242. 南朝・直義方が京都を攻略する
足利直義と南朝の同盟が成立すると、直義は大和国の越智氏のもとにいたため、
- 和田氏
- 楠木氏
- 大和・河内・和泉・紀伊の南朝方
が次々と直義へ駆けつけた。
京都や周辺の武士まで直義方へ加わると伝えられた。
楠木氏討伐のため石川河原へ向城を築き、将軍方として戦っていた畠山国清まで、千騎余りを率いて直義へ味方した。
南朝・直義方が京都へ迫るという噂は、町へ満ちた。
義詮が尊氏へ急報する
京都を守っていた足利義詮は早馬を立て、九州へ向かうため備前福岡にいた尊氏へ、何度も危急を知らせた。
尊氏は石見国で三隅城を攻めていた高師泰へ、
「石見の戦いはひとまず置け。
京都が一大事である。
昼夜を問わず上洛せよ」
と命じた。
使者の往復には日数が必要だった。
師泰の返事を待つ余裕もなく、尊氏は福岡を出発し、少数の兵で京都へ急いだ。
直義が八幡山へ入る
直義はこの知らせを聞いた。
「尊氏軍が京都へ到着し、兵力を増す前に、まず義詮を追い落とせ」
観応2年正月7日、七千騎余りで八幡山へ陣を置いた。
桃井直常が北陸から進む
桃井直常は当時、越中国守護として現地へいた。
直義とは事前に連絡を取り合っていた。
正月8日に越中を出発し、能登・加賀・越前の軍を集め、七千騎余りで昼夜を問わず京都へ向かった。
大雪で馬の足が立たなかった。
兵を馬から降ろし、そりを引かせた。
二万人余りを先へ立たせ、道を踏み固めた。
山の雪は鏡のように凍ったため、かえって馬の蹄を疲れさせず、七里半の山道を容易に越えた。
桃井軍は比叡山東坂本へ到着した。
義詮軍が日ごとに減少する
京都の義詮は、
- 八幡山
- 比叡山坂本
の両方へ大敵を迎えた。
「油断できない。
毎日、集まる兵の人数を調べよ」
と命じた。
初日は三万騎だった。
翌日は一万騎へ減った。
その翌日には三千騎となった。
将軍方の兵が敵へ移っていると考え、各街道へ関所を設けた。
しかし関所を守る者たちまで連れ立って直義方へ走った。
正月12日の夕方には、義詮へ残る兵は、直属・外様を合わせても五百騎に満たなかった。
義詮が京都を退く
13日の夜、桃井軍が比叡山へ陣を置き、大きなかがり火をたいた。
八幡山でも合図の火が上がった。
仁木・細川らは義詮へ申し上げた。
「戦いでは最後に勝つことが大切です。
この小勢で大軍と戦っても、千に一つも勝てません」
「尊氏殿は西国から戻っておられ、すでに摂津付近まで来ているでしょう。
いったん京都を無事に明け渡し、尊氏軍と合流した後、改めて攻めれば、思うような戦いができます」
義詮は、
「道理に従うべきである」
と答えた。
正月15日の早朝、西国を目指して京都を離れた。
同日の正午、桃井直常が京都へ入った。
桃井の早すぎる入京をめぐる議論
治承年間に平家が京都を落ちた時、木曾義仲は比叡山へ陣を置き、十一日間は京都へ入らなかった。
敵の偽装退却を警戒し、自軍の乱暴を抑えるためだった。
そのため人々は、
「桃井は敵が退いたと聞くと、兵へ食糧も与えず、馬へ糠も食べさせないまま京都へ入った。
敵が偽って退き、突然戻ってきたならば、必ず負けただろう」
と批判した。
一方では、
「敵と戦うために来た以上、相手を欺くことも当然である。
敵が退く前にでも京都へ入るべきだった。
まして退いた後に、ためらう必要はない。
京都で討ち死にしても何の問題があるのか。
桃井には深い考えがあったのだろう」
と擁護する者も多かった。
243. 尊氏・義詮の反撃と阿保・秋山の一騎打ち
義詮が心細く京都を離れ、桂川を渡って向日明神の南へ進もうとした時だった。
物集女の西岡に激しい馬煙が立ち、二、三十流の旗が小松原から現れた。
義詮は、
「八幡山から回り込んだ敵ではないか」
と警戒し、人を偵察へ出した。
しかし敵ではなかった。
西国から戻った尊氏と高師直が、山陽道の兵二万騎余りを率いて上洛するところだった。
義詮をはじめ全軍は、他国をさまよった貧しい子が、富豪となった父へ再会したように喜んだ。
三方向から京都へ入る
尊氏・義詮軍は、そのまま引き返して京都へ向かい、桃井直常を追い落とすことにした。
二万騎余りを三手へ分けた。
大手は高師直を大将とし、
- 仁木頼章
- 仁木義長
- 細川清氏
- 今川氏
ら五千騎余りが、四条通を東へ進んだ。
佐々木道誉は七百騎余りを分け、東寺前から東へ進み、今比叡付近へ控えた。
旗竿を倒し、目印を隠して東山へ上った。
大手の戦いが半ばになった時、敵の背後へ突然攻め出る役だった。
尊氏と義詮は一万騎余りを一手にまとめ、大宮通を北へ進み、二条通から法勝寺前へ出ることにした。
桃井軍の配置
桃井軍は東山を背にし、賀茂川を前へ置いた。
- 赤旗一揆
- 扇一揆
- 鈴付一揆
二千騎余りを三か所へ置き、前面には射手を進め、畳盾二、三百枚を並べた。
「敵が来れば広い河原へ出て、正面から勝負を決めよう」
静かに待った。
両軍は旗を上げ、鬨の声を上げた。
しかし尊氏方は道誉の側面攻撃を待ち、すぐには進まなかった。
桃井方も八幡山の直義軍が来るのを待ち、戦いを遅らせた。
秋山光政の挑戦
桃井方の扇一揆から、身長七尺ほどの大男が一騎で河原へ進んだ。
黒いひげと血走った目を持ち、火威の鎧と五枚兜を着けていた。
鍬形の間には、太陽と月を描いた紅の扇を大きく開いて差していた。
一丈余りの樫の棒を八角に削り、両端へ石突をつけ、小脇へ構えていた。
