太平記 36巻


299. 仁木義長、南朝へ帰参する――伊勢大神宮の神託

康安への改元と、京都の大火

前年には、

  • 天災
  • 旱魃
  • 飢饉
  • 疫病

が京都と地方の各地で起こり、道には遺体が満ちていた。

人々は、

「これは普通のことではない。改元が行われるだろう」

と考えた。

延文6年3月晦日、年号は康安と改められた。

ところが、その夜、四条富小路付近から火が出て、四方八十六町余りが焼失した。

改元の最初に京都が大火へ遭ったことは、不吉な前兆と見られた。

「康安という年号は、よくないのではないか」

という意見も多かった。

しかし幕府は、すでに改元の命令を諸国へ伝えていた。

すぐ再び改元する先例はないとして、そのまま康安が用いられた。


長野城で孤立する仁木義長

仁木義長は三年にわたり大軍へ包囲され、伊勢国長野城へ立てこもっていた。

支配できる領地を失い、兵糧も不足した。

頼りとしていた一族や家臣も、次第に城を離れた。

最後に残った兵は、三百騎余りとなった。


土岐兄弟の離反

土岐氏光と、その弟である外山・今峰の三兄弟は、初め仁木方として城へ立てこもっていた。

しかし弟二人は、途中で心を変え、包囲する足利方へ加わった。

兄の氏光だけは城内へ残り、義長へ従った。

弟たちは兄を救いたいと思い、ひそかに使者を送った。

「城が完全に弱る前に、急いで降伏してください」

「将軍もお許しになるとのことです」

「本領も、そのまま認められるでしょう」

氏光は言葉で返事をしなかった。

送られた手紙の裏へ、一首を書いて返した。

連なっていた枝の木の葉が、散り散りとなった。
その葉を誘う嵐の音までも、今はつらく聞こえる。

外山・今峰兄弟は歌を見て言った。

「これほど覚悟を決めた人であれば、説得しても無駄だろう」

血を分けた兄弟が散り散りとなり、兄が世の秋風の中で朽ちようとしていることを思い、涙を流した。


義長が南朝へ降伏を申し入れる

義長自身も、日ごとに軍勢が減っていくのを見て、

「自分の力だけでは、最後まで持ちこたえられない」

と考えたのだろう。

ひそかに吉野の南朝へ使者を送り、

「南朝方へ参りたい」

と申し入れた。

伝奏の吉田宗房が参内し、事情を奏上した。

公卿の間には反対意見も多かった。

しかし、

「義長が南朝方となれば、伊賀・伊勢両国が官軍へ従う」

「伊勢国司・北畠顕能の城も安全になる」

として、義長を許す綸旨が出された。


武者所で起こった反対論

南朝の武者所へ詰めていた者たちは、ひそかに語り合った。

「近年、源氏一族で南朝へ参った者を見れば、天皇を欺かなかった者は一人もいない」


直義の裏切り

「まず足利直義は、代々の家臣である高師直・師泰に殺されそうになったため、南朝へ参った」

「南朝の力を借りて恨みを晴らすと、天皇から受けた恩を一日も重んじなかった」

「その報いが身へ残り、最後には毒殺された」


義詮の偽りの和睦

「次に義詮も、南朝へ参ると申し、君臣和睦となった」

「ところが、

『天下の政治を南朝天皇へお任せする』

という約束をすぐ破り、近江へ逃げた」

「これこそ偽りの結果ではないか」


直冬・石塔・山名も信用できない

「直冬・石塔頼房・山名時氏らが南朝方となったことも、本当の忠義かどうか分からない」

「勅命を借りて自分の望みを果たしさえすれば、天皇を皇位へ戻したとしても、天下は自分たちの思いどおりにしようと考えている者たちだろう」


義長を受け入れる危険

「今度は仁木義長が、大敵に包囲され、耐えられなくなったため南朝へ参るという」

「公卿たちが、これを許したことは理解できない」

「義長は普段から、あらゆる悪事を行ってきた」

「少しでも自分の気へ逆らう者がいれば、罪がなくても殺し、誤りとも思わない」

「気に入った者には功績がなくても恩賞を与え、後には突然取り返す」

「長年恩を受けた義詮へさえ背いた人物が、南朝天皇へ深い忠義を尽くすだろうか」


恩賞への欲望

「義長は七か国を支配しても、まだ不足と思った人物だ」

「南朝から五か国、三か国を与えられても、満足するだろうか」

「義長の望みどおり恩賞を与えれば、日本六十六か国に、一か所も残らなくなる」

「長年忠功を立てた官軍の武士は、どこへ身を置けばよいのか」

「忠臣でも賢臣でもなく、神仏から捨てられ、人望へ背き、自滅しようとしている悪人を味方へして、南朝の運を助けられるだろうか」

「虎を養い、自分の災いを招くようなものだ」


義長を擁護する者

その場には、仁木義長へ心を寄せる者もいたらしい。

別の者が言った。

「義長が悪い人物であることは、そのとおりです」

「しかし普通の人間とも思えません」


神前での殺人

「鎌倉では鶴岡八幡宮の神殿で少年を斬り殺し、血を神前へ流した」

「石清水八幡宮では駒形の神人を殺害し、大きな神訴を受けた」

「普通の人間が、これほどの悪事をしたならば、しばらくも無事ではいられないでしょう」

「インドの仙予王が五百人を殺し、斑足太子が千人の王を害したことも、仏や菩薩が姿を変えたものだと聞きます」

「義長をひいきしているのではありません」

