峯村部材店主

太平記 9巻

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巻第九|目次

※読み方:軍勢の数、超人的な戦闘、瑞兆、因果応報などは、『太平記』本文の叙述であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定が一般的な歴史叙述や現存史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、尺・寸・丈・町など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。一方、中世の「里」や当時の貨幣は単純に現代単位へ換算しない。


58. 足利高氏、幕府軍の大将として京都へ上る


後醍醐天皇方の勢力拡大

元弘3年(1333年)春、後醍醐天皇は船上山に滞在し、各地へ討伐軍を送り、京都を攻めさせていた。

六波羅探題からは、鎌倉へ何度も早馬が送られた。

「京都の戦況は、すでに非常に苦しくなっています」

その知らせを受けた北条高時は、大いに驚いた。

そこで幕府は相談した。

「さらに大軍を京都へ送ろう。

その半分は京都を守らせ、主力は船上山へ向かわせ、後醍醐天皇を攻めるべきである」

大将には名越尾張守高家が選ばれた。

さらに、北条氏の直属ではない有力な大名20人にも、出陣命令が出された。


病気の足利高氏にも出陣命令が下る

その中には、足利高氏(治部大輔。のちの足利尊氏)も含まれていた。

高氏はこのころ病気を患い、まだ自由に立ち居振る舞うことができない状態だった。

それにもかかわらず、幕府からは何度も、

「すぐに京都へ上れ」

という命令が届いた。

高氏は、この扱いに強い怒りを感じた。


高氏の胸中

高氏は心の中で考えた。

『太平記』は、高氏が心の中で、

「父を亡くしてから、まだ3か月もたっていない。

悲しみの涙も、いまだ乾いてはいない。

そのうえ病気が体を苦しめ、重い薪を背負っているような苦しみも、まだ収まっていない。

そのような私を、無理に討伐軍へ加えようとするとは、まことに腹立たしいことだ。

時代が変われば、身分の高い者と低い者の立場が入れ替わることもある。

しかし北条高時は、北条時政の子孫にすぎない。

北条氏は、もともと長い間、家臣の身分にあった一族である。

一方、私は源氏の血を引く一族であり、皇族の家から分かれて、それほど長い年月もたっていない。

北条氏がこの道理を理解しているならば、1度くらいは私を主君として敬う心を持つべきではないか。

それなのに、このように何度も命令を受けなければならないのは、結局、私自身に力がないからである」


高氏、幕府へ背くことを決意する

高氏は、さらに考えた。

「それでもなお、幕府が京都へ上れと命令するのであれば、足利一族すべてを率いて上洛しよう。

そして京都へ着いたならば、後醍醐天皇方へ加わり、六波羅探題を攻め落とす。

そこで足利家が栄えるか滅びるかを、決めようではないか」

高氏は、すでに心の中で幕府への反逆を決意していた。

※年代について:『太平記』は、この元弘3年(1333年)の再出陣の場面で、高氏に「父を亡くしてから、まだ3か月もたっていない」と考えさせている。しかし父・足利貞氏は元弘元年(1331年)9月5日に死去している。父の死直後に畿内への出陣を命じられたのは1331年の最初の出陣時とされており、ここには『太平記』の年代上のずれがある。