太くたくましい白瓦毛の馬に乗り、大声で名乗った。
「戦場へ出る者は、誰でも討ち死にを覚悟しているでしょう。
しかし今日、私は特に命を軽くし、日ごろの大言が真実だったと示すつもりです」
「私は清和源氏の子孫、秋山新蔵人光政です。
幼いころから兵法を学び、鞍馬・愛宕・高雄の天狗たちが源義経へ教えた兵法を、残らず受け継いでいます」
「仁木・細川・高一族の中で、自分こそ勇士と思う者は名乗って出て来なさい。
見物人の眠気を覚ます一騎打ちをしましょう」
阿保忠実が応じる
足利方には名高い勇士が多かった。
しかし互いの顔を見るだけで、進んで相手をしようとする者はいなかった。
その時、丹党の阿保忠実が一騎で進み出た。
唐綾威の鎧を着け、竜頭の兜を締め、四尺六寸の太刀を抜き、鞘を川へ投げた。
「珍しく、耳へ残る秋山殿の御言葉です。
私は執事の家臣、阿保忠実と申します」
「幼いころから東国で山野の獣を追い、川の魚を取って暮らしたため、張良や孫子・呉子の兵法書は、名前も知りません」
「しかし戦況へ応じ、敵を前に勇気を起こす道は、武士が自分の心で悟るものです」
「元弘・建武以来、三百回余りの戦いで敵を破り、味方を助けてきました。
私の腕を試した後、その大言をお吐きなさい」
棒と太刀の激闘
両軍は戦いを止め、二人を見守った。
見物人まで戦場近くへ走り寄り、息をのみ込んだ。
二人は近づくと、互いに笑った。
左へすれ違い、右へ開き、秋山が棒を振れば阿保は太刀で受け流した。
阿保が激しく斬れば、秋山は棒で払いのけた。
三度交わり、三度離れた。
秋山の棒は五尺ほど折れ、手元だけが残った。
阿保の太刀も鍔元から折れ、小太刀だけとなった。
高師直が秋山を射させようとする
師直は考えた。
「忠実は武器を扱う腕は優れているが、力は強くない。
怪力の秋山を相手にすれば、最後には勝てないだろう」
「あの男を討たせるな。
秋山を射落とせ」
精鋭の射手七、八人が河原へ並び、雨のように矢を射た。
秋山は残った棒で、正面から来る矢を二十三本まで打ち落とした。
阿保忠実は情けある人物だった。
秋山を討とうとせず、味方が射る矢まで止め、秋山の前へ立って矢面をふさいだ。
「これほどの名人を、戦わず射殺すのは惜しい」
と考えたためだった。
両者は無事に引き分け、見物人を驚かせた。
この一騎打ちは有名となり、神社仏閣への奉納物や扇・団扇の絵に、阿保・秋山の河原軍を描かない者はいなかった。
桃井軍の敗走
その後、両軍の合戦が始まった。
桃井軍七千余騎と仁木・細川軍一万余騎は、白河付近で七、八度攻め合った。
死者三百人、負傷者は数えきれなかった。
両軍が疲れ、息を整えている時、佐々木道誉が七百騎余りで、中霊山南側から突然、桃井軍の背後へ攻め出た。
桃井軍は驚き、二手へ分かれて戦った。
西・南から攻められ、兵が退き始めると、桃井兄弟はわざと馬から飛び降り、敷皮へ座った。
「運は天にある。
一歩も退くな。
ここで討ち死にせよ」
日が暮れかけても八幡山の直義軍は来なかった。
北陸勢は疲れ、東山へ退こうとした。
その時、尊氏・義詮軍五千騎余りが二条通から東へ出て、桃井軍が山へ戻れないよう背後をふさいだ。
一日中戦い、新手もなく、三方から囲まれた桃井軍は粟田口から山科越えへ退いた。
ただし東坂本まで逃げず、その夜は関山へ陣を置き、大きなかがり火をたいた。
244. 尊氏・義詮父子の退去と井原石龕
尊氏が京都へ戻り、桃井軍を破ったため、人々は、
「八幡山の直義方も、今ごろは大半が尊氏へ戻るだろう」
と考えた。
ところが予想に反し、15日の夜中ごろ、京都の兵の半分以上が再び都を離れ、八幡山の直義方へ加わった。
尊氏は言った。
「どういうことだ。
戦いへ勝ったのに、味方がますます敵へ移る。
以前から尊氏へ背こうと考えていた者が多かったのだ」
「このまま京都で再び戦うことは難しい。
一度西国へ退き、中国地方の兵を集め、東国の武士とも連絡して、改めて敵を攻めよう」
諸将も賛成した。
正月16日の早朝、尊氏は丹波路を通って西へ退いた。
昨日は尊氏が京都へ戻り、桃井が敗れたため京都の人々は喜び、八幡山では悲しんだ。
今日は尊氏が京都を去り、桃井が再び入京すると聞き、八幡山では喜び、京都では悲しんだ。
吉凶は、より合わせた縄のように交互へ現れ、喜びと悲しみは一日のうちに入れ替わった。
義詮を井原へ残す
尊氏は考えた。
「名将が全員一か所へ集まることは、戦略がないことに似ている」
そこで義詮へ、
- 仁木頼章
- 仁木義長
をつけ、二千騎余りとともに丹波国の井原石龕へ残した。
寺の僧たちは、以前から二心なく足利方へ味方していた。
兵糧から馬の飼料まで、山のように積み上げていた。
周囲は岸が高く、峰がそびえ、四方が険しかった。
城として守るにも適していた。
荻野・波々伯部・久下・長沢氏らも、一人残らず駆けつけ、昼夜警戒した。
疲れ果てた軍勢は、籠を出た鳥や、水を得た魚のように、しばらく安心した。
勝軍毘沙門の祈祷
義詮が山へ入った日から、岩室寺の僧たちは休まず、勝軍毘沙門天の法を行った。
七日目、院主の雲暁僧都が祈祷の巻数を持って参上した。
義詮は寺の開山や本尊の霊験について尋ねた後、言った。
「どの仏・菩薩を信仰し、どの秘法を行えば、天下を静め、大敵を滅ぼすことができるでしょうか」
雲暁は答えた。
「諸仏・菩薩の救いは、それぞれ異なるため、どれが優れ、どれが劣るとは申し上げられません」
