ホーム | 太平記 全40巻・全339章 | ← 巻第二十四 | 巻第二十六 →
巻第二十五では、北朝の崇光天皇の践祚と大嘗会をめぐる怪異から始まり、仁和寺六本杉の天狗説話、楠木正行による藤井寺・住吉・天王寺の戦い、伊勢から現れたとされる宝剣と三種の神器をめぐる長い説話が描かれる。
この巻は物語の年代が大きく前後し、『太平記』本文内部でも藤井寺合戦の日付に揺れがある。本文の物語を保ちながら、確認できる史実上の年代との差を注記し、怪異・天狗・神託・神話・超人的な戦闘や巨大な軍勢数は『太平記』の叙述として示した。
巻第二十五|目次
- 211. 崇光天皇の践祚――大嘗会をめぐる怪異と議論
- 212. 仁和寺六本杉の天狗評定――直義夫人の懐妊を予言する
- 213. 藤井寺の戦い――楠木正行、足利軍を奇襲する
- 214. 伊勢から献上された宝剣――三種の神器と邯鄲の夢
- 215. 住吉・天王寺の戦い――楠木正行、足利軍を渡辺橋まで追い崩す
※読み方:年代・人物名は可能な限り西暦と実名を補ったが、『太平記』本文と同時代史料・一般的な歴史叙述が異なる場合は両者を区別した。旧単位は尺・寸・丈・町など換算できるものに現代のおおよその値を併記し、中世・神話・中国故事の「里」は現在のkmへ単純換算しない。軍勢数や怪異・怨霊・天狗・神託・神話的な巨大数は史実として断定せず、本文上の叙述として読む。
211. 崇光天皇の践祚――大嘗会をめぐる怪異と議論
崇光天皇が践祚する
貞和4年(1348年)10月27日、光明天皇から皇位を譲られ、光厳上皇の皇子・興仁親王(のちの崇光天皇)が践祚した。『太平記』本文では、この時の年齢を16歳としている。
同じ日に内裏で元服の儀式が行われ、剣と神璽が新帝へ渡された。
※本文と史実:崇光天皇は1334年生まれで、一般的な歴史叙述では貞和4年(1348年)の践祚時は数え15歳(満14歳)とされる。ここでは『太平記』の「16歳」という叙述を残し、史実上の年齢とは区別する。
直仁親王が皇太子となる
翌28日には、萩原法皇(花園法皇)の第1皇子とされる直仁親王が皇太子に立てられた。
『太平記』本文では、直仁親王はこの年13歳だったとする。
大嘗会の準備
卜部宿禰兼前が軒廊で占いを行い、大嘗会で用いる米を作る国と郡を決めた。
抜穂使は丹波国へ派遣された。
同年10月には大嘗会の行事所が設けられ、斎場を造ろうとしていた。
上皇の御所に現れた怪異
その時、上皇の御所で不思議な出来事が起こった。以下は『太平記』が怪異として語る場面である。
まだ2、3歳ほどと思われる子どもの頭を、まだら模様の犬が口にくわえていた。
犬は、その頭を上皇の御所の南殿にある大床の上へ置いていた。
犬が御殿の棟へ上る
明け方、御殿の格子を上げに来た御所侍が、その犬を見つけた。
侍が箒で追い払おうとすると、犬は孫廂の方から御殿の棟木へ駆け上がった。
3度吠えて消える
犬は西へ向かって3度吠えた。
その後、描かれた文字を消すように、突然姿を消した。
大嘗会を中止すべきか
人々は、
「このような怪異は、死の穢れに触れたことになるのではないか。
今年の大嘗会は中止するべきではないか」
と考えた。
過去の先例と法令に従って判断するよう、法律に詳しい者たちへ命じた。
多くの法律家は1年間の穢れと判断する
法律家たちは、ほとんどが、
「1年間続く触穢にあたります」
と答えた。
つまり、その年には大嘗会を行えないという判断だった。
明清の異なる見解
その中で前大判事明清は、法令の文章を引用し、次のような意見書を出した。
「神道は、王道によって用いられるものであるといいます。
それならば最終的な判断は、ただ天皇の御意向にあるべきです」
形式的には触穢にあたるとしても、天皇が行うと決めれば、大嘗会を行えるという意見だった。
卜部兼豊が激怒する
これに対し、神祇大副の卜部兼豊だけは激しく怒った。
「法の趣旨に従って判断しながら、触穢ではないとするならば、神道など存在しないのと同じです」
清浄と穢れを分けるのが神道
「天地が分かれ、清いものと濁ったものが生じて以来、汚れや穢れを避けることは、神道が特に重んじてきたことです」
大嘗会を行うなら神職を捨てる
「それなのに、
『触穢ではない』
として大礼の神事を無事に行うというのであれば、私は一門へ伝わる神道の書物を火へ入れます。
そして出家して、世を捨てるつもりです」
兼豊は周囲を恐れることなく言い切った。
若い殿上人たちの嘲笑
若い殿上人たちは、この話を聞いて笑った。
「何とも厳しい言い方だ。
少しくらいは逃げ道を残しておけばよいのに」
兼豊の髻を心配する冗談
「もし天下が平和で何の妨げもなく、大嘗会が無事に行われたならば、兼豊は本当に髻を切って出家しなければならない。
その髻が気の毒なことだ」
と、からかった。
新帝と上皇は大嘗会実施を決める
しかし新帝も上皇も、明清の意見が自分たちの考えに合うと思った。
「確かに、そのとおりである」
として、今年の大嘗会を行うことに決めた。
その旨の院宣が幕府へ送られた。
幕府が諸国へ米を課す
幕府は院宣を諸国へ伝えた。
大嘗会に必要な米を各国へ割り当て、短期間で厳しく取り立てた。
戦乱で国も民も疲れている
近年は天下の戦乱が続き、国は疲弊し、民衆も苦しんでいた。
ところが天皇が交代するたび、さまざまな大礼が繰り返され、負担が絶えることはなかった。
民衆は大嘗会を歓迎しない
人々には嘆きばかりが増えた。
「これは立派な政治だ」
と思えることは、少しもなかった。
そのため世間では、口々に言った。
「何と騒がしい大嘗会だろう。
今年くらいは、行わなくてもよいではないか」