しかし、この考えを知る者は誰もいなかった。


1日に2度も出陣を迫られる

北条高時は、高氏がこのような決意を固めているとは思いもしなかった。

工藤左衛門尉を使者として送り、

「なぜ上洛が遅れているのか、理解できない」

と、わずか1日のうちに2度も出陣を催促した。

高氏はすでに反逆を決意していたので、かえって言い争おうとはしなかった。

「日を置かず、ただちに京都へ向かいます」

と返事をした。

そして昼夜を分かたず、出発の準備を始めた。


足利一族全員が京都へ向かうといううわさ

高氏は自分の一族や家来だけでなく、女性や幼い子どもたちまで、1人残らず京都へ連れていくという。

その話を聞いた長崎入道円喜は、不審に思った。

円喜は急いで北条高時のもとへ行き、申し上げた。

「本当のことでしょうか。

足利殿は、奥方や幼いお子様方まで、全員を連れて京都へ上ると聞いております。

どうも不審に思われます。

このような時には、北条一門の親しい者であっても、十分に警戒すべきです。

まして足利氏は、源氏の名門でありながら、長い間、天下の実権を北条氏へ譲ってきた一族です。

ひそかに何かを決意している可能性があります」


誓約書と人質を求めるべきだ

長崎円喜は、さらに続けた。

「外国でも日本でも、世の中が乱れた時には、支配者は諸侯を集めて動物を殺し、その血をすすり、裏切らないことを誓わせます。

現在の起請文も、それと同じものです。

また、反逆する心がないことを示すため、自分の子を人質として差し出す場合もあります。

かつて木曾義仲は、息子の清水冠者を源頼朝のもとへ人質として送りました。

このような前例を考えるならば、足利殿のご子息と奥方を鎌倉へ残させるべきです。

さらに、幕府へ背かないという起請文を1通書かせるのがよいでしょう」

北条高時は、

「確かに、そのとおりだ」

と思ったようだった。


幕府からの要求

高時はすぐに使者を送り、高氏へ次のように伝えた。

「東国はまだ平穏であり、安心して暮らせる場所です。

幼いご子息たちは、皆、鎌倉へ残されるのがよいでしょう。

また北条家と足利家は、すでに水と魚のように親しい関係にあります。

さらに、赤橋相模守の一族と婚姻関係まで結ばれているのですから、本来、何も疑う必要はありません。

しかし世間の人々の疑いを取り除くため、恐れながら、幕府へ背かないという誓約書を1通、鎌倉へ残していただきたい。

それが公私ともに、もっともよいことであると思います」

高氏は、胸の中の怒りをさらに深めた。

しかし、その気持ちを表情には出さなかった。

「こちらで相談したうえで、返事をいたします」

そう言って、使者を帰した。


弟・足利直義との相談

その後、高氏は弟の足利直義(兵部大輔)を呼び、

「幕府から、このような要求があった。どうするべきだろうか」

と意見を求めた。

弟はしばらく考え、答えた。

「今回、兄上が大きな決断をなさったのは、自分自身の利益のためではありません。

天に代わって道に背く者を討ち、天皇のために不義を退けようとなさっているのです。

そのような正しい志があるならば、たとえ偽りの起請文を書いたとしても、神仏はその誓いを受け取らないといわれています。

仏や神が、兄上の忠義の心をお守りにならないはずがありましょうか」


家族を鎌倉へ残すことは小さな問題

弟は、さらに続けた。

「ご子息と奥方を鎌倉へ残すことも、天下の大事に比べれば小さな問題です。

ご子息は、まだ幼くいらっしゃいます。

もし危険なことが起これば、そのために鎌倉へ残した家来たちが、どこかへお連れして、かくまうこともできるでしょう。

奥方についても、赤橋殿が健在である間は、それほどひどい扱いを受けることはないはずです。

『大きなことを行う者は、小さな礼儀や用心にとらわれない』

といいます。

この程度の問題で、ためらってはなりません。

ここは北条高時の言うとおりにして、幕府の疑いを取り除くべきです。

そのうえで京都へ上り、大きな計画を実行なさるのがよいと思います」

高氏は、この意見をもっともだと考えた。


千寿王と正室を鎌倉へ残す

高氏は、息子の千寿王(のちの足利義詮)と、正室の赤橋登子(北条登子。赤橋守時の妹)を鎌倉へ残すことにした。

千寿王は、のちの室町幕府第2代将軍・足利義詮である。

さらに高氏は、幕府へ背かないという起請文を1通書き、北条高時へ送った。

高時はこれを受け取ると、高氏への疑いを解き、大いに喜んだ。


北条高時、高氏をもてなす

ここから『太平記』は、北条高時が高氏を招き、足利家に伝わる白旗を返したという逸話を語る。

その席で、高時は言った。

「足利家のご先祖が代々伝えてきた、白い旗があります。

これは八幡太郎義家以来、代々の足利家当主へ伝えられてきた、重要な宝であると聞いております。

その後、源頼朝公の未亡人である北条政子が受け継ぎ、北条家で今日まで保管してきました。

たいへん貴重な宝ではありますが、足利家以外の家で持っていても、本当の意味はないでしょう。

そこで今回、京都へ向かわれるはなむけとして、お返しいたします。

この旗を掲げて、反乱軍をすぐに討ち滅ぼしてください」

高時は、錦の袋に入れたまま、自ら白旗を高氏へ渡した。


与えられた馬と武具

そのほかにも、乗り換え用として、

  • 白い鞍を置いた馬10頭
  • 白い縁飾りを施した鎧10領
  • 金の飾りをつけた太刀1振り

が高氏へ贈られた。

北条高時は、高氏が自分を裏切ろうとしていることに気づかず、足利家の象徴ともいえる旗まで渡してしまったのである。


足利軍、鎌倉を出発する

高氏に従ったのは、

  • 足利高氏の弟
  • 吉良氏
  • 上杉氏
  • 仁木氏
  • 細川氏
  • 今川氏
  • 荒川氏

など、足利一族32人だった。

さらに高氏の家に仕える一族43人も加わった。

軍勢は、合わせて3,000騎余りとなった。

元弘3年(1333年)3月27日、高氏は鎌倉を出発した。

幕府軍では高氏が正面軍の大将と定められ、名越尾張守高家の軍より3日早く進んだ。

そして元弘3年(1333年)4月16日、京都へ到着したのである。

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59. 山崎への攻撃――久我畷で名越高家討死


勝ちながら弱っていく六波羅軍

南北の六波羅探題は、京都周辺で行われた戦いに何度も勝利していた。

そのため、

「西国から来た朝廷軍など、恐れるほどではない」

と軽く考えていた。

しかし、六波羅が特に勇敢な武将として頼りにしていた結城親光(九郎左衛門尉)は幕府を離れ、朝廷方となって山崎の軍勢に加わっていた。

そのほかの各国の武士たちも、5騎、10騎という小さな集団ごとに、六波羅軍から離れていった。

長く続く兵糧輸送に疲れ、自分の国へ帰る者がいた。

時代の流れを見て、

「幕府は、もう長くは続かない」

と判断し、朝廷方へ移る者もいた。

そのため朝廷軍は、戦いに敗れても、かえって兵の数を増やしていった。

反対に幕府軍は、戦いに勝っても、日を追うごとに兵が減っていた。

世の中の行く末を心配する者は、

「このままでは、いったいどうなるのだろう」

と不安に思っていた。


足利軍と名越軍の上洛

そこへ足利高氏と名越尾張守高家の軍勢が、雲や霞のような大軍となって京都へ到着した。

これを見た幕府方の人々は、すぐに安心した。

「これほどの援軍が来たのだから、もう心配することはない」

人々は顔色を明るくし、互いに勇気づけ合った。


足利高氏、後醍醐天皇へ内通する

しかし足利高氏は、京都へ着いた翌日から、伯耆国の船上山にいる後醍醐天皇へ、ひそかに使者を送っていた。

その使者を通じて、

「私は幕府を離れ、天皇方へ加わります」

と申し上げたのである。

後醍醐天皇は、これをたいへん喜んだ。

そして高氏に対し、

諸国の朝廷軍を集め、朝廷の敵を討て。

という綸旨を与えた。


高氏を信じ切っていた六波羅

南北の六波羅探題も、名越尾張守高家も、足利高氏がこのような計画を立てているとは、夢にも思わなかった。

毎日のように高氏と会い、

「八幡と山崎の朝廷軍を、どのように攻めるか」

と相談した。

そして作戦も兵力も、自分たちの考えを1つ残らず高氏へ話していた。

何ともはかないことだった。


変わりやすい人の心

昔から、

大きな道でも、車を壊すほど険しい場所がある。
しかし、それに比べれば人の心は平らな道のように見える。

巫峡の激しい水流は、船を転覆させる。
しかし、それに比べれば人の心は穏やかな流れのように見える。

それほど人の心の好き嫌いや忠誠は、変わりやすく、予測しにくい。

といわれている。

足利高氏の家は、代々北条氏から大きな恩を受けていた。

そのため足利家は繁栄し、天下に肩を並べる家もないほどの勢力となっていた。

そのうえ高氏は、赤橋相模守の一族から妻を迎え、何人もの子どもをもうけていた。

北条高時が、

「高氏が我々を裏切るはずはない」

と、すっかり信じ込んでいたのも無理のないことだった。


4月27日の山崎攻撃

幕府軍は、元弘3年(1333年)4月27日に八幡と山崎を攻撃すると、以前から決めていた。

名越尾張守高家は、正面から攻める軍の大将となった。

その軍勢は7,600騎余りで、鳥羽の作道から進んだ。

足利治部大輔高氏は、裏手から攻める軍の大将となった。

5,000騎余りを率い、西岡方面から進むことになった。


朝廷軍、難所で迎え撃つ

八幡・山崎の朝廷軍は、幕府軍が攻めてくると聞いた。

そこで、

「険しい場所へ敵を誘い込み、思いがけない攻撃を仕掛けて、そこで勝敗を決めよう」

と考えた。

千種忠顕(頭中将)は500騎余りを率い、大渡橋を渡って赤井河原に陣を置いた。

結城九郎左衛門尉親光は300騎余りを率い、狐川付近へ向かった。

赤松円心は3,000騎余りを率い、

  • 古川
  • 久我畷

の南北3か所に陣を構えた。


圧倒的に少ない朝廷軍

朝廷軍の兵たちは、強い敵を打ち破るほどの気力を持っていた。

たとえ天と地がひっくり返っても、恐れないような覚悟だった。

しかし、今回京都へ来た1万騎余りの東国武士と正面から戦えるほどの兵力には見えなかった。

足利高氏は、すでに朝廷方へ加わる約束をしていた。

それでも、

「高氏が本当に味方するのか、まだ完全には信じられない」

と考えたのだろう。

坊門雅忠(少将)は、寺戸や西岡の野武士500〜600人を集め、岩蔵付近へ向かった。

高氏の行動を警戒するためだった。


高氏に先を越されたと思う名越高家

やがて、

「裏手の大将である足利高氏は、夜明け前に京都を出発した」

という知らせが広まった。

正面の大将である名越尾張守高家は、

「足利高氏に先陣を取られてしまった」

と不満に思った。

高家は、深い泥の続く久我畷へ、すぐに馬を進めた。

そこは馬の脚さえ立たないほどの湿地だったが、

「自分こそ先に敵へ攻めかかる」

と、軍勢の先頭を進んでいった。


名越高家の華やかな装い

名越高家は、もともと気の早い若武者だった。

この戦いでは、人々を驚かせるほどの働きをし、自分の名を高めたいと思っていた。

そのため馬、鎧、笠印に至るまで、周囲を照らすほど華やかな姿で出陣した。


高家の鎧と兜

高家は、美しい織物を濃い紅色に染めた鎧直垂を着ていた。

その上に、紫色の糸で飾り、重い金具を数多くつけた鎧を、隙間なく身につけていた。

白い星形の金具がついた5枚張りの兜をかぶっていた。

兜の左右の吹返しには、太陽を表す日光天子と、月を表す月光天子の姿が、金と銀で透かし彫りにされていた。

高家は、この兜を首が埋まるほど深くかぶっていた。


名刀・鬼丸

腰には、名越家に代々伝わる宝である、鬼丸という金飾りの太刀を帯びていた。

さらに3尺6寸(約1.1m)の太刀も、もう1振り腰へ差していた。

長い鷹の羽を使った矢を36本、矢筈が高く見えるように背負っていた。


名馬と豪華な鞍

高家が乗っていたのは、黄色がかった毛色の、太くたくましい馬だった。

鞍には、名越家の紋である3本の唐傘が、金具で輝くように飾られていた。

厚い飾り房は、燃え立つ炎のようだった。

馬と武具は朝日を受け、辺り一面へ光を放っていた。

高家は軍勢の先頭に飛び出し、周囲の敵を払いながら進んだ。

その姿を見れば、知らない敵であっても、

「あれが今日の幕府軍の正面大将だ」

と、すぐに分かった。


高家、朝廷軍を圧倒する

朝廷軍も、普通の兵には目もくれなかった。

高家1人を討ち取ろうと、ある場所では左右へ開き、別の場所では一斉に攻めかかった。

しかし高家の鎧は非常に優れていたため、裏まで貫く矢は1本もなかった。

高家は太刀の扱いにもすぐれ、近づく敵を次々と斬り落とした。

その勢いは、たいへん激しかった。

朝廷軍の数万の兵は、高家1人の勢いに恐れ、道を開けて退き始めたように見えた。


佐用範家の待ち伏せ

赤松一族に、佐用左衛門三郎範家という武士がいた。

強い弓を引き、次々と素早く矢を放つことにすぐれていた。

野武士のように地形を利用して戦うことにも慣れていた。

古代中国の名将が秘伝としたような弓の技を、自分のものとしていた勇士だった。

範家は、わざと重い鎧を脱いだ。

徒歩の弓兵となり、田のあぜ道を進み、やぶの中へ身を隠した。

そして、あるあぜの陰へ体を伏せた。

「敵の大将が近づいた時、一矢で射取ろう」

と待ち構えていたのである。


高家、無防備に立ち止まる

名越高家は三方の朝廷軍を追い回した。

そして鬼丸についた敵の血を、笠印でぬぐった。

扇を開いて体をあおぎ、何の心配もないような姿で、馬を止めていた。

佐用範家は、少しずつ高家へ近づいた。

そして十分に狙いを定めると、弓をいっぱいに引き絞り、矢を放った。


名越高家の最期

範家の矢は、狙った場所を少しも外さなかった。

高家の兜の正面、その縁に近い部分から、眉間の中央へ突き刺さった。

矢は脳と骨を突き破り、首の骨の付け根から、白い矢先を突き出した。

どれほど勇猛な大将であっても、この一矢に耐えることはできなかった。

高家は力を失い、馬から真っ逆さまに落ちた。


「大将を一矢で討ち取ったぞ」

範家は矢を入れた箙をたたき、大声を上げた。

「攻めてきた幕府軍の大将、名越尾張守を、佐用範家がたった一矢で射殺したぞ!

