峯村部材店主

太平記 35巻

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巻第三十五では、正平15年/延文5年(1360年)を中心に、南朝征討から帰洛した足利義詮のもとで仁木義長をめぐる足利方内部の対立が表面化し、義長が京都から伊勢へ退くまでを描く。

後半では、南朝方の再蜂起、畠山国清(法名・道誓)の関東下向、北野社で交わされる長大な政治論、尾張・近江での仁木方との戦いへ進む。北野社の章には鎌倉政治や中国・仏教の故事が数多く引用されるため、史実と『太平記』の説話を区別して読む。

巻第三十五|目次

※読み方:『太平記』本文を第一に現代語訳し、一般的な歴史叙述や人物辞典と異なる箇所は注記して区別した。通常の数量は算用数字へ統一し、尺・寸・丈・町などは原単位を残して現代のおおよその値を併記する。「里」は時代・地域で長さが一定しないためkmへ単純換算せず、「文」「貫」は現代の円へ換算しない。軍勢の巨大な人数、神託、中国故事、仏教説話などは史実と断定せず、『太平記』が語る物語・論評として読む。


294. 義詮の帰洛と、仁木義長討伐の密議

正平15年/延文5年(1360年)、『太平記』は南朝征討が「無事に終わった」と語り、将軍・足利義詮が京都へ帰ると、都の身分ある者も庶民も大いに喜んだ。

後光厳天皇も深く感動し、

「速やかに大功を立てたことは、特に立派である」

と勅使を送った。

今回の戦勝祈願を行った寺院の高僧や神社の神官へ、恩賞を与えるよう命じられた。

しかし与えられる国も所領も残っていなかった。

わずかに官職任命の権利だけが与えられた。


畠山邸での茶会

このころ畠山国清(法名・道誓)の屋敷には、

  • 細川清氏
  • 土岐頼康(法名・善忠)
  • 佐々木高氏(法名・道誉)
  • 佐々木氏頼(法号・崇永)
  • 今川上総介・その弟の伊予守(『太平記』本文の呼称)

らが毎日のように集まった。

南朝征討の苦労を忘れようとして、酒宴や茶会を開き、昼夜遊んだ。

互いに心を許すようになったころ、道誓は、ひそかに語った。


仁木義長を討つ目的で上洛した

「今さら、何を隠す必要がありましょう」

「道誓が今回、関東から上洛したのは、南朝の敵を討つためだけではありません」

「本当の目的は、仁木義長の分を越えた振る舞いを抑えることでした」


義長への非難

「仁木義長の心や行いを見ても、一族や国を治める器ではありません」

「それなのに能力もないまま、4か国の守護職を持ち、目立った忠功もないのに数百か所の大荘園を支配しています」

「外では神仏を敬わず、朝夕、狩猟や漁を仕事としています」

「内では将軍の命令を軽んじ、何事にも従いません」

「今回の南朝征討でも、敵が勝てば喜び、味方が有利になれば悲しんでいるようでした」

「『太平記』本文では将軍が尼崎へ200日余り陣を置いたのに、義長は西宮にいながら、1度も出仕せず、酒1献さえ差し上げませんでした」

「このような不忠の者へ大国や荘園を支配させ、どうして世が治まるでしょう」

「今こそ仁木を討ち、義詮殿の政治を助けるべきです」

「そうすれば亡き尊氏殿も、草葉の陰で喜ばれるでしょう」


諸将も義長へ恨みを持つ

細川清氏は、三河の星野・行明氏が仁木守護軍へ属さず、自分の軍へ加わったため、仁木が彼らの所領を没収したことを恨んでいた。

土岐善忠は、故・土岐頼遠の子で、仁木義長が養子とした土岐左馬助へ、自分の所領を与えようとしていることを怒っていた。

佐々木崇永は、高山氏から得た所領を、仁木が、

「建武年間に恩賞として与えられた土地である」

と支配しようとすることを恨んでいた。

佐々木道誉には個人的な恨みはなかった。

しかし仁木の傍若無人な行動を、以前から不快に思っていた。

全員、仁木義長を憎んでいた。

「今度こそ討ち、世を静めるべきだ」

と賛成した。


密議は中断される

すぐに軍議を行おうとして、下人たちを遠くへ退けた。

しかし酒宴へ押しかけた遁世者や田楽童が大勢現れた。

諸将は互いに目配せし、その日の密議は中断された。

宴会だけで終わったのである。

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295. 仁木義長の京都没落

南朝軍再起の知らせ

和田・楠木氏が金剛山・国見山から出撃し、

  • 渡辺橋を切り落とした
  • 誉田城を攻めようとしている

との早馬が、和泉・河内から京都へ届いた。

「急いで軍勢を送ってください」

との知らせだった。

義詮は、

「数か月にわたる征討の成果が、一気に失われてしまう」

と慌てた。

しかし誰へ出陣を命じても、応じる者はいないだろうと思い、大きなため息をついた。


諸将が命令を待たず出陣する

ところが知らせを聞くと、

  • 畠山国清(法名・道誓)
  • 細川清氏
  • 土岐頼康(法名・善忠)
  • 佐々木氏頼(法号・崇永)
  • 今川上総介・その弟の伊予守(『太平記』本文の呼称)
  • 武田氏
  • 河越氏
  • 赤松光範
  • 芳賀禅可