「しかし須弥山の四方を治め、鬼門を守り、怒りの姿で敵を降伏させ、戦勝をもたらす点では、毘沙門天へ勝るものはありません」
唐の安西の反乱
「唐の玄宗皇帝の天宝12年、安西で反乱が起きました。
官軍は戦うたびに敗れました」
「玄宗は不空三蔵を招き、毘沙門天の法を行わせました」
「一夜のうちに、鉄の牙を持つ金色の鼠が数百万現れ、反乱軍の太刀・鎧・兜・矢の筈・弓弦を残らず食い破り、人までかみ殺しました」
「反乱軍は耐えられず、戦わずして降伏しました」
日本での霊験
「日本でも朱雀天皇の時代、比叡山へ金銅の四天王像を置き、平将門を滅ぼしました」
「聖徳太子は毘沙門天像を彫り、兜の正面へ載せ、物部守屋を討ちました」
「義詮殿が毘沙門天示現の霊地へ陣を置いたことは、昔の吉例と同じです。
天下をすぐに静め、敵軍を千里の外へ追い払えることに疑いはありません」
義詮は信仰を起こし、丹波国小川荘を寄進し、永代の寺領とした。
245. 高師泰、石見から引き返す
高師泰は、この時まで三隅城を攻めるため石見国へいた。
師直から使者が来た。
「摂津・播磨方面の戦いは、すでに差し迫っている。
石見の戦いをやめ、すぐに上洛せよ」
「中国地方の武士が、この機会へ乗じて道をふさぐ恐れがある。
そのため武蔵五郎師夏を先に備前へ送る。
中国地方の反乱を鎮めながら、師泰を待つ」
師泰は驚き、石見を出発した。
武蔵五郎師夏も連絡を違えないよう播磨を出て、備後国石崎へ着いた。
上杉軍の追撃
尊氏が八幡・比叡山の敵へ攻められ、播磨国書写坂本へ退いた。
師泰も三隅城を落とせず退いたと聞くと、上杉朝貞は八幡から船で備後国鞆へ入った。
備後・備中・安芸・周防の兵が次々と上杉へ加わり、軍勢は雲霞のようになった。
師夏と師泰が中国地方へとどまらず、そのまま上洛すると聞くと、上杉は二千騎余りで正月13日の早朝に出発し、後を追った。
師泰は追撃を知らず、先を急いで馬へ鞭を入れ、勢山を越えた。
小旗一揆や河津・高橋・陶山兄弟は、遠く後方で殿軍を務めていた。
陶山一族の討ち死に
上杉軍の先頭五百騎は、陶山軍百騎余りを見つけ、盾をたたいて鬨の声を上げた。
陶山氏は戦場で敵へ背を見せない者たちだった。
矢を一度射交わすと、大軍へ突入した。
しかし前軍とは離れ、後ろから続く味方もいなかった。
陶山高直は、
- 脇の下
- 兜の内側
- 吹返し付近
を突かれて討たれた。
弟の又五郎は、
「せめて立派な敵と組み、刺し違えよう」
と考えた。
火威の鎧と紅の母衣を着けた土屋平三へ、
「敵を選びはしない。来て組め」
と笑いながら組みつき、二人の馬の間へ落ちた。
陶山が上となり、土屋を押さえて首を取ろうとした。
そこへ道口七郎が陶山へ重なった。
陶山は左手で土屋を押さえ、上の道口までつかんで首をねじろうとした。
しかし道口の家臣がさらに重なり、陶山の鎧を持ち上げ、下から三度刺した。
道口・土屋は助かり、陶山は亡くなった。
陶山一族の家臣たちは、
「何のために命を惜しむのか」
と大軍へ何度も入り、一歩も退かず全員斬り死にした。
六騎の逆襲
上杉軍は多くの損害を出しながらも、殿軍との戦いには勝った。
宮下野守兼信は初め七十騎を率いていたが、味方が敗れたと聞くと多くの兵が逃げ、六騎だけとなった。
兼信は四方を見て言った。
「役に立たない臆病者は、足手まといになる前に逃げたので、かえってよかった。
敵が息を整えないうちに攻めよう」
六騎で馬を並べ、上杉軍へ突入した。
河津・高橋軍五百余騎も続いた。
上杉軍は後方から崩れ、一度も引き返さず逃げた。
上杉自身も深手を負った。
死者三百騎余り、負傷者は数えきれなかった。
三里の街道には、
- 鎧
- 腹巻
- 小手
- 脛当て
- 弓矢
- 太刀
- 長刀
が捨てられ、足の踏み場もないほどだった。
杉坂の敵も破る
師泰軍は備中の戦いへ勝利した。
美作国では芳賀・角田勢七百騎余りが杉坂をふさぎ、師泰を討とうとした。
河津・高橋両一揆が一斉に攻めると、敵は矢を一本射ることもできず、谷底へ追い落とされ、ほとんど全滅した。
師泰と師夏は二国での戦いへ勝ち、観応2年2月、尊氏が陣を置く書写坂本へ到着した。
246. 光明寺の戦いと、高師直へ落ちた不吉な旗
八幡山から石堂頼房を大将とし、
- 愛曾伊勢守
- 矢野遠江守
ら五千騎余りが、尊氏のいる書写坂本を攻めようと進んだ。
しかし高師泰の大軍が到着したと聞き、播磨国光明寺へ陣を置き、八幡山へ援軍を求めた。
尊氏は、
「光明寺へ援軍が到着する前に、まず敵を打ち散らそう」
と、2月3日に書写坂本を出発した。
一万騎余りで光明寺を包囲した。
石堂軍が光明寺へ立てこもると、尊氏は引尾、高師直は泣尾へ陣を取った。
地名だけを見ても、寄せ手にとって不吉に聞こえた。
城方の奮戦
4日から戦いが始まった。
寄せ手が高倉尾から攻め上がると、愛曾軍は仁王堂前で防いだ。
城内には生死を顧みない勇士が集まり、命を捨てて戦った。
一方、寄せ手の大名たちは高い功績と厚い所領を持ち、味方の大軍だけを頼りとしていた。
自分自身の大事と思って戦う者は少なかった。
そのため毎日の戦いで、城方が勝たない日はなかった。
浦上勢の攻撃失敗
赤松則祐は七百騎余りで泣尾へ向かった。
城を遠くから見て、
「敵は小勢である。
一度攻めてみよ」
と命じた。
浦上・吉田・長田・菅野氏らが険しい坂を登り、盾の近くまで進んだ。
