峯村部材店主

太平記 27巻 

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巻第二十七では、貞和5年(1349年)の天変・清水寺炎上、四条河原の勧進田楽で起きた桟敷崩壊、雲景の天狗未来記から始まり、足利直義と高師直の対立が武力衝突へ進んでいく。後半では、足利直冬の九州逃亡、足利義詮の上洛と政務継承、足利直義の出家、上杉重能・畠山直宗の流刑と謀殺、崇光天皇の即位大礼が描かれる。

この巻には、天変・天狗・未来予言などの怪異的な叙述と、政治・人物への強い評価が多い。また、『太平記』本文そのものに、年代・官職呼称・儀式名について一般的な歴史叙述と一致しない箇所がある。本文の流れを残しながら、西暦、実名、旧単位の補足を加え、本文と史実が異なる箇所は区別した。

巻第二十七|目次

※読み方:年代・人物名は可能な限り西暦と実名を補ったが、『太平記』本文と一般的な歴史叙述が異なる場合は両者を区別した。旧単位は尺・寸・丈・町など換算できるものに現代のおおよその値を併記し、中世・中国故事の「里」は現在のkmへ単純換算しない。軍勢数、天変、天狗、怨霊、未来予言などは史実として断定せず、『太平記』本文上の叙述として読む。


225. 天変と怪異が相次ぐ――清水寺炎上


空に異常な星が現れる

貞和5年(1349年)正月ごろから、ほかの星へ異常に接近する「犯星」や、突然現れる「客星」が相次いで観測された。

どれも軽視できない天変だった。


陰陽寮の警告

陰陽寮は、繰り返し秘密の奏上を行った。

「皇位に関する不安が起こるでしょう。

天下に大きな変事があり、戦乱や疫病も発生すると思われます」


将軍塚が鳴動する

人々が、

「何が起こるのだろう」

と驚いていたところ、貞和5年(1349年)2月26日の夜中、将軍塚が激しく鳴動した。

さらに空中を大軍の兵や馬が駆け過ぎるような音が、半時(約1時間)ほど続いた。


京都の人々が恐れる

京都の身分ある者も庶民も、不思議に思った。

「これから何が起こるのか」

と、魂が冷えるような恐怖を感じた。


清水坂から出火する

翌2月27日の正午ごろ、清水坂から突然火が出た。

火は清水寺へ燃え広がり、

  • 本堂
  • 阿弥陀堂
  • 楼門
  • 舞台
  • 鎮守社

まで、一棟も残さず焼き尽くした。


風もないのに炎が飛ぶ

火災そのものは、珍しいことではない。

しかし風も吹いていないのに、大きな炎が遠くまで飛び、国家のための重要な祈祷所が一度に焼けた。

普通の出来事とは思われなかった。


霊場の炎上は大変の前触れ

天下へ大きな変事が起こる時には、霊験ある仏堂や神社が火災に遭うことが、決まった前兆と考えられていた。


石清水八幡宮も鳴動する

貞和5年(1349年)6月3日には、石清水八幡宮の御殿が、辰刻(午前8時ごろ)から酉刻(午後6時ごろ)まで鳴動した。


神鏑が京都へ飛ぶ

神の矢である鏑矢の音が響き、それは王城・京都の方角へ向かって鳴りながら飛んでいった。


3つの惑星が連なる

貞和5年(1349年)6月10日からは、

  • 太白星
  • 辰星
  • 歳星

の三惑星が一か所へ集まり、続けて並んだ。


天文博士の予言

天文博士は、次のように解説した。

「遠くないうちに大乱が起こります。

天皇は位を失い、大臣は災いを受けるでしょう。

子が父を殺し、臣下が君主を殺します」


飢饉・疫病・戦争

「飢饉・疫病・戦乱が次々と続き、飢えて死んだ人々が町へ満ちるでしょう」


南東と北西から光が現れる

貞和5年(1349年)閏6月5日の戌刻(午後8時ごろ)、南東と北西の方角から、それぞれ激しい稲妻のような光が現れた。


二つの光が戦う

二方向から来た光は空中でぶつかり、戦っているように見えた。

砕け散っては、再び集まった。

風が大火を吹き上げるように、残光が天地を満たした。


異形の者が光の中へ現れる

光の中には、人間とは異なる形をした者たちの姿まで見えた。

やがて北西の光が退き、南東の光が前へ進んだ。

最後には双方の光が消えた。


天下は平穏ではいられない

人々は、この怪異を見て言い合った。

「どのように考えても、天下が穏やかでいられるとは思えない」

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226. 四条河原の勧進田楽――桟敷が総崩れとなる


京都で田楽が大流行する

貞和5年(1349年)は、多くの不思議が相次いだ。

その一方、京都では田楽を楽しむことが、あまりにも盛んになっていた。

『太平記』は、足利尊氏も比べるものがないほど田楽を好んだと記す。


人々は仕事を捨てて田楽へ熱中する

そのため多くの人々が本来の仕事をせず、朝夕、田楽のために浪費した。


北条高時の先例

人々は言った。

「鎌倉幕府が滅びようとした時、北条高時も田楽を好み、夢中になった。

その結果、北条一門は滅亡した。

田楽の流行は良い前兆ではない」


四条河原で田楽の競演を行う

貞和5年(1349年)6月11日、諸国を修行して歩く1人の僧が、四条橋を架けるための勧進(寄付集め)として、新座・本座という2つの田楽集団を競演させ、老若に分けて芸を比べる催しを開いた。

