ホーム | 太平記 全40巻・全339章 | ← 巻第十六 | 巻第十八 →
巻第十七は、延元元年(1336年)の比叡山・京都をめぐる攻防から、後醍醐天皇の京都還幸、新田義貞が恒良親王・尊良親王らと北陸へ向かい、金ヶ崎城の攻防が始まるまでを描く。
巻第十七|目次
- 比叡山攻防――日吉大社の神託
- 二度の京都攻撃――足利軍の伏兵と官軍の敗北
- 比叡山、南都へ援軍を求める
- 四条隆資、八幡から京都へ攻め寄せる
- 新田義貞の京都合戦――名和長年の討ち死に
- 近江の戦い――佐々木道誉の偽降伏
- 後醍醐天皇、比叡山から京都へ還幸する
- 恒良親王を新田義貞へ託す――鬼切を日吉社へ奉納
- 新田義貞、北陸へ落ちる
- 還幸に従った人々の拘禁・処刑
- 北国へ向かう軍勢の凍死
- 瓜生保の変心――義鑑房が脇屋義治をかくまう
- 16騎、金ヶ崎城へ入る
- 金ヶ崎の船遊び――白魚が船へ入る
- 金ヶ崎城の攻防――野中八郎の忠節
※読み方:軍勢の数、超人的な戦闘、神託、瑞兆、怪異、神仏の加護、因果応報などは、『太平記』本文の叙述であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定が一般的な歴史叙述や現存史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、尺・寸・丈・町・斗など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。一方、中世・中国説話の「里」や当時の貨幣は単純に現代単位へ換算しない。
145. 比叡山攻防――日吉大社の神託
足利方、比叡山への総攻撃を決める
後醍醐天皇が2度目の比叡山行幸を行うと、比叡山三千の衆徒は、以前の春に官軍が勝利した時と同じように、二心なく天皇を守った。
さらに北陸や奥州から援軍が到着するのを待っているという。
足利尊氏・足利直義、高氏・上杉氏らは東寺へ集まり、今後の戦いについて相談した。
「戦いを長引かせ、新田義貞に援軍が加われば勝つことは難しい。
官軍の勢力がまだ弱いうちに、比叡山を攻めるべきである」
こうして延元元年(1336年。北朝年号では建武3年)6月2日、足利方は攻撃する方面を定めた。
『太平記』本文では、正面と背後を合わせて50万騎という巨大な軍勢が比叡山へ向けられたと記す。
東側の正面軍
正面から攻める軍の大将には、
- 吉良氏
- 石塔氏
- 渋川氏
- 畠山氏
が選ばれた。
その軍勢は5万騎余りだった。
足利軍は、
- 大津
- 松本の東西の宿
- 焼け跡となった園城寺
- 志賀
- 唐崎
- 如意ヶ岳
までを埋め尽くした。
今道越から無動寺を目指す軍
背後へ回る別働隊では、
- 仁木氏
- 細川氏
- 今川氏
- 荒川氏
らが大将となった。
四国・中国地方の兵、8万騎余りを率い、今道越から三石の麓を通って、無動寺方面へ攻め寄ろうとした。
西坂本を攻める高一族
西坂本方面には、
- 高豊前守師重
- 高土佐守
- 高伊予守
- 南部遠江守
- 岩松氏
- 桃井氏
らが大将として向かった。
『太平記』本文では、この軍勢を30万騎と記す。
彼らは、
- 八瀬
- 藪里
- 静原
- 松崎
- 赤山
- 下松
- 修学院
- 北白川
までを埋め、音無の滝・不動堂・白鳥方面から山へ登ろうとした。
比叡山は攻撃を予想していなかった
比叡山側は、敵がこれほど早く山中まで攻め寄せるとは予想していなかったのだろう。
各道へ守備兵を置かず、関所や逆茂木も造っていなかった。
道はたいへん険しかった。