ほかの部隊も同時に攻めれば、一気に城を落とせただろう。
しかし大軍は、
「今日か明日には自然と落ちる城だ。
苦労して攻める必要はない」
と見物していた。
浦上ら攻め込んだ者は、一人残らず盾の下へ射倒され、元の陣へ退いた。
伊勢神宮の神託
城方は勝って少し士気を取り戻した。
しかし敵は大軍であり、城の設備も十分ではなかった。
石堂・上杉は不安を抱いていた。
すると愛曾伊勢守へ仕える少年が突然狂い、十丈ほども飛び上がって叫んだ。
「私には伊勢大神宮が乗り移っている。
城を守護するため、三本杉の上へおられる」
「敵がどのような大軍であっても、私がいる間、この城は落ちない」
「悪行が身へ返り、師直・師泰は七日のうちに滅びる。
それを知らないのか」
「ああ、熱い。耐えられない。
三熱の炎を冷まそう」
少年は閼伽井へ飛び込んだ。
水は煮えた湯のように沸き返った。
城内の人々は神託を信じ、頭を下げた。
山鳩が火を消す夢
赤松則祐も神託を聞き、
「この城攻めは、うまくいかないのではないか」
と思った。
その時、息子の朝範が兜を枕として眠り、夢を見た。
寄せ手一万騎が城の盾際へ火をつけた。
すると石清水八幡宮と金峯山の方角から、数千羽の山鳩が飛来した。
翼を水へ浸し、櫓や盾へ燃えついた火を消した。
朝範が夢を話すと、則祐は言った。
「やはりこの城には神の守護がある。
事態が困難となる前に退きたい」
ちょうど美作で敵が起こり、赤松領へ向かっていると聞いたため、則祐は光明寺の陣を捨て、白旗城へ帰った。
空から飛来した白旗
軍勢は一騎加わるだけでも士気が上がり、一人減るだけでも気力が落ちる。
寄せ手が次第に減ると、師直の兵は戦いを怠り、陣幕の中で休むようになった。
その時、南東の方角から怪しい雲が現れ、風に乗って飛んできた。
その下では無数の鳶や烏が乱れ飛んだ。
近づくと、それは雲でも霞でもなかった。
模様のない白旗一流が、天から飛び降りてきた。
人々は考えた。
「石清水八幡の守護を示す瑞兆だ。
この旗が落ちた側が戦いへ勝つだろう」
寄せ手も城方も手を合わせ、礼拝した。
旗は城の上へ飛び上がり、降りながら、しばらく風へ翻った。
次に寄せ手の上へ移った。
数万の兵は地面へ頭をつけ、
「自分たちの陣へ降りてくる」
と祈った。
鳥は四方へ散り、旗は高師直の陣幕の中へ落ちた。
兵たちは、
「めでたい」
と歓声を上げた。
二首の不吉な歌
師直は兜を脱ぎ、左の袖で旗を受けた。
三度礼をし、詳しく見ると、旗ではなかった。
何でもない古紙二、三十枚を縫い合わせた物だった。
裏には二首の歌が書かれていた。
吉野山
峰の嵐の
激しさに
高き梢の
花ぞ散り行く
限りあれば
秋も暮れぬと
武蔵野の
草はみながら
霜枯れにけり
師直は周囲へ、
「この歌は吉か凶か」
と尋ねた。
人々は心の中で恐れた。
「『高き梢の花が散る』とは、高一族が滅びることだろうか」
「『吉野山の嵐』とは、以前、師直が蔵王堂を焼いた罪が、その身へ返ることだろうか」
「『武蔵野の草がすべて霜枯れる』というのも、武蔵守師直の名へ関係する。
どれも不吉な歌だ」
しかし口では、
「どちらも、たいへんめでたい歌でございます」
と答えた。
247. 小清水の戦い――大軍が戦わずして崩れる
その日の夕方、摂津国守護・赤松範資から、尊氏へ使者が来た。
「八幡山から、
- 石堂頼房
- 畠山国清
- 上杉氏
を大将とする七千騎余りが、光明寺救援のため下っております」
「前には光明寺城が堅く守り、背後から新手の大軍が来れば、大変なことになります」
「光明寺攻めはいったん中止し、下ってくる敵を神尾・十林寺・小清水付近で迎え撃ってください」
「敵は小勢です。
こちらが一度勝てば、各地の敵も長くは持ちこたえられません。
一度の戦いで、すべての方面の勝利を決めるべきです」
範資は一日に三度も早馬を送り、繰り返し勧めた。
尊氏・師直・師泰も、
「確かに敵は小勢で、味方は十倍である。
険しい山城だから攻められないのであって、平地で戦えば負けるはずがない」
と判断した。
2月13日、光明寺の麓を出て、兵庫湊川へ向かった。
畠山国清軍
畠山国清は三千騎余りで播磨国東条へいた。
尊氏軍の動きを聞き、
「どこであっても、師直・師泰のいる場所へ向かおう」
と、湯山を南へ越え、打出北側の小山へ陣を置いた。
光明寺へ立てこもっていた石堂・上杉軍も城を捨て、畠山軍へ加わった。
17日夜、尊氏・高一族の二万騎余りが御影浜へ到着し、正面軍と搦手へ分かれた。
「正面の戦いが半ばとなった時、搦手は南の浜から攻め、敵を中央へ包囲せよ」
と命じられた。
薬師寺公義の旗
薬師寺公義は、
「今度も味方は大軍だけを頼り、戦いを誤るのではないか」
と心配した。
そこで自分の部隊が見分けられるよう、絹三幅を縫い合わせた長さ五尺の旗を作り、両側へ赤い手を描いた。
二百五十騎余りで雀松原へ控え、正面の戦いが始まるのを待った。
正面軍の敗走
河津氏明・高橋英光ら大旗一揆六千騎余りが、畠山軍へ押し寄せ、鬨の声を上げた。
畠山軍は静まり返り、声を上げなかった。
薮や木陰へ隠れ、進んでは射て、退いては射た。
足利軍の前列数百人が馬から逆さまに射落とされた。
後陣は足を止め、進めなくなった。
河津氏明は、
「矢の戦いだけでは勝てない。
太刀を抜いて攻めよ」
と命じた。
自ら弓を薮へ投げ、三尺七寸の太刀を抜き、高い岸へ駆け上がった。
すると四方から矢を受け、