ら、同盟していた大名30人余りが、義詮の命令も待たず出陣した。

軍勢は7000騎余りだった。

我先に天王寺へ向かった。


本当の目的は仁木討伐

後から事情を考えれば、彼らが出陣した目的は、南朝方の蜂起を鎮めることではなかった。

兵を集め、仁木義長を滅ぼすためだった。

京都から大軍が下ってきたため、和田・楠木軍は、

  • 渡辺橋でも戦わず
  • 誉田城も攻めず

金剛山へ退いた。

足利軍は南朝軍を追おうとしなかった。

天王寺へ集まり、頭を寄せ、仁木討伐の計略を相談した。


密議が京都へ漏れる

2人だけの秘密でさえ、

「天が知り、地が知り、自分が知る」

という。

これほど大勢が集まり、相談することを隠せるはずがなかった。

仁木討伐の計画は、すぐ京都へ伝わった。


仁木が義詮へ訴える

義長は激怒した。

「自分が討たれなければならない罪とは、何なのか」

「道誓・清氏らは、自分を討つことを口実として、天下を覆そうとしているに違いない」

「急いで将軍へ申し上げなければならない」

義長は中務少輔だけを連れ、義詮のもとへ参上した。

「道誓・清氏らが、自分を討つため2手に分かれ、天王寺から上ってくるそうです」

「これは天下を覆そうとする者たちでしょう」

「決して油断なさらないでください」


義詮は仁木を安心させる

義詮は答えた。

「そのようなことがあるだろうか」

「知らせた者の誤りだろう」

「万に1つ、そのようなことがあるならば、義詮を滅ぼそうとする企てでもある」

「自分とあなたが一つになって戦えば、下剋上を企てる者に誰が味方するだろうか」

義長は喜び、自邸へ戻った。


義長の兵力

義長は、自分の守護国の兵を帰国させず、京都へ残していた。

敵が二手となって上ってくると知らされても、恐れなかった。

軍勢を調べると、

  • 自軍3600騎余り
  • 外様の軍4000騎余り

合わせて7600騎ほどだった。

義長は言った。

「見事な軍勢だ」

「7000騎であっても、天王寺の10万騎に勝る」


京都で迎撃態勢を整える

義長は、

  • 養子の中務少輔頼夏へ2000騎余りをつけ、四条大宮
  • 弟の弾正少弼へ1000騎余りをつけ、東寺付近

へ陣を置かせた。

自らは精鋭を率い、屋敷周囲4、5町(約440〜550m)の民家を焼き払った。

騎馬軍が動きやすい広い場所を造り、陣幕内へ堂々と座った。

どれほどの大軍が攻めても、2度、3度は追い散らすような勢いに見えた。


義詮を事実上監禁する

義長は、

「義詮が讒言を信じ、畠山・細川氏へ通じれば、外様の兵も裏切る」

と考えた。

中務少輔を連れて義詮の屋敷へ入り、周囲の門を固めた。

近臣や外様の者を近づけず、自分の考えどおりに政治を行った。

その結果、天王寺へ下った軍勢は朝敵とされ、追討の綸旨や将軍命令が出された。

義長は幕府執事の職へ座り、天下の政治を支配した。

その姿は、夜明け前に油が尽き、消えようとする灯火が、最後にひときわ明るく輝くようだった。


反仁木軍が京都へ迫る

正平15年/延文5年(1360年)7月16日、『太平記』では天王寺の軍勢が山崎へ集まり、2手へ分かれた。

細川清氏を大将とする3000騎余りは、西七条口から京都へ入る。

畠山・土岐・佐々木勢5000騎余りは、東寺口から入ることとなった。

南朝方が静まり、

「ようやく世の中が安心できる」

と喜んでいた京都の人々は、再び戦いが起きると聞き、混乱した。

妻子を逃がし、財宝を隠そうとする者で、道も通れなかった。

疲れた兵や乱暴な下人は、混乱へ乗じて人々の物を奪い、衣服まで剝ぎ取った。

京都は上を下へ返す騒ぎとなった。


佐々木道誉が義詮を救い出す

義詮は、なお仁木方に囲まれていた。

佐々木道誉は、ひそかに小門から入り、申し上げた。

「いったい、どうなさったのですか」

「諸国の大名は全員、仁木義長を討とうとしています」

「それなのに義詮殿が仁木と一緒におられれば、勝てると思われますか」

「仁木は神仏からも見放され、人望にも背いております」

