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巻第十四|目次
- 105. 新田義貞と足利尊氏、互いに相手の討伐を訴える
- 106. 新田義貞、足利尊氏討伐のため東国へ出陣する
- 107. 矢作川・鷺坂・手越河原の戦い
- 108. 箱根・竹ノ下の戦い――新田軍の優勢が崩れる
- 109. 新田義貞、箱根から撤退する――天竜川の危機
- 110. 全国で足利方が蜂起する――京都へ届く相次ぐ急報
- 111. 足利尊氏軍の進撃――大渡・山崎の防衛線が崩れる
- 112. 後醍醐天皇、京都を離れて比叡山へ向かう
- 113. 名和長年、荒れ果てた内裏へ戻る――京都炎上
- 114. 結城親光の決死の襲撃――大友貞載との死闘
- 115. 比叡山の衆徒、後醍醐天皇を迎える
※読み方:軍勢の数、超人的な戦闘、瑞兆、神仏の加護、怪異、因果応報などは、『太平記』本文の叙述であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定が一般的な歴史叙述や現存史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、尺・寸・丈・町・斗など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。一方、中世・中国説話の「里」や当時の貨幣は単純に現代単位へ換算しない。
105. 新田義貞と足利尊氏、互いに相手の討伐を訴える
足利尊氏が独自に「征夷将軍」を名乗る
建武2年(1335年)、足利尊氏は北条時行を破り、東国を平定した。
尊氏は、
「朝廷から、関東平定の功績によって征夷大将軍に任命するという約束を受けている。
今さら問題はないだろう」
と考えた。
正式な宣旨がまだ下されていないにもかかわらず、周囲の者たちは尊氏を足利征夷将軍と呼ぶようになった。
※史実との違い:ここは『太平記』本文の叙述である。一般的な歴史叙述では、建武2年(1335年)に足利尊氏が征夷大将軍への任命を求めたものの認められず、中先代の乱への東下後もこの時点では征夷大将軍ではなかった。尊氏が正式に征夷大将軍となるのは建武5年/暦応元年(1338年)である。
関東の所領を足利方へ与える
『太平記』本文では、関東8か国を支配することについては、すでに後醍醐天皇の許可が出ていたとする。
そこで尊氏は、箱根や相模川などで北条時行軍と戦い、功績を立てた武士へ恩賞を与えた。
その際、以前に新田一族へ与えられていた東国の所領まで、すべて所有者のいない土地として取り上げた。
そして足利方の武士へ与えてしまった。
新田義貞も足利一族の所領を取り上げる
新田義貞はこの知らせを聞き、ひどく腹を立てた。
そこで報復として、自分が支配していた、
- 越後国
- 上野国
- 駿河国
- 播磨国
などにある足利一族の荘園を押さえた。
そして自分の家臣へ与えた。
このため新田氏と足利氏の関係は悪化し、諸国で所領をめぐる争いが絶えなくなった。
対立は鎌倉攻めの直後から始まっていた
2つの家が対立する根本の原因は、元弘の乱のころまでさかのぼる。
新田義貞は鎌倉を攻め滅ぼし、ほかの武将を上回る功績を立てた。
そのため義貞は、
「東国の武士たちは、今後すべて自分の下へ従うだろう」
と思っていた。
幼い千寿王へ東国武士が集まる
しかし足利尊氏の子・千寿王(のちの足利義詮)が、まだ3歳だった元弘3年(1333年)6月3日、下野国から鎌倉へ戻り、大蔵ヶ谷へ入ったと『太平記』は記す。
また、
「尊氏は京都で、ほかの者よりはるかに大きな恩賞を受けている」
という知らせも東国へ届いた。
東国の武士たちは、
「足利氏へ従えば、功績が朝廷へ伝わりやすく、恩賞も受けやすい」
と考えた。
そのため多くの武士が新田方を離れ、半数以上が幼い千寿王のもとへ集まった。
鶴岡八幡宮の旗をめぐる争い
義貞は鎌倉を攻め落とした後、鶴岡八幡宮の拝殿で敵の首を確認した。
池では、血のついた太刀や長刀を洗った。
さらに神殿を壊し、内部の宝物を調べたという。
その中に、錦の袋へ納められた、2本の横線を描いた旗があった。
源義家の由緒ある旗
この旗は、源義家が後三年の役の時、願文とともに鶴岡八幡宮へ納めたものだった。
義貞は言った。
「確かに不思議な力を持つ宝ではある。
しかし新田家の旗である中黒の旗ではないので、我が家で使う意味はない」
この言葉を聞いた足利方の者は、
「それならば足利家へお渡しください」
と求めた。
両家は合戦寸前となる
ところが義貞は、旗を渡さなかった。
そのため新田方と足利方は激しく争い、合戦になりかけた。
しかし朝廷の耳へ入ることを恐れ、ひとまず武力衝突は避けられた。
このような出来事が重なり、新田氏と足利氏は同じ源氏の一族でありながら、以前からの親しい関係を忘れた。
互いを敵として憎み、相手を滅ぼそうと牙を研ぐようになった。
これが、やがて天下の大乱へつながったのである。
尊氏に反乱の疑いがかかる
朝廷には讒言をする者も多く、真実と偽りの入り混じった話が次々と伝えられた。
やがて、
「北条時行を討つため関東へ下った足利尊氏が、そのまま反乱を企てている」
という知らせが、後醍醐天皇の耳へ入った。
天皇は激怒した。
「たとえ大きな功績があったとしても、不義を重ねるならば逆臣であることに変わりはない。
すぐに尊氏討伐の宣旨を下すべきだ」
と命じようとした。
北畠親房らが慎重な調査を求める
しかし公卿たちは相談した。
北畠親房や正親町三条公明らは、繰り返し天皇をいさめた。
「尊氏が不義を働いたという話は天皇の耳へ届いております。
しかし、まだ本当の罪が確認されておりません。
疑わしい話だけによって、実際に大きな功績を立てた者を捨てることは、慈悲ある政治とはいえません」
そこで法勝寺の円観(慧鎮上人)を鎌倉へ派遣し、事情を詳しく調べることになった。
尊氏から訴状が届く
円観(慧鎮上人)が朝廷の命令を受け、関東へ出発しようとしていた日だった。
尊氏は細川阿波守和氏を使者として、1通の訴状を朝廷へ提出した。
その訴状は、
新田義貞の一族を速やかに討ち、天下を平和にしていただきたい。
と願うものだった。
尊氏が自分の功績を主張する
尊氏の訴状には、およそ次のように書かれていた。
「歴代の聖王は、忠義を表彰し、罪に応じて罰を与えることで天下を治めました。
この道を誤れば、反乱を鎮めて新しい政治を始めることはできても、それを守り続けることはできません。
元弘の乱の初め、東国の武士たちは朝廷を無視し、反逆を重ねていました。
尊氏は力のない身でありながら、同志の軍勢を率いて立ち上がりました。
死を覚悟する武士たちが集まり、どちらへつくか迷っていた者も、朝廷方へ味方しました。
尊氏が1度兵を挙げたことで、短い間に京都の敵を追い払うことができたのです」
義貞の挙兵は追い詰められた末の行動だと主張する
尊氏は、義貞について次のように訴えた。
「義貞は鎌倉幕府から重い軍費を取り立てられ、使者を殺しました。
その罪から逃げる場所がなくなり、やむを得ず兵を挙げたにすぎません。
朝敵を討つことを名目としましたが、実際には追い詰められたネズミが猫へかみついたようなものです」
千寿王の力で鎌倉を落としたと述べる
「義貞は鎌倉攻めで何度も敗れ、城を築いて守ろうとしていました。
その時、尊氏の子・足利義詮(千寿王)が、わずか3歳でありながら下野国で大将として立ちました。
その威光によって、呼び集めなくても多くの忠義ある兵が集まりました。
その力によって義貞の軍は敵を破ることができたのです。
※人物表記:この尊氏側の奏状を伝える『太平記』本文には義詮を「尊氏長男」とする表現があるが、一般的な人物事典では足利義詮は尊氏の三男とされる。ここでは誤解を避け、「尊氏の子」とした。
戦ったのは義貞であっても、その陰には足利家の功績があります」
尊氏は、
「義貞は足利家の働きを自分だけの功績として朝廷へ報告し、大きな官位と恩賞を求めた」
と非難した。
義貞の一味が尊氏を陥れていると訴える
尊氏はさらに述べた。
「尊氏は旧幕府方の残党を鎮めるため、長く東国で苦労してきました。
ところが朝廷には悪い臣下がおり、偽りの言葉によって真実を乱しています。
これは義貞の仲間たちによるものです。
中国で趙高が宮中で陰謀を行い、将軍の章邯を楚へ降伏させたのと同じです。
これ以上に大きな反逆の始まりがあるでしょうか。
反乱の兆しを事前に取り除くことは、武将が果たすべき務めです。
どうか義貞一族を討つ許可を下し、天下を安らかにしてください」
訴状の日付は、建武2年(1335年)10月となっていた。
義貞も尊氏討伐の訴状を提出する
尊氏の訴状は、まだ朝廷内部で正式に検討されておらず、広く知られてはいなかった。
しかし義貞は、その内容を人づてに聞いた。
そこで義貞も、尊氏と直義を討つよう求める訴状を提出した。
義貞が後醍醐天皇の徳をたたえる
義貞の訴状は、およそ次のような内容だった。
「現在の天皇は天地を正しく治め、その徳は昔の聖王にも勝っています。
学問と武力の両方によって天下を定められました。
ところが源氏の末流である尊氏・直義兄弟は、役に立たない木のような身でありながら、高い官職へ上りました。
その功績を聞けば、手をたたいて笑うほどのものです」
六波羅攻めへの参加は遅かったと非難する
義貞は、尊氏の元弘の乱での行動を批判した。
「元弘の乱が始まった時、南には楠木正成、西には赤松円心がおりました。
各地で朝廷方が兵を挙げ、六波羅探題を包囲していました。
尊氏は幕府の命令によって、一族を率いて京都へ上りました。
そして朝廷軍が勝ちそうだと見ると、命を助けるため、ひそかに朝廷方へつこうと考えました。
それでもすぐには態度を決めず、幕府と朝廷のどちらが勝つかを見ていました。
名越高家が戦場で死んだ後、初めて丹波国で朝廷軍へ加わったのです」
義貞が挙げた尊氏の第1の罪
義貞は尊氏の罪を8つに整理した。
第1は、
「義貞の挙兵が、尊氏の六波羅攻略を聞いてから行われた」
と尊氏が訴えたことである。
義貞が朝敵追討の綸旨を受け、上野国で挙兵したのは元弘3年(1333年)5月8日だった。
尊氏が六波羅を攻めたのは、その前日の元弘3年(1333年)5月7日である。
『太平記』本文では、京都と上野国は800里以上も離れているとする。ここでの「里」は中世の里程であり、現在のkmには単純換算しない。
1日のうちに京都の知らせが上野まで届くはずはない。
それにもかかわらず、
「義貞は六波羅陥落を聞いてから挙兵した」
と書くことは、偽りによって真実を乱す罪である。
第2の罪――3歳の義詮の戦功を作った
尊氏の子・足利義詮(千寿王)が100騎余りを率いて鎌倉へ戻ったのは、元弘3年(1333年)6月3日だった。
義貞が大軍を率いて北条氏を滅ぼしたのは、元弘3年(1333年)5月22日である。
それにもかかわらず、
「3歳の義詮が大将となり、鎌倉攻めを勝利へ導いた」
と朝廷へ訴えるのは、時期も事実もまったく異なる。
これが第2の罪である。
第3の罪――許可なく京都で処刑を行った
六波羅探題の北条仲時・時益らが敗れた後、尊氏は天皇の許可を受けず、京都で自分の判断によって法を定めた。
そして護良親王の家臣たちを処刑した。
正式に刑罰を行う役人でもない者が、勝手に人を殺した罪は大きい。
これが第3の罪である。
第4の罪――皇子と対等に振る舞った
戦乱の直後は、異民族のように朝廷へ従わない者も残り、皇室の基盤もまだ安定していなかった。
そこで皇子を東国へ下し、鎌倉で将軍とした。
ところが尊氏は、天皇から受けた大きな恩を誇り、皇子と肩を並べるように振る舞った。
これは身分を越えた無礼である。
これが第4の罪である。
第5の罪――東国で勝手に恩賞を与えた
北条氏の残党が、わずかな勢力で反乱を起こした時、尊氏は関東8か国の支配権を求めた。
そして以前の朝廷の判断を無視し、反逆者を味方に引き入れて恩賞を与え、民を苦しめ、自分の利益を求めた。
天皇の命令に逆らい、政治を乱す行為である。
これが第5の罪である。
第6の罪――護良親王を流刑へ追い込んだ
天下が統一されたのは、護良親王の知恵と計略によるところが大きい。
それなのに尊氏は、さまざまな讒言を作り、親王を流刑へ追い込んだ。
悪い臣下が讒言によって国を乱す行為を、誰が憎まずにいられるだろう。
これが第6の罪である。
第7の罪――土牢で親王を苦しめた
親王を罰する目的は、行き過ぎた行動を戒め、正しい道へ戻すことだったはずである。