四条河原には巨大な桟敷が築かれた。


公家・門跡・武家が集まる

「世にまれな見物になる」

として、身分ある男女から庶民まで、多くの人々が集まった。

公家では摂政・関白家、門跡では梶井宮、武家では足利尊氏が催しを支援した。


京都中が桟敷を造る

そのほか、

  • 公卿
  • 殿上人
  • 諸家の武士
  • 神社の神官
  • 寺院の僧侶

までが、互いに負けまいとして桟敷を造った。


巨大な3重・4重の建造物

5寸(約15cm)から9寸(約27cm)ほどの太い木を貫いて組み、全長83間(約150m)ほどの桟敷を3重、4重に積み上げた。

材料も大変な量だった。


豪華な見物席

時刻になると、華やかな車や立派な馬が場所を奪い合った。

馬をつなぐ場所もなかった。

幕が風にはためき、香の煙が空へ満ちた。


新座と本座の楽屋

新座と本座は東西へ楽屋を置き、双方から舞台へ橋掛かりを伸ばした。

楽屋の幕には華やかな絞り染めを張り、天蓋の幕には金襴を用いた。

風にはためく姿は、炎が上がるようだった。


美しい舞台

舞台へ装飾した座具を並べ、赤や緑の毛織物を敷いた。

その上へ豹や虎の皮を掛けた。

見る者は目を奪われ、心まで空へ浮かぶようだった。


美しい童と法師が登場する

楽屋から鼓や笛の音が響いた。

香をたき、美しく化粧した少年8人が、金襴の水干を着て東の楽屋から進み出た。

西の楽屋からは、白く清らかな法師8人が現れた。

薄化粧をし、歯を黒く染め、花鳥を織った色鮮やかな水干と袴を着けていた。


名人たちの演技

  • 本座の阿古は簓
  • 新座の彦夜叉は乱拍子
  • 道一は刀玉

を演じた。

いずれも神業のような名人で、見物人の耳と目を驚かせた。


山王権現を表す猿楽

競演が終わると、日吉山王の出現と救済を表す、霊験あらたかな猿楽が始まった。


猿面をつけた少年

新座の楽屋から、8、9歳ほどの少年が現れた。

猿の面をつけ、御幣を掲げていた。

赤地の金襴の上着をまとい、虎皮の脚絆を着け、橋掛かりへ出た。


高欄を自在に飛ぶ

少年は高欄へ飛び上がった。

左へ回り、右へ曲がり、飛び返しては上った。

この世の者とは思えない軽やかさだった。


神が姿を現したように見える

人々は、

「日吉山王が乗り移り、奇跡を示しているのではないか」

と思った。

感動は身に余るほどだった。


観客が興奮して騒ぐ

100間以上(約180m以上)続く桟敷の観客は座っていられなかった。

「ああ、面白い。

もう耐えられない」

と叫び、感動の声が席を満たした。

騒ぎは半時(約1時間)ほど続いた。


1人の女房が幕を上げる

その時、将軍の桟敷付近で、身分の高そうな女房が現れた。

練貫の裾を高く持ち上げ、扇で幕を上げようとした。


桟敷が傾く

大木を5、6本打ちつけただけの桟敷が、突然傾いた。

「あれ、危ない」

と人々が叫んだ瞬間だった。


249間(約450m)の桟敷が倒れる

上下合わせて249間(約450m)もの桟敷が、将棋の駒を倒すように一度に崩れた。


多数の死傷者

巨大な材木が折り重なった。

打ち殺された者は数えきれなかった。


混乱に乗じた盗難と殺傷

混乱に乗じ、他人の太刀や長刀を奪って逃げる者がいた。

盗人を見つけて斬り殺す者もいた。


地獄のような惨状

ある者は腰や膝を折られた。

ある者は手足を切られた。

抜いていた自分や他人の刀へ突き刺され、血まみれとなった者もいた。

熱い茶の湯を浴びて体を焼き、叫ぶ者もいた。

その姿は、衆合地獄や叫喚地獄の罪人のようだった。


鬼面の田楽役者が盗人を追う

田楽役者は鬼の面をつけたまま、衣装を奪って逃げる盗人を赤い鞭で追った。

武士の家臣は、主人の女房を背負って逃げる者を、太刀の鞘を外して追った。

各所で斬り合いが起こった。


梶井宮の腰の負傷

梶井宮も腰を傷めたと伝えられた。

すると四条河原へ狂歌が立てられた。

釘付けに
したる桟敷の
倒るるは
梶井宮の
不覚なりけり

「梶井」と「釘」を掛けた歌だった。


二条関白をからかう歌

二条関白も見物していたと聞かれると、別の狂歌が作られた。

田楽の
将棋倒しの
桟敷には
王ばかりこそ
登らざりけれ

将棋の王将のように、関白だけが桟敷へ登らなかったという皮肉だった。


天狗の仕業と疑われる

この事故は普通の出来事とは思えなかった。

「天狗の仕業に違いない」

と考えられた。

後に詳しく聞くと、次のような話が伝わった。


比叡山の長講が山伏と出会う

比叡山西塔の釈迦堂に仕える長講が、用事で京都へ下る途中、1人の山伏と出会った。

山伏は言った。

「今、四条河原で世にまれな見物があります。

ぜひ御覧なさい」


桟敷へ入れないと答える

長講は答えた。

「すでに正午です。

桟敷も用意していません。

今から行っても、どうして中へ入れるでしょう」


山伏が案内を申し出る

山伏は言った。

「簡単に中へお連れする方法があります。

私の後について来てください」


3歩で四条河原へ着く

長講は、

「本当に珍しい見物なら、行ってみよう」

と思った。

山伏の後ろを3歩ほど進んだと思った瞬間、四条河原へ到着していた。


山伏が3重の桟敷を飛び越える

入口はすでに閉じられ、入る場所がなかった。

山伏は言った。

「私の手へつかまってください。

飛び越えて中へ入りましょう」

長講が手へつかまると、山伏は長講を脇へ抱え、3重に組んだ桟敷を軽々と飛び越えた。

将軍の桟敷へ入った。


将軍の対座へ座る

その席には、

  • 仁木氏
  • 細川氏
  • 高氏
  • 上杉氏

などの有力者しかいなかった。

長講は、

「自分がこの席へ座ってよいのだろうか」

と小さくなった。

山伏は、

「問題はない。

そこで見物しなさい」

とささやいた。


将軍も山伏へ酒を勧める

山伏と長講は、将軍の向かいへ並んで座った。

酒や珍しい料理が次々と運ばれた。

盃が始まるたび、将軍は特に山伏と長講へ挨拶し、交互に酒を勧めた。


山伏が観客の熱狂を嫌う

猿面の少年の演技が始まると、観客は狂ったように騒いだ。

山伏は長講の耳へささやいた。

「人々が、あまりにも物狂いのように見えて不愉快だ。

肝をつぶさせ、興を冷ましてやろう。

お前は騒ぐな」


山伏が柱を押す

山伏は席から立った。

一つの桟敷の柱を、

「えいや、えいや」

と押した。

すると200間余り(約360m)の桟敷が、すべて天狗倒しとなった。

外からは、つむじ風が吹いたように見えた。


翌日の大雨

桟敷が崩れ、多くの人が亡くなったのは貞和5年(1349年)6月11日だった。

翌6月12日は、昼夜を通して車軸を流すような大雨が降った。


祇園祭の道が清められる

洪水は大きな岩まで流した。

前日の死者や血、汚れを河原から洗い流した。

6月14日に行われる祇園祭の神幸路を清めた。


神々が法雨を降らせた

人々は、

「天竜八部や諸神が霊神の力を助け、清浄な法の雨を降らせたのだ」

と考えた。

ありがたいことと思われた。

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227. 雲景の未来記――愛宕山の天狗が語る乱世


※読み方:この章は、羽黒山の山伏・雲景が愛宕山の天狗世界へ入り、未来の政治を聞いたという『太平記』の怪異譚である。以下の後醍醐天皇・持明院統・三種の神器・武家政治に関する評価も、老山伏(天狗)の発言として書かれたもので、史実や現代の歴史評価として断定するものではない。