「ただし主君の寵臣を、時機も考えず討とうとして京都へ入ろうとする者たちも、恐れる必要があります」

「まず、ここを脱出なさってください」


女房へ変装する

道誉は続けた。

「私が仁木と面会し、軍議を行います」

「その間に近臣1人だけを連れ、女房の姿となって北小門からお出ください」

「馬を用意してあります」

「安全な場所へお連れいたします」

義詮は、

「もっともである」

と思った。

「病気である」

として寝所へ入り、衣服を頭からかぶって横たわった。

中務少輔も遠侍へ出た。


西山へ逃れる

佐々木高氏(道誉)は100騎ほどを連れて来て仁木と面会し、長時間軍議を行った。

夜が深まり、義詮を見張る者も少なくなった。

義詮は女房の姿へ変装した。

紅梅色の小袖を着て、柳色の絹を頭へ掛け、

  • 海老名信濃守
  • 吹屋清式部丞
  • 小島次郎

だけを連れ、北小門から出た。

築地の陰には馬が用意されていた。

小島次郎が義詮を抱き上げ、馬へ乗せた。

中間2人が馬の口を引き、数町(数百mほど)は静かに進んだ。

京都を離れると、馬を走らせ、

  • 花園
  • 鳴滝
  • 並岡
  • 広沢池

を過ぎ、西山の谷堂へ逃れた。

仁木は、義詮が逃げたことを夢にも知らなかった。


義長が逃亡へ気づく

義長は、いつもの部屋へ参上した。

「夜が明ければ敵が来ます」

「御旗をお出しください」

「兵たちへ御対面ください」

「長く部屋へこもられていますが、御病気はいかがですか」

女房たちが寝所を見ると、衣服だけが置かれ、下に人はいなかった。

「義詮殿が、おられません」

と騒ぎ出した。

義長は激怒し、

「女房や近臣が知らないはずはない」

「門を閉じ、誰も出すな」

と命じた。

中務少輔も怒り、

「日本一頼りのない人物を主君としていたことが悔しい」

「今度戦いへ勝てば、また手をすり合わせて我々のもとへ戻ってくるだろう」

と悪口を言い、自邸へ帰った。


仁木軍が7000騎から300騎へ減る

義詮が仁木方へいた間は、外様の兵も、

「主君を見捨てられない」

として義長へ従っていた。

しかし、

「義詮が仁木を討たせるため逃れた」

と伝わると、100騎、200騎ずつ反仁木軍へ加わった。

朝には7000騎余りだった義長軍は、わずか300騎余りとなった。

義長は初め、

「役に立たない者が逃げ、足手まといがなくなった」

と笑っていた。

しかし命を預けられると信じた重恩の家臣まで、皆逃げたと聞くと、言葉を失い、呆然とした。


伊勢へ逃れる

夜が深まると、鶏冠井・寺戸付近に2、3万本の松明が見え、敵軍が次第に近づいた。

義長は、

「このままでは勝てない」

と判断した。

弟を長坂から丹後へ逃がした。

養子を唐櫃越えから丹波へ逃がした。

自分は近江へ向かうふりをし、粟田口から方向を変えた。

木津川沿いに伊賀路を通り、伊勢国へ逃れた。

義長軍が京都を去ったと聞くと、義詮はすぐ京都へ戻った。

反仁木軍も、

「激戦になるだろう」

と覚悟していたが、1度も戦うことなく京都へ入った。

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296. 南朝方の再蜂起と、畠山道誓の関東下向

※人物:この章で「畠山道誓」と呼ばれるのは畠山国清である。道誓は出家後の法名で、以下では章の初出で「畠山国清(道誓)」と示す。

正平15年/延文5年(1360年)、京都で足利方同士の戦いが起こり、天王寺の軍が引き返したと聞くと、

  • 大和
  • 和泉
  • 紀伊

の南朝方は、時機を得た。

山々へかがり火をたき、浦々へ船を集めた。


足利方の城が次々と放棄される

京都から各地の城へ置かれた武士たちは相談した。

「日本中の軍勢が集まって攻めても、最後まで討てなかった和田・楠木氏である」

「我々が城へ立てこもり、包囲されたならば、1人も生きて帰れない」

和泉守護の細川兵部太輔は、敵が攻める前に逃げた。

紀伊の湯浅一族も、船で兵庫へ逃れた。

河内守護代の杉原周防入道は誉田城を捨て、水走城へ立てこもった。

