峯村部材店主

太平記 13巻

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巻第十三|目次

※読み方:軍勢の数、超人的な戦闘、瑞兆、神仏の加護、怪異、因果応報などは、『太平記』本文の叙述であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定が一般的な歴史叙述や現存史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、尺・寸・丈・町・斗など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。一方、中世・中国説話の「里」や当時の貨幣は単純に現代単位へ換算しない。


99. 天馬の献上――万里小路藤房が告げた乱世の前兆


二条高倉に造られた馬場殿

皇居の西側にあたる二条高倉に、馬場殿と呼ばれる離宮が急いで造られた。

後醍醐天皇はたびたびここへ出かけた。

和歌や舞楽、蹴鞠を楽しむ合間には、弓術や馬術に優れた武士を呼び、競馬を行わせ、笠懸を射させて楽しんだ。


塩冶高貞が「龍馬」を献上する

そのころ、佐々木一族の塩冶高貞(佐々木塩冶判官高貞)から、

「これは龍馬でございます」

として、月毛の立派な馬が献上された。

『太平記』本文では、この馬の体高を4尺3寸ほど(約1.3m)とする本文系統があり、並外れた名馬として描いている。

月毛とは、淡い黄色やクリーム色に見える毛色である。

その馬の姿は、確かに普通の馬とは大きく異なっていた。

骨格はたくましく、筋肉は太く引き締まり、無駄な肉がなかった。

首は鶏のように高く立ち、豊かな鬣は膝を越えるほど長かった。

背は竜のように力強く、42か所に渦巻く毛が背筋に沿って並んでいた。

両耳は薄く剥いだ竹のようにまっすぐ天を指し、2つの目は大きな鈴を掛けたように輝きながら、鋭く地面を見下ろしていた。


出雲から京都まで1日で走る

この馬は、朝の卯の刻(午前5〜7時ごろ)に出雲国の富田を出発し、夕方の酉の刻の初め(午後5時ごろ)には京都へ到着したという。

その道のりは76里にも及んだと『太平記』は記す。ここでの「里」は中世の里程であり、現在のkmには単純換算しない。

鞍に乗った者は激しい揺れを感じず、ただ静かに座っているようだった。

しかし走る速さがあまりにも激しく、正面から吹きつける風には耐えられなかったという。


宮中で大切に飼われる

馬は宮中の左馬寮へ預けられた。

朝には宮中の池で水を飲ませ、夕方には美しい厩で飼料を与えた。

当時、天下一の馬術の名人といわれていた本間孫四郎が呼ばれ、この馬へ乗ることになった。


双六盤の上にも立てる馬

本間孫四郎が乗って動かしてみると、その身のこなしは普通の馬とは比べものにならなかった。

4本の脚を縮めれば、双六盤ほどの狭い場所にも立つことができた。

『太平記』本文では、1度鞭を当てれば幅10丈(約30m)もある堀さえ飛び越えられそうだったという。

人々は、

「本物の天馬でなければ、これほどの速さと力を持つ馬はいないだろう」

と驚いた。

後醍醐天皇も、これ以上ないほど喜んだ。


天皇が吉凶を尋ねる

ある時、後醍醐天皇が馬場殿へ出かけ、再びこの馬を見物した。

公卿たちも左右に控えていた。

天皇は、洞院公賢(洞院相国)へ尋ねた。

「昔、中国には屈産の名馬や、項羽が乗った騅のように、1日に1,000里を走る馬がいたという。

しかし日本に天馬が現れたとは、これまで聞いたことがない。

それなのに、私の治世になって、この馬が求めてもいないのに現れた。

これは吉兆なのか、それとも凶兆なのか」


洞院相国は吉兆だと答える

洞院相国は答えた。

「これは陛下の聡明な徳によるものでなければ、天がどうして、このようなめでたいしるしを下すでしょうか。

古代中国の舜帝の時代には鳳凰が現れ、孔子の時代には麒麟が現れたといいます。

中でも天馬が聖なる君主の時代に現れることは、第1の吉兆でございます」


周の穆王と8頭の天馬

洞院相国は、中国の周の穆王の故事を語った。

※以下の穆王・慈童の物語は、『太平記』が引く中国・仏教説話であり、史実として述べるものではない。

「昔、周の穆王の時代に、8頭の天馬が現れました。

穆王はこの馬に乗り、国の果てから世界の果てまで、行けない場所はなかったといいます。

ある時には、西方10万里の山や川を一度に越え、インドの舎衛国へ到着しました」


穆王が釈迦の説法を聞く

そのころ釈迦は、霊鷲山で法華経を説いていた。

穆王は馬から降り、説法の場へ入った。

釈迦を礼拝し、一方の席へ座った。

釈迦は尋ねた。

「あなたは、どこの国の人ですか」

穆王は答えた。

「私は中国の王です」

釈迦はさらに言った。

「よくこの説法の場へ来ました。

私には国を治める教えがあります。

これを受け、守るつもりはありますか」

穆王は答えた。

「喜んで信じ、教えのとおりに実行し、民を治め、国を安らかにする功徳を積みたいと思います」


国を治める8句の教え

釈迦は中国の言葉を使い、8句からなる偈を穆王へ授けた。

それは現在の法華経の中にも、政治と仏法の深い教えとして伝わっている秘密の文だという。

穆王は中国へ戻った後、その教えを心の奥深くに秘め、世間へは伝えなかった。


穆王に仕えた慈童

そのころ穆王は、慈童という少年を特にかわいがっていた。

慈童は、いつも王のそば近くに仕えていた。

ある時、慈童は穆王の空いている席の近くを通り、誤って穆王の枕の上をまたいでしまった。

家臣たちは相談した。

「先例を考えれば、この罪は軽くない。

しかし故意に行ったことではないので、死刑を一段軽くし、遠国へ流すべきである」

こうして慈童は、深い山へ流されることになった。


生きて帰れない山へ流される

その土地は都から300里も離れていたと物語られる(中国説話中の里程で、現在のkmには換算しない)。

山は深く、鳥さえ鳴かなかった。

雲に覆われ、虎や狼が満ちていた。

1度この山へ入った者が、生きて帰った例はないといわれていた。

穆王は、それでも慈童を哀れに思った。

そこで釈迦から授かった8句のうち、観音経に含まれる2句を、ひそかに慈童へ教えた。

「毎朝、十方へ1度ずつ礼拝し、この文を唱えなさい」

と命じた。


菊の葉に書いた経文

慈童は深い山と谷の中へ捨てられた。

それでも王の命令に従い、毎朝その経文を1度唱えた。

しかし、

「いつか忘れてしまうかもしれない」

と思い、近くに生えていた菊の葉へ、その文を書きつけた。


菊の露が不老不死の霊薬となる

菊の葉に置いた露が少しずつ滴り、谷を流れる水へ落ちた。

すると谷の水は、すべて天上の霊薬となった。

慈童が喉の渇きを覚えてこの水を飲むと、その味は天の甘露のようで、あらゆる珍しい料理にも勝っていた。

さらに天人が花を持って現れ、鬼神たちも手をついて慈童へ仕えた。

虎や狼を恐れる必要もなくなった。

慈童は、ついには肉体を仙人のものへ変え、不老不死となった。


谷の水を飲んだ人々も長寿となる

慈童だけではない。

この谷から流れ出る水を飲んだ300戸余りの人々も、病気が消え、不老不死に近い長寿を得た。

その後、800年以上が過ぎても、慈童の顔は少年のままで、少しも老いることがなかったという。


重陽の節句の始まり

慈童は後に、魏の文帝の時代になると、彭祖と名を変えた。

そして長寿の術を文帝へ教えた。

文帝はその教えを受け、菊の花を浮かべた酒を飲み、長い寿命を得た。

これが、9月9日に菊酒を飲んで長寿を願う重陽の節句の始まりだという。


天皇が即位する時に受け継ぐ経文

その後、中国では皇太子が天から帝位を受ける時、必ずこの経文を受けるようになった。

そのため観音経の普門品は、天皇が国を治めるための経典と呼ばれた。

この文が日本へ伝わると、歴代の天皇も即位の日に受けるようになった。

幼い天皇が即位する場合には、摂政が先にこの文を受け、政治を始める時に天皇へ授けた。

8句の偈はインド・中国・日本へと伝わり、国を治め、民を安らかにし、災いを除いて幸福を与える重要な教えとなったのである。


龍馬は仏法と王法の繁栄を示す

洞院相国は結論を述べた。

「この教えが伝わったことも、もとは穆王が天馬によってインドへ行けたからです。

したがって今回の龍馬の出現も、仏法と王法が栄え、天皇の御代が長く続くことを示す吉兆でございます」

後醍醐天皇をはじめ、その場の公卿たちは皆、この説明に納得した。

誰もが天馬の出現を祝い、喜んだ。


万里小路藤房が参上する

しばらくして、万里小路藤房(中納言)が参上した。

藤房が席につくと、後醍醐天皇は再び尋ねた。

「天馬が遠くから来たことについて、吉兆か凶兆か、諸臣の意見はすでに聞いた。

藤房は、どのように考えるか」


藤房は凶兆だと答える

藤房は答えた。

「天馬が日本へ現れたという例は、昔から今まで聞いたことがございません。

そのため善悪や吉凶を、先例によって判断することは難しいでしょう。

しかし私なりに考えますと、これは吉兆ではないと思われます」


漢の文帝は1,000里の馬を返した

藤房は中国の故事を挙げた。

「昔、漢の文帝の時代に、1日に1,000里を走る馬を献上した者がいました。

公卿や大臣たちは、その馬を見て祝いました。

しかし文帝は笑って言いました。

私が吉日の行幸で進むのは1日に30里、凶事の時には10里ほどである。
前には天皇の車が進み、後ろには多くの供の車が続く。
私1人が1,000里を走る馬に乗って、いったいどこへ行くというのか。