しかし足利軍の馬は岩道を進むことに慣れていたため、登れない場所はほとんどなかった。
官軍の主力は東坂本にいた
この時、新田義貞をはじめ、
- 千葉氏
- 宇都宮氏
- 土肥氏
- 得能氏
らの武士は、東坂本へ集まっていた。
山頂には、歩くことも難しい老僧や、学問のため部屋へ閉じこもっている学僧を除けば、戦える者は1人もいなかった。
深い朝霧が足利軍を止める
この時、西坂から登る足利方の大軍が、少しも止まらず比叡山の最高部まで進んでいたならば、山上にも坂本にも防ぐ方法はなく、1度に陥落していただろう。
『太平記』はここで、山王権現や伝教大師の加護があったのではないか、と語る。
※神託・瑞兆について:この章に現れる朝霧、少年を通じた神託、猿が鐘を鳴らす話などは、『太平記』が神仏の加護を示す出来事として配置した叙述であり、史実として確認された現象とは区別して読む。
突然、深い朝霧が立ち込め、ほんの近くさえ見えなくなった。
前陣の味方が上げた鬨の声を、
「敵が防戦し、矢を射ながら叫んでいる声だ」
と聞き間違えた。
そのため後陣の大軍は前進せず、意味もなく時間を費やした。
比叡山の僧兵が帰ってくる
そのころ、大宮へ下り、三塔の会合へ出席していた僧兵たちが山へ戻ってきた。
僧兵たちは将門童子堂付近で足利軍を迎え、
「ここを最後の防衛線とする」
と覚悟して戦った。
先頭へ進んだ足利兵300人が討ち取られた。
前陣が進まないため、後陣も前へ出られなくなった。
足利軍は水飲の木陰へ陣を取り、道を掘り切って境界とし、盾を並べた。
敵味方は遠矢を射交わすだけで、その日はむなしく暮れた。
東坂本へも足利軍が迫る
西坂で戦いが始まったらしく、鬨の声が山へ響いた。
『太平記』本文では10万騎余りとされる志賀・唐崎方面の足利軍も、東坂本西側の穴生の前へ押し寄せ、鬨の声を上げた。
東坂本の堅固な防御
足利方が官軍の陣を見ると、無動寺の麓から琵琶湖の波打ち際まで、深さ2丈余り(約6m超)の空堀が掘り通されていた。
所々へ橋が架けられ、岸の上には土塀が造られていた。
関所と逆茂木が隙間なく置かれ、渡櫓・高櫓が300か所余りも並んでいた。
中黒の旗が並ぶ義貞の本陣
塀の上から見渡すと、
「ここが総大将の陣だろう」
と思われる場所に、新田氏の中黒の旗が30流余り掲げられていた。
旗は山から吹き下ろす風を受け、竜や大蛇のように翻っていた。
その下には陣屋が並び、油を引いた幕が張られていた。
見事な鎧を着た兵2、3万騎が、それぞれ部隊ごとに並び、後ろへ馬を待機させていた。
無動寺・白鳥方面の守り
無動寺の麓から白鳥方面を見ると、
- 千葉氏
- 宇都宮氏
- 土肥氏
- 得能氏
- 四国・中国地方の武士
らが守っているようだった。
左巴・右巴・月に星・片引両・折敷に三文字などの旗60流余りが、木々の梢へ翻っていた。
その下には兜の緒を締めた兵3万騎余りが、敵が近づけば高所から側面へ攻め下ろうと、馬を並べて待っていた。
琵琶湖上の水軍
琵琶湖の方を見ると、西国・北国・東海道から集まった、水上戦に慣れた兵が並んでいた。
- 亀甲
- 裾濃
- 瓜
- 連銭
- 三星
- 四つ目結
- 赤旗
- 水色
など、各家の紋を描いた旗300流余りが湖面に影を映していた。
船を並べた舷には数万人の射手が立ち、盾の陰から横矢を射る用意をしていた。
足利軍は兵数で勝りながら動けない
足利方は大軍だった。
しかし官軍の構えと勢いに圧倒され、矢の届く場所まで進めなかった。
大津・唐崎・志賀の里の300か所余りに陣を置き、遠くから攻撃するだけとなった。