- 馬の首
- 草脇
- 左腕
- 右膝
へ深く刺さった。
馬は膝を折って倒れ、河津は血まみれで立った。
畠山軍二百騎余りが攻めかかると、後方の足利大軍は新手を入れることも、負傷した河津を助けることもせず、一斉に逃げた。
原義実の誤った合図
石堂軍の陣は十町余り離れており、味方が勝っているかどうか分からなかった。
「打出浜に三流の旗が見える。
敵か味方か確認せよ」
原義実が一騎で向かった。
薬師寺の赤い手を描いた旗を見て、敵と判断した。
原は、
「馬を疲れさせずに知らせよう」
と、遠くから扇を上げ、味方を招いた。
「浜の南にいるのは敵です。
しかも正面の戦いでは味方が勝っております。
すぐに攻めてください」
気の早い石堂・上杉勢は考えることなく、七百騎余りで攻めかかった。
すると薬師寺の背後へいた師直・師泰の大軍は、まだ矢を一本も射られていないのに、一斉に逃げ出した。
梶原兄弟
梶原孫六・弾正忠兄弟は正面軍へいた。
味方の敗走に巻き込まれ、六、七町ほど退いた。
しかし後世の名を恥じたのか、二騎だけで引き返し、敵の大軍へ入った。
初めは一緒に戦ったが、後には別々となった。
孫六は敵三騎を斬り、敵陣の反対側へ抜けた。
味方も続かず、敵も気づかなかったため、笠印を袖へ隠し、西宮を通って逃れた。
夜、小舟で尊氏の陣へ戻った。
弾正忠は敵へ紛れず、七、八度まで馬煙を上げて戦い、藤田・猪股の二騎に包囲されて討たれた。
敵は、
「何という勇士だ。名を知りたい」
と遺体を調べた。
箙の上へ梅の枝一つを差していた。
そのため、
「一ノ谷で二度先駆けし、名を上げた梶原景時の子孫だ」
と、名乗らずして身元を知られた。
薬師寺の十六度の反撃
薬師寺公義は味方二万騎が崩れても、少しも慌てなかった。
二百五十騎で石堂・上杉の七百騎を山際まで追い返し、味方の到着を待った。
誰も来なかったため、波打ち際へ控えた。
石堂・畠山軍は、
「赤い手の旗は薬師寺だ。
一人も逃すな」
と追撃した。
薬師寺軍は敵が近づくたびに馬を返して戦い、前をふさがれれば一斉に攻め破った。
打出浜東側から御影浜松原まで、十六度も反撃した。
最後には薬師寺の周囲へ残る兵は六騎となった。
途中、敵七騎へ包囲された松田氏を発見すると、六騎で救援し、命を助けた。
その後、散った家臣が集まり、百騎ほどとなった。
石堂・畠山軍を三町ほど追い返すと、敵も疲れたのか、それ以上追わなかった。
戦いは終わった。
前夜の不吉な夢
足利方は兵力も武士の質も、敵とは比較にならないほど優れていた。
それなのに戦わず大敗した。
人々は、
「普通のことではない」
と考えた。
前夜、武蔵五郎師夏と河津氏明は、まったく同じ夢を見ていた。
広い平野の西には、
- 師直
- 師泰
- 高一族
- その家臣数万騎
が並んでいた。
東には、
- 直義
- 石堂氏
- 畠山氏
- 上杉氏
千騎余りが向かい合っていた。
戦いが始まると石堂・畠山軍は旗を巻き、退いた。
師直・師泰軍が追撃すると、雲の上から錦の旗一流を掲げた百騎ほどが現れた。
左の大将は吉野の金剛蔵王権現で、角を生やし、八本の脚を持つ馬へ乗っていた。
小守・勝手明神が金の鎧と鉄の盾を持ち、前後へ従った。
右の大将は四天王寺の聖徳太子で、甲斐の黒駒へ白鞍を置いて乗っていた。
- 蘇我馬子
- 小野妹子
- 跡見赤檮
- 秦河勝
が武装して先頭を進んだ。
師直・師泰軍は、神々の軍勢を小勢と見て包囲しようとした。
蔵王権現が、
「あれを射落とせ」
と命じると、小守・勝手・赤檮・河勝が四方へ走った。
同時に放った矢は、
- 師直
- 師泰
- 師夏
- 師世
の眉間を貫き、全員が馬から逆さまに落ちた。
そこで夢は覚めた。
二人は朝、この夢を語り、
「今日の戦いは危険なのではないか」
と心配した。
果たして大敗した。
この先も高一族は安泰ではないと、聞いた者は皆思った。
夢の記録は吉野の寺僧が持っており、広く知られていたという。
248. 松岡城の混乱――尊氏・高一族、自害を覚悟する
小清水の戦いへ敗れた足利兵二万騎余りは、四方四町にも満たない松岡城へ、
「我も我も」
と押し込んだ。
城内は靴の中へ足の指を詰めたように混み合い、少しも動けなかった。
「このままでは守れない。
主だった者以外は中へ入れるな」
として、家臣や若党は城外へ追い出された。
四方の関門も下ろされた。
兵たちが次々と逃げる
もともと逃げたいと思っていた兵は、これを理由にした。
「執事の状態は、何とも頼りない。
誰のために討ち死にするのか」
と、何人かずつ連れ立って逃げた。
道には敵がいるため普通には逃げられないと思う者は、
- 漁師を装い、破れた蓑を着て船で淡路へ渡る
- 草刈り男へ変装し、竹籠を担いで須磨・生田の山へ裸足で逃げる
などした。
運が傾いた時とはいえ、臆病神へ取りつかれた者ほど見苦しいものはない。
夜が深くなると、先ほどまで人が押し合っていた城内は寂しくなり、誰もいないように見えた。
残った兵は五百騎
尊氏は師直・師泰を近くへ呼び、尋ねた。
「一度敗れただけで逃げるとは、情けない者たちだ。
それでも饗庭命鶴や高橋、海老名六郎らは残っているだろう」
「その者たちも、すでに逃げました」
「長井治部少輔、佐竹加賀はどうか」
「皆、逃げました」
「では残る兵は、どれほどか」
「将軍直属軍、師直の家臣、赤松範資勢を合わせても、五百騎を越えません」