文帝は献上した者へ旅費だけを与え、馬を返しました」


光武帝も名馬を重んじなかった

「後漢の光武帝の時にも、1,000里を走る馬と宝剣を献上した者がいました。

しかし光武帝は、それを特別な宝とは考えませんでした。

馬は太鼓を運ぶ車につながせ、剣は普通の騎兵へ与えました」

名君は珍しい馬や宝物に心を奪われなかったのである。


天馬を愛した穆王の時代には国が衰えた

「一方、周王朝が衰えようとしていた時、馬をつかさどる星が地上へ降り、8頭の馬となりました。

穆王はそれを愛し、造父という名人に馬を操らせ、世界の果てまで遊び歩きました。

瑶池で遊び、碧台で宴会を開きました。

そのため先祖をまつる祭りは年を追うごとに衰え、朝廷の重要な儀式も日々廃れていきました。

こうして周王朝の力は傾き始めたのです」


捨てた君主は栄え、愛した君主は衰えた

「文帝と光武帝は名馬を重んじなかったため、長く国を栄えさせました。

穆王は天馬を愛したため、王朝は衰え始めました。

同じ名馬でも、それを捨てるか愛するかによって、吉凶が明らかに分かれています」


珍しい物は君主の心を乱す

藤房は言った。

「古い言葉に、

珍しく美しい物そのものが災いなのではない。
君主の心を乱す時、初めて害となる。

とあります。

現在、政治が正しく行われていないため、馬をつかさどる星の精が、この馬へ姿を変え、人々の心を惑わそうとしているのではないでしょうか」


戦乱後の民は疲れ切っている

「大乱が終わったばかりで、民は疲れ、人々は苦しみ、天下はまだ安定していません。

政治を行う者は、食事を中断してでも人々の訴えを聞くべき時です。

天皇をいさめる臣下も、書状を差し出して君主の誤りを正すべき時です。

ところが公卿たちは遊びにふけり、世の中が治まっているかどうかを見ようとしません。

群臣は天皇の御意向へ迎合し、国が安全か危険かを申し上げません」


訴訟をやめて故郷へ帰る人々

「記録所や雑訴決断所へ集まっていた訴人は、日ごとに減っています。

訴状や相手方の答弁書も、処理されず放置されています。

公卿たちはこれを見て、

『舜の時代のように訴訟がなくなった』

『人々が政治をいさめる太鼓を打つ必要もなくなった』

『無為の徳が天下へ広がり、民は皆、平和な政治を喜んでいる』

と思っているようです。

何と悲しい思い違いでしょうか」


武士たちは恩賞を得るため朝廷方についた

「元弘の大乱(1331〜1333年)が始まった時、天下の武士が朝廷軍へ加わったのには、ほかでもない理由がありました。

戦いに勝ち、軍功への恩賞を得たいと思ったからです。

天下が平定された後、忠義を立てたとして恩賞を望む者は、何千、何万というほどで、その数は分かりません。

しかし公家に仕える者以外で、まだ恩賞を受けた者はほとんどいません」


訴えを諦めたのは政治に満足したからではない

「彼らが申請書を捨て、訴えをやめたのは、自分に功績がないと思ったからではありません。

軍功が認められないことを恨み、政治が正しくないことへ怒り、皆、自分の国へ帰ってしまったのです」


雍歯へ先に恩賞を与えた故事

「この状況を知った諫臣は、漢の高祖が雍歯へ先に恩賞を与えた故事にならうべきです。

高祖は雍歯を嫌っていました。

しかし雍歯ほどの者にも恩賞を与えれば、ほかの功臣たちも、

『自分たちも必ず報われる』

と安心すると考え、あえて先に褒美を与えました。

今も功績ある武士へ恩賞を与え、その不満を解消するべきです」


さらに大内裏造営の負担を課す

「ところが朝廷は、まず大内裏を造営すると決めました。

そして全国の地頭から、所領収入の20分の1を徴収しています。

武士たちは戦乱による疲弊のうえに、新たな負担まで課されたことを悲しんでいます」


国司が強くなり、守護が弱くなる

「諸国では守護の力を弱め、国司の権限を強くしています。

そのため正式な役職さえ持たない、身分の低い国司の代理人たちが、貞応年間(1222〜1224年)以後に新しく成立した荘園を取り上げています。

在庁官人、検非違使、健児所なども、身分不相応なほど強い勢力を持つようになりました」


「御家人」の呼び名まで廃止される

「諸国の武士が名乗ってきた御家人という呼称は、源頼朝の時代から長く続く、名誉ある武士の称号です。

ところが今の朝廷は、その呼び名まで廃止しました。

名門の大名や有力武士は、たちまち普通の民と同じ身分にされたと感じています。

その怒りは、どれほど大きいでしょうか」


天下を平定した5人の功臣

「今回、天の運によって朝敵が滅びたとはいえ、実際に天下を平定し、天皇のお心を安心させたのは、

  • 足利高氏(のちの足利尊氏)
  • 新田義貞
  • 楠木正成
  • 赤松則村(円心)
  • 名和長年

であります。

この者たちを漢の功臣に比べれば、韓信・彭越・張良・蕭何・曹参にあたります。

唐の名臣に比べれば、魏徴・房玄齢・虞世南・杜如晦・李勣にあたるでしょう」


赤松円心への不公平な処遇

「彼らが義を重んじ、忠義を尽くした働きに、優劣をつけることはできません。

本来ならば、恩賞も爵位も同じように与えられるべきです。

ところが赤松円心だけは、わずかに元の所領1か所を認められただけです。

1度与えられた播磨国の守護職まで取り上げられました。

円心に、いったいどのような罪があったのでしょうか」


賞罰が正しくなければ人は離れる

「古い言葉には、

功績にふさわしい賞を与えれば、忠義ある者が進んで働く。
罪にふさわしい罰を与えれば、罪を犯す者が退く。

とあります。

現在の政治は、恩賞が功績に合っていないと非難されるだけではありません。

一度口にした天皇の言葉を、すぐに取り消すという問題まであります」


武家の棟梁が現れれば武士は集まる

「もし今後、武家の棟梁となる力を持った人物が現れ、

『朝廷の政治は不公平である』

と訴えたならば、恨みを抱き、政治を疑っている全国の武士たちは、食糧を背負い、呼ばれなくても集まるでしょう。

そのことに疑いはありません」


天馬が必要になるのは大乱の時

「そもそも天馬を何に使うのでしょうか。

徳のある政治が広がる速さは、駅馬を置いて命令を伝えるよりも速いといいます。

正しい政治を行うならば、この馬を使う必要はありません。

使い道があるとすれば、大きな反乱が突然起き、遠国へ急いで知らせを送る時だけでしょう」


天馬は大乱への備えとして現れた

「つまり、この馬は天下が平穏となった朝廷へ現れながら、前もって大乱への備えを用意していることになります。

どうして、これを不吉な前兆ではないといえるでしょうか。

珍しい物をもてあそぶことをやめ、慈しみある政治を行うことに勝るものはありません」


後醍醐天皇が不機嫌になる

藤房は、誠意を尽くし、何一つ隠さずに意見を申し上げた。

しかし後醍醐天皇の顔には、少し怒りの色が現れた。

周囲の家臣たちも皆、顔色を変えた。

それまで楽しかった酒宴も興ざめとなり、その日の遊びは中止されたという。

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100. 万里小路藤房の出家――諫言を聞き入れない朝廷を去る


藤房の諫言は聞き入れられない

万里小路藤房は、その後も繰り返し後醍醐天皇へ諫言を申し上げた。

しかし天皇は、最後まで藤房の意見を受け入れなかった。

大内裏の造営計画も中止されなかった。

宮中では美しい敷物を敷き、華やかな宴会や遊びが、なおも頻繁に開かれていた。


臣下としての務めを尽くした

藤房は、これ以上天皇をいさめることができないと悟った。

そして考えた。

「臣下として果たすべき務めは、私なりにすべて尽くした。

それならば今は、政治の世界から身を引くほかない」

藤房は、官職も家族も捨てて出家することを決意した。


石清水八幡宮への行幸

『太平記』本文では、建武元年(1334年)ごろの出来事として、3月11日に後醍醐天皇が石清水八幡宮へ行幸したと描く。

※万里小路藤房の出家は、一般の歴史叙述でも建武元年(1334年)とされる。ただし、ここでの3月11日という日付や出家までの細かな経緯は、『太平記』の叙述に沿っている。