昔、中国の武丁が桐宮へ追放された故事と同じように、一時的に反省させるためだった。
ところが尊氏は、公の命令とは別に、以前からの恨みを晴らすため、親王を牢獄で苦しめた。
人の顔をしながら獣の心を持つ行いであり、到底許すことはできない。
これが第7の罪である。
第8の罪――親王を密かに殺した
足利直義は北条時行軍に敗れ、戦わずに鎌倉から退却した。
その際、ひそかに使者を送り、護良親王を殺させた。
その目的は、国家を傾けることにあった。
この話はまだ正式には天皇の耳へ届いていないかもしれない。
しかし世間では広く知られており、隠すことはできない。
これほどの大逆は、昔から聞いたことがない。
これが第8の罪である。
義貞は自分の戦功を主張する
義貞は続けた。
「義貞は1度大軍を起こし、100回の戦いで強敵を破りました。
多くの兵が命を惜しまず戦い、武力によって反逆者を退け、短い間に天下を平定しました。
尊氏は強い者の後ろへつき、険しい雲の上へ登ったにすぎません。
小さな石を投げ、籠の中の鳥を殺したようなものです。
どちらの功績が大きいかは、天皇のお言葉によって明らかです」
尊氏こそ天皇の威光を奪おうとしている
「尊氏は、次第に天皇の威光を奪おうとしています。
朝廷に正義を守る者がいることを恐れ、義貞を討つよう求めています。
一方、義貞は忠義と正義を尽くし、朝廷のために命を軽く考えています。
反乱の芽がまだ小さいうちに、尊氏を討つよう願っています。
どちらを用い、どちらを捨てることが、天下を治め、民を安らかにする政治なのでしょうか」
義貞は尊氏・直義とその一味を討つ宣旨を下すよう求め、訴状を結んだ。
公卿たちは判断を避ける
朝廷では公卿たちが集まり、
「この問題を、どのように扱うべきか」
と相談した。
しかし高い地位の大臣は、多くの収入を受けているため口を閉ざした。
身分の低い臣下は、有力者たちを恐れ、意見を述べなかった。
坊門清忠が慎重論を述べる
その中で坊門宰相清忠が進み出て言った。
「両方の訴状を読み、よく考えますと、義貞が挙げた尊氏の8つの罪は、1つ1つ軽くありません。
中でも護良親王を監禁し、殺したという話は、初めて正式に朝廷へ報告されました。
これが事実であるならば、尊氏・直義兄弟は罪を免れません。
ただし、一方の訴えだけを聞き、裁判を急いで決めてはなりません。
東国から届く情報の真偽を待ち、その後で尊氏の罪を決めるべきでしょう」
公卿たちは皆、この意見に賛成した。
その日の会議は、結論を出さずに終わった。
南の御方が親王殺害を証言する
ところが護良親王の最期に立ち会った南の御方が、鎌倉から京都へ帰ってきた。
そして親王が殺された時の様子を、ありのままに後醍醐天皇へ申し上げた。
天皇は、
「それならば尊氏・直義が反逆者であることに疑いはない」
と考え、ますます強い怒りを抱いた。
尊氏の軍勢催促状も発見される
さらに四国・西国から、
「足利尊氏が軍勢を集めるために出した命令書です」
として、数十通の書状が朝廷へ提出された。
公卿たちは再び協議した。
「これ以上、疑う理由はない。
急いで討伐軍を送るべきである」
と決定した。
義貞が尊氏討伐軍の大将となる
尊良親王(中務卿親王)を、東国を治める立場とした。
新田左兵衛督義貞を討伐軍の大将に定め、諸国の大名を従わせた。
元弘の乱が終わり、天下が1つに統一され、人々は平和を喜んでいた。
しかし戦乱の傷はなお残り、国中が十分に安心できないうちに、新たな大戦が始まろうとしていた。
各国の武士は再び出陣を命じられ、
「いったい、どのような世の中になってしまうのか」
と、少しも心の休まる時がなかったのである。
106. 新田義貞、足利尊氏討伐のため東国へ出陣する
義貞へ朝敵追討の宣旨が下る
建武2年(1335年)11月8日、新田義貞(左兵衛督)は、足利尊氏を朝敵として討つ宣旨を受けた。
義貞は軍勢を率いて宮中へ参内した。
馬も武具も見事に整えられ、たいへん勢いのある姿だった。
出陣の儀式
宮中では内弁・外弁をはじめ、公卿や各役所の官人が階段の下へ陣を張った。
朝廷から遠征軍の大将へ権限を授ける儀式が行われ、義貞へ節度が与えられた。
節度とは、天皇に代わって遠征軍を指揮する者へ与えられる、軍権のしるしである。
平維盛の不吉な先例を避ける
治承4年(1180年)、平維盛が源頼朝を討つため東国へ向かった時には、朝廷から鈴だけを与えられた。
しかし維盛の遠征は富士川の戦いで失敗した。
そこで今回は、その不吉な例を避け、平将門・藤原純友の乱が起きた承平・天慶年間(931〜947年ごろ)の先例にならった。
尊氏の京都屋敷を攻撃する儀式
義貞は節度を受け取ると、二条河原へ進んだ。
まず尊氏の京都の屋敷である二条高倉へ、舟田入道を向かわせた。
舟田軍は攻撃の声を3度上げ、鏑矢を3本射た。
そして屋敷の中門の柱を切り倒した。
『太平記』本文では、これは嘉承3年(1108年)、平正盛が源義親を討つため出羽国へ向かった時の先例にならったものだった、と記している。
※史実との違い:ここは『太平記』本文が「出羽国」とする箇所である。一方、一般的な歴史叙述では、源義親は出雲国で反乱し、平正盛が嘉承3年(1108年)に出雲へ進んで討ったとされる。本文を勝手に「出雲」へ直さず、違いを注記した。
敵将の京都屋敷を形式的に攻撃し、討伐の意思を天下へ示したのである。
錦の御旗の紋が落ちる
その後、尊良親王(中務卿親王)が500騎余りを率い、三条河原へ出た。
朝廷から与えられた錦の御旗を高く掲げた。
ところが突然、激しい風が吹いた。
旗に金銀で取りつけてあった太陽と月の紋が切れ、地面へ落ちた。
これを見た者たちは、
「何と不吉なことだ。
今度の戦いは、よい結果にはならないだろう」
と恐れた。
義貞、京都を出発する
建武2年(1335年)11月8日の正午ごろ、総大将の新田義貞は京都を出発した。
元弘の乱で義貞は、強大な鎌倉幕府を滅ぼし、誰よりも大きな功績を立てた。
しかし尊氏が天皇のそば近くへ仕えていたため、義貞の功績は十分には評価されていなかった。
今、隠れていた徳がついに明らかとなり、義貞は天下の武将として尊氏討伐を任された。
新田一族も他家の武士も、これまでの偏見を捨て、義貞へ従わない者はいなかった。
新田一族の軍勢
新田家の主な一族として、
- 脇屋右衛門佐義助
- 式部大夫義治
- 堀口美濃守貞満
- 錦織刑部少輔
- 里見伊賀守
- 里見大膳亮
- 桃井遠江守
- 鳥山修理亮
- 細屋右馬助
- 大井田式部大輔
- 大島讃岐守
- 岩松民部大輔
- 籠沢入道
- 額田掃部助
- 金谷治部少輔
- 世良田兵庫助
- 羽川備中守
- 一井兵部大輔
- 堤宮内卿律師
- 田井蔵人大夫
らが従った。
このほか源氏の一族30人余りが加わり、合わせて7,000騎余りが義貞の前後を守った。
諸国の有力武将
他家からも、
- 千葉介貞胤
- 宇都宮公綱
- 菊池武重
- 大友氏
- 厚東氏
- 大内氏
- 塩冶高貞
- 加治氏
- 熱田大宮司
- 武田氏
- 小笠原氏
- 河越氏
- 舟田氏
- 由良氏
- 長浜氏
- 波多野氏
など、諸国の大名が集まった。
『太平記』によれば、主だった大名だけで320人余り、軍勢は6万7,000騎余りだったという。これは『太平記』本文上の巨大な軍勢数であり、そのまま史実上の実数とは断定しない。
前陣は熱田、後陣は近江
軍勢があまりにも多かったため、先頭の部隊が尾張国の熱田へ到着した時、後方の部隊はまだ近江国の逢坂関や四宮河原に残っていた。
行列は非常に長く続いていた。
東山道から進む別働隊
東山道を進む軍勢は、敵の背後へ回る別働隊だった。
そのため義貞本隊より3日遅れて京都を出発した。
大将には、
- 大智院宮
- 弾正尹宮
- 洞院実世
- 持明院道応
- 園基隆
- 二条為冬
らがいた。
東山道軍の武将たち
武士の大将として、
- 江田行義
- 大館氏義
- 島津氏
- 饗庭氏
- 石谷氏
- 猿子氏
- 落合氏
- 仁科氏
- 真壁氏
- 美濃権介助重
らが従った。
軍勢は5,000騎余りだった。
信濃国で10,000騎となる
別働隊は黒田の宿から東山道を通り、信濃国へ入った。
信濃国司の堀河中納言が2,000騎余りを率いて加わった。
軍勢は合わせて110,000騎余りとなった。
彼らは大井城を攻め落とし、義貞本隊と同時に鎌倉へ攻め寄せるため、合図を待った。
鎌倉で足利方が迎撃を勧める
京都から大軍が出発したという知らせは、鎌倉へ次々と届いた。
足利直義、仁木氏、細川氏、高氏、上杉氏らは尊氏のもとへ参上し、申し上げた。
「足利一族を滅ぼすため、新田義貞を大将とする軍勢が、東海道と東山道の両方から攻め下っております。
敵に険しい場所を越えさせてしまえば、後から防いでも効果がありません。
急いで矢矯や薩埵山の辺りへ向かい、敵を防いでください」
尊氏は天皇へ弓を引かないと言う
尊氏は黙ったまま、しばらく何も言わなかった。
やがて口を開いた。
「私は代々弓矢を取る家に生まれ、源氏の名をかろうじて残してきた。
承久の乱以来、北条相模守の命令に従い、家を汚し、名を恥ずかしめることを重ねてきた。
今回、途絶えていた源氏の役目を継ぎ、征夷大将軍となる望みを持つことができた。
衰えていた家を興し、従三位という高い位にも上った。
これは私のわずかな功績によるとはいえ、天皇の厚い恩であることに違いない。
恩を受けながら忘れることは、人としてできない」
尊氏は2つの罪を否定する
尊氏は続けた。
「天皇がお怒りになっている理由は、2つだと聞いている。
1つは護良親王を殺したこと。
もう1つは諸国へ軍勢を集める書状を出したことである。
しかし、そのどちらも尊氏が行ったことではない。
事情を詳しく申し上げれば、偽りの悪評は消え、天皇のお怒りも静まるだろう。
皆は、それぞれ自分の進退を考えよ。
尊氏は天皇へ向かって弓を引き、矢を放つことはしない。
それでも罪を免れないのであれば、髪を剃り、僧衣を着る。
天皇に不忠の心を抱かなかったことだけでも、子孫へ残したい」
尊氏は顔色を変え、言い終わらないうちに奥の部屋へ入った。
武将たちは落胆する
鎧と兜を身につけて集まっていた武将たちは、皆、期待を失った。
それぞれ退出し、
「まったく思いもよらないことだ」
と、ひそかに語り合った。
直義たちが再び相談する
1、2日が過ぎた。
「中務卿親王と新田軍は、すでに三河・遠江まで進んでいる」
という知らせが届いた。
上杉重能、細川和氏、佐々木道誉らは直義のもとへ集まり、
「どうするべきか」
と相談した。
公家中心の政治への不満
彼らは言った。
「将軍のお考えも理解できます。
しかし、このまま公家だけが天下を治める世となれば、全国の武士は、特に力のない公家たちへ従い、奴隷や下僕のように扱われるでしょう。
全国の地頭や御家人は、このことへ怒り、望みを失っています。
それでも武家の棟梁となる人物がいなかったため、仕方なく公家へ従っているのです」
足利家が立てば武士は集まる
「今、足利一族が立ち上がると聞けば、誰が参上せずにいられるでしょうか。
これは足利家の運が開く最初の時です。
将軍は道理を重んじ、今は戦わないとおっしゃっています。
しかし本当に身へ災いが及べば、いつまでも同じお考えではいられないでしょう。
長く相談している間に敵が険しい場所を越えれば、後悔しても意味がありません」
直義が迎撃に出る
「将軍は鎌倉へ残っていただき、直義殿が出陣してください。
我々もそれぞれお供し、伊豆・駿河の辺りで敵を防ぎましょう。
1度戦って、運がどちらにあるかを見ればよいのです」
直義は、この意見を聞いて大いに喜んだ。
すぐに鎌倉を出発し、昼夜を問わず進んだ。
足利方の軍勢
直義へ従った主な足利一門には、
- 吉良氏
- 石塔氏
- 桃井氏
- 上杉氏
- 細川氏
- 畠山氏
- 斯波高経・時家
- 仁木頼章・義長
- 今川氏
- 岩松氏
- 高師直・師泰
- 南部氏
- 大高氏
らがいた。
東国の有力武士も加わる
外様の大名として、
- 小山氏
- 佐々木道誉
- 三浦氏
- 土岐頼遠
- 宇都宮氏
- 佐竹氏
- 小田氏
- 武田氏
- 河越氏
- 狩野氏
- 松田氏
- 河村氏
- 土肥氏
- 土屋氏
- 坂東八平氏
- 武蔵七党
などが加わった。
『太平記』によれば、その軍勢は20万7,000騎余りだったという。これも本文上の巨大な軍勢数である。
直義軍は建武2年(1335年)11月20日に鎌倉を出発し、建武2年(1335年)11月24日に三河国矢矯の東宿へ到着した。
107. 矢作川・鷺坂・手越河原の戦い
新田軍、矢作川へ到着する