尊氏は言った。
「それでは世の中も、今夜で終わりなのだろう。
それぞれ覚悟をせよ」
鎧を脱いで押しのけ、小具足だけとなった。
高一族の自害準備
これを見て、
- 師直
- 師泰
- 師夏
- 師世
- 高一族七人
- 主だった家臣二十三人
が、十二間の客殿へ二列に並んだ。
諸天へ焼香し、鎧直垂の上衣を脱ぎ、袴だけとなった。
尊氏が自害すれば、ともに死ぬため、腰刀へ手を掛けて静かに座った。
赤松範資の最後の酒宴
厩侍では赤松範資を上座とし、一族・若党三十二人が並んだ。
「最後の酒盛りをし、自害の覚悟を決めよう」
大きな酒樽を満たし、盃を回した。
範資は十三歳の次男・直頼を呼び、涙を流しながら言った。
「鳥が死のうとする時、その鳴き声は悲しい。
人が死のうとする時、その言葉は善いという」
「私の言葉を耳へ留め、父の教えを忘れず、身を慎み、先祖の名を辱めるな」
「将軍が自害されるため、私も供をする。
家臣たちも、ともに死ぬ覚悟だろう」
「しかしお前はまだ幼い。
今、腹を切らなくても、誰も強く非難しない」
「叔父の則祐は、お前を養子にすると約束している。
赤松へ戻り、則祐を実の父と思って生きるか、出家して私の後世を弔い、自分の命を助けよ」
座中の者は皆、涙を流した。
十三歳の直頼の返答
直頼は父の言葉を聞き、扇を持ち直して答えた。
「幼少とは五歳、六歳、せいぜい十歳未満をいうのでしょう。
私はすでに善悪が分かります」
「この場へいながら父上の自害を見捨て、一人で故郷へ帰れば、誰を父と頼り、誰へ顔を向ければよいのでしょう」
「禅僧になれば沙弥や喝食から指を差され、聖道門の僧となっても子どもたちに笑われるでしょう」
「後にどれほど栄える運があっても、父上より遅れて生きる気持ちはありません」
「最後の盃に順番を争う必要がありますか。
私が先に飲み、覚悟を示します」
直頼は盃を傾け、糟谷保連へ渡した。
盃は次々と回った。
迷いの酒へ酔う中、近づく死が何とも哀れだった。
249. 高師直・師泰の出家と、薬師寺公義の遁世
その時、東の城門を激しくたたく者がいた。
人々が、
「誰だ」
と尋ねると、前夜に逃げたと噂された饗庭命鶴丸の声だった。
「和睦が成立し、合戦は行われません。
慌てて自害なさらないでください」
門を開くと、命鶴は尊氏の前へ進んだ。
命鶴の和睦交渉
「昨夜、事情を申し上げず城を出たため、逃げたと思われたでしょう」
「味方の軍勢が気力を失っているのを見て、このまま戦っても勝てず、逃げても助からないと思いました」
「そこで畠山国清の陣へ行き、和睦を申し入れました」
「直義殿も毎日、和睦のことだけを話しておられます」
「高兄弟の不義も、一度思い知らせる程度であり、深く処刑する考えまではないようです」
「親以上に親しいのが同じ父母を持つ兄弟であり、子にも劣らず懐かしいのが長年の主従関係です。
獣にもその心があるのだから、人間はいうまでもない」
「合戦となっても、無慈悲な処置をするなという八幡山からの手紙も数通、見せられました」
尊氏も師直・師泰も、
「それならば問題ない」
と考え、自害を中止した。
師直兄弟は出家を考える
直義は尊氏の弟であるため、尊氏を深く憎んではいないだろう。
しかし前年の師直の御所包囲については、今も憎んでいるはずだった。
高兄弟は相談した。
「降伏するならば、頭を剃って出家してから行くべきか。
それとも尊氏を赤松城へ送り、師直は四国へ逃れるべきか」
薬師寺公義の反対
薬師寺公義は言った。
「どうして、そのような役に立たない相談をするのですか」
「源為義は罪を謝るため出家しましたが、実の子義朝によって首を斬られました」
「どれほど戒律を守る僧となっても、直義殿の怒りや上杉・畠山一族の恨みが消えるとは思えません」
「剃髪した遺体へ血を流し、墨染めの衣を汚して、後世へ悪名を残すだけです」
四国への逃亡も不可能
「尊氏殿を赤松城へ送り、師直殿が四国へ逃れる案もよくありません」
「細川顕氏も直義殿の命令で大軍を率い、三石へ到着したと聞きます。
尊氏殿が摂津で敗れ、赤松へ逃れたと聞けば、討とうとするでしょう」
「四国へ渡る船も用意していません。
各地の港で順風を待つ間に敵が追いつけば、今の味方の兵の中に、まともに矢を射る者がいるでしょうか」
最後まで戦うべきと主張する
「人に生まれつきの勇者・臆病者がいるのではなく、進退は気持ちによります。
敵へ攻めかかる時には勇敢となり、一歩退けば臆病となります」
「味方が完全に離散しないうちに、全員討ち死にの覚悟で、もう一度敵へ攻めかかるほかありません」
公義は言葉を残さず説いた。
しかし師直・師泰は呆然とするだけで、降伏・出家の方針を変えなかった。
薬師寺公義の出家
公義は涙を流した。
「范増が、
『子どものような者とは、ともに計略を立てられない』
と言ったのも道理だ」
「運の尽きた人の姿ほど、嘆かわしいものはない」
「この人々とともに死んでも、何の名誉があるだろう。
それより世を捨て、この人々の後世を弔おう」
公義は歌を詠んだ。
取れば武士
取らねば人の
数ならず
捨つべきものは
弓矢なりけり
意味は、
弓矢を取れば武士となる。
取らなければ、人として数えられないほどに扱われる。
しかし今、自分が捨てるべき物は、その弓矢なのだ。
自ら髻を切り、墨染めの衣へ着替え、高野山へ上った。
高野山の茅葺きの庵と松風は、人間世界の外にある天地のようだった。
高野山