公卿たちは皆、道中の衣装や行列の準備に力を入れた。

藤房も当時、検非違使別当という重要な役職にあった。

そのうえ、

「これが人生で最後の天皇へのお供になる」

と思っていた。

そのため藤房の一行は、見る者が皆驚くほど華やかに装った。


藤房の華やかな行列

行列の先頭には、警備を担当する看督長16人が並んだ。

飾りのついた冠をかぶり、薄紅色の上着と白い袴を身につけ、整然と進んだ。

その後には、走って道を整える下役8人が、同じ家紋の水干を着て2列に並んだ。


藤房の装束

藤房は、巻纓の冠に飾りをつけ、正式な武官の装束を身につけていた。

蒔絵を施した平鞘の太刀を腰に帯び、鳥の羽をつけた箙を背負っていた。

乗っていたのは、甲斐の大黒と呼ばれる、体高5尺3寸ほど(約1.6m)の太くたくましい名馬だった。

馬には美しい鞍を置き、水色の厚い房飾りをつけ、唐糸の手綱をゆったりと結んでいた。


100人を超える従者

馬の左右には4人の馬副が付き、その後に介添えの侍2人、舎人の雑色4人、童1人、調度を持つ者6人、舎人8人が続いた。

その後には直垂を着た従者100人余りが並んだ。

一行は高らかに先払いの声を上げ、道の人々を左右へ退かせながら進んだ。

藤房は、最後の公務にふさわしい堂々とした姿で、男山へ向かったのである。


栄華が過去となる日を思う

石清水八幡宮を遠くから拝む場所で馬を止め、男山を登る時、藤房は思った。

「今はこのように栄えている。

しかし明日からは、

『昔はこのような身分にあった人だ』

といわれる身になるのだ」

自分が間もなく官位も栄華も捨てることを思うと、感慨は深かった。


石清水で出家の決意を祈る

藤房は石清水の清らかな流れを見た。

そして、

「天皇の御代が、この水のようにいつまでも澄み、長く続きますように」

と祈った。

同時に、これまでとは異なる思いも抱いた。

「これからは、この水で自分の心の汚れを洗い、苦しい世の中の声から耳を清める生活へ入るのだ」

藤房は八幡大菩薩の前で、ひそかに読経して法の供養をささげた。

そして、

「仏道を求める心が固まり、速やかに悟りへ至りますように」

と祈った。

神仏が人間の世界へ姿を和らげて現れるように、明るい月が藤房の心の闇を照らしたのだろうか。

その決意は、ますます固くなった。


最後に天皇のそばへ仕える

1日の参拝が終わり、天皇が京都へ戻ると、藤房も出家する前の別れを告げるため、宮中へ参内した。

「天皇のお顔の近くへ進み、直接申し上げる機会は、今を逃せば2度とない」

と考えた。

藤房は特別な用事を告げることなく、天皇の前へ控えた。


忠臣と隠者の故事を語る

藤房は夜を通して、古代中国の人々の話を語った。

君主をいさめるため命を落とした竜逢比干の無念を語った。

また、正しい道を守るため国を捨てた伯夷叔斉の清らかな生き方についても申し上げた。

それは、自分が命をかけて諫言してきたことと、これから世を捨てる決意を、遠回しに天皇へ伝える最後の言葉だった。


夜明け前に宮中を去る

夜が明ける前、藤房は宮中を退出した。

大内山を照らす月も、藤房の涙によって曇り、かすんで見えた。

藤房は宮中の門を出ると、乗ってきた牛車を屋敷へ帰した。

そして侍1人だけを連れ、京都の北山にある岩倉という場所へ向かった。


岩倉で出家する

岩倉では、不二房という僧を戒師として招いた。

藤房は長年、公家として身につけてきた冠と装束を脱いだ。

髪を剃り、十戒を守る僧の姿となった。


妻子と両親を捨てた発心

貧しく年老いた者でさえ、長く暮らした家や、愛する家族との縁を捨てることは難しい。

まして藤房は、官位も収入も低くなかった。

年齢もまだ40歳に届いていなかった。

そのような人物が妻子から離れ、父母を捨て、山や川を巡る修行者となる。

これは、めったにないほど強い出家の決意だった。


後醍醐天皇が藤房を捜させる

藤房が出家したという話は、後醍醐天皇の耳へ届いた。

天皇は限りなく驚いた。

そして藤房の父である万里小路宣房へ命じた。

「藤房の居場所を急いで捜し出せ。

再び政治を助ける臣下として戻すように」


父・宣房が岩倉へ急ぐ

宣房は泣きながら牛車を急がせ、岩倉へ藤房を捜しに行った。

ところが中納言入道となった藤房は、その日の朝までは岩倉の坊にいたが、すでに立ち去っていた。

藤房は考えていた。

「ここは、まだ都に近すぎる。

世間の人々が訪ねてきて、俗世の話をすることもあるだろう。

それでは本当の出家生活にはならない」

そこで行き先も告げず、自分の足に任せて旅立ったのである。


「今朝までここにいました」

宣房は岩倉の坊へ到着し、主の僧へ尋ねた。

「このような姿の人が、ここにいなかったか」

僧は答えた。

「その方なら、今朝までここにいらっしゃいました。

しかし、

『諸国を歩いて修行したい』

とおっしゃり、どちらへともなく出ていかれました」


破れた障子に残された歌

宣房は悲しみの涙をぬぐいながら、藤房が捨てた庵室を見回した。

すると破れた障子の上に、1首の歌が書き残されていた。

住み捨つる
山を浮世の
人問はば
嵐や庭の
松に答へん

その意味は、

私が住み捨てたこの山を、
俗世の人が訪ねてきて、
私の行方を尋ねたならば、
庭の松を吹く嵐だけが、
代わりに答えるだろう。

というものだった。

藤房は、誰にも行方を知らせず、俗世間との縁を完全に断とうとしていた。


「恩を捨てることが、本当の報恩である」

歌の下には、

恩を捨てて無為の境地へ入る者こそ、真に恩へ報いる者である。

という意味の仏教の言葉が書かれていた。

さらに、中国の黄檗大義渡が作ったという古い漢詩も記されていた。

白髪の親は、幾重もの山の彼方を見つめ、
遠く去った子の姿を待ち続ける。
長い年月を重ねても、親の恩をすべて返し尽くすことはできない。
親を憎み、五逆の罪を心に抱いて出家するのではない。
真に出家して仏道を成し遂げることこそ、
親の恩へ報いる最も難しい道なのである。


生きている間の再会を諦める

宣房は、この歌と漢詩を読んだ。

そして、

「藤房がどこの山にいるとしても、生きている間に再び会うことはできないだろう」

と悟った。

息子を恋い慕う涙にむせびながら、何も得ることなく京都へ帰った。


父・万里小路宣房の善行

万里小路宣房は、吉田大弐資経の孫で、藤三位資通の子だった。

まだ高い官職についていなかったころ、宣房は5部の大乗経を書き写した。

1文字を書くたびに3度礼拝するという、非常に丁寧な方法で写経し、供養を行った。

そして子孫の繁栄を祈り、春日大社へ奉納した。


春日明神から届いた夢の手紙

その夜、宣房は不思議な夢を見た。

黄色い衣を着た神が現れた。

神は榊の枝へ手紙をつけ、宣房の前へ置いた。

宣房が、

「どのような手紙だろう」

と思って開くと、表には、

万里小路一位殿へ

と書かれていた。

手紙の中には金色の文字で、

速やかに、この上ない悟りを得る。

と記されていた。


宣房は官位と来世の幸福を予想する

夢から覚めた宣房は、静かに意味を考えた。

「私は朝廷へ仕え、将来は一位の位へ上がるに違いない。

また金色で書かれた言葉は、写経の功徳によって、死後には善い世界へ生まれ、悟りを得ることができるという意味だろう」

宣房は、現世での成功と来世での救いの両方がかなうように感じ、心強く思った。


父は従一位となり、子は出家した

果たして元弘年間の末(1333〜1334年ごろ)、宣房は一族で長く途絶えていた従一位の位へ上った。

夢の手紙にあった、

「万里小路一位殿へ」

という言葉は実現した。

一方、手紙の中に金色で書かれていた、

「速やかに悟りを得る」

という言葉は、息子の藤房が出家し、仏道を成し遂げる縁があることを、春日明神が示したものだったのだろう。


100年の栄華と一念の発心

100年続くほどの栄華であっても、風の前に舞う塵のようにはかない。

しかし1度、心から仏道を求める決意を起こせば、それは死後の世界を照らす灯となる。

仏は、

1人の子が出家すれば、過去7代の父母も皆、仏道を成し遂げる。

と説いている。

藤房1人が心から出家したことによって、7代にわたる父母や先祖も、ともに悟りへ至ることができる。

宣房にとって息子との別れは深い悲しみだった。

しかしその悲しみの中には、先祖まで救われる大きな喜びもあった。

知恵ある人々はこの話を聞き、

「藤房は、神仏から第1の恵みを受けた人物である」

と感嘆したのである。

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101. 西園寺公宗の陰謀――北山殿で企てられた天皇暗殺

※この章は建武2年(1335年)の西園寺公宗の陰謀を扱う。公宗は史実上も1335年8月2日に処刑されたとされるが、「早」という1言を取り違えて斬ったという最期の細部は、『太平記』本文の物語として読む。