皆、続け!」

高家の勢いに押され、退き始めていた朝廷軍は、この声を聞いて勇気を取り戻した。

三方から一斉に勝利の声を上げ、幕府軍へ攻めかかった。


名越軍の崩壊

名越高家の家来7,000騎余りは、大将を失い、隊列を乱して退いた。

しかし、中には、

「大将を討たせたまま、どこへ帰ることができようか」

と引き返し、その場で討ち死にする者もいた。

また、深い田へ馬ごと突っ込み、身動きが取れなくなって、自ら命を絶つ者もいた。

狐川の端から鳥羽の今在家まで、50町余り(約5.5km余り)の道には、遺体が隙間なく横たわった。

こうして名越高家の軍は、久我畷で大敗したのである。

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60. 足利高氏、大江山を越えて丹波へ向かう


激戦の間も動かない足利高氏

正面から攻める軍の戦いは、その日の午前8時ごろから始まった。

馬が巻き上げる土煙は東西へたなびき、兵たちの叫び声は天地を響かせた。

両軍は激しく攻め合っていた。

ところが、裏手から攻める軍の大将である足利高氏は、桂川の西岸へ下りたまま、酒宴を開いていた。

正面では激戦が続いているのに、高氏は兵を進めようとしなかったのである。


名越高家の敗死を知る

そのまま数時間が過ぎた。

やがて使者が来て報告した。

「正面の幕府軍は戦いに敗れ、大将の名越尾張守高家殿も、すでに討たれました」

高氏は、それを聞くと静かに言った。

「それならば、山を越えよう」

高氏たちはそれぞれ馬へ乗った。

そして山崎の戦場を、はるか遠くに見捨てたまま、丹波へ続く道を西へ進み、篠村を目指して馬を速めた。

高氏は、幕府軍を助けるのではなく、後醍醐天皇方へ加わるために丹波へ向かったのである。


高氏の行動を疑う2人

高氏の軍勢の中には、部隊の配置の都合によって加わっていた2人の幕府方の武士がいた。

1人は備前国の住人、中吉十郎

もう1人は摂津国の住人、奴可四郎だった。

一行が大江山のふもとへ着くと、中吉十郎は道より少し高い場所へ馬を進め、奴可四郎を呼び寄せて言った。


「足利殿には反逆の心がある」

中吉は言った。

「どうにも納得できない。

正面では、今朝の午前8時ごろから火花を散らす激戦が続いていた。

それなのに裏手の軍は、長々と酒宴を開いたまま動かなかった。

そのうえ、名越殿が討たれたと聞いた途端、戦場へ向かうどころか、丹波路を目指して急いでいる。

足利殿には、幕府へ背く考えがあるのではないか。

もしそうならば、我々がこの先まで従う理由はない。

ここから引き返し、六波羅殿へ事情を報告しよう」


奴可四郎、矢を射ようとする

奴可四郎は答えた。

「よく言ってくれた。

私も、この行動は怪しいと思っていた。

しかし、何か特別な作戦があるのかもしれないと考えているうちに、今日の戦いへ参加する機会まで失ってしまった。

それが腹立たしい。

ただし、足利殿が敵になったと分かっていながら、何もせず引き返すのは、あまりにも情けない。

せめて一矢射てから帰ろう」

奴可四郎は、そう言うと矢を1本取り出し、弓につがえた。

そして高氏の大軍へ馬を走らせ、追いついて矢を射ようとした。


中吉十郎が止める

中吉十郎は、慌てて止めた。

「何をするのだ。気でも狂ったのか。

我々は、わずか二、30騎にすぎない。

あの大軍へ攻めかかり、何の成果もなく死んでしまうことが、本当に望みなのか。

そのような無意味な手柄なら、立てない方がよい。

今は無事に引き返し、これからの戦いのために命を残すべきだ。

そうすれば後の世にも、

『忠義を知り、正しい判断をした者だった』

という名を残せるだろう」

中吉が何度も強く止めると、奴可四郎も、

「確かにそのとおりだ」

と思い直した。

2人は大江山から馬を引き返し、六波羅へ戻った。


高氏の裏切りを知る六波羅

中吉十郎と奴可四郎は六波羅へ駆けつけ、足利高氏の行動を詳しく報告した。

南北の六波羅探題は、その知らせを聞いて大きな衝撃を受けた。

幕府軍の盾や槍として頼りにしていた名越尾張守高家は、すでに討ち死にしている。

そのうえ六波羅が、

「足利氏は北条氏と親族同然の関係にある。

水と魚のように深く結びついているのだから、決して裏切るはずがない」

と信じていた足利高氏まで、敵に回ったのである。


頼る者を失った六波羅

六波羅の人々は、雨を避けようと頼った木の下に、少しも雨宿りできる場所がなかったような気持ちになった。

幕府を守る2人の有力な大将を同時に失い、何とも心細くなったのである。

そして思った。

「名越高家が討たれ、足利高氏まで裏切った。

それならば、これまで六波羅に従ってきた兵たちも、いつ同じように幕府を離れるか分からない」

それまで味方として付き従っていた武士たちについても、疑いを持たずにはいられなくなった。

六波羅には、もはや心から信頼できる者が、1人もいないように思われたのである。

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61. 足利高氏、篠村へ入る――近国の武士が集結


足利高氏、篠村に陣を置く

足利高氏は丹波国の篠村に陣を構え、近国の武士たちへ、

「幕府を討つため、我が軍へ加われ」

と呼びかけた。

すると丹波国の住人である久下時重(弥三郎)が、250騎を率い、誰よりも早く駆けつけた。

久下軍の旗と、味方を見分けるための笠印には、どれにも、

一番

という文字が書かれていた。


久下氏の「一番」の由来

高氏はその印を見て不思議に思い、高師直(右衛門尉)を呼んで尋ねた。

「久下の者たちが、笠印に『一番』と書いているのは、もともと久下家の紋なのか。

それとも、私のもとへ一番に駆けつけたという意味なのか」

高師直は、かしこまって答えた。

「これは、由緒ある印でございます。

久下氏の祖先に、武蔵国の住人である久下二郎重光という者がおりました。

源頼朝公が土肥の杉山で初めて旗を挙げられた時、重光は誰よりも早く駆けつけました。

頼朝公はその忠義に深く感心され、

『もし私が天下を治めるようになったならば、お前へ一番に恩賞を与えよう』

とおっしゃいました。

そして頼朝公自ら、『一番』という文字を書いて重光へ与えられました。

それ以来、この文字が久下家の印となったのでございます」

高氏は喜んだ。

「それならば、今回も久下氏が最初に来たことは、足利家にとって縁起のよい出来事である」

久下時重を特に厚くほめ、丁重に扱った。


丹波の武士たちが集まる

以前から高山寺へ立てこもっていた、

  • 足立氏
  • 荻野氏
  • 小島氏
  • 和田氏
  • 位田氏
  • 本庄氏
  • 平庄の武士たち

は、

「今さら、ほかの者の下につくことはできない」

と考えた。

そのため足利高氏の軍へは加わらず、丹波から若狭へ移り、北陸道を通って京都へ攻め上る計画を立てていた。

しかし、そのほかの、

  • 久下氏
  • 長沢氏
  • 志宇知氏
  • 山内氏
  • 葦田氏
  • 余田氏
  • 酒井氏
  • 波賀野氏
  • 小山氏
  • 波々伯部氏

など、丹波や近国の武士たちは、1人残らずといってよいほど篠村へ駆けつけた。

篠村の足利軍は、たちまち大きくなった。

『太平記』によれば、その数は2万3,000騎余りに達したという。


六波羅、鎌倉への退却を考える

六波羅探題は、足利高氏のもとへ多くの武士が集まったことを知った。

そして相談した。

「今度の戦いで、天下がどうなるかが決まるだろう。

もし我々が敗れることになれば、光厳天皇や上皇をお連れして関東へ下ろう。

鎌倉へ都を移し、もう1度大軍を集め、朝廷方を討たなければならない」

六波羅は、すでに元弘3年(1333年)3月から北方の屋敷を仮の御所として整え、光厳天皇をはじめとする皇族を移していた。


皇族や公家も六波羅へ集まる

梶井二品親王は、比叡山延暦寺の天台座主だった。

たとえ世の中がどのように変わっても、僧である親王自身に、すぐ危害が及ぶとは考えにくい。

しかし光厳天皇の近いご一族であるため、天皇のそばにいて、その皇位が長く続くよう祈ろうとしたのだろう。

梶井宮も六波羅へ入った。

それだけではない。

  • 天皇の母
  • 皇后
  • 女院
  • 北政所
  • 太政大臣・左大臣・右大臣
  • 多くの公卿
  • 朝廷の文官・武官
  • 皇族の寺院に仕える僧たち
  • 北面の武士
  • 各家の侍
  • 稚児や女房たち

までが、

「自分も六波羅へ入ろう」

と次々に集まった。


人の消えた京都と、にぎわう白河

そのため京都の中心部は、たちまち寂しくなった。

人々は嵐に吹き散らされた木の葉のように、それぞれの方向へ逃げていった。

反対に、六波羅のある白河周辺は急に栄え、花が1度に咲いたようなにぎわいとなった。

しかし、そのにぎわいも、いつまで続く夢なのか分からない。

世の中が目まぐるしく移り変わる姿を見て、人々が改めて驚いたのも当然だった。


「天皇は天下を家とする」

昔から、

天皇は、天下全体を自分の家とする。

といわれている。

六波羅も京都のすぐ近くにある。

そのため、東の洛外に置かれた仮の御所で暮らすこと自体は、それほど深く悲しむことではなかったかもしれない。

『太平記』は、光厳天皇の治世となってから天下が穏やかにならず、多くの役人まで都の外へ逃れる状況になったと述べる。

そして、この混乱を「天皇の徳が天の心に背いたため」と見る当時の因果的な考え方を示し、光厳天皇がその責任を自分1人のものとして深く悲しんだ、と描いている。


光厳天皇の苦悩

光厳天皇は、いつも明け方近くまで寝所へ入らなかった。

経験と知恵のある老臣たちを呼び、

  • 湯王
  • 武王

といった、中国古代のすぐれた君主たちの政治について尋ねた。

国を正しく治めるために、何をすればよいか学ぼうとしたのである。

怪しい奇跡や、人の力を超えた不思議な話については、まったく聞こうとしなかった。


日吉祭が行われない

元弘3年(1333年)4月16日は、月の中ごろにあたる申の日だった。

本来ならば、この日には日吉大社の祭礼が行われる。

しかし戦乱のため、祭りは開かれなかった。

神社は寂しく静まり、神への供え物となるはずの美しい魚だけが、むなしく琵琶湖の波の中で跳ねていた。


賀茂祭も中止される

翌4月17日は、月の中ごろの酉の日だった。

本来ならば、賀茂祭が行われる日である。

ところが神を迎える儀式も行われない。

一条大路には人影がなく、祭りの車が道の先を争う光景もなかった。

美しく飾られた馬具には、むなしくほこりが積もり、飾り金具も光を失っていた。

昔から、

祭礼は、豊作の年だからといって豪華にしすぎず、
凶作の年だからといって小さくしてはならない。

といわれている。

国が始まって以来、1度も欠かされたことがないとされた日吉・賀茂両社の祭礼が、この時初めて途絶えた。

神々がこれをどう思われたのか、想像することも難しい。

『太平記』の作者は、長く続いた祭礼が途絶えたことを、神意をうかがわせる不吉な出来事として描いている。


朝廷軍、5月7日の総攻撃を決める

朝廷軍は、元弘3年(1333年)5月7日に京都へ攻め込み、六波羅軍と決戦することを決めた。

篠村・八幡・山崎にいる先頭の軍勢は、前夜から京都へ近づき、それぞれ陣を構えた。

西では梅津や桂の里、南では竹田や伏見に、多くのかがり火がたかれた。

山陽道と山陰道は、すでに朝廷軍によってふさがれていた。

さらに若狭方面からは、高山寺にいた軍勢が、鞍馬路や高雄方面を通って攻め寄せるともいわれていた。


残された道は東山道だけ

六波羅から外へ出られる道として残っていたのは、わずかに東山道だけだった。

しかし比叡山の僧たちも、まだ幕府へ完全に心を許してはいない。

大軍が動けば、その道もふさがれる可能性があった。

六波羅の人々は、まるで籠の中に閉じ込められた鳥や、網の中に入った魚のようだった。

逃げ出せる方向は、ほとんどなかった。

六波羅の兵たちは、表面上は勇ましく振る舞っていた。

しかし心の中では、大いにおびえていた。


千早城攻めに兵を出しすぎた幕府

昔、中国の雲南へ遠征軍を送った時には、

一軒に成人男性が3人いれば、そのうち1人を兵として出した。

といわれている。

ところが幕府は、千早城ほどの小さな城1つを攻めるために、諸国の兵をほとんど残らず送り出していた。

しかも、その千早城を落とす前に、幕府内部から大きな災いが起こった。

足利高氏が反旗を翻し、朝廷方の軍旗は京都の西へ迫っている。

敵を防ごうにも、兵が少ない。

援軍を呼ぼうにも、道はふさがれている。

六波羅の人々は後悔した。

「このような事態になると前もって分かっていたならば、京都の兵をこれほど外へ出すことはなかったのに」

しかし、今さら悔やんでも、どうにもならなかった。


六波羅を城に変える

六波羅では以前から、次のような相談をしていた。

「今度は各地の朝廷軍が連絡を取り合い、大軍で京都へ攻めてくる。

平地で戦うだけでは、支えられないだろう。

防御施設を築き、時々馬を休ませ、兵の疲れを回復させながら戦うべきだ。

敵が近づけば、城から打って出て攻撃しよう」

そこで六波羅の屋敷を中心とし、周囲を城のように造り変えた。


鴨川の水を引いた大堀

鴨川側には、7、8町(約760〜870m)にわたって深い堀を掘った。

そこへ鴨川の水を引き入れた。

西日を沈めるほど広く深い水面は、中国の都にあった昆明池のように見えた。

残る三方には、土を高く盛って塀を築いた。

その上へ櫓を並べ、逆茂木を何重にも設置した。

その姿は、中国の堅固な受降城も、このようであったかと思われるほどだった。


『太平記』が批判する六波羅の作戦

確かに、六波羅の城の構えは、よく考えられたものに見えた。

しかし『太平記』の作者は、それを本当の知恵とは認めていない。

昔から、

剣閣の山道がどれほど高く険しくても、
それだけを頼りにする者は、最後には倒れる。
それは国の根を深くし、長く安定させる方法ではない。

洞庭湖がどれほど広く深くても、
それだけを頼りにする者は敗れる。
大切なのは、人々を慈しみ、国を正しく治めることである。

といわれている。

天下は、すでに幕府方と朝廷方の2つに分かれていた。

どちらが栄え、どちらが滅びるかは、今度の一戦にかかっている。

このような時には、食料を捨て、船を沈め、退路を断って戦うほどの覚悟が必要だった。

それなのに六波羅は、戦う前から退却することを考え、わずかな城へ立てこもろうとしていた。

その程度の作戦しか立てられなかった幕府のありさまを、『太平記』は何とも悲しいことだと批判している。

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62. 足利高氏、篠村八幡宮に願文を納める


足利高氏、篠村を出発する

『太平記』では、元弘3年(1333年)5月7日の午前4時ごろ、足利高氏(治部大輔)は2万5,000騎余りを率いて篠村の宿を出発した。

※願文の日付について:『太平記』は、この願文を5月7日の出来事として描き、願文本文にも「元弘3年5月7日」と記す。一方、篠村八幡宮に伝わる高氏の願文は元弘3年(1333年)4月29日付である。ここでは『太平記』の物語上の日付と、現存文書の日付を区別して読む必要がある。