「人から聞いた話が耳へ残っているため、申し上げるのです」


伊勢神宮領を押領する

義長は伊勢国を支配していた時、それまで公家も武家も手を出さなかった神三郡へ入り、伊勢神宮の所領を押領した。

祭主や神官たちは京都へ上り、

  • 朝廷へ奏上し
  • 幕府へ訴えた。

「天地開闢以来、このような事件はない」

として、厳しい綸旨や将軍の命令が出された。

しかし義長は、まったく従わなかった。


五十鈴川と神路山での悪行

義長は、

「自分を訴えたことが悪い」

と、かえって神官たちを恨んだ。

  • 五十鈴川をせき止めて魚を捕らせ
  • 神路山へ入り、鷹狩りを行った。

悪行は日ごとに重なった。


神官五百人の呪詛

神官たちは、

「それならば神罰によって滅びるのを待とう」

と決めた。

五百人余りが榊の枝へ木綿を掛け、さまざまな幣帛を奉った。

「義長を七日以内に蹴り殺してください」

と、声をそろえて呪った。


十歳の少年へ神が乗り移る

七日目、十歳ほどの少年が突然狂い、

「私に伊勢大神宮がお乗りになった」

と言って神託を語った。

「私は覚りの都を出て、神として日本へ姿を現して以来、すべての者へ光を与え、縁を結んできた」

「救済の門では、罪ある者も嫌わず、愚かな者も見捨てない」


義長の前世

「お前たちが義長の悪行を天へ訴え、呪っていることが理解できない」

「義長は三生前、義長法師という僧だった」

「五部の大乗経を書写し、この伊勢国へ納めた」

「その善根が今生へ現れ、伊勢国を支配することができた」

「その宿善がなければ、一日も無事に暮らせるはずがない」


名誉のために積んだ善根

「惜しい善根である」

「もし悟りを求める心で経を書写したならば、生死を離れ、仏果へ至っただろう」

「しかし名誉と利益のために修した善根だった」

「そのため今生では武士の名門へ生まれ、諸国を支配し、大勢の家臣を従えた」

「一方で悪行へ染まり、戦乱を好み、人々を苦しめている」


善悪それぞれの報い

「過去の善根が、今生へ報いた」

「今生の悪業は、未来へ報いるだろう」

少年は泣きながら繰り返し語った。

やがて眠るように倒れ、神がかりは醒めた。


結論は変わらない

義長を擁護する者は言った。

「この話から考えれば、義長にも前世からの理由がある人物と思われます」

初めに義長を批判した者たちは答えた。

「前世のことは分からない」

「しかし悪行については、天下第一の誤った人物だ」

人々は一晩中語り合い、夜が明けると、それぞれ退出した。


300. 大地震・津波と、夏に降った雪

四か月続いた大地震

康安元年6月18日(1361年)の午前10時ごろから、同年10月に至るまで、大地は激しく揺れ続けた。

昼も夜も、地震の止む時がなかった。

  • 山は崩れて谷を埋め
  • 海岸線が変わって陸地となり
  • 神社・寺院は倒壊し
  • 牛馬・人間が多数死傷した。

『太平記』によれば、その数は何千、何万とも知れなかった。

山・川・海・野原・村落のうち、この災害へ遭わなかった所はなかった。


阿波・雪湊の大津波

中でも阿波国の雪湊という浦には、突然、大山のような高潮が押し寄せた。

民家千七百軒余りが、引き潮とともに海底へ沈んだ。

家にいた、

  • 僧侶
  • 男女
  • 牛馬
  • 鶏や犬

まで、一つも残らず海の藻屑となった。


6月の大雪

人々が、

「これこそ前代未聞の異変である」

と驚いていると、6月22日、突然空が曇り、雪が降った。

寒さは冬至前後と変わらないほど厳しかった。

酒を飲み、火をたき、炉を囲める者は寒さを防げた。

しかし、

  • 山道の木こり
  • 野原を歩く旅人
  • 放牧中の馬
  • 林の鹿

は、氷と雪へ閉じ込められ、数えきれないほど凍死した。


難波浦の海が干上がる

7月24日、摂津国難波浦の沖数百町が、半時ほどの間、干上がった。

無数の魚が砂の上で口を動かした。

周辺の漁師たちは網や釣り道具を捨て、

「自分も負けまい」

と魚を拾った。


戻ってきた大津波

ところが突然、大山のような潮が押し寄せた。

干上がっていた場所は、再び果てしない海となった。

数百人の漁師は、一人も生きて帰らなかった。


鳴門に現れた巨大な太鼓

阿波の鳴門でも、突然潮が引き、陸地が現れた。

高くそびえた岩の上へ、巨大な太鼓が現れた。

胴の周囲は二十尋ほどあったという。

  • 銀の鋲が打たれ
  • 表面には巴紋が描かれ
  • 台には八頭の竜が組みついていた。

人々は恐れ、しばらく近づかなかった。


地を揺らす太鼓の音

三、四日後、周辺の浦人が数百人集まり、太鼓を調べた。

胴は石で、面は水牛の皮だった。

普通の撥では鳴らないとして、大きな撞木を作り、鐘をつくように打った。

太鼓の音は天へ響き、大地を揺らし、三時間ほど鳴り続けた。

山は崩れて谷へ響き、潮は天へ上るように湧いた。

集まった人々は、

「地の底へ引き込まれる」

と思い、四方八方へ逃げた。

その後は誰も近づかなかった。

やがて潮が元どおり満ちると、太鼓は姿を消した。

天へ上ったのか、海へ戻ったのか、誰にも分からなかった。


