かな、白い馬に乗っていた。

馬には美しい鞍と厚い房飾りがつけられていた。

12人の近侍が馬の左右に並び、親王の馬をゆっくりと歩かせた。

その姿は、京都の小路が狭く見えるほど堂々としていた。


20万を超える大軍

親王の後ろには、千種忠顕が1,000騎余りを率いて従った。

さらに不測の事態へ備えるため、信頼する兵を中心に、諸国の武士3,000騎余りが武装して続いた。

後陣には、

  • 湯浅権大夫
  • 山本四郎次郎忠行
  • 伊東三郎行高
  • 加藤太郎光直

らが、畿内や周辺諸国の軍勢を率いて続いた。

『太平記』によれば、その数は20万7,000騎余りに及び、行列は3日間にわたって続いたという。これは本文が壮大さを強調するために掲げる軍勢数であり、そのまま実人数とみなすことはできない。

天台座主を務める門跡の皇子が、征夷大将軍となり、鎧を着て大軍を率いて京都へ入る。

これは、これまでに例のない珍しい光景だった。


流刑となっていた人々も帰京する

その後、妙法院尊澄法親王(のちの宗良親王)は四国の軍勢を従え、讃岐国から京都へ戻った。

万里小路中納言藤房は、預かっていた小田民部大輔に伴われ、常陸国から帰京した。

万里小路季房(本文「春宮大進季房」)は、流刑地ですでに亡くなっていた。

父の万里小路宣房は、自分が許された喜びの中で、息子を失った悲しみを抱き、老いた身の袖を涙で濡らした。


円観・文観らの帰還

法勝寺の円観上人は、預かっていた結城上野入道に伴われて京都へ戻った。

後醍醐天皇は、円観が無事であったことを喜び、結城氏に本領を認める綸旨を与えた。

文観上人は硫黄島から帰り、忠円僧正も越後国から京都へ戻った。

後醍醐天皇が笠置山へ逃れた時に官職を奪われた者や、死刑・流刑となった者の子孫も、各地から呼び戻された。

長年抑えられてきた人々は、一度に恨みを晴らし、望みをかなえた。


武士が公家の使用人となる

一方、これまで武力を誇り、主人を持たないように振る舞っていた有力な武士たちは、公家や名門貴族の使用人となった。

ある者は、貴族の立派な牛車の後ろを走った。

ある者は、公家の屋敷の下級役人の前にひざまずいた。

世の中が栄えたり衰えたりし、時勢が移り変わることは、嘆いてもどうにもならない。

しかし、このまま公家だけが天下を治める政治が続けば、諸国の地頭や御家人は、すべて奴隷や下働きの者のようになってしまう。

そのため武士の中には、

「何か不思議な事件でも起こり、再び武家が天下の権力を握る世になってほしい」

と願う者が多かった。


軍功に対する恩賞の審査

8月3日から、戦功を立てた武士への恩賞を審査することになった。

洞院左衛門督実世が、審査を取り仕切る上卿に選ばれた。

諸国の武士たちは、自分の戦功を証明する書類と、恩賞を求める申請書を提出した。

その数は、何千人、何万人なのか分からないほどだった。


功績のない者が有力者へ取り入る

本当に忠義を尽くした者は、自分の功績を頼り、不正な方法で人へ取り入ろうとはしなかった。

ところが功績のない者は、朝廷の奥深くにいる有力者や、天皇の身近な者へこびた。

そして内々の働きかけによって、自分の申請を天皇の耳へ入れようとした。

数か月の間に、わずか20人余りの恩賞しか決められなかった。

しかも、その内容が正しくなかったとして、すぐに取り消されるものもあった。


万里小路藤房が辞任する

そこで担当者を替え、万里小路中納言藤房が上卿となった。

藤房は申請書を受け取り、

「誰に本当の功績があり、その功績がどれほど大きいのか」

を調べ、それぞれに公平な恩賞を与えようとした。

しかし天皇への内々の申し入れによって、つい先日まで朝敵だった者が所領を認められた。

何の戦功もない者が、5か所、10か所もの所領を与えられることもあった。

藤房は繰り返しいさめたが、その意見は受け入れられなかった。

そこで病気を理由に、恩賞審査の役目を辞退した。


北条氏の所領が公家や芸能者へ与えられる

次に九条民部卿光経が上卿となった。

光経は諸大将へ、

「それぞれの部下が、どのような戦功を立てたのか」

と詳しく尋ね、公平に恩賞を与えようとした。

しかし、そのころには主要な所領の多くが、すでに別の用途へ割り当てられていた。

北条高時の所領は、天皇の食事や宮中の費用をまかなう領地とされた。

高時の弟・北条泰家(本文「四郎左近大夫入道」)の所領は、護良親王(兵部卿親王)へ与えられた。

大仏貞直(陸奥守)の所領は、准后の領地とされた。


女房や芸能者にも所領が与えられる

そのほかの北条一族や、関東の有力御家人が持っていた土地も、

  • 歌や音楽に関わる芸能者
  • 蹴鞠の名人
  • 武官や役所の官人
  • 宮中に仕える女性
  • 朝廷に仕える僧

などが、天皇の身近な者を通じて願い出て、1か所、2か所と与えられた。

そのため全国66か国の中には、戦った武士へ恩賞として与えられる土地が、針を立てるほども残っていない状態となった。

光経も、心の中では公平な恩賞を実現したいと思っていた。

しかし思うようにはならず、何年も過ぎていった。


訴訟を扱う「雑訴決断所」

所領などをめぐる訴訟を処理するため、郁芳門の左右に雑訴決断所が造られた。

そこでは、

  • 学問に優れた公卿
  • 殿上人
  • 漢文に通じた紀伝道の者
  • 法律に詳しい明法道の者
  • 外記
  • 実務を担当する官人

などを3つの組に分けた。

一か月に6回、裁判の日を設けた。

表面上は厳重で、堂々とした制度に見えた。

しかし、国を安定させる本当の政治にはならなかった。


内々の命令と裁判所の判断が食い違う

天皇の身近な者を通じて訴えた者には、内々に許可が出る。

ところが雑訴決断所では、その相手方に正当な権利があると判断されることがあった。

逆に雑訴決断所が、以前からの領主へ所領を認めても、内々の申し入れによって、その土地が別人への恩賞として与えられることもあった。

このように判断が食い違ったため、1つの所領に4人、5人の所有者がつく場合もあった。

諸国では土地をめぐる争いが続き、動乱が収まる時はなかった。


中宮と皇太子の死

7月初めごろから中宮が病気となり、8月2日に亡くなった。

さらに11月3日には、皇太子も亡くなった。

『太平記』は、人々が、

「これは普通の出来事ではない。

戦争で死んだ者たちの怨霊の仕業に違いない」

と考えた。

そこで朝廷は、怨霊の怒りを静め、死者を善い世界へ導くためとして、奈良の四大寺に命じ、大蔵経5,300巻を1日のうちに書き写させた。

そして法勝寺で供養を行ったのである。


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93. 大内裏造営計画――菅原道真と天神信仰の説話


新しい大内裏を造る計画

翌元弘4年(1334年)1月12日、公卿たちは後醍醐天皇へ申し上げた。

「天皇の仕事は多く、朝廷には数多くの役所が置かれています。

しかし現在の皇居は、わずか4町四方(1辺約440m)しかありません。

敷地が狭く、朝廷の儀式を正しく行う場所がありません。

そこで四方へ1町(約110m)ずつ広げ、御殿や宮殿を新しく造るべきです。

それでも昔の皇居には及びません。

この機会に、本格的な大内裏を造営すべきでしょう」

こうして、大規模な大内裏を再建する計画が始まった。

費用をまかなうため、安芸国と周防国が造営費を出す国に指定された。

さらに全国の地頭や御家人の所領から、その収入の20分の1を徴収することになった。


古代の大内裏

『太平記』によれば、日本の大内裏は、中国の秦の始皇帝が築いた咸陽宮の一部を手本として造られたという。

『太平記』本文は、その敷地を南北36町(約3.9km)、東西20町(約2.2km)に及んだと記す。

【史実との区別】京都市の解説では、実際の平安宮(大内裏)は南北10町・東西8町で、四面に14の門が開いていたとされる。一方、『太平記』は南北36町・東西20町、「四方に12の門」と述べながら、さらに上東門・上西門にも触れている。ここでは『太平記』本文上の説明として読む必要がある。

外側には竜尾道の石が置かれ、四方には12の門が設けられていたと『太平記』は説明する。

東側には陽明門・待賢門・郁芳門、南側には美福門・朱雀門・皇嘉門があった。

西側には談天門・藻壁門・殷富門、北側には安嘉門・偉鑒門・達智門があった。

このほか上東門・上西門などもあり、衛士たちが武器を交差させ、昼夜を問わず不測の事態へ備えていた。


多くの宮殿と役所

大内裏の内部には、后妃や女官たちが暮らす多くの御殿があった。

前方には、文官と武官が天皇の命令を待つ数多くの殿舎が並んでいた。

紫宸殿の東西には清涼殿と温明殿があり、北側には常寧殿・貞観殿があった。

校書殿は清涼殿の南側にある弓場殿だった。

昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝花舎は梅壺、襲芳舎は雷鳴壺とも呼ばれた。

『源氏物語』などに登場する「桐壺」「藤壺」といった名は、こうした宮中の建物に由来する。


朝廷の儀式を行う場所

大極殿や小安殿、蒼龍楼・白虎楼があり、豊楽院では五節の宴や大嘗会などの大きな儀式が行われた。

中和院、雅楽をつかさどる内教坊、真言の祈禱を行う真言院、神への食事を供える神嘉殿などもあった。

弓や競馬は武徳殿で天皇が見物した。

朝堂院には、朝廷の八省をはじめとする役所が集まっていた。

大内裏は、天皇の生活の場であると同時に、政治・宗教・軍事・芸能の中心だった。


古典文学に残る宮中の場所

右近の陣にあった橘は、昔を思わせる香りを残した。

御殿の階段近くに茂る竹は、長い年月の霜を重ねてきた。

在原業平が雷鳴の夜に弓と矢を身につけ、荒れた建物で一夜を明かしたのは、宮中の八神殿だったという。

光源氏が朧月夜の女性と出会った細殿は、弘徽殿にあった。

かつて文人が遠国へ下る友との別れを悲しみ、長い文章を書いた鴻臚館も、羅城門の南にその名残をとどめていた。

大内裏は、多くの物語や詩歌の舞台でもあった。


紫宸殿の賢聖障子

清涼殿には「荒海の障子」が置かれ、紫宸殿には中国の賢人たちを描いた「賢聖障子」が立てられていた。賢聖障子には、伝統的に中国の賢臣32人が描かれる。

そこには、次の32人が描かれていた。

  • 馬周
  • 房玄齢
  • 杜如晦
  • 魏徴
  • 諸葛亮
  • 蘧伯玉
  • 張良
  • 第五倫
  • 管仲
  • 鄧禹
  • 子産
  • 蕭何
  • 伊尹
  • 傅説
  • 太公望
  • 仲山甫
  • 李勣
  • 虞世南
  • 杜預
  • 張華
  • 羊祜
  • 揚雄
  • 陳寔
  • 班固
  • 桓栄
  • 鄭玄
  • 蘇武
  • 倪寛
  • 董仲舒
  • 文翁
  • 賈誼
  • 叔孫通