しかし楠木軍に休みなく攻められ、1日1夜戦った後、奈良方面へ逃れた。


根来勢の全滅

根来の僧兵300人余りは、味方が逃げたことを知らなかった。

紀伊国春日山城へ立てこもり、二引両の旗を掲げた。

恩地・贄川勢3700騎余りが城を囲み、1人も残さず討ち取った。


熊野でも南朝軍が勝つ

熊野では湯川荘司が足利方となり、鹿ノ瀬・蕪坂へ陣を置き、阿瀬川定仏の城を攻めようとしていた。

阿瀬川入道・山本判官・田辺別当ら2000騎余りが攻め寄せた。

湯川軍を四方へ追い散らし、333人の首を取り、田辺宿へさらした。

京都の内紛へ乗じ、南朝方が利益を得たのである。『太平記』はこれを、シギとハマグリが争う間に別の鳥がその隙へ乗じる、という故事になぞらえている。


畠山道誓を笑う落書

京都では、

「仁木義長が逃げた」

と喜ぶ者が多かった。

しかし畿内・遠国で南朝方が蜂起したと聞き、

「天下は、また大乱となる」

と心配された。

五条橋には、畠山道誓を風刺する札が立てられた。

敵の種をまいた畠山よ。
自分が耕した畑を、再び掘り返す世になるとは知らなかったのか。

また、

どれほどの豆をまけば、畠山は日本国すべてを味噌へするつもりなのか。

と、畠山の名へ「畑」を掛けた歌もあった。


仁木・畠山を風刺する歌

六角堂の扉には、仁木義長の伊勢落ちを皮肉る歌が書かれた。

荒々しかった源氏の記録は失われ、
今では誰もが「伊勢物語」を語るようになった。

畠山道誓が狐皮の腰当てを着けていたことも、

畠山の狐皮の腰当てによって、
化けの皮が剝がれた。

と笑われた。

湯川荘司も、

南朝方の先頭となった湯川は、
京都へ入っても何の香りもしない。

と風刺された。

子どもや湯屋の女まで畠山を笑った。


畠山、京都を逃げ出す

道誓は面目を失い、しばらく仮病を使っていた。

しかし、

「天下の災いが、すべて自分だけに降り掛かる」

と感じた。

『太平記』では、畠山国清(道誓)は将軍へ暇も告げず、正平15年/延文5年(1360年)8月4日の夜、ひそかに京都を出て関東へ向かった。


三河で道をふさがれる

三河国は、長年仁木義長が支配していた国だった。

仁木方の守護代・西郷氏が500騎余りで矢作川へ出て、道をふさいだ。

畠山軍は通れず、途中で日を過ごした。

さらに尾張国では小川中務丞が仁木方として挙兵した。

関東へ向かう畠山・白旗一揆・平一揆・佐竹・宇都宮勢は、前後を敵へ囲まれた。

前へも進めず、京都へも戻れず、途方に暮れた。


山名時氏も蜂起する

山名時氏は、初め、

「関東軍が南朝方を討ち、京都へ戻ったならば、次に山名領へ攻めてくる」

と考えた。

城を築き、矢を用意していた。

しかし、

  • 京都で内紛が起きた
  • 『太平記』本文では、仁木義長が南朝方となったと伝わった
  • 和田・楠木氏も出撃した

※史実との違い:『太平記』はこの時点ですでに仁木義長が「宮方(南朝方)になった」と語る。一方、一般的な人物史では、義長は正平15年/延文5年(1360年)に伊勢へ逃れ、翌正平16年/康安元年(1361年)に南朝へ下ったと整理される。

と聞き、勢いづいた。

3000騎余りを2手へ分け、因幡・美作国境へ置いた。

赤松貞範(法名・世貞)・赤松則祐らの城を次々と攻めた。

『太平記』本文が挙げるのは、草木・揉尾・景石・塔尾・新宮・神楽尾の諸城である。

多くの城は、

  • 抵抗せず
  • 敵へ寝返り
  • 行方を消した。

頼りとなる城を失った赤松氏は、苦しい状況へ追い込まれた。

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297. 北野社の夜通し物語――なぜ天下は治まらないのか

※この章について:ここからは戦闘の記録ではなく、『太平記』が北野社の一夜の対話という形で展開する長い政治論・説話である。鎌倉幕府の善政、中国故事、仏教説話などが論拠として語られるが、すべてをそのまま史実とみなすのではなく、『太平記』の作者・語り手が乱世をどう考えたかを読む章である。