建武2年(1335年)11月25日の卯の刻(午前5〜7時ごろ)、新田義貞と脇屋義助は、『太平記』本文では610,000騎余りとされる大軍を率い、矢作川へ押し寄せた。
対岸の足利軍を見ると、『太平記』本文では20万、3010,000騎ほどもいるように見えたという。いずれも軍記物語上の巨大な軍勢数として読む必要がある。
足利軍は川の東側に陣を取り、橋の上下30町余り(約3.3km)にわたって、雲や霞のように満ちていたと『太平記』は描く。
長浜六郎左衛門に渡河地点を調べさせる
義貞は長浜六郎左衛門を呼んだ。
「この川のどこに、渡ることのできる場所があるか。
詳しく調べて戻ってこい」
長浜は1騎だけで川の上流と下流を見て回り、すぐに戻って報告した。
敵に川を渡らせる作戦
長浜は言った。
「この川には渡ることのできる場所が3か所あります。
しかし向こう岸は屏風を立てたように高く、敵兵が矢じりをそろえて待ち構えています。
こちらから渡れば、かえって敵を有利にするでしょう。
そこで1度、川原へ陣を置き、敵を欺いてはいかがでしょうか。
こちらが弱気に見えれば、敵は必ず川を渡って攻めてきます。
その時、こちらも一斉に攻めかかり、敵を川の中へ追い落として激しく攻撃すれば、1度の戦いで勝てるのではないでしょうか」
諸将は皆、この意見に賛成した。
新田軍が渡河できる場所をわざと残す
新田軍は敵へ川を渡らせるため、川原に馬を走らせられる場所を残した。
西側の宿場の端へ、南北20町余り(約2.2km)にわたって陣を並べた。
射手を川の中州へ出し、遠矢だけを射ながら、敵の動きを待った。
第1陣――吉良・土岐・佐々木軍
予想どおり、足利方から、
- 吉良左兵衛佐
- 土岐頼遠
- 佐々木道誉
らが、合わせて6,000騎余りで上流の浅瀬を渡ってきた。
彼らは新田方の左軍を務める、
- 堀口氏
- 桃井氏
- 山名氏
- 里見氏
らへ攻めかかった。
川原で激戦となる
新田軍5,000騎余りも、敵と同時に攻めかかった。
両軍は命を惜しまず、火花を散らして戦った。
足利方では300騎余りが討たれ、本陣へ退いた。
新田方でも200騎余りが討たれた。
第2陣――高師直・師泰軍
2番目に、高師直・高師泰兄弟が210,000騎余りを率い、橋より下流の浅瀬を渡った。
彼らは新田方の右軍である、
- 大島氏
- 額田氏
- 籠沢氏
- 岩松氏
の軍勢へ攻めかかった。
高一族も退却する
新田方7,000騎余りは大声を上げ、敵軍の中央へ飛び込んだ。
東西南北へ駆け回り、半時(約1時間)ほど激しく戦った。
高一族の軍勢も500騎余りを討たれ、本陣へ退いた。
第3陣――仁木・細川・今川・石塔軍
3番目に、
- 仁木氏
- 細川氏
- 今川氏
- 石塔氏
の110,000騎余りが下流の浅瀬を渡った。
そして総大将・新田義貞の本隊へ攻めかかった。
義貞の精鋭7,000騎
義貞は、あらかじめ優れた武士7,000騎余りを自分の周囲へ配置していた。
その先頭には、
- 栗生氏
- 篠塚氏
- 名張八郎
という、天下に名を知られた怪力の武者を進ませた。
彼らは長さ8尺余り(約2.4m)の金棒を持ち、厚く広い畳盾を並べた。
義貞の厳しい命令
義貞は諸軍へ命じた。
「敵が攻めてきても、勝手に飛び出してはならない。
敵が退いても、遠くまで追ってはならない。
近づいてきた者だけを斬り落とせ。
敵が中央を破ろうとするならば、馬を隙間なく寄せ、轡を並べよ。
敵に向かって一歩進むことはあっても、一歩も退く心を持ってはならない」
足利軍は新田本陣を崩せない
足利軍110,000騎余りは、陰の形のように包囲しようとしたが、囲むことができなかった。
陽のように広がり、本陣を乱そうとしても、少しも乱せなかった。
攻め込めば討たれ、陣を破って通ろうとすれば斬り落とされた。
新田軍は少しも動揺せずに戦った。
足利軍は人も馬も疲れ、左右へ分かれて陣を置いた。
義貞・義助が前進する
その時、総大将の義貞と副将の義助が、7,000騎余りを率いて前進した。
その姿は、巨大な象が波を踏み、大海を渡るような勢いだった。
義貞軍は静かに馬を歩かせ、武器の切っ先をそろえて進んだ。
足利軍1万余騎は、その威勢に押され、川の東側へ退いた。
退却中にも多くの兵が討たれた。
足利軍、夜のうちに鷺坂へ退く
日が暮れたため、新田方は、
「続きの戦いは明日になるだろう」
と考えた。
足利軍も川の東側へ陣を置いていた。
しかし何を考えたのか、
「ここで戦い続けることはできない」
として、その夜のうちに矢作を退き、鷺坂へ陣を移した。
遅れて到着した3,000騎が直ちに攻める
その時、
- 宇都宮氏
- 仁科氏
- 愛曾伊勢守
- 熱田大宮司
らが、3,000騎余りを率いて新田軍へ到着した。
彼らは矢作川の戦いに間に合わなかったことを残念に思った。
到着すると同時に鷺坂へ押し寄せ、矢を1本も射ず、太刀を抜き並べて攻めた。
鷺坂の陣も破られる
すでに退却を始めていた足利軍は、鷺坂でも新田軍に破られた。
足を止めることもできず、さらに退いた。
しかしそこへ足利直義が、新しい兵210,000騎余りを率いて到着した。
敗軍はこの援軍によって力を取り戻し、手越へ陣を置いた。
手越河原で両軍が対峙する
建武2年(1335年)12月5日、新田義貞は矢作・鷺坂で降伏してきた兵も加え、『太平記』本文では810,000騎余りとなった。
手越河原へ進み、足利軍の陣を見渡した。
新しい軍勢が加わったため、以前よりも大軍になっていた。
義貞は敗軍が混じっていると見抜く
義貞は言った。
「たとえ何1,000,000騎の援軍が加わったとしても、敵軍の半分には疲れ切った敗残兵が混じっている。
後方の兵が退き始めれば、敵は再び立て直すことができない。
まず攻めてみよ」
17回の激戦
脇屋義助、千葉介、宇都宮氏らが6,000騎余りで手越河原へ進んだ。
両軍は川を渡ったり、渡らせたりしながら戦った。
正午ごろから酉の刻(午後5〜7時ごろ)まで、『太平記』本文では17回も激突したという。
夜、川を隔ててかがり火をたく
夜になると、両軍は兵と馬を休ませた。
川を隔てて、かがり火をたいた。
夜の初めには月が雲に隠れ、やがて深夜となった。
新田方の射手が夜襲する
義貞は優れた射手を選んだ。
彼らは藪の陰を進み、敵陣の近くまで忍び寄った。
そして後方へ陣取る足利軍の中へ、雨が降るように矢を射込んだ。
足利軍が鎌倉まで退却する
数万の足利軍は不意の攻撃に驚き、後方から退き始めた。
新たに加わった勇敢な兵たちは、
「何をしている。
戻れ、戻れ!」
と叫んだ。
しかし退却する大軍に押し流され、足利軍は鎌倉まで逃げ帰った。
義貞のもとへ降伏者が集まる
新田義貞は矢作・鷺坂・手越の戦いに勝ち、伊豆国の国府へ到着した。
敗れて逃げていた武士たちは、弓の弦を外し、兜を脱ぎ、次々と降伏した。
その数は数えきれなかった。
宇都宮氏と佐々木道誉も降伏する
宇都宮遠江入道は、もともと本家の宇都宮氏が朝廷方にいた。
その縁を頼り、新田軍へ加わった。
佐々木道誉は太刀による戦いで、体の多くの場所に重傷を負っていた。
弟の五郎左衛門も手越で討たれた。
道誉は、
「もはや足利方の世は終わった」
と思ったのだろうか。
新田義貞へ降伏し、義貞の前陣へ加わった。
ただし後の箱根の戦いでは、再び足利尊氏のもとへ戻ることになる。
義貞が追撃を止める
この時、新田軍が兵を休ませずに足利軍を追っていれば、敵は鎌倉でも防ぐことができなかったかもしれない。
しかし義貞は考えた。
「ここまで勝てば、東国の武士は自然にこちらへ味方するだろう。
東山道から来る別働隊の到着も待つべきだ」
そこで伊豆国府にとどまった。
『太平記』は、これを運命のためとはいえ、判断の鈍い出来事だったと批判している。
尊氏は建長寺へ入る
一方、足利直義は鎌倉へ戻った。
戦いの様子を報告するため、尊氏の屋敷へ向かった。
しかし4つの門は閉じられ、中には人の気配がなかった。
直義が激しく門をたたき、
「誰かいるか」
と尋ねると、須賀左衛門が出てきた。
尊氏は出家しようとしていた
須賀左衛門は答えた。
「将軍は矢作川の敗北をお聞きになってから、建長寺へ入られました。
そして、
『もう出家する』
とおっしゃいました。
皆でさまざまにお止めしております。
髻はすでに切ってしまわれましたが、まだ完全な僧の姿にはなっておりません」
足利一門は頼りを失う
直義、高氏一族、上杉氏らは、この話を聞いて驚いた。
「このままでは軍勢が、ますます頼りを失ってしまう。
どうすればよいのか」
と考えた。
上杉重能が偽の綸旨を提案する
上杉伊豆守重能は、しばらく考えて言った。
「将軍が出家して僧となっても、天皇の怒りから逃れられないと知れば、考えを変えるのではないでしょうか。
偽の綸旨を2、3通作り、将軍へお見せしてはいかがでしょう」
直義は答えた。
「何であれ、事態がよい方向へ進むように取り計らってほしい」
偽の綸旨を作る
重能はすぐに、古い公文書に使う紙を染めて用意した。
字の上手な者を探し、朝廷の書記官が書いたものと少しも見分けられないように文書を書かせた。
内容は、およそ次のようなものだった。
足利尊氏・直義以下の一族は、武力を誇って朝廷の法を軽んじたため、討伐するものである。
彼らが出家して世を捨てたとしても、処刑を免除してはならない。
居場所を深く捜し、速やかに殺せ。
功績を立てた者には大きな恩賞を与える。
日付は建武2年(1335年)11月23日とされ、右中弁光守の名が書かれた。
武田一族や小笠原一族へ送られたように見せ、宛名だけを変えた10数通が作られた。
直義が偽文書を尊氏へ見せる
直義は偽の綸旨を持ち、急いで建長寺へ向かった。
尊氏と対面すると、涙を押さえながら言った。
「足利家が天皇のお怒りを受けたのは、義貞が討伐を勧めたためです。
朝廷では、
『足利一門は出家して降伏しても、捜し出して殺せ』
と決めているようです。
天皇のお考えにも、逃れられる余地はありません。
先日の矢作・手越の戦いで討ち取った敵兵の守り袋から、これらの綸旨が見つかりました。
どうかご覧ください。
このような状況では、一族全体が天皇の怒りから逃れられません。
出家することをお考え直しになり、足利一族の滅亡をお救いください」
尊氏は偽文書を信じる
尊氏は綸旨を読んだ。
それが偽造された文書だとは、まったく考えなかった。
そして言った。
「本当に足利一門の生き死には、今この時にかかっているのだな。
それならば仕方がない。
私も皆とともに弓矢の道を守り、義貞と生死を決する戦いをしよう」
尊氏はすぐに僧衣を脱ぎ、錦の直垂へ着替えた。
鎌倉の武士が髻を短くする
当時、鎌倉の武士たちは皆、髻を一束分だけ短く切った。
これは髪を切った尊氏だけが目立たないようにするためだったという。
1日で3010,000騎が集まる
尊氏が再び戦うと決めた。
すると、
「もはや勝てない」
として朝廷方へ降伏しようとしていた大名たちも考えを変えた。
各地へ逃げようとしていた兵も、突然勇気を取り戻し、尊氏のもとへ駆けつけた。
1日もたたないうちに、『太平記』によれば、尊氏の軍勢は3010,000騎に達したという。これは本文上の軍勢数であり、そのまま史実上の実数とはみなさない。
108. 箱根・竹ノ下の戦い――新田軍の優勢が崩れる
足利軍を2手に分ける
建武2年(1335年)12月11日、足利軍は部隊を2手に分けた。
※年代の注意:『太平記』本文は12月11日に両軍が手分けし、翌12日に本格的な戦闘が始まったと記す。一方、一般的な歴史叙述では「箱根・竹ノ下の戦い」を1335年12月11日の戦いとする。以下は『太平記』本文の順序を保っている。
足利直義は箱根路を守り、足利尊氏は竹ノ下方面へ向かうことになった。
それまで足利軍は、新田軍との戦いに何度も敗れていた。
以前から戦ってきた兵たちは、まだ気力を取り戻していなかった。
昨日や今日になって集まった新しい兵も、総大将の尊氏が出陣するのを待ち、すぐには動こうとしなかった。
新田軍が伊豆国府を出発する
その間に新田軍は伊豆国府を出発した。
「今夜にも野七里・山七里を越えてくる」
という知らせが足利方へ届いた。
すると、
- 斯波高経
- その弟・時家
- 三浦因幡守
- 土岐頼遠
- その弟・道謙
- 佐々木道誉
- 赤松貞則
らが話し合った。
小勢で竹ノ下へ先行する
彼らは言った。
「このように互いの顔色をうかがいながら、鎌倉へ集まっているだけでは勝てない。
ほかの者がどうするかは構わない。
我々だけでも先に竹ノ下へ向かおう。
後続の軍勢が到着する前に敵が来たならば、一戦して討ち死にしよう」