西坂軍へ総攻撃を求める
1336年6月6日、東側の足利軍は西坂の軍へ使者を送った。
「こちらの敵陣を見ると、新田・宇都宮・千葉・河野氏ら、主だった武士はほとんど東坂本を守っているようです。
西坂には険しい地形を頼みとして、公家や山法師だけを向かわせているのでしょう。
1度、激しく攻めてみてください。
大した防戦はできないはずです。
大岳の敵を追い落としたならば、大講堂・文殊楼付近へ陣を置き、火を上げてください。
こちらも同時に攻撃し、東坂本の敵を1人残らず琵琶湖へ追い込み、滅ぼしましょう」
高師重の残酷な命令
西坂の大将・高豊前守師重は、使者の言葉を聞き、全軍へ命令を出した。
「比叡山を攻め落とす総攻撃は明日である。
この戦いで一歩でも退いた者は、以前にどれほど大きな忠義を立てていても、所領を没収し、軍から追放する。
敵と太刀を交え、陣を破り、敵の首や武具を取った者は、身分の低い者ならば武士へ取り立て、御家人ならば直ちに恩賞を与える」
比叡山を焼き払えと命じる
師重は続けた。
「ただし自分1人の手柄を求め、勝手に先駆けしてはならない。
仲間の功績を妬み、危険な場所で見捨ててもならない。
互いに力を合わせ、心を一つにせよ。
斬られても射られても構わず、乗り越えて進め。
敵が退けば、立て直す隙を与えず山頂まで攻め上れ。
堂舎・仏閣へ火を放ち、一棟も残さず焼き払え。
比叡山三千の衆徒の首を、1人ずつ大講堂の庭へ斬り掛け、将軍からお褒めを受けよ」
仏堂を焼き、僧侶を皆殺しにせよという、恐ろしい命令だった。
西坂から20万騎が登る
諸国の兵は、この命令を聞いて勇み立った。
夜が明けると、
- 三石
- 松尾
- 水飲
の三方面から、『太平記』によれば20万騎が攻め上った。
太刀・長刀の切っ先を並べ、左袖を顔の前へかざし、
「えい、えい」
と声を上げながら登った。
千種忠顕ら300騎が全滅する
最初に防いだのは、中務卿親王の副将として頼られていた、
- 千種忠顕
- 坊門少将正忠
ら300騎余りだった。
しかし松尾方面から登った敵に背後を包囲され、1人残らず討ち取られた。
僧兵7000人が次第に退く
この様子を見た、
- 護正院
- 禅智坊
- 道場坊
などの僧兵7000人余りは、太刀を1度交えては退き、少し防いではさらに上へ退いた。
足利軍はますます勢いを得た。
息をつく暇も与えず追い立て、雲母坂や蛇池を左手に見ながら、大岳まで攻め上った。
老僧や学僧まで武器を取る
各院では早鐘が鳴らされた。
「西坂がすでに破られた」
と、本院の谷々で人々が騒ぎ始めた。
歩くこともできない老僧は、鳩の形をした杖にすがり、中堂や常行堂へ向かった。
「本尊とともに焼け死のう」
と嘆いた。
学問だけに励んできた学僧たちは、経典や仏教書を胸へ当て、逃げてくる荒法師から太刀や長刀を奪った。
そして四郎谷南側の箸塚へ駆け上がり、命を捨てて戦った。
江田泰氏と山神大夫定範の1騎討ち
大軍の中から1人、
「備後国の住人、江田源八泰氏」
と名乗る武士が現れた。
洗革の大鎧を着て5枚兜の緒を締め、所々がさび、血のついた4尺余り(約1.2m超)の太刀を持ち、まっすぐ坂を登った。
これを見て、杉本の山神大夫定範という荒法師が進み出た。
定範は黒糸威の鎧に竜頭の兜をつけ、3尺8寸(約1.15m)の長刀を短く持った。
ほかの者を交えず、2人だけで火花を散らして斬り合った。
2人は谷底へ落ちる
江田泰氏は長い坂を登り、すでに何度も戦っていたため、腕の力が弱り、受け太刀になることが多くなった。
定範は、
「今だ」
と長刀の柄を長く持ち、泰氏の兜を砕こうと何度も打ちつけた。