北条泰家が生き延びていた

亡くなった北条高時の弟である北条泰家(四郎左近大夫入道)は、元弘3年(1333年)の鎌倉合戦で、自害したように見せかけ、ひそかに鎌倉を脱出していた。

しばらく奥州に隠れていたが、人に正体を知られないよう僧の姿を捨て、俗人へ戻った。

そして京都へ上り、西園寺家を頼った。

初めて雇われた田舎武士のような姿を装い、西園寺家に仕えていたのである。


北条氏と西園寺家の古い関係

承久の乱(1221年)の時、西園寺公経は、ひそかに鎌倉幕府と連絡を取っていた。

その情報によって北条義時は戦いを有利に進め、朝廷軍を破ることができたとされる。

義時は、

「今後、子孫7代にわたり、西園寺家を大切にせよ」

と言い残した。

そのため鎌倉幕府は、代々、西園寺家をほかの公家とは異なる特別な家として扱った。

歴代の天皇の后も、西園寺家から選ばれることが多かった。

諸国の国司などの役職も、西園寺一族が数多く得ていた。

一族の中には太政大臣まで上り、最高位である従一位へ達する者も珍しくなかった。

それは長年、西園寺家が幕府から受けてきた大きな恩恵だった。


西園寺公宗の野望

西園寺大納言公宗は、

「何とかして、滅亡した北条高時の一族を再び立てたい」

と考えた。

北条氏にもう1度天下の権力を握らせ、自分は公家側の最高権力者として、全国を意のままに動かしたいと思ったのである。

そこで北条泰家を還俗させ、刑部少輔時興と名を改めさせた。

2人は朝から晩まで、朝廷を倒すための計画を練った。


時興が公宗へ挙兵を勧める

ある夜、政所にいた時興が西園寺公宗の前へ出て言った。

「国が栄えるか滅びるかを知るには、その政治が善いか悪いかを見るのが一番です。

政治の善悪を知るには、賢い臣下が用いられているか、退けられているかを見るのが一番です。

昔、中国では賢臣の微子が去ると殷王朝は傾き、軍師の范増が退けられると項羽は滅びました。

現在の朝廷にも、正しい政治を行える人物は万里小路藤房ただ1人でした。

その藤房が、将来の災いを見抜いて世を捨てました。

これは朝廷にとって大きな凶兆であり、西園寺家にとっては運が開けるしるしです。

すぐに決断なされば、旧幕府方の生き残りが4方から駆けつけるでしょう。

天下を覆すのに、1日もかからないはずです」


3方面で北条方が兵を挙げる

公宗は、

「確かにそのとおりだ」

と考えた。

そこで時興を京都方面の大将とし、畿内や近国の兵を集めさせた。

時興の甥である北条時行(相模次郎)を関東方面の大将とし、

  • 甲斐
  • 信濃
  • 武蔵
  • 相模

の兵を従わせた。

さらに名越時兼(名越太郎)を北陸方面の大将とし、

  • 越中
  • 能登
  • 加賀

の兵を集めさせた。

各地で同時に挙兵するため、合図の日も決められた。


天皇を落とす仕掛け

西園寺家では、西京から多くの大工を呼び寄せ、急いで湯殿を造らせた。

その脱衣場には、1間(約1.8m)ほどの板を踏むと床が落ちる仕掛けを作った。

床下には、多くの刀を切っ先を上へ向けて並べた。

後醍醐天皇が遊びのため西園寺邸へ行幸した時、

「唐の華清宮の温泉にならい、浴室で酒宴をいたしましょう」

と勧める。

そして天皇を床下へ落とし、刀で刺し殺そうという計画だった。


紅葉見物に天皇を招く

公宗らは、さまざまな陰謀を整え、兵も用意した。

そして後醍醐天皇へ、

「北山の紅葉をご覧になるため、どうか行幸してください」

と申し入れた。

天皇はこれを受け入れ、日を決め、行幸の準備を整えさせた。

やがて、

「明日の正午、天皇が北山へ行幸される」

と、関係者へ知らされた。


夢に現れた女性

その夜、後醍醐天皇がしばらく眠ると、不思議な夢を見た。

赤い袴に、鈍色の2枚重ねの衣を着た女性が1人現れ、申し上げた。

「前には怒り狂う虎や狼がいます。

後ろには猛々しい熊のような獣がいます。

明日の行幸は、お取りやめください」

天皇は夢の中で尋ねた。

「あなたは、どこから来た者なのか」

女性は答えた。

「私は長年、神泉苑の辺りに住んでいる者です」

そう言うと、女性は立ち去った。

間もなく天皇は夢から覚めた。


夢を気にしながら出発する

後醍醐天皇は、

「何とも不思議な夢だ」

と思った。

しかし、すでにすべてが決まっている行幸を、直前になって中止することもためらわれた。

そこで予定どおり鳳輦を出発させた。

ただし夢のお告げが気になったため、最初に神泉苑へ立ち寄り、竜神へ供え物をすることにした。


神泉苑の池に立つ白波

天皇が神泉苑へ行くと、池の水が突然変化した。

風も吹いていないのに、白い波が何度も岸へ打ち寄せた。

天皇はこれを見て、夢のお告げがますます不思議に思われた。

鳳輦をしばらく止め、行幸を続けるべきか考えていた。


公重が陰謀を知らせる

その時、竹林院公重(中納言)が急いで駆けつけ、申し上げた。

「西園寺大納言公宗が、ひそかに反乱を企て、天皇を陥れるために行幸をお勧めしたという知らせが、たった今届きました。

ここからすぐに宮中へお戻りください。

そして橋本俊季(中将)、春衡、文衡入道らを召し出し、詳しくお調べになるべきです」

天皇は、前夜の夢と、神泉苑の池に起きた異変を思い合わせた。

「やはり理由のあることだったのだ」

と考え、すぐに宮中へ戻った。


北山殿を包囲する

後醍醐天皇は中院定平(中将)に、結城親光(判官)名和長年(伯耆守)をつけ、命じた。

「西園寺大納言公宗、橋本中将俊季、文衡入道を捕らえて参れ」

勅命を受けた2,000騎余りの軍勢は、正面と裏手から北山殿へ押し寄せた。

そして屋敷の四方を、7重、8重に取り囲んだ。


公宗は騒がずに迎える

公宗は、

「ついに陰謀が発覚したのだ」

と悟った。

しかし、特に慌てる様子はなかった。

事情を知らない公宗の妻や女房、侍たちは、

「いったい何が起きたのか」

と慌て、逃げ惑った。

弟の橋本俊季は、官軍が迫るのを見ると、すぐに事情を察した。

俊季は1人で屋敷を抜け出し、裏山からどこへともなく逃げ去った。


公宗は讒言だと主張する

中院定平は、まず公宗と対面し、穏やかに勅命の内容を説明した。

公宗は涙を押さえながら答えた。

「私は優れた人物ではありません。

しかし亡き中宮とのご縁により、官位も収入も人に劣らないほどいただきました。

これは、すべて天皇の大きな慈悲と恩によるものです。

どうして陰に隠れて枝を折り、流れをくみながら水源を濁すような、恩を裏切る心を持つでしょうか。

考えてみれば、西園寺家は代々、ほかの家より高い官位と、大きすぎるほどの恩賞を受けてきました。

そのため名門公家の中には、我が家をねたむ者もいるのでしょう。

彼らがさまざまな讒言と作り話を重ね、西園寺家を滅ぼそうとしているのではないかと思います。

しかし天は真実をご覧になります。

偽りの悪評が、いつまでも天皇の耳を欺くことはできないでしょう。

まずは召し出しに従い、宮中へ参上して、罪の有無をお調べいただきます。

ただし俊季は、今朝すでに逃げ出したため、連れていくことはできません」


屋敷中を捜索する

官軍はこれを聞いて、

「やはり橋本中将を隠しているのだろう。

屋敷の中を徹底的に捜せ」

と言った。

数千人の兵が殿中へ乱入した。

天井や塗り込めた部屋を壊し、御簾や几帳を引き倒し、捜さない場所がないほど調べた。


紅葉の宴は大混乱となる

北山殿では、天皇を迎える紅葉の宴のため、楽人たちが楽器の調律をしていた。

彼らは装束を脱ぐ暇もなく、東西へ逃げ惑った。

また行幸を見物しようと集まっていた僧侶や一般の男女も、

「陰謀の仲間ではないか」

と疑われた。

大勢が捕らえられ、中には思いがけず処刑される者までいた。


公宗と文衡が捕らえられる

官軍は近くの山奥や岩の間まで捜した。

しかし俊季を見つけることはできなかった。

仕方なく、公宗と文衡入道を捕らえ、夜中に京都へ戻った。


文衡入道の処刑

公宗は中院定平の屋敷へ入れられた。

1間(約1.8m)ほどの部屋を牢のように造り、そこへ閉じ込められた。

文衡入道は結城親光へ預けられた。

3日間、昼も夜も厳しい拷問を受け、陰謀について残らず白状した。

そのため六条河原へ連れ出され、首をはねられた。


『太平記』では、公宗は出雲へ流されるはずだった

『太平記』本文では、公宗については名和長年へ引き渡し、出雲国へ流すことが朝廷で決定されたと語る。

「明日には必ず流刑地へ向かう」

と決まった日の夜、中院家から公宗の妻へ、そのことが知らされた。

妻は人目を忍び、泣きながら公宗が閉じ込められている場所へ向かった。


牢の中で対面する夫婦

警護の武士たちをしばらく遠ざけ、妻が牢のそばを見ると、狭い部屋に細かく縄を張り巡らせた中で、公宗が体を縮めていた。

起き上がることも横になることもできず、泣き沈んでいた。

妻の涙は袖に収まりきらず、体まで浮いてしまいそうなほど流れた。

公宗も妻の姿をひと目見ると、さらに涙にむせび、言葉を出すことができなかった。

妻も、

「どうして、このようなお姿になられたのですか」

とだけ言い、顔を覆って泣き伏した。


生まれてくる子へ琵琶の秘伝を託す

しばらくして、公宗は涙を押さえながら言った。

「私は今、引く者のない捨てられた小舟のように、深い罪の中へ沈もうとしている。

それだけでなく、あなたが身ごもっていると聞いた。

私のために悲しみ、どれほど苦しい思いをするのだろうと考えると、それさえ死後の迷いとなりそうである。

もし生まれる子が男子であれば、その将来を見捨てず、大切に育ててほしい。

これは我が家に伝わるものである。

生まれる前に亡くなった父の形見として、その子へ渡してほしい」

公宗は肌身につけていた守り袋から、琵琶の秘曲である、

  • 上原
  • 石上
  • 流泉
  • 啄木

の楽譜を記した1冊を取り出し、自ら妻へ渡した。


公宗が書き残した歌

公宗は、そばの硯を引き寄せ、楽譜の最初の紙へ1首の歌を書いた。

あはれなり
日影待つ間の
露の身に
思ひをかるる
石竹の花

その意味は、

日の光を待つわずかな間にも消えてしまう露のような、
はかない私の命である。
それなのに、生まれてくる我が子という石竹の花へ、
深い思いを残してしまうことが悲しい。