羽黒山の山伏・雲景

このころ、天下第一ともいうべき不思議な出来事があった。

出羽国羽黒山に、雲景という山伏がいた。

雲景は自分が経験した世にまれな出来事を、熊野牛王宝印の裏へ誓いの言葉とともに書き、未来記として提出した。


諸国巡礼から京都へ上る

雲景は諸国を巡った後、その春に京都へ上った。

今熊野へ住み、京都の名所や霊場を巡礼していた。


天龍寺へ向かう

貞和5年(1349年)のある月20日、天龍寺を見物するため、西郊へ向かった。『太平記』本文は、この日について月を記していない。

官庁街付近から、60歳ほどの山伏が道連れとなった。


山伏が別の霊地へ誘う

老山伏は尋ねた。

「あなたは、どこへ行かれるのですか」

雲景は答えた。

「諸国を巡る者です。

公家・武家が尊崇して建立した大寺院と聞くため、天龍寺を見たいと思っています」


日本一の霊地へ案内すると言う

老山伏は言った。

「天龍寺も結構です。

しかし我々が住む山こそ、日本一の霊地です。

お見せしましょう」


愛宕山の不思議な寺

連れられていくと、愛宕山と思われる高峰へ着いた。

寺院は実に美しく、玉を敷き、金をちりばめたようだった。

雲景は深く信心を起こし、

「このままここへ住みたい」

と思うほどだった。


秘所へ案内される

老山伏は雲景の袖を引いた。

「ここまで来られた記念に、秘密の場所をお見せしましょう」

本堂の後ろにある、座主の住坊と思われる場所へ連れていった。

そこも特別な霊地だった。


多くの高貴な者が座る

中には多くの者がいた。

衣冠を正しく着け、金の笏を持つ者がいた。

高僧の姿で、香染めの衣を着た者もいた。

雲景は恐れながら、広い庇の下へ小さくなって座った。


金の翼を持つ崇徳上皇

二枚の御座が敷かれていた。

上座には、巨大な金色の翼を整えた人物が座った。


源為朝

その右側には、身長8尺ほど(約2.4m。『太平記』本文上)の大男がいた。

大弓と大矢を横へ置き、恐れかしこまって控えていた。


歴代の怨霊

左側には、袞竜の御衣へ太陽・月・星を鮮やかに織った者たちが、金の笏を持って並んでいた。


愛宕山の魔王たち

雲景が老山伏へ、

「どのような方々ですか」

と尋ねると、老山伏は答えた。

「上座で金色の翼を持つ方は、崇徳上皇です」


為朝と流された天皇たち

「そばの大男は、源為義の8男・源為朝(鎮西八郎)です。

左側に並ぶのは、

  • 淡路廃帝
  • 井上皇后
  • 後鳥羽上皇
  • 後醍醐天皇

など、悪魔王の棟梁となった歴代の高貴な方々です」


高僧も大魔王となる

「さらに、

  • 玄昉
  • 真済
  • 寛朝
  • 慈慧
  • 頼豪
  • 仁海
  • 尊雲

らの高僧も、大魔王となって集まっています。

天下を乱すための評議をしているのです」


京都の状況を尋ねられる

座中の長老らしい山伏が尋ねた。

「どこから来た者ですか」

案内役が事情を説明した。

老僧は言った。

「それならば、最近の京都のことを見聞きしているでしょう。

何か変わったことがありますか」


田楽桟敷崩壊を語る

雲景は答えた。

「特別なことはありません。

ただ四条河原の桟敷が崩れ、大勢が打ち殺された事件は、昔にも今にも例がありません。

天狗の仕業だといわれています」


足利尊氏・足利直義兄弟の不和

「そのほか、足利尊氏・足利直義兄弟が、執事・高師直をめぐって不仲になっていると聞きます。

これが天下の大事件になるのではないかと、人々は噂しております」


桟敷崩壊は神々の怒り

老山伏は言った。

「そのようなこともあるだろう。

しかし桟敷が崩れたのは、天狗だけの仕業ではない」


高貴な人々が庶民の興行へ混じった罪

「関白は天児屋根命の子孫で、天皇を補佐する最高の臣下です。

梶井宮は天皇の御一族であり、比叡山三塔を率いる門主です。

将軍は武士の長であり、天下を守る人物です」


神々と地神が怒る

「そのような高貴な者が、橋建立の寄付を集めるため、一介の僧が催した見世物へ入り、京都の商人や庶民と雑居しました。

石清水八幡・春日明神・日吉山王が怒り、土地を支える堅牢地神まで驚いたため、桟敷が崩れたのです」


妙吉は天狗から送られた

雲景は尋ねた。

「現在、村雲の僧と呼ばれ、学徳と権勢を得た妙吉という僧は、どのような者ですか。

京都の人々は、あの僧は天狗だといっています」


乱世を作るため選ばれた人物

老僧は答えた。

「そのとおりです。

あの僧は特に利口な者なので、天狗の中から選び出し、乱世の仲立ちをさせるため人間界へ送りました」


村雲の名の意味

「世が乱れれば、元の住みかへ戻ります。

場所はいくらでもあるのに、村雲という所へ住んでいるでしょう。

雲は天狗の乗り物だからです」


足利兄弟と高師直の争いを尋ねる

雲景は、天下の将来を詳しく知りたいと思った。

「足利尊氏・足利直義兄弟と高師直の不和は、どちらに道理があり、最後にはどちらが勝つのでしょう」


1、2か月以内に大事件となる

老山伏は答えた。

「足利直義と高師直の不和は、1、2か月もたたないうちに、大事件となるでしょう。

どちらが正しいかを簡単に決めることはできません」


権力を得る前と後の違い

「彼らが苦しい立場へいた時には、

『天下を取ったなら、良い政治を行うだろう』

と思われていました。

しかし富と権力を得た後は、昔の善い心を一つも保っていません」


上は暗く、下はへつらう

「上に立つ者は道理へ暗く、下の者はへつらいます。

何事にも親しい者と遠い者を区別します。

神仏の御心へ背き、身分ある者から庶民までの期待にも反します」


自分の誤りを認めず、互いを謗る

「自分の過ちを知らず、互いを悪く言います。

獅子の体内にいる虫が、獅子の肉を食うようなものです」


仁政ではなく人々の苦しみ

「善政と思われる行いも、実際には善政ではありません。

人々を苦しめ、嘆かせるものばかりです」


仁と政治の意味

「仁とは恵みを天下へ与え、民を深く哀れむことです。

政治とは国を治め、人を慈しみ、善悪・親疎によって区別せず養うことです」


欲望だけの政治

「最近の政治には、善政が一つもありません。

欲望が激しく、君臣・父子の道も理解しません。

ただ他人の財産を自分の物にしようとしています」


全員が滅びる

「互いに嫉妬し、非難し合う者は、どちらも同じように滅びるでしょう。

山賊と海賊が出会い、互いの犯罪の善し悪しを言い争うようなものです」