泰氏は兜の吹返しを目の上まで斬り下げられ、直そうとして顔を上げた。
定範は長刀を投げ捨て、走り寄って組みついた。
2人が強く踏んだため、山腹の土が崩れた。
2人は組み合ったまま、数千丈(『太平記』本文の誇張的な巨大表現で、現代の距離には換算しない)と記される笹原を、上になり下になりながら転がり落ちた。
途中で体が離れ、それぞれ反対側の谷底へ落ちた。
僧たちの必死の防戦
そのほか、十四の禅院や法華堂の僧に至るまで、僧衣の袖を結んで肩へ掛け、魔を降伏させる利剣として太刀を持った。
敵へ走りかかり、命を風に舞う塵よりも軽く考えて戦った。
そのため足利軍は前進できなくなった。
比叡山の最高部や西谷口まで、あと3町ほど(約330m)の場所で足を止め、息を整えた。
義貞と宇都宮軍が救援に来る
何者かが大講堂の鐘を鳴らし、危機を知らせた。
前日に横川方面へ派遣されていた宇都宮軍500騎が、鐙へ鞭を当てて西谷口へ駆けつけた。
さらに東坂本で天皇を守っていた新田義貞も、6000騎余りを率いて山頂へ登った。
義貞は紀氏・清原氏の両党を虎が獲物へ襲いかかる陣形で進ませ、江田・大館軍を魚の鱗のように並べた。
そして山上から、真っ逆さまに足利軍へ攻め下った。
足利軍が谷へ落ちる
『太平記』本文で20万騎とされる足利方は、水飲の南北にある谷へ追い落とされた。
人と馬が折り重なって落ちたため、深い二つの谷は死体で埋まり、平地のようになった。
足利軍はこの日の戦いに敗れ、予定していた東西同時攻撃もできなくなった。
水飲より下へ陣を取り、官軍の隙をうかがった。
義貞は東坂本を離れ、大岳へ陣を移した。
敵味方は昼夜を問わず戦ったが、互いの陣を破れず、西坂の戦いはいったん止まった。
東坂本への総攻撃を求める
翌日、高師重は大津の足利軍へ使者を送った。
「主だった敵は、すべて大岳へ向かったようです。
急いで東坂本へ攻め、神社・寺院・僧坊・民家を一棟も残さず焼いてください。
敵を山上へ追い上げ、東塔と西塔の間まで進んで煙を上げれば、大岳の敵は前後へ心を奪われ、進退を失うでしょう。
その時こちらからも攻め上り、1度に勝敗を決しましょう」
足利軍18万騎が東坂本を攻める
吉良・石塔・仁木・細川氏らは言った。
「昨日は東側の要請によって、高一族が激しい戦いを行った。
今日は西側からこちらの攻撃を求めている。
もっともなことであり、無視することはできない」
『太平記』本文では18万騎とされる軍勢を三手へ分け、田中・浜道・山沿いから、夕日を背にして東坂本へ攻め寄せた。
脇屋義助の防御
東坂本の総大将には、義貞の弟・脇屋義助が置かれていた。
義助は東国・西国から強い弓の射手を選び、土塀の矢狭間や櫓の上へ配置した。
さらに、
- 土肥氏
- 得能氏
- 仁科氏
- 春日部氏
- 名和長年
ら、四国・北陸の騎馬武者2万騎余りを白鳥ヶ岳へ待機させた。
湖上にも700艘を配置する
水上戦に慣れた諸国の兵へ、和邇・堅田の地元民を加えた。
5000人余りが700艘余りの軍船へ乗り、舷へ盾を並べて琵琶湖の沖へ浮かんだ。
足利軍が堀まで迫る
官軍の守りは厳しく、人が近づけるようには見えなかった。
それでも、
「戦わなければ敵が退くはずはない」
として、足利方は攻め寄った。
三方向の足利軍が鬨の声を上げると、城内の官軍も矢狭間の板や船の舷をたたき、声を合わせた。
大地が裂け、山が崩れるのではないかと思われるほどの音だった。
足利軍は堀の前まで近づいた。
木や草で堀を埋め、燃える草を積んで櫓へ火をつけようとした。
三百余りの櫓から矢を浴びせる