四天王と竜の戦い

8月24日の大地震では、激しい雨と風が起こり、空がしばらく暗くなった。

難波浦の沖から二頭の大竜が浮かび、四天王寺金堂へ入るように見えた。

雲の中では鏑矢の音が響き、武器の光が四方へひらめいた。

大竜と四天王が戦っているようだった。


四天王寺金堂の倒壊

二頭の竜が去る時、再び大地が激しく揺れた。

金堂は粉々に崩れた。

しかし四天王像には、少しの損傷もなかった。

人々は、

「聖徳太子が安置した仏舎利を竜王が奪おうとしたため、仏法を守る四天王が戦われたのだろう」

と考えた。


天下の大乱を恐れる

京都や地方では、傾かなかった塔の九輪は一つもないほどだった。

熊野参詣路には、地面の裂けなかった所もなかった。

古い記録を調べても、天地開闢以来、このような異変はなかった。

人々は、

「この上、さらにどのような大乱が起こるのか」

と恐れた。


301. 四天王寺金堂の再建と、京都の祈祷

南朝が地震の意味を恐れる

南朝では、大地震によって諸国の大寺院が破壊されたと聞いた。

中でも四天王寺金堂ほど激しく崩れた堂舎はなく、紀伊国の山々ほど大きく裂けた土地もなかった。

「これは普通の前兆ではない」

として、天皇は慎み、さまざまな祈祷を始めた。


円海上人が金堂を再建する

般若寺の円海上人が勅命を受け、四天王寺金堂を再建した。

造営中には、珍しい奇跡が相次いだ。


難波へ流れ着いた巨木

金堂は非常に大きな建物だった。

安芸・周防・紀伊の山から大木を集めるには、一、二年では難しいと思われた。

ところが、

  • 二人で抱えるほどの檜の柱
  • 長さ六、七丈の梁材

三百本が、どこから来たとも分からず、難波浦へ流れ着き、干潟へ止まった。

しばらくは、

「持ち主のある材木ではないか」

として、尋ねに来る人を待った。

しかし誰も現れなかった。

人々は、

「天竜八部が、人間の仕事を助けてくださったのだ」

として、梁や屋根へ使用した。


巨大な綱も流れ着く

柱を立て終え、棟木を上げようとした。

棟木を巻き上げるには、信濃皮を使った大量の縄が必要だった。

簡単には手に入らない。

円海上人は、

「信濃国へ下り、寄付を求めよう」

と考えた。

すると難波堀江の岸へ、死んだ大蛇のような物が流れ着いた。

近づくと、信濃皮で作った巨大な綱だった。

太さ二尺、長さ三十丈ほどの綱が、十六筋も水泡とともに寄せられていた。

上人は大いに喜び、棟木を巻き上げる綱として用いた。

使用後、その綱は宝蔵へ納められた。


二十八人の不思議な大工

三百人余りの大工の中に、

  • 肉を食べず
  • 酒を飲まない

者が多くいた。

円海上人が不思議に思い、仕事を見ると、一人の働きが普通の大工十人分を超えていた。

夕方、帰る姿を見送ると、行き先も分からず、かき消すように姿を失った。

その人数は二十八人だった。

人々は、

「千手観音の眷属である二十八部衆が、大工の姿となって現れたのだろう」

と信じ、手を合わせた。

金堂は短期間で完成し、金銀をちりばめたように美しく飾られた。

仏の威光と円海上人の徳が重なって起こった奇跡とされた。


東寺に関する不吉な夢

京都では、東寺金堂が一尺二寸ほど南へ動き、弘法大師が南天竺へ飛び去ったという夢を、寺僧が見た。

「京都にとって重大な不吉である」

として、祈祷が行われた。


内裏での修法

青蓮院の尊道法親王は、伴僧二十人を率し、8月13日から内裏へ入り、大熾盛光法を修した。

聖護院の覚誉親王は9月8日から七日間、尊星王法を修した。


最勝講の復興

近年途絶えていた最勝講も、再び行われた。

比叡山・東大寺・興福寺・園城寺などから、優れた学僧が集まった。

五日間にわたり、講師と問者が朝夕に席を替え、

  • 経典の意味
  • 教義上の疑問
  • 仏法の深い道理

を論じた。

その弁舌と知恵は、

  • 釈迦の弟子で弁論第一とされた富楼那
  • 智慧第一の文殊菩薩

にも劣らないように見えた。


302. 山名時氏、美作の城々を攻略する――九州・香椎の戦い

山名氏が美作へ侵攻する

7月12日、山名時氏は、

  • 長男・山名師義
  • 次男・山名中務大輔

とともに、出雲・伯耆・因幡三か国の兵三千騎余りを率し、美作国へ向かった。

美作守護・赤松世貞は播磨へいた。

山名軍が攻める前に、

  • 名木城
  • 杣城
  • 篠向城
  • 大見丈城
  • 菩提寺城
  • 小原城
  • 大野城

など六か所の城が、矢を一本も射ず降伏した。

林野・妙見の二城は二十日余り抵抗した。

しかし山名方に説得され、最後には敵方へ回った。


倉懸城だけが残る

最後に残ったのは倉懸城だった。

佐用貞久・有元佐久ら三百騎余りが立てこもった。

山名時氏・次男の中務少輔は三千騎余りで攻め寄せた。

城の周囲の山や峰二十三か所へ陣を置き、

  • 鹿垣を二重、三重に巡らし
  • 逆茂木を密に並べ
  • 矢の届く距離まで近づいて攻めた。

赤松軍の後詰め計画

播磨・美作国境には、

  • 竹山城
  • 千草城