など、中国史上の名臣や賢者たちが描かれていた。

絵は巨勢金岡が描き、人物をたたえる文章は小野道風が書いたと伝えられていた。


壮麗な宮殿も火災には勝てなかった

大内裏の屋根は、鳳凰が天へ飛び立つように美しく、梁は虹が雲の中へそびえるように見えた。

しかし、どれほど壮麗な建物であっても、火災を防ぐことはできなかった。

何度も大火に遭い、今では昔の礎石だけが残っていた。


帝王の徳と宮殿の大きさ

中国古代の聖王である堯や舜は、広大な国の君主だった。

その徳は天地にかなっていたが、住まいの屋根の草を切りそろえず、柱も削らなかったと伝えられる。

つまり、質素な宮殿で暮らしていたということである。

まして日本のような小さな国で、巨大な大内裏を造ることは、君主の徳にふさわしいのだろうか。

徳のない後世の天皇が、自分の安楽のために大宮殿を造ろうとすれば、国の財産や民の力が尽きてしまう。


弘法大師が火災を予告したという伝説

『太平記』は、弘法大師空海が大内裏の火災を予見していたという伝説を紹介する。

空海が宮殿の門や建物の額を書いた時、「大極殿」の「大」の字の中央を切るように書き、「火」という字に見えるようにした。

また「朱雀門」の「朱」の字を、「米」という字に見える形で書いたという。これらは『太平記』が紹介する書道伝説である。

これを見た小野道風は、

「大極殿ではなく、火極殿ではないか」

「朱雀門ではなく、米雀門ではないか」

と批判した。

【史実との区別】空海は774〜835年、小野道風は894〜966年の人物で、生きた時代が重ならない。したがって、2人が直接このようなやり取りをしたという話は歴史的事実ではなく、『太平記』が伝える書道説話として読む必要がある。


小野道風への罰

『太平記』では、弘法大師は未来を見通す聖者だったとされる。

道風が、その深い意味を知らずに批判した罰なのだろうか。

その後、道風が筆を持つと手が震え、文字を正しく書けなくなったという。

しかし道風は草書の名人だったため、手の震えさえも独特の筆の勢いとなった。

そして弘法大師の文字が示したとおり、大極殿から火が出て、朝廷の役所はすべて焼けたと語られる。


清涼殿への落雷

大内裏はまもなく再建された。

しかし後に、北野天神の眷属である火雷気毒神が清涼殿の南西の柱へ落ち、大火が起こったと『太平記』は語る。

ここから物語は、北野天神、すなわち菅原道真の生涯と怨霊の話へ移る。


菅原道真の不思議な誕生

天満天神は、詩歌や文章をつかさどる神であり、学問の祖とされた。

天にあっては日月のように国土を照らし、地上に現れては優れた大臣となり、人々を助ける神である。

『太平記』は、その始まりを次のように語る。

菅原是善の屋敷の南庭に、5、6歳ほどの美しい少年が、1人で花を眺めて立っていた。

是善が、

「あなたは、どこの人ですか。誰の家の子ですか」

と尋ねると、少年は答えた。

「私には父も母もありません。

どうか、あなたを親とさせていただきたいと思っています」

是善は喜び、自ら少年を抱き上げた。

そして実の子のように愛情を注いで育てた。

この少年が、後の菅原道真だったと『太平記』は語る。菅原道真は史実上、承和12年(845年)生まれ、延喜3年(903年)没の人物であり、この「不思議な誕生」は天神信仰に結び付いた説話として読むべきである。


11歳で詠んだ漢詩

道真は、誰かから習う前から学問の道を理解しており、その才能は世に並ぶ者がなかった。

11歳の時、父の是善が頭をなで、

「漢詩を作ることができますか」

と尋ねた。

道真は少しも考え込む様子を見せず、寒い夜の景色を五言絶句にした。

月の光は、晴れた日の雪のように輝き、
梅の花は、夜空の星のように照っている。
美しい月は、金の鏡のように巡り、
庭には玉のような梅の香りが満ちている。

幼いころから、道真の文章と詩の才能は並外れていた。


学問と武芸の才能

道真の漢詩は、唐の盛んな時代の詩人たちにも劣らないといわれた。

文章には漢や魏の古典の美しさがあり、数多くの書物を暗記していた。

貞観12年(870年)3月23日には試験に合格し、官人としての道を進み始めたと本文は語る。

その年、文章博士の都良香の屋敷で人々が弓を射ていた。

都良香は、

「道真は学問ばかりしている人物だから、弓の扱いなど知らないだろう」

と思い、皆の前で失敗させて笑おうとした。


道真、弓でも見事な腕を見せる

都良香は道真へ弓と矢を差し出し、

「春の初めですから、1度射てみてください」

と頼んだ。

道真は辞退せず、射手の列へ加わった。

白い腕を出し、弓を引き絞る姿も、矢を放つ時の音も、その後の弓の扱いも、すべて作法にかなっていた。

5回の勝負で10本の矢を射て、すべて見事に当てたという。

都良香は深く感心し、自ら道真の手を取って酒宴へ招き、多くの贈り物をした。


一度に10首の詩を作る

同じ年、のちの醍醐天皇がまだ皇子であったころ、道真を呼んだと『太平記』は語る。

【年代注】直前の「同じ年」は貞観12年(870年)を指すが、醍醐天皇は885年生まれである。この部分の『太平記』の年代関係は、史実上の生年と一致しない。

そして、

「中国の李白は、一夜に100首の詩を作ったという。

お前にも同じような才能があるだろうか。

一度に10首の詩を作り、見せてほしい」

と命じた。

道真は10の題を与えられ、半時(およそ1時間)ほどの間に10首の詩を作ったと本文は語る。

その中には、

春を見送るために、船や車を動かす必要はない。
ただ残るウグイスと、散る花に別れを告げればよい。
春の光が私の心を知るならば、
今夜は詩人の家に宿るだろう。

という詩もあった。


朝廷で出世する道真

道真には学問の才能だけでなく、仁義を重んじる心もあった。

天皇は、

「この人物がいれば、古代の聖王や、周公・孔子のような政治が実現できる」

と高く評価した。

寛平9年(897年)6月、道真は中納言から大納言へ昇進し、やがて近衛大将となったと本文は語る。

醍醐天皇が即位すると、政治の多くが道真の判断から出るようになった。

摂関家や名門公家の中にも、道真と肩を並べる者はいなかった。

昌泰2年(899年)2月、道真は右大臣となった。


藤原時平の嫉妬

そのころ左大臣であった藤原時平は、名門藤原氏の中でも特に高い身分の人物だった。

『太平記』では、時平は、

「家柄でも身分でも、自分に並ぶ者はいない」

と思っていたと語られる。

ところが官位や恩賞で、菅原道真が自分へ近づき、あるいは上回るようになった。

時平の怒りは収まらなかった。


道真を呪い、讒言する

時平は仲間の公卿たちと相談し、陰陽師を呼んだ。

王城の八方に人形を埋め、冥界の神々へ祈り、道真を呪わせた。

しかし天の道に私情はないため、道真の身には災いが起こらなかった。

そこで時平は、偽りの訴えによって道真を罪へ落とそうとした。

「道真は天下の政治を自分の利益のために行い、民の苦しみを知らない」

「正しくないことを正しいと言い張っている」

と、たびたび天皇へ申し上げた。


讒言を信じた天皇

醍醐天皇は時平の言葉を信じ、

「道真は世を乱し、民を苦しめる逆臣である。

悪をいさめる忠臣ではない」

と思ってしまった。

『太平記』は、讒言の恐ろしさを中国の詩によって語る。

巧みに作られた偽りの言葉は、笛の音のように美しく聞こえる。
それによって、仲のよい夫婦さえ遠ざけられ、
親子さえ獣のように争わされる。

夫婦や親子でさえ引き裂くのが讒言である。

まして天皇と臣下の間であれば、なおさらだった。


道真、太宰府へ流される

昌泰4年(901年)1月25日、菅原道真を大宰権帥へ降格し、九州へ下すことが決まった。

道真は、身に覚えのない左遷を深く悲しんだ。

そして1首の歌に、さまざまな恨みを込め、宇多上皇へ送った。

流れ行く
我は水屑と
なりぬとも
君しがらみと
なりてとどめよ

その意味は、

私が流され、水に浮くごみのような身になったとしても、
上皇よ、どうか川をせき止める柵となり、
私が流されるのを止めてください。

という願いだった。


宇多上皇も道真を救えない

宇多上皇はこの歌を読み、涙で衣を濡らした。

道真の流刑を取り消すよう天皇へ願うため、宮中へ向かった。

しかし醍醐天皇は、最後まで上皇に会わなかった。

宇多上皇は怒りを抱きながら、何もできずに帰った。

道真は太宰府へ流されることになった。


子どもたちも各地へ流される

『太平記』では、道真には23人の子どもがいたとする。

4人の男子は、それぞれ別の国へ流された。

長女1人だけが京都へ残された。

残る18人の子どもたちは泣きながら都を離れ、それぞれ遠い土地へ向かった。

家族が一度に引き離される姿は、たいへん悲しいものだった。


「東風吹かば」の歌

長年住み慣れた紅梅殿を出る時、明け方の月が淡く照っていた。

季節より早く咲いた梅の香りが袖に移ると、

「これが故郷の春の形見になるのだろう」

と思われ、涙が止まらなかった。

道真は、有名な歌を詠んだ。

東風吹かば
匂ひおこせよ
梅の花
主なしとて
春な忘れそ

その意味は、

春の東風が吹いたならば、
太宰府にいる私のもとへ香りを届けてくれ。
梅の花よ、主人がいなくなったからといって、
春を忘れてはならない。

というものだった。


太宰府へ飛んだ梅

人の心を持たないはずの草木まで、主人との別れを悲しんだのだろうか。

『太平記』は、紅梅殿の梅が東風に乗って京都から飛び去り、太宰府の庭に根づいたという「飛梅」の伝説を語る。

これが、今も太宰府天満宮に伝わる飛梅である。


海路を進む道真の悲しみ

かつて道真が讃岐国司として赴任した時には、立派な船に乗り、風流を楽しみながら海を渡った。

しかし今は流人として、粗末な船の屋根の下で海の波に揺られていた。

天皇から以前に賜った衣を敷物とし、西の空の雲を見ながら悲しみに沈んだ。

京都に残した妻や娘との別れも、遠国へ流された子どもたちの苦しみも、心から離れなかった。


父子が5つの場所へ引き離される

道真は旅の悲しみを漢詩にした。

勅使に追い立てられ、私は都を去る。
父と子は同じ時に、5つの場所へ引き離された。
口では悲しみを言い表せず、目からは血の涙が流れる。
ただ天の神と地の神へ、頭を下げるしかない。