その時、300か所余りの櫓・土塀・張り出した塀から、雨のように矢が射出された。
無駄に飛ぶ矢は1本もなかった。
盾の外や旗の下へ射倒され、生きているか死んでいるかも分からなくなった者は、3000人を超えた。
官軍が三方向から反撃する
足利兵はあまりにも多く射殺され、盾の陰へ隠れようとして動揺した。
官軍はその機会を逃さなかった。
脇屋・堀口・江田・大館氏ら6000騎余りが三つの関を開き、まっすぐ敵陣へ突入した。
土肥・得能・仁科・名和軍2000騎余りも、白鳥ヶ岳から側面へ攻め下った。
湖上の水軍は唐崎の1本松付近へ船を寄せ、近距離の矢、遠矢、斜めからの矢を、惜しまず射た。
足利軍が再び退く
足利軍は大勢だった。
しかし山と湖から横矢を浴び、田中・白鳥方面の官軍にも攻め立てられた。
「これ以上は勝てない」
と考え、元の陣へ引き返した。
その後は昼夜を問わず小部隊を出し、矢を射ち合うだけとなった。
足利軍は遠くから攻め続けるだけで満足し、官軍も城を守り抜くことを勝利と考えた。
大きな戦いは起こらなかった。
熊野八庄司の500騎
1336年6月16日、熊野の八庄司が500騎余りを率いて京都へ到着した。
到着したばかりの新しい軍勢だったため、
「一戦して働きを示そう」
と、そのまま西坂へ向かった。
彼らは黒糸威の鎧と兜を身につけ、指先まで鎖で覆う籠手・脛当て・半頬・膝鎧を着けていた。
全身を隙間なく包んだ姿は普通の武士とは異なり、かえって動きにくく、役に立たないようにも見えた。
湯河庄司の大言壮語
高師重は大いに喜び、彼らと対面して戦い方を尋ねた。
湯河庄司が進み出て言った。
「紀伊国で育った我々は、幼いころから険しい岩山に慣れ、鷹狩りや狩猟をしてきました。
馬も通れないような場所でも、平地と同じだと思っております。
この程度の山を、難所と思う者は1人もおりません」
武器をつかんで敵陣へ入ると豪語する
「鎧の威し毛は立派ではありませんが、我々が自分で鍛えて作った武具です。
どれほどの強弓でも、簡単に射抜くことはできないでしょう。
今こそ将軍にとって大切な時です。
我々がほかの武士の前へ立ち、矢を鎧で受け止めます。
敵が斬りかかれば、その太刀や長刀へつかまり、敵陣へ割って入ります。
たとえ新田義貞であっても、どうして防ぎきれるでしょうか」
あまりにも自信に満ちた言葉だったため、聞いた者は不快に感じた。
熊野勢を先頭に20万騎が登る
「それならば、この者たちを先陣として攻めよ」
1336年6月17日の午前8時ごろ、『太平記』によれば20万騎の足利軍が、熊野八庄司の500人を先頭に立て、松尾坂の尾根から一団となって登った。
本間重氏と相馬忠重
官軍には、
- 綿貫五郎左衛門
- 池田五郎
- 本間孫四郎
- 相馬四郎左衛門
という、『太平記』本文で10万騎とされる軍勢の中から選ばれた強弓の名手がいた。
この時、綿貫と池田は東坂本へ派遣され、不在だった。
本間と相馬の2人は義貞の前にいた。
「我々2人だけで追い返す」
熊野兵が全身を黒く覆い、山を攻め上ってくるのを見下ろすと、2人はからからと笑った。
「今日の戦いでは、味方の兵に太刀を抜かせる必要もありません。
矢1本も射させません。
我々2人だけで向かい、一矢ずつ射て、あの者たちを恐れさせましょう」
2人は落ち着いて席を立った。
鎧を脱いで強弓を構える
さらに強く弓を引くため、2人は鎧を脱いだ。
脇の防具だけを着け、髪を振り乱した姿となった。
本間の白木の弓は一見短く見えたが、普通の弓と並べると2尺余り(約60cm超)も長く、反りも高かった。