というものだった。

硯の水には涙が落ち、文字は薄墨となって、はっきり読めないほどだった。

公宗はこれを最期の形見として妻へ託した。

妻は悲しみをさらに深くし、言葉を出すこともできず、顔を上げないまま泣き続けた。


「早く」というひと言を誤解する

やがて役人が来て言った。

「今夜のうちに、まず名和長年のもとへお引き渡しし、明け方には流刑地へ向かわせます」

周囲は急に騒がしくなり、妻はその場を離れて物陰へ隠れた。

それでも夫のこれからが心配で、垣根の隙間から見守っていた。

名和長年は、公宗を受け取るため、武装した兵200〜300人を率いて庭へ並んでいた。

夜が深くなったため、役人たちは出発を急がせた。

公宗は縄取りに引かれ、中門へ出てきた。


名和長年、公宗を斬る

公宗が庭に置かれた輿へ乗ろうとした時、中院定平が名和長年へ、

「早く」

と言った。

長年は、それを、

「早く殺せ」

という命令だと受け取った。

長年は公宗へ走り寄り、髪をつかんで仰向けに引き倒した。

そして腰の刀を抜き、公宗の首を斬り落とした。

『太平記』は、身分の下の者が上位の者を犯そうと企てた報いだ、と因果応報の形で語っている。


妻が夫の死を目撃する

物陰から見ていた妻は、夫が斬られるのを見ると、

「あっ」

と叫び、その場へ倒れた。

そのまま息絶えたかと思われた。

女房たちは妻を牛車へ乗せ、泣きながら北山殿へ連れ戻した。


誰もいなくなった北山殿

以前は公家や役人、女房たちが雲のように集まっていた北山殿だった。

しかし今では、皆どこかへ逃げ去り、1人も見えなかった。

御簾も几帳も引き倒されたままだった。

妻が普段暮らしていた部屋を見ると、月夜や雪の朝に公宗が詠み捨てた短冊が、あちこちへ散らばっていた。

今となっては、それらも亡き夫の形見だった。

見るたびに涙が流れた。


夫のいない寝室

寝室へ入ると、使い慣れた寝具は残っていた。

しかし、同じ枕を並べた夫はいなかった。

面影は以前のまま心に残っている。

けれども言葉を交わし、悲しみを慰める相手はもういない。

庭には紅葉が散り敷き、風も冷たかった。

夜明けには古木にフクロウが不気味な声で鳴いた。

その寂しさに、どのように耐えて暮らせばよいのかと思われた。


西園寺家の屋敷も奪われる

その後、

「西園寺家の所領と屋敷は、竹林院中納言公重へ与えられた」

として、多くの家臣が来て屋敷を引き取った。

妻は住まいまで失うことになった。

仁和寺近くに小さな家を探し、そこへ移り住んだ。


公宗の100日後に男子が生まれる

公宗が亡くなって100日目にあたる日、妻は無事に男の子を出産した。

以前であれば、高僧たちが安産の祈りを行い、男子誕生の喜びが天下へ伝わり、屋敷の門前には牛車や馬が集まっただろう。

しかし今は、桑の弓を引き、蓬の矢を射て男子誕生を祝う者もいない。

隙間風の吹き込む荒れた家で、守ってくれる者さえいなかった。

乳母をつけることもできず、母が自ら抱き、育てた。


父に似た子を見る悲しみ

子どもが成長し、亡き公宗によく似た顔つきが現れると、母は古歌を思い出した。

形見こそ
今はあだなれ
これなくば
忘るる時も
あらましものを

その意味は、

残された子どもが形見となることが、今はかえってつらい。
この子がいなければ、亡き人を忘れられる時もあっただろうに。

というものだった。

子どもの姿を見るたび、公宗を失った悲しみが新たになった。


朝廷が子どもの引き渡しを求める

出産後の床もまだ乾かないころ、中院定平から使者が来た。

「出産について、宮中からお尋ねがあった。

もし男子がお生まれになったのであれば、乳母に抱かせ、まずこちらへ差し出してほしい」

母は嘆いた。

「何とつらいことでしょう。

亡き公宗の子であれば、母の腹まで切り開いて確かめるという話だったので、生まれたことを知られてしまったのでしょう。

夫を失った悲しみの中でも、この子を育て、亡き公宗の形見として見ようと思っていました。

成長すれば僧侶にし、父の供養をさせようと思っていたのです。

それなのに、まだ乳房からも離れない幼子が、武士の手で殺されると聞いたならば、夫との別れに重なる今の悲しみに、どうして耐えられるでしょう。

命さえ自分の望みどおりに終わらせることができず、このようなつらい出来事ばかりを見聞きする身が悲しい」

母は泣き沈んだ。


子どもは死んだと偽る

春日の局が泣きながら使者へ応対した。

「亡き公宗殿の形見となる子が生まれました。

しかし母君が身ごもっていた時から、あまりにも深い悲しみに沈んでいたためでしょうか。

生まれて間もなく亡くなりました。

罪人の子ですので、どのような処分を受けるのか恐れ、死を隠しているのではないかと疑われるかもしれません。

決して偽りではないことを、仏や神に誓って申し上げます」

春日の局は書状を作り、その最後に歌を書いた。

偽りを
糺の森に
置く露の
消えしにつけて
濡るる袖かな

その意味は、

偽りを正す神の森に置いた露のように、
幼い命は消えてしまいました。
その死を思うたび、私の袖は涙で濡れます。

というものだった。


後醍醐天皇も追及をやめる

使者はこの手紙を持ち帰った。

中院定平は涙を押さえながら、後醍醐天皇へ見せた。

天皇も歌を読み、

「哀れなことだ」

と思ったのだろうか。

その後、子どもについて尋ねることはなかった。

母は喜びながらも、常に不安を抱えていた。

焼け野原に残ったキジが、わずかな草むらを命の頼りとしてひなを育てるように、子どもを隠して育てた。

泣き声さえ人へ聞かれないよう、口を押さえて乳を飲ませた。

母と子は同じ枕で、声を忍ばせて泣きながら、3年を過ごしたのである。


後に西園寺家を継ぐ

その後、建武2〜3年(1335〜1336年)の戦乱を経て、足利尊氏が武家政権を築く時代となった。

生き延びた子どもは朝廷へ仕え、西園寺家の跡を継いだ。

後の西園寺実俊(北山右大将)が、この子である。


公宗の死を予告した琵琶の音

西園寺公宗が滅びる前には、すでに不吉な前兆があった。

それを木工頭孝重が聞き取っていたという。

公宗は謀反を企て始めたころ、祈禱のため、7日間北野天満宮へこもった。

毎晩、琵琶の秘曲を演奏した。


北野天満宮で弾いた「玉樹」

7日目の夜、公宗は特に天満天神へ音楽を供えるため、夜が深く、月が冷たく照らす中、御簾を高く巻き上げた。

そして玉樹三女という曲を演奏した。

最初の2本の弦は、秋風が松を払うような寂しい音を立てた。

第3・第4の弦は、夜の鶴が籠の中で子を思って鳴くような、冷たく悲しい音を響かせた。

曲が拍子へ移り、6度繰り返した後の最後の1曲は、赤子さえ起き上がって舞うほど見事だった。


孝重が感じた不吉な音

その夜、木工頭孝重も社殿で夜を明かしていた。

心を静め、耳を澄まして、公宗の琵琶を聞いていた。

演奏が終わると、人へ言った。

「今夜の琵琶が、何かの願いをかなえるために演奏されたのであれば、その願いは実現しないだろう。

玉樹という曲には、昔から不吉な由来がある」


晋の平公が聞いた亡国の音楽

昔、中国の晋の平公が濮水のほとりを通った時、水の流れる音の中に、弦楽器や笛の響きが聞こえた。

平公は師涓という音楽家を呼び、その音を琴の曲へ写させた。

その曲は人を殺すような悲しい音を持ち、聞いて涙を流さない者はいなかった。

それでも平公は曲を気に入り、何度も演奏させた。


師曠の警告

師曠という音楽家が、この曲を聞いていさめた。

「君主がこの曲を愛すれば、天下は1度乱れ、祖先をまつる宗廟も無事ではいられません。

昔、殷の紂王が、この淫らで乱れた音楽を作って楽しみました。

しかし間もなく周の武王に滅ぼされました。

紂王の魂が濮水の底に残り、この曲を奏でているのです。

それを新しい音楽として写し、楽しんではなりません。

国を乱す音は、正しい雅楽とは異なります」

果たして晋の平公の国は衰えた。


王朝を滅ぼし続けた曲

その後もこの曲は消えず、陳の時代へ伝わった。

陳の後主がこの曲を楽しむと、国は隋に滅ぼされた。

隋の煬帝もこの曲を特に愛したが、隋は唐によって滅ぼされた。


日本へ伝わった曲

唐の末期、日本の音楽家である掃部頭貞敏が遣唐使として中国へ渡った。

そして唐の琵琶博士・廉承夫から、この曲を日本へ伝えられた。

ただし、この曲には不吉な音が含まれているとして、演奏法の一部は省略された。


公宗は禁じられた音を演奏した

孝重は言った。

「ところが今夜、公宗殿は天神への奉納で、省略されてきた不吉な部分を特に演奏された。

しかも人を殺すような音が、はっきりと聞こえた。

音楽の調べは政治や人の運命へ通じるという。

公宗殿の身に、どのような災いが起こるのかと心配でならない」

『太平記』本文では、孝重が嘆いたとおり、間もなく公宗は処刑されたと結びつける。

この琵琶の音を「不吉な前兆」と見る部分も、『太平記』の文学的な因果・予兆の描写として読む必要がある。

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102. 北条時行の挙兵――中先代の乱が始まる

原題:「中前代蜂起事」。原文の「中前代」は、現在一般に「中先代」と表記する。


鎌倉に皇族の将軍を置く

建武2年(1335年)、天下は後醍醐天皇のもとへ統一され、国内は一応平穏となっていた。

しかし朝廷では、

「旧幕府方の残党は、まだ東国に潜んでいるかもしれない。

鎌倉に、関東を治める者を1人も置かないのは危険である」

と考えた。

そこで『太平記』本文では、後醍醐天皇の第8皇子である成良親王を征夷大将軍として鎌倉へ置いたとする。

※一般的な歴史叙述では、成良親王が正式に征夷大将軍へ任じられるのは中先代の乱後の建武2年(1335年)8月とされる。乱の前から、足利直義が成良親王を奉じて鎌倉を統治していた。

足利直義(左馬頭)がその補佐役となり、東国の政治を取り仕切った。

ただし法令や制度は、鎌倉幕府時代のものを大きく変更せず、そのまま用いた。


西園寺公宗の陰謀に加わった者たち

西園寺公宗の陰謀が発覚し、公宗が処刑された時のことである。

※年代の注意:『太平記』は西園寺公宗の処刑後に北条時行の蜂起を語るが、一般的な歴史叙述では中先代の乱は1335年7月に始まり、公宗の処刑は1335年8月2日である。ここは『太平記』の物語の順序と史実上の時系列が一致しない。