7人の武将は、11日の夜がまだ浅いうちに竹ノ下へ向かった。
軍勢は少なく、どこか寂しい姿に見えた。
しかし皆、義を守る勇士である。
「戦いは人数の多少だけで決まるものではない」
と考え、竹ノ下へ陣を取った。
山々を埋める新田軍のかがり火
足利方が竹ノ下から新田軍の陣を見下ろすと、西の伊豆国府から東の野七里・山七里まで、数えきれないほどのかがり火が並んでいた。
その光景は、晴れた夜空の星が青い海へ映っているようだった。
足利方も、
「こちらも、かがり火をたこう」
と考えた。
雪に埋もれた草を払い、周辺から枯れ草を集め、小さな火をつけた。
それは夏山の茂みの下で、獲物を照らすためにたく火ほどの、かすかな光にすぎなかった。
それでも足利方の運がまだ強かったためだろうか。
その夜、新田軍は攻めてこなかった。
尊氏・直義の大軍が到着する
夜が明けようとするころ、足利尊氏が鎌倉を出発した。
仁木・細川・高・上杉氏らを中心とする、『太平記』本文上1810,000騎とされる軍勢が竹ノ下へ到着した。
足利直義も、『太平記』本文上610,000騎余りとされる軍勢を率い、箱根峠へ入った。
新田軍も2手に分かれる
『太平記』本文では、翌12日の辰の刻(午前7〜9時ごろ)、新田軍も伊豆国府で2手に分かれたとする。
竹ノ下方面には、尊良親王(中務卿親王)を大将として、公卿や殿上人16人が従った。
副将には、
- 脇屋義助
- 細屋右馬助
- 堤卿律師
- 大友左近将監
- 塩冶高貞
らがついた。
軍勢は7,000騎余りで、敵の側面を攻める搦手となった。
義貞本隊は箱根路へ向かう
箱根路には新田義貞が向かった。
新田一族の主だった武将20人余りに加え、
- 千葉氏
- 宇都宮氏
- 大友千代松丸
- 菊池武重
- 松浦党
など、諸国の大名30人余りが従った。
『太平記』によれば、その軍勢は710,000騎余りだったという。本文上の巨大な軍勢数である。
こちらが正面から攻める大手の軍である。
箱根と竹ノ下で同時に戦闘が始まる
『太平記』本文では建武2年(1335年)12月12日の正午ごろ、両方面で戦いが始まった。
大手でも搦手でも、敵味方が互いに鬨の声を上げた。
叫び声は山や川を傾け、天地を動かすほどだった。
菊池武重が箱根の先陣を切る
箱根方面では、菊池肥後守武重が新田軍の先陣を務めた。
武重は、『太平記』本文では3,000騎余りとされる足利軍を、はるか上の峰まで追い上げた。
そして坂の途中に盾を並べ、いったん息を整えて陣を支えた。
これを見た、
- 千葉氏
- 宇都宮氏
- 河越氏
- 高坂氏
- 愛曾氏
- 熱田大宮司
らも、それぞれ部隊を組んで声を上げ、次々と坂を攻め上った。
道場坊祐覚と少年たち
中でも道場坊祐覚は、10人の少年と30人余りの同宿の僧を率いていた。
全員が裾の方ほど色を濃く染めた、紅色の鎧を同じように着ていた。
少年たちは、紅梅の造花を1枝ずつ兜の正面へ挿していた。
彼らは盾の列から外れ、敵の第1陣へ進んだ。
少年8人が矢に倒れる
武蔵・相模の荒々しい武士たちは、
「子どもだからといって遠慮するな。射よ」
と命じた。
矢が激しく射かけられ、前へ進んでいた少年8人が、その場に倒れた。
小さな篠竹の上へ重なるように伏した。
同宿の僧たちが反撃する
敵兵は少年たちの首を取ろうと、太刀を抜いて坂を下ってきた。
道場坊の僧たちは、
「少年たちを討たせたままで、どうして耐えられよう」
と怒った。
30人余りが太刀や長刀の切っ先をそろえ、負傷した少年たちの上を飛び越えながら攻めた。
「比叡山坂本流の袈裟斬りを受け、成仏せよ!」
と叫び、敵を追いながら次々と斬った。
武士たちは北側の峰まで追い立てられ、そこでようやく息をついた。
その隙に僧たちは負傷した少年をそれぞれ肩へ担ぎ、麓の陣へ戻った。
「16騎の党」
義貞の軍には、特に弓の腕に優れた「16騎の党」と呼ばれる武士たちがいた。
- 杉原下総守
- 高田義遠
- 葦堀七郎
- 藤田六郎左衛門
- 川波新左衛門
- 藤田三郎左衛門
- 藤田四郎左衛門
- 栗生左衛門
- 篠塚伊賀守
- 難波備前守
- 河越三河守
- 長浜六郎左衛門
- 高山遠江守
- 園田四郎左衛門
- 青木五郎左衛門
- 青木七郎左衛門
- 山上六郎左衛門
※人数の注意:『太平記』本文は「16人」とするが、この箇所では17人の名を列挙している。本文の数え方の不一致をそのまま残す。
彼らは同じ笠印をつけ、進む時も一緒、退く時も一緒だった。
世間では彼らを16騎の党と呼んだ。
彼らの矢の前では、盾も鎧も防ぎきれず、向かう敵で射すくめられない者はいなかった。
新田軍が箱根で優勢となる
執事の舟田入道は戦場を駆け回り、兵を励ました。
総大将の義貞は一段高い場所から、兵たちの戦いぶりを見定めていた。
名誉を重んじ、命を軽く考える千葉・宇都宮・菊池・松浦の武士たちが勇んで攻めた。
足利軍は馬を止めることもできず、退く者が続出した。
箱根方面では、新田軍が明らかに優勢となった。
中務卿親王軍が竹ノ下へ進む
一方、竹ノ下方面へ向かった尊良親王の軍では、公家に仕える武士や北面の武士500騎余りが、
「武士たちへ先を越されてはならない」
と思ったのだろうか。
錦の御旗を先頭に立て、足利軍へ進んだ。
「天皇へ弓を引くな」と呼びかける
親王方の兵は、足利軍がまだ1本の矢も射ないうちに、大声で呼びかけた。
「天下の天皇へ向かって弓を引き、矢を放つ者が、天罰を受けないと思うのか。
命が惜しければ、鎧を脱ぎ、降伏せよ!」
足利方の精鋭300騎が突撃する
これを見た、
- 斯波高経
- その弟・時家
- 土岐頼遠
- その弟・道謙
- 三浦因幡守
- 佐々木道誉
- 赤松貞則
らは、前夜から第1陣を守っていた。
彼らは言った。
「敵の馬の立て方と旗の紋を見ると、公家に仕える者たちのようだ。
遠くから無駄な矢を射るな。
太刀を抜き、直接攻めよ」
300騎余りが轡を並べた。
公家方の兵を一撃で破る
足利方は叫んだ。
「弓馬の家に生まれた者は、名誉を惜しむのであって、命を惜しむのではない。
その言葉が嘘か本当か、我々の戦いぶりを見よ!」
一斉に鬨の声を上げ、攻めかかった。
親王方は敵を見下ろす有利な場所にいたとはいえ、実戦に慣れない公家方の兵である。
1度も持ちこたえられず、戦う間もなく、鞭を捨てるほどの勢いで逃げた。
逃げ遅れた500騎が討たれる
土岐・佐々木氏らは先頭に立ち、
「言葉とは似ても似つかない、臆病な者たちだ。
卑怯者、戻ってこい!」
と罵りながら追撃した。
逃げ遅れた兵500騎余りは、生け捕りになるか討ち取られ、残りはわずかとなった。
足利主力が親王軍へ攻めかかる
最初の戦いで官軍が崩れたのを見ると、
- 仁木氏
- 細川氏
- 高氏
- 上杉氏
らが勢いづいた。
中務卿親王の本陣へ、遠慮なく攻めかかった。
すでに動揺している京都方の兵では、耐えることができそうになかった。
脇屋義助が7,000騎で横から攻める
親王の副将である脇屋義助は怒った。
「役にも立たない者たちが、むやみに第1陣へ進み、味方全体の力を失わせたことが残念でならない。
ここで敵を追い払わなければならない」
義助は7,000騎余りを1つにまとめた。
馬の頭を雁が飛ぶように斜めへ並べ、旗を竜のように進ませ、足利軍の横から静かに攻めた。
両軍の名将が激突する
足利軍は勝利の勢いに乗っていたため、少しもひるまなかった。
両軍は十字にぶつかり、八の字に分かれた。
新田の大中黒の旗と、足利の二引両の旗が入れ替わりながら、東西へなびき、南北へ分かれた。
名を知られた勇士たちが正面から進み、1度の攻撃に命を争った。
戦場を血が流れる
互いに討ち、討たれた。
馬のひづめを浸す血は、激しく流れる大河のようだった。
遺体が積み重なる地面は、屠殺場に並べられた肉のように見えた。
あまりにもむごい光景だった。
13歳の義治が敵中に取り残される
脇屋義助の子に、脇屋義治(式部大夫義治)という少年がいた。
建武2年(1335年)、13歳だった。
敵と味方が分かれた時、どのように紛れたのか、家臣3騎とともに敵軍の中へ取り残された。
義治は幼いながら、判断の速い人物だった。
笠印を引きちぎって捨て、髪を乱して顔へ垂らした。
敵に正体を知られないよう、慌てた様子を見せずにいた。
義助、子を捜して敵陣へ戻る
父の義助は、息子が敵中に残ったことを知らなかった。
「義治が見えない。
討たれたのか、それとも生け捕りにされたのか。
そのどちらかを確かめるまでは、ここを離れない。
子の生死を知らずに、わずかな時間でも生きて何になる。
武士が戦場で命を捨てるのも、子孫が後に栄えることを思うからだ。
まだ幼い身ではあるが、別れを惜しみ、この戦場まで連れてきた。
その生死を知らずに、どうして帰ることができよう」
義助は鎧の袖を涙で濡らし、大軍の中へ再び攻め込んだ。
300騎が義助に続く
義助の兵たちは言った。
「父が子を思う心は昔から変わらないとはいえ、何とも悲しいことだ。
我々もお供しよう」
300騎余りが轡を並べ、主君を討たせまいとして敵陣へ突入した。
義助が2度攻めかかると、足利の大軍も戦い疲れていたため、1度に大きく退いた。
義治が父を見つける
義助がさらに敵を追おうとした時、義治は父の姿を見つけた。
馬を返し、家臣3騎とともに、義助の軍勢へ加わろうとした。
すると二引両の笠印をつけた足利方の武士2騎が、
「味方が引き返して戦おうとしている」
と勘違いした。
「立派なお働きです。我々もお供して討ち死にします」
と言い、義治の後へ続いた。
追ってきた2騎を討ち取る
義治が父の軍へ飛び込む直前、家臣へ鋭く目配せした。
家臣たちは意図を悟り、後ろから続いてきた2騎を斬り落とした。
その首を取り、高く掲げた。
義助は息子が生きて戻ったのを見ると、死者が生き返ったように喜んだ。
さらに勇気を増したが、
「しばらく兵と馬を休ませよ」
と命じ、元の陣へ戻った。
大友・塩冶軍が足利方へ寝返る
第1陣は激しく戦い、疲れ切っていた。
新しい軍勢と入れ替えようとした時だった。
後方に控えていた大友貞載(左近将監)と塩冶高貞の1,000騎余りが、突然1本の矢を射た。
そして旗を巻き、足利尊氏方へ駆けつけた。
さらに向きを変え、官軍へ激しく矢を射始めた。
親王軍は総崩れとなる
尊良親王の軍は、最初の戦いですでに多くを失い、再び戦える状態ではなかった。
義助の軍も2度の突撃で、人も馬も疲れ、兵数も減っていた。
そのため、
「新しい兵として、もう1度戦ってくれる」
と頼りにしていた大友・塩冶軍の寝返りは、致命的だった。
2人は親王へ向かって弓を引き、義助軍と戦った。
官軍が耐えられるはずはなかった。
二条為冬の討ち死に
官軍は、
「敵に背後をふさがれる前に、箱根方面の義貞本隊と合流しよう」
と考え、佐野原へ退いた。
足利方は仁木・細川・今川・荒川・高・上杉氏ら、『太平記』本文では310,000騎余りで追撃した。
この戦いで、尊良親王が特に頼りとしていた二条為冬(中将)が討ち死にした。
竹ノ下方面の官軍が西へ敗走する
義助の兵たちは何度も引き返して戦い、各地で300騎余りが討ち死にした。
しかし退却する官軍は、それを顧みず、我先にと逃げた。
佐野原でも止まれず、伊豆国府でも守ることができなかった。
竹ノ下方面の軍勢は、最後には300騎余りとなり、東海道を西へ落ちていったのである。
109. 新田義貞、箱根から撤退する――天竜川の危機
箱根方面では新田軍が勝っていた
箱根路での正面の戦いでは、新田軍は戦うたびに勝利していた。
わずかな兵で防いでいた足利直義を追い落とし、
「このまま鎌倉へ入ることは、手の中にある物を取るほど簡単だ」
と、攻め手の兵たちは勇み立っていた。
夜が明けるのを待ち遠しく思っていたほどだった。
竹ノ下方面の敗北が伝わる
ところが、
「竹ノ下方面の軍は敗れ、官軍はすべて追い散らされた」
という知らせが届いた。
すると諸国から集められた兵や、道中の戦いで足利方から降伏してきた坂東武者たちは、一斉に逃げ始めた。
陣幕を捨て、旗を巻き、我先にと山を下った。
先ほどまで広い箱根山を隙間なく埋めていた陣から、人の姿が消えた。
舟田入道が異変に気づく
執事の舟田入道は、最前線で敵陣を攻めていた。
すると足利軍の陣から、
「竹ノ下の戦いでは、将軍が勝利された。
敵はすべて追い散らされたぞ!」
と、早馬の使者が叫ぶ声を聞いた。
舟田は、
「それは本当なのか」
と疑った。
1騎だけで味方の陣々を回ってみると、幕だけが残り、人のいる陣は1つもなかった。
義貞、箱根から退く
舟田は、
「竹ノ下で味方が敗れたのだ。
このままではどうにもならない」