本間は大木の間へ弓を押し当てて張り、白鳥の羽を使った十五束三伏の長い矢を、100本の中から2本だけ選んだ。
鼻歌を歌いながら、ゆっくり向かいの尾根へ渡った。
相馬も巨大な弓を持つ
相馬は、銀の飾りを打った弓を左肩へ担いだ。
普通の弓を四、五張合わせたほど強い弓だった。
太い鏃をつけた矢2本を持ち、道を進みながら矢柄の曲がりを直した。
2人だけで松の茂る陰へ立ち、弓を杖のようについた。
巨大な熊野武者
熊野八庄司の中でも、特に怪力と思われる男が登ってきた。
『太平記』本文では身長8尺ほど(単純換算で約2.4m)もあり、荒々しい姿だった。
鎖帷子の上へ黒革の鎧を着て、5枚兜の緒を締め、半頬を朱で塗っていた。
左手には9尺ほど(約2.7m)の樫の棒を持ち、右肩には刃渡り1尺ほど(約30cm)の大きな鉞を担いでいた。
少しもためらわず跳ねるように登る姿は、阿修羅王や夜叉・羅刹が怒った姿と変わらなかった。
本間の矢が五重を貫く
距離が2町ほど(約220m)になると、本間が松陰から姿を現した。
十五束三伏の矢を弓へつがえ、限界まで引き絞って放った。
矢は狙いを少しも外さなかった。
鎧の胸から背中の板まで、体と鎧を五重に貫き、矢先が3寸ほど(約9cm)血に染まって突き出した。
鬼か神のように見えた熊野武者は鉞を落とし、笹の上へ大きな音を立てて倒れた。
相馬の矢が兜と頭を貫く
続いて、先の男よりさらに大きく、仁王像を作り損なったような武者が現れた。
目は逆さまに裂け、ひげは左右へ分かれていた。
火威の鎧に竜頭の兜を着け、6尺3寸(約1.9m)の長刀と4尺余り(約1.2m超)の太刀を持っていた。
武者は左袖を前へかざし、後ろを振り返って叫んだ。
「遠矢を射るな。
無駄な矢を使うな!」
そのまま肩を怒らせて登った。
相馬は5人張の弓へ十四束三伏の矢をつがえ、弦を限界まで引き切って放った。
矢は兜の正面から眉間と脳を砕き、兜後部の板を貫いた。
武者は、
「あっ」
と叫ぶと同時に倒れた。
2人は、その場で死んだ。
熊野勢が立ちすくむ
後ろへ続いていた熊野勢500人余りは、この2本の矢を見た。
前へ進むことも、後ろへ戻ることもできず、皆、背を丸めて立ちすくんだ。
味方の扇を的にする
本間と相馬は、熊野勢の様子には気づかないふりをした。
2町ほど(約220m)離れた味方の陣へ向かい、言った。
「普段とは違って敵が動きを止めています。
これから戦いが始まるのでしょうか。
肩慣らしに一矢ずつ射たいので、何か的を立ててください」
味方は、全面を紅色に塗り、中央へ月を描いた扇を矢へ挟み、遠くへ的として立てた。
2人の矢が月だけを残す
本間が前、相馬が後ろに立った。
2人は話し合った。
「月を射れば、天を恐れない行為となるかもしれない。
扇の左右の端を射よう」
本間が矢を放つと、相馬も続けて射た。
2本の矢は約束どおり左右の端へ当たり、中央の月だけが残った。
名乗りを上げる
2人は大量の矢を取り寄せ、予備の弓も用意した。
そして高らかに名乗った。
「相模国の住人、本間孫四郎資氏。
下総国の住人、相馬四郎左衛門尉忠重。
この2人が、この陣を守っている。
矢を受け、自分の鎧がどれほど役に立つか試してみよ!」
足利軍20万騎が退く
『太平記』本文で20万騎とされる後陣の足利方は、誰が追い立てたわけでもないのに、
「自分が先に逃げよう」
と慌てた。
全軍が元の陣まで退いてしまった。
金輪院光澄が足利方へ内通する
このように矢を射ち合うだけで日を送り続ければ、何年攻めても比叡山を落とすことはできない。
足利方が攻めあぐねている時、比叡山の僧・金輪院律師光澄から、高師重のもとへ密書が届いた。