公宗と呼応して京都で兵を挙げようとしていた旧北条方の者たちは、計画が失敗すると、東国や北国へ逃げ下った。

そして、なおも北条氏を再興するという望みを果たそうとした。


名越時兼が北陸で兵を集める

北陸方面では、名越時兼(名越太郎)のもとへ、

  • 野尻氏
  • 井口氏
  • 長沢氏
  • 倉満氏

らが駆けつけた。

すると越中・能登・加賀の武士たちも、次々に味方へ加わった。

時兼の軍勢は、間もなく6,000騎余りとなった。


北条時行のもとへ集まる東国武士

関東方面では、北条高時の子である北条時行(相模次郎)のもとへ、

  • 諏訪頼重(三河守)
  • 三浦介入道
  • 三浦若狭五郎
  • 葦名判官入道
  • 那和左近大夫
  • 清久山城守
  • 塩谷民部大夫
  • 工藤四郎左衛門

など、主だった大名50人余りが味方した。

すると、

  • 伊豆
  • 駿河
  • 武蔵
  • 相模
  • 甲斐
  • 信濃

の武士たちも、時行へ従わない者がないほど集まった。


5万余騎で鎌倉へ向かう

北条時行は、集まった軍勢を率いた。

『太平記』本文上、その数は5万騎余りだったという。

時行軍は突然、信濃国から東へ進み、日を置くことなく、そのまま鎌倉を目指した。


渋川氏と小山秀朝の敗北

朝廷方では、渋川義季(刑部大夫)小山秀朝(判官)が武蔵国まで出陣した。

2人は北条時行軍の進撃を止めようとした。

しかし戦いには勝てなかった。

渋川と小山は、それぞれ別の場所で自害した。

2人に従っていた家臣300人余りも、2つの戦場で討ち取られた。


新田四郎も利根川で敗れる

新田四郎(『太平記』本文の呼称)も上野国の利根川で時行軍を迎え撃った。

しかし敵軍は、目で見渡せないほどの大軍だった。

新田軍は1度の戦いで戦力を打ち砕かれ、200人余りを討たれた。


北条時行軍はさらに大きくなる

朝廷方の軍勢を次々と破ったことで、北条時行の勢いはますます盛んになった。

各地の武士たちも勝ち馬に乗ろうとして時行へ加わり、軍勢はさらに膨れ上がった。

やがて鎌倉へ、

「北条時行の大軍が、3方向から攻め寄せようとしている」

という知らせが届いた。


足利直義は鎌倉を捨てる

足利直義は考えた。

「敵の進撃はあまりにも急である。

こちらには、すぐに戦える兵が少ない。

このまま小勢で戦えば、かえって敵へ勝利の勢いを与えてしまう」

直義は、鎌倉で時行軍を迎え撃つことを断念した。


皇子を伴い鎌倉から退く

『太平記』本文では、足利直義は成良親王を伴い、建武2年(1335年)7月16日の明け方に鎌倉を脱出したとする。

※年代の注意:『太平記』はこの7月16日の鎌倉脱出に続く次章で、足利直義が護良親王を殺害させたと語る。一方、一般的な歴史叙述では護良親王の殺害は1335年7月23日とされるため、本文の月日と史実上の時系列には食い違いがある。

こうして北条高時の遺児・時行が起こした軍勢は、鎌倉へ迫った。

鎌倉幕府を滅ぼしてから、まだ2年ほどしかたっていなかった。

それにもかかわらず、北条氏の勢力が再び東国を席巻しようとしていたのである。

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103. 護良親王の最期――口に残された刀の切っ先

※史実との区別:護良親王は建武2年(1335年)7月23日、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されたとする史料・歴史事典がある。以下の「刀の切っ先をかみ折った」という最期の細部や、干将・莫耶の故事との結びつきは、『太平記』本文の叙述として読む。