212. 仁和寺六本杉の天狗評定――直義夫人の懐妊を予言する
仁和寺でも怪異が起こる
上皇の御所に現れた怪異だけでも、世にまれな出来事と思われた。
ところが仁和寺でも、別の不思議が起こった。以下は『太平記』が、後の観応の擾乱を南朝方の怨霊・天狗の仕業として説明する説話である。
※年代:巻第二十五の配列では前章の貞和4年(1348年)の後に置かれているが、この章の末尾で生まれる足利直義の男子は、同時代史料では貞和3年(1347年)6月8日の誕生である。『太平記』の物語配列と史実上の年代を分けて読む必要がある。
旅の禅僧が夕立に遭う
1人の旅の禅僧が、嵯峨から京都へ戻ろうとしていた。
途中で夕立に遭ったが、雨宿りできる場所がなかった。
そこで仁和寺にある六本杉の木陰へ入り、雨がやむのを待った。
仁和寺の本堂で夜を明かす
雨がやむのを待つうちに、日は暮れた。
これから先の道を夜中に歩くのは恐ろしかった。
僧は、
「それならば今夜は、御堂のそばで夜を明かそう」
と考えた。
本堂の縁へ寄りかかり、静かに念仏を唱え、心を澄ませていた。
空から四方輿が集まる
夜が深まり、月が清らかに照っていた。
愛宕山や比叡山の方角から、四方輿に乗った者たちが、空中を進んで来た。
彼らは六本杉の梢へ並んで座った。
峯僧正春雅
空中へ張られた幕が、風によってさっと吹き上げられた。
僧が集まった者たちを見ると、上座には峯僧正春雅がいた。
春雅は先帝・後醍醐天皇の外戚だった。
香染めの衣へ袈裟を掛け、水晶の数珠を繰っていた。
目は太陽や月のように光り、くちばしは鳶のように長かった。
智教上人と忠円僧正
その次には、
- 南都の智教上人
- 浄土寺の忠円僧正
が左右へ座っていた。
翼を持つ僧たち
皆、生前に見た姿と変わらなかった。
しかし目の光は普通ではなく、左右の脇から長い翼が生えていた。
禅僧は天狗道を疑う
旅の僧は恐れた。
「自分が天狗道へ落ちたのだろうか。
それとも天狗が、自分の目へ幻を見せているのだろうか」
魂が体から離れるほど恐ろしかったが、目を離すことができなかった。
兵部卿親王が現れる
さらに空中から、鮮やかな五緒車へ乗った人物が来た。
踏み台から降りた姿を見ると、出家する前の兵部卿親王、すなわち護良親王(大塔宮)の姿だった。
天狗たちが席を立つ
先に座っていた天狗たちは、皆、席を立った。
大塔宮へ敬意を表し、かがみ込んだ。
金の盃で酒を回す
しばらくすると、坊官と思われる者が1人現れた。
銀の銚子へ金の盃を添え、酒を注ぐ役を務めた。
大塔宮は盃を取り、左右へきちんと礼をした。
3度飲んだ後、盃を置いた。
天狗たちも順に飲む
峯僧正以下の者たちも、順番に酒を飲んだ。
しかし、楽しんでいる様子はまったくなかった。
突然苦しみ始める
しばらくすると全員が同時に、
「わっ」
と叫んだ。
手を上げ、足を縮め、頭から黒い煙を出した。
地面へ倒れ、半時(約1時間)ほど激しく苦しんだ。
火に焼かれて死ぬ
天狗たちは、火へ飛び込む夏の虫のように焼け焦げ、全員死んだ。
熱鉄丸を飲む天狗道の苦しみ
旅の僧は思った。
「ああ、恐ろしい。
これが天狗道の苦しみなのだろう。
日に3度、熱く焼けた鉄の玉を飲むというのは、このことなのだ」
2時(約4時間)後に生き返る
2時(約4時間)ほどたつと、天狗たちは皆、再び生き返った。
天下を再び乱す相談
峯僧正春雅は苦しそうに息をつきながら言った。
「さて、この世の中を、どのようにして再び乱そうか」
忠円僧正の計略
末座にいた忠円僧正が進み出た。
「それは最も簡単なことでございます」
直義の慢心
「まず足利直義は、他人の妻を犯さないという戒めを守っております。
そのため俗人の中で、
『自分ほど戒律を破らない者はいない』
という強い慢心を抱いています」
大塔宮を直義の子として生ませる
「我々が頼りとする大塔宮には、直義の正妻の胎内へ入り、男子としてお生まれいただきましょう」
妙吉侍者の慢心
「夢窓国師の弟子に、妙吉侍者という僧がいます。
修行も学問も十分ではないのに、
『自分ほど仏法を理解する者はいない』
と思っています」
春雅が妙吉へ乗り移る
「その慢心こそ、我々が入り込める隙です。
峯僧正には妙吉侍者の心へ入り、政治を補佐しながら、誤った教えを説いていただきましょう」
上杉・畠山と高一族を争わせる
「智教上人は、
- 上杉重能
- 畠山大蔵少輔(畠山直宗)
の心へ入り、高師直・高師泰を滅ぼす計略を立ててください」
忠円は師直・師泰へ入る
「私は高師直・師泰の心へ入り、上杉・畠山を滅ぼさせましょう」
尊氏・直義兄弟を争わせる
「そうすれば尊氏・直義兄弟の仲が悪くなります。
師直が主従の礼へ背けば、天下には再び大きな戦いが起こります。
我々が見物する戦争は、しばらく絶えないでしょう」
天狗たちは計略を喜ぶ
大塔宮をはじめ、慢心や邪慢を持つ小天狗までが、
「見事な計略だ」
と喜んだ。
その後、全員が幻のように消えた。
旅僧が医師へ語る
夜が明けると、旅の僧は京都へ出た。
そして施薬院の医師・嗣成へ、見聞きしたことを語った。
直義夫人が病にかかる
その4、5日後、足利直義の妻が病気となった。
和気氏・丹波氏の医家をはじめ、内科・外科の名医数十人が招かれた。
医師たちは脈を取った。
風の病と診断する医師
ある医師は言った。
「この病は風によって起こっています。
風を治すため、
- 牛黄金虎丹
- 辰砂天麻円
を調合するべきです」
気の病と診断する医師
別の医師は言った。
「すべての病は気から起こります。
気を鎮めるため、
- 兪山人降気湯
- 神仙沈麝円
を用いるべきです」
腹の病と診断する医師
さらに別の医師は言った。
「これは腹の病です。
- 金鎖正元丹
- 秘伝玉鎖円