武家政権の成立も時代の因果

「源頼朝以来、北条高時まで、武家が11代にわたって政治を行いました。

本来、東国武士が天下の主となることは正しい形ではありません。

しかし末世となったため、仕方がなかったのです」


下剋上は時代の流れ

「臣下が君主を殺し、子が父を殺し、力によって争う時代が来ました。

下が上へ勝つ下剋上の始まりです」


北条義時の政治

「北条義時は天皇を遠島へ流し、悪行を天下へ行ったと非難されました。

しかし運がある間は子孫が栄えました」


一定の政治を行ったため民は苦しまなかった

「義時は自分の身の程に応じて政治を行い、自らを戒め、民へ恵みを与えました。

そのため国は豊かで、民衆はそれほど苦しみませんでした」


北条氏滅亡は自滅の時

「しかし北条氏の運が傾き、天へ背き、神仏から見捨てられる時が来ました。

後醍醐天皇が高時を討ったのは、必ずしも天皇の聖徳だけによるものではありません。

北条氏が自ら滅びる時が来たのです」


後鳥羽上皇と後醍醐天皇

「仁徳では後醍醐天皇以上と思われる後鳥羽上皇の時代にも、朝廷が敗れ、幕府が勝ちました。

末世であっても、上が必ず負け、下が必ず勝つのではありません。

運の盛衰によります」


後醍醐天皇の政権が短かった理由

雲景は尋ねた。

「それでは北条氏が滅びた後、なぜ後醍醐天皇は長く天下を治められなかったのですか」


真実の仁徳が不足していた

老山伏は答えた。

「後醍醐天皇は賢王の政治を行おうとはしました。

しかし民を本当に慈しみ、育てる仁徳の心は、十分ではありませんでした」


信仰にも慢心があった

「絶えた家を継がせ、廃れた寺社を再興し、神仏へ帰依する姿は見せました。

しかし慢心が多く、真実の心が不足していました」


北条を滅ぼす器ではあった

「それでも末世に、あれほどの賢王は少ないでしょう。

北条高時という、消えかかった灯火の前の扇となり、北条氏を滅ぼす器にはふさわしかったのです」


尭舜ほどの徳はなかった

「しかし尭や舜のような功徳はなかった。

そのため北条高時より劣る足利氏に、天下を奪われました」


持明院統は武家へ従うことで保たれる

「現在の持明院統は、武家へ従い、幼児が乳母を頼るように依存しています。

臣下と同じような立場です。

そのためかえって、形だけは安全に保たれています」


欲を捨てれば運が開く可能性

「本意ではなくても、道理への執着や国を取り戻す欲望を捨てるならば、末世の悪い時代には、かえって運が開く可能性があります」


王法は平家末期から衰えていた

「王法は平家末期から日本では尽き、武家の力でなければ政治は成り立たない状態でした。

後鳥羽上皇は、それを理解せず、承久の乱(1221年)を起こしました」


三種の神器と王権

「三種の神器は、神代から伝わる日本の宝です。

神器を伝えることが、皇位の根拠です」


現在の天皇は神器を伝えていない

「現在の北朝の天皇・崇光天皇は、本物の神器を受け継がず即位しています。

本当の意味で皇位と呼べるか疑わしいところがあります」


宝剣が失われた意味

「安徳天皇が西海へ沈んだ時、神璽と鏡は取り戻されました。

しかし宝剣は失われました」


王法は安徳天皇までで終わった

「王法は、安徳天皇の時代までで終わったことを示しています。

後鳥羽上皇は三種の神器がそろわないまま即位しました」


武家の時代の始まり

「元暦年間(1184〜1185年)から、武家政治が本格的に始まりました。

武士が天皇を軽んじるようになったのです。

宝剣が失われたことは、武威が王道へ勝つ前兆でした」


鎌倉幕府は一応の秩序を守った

「それでも鎌倉幕府は100年余りの間、形だけでも政治を整え、天皇を尊重しました。

寺社や公家の所領、正税などへ無闇に手をつけませんでした」


建武政権によって王道がさらに衰える

「後醍醐天皇が幕府を滅ぼしたことで、かえって王道はさらに衰え、公家は廃れました。

三種の神器も力のない南朝の天皇へ従い、辺境の地へ置かれています」


神々が国を捨てた証

「神器が国を治める者へ従わないのは、国を守っていない証拠です。

神道も王法も存在しない世となり、上は衰え、下は驕っています」


師直が一度は勝つ

雲景は尋ねた。

「それでは師直・師泰が勝手に天下を支配するのでしょうか」

老山伏は答えた。

「そうはなりません」


上を犯した罪は下へ返る

「末世なので、まず下の者が勝ち、上の者を犯すでしょう。

しかし上を犯した罪からは逃れられません。

下の者も、最後にはその罪によって滅びます」


軽んじられる因果

「将軍兄弟が天皇を軽んじたため、執事や家臣も将軍を軽んじます。

これは因果の道理です」


天下は長く乱れる

「下が上を呑む天変があるため、最初は師直が勝つでしょう。

しかしその後、天下は大いに乱れます。

父子・兄弟が敵となり、政治は少しも行われません。

世は簡単には静まらないでしょう」


老僧の正体は愛宕太郎坊

雲景が尋ねた。

「これほど天下のことを、鏡へ映すように語られた方は誰ですか」

案内役は答えた。

「あの老僧こそ、人々が恐れる愛宕山の太郎坊です」


火災とともに夢が覚める

雲景がさらに天下の将来を尋ねようとすると、突然大火が起こった。

座中の者たちは転げ回った。

雲景が門外へ逃げたと思った瞬間、夢から覚めたようになった。


大内裏跡へ立っている

雲景は、内裏跡の大庭にある椋の木の下へ、ぼんやりと立っていた。

日はすでに西山へ沈みかけていた。

京都へ帰る人々について宿坊へ戻った。


牛王宝印の裏へ記す

落ち着いて考えると、疑いなく天狗道へ行っていたのだと思われた。

「このまま捨ててはならない。

後世の物語となり、現在の人々への警告にもなるだろう」

自分が処罰される危険も顧みず、出来事を詳しく記した。

熊野牛王宝印の裏へ誓いの文を添え、貞和5年(1349年)閏6月3日と日付を書き、伝奏を通して朝廷へ提出した。

まことに怪異な話だった。

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228. 足利直義、高師直・高師泰兄弟の暗殺を計画する


※史実との区別:以下の暗殺計画の細部は『太平記』の叙述に基づく。一方、貞和5年(1349年)閏6月に高師直が執事職を罷免され、貞和5年(1349年)8月に高師直方が武力を背景に足利直義を政務から退かせたという大きな流れは、一般的な歴史叙述でも確認される。