足利直義、鎌倉から退却する

足利直義(左馬頭)は、北条時行の大軍を避け、鎌倉を脱出した。

直義が山内を通り過ぎようとした時、家臣の淵辺義博(伊賀守)を近くへ呼び、ひそかに命じた。

「こちらは兵が少ないため、今はいったん鎌倉を退く。

しかし美濃・尾張・三河・遠江の軍勢を集め、すぐに鎌倉へ戻ってくれば、北条時行を滅ぼすのに、長い時間はかからないだろう。

それよりも、足利家にとって最後まで敵となる可能性があるのは、兵部卿親王である」

兵部卿親王とは、鎌倉の土牢に閉じ込められていた護良親王のことである。


護良親王を殺せと命じる

直義は続けた。

「親王を死刑にせよという、天皇の許可があるわけではない。

しかし、この混乱に乗じて殺してしまいたい。

お前は急いで薬師堂ヶ谷へ戻り、親王を刺し殺せ」

淵辺は、

「承知いたしました」

と答えた。

そして山内から、家来を合わせた7騎で引き返した。


闇の土牢で経を読む護良親王

淵辺が、護良親王の閉じ込められている土牢へ到着した。

土牢の中は、いつも闇夜のように暗かった。

親王は朝になったことにも気づかず、なお灯火をともし、経を読んでいた。

淵辺は、

「お迎えに参りました」

と告げ、親王を乗せる輿を庭へ置かせた。


「私を殺しに来たのだな」

護良親王は輿を見ると、すぐに事情を悟った。

そして淵辺へ言った。

「お前は、私を殺すための使者として来たのだろう。

分かっている」

親王は淵辺の太刀を奪おうとして、突然走りかかった。


淵辺が親王の膝を打つ

淵辺は太刀を構え直し、親王の膝の辺りを強く打った。

護良親王は半年ほども狭い土牢の中に閉じ込められ、足を曲げたまま暮らしていた。

そのため、足が十分に動かなかったのだろう。

親王の心は猛禽のように激しく勇んでいた。

しかし体は思うように動かず、仰向けに打ち倒された。


刀の切っ先をかみ折る

親王が起き上がろうとしたところへ、淵辺は胸の上に乗った。

腰の刀を抜き、首を切ろうとした。

護良親王は首を縮め、振り下ろされた刀の先を、強く口でかんだ。

淵辺も力の強い武士だった。

刀を奪われないよう、激しく引いた。

そのため刀の切っ先が、1寸余り(約3cm)折れてしまった。

折れた切っ先は、親王の口の中へ残った。


護良親王の首が落とされる

淵辺は折れた刀を投げ捨て、脇差を抜いた。

まず親王の胸元を2度刺した。

親王が少し弱ったように見えると、髪をつかんで体を引き起こした。

そして首を斬り落とした。


生きているような親王の首

淵辺は土牢の前へ走り出て、明るい場所で親王の首を確かめた。

親王がかみ折った刀の切っ先は、まだ口の中に残っていた。

両目も閉じられておらず、まるで生きている者のようだった。

淵辺は、それを見ると考えた。

「やはり、そういうことか。

このような首を、主人へ見せてはならない」

そして親王の首を、近くの藪の中へ投げ捨てて帰った。


南の御方が首を拾う

親王の最期を見届けるため、そばには南の御方という女性が仕えていた。

南の御方は、この恐ろしく悲しい光景を見て、体がすくみ、手足も動かなくなった。

しばらくして心を落ち着けると、人心地を取り戻した。

そして藪へ捨てられた親王の首を拾い上げた。


まだ冷たくなっていない

親王の肌は、まだ冷たくなっていなかった。

目も閉じておらず、生前と変わらない表情に見えた。

南の御方は泣き悲しんだ。

「これは夢なのでしょうか。

夢であるならば、どうか目覚めた後の現実が別にあってほしい」

しかし、どれほど願っても親王が生き返ることはなかった。


理致光院の長老が葬儀を行う

遠くにいた理致光院の長老は、

「護良親王が、このような最期を迎えられた」

と聞いた。

長老は親王の葬儀を整え、丁重に弔った。

南の御方は、そのまま髪を下ろして尼となり、泣きながら京都へ上った。


なぜ淵辺は首を直義へ見せなかったのか

淵辺が親王の首を取りながら、主人の足利直義へ見せず、藪へ捨てたことには理由があった。

親王の口に刀の切っ先が残っているのを見て、淵辺は中国の干将・莫耶の故事を思い出したのである。

※以下の干将・莫耶と眉間尺の物語は、『太平記』が引く中国説話であり、史実として述べるものではない。巨大な身体や怪力、飛ぶ剣なども説話上の描写である。


楚王の后が鉄の玉を産む

昔、中国の周王朝末期、楚に武力で天下を取ろうと考える王がいた。

楚王は長年、戦いや剣を好んでいた。

ある時、楚王の后が鉄の柱へ寄りかかって涼んでいると、突然身ごもった。

10か月後、后は出産に苦しみ、1つの鉄の玉を産んだ。


干将と莫耶が2本の剣を造る

楚王はこの出来事を、特に不思議とは思わなかった。

「これはきっと、金属の精霊であろう」

と考えた。

そして干将という刀鍛冶を呼び、この鉄で宝剣を造るよう命じた。

干将は鉄の玉を受け取り、妻の莫耶とともに呉山へ入った。

竜泉の水で鉄を鍛え、3年をかけて、雄と雌の2本の剣を造り上げた。


1本を将来の子へ残す

剣が完成して、まだ楚王へ献上する前のことである。

莫耶は干将へ言った。

「この2本の剣は、精霊と通じ、持ち主がその場にいなくても敵を滅ぼす力を持っています。

私は今、子を身ごもっています。

生まれる子は、きっと非常に勇ましい男の子でしょう。

2本のうち1本を楚王へ献上するとしても、もう1本は隠し、私たちの子へ残してください」

干将は妻の言葉に従った。

雄の剣だけを楚王へ献上し、雌の剣は胎内の子のため、深く隠しておいた。


箱の中で泣く雄剣

楚王が雄剣を見ると、確かに不思議な力を宿しているようだった。

王は剣を箱の中へ入れ、大切に保管した。

ところが剣は、箱の中でいつも泣くような声を出した。

楚王が不思議に思い、家臣へ理由を尋ねた。

家臣たちは答えた。

「この剣には、雄と雌の2本があるのでしょう。

2本が同じ場所にいないため、悲しんで泣いているのです」


干将が処刑される

楚王は激怒した。

「干将は、もう1本の剣を隠している」

と知ったからである。

干将は呼び出され、役人によって首をはねられた。


巨人・眉間尺

その後、莫耶は男の子を産んだ。

その子の姿は、普通の人間とは大きく異なっていた。

『太平記』の説話では、身長は1丈5尺(単純換算で約4.5m)もあり、500人分を合わせたほどの怪力を持っていたという。

顔の長さは3尺(約90cm)、眉と眉の間は1尺(約30cm)もあったと物語られる。

そのため人々は、その子を眉間尺と呼んだ。


父が残した暗号

眉間尺が15歳になった時、父・干将が書き残した言葉を見つけた。

日は北戸より出づ。
南山にその松あり。
松は石の上に生ず。
剣はその中にあり。

眉間尺は、

「剣は北側の戸の柱の中にある」

という意味だと悟った。

柱を壊してみると、果たして雌の剣が隠されていた。


父の敵を討つ決意

眉間尺は雌剣を手にすると、

「何とかして楚王を討ち、父の敵を取りたい」

という思いを骨の髄まで抱いた。

楚王も眉間尺が復讐を望んでいると聞き、

「この男が生きている限り、安心できない」

と恐れた。

『太平記』の説話では、そこで数万の軍勢を送り、眉間尺を討たせようとしたという。


数万の軍勢を打ち破る

しかし説話では、官軍は眉間尺1人の怪力に打ち砕かれた。

さらに雌剣の刃に触れ、死傷した者は数えきれなかった。

大軍を送っても、眉間尺を捕らえることはできなかった。


父の友人が復讐の策を示す

その時、干将の古い友人である甑山人という人物が現れた。

甑山人は眉間尺へ言った。

「私は、お前の父・干将と長く親しく交わってきた。

友人から受けた恩へ報いるため、お前とともに楚王を討つ方法を考えよう。

本当に父の敵を討ちたいのであれば、持っている剣の切っ先を3寸ほど(約9cm)かみ切り、口の中へ含んだまま死になさい。

私がお前の首を楚王へ献上すれば、王は喜び、必ず近くでその首を見る。

その時、口に含んだ剣の切っ先を楚王へ吹きつけ、ともに死ぬのだ」


眉間尺が自ら首を切る

眉間尺は大いに喜んだ。

すぐに雌剣の切っ先を3寸ほど(約9cm)かみ切り、口の中へ含んだ。

そして自分で首を切り、その首を甑山人の前へ置いた。


3か月腐らなかった首

甑山人は眉間尺の首を取り、楚王へ献上した。

楚王は大いに喜び、首を獄門へさらした。

ところが3か月たっても、その首は腐らなかった。

目を見開き、歯を食いしばり、常に怒りを表していた。

楚王は恐れ、首へ近づこうとしなかった。


釜の中で煮られる

楚王は眉間尺の首を大きな釜へ入れ、7日7夜、煮続けさせた。

あまりにも長く煮たため、ようやく少し形が崩れ、目も閉じた。

楚王は、

「もう危険はないだろう」

と考え、自ら釜のふたを開け、首をのぞき込んだ。


口から剣を吹きつける

その瞬間、眉間尺の首は、口の中に含んでいた剣の切っ先を楚王へ吹きつけた。

切っ先は狙いを外さず、楚王の首の骨を切った。

楚王の首は落ち、釜の中へ入った。


釜の中でかみ合う2つの首

釜の熱湯の中で、楚王の首と眉間尺の首は、上になり下になりながら、互いにかみ合った。

しかし眉間尺の首が次第に下へ押され、負けそうになった。


甑山人も自らの首を投げ入れる

甑山人は自分の首を切り落とし、釜の中へ投げ入れた。

そして眉間尺の首とともに、楚王の首へかみついた。

ついに2人で楚王の首をかみ破った。

眉間尺の首は、

「死んだ後に、父の敵を討つことができた」

と叫んだ。

甑山人の首は、

「あの世で友人から受けた恩に報いることができた」

と喜んだ。

やがて3つの首は、すべて煮崩れて消えた。


剣の切っ先は荊軻の短剣となる

眉間尺が口へ含んでいた3寸(約9cm)の剣は、後に燕の国へ伝わり、燕の太子丹が持つ剣となったという。

太子丹が荊軻と秦舞陽を使い、秦の始皇帝を暗殺しようとした時のことである。

地図を入れた箱の中から短剣が飛び出し、始皇帝を追い回した。

始皇帝が薬の袋を投げつける中、『太平記』の説話では、短剣は「口6尺」と記される太い銅柱を途中まで斬り、最後には3つに折れたという。ここでの6尺は長さなら約1.8mに当たるが、「口」が柱のどの寸法を指すかは本文だけでは明確でないため、単純に柱の直径とはしない。

その短剣が、眉間尺の剣の切っ先だったと伝えられている。


干将・莫耶の剣が竜となる

干将と莫耶が造った雄・雌2本の剣は、代々の中国皇帝の宝となった。

しかし陳の時代になると、突然行方が分からなくなった。

ある時、天に悪い星が現れ、天下の災いを示した。

張華と雷煥という2人の臣下が楼台へ上り、その星を見た。

すると古い獄門の辺りから剣の光が天へ上り、悪星と戦っているように見えた。


土の中から発見される

張華らが光の差す場所を掘らせると、地中5尺ほど(約1.5m)の場所から、干将・莫耶の剣が発見された。

2人は剣を皇帝へ献上しようと、自ら帯びて運んだ。

ところが延平津という水辺を通った時、剣は自ら鞘を抜け、水の中へ飛び込んだ。

2本の剣は雄と雌の竜へ姿を変え、はるかな波の中へ沈んでいったという。


親王の首を見せなかった理由

淵辺は、この故事を知っていた。

護良親王が刀の切っ先をかみ折り、口の中に含んでいるのを見た時、

「この首を足利直義へ近づければ、眉間尺のように、切っ先を吹きつけて直義を殺すかもしれない」

と恐れた。

そのため親王の首を主人へ見せず、藪の中へ捨てたのだという。

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104. 足利尊氏の東国出陣――北条時行と中先代の乱の終結


足利直義、東海道を西へ退く

足利直義は鎌倉を脱出し、京都へ向かっていた。

しかし道中の駿河国入江荘は、東海道でも特に危険な難所だった。

兵たちは、

「北条時行に味方する者たちが道をふさぐのではないか」

と心配していた。


入江春倫へ助力を求める

そこで直義は、その土地の地頭である入江春倫(左衛門尉)へ使者を送り、

「我々を助けてほしい」

と伝えた。

春倫の一族の中には、

「今こそ北条氏が関東を取り戻す時である。

足利直義を討ち、北条時行殿のもとへ参上しよう」

と主張する者もいた。


春倫は朝廷への恩を重んじる

春倫は、よく考えた末に言った。

「天下が最後にどちらへ定まるかは、私たちのような愚かな者に分かることではない。

ただ、正しい道がどちらにあるかを考えよう。

入江荘は、もともと徳宗、すなわち北条得宗家の領地だった。

しかし鎌倉幕府の滅亡後、朝廷の恩によって我々へ与えられた。

この2、3年、朝廷は以前にも増して我が家を大切にしてくださった。

天皇から受けた恩に、さらに道義が重なっている。

このような時に、足利方が敗れかけているからといって、その弱みにつけ込み、不義を行うことができるだろうか」

春倫は北条時行へ味方せず、直義を迎えることにした。


矢作(やはぎ)の宿へ入る

春倫が迎えに出ると、直義はたいへん喜んだ。

直義は入江氏の一族を味方へ加え、矢作(やはぎ)の宿へ陣を取った。

※地名:『太平記』本文では「矢矯」と記す。中世資料では「矢矯」「矢作」などの表記が見られるため、ここでは現在一般に通用する「矢作(やはぎ)」とした。

そこでしばらく、戦いに疲れた馬を休ませた。

同時に京都へ早馬を送り、北条時行の反乱と、自軍の退却を報告した。


足利高氏(のちの尊氏)を討伐軍の大将とする

朝廷では公卿たちが協議した。

その結果、

「急いで足利高氏(のちの足利尊氏)を、北条時行討伐のため東国へ派遣する」

ことが決まった。

勅使が足利高氏のもとへ行き、その命令を伝えた。


高氏が2つの条件を求める

高氏は勅使へ答えた。

「元弘の乱(1331〜1333年)が始まった時、私が朝廷方へ加わったため、天下の武士たちも次々と官軍へ味方し、短期間で勝利を決めることができました。

現在の天皇中心の世が実現したのは、ひとえに高氏の武功によるといってもよいでしょう」

そして2つの望みを申し上げた。


征夷大将軍への任命を求める

「征夷大将軍の職には、昔から源氏や平氏の武将が、功績によって任命された例が数多くあります。

この地位は、朝廷のためにも足利家のためにも、私が深く望んでいるものです」

高氏は、自分を征夷大将軍へ任命してほしいと求めた。


東国の恩賞を自ら決める権限

高氏はさらに申し上げた。

「反乱を鎮め、秩序を取り戻すためには、策を立てることも大切です。

しかし軍勢が功績を立てた時、すぐに恩賞を与えることほど効果的な方法はありません。

1人1人の軍功を京都へ報告し、朝廷の判断を待っていたならば、手続きに時間がかかります。

忠義を尽くして戦う武士たちも、勇気を失うでしょう。

そこで、しばらく関東8か国を私が直接支配することをお許しください。

そして軍功を立てた者への恩賞を、私自身がその場で与えられるよう、天皇の許可をいただきたいのです。

この2つが認められるならば、昼夜を問わず東国へ下り、朝敵を退治いたします。

認められないのであれば、関東討伐は別の者へお命じください」


朝廷が高氏の要求を受け入れる

この2つの条件は、その後の天下が平和になるか、再び乱れるかを決める重要な問題だった。

後醍醐天皇は、本来ならば慎重に考えるべきだった。

しかし高氏の申し出を、そのまま認めた。

『太平記』は、この判断が後にどのような結果を生むか、不安を感じさせるものだったと述べている。

※史実との違い:ここは『太平記』本文の叙述である。一般的な歴史叙述では、建武2年(1335年)8月、足利尊氏は征夷大将軍などへの任命を求めたが後醍醐天皇に認められず、勅許を得ないまま東国へ出発し、その後に征東将軍へ任じられたとされる。