を調合して治療するべきです」
嗣成だけは病名が分からない
そこへ施薬院師嗣成が少し遅れて到着した。
脈を取ったが、どの病気なのか判断できなかった。
病は4種類に分けられるという医学
病には多くの種類があるが、大きく分ければ4種類を出ないとされていた。
嗣成は細かな脈の変化を考えた。
しかし、どの病気にも当てはまらなかった。
六本杉の天狗評定を思い出す
嗣成が心の中で不思議に思っていると、仁和寺の六本杉で天狗たちが相談したという話を、突然思い出した。
懐妊と診断する
嗣成は小声で言った。
「これは御懐妊の脈です。
しかも生まれるのは男子でしょう」
周囲は追従だと嘲笑する
その場にいた医師たちは言った。
「何とひどい追従だ。
40歳を越えた女性が、初めて懐妊することなどあるだろうか」
嗣成を嘲笑しない者はいなかった。
懐妊が明らかになる
しかし月日がたつにつれ、直義夫人が普通の病気ではなく、実際に懐妊していることが明らかとなった。
他の医師は面目を失う
重い病だとして強い薬を調合した医師たちは、皆、面目を失った。
嗣成は典薬頭となる
嗣成だけは所領を与えられ、俸禄を受けた。
さらに典薬頭へ任じられた。
なお疑う者もいた
それでも偏った考えを持つ者は言った。
「本当に懐妊しているとは思えない。
出産の時期になれば、どこかの女性が産んだ子を連れてきて、
『これが御子です』
と抱かせるのだろう」
6月8日に男子が生まれる
ところが『太平記』が語るとおり、6月8日の朝、出産は安産で行われた。
しかも生まれたのは男子だった。
※史実:足利直義の正妻が男子を出産したのは貞和3年(1347年)6月8日で、この子は一般に如意丸(如意王とも表記される)と呼ばれる。したがって、この出来事は前章の崇光天皇践祚(1348年)より前にあたる。
天下が男子誕生を祝う
男子誕生の祝いは天下へ広まった。
足利源氏の一族や門葉、各国の大名だけではなかった。
公家・武家のうち、人々と肩を並べ、名を知られた者たちは競って祝いの品を贈った。
豪華な贈り物
贈られた物には、
- 鎧
- 腹巻
- 太刀
- 長刀
- 馬
- 車
- 綾や薄絹
- 金銀
などがあった。
誰もが、
「ほかの者より立派な物を贈ろう」
と考えた。
人々は将来の災いを知らない
賓客は御殿へ群がり、僧侶も俗人も門前へ並んだ。
後にこの子が引き起こす災いを、まだ誰も知らなかった。
人々は皆、
「何と大きな幸運を持って生まれた御子だろう」
と語ったのである。
213. 藤井寺の戦い――楠木正行、足利軍を奇襲する
正成が正行へ残した言葉
楠木正行(帯刀)の父・楠木正成は、かつて建武3年(1336年)の湊川の戦いへ向かう時、正行へ言い聞かせていた。
「私は思うところがある。
今度の戦いでは、必ず討ち死にするだろう」
南朝の行く末を見届けよ
「お前は河内国へ帰り、天皇が今後どのようになられるのか、最後まで見届けなさい」
正行は父のこの教えを忘れなかった。
10年余り再起へ備える
正行は10年余り、自分が成長するのを待った。
父とともに討ち死にした家臣たちの子孫を養い、軍勢として整えた。
父の仇を討ち、天皇の怒りを鎮める
「何としても父の仇を滅ぼし、天皇の御怒りを鎮めたい」
正行は朝も夕も、胸と心を苦しめながら考え続けた。
『太平記』では25歳となる
月日は過ぎやすい。
『太平記』は、この時の正行をすでに25歳としている。
『太平記』はさらに、この出陣を父・楠木正成の13回忌の年として描く。
※年代:楠木正成が湊川で戦死したのは建武3年(1336年)で、通常の数え方なら13回忌は1348年にあたる。一方、史料上の藤井寺合戦は貞和3年/正平2年(1347年)である。この「13回忌」も『太平記』本文の年代のずれとして残す。
13回忌を終えて出陣する
正行は仏へ供え物をし、僧へ施しを行うなど、思うままに父の供養をした。
「今は命を惜しいとは思わない」
『太平記』本文では500騎余りを率い、たびたび住吉・天王寺方面へ出撃した。
中島の民家を焼く
中島にある民家を何軒か焼き払い、
「京都の足利軍が攻めてくるか」
と待ち受けた。
足利方が討伐軍を送る
足利将軍は、この知らせを聞いて言った。
「楠木の軍勢など、その程度の小勢にすぎない。
それなのに京都周辺を侵略され、都中が驚き騒ぐことは、天下の笑いものとなり、武将の恥である」
細川顕氏を大将とする
「急いで向かい、討伐せよ」
細川陸奥守顕氏を大将として、
- 宇都宮三河入道
- 佐々木六角判官
- 長左衛門
- 松田次郎左衛門
- 赤松範資
- 赤松範貞
- 村田氏
- 奈良崎氏
- 坂西氏
- 坂東氏
- 菅家一族
ら、合わせて『太平記』本文では3000騎余りが河内国へ派遣された。
足利軍が藤井寺へ到着する
『太平記』のこの章では、8月14日の正午ごろ、足利軍が藤井寺へ到着したとする。
※年代:同じ巻の第215章では藤井寺合戦を9月17日としており、同時代の軍忠状や一般的な歴史叙述も貞和3年/正平2年(1347年)9月17日の戦いとする。ここでは「8月14日」を『太平記』本文内部の年代の揺れとして残す。
楠木館までは7里
藤井寺から正行の館までは、7里離れていたと『太平記』は記す。中世の「里」は時代・用法によって実長が一定しないため、現在のkmには単純換算しない。
足利軍は考えた。
「どれほど急いで攻めてきたとしても、敵が到着するのは明日か明後日だろう」
足利軍は完全に油断する
兵たちは油断した。
ある者は鎧を脱いで休んだ。
ある者は馬から鞍を下ろし、馬を休ませた。
菊水の旗が現れる
その時、誉田八幡宮の背後にある山陰へ、菊水の旗1流が、かすかに見えた。