太宰府での暮らし

道真は太宰府へ到着し、粗末な家に住まわされた。

都から付き添ってきた役人たちも帰っていった。

太宰府政庁の瓦を見ても、観世音寺の鐘の音を聞いても、悲しみは深くなるばかりだった。

秋が来ても、

「今年の秋は、自分1人だけの悲しい秋だ」

と思われた。

朝も夜も、露に濡れた寝床で故郷を思い、涙の乾く時はなかった。


天へ届けられた訴え

無実の罪で流された恨みは、道真の骨の髄まで染み込んだ。

『太平記』では、道真は7日間、身を清め、1巻の訴状を書いたとする。

高い山へ登り、その訴状を竿の先につけ、天へ差し上げた。

そして7日間、爪先立ちをして祈り続けたという。

『太平記』は、梵天や帝釈天もその無実を哀れんだのだろうか、と物語を続ける。

そして一群の黒雲が天から降り、訴状を取って、はるか空へ運び去ったという。


菅原道真の死

延喜3年(903年)2月25日、菅原道真は太宰府で亡くなった。

現在の安楽寺が墓所となった。

都の春の花は、流れる水とともに去った道真を呼び戻すことができない。

太宰府の夜の月も、無実の罪を覆う雲を晴らすことはできなかった。

身分の高い者も低い者も涙を流し、道真の死を悲しんだ。


道真の霊が尊意僧正の前に現れる

その年の夏の終わり、比叡山の座主を務めた法性坊尊意僧正が、山上の堂で月を眺めていた。

すると持仏堂の戸を、何度もたたく音がした。

戸を開けると、春に太宰府で亡くなったはずの菅原道真が、生前と変わらない姿で立っていた。

尊意僧正は驚きながらも、道真を中へ招いた。


朝廷への復讐を告げる

尊意僧正は言った。

「あなたは2月25日に太宰府で亡くなったと聞き、私は涙を流して、死後の供養をしていました。

それなのに、生前と少しも変わらない姿でおいでになりました。

夢なのか現実なのか、見分けることができません」

道真の霊は涙をぬぐい、答えた。

「私は朝廷の臣下となり、天下を安らかにするため、人間の世界へ生まれてきた。

ところが天皇は、藤原時平の讒言を受け入れ、私を無実の罪へ落とした。

その怒りの炎は、世界を焼く劫火よりも激しい。

肉体は滅びたが、魂は明らかな神として天に残っている。

私は多くの神々の許しを得た。

これから宮中へ近づき、私を苦しめた悪臣や讒言した者たちを、1人ずつ蹴り殺すつもりである」


「天皇に呼ばれても祈るな」

道真の霊は、尊意僧正へ命じた。

「その時、朝廷は比叡山へ命じ、私の怒りを鎮める祈禱を行わせようとするだろう。

たとえ天皇から命令があっても、決して宮中へ行ってはならない」

尊意僧正は答えた。

「あなたと私には、師弟として深い縁があります。

しかし天皇と臣下の上下関係は、さらに重いものです。

1度や2度の命令ならば辞退できるかもしれません。

しかし何度も勅命が下れば、参内しないわけにはいきません」


ザクロが炎となる

道真の霊は、突然怒った表情となった。

供えられていたザクロを取り、口の中でかみ砕き、持仏堂の戸へ吹きつけた。

するとザクロの種が猛火となり、戸へ燃え移った。

尊意僧正は少しも慌てなかった。

燃える火へ水を注ぐ印を結ぶと、猛火はたちまち消えた。

戸は半分ほど焦げただけだった。

この戸は、後の時代まで比叡山に残っていたという。


清涼殿への落雷

『太平記』では、道真の霊が座を立ち、天へ上ったように見えたという。

するとすぐに、宮中の上で激しい雷が鳴り始めた。

空が落ち、大地が裂けるかと思われるほどだった。

天皇も百官も、身を縮め、魂を失うほど恐れた。

『太平記』では、7日7夜、激しい雨と風が続き、世界は闇に包まれたと語る。

洪水が家々を流し、京都や白河では、身分の高い者も低い者も、地獄のような叫び声を上げた。


宮中で多くの人が倒れる

ついに雷が清涼殿へ落ちた。

大納言清貫の衣へ火がつき、転げ回っても消えなかった。

右大弁希世は勇気のある人物だった。

「どれほど恐ろしい雷神であっても、天皇の威光を恐れないはずがあるか」

と、弓へ矢をつがえ、雷へ向けようとした。

しかし体が動かなくなり、逆さまに倒れた。

近衛忠包は髪に火がついて焼け死に、紀蔭連は煙にむせて気を失った。


藤原時平が道真の霊をいさめる

藤原時平は、

「いよいよ自分へ神罰が下る」

と思った。

時平は天皇のそばに立ち、太刀を抜いて言った。

「道真殿は朝廷へ仕えていた時、私への礼を乱すことはなかった。

神となった今も、君臣の上下関係を忘れてよいはずがない。

天皇の位は高く、国を守る神々も、まだ天皇を見捨ててはいない。

しばらく怒りを静め、穏やかに神としての徳をお示しください」

『太平記』作者は、その言葉が道理にかなっていたためだろうか、と語る。

この時、時平はすぐには殺されず、天皇も無事だった。

雷神は天へ上った。

しかし雨と風は、なおもやまなかった。


尊意僧正が宮中へ向かう

このままでは国土が洪水によって流されてしまう。

そこで朝廷は、

「尊意僧正の法力によって、神の怒りを鎮めてもらおう」

と考えた。

尊意僧正は1度、2度の命令には従わなかった。

しかし勅命が3度に及ぶと、断り切れず、比叡山を下りた。


鴨川の水が左右へ分かれる

鴨川は激しく増水し、船がなければ渡れないほどだった。

尊意僧正は牛飼いへ命じた。

「そのまま牛車を川へ入れよ」

牛飼いが命令に従い、あふれる川の中へ車を進めた。

すると洪水が左右へ分かれ、牛車は乾いた陸地を通るように川を渡った。

尊意僧正が宮中へ入ると、雨はやみ、風も静まった。

菅原道真の怒りも、たちまち鎮まったようだった。

尊意僧正は天皇から称賛され、比叡山へ戻った。


時平の耳から現れた青い蛇

その後、藤原時平は病気となり、心身ともに苦しんだ。

浄蔵貴所という修験者が呼ばれ、祈禱を行った。

『太平記』では、すると時平の左右の耳から、小さな青い蛇が頭を出したという。

蛇は言った。

「浄蔵よ。

私は無実の讒言によって罪へ落とされた恨みを晴らすため、この大臣を殺そうとしている。

どれほど祈り、治療しても効果はない。

私こそ菅原道真の変化した神、天満大自在天神である」

浄蔵は、この不思議な言葉に驚き、祈禱を中止した。

時平は、まもなく亡くなった。


時平の子孫にも続く災い

時平の娘である女御や、その子である皇太子も、続いて亡くなった。

次男の保忠も重い病気となった。

僧が『薬師経』を読み、

「宮毘羅大将」

と唱えたところ、保忠には、

「首を切る」

と言われたように聞こえ、すぐに気を失った。

三男の敦忠中納言も早くに亡くなった。

本人だけでなく子孫まで一度に滅びる神罰は、恐ろしいものだった。


冥界から戻った公忠

『太平記』はさらに、醍醐天皇の親族に右大弁公忠という人物がいたとして、冥界往還の説話を続ける。

公忠は病気でもないのに、突然死んだ。

『太平記』では、公忠は3日後に生き返り、大きく息をついて言ったとする。

「天皇へ申し上げることがある。

私を起こし、宮中へ連れていってほしい」

息子たちが両側から支え、公忠を参内させた。


延喜帝を地獄へ落とすという訴え

天皇が、

「何があったのか」

と尋ねた。

公忠は震えながら答えた。

「私は冥界の役所という、恐ろしい場所へ行きました。

そこへ身長1丈余り(約3m余り)の、正しい衣冠を着た人物が現れ、金の軸の申状を差し出しました。

その人物は、

『日本の辺境の国を治める醍醐天皇は、藤原時平の讒言を信じ、罪のない臣下を流刑にした。

この罪は非常に重い。

冥界の記録へ書き、阿鼻地獄へ落とすべきである』

と訴えました。

30人余りの冥官は怒り、

『ただちに処罰しなければならない』

と賛成しました。

しかし二番目の席にいた冥官が、

『天皇が年号を改め、自分の誤りを謝罪したならば、どうするべきだろうか』

と言いました。

冥官たちは考え込みました。

その後、私は生き返ったのです」


年号を「延長」へ改める

醍醐天皇は、この話を聞いて大いに驚いた。

すぐに年号を延喜から延長へ改めた。

菅原道真を流刑とした宣旨を焼き捨て、道真の官位を元の大臣へ戻した。

さらに正二位を贈った。


北野天満宮の創建

天慶9年(946年)、近江国の比良神社の神職に神が乗り移り、

「大内裏の北に社を建てよ」

と告げた。

すると北野の地に、1,000本の松が一夜のうちに生えた。

そこで社殿を建て、菅原道真を天満大自在天神としてまつった。

これが北野天満宮の始まりだと、『太平記』は語る。


大内裏の火災は続く

しかし道真の眷属である多くの神々は、まだ完全には怒りを静めていなかったのだろうか。

『太平記』では、天徳2年(958年)から天元5年(982年)までの間に、朝廷の役所は3度も焼けたと語る。

そこで内裏を再建することになった。


新しい柱に現れた歌

名工の技術を用いて、新しい柱を建てた。

すると柱に、次の歌が虫食いの跡のように現れた。

造るとも
またも焼けなん
菅原や
棟の板間の
合はん限りは

その意味は、

どれほど宮殿を造り直しても、
菅原道真の怒りが収まらない限り、
棟の板が合わさった宮殿は、
また焼けるだろう。

というものだった。


正一位太政大臣を贈る

朝廷は、

「道真の神意は、まだ完全には収まっていない」

と驚いた。

一条天皇は、菅原道真へ正一位太政大臣の官位を贈った。

勅使が太宰府の安楽寺へ下り、詔書を読み上げた。

すると天から声が聞こえ、漢詩が響いた。

昨日は都で悲しみに沈む臣下だった。
今は西の都で、恥をすすぐ神となった。
生きていた時の恨みも、死後に受けた喜びも、私には何ほどのことだろう。
今は望みも満ち、天皇の国を守ろう。