使者は、光澄と同じ寺に住む今木少納言隆賢だった。
無動寺から夜襲する計画
隆賢は申し上げた。
「新田義貞が守る四明山の下は、比叡山第一の難所です。
正面から簡単に破ることはできないでしょう。
夜襲に慣れた西国武士を400、500人、私につけてください。
無動寺側からひそかに入り、文殊楼付近の四王院のそばで鬨の声を上げます。
すると光澄へ味方する僧たちが、東塔と西塔の間で旗を掲げ、声を合わせます。
比叡山は短時間で攻め落とせるでしょう」
高師重が500人を選ぶ
高師重は、
「比叡山の僧の中から、足利方へ味方する者が1人でも現れてほしい」
と願っていた。
そこへ隆賢がひそかに現れ、夜襲の方法を詳しく語った。
師重は大いに喜んだ。
播磨・美作・備前・備中の軍勢から、夜襲に慣れた兵500人余りを選び、1336年6月18日の夕闇に四明岳へ登らせた。
隆賢が一晩中道に迷う
隆賢は長年比叡山へ住み、敵のいる場所、いない場所まで詳しく知っていた。
道へ迷うはずはなかった。
しかし天罰だったのだろうか。
突然目がくらみ、心が迷った。
一晩中、四明岳の麓を南北へさまよった。
夜襲部隊が発見される
夜が明けると、紀氏・清原氏の兵に発見され、包囲された。
後方の武士100人余りが討たれ、谷底へ転がり落ちた。
隆賢も何か所も深手を負った。
腹を切ろうとして帯を解いているところへ敵が組みつき、生け捕りとなった。
隆賢の処刑
隆賢は大逆の中心人物であり、すぐに斬られるべき者だった。
しかし官軍の大将は、比叡山の僧という身分を考えて直接処刑せず、官軍方にいる隆賢の一族へ引き渡した。
「生かすか殺すかは、お前たちの考えに任せる」
今木中務丞範顕は、
「承知しました」
と答えた。
そして使者の見ている前で、隆賢の首をはねて捨てた。
光澄にも神罰が下る
後醍醐天皇は、薬師如来と山王権現の守護を頼みとして比叡山へ避難していた。
三千の僧たちは、仏法と王法が互いに支え合う道理を知り、二心なく戦っていた。
その中で金輪院光澄だけが、比叡山の僧でありながら自らの山を裏切った。
武士の家の者でもないのに足利将軍へ味方し、弟子たちを使って比叡山を滅ぼそうとした。
何とも嘆かわしい心である。
悪事はすぐに明らかとなり、案内した弟子たちは討たれるか、生け捕りとなった。
光澄も間もなく最愛の子によって殺された。
その子も同じ父母から生まれた弟に殺された。
『太平記』は、これを世に例のない恐ろしい神罰として語る。
北陸軍が横川を攻めようとする
そのころ越前守護の斯波高経が、北陸道の軍勢を率い、仰木方面から横川を攻めるという知らせが届いた。
楞厳院や九谷の僧兵たちは、各所の狭い道へ関を造り、逆茂木を置いて守りを固めた。
伝教大師の廟の材木
当時、伝教大師の廟を修理するため、多くの材木が山上へ運び上げられていた。
僧兵たちは、
「櫓の柱や矢狭間の板に使おう」
として、材木を坂道へ運んだ。
少年へ八王子権現が乗り移る
その日、般若院法印に仕えていた少年が、突然物に取りつかれたようになり、さまざまなことを口走った。
少年は、
「私には大八王子権現が乗り移った」
と名乗った。
そして、
「大師の廟を修理するための材木は、急いで元の場所へ戻せ」
と命じた。
僧たちが仏教の難問を尋ねる
僧たちは疑った。
「本当に八王子権現が乗り移ったのならば、仏の本来の悟りを明らかに理解し、諸教の道理も知っているはずだ」
そこで昔から学僧に伝えられてきた、
- 一念三千の教え
- 1人だけへ秘密に伝えられる口伝
などについて、さまざまに質問した。