鎧兜を着けた兵700騎余りが、静かに馬を進めて近づいていた。
正行が突然攻め込む
足利兵は、
「敵が来たぞ。
馬へ鞍を置け。
鎧を着けよ」
と騒ぎ始めた。
その中へ正行が先頭に立ち、鬨の声を上げて攻め込んだ。
細川顕氏は鎧を着終えていない
大将の細川顕氏は、鎧を肩へ掛けてはいた。
しかし上帯を締めることもできず、太刀を帯びる時間さえなかった。
村田一族6騎が時間を稼ぐ
村田一族6騎は小具足だけを着け、誰の馬とも構わず飛び乗った。
雲や霞のように群がる楠木軍の中へ突入し、火花を散らして戦った。
6騎は全滅する
しかし後ろから続く味方はいなかった。
村田一族6騎は大軍に包囲され、一か所で全員討ち死にした。
顕氏は100騎余りで防戦する
その間に細川顕氏は鎧を整え、馬へ乗った。
従う兵100騎余りと、しばらく楠木軍を防いで戦った。
足利方が敗れた原因
楠木軍は小勢だった。
足利軍は大勢だった。
無理に攻め返さなくても、兵が逃げずに踏みとどまってさえいれば、足利軍全体が敗れることはなかっただろう。
寄せ集めの兵が逃げ始める
しかし四国・中国地方から駆り集められた身分の低い兵たちは、前方の兵が戦っているのに、後方で馬へ鞭を入れて逃げ始めた。
大将も勇士も退却する
大軍の崩れに巻き込まれ、どうすることもできなかった。
大将も勇士も、皆同じように退却した。
正行が追撃する
正行軍は勝利の勢いへ乗った。
何度も鬨の声を上げ、逃げる足利軍を追った。
顕氏は天王寺付近で危機に陥る
大将の細川顕氏は、天王寺の渡辺付近で、今にも討たれそうになった。
六角判官の弟が討ち死にする
佐々木六角判官の弟・六郎左衛門が引き返し、敵を防いだ。
そして討ち死にした。
赤松兄弟が7、8度踏みとどまる
赤松範資と弟の範貞は、300騎余りを率いていた。
「命を名誉へ換え、討ち死にしよう」
と、何度も取って返した。
7、8度まで踏みとどまり、追手と戦った。
奈良崎・粟生田らの死
奈良崎氏は主従3騎で討ち死にした。
粟生田小太郎も馬を射られ、討たれた。
足利軍が京都へ戻る
足利軍は、彼らによって何度も楠木軍の追撃を止めてもらった。
正行軍も、それ以上は深く追わなかった。
細川顕氏も兵たちも、危うい命を助けられ、京都へ逃げ帰ったのである。
214. 伊勢から献上された宝剣――三種の神器と邯鄲の夢
壇ノ浦で失われた宝剣が現れたという報告
『太平記』は「この年」、伊勢国から朝廷へ次の報告があったと語る。巻第二十五は年代が前後しているため、ここでは無理に西暦を補わない。
「元暦2年(1185年)、安徳天皇が壇ノ浦で海中へ身を沈めた時に失われた宝剣が、発見されました」
※読み方:この章の宝剣発見、神託、神代の物語、霊夢などは『太平記』が伝える説話である。とくに卜部兼員が語る神代の系譜や神器の由来には、『古事記』『日本書紀』の一般的な説明と異なる『太平記』独自の叙述が含まれるため、歴史上の事実としてではなく本文の物語として示す。
という報告があった。
下野阿闍梨円成
詳しい事情を尋ねると、伊勢国の国崎神戸に、下野阿闍梨円成という山法師がいた。
円成は伊勢神宮へ1000日間参詣する願いを立てていた。
毎日、海水を浴びて身を清め、1夜おきに参詣していた。
1000日目の夜に海上の光を見る
1000日目にあたる夜、円成はいつものように潮水で身を清めようと磯へ出た。
遠い沖を見ると、1つの光る物があった。
漁師も数日前から見ていた
円成は不思議に思い、釣りをしていた漁師へ尋ねた。
「あれは、何が光っているのですか」
漁師は答えた。
「さあ、何かは分かりません。
この2、3日の間、毎夜あの光が波の上へ浮かび、あちらこちらへ流れています」
船で近づくと消える
「船を漕いで近づき、取ろうとすると、突然消えてしまいます」
光が円成についてくる
円成は、ますます不思議に思った。
光から目を離さず、遠い渚を海岸に沿って歩いた。
すると光も次第に磯へ近づき、円成の歩く方向へ従って流れてきた。
三鈷柄の剣を拾う
円成が、
「何か特別な理由があるに違いない」
と立ち止まると、光は少し弱くなり、足元まで来た。
恐れながら拾い上げると、金でも石でもない物だった。
三鈷杵を柄とした剣のような形で、長さは2尺5、6寸(約76〜79cm)ほどあった。
円成が伊勢神宮へ持参する
円成は、
「月光を受けて輝く犀の角だろうか。
海底へ生える珊瑚の枝だろうか」
と思った。
手に持って伊勢神宮へ向かった。
少年に神が乗り移る
そこに12、13歳ほどの少年が1人いた。
『太平記』の怪異譚では、少年は突然狂ったようになり、4、5丈(単純換算で約12〜15m)ほども繰り返し飛び上がったという。
そして高らかに歌を詠んだ。
思うことを尋ねる者もいないのだろうか。
空を仰げば、月だけが清らかに輝いている。
三種の神器についての神託
社人や村の老人が数百人集まり、
「どの神が乗り移られたのですか」
と尋ねた。
少年は神がかりしたまま語った。
「神代から日本には、三種の神器が伝わっている」
神器がなければ正しい天皇ではない
「正統を継ぐ天皇が皇位についたとしても、この3つの宝がなければ、天皇も本当の天皇とはいえず、世も正しい世とはいえない」
承久以後に王権が衰えた理由
「承久の乱(1221年)以後、代々の皇位が軽んじられ、武家によって権威を失ったのは、宝剣が天皇の守りとならず、海底へ沈んでいるためである」
ほかの神器も都を離れている
「そのうえ現在は、内侍所の鏡と神璽の箱まで都を離れ、外の土地の塵へ埋もれている。
天皇は形だけ最高の位へついている」
天下の乱れと宝剣
「そのため天下はますます乱れ、国はまだ静まらない」
神が竜宮から宝剣を呼び戻した