その後、道真の怒りは静まり、国土も平穏になったという。


学問の神として信仰される

菅原道真の本来の姿は、大慈大悲の観世音菩薩であるとされた。

その慈悲は大海のように深く、人々を救う船は、誰も岸へ届かないまま残すことがない。

この世に姿を現した時には、天満大自在天神となり、人々の願いを日々新たにかなえる。

1度でも縁を結んだ者は、心のままに願いを成就できると信じられた。

そのため天皇から庶民まで、天満天神を敬わない者はいなかった。

まさに比類のない霊験を持つ神社だった。


再建された内裏も再び焼ける

治暦4年(1068年)8月14日、内裏再建の儀式が始まり、後三条天皇の時代、延久4年(1072年)4月15日に新しい内裏へ天皇が移ったと本文は語る。

文人は詩を奉り、楽人は音楽を奏でた。

たいへんめでたい出来事だった。

しかし、それから長くたたない安元2年(1176年)、日吉山王の怒りによって大内裏の役所が焼けたと、『太平記』は宗教的な因果の形で語る。

その後は国力が衰え、歴代の天皇も、大内裏を再建できなかった。


戦乱直後に大宮殿を造る危険

それにもかかわらず、後醍醐天皇の朝廷は、戦乱が終わったばかりで世の中がまだ安定していない時に、大内裏を造ろうとした。

戦争に使った馬を山へ返し、牛を野へ放って平和を示すことも、まだできていない。

国の財政は苦しく、民も疲れていた。

そのような中で、これまで日本では行われたことのない新しい税を、全国の地頭や御家人の所領へ課そうとした。

知恵のある臣下の中には、

「これは神の御心にも背く」

「天皇がおごり始めた兆しになるのではないか」

と、眉をひそめる者が多かったのである。


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94. 天下安鎮の祈禱――諸将への恩賞


各地で起こる旧幕府方の反乱

元弘3年(1333年)の春、九州では、北条氏につながる武士である規矩掃部助高政と糸田左近大夫将監貞義が兵を挙げたと『太平記』は記す。

2人は鎌倉幕府の滅亡後も生き残った旧幕府方の者たちを集め、各地の反朝廷勢力を味方につけて、九州を乱そうとしていた。

また河内国では、賊徒たちが佐々目憲法僧正という僧を大将に立て、飯盛山に城を築いた。

さらに伊予国には、赤橋駿河守の子である駿河太郎重時がおり、立烏帽子峯に城を構え、周辺の荘園を奪い取っていた。


武力と仏法の力によって反乱を鎮める

朝廷では、

「これらの反乱軍は、武力だけでなく仏法の力も加えて退治しなければ、天下はすぐには平穏にならないだろう」

と考えた。

そこで紫宸殿に特別な祈禱の壇を設け、竹内慈厳僧正を招き、国家と天下を安定させるための安鎮国家法を行わせた。


紫宸殿を武士が警護する

この祈禱を行う時には、鎧と兜を身につけた武士が、宮中の4つの門を守った。

朝廷の役人や近衛兵も、紫宸殿の階段の下へ陣を張った。

楽人が音楽を奏で始めると、武士たちは南庭の左右へ並び、剣を抜いて四方の災いを鎮める儀式を行うことになっていた。

4つの門を守る役には、

  • 結城七郎左衛門親光
  • 楠木正成(本文「楠河内守正成」)
  • 塩冶判官高貞
  • 名和伯耆守長年

が選ばれた。

南庭では、右側を三浦介、左側を千葉大介貞胤が守ることになった。


三浦氏と千葉氏が席次を争う

三浦介と千葉貞胤は、あらかじめ、

「その役目を務めます」

と承知していた。

しかし儀式の当日になると、千葉氏は、

「三浦氏と対等の役を務めるのは不満だ」

と考えた。

一方、三浦氏も、

「千葉氏より下位にあたる右側へ立つことはできない」

と怒った。

結局、2人とも出仕しなかった。

『太平記』は、この不参を「魔障」のように捉え、国家を鎮める法会が十分に整わなかったと評している。

さらに作者は、これを後の動乱を予告する前兆のように描いている。


各地の反乱が鎮圧される

その一方で『太平記』は、祈禱の霊験が現れたかのように、その後の反乱鎮圧を続けて語る。

河内国の飯盛山城は、楠木正成によって攻め落とされた。

伊予国の立烏帽子城は、土居氏と得能氏によって破られた。

九州の規矩・糸田らも、少弐氏と大友氏に敗れた。

朝廷へ逆らった者たちの首は京都へ送られ、大路を引き回された後、獄門にさらされた。


全国の武士が京都へ集まる

東国と西国が一応平定されると、九州から、

  • 少弐氏
  • 大友氏
  • 菊池氏
  • 松浦氏

らが、大船700艘余りに乗って京都へ向かったと本文は記す。

新田義貞(左馬助)と弟・脇屋義助(本文「兵庫助義助」)も、7,000騎余りを率いて上洛したと本文は記す。

そのほか、諸国の武士たちも1人残らずというほど京都へ集まった。

京都や白河は人と軍勢で満ち、都のにぎわいと豊かさは、以前の百倍にもなったように見えた。


まず大功を立てた者へ恩賞を与える

すべての軍勢への恩賞を決めるには時間がかかる。

そこで朝廷は、

「全員への恩賞はしばらく遅れるとしても、まず特に大きな功績を立てた者へ褒美を与えよう」

と決めた。


足利高氏への恩賞

足利高氏(のちの尊氏)には、

  • 武蔵国
  • 常陸国
  • 下総国

の3か国が与えられた。

弟の足利直義には、遠江国が与えられたと『太平記』は記す。


新田一族への恩賞

新田義貞には、

  • 上野国
  • 播磨国

の2か国が与えられた。

義貞の子・新田義顕には越後国、弟の脇屋義助には駿河国が与えられたと本文は記す。


楠木正成と名和長年への恩賞

楠木正成には、摂津国と河内国が与えられたと本文は記す。

名和長年には、因幡国と伯耆国が与えられたと本文は記す。

そのほか、公家や武家の有力者の中にも、2か国、3か国を与えられる者がいた。


赤松円心に与えられたわずかな恩賞

ところが、六波羅探題攻略などで大きな功績を立てた赤松則村(円心)には、佐用荘1か所ほどしか与えられなかったと『太平記』は記す。

1度は認められた播磨国の守護職も、間もなく取り上げられた。

『太平記』作者は、後に赤松円心が朝廷方を離れることを、この時の恩賞への不満と結び付けて説明している。


多くの土地が公家へ与えられる

そのほか、50余か国の守護職・国司職や、旧幕府方から取り上げた大きな荘園は、ほとんど公家に仕える者たちが受け取ったと『太平記』は批判的に描く。

彼らは、中国の大富豪・陶朱公のような富を手にし、鄭や白の豊かな土地の人々のように、衣食に満ち足りた生活を送ったのである。


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95. 千種忠顕と文観僧正のぜいたく――解脱上人と魔王の説話