師直兄弟を処刑する計画

高師直・高師泰兄弟を処罰するよう求める上杉・畠山の讒言は、ますます激しくなった。

妙吉侍者も、繰り返し足利直義へ訴えた。


尊氏には知らせない

足利直義は兄・足利尊氏へ知らせないまま、ひそかに、

  • 上杉重能
  • 畠山直宗
  • 大高重成
  • 粟飯原清胤
  • 斎藤五郎左衛門入道

ら5、6人と相談した。

師直兄弟を秘密裏に殺す計画だった。


組みつく役を決める

大高重成は怪力だった。

宍戸朝重は戦い慣れた剛勇の武士だった。

この二人を、師直へ組みつく役とした。


100人余りを武装させる

「2人だけで押さえられなければ、絶対に討ち漏らすな」

として、腕の立つ者100人余りを完全武装させ、ひそかに隠した。

そのうえで師直を呼び出した。


高師直は1人で客殿へ入る

師直は、殺される計画など夢にも思わなかった。

若い家臣や下人は皆、遠侍や大庭へ残された。

中門の唐垣によって隔てられ、高師直だけが6間ほどの客殿へ座った。ここでの「間」は建物の柱間を数える表現である。


師直の命は風を待つ露のよう

この時の師直の命は、風が吹けば落ちる露よりも危うく見えた。


粟飯原清胤が密告する

計画を積極的に進めていた粟飯原清胤が、突然心を変えた。

「師直へ知らせよう」

と思った。

挨拶をするように見せ、師直へ強く目配せした。


師直が危険を察する

師直は察しの早い人物だった。

目配せの意味を理解し、

「少し退出します」

という様子で席を立った。

門前へ出ると馬へ乗り、自邸へ帰った。


粟飯原・斎藤が計画をすべて話す

その夜、粟飯原と斎藤は師直邸へ行った。

「最近、直義殿が何を企てているか。

上杉・畠山がどのような陰謀を進めているか」

を、すべて話した。


高師直は2人を味方へする

師直はさまざまな贈り物を与えた。

「今後も直義殿の御所で起きることを、ひそかに知らせてほしい」

と頼み、2人を帰した。


師直は出仕をやめる

師直は警戒を厳しくした。

一族や家臣数万人(『太平記』本文上)を近隣の民家へ宿泊させた。

病気を装い、出仕をやめた。


師泰を京都へ呼び戻す

前年の貞和4年(1348年)春から、高師泰は楠木氏討伐のため河内国へ下り、石川河原へ向城を築いていた。

師直は使者を送り、事情を知らせた。


畠山清国へ石川城を任せる

師泰は紀伊国守護の畠山清国を呼び、石川城の守備を任せた。

自分は急いで京都へ戻ることにした。


直義は師泰を管領にすると誘う

直義は、師泰が大軍を率いて京都へ上ると聞いた。

「この男の心をつかまなければならない。

師直から引き離そう」

と考えた。


師直を解任するという使者

飯尾修理進入道を使者として、師泰へ伝えた。

「師直の行いには、判断の浅さや愚かさが多い。

しばらく政治へ関わることを止める」


師泰を新しい管領へ任じる

「今後は師泰を管領とする。

政所をはじめ、すべての政務を丁寧に処理せよ」


師泰は誘いを見抜く

師泰は使者へ答えた。

「命令は恐れ多く承ります。

しかし枝を切った後、根を断つという御意向なのでしょう」


3000騎と7000人の人夫で上洛する

「京都へ上り、直接返答いたします」

その日のうちに石川の陣を出発した。

鎧兜を着けた兵3000騎余りを率いた。

持盾・一枚盾を人夫7000人に持たせ、戦いへ向かう姿で、わざと白昼に京都へ入った。

人々の目を驚かせる行列だった。


師直・師泰が直義との合戦を準備する

師泰は師直邸へ到着した。

直義と戦う準備をしていると伝えられた。


赤松則村(円心)が師直邸へ来る

貞和5年(1349年)8月11日の夜、

  • 赤松則村(円心)
  • 子の赤松則祐
  • 赤松氏範

らが700騎余りで高師直邸へ向かった。


尊氏は師直と運命を共にすると伝える

師直は円心と会い、言った。

「直義殿は理由もなく、師直一族を滅ぼそうとしております。

事態は、すでに喉元へ迫っています」


尊氏へ訴えた結果

「将軍へひそかに事情を申し上げました。

将軍は、

『直義がそのような計画を行うのは穏当でない。

すぐに中止し、讒言した者を厳しく処罰せよ』」


直義が攻めれば尊氏も師直側へ立つ

「『それでも直義が聞き入れず討手を送るならば、尊氏は師直と一つになり、運命をともにする』

とおっしゃいました」


直義軍へ矢を射る覚悟

「将軍の御意向がこのようである以上、恐れながら直義殿の討手を相手に、弓を引くつもりです」


直冬軍を警戒する

「京都には、ひそかに心を通わせる者が多いため心配ありません。

ただ困るのは、直冬殿が備後にいることです。

必ず中国地方の軍勢を率い、京都へ攻め上るでしょう」


円心へ播磨の防衛を頼む

「今夜のうちに播磨へ下ってください。

山陰道・山陽道を、

  • 杉坂
  • 舟坂

の険しい場所で防いでいただきたい」


名刀「懐剣」を与える

師直は酒を勧めた。

「この太刀は平井保昌以来、代々身から離さない守りとして伝えたものです。

しかしあなたへ差し上げます」

錦の袋から懐剣という太刀を取り出し、赤松円心へ与えた。


円心が播磨へ下る

円心は依頼を受け、その夜に京都を出発した。

播磨国へ急いで下った。

3000騎余りを2手へ分け、

  • 備前の舟坂
  • 美作の杉坂

をふさいだ。


直冬の上洛計画は失敗する

赤松軍は義旗を雲や竜のようになびかせ、天下を動かす勢いを示した。

直冬は大軍を率いて京都へ上ろうとしていたが、進路を断たれ、準備は失敗した。

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229. 高師直軍、足利尊氏・足利直義の御所を包囲する


※年代と軍勢数:以下は貞和5年(1349年)8月の政変で、観応の擾乱へつながる幕府中枢の武力衝突である。数千騎・数万騎という軍勢数は『太平記』本文上の数字で、厳密な実数とは断定しない。

京都へ数万の兵が集まる

京都では、

「今にも合戦が起こる」

と人々が騒いだ。

貞和5年(1349年)8月12日の夜から、数万騎(『太平記』本文上)の兵が京都の上下を駆け違った。

馬の足音と鎧の草摺の音は、鳴りやむ暇もなかった。


直義側へ集まった諸将

足利直義の三条殿へは、

  • 吉良満義・満貞
  • 石堂頼房・頼直
  • 石橋和義・宣義
  • 斯波高経・氏経・氏頼
  • 荒川詮頼
  • 細川頼春・顕氏
  • 畠山直宗
  • 上杉重能・朝房・朝貞
  • 長井広秀
  • 和田宣茂
  • 高師秋
  • 千秋惟範
  • 大高重成
  • 宍戸朝重
  • 二階堂行通
  • 飯尾修理進入道

らが集まった。

主力は7000騎余りとなり、門を固めて控えた。


師直側へ集まった諸将

一方、高師直邸へは、

  • 山名時氏
  • 今川心省・頼貞
  • 吉良貞経
  • 仁木頼章・義長・頼勝
  • 桃井義盛
  • 畠山国頼
  • 細川清氏
  • 土岐頼康
  • 明智頼兼・頼雄
  • 佐々木一族
  • 千葉貞胤
  • 宇都宮氏
  • 武田信氏
  • 小笠原政長
  • 大内氏
  • 結城氏
  • 梶原氏
  • 佐竹氏
  • 三浦氏
  • 大友氏
  • 土肥氏
  • 安保氏
  • 厚東氏
  • 富樫氏