「そこで代々の天皇を守る伊勢の神が、竜宮へ命令を下した。
元暦年間(1184〜1185年)に海底へ沈んだ宝剣を、竜宮から呼び戻したのである」
円成の手にあると示す
「そこへ立って私を見ている法師が、手に持っている物こそ宝剣である。
適切な伝奏を通じ、内裏へ献上せよ」
少年が剣を取って倒れる
「疑うのであれば、これを見よ」
少年は円成へ走り寄り、光る物を手から取った。
涙を流し、額から汗を流した。
しばらく死んだように倒れた後、憑いていた神は去った。
神職たちが起請文を作る
神託を疑うことはできない。
斎所の者をはじめ、その場で見ていた神職たちは連署して起請文を作り、円成へ渡した。
円成が奈良へ向かう
円成は剣を錦の袋へ入れ、首に掛けた。
神託に従い、まず奈良へ向かった。
春日大社へ7日間籠もった。
長谷寺で3日断食する
しかし、
「ここで道が開ける」
と思えるような霊験はなかった。
次に長谷寺へ参詣し、3日間断食して籠もった。
京都の人物が夢告を受ける
拝殿の脇で夜を明かしていた、京都の人と思われる人物がいた。
その人が円成を呼び寄せた。
「今夜、夢のお告げを受けました」
円成の訴えを伝奏へ取り次ぐよう命じられる
「伊勢から来て、この3日間断食している法師の申し出を、伝奏へ取り次げというお告げでした。
あなたは伊勢国から来た方ですか」
日野資明へ取り次ぐ
円成は喜び、これまでの事情を詳しく語った。
その人物は言った。
「私は日野大納言殿と縁のある者です。
この方を通して朝廷へ申し上げることは、簡単でしょう」
円成を連れて京都へ上り、日野前大納言資明へ、宝剣と神職たちの起請文を差し出した。
資明は慎重な調査を求める
資明は詳しく事情を聞いた。
「まことに不思議な神託である。
しかしこのような事件には、悪巧みや偽りが隠されていることも多い」
伝奏が笑いものとなる危険
「十分に調べず奏上すれば、取り次いだ者の判断の浅さが、人々の笑いものとなる。
事実かどうかをよく調べ、公卿たちも信じるだけの証拠が得られれば奏上しよう」
円成へ褒美を与える
「とはいえ、天下平定の瑞兆であるかもしれない。
褒美を与えなさい」
円成へ、
- 銀で飾った剣3振り
- 衣服10着
を与えた。
宝剣は資明邸の庭に祭られた春日神の社へ納めた。
卜部兼員へ三種の神器を尋ねる
神代のことは『日本書紀』を伝える家が詳しく知るはずである。
資明は平野社の神主で、神祇大副の卜部兼員を呼び寄せた。
神代の説明を求める
資明は言った。
「三種の神器については、家々で伝える説が多く、私はまだ完全には信じていない。
絵師が闘牛の尾を描き間違え、牛飼いの子どもに笑われたという話もある。
専門家であるあなたの説を正しい道として聞きたい」
天神七代
兼員は答えた。
「私が先生の前でこの話をすることは、養由基へ弓を教え、王羲之へ筆を教えるようなものです。
しかし御質問へ答えないことも恐れ多いため、伝承を残らず申し上げます」
兼員は天神七代の神々を挙げた。
天地が開き始めた時、空中に葦の芽のような物が現れたという。
伊弉諾・伊弉冊による国生み
その後、伊弉諾尊と伊弉冊尊が天の浮橋へ立った。
「この下に国がないはずはない」
と天瓊矛を海へ差し下ろし、かき回した。
矛から落ちた滴が固まり、淤能碁呂島となった。
続いて淡路島を生んだ。
鶺鴒から夫婦の道を学ぶ
二神は島へ下り、夫婦として暮らした。
しかし初めは男女の交わり方を知らなかった。
鶺鴒が尾を地面へ打ちつける姿を見て、夫婦の道を学んだ。
この時に詠んだ言葉が、和歌の始まりとされる。
4柱の神
二神は、
- 日神
- 月神
- 蛭子
- 素戔嗚尊
を生んだ。
日神は天照大神、月神は月読尊、蛭子は西宮の神、素戔嗚尊は出雲大社の神である。
天照大神が国の主となる
日神と月神は美しすぎて人間の世界に置けないとして、天へ上げられた。
蛭子は3歳まで足が立たず、葦船で海へ流された。
素戔嗚尊は乱暴で、草木を枯らし生き物を殺したため、出雲へ追放された。
こうして天照大神が日本の主となった。
素戔嗚尊の反乱と天岩戸
『太平記』本文では、素戔嗚尊は国を奪おうとして1000の悪神を率い、大和国宇陀野へ1000本の剣を立てて城とした。
天照大神は争いを嫌い、葛城の天岩戸へ隠れた。
世界は暗闇となり、太陽と月の光も見えなくなった。
八咫鏡の誕生
神々は鹿の肩骨を焼いて占った。
「鏡を造って岩戸の前へ掛け、歌を歌えば天照大神が出てくる」
という結果が出た。
最初の鏡は出来がよくないとして捨てられ、紀伊国日前宮の神体となった。
次の鏡を榊へ掛け、神々が歌うと、天照大神が岩戸から顔を出した。
その姿が鏡へ映り、消えなかった。
これが八咫鏡、すなわち内侍所だとされる。
素戔嗚尊と八岐大蛇
素戔嗚尊は出雲へ流された。
簸川上流で、脚摩乳・手摩乳という老夫婦と、娘の稲田姫が泣いているのを見つけた。
8つの頭を持つ八岐大蛇が毎夜人を食べ、最後に稲田姫が犠牲となるためだった。
酒で大蛇を酔わせる
素戔嗚尊は、
「娘を妻として与えるならば、大蛇を退治しよう」
と約束した。
8つの槽へ酒を満たし、稲田姫の姿を酒へ映した。『太平記』本文では、まず8000石(当時の容量単位)の酒を飲み尽くさせ、さらに数万石の酒を飲ませたという、神話的に誇張された巨大な数量で語られている。
大蛇はその大量の酒を飲み尽くし、酔って倒れた。
天叢雲剣
素戔嗚尊が大蛇を切り刻むと、尾の部分で自分の剣の刃が欠けた。
尾を割ってみると、中に1振りの剣があった。
これが天叢雲剣である。
素戔嗚尊は剣を天照大神へ献上した。
草薙剣
後に日本武尊が東国征討へ向かう時、この剣を伊勢神宮から授けられた。