  • 吉野城
  • 石堂ヶ峰城

があり、それぞれ赤松則祐の兵百人ほどが守った。

山名氏の執事・小林重長は二千騎余りで星祭ヶ岳へ上り、城を見下ろした。

一方、赤松世貞・則祐・氏範・光範ら二千騎余りは高倉山麓へ陣を置き、

「山名軍が倉懸城を攻め疲れた時、背後を攻撃しよう」

と計画した。

山名師義は精鋭八百騎余りで、赤松軍へ備えた。


但馬方面にも敵が起こる

赤松方が師義の小勢を先に破ろうとした時、阿保信禅が突然敵となり、但馬国へ入った。

長氏と協力し、播磨へ攻め込もうとした。

赤松氏は、

  • 法華山へ城を築き
  • 大山越えの道をふさぎ
  • 五か所へ兵を置いた。

そのため山名軍へ進んで戦う兵力も、但馬の敵へ向かう兵力も足りなくなった。


細川頼之の援軍も集まらない

赤松氏は、中国地方の大将・細川頼之へ使者を送った。

頼之は当時、讃岐守護をめぐる争いのため四国にいた。

「四国の兵を連れて備前へ渡り、備前・備中・備後・美作勢を率し、倉懸城を救援してください」

と頼んだ。

頼之は驚き、9月10日に備前へ渡った。

しかし中国地方の武士たちは、自国内の私戦を捨てず、大将へ従わなかった。

頼之は唐川へ陣を置いたまま、月日を過ごした。


倉懸城陥落

倉懸城は兵が多く、兵糧が少なかった。

戦うたびに城方が勝った。

しかし救援の望みがなく、食糧と矢が尽きた。

11月4日、ついに落城した。

山名氏は山陰道四か国を支配し、近国へ勢力を広げた。

その名声は諸国へ響いた。

人々は、

「天下は今後どうなるのか」

と不安に思った。


九州・香椎の対陣

九州では7月初め、征西将軍宮、新田一族二千騎余り、菊池武光三千騎余りが博多へ出て、香椎へ陣を置いた。

少弐・大友方は、

「敵の援軍が到着する前に追い落とせ」

として、

  • 大友氏七千騎
  • 少弐氏五千騎
  • 宗像氏八百騎
  • 紀井氏三百騎

など、合わせて二万五千騎余りを正面軍へ送った。

上松浦・下松浦党三千騎余りは飯盛山へ上り、菊池軍の背後へ回った。


小勢の菊池軍

少弐・大友方は大軍であり、敵を包囲していた。

宮方は比較にならない小勢で、しかも平地へ陣を置いていた。

それでも菊池武光は、もともと大敵をものともしない人物だった。

両軍は二十町ほど隔たり、

  • 攻めるか
  • 待って戦うか

相手の隙をうかがい、二か月を過ごした。


城越前守の流言作戦

菊池家臣の城越前守は知略のある人物だった。

山伏・禅僧・遁世者らを、ひそかに松浦軍の陣へ送った。

「某は菊池方へ内通している」

「某は後ろから矢を射た後、降伏すると申し入れた」

「裏切り者を信用し、犬死にしてはならない」

と、さまざまな噂を流した。

松浦勢は、

「そのようなことがあるだろうか」

と思いながらも、

「今の時代の人心ならば、あり得ないとはいえない」

と、互いに疑い始めた。


飯守山の松浦党が崩れる

8月6日の夜明け前、城越前守は千騎余りで飯守山へ攻め寄せた。

盾をたたき、一斉に鬨の声を上げた。

松浦党は大軍であり、城の守りもよかった。

本来、簡単に落とされるはずはなかった。

しかし、

「城内には敵へ内通する者が多い」

という流言を信じていた。

「味方に討たれるな。周囲を警戒せよ」

と言ううちに、一人、また一人と逃げ出した。

城越前守は勝ちに乗り、追撃した。

夜が明けていたならば、一人も逃げられなかったと思われた。


少弐・大友軍も敗走する

強敵と見られた松浦党を計略だけで落としたため、菊池方は、

「少弐・大友を破ることは、手のひらを見るより簡単だ」

と勢いづいた。

征西将軍宮と菊池軍五千騎余りは、翌7日の正午、香椎の敵陣へ攻め寄せた。

少弐・大友軍は、松浦党が前日に敗れたと聞いてから、

「退きたい」

と思っていた。

本格的な一戦にもならず、我先に逃げた。

道には、

  • 弓矢
  • 太刀

が捨てられた。

一日以上追撃された二万余騎のうち、半数も本国へ帰れなかったと思われた。


303. 佐々木秀詮兄弟の討ち死に

摂津守護をめぐる争い

同年9月28日、摂津国で思いがけない事件が起こり、京都方の兵が多数討たれた。

事件の原因は摂津守護職をめぐる争いだった。

もともと摂津守護は、赤松範資が、長年の忠戦によって尊氏から与えられたものだった。

範資の死後、長男の赤松光範が継承した。


佐々木道誉が守護職を奪う

前年、義詮が諸国の兵を率し南朝を攻めた時、

「光範の軍役負担は、毎年不足している」

と、義詮側近が不満を漏らした。

佐々木道誉は、

「よい機会だ」

と思ったのだろうか。

南朝征討が終わった後、光範に目立った罪がないにもかかわらず、

「摂津守護を解任するべきだ」

と申し入れた。

そして自分の恩賞として守護職を得た。


赤松光範の恨み

光範は、

「今回の軍役でも戦いでも、人より大きな忠功を立てた」

と思っていた。

当然、特別な恩賞を得るものと期待していた。

ところが恩賞どころか、父子二代の功績を無視され、長年支配した守護職まで奪われた。

深い恨みを抱いたが、上からの決定であるため、従って訴えを続けるほかなかった。