将軍任命は戦功の後とする

ただし征夷大将軍への任命については、

「関東を平定した功績を見た後に決める」

ことになった。

一方、関東8か国を支配し、軍功に対する恩賞を高氏が直接決める権限については、すぐに認められた。

朝廷は、その内容を記した綸旨を高氏へ与えた。


「高氏」から「尊氏」へ

それだけではなかった。

高氏は後醍醐天皇の諱に用いられていた「尊」の一字を賜った。

それまで名乗っていた高氏の「高」を改め、以後は尊氏と名乗ることになった。

※改名時期:『太平記』はこの場面で「高氏」から「尊氏」への改名を語るが、一般的な歴史叙述では、後醍醐天皇から諱「尊治」の1字を受けて尊氏と改名したのは元弘3年(1333年)、建武政権成立のころとされる。ここでは『太平記』の物語の順序を残し、史実との違いを注記する。


尊氏、東国へ出発する

尊氏は、関東8か国の支配権を簡単に認められた。

征夷大将軍についても、

「今回の戦功によって任命する」

という約束を得た。

そこで1日も遅らせず、関東へ向かって出発した。


吉良氏を先発させる

尊氏は、吉良満義(兵衛佐)を先に出発させた。

自分は5日ほど遅れて京都を出た。

京都を出発した時、尊氏の軍勢は、わずか500騎余りだった。

しかし道中で、

  • 近江
  • 美濃
  • 尾張
  • 三河
  • 遠江

の武士たちが次々と加わった。

駿河国へ到着した時には、『太平記』本文上、3万騎余りに膨れ上がっていた。


尊氏・直義軍が5万騎となる

足利直義の軍勢と尊氏の軍勢が合流した。

その数は、『太平記』本文上、5万騎余りとなった。

兄弟は矢作の宿から進路を東へ変え、再び鎌倉を目指した。


北条時行が先手を打つ

北条時行は、足利軍が大軍となったことを聞いた。

そして言った。

「源氏の軍勢は非常に多いという。

こちらが陣にとどまり、敵を待っていたのでは、その勢いに圧倒されてしまう。

兵法では、先に動く者が相手を制するのに有利である」

時行自身は鎌倉へ残り、名越式部大輔を大将として、東海道と東山道から西へ進ませた。

『太平記』本文上、その軍勢は3万騎余りだった。


出陣前夜の暴風

建武2年(1335年)8月3日、時行軍が鎌倉を出発しようとした夜、突然激しい風が吹いた。

多くの家が吹き壊された。

兵たちは風を避けるため、鎌倉の大仏殿の中へ逃げ込み、体を寄せ合っていた。


大仏殿の倒壊

ところが大仏殿の棟木が、細かく砕けるように折れ、建物が倒れた。

中へ集まっていた兵500人余りは、1人残らず押しつぶされ、死亡した。

出陣の門出に、このような天災が起きた。

人々は、

「今回の戦いは、よい結果にはならないだろう」

と、ひそかにささやいた。


名越軍が東海道を急ぐ

それでも出陣を取りやめることはできなかった。

改めて日を選び、名越式部大輔は鎌倉を出発した。

昼夜を問わず道を急ぎ、建武2年(1335年)8月7日には先陣が遠江国の佐夜の中山を越えた。


長い道のりを急いだ敵を攻める

尊氏はこの知らせを聞くと言った。

「兵法書『六韜』には、

長い道のりを急いでやって来た敵は、疲れている時に攻撃せよ。

とある。

これは太公望が周の武王へ教えた兵法である」

建武2年(1335年)8月8日の卯の刻(午前5〜7時ごろ)、足利軍は北条方の陣へ攻め寄せた。

両軍は1日中戦った。


橋本の戦い

北条方も、

「これが今後の運命を決める戦いである」

と心を一つにした。

30回余りも部隊を入れ替えながら、激しく戦った。

しかし北条軍の後方には、心から味方していない兵がいた。

その者たちが後ろから退き始めたため、北条軍は力を失った。

橋本の陣を捨て、佐夜の中山へ退いた。


佐夜の中山の戦い

足利軍の先頭では、仁木氏や細川氏の兵たちが、正義のためには命を軽く見る覚悟で進んだ。

北条軍の後陣では、諏訪大社の神職につながる武士たちが、受けた恩へ報いるために戦った。

両軍は勇気を奮い、1日中激しく戦った。

しかし北条軍はここでも敗れ、箱根の水飲峠まで退いた。


赤松貞範が箱根を突破する

箱根山は東海道でも第1の難所である。

北条軍は、

「足利軍も簡単には攻めてこられないだろう」

と考えた。

しかし赤松貞範(筑前守)は、険しい山道を短い武器を持って直接進み、敵陣へ飛び込んだ。

前後の敵へ当たり、左右の兵を激しく打ち払った。

その勇猛さに押され、北条軍は箱根も守ることができず、大崩まで退いた。


清久山城守が捕らえられる

清久山城守は引き返し、1歩も退かず戦った。

しかし足利方の兵に組み伏せられた。

腹を切る時間もなかったのだろう。

本人は生け捕りにされ、家臣は全員討たれた。


相模川を防衛線とする

北条軍は道中で何度も敗れた。

怒りを奮い立たせても、足利軍を止めることはできなかった。

北条軍は相模川を渡り、水の流れを利用して足利軍を防ごうとした。


増水した川に油断する

そのころ秋の激しい雨が1度降り、川の水は岸まであふれていた。

北条軍は、

「足利軍も、この川を渡って攻めることはできないだろう」

と、少し油断した。

負傷者を助け、馬を休ませ、敗れて散った兵を再び集めようとした。


足利軍が3か所から渡河する

夜になると、足利軍は行動を起こした。

高師泰(越後守)が、『太平記』本文上2,000騎余りで上流の瀬を渡った。

赤松貞範は中央の瀬を渡った。

佐々木道誉(京極高氏、佐渡判官入道)と長井治部少輔は、下流の瀬を渡った。

各軍は北条軍の背後へ回り、東西へ分かれた。

そして同時に、大きな攻撃の声を上げた。


北条軍の総崩れ

北条軍は、正面と背後の敵に包囲された。

「もはや勝つことはできない」

と思ったのだろう。

まともに1度戦うこともなく、全軍が鎌倉を目指して退却した。


腰越で葦名判官が討たれる

北条軍は腰越で引き返し、再び足利軍と戦った。

しかし、ここで葦名判官も討ち取られた。


17回の戦い

遠江国の橋本から始まり、

  • 佐夜の中山
  • 江尻
  • 高橋
  • 箱根山
  • 相模川
  • 片瀬
  • 腰越
  • 十間坂

など、鎌倉へ至るまでに17回の戦いが行われた。

『太平記』本文上、北条方の2万騎余りは、討たれるか傷を負い、最後にはわずか300騎余りとなった。


大御堂で43人が自害する

諏訪頼重(三河守)をはじめとする主だった大名43人は、大御堂の中へ走り込んだ。

そして皆、同時に自害した。

北条氏再興のために戦った者として、その名を滅亡の跡へ残したのである。


遺体の顔が剥がされていた

自害した者たちの遺体を見ると、全員の顔の皮が剥ぎ取られていた。

そのため、どの遺体が誰なのか見分けることができなかった。

人々は、

「北条時行も、きっとこの中にいるのだろう」

と考え、その最期を哀れんだ。

※史実との違い:『太平記』はこの付近で北条時行も滅びたように物語を進めるが、史実上の北条時行は中先代の乱で逃れて生き延び、その後は南朝方として再び活動し、1353年まで生存したとされる。


三浦介入道の処刑

三浦介入道だけは、どのようにして逃れたのか、尾張国まで落ち延びた。

しかし船から上陸したところを、熱田神宮の大宮司に捕らえられた。

京都へ送られ、六条河原で首をはねられた。


北陸の名越時兼も敗れる

北条氏再興の計画は、まだ時期が来ていなかったのだろうか。

あるいは天命に反していたのだろうか。

北陸では名越時兼(名越太郎)が北陸道の武士を従え、『太平記』本文上3万騎余りで京都へ向かっていた。


大聖寺で討たれる

ところが越前国と加賀国の境にある大聖寺で、

  • 敷地氏
  • 上木氏
  • 山岸氏
  • 瓜生氏
  • 深町氏

らのわずかな軍勢に敗れた。

時兼は白刃の下で命を落とし、北条氏から受けた恩へ、死によって報いた。


『太平記』が描く北条氏再興の挫折

北条時行の軍勢が関東で敗れ、名越時兼も北陸で討たれた。

その後も北条氏の末流は、姿を変え、山奥や海辺へ少人数で隠れていた。

『太平記』は、もはや北条氏を再び立てることは難しいと、人々が考えたように描いている。

かつて北条氏を慕っていた者たちも、敵対する心を捨てた。

そして足利尊氏へ従わない者は、ほとんどいなくなった。


足利尊氏の勢力が天下を覆う

『太平記』は、こうして足利尊氏の威勢が自然に強まり、武将としての運も一気に開けたと描く。

そして、後醍醐天皇が公家中心の政治を復活させてからまだ間もないのに、「天下は再び武家の世となった」と、この巻を締めくくっている。

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