武蔵野で敵に野へ火を放たれた時、剣で草を薙ぐと、『太平記』本文では剣の向く方向の草木が2、3里にわたって自然に倒れたという。ここでの「里」は神話的叙述の古い距離表現であり、現在のkmへは単純換算しない。
火は敵の方へ燃え返り、日本武尊は助かった。
そのため草薙剣と呼ばれた。
十握剣・宝剣
長さが十握だったため、十握剣とも呼ばれた。
『太平記』本文では、天武天皇の朱鳥元年(686年)に内裏へ収められて以来、代々の天皇の宝となったため、宝剣とも呼ばれると説明している。
神璽の由来
神璽については、天照大神と素戔嗚尊が八坂瓊曲玉を用いた誓約によって神を生んだ時の玉であると説明された。
兼員は、
「異説は多く、すべてを語る暇はありません。
私の家へ伝わる説の大要は以上です」
と答えた。
剣を測る
資明は説明を聞いた後、言った。
「今、特に理由もなく三種の神器の話を尋ねたわけではない。
昨日、伊勢国から宝剣と称する物が持ち込まれたため、疑いを解こうとしたのだ」
本当に十握だった
「先ほど、十握剣と呼ばれるのは長さが十握あるためだと言った。
普通の者が簡単に知れることではない」
資明は剣を取り出させ、長さを測らせた。
果たして十握あった。
霊験を祈るよう命じる
資明は言った。
「疑いなく宝剣のように思われる。
しかし朝廷へ奏上するには、特別な瑞兆がなければ人々の信頼を得られない。
しばらく剣を預かり、何か不思議な霊験を祈り出してほしい」
夢を証拠とする
兼員は答えた。
「末世となり、神仏の威力も存在しないかのようになっております。
天下の人々を驚かせるほどの現象が起こるとは思えません。
しかし神仏が威力を示し、人へ信心を起こさせる方法としては、夢に勝るものはありません」
21日間祈る
「剣を預かり、21日間、幣帛と供物を捧げて祈りましょう。
両上皇・関白・院司の公卿、尊氏・直義らが、
『この剣は本物の宝剣だ』
と疑いを解くほどの夢を見たならば、奏上してください」
平野社での祈祷
兼員は剣を受け取り、平野社の神殿へ安置した。
12人の社僧に大般若経を読ませた。
36人の巫女に長時間の御神楽を奉納させた。
金銀や幣帛、海草などの供物を捧げ、神が本当に神であるならば霊験を示すだろうと思われるほど、熱心に祈った。
直義の夢
21日目の夜、足利直義が不思議な夢を見た。
場所は内裏の神祇官と思われた。
公卿・官人が位階に従って列席し、旗を立て、幕を張っていた。
楽人が音楽を奏し、文人が詩を献じた。
大礼を行っているような、厳重な儀式だった。
宝剣を迎える節会
直義が不思議に思い、竜尾壇付近を歩いていると、坊城経顕が現れた。
直義が、
「何の大礼ですか」
と尋ねると、経顕は答えた。
「伊勢神宮から宝剣が献上されるため、中議の節会が行われているのです」
5色の雲と宝剣
南方から5色の雲が1群現れた。
その中には、激しく光る太陽があった。
太陽の光の上へ、1振りの宝剣と思われる剣が立っていた。
梵天・四天王・竜神八部衆が傘を掲げ、前後左右を囲んでいた。
そこで夢は覚めた。
朝廷が宝剣を受け取る
直義が夢を語ると、聞いた者は皆、
「天下平定を示す夢です」
と祝った。
話は京都中へ広まった。
兼員は夢の記録を書き、日野資明へ提出した。
資明は上皇へ奏上した。
8月18日の早朝、公卿たちが参列して宝剣を受け取った。
円成への恩賞
翌日、円成阿闍梨は、通常の順序を経ずに僧都へ任じられた。
河内国葛葉の関所も恩賞として与えられた。
人々は、
「周王朝で宝鼎が掘り出され、夏王朝で河図が現れた瑞兆にも勝る」
と語った。
坊城経顕と日野資明の対立
当時、朝廷には優れた補佐役が多くいた。
しかし天皇の誤りを諫め、政治の悪い点を戒めたのは、
- 坊城経顕
- 日野資明
の2人だけだった。
互いの政策へ反対する
2人の英雄は争うのが世の習いだったのだろうか。
経顕が進める政策を、資明が打ち破ろうとした。
資明が奏上した政策を、経顕が止めようとした。
経顕が宝剣へ異議を唱える
伊勢からの宝剣献上を日野資明が進めたと聞き、坊城経顕は上皇のもとへ参上した。
「宝剣の奏上について詳しく調べると、すべて資明の仲間から話が始まっています。
へつらう臣が朝廷へ仕えれば、国に正しくない政治が起こるというのは、このことです」
なぜ乱世にだけ宝剣が現れるのか
「素戔嗚尊が簸川上流で斬った八岐大蛇は、元暦年間(1184〜1185年)に安徳天皇となり、宝剣を持って竜宮へ帰ったという説があります」
19代の天皇にも現れなかった
「それ以後、19代、160年余りにわたり、政治が盛んで天皇の徳も豊かな時代がありました。
その時にさえ宝剣は現れませんでした。
なぜ、このような乱れた無道の時代に現れるのでしょうか」
本物なら先に天下が平和になるべき
「現在の天皇の徳に感じて現れたというのであれば、宝剣より先に天下が平和となるべきでしょう」
夢は信用できない
「直義の夢を証拠として信用するというのであれば、世間で実体の定まらないものを、夢や幻と呼ぶのではありませんか。
聖人には夢がないという言葉も、この意味です」
邯鄲の旅人
昔、中国で富貴を求める旅人がいた。
楚王が賢い臣下を求めていると聞き、官位と恩賞を得ようとして楚国へ向かった。
呂洞賓の枕
旅人は歩き疲れ、邯鄲の宿屋で休んだ。
呂洞賓という仙人が、旅人の心にある望みを見抜いた。
そして富貴の夢を見せる不思議な枕を貸した。
夢の中で大出世する
旅人が枕で眠ると、夢の中へ楚王の使者が現れた。
厚い礼と贈り物を受け、楚国へ招かれた。
楚王は席を近くへ置き、政治と軍事について尋ねた。
旅人が答えるたび、公卿たちは頭を下げて感心した。
楚王は旅人を深く寵愛し、将軍・宰相の地位へ上げた。