和田・楠木軍が天神森へ出る

和田・楠木氏は、この争いを聞き、

「今こそ好機である」

と考えた。

五百騎余りを率し、渡辺橋を渡って天神森へ陣を置いた。


秀詮兄弟が出陣する

佐々木道誉の孫である近江判官秀詮と弟の次郎左衛門は、以前から摂津国へいた。

千騎余りを率して出陣し、

「神崎橋をふさぎ、防戦しよう」

と考えた。

守護代の吉田厳覚が反対した。

「そのような守りの戦いをする必要はありません」

「赤松光範が摂津守護だった時、和田・楠木軍に何度も国内へ侵入された」

「未熟な守護だとして、佐々木家が守護職を得たのです」

「敵の国へ攻め込むことまでは求められなくても、国内へ入った敵を一人でも生きて帰せば、赤松氏から笑われ、京都での評判も悪くなります」

「この厳覚が命を捨てる覚悟ならば、誰が見捨てるでしょう」

「恩賞が欲しい者は続け」

厳覚は先頭に立ち、神崎橋を渡った。

千騎余りも続いた。


南朝軍を侮る

敵の人数を尋ねると、牛飼いの子どもたちは答えた。

「楠木軍は、まだ川を越えていません」

「和田軍だけで、五百騎にも足りないようです」

吉田厳覚は大笑いした。

「何と都合のよい敵だ」

「ここで敵の種を絶やしてしまおう」

「楠木軍も川を越えさせ、まとめて討ち取ろう」

足利軍は悠々と馬へ餌を与え、休んだ。


南朝方の偽報

和田・楠木軍は、足利軍の油断を見た。

川の西へ下人四、五人を送り、叫ばせた。

「南朝の敵が西から攻めてきました」

「神崎橋の西詰めを守ってください」

秀詮らは、

「敵は進路を変え、背後へ回ったのか」

と思った。

「引き返して戦え」

として、西へ向けて進み始めた。


深田の伏兵

道の両側は深い田で、通れる道は一本しかなかった。

足軽野伏三百人が両側の田へ現れ、激しく矢を射た。

馬の足は深田へ取られ、自由に動けなかった。

先頭の兵は、

「後方から方向を変え、広い場所で戦え」

と命じた。

後陣が引き返そうとするところへ、和田・楠木・橋本・福塚勢五百騎余りが追撃した。


味方が先に逃げる

中津川橋付近で、白江源次ら六騎が踏みとどまり、討ち死にした。

秀詮が頼りとしていた中白一揆五百騎余りは、地元の兵であり、地形を知っていた。

しかし一度も戦わず、武具や太刀を捨て、川へ飛び込んだ。


吉田厳覚が橋を落とす

先ほどまで大言を吐いていた吉田厳覚は、真っ先に橋を渡って逃げた。

続く敵を渡らせないためだったのか、橋板一間分を外した。

しかし後ろから渡ろうとした味方三百騎余りが川へ落ち、溺れて流された。


秀詮兄弟の最期

秀詮兄弟は橋付近まで逃れた。

県二郎が言った。

「橋は落とされています」

「もう助かりません」

「引き返して討ち死にしてください。私もお供します」

兄弟は、その言葉に恥じた。

二騎で引き返し、その場で討たれた。


瓜生父子兄弟の死

瓜生次郎左衛門の父子兄弟三人も、秀詮が討ち死にしたのを見て、

「一か所へ集まり、ともに死のう」

とした。

しかし馬の首を射られ、落馬した。

三人は田の畔へ並び、

「敵が来れば刺し違えよう」

と構えた。

しかし遠矢を浴び、一か所で全員討たれた。


大半は溺死する

半時ほどの戦いで、京都方の戦死者は二百七十三人だった。

そのうち敵に斬られて死んだ者は、わずか五、六人だった。

二百五十人余りは、川へ流されて亡くなった。


楠木正儀の慈悲

楠木正儀は父祖の慈悲深さを受け継いだ人物だった。

  • 野伏に捕らえられ、縛られた敵も斬らず
  • 川から引き上げられ、命を助けられた者も拘束しなかった。

裸となった者には小袖を着せた。

負傷者には薬を与え、京都へ帰した。

敵兵は自分の敗北を恥じたが、助けられたことを喜ばない者はいなかった。


304 細川清氏の反逆――道誉との対立と、偽造された願書

将軍執事が京都を去る

人々は、

「大地震の前兆どおり、諸国の乱が始まった」

と驚いていた。

その時、京都でさらに前代未聞の事件が起こった。

幕府執事の細川清氏、その弟・細川頼利、養子の仁木頼夏が京都を去り、足利家の敵となった。

原因は、佐々木道誉と清氏との間へ長年積もった恨みだった。


加賀守護をめぐる対立

加賀守護は富樫氏が、建武以来一度も離反せず、忠戦と適切な政治によって代々務めてきた。

富樫氏の当主が亡くなった時、その子はまだ幼かった。

道誉は、自分の娘婿である尾張左衛門佐へ、加賀守護を与えようとした。

清氏は反対し、富樫氏の子を立て、守護職を安堵する将軍命令を出させた。

これが道誉の第一の恨みだった。


備前福岡荘をめぐる対立

備前国福岡荘は頓宮氏の所領だった。

頓宮氏の軍功が一時途絶えた時、赤松則祐が恩賞として得た。

その後、頓宮氏は清氏軍へ入り、忠功を立てた。

清氏は頓宮氏へ土地を返す命令を出させた。

しかし則祐は道誉の娘婿だった。

国を支配し、上からの命令を妨げたため、頓宮氏は所領へ戻れなかった。

これが清氏の第一の恨みだった。


摂津守護をめぐる対立

道誉は理由なく摂津守護職を得て、孫の秀詮へ与えた。

清氏は、

「元の守護である赤松光範へ戻すべきだ」