憂き世の夢も
覚めぬべし
その暁を
松の嵐に
と詠み、しばらく静かな隠者となった。
このように戦いを機会として世を捨てる姿は風雅ではあった。
しかし木曾義仲を諫めきれず、主君とともに自害した今井兼平の忠義と比べれば、かなり劣るように思われた。
250. 高師冬の自害――烏帽子子・諏訪五郎の忠義
高師冬は師直の養子だった。
尊氏の三男である鎌倉公方・足利基氏の執事として、鎌倉へ下っていた。
上杉民部大輔とともに関東の政治を担当し、その権勢は関東八か国へ及んでいた。
師直・師泰兄弟は、ひそかに考えていた。
「西国では師直へ背く者が多くても、関東は問題ないだろう。
本当に事態が困難となったならば、兵庫から船で鎌倉へ下り、師冬と合流しよう」
関東も直義方となる
25日の夜中ごろ、甲斐国から一人の時宗僧が来た。
ひそかに師直へ事情を話した。
「前年12月、上杉民部大輔の養子で、上野国守護代だった左衛門蔵人が、鎌倉方として兵を挙げました」
「父の上杉民部大輔は、
『養子を討伐する』
と称して上野へ下りましたが、実際には養子と同心しました」
「そのまま武蔵国へ入り、坂東八平氏と武蔵七党を味方へつけました」
師冬には一騎も集まらない
「師冬殿は関東八か国へ招集をかけました。
しかし一騎も集まりませんでした」
「このままではいけないとして、足利基氏殿を先頭にし、五百騎だけで上野へ向かいました」
「ところが道中で、裏切らないと信じていた兵たちが心を変え、基氏殿を奪いました」
「基氏殿の後見役・三戸七郎は味方同士の戦いで重傷を負い、行方不明となりました」
師冬、甲斐へ逃れる
「上杉方はますます大軍となり、師冬殿には誰も従わなくなりました」
「師冬殿は状況を知らせるため、甲斐国へ逃れ、須沢城へ立てこもりました」
「諏訪下社の祝部が六千騎余りで攻め寄せ、三日三夜戦いました。
死傷者は数えきれません」
諏訪五郎が師冬方へ移る
「敵が正面へ集中した隙に、山の案内者が背後へ回り、高所から攻め下りました」
「城が落ちようとした時、師冬殿の烏帽子子である諏訪五郎が現れました」
初め諏訪五郎は祝部へ従い、城を攻めていた。
しかし城が弱るのを見ると、考えた。
「私は師冬殿と烏帽子親子の契りを結んでいる。
世間のすべてが背いたからといって、自分まで不義を行ってよいものか」
「曾参は『勝母』という名の里へ入らず、孔子は『盗泉』という名の泉の水を飲まなかったという。
君子は、実際に悪事をしていなくても、名が不正なものへ近づくことさえ恐れる。
まして義へ背く行いを、どうしてできるか」
諏訪五郎は祝部へ最後の別れを告げ、城内へ入った。
今度は命を惜しまず、寄せ手を防いだ。
六十四人が自害する
背後から城が破られ、敵が四方から入った。
諏訪五郎と師冬は互いの手を取り、腹を切って倒れた。
そのほか、義を重んじ、名を惜しむ武士六十四人も同時に自害した。
名を墓地の苔へ残し、遺体を戦場の土へさらした。
その後、東国・北国は残らず直義方となった。
高兄弟は最後の頼みを失う
九州九か国は直冬へ従った。
四国は細川顕氏へ従い、すでに須磨・大蔵谷付近まで迫っていると伝えられた。
最後の頼みだった関東でも、師冬が討たれた。
師直・師泰は、
「どこへ逃れ、誰を頼ればよいのか」
と、勇ましかった顔へ心細さを見せた。
命とは、実に捨てにくいものだった。
高兄弟は、
「出家すれば命を助けられるかもしれない」
と、信仰心もないまま出家した。
師直は道常、師泰は道勝と名乗り、袈裟も十分でない僧衣に太刀を下げ、降伏者として現れた。
見る者は皆、非難した。
「出家の功徳は大きいため、来世の罪は免れるかもしれない。
しかし現世の命は助からないだろう」
251. 高師直・師泰一族の滅亡――血気の勇者と仁義の勇者
2月26日、尊氏と直義の和睦が成立し、一行は京都へ向かった。
師直・師泰兄弟も出家者の姿へ紛れ、無常の道を進んだ。
春雨が静かに降っていた。
数万の敵兵が各所へ控える中を通った。
正体を知られないよう蓮の葉笠を深くかぶり、袖で顔を隠した。
しかし天下に名を知られた人物である。
かえって隠れることができず、身を置く場所のない姿が哀れだった。
尊氏から引き離される
師直兄弟は、
「尊氏殿から離れれば、道中で何をされるか分からない」
と恐れた。
少しも後れないよう、馬を速めた。
しかし上杉・畠山方の兵は、事前に計画していた。
街道の両側へ、
- 百騎
- 二百騎
- 五十騎
- 三十騎
と分かれて待ち受けた。
師直一行を見ると、尊氏と高兄弟の間へ馬を入れ、少しずつ距離を広げた。
武庫川を過ぎるころ、尊氏と師直の間は川や山を隔て、五十町ほど離れていた。
権勢からの転落
盛衰が一瞬で入れ替わることは、何と哀れなことだろう。
師直が天下の執事だったころ、大名や高家は、その笑顔を見るだけで大領地を得たように喜んだ。
少しでも不機嫌な顔を見れば、雷を頭へ載せ、大河を渡るように恐れた。
尊氏と師直が馬を並べて進む間へ、誰が割って入ることができただろう。
今は名前も知られない地方武士や、その家臣たちに押し分けられた。
馬のはねる泥水を掛けられ、僧衣は深い泥で汚れた。
降り続く雨とともに、涙も袖を濡らしたことだろう。
高師直の最期
武庫川を渡り、小さな堤を進んだ時、三浦八郎左衛門の下人二人が走り寄った。
「顔を隠している、この出家者は何者だ。
笠を脱げ」
師直の蓮葉笠を引き裂き、投げ捨てた。