王女を妻とする
30年後、楚王が亡くなる時、第1皇女を旅人の妻とした。
家臣・召使い・美しい衣・珍しい料理など、心へかなわない物はなかった。
客は常に座敷へ満ち、酒樽が空になることもなかった。
51年後に男子が生まれる
楽しみと遊びの中で年月を過ごし、51年目、妻が1人の男子を生んだ。
楚王には位を継ぐ子がいなかったため、公卿たちはこの孫を楚王へ立てた。
盛大な舟遊び
王子が3歳になった時、『太平記』本文では洞庭湖へ3000艘余りの船を並べ、数百万人の客を集めたという。
3年3か月にわたり遊宴を行った。
妻子が湖へ落ちる
宴が終わろうとした時、妻が3歳の王子を抱き、船べりへ立った。
足を踏み外し、王子とともに湖底へ落ちた。
数万の家臣が、
「ああっ」
と叫んだ。
その声で旅人は目を覚ました。
粟が炊き上がる前の夢
夢の中では天子の位へつき、50年余りを過ごした。
しかし目覚めると、宿で炊いていた黄色い粟が、まだ炊き上がっていなかった。
人生も一場の夢
旅人は、
「人間の100年の楽しみも、枕の上で見る一瞬の夢にすぎない」
と悟った。
楚国へは行かず、すぐに世を捨て、名誉や利益に心を縛られない隠者となった。
これが邯鄲の夢、または黄粱の夢である。
葛葉関を南都から奪う危険
経顕は続けた。
「河内国葛葉の関所は、長年南都が管理してきた土地です。
理由もなく取り上げれば、南都の僧たちの強訴を招くのではありませんか」
誤りは改めるべき
「天皇の言葉は二度と変えるべきではないとはいいます。
しかし、
『過ちを犯したならば、改めることをためらうな』
ともいいます」
恩賞を撤回する
「南都の強訴が起こる前に、先の裁定を取り消すべきです」
経顕が詳しく奏上すると、上皇も、
「もっともである」
と思った。
院宣は出し直された。
宝剣は平野社へ戻される
宝剣は平野社の神主、卜部兼員へ預けられた。
葛葉の関所も、以前のとおり南都へ返された。
215. 住吉・天王寺の戦い――楠木正行、足利軍を渡辺橋まで追い崩す
藤井寺で敗れた細川顕氏
貞和3年/正平2年(1347年)9月17日、河内国藤井寺の戦いで、細川顕氏は楠木正行に敗れ、京都へ退いた。
第213章では8月14日とされていたが、この第215章では9月17日と記される。同時代史料や一般的な歴史叙述も9月17日としており、『太平記』本文内部に日付の揺れがある。
正行軍は勢いに乗る
正行は勝利の勢いへ乗り、京都周辺の土地へたびたび侵入して物資を奪った。
冬の寒さで出兵を控える
年内は寒さが厳しく、兵たちの指が凍り、手が動かなくなる恐れがあった。
足利方は、しばらく討伐を見合わせた。
これ以上遅らせられない
しかし、
「これ以上延ばせば、敵がさらに勢力を整える」
と判断した。
11月23日に軍議を開いた。
6000余騎を派遣する
25日、
- 山名伊豆守時氏
- 細川陸奥守顕氏
を両大将とし、『太平記』本文では6000騎余りを住吉・天王寺方面へ派遣した。
※軍勢数:この後に記される各部隊の人数を単純に合計すると、冒頭の「6000騎余り」と整合しない。軍勢数は『太平記』本文上の数字として残し、正確な実数とは断定しない。
顕氏は以前の敗北を恥じる
細川顕氏は、9月の戦いで正行へ敗れ、世間の笑いものとなったことを、生涯の恥だと考えていた。
四国勢を励ます
顕氏は四国の兵を集め、言った。
「今度も以前と同じように敗れて帰れば、すべての人々から嘲笑される。
全員、命を軽くし、以前の恥をすすいでほしい」
500騎ずつ一揆を結ぶ
- 坂東氏
- 坂西氏
- 藤氏
- 橘氏
- 伴氏
らは、500騎ずつ誓約を結んだ。
神水を飲んで出陣する
大旗・小旗と濃色の旗3流を立て、3隊へ分かれた。
「1歩も退かず、討ち死にする」
と誓い、神水を飲んで出陣した。
本当に死を覚悟した姿は、見ていてすがすがしいほどだった。
住吉と天王寺へ布陣する
大手の大将・山名時氏は1000騎余りで住吉へ陣を置いた。
搦手の大将・細川顕氏は800騎余りで天王寺へ陣を置いた。
正行は陣地構築前の攻撃を決める
正行は、この動きを聞いて言った。
「敵へ時間を与え、住吉・天王寺の両方へ城を築かせてはならない」
神社仏閣の近くで戦う危険
「陣を固められれば、神社や寺院へ向かって弓を引き、矢を射なければならなくなる。
それは恐れ多いことである」
先に住吉軍を追い払う
「すぐに攻め寄せ、まず住吉の敵を追い払おう。
勢いのまま休まず追撃すれば、天王寺の敵は戦わずして逃げるだろう」
11月26日未明に出陣する
貞和3年/正平2年(1347年)11月26日の夜明け前、正行は『太平記』本文では500騎余りを率いて出陣した。
住吉の敵を追い払うため、石津の民家へ火を放ち、瓜生野の北側から攻め寄せた。
山名時氏が軍を分ける
山名時氏は正行軍を見て言った。
「敵が一方向からだけ来るとは限らない。
軍を分けて戦え」
浜手の守り
赤松範貞へ摂津・播磨の兵をつけた。
800騎余りで浜手を守らせ、住吉浦の南へ陣を置いた。
阿倍野の二陣
- 土岐周済房
- 明智兵庫助
- 佐々木四郎左衛門
らは3000騎余りを率い、阿倍野の東西2か所へ陣を張った。
細川顕氏は天王寺へ控える
搦手の大将・細川顕氏は直属軍のほか、四国の兵5000騎余りを率いた。
新手を順次投入するため、本陣を離れず天王寺へ控えた。
山名本隊が瓜生野へ進む
山名時氏は、
- 弟の三河守
- 原四郎太郎
- 原四郎次郎
- 原四郎三郎
ら1000騎余りを率いた。
馬の立てる煙を上げて進む正行軍へ当たるため、瓜生野の東へ出た。
正行は全軍を1つへまとめる
正行は敵の馬煙を見て、
「敵陣は4か所にある」
と判断した。