まだ夜は深かった。

高氏は馬をゆっくりと進めながら、東西の様子を見渡した。

すると篠村宿の南側に、古い柳やまばらな槐の木が暗く生い茂る場所があった。

その木々の下には、小さな神社があるように見えた。


暗闇の中に聞こえる鈴の音

神前でたかれていた火は、すでに燃え尽きかけていた。

残り火が風に揺らめく中、神に仕える者が袖を振り、鳴らす鈴の音が、かすかに聞こえてきた。

その場所には、古い神社らしい、神秘的で厳かな雰囲気が漂っていた。

高氏は、それが何という神社なのか知らなかった。

しかし、これから大きな戦いへ向かう門出である。

高氏は馬から降り、兜を脱いで、小さな社の前へひざまずいた。

そして心を込めて祈った。

「今日の戦いを無事に終え、朝廷の敵を討つことができるよう、どうかお力をお貸しください」


篠村八幡宮であると知る

高氏は、神前に仕えていた巫女に尋ねた。

「この神社には、どの神がまつられているのか」

巫女は答えた。

「ここには、以前、八幡神をお移ししておまつりしました。

それ以来、篠村の新八幡宮と呼ばれております」

高氏は喜んだ。

「それならば、足利家が代々深く信仰してきた神ではないか。

この大切な出陣の日に、八幡神の社へ立ち寄ったことには、特別な意味がある。

ここで正式な願文を1通奉納しよう」


疋壇妙玄が願文を書く

高氏に仕える疋壇妙玄は、鎧の合わせ目から、携帯していた硯と筆を取り出した。

そして、高氏の願いを文章に書き記した。

その内容は、およそ次のようなものだった。


八幡神への願文

謹んで、祈り願い申し上げる。

八幡大菩薩は、代々の天皇が尊びまつる神であり、源氏を再び栄えさせた守護神でもある。

本来のお姿である仏の徳は、月のように、数えきれない世界の空高く輝いている。

人々を救うために神として現れた光は、七千を超える神々の中でも、最も明るく輝いている。

さまざまな姿となって人々の前へ現れても、礼儀に反した供え物を受け取ることはない。

深い慈悲によって人々を救うとしても、特に正直な者を守ろうとなさる。

何と偉大なご徳であろうか。

だからこそ、世のすべての人々が、八幡神へ真心を尽くすのである。


北条氏の悪行を訴える

願文は、続いて北条氏の支配を批判した。

ところが承久の乱以来、朝廷に仕える家臣であり、平氏の末裔にすぎない地方の一族が、勝手に天下の実権を握った。

そして9代にわたり、強大な権力を思うままに振るってきた。

そのうえ今では、尊い天皇を西海の波の彼方へ流し、皇子を南の山々の雲の中で苦しめている。

これほどの悪逆は、昔にも例がない。

これこそ、朝廷の敵として最も重い罪である。

家臣たる者が、このような敵を討つために命を差し出さなくてよいだろうか。

また北条氏は、八幡神へも背く第一の敵である。

天の道理としても、罰を下さずにおくことがあるだろうか。


高氏、自らの決意を述べる

願文の中で、高氏は自分の覚悟も述べた。

高氏は北条氏の積み重ねた悪行を見て、自分の身を顧みる余裕もなく、兵を挙げることを決意した。

私のような力の乏しい者が、強大な北条氏の前へ身を差し出すことは、魚や肉が包丁とまな板の前へ置かれるようなものである。

しかし正義の兵たちが力を合わせ、西南の地で軍旗を掲げた今、後醍醐天皇の皇子は八幡の地にあり、家臣である私は篠村にいる。

上に立つ皇子も、下に仕える私も、ともに八幡神の社の近くで兵を挙げ、神のご加護を受けようとしている。

これは箱とふたがぴたりと合うように、時と場所と人の心が一致しているということである。

それならば、朝廷の敵を討ち滅ぼすことに、何の疑いがあるだろうか。


八幡神の加護を願う

願文は、最後に八幡神の助けを強く求めた。

私が仰ぎ願うのは、代々の天皇を守るという八幡神のお約束である。

神の軍馬が汗を流して駆けるほどの勇ましいご加護を、どうかお示しいただきたい。

私が頼るのは、足利家が代々八幡神を信仰してきた、その家運である。

神が正義の戦いに味方し、その霊威を輝かせてくださいますように。

徳の風が草をなびかせるように、敵を千里(非常に遠い距離を表す願文中の表現)の外まで退かせてください。

神の光が剣に代わり、ただ1度の戦いで勝利を得させてください。

私の真心に偽りはない。

神よ、どうかこの願いを見誤らないでいただきたい。

元弘3年(1333年)5月7日
源朝臣高氏、謹んで申し上げる。


武士たちも八幡神を信じる

願文は、美しい言葉を宝石のようにつなぎ、道理もはっきりと述べられていた。

これを聞いた者たちは、

「八幡神も、きっとこの願いをお受け入れになるだろう」

と、深く信じた。

兵士たちも皆、八幡神の加護を頼りにするようになった。


高氏、鏑矢を奉納する

高氏は自ら筆を取り、願文に署名と印を加えた。

さらに、自分の箙の上に差していた鏑矢を1本添え、願文とともに社殿へ納めた。

すると弟の足利直義をはじめ、

  • 吉良氏
  • 石塔氏
  • 仁木氏
  • 細川氏
  • 今川氏
  • 荒川氏
  • 高氏
  • 上杉氏

など、付き従う武将たちも、

「自分も奉納しよう」

と、それぞれ矢を1本ずつ神前へささげた。

奉納された矢は社殿を埋め尽くし、まるで1つの塚のように高く積み上がった。


白旗の上へ山鳩が飛んでくる

やがて夜が明けた。

先頭の軍勢は先へ進み、後ろの軍勢が追いつくのを待った。

高氏が大江山の峠を越えようとした時、1羽の山鳩が飛んできた。

鳩は高氏軍の白旗の上を、ひらひらと舞った。

高氏は言った。

「これは八幡大菩薩が姿を現し、我々を守ってくださる証拠である。

この鳩が飛んでいく方向に従って進め」

旗を持つ兵は馬を速め、鳩のあとを追った。


鳩が神祇官の木に止まる

山鳩は、急ぐことなく、ゆっくりと京都の方へ飛んでいった。

そして昔、宮中があった場所に近い、神祇官の前の樗の木へ止まった。

朝廷軍は、

「八幡神が、我々を京都まで導いてくださった」

と、この不思議な出来事に勇気づけられた。

兵たちは内野を目指し、勢いよく進んだ。


幕府兵が次々と降伏する

高氏軍が京都へ向かう途中、幕府方の兵が、5騎、10騎という小さな集団ごとに現れた。

しかし彼らは戦おうとしなかった。

旗を巻き、兜を脱ぎ、次々と高氏へ降伏した。

高氏が篠村を出発した時、その軍勢は2万騎余りだった。

ところが右近馬場を通過するころには、降伏した兵や新たに加わった武士によって、5万騎余りにまで増えていたのである。

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63. 六波羅への総攻撃


六波羅軍、6万騎を3手に分ける

『太平記』によれば、六波羅探題は6万騎余りの軍勢を3つに分けた。

一隊は神祇官の前に陣を置き、足利高氏の軍を防ぐ。

一隊は東寺方面へ向かい、赤松円心の軍を防ぐ。

もう一隊は伏見の北側へ向かい、千種忠顕が攻めてくる竹田・伏見方面を守った。

午前10時ごろ、正面と裏手の両方で、同時に戦いが始まった。

馬が巻き上げる土煙は南北へたなびき、兵たちの叫び声は天地を震わせた。


内野でのにらみ合い

内野方面には、六波羅方の河野通治と陶山が、選び抜かれた2万騎余りの勇士を率いて向かっていた。

朝廷軍も、簡単には敵陣へ攻め込まない。

六波羅軍も、むやみに陣から出ようとはしなかった。

両軍は互いに陣を保ち、しばらくの間、矢を射合うだけで時間を過ごした。


設楽五郎左衛門の名乗り

その時、朝廷軍の中から1人の武士が馬を進めた。

櫨色に染めた糸で飾った鎧を着て、薄紫色の母衣を背負っている。

武士は、ただ1騎で敵陣の前へ進み、大声で名乗った。

「私は大した身分の者ではないので、名を知る者もいないだろう。

足利殿の家臣、設楽五郎左衛門尉という者である。

六波羅殿の家臣の中に、腕に自信のある者がいるならば、出てきて戦え。

私の武芸のほどを見てみよ」

設楽は3尺5寸(約1.1m)ほどの太刀を抜き、兜の正面へ差し込むように構えた。

矢を射込める隙がほとんどない姿で、堂々と馬を止めた。

1騎で1,000人に相当するほどの勢いに見えたため、敵も味方も戦いを止め、その勝負を見守った。


老武者・斎藤玄基

すると六波羅軍の中から、50歳ほどの老武者が進み出た。

黒糸で飾った鎧を着て、5枚張りの兜の緒を締め、青い飾り房をつけた白栗毛の馬に乗っていた。

老武者は、馬を静かに歩かせながら名乗った。

「私は愚かな者ではあるが、長年、幕府の役人の1人に加わり、その末席を汚してきた家の者である。

人はきっと、

『書類を書くだけの役人にすぎない』

と侮り、戦う価値のない敵だと思うだろう。

しかし我が先祖は、利仁将軍の一族であり、代々、武勇を家業としてきた。

私はその17代目の子孫、斎藤伊予房玄基である。

今日の戦いは、敵と味方の運命を決めるものだ。

命を惜しんで何になる。

生き残る者がいれば、私の忠義ある戦いを語り、子孫へ伝えてほしい」


設楽と斎藤の相討ち

2人は同時に馬を走らせた。

すれ違いざまに鎧の袖をつかみ合い、そのまま強く組みついて、地面へ落ちた。

設楽の方が力は強かった。

斎藤の上に乗り、首を切り落とそうとした。

しかし斎藤は判断の速い武士だった。

押さえられながらも、設楽を3度、刀で突いた。

2人とも勇猛な武士だった。

死んだあとまで互いにつかんだ手を離さず、どちらも刀を相手の体へ突き立てたまま、同じ場所に頭を並べて倒れていた。


大高重成、河野通治を呼び出す

続いて足利軍から、別の武士が敵の前へ進んだ。

紺色の美しい糸で飾った鎧を着て、鍬形のついた兜の緒を締めている。

5尺余り(約1.5m余り)の大太刀を抜き、肩にかけていた。

敵陣から半町(約55m)ほどの場所まで馬を進めると、大声で名乗った。

「我が家は八幡太郎義家公の時代以来、代々源氏に仕えてきた。

名の知られた家ではあるが、このような時に自分の名を示さなければ、立派な敵と戦う機会もない。

私は足利殿の家臣、大高二郎重成である。

先日の戦いで、たびたび手柄を立てたと聞く陶山備中守、河野対馬守はここにいるか。

出てきて戦え。

太刀で勝負し、皆に見物させようではないか」

大高は手綱を短く持ち、馬に白い泡をかませながら、敵が出るのを待った。


河野通遠、大高に挑む

陶山は、

「東寺方面の戦いが激しい」

という知らせを受け、急いで八条方面へ移っていたため、この陣にはいなかった。

河野対馬守通治だけが、第1陣に進んでいた。

大高から名指しで挑まれると、もともと挑戦を受けて黙っていられない武士である。

「河野通治はここにいる!」

と叫び、大高と組み合おうとして馬を近づけた。

すると河野通治の養子に、河野七郎通遠という16歳の若武者がいた。

養父を討たせてはならないと思ったのだろう。

河野通治より先に馬を進め、大高の前へ立ちふさがった。

2人は馬を並べると、すぐに組み合った。


大高、若武者を投げ飛ばす