らが続々と参集した。


高師直軍は5万余騎となる

高一族、多田院御家人、常陸平氏、甲斐源氏、畿内・近国の兵、恩を受けた者たちが、

「自分も味方する」

と集まった。

軍勢は間もなく5万騎余り(『太平記』本文上)となった。


京都北部が兵で埋まる

  • 一条大路
  • 今出川
  • 転法輪
  • 柳辻
  • 出雲路河原

まで、隙間なく兵で埋まった。


足利尊氏が足利直義へ自邸へ移るよう命じる

足利尊氏は驚き、弟・足利直義へ使者を送った。

「師直・師泰は過度の奢りによって、主従の礼を乱した。

末世とはいえ、常識を越えている」


兄弟一緒に運命を決める

「このままでは三条殿へ攻め寄せることもあるだろう。

急いで、こちらへ来なさい。

一か所で運命を決めよう」


直義が尊氏邸へ移る

直義は集まった兵を連れ、尊氏の御所である近衛東洞院へ移った。


直義側から離反者が出る

戦況を見て、

「直義側では勝てない」

と思ったのだろう。

初めに集まった兵が5騎、10騎ずつ離れ、師直側へ加わった。


足利直義側は1000騎未満となる

最後まで残ったのは、近い一族や側近、二心のない忠義の兵だけだった。

1000騎にも満たなくなった。


師直が御所を包囲する

翌8月13日の卯刻(午前6時ごろ)、高師直と子の高師夏は大軍を率い、法成寺河原へ出た。

兵を二手へ分け、尊氏・直義の御所の東と北を10重、20重に包囲した。

三度、鬨の声を上げた。


師泰は西・南をふさぐ

高師泰は7000騎余りを分け、西と南の小路を遮断した。

裏手からの攻撃を担当した。


京都の人々が逃げ出す

「四方から火を放ち、焼き攻めにするらしい」

と噂された。

周辺にある公卿の邸宅からは、財産や道具が、

  • 長講堂
  • 三宝院

などへ運び出された。

僧俗・男女は東西へ逃げ惑った。


崇光天皇も避難する

内裏も近かった。

軍勢が混乱に乗じて乱暴を働く恐れがある。

急いで崇光天皇の車が用意され、持明院殿へ行幸した。


宮中も大混乱となる

摂政・関白家や公卿たちは、慌てて参内した。

宮中の女官や上達部まで徒歩で逃げ惑った。

官人たちは階段下や庭へ並んだ。

内裏の変わり果てた姿は、目を向けられないほどだった。


平和になったと思った直後の内乱

暦応年間(1338〜1342年)以後、天下は武家へ帰し、少しは穏やかになった。

前年の貞和4年(1348年)には楠木正行が兵を挙げたが、四條畷の戦いで討ち死にした。

人々は、

「今度こそ平和な世になる」

と喜んでいた。


終わらない乱世

ところが突然、この内乱が起きた。

人々は、

「どちらにしても、決して治まらない世だ」

と嘆いた。


尊氏・直義は防戦しない覚悟

尊氏も直義も考えた。

「師直・師泰が攻め寄せたとしても、家臣を相手に防戦することは、かえって恥である。

兵が門前へ入れば、自害しよう」

2人は小具足だけを着け、静かに座っていた。


師直も直接攻撃できない

師直・師泰も、勢いを示すところまでは行った。

しかし、さすがに主君の御所へ直接攻め込むことはできない。

時間だけが過ぎた。


尊氏から師直への言葉

須賀壱岐守を使者として、尊氏は師直へ伝えた。

「源義家が天下の武将となって以来、お前の祖先は足利家代々の家臣であった。

1日として主従の礼を乱したことはない」


恩を忘れて御所を囲む罪

「ところが一時の怒りによって、長年受けた恩を忘れた。

穏やかに事情を話さず、大軍を起こして東西から御所を囲んだ」


天罰から逃れられない

「尊氏を卑しい者と思うとしても、天の罰からは逃れられない。

心へ不満があるならば、一度退き、落ち着いて申し出よ」


天下を奪う企てなら戦う

「讒言の真偽を口実として、国家を奪う企てならば、二度と問答はしない。

白刃の前へ命を止め、黄泉の下でお前の運命を見よう」

尊氏は短い言葉の中へ、多くの道理を込めた。


師直の要求

師直は答えた。

「このような御言葉を受けるとは思いませんでした。

讒臣の言葉を直義殿が信じ、理由もなく師直一族を滅ぼそうとされたのです」


讒言の首謀者を引き渡せ

「自分たちに罪がないことを明らかにし、讒言の首謀者をいただき、後世の悪い習慣を戒めるために来たのです」


師直軍が盾を進める

師直は旗を一斉に下ろさせた。

盾を一面に進め、2人の御所を包囲した。

「返事が遅い」

と圧力をかけた。


尊氏が鎧を着ようとする

尊氏は、さらに怒った。

「代々の家臣に囲まれ、罪人の引き渡しを要求された先例があるか。

天下の笑いものになるくらいならば、討ち死にしよう」

御小袖という鎧を着ようとした。


兵たちが戦いへ備える

御殿の上下へ集まった兵は、兜の緒を締めた。

「ああ、天下の運命が決まる」

と肝を冷やした。


直義が尊氏を止める

直義は尊氏へ申し上げた。

「高兄弟の奢りと悪行が法外だったため、一度戒めようと相談しました。

その話を聞いて、かえって狼藉を企てるとは、足利家の傷であり、武威の衰えです」


家臣と戦うのはさらに恥である

「しかし彼らが恨んでいるのは、この直義です。

軽々しい家臣を相手に、尊氏殿が自ら戦われることは、さらに残念です」


上杉・畠山を引き渡すよう勧める

「彼らは讒言者を名指ししています。

師直の要求どおり、上杉・畠山を差し出しても、何の損害があるでしょう」


師直がさらに逆らえば武運は尽きる

「それでも師直が忠義を忘れて威勢を振るうならば、その時こそ足利家の武運が尽き、天下へ大変が起こるでしょう」


尊氏が条件を受け入れる

尊氏は、

「直義の諫言は道理に合う」

と思った。

「師直の要求を認める。

今後、直義は政治へ関与しない。

上杉・畠山は遠国へ流す」

と許した。


師直が包囲を解く

師直は喜び、御所の包囲を解いて引き上げた。


妙吉侍者は逃亡する

翌8月14日の朝、高師直は妙吉侍者を捕らえようと人を送った。

しかし妙吉は先に逃亡しており、行方は分からなかった。

財産は各地の者に持ち去られた。

雲のようにはかない富貴は、たちまち夢のように消えた。

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230. 足利直冬、中国探題の地位を追われ九州へ逃れる


※探題名:『太平記』本文は足利直冬を「中国の探題」と記すため、本ページでは原文との対応を優先して「中国探題」とする。人物事典には1349年の職を「長門探題」とする説明もあり、呼称には史料・研究上の違いがある。

師直の権力がさらに強くなる

御所包囲事件の後、高師直の権威はますます強くなった。

足利直義側の人々は顔を伏せ、眉をひそめた。


直冬討伐命令

中でも足利直冬は、『太平記』本文でいう「中国の探題」として備後国鞆にいた。

師直は近国の地頭・御家人へ、

「直冬を討て」

と命令した。


杉原又四郎が襲撃する

貞和5年(1349年)9月13日、杉原又四郎が100騎余りで直冬の館へ押し寄せた。

突然の攻撃だったため、防ぐ兵は少なかった。

直冬は、今にも討たれるところだった。


礒部の若党が奮戦する

礒部左近将監の若い家臣たちが、激しく防戦した。

いずれも優れた射手で、狙った場所を外さなかった。


杉原軍へ損害を与える

矢によって16騎を負傷させ、13騎を馬から逆さまに射落とした。

杉原軍は痛手を受け、すぐには攻め込めなかった。


直冬が船で脱出する

その間に直冬は、河尻幸俊の船へ乗った。

肥後国を目指して逃れた。

直冬を慕う者も小舟へ乗り、後を追った。


富貴から漂泊へ

足利直冬は足利尊氏の庶子で、叔父・足利直義の養子となった人物だった。

『太平記』は、直冬が中国探題として人々から従われていたと描く。

富貴と栄華の門を開き、酒宴の席を広げ、楽しみがまだ尽きていない時だった。


夢の間に境遇が変わる

ところが夢の間に、すべてが逆転した。

筑紫を目指し、鳴門の潮を通る船は、片帆を雲へ向けて進んだ。

煙る水は、目の前に果てしなく広がった。


一葉の舟の悲しみ

万里(非常に遠い道のり)を漂泊する悲しみ。

一枚の葉のような小舟へ浮かぶ心細さ。

波へなじんだ衣の袖は朽ち、涙さえ忘れるほどだった。


尊氏の九州落ちを励みとする

同行者たちは言った。

「以前、父君の尊氏殿も京都で敗れ、九州へ落ちられました。

しかし間もなく京都へ戻られました。

遠くない良い先例です」

表面上は直冬を励ました。


行く末の分からない旅

しかし行く末は誰にも分からなかった。

不知火の筑紫へ向かう旅であり、どうすることもできないように見えた。


十三夜の歌

貞和5年(1349年)9月13日の夜は、名高い十三夜だった。

月は明るく、旅の港へ泊まる悲しみも深かった。

直冬は歌を詠んだ。

梓弓
我こそあらめ
引き連れて
人にさへ憂き
月を見せつる

意味は、およそ次のようになる。

このつらい運命を負うのは、私一人でよかったものを、
私へ従ってきた人々まで連れ、
悲しい旅の月を見せることになってしまった。

この歌を聞き、袖を涙で濡らさない者はいなかった。

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231. 足利義詮、鎌倉から上洛して政務を引き継ぐ


直義は政治から外される

足利直義は、高師直・高師泰兄弟の怒りがなお深かったため、天下の政治へ口を出せなくなった。


尊氏は政務を自ら行わない

『太平記』は、足利尊氏はもともと細かな政務を自ら行うことを避ける人物だった、と描いている。

そこで関東にいる左馬頭・足利義詮を、急いで京都へ上らせることにした。


義詮へ政治を任せる

足利直義に代わって足利義詮へ政務を任せ、高師直が諸事を処理する体制が決められた。


千寿王丸

義詮は幼いころ、千寿王丸と呼ばれた。

長く関東へ置かれていた。


天下を治める器と評価される

今は政治を行う器に成長したとして、天下の実権を握るために上洛するのだと伝えられた。


鎌倉を出発する

貞和5年(1349年)10月4日、足利義詮は鎌倉を出発した。

10月22日に京都へ入った。


見物人が道を埋める

「上洛の行列は、実に立派な見物である」

として、粟田口や四宮河原付近まで桟敷が設けられた。

車も並び、身分ある者も庶民も道を争って見物した。


在京大名が勢多まで迎える

師直をはじめ、京都にいた大名は全員、勢多まで迎えに出た。

関東の大名も、川越氏・高坂氏らをはじめ、多くが見送りとして京都まで同行した。


豪華な馬と武具

馬や武具は華麗で、人々の耳目を驚かせた。


『太平記』の「将軍の長男」という表現

美の限り、善の限りを尽くした行列となるのも当然だった。

『太平記』は足利義詮を「将軍の長男」と記す。しかし一般的な人物事典では、義詮は足利尊氏の3男とされる。義詮は尊氏の嫡子として、足利直義に代わって天下の政治を行うため上洛した。