北野天満宮へ籠もる頼意僧正

このころ日野頼意僧正は、ひそかに吉野を出た。

願い事があり、霊験あらたかな北野天満宮へ一晩籠もった。

秋も半ばを過ぎ、杉の梢を吹く風は冷たかった。

明け方の月は松の西へ傾き、霜へ映る光は、いつも以上に神々しく、寂しく見えた。

頼意は読み残した経を手へ持ち、灯火を明るくして壁へ寄り、古歌を口ずさんでいた。


3人の人物

南殿の高欄には、3人の人物が並んでいた。

1人は、かつて鎌倉幕府の評定衆や引付衆へ加わり、武家政治が整っていた昔を懐かしんでいるような、60歳ほどの関東訛りの遁世者だった。

1人は、公家として朝廷へ仕えているものの、家が貧しく、出仕もせず、中国の書物によって心を慰めているような、青白い顔の公卿だった。

もう1人は、門跡寺院へ仕える律師・僧都のような、やせた法師だった。

初めは「天満天神」の文字を句の頭へ置き、連歌を行った。

やがて中国・日本の歴史と、天下の治乱について語り始めた。


なぜ30年も乱世が続くのか

儒学者らしい公卿が尋ねた。

「中国の戦国七雄も、最後には秦へ統一されました」

「『太平記』の語りでは、劉邦と項羽の争いも8年のうちに漢の天下となりました」

「日本でも前九年・後三年の役や源平合戦は、長くとも数年で終わっています」

「ところが元弘元年(1331年)以来、天下は30年余り乱れ、1日も静まっておりません」

「今後、いつ静まるのかも分かりません」

「これは、なぜでしょうか」


遁世者の答え――民の苦しみを知らないため

関東訛りの遁世者は、数珠を高く鳴らし、答えた。

「世が治まらないのは当然です」

「昔は民苦使という使者を諸国へ派遣し、民衆の苦しみを調べました」

「君主は民を根本とし、民は食べ物を命とします」

「穀物が尽きれば民は困窮し、年貢を納められなくなります」

「役人が利益を求めて不法を行えば、民の苦しみは天へ届き、災害や戦乱を起こします」

「民の誤りは役人の罪であり、役人の悪政は国王の責任です」


延喜帝が地獄へ落ちた話

遁世者は、日蔵上人が地獄で醍醐天皇を見たという話を語った。

醍醐天皇は比較的、民を思う政治を行った。

それでも地獄へ落ち、次の5つの罪を告白したという。

  • 父・宇多法皇の命へ背いたこと
  • 讒言を信じ、罪のない菅原道真を流したこと
  • 自分の敵として人を害したこと
  • 斎日に本尊を開かなかったこと
  • 日本の王権を立派なものと思い、現世へ執着したこと

「このように民を思った天皇でさえ、罪によって地獄へ落ちた」

「まして現在のように、正しい政治がほとんど行われない世では、地獄へ落ちる者は多いだろう」

と遁世者は言った。


鎌倉幕府初期の政治

遁世者は、鎌倉幕府の政治について語った。

昔の守護は検断以外へむやみに介入せず、地頭も領家を侮らなかった。

北条泰時は、

  • 全国の土地台帳を整え
  • 51か条の御成敗式目を定め
  • 裁判を速やかに行った。

上の者は法を破らず、下の者は禁令を犯さなかった。


明恵上人と泰時の問答

泰時は明恵上人へ、

「どうすれば天下を治め、民を安らかにできますか」

と尋ねた。

明恵は答えた。

「医師が脈を取り、病気の根を知って治療するように、乱世の根本を知って治めなさい」

「乱世の根は欲です」

「欲が、あらゆる災いへ変わります」

泰時は、

「自分は理解していても、すべての人を無欲にすることは難しい」

と答えた。

明恵は言った。

「まず太守1人が欲を少なくすれば、人々は恥じ、自然と欲を抑えます」

「訴える者の欲が深いならば、自分の欲が正されていないためだと考えなさい」


泰時の無欲

父・義時が遺言を残さず死んだ時、泰時は、

「父は自分より弟たちを愛していた」

と考えた。

主要な所領を弟たちへ与え、自分は末子程度の少ない取り分とした。

それでも生活に不足はなかった。

泰時が欲を抑えたため、天下は年ごとに治まり、国も豊かになったという。


裁判の方法

泰時は訴訟人を見ると、言った。

「天下の政治を行う以上、人の心に偽りがないことを願っている」

「しかし争っている以上、どちらか一方には必ず偽りがある」

「次回は証拠を持って来なさい」

「偽りを申す者は厳しく罰する」

「1人の悪知恵ある者が、1万人の災いとなるからである」

当事者たちは恐れ、帰った後、自分たちで話し合い、和解するか、誤っている側が土地を譲った。


飢饉での救済

『太平記』の説話では、寛喜元年(1229年)の飢饉に際し、北条泰時は、

※年代:一般的に「寛喜の飢饉」と呼ばれる大飢饉は、寛喜2〜3年(1230〜1231年)に深刻化したとされる。ここでは『太平記』の「寛喜元年」という語りを残す。

「翌年、世が戻れば、借りた元の米だけを返しなさい」

「利息は自分が払う」

と定めた。

土地を持つ者には元本を返させ、利息は泰時が負担した。

貧しい者は返済を免除し、貸し主へは泰時の領地から米を渡した。

自分の家では、

  • 古い衣服を使い
  • 夜の灯火を減らし
  • 食事を1回減らし
  • 宴会や遊びをやめ

その費用を民衆の救済へ回した。


北条時頼の諸国巡歴

※説話:北条時頼が身分を隠して諸国を巡り民情を調べたという話は、後世に広まった「回国伝説」であり、『太平記』や『増鏡』などに見える説話として読む。

北条時頼は、

「遠国の守護・地頭が人の所領を奪い、民を苦しめていないか」

を知るため、姿を変え、1人で諸国を巡ったという。

摂津国難波浦で、年老いた尼の粗末な家へ泊まった。

尼は、かつて小領主だった。

しかし夫と子を失った後、惣領が鎌倉奉公の権威を利用し、所領を奪った。

訴える者もいないため、20年余り貧しく暮らしていた。

時頼は事情を聞き、位牌の裏へ歌を書いた。

難波潟の潮が引いて遠くなった月影も、
やがて元の入り江へ戻り、再び澄むだろう。

鎌倉へ戻ると、所領を奪った地頭の土地を没収し、尼へ元の土地とともに与えた。


北条貞時の巡歴説話

『太平記』の伝承では、北条貞時も先例にならい、身分を隠して諸国を巡ったという。

そこで、後宇多上皇の怒りに触れて所領を没収され、城南の粗末な住まいへ退いていた久我内大臣・久我通基の事情を知った。

貞時が、

「鎌倉へ無実を訴えないのですか」

と尋ねると、久我家の者は答えた。

「自分に罪がないと訴えれば、上皇の判断が誤りだったと申し上げることになります」

「家が滅びても、臣下として君主の誤りを公然と指摘することはできません」

貞時は感動し、鎌倉へ戻った後に事情を上へ申し上げ、久我通基の所領は返されたと『太平記』は語る。


青砥左衛門の清廉

※人物:ここで語られる青砥左衛門は、一般に青砥藤綱とされる。清廉な裁判官として『太平記』などに多くの逸話が残るが、『吾妻鏡』などの幕府関係記録には見えず、実在には疑問もある。以下は『太平記』が伝える青砥藤綱説話として示す。