大高は河野七郎の鎧の総角をつかみ、体を宙へ持ち上げた。

そして言った。

「お前のような子どもと組んで、勝負を決めるつもりはない」

若武者を横へ投げ捨てようとして、その鎧につけた笠印を見ると、折敷の中に三文字を描いた河野氏の印だった。

大高は、

「この者も河野の子か、甥なのだろう」

と気づいた。

しかし手加減はしなかった。

片手で太刀を振り、河野七郎の両膝を切り落とした。

そして弓の長さ3本分ほど遠くへ投げ飛ばした。


河野と大高を守る両軍が衝突する

河野通治は、最もかわいがっていた養子が、目の前で討たれるのを見た。

もはや命を惜しむ理由はない。

大高へ組みつこうと、両足で馬の腹を蹴り、突進した。

それを見た河野の家来300騎余りが、

「主人を討たせるな!」

と叫びながら攻めかかった。

一方、足利軍も、

「大高を討たせてはならない!」

と、1,000騎余りが一斉に攻め寄せた。

源氏と平氏の兵が入り乱れ、黒い煙を立てるほど激しく戦った。

朝廷軍が多く討たれて内野まで退くと、足利軍は新しい兵を入れて攻めた。

六波羅軍が多く討たれて河原へ退くと、幕府方も新しい兵を入れ、ここを最後の戦いと考えて攻め返した。

一条・二条の東西で、追ったり退いたりする戦いが7度、8度と繰り返された。

両軍とも命を惜しまず戦ったため、どちらが勇敢で、どちらが臆病か、見分けることもできなかった。

しかし足利軍の方が兵の数で勝っていた。

ついに六波羅軍は敗れ、六波羅の屋敷を目指して退却した。


赤松円心、東寺を攻める

東寺方面へは、赤松円心が3,000騎余りを率いて攻め寄せた。

東寺の楼門へ近づくと、赤松信濃守範資が鐙を強く踏み、左右を見回して命じた。

「誰かいるか。

あの木戸と逆茂木を引き破れ!」

すると宇野・柏原・佐用・真島の血気盛んな若武者300人余りが、馬を乗り捨てて走り寄った。


東寺の堅い防御

敵の防御施設を見ると、西は羅城門の礎石付近から、東は八条河原まで続いていた。

太さ5寸、6寸、8寸、9寸(約15〜27cm)ほどもある材木をしっかりと組み、丈夫な壁を築いてある。

その前には乱杭や逆茂木を並べ、幅3丈余り(約9m余り)の堀を掘り、川の水をせき入れていた。

飛び込もうとしても、水の深さが分からない。

歩いて渡ろうとしても、橋は取り外されている。

赤松方の兵たちは、どうすればよいか迷った。


妻鹿孫三郎、堀へ飛び込む

その時、播磨国の武士である妻鹿孫三郎長宗が、馬から飛び降りた。

弓を水中へ差し込み、堀の深さを調べた。

すると弓の先端が、わずかに水面へ残った。

妻鹿は、

「自分の身長なら、立ったまま渡れるだろう」

と考えた。

5尺3寸(約1.6m)の太刀を抜いて肩にかけ、靴を脱いで投げ捨てると、勢いよく堀へ飛び込んだ。

水は、妻鹿の胸当てより上には届かなかった。


武部七郎、水に沈む

あとに続いた武部七郎は、それを見て言った。

「堀は浅いぞ」

武部は、身長が5尺(約1.5m)ほどの小柄な男だった。

勢いよく飛び込むと、水は兜の上まで達してしまった。

妻鹿は振り返り、

「私の総角につかまって上がれ」

と言った。

武部七郎は妻鹿の鎧の上帯へ足をかけ、肩の上までよじ登った。

そして一気に跳び、向こう岸へ着いた。

妻鹿は大声で笑った。

「お前は私を橋にして渡ったな。

それでは、あの壁を引き破ろう」


妻鹿、壁を引き倒す

妻鹿は岸から高く跳び上がった。

壁を支える柱が4、5寸(約12〜15cm)ほど地上に出ているのを見つけ、両手をかけた。

そして、

「えいや、えいや!」

と力いっぱい引いた。

すると1、2丈(約3〜6m)ほど高く積み上げられた大量の土が、壁とともに崩れ落ちた。

その土が堀を埋め、堀は平地のようになった。


雨より激しい矢

これを見た六波羅軍は、築地塀の上に300か所余り並べた櫓から、一斉に矢を射かけた。

前へ出たり引いたりしながら射る矢は、雨よりも激しく降り注いだ。

妻鹿の鎧の菱縫や、兜の吹返しには、何本もの矢が突き立ち、一部は折れたまま残った。

妻鹿は高い櫓の下へ走り込んだ。

そして東寺の門前に立つ二体の金剛力士像の間で、太刀を逆さに突いて立った。

その姿は力強く、どちらが仁王像で、どちらが妻鹿孫三郎なのか、見分けるのも難しいほどだった。


六波羅軍1万騎が出撃する

東寺・西八条・針小路・唐橋付近に待機していた六波羅軍1万騎余りは、

「木戸口で激しい戦いが起きている」

と聞き、すべて一隊となった。

東寺の東門の脇から、雨を含んだ黒雲が夕暮れの山から現れるように、一気に打って出た。

妻鹿と武部は、

「今にも討たれる」

と思われるほど危険な状態になった。

すると、

  • 佐用兵庫助
  • 得平源太
  • 別所六郎左衛門
  • 別所五郎左衛門

らが続けて攻め込み、敵に背中を見せず戦った。


赤松一族が総攻撃する

赤松円心は、

「あの者たちを討たせるな!」

と叫んだ。

そして、

  • 嫡男・赤松信濃守範資
  • 次男・赤松筑前守貞範
  • 三男・赤松律師則祐
  • 真島氏
  • 上月氏
  • 菅家
  • 衣笠氏

ら3,000騎余りが、一斉に太刀を抜いて攻めかかった。

六波羅軍1万騎余りは、縦横に陣を破られ、七条河原まで追い出された。


六波羅軍、各方面で敗れる

1つの陣が破られると、残る陣も無事ではいられなかった。

六波羅軍は竹田の戦いでも敗れた。

木幡・伏見方面でも敗れた。

各地から逃げてきた軍勢は散り散りになり、六波羅の城へ逃げ込んだ。


5万騎が六波羅を包囲する

勝利の勢いに乗り、逃げる幕府軍を追ってきた朝廷軍は、四方から六波羅へ集まった。

『太平記』本文では、その数は5万騎余りに達したという。

五条橋のたもとから七条河原まで、数えきれないほどの軍勢が六波羅を取り囲んだ。

ただし東側だけは、わざと開けてあった。

敵に、

「まだ逃げ道がある」

と思わせ、城兵の心を1つにさせず、簡単に攻め落とすための作戦だった。


千種忠顕、短時間で攻め落とせと命じる

千種忠顕(頭中将)は、兵たちに命じた。

「この城を普通の方法で長く攻め続ければ、千早城を包囲している幕府軍も、あちらを捨てて救援に来るかもしれない。

全軍が心を1つにして、短い時間のうちに攻め落とせ」


車と家材を積み上げる

出雲・伯耆の兵たちは、荷車を200両、300両と集めた。

車の柄と柄を固く結び合わせ、その上に家を壊した材木を山のように積み上げた。

それを六波羅の櫓の下まで押し寄せ、火をつけた。

こうして、一方の城門を焼き破った。


梶井宮の僧兵が反撃する

その時、梶井宮の門徒である上林房・勝行房の同宿たちが、鎧兜を身につけ、300人余りで城から打って出た。

地蔵堂の北門から五条橋のたもとへ進み、朝廷軍へ攻めかかった。

坊門少将や殿法印の兵3,000騎余りは、わずか300人ほどの僧兵に追い立てられ、河原を3町(約330m)ほど退いた。

しかし僧兵たちも、さすがに小勢だった。

「長く追えば、かえって危険だ」

と考え、再び六波羅城内へ戻った。


5万騎いながら動けない六波羅軍

『太平記』本文では、六波羅城内の軍勢も、なお5万騎余りいたとされる。

この時、全員が心を1つにし、同時に城外へ攻め出していたならば、すでに勢いに乗って追ってきた朝廷軍も、簡単には踏みとどまれなかっただろう。

しかし、幕府が滅びる運命がすでに決まっていたためだろうか。

これまで名を知られた勇士たちも、勇気を出さなかった。

並ぶ者のない強い弓の名手たちも、矢を1本も射なかった。

皆、ただ驚いて立ち尽くし、あちらこちらに集まって、逃げる準備をするばかりだった。


皇族・公家たちの恐怖

名誉を大切にし、家を守ろうとする武士たちでさえ、このような状態だった。

まして光厳天皇や上皇をはじめ、

  • 女院
  • 皇后
  • 北政所
  • 公卿
  • 殿上人
  • 稚児
  • 少女
  • 女房たち

は、これまで本当の戦いを目にしたことがなかった。

攻撃の叫び声や、矢を射る音に恐れ震え、

「これから、どうすればよいのか」

と、気を失いそうな様子だった。

それも当然のことだった。

南北の六波羅探題は、その痛ましい姿を見ると、さらに気力を失った。

ただ、ぼう然としているばかりだった。


城兵が逃げ始める

それまで六波羅へ忠実に仕えていた兵たちも、城内がこれほど動揺しているのを見た。

「もはや勝ち目はない」

と思ったのだろう。

夜になると城門を開き、逆茂木を乗り越え、

「自分こそ先に逃げよう」

と、次々に城を出ていった。

正義を重んじ、命を惜しまず城に残った兵は、1,000騎にも満たなかったという。

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64. 光厳天皇・両上皇、六波羅を脱出する


糟谷宗秋、関東への退却を勧める

六波羅城内では、兵たちが次々と逃げ出し、残る軍勢は1,000騎にも満たなくなっていた。

その時、糟谷三郎宗秋が六波羅探題の前へ進み出て、申し上げた。

「味方の兵は、しだいに城を離れていき、今では1,000騎にも満たないほどになりました。

この兵力で朝廷方の大軍を防ぐことは、もはや不可能だと思われます。

敵は東側だけを、まだ完全には包囲していません。

今のうちに光厳天皇と後伏見上皇・花園上皇をお連れし、関東へお下りください。

鎌倉へ到着したのち、改めて大軍を集め、京都を攻めるべきです。

勢多橋を守っている佐々木判官時信も、一緒にお連れになれば、兵力が不足することはないでしょう。

時信が味方であるかぎり、近江国で進路をふさぐ者はいないはずです。

美濃・尾張・三河・遠江にも、幕府へ敵対する者がいるとは聞いていません。

道中も、きっと無事に通れるでしょう。

鎌倉へ到着すれば、間を置かず朝廷軍を討つことができます。

どうか、ただちに決断なさってください。

このように防御に向かない平地の城へ天皇と上皇をお入れし、名もない武士の刃にかかって、そのお名を傷つけるようなことになれば、何とも悔しいではありませんか」

糟谷宗秋が何度も強く勧めたため、南北の六波羅探題も、

「確かに、そのとおりだ」

と考えた。


女性たちを先に逃がす

六波羅では相談の末、次のように決めた。

「まず天皇の母、皇后、女院、北政所をはじめ、女性や幼い者たちを、ひそかに城外へ逃がそう。

その後で落ち着いて、敵の包囲の一方を打ち破り、関東へ向かうことにしよう」

小串五郎兵衛尉を使者として、天皇と上皇の御所へ、この方針を伝えた。

すると、

  • 天皇の母
  • 皇后
  • 女院
  • 北政所
  • 内侍
  • 童女
  • 身分の高い女房たち

は、六波羅城内にとどまる恐ろしさと、思いもしなかった別れの悲しみで、これからどうなるかも考えられなくなった。

履物をはく余裕さえなく、裸足のまま、

「自分こそ先に逃げなければ」

と、城外へ迷い出ていった。