と考えた。
急いで義貞の本陣へ行き、事情を報告した。
義貞はしばらく考えた後、言った。
「ひとまず陣を少し後ろへ下げ、逃げていく兵を止めよう。
兵を集め直してから、再び戦うべきだ」
義貞は舟田入道とともに箱根山を下った。
この時、従う兵はわずか100騎ほどだった。
16騎の党と熱田大宮司が合流する
義貞がしばらく馬を止め、後ろを振り返ると、例の16騎の党が駆けつけた。
さらに北側の山に沿って、三つ葉柏の旗が見えた。
「敵か、味方か」
と尋ねると、熱田大宮司が100騎ほどで義貞を待っていた。
菊池武重も300騎で参上する
義貞がその軍勢を合わせ、野七里へ出た。
すると鷹の羽の旗が1流掲げられ、菊池武重が300騎余りを率いて駆けつけた。
義貞軍は合わせて500騎余りとなった。
散所法師が敵の大軍を知らせる
そこへ西から1人の散所法師がやってきた。
舟田の馬の前にひざまずき、言った。
「皆様は、どちらへ向かわれるのでしょうか。
昨日の夕方、脇屋殿が竹ノ下で敗れて退かれた後、『太平記』本文では将軍の軍勢8010,000騎が伊豆国府を埋め尽くしております。
木の下にも岩陰にも、人のいない場所はありません。
この程度の軍勢だけで通り抜けることは、決してできません」
『太平記』の誇張を含むとはいえ、敵が圧倒的な大軍だったことを示している。
栗生・篠塚が敵陣突破を申し出る
これを聞いた栗生と篠塚は、並んで馬に乗っていた。
2人は鐙を強く踏み、身を伸ばして味方の軍勢を見渡した。
そして言った。
「何と見事な兵たちだ。
1騎で1,000人に当たる武者とは、この人々のことだろう。
敵8010,000騎に、味方500騎余り。
まことにちょうどよい相手ではないか。
我々が敵陣を破り、道を開こう。
皆、続け!」
2人は数万騎が集まると『太平記』が描く敵の中へ突入した。
篠塚、一条次郎を投げ倒す
伊豆国府では、一条次郎が3,000騎余りで戦っていた。
一条は新田義貞の姿を見ると、
「名のある敵だ」
と思い、馬を並べて組みつこうとした。
篠塚は2人の間へ割って入った。
一条が振り下ろした太刀を左の鎧袖で受け止めると、大男の一条をつかみ上げ、2丈ほど(約6m)先へ投げ飛ばしたと『太平記』は描く。
一条次郎を討ち取る
一条も怪力で、素早い武士だった。
投げられても倒れず、よろめいた足を踏み直した。
さらに義貞へ走りかかろうとした。
篠塚は馬から飛び降り、両膝をそろえて一条を仰向けに蹴り倒した。
倒れるのと同時に押さえつけ、起き上がる隙を与えず、首を切って高く掲げた。
1か所で9人を討つ
一条の家臣たちは、目の前で主君を討たれたことを悔しがった。
篠塚を討とうとして、次々と馬から飛び降り、攻めかかった。
篠塚は攻撃をかわしては蹴り倒し、倒しては首を取った。
1歩も場所を移さず、1か所で9人まで討ち取ったという。篠塚伊賀守の怪力を強調する『太平記』の軍記的な描写である。
敵の大軍が道を開ける
敵は数十万騎いたと記される。
しかし篠塚の武勇を見て、あえて攻めかかろうとする者はいなかった。
そのため義貞は、ゆっくりと伊豆国府を通過した。
夜のうちに敗走し、周辺へ隠れていた官軍の兵たちも、義貞の姿を見ると各地から駆けつけた。
軍勢は2,000騎ほどとなった。
小山軍を打ち破る
義貞は喜んだ。
「この軍勢があれば、たとえ百重、千重に包囲されても、敵を破って通れないはずはない」
進んでいくと、木瀬川に1流の旗が立ち、2,000騎ほどの軍勢が見えた。
近づいて旗を見ると、旗にも笠印にも二つ巴が描かれていた。
「小山判官の軍に違いない。
1騎も残さず討ち取れ」
山名・里見氏らが馬を並べ、大声で攻めかかった。
小山軍は四方八方へ追い散らされ、100騎ほどが討たれた。
甲斐源氏500騎を降伏させる
浮島ヶ原を通過すると、松林の陰に3流の旗を立て、500騎ほどの軍が控えていた。
近くの住民へ、
「敵か、味方か」
と尋ねると、
「昨日の竹ノ下の戦いから中務卿親王を追い、各地で戦っていた甲斐源氏です」
と答えた。
義貞は言った。
「それならば、よい敵だ。
包囲して討て」
2,000騎余りを2手に分け、南北から攻め寄せた。
甲斐源氏は勝てないと思ったのだろう。
矢を1本も射ず、降伏した。
散っていた官軍が7,000騎に戻る
降伏した軍勢を先頭に立てて進むと、大中黒の旗を見つけた敗残兵が、各地から駆けつけた。
義貞軍は7,000騎余りまで回復した。
皆は、
「これならば戦える」
と勇気を取り戻した。
武田・小笠原軍を三方から攻める
今井・見付を過ぎると、5流の旗を掲げた敵軍2,000騎ほどが、小山の上に陣取っていた。
降伏した甲斐源氏へ、
「あの敵は誰か」
と尋ねると、
「武田・小笠原の軍勢です」
と答えた。
義貞は、
「それならば攻めよ」
と命じ、四方から山を攻め上らせた。
逃げ道を一方だけ開ける
高田薩摩守義遠が申し上げた。
「敵を1人残らず討とうとすれば、味方も多く失います。
大軍を攻める時は、片側を開けて逃げ道を残す方が有利です」
由良・舟田らも、
「そのとおりだ」
と賛成した。
東側だけを開け、3方から攻めた。
武田・小笠原軍は遠矢を少し射た後、開いていた東へ逃げていった。
天竜川へ到着する
それ以後、義貞軍の進路をふさぐ敵はいなかった。
負傷者を助け、遅れる兵を待ちながら進んだ。
建武2年(1335年)12月14日の夕方ごろ、天竜川東岸の宿へ到着した。
増水した天竜川
上流では雨が降り、川の水は岸まであふれていた。
兵も馬も長い道のりに疲れており、泳いで渡ることはできそうになかった。
そこで周辺の民家を急いで壊し、その木材で浮橋を造った。
足利軍が追撃しなかった幸運
この時、尊氏の大軍がすぐ後ろから追いかけてきたならば、京都方は1人残らず滅びたかもしれない。
しかし吉良・上杉氏らが長い軍議を行い、3、4日間その場にとどまった。
その間に新田軍は浮橋を完成させ、数万の軍勢が1日のうちに残らず川を渡ったと『太平記』は記す。
何者かが浮橋の綱を切る
すべての兵を渡し終えた後、舟田入道と義貞が最後に橋を渡ろうとした。
その時、何者かが裏切りを企てたのだろうか。
浮橋の1間ほど(約1.8m)を支える綱が切られた。
栗生左衛門が馬と舎人を救う
義貞の舎人が馬を引いて渡っていたが、馬とともに逆さまに川へ落ちた。
浮いたり沈んだりしながら流された。
舟田入道が叫んだ。
「誰か、あの馬を助けよ!」
後ろから渡っていた栗生左衛門は、鎧を着たまま川へ飛び込んだ。
栗生左衛門は、2町ほど(約220m)泳いで追いつき、馬と舎人を左右の手で持ち上げたと『太平記』は描く。超人的な怪力を強調する軍記的表現である。
肩を越えるほど深い水の中を、静かに歩き、向こう岸へ到着した。
義貞と舟田が橋の切れ目を飛び越える
馬が落ちた時、浮橋は2間ほど(約3.6m)外れ、渡ることができなくなった。
舟田入道と義貞は互いに手を取り合った。
そして切れ目を、軽々と飛び越えた。
名張八郎が20人を投げ渡す
後ろにいた兵20人余りは、飛び越えられず、しばらく迷っていた。
伊賀国の住人に、名張八郎という名高い怪力の武士がいた。
名張は言った。
「私が渡してやろう」
鎧武者の鎧の上部をつかみ、宙へ持ち上げ、1人ずつ向こう側へ投げた。
20人近くを投げ渡したという。
最後に2人が残ると、1人ずつ左右の脇へ軽々と抱えた。
さらに1丈余り(約3m)途切れた橋を飛び、向こう側の橋板へ着地したと『太平記』は語る。
踏んだ場所は少しも揺れず、まことに軽々とした姿だった。
武勇があっても時運に敗れる
遠くから見ていた兵たちは言った。
「何と恐ろしい力だ。
普通の人間にできることではない。
総大将といい、家臣たちといい、誰1人として捨てるべき者とは思えない。
それほどの人々が、時の運に押されて戦いに敗れたとは、何とも残念なことだ」
浮橋を切り流す
新田軍は渡り終えると、浮橋を切り、川へ流した。
これで敵が追ってきても、簡単には渡れない。
しかし敗軍の兵たちには、
「総大将と心を合わせ、もう1度戦おう」
と思う者が少なかった。
一夜で軍勢の10分の9が逃げる
義貞が矢矯に1日滞在すると、昨日まで210,000騎余りいた兵は、四方へ逃げ去った。
残った者は10分の1にも満たなかった。
宇都宮公綱がさらに退却を勧める
早朝、宇都宮治部大輔公綱が義貞の前へ出て言った。
「昨夜、官軍の者たちが一晩中逃げていたと聞きました。
実際に各陣はまばらとなり、どこに人がいるのか分からないほどです。
ここで数日を過ごせば、背後に敵が現れ、退路をふさがれるかもしれません。
もう少し退き、安八や墨俣を前方の防衛線として、京都に近い国へ陣を移されてはいかがでしょうか」
義貞、尾張国まで退く
諸将も言った。
「都のことも心配です。
これ以上、京都から遠い場所へ長くとどまるべきではないでしょう」
義貞は答えた。
「それならば、皆の意見に従おう」
その日、新田軍は天竜川を出発し、尾張国まで退いたのである。
110. 全国で足利方が蜂起する――京都へ届く相次ぐ急報
讃岐国から届いた最初の急報
このような中、建武2年(1335年)12月10日、讃岐国の高松頼重(三郎頼重)が早馬を京都へ送った。
報告には、およそ次のように書かれていた。
「足利一族の細川卿律師定禅が、建武2年(1335年)11月26日、讃岐国鷺田荘で旗を挙げました。
詫間氏・香西氏が味方し、軍勢はすぐに300騎余りとなりました」
高松頼重の父と一族が討ち死にする
「頼重は時を移さず討伐しようと考え、まず矢島の麓へ進み、讃岐国中の軍勢を集めました。
ところが定禅は先手を打ち、夜襲を行いました。
頼重たちは命を捨てて防戦しましたが、従っていた国の武士たちが突然足利方へ寝返り、味方へ矢を射始めました。
そのため頼重の老父をはじめ、一族14人、家臣30人余りが、その場で討ち死にしました」
細川定禅軍が3,000騎となる
「最初の陣が破られると、藤原・橘両氏の武士や、坂東・坂西の者たちまで、残らず定禅へ従いました。
その軍勢は、すでに3,000騎余りとなっています。
※地名の注意:ここでいう「坂東・坂西」は関東・関西の意味ではなく、中世の阿波国板野郡付近にあった地域名を指す。元の訳の「讃岐東部・西部」ではない。
近いうちに宇多津で軍船を整え、備前国児島へ渡り、京都へ攻め上ろうとしています。
十分なご警戒をお願いいたします」
京都はまだ深刻に考えない
京都には、新田義貞の子である新田越後守義顕が大将として残っていた。
さらに、
- 結城氏
- 名和氏
- 楠木氏
などの有力武将が、大軍を率いて守っていた。
そのため朝廷では、
「四国の反乱軍が全軍で京都へ攻め上ったとしても、大したことはない」
と考え、まだそれほど驚かなかった。
児島高徳から備中国の反乱が報告される
翌12月11日、備前国の児島高徳から早馬が届いた。
報告には次のようにあった。
「建武2年(1335年)11月26日、備前国の住人である佐々木信胤・田井信高らが、細川定禅の誘いを受け、備中国へ進みました。
そして福山城へ立てこもりました」
備中国の目代軍が敗れる
「備中国の目代は、まず手元の兵だけで城を攻めました。
しかし国中の武士たちは、朝廷の召集に従いませんでした。
目代軍は小勢であったため退却しました。
すると反乱軍は勝利の勢いに乗り、数百人を討ち取りました」
備中国の武士が次々と足利方へ加わる
「翌11月27日には、
- 小坂氏
- 川村氏
- 庄氏
- 真壁氏
- 陶山氏
- 成合氏
- 那須氏
- 市川氏
らが、皆、足利方へ加わりました。
軍勢は間もなく3,000騎余りとなりました」
福山城攻めで味方が寝返る
「備前国の地頭・御家人たちは吉備津宮へ集まり、反乱軍を待ち受けました。
そこへ備後国守護に任命された浅山備後守が到着しました。
その軍勢と合わせ、建武2年(1335年)11月28日に福山城へ攻め寄せました。
高徳の一族らが正面の守りを破り、城内へ入ろうとした時、朝廷方にいた国人たちが突然寝返り、味方へ矢を射ました」
官軍が三石城へ退く
「そのため目代浄智の子である七条弁房、小周防の大弐房、藤井六郎、佐井七郎ら30人余りが、裏手の戦いで討たれました。
朝廷軍は敗北して備前国へ退き、三石城へ立てこもりました」
松田氏も寝返る
「備前国守護の松田盛朝、大田全職、高津浄源らが備前へ到着し、朝廷方へ加わりました。
そのため三石城から再び国中へ進み、和気の宿で戦いました。
ところが松田盛朝が敵方へ寝返り、官軍は数十人を討たれ、熊山城へ退きました」
内藤弥二郎が城へ敵を引き入れる
「その夜、備前国の内藤弥二郎は、朝廷方の陣にいながら、ひそかに敵を城内へ引き入れました。