と、遠慮なく何度も意見した。

これが道誉の第二の恨みだった。


七夕の宴をめぐる争い

七夕の夜、義詮は清氏の屋敷へ行き、七百番歌合を行うと約束していた。

清氏は喜び、

  • 珍しい料理を用意し
  • 歌人を数十人招き

準備を整えた。

ところが道誉も自邸へ義詮を招いた。

  • 七か所の飾り
  • 七種類の料理
  • 七百種類の景品
  • 七十服の本茶・非茶を飲み分ける遊び

を用意した。

義詮は、

「歌合は後日でもできる。七か所の飾りは珍しい」

として、先約を破り、道誉邸へ行った。

清氏の準備は無駄となり、招かれた歌人たちも帰った。

これが清氏の第二の恨みだった。


清氏の子の元服

清氏は傲慢で、行動にも普通でない点があった。

一方で神仏を敬う心は深かった。

子孫の加護を願ったのだろうか。

あるいは、息子たちの烏帽子親となる適当な人がいないと思ったのだろうか。

九歳と七歳の二人の息子を石清水八幡宮で元服させ、八幡大菩薩を烏帽子親とした。

兄を八幡六郎、弟を八幡八郎と名づけた。


義詮が謀反の兆しと疑う

この話は、すぐ世間の噂となった。

義詮は聞いて考えた。

「これは源頼義が息子たちを、

  • 八幡太郎
  • 賀茂次郎
  • 新羅三郎

と名づけたことと変わらない」

「清氏は、心の中で天下を奪おうと企てているのではないか」

義詮は不快に思った。

道誉は、

「清氏を失脚させる口実が一つできた」

と、ひそかに笑った。


志一上人と願書

外法を修めた志一上人が鎌倉から京都へ上り、道誉のもとへ来た。

道誉は尋ねた。

「京都では不便も多いでしょう」

「誰か有力な檀那が、祈祷を依頼しましたか」

志一上人は答えた。

「まだ有力な檀那もなく、京都滞在も難しいと思っておりました」

「しかし一、二日前、細川清氏殿から、

『重大な願いがある。すぐ成就するよう祈ってほしい』

として、封をした願書と、祈祷料一万疋を送られました」


道誉が願書を借りる

道誉は、

「どのような願いでしょう」

と、強く頼んだ。

志一上人は話してしまった以上、隠し続けることもできず、願書を取り寄せた。

道誉は願書を内へ持ち入り、

「急用ができたため外出します」

「ゆっくり見て、明日お返しします」

と言い、裏門から出た。


三つの恐ろしい願い

翌日、道誉は願書を伊勢入道へ見せた。

「清氏が謀反を企て、志一上人へ義詮殿の呪詛を頼んだ」

「自筆・自判の願書がある以上、疑いない」

「将軍へお見せください」

願書には、およそ次の三項目が書かれていた。

一、清氏が天下を支配し、子孫が永く栄えること。

一、足利義詮が急病となり、死去すること。

一、足利基氏が武威と人望を失い、清氏の軍門へ降ること。

康安元年9月3日、細川清氏と記され、裏判が押されていた。


伊勢入道はすぐ報告しない

伊勢入道は願書を読み、長くため息をついた。

筆跡は清氏のものか分からなかった。

しかし判形は疑いなく清氏のものに見えた。

将軍へ見せるべきだと思った。

一方、

「これを報告すれば、清氏はすぐ命を失う」

「このような事件には、偽造や陰謀もある」

として、すぐには報告せず、箱の底へしまった。


義詮の病気

その後、義詮が突然、邪気に取りつかれたような病となった。

高僧が加持しても治らず、頭痛は日ごとに激しくなった。

道誉は義詮のもとへ行き、

「伊勢入道から清氏の願書を御覧になりましたか」

と尋ねた。

義詮は、

「まだ見ていない」

と答えた。

道誉は、

「御病気は、そのためでしょう」

と言った。

伊勢入道を呼び、願書を出させ、義詮へ見せた。

その後、病気は間もなく治った。

義詮は、

「道誉の言葉は偽りではない」

「清氏が呪っていたことは疑いない」

と信じた。


八幡宮の願書

義詮はさらに考えた。

「清氏が石清水八幡宮へ願書を納めた可能性がある」

ひそかに神社の長へ尋ねた。

「先日、清氏から封をした願書と神馬が送られ、神殿へ納めました」

との返事だった。

義詮は、

「疑わしいことがある。願書を持参せよ」

と命じた。

願書を見ると、

  • 義詮の命を奪い
  • 清氏が天下を取る

という意味の祈願だった。

義詮の疑いは、ますます深くなった。


道誉が湯治へ下る

義詮は、

「清氏を、どのように討つべきか」

を道誉と相談した。

道誉は突然病気と称し、湯治のため有馬へ下った。

数日後、清氏は寺院普請のため、武装兵三百騎余りを率し、天龍寺へ行った。


義詮が今熊野へ立てこもる

義詮は聞いて言った。

「道誉と相談したことが、すでに清氏へ漏れたのだろう」

「清氏が攻め寄せるに違いない」

「京都で小勢のまま戦うことはできない。要害へ入ろう」

9月21日の夜中、義詮は今熊野へ立てこもった。

橋を落とし、

  • 逆茂木
  • 陣門

を整えた。

今川氏・宇都宮氏らが駆けつけた。

京都では事情が分からないまま、武士が東西へ走り、人々が逃げ惑った。


清氏が弁明する

清氏は天龍寺で京都の騒ぎを聞いた。

初めは、

「この時期に京都で大事件が起こるはずがない」