『太平記』では、北条氏に仕えて引付衆に加わった青砥左衛門(青砥藤綱)という人物を語る。

多くの所領を持ち、豊かな人物だった。

しかし、

  • 粗末な布の直垂
  • 布の袴
  • 焼き塩と干し魚だけの食事
  • 木製の刀の鞘

という質素な生活をした。

自分のためには浪費しなかった。

一方、公のためには大金を惜しまず、飢えた者や疲れた訴訟人へ米・銭・衣服を与えた。


北条得宗家にも遠慮しない

ある時、北条得宗家の領地と、村の公文との間で訴訟が起きた。

道理は公文側にあった。

しかし奉行や評定衆は、北条家を恐れ、公文を敗訴させようとした。

青砥左衛門だけは権力を恐れず、道理を詳しく説明し、北条家を敗訴させた。

公文は感謝し、銭300貫(当時の貨幣単位)を、ひそかに青砥の屋敷へ入れた。

青砥は激怒した。

「道理を述べたのは北条殿のためであり、公文へ味方したためではない」

「贈り物を受ける理由はない」

1銭も受け取らず、遠い村まで運ばせ、返した。


川へ落とした10文

ある夜、青砥は鎌倉の滑川へ10文(当時の貨幣単位)の銭を落とした。

町家へ人を走らせ、50文(当時の貨幣単位)で松明10束を買い、川を照らして10文を探し出した。

人々は、

「10文を得るため50文を使うのは、大損ではないか」

と笑った。

青砥は言った。

「10文を探さなければ、川底へ沈み、永久に失われる」

「松明を買った50文は、商人の家へ残る」

「私の損は、商人の利益である」

「60文のうち1文も天下から失われていない」

「これこそ天下の利益ではないか」

人々は舌を巻いた。


夢を理由とする恩賞を拒む

ある時、『太平記』で「相模守」と呼ばれる北条方の権力者は、鶴岡八幡宮の夢で、

「政治を正しくし、世を長く保ちたいならば、青砥左衛門を重く用いよ」

との神託を受けた。

その相模守は青砥へ、近国の大荘園8か所、合わせて3万貫(当時の貨幣単位)に及ぶ所領を与えようとした。

青砥は驚き、拒んだ。

「夢を理由として、功績もない者へ大領地を与えることはできません」

「もし私の首を斬れという夢を見たならば、罪がなくても首を斬られるのでしょうか」

「国への功績が少ないのに、身分を越えた恩賞を受けることこそ、国賊の行いです」

補任状を返した。

その姿を見て、ほかの役人も恥じ、賄賂や不正を控えた。

このような人物がいたため、北条氏は8代まで天下を保ったのだと遁世者は語った。


現在の武家政治への批判

遁世者は続けた。

政治の敵となるのは、

  • 無礼
  • 不忠
  • 私欲
  • 功績を誇ること
  • 大酒
  • 遊宴
  • 派手な衣装
  • 遊女
  • 双六
  • 博奕
  • 権門との縁故
  • 秘密の訴え
  • 不正な奉行

である。

昔はこれらを戒めた。

しかし今は、すべて重要なこととして行われている。

礼儀正しく、信仰を守る人を、

「古くさい人間だ」

と笑う。

神仏の領地へ税を掛け、寺院の財産を奪う。

このような政治で、世が治まるはずはない。

「それでも南朝ならば、天皇も長い苦労によって民の苦しみを知り、賢い臣下も多いので、世を治める力があるのではないか」

と結んだ。


公卿の反論――南朝も同じである

青白い顔の公卿は笑った。

「南朝の政治も、北朝・武家と大差はありません」

「私は正平15年/延文5年(1360年)の春まで南朝へ仕えていました」

「しかし天下を取ることも、取った天下を守ることもできないと見切り、京都へ戻りました」

「南朝へ期待できることは、少しもありません」


周の太王の仁政

公卿は、周の太王の故事を語った。

隣国の異民族が太王の国を攻めようとした。

太王は牛馬や財宝を与えたが、敵は戦いをやめなかった。

民衆は、

「命を捨てて戦います」

と願った。

しかし太王は言った。

「国を惜しむのは、民を養う土地だからである」

「国を守るために民を殺したならば、何の意味があるのか」

「敵の政治が自分よりよいならば、民にとって喜ばしいことだ」

太王は領地を敵へ渡し、岐山の麓へ移った。

民衆は、

「このような賢い君主を捨て、仁義を知らない敵へ従うことはできない」

として、全員太王へついていった。

敵は自然に滅び、太王の子孫である文王・武王が天下を取った。


玄宗皇帝と3人の史官

※中国故事:以下は『太平記』が玄宗皇帝と史官の話として語る故事である。『太平記』では玄宗が兄・寧王のもとへ入るはずだった女性を奪ったという筋立てだが、一般的な楊貴妃の伝記では、楊玉環は玄宗の子・寿王李瑁の妃となった後、玄宗の貴妃となったとされる。