敵が突然攻めたため、官軍はすべて散り、行方も分からないまま敗走しました。
児島高徳の一族のうち、かろうじて命を助かった者たちは山林へ身を隠し、京都からの討伐軍を待っています。
急いで軍勢を送らなければ、西国の乱は大事件となるでしょう」
丹波国でも反乱が起こる
2日続けて早馬が届き、後醍醐天皇は驚いた。
朝廷が、
「どうすればよいのか」
と慌てていると、さらに『太平記』本文でいう「翌日の午の刻(午前11時〜午後1時ごろ)」、丹波国の碓井盛景から急報が届いた。
※年代の注意:『太平記』本文は、12月10日・11日の急報に続いて「翌日の午の刻」としながら、この丹波の報告内容を「12月19日の夜」としているため、本文内部で日付が前後している。ここでは矛盾を勝手に直さず、そのまま示す。
久下時重らが丹波守護の館を襲う
報告には、次のようにあった。
「建武2年(1335年)12月19日の夜、丹波国の久下時重が、
- 波々伯部次郎左衛門
- 中沢三郎入道
らを味方にし、守護の館へ攻め寄せました。
朝廷方は防戦しましたが、突然の戦いであったため陣を破られ、摂津国へ退却しました」
赤松円心が朝廷の救援要請へ答えない
「それでも他家の力を借り、敗北の恥をすすごうと考え、赤松円心へ使者を送り、援軍を求めました。
しかし円心は反逆の心を持っているためでしょうか。
返事さえしませんでした。
そのうえ、
『足利将軍の命令書である』
と称する文書を使い、丹波国中の軍勢を集めているという噂まであります」
山陰・山陽から京都へ攻める計画
「但馬・丹後・丹波の足利方は、備前・備中の軍勢を待っています。
そして同時に、山陰道と山陽道の両方から京都へ攻め上る予定だと聞いています。
十分にご警戒ください」
越中国から石動山の敗北が届く
同日の酉の刻(午後5〜7時ごろ)、能登国石動山の僧兵たちからも使者が来た。
報告には次のように書かれていた。
「建武2年(1335年)11月27日、越中国守護側の普門利清をはじめ、
- 井上氏
- 野尻氏
- 長沢氏
- 波多野氏
らが、足利将軍の命令書を使い、越中・能登両国の軍勢を集め、反乱を企てました」
国司・中院定清が討ち死にする
「越中国司の中院少将定清は、防御に適した石動山へ立てこもりました。
建武2年(1335年)12月12日、反乱軍が雲や霞のような大軍で押し寄せました。
寺の僧兵たちは、朝廷方の兵とともに命を惜しまず戦いました。
しかし第1陣を守りきることができませんでした。
定清は戦場で命を落とし、寺院はすべて兵火によって焼けました」
北陸の反乱軍も京都を目指す
「反乱軍は、ますます勢いを強めています。
近日中に京都へ攻め上ろうとしています。
急いで軍勢をお送りください」
全国で足利方が立ち上がる
これだけではなかった。
- 加賀では富樫介
- 越前では斯波高経の家臣
- 伊予では河野対馬入道
- 長門では厚東氏の一族
- 安芸では熊谷氏
- 周防では大内氏の一族
- 備後では江田・弘沢・宮・三善氏
- 出雲では富田氏
- 伯耆では波多野氏
- 因幡では矢部・小幡氏
らが兵を挙げた。
そのほか畿内・山陰道・山陽道・東海道・東山道・北陸道・南海道・西海道、さらに四国・九州まで、反乱の起こらない場所がないと伝えられた。
朝廷の人々が恐怖する
後醍醐天皇をはじめ、公家やその家臣たちは、1人として恐れない者がなかった。
各地から足利方の蜂起を知らせる使者が、休む間もなく到着したのである。
陽明門に書かれた狂歌
そのころ、どのような無礼者が書いたのだろうか。
宮中の陽明門の扉に、一首の狂歌が書かれていた。
賢王の
横言になる
世の中は
上を下へぞ
返したりける
その意味は、
賢いはずの天皇の言葉が道理を外れる世では、
上にいた者が下へ落ち、
下にいた者が上へ上がり、
世の中の秩序が逆さまになる。
という、建武政権を皮肉る歌だった。
義貞を京都へ呼び戻す
全国の反乱軍が一斉に立ち上がり、急報が絶えなかった。
朝廷は引他九郎を勅使として派遣した。
義貞はまだ尾張国におり、
「ここで足利軍を防ごう」
と考えていた。
しかし朝廷は、
「急いで、まず京都へ戻れ」
と命じた。
龍馬を与えられた勅使
引他九郎には、以前宮中へ献上された龍馬が与えられた。
引他は、
「この馬ならば、普通なら4、5日かかる道でも、1日で往復できるだろう」
と思った。
『太平記』本文では、建武2年(1335年)12月19日の辰の刻(午前7〜9時ごろ)に京都を出発し、その日の午の刻(午前11時〜午後1時ごろ)には近江国愛知川の宿へ到着したという。
龍馬が突然死ぬ
ところが龍馬は突然病気となり、そのまま死んだ。
かつて万里小路藤房が、
「この馬は大乱の前兆ではないか」
と述べたことを思わせる、不思議な最期だった。
義貞、京都へ引き返す
引他九郎は馬を何度も乗り換え、数日かけて尾張国へ到着した。
朝廷の命令と全国の反乱の様子を、義貞へ報告した。
義貞は言った。
「まず京都へ引き返し、宇治と瀬田を守って戦うべきだ」
こうして義貞は勅使とともに、京都へ向けて引き返したのである。
111. 足利尊氏軍の進撃――大渡・山崎の防衛線が崩れる
新年を迎えても儀式が行われない
年が改まり、建武3年(1336年)となった。
しかし宮中では、天皇が百官から新年の拝礼を受ける朝拝も、正月の節会も行われなかった。
京都や白河では、人々が家を壊して材木を堀の防御へ使い、財宝をまとめて運び出していた。
誰から正式な指示が出たわけでもない。
ただ都中が騒然とし、落ち着かない様子だった。
四方から京都へ迫る足利軍
やがて、
「足利将軍は、『太平記』によれば800,000騎の軍勢を率い、美濃・尾張まで到着した」
という知らせが入った。
さらに、
「四国の反乱軍も京都へ近づいている」
「山陰道の足利方も、今にも大江山を越えようとしている」
と伝えられた。
この間、朝廷の召集に応じて京都へ集まっていた諸国の軍勢は、次々と逃げ去った。
京都に残る兵は、10,000騎にも満たないように見えた。
恩賞を約束して兵を励ます
残った兵も、まったく戦意を見せなかった。
どこへ向かうよう命じても、耳を貸そうとしない。
そこで朝廷は兵の心を奮い立たせるため、雑訴決断所に次の掲示を出した。
今回の合戦で忠義を尽くした者には、速やかに恩賞を与える。
ところが何者かが、その文の末尾へ落書きをした。
このように人々をだまそうとなさる天皇のお言葉は、
1度流れた汗のように、なぜ取り消せないものではないのだろう。
「天皇の言葉は、1度出れば汗のように元へ戻らない」という古い理想を逆手に取り、建武政権が恩賞の約束を守らなかったことを皮肉ったのである。
京都周辺を四方面で守る
建武3年(1336年)1月7日、新田義貞は宮中から退出すると、軍勢を4方面へ分けた。
守る場所は、
- 瀬田
- 宇治
- 山崎
- 大渡
だった。
瀬田を守る名和長年
瀬田方面には、名和伯耆守長年が向かった。
出雲・伯耆・因幡3か国の兵、2,000騎がつけられた。
供御の瀬と膳所の瀬の2か所へ、数千本の大木を流して並べた。
大綱を張り、川底へ乱杭を打ち、大木を次々とつないだ。
どのような水神であっても、上を泳ぎ越えることも、下を潜り抜けることもできないと思われるほど、厳しい防御だった。
宇治を守る楠木正成
宇治方面には楠木正成が向かった。
大和・河内・和泉・紀伊の兵、5,000騎余りが従った。
宇治橋の板を4、5間ほど(約7〜9m)取り外した。
川の中には大石を積み上げ、逆茂木を密集させた。
東岸は屏風のような切り立った崖にした。
川の水は2つに分かれ、白波を立てて激しく落ちた。
その様子は、中国の黄河にある竜門の三段の滝のようだった。
平等院が兵火に焼かれる
敵に安全な陣地を与えないため、
- 橘小島
- 槇島
- 平等院周辺
の建物を、一棟も残さず焼き払った。
ところが強い風が大きな建物へ吹きつけ、宇治平等院の仏堂や宝蔵まで、たちまち焼けてしまった。
何とも悲惨な出来事だった。
山崎を守る脇屋義助
山崎方面には、脇屋義助を大将として、
- 洞院按察大納言
- 文観僧正
- 大友千代松丸
- 宇都宮美濃将監泰藤
- 海老名五郎左衛門
- 長九郎左衛門
ら、7,000騎余りが向かった。
宝寺から川岸まで土塀を造り、堀を掘った。
高い櫓や張り出した櫓を、300か所余りも並べた。
見た目はたいへん厳重だった。
しかし急いで造ったため、塀の土はまだ乾かず、堀も浅かった。
守る兵にも、公家に仕える者や、文観僧正の一味と称する者が多かった。
そのため、
「この陣は激しい戦いに耐えられないだろう」
と思われた。
大渡を守る新田義貞
大渡では、新田義貞が総大将となった。
- 里見氏
- 鳥山氏
- 山名氏
- 桃井氏
- 額田氏
- 田中氏
- 籠沢氏
- 千葉氏
- 宇都宮氏
- 菊池氏
- 結城氏
- 池氏
- 風間氏
- 小国氏
- 河内氏
ら、110,000騎余りが守った。
橋板を3間ほど(約5.5m)、ところどころ取り外した。
橋の中央から東側へ盾と櫓を設け、川を渡る敵には横から矢を射るようにした。
橋桁を渡ろうとする者は、長い棒で突き落とす構えだった。
馬が駆け上がる場所には逆茂木を隙間なく置き、その後ろには選び抜かれた武士たちが馬を並べた。
どのような名馬へ乗っていても、ここを突破できるとは思えなかった。
尊氏、近江の城を攻め落とす
足利尊氏は、『太平記』本文では8010,000騎を率いていたとされる。これは軍記物語上の巨大な軍勢数である。
建武3年(1336年)1月7日、近江国の伊岐州の社で、山法師の成願坊が300騎余りとともに立てこもっていた城を、1日1夜で攻め落とした。
翌1月8日には、八幡山の麓へ陣を置いた。
細川定禅と赤松範資が合流する
細川定禅は四国・中国地方の軍勢を率い、建武3年(1336年)1月7日に播磨国の大蔵谷へ到着した。
そこへ赤松信濃守範資が、播磨国で兵を挙げるため京都から逃げ下ってきた。
両者は道中で出会い、限りなく喜んだ。
元弘の乱の時の吉例にならい、赤松範資を先陣とした。
合わせて2万3,000騎余りとなり、翌1月8日の正午ごろ、芥川宿へ陣を取った。
山陰道軍が大江山へ進む
久下時重、波々伯部為光、酒井貞信らは、但馬・丹後の軍勢と合わせて6,000騎余りとなった。
二条大納言家の西山の峰堂にいた朝廷軍を追い払い、建武3年(1336年)1月8日の夜中から、大江山峠へかがり火をたいた。
江田行義が大江山軍を破る
京都には、状況の弱い方面へ援軍として向かわせるため、
- 新田一族30人余り
- 諸国の兵5,000騎余り
が残されていた。
朝廷は大江山の敵を追い払うため、江田兵部大輔行義を大将として、3,000騎余りを丹波路へ向かわせた。
この軍は建武3年(1336年)1月8日の明け方、桂川を渡った。
朝霧に紛れて大江山へ攻め寄せ、矢を1度射交わすと、太刀を抜いて坂を攻め上った。
第1陣で戦った久下時重の弟・五郎長重は、重傷を負って討たれた。
後陣の兵は1度も戦わず、鞭を捨てるように逃げた。
朝廷軍はそれほど深く追わなかったが、『太平記』本文では敵は10里、20里の遠方まで退いたとする。ここでの「里」は中世の里程であり、現在のkmには単純換算しない。
尊氏軍、大渡へ押し寄せる
建武3年(1336年)1月9日の辰の刻(午前7〜9時ごろ)、足利尊氏は、『太平記』が大軍と描く軍勢を率い、大渡の西側の橋詰めへ押し寄せた。
橋桁を渡るべきか。
それとも川へ馬を入れて渡るべきか。
しかし橋の上も川の中も、朝廷軍の防御は厳しかった。
尊氏はどうすべきか考え、長い時間その場へとどまった。
官軍が足利軍を挑発する
官軍の陣から、血気盛んな兵100騎ほどが川岸へ進み出た。
彼らは声をそろえて叫んだ。
「足利殿が頼りになさっていた丹波路の軍勢は、昨日、我々が追い散らし、1人残らず討ち取りました。
旗の紋を見ると、足利家の主だった方々は、ほとんどこの陣へ来ておられるようです。
治承の乱では足利又太郎が、元暦の戦いでは佐々木高綱が、宇治川を渡って後世に名を残しました。
この川は宇治川より浅く、流れもそれほど速くありません。
さあ、渡ってみてください」
官軍は箙をたたき、声を上げて笑った。
武蔵・相模の兵が渡河を求める
武蔵・相模の兵たちは怒った。
「敵に招かれながら、どれほど流れの速い深い川であっても、渡らないことがあるものか。
もし我々が馬とともに沈んだならば、後ろの兵がその体を橋として踏み、渡ればよい」
2,000騎余りが一斉に川へ馬を入れようとした。
高師直が兵を止める
執事の高師直は、兵の間を駆け回って止めた。