千種忠顕の家柄

千種忠顕(本文「千種頭中将忠顕」)は、故六条内大臣有房の孫だった。

そのため本来ならば、一族の家業である学問や文章の道を大切にするべき人物だった。

しかし忠顕は若いころから、自分の家の伝統とは異なる、

  • 笠懸
  • 犬追物
  • 博打
  • 女性との遊び

などを好んだ。

父の有忠卿は、その振る舞いを親不孝だと考え、親子の縁を切っていたという。


後醍醐天皇への忠義によって出世する

それでも忠顕には、一時の大きな栄華を得る前世からの因縁があったのだろうか。

後醍醐天皇が隠岐へ流された時、忠顕は天皇に付き従った。

その後、六波羅探題を攻める軍の大将として戦った。

この忠義と功績によって、忠顕は大国3か国と、旧幕府方から没収された土地数十か所を与えられた。

朝廷から受けた恩賞は身に余るほど大きく、そのぜいたくな生活は、人々を驚かせた。


毎日開かれる大宴会

忠顕は、大きな恩を与えていた家臣たちへ、毎日のように酒宴を開いた。

屋敷の広間には、諸大夫や侍が袖を並べ、その数は300人を超えた。

酒、肉、珍しい料理にかかる費用は、1回の宴会だけでも1万銭(当時の貨幣単位)では足りないほどだった。


50〜60頭の肥えた馬

忠顕は数十棟もの厩を建てた。

そこには肉が余るほどよく肥えた馬を、50〜60頭も並べていたと本文は記す。

宴会が終わっても気分が盛り上がっている時には、数百騎の家臣を従え、京都の内野や北山へ出かけた。

そして犬追物や小鷹を使った狩りをして、1日を過ごした。


身分を超えた華美な服装

忠顕は、ヒョウやトラの皮で行縢を作った。

金襴や絞り染めの美しい布を使って、直垂を仕立てた。

本来、身分の低い者が高貴な者の服装をまねることを、僭上という。

中国の孔安国は、

「僭上は礼を失った行為であり、国を乱す大きな悪である」

と戒めている。

『太平記』作者は、忠顕がその教えを恥じなかったことを「嘆かわしい」と批判している。


文観僧正の不可解な振る舞い

忠顕は、まだ俗人である。

そのぜいたくは、ある程度ならば語るまでもないことかもしれない。

続いて『太平記』作者は、文観僧正の振る舞いをさらに厳しく批判する。

文観は1度、名誉や利益を求める俗世間を離れ、密教の修行の道場へ入った人物である。

ところが利益や名声ばかりを求め、心を落ち着けて仏を観想する修行や、静かに座禅する勤めを忘れているように見えた。


財宝と武器を集める僧

文観は特に目的もないのに、多くの財宝を倉へ積み上げた。

しかし貧しい人々を助けようとはしなかった。

さらに周囲には武器を備え、武士たちを集めて勢力を強めた。

文観へこび、親しくなった者には、戦功がなくても恩賞を与えるよう朝廷へ働きかけた。

そのため、

「文観僧正の一味である」

と名乗り、徒党を組んで威張る者が、京都に500〜600人もあふれた。


数百騎を従えて参内する

文観は、すぐ近くの宮中へ参内する時でさえ、輿の前後を数百騎の武士に囲ませた。

一行は道路を占領し、周囲を気にせず進んだ。

そのため僧衣は馬のひづめが巻き上げる土ぼこりに汚れた。

僧として守るべき戒律や礼儀は、人々の非難の中へ落ちていった。


世を避けた慧遠と大梅和尚

中国の廬山にいた慧遠法師は、1度俗世間を離れ、静かな庵へ入ると、

「もうこの山を出ない」

と誓った。

18人の賢者と仲間になり、毎日6回、仏をたたえる修行を行った。

また大梅常和尚は、世間の人々に自分の居場所を知られたくないと考えた。

人に知られると、さらに深い山へ庵を移し、山中の生活を心から楽しんだ。


本当の修行者の姿

心ある修行者は、昔も今も、自分の光を隠し、世間から姿を消してきた。

夕暮れの山に浮かぶ雲を友とし、池に咲く蓮を衣のように眺め、心を清める修行に生涯を費やした。

それなのに文観は、名誉と利益の縄に縛られていた。

『太平記』作者は、これは普通のことではなく、魔物が文観の心へ入り込んだのではないか、と宗教的な因果で説明する。


解脱上人の誕生

その理由を示すため、『太平記』は、文治年間(1185〜1190年)に京都にいた解脱上人の話を紹介する。

『太平記』は、解脱上人の母が7歳のころ、夢の中で鈴をのみ込んだと見たことを、この上人の誕生に結び付けて語る。

普通の人ではないと考えられ、3歳の時から仏門へ入れられた。

後には、たいへん尊い僧となった。


貧しさを苦にしない修行者

解脱上人は慈悲の心が深かった。

僧衣が破れても悲しまず、食事の鉢が空でも不満を持たなかった。

修行を怠ることもなかった。

本当の隠者は、必ずしも町や朝廷を離れなければならないわけではない。

上人は汚れた世の中で人々と交わりながらも、心には欲・怒り・愚かさという3つの毒を入れなかった。

縁に従って日々を過ごし、山や川を歩いて人々を救った。


伊勢神宮への参詣

ある時、解脱上人は伊勢神宮へ参詣した。

内宮と外宮を巡り、自ら読経して神々へ法の供養を行った。

伊勢神宮の社殿は、ほかの神社とは形が異なっていた。

屋根の千木は曲げられず、木材も十分に削られていない。

その簡素な姿は、

「正直を守り、余計な手段を捨てる」

という教えを表しているように見えた。

古い松の枝が垂れ、老木が葉を広げる姿も、神が人々を救おうとしている様子のようだった。


仏教を避ける神にも深い理由がある

表面上、伊勢神宮では仏・法・僧の名を避けているように見える。

しかし神の深い心を考えれば、それも世の人々と縁を結び、救うための方法なのだろう。

解脱上人は、理由もなく感動の涙を流した。

日が暮れても民家へ泊まろうとは思わず、外宮の前で夜を明かし、念仏を唱えた。

神路山を吹く松風に眠気を覚まし、御裳濯川の月を見て心を清めていた。


夜空に現れた魔物の宮殿

突然、空が曇り、激しい雨風が吹き始めた。

雲の上から車を走らせ、馬を駆ける音が、東西から近づいてきた。

上人は、

「何という恐ろしいことだ。いったい何者なのか」

と驚いて見た。

すると空中に、玉や金で飾られた宮殿や楼閣が現れた。

庭には幕が引かれ、門前にも幔幕が張られた。

十方から車や馬に乗った者が集まり、その数は2,000〜3,000人にも見えた。


異様な姿の大将

中央の上座には、ひときわ巨大な者が座っていた。

身長は20〜30丈(単純換算で約60〜90m)もあるように見え、頭には夜叉のような12の顔が並んでいた。これは『太平記』が描く夢中の超自然的な巨人像である。

腕は42本あり、左右へ広がっていた。

ある手には太陽や月を握り、ある手には剣や槍を持っていた。

8匹の竜に乗っていた。

従う者たちも普通の人間ではなかった。

8本の腕と6本の足を持ち、鉄の盾を抱える者がいた。

3つの顔と1つの体を持ち、金色の鎧を着た者もいた。


阿修羅の大将の悩み

皆が席につくと、上座の大将が左右の者たちへ言った。

「近ごろ我々は、帝釈天の軍に勝った。

太陽と月を手に握り、須弥山の頂に座り、一歩で大海を踏むほどの勢いを得た。

それなのに、我々の仲間が毎日数万人ずつ滅びている。

理由を調べたところ、人間世界の日本国、京都の辺りに、解脱房という聖人が現れたからだと分かった。

この者が人々を仏道へ導いているため、仏法の力が盛んとなり、帝釈天が力を得た。

反対に魔物の力は弱まり、阿修羅の軍勢は勢いを失っている。

解脱房が今のままでいる限り、帝釈天との戦いには勝てない。

何とかして、解脱房の清らかな信仰心を失わせ、おごりと怠けの心を持たせなければならない」


第六天の魔王の計画

すると兜の正面に、

「第六天魔王」

と金文字で書かれた者が前へ進み出た。

そして言った。

「解脱房の信仰心を失わせることは、難しくありません。

まず後鳥羽上皇の心へ、

『武家を滅ぼしたい』

という思いを入れます。

上皇が六波羅を攻めれば、北条義時は必ず関東の軍勢を率い、朝廷軍と戦います。

我々が義時へ力を貸せば、朝廷軍は敗れ、後鳥羽上皇は遠国へ流されるでしょう。

義時が天下の政治を行うようになれば、必ず広瀬院の第二皇子を天皇へ即位させるはずです。

その皇子は解脱房を深く信仰しています。

そこで解脱房を宮中の僧として呼び、天皇の近くへ仕えさせるのです。

出仕の儀式や世間の交際に追われれば、日々の修行は怠け、おごりは次第に増していきます。

やがて戒律を破り、恥を知らない僧となるでしょう。

そうなれば我々も、再び多くの仲間を増やすことができます」

並んでいた魔物たちは、

「まことに、その計画がよい」

と賛成し、それぞれ東西へ飛び去った。


魔物の計画を聞いた解脱上人

解脱上人は、すべてを聞いていた。

しかし恐れるのではなく、

「これは神が私に、信仰心をさらに強くするよう勧めてくださったのだ」

と考え、喜びの涙を流した。

上人は、そのまま京都へは戻らなかった。

山城国の笠置という深い山へ入り、岩屋を住まいとした。

落ち葉を集めて衣とし、木の実を拾って食事とした。

この汚れた世を離れたいという思いを深め、極楽浄土へ往生したいという修行に専念した。


承久の乱と魔王の予言

それから3、4年が過ぎると、承久の乱が起こったと本文は語る。

北条義時が天下の権力を握り、後鳥羽上皇は遠国へ流された。

そして魔王が語ったように、広瀬院の皇子が天皇となった。

新しい天皇は、笠置の岩屋にいる解脱上人のことを聞き、宮中の僧として迎えようとした。

何度も使者を送り、上人を呼んだ。


宮中からの誘いを拒む

解脱上人は、

「これは、あの第六天魔王たちが語っていた計画そのものだ」

と気づいた。

そのため天皇の命令にも従わず、ますます修行を深めた。

上人は知恵・修行・徳を備え、後には寺の開山となった。

その教えは、後の時代まで仏法を広める力となったのである。


解脱上人と対照的な文観

解脱上人の行いを考えると、文観僧正の振る舞いは、何とも嘆かわしいものだった。

愚かな者の目にも、両者の違いは明らかだった。

やがて建武の乱が起こると、文観の教えを正しく受け継ぐ弟子は1人もいなかった。

『太平記』は、後の建武の乱を文観への因果応報のように結び付け、最後は孤独で貧しい身となり、吉野付近をさまよった末に亡くなったと語っている。


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96. 隠岐広有、紫宸殿の怪鳥を射落とす


年号を「建武」へ改める

『太平記』本文では、元弘3年(1333年)7月に年号が建武へ改められたとする。

【年代注】現存史料『関城書裏書』では、建武への改元は翌建武元年(1334年)1月29日と記される。ここでは『太平記』の物語上の日付を残し、史料上の年代との違いを明示する。

これは中国の後漢を開いた光武帝が、王莽によって乱れた天下を治め、漢王朝を復興した時の年号にならったものだという。

後醍醐天皇も、鎌倉幕府を倒して天皇中心の政治を復活させたため、その前例に重ねたのである。


天下に疫病が広がる

この年、天下には疫病が流行した。

病によって亡くなる者が非常に多かった。

さらに『太平記』は、その年の秋ごろから紫宸殿の上空へ不思議な鳥が現れるようになった、と怪異譚を語る。

怪鳥は、

「いつまで、いつまで」

と繰り返し鳴いた。

その声は雲に響き、眠っている者さえ驚かせた。

聞いた者は皆、

「これは不吉な出来事に違いない」

と恐れた。


怪異を弓の名手に鎮めさせる

公卿たちは相談した。

「昔、中国の尭帝の時代には、空へ9つの太陽が現れた。

羿という弓の名人が命令を受け、そのうち8つを射落としたという。

日本でも、堀河天皇の時代に怪物が天皇を苦しめた時、源義家が宮中の入口で弓の弦を3度鳴らし、怪異を鎮めた。

また近衛天皇の時代には、鵺という怪鳥が雲の中を飛んで鳴いた。

源頼政が天皇の命令を受け、これを射落とした例がある。

今回も源氏の中から、射ることのできる者を選んではどうか」


名乗り出る者がいない

朝廷は源氏の武士たちへ、

「この怪鳥を射ることのできる者はいないか」

と尋ねた。

しかし誰も、

「自分が引き受けます」

とは申し出なかった。

射損なえば、生涯にわたる恥となると考えたのだろう。


隠岐次郎左衛門広有が選ばれる

そこで朝廷は、

「上北面や公家の屋敷に仕える武士の中に、ふさわしい者はいないか」

と尋ねた。

すると、

「二条関白左大臣殿に仕えている、隠岐広有(隠岐次郎左衛門広有)という者が、この役目にふさわしいでしょう」

という意見が出た。

後醍醐天皇は、

「すぐに呼べ」

と命じ、広有を召し出した。


広有、ためらわず引き受ける

広有は天皇の命令を受け、鈴の間付近に控えた。

そして考えた。

「もしこの鳥が、蚊のまつ毛に巣を作るといわれる虫のように小さければ、矢を当てることはできない。

また空の果てを飛んでいるならば、矢も届かないだろう。

しかし目に見える大きさで、矢が届く場所にいる鳥ならば、何があっても射損なうことはない」

広有は言い訳もせず、かしこまって命令を引き受けた。

家来に持たせていた弓と矢を取り寄せた。


月夜の紫宸殿

広有は建物のひさしの陰へ隠れ、怪鳥の様子をうかがった。

8月17日の夜の月は、特に明るく輝いていた。

空は一面に澄み渡っていた。

しかし大内山の上だけには、一群の黒い雲がかかっていた。

その中から、怪鳥が繰り返し鳴いていた。


口から炎を吐く怪鳥

怪鳥が鳴くと、口から炎を吐いているかのように、声の中から稲妻のような光が走った。

その光は宮中の御簾の内側まで差し込んだ。

広有は、怪鳥がいる場所を慎重に見定めた。

弓を張り、弦を強く鳴らし、鏑矢をつがえて立ち向かった。

後醍醐天皇も紫宸殿へ出て、その様子を見ていた。


文武百官が見守る

関白、左右の近衛大将、大納言・中納言、公卿、弁官、各役所の次官、公家に仕える武士などが、殿上と庭へ並んだ。

文官と武官のすべてが、

「いったい、どうなるのだろう」

と息をのみ、手を握って見守った。


広有が矢じりを取り外す

広有は弓を引こうとした。

しかし何か考えるところがあったらしく、鏑矢につけていた、先が2つに分かれた狩俣の矢じりを抜き取り、地面へ捨てた。

それから「2人張」と呼ばれる、2人がかりで張るほどの強い弓を、本文に「十二束二伏」とあるところまで引き絞った。「十二束二伏」は中世弓術の尺度表現なので、無理にメートル換算しない。