前代未聞の重大な出来事だった。


上皇から祝いの使者

10月22日の夜、足利義詮は足利尊氏の邸宅へ入った。

上皇は勧修寺経顕を使者として送り、義詮の上洛を祝った。


直義の旧邸へ移る

10月26日、足利義詮は三条坊門高倉にある足利直義の旧邸へ移った。

すぐに政務を始めた。

めでたい出来事として祝われた。

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232. 足利直義の出家――玄慧法印との別れ


※年齢:『太平記』本文は、この時の足利直義を42歳とする。一方、一般的な人物典拠では直義の生年は1306年とされるため、貞和5年(1349年)という年代とは年齢が一致しない。以下では本文の「42歳」を残し、史実との違いを区別する。

足利直義が細川顕氏邸へ移る

足利直義は世間との交わりを断った。

細川顕氏の錦小路堀川にある邸宅へ移った。


師直らが暗殺を計画しているとの噂

それでも高師直・高師泰兄弟は、足利直義への怒りを最後まで収めないだろうと思われた。

「直義をひそかに殺そうと相談している」

との噂も聞こえた。


世への望みがないことを示す

直義は、

「自分に謀反や政権復帰の望みがないことを示し、疑いを解こう」

と考えたのだろう。


『太平記』では42歳で出家する

貞和5年(1349年)12月8日、『太平記』本文では42歳で髪を剃った。

まだ壮年の年齢をそれほど過ぎていないうちに、剃髪し、墨染めの衣を着る姿となった。

盛者必衰の道理とはいえ、何とも嘆かわしいことだった。


豪邸と快楽を捨てる

天下の政治へ関わっていた時期は終わった。

今後は高い邸宅の中で身を置き、軽い絹の寝具の上で楽しむことはない。


寂しい隠遁生活

錦小路堀川の住居は、静かで人の訪れも少なかった。

垣には苔が生え、軒の松は古びていた。

茅葺き屋根は煙に包まれ、夜の月は朦朧として見えた。

荻の花が風に揺れ、夕暮れの音は寂しく響いた。


ひたすら経典を読む

時は移り、出来事は過ぎ、人も物も昔のままではない。

直義は草に囲まれた窓と粗末な家の中へ座り、経巻を手放す暇もなかった。


冬の孤独

秋は暮れ、時雨の多い冬も深まった。

簾の外には寒さが増した。

香炉峰の雪景色さえ、うらやましく思われた。


過去の栄華を夢と思う

自分が以前送っていた華やかな生活は、はかない世の夢だったのだと思った。

雪を踏み分けて小野山へ入った隠者の心が、今になって理解された。


訪れる者もいない

「誰か訪ねてくれる者はいないだろうか」

と思った。

しかし師直の監視を恐れ、話し相手となる者はいなかった。


玄慧法印だけが訪ねる

独清軒玄慧法印だけは、師直の許可を得て、時々訪れた。

中国や日本の昔話を語り、直義を慰めた。


玄慧が病気となる

やがて玄慧は老病に侵され、

「もう参上することができません」

と伝えた。


直義からの薬と歌

足利直義は薬1包を送った。

包み紙に一首を書いた。

ながらへて
問へとぞ思ふ
君ならで
今は伴ふ
人もなき世に

意味は、およそ次のようになる。

これからも長く生き、私を訪ねてほしい。
あなた以外には、今の私へ付き添ってくれる人がいない世なのだから。


玄慧の返詩

玄慧は歌を見て、泣きながら漢詩を作った。

君の一日の恩を感じ、
我が百年の魂を招く。
病を支えて床下に座し、
書を開いて涙の跡を拭う。

短い詩へ、幾重もの思いを込めて返した。


玄慧の死

その後、間もなく玄慧法印は亡くなった。


直義が般若経を書写する

出家した直義は深く悲しんだ。

玄慧の詩の後ろへ紙を継ぎ、般若経の真文を書写した。

玄慧の追善供養としたのである。

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233. 上杉重能・畠山直宗の流刑と謀殺


※年代:この章は第232章の貞和5年(1349年)12月8日の出来事の後に置かれているが、後段で『太平記』本文は「8月24日」と記す。福井県史の年表では、上杉重能・畠山直宗の越前配流を1349年8月15日、殺害を1349年12月としており、本文の章配列・日付には矛盾がある。以下では『太平記』の日付を消さず、史実側の年代と区別する。