その姿は、春の庭園に咲いた花々が、1度の嵐に吹かれ、四方の霞の中へ散っていくようだった。

以前の華やかな宮廷生活も、今では夢と少しも変わらなかった。


北条仲時と妻子の別れ

六波羅北方の北条仲時は、自分の妻に向かって言った。

「これまでは、たとえ思いがけず京都を離れることになっても、どこまでも一緒に連れていこうと思っていた。

しかし敵が東西を埋め、道をふさいでいるという。

私自身、無事に関東まで逃げ延びられるとは思えない。

お前は女性だから、敵に見つかっても、それほどひどい扱いは受けないだろう。

松寿もまだ幼いので、たとえ敵に見つかっても、誰の子なのか分からないはずだ。

今のうちに夜の暗さに紛れ、どこかへひそかに逃げなさい。

人里離れた場所へ身を隠し、世の中が静まるまで待つのだ。

私が無事に関東へ着くことができたなら、すぐに迎えの者を送ろう。

もし私が道中で討たれたと聞いたならば、どのような人を頼ってでも、松寿を立派に育ててほしい。

物事が分かる年齢になったら僧にし、私の死後を供養させてくれ」

仲時は心細そうに言い残し、涙を流して立ち上がった。


「どこまでも一緒に行きたい」

妻は仲時の鎧の袖をつかみ、泣きながら言った。

「どうして、そのような悲しいことをおっしゃるのですか。

このような時に幼い子を連れ、見知らぬ場所で休んでいれば、誰でも、

『これは落ち武者の妻子ではないか』

と疑うでしょう。

以前から知っている人の家へ逃げ込めば、敵に捜し出されるかもしれません。

そうなれば、私自身が恥を受けるだけではなく、幼い子の命まで失ってしまいます。

道中で思いがけない出来事が起きるのならば、その時は同じ場所で、一緒に死のうではありませんか。

頼る木陰さえない世の中へ、私たちだけを置き去りになさるのならば、秋風の中の露ほどの短い間さえ、生き続けられる気がいたしません」

仲時は武勇のある人物だった。

しかし石や木でできた心ではない。

自分を慕う妻と子を置いていくことができず、長い間その場から出発できなかった。


項羽と虞美人の別れ

昔、中国の漢王・劉邦と、楚王・項羽は、70回余りも戦った。

最後に項羽は劉邦の大軍へ包囲され、夜が明ければ討ち死にしようという状況になった。

その夜、漢軍が四方で楚の歌を歌っているのを聞いた項羽は、

「楚の国の者たちは、すでに皆、漢へ降伏したのか」

と絶望した。

項羽は陣幕の中へ入り、愛する虞美人へ向かい、別れを悲しんで歌った。

私の力は山を引き抜き、
気力は世を覆うほどだった。

しかし時の運が味方せず、
愛馬の騅も、もう進もうとしない。

騅が進まなければ、どうすればよいのか。
虞よ、虞よ、
お前をどうすればよいのだ。

項羽が涙を流すと、虞美人は悲しみに耐えられず、剣の上へ身を伏せ、項羽より先に命を絶った。

翌日、項羽はわずか28騎を率いて、漢軍四十万の中を駆け破り、自ら漢の将軍3人を討ち取った。

そして生き残った兵たちへ言った。

「私が劉邦に滅ぼされるのは、戦い方が悪かったためではない。

天が私を滅ぼそうとしているのだ」

項羽は自分の運命を悟り、烏江のほとりで自害した。

仲時と妻の別れを見た武士たちは、この項羽と虞美人の物語を思い出し、涙を流さずにはいられなかった。


北条時益が出発を急がせる

六波羅南方の北条時益は、光厳天皇らの一行を先導するため、馬に乗って待っていた。

時益は仲時の屋敷の中門近くまで馬を進め、大声で言った。

「天皇はすでに宮中の馬へお乗りになっている。

どうしていつまでも出発なさらないのか」

そう言い残すと、時益は先へ進んだ。

仲時は仕方なく、自分の鎧の袖へつかまっている妻と幼い子の手を振りほどいた。

縁側から馬へ飛び乗り、北門から東へ向かって出発した。

取り残された妻子や女房たちは、泣きながら左右へ別れ、東門から逃げていった。


最後とは知らない別れ

遠ざかる妻子の泣き声が、いつまでも仲時の耳に残った。

別れがたさのため、前方の道さえ暗く見え、仲時は馬の進むままに歩かせていった。

互いに、これが最後の別れになるとは知らなかった。

それが何とも悲しいことだった。


六波羅館の炎上

14、15町(約1.5〜1.6km)ほど進んでから後ろを振り返ると、すでに南北の六波羅館へ火がつけられていた。

館は炎に包まれ、1筋の煙となって燃え上がった。

元弘3年(1333年)5月の月のない暗い夜で、前も後ろもよく見えない。

苦集滅道付近には野武士たちが満ち、四方から雨のように矢を放ってきた。


北条時益の戦死

その矢の1本が、先導していた北条時益の首の骨へ突き刺さった。

時益は馬から真っ逆さまに落ちた。

家来の糟谷七郎は、すぐに馬から降り、時益に刺さった矢を抜いた。

しかし時益は、その場で息を引き取った。

敵がどこにいるのか、暗闇のため分からない。

敵へ駆け寄って討つこともできない。

しかも、ひそかに逃げている途中である。

仲間へ知らせ、引き返して戦うこともできなかった。


糟谷七郎、主人とともに死ぬ

糟谷七郎は考えた。

「この場で主人と同じ枕に倒れ、自害するほかない。

死後までも、主人と家来の義を守るべきだ」

糟谷は泣きながら時益の首を取り、錦の直垂の袖に包んだ。

そして道端の田の中へ深く隠した。

その後、自ら腹を切り、時益の遺体の上へ重なった。

最後には主人を抱きしめるようにして、息絶えた。


天皇一行が襲われる

光厳天皇の一行が四宮河原を通過しようとすると、前後から声が聞こえた。

「落ち武者が通るぞ!」

「討ち取って鎧や武器を奪え!」

野武士たちは、雨が降るように矢を射かけた。

このまま一緒に進み続けても、先に何が待っているか分からない。

皇太子をはじめ、付き従っていた公卿や殿上人たちは、次々に別々の方向へ逃げていった。


わずか4人になった供奉者

天皇の前後に残った公家は、わずかに、

  • 日野大納言資名
  • 勧修寺中納言経顕
  • 綾小路中納言重資
  • 禅林寺宰相有光

の4人だけとなった。

京都は夜明け前の雲に隠れ、すでに遠く離れていた。

天皇と上皇は、はるか東国への道に心を向けた。

昔、中国の皇帝が剣閣という険しい地へ逃れたことや、戦乱の中で天子が都を離れた故事を思い出し、

「自分たちも、同じ運命をたどるのだろうか」

と心を悩ませた。

天皇も上皇も、涙を抑えることができなかった。


光厳天皇が矢傷を負う

5月の短い夜は、まだ完全には明けていなかった。

関所のこちら側も暗かったため、一行は杉の木陰に馬を止め、少し休んだ。

その時、どこから飛んできたか分からない矢が、光厳天皇の左肘に突き刺さった。

陶山備中守は急いで馬から飛び降りた。

矢を抜き、傷口から血を吸い出した。

流れる血が、雪のように白い天皇の肌を赤く染めた。

その姿は、まともに見ていられないほど痛ましかった。

天下を治める尊い天皇が、名もない兵の矢によって傷つけられたのである。

神聖な竜が、突然、漁師の網へかかったような、何とも嘆かわしい世の中だった。


前方をふさぐ500〜600人

ようやく夜が明け始め、朝霧がわずかに残るころ、北側の山を見ると、野武士と思われる500〜600人が待ち構えていた。

彼らは盾を並べ、矢をつがえて、一行の進路をふさいでいる。

天皇に付き従う者たちは、これを見て驚き、途方に暮れた。


中吉弥八、野武士を叱る

その時、備前国の武士である中吉弥八が、天皇の一行の先頭にいた。

弥八は敵の近くまで馬を進め、大声で言った。

「恐れ多くも天下の天皇が、関東へお向かいになるところである。

お前たちは何者で、そのような乱暴を働くのか。

道理を知る者ならば、弓を伏せ、兜を脱ぎ、天皇をお通しせよ。

礼儀を知らない者たちであるならば、1人ずつ捕らえ、首を斬って道の脇へさらして通るぞ」


野武士の要求

野武士たちは大声で笑った。

「どのような天下の天皇であろうと、運はすでに尽き、逃げていこうとなさっている。

そのまま通すつもりはない。

どうしても通りたいのであれば、付き従う武士たちの馬と鎧を、すべて置いていかせよ。

そうすれば、安心して逃げることができるだろう」

言い終わらないうちに、野武士たちは一斉に攻撃の声を上げた。


6騎で野武士を追い散らす

中吉弥八は怒った。

「何と卑しい者たちだ。

欲しがっている鎧を、こちらから渡してやろうではないか」

弥八は若い家来6騎と馬を並べ、一斉に敵へ攻めかかった。

欲に目のくらんだ野武士たちは、わずか6騎に追い立てられ、蜘蛛の子を散らすように四方八方へ逃げた。

6騎は6つの方向へ分かれ、逃げる野武士をそれぞれ数十町(1町を約109mとする単純換算では数km)も追った。


中吉弥八、敵に囲まれる

弥八はあまりに遠くまで追いすぎた。

すると野武士20人余りが引き返し、弥1人を包囲した。

それでも弥八は、少しもひるまなかった。

敵の中で大将と見える者へ馬を並べ、強く組みついた。

2人は馬の間へ激しく落ちた。

さらに4、5丈(約12〜15m)ほど高い崖の上から、上になったり下になったりしながら転がり落ちた。

2人は組みついた手を離さないまま、深い田の中へ落ちた。


刀を失った弥八

弥八は下になった。

敵は弥八を一刀で刺そうと、腰の刀を探した。

しかし崖から転がる時に抜け落ちたのだろうか。

鞘だけが残り、刀はなくなっていた。

上になった敵は弥八の胸板へ乗り、髪をつかんで、首を斬ろうとした。


弥八の機転

その時、弥八は敵の刀を持つ腕を両手で押さえ、言った。

「少し待ってください。申し上げたいことがあります。

もう私を恐れる必要はありません。

私には刀がないので、相手をはね返して勝つこともできません。

あとから来る味方もいないので、誰かが重なって私を助けることもありません。

このまま私の首を取って持っていったとしても、誰も確認してはくれず、手柄にもならないでしょう。

私は六波羅殿に仕える雑用係で、六郎太郎という者です。

私を知る者など、ほとんどいません。

役にも立たない下働きの首を取って罪を作るより、命を助けてください。

そのお礼として、よいことをお教えします。

六波羅殿が6,000貫(当時の貨幣単位)の銭を、ひそかに埋めた場所を私は知っています。

そこへご案内し、あなたに手に入れさせて差し上げましょう」

敵は、その話を本当だと思ったらしい。

抜いていた刀を鞘へ納め、下にいた弥八を引き起こした。

命を助けただけでなく、さまざまな贈り物を与え、酒まで飲ませた。

そして弥八を連れ、京都へ戻った。


六波羅跡で敵をだます

弥八は六波羅館の焼け跡へ連れていかれると、こう言った。

「確かに、この場所へ埋められていたはずなのですが、誰かが先に掘り出して持っていったようです。

あなたを裕福にして差し上げようと思ったのに、どうも運が悪い方ですね」

弥八は敵をだまし、空笑いをして、その場を離れた。

この弥八の計略によって道が開かれ、天皇の一行は逃げ続けることができた。


篠原宿へ到着する