しかし、すぐには放たなかった。

怪鳥が鳴く瞬間を待った。


鳴き声を頼りに矢を放つ

怪鳥は、いつもより低い場所まで飛び下りた。

紫宸殿の上、20丈ほど(約60m)の高さで鳴いたと本文は記す。

広有はその声を正確に聞き分けた。

弦を高く鳴らし、矢を一気に放った。

鏑矢は紫宸殿の上空で大きな音を響かせた。

そして雲の中で、確かな手応えがあった。


巨大な物が宮中へ落ちる

何か分からない巨大な物が、大きな岩のような音を立てて落ちてきた。

それは仁寿殿の屋根の上を2度ほど跳ね、竹台の前へ落ちた。

殿上と庭にいた人々は一斉に叫んだ。

「射たぞ!」

「見事に射落とした!」

感嘆の声は半時(およそ1時間)ほども続き、なかなか静まらなかったと本文は誇張を交えて描く。


人の頭と蛇の体を持つ怪鳥

衛士に松明を高く掲げさせ、落ちた怪鳥を調べた。

頭は人間のようだった。

しかし体は蛇の形をしていた。

くちばしは前へ曲がり、のこぎりのような歯が交互に生えていた。

両足には長く鋭い爪があり、剣のように切れそうだった。

翼を広げて測ると、1丈6尺(約4.8m)ほどもあったと『太平記』は記す。


なぜ矢じりを外したのか

後醍醐天皇は広有へ尋ねた。

「怪鳥を射る直前、狩俣の矢じりを外して捨てたのは、なぜなのか」

広有は、かしこまって答えた。

「怪鳥は御殿の真上で鳴いておりました。

矢じりをつけたまま射れば、怪鳥を貫いた後、矢が宮殿の屋根へ突き刺さって立つかもしれません。

それは宮中にとって不吉であり、慎むべきことだと考えました。

そのため、狩俣の矢じりを外したのでございます」


広有への恩賞

後醍醐天皇は、広有の弓の腕だけでなく、宮殿への配慮にも深く感心した。

『太平記』では、その夜のうちに広有を5位へ昇進させたとする。

さらに翌日、因幡国の大きな荘園2か所を与えたとする。

弓矢を取る武士にとって、これ以上ないほどの名誉だった。

その名は、後の世まで語り伝えられることになったのである。


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97. 神泉苑の再興――弘法大師と善女龍王の霊験譚


戦乱後も続く不吉な異変

大きな戦乱は終わったものの、世の中にはなお妖しい気配が残り、さまざまな災いの前触れが現れていた。

朝廷では、

「こうした災いを消し去るには、真言密教の霊験に頼るのが最もよい」

と考えた。

そこで荒廃していた神泉苑を、急いで修理することになった。以下に続く空海・守敏の法力比べや善女龍王の話は、『太平記』が伝える霊験譚として読む必要がある。


神泉苑の由来

『太平記』は、神泉苑を、中国の周の文王が築いた霊囿にならって造られた8町四方(1辺約870m)の庭園だったと説明する。

【史実との区別】京都市の解説では、平安京造営当初の神泉苑は東西2町(約250m)、南北4町(約500m)、総面積約13万㎡であったとされる。『太平記』の「方8町」は、実際の規模とは一致しない。

後に桓武天皇の時代、朱雀門の東西に2つの寺が建てられた。

左側、すなわち東側の寺を東寺と呼び、右側、西側の寺を西寺と呼んだ。

東寺では弘法大師空海が、胎蔵界の仏・菩薩700尊余りを安置し、天皇の位と国家を守る祈りを行った。

西寺では、南都出身の守敏僧都が金剛界の仏・菩薩500尊余りをまつり、天皇の長寿を祈った。


弘法大師が唐へ渡る

延暦23年(804年)の春ごろ、空海(弘法大師)は仏法を学ぶため唐へ渡ったと『太平記』は語る。

空海が日本を離れている間、守敏僧都は1人で天皇の近くへ仕え、朝夕の祈禱を行っていた。


冷たい水を湯に変える

ある時、天皇が手を洗うための水を持ってこさせた。

ところが水は氷のように冷たく、あまりにも冷え切っていたため、

「少し待とう」

と手をつけずに置いた。

『太平記』の霊験譚では、守敏僧都は水へ向かい、火の印を結んで祈った。

すると氷のようだった水は、たちまち沸騰する湯のように熱くなったという。

天皇は、この不思議な力に驚いた。


火鉢の炎も消してみせる

天皇は守敏の力をさらに試そうとした。

火鉢に炭をたくさん入れて燃やし、周囲へ障子を立て、熱気が逃げないようにした。

真冬であるにもかかわらず、部屋の中は春3月のように暖かくなった。

天皇は顔の汗をぬぐいながら、

「この火を消してほしい」

と命じた。

守敏が火へ向かい、水の印を結ぶと、炉の炎はたちまち消え、冷たい灰だけになった。

今度は寒さが肌へ突き刺さり、全身に冷水を浴びたようになった。


天皇から深く信頼される守敏

それ以後も守敏は、神通力を得たかのように、多くの不思議な力を見せた。

そのため天皇は、守敏を並々ならぬほど深く信頼し、敬うようになった。


帰国した弘法大師

そのころ、空海が唐から帰国し、宮中へ参内したと『太平記』は語る。

天皇は唐の様子をさまざまに尋ねた後、空海が留守の間に守敏僧都が見せた、数々の奇跡について語った。

空海はそれを聞いて言った。

「優れた者が現れれば、偽りの力は姿を消すものです。

空海がいる場所で、守敏が同じような奇跡を示すことは、おそらくできないでしょう」


2人の力を比べる

天皇は、

「それならば2人に力を示させ、どちらの徳が優れているか見てみよう」

と考えた。

ある日、空海が参内した時、天皇は空海を障子の向こうへひそかに隠した。

そのうえで守敏僧都を呼び、御前へ控えさせた。


守敏の法力が通じない

天皇は薬を飲もうとして、茶碗を置き、

「この水はあまりにも冷たい。

いつものように祈り、温めてくれないか」

と守敏へ命じた。

守敏は、

「承知しました」

と答え、水へ向かって火の印を結んだ。

しかし水は少しも温かくならなかった。

天皇は、

「これは、いったいどうしたことか」

と言い、周囲の女官へ目で合図した。

女官は、あらかじめ激しく沸かしておいた熱湯を持ってきた。


熱湯も冷ませない

天皇は、その熱湯を飲もうとしたが、また茶碗を置いた。

「今度は熱すぎて、手に持つこともできない。

これを冷ましてほしい」

守敏は先ほどの失敗にも懲りず、熱湯へ向かって水の印を結んだ。

しかし湯は少しも冷めず、茶碗の中でなお沸き立っていた。

守敏は2度続けて力を示せず、顔色を失った。


空海が姿を現す

その時、弘法大師が障子の内側から姿を現した。

そして笑いながら言った。

「どうした、守敏。

空海がここにいるとは、気づかなかったのか。

星の光は朝日に消え、ホタルの光は明け方の月に隠れるものだ」

空海の力によって、守敏の術は封じられていたのである。

守敏は大いに恥じた。

心の中に深い怒りを抱きながら、宮中を退出した。


守敏が天下へ大干ばつを起こす

守敏は、天皇と空海への恨みを骨の髄まで抱いた。

そして、

「天下に大干ばつを起こし、全国の人間を飢えと渇きに苦しませてやろう」

と考えた。

ここからは『太平記』の宗教的な霊験譚である。本文では、守敏が呪術を使い、世界中の竜神を捕らえたと語る。

そして小さな水瓶の中へ閉じ込めたという。


三か月間、雨が降らない

そのため夏の初めから3か月間、雨が一滴も降らなくなったと本文は語る。

農民は田畑を耕すことができなかった。

『太平記』作者は、この干ばつを守敏1人の恨みから生じたものとして説明している。


弘法大師に雨乞いを命じる

天皇は、天災によって民が苦しんでいることを深く心配した。

そこで弘法大師空海を呼び、雨を降らせる祈禱を行うよう命じた。

空海は命令を受けると、まず7日間、深い禅定へ入った。

そして世界全体を見渡した。


ただ1人残っていた善女龍王

日本の内海や外海を守る竜神は、すべて守敏の呪術によって水瓶の中へ閉じ込められていた。

そのため、雨を降らせることのできる竜神は1人も残っていなかった。

ただし、北インドの大雪山の北にある無熱池には、善女龍王がいた。

善女龍王は、守敏よりもはるかに位の高い菩薩だった。

そのため守敏も、この竜王だけは捕らえることができなかった。


宮中の前に池を掘る

空海は禅定から出ると、このことを天皇へ報告した。

『太平記』では、朝廷が大内裏の前に池を設けて清らかな水を満たし、善女龍王を迎える祈禱を行ったと語る。この池を神泉苑の霊池と結び付けている。

【伝承との区別】京都市は、空海と守敏が神泉苑で雨乞いの法力を競ったという伝説を天長元年(824年)のこととして紹介している。一方、記録上、神泉苑で最初に確認できる雨乞いは貞観17年(875年)の真雅によるものとされる。