「いったい気でも狂ったのか。
馬の足も届かない大河である。
表面は静かに見えても、底の流れは速い。
簡単に渡れるものではない。
しばらく静まれ。
近くの家を壊し、筏を組んで渡るのだ」
兵たちは、
「確かにそのとおりだ」
と思ったのだろう。
周辺の民家数百軒を壊し、『太平記』本文では差し渡し2、3町ほど(単純換算で約220〜330m)にもなる巨大な筏を組んだという。
500人を乗せた筏が流される
武蔵・相模の兵500人余りが筏へ乗り、橋の下流を渡ろうとした。
ところが川の中へ打ち込まれていた乱杭に引っかかり、どれほど竿を使っても進めなかった。
官軍は雨のように矢を射かけた。
筏は少しも動かなかった。
やがて流れの力によって、筏を結んでいた綱が切れた。
竿でも止められず流され、組み重ねた材木が次々と外れた。
筏へ乗っていた500人余りは、皆、水に溺れて死亡したと『太平記』は記す。
官軍は盾をたたき、
「見たか!」
と笑った。
足利方は手を差し伸べ、助けようと騒いだが、どうすることもできなかった。
櫓の上から再び挑発する
筏の攻撃が失敗すると、橋の上の櫓から官軍の武士が1人、矢を射るための板戸を開けて叫んだ。
「治承年間、高倉宮の戦いでは、宇治橋の板が3間(約5.5m)取り外され、橋桁だけとなっていました。
それでも筒井浄妙や矢切但馬は、一条大路や二条大路よりも広い道のように、橋桁の上を走って渡ったといいます。
まして、この橋は盾を置くため所々の板を緩めているだけです。
人が渡れないほどではありません。
坂東から京都を攻めるのであれば、川に防がれる戦いがあることくらい、考えておられたでしょう。
舟や筏を作っていても、時間がかかるばかりです。
橋の上を渡り、直接攻めて、我々の戦いぶりを見てはいかがですか」
武士は足利軍を笑い、辱めた。
野木頼玄が橋桁へ進む
高師直の家臣に、野木与一兵衛入道頼玄という武士がいた。
怪力と素早い動き、武器の扱いによって名を知られた人物だった。
頼玄は大鎧を隙間なく身につけた。
獅子頭の兜に頬当てをつけ、4尺3寸(約1.3m)の大太刀を帯びた。
さらに柄5尺(約1.5m)、刃5尺(約1.5m)もある備前長刀を右脇へ抱えた。
そして大声で言った。
「治承の戦いは話に聞くだけで、実際に見た者はいない。
私が筒井浄妙に劣るかどうか、見ているがよい。
敵を目の前にするならば、インドの石橋であろうと、蜀の縄橋であろうと、渡れないことがあるものか」
頼玄は橋桁の上へ進んだ。
矢をかわしながら橋桁を渡る
櫓の盾の陰にいた官軍は、頼玄を射落とそうと、一斉に矢を放った。
橋桁の幅は、わずか1尺ほど(約30cm)だった。
普通に歩くだけでも、矢を避けることは難しい。
しかし頼玄は、上から来る矢には身を低くしてかわした。
低い矢は跳び越えた。
左から来る矢には右の橋桁へ飛び移り、右から来る矢には左へ移った。
正面から飛んでくる矢は、太刀で斬り落とした。
斬り損なう矢は1本もなかった。
数万の敵味方が、この姿を見守った。
3人で櫓を揺らす
さらに山川判官の家臣2人も、橋桁を渡って頼玄へ続いた。
頼玄は力を得た。
櫓の下へ潜り込み、地中へ立てられた柱を、
「えい、えい」
と引いた。
橋の上へ造られた櫓だったため、橋全体とともに大きく揺れた。
今にも倒れるように見えた。
櫓の上にいた射手40〜50人は、
「これ以上は守れない」
と思った。
次々と飛び下り、倒れながら第2の木戸へ逃げ込んだ。
足利方の大軍は一斉に箙をたたき、笑った。
1,000人余りが橋へ殺到する
「敵は退いたぞ!」
という声が上がった。
三河・遠江・美濃・尾張の血気盛んな兵1,000人余りが、馬から次々と飛び降り、我先にと橋へ殺到した。
矢に射落とされ、棒で突き落とされ、水に溺れる者は数えきれなかった。
それでも後ろから次々と押し寄せた。
狭い橋の上へ、木靴の歯を並べたように兵が密集した。
そして幾重にも造られた櫓や盾を引き壊そうとした。
橋桁が折れて1,000人が落ちる
官軍は、あらかじめ仕掛けをしていたのだろうか。
橋桁が中央の4、5間ほど(約7〜9m)にわたって折れた。
橋へ密集していた1,000人余りの兵が、一斉に川へ落ちたと『太平記』は記す。
兵たちは浮いたり沈んだりしながら、流されていった。
官軍は声をそろえて盾をたたき、大笑いした。
頼玄だけは板へ乗って戻る
しかし野木頼玄は泳ぎも得意だった。
橋板一枚へ乗り、長刀を竿の代わりとして使った。
そして無事に元の陣まで戻った。
足利軍は攻めあぐねる
これ以後、橋桁は途中で切れてしまい、筏による渡河も失敗した。
足利軍は、
「このまま、いつまで向かい合っていればよいのか」
と、攻めあぐねた。
その時、賢そうな姿をした力者が、封をした手紙を持って走ってきた。
「赤松筑前守殿の陣は、どこでしょうか」
と尋ねていた。
赤松範資からの手紙
赤松筑前守貞範は、8日の夜から桃井修理亮、土屋三河守、安保丹後守と陣を並べ、橋の下手にいた。
使者を見つけ、急いで手紙を開いた。
兄の赤松信濃守範資が、自ら書いたものだった。
内容は次のとおりだった。
新田義貞らを討つよう、足利将軍家から命令書が届いたため、義兵を挙げようと播磨国へ下った。
途中、京都へ向かっていた細川定禅と出会った。
元弘の乱の時の先例にならい、範資が先陣を務めることを約束した。
本日、芥川宿へ到着した。
明日10日の午前8時ごろ、山崎の陣へ攻め寄せ、戦う予定である。
このことを将軍にもお伝えいただきたい。
足利軍が山崎攻撃の知らせを喜ぶ
貞範が尊氏の前へ手紙を持っていき、読み上げた。
尊氏をはじめ、
- 吉良氏
- 石塔氏
- 高氏
- 上杉氏
- 畠山氏
らは、
「これで勝てる」
と、大いに喜んだ。
赤松兄弟が再会する
使者が帰り、攻撃の時刻になると、細川定禅は20,000騎余りで桜井宿の東へ進んだ。
赤松範資も2,000騎余りを率い、川に沿って山崎へ押し寄せた。
対岸にいた弟の貞範は、旗の紋を見て兄の軍と気づいた。
小舟3艘へ乗り、川を渡って兄と合流した。
2人は長い間、東西数百里(中世の里程で、現在のkmには単純換算しない)を隔て、互いの安否を知らなかった。
「どこかの戦場で、すでに討たれたのではないか」
と心配していた。
互いに無事だったことを天の助けと思い、手を取り、額を合わせ、まず喜びの涙を流した。
山崎の戦いが始まる
山崎の戦いでは、元弘の乱の吉例にならい、赤松軍が最初に矢合わせを行うと決めていた。
ところが播磨国の紀氏の兵300騎余りが、命令を待たずに先駆けし、最初に攻め寄せた。
官軍は敵を小勢と見た。
木戸を開き、逆茂木を取り除き、500騎余りで攻め出た。
赤松方の先駆け軍は、1度も持ちこたえられず追い立てられ、四方へ逃げ散った。
第2陣の戦い
2番目に、坂東・坂西の兵2,000騎余りが、桜井宿の北から山沿いに攻め寄せた。ここでの「坂東・坂西」も、前章と同じく中世の阿波国板野郡付近の地域名である。
城内からは、脇屋義助の兵と、宇都宮泰藤が率いる紀氏・清原氏の兵、合わせて2,000騎余りが出撃した。
両軍は東西へ広がり、南北へ追いつ追われつ、半時ほど戦った。
馬が駆け違う音と鬨の声は、山へ響き、地を揺らした。
まだ勝敗は決まらなかった。
細川・赤松の大軍が攻め寄せる
戦いの途中、四国軍の大将・細川定禅が、『太平記』によれば60,000騎余りを率いて現れた。
赤松範資の2,000騎余りも加わり、2手に分かれて攻め寄せた。
官軍は敵の大軍を見ると、
「勝つことはできない」
と考え、城の中へ退いた。
死者が堀を埋める
足利方は、さらに勢いを得た。
堀へ飛び込み、逆茂木を取り除いた。
矢を射られてもひるまず、刀で打たれても退かなかった。
次々と防御を乗り越え、城内へ攻め込んだ。
堀は死者で埋まり、平地のようになった。
城の矢狭間も、足利軍の射る矢でふさがれ、顔を出すことさえできなくなった。
城内の官軍は、明らかに動揺し始めた。
長九郎左衛門が最初に降伏する
但馬国の住人・長九郎左衛門が、同意する兵300騎余りとともに旗を巻き、最初に降伏した。
これを見ると、
- 洞院按察大納言の軍勢
- 文観僧正の一味
などと名乗り、それまで大言壮語していた者たちも、弓を緩め、兜を脱いだ。
我先にと降伏したため、城内の官軍は完全に力を失い、守り続けることができなくなった。
山崎の陣が陥落する
官軍は、
「淀・鳥羽方面へ退き、大渡の新田軍と合流して戦おう」
と決めた。
生き残った3,000騎余りが、赤井方面を目指して退却した。
こうして山崎の陣は陥落した。
義貞が大渡を捨てて京都へ戻る
義貞は考えた。
「このままでは敵が京都へ乱入する。
まず後醍醐天皇を比叡山へ移し、安全を確保してから戦わなければならない」
義貞は大渡の陣を捨て、京都へ戻った。
すると大友千代松丸と宇都宮治部大輔は、足利方へ降伏して尊氏の軍へ加わった。
淀で足利軍が追いつく
義貞と義助が一つの軍となり、淀大明神の前を退却していると、細川定禅が60,000騎余りで追いついた。
義貞の子・新田義顕は、3,000騎余りを率いて後陣を守っていた。
義顕は相撲ヶ辻へ陣を取り、旗を高く掲げた。
しかし後方で戦いが始まったことは、義貞へ知らされなかった。
義貞を急いで宮中へ向かわせ、天皇を比叡山へ避難させるためだった。
義顕が3,000騎で追撃軍を防ぐ
義顕は矢による戦いを続け、時間を稼いだ。
「父・義貞は、もう宮中へ到着しただろう」
と思われるころになると、3,000騎を2手に分けた。
東西から一斉に声を上げ、足利の大軍へ突入した。
両軍は激しく入り乱れ、火花を散らして戦った。
昨日までの味方が義顕を狙う
大友・宇都宮の兵は、つい先ほどまで新田軍にいた。
そのため義顕の姿をよく知っていた。
ほかの兵には目も向けず、義顕1人を取り囲み、討ち取ろうとした。
しかし義顕は包囲を破って外へ出た。
引き返しては敵を退け、七、8度にわたって自ら戦った。
義顕、重傷を負って京都へ戻る
義顕の鎧の袖も、兜のしころも、すべて斬り落とされた。
全身に多くの深手を負い、半死半生の状態となった。
それでも何とか敵の包囲を抜け、わずかに京都へ戻ることができたのである。
112. 後醍醐天皇、京都を離れて比叡山へ向かう
京都中が混乱する
建武3年(1336年)1月、山崎と大渡の陣が破られたという知らせが京都へ届いた。
京都の人々は、身分の高い者も低い者も、まるで突然初めて危機を知ったかのように慌てた。
人々は倒れ、逃げ惑った。
牛車や馬が東西へ走り交い、宮中や屋敷の品物、財宝が上下へ運び出された。
後醍醐天皇、比叡山への避難を決める
新田義貞と脇屋義助が宮中へ戻る前に、後醍醐天皇は比叡山へ避難することになった。
三種の神器を天皇のそばへ置き、鳳輦へ乗った。
しかし鳳輦を担ぐ者が、1人もいなかった。
宮中の4つの門を守っていた武士たちが、鎧を着たまま徒歩となり、鳳輦の前後を担いだ。
吉田定房が宮中の宝物を集める
吉田定房(内大臣)が、牛車を急がせて宮中へ参上した。
御所の中を走り回って見ると、普段天皇の近くへ仕える人々まで、ひどく慌てていたことが分かった。
明星や日輪に関する札、二間に安置されていた本尊まで、置き去りにされていた。
定房は心を落ち着け、家臣たちへ持たせ、比叡山へ運び出した。
持ち出せなかった宮中の宝
それでも混乱の中で見落とされたものがあった。
- 名器「玄象」
- 「牧馬」と呼ばれる宝物
- 達磨大師の袈裟
- 毘首羯磨が造った五大明王像
などが、宮中へ残された。
朝廷の貴重な宝物を取り落としたことは、何とも嘆かわしいことだった。
わずかな公卿だけが正装で従う
公卿や殿上人のうち、正しい衣冠を身につけて天皇へ従った者は、わずか3、4人だった。
それ以外の武官は皆、鎧と兜を身につけ、弓矢を携えた。
天皇の旗の前後を、武装した兵が取り囲んだ。
公家が武芸を好んだことも前兆だった
この2、3年、天下は一応統一されていた。
朝廷の恩を受けて栄えた公卿や殿上人の中には、特に必要もないのに武具を集め、弓馬を好んだ者がいた。
それは朝廷の道や礼法に反する行為だった。
今になって考えれば、それも、このような異変が起きる前兆だったのだと思い知らされた。
義貞軍20,000騎が鳳輦を守る
新田義貞、脇屋義助をはじめ、
- 江田氏
- 大館氏
- 堀口氏
- 里見氏
- 大井田氏
- 田中氏
- 籠沢氏
ら新田一族30人余りが集まった。
さらに、
- 千葉介
- 宇都宮泰藤
- 仁科氏
- 高梨氏
- 菊池氏
などの大名80人余りが従った。
軍勢は、『太平記』本文では「わずか」210,000騎余りだった。