その日、光厳天皇の一行は篠原宿へ到着した。

そこで粗末な網代輿を、どうにか探し出した。

徒歩で付き従っていた武士たちは、急に輿を担ぐ者のような姿となり、天皇の輿の前後を守った。


尊胤法親王(梶井宮)、一行から離れる

天台座主である梶井二品親王は、ここまで天皇に付き従っていた。

しかし、この先の道も安全に通れるとは思えない。

そこで、

「どこかへ、しばらく身を隠したい」

と考えた。

梶井宮は、

「私に仕える者は、誰が残っているか」

と尋ねた。

すると、

「昨夜の道中の戦いで、傷を負って残った者もおります。

心変わりして逃げた者もいるのでしょう。

現在までお供している僧や坊官は、中納言僧都経超と二位寺主浄勝の2人だけです」

という答えだった。

梶井宮は、

「この人数では、遠い道を進むことはできない」

と考え、天皇一行と別れ、伊勢方面へ向かった。


鈴鹿山を徒歩で越える

鈴鹿山は、ただでさえ山賊が多い場所だった。

立派な鞍を置いた馬へ乗っていれば、かえって山賊の目を引き、危険を招くだろう。

そこで梶井宮は、持っていた馬をすべて宿の主人へ与えた。

梶井宮自身は、長く裾を引く絹の衣と、裏地のない檳榔色の衣を着て歩いた。

経超僧都は、下着を重ねた黒い僧衣を着て、水晶の数珠を手に持っていた。

2人とも歩き慣れておらず、なかなか先へ進めない。

その姿を見れば、誰でも、

「これは逃げている高貴な人物に違いない」

と思ったはずである。


山の人々に助けられる

しかし日吉山王や伝教大師の加護があったのだろうか。

山道で出会った木こりや、野道を歩く農民たちは、梶井宮の手を引き、腰を支えた。

こうして梶井宮は、無事に鈴鹿山を越えることができた。


伊勢で身を隠す

梶井宮は、伊勢の神職である1人の人物を、ひたすら頼った。

その神職は情け深い者だった。

梶井宮をかくまえば、自分も処罰される危険がある。

それでも自分の身の危険を顧みず、何とか宮をひそかにかくまった。

梶井宮は、その場所で30日余り身を隠した。

京都が少し静まると、再び都へ戻った。

その後三、4年の間、白毫院という場所で、世を捨てた僧のように暮らしたのである。

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65. 北条仲時ら、番場で自害する


六波羅の落人を待ち受ける者たち

南北の六波羅探題が京都の戦いに敗れ、関東へ逃げようとしているという知らせが広まった。

すると、

  • 安宅
  • 篠原
  • 日夏
  • 老曾
  • 愛知川
  • 小野
  • 四十九院
  • 摺針
  • 番場
  • 醒井
  • 柏原

などの土地や、伊吹山のふもと、鈴鹿川付近にいた山賊・強盗・野武士たちが、一夜のうちに集まった。

その数は2,000人、3,000人にもなった。

彼らは、『太平記』が「先帝第五の宮」と記す皇族を大将として迎えた。

※人物について:この「先帝第五の宮」は、一般に五辻宮・守良親王とされる。守良親王は後醍醐天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である。したがって、ここでは「後醍醐天皇の第5皇子」とはしない。

この皇子は、それまで世を捨てた僧のような姿で、伊吹山のふもとに身を隠していた。

野武士たちは皇子を中心に錦の御旗を掲げ、東山道でも特に険しい場所である、番場宿の東にある小山の峰へ登った。

そして谷底を通る細い道を間に挟み、六波羅勢を待ち受けた。


仲時一行、番場へ向かう

夜が明けると、北条仲時は篠原宿を出発した。

※日付について:番場の蓮華寺で北条仲時らが自害したのは、一般に元弘3年(1333年)5月9日の出来事とされる。

光厳天皇と後伏見上皇・花園上皇の一行を、幾重にも重なる山の中へ急がせた。

京都を出た前日までは、付き従う兵が2,000騎余りいた。

しかし途中で次々と逃げたため、この時には700騎にも満たなくなっていた。

仲時は命じた。

「もし後ろから敵が追ってきたならば、矢を射て防げ」

その役目を佐々木判官時信に任せ、後方を守らせた。

また糟谷三郎には、

「敵が道をふさいでいるならば、打ち破って道を開け」

と命じ、先頭を進ませた。

その後ろに天皇の一行が続き、番場峠を越えようとした。


番場の道をふさぐ大軍

ところが山道の両側には、数千人の敵が待ち構えていた。

敵は盾を一面に並べ、矢をつがえて、細い道を完全にふさいでいた。

糟谷三郎は遠くから敵を見て言った。

「この者たちは、近江国や近国の悪党どもだろう。

逃げる我々の鎧や武器を奪おうとして集まったに違いない。

強く一撃を加えて追い散らせば、命を惜しまず戦うほどの者たちではないだろう。

1度の突撃で蹴散らせ」

糟谷に従う36騎は馬を並べ、一斉に攻めかかった。


第1陣を破る

最初の陣を守っていた野武士500人余りは、糟谷軍の突撃を受け、遠くの峰まで追い上げられた。

そして第2陣へ逃げ込んだ。

糟谷は、

「第1陣を簡単に破ったのだから、もう我々を止める者はいないだろう」

と安心した。

しかし朝霧が晴れ、これから越えなければならない山道を見渡すと、峰には一流の錦の旗が風になびいていた。

その下には5,000人、6,000人ほどの大軍が、険しい地形を利用して待ち構えている。


進むことも戦うこともできない

糟谷は第2陣の大軍を見ると、それ以上進むことができず、その場にとどまった。

もう1度攻め破ろうにも、人も馬も疲れている。

敵は険しい山を背にして守っていた。

近づいて矢を射合おうにも、糟谷軍はすでに矢をほとんど使い果たしている。

しかも敵は非常に多い。

どのように戦っても、勝てるとは思えなかった。

そこで糟谷たちは、山のふもとにあった辻堂へ下り、後ろから来る仲時の軍を待った。


糟谷宗秋の進言

仲時は、前方で戦いが起きたと聞き、馬を急がせてやって来た。

糟谷三郎宗秋は、仲時に申し上げた。

「武士が死ぬべき場所で死ななければ、最後に恥を受けると昔からいいますが、まことにそのとおりでした。

我々は本来、京都で討ち死にするべき者でした。

しかし、わずか1日の命を惜しんで、ここまで逃げてきました。

その結果、今では名もない田舎者や野武士の手にかかり、道端に遺体をさらそうとしています。

何とも悔しいことです。

敵がこの1か所だけならば、命を捨てて打ち払い、道を通ることもできるでしょう。

しかし、おそらくこの先では、土岐一族が待ち構えています。

土岐氏は初めから反乱の中心となっていたのですから、この機会に美濃国を通すまいとするでしょう。

また、吉良一族も幕府からの出陣命令へ何度も従わず、遠江国に城を構えたと聞いています。

彼らとも、必ず戦うことになるでしょう。

このような敵を相手にすれば、たとえ1万騎あっても、打ち破ることは難しいと思われます。

まして我々は逃亡中で、人も馬も疲れ果て、矢1本を十分に射る力さえ残っていません。

いったい、どこまで逃げ延びられるでしょうか。

ここは後方の佐々木時信を待ち、近江国へ引き返すべきです。

しばらく守りやすい城に立てこもり、関東から幕府軍が上洛するのを待ってはいかがでしょうか」


仲時も味方を信じられない

仲時は答えた。

「私もそのように考えている。

しかし佐々木時信でさえ、今ではどのような反逆心を持っているか分からない。

心から頼ることができないため、進むことも退くこともできずにいる。

皆の意見を聞いて決めたいと思う。

ともかく、この辻堂にしばらくとどまり、時信を待って相談しよう」

500騎余りの兵たちは、皆、辻堂の庭へ下りて時信を待った。


佐々木時信に届いた誤報

佐々木判官時信は、1里ほど後ろ(中世の里程で、現在のkmには単純換算できない)を300騎余りで進んでいた。

ところが、どのような悪魔のしわざだったのだろうか。

時信のもとへ、誤った知らせが届いた。

「六波羅殿は番場峠の下で野武士に囲まれ、1人残らず討ち取られました」

時信はそれを信じ、

「もはや、どうすることもできない」

と考えた。

そして愛知川から引き返し、朝廷軍へ降伏するため京都へ向かった。


仲時、最期を決意する

仲時は長い間、

「時信はまだ来ないのか」

と待っていた。

しかし待っていた時刻を過ぎても、時信は現れない。

仲時は考えた。

「佐々木時信も、すでに敵へ寝返ったのだ。

もう、どこへ引き返せるというのか。

どこまで逃げられるというのか。

それならば、ここで腹を切ろう」

迷いがなくなると、仲時はかえって心を1つに定め、さわやかな表情となった。


仲時、家臣たちへ語る

仲時は、付き従う兵たちへ言った。

「北条家の武運が次第に傾き、滅亡の時が近づいていることを、皆も分かっていたことだろう。

それでも武士としての名を重んじ、これまでの親しい関係を忘れず、ここまで付き従ってくれた。

その志については、言葉で表すこともできないほどありがたく思う。

深く恩に報いたいと思うが、北条家の運がすでに尽きた以上、何をもって報いることができよう。

今は、私が皆のために自害する。

生きている間に受けた恩へ、死後に報いたいと思う。

私は優れた人物ではない。

しかし北条一族の名を背負う者である。

敵はきっと、私の首を取った者へ大きな領地を与えようとするだろう。

すぐに私の首を取り、源氏方へ差し出しなさい。

そうすれば、これまで幕府方であった罪を償い、朝廷への忠義とすることができる」


北条仲時の自害

仲時は、言い終わらないうちに鐙を外した。

鎧の下の衣を脱ぎ、腹を切って倒れた。

糟谷三郎宗秋は、それを見ると、鎧の袖に流れる涙を押さえながら言った。

「本来ならば、この宗秋が先に自害し、あの世への道を先導しようと思っておりました。

それなのに、殿が先に逝かれてしまったことが、何とも悔しく思われます。

この世では、命をかけた殿の最期を見届けました。

あの世だからといって、殿を見捨てるつもりはありません。

しばらくお待ちください。

死出の山へのお供をいたします」

宗秋は、仲時が腹へ深く突き立てたままにしていた刀を取った。

その刀を自分の腹へ突き立て、仲時の膝へ抱きつき、うつぶせに倒れた。


家臣たちも次々と自害する

仲時と糟谷宗秋の自害を見て、残った武士たちも次々と腹を切った。

『太平記』は、その主だった者として、次の名を挙げている。

佐々木隠岐前司、その子の次郎右衛門・三郎兵衛・永寿丸。

高橋九郎左衛門・孫四郎・又四郎・弥四郎左衛門・五郎。

隅田源七左衛門尉・孫五郎・藤内左衛門尉・与一・四郎・五郎・孫八・新左衛門尉・又五郎・藤六・三郎。

安藤太郎左衛門入道・孫三郎入道・左衛門太郎・左衛門三郎・十郎・三郎・又次郎・新左衛門・七郎三郎・藤次郎。

中布利五郎左衛門、石見彦三郎、武田下条十郎、関屋八郎・十郎、黒田新左衛門・次郎左衛門、竹井太郎・掃部左衛門尉、寄藤十郎兵衛、皆吉左京亮・勘解由七郎兵衛、小屋木七郎、塩屋右馬充・八郎。