公卿は、君主を諫める臣下の故事として、唐の玄宗皇帝を挙げた。

玄宗は兄・寧王のもとへ入るはずだった楊貴妃を奪い、後宮へ入れた。

史官は、この非道を記録した。

玄宗は怒り、記録を破り、史官を殺した。

次の史官も、

「天皇が寧王の女性を奪い、記録した史官を殺した」

と記録し、車裂きにされた。

3人目の史官も、

「前の史官が処刑されたとしても、後の史官は1万人死んでも、これを記録しなければならない」

と書いた。

玄宗は初めて自分の非を悟り、史官を殺さず、褒美を与えた。

「命を惜しまない史官のような忠臣が南朝にいたならば、武家へ奪われた天下を取り戻せないはずがない」

「30年余り山中へ閉じ込められたままであることから、南朝の政治がどの程度か分かる」

と、公卿は批判した。


僧の意見――すべて因果である

2人の話を聞いていた法師は、帽子を取り、数珠を繰りながら言った。

「天下の乱れは、公家だけの罪とも、武家だけの誤りとも申せません」

「すべて過去の因果が現れたものです」


瑠璃王と釈迦族

法師は『増一阿含経』の話をした。

波斯匿王が釈迦族の王女との結婚を求めた。

釈迦族は嫌がりながら、身分の低い女性を王女と偽って嫁がせた。

生まれた瑠璃太子は、幼いころ釈迦族から侮辱された。

成長すると、

「釈迦族を滅ぼす」

と誓い、大軍で攻めた。

釈迦族の弓兵は強かったが、五戒を守り、人を殺そうとしなかった。

裏切った大臣が、

「矢は人へ当てないので、恐れず攻めよ」

と教えた。

瑠璃王軍は宮殿へ入り、釈迦族を滅ぼした。


目連の神通力も因果を変えられない

目連尊者は、残った500人を救おうと、神通力で鉢へ入れ、天上へ隠した。

戦いの後、鉢を開くと、500人は全員死んでいた。

釈迦は、

「過去の因果は、仏の力でも変えられない」

と説いた。

『太平記』が引く仏教説話では、昔、旱魃によって池の水が干上がった時、漁師たちが5、6丈(単純換算で約15〜18m)もあるという大魚をはじめ、大小の魚をすべて殺した。これは説話上の巨大な数値である。

後世、

  • 殺された魚は瑠璃王軍
  • 魚を殺した漁師は釈迦族
  • 仲間の魚を密告した魚は裏切りの大臣

として生まれ変わった。

過去の殺生の報いによって、釈迦族は滅びたという。


梨軍支比丘の飢え

さらに梨軍支という僧の話が語られた。

梨軍支は出家し、阿羅漢の悟りまで得た。

しかし食べ物へ縁がなく、何日も飢えた。

舎利弗・阿難・目連らが食物を与えようとしても、

  • 供物をほかの者へ与えられる
  • 約束を忘れられる
  • 犬へ鉢を奪われる
  • 金翅鳥へ取られる
  • 地面が裂け、鉢が落ちる
  • 口が開かなくなる