しかし多くない自軍を細かく分ければ、かえって不利になる。
そこで元は5手へ分けていた2000騎余りを、1隊へまとめた。
そして瓜生野へ攻めかかった。
6000余騎が一斉に激突する
瓜生野は東西南北へ広く、馬を走らせるには広すぎるほどの野原だった。
両軍は射手を前へ進めた。
1度鬨の声を上げると、『太平記』本文では敵味方6000騎余りが一斉に激突した。
半時の激戦
それぞれが思う相手と戦った。
半時(約1時間)ほど斬り合った後、双方とも鬨の声を上げ、4、5町(約440〜550m)ほど離れた。
両軍とも過半数を失う
敵味方を見渡すと、両軍とも半分以上が倒れていた。
戦場は死者で満ちていた。
山名時氏が7か所負傷する
大将の山名時氏も、斬り傷や矢傷を7か所まで負っていた。
兵たちは時氏の前へ立って姿を隠した。
傷口から血を吸い出し、血を拭うため、少し休んだ。
和田源秀が現れる
その時、楠木軍の中から、20歳ほどの若武者が進み出た。
名を和田新発意源秀と名乗った。
洗革の鎧を着け、大太刀・小太刀の2振りを帯びていた。
6尺余り(約1.8m)の長刀を小脇へ挟み、静かに馬を歩かせ、小歌を歌いながら進んだ。
阿間了願
その次には、身長7尺余り(約2.1m)と思われる法師武者が続いた。『太平記』本文上の大柄な人物描写である。
名を阿間了願と名乗った。
唐綾威の鎧を着け、小太刀を帯びていた。
柄が1丈(約3m)ほどある槍を、馬の首へ沿わせて持っていた。
2騎だけで山名軍へ入る
2人とも普通の武士ではないと分かる姿だった。
しかし後ろから続く軍勢はいなかった。
山名軍は、
「あれは何だ」
と言う程度で、それほど驚かず待ち構えた。
36騎を突き落とす
2騎は、そのまま山名の大軍へ突入した。
前後左右の敵を槍や長刀で突いて回った。
- 小手の隙間
- 脛当ての外れ
- 腕の内側
- 兜の内側
など、鎧が1分(約3mm)でも開いている所を外さなかった。
『太平記』は、たちまち36騎を突き落としたと語る。
大将を探す
2人は山名時氏へ近づこうとして、敵軍の中を見渡した。
山名三河守が包囲する
山名三河守は、
「1騎打ちでは勝てない」
と考えたのだろう。
「大勢で包囲せよ」
と命じ、140、150騎ほどで横から攻めかかった。
正行軍が救援する
正行は、この様子を見た。
「和田を討たせるな。
続け!」
全軍で攻めかかり、激しく戦った。
一歩も退かない戦い
太刀の鍔の音は空へ響き、汗をかいた馬の足音は大地を動かした。
敵味方は互いに、
「味方を恥じさせるな。
退くな、進め」
と叫んだ。
逃げる兵はいなかった。
山名軍が天王寺へ退く
しかし大将の山名時氏はすでに傷を負っていた。
入れ替わる新手もなかった。
勝てるとは思えない状態だった。
徒歩の兵たちは時氏の馬の口を天王寺の方へ向け、後陣と合流するため退き始めた。
正行軍が追撃する
正行軍はますます勢いへ乗り、追いかけながら攻撃した。
山名方の諸将が討ち死にする
- 山名三河守
- 原四郎太郎
- 原四郎次郎
- 犬飼六郎主従3騎
らが引き返し、討ち死にした。
本文では原兄弟の人数表現に乱れがあるが、原氏の複数の武将が戦死したとされる。
第2陣も破られる
第2陣へ控えていた、
- 土岐周済房
- 佐々木六郎左衛門
らは、300騎余りで阿倍野南方へ出た。
しばらく正行軍を防いだ。
目賀田・馬淵勢の戦死
しかし目賀田・馬淵の兵38騎が、1か所で討ち死にした。
第二陣も破られ、天王寺方面へ退却した。
渡辺橋へ殺到する
第1陣・第2陣がともに敗れた。
浜手と天王寺の軍も考えた。
「背後には大河があり、前の2陣はすでに破られた。
敵に橋を落とされれば、1人も生きて帰れない。
まず橋を守れ」
全軍が渡辺橋へ向かって退き始めた。
橋の上で大混乱となる
大軍が一度に崩れると、誰も引き返せない。
狭い橋の上へ、敵味方の区別もなく押し合いながら殺到した。
山名時氏が自害しようとする
山名時氏は、自身が深手を負っていた。
さらに馬の胸や首を2太刀斬られ、馬も弱っていた。
敵は激しく迫っていた。
時氏は、
「もう逃げ延びることはできない」
と思ったのだろう。
橋のたもとで腹を切ろうとした。
河村山城守が敵を防ぐ
河村山城守が1騎で引き返した。
近づく敵2騎を斬り落とし、3騎へ傷を負わせ、しばらく敵を防いだ。
安田弾正が時氏を背負う
その間に安田弾正が走り寄った。
「何をなさっているのです。
大将が腹を切る場所ではありません」
6尺3寸(約1.9m)の太刀を守り木とする
安田は自分の6尺3寸(約1.9m)の太刀を、橋の欄干のように横へ構えた。
鎧を着た山名時氏を、鎧の上から背負った。
そのまま橋を渡った。
多くの兵が川へ落ちる
兵たちは安田の大太刀に押し落とされ、川へ落ちた。
溺れた者は数えきれなかった。
小松原刑部左衛門の引き返し
播磨国の住人、小松原刑部左衛門は、主君の山名三河守が討たれたことを知らなかった。
天神の松原まで逃げ延びた。
主君の馬を見つける
そこへ三河守が乗っていた馬が現れた。
馬は胸や首を二太刀斬られ、主を失っていた。
主君の死を知って自害する
小松原は言った。
「さては三河守殿は討ち死になされたのだ。
逃げ延びて、誰のために命を惜しむのか」
ただ1騎で天神の松原から引き返した。
迫る敵へ矢を2本射かけた。
そして腹を切って死んだ。
足利兵の見苦しい敗走
そのほかの兵は、親が討たれても子は知らなかった。
主君が討ち死にしても、家臣は助けなかった。
鎧を脱ぎ捨て、弓を杖として歩き、夜中に京都へ逃げ帰った。
まことに見苦しい敗走だった。
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