彼らは鳳輦の後ろを守りながら、東坂本を目指して馬を急がせた。
唐の玄宗の逃亡に重ねる
この慌ただしい光景は、中国の安禄山の乱で、潼関の朝廷軍が突然敗れた時と同じだった。
唐の玄宗皇帝は自ら蜀国へ逃れ、六軍が天皇の旗へ従い、剣閣の雲の中を迷いながら進んだ。
後醍醐天皇の比叡山への避難も、それと異ならない姿だった。
勅使河原丹三郎の決意
信濃国の住人に、勅使河原丹三郎という武士がいた。
丹三郎は大渡の防衛へ向かっていた。
ところが、
「宇治も山崎も破られた」
「天皇は、すでにどこへともなく東を目指して避難された」
と知らされた。
丹三郎は言った。
主君の危機を見て命を捧げることが、臣下の正しい道である。
滅びる朝廷の臣でありながら、どうして不義の逆臣へ従うことができようか。
父子3騎で自害する
勅使河原丹三郎は、父子合わせて3騎で三条河原から引き返した。
そして鳥羽の造道、羅城門付近へ向かった。
そこで3人は腹を切り、命を絶った。
足利方へ降伏して生き延びるより、後醍醐天皇への忠義を守り、京都で死ぬ道を選んだのである。
113. 名和長年、荒れ果てた内裏へ戻る――京都炎上
名和長年、瀬田から京都へ戻る
名和伯耆守長年は、瀬田の防衛を固めていた。
しかし、
「山崎の陣が破られ、後醍醐天皇はすでに東坂本へ避難された」
という知らせを聞いた。
瀬田から直接、東坂本へ向かうことは難しくなかった。
それでも長年は考えた。
「1度も宮中へ戻らず、そのまま逃げたならば、後になって非難を受けるかもしれない」
そこで名和長年(伯耆守)は300騎余りを率い、建武3年(1336年)1月10日の夕方ごろ、再び京都へ戻った。
足利軍が京都を埋める
この日は凶日とされていたため、足利尊氏自身はまだ京都へ入っていなかった。
しかし四国・西国の足利方の兵は、すでに数万騎が京都へ入り、京や白河を埋めていた。
彼らは帆掛け船を描いた名和軍の笠印を見ると、各所で進路をふさぎ、討ち取ろうとした。
長年、17回敵陣を突破する
長年は敵を追い散らして通り、包囲されれば打ち破って外へ出た。
『太平記』によれば、17回にわたって敵と戦ったという。
しかし300騎余りいた兵は、次々と討たれ、100騎ほどまで減った。
それでも長年本人は、最後まで討たれなかった。
無人となった内裏へ入る
長年は内裏の置石付近で馬を降りた。
兜を脱ぎ、南庭へひざまずいた。
後醍醐天皇が東坂本へ向かってから、すでに数時間がたっていた。
宮中の4つの門はすべて閉じられ、宮殿は静まり返っていた。
荒らされた紫宸殿
身分も所属も分からない者たちが、すでに宮中へ乱入したらしい。
百官が礼儀を整えた紫宸殿では、賢人たちを描いた障子が引き破られていた。
雲上の宮殿を描いた絵も、あちらこちらへ散乱していた。
御簾だけが残る弘徽殿
美しい女房たちが朝の化粧を整えた弘徽殿の前では、翡翠色の御簾が途中から切れていた。
月のように輝く御簾の金具だけが、むなしく下がっていた。
長年の涙
長年は、荒れ果てた宮中をつくづくと見回した。
普段は勇猛な東国武士の心にも、深い悲しみがこみ上げたのだろう。
両目からあふれる涙で、鎧の袖を濡らした。
敵が近づき、東坂本へ向かう
長年はしばらく宮中を歩き回っていた。
しかし敵の鬨の声が、すぐ近くで聞こえてきた。
長年は陽明門の前から馬へ乗った。
北白川から今路越を通り、東坂本へ向かって後醍醐天皇のもとへ参上した。
足利方が京都へ火を放つ
その後、四国・西国の足利方の兵が、京都市中へ乱入した。
彼らは後醍醐天皇の行幸へ従った人々の屋敷へ、次々と火を放った。
その時、激しいつむじ風が吹き続けていた。
宮殿や皇族の邸宅が燃える
天皇の御殿や皇族の邸宅から、同時に煙が立ち上った。
- 竜楼や竹苑と呼ばれる宮殿
- 准后の御所
- 式部卿親王の常盤井殿
- 後醍醐天皇が遊びに用いた馬場殿
などが次々と炎に包まれた。
火は四方へ広がった。
内裏が焼け落ちる
やがて猛火は内裏へ燃え移った。
天皇が政治を行う前殿も、后妃たちが暮らす後宮も焼けた。
朝廷の役所である諸司8省、36の殿舎、12の門も炎に包まれた。
壮大な建物は、わずかな時間のうちに、すべて灰となった。
姑蘇城・咸陽宮の炎にも劣らない
昔、越王勾践が呉を滅ぼした時、姑蘇城は一片の煙となった。
項羽が秦を倒した時には、咸陽宮が3か月にわたって燃え続けたという。
しかし呉越や秦楚の昔の大火であっても、今の京都の惨状を上回ることはなかっただろう。
それほどまでに、悲惨な世の中だったのである。
114. 結城親光の決死の襲撃――大友貞載との死闘
足利尊氏、京都へ入る
建武3年(1336年)1月11日、足利尊氏は、『太平記』によれば8010,000騎の大軍を率いて京都へ入った。これは本文上の巨大な軍勢数であり、そのまま史実上の実数とはみなさない。
足利方では以前から、
「大きな戦いをせずに京都へ入ることができたならば、持明院統の上皇や皇子の中から1人を天皇として即位させよう。
そのうえで、天下の政治は武家が取り仕切ることにしよう」
と相談していた。
持明院統の皇族も比叡山へ避難していた
ところが持明院統の法皇も、皇位を継ぐ可能性のある皇子たちも、1人残らず比叡山へ避難していた。
尊氏自身が、天皇に代わってすべての政治を行うことはできない。
尊氏は、
「これから天下の政治を、どのようにすればよいのか」
と判断に迷っていた。
結城親光は京都に残る
結城大田判官親光は、後醍醐天皇から、
「決して自分を裏切ることのない忠臣である」
と、深く信頼されていた。
親光も朝廷から大きな恩を受け、周囲に並ぶ者がないほどの勢いを誇っていた。
本来ならば、比叡山へ向かう後醍醐天皇の鳳輦に従うつもりだった。
尊氏を討つため、あえて都へ残る
しかし親光は、
「このままでは、もはや朝廷の世も長くは続かないだろう」
と考えた。
そこで、何とかして足利尊氏を討とうと思い、わざと京都へ残った。
親光は、ある禅僧を仲介者として、
「足利将軍へ降伏したい」
と申し入れた。
尊氏は親光の計略を疑う
尊氏はこの知らせを聞き、言った。
「親光の考えが、本当の降伏であるはずはない。
尊氏をだまし、討とうとしているのだろう。
それでも、まず事情を聞いてみよう」
尊氏は使者として、大友貞載(左近将監)を結城親光のもとへ送った。
楊梅東洞院で両者が出会う
やがて大友貞載と結城親光は、京都の楊梅東洞院で出会った。
大友は、もともと少し思慮に欠ける人物だった。
親光へ向かい、乱暴な口調で言った。
「あなたが降伏すると申し出たため、将軍から、
『事情を詳しく尋ねてこい』
と命じられ、私が使者として参りました。
降伏する者の作法として、まず鎧をお脱ぎください」
親光は討手が送られたと悟る
親光はこの言葉を聞き、考えた。
「尊氏は、すでに私の本心を見抜いている。
大友を使者として送ったのも、実際には私を討たせるためなのだろう」
親光は静かに答えた。
「鎧を脱げというご命令でしたら、お渡しいたしましょう」
そう言うと、長さ3尺8寸(約1.15m)の太刀を抜き、大友貞載へ走りかかった。
大友の首へ太刀を打ち込む
親光は大友の兜のしころから首の根元へ向け、激しく太刀を打ち込んだ。
刃は5寸ほど(約15cm)も大友貞載の首へ食い込んだと『太平記』は記す。
大友も太刀を抜こうとした。
しかし突然の攻撃で目がくらんだのだろうか。
太刀を1尺ほど(約30cm)抜きかけたところで、馬から逆さまに落ち、そのまま死亡したと『太平記』本文は描く。
※史実との違い:『太平記』本文では大友貞載がこの場で死亡したように描く。一方、人物事典では、貞載は結城親光に斬られて負傷し、翌1月12日に死亡したとされる。
300騎が親光らを包囲する
大友貞載の若い家臣300騎余りは、主人が討たれたのを見ると激怒した。
結城親光と、その家臣17騎を中央へ取り囲んだ。
そして、
「1人も残さず討ち取れ」
と攻めかかった。
結城の家臣たちは討ち死にを覚悟していた
親光の家臣たちは、もともと、
「主人とともに討ち死にしよう」
と覚悟していた者たちだった。
彼らは、
「大軍を相手に長く戦っても仕方がない」
と考えた。
敵へ組みついては互いに刀を突き立て、刺し違えて倒れた。
1歩も退くことなく、同じ場所で14人までが討ち死にしたという。
結城親光も、ついにこの戦いで命を落とした。
敵味方とも、その死を惜しむ
この出来事を聞いた者たちは、足利方も朝廷方も関係なく嘆いた。
「これほど立派な武士たちが、わずかな時間のうちに失われてしまった。
何とも惜しいことだ」
親光らの勇気を惜しまない者は、1人もいなかったのである。
115. 比叡山の衆徒、後醍醐天皇を迎える
東坂本へ入った後醍醐天皇
建武3年(1336年)1月、後醍醐天皇は、すでに比叡山東麓の東坂本へ到着していた。
天皇は大宮の彼岸所を仮の御所としていた。
しかし比叡山の僧兵は、まだ1人も参上してこなかった。
天皇は、
「比叡山の僧たちも心を変え、足利方へついてしまったのだろうか」
と心配した。
藤本房英憲が1人で参上する
その時、藤本房英憲僧都が参上した。
英憲は言葉を口にすることもできず、ただ涙を流した。
そして大床の上で、うやうやしくひざまずいた。
天皇が英憲の名を尋ねる
後醍醐天皇は御簾の内側から英憲の姿を見た。
そして、
「名は何というのか」
と詳しく尋ねた。
その後、天皇は言った。
「硯はあるか」
英憲は急いで硯を取り寄せ、天皇の前へ置いた。
後醍醐天皇が願文を書く
後醍醐天皇は自ら筆を取り、願文を書いた。
そして英憲へ命じた。
「この願文を、大宮の神殿へ納めよ」
英憲は、うやうやしく命令を受けた。
右方権禰宜の行親を通じて、天皇の願文を大宮の神殿へ納めた。
円宗院定宗が500人を率いて参上する
しばらくすると、円宗院定宗(法印)が、同じ寺で暮らす僧500人余りを率いて参上した。
後醍醐天皇は大いに喜び、定宗を大床へ招いた。
定宗は天皇の前へひざまずき、申し上げた。
仏法と王法は支え合う
「桓武天皇の時代、高祖大師が比叡山を開き、百代の天皇を守る寺院を築かれて以来、朝廷に喜びがある時には、比叡山の9つの院がそろって手を合わせて祝ってまいりました。
また比叡山に苦しみがある時には、朝廷のすべての役所が心を寄せてくださいました。
仏法と王法が互いに支え合うことは、誰もが知っております」
比叡山が天皇を見捨てるはずはない
定宗は続けた。
「今、逆臣が朝廷を危うくしようとしております。
そのため、天下を治める天皇が比叡山をお頼りになり、ここまで行幸なさいました。
それにもかかわらず、天皇へ背く僧が1人でもいるはずはございません。
私は取るに足りない身ではあります。
しかし定宗1人が忠義を守る限り、比叡山3,000人の僧たちも、決して二心を抱かないとお考えください」
官軍の宿泊場所を用意する
「天皇に従ってきた官軍の兵たちは、さぞ苦しい思いをしていることでしょう。
まず宿泊場所を決め、皆様をお泊めいたします」
定宗は、
- 21か所の彼岸所
- 坂本の寺院や家々
- 戸津の坊や家々
- 比叡辻の坊や家々
へ札を張った。
そして後醍醐天皇に従ってきた諸軍勢を、それぞれ宿泊させた。
南岸坊と道場坊祐覚も参上する
その後、南岸坊の僧都と道場坊祐覚が、同宿の僧1,000人余りを率いて参上した。
まず東坂本の仮御所へ行き、天皇へ参上した。
そのまま十禅師の社へ登り、比叡山の僧たちへ呼びかけた。
比叡山全体へ決議を伝える
祐覚らは、集会で決まった内容を、比叡山の各院・各谷へ伝えた。
「後醍醐天皇をお守りし、足利方と戦うべきである」
という方針が、山中全体へ広められた。
3,000人の衆徒が武装して集まる
知らせを受けると、『太平記』本文で3,000人とされる比叡山の衆徒は、ことごとく鎧と兜を身につけて駆けつけた。
先ほどまで僧兵が1人も現れず、不安に包まれていた東坂本には、たちまち大勢の武装した僧が集まった。
大量の兵糧を官軍へ配る
官軍の兵糧として、
- 銭6万貫(当時の貨幣単位。円には換算しない)
- 米7,000石(当時の容量単位)
が用意され、波止土濃と呼ばれる場所の前へ積み上げられた。
道場坊祐覚が配給の責任者となり、諸軍勢へ分け与えた。
敗軍の兵たちが希望を取り戻す
新田軍をはじめ、京都から敗走してきた兵たちは、この光景を見て喜んだ。
「薬師如来も山王権現も、まだ我が天皇をお見捨てになってはいない」
敗北によって希望を失っていた兵たちは、比叡山の支援をたいへん心強く感じたのである。
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