所領没収と流刑

上杉重能と畠山直宗は、所領を没収された。

京都の邸宅も破壊され、2人とも越前国へ流された。


死罪まではないと思っていた

2人は、

「まさか死罪にされるほどのことはないだろう」

と頼みにしていたらしい。


妻子を伴って旅立つ

しばらくの別れを悲しみ、妻や幼い子どもまで全員連れて下った。

慣れない旅の寝床へ置く露によって、起きても寝ても袖を涙で濡らしたことだろう。


琵琶で旅の心を慰める

日ごろから音楽を好んでいたため、旅の悲しみを慰めようと、1面の琵琶を馬の鞍へ掛けていた。

旅宿の月を眺めながら琵琶を弾いた。


王昭君の悲しみ

その音は、胡国へ嫁いだ王昭君が、異国の笛の音と霜の夜へ故郷を思った悲しみと同じように聞こえた。


近江路を進む

嵐山を越え、紅葉を神への幣として手向けながら進んだ。

暮れていく秋の別れまで、身へしみる悲しみだった。


琵琶湖を眺める

大津・志賀浦を過ぎた。

渚へ寄せる波が、再び沖へ返るのを見ると、

「自分も京都へ帰れればよいのに」

とうらやましく思った。


七社明神へ祈る

日吉七社へ伏し拝み、自分たちの行く末を祈った。

しかし京都へ帰る望みは、堅田の引き網からこぼれる水のように、涙とともに消えた。


竹生島を望む

今津・海津を過ぎると、湖上の霧の中へ小島が見えた。

竹生島だった。

都良香の詩へ弁才天が下の句を続けたという伝説を思い、しばらく経を唱えた。


越前へ入る

塩津を過ぎ、荒血山を越え、浅茅が色づく野を進んだ。

敦賀津へ着き、波に袖を濡らした。


火打城を見上げる

治承・寿永の乱(1180〜1185年)で人々が立てこもったと『太平記』が語る火打城を見上げた。

「かたつむりの角の上に広い世界があり、火打石の光の中に一生があるように、人の世ははかない」

と改めて感じた。


江守荘へ到着する

上野原を過ぎ、流れの中の水泡のような命が、しばらくとどまる場所として、江守荘へ着いた。


守護代八木光勝が預かる

越前守護代の八木光勝が2人を受け取った。

見るだけでも悲しくなる粗末な柴の庵へ入れ、警固を置いた。


京都での栄華との落差

京都では気品ある屋敷を幾棟も並べ、車や馬が門前へ集まり、賓客が堂上を満たしていた。

今は竹の編戸と松の垣しかない田舎の家だった。

時雨も風も防げず、袖が乾く暇もなかった。


師直は殺害を命じる

2人は、

「どのような過去の行いによって、このような目へ遭うのか」

と自分を恨んだ。

それでも師直は、まだ処分が足りないと思った。

後の災いも考えず、ひそかに討手を送った。

守護代の八木光勝と相談し、上杉・畠山を殺すよう命じた。


八木光勝が偽りの逃亡を勧める

八木はもともと上杉の命令へ従っていた。

しかし師直に取り込まれ、心を変えた。

『太平記』本文では、貞和5年(1349年)8月24日の夜中、上杉重能の配所へ行った。


討手が来たと欺く

「昨日夕方、高弁定信が大軍で越前国府へ到着しました。

調べると、お二人を討つためだそうです」


越中・越後へ逃げるよう勧める

「ここへいては助かりません。

今夜、闇へ紛れて逃げてください。

越中・越後の間へ身を隠し、将軍へ事情を申し上げれば、師直らは処罰され、御自身の罪は軽くなるでしょう」


警護の兵も恐れる必要はないと言う

「警護の兵も道中で妨害しないようにします。

討手が近づかないうちに、早くお逃げください」

八木は、まったく裏切りがないように見せて話した。


53人で逃亡する

2人は罠とは夢にも思わなかった。

何も持ち出す暇もなく、妻や幼い子どもを連れた。

上下53人が、裸足に近い姿で加賀方面へ逃げた。


冷たい時雨の中の逃避行

冷たい時雨が顔を打つように降った。

細い田の道は、表面が凍り、踏めば深い泥が膝まで上がった。

蓑も笠もなく、肌まで濡れた。

手足は凍えた。


家族を連れて逃げる

男は女の手を引いた。

親は幼い子を背負った。

どこへ逃げ着けるかも分からなかった。

ただ、

「後ろから討手が来るのではないか」

と恐れながら進んだ。

その心は、まことに哀れだった。


八木は周辺へ討伐命令を出していた

八木光勝は、あらかじめ周囲へ知らせていた。

「上杉・畠山が流人の身で逃げてきたならば、ためらわず全員討ち止めよ」


村々が落人狩りを始める

江守・浅水・八代荘・安居・波羅蜜付近の悪党たちは、太鼓や鐘を鳴らした。

「落人がいる。

討ち取れ」

と騒いだ。


足羽川の橋が落とされる

2人は驚き、1歩でも先へ逃れようとした。

足羽川の渡しへ着くと、橋はすでに落とされていた。

足羽・藤島の兵が、対岸へ盾を一面に並べていた。


前後を敵にふさがれる

「それならば戻って、八木を頼ろう」

と江守へ戻った。

しかし浅水の橋も外され、背後にも敵が満ちていた。

疲れた鳥が犬と鷹の両方へ追われるようだった。


13人の若党が先に自害する

最後まで主君の最期を見届けようと従った若党13人は、主君へ自害を勧めるため、鎧を脱いだ。

全員が一度に腹を切った。


畠山直宗が自害する

畠山直宗も続いて腹を切った。

その刀を抜き、上杉重能の前へ投げた。

「あなたの腰刀は少し長すぎるようです。

この刀で御自害ください」

言い終わらないうちに、うつ伏せとなって倒れた。


重能は自害できない

重能は刀を手へ取った。

しかし短い人生の名残を惜しみ、妻の方をじっと見つめた。

袖を顔へ当て、ただ静かに泣き続けた。

その場で長い時間を過ごした。


八木の手下に殺される

やがて八木光勝の下人たちへ生け捕りにされ、刺し殺された。


最期の態度を非難される

武士については、普段の行いがどうであっても、それだけで勇気を判断するべきではない。

最後の死に方が重んじられる。

そのため人々は、

「何とも弱々しく見える最期だった」

と非難した。


重能の妻が出家する

重能の妻は、長年の夫婦の契りや、昨日今日までの情愛を忘れられるとは思えなかった。

夫が死んだ淵へ自分も身を沈めようと、人目のない機会を探した。


僧が自害を止める

長年頼りとしていた僧が、さまざまに説得して止めた。

妻は往生院の道場で髪を剃り、尼となった。

その後は亡き夫を弔う以外、何もしなかったという。


政治は師直の手へ落ちる

このようにすべてが師直の思うままとなった。

天下の政治は武家の執事の手へ完全に落ち、さらに乱れていくように見えた。

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234. 崇光天皇の即位大礼――貞和5年(1349年)12月26日


※章題と儀式:『太平記』の原題は「大嘗会事」だが、本文が具体的に描くのは崇光天皇の即位礼であり、末尾にも「天子登壇即位」とある。宮内庁書陵部にも、貞和5年(1349年)12月26日の記録「崇光天皇御即位記」が伝わるため、本ページでは実際の内容に合わせて「即位大礼」として説明する。

年内に大礼を行うと決定する

年内に崇光天皇の即位大礼を行うことが、改めて評議された。

初めは貞和5年(1349年)3月7日に行う予定だった。

しかし大きな儀式を実施できず、延期されていた。


これ以上延期できない

「これ以上、延ばし続けるのもよくない」

として、ついに実施することとなった。


太政官庁で行う

大内裏が火災によって失われてからは、代々の慣例として、大極殿で行う儀式を太政官庁へ移して行っていた。


内弁は洞院公資

儀式を内部で指揮する内弁は、太政大臣・洞院公資が務めることになった。


太政大臣が内弁を務めることへの議論

即位式の内弁を太政大臣が務めることは、めったにないことだった。

「前例が少なく、よくないのではないか」

という議論もあった。


勧修寺経顕が擁護する

勧修寺経顕が進み出て言った。

「太政大臣が内弁を務めた先例は2度あります。

保安年間(1120〜1124年)と久寿年間(1154〜1156年)の2度です」


良い先例も存在する

「保安年間(1120〜1124年)の例は不吉な先例といえるかもしれません。

しかし久寿年間(1154〜1156年)の例は良い先例です。

なぜ過去の例を避けなければならないのでしょう」


公資は適任である

「現在の太政大臣は時代に合った人物で、職務に通じ、世間に知られた能力の持ち主です」


天皇と諸家の師範

「天皇も道理を尋ね、政治を正される時、この方を師範としておられます。

諸家も礼儀を学び、日本と中国の手本として仰いでいます」


反対意見は止まる

経顕がこのように述べると、皆、口を閉ざした。

それ以上、賛否は論じられず、洞院公資が内弁に決まった。


外弁と侍従

外弁には、

  • 三条坊門家信
  • 高倉広通
  • 冷泉経隆

が選ばれた。

左侍従は花山院家賢、右侍従は菊亭公真だった。


天下を挙げた壮観

即位の大礼は、天下全体で準備するものである。

僧侶も俗人も見物する、比べるもののない壮観だった。

遠近から人々が次々と集まり、群れをなした。


両上皇も見物する

両上皇も見物のため御幸した。

外弁の幄舎の南西にある門外へ、御車を止めた。


天皇と公卿の礼装

天皇と公卿は冕服を着た。

近衛の兵や諸陣は、厳重な儀式へ従った。


四神旗と鼓

四神を描いた旗が門へ立てられた。

諸衛の兵は鼓を鳴らし、陣を整えた。


阿房宮・姑蘇台のような華麗さ

赤い旗は風に巻かれ、描かれた竜が空へ上るようだった。

玉で飾った旗は日に輝き、鳳凰が飛ぶようだった。

その姿は秦の阿房宮や、呉の姑蘇台にも異ならないように見えた。


末世にも残る朝廷の大礼

末世とはいえ、これほどの大儀式が行われたことは、ありがたいことだった。


貞和5年(1349年)12月26日の即位

この日は貞和5年(1349年)12月26日だった。

崇光天皇は壇へ上り、正式に即位した。

数々の大礼は、何の問題もなく行われた。

こうして貞和5年(1349年)は、めでたく暮れたのである。

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