金色の竜が池へ現れる

善女龍王は、長さ8寸(約24cm)ほどの金色の竜の姿となったと本文は語る。

そして長さ9尺(約2.7m)ほどの大蛇の頭に乗り、神泉苑の池へ現れたという。

この出来事は、すぐに天皇へ報告された。

朝廷の人々は、特に深く驚き、敬った。


3日間降り続く雨

天皇は和気真綱を勅使として派遣した。

御幣やさまざまな供え物を用意し、善女龍王をまつらせた。

すると湿った雲が静かに湧き起こり、国中へ雨が降り始めた。

『太平記』では、雨は3日間、やむことなく降り続けたと語る。

長く続いた干ばつの苦しみは、完全に消えた。

これ以後、朝廷が真言密教を敬うことは、さらに盛んになった。


守敏が空海を呪い殺そうとする

しかし守敏の怒りは収まらなかった。

「それならば弘法大師を呪い殺してやろう」

と考え、西寺へこもった。

三角形の壇を設け、本尊を北向きに置き、軍荼利夜叉の法を行った。


空海も東寺で祈禱する

空海は、このことを聞いた。

そこで東寺にも壇を設け、大威徳明王の法を修した。

空海も守敏も、長年修行を積んだ高僧だった。

2人の本尊から放たれる鏑矢は、空中で激しくぶつかり合い、中央へ落ちた。

矢の音が、少しもやむことなく続いたという。


空海が死んだと偽る

空海は、

「守敏を油断させよう」

と考えた。

そこで突然、

「弘法大師が亡くなった」

という知らせを世間へ広めた。

僧侶も俗人も悲しみ、身分の高い者も低い者も、声を上げて嘆いた。


守敏の最期

守敏は空海の死を聞き、

「自分の法力が成功した」

と喜んだ。

そして呪いの壇を壊した。

その瞬間、守敏は突然目の前が暗くなり、鼻から血を流した。

心も体も乱れ、仏壇の前へ倒れた。

そして、そのまま亡くなった。

経典には、

他人へ向けた呪いや毒は、最後には使った本人へ戻る。

と説かれている。

その言葉の正しさが現れた、何とも不思議な出来事だった。


東寺の繁栄と西寺の衰退

この出来事の後、東寺は大いに栄えた。

一方、西寺は衰え、やがて滅びていった。


茅で作った竜

空海は雨乞いの祈禱を行う時、茅という草を結び、竜の形を作って壇の上へ立てた。

祈禱が完成し、招いた仏や神々を元の世界へ送る時、空海は本物の善女龍王だけを神泉苑へ残した。

そして言った。

「弥勒菩薩がこの世へ現れ、3度の説法を行う日まで、この国を守り、私の教えを助けてください」

この約束によって、善女龍王は後の時代まで神泉苑の池に住んだと伝えられる。


茅の竜が飛び去ったという伝説

茅で作られた竜は本物の大竜となり、無熱池へ飛び帰ったともいわれる。

また仏や神々とともに空へ上り、東へ飛び去って、尾張国の熱田神宮にとどまったとも伝えられている。

これは仏法が東へ広がる前兆であり、東海地方を守る不思議なしるしだったのだろうか。


竜王が去れば国は衰える

空海は、次のようにも語ったという。

「もし善女龍王が別の世界へ移れば、神泉苑の池は浅くなり、水も少なくなる。

そして国は荒れ、人々の暮らしは貧しくなるだろう。

その時には、私の教えを受け継ぐ者たちが祈りを行い、竜王を再び招いて国を助けなければならない」


浅くなった神泉苑の池

『太平記』が書かれたころ、神泉苑の水は浅くなり、池も干上がりかけていた。

善女龍王は、すでに別の世界へ移ってしまったのだろうか。

しかし雨乞いの祈禱を行うたび、明らかな霊験が現れることは、なお絶えていなかった。

そのため竜王は、まだ完全には国を見捨てていないようにも思われた。

神泉苑は風雨を整え、人々の願いに応える、霊験のある池だった。


荒廃していく神泉苑

歴代の天皇は神泉苑を敬い、名高い家々の賢臣たちも大切にしてきた。

干ばつが起きた時には、まず池を清めてから祈禱を行った。

『太平記』では、後鳥羽上皇の退位後、建保年間(1213〜1219年)ごろから神泉苑が荒れ始めたと語る。

草やいばらが道をふさぎ、イノシシやシカが入り込んだ。

蛇まで放され、弓矢を射る音が守護神を驚かし、走る馬のひづめの音が神々の心を騒がせた。

心ある人で、これを恐れ、嘆かない者はいなかった。


承久の乱後の修理

承久の乱の後、故武州禅門は神泉苑の荒廃を悲しんだ。

高い築地塀と堅い門を造り、汚れたものが入り込まないようにした。

しかし長い年月が過ぎると、門や塀も次第に壊れていった。


再び汚される霊池

身を清めていない男女が自由に出入りし、これを止める者もいない。

牛や馬も水や草を求め、ためらうことなく池の周囲を行き来した。

善女龍王が不快に思わないはずはない。

『太平記』は、

「1日も早く修理し、神泉苑を敬うべきである。

この場所を大切にすることが、国を正しく治めることにつながる」

と結んでいる。


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98. 護良親王の失脚と鎌倉送致――驪姫の讒言


僧の姿へ戻らなかった護良親王

護良親王(兵部卿親王)は、天下が乱れていた間、僧の姿を捨てて武士となった。以下の親王への評価は、『太平記』作者の批判的な叙述を含んでいる。

四海が平定された後は、以前のように門跡寺院を率いる僧の地位へ戻り、仏法と王法を盛んにするのが、仏の御心にも、天皇の考えにもかなう道だったのかもしれない。

しかし護良親王は、

「征夷大将軍となり、天下の武士を統率したい」

と願った。

『太平記』は、後醍醐天皇が内心では快く思っていなかったものの、親王の望みに従って征夷大将軍の宣旨を与えた、と描く。


将軍となってぜいたくにふける

護良親王は、天下の人々から頼りにされる立場となった。

本来ならば身を慎み、地位を重く受け止めるべきだった。

『太平記』作者は、親王が思うままにぜいたくを重ね、世間の非難を忘れ、女性との遊びを楽しんだと批判的に描く。

そのため人々は、

「天下は再び危うくなるのではないか」

と心配した。


武勇だけを理由に人を集める

大きな戦乱の後には、弓や矢を包み、武器を袋へ入れて平和を示すべきだといわれる。

ところが護良親王は、特に必要もないのに、

「強い弓を引く者である」

「大太刀を扱える者である」

と聞いただけで、戦功のない者にも大きな恩賞を与えた。

そして自分の左右や前後へ、荒々しい武士たちを置いた。


親王の家臣による辻斬り

『太平記』は、親王のもとに集まった乱暴な者たちが、毎晩のように京都や白河を歩き回り、辻斬りを行ったと語る。

道で出会った少年僧や、幼い女性まで、各所で斬り倒された。

理由もなく命を奪われる者が、絶えることはなかった。

親王が兵を集め、武芸を習わせていたのは、足利高氏を討とうと考えていたからである。


なぜ護良親王は高氏を憎んだのか

『太平記』本文は、この時点の足利高氏について、それまで忠義を尽くし、特に大きな過ちや不正があるとは聞かれていなかった、と述べる。

それなのに、なぜ護良親王は、これほどまで高氏を憎んだのか。

その原因をたどると、前年5月の六波羅探題攻略に行き着く。


殿法印の家臣が京都で略奪する

朝廷軍が六波羅探題を攻め落とした時、護良親王の側近である殿法印良忠の家臣たちが、京都中の土倉を打ち壊し、財宝を運び去った。

足利高氏は、この略奪を止めるため、その者たちを捕らえた。

20人余りを六条河原で処刑し、その首をさらした。


高札に書かれた言葉

処刑場の高札には、

大塔宮に仕える殿法印良忠の家臣たちが、各所で昼間から強盗を働いたため、処刑した。

と書かれていた。

殿法印良忠は、このことを大変な屈辱と感じた。

そこで高氏を陥れるため、さまざまな讒言を作り、護良親王へ訴え続けた。


親王が高氏を討とうと考える

こうした訴えが何度も親王の耳へ入った。

護良親王は怒り、信貴山にいたころから、

「足利高氏を討ちたい」

と繰り返し考えていた。

しかし後醍醐天皇の許可を得られなかったため、実行することはできなかった。

それでも高氏への讒言は、止まらなかった。


諸国へ密かに令旨を送る

護良親王は、ひそかに諸国へ令旨を送り、兵を集め始めた。

足利高氏はこのことを知った。

そして『太平記』本文で「継母准后」と呼ばれる女性を通じ、後醍醐天皇へ密かに申し上げた。

「兵部卿親王は、天皇の位を奪おうとして、諸国の兵を集めています。

その証拠は明らかです」

高氏は、親王が諸国へ送った令旨を手に入れ、天皇へ見せた。


後醍醐天皇が激怒する

『太平記』では、これを見た後醍醐天皇が大いに怒ったとする。

「護良親王を流刑にせよ」

と決めた。

そして宮中で開かれる集まりにかこつけ、親王を呼び出した。


宮中で捕らえられる

護良親王は、まさか自分が捕らえられるとは思っていなかった。

先払いの者2人と、侍10人余りだけを連れ、目立たないように参内した。

ところが結城親光(結城判官)と名和長年(伯耆守)は、あらかじめ天皇の命令を受け、準備していた。

2人は鈴の間付近で親王を待ち受け、その場で捕らえた。

そして馬場殿へ閉じ込めた。


1人で閉じ込められる親王

親王は、クモの巣のように縄を張り巡らせた狭い部屋へ入れられた。

訪ねてくる者は、1人もいなかった。

親王は涙に濡れた寝床で、起きたり伏したりしながら考えた。

「元弘の乱が始まった時には、幕府の追跡から逃れるため、木の下や岩の間に身を隠した。

露に濡れた袖を乾かす場所もなかった。

ようやく京都へ戻った今も、人生の楽しみを1日さえ味わわないうちに、讒言によって罪人とされ、刑罰の苦しみを受けている。

これは、どのような前世の報いなのだろう」


無実が明らかになることを願う

「偽りの評判は長く続かない」

という言葉がある。

親王は、

「いつか天皇も真実を聞き、自分の無実を理解してくださるだろう」

と期待した。

しかし、朝廷ではすでに遠国へ流すことが決まったという知らせが届いた。

親王は深い悲しみに耐えられなかった。


天皇へ送ろうとした訴えの手紙

親王は、自分に心を寄せる女房へ頼み、詳しい手紙を書いた。

そして天皇へ取り次ぐ役人を通じ、急いで奏上するよう命じた。

手紙の内容は、およそ次のようなものだった。


護良親王の訴え

天皇のお怒りを受けた身でありながら、無実を訴えようとすれば、涙が落ち、心は暗くなり、悲しみのため言葉も短くなります。

ただ1つのことから、すべてをお察しください。

事情を付け加えて憐れんでいただけるならば、私が生きている間の望みは、それだけで十分です。