というように、決して食べられなかった。

7日目、梨軍支は砂を食べ、水を飲み、亡くなった。


前世で母を飢え死にさせた報い

釈迦は、前世を説いた。

梨軍支は以前、富豪の息子だった。

母が仏や僧へ施しを続けることを怒り、母を部屋へ閉じ込め、7日間食事を与えなかった。

母が食べ物を求めると、

「財産を仏へ与えたのならば、砂を食べ、水を飲め」

と言い、飢え死にさせた。

その報いによって地獄へ落ち、後に人間へ生まれても、7日間飢え、砂を食べて死んだ。


因果としての乱世

法師は結論づけた。

「臣下が君主を軽んじ、子が父を殺すことも、今生だけの悪ではありません」

「武士は衣食へ満ち、公家は飢え死にすることも、過去の因果の現れでしょう」

3人は大声で笑った。

時刻を告げる水時計は進み、すでに朝となった。

3人は北野社を出て、それぞれ帰った。

頼意僧正は、

「この乱世も、いつかは静まる時が来るかもしれない」

との、わずかな望みを残して帰った。

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298. 尾張小川城と近江の戦い――仁木義長の勢力衰退

尾張小川城の降伏

小川中務丞と土岐東池田は、仁木義長へ味方した。

尾張国小川荘へ城を築き、立てこもった。

土岐宮内少輔が3000騎余りで攻め寄せ、城を7重、8重に包囲した。

急いで造った城だったため、20日余りで兵糧が尽きた。

小川・東池田は、そろって降伏した。


小川は処刑、東池田は助命される

土岐氏は以前から小川氏と所領争いをしていた。

その恨みにより、小川中務丞は、その場で首を斬られ、京都へ送られた。

東池田は土岐氏の一族だったため助命され、尾張国幡豆崎城へ送られた。


三河の仁木方も敗れる

吉良治部大輔も仁木方となり、三河守護代の西郷兵庫助と協力した。

矢作川東岸へ陣を置き、畠山国清(道誓)の関東下向を妨げた。

しかし大島義高が三河守護となり、星野・行明氏とともに三河へ入った。

道中の戦いで西郷軍を破った。

西郷は伊勢へ逃げた。

吉良氏は足利方へ降伏し、京都へ上った。


仁木三郎・石塔頼房が近江へ入る

石塔頼房は、仁木三郎(仁木義尹とみられる。義尹は通称・三郎)を大将とし、伊賀・伊勢勢2000騎余りを起こした。

近江国へ入り、葛木山へ陣を置いた。

佐々木氏頼(法号・崇永)・その弟の山内判官は近江勢を集め、飯守岡へ陣を張った。

両軍は数日間、向かい合った。


仁木三郎が決戦を主張する

正平15年/延文5年(1360年)9月28日の早朝、仁木三郎は兵へ言った。

「近江へ入って何日も戦わず、村人を苦しめていることは本意ではない」

「伊勢にいる仁木義長も、我々を未熟だと思うだろう」

「今日は吉日である」

「1度敵へ攻めかかり、打ち散らそう」

「ただし先に佐々木高秀の兵が守る市原城を攻め落とし、背後へ敵を残さず、安心して決戦しよう」

石塔頼房も伊賀・近江勢300騎余りを率して出発した。


佐々木軍は500騎未満

佐々木崇永は、

「敵が陣を出たぞ。こちらも出発せよ」

と兵を集めた。

しかし長年仕えた家臣300騎余り以外、従う者はほとんどいなかった。

一方、仁木方には、

  • 桐一揆の精鋭500騎余り
  • 伊賀の服部・河合一揆

が加わり、大きな勢いだった。

500騎に満たない佐々木軍が勝てるようには見えなかった。


佐々木崇永の陣形

しかし佐々木氏頼(崇永)は勇気の強い武将だった。

「この戦いは天下の勝敗を決めるだけではない」

「今日敗れれば、武士としての名を失う」

「兵の少なさを数えても意味はない」

と、軍を三手へ分けた。

  • 目賀田・楢崎・儀俄・平井・赤一揆
  • 青地・馬淵・伊庭・黄一揆
  • 佐々木氏頼(崇永)自身と吉田・黒田・二部・鈴村・大原・馬杉ら精鋭

を配置し、中央突破を狙った。


佐々木軍が大軍を破る

仁木方は小勢の佐々木軍を見て勇み立った。

「中央の四つ目結の大旗が佐々木大将だ」

「討ち取って恩賞を得よ」

長野氏の蝿払一揆が先陣として進んだ。

佐々木軍は、死を覚悟した気迫で動いた。

大軍の中央へ攻め入り、

  • 十文字
  • 巴字
  • 鶴翼
  • 魚鱗

と陣形を変え、東西南北へ自由に馬を走らせた。

敵軍を崩した後、小野付近へ退き、西へ馬を向けて息を整えた。

主を失った馬が、血へ染まりながら数多く走った。

敵の遺体は、算木を散らしたように倒れた。


仁木方の大敗

仁木方は気力を失い、深い内貴田井から天満山方面へ逃げた。

佐々木方は休む暇も与えず追った。

険しい場所で追われたため、敵は逃げ切れなかった。

主だった武士50人余りが、1か所で討たれた。

正平15年/延文5年(1360年)11月1日、首は京都へ送られ、六条河原へさらされた。

昨日まで言葉を交わし、肩を並べた友人の首を見て、大名・小名・僧俗・身分の高い者も低い者も、涙を流した。


仁木義長の勢力は500騎となる

仁木義長の軍勢は、初め3000騎余りと伝えられていた。

しかし兵は次々と離れ、500騎余りとなった。

頼りとしていた仁木三郎も、近江の戦いへ敗れ、そのまま足利方へ降伏した。


伊勢での長期対陣

仁木義長が弱体化すると、

「直ちに攻めよ」

との命令が出た。

佐々木氏頼(崇永)・土岐頼康(善忠)が討手となり、7000騎余りで伊勢国へ向かった。

義長は名高い勇士だった。

しかし兵は減り、気力も疲れていた。

平地へ出て1度も戦わず、長野城へ立てこもった。

城の守りが堅いため、寄せ手は近づけなかった。

土岐・佐々木軍も大軍だったが、義長は城から出て戦わなかった。

両軍は5、6里を隔てたまま、伊勢の玉笥・二見浦付近で向かい合った。ここでの「里」は時代・地域で長さが一定しないため、kmへは換算しない。

2年間、決着のないまま過ぎたのである。

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