と気にしなかった。

しかし自分が討伐対象だと知ると、三百騎余りで天龍寺を出た。

弟の僧・愈侍者を今熊野へ送り、申し上げた。

「京都の騒動が何か知らず、急いで参りました」

「清氏の問題と聞きました」

「どのような罪でしょうか」

「偽りの讒言によって死罪とされれば、政治の乱れとなり、敵から笑われます」

「調査によって罪の有無を決められるならば、首を差し出して軍門へ参ります」


義詮は返答しない

義詮は、

「清氏が長く謀反を企てていたことは、すでに明らかである」

として、使者へ会わず、一言の返事もしなかった。

使僧は顔色を失い、退出した。


清氏が戦闘準備をする

清氏は、

「もはや弁明する言葉もない」

「討手が来るだろう。一矢を射て腹を切ろう」

と覚悟した。

  • 弟・細川頼利
  • 大夫将監家氏
  • 兵部太輔将氏
  • 仁木頼夏
  • 兵部少輔氏春

ら六人とともに中門へ出た。

武装を固め、旗を立て、馬の腹帯を締めた。

家臣たちも集まり、七百騎余りとなった。


義詮方は攻めてこない

今熊野へは初め五百騎余りが集まり、

「清氏討伐の大将となりたい」

と勇んでいた。

しかし清氏が七百騎余りで待ち構えていると聞くと、意気を失った。

寺坊や民家へ入り、逃げ道となる山の方ばかり見た。

清氏は二日間、兜の緒を締めて待った。

しかし攻める敵は現れなかった。


若狭へ向けて京都を去る

清氏は考えた。

「京都で兵を集め、戦おうとしたこと自体、狼藉と見られる」

「一度京都を離れ、後から弁明しよう」

9月23日の早朝、若狭を目指して京都を出た。

仁木頼夏と細川家氏は、京都へ残った。


主君へ弓を引かないための退去

郊外の家臣たちが追いつき、尋ねた。

「義詮殿の軍勢は五百騎にも満たないと聞きます」

「なぜ、この大軍で京都をお捨てになるのですか」

清氏は馬を止め、答えた。

「初めから将軍へ向かって戦うつもりならば、臆病な寄せ集め五百騎など、相手にするほどでもない」

「君臣の道では、死んでも主君へ逆らってはならない」

「そのため一度退き、後に弁明しようと思った」

「何とも情けない姿を人へ見せたことが悲しい」

「自分の命は惜しくない」

「讒言する者が政治を乱し、義詮殿が天下を失われることを、死後に見聞きすることこそ悲しい」

清氏は涙を流した。

従う兵も、鎧の袖を濡らした。


弟たちを京都へ帰す

千本を過ぎ、長坂へ向かう途中、清氏は弟と従弟を呼んだ。

「兄弟として、私の最後を見届けようと、ここまで従ってくれた心は、万の宝より重い」

「しかし私は讒言によって、不意の処罰へ沈もうとしている」

「あなたたちは讒言を受けた身ではなく、将軍から疑われてもいない」

「理由もなく私と都を落ち、道で死ぬことは、後の災いを残す」

「ここから将軍へ戻り、私の本心を申し開き、父祖の家を失わないようにしなさい」

「それが私を助ける計略であり、自分たちの身を立てる道である」

二人は涙を流し、

「京都へ戻っても、讒言する者が主君のそばにいる世で、いつまで身を保てるでしょう」

「将軍から疑われ、世間から指を差されるくらいならば、どこまでも御一緒し、最後を見届けたい」

と答えた。

清氏は、

「それでは、私にも謀反の意図があったと世間から思われる」

「真実の心があるならば、後日また連絡を取りなさい」

と、強く帰還を命じた。

二人は泣きながら別れ、京都へ戻った。


京都へ平穏が戻る

京都の人々は、

「戦いとなれば民家は一軒も残らない」

と恐れていた。

しかし清氏が戦わず都を去ったため、9月24日、義詮は今熊野から元の御所へ戻った。

清氏の家臣たちは、屋敷を替え、身を隠した。

昨日の楽しみが、今日は夢となったようだった。

世の移り変わりは今に始まったものではない。

それでも、不思議な事件だった。


305. 頓宮氏の裏切りと、畠山道誓の関東での反乱

若狭小浜城

若狭国は、近年細川清氏が支配した国だった。

頓宮四郎左衛門が以前から在国し、小浜へ堅固な城を築き、数万石の兵糧を積んでいた。

清氏は小浜へ着き、城と軍勢を見た。

「平地で戦っても、城へ立てこもっても、一、二年で簡単に落とされることはない」

と考えた。


二方向から討手が来る

尾張左衛門佐氏頼が討手の大将となり、北陸道勢三千騎余りを率して、越前から椿峠へ向かった。

仁木三郎も搦手の大将となり、山陰道勢二千騎余りで丹波から逆谷へ向かった。


中間八人だけで敵を追い払う

清氏は笑った。

「何と哀れな者たちだ」

「この程度の敵ならば、力の強い下人二、三人へ杉の棒を持たせて送るだけでも十分だ」

「まず敦賀へ先陣として入った朝倉軍を追い散らせ」

中間八人だけを送った。

八人は敦賀へ紛れ込み、浜辺の民家十軒余りへ火を放ち、鬨の声を上げた。

朝倉軍三百騎余りは驚いた。

「清氏の大軍が来た」

と思い、矢を一本も射ず敦賀を退いた。

兵たちは馬や武具まで捨て、越前国府へ逃げた。

人々は、

「清氏が考えたとおりになった」

と笑った。


清氏自身が出陣する

氏頼は激怒し、10月29日、大軍で椿峠へ向かった。