頬かぶりも外れ、顔の半分が見えた。
三浦は、
「見つけたぞ。長年望んでいた敵だ」
と喜んだ。
長刀の柄を伸ばし、首を斬り落とそうとして、右肩から左脇へ斬りつけた。
師直が、
「あっ」
と叫ぶと、さらに二度打った。
師直は馬から落ちた。
三浦は飛び降り、首を斬り、長刀の先へ刺して掲げた。
高師泰以下の死
半町ほど離れていた師泰は、兄の死を見て逃げようとした。
吉江小四郎が槍で、肩甲骨から左胸の下まで突き通した。
師泰が槍へつかまり、懐の刀を抜こうとすると、吉江の下人が鐙を返して馬から引き落とした。
首を切り、あごから喉へ槍を通し、掲げて走った。
ほかの高一族も、次々と討たれた。
- 高豊前五郎は小柴新左衛門
- 高備前守は井野弥四郎
- 高師世は長尾彦四郎
- 遠江次郎は小田左衛門五郎
- 山口入道は小林又次郎
- 彦部七郎は小林掃部助
- 梶原孫六は佐々宇六郎左衛門
- 山口新左衛門は高山又次郎
らによって討たれた。
梶原孫七の死
梶原孫七は十町余り先を進んでいた。
「後方で戦いが起こり、師直殿が討たれた」
と聞き、引き返して刀を抜き、戦った。
自害しかけたまま道端へ倒れていた。
長年の友人である阿佐美三郎左衛門は、
「他人の手へ掛かるよりは」
と、泣きながら首を取った。
鹿目平次左衛門のだまし討ち
鹿目平次左衛門は山口氏が討たれるのを見て、
「次は自分の番だ」
と考えたのだろう。
後ろにいた長尾三郎左衛門へ刀を抜いて向かった。
長尾は落ち着いて言った。
「あなたが討たれる場面ではありません。
間違いを起こして命を失わないでください」
鹿目は安心して刀を鞘へ戻し、長尾と話しながら進んだ。
しかし長尾が下人へ目配せすると、二人が鹿目の馬へ近づいた。
「馬の沓を切って差し上げます」
と言いながら、刀で鹿目の腕を二度刺した。
馬から引き落とし、長尾に首を取らせた。
河津氏の自害
河津左衛門は小清水の戦いで重傷を負い、馬へ乗れず、輿で後方から進んでいた。
「師直殿は、もう討たれた」
と聞くと、道端の辻堂へ輿を置かせ、腹を切って死んだ。
十五歳未満の師夏
師直の子・武蔵五郎師夏は、西左衛門四郎に生け捕りにされた。
両手を厳しく縛られ、夕方まで処刑を待たされた。
師夏は二条前関白の妹を母とする高貴な生まれだった。
容姿は人より優れ、心も穏やかで優雅だった。
尊氏からも特に愛され、世間の人々も競って重んじた。
年齢は、まだ十五歳にも満たなかった。
出家すれば助命すると試す
夜になると縄を解かれ、首を斬られようとした。
西左衛門四郎は師夏の心を試そうとした。
「命が惜しいならば、今夜すぐ髻を切り、僧か念仏者となって、一生を静かに暮らしなさい」
師夏は、すぐに返答しなかった。
「父・師直殿は、どうなられましたか」
と尋ねた。
「すでに討たれました」
と聞くと、師夏は答えた。
「それならば、誰のためにわずかな命を惜しむのでしょう」
「死出の山や三途の川も、父とともに渡りたいと思います。
急いで首を取ってください」
敷皮へ座り直した。
処刑役は涙を流し、しばらく顔を上げられなかった。
しかし、そのままにはできない。
師夏は西へ向かい、念仏を十回ほど唱えた。
そして首を斬られた。
高一族の兵は戦わず消える
小清水の戦いの後、師直方の兵は四方へ散っていた。
それでも松岡城を出る朝までは、六百、七百騎ほどいた。
ところが高一族が討たれる時、どこへ逃げたのか、下人に至るまで誰も残っていなかった。
討たれたのは十四人だけだった。
その十四人も、日ごろ何度も戦いで名を上げた勇士だった。
運が尽きて最後に助からないとしても、心を一つにして戦えば、それぞれ敵と戦って死ぬことはできたはずである。
それなのに一人も敵へ太刀を当てず、斬り落とされ、押さえられ、無抵抗で首を取られた。
天罰とは分かっていても、何とも情けない最期だった。
二種類の勇者
武士には、
- 血気の勇者
- 仁義の勇者
という二種類がある。
血気の勇者
血気の勇者は、戦場へ出るたびに勇み、腕を振るい、強敵を破り、堅陣を砕く。
その速さは怒る鬼神のようである。
しかし利益によって誘われ、味方の勢いが衰えると、逃げ道があれば降伏し、恥を忘れる。
あるいは本当の信仰心もないまま出家する。
このような者が血気の勇者である。
仁義の勇者
仁義の勇者は、必ずしも人と先陣を争わない。
敵を見ても大声で威勢を示さない。
しかし一度約束し、頼られたならば、二心を抱かない。
心を変えず、大事を前にして志を奪われず、家や国が傾く時には命を軽くする。
このような者が仁義の勇者である。
心を何度も変える乱世
聖人が去って久しく、人々は悪へ染まりやすいため、仁義の勇者は少なく、血気の勇者が多い。
昔、中国の漢楚戦争七十余度、日本の源平争乱三年間では、勝敗が何度も入れ替わった。
しかし一度降伏した後、再び敵へ降る者はほとんどいなかった。
元弘以来の争いでは、天下の人々が五度、十度と敵味方を変えた。
心を変えない者はまれだった。
そのため天下の戦いは終わらず、勝敗も定まらない。
高師直・師泰の兵も、日ごろの名誉や武功はすべて、血気の勇気によるものだった。
本当に仁義の勇者であったならば、この時に千騎、二千騎が討ち死にし、後世へ名を残したはずである。
孔子の、
仁ある者は必ず勇気を持つ。
しかし勇気ある者が、必ず仁を持つとは限らない。
という言葉は、まことにそのとおりだと思われた。