岩切三郎左衛門、その子の新左衛門・四郎、浦上八郎、岡田平六兵衛、木工介入道とその子の介三郎、吉井彦三郎・四郎、壱岐孫四郎、窪二郎。

糟谷弥次郎入道・孫三郎入道・六郎・次郎・伊賀三郎・彦三郎入道・大炊次郎・次郎入道・六郎。

櫛橋次郎左衛門尉、南和五郎・又五郎、原宗左近将監入道と、その子の彦七・七郎・七郎次郎・平右馬三郎、御器所七郎、怒借屋彦三郎、西郡十郎、秋月二郎兵衛、半田彦三郎、平塚孫四郎、毎田三郎、花房六郎入道、宮崎三郎・太郎次郎。

山本八郎入道・七郎入道と、その子の彦三郎・小五郎・彦五郎・孫四郎、足立源五、三河孫六、広田五郎左衛門。

伊佐治部丞・孫八・三郎、その子の孫四郎、片山十郎入道、木村四郎、佐々木隠岐判官、二階堂伊予入道、石井中務丞と、その子の弥三郎・四郎、海老名四郎・与一、弘田八郎、覚井三郎、石川九郎とその子の又次郎、進藤六郎・彦四郎。

備後民部大夫・三郎入道、加賀彦太郎・弥太郎、三嶋新三郎・新太郎、武田与三、満王野藤左衛門。

池守藤内兵衛・左衛門五郎・左衛門七郎・左衛門太郎・新左衛門。

斎藤宮内丞と、その子の竹丸・宮内左衛門・七郎・三郎、筑前民部大夫・七郎左衛門。

田村中務入道・彦五郎・兵衛次郎、信濃小外記、真上彦三郎とその子の三郎、陶山次郎・小五郎、小見山孫太郎・五郎・六郎次郎、高境孫三郎、塩谷弥次郎、庄左衛門四郎、藤田六郎・七郎、金子十郎左衛門、真壁三郎、江馬彦次郎、近部七郎、能登彦次郎、新野四郎、佐海八郎三郎、藤里八郎、愛多義中務丞とその子の弥次郎などである。

これらを中心として、合わせて432人が、同じ時に腹を切った。


血に染まる辻堂

流れた血は人々の体を浸し、まるで黄河の流れのようだった。

遺体は辻堂の庭いっぱいに重なり、肉を積んだ屠殺場と少しも変わらないように見えた。

『太平記』の作者は、昔の中国で5,000人の勇士が異民族との戦いで滅びた話や、潼関の戦いで100万の兵が川へ沈んだという故事まで引き合いに出し、番場の惨状を強調している。

あまりにも悲しく、目を向けることもできない。

そのありさまを表す言葉さえなかった。


光厳天皇と上皇の衝撃

光厳天皇と上皇は、目の前で400人を超える武士たちが自害した姿をご覧になった。

あまりの恐ろしさに、心も魂も体から離れたようになった。

ただ、ぼう然として座っているほかなかったのである。

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66. 光厳天皇・両上皇、五辻宮方の軍に捕らえられる


光厳天皇ら、長光寺へ移される

北条仲時以下432人が番場の辻堂で自害したあと、五辻宮・守良親王に従う朝廷軍は、光厳天皇と両上皇を自分たちの管理下に置いた。

その日はまず、一行を長光寺へお連れした。

そして、

  • 三種の神器
  • 玄象(げんじょう)という名の琵琶
  • 下濃(すそご)という名の琵琶
  • 清涼殿の「二間」に安置された御本尊

に至るまで、皇室に伝わる大切な品々が、すべて五辻宮方へ引き渡された。


秦王朝滅亡との比較

その姿は、昔の中国で秦王朝が滅びた時の出来事とよく似ていた。

秦の最後の王である子嬰は、漢の高祖・劉邦に降伏した。

その時、子嬰は天子の印や割符を首にかけ、白い馬が引く飾りのない車に乗り、道のそばまで出て降伏したという。

光厳天皇らが皇室の宝物を渡し、勝者の管理下に置かれた姿も、秦王朝が滅びた時と変わらないように見えた。


日野資名、処罰を恐れる

日野大納言資名は、光厳天皇から特に深く信頼され、重く用いられていた家臣だった。

そのため資名は、

「自分は、これからどれほどつらい目に遭わされるのだろう」

と、自分の身を恐れた。

資名は近くの辻堂に、諸国を歩いて修行する僧がいるのを見つけた。

その僧のもとへ行き、

「出家させてほしい」

と頼んだ。


出家の言葉を求める

僧はすぐに戒を授ける師となり、資名の髪を剃り落とそうとした。

すると資名は、僧に言った。

「出家する時には、何か4句からなる仏教の言葉を唱えるものではありませんか」

ところが、この僧は正式な言葉を知らなかったのだろう。

資名に向かって、

汝これ畜生なり、菩提心を発せ。

と唱えた。

その意味は、

お前は畜生である。
仏の悟りを求める心を起こせ。

という、出家の儀式にはふさわしくない、ひどく乱暴な言葉だった。


三河守友俊も笑う

三河守友俊も、資名と同じ場所で出家しようとしていた。

すでに髪を洗い、剃髪の準備をしていた。

しかし僧の言葉を聞くと、笑いをこらえられなくなった。

「命が惜しいために出家するとはいっても、

『お前は畜生である』

と唱えられるとは、何とも悲しいことだ」

友俊は、声を上げて笑った。

天下が滅びようとする緊迫した状況の中にもかかわらず、どこか間の抜けた出家の場面だった。


公家たちも次々と離れていく

これまで光厳天皇や上皇に付き従っていた公卿や殿上人たちも、次々と一行から離れた。

ある者は途中の土地に残り、ある者は出家して世を捨てた形を取り、それぞれ別の場所へ逃げていった。

ついには光厳天皇、皇太子、両上皇に付き従う者は、

  • 勧修寺経顕
  • 禅林寺有光

の2人だけとなった。


敵兵に囲まれて京都へ戻る

そのほかは、すべて見慣れない朝廷方の兵だった。

天皇や上皇の一行は、敵兵に前後を囲まれ、粗末な網代輿に乗せられて京都へ連れ戻された。

道沿いには、身分の高い者も低い者も、多くの人々が見物のために立っていた。

人々は、その姿を見て口々に言った。


「後醍醐天皇を流した報いだ」

「何と不思議なことだろう。

昨年、六波羅方は後醍醐天皇を笠置山で捕らえ、隠岐国へ流した。

その報いが、3年もたたないうちに現れたのだ。

昨日までは、遠い土地にいる人の災難だと思って聞いていた。

ところが今日は、その苦しみが自分自身の身に降りかかっている。

このようなことを、

『昨日は他人の身に起きた災いが、今日は自分に返ってくる』

というのだろう」

『太平記』は、この出来事を因果応報の物語として受け止める人々の姿を描いている。


光厳天皇の今後を心配する人々

さらに人々は思った。

「この天皇も、これからどこか遠い流刑地へ移され、つらい日々を送ることになるのだろうか」

後醍醐天皇を隠岐へ流した側が、今度は自分たちが捕らえられ、都へ連れ戻されている。

『太平記』によれば、その姿を見た人々は、身分や立場にかかわらず、「因果応報の道理が現れた」と感じたという。

心ある者も、そうでない者も、涙で袖をぬらさない者はいなかったのである。

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67. 千早城包囲軍、六波羅陥落を知って敗走する


六波羅陥落の知らせ

前夜、京都の六波羅は朝廷軍によって攻め落とされた。

光厳天皇と上皇も、すでに関東へ向かって京都を脱出したという。

その知らせが、翌日の正午ごろ、千早城へ届いた。

城内の兵たちは、大いに喜び、勇み立った。

まるで籠の中に閉じ込められていた鳥が、外へ飛び出し、林の中を自由に飛び回れるようになった時の喜びだった。

一方、城を包囲していた幕府軍は、いけにえにされる羊が、神殿へ追い立てられていくような恐ろしい気持ちになった。


幕府軍、撤退を決める

幕府軍は考えた。

「1日でも退却が遅れれば、山中の野武士たちが、さらに多く集まってくる。

そうなれば、山道を通って逃げることが難しくなるだろう」

そこで元弘3年(1333年)5月10日の早朝、『太平記』によれば、千早城を包囲していた10万騎余りの幕府軍は奈良方面を目指して退却を始めた。


前後を敵にふさがれる

しかし前方の山道には、すでに野武士たちが大勢待ち構えていた。

後方からも、朝廷軍が激しく追いかけてきた。

大軍が1度退却を始めると、軍全体が混乱するものである。

兵たちは弓や矢を投げ捨てた。

親と子、兄と弟も離れ離れになった。

誰もが、

「自分だけでも先に逃げよう」

と、押し合いながら逃げた。


崖や谷で命を落とす

逃げる途中、道のない岩場へ入り込み、先へ進めなくなる者がいた。

その場で逃げ切れないと悟り、腹を切る者もいた。

また本文は、何千丈(1丈を約3mとする単純換算では数kmにもなるため、ここは軍記的な誇張表現)もあるような深い谷へ落ち、全身の骨を粉々に砕いて死ぬ者もいた、と描いている。

どれほど多くの者が命を落としたのか、数えることもできなかった。


自分たちが設けた関に苦しむ

幕府軍は以前、

「味方の兵が勝手に国へ帰らないようにしよう」

と考え、山道の各所へ見張りを置いていた。

谷間には関所を設け、逆茂木で道をふさいでいた。

ところが急な退却となったため、それらを取り除く者がいない。

兵たちは、自分たちで造った関や逆茂木に行く手をふさがれた。

狭い場所へ兵と馬が殺到し、後ろから押されて馬から落ちる者がいた。

倒れた者は、あとから来る人や馬に踏み殺された。


戦わずに逃げる10万騎

幕府軍は2、3里(中世の里程で、現在のkmには単純換算できない)にわたる山道を、数万の敵に追い立てられた。

1度も軍を立て直して戦うことなく、ただ逃げ続けた。

その日の朝までは、10万騎余りの大軍に見えた。

しかし、退却の途中で多くが討ち取られ、生き残った者はわずかになった。

命を助けた兵たちも、馬や鎧、武器を捨てずに逃げられた者は1人もいなかった。


山道に残された白骨

そのため後の時代になっても、金剛山のふもとや東条谷の道沿いには、多くの白骨が残っていたという。

骨には、矢が貫いた穴や、刀で斬られた傷が残っていた。

遺体を引き取って葬る者もいなかったため、白骨は苔に覆われ、幾重にも積み重なっていた。


大将たちは奈良へ逃げ延びる

それでも、幕府軍の主だった大将たちは、道中で1人も討ち取られなかった。

兵の多くを見捨て、武具も失った以上、生き残ったことにどれほどの意味があったかは分からない。

大将たちは、その日の夜中ごろ、ようやく奈良へ逃げ着いたのである。

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