承久の乱以来、武家が政治の権力を握り、朝廷が政治から遠ざけられて久しい年月がたちました。

私は、その状態を見過ごすことができませんでした。

慈悲と忍耐を示す僧衣を脱ぎ、朝廷の敵を降伏させるための堅い鎧を身につけました。

内心では戒律を破る罪を恐れ、外からは恥を知らない僧だと非難されました。

それでも天皇のためには自分を忘れ、敵を前にしては死を恐れませんでした。


自分だけが兵を挙げたと訴える

当時、朝廷には忠臣や親孝行な者が大勢いたでしょう。

しかし、ある者は志を奮い立たせず、ある者は何もせず、ただ時機が来るのを待っていました。

私だけは一振りの武器さえ十分に持たないまま、険しい山の中で義兵を起こし、敵軍の隙をうかがいました。

幕府は私を反乱の中心人物と見なし、国中へ命令を出し、多くの家へ私を捕らえるよう求めました。

命が天にあるとはいえ、身を置く場所はどこにもありませんでした。

昼は深い山や谷で、石や苔を敷いて横たわりました。

夜は荒れた村や遠い里を歩き、裸足で霜を踏みました。

危険な目に遭い、恐ろしい場所を通ったことは、数えきれません。


復位の功績を訴える

ついには陣中で策を巡らし、武力によって敵を滅ぼしました。

天皇が京都へお戻りになり、御代が長く続こうとしているのは、私の忠義と功績によるところがなければ、いったい誰の働きなのでしょう。

ところが今、戦功に対する恩賞さえ定まらないうちに、突然罪を受けました。

伝え聞く罪状を考えても、1つとして自分が犯したものではありません。

虚偽の訴えがどこから起こったのかを、調べていただけないことだけが悲しいのです。


死刑になっても出家すると願う

天へ訴えようとしても、日月は親不孝な者を照らさないといいます。

地へ泣き訴えようとしても、山や川は礼を失った臣下を支えないといいます。

父子の縁を断たれ、天と地の両方から見捨てられる。

これ以上の悲しみがあるでしょうか。

今後、私は誰のために功績を立てればよいのでしょう。

世に出るか、身を隠すかということさえ、もはや意味がありません。

もし天皇の慈悲によって死刑を免れるならば、皇族としての名を永久に捨て、速やかに仏門へ入ります。

晋の申生が死ぬと国が乱れ、秦の扶蘇が処刑されると王朝が傾きました。

少しずつ染み込む讒言や、肌へ直接触れるような訴えは、小さなことから始まりながら、大きな災いへ至ります。

天皇は高い所から天下をご覧になるお立場です。

どうか古い時代の失敗を、今の世に繰り返さないでください。

『太平記』本文では、この手紙は3月5日付とされるが、この箇所自体には年の明記がない。


手紙は天皇へ届かなかった

この手紙が後醍醐天皇へ届いていれば、親王を許す判断が下されたかもしれない。

しかし取り次ぐ役人は、周囲の有力者たちの怒りを恐れた。

そのため、ついに手紙を天皇へ奏上しなかった。

天と地の間は隔てられ、親王の心からの訴えは、天皇へ届かなかったのである。


親王の家臣も処刑される

『太平記』では、この2、3年、護良親王へ仕えてきた家臣30人余りも、ひそかに処刑されたと語る。

親王は、もはや何を訴えることもできなかった。


足利直義へ引き渡される

『太平記』本文では、5月3日に護良親王が足利直義へ引き渡され、鎌倉へ送られたとするが、この箇所自体には年の明記がない。

【年代注】現存史料『関城書裏書』では、護良親王が禁囚され、尊氏に命じて鎌倉へ配されたのは建武元年(1334年)11月15日と記される。『太平記』の月日とは一致しない。

数百騎の軍勢が道中を厳重に警護し、親王を鎌倉へ送ったと本文は語る。

そして二階堂ヶ谷に土牢を造り、そこへ閉じ込めた。


闇の土牢で過ごす

『太平記』では、親王に付き添ったのは、南の御方と呼ばれる身分の高い女性1人だけだったとする。

そのほかに親王へ仕える者は、誰もいなかった。

月や太陽の光さえ入らない暗い部屋で、横から吹き込む雨に袖を濡らした。

岩から落ちる水滴のため、枕を乾かすこともできなかった。

『太平記』では、親王はその場所で半年を過ごしたとする。

その心の内は、何とも悲しいものだった。


天皇の意図を超えた幽閉

『太平記』作者は、後醍醐天皇が一時の怒りによって親王を鎌倉へ送った、と評している。

しかし、これほど厳しく閉じ込めることまでは考えていなかった。

さらに作者は、足利直義が以前から抱いていた恨みによって、親王を土牢へ禁固したのだと説明している。

『太平記』は、これをひどいことだと嘆いている。


継母の讒言によって家が滅びる

親孝行な子どもが、どれほど父へ誠実であっても、継母がその子を陥れようとすれば、国や家が滅びることがある。

昔から、その例は多かった。

そこで『太平記』は、護良親王の境遇を重ねるため、中国の晋を舞台とする驪姫の讒言の故事を物語として語る。以下は『太平記』による故事の再話であり、中国史料の細部と完全に同一とは限らない。


晋の献公と3人の皇子

中国の晋に、献公という君主がいた。

献公の后である斉姜は、3人の男子を生んだ。

長男を申生、次男を重耳、三男を夷吾といった。

3人が成長した後、母の斉姜は病気となり、亡くなった。

献公は最初こそ深く悲しんだ。

しかし年月がたつにつれて昔の約束を忘れ、驪姫という美しい女性を新しい后として迎えた。


献公を喜ばせる驪姫

驪姫は顔や姿が美しいだけではなかった。

巧みな言葉と、相手を喜ばせる表情によって、献公の心をつかんだ。

献公は驪姫を深く愛し、以前の后のことは夢にも思い出さなくなった。


驪姫が奚斉を産む

やがて驪姫は男の子を産み、奚斉と名づけた。

奚斉はまだ幼かった。

しかし母が深く愛されているため、父・献公からの寵愛は、3人の兄たちを上回った。

献公は、前の后が生んだ3人の皇子を退け、驪姫の子である奚斉へ晋の国を譲りたいと考えるようになった。


驪姫がわざと反対する

驪姫は内心では喜んだ。

しかし表面上は、献公をいさめるふりをした。

「奚斉はまだ幼く、善悪を理解していません。

賢いか愚かであるかも分からないうちに、3人の皇子を差し置いて国を継がせれば、天下の人々から非難されるでしょう」

驪姫が何度もこのように反対したため、献公は、

「驪姫には自分の子だけを有利にしようとする私心がない。

世間の非難を恥じ、国の平和を願っているのだ」

と信じた。

こうして献公は、あらゆることを驪姫へ任せるようになった。

驪姫の権威は、ますます強くなった。


申生が亡き母を祭る

ある時、長男の申生は亡き母・斉姜を供養するため、牛・羊・豚の供え物を用意した。

斉姜が埋葬された曲沃の墓で祭りを行い、供え物の残りを父の献公へ送った。

その時、献公は狩りに出ていた。

そのため供え物は包まれたまま、しばらく置かれていた。


驪姫が毒を入れる

驪姫は、供え物へひそかに鴆という恐ろしい毒を入れた。

狩りから戻った献公が供え物を食べようとすると、驪姫は言った。

「外から届いた食べ物は、まず誰かに食べさせ、安全を確かめた後で、身分の高い方へ差し上げるものです」

そこで御前にいた者へ食べさせた。

すると、その者はたちまち血を吐き、死んだ。


鶏も犬も死ぬ

献公は驚いた。

庭にいた鶏と犬へも食べさせたところ、どちらも倒れて死んだ。

残りを地面へ捨てると、その場所の土には穴が開き、周囲の草木まで枯れた。


申生を犯人に仕立てる

驪姫は偽りの涙を流し、献公へ訴えた。

「私は申生を、自分の子である奚斉に劣らないほど大切に思っています。

あなたが奚斉を太子にしようとした時も、私が反対して止めたではありませんか。

それなのに申生は、この毒によって父上と私を殺し、すぐに晋の国を奪おうとしたのです。

このことを考えれば、あなたが亡くなった後、申生は私と奚斉を1日も生かしておかないでしょう。

どうか私を捨て、奚斉を殺し、申生の心を安心させてください」


献公が讒言を信じる

献公は、もともと深く考えず、讒言を信じやすい人物だった。

激しく怒り、役人へ、

「申生を討て」

と命じた。

家臣たちは皆、無実の申生が死のうとしていることを悲しんだ。

そして、

「急いで他国へ逃げてください」

と申生へ知らせた。


申生は逃亡を拒む

申生は言った。

「私は幼い時に母を失い、成長してから継母を迎えた。

これは不幸の上に、悪い運命が重なったということだ。

しかし天地の間に、父子という関係のない国があるだろうか。

死を逃れるため他国へ行けば、人々は私を、

『父を殺そうとして毒を入れた、親不孝な逆臣である』

と見るだろう。

そのように憎まれながら生きて、どのような顔で人前へ出られるだろうか。

自分に罪がないことは、天が知っている。

それならば偽りの罪名によって死に、父の怒りを鎮める方がよい」

申生は討手が来る前に、自ら剣へ体を貫き、亡くなった。


重耳と夷吾が国外へ逃れる

申生の弟である重耳と夷吾は、

「次には驪姫の讒言が、自分たちへ向けられるだろう」

と恐れた。

2人は、それぞれ他国へ逃げた。


晋の国の混乱

こうして驪姫は、自分の子である奚斉へ晋の国を継がせることに成功した。

『太平記』作者は、それを天命に背く行いだったと評価する。

間もなく献公と奚斉の父子は、家臣の里克によって滅ぼされた。

晋の国は、たちまち大きな混乱へ陥った。


護良親王を申生に重ねる

『太平記』作者は、天下の戦乱が平定され、後醍醐天皇が政権へ復帰できたことについて、護良親王の軍事的功績を大きく評価する。

たとえ親王に多少の過ちがあったとしても、戒めたうえで許すべきだったのかもしれない。

それにもかかわらず、事情を十分に調べず、敵対する足利氏の手へ引き渡し、遠国へ送った。

人々は、

「これは朝廷が再び衰え、武家が再び天下へ広がる前兆ではないか」

と語り合った。


武家の世の始まり

『太平記』作者は、護良親王が後に殺されたことと、その後に足利氏が武家政権を築いていく歴史とを結び付けて振り返っている。

『太平記』は最後に、中国の古い言葉を引く。

雌鶏が夜明けを告げるようになれば、その家は滅びる。

これは中国古典に由来する成句であり、女性が政治へ関与することを否定的に捉えた古代の価値観を含む。現代の一般的な政治原則として受け取る必要はない。

『太平記』作者は、護良親王の失脚後の歴史を、この成句に重ねて解釈している。


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