清氏は、

「今度は一人も生かして帰さない」

「自分が出なければならない」

として、城へ頓宮四郎左衛門を残した。

弟の細川頼利とともに五百騎余りで正面の敵へ向かった。


頓宮氏の裏切り

敵陣は険しい場所にあった。

清氏は、

  • 待って戦うか
  • 攻めるか

考え、まだ決戦していなかった。

その時、特に深い恩を受け、決して裏切らないと頼りにしていた頓宮四郎左衛門が、突然心を変えた。

城へ旗を掲げ、城門を開き、背後から寄せ手を引き入れた。

清氏へ従う兵は戦う力を失い、四方へ逃げた。

腐った縄で六頭の馬をつないでも止められないように、当時の武士の心ほど頼りないものはなかった。


二騎で京都へ戻る

勇士として名高い清氏も、

「この状況では勝てない」

と判断した。

弟の頼利と二騎だけで篠峰越えを通り、京都へ紛れ込んだ。

一夜も京都へ隠れられないと考え、兄弟は別々となった。

清氏は東坂本へ向かい、一日馬を休めてから天王寺へ下った。

頼利は夜中に京都を通り、大渡を経て、約束どおり天王寺へ着いた。


南朝へ降伏する

清氏は、すぐ石塔頼房へ使者を送った。

「讒言する者の訴えによって、罪なく死罪へ処せられようとしたため、身を置く場所がなくなりました」

「天皇の恩を受け、南朝の軍門へ降伏いたします」

「以前からの交わりもあるため、あなたを頼ります」

「どうか適切にお取り計らいください」

石塔頼房は使者と会い、

「これは夢か、現実か」

と涙を袖で拭った。

すぐ参内し、事情を奏上した。


南朝から許される

左右大臣は相談した。

「敵将が首を差し出し、天皇の徳へ降伏してきた」

「天皇の恩が、どうして憐れまないだろうか」

「軍門へ慎んで仕え、朝敵征伐の忠義を尽くすよう命じるべきである」

恩赦の綸旨が出された。

石塔頼房は喜び、清氏と対面した。

二人は言葉もなく、涙に咽んだ。

しばらくして、

「世の移り変わりは今に始まったことではありません」

「それでも思いがけず再会できたことは、長年の望みでした」

と挨拶を交わした。

その姿は、秦の章邯が趙高の讒言を恐れ、項羽へ降伏した時のようだった。


各地で同調者が起こる

  • 仁木頼夏は京都から伊勢へ下り、清氏へ従う
  • 細川氏春は京都から淡路へ入り、国内勢を集め、船で堺へ向かう

と伝えられた。

摂津国の松山氏も香下城を築き、南朝方と連絡し、播磨路をふさいだ。

京都では、

「一方ならぬ反乱である」

「天下の乱が始まった」

と、不安に思わない者はいなかった。


関東からの急報

義詮は畿内の反乱を聞いても、

「近国が反乱しても、関東が静かならば、八か国の軍勢を上らせて討てる」

と、特に慌てなかった。

しかし康安元年11月13日、関東から急使が来た。

「畠山道誓と弟の義深が敵となり、伊豆国へ立てこもりました」

「東国の道がふさがれ、軍勢を招集できません」


畠山に対する関東武士の反発

原因を調べると、二年前の冬、畠山道誓が南朝征討の大将として上洛した時、関東八か国の大小の武士を、ほとんど残らず連れていった。

軍勢は長旅と長期滞陣に疲れ、馬や武具を売るほど困窮した。

耐えられなくなった者たちは、道誓へ許可を求めず、次々に本国へ帰った。


所領没収

ずっと後になって道誓が関東へ戻ると、無断で帰国した武士の所領を没収した。

武士たちが訴えても聞き入れなかった。

たまに訴えを取り次ぐ奉行がいると、激しく怒り、追い返した。

訴人は道誓の門前へ集まり、恨みを抱かない者はいなかった。


千人余りの強訴

主だった武士千人余りは神水を飲み、盟約した。

「畠山道誓を執事から解任し、今後、その命令へ従わない」

と、足利基氏へ訴えた。

下の者が上の者を追い落とそうとする強訴は、下剋上の極みだった。

基氏も心の中では怒った。

しかし彼らへ背かれれば、関東は一日も安定しない。


基氏から道誓への通告

基氏は道誓へ使者を送り、告げた。

「二年前の上洛では、南朝討伐より、仁木義長を討つことを主目的とした」

「これは第一の陰謀ではないか」

「その後、関東へ帰り、罪のない多くの者の所領を没収した」

「基氏を天下の人々へ背かせ、世を乱そうとする企てだろう」

「反逆が明らかとなった以上、一日も基氏の門下へ置くことはできない」

「すぐ退出せよ」

「遅れれば討手を送る」


畠山兄弟、伊豆へ逃れる

道誓は鎌倉にいた。

「弁明しても許されない」

と考えた。

兄弟五人と家臣を率し、三百騎余りで伊豆国へ逃れた。

小田原宿へ着いた夜、土肥掃部助が言った。

「敵となって逃げる者へ、矢を一本も射ないことがあるだろうか」

主従八騎だけで宿へ攻め寄せ、風上から火を放ち、煙の下から斬り込んだ。

畠山方の遊佐・神保・斎藤・杉原氏が出て、追い払った。

「わずか八騎だったのか」

と、戦いの後には笑い合った。


修禅寺城へ立てこもる

畠山軍は後陣へ矢を射ながら、その夜、小田原を離れ、伊豆の修禅寺城へ立てこもった。

さらに弟の義深が信濃へ越え、諏訪氏と協力して敵となったと伝えられた。

京都の人々は、

「東国・西国・東山道が、一度に蜂起した」

と騒いだ。