少年はすべて答える
少年は、からからと笑った。
「私も長く人間世界の塵へ交わってきたため、過去・現在・未来を知る知恵は浅くなった。
しかし釈迦がこの世へ現れた時、その説法の場へ加わって聞いたことである。
おおよそのことは説明しよう」
少年は僧たちの疑問へ一つずつ答えた。
言葉は花のように美しく、道理は宝玉を連ねたように明らかだった。
僧たちは皆、本物の神託だと信じた。
山門と朝廷の将来を予言する
僧たちは改めて、
「比叡山は無事でしょうか」
「戦いはどちらが勝つのでしょうか」
と尋ねた。
少年は涙を流しながら答えた。
「私は内では天台宗の教えを守り、外では代々の天皇を守るため、比叡山が開かれた初めからここへ姿を現してきた。
比叡山の繁栄と朝廷の平安を、何よりも願っている」
後醍醐天皇と僧たちへの批判
「しかし天皇のお考えは、民を治めて世を安らかにする政治ではなく、富と栄華を得ることへ向かっている。
僧たちの願いも、すべて贅沢と勝手な振る舞いのためであり、仏法を栄えさせるためではない。
そのため天の善神は守護の手を止め、比叡山の神々も加護の力を与えなくなった」
朝廷の長い苦難を予言する
「悲しいことだ。
これから朝廷は長く苦難へ沈み、公卿や大臣は武士の奴隷となるだろう。
天皇は都を遠く離れる。
臣下が主君を殺し、子が父を殺す世になる。
何と嘆かわしいことか」
尊氏の天下も長く続かない
「しかし悪逆を重ねれば、その罪は自分の身へ戻る。
逆臣が強い力を振るう時も、長くは続かない」
明日の正午に敵を退ける
「高師重が比叡山を攻め落とし、堂舎・仏閣を焼こうと相談している。
よく見ているがよい。
明日の正午には、早尾大行事を遣わし、逆徒を四方へ追い払う。
これ以上、比叡山に恐れることはない。
材木はすべて元の場所へ戻せ」
少年は神託を終えると、普通なら4、5人で持つほどの大木を1人で担ぎ、大師の廟前へ置いた。
その後、手足を縮め、震え始めた。
僧たちは神託を公表しない
僧たちは考えた。
「敵を明日の正午に追い払うという神託は、あまりにも近い未来の話である。
もし一つでも外れれば、今まで語ったことまで、すべて偽りとなる。
明日の様子を見て、本当に神託どおりであったならば、後から天皇へ申し上げよう」
こうして神託の内容は、僧たちの胸の中だけにしまわれ、ほかに知る者はいなかった。
猿が生源寺の鐘を鳴らす
比叡山では、あらかじめ次のように決めていた。
- 西坂で戦いが始まれば本院の鐘を鳴らす
- 東坂本で戦いが始まれば生源寺の鐘を鳴らす
1336年6月20日の早朝、『太平記』本文では、早尾社にいる猿の群れがやってきたと語る。
そして生源寺の鐘を、東塔・西塔全体へ響き渡るほど強く打ち鳴らした。
官軍が一斉に出撃する
諸方面の官軍と九院の僧兵は鐘を聞いた。
「攻撃の合図の鐘が鳴った。
それならば、それぞれの守り口へ向かおう」
全員が我先にと集まった。
足利軍は、この動きを見て、
「比叡山から官軍が逆に攻め寄せてくる」
と考えた。
水飲・今道・八瀬・藪里・志賀・唐崎・大津・松本の足利兵は、
「盾を取れ」
「鎧を着けよ」
と慌て、動揺した。
官軍はこの機会を捉えた。
『太平記』本文では、山上と坂本の兵10万騎余りが、木戸を開き、逆茂木を取り除いて一斉に出撃したとする。
足利軍が総崩れとなる
足利方の大将は踏みとどまり、
「敵は小勢だ。
退いて討たれるな。
卑怯だ、引き返せ!」
と命じた。
しかし1度逃げ始めた大軍は、一歩も止まらなかった。
脇屋義助の兵5000騎余りは、志賀の閻魔堂付近にある敵の向かい城へ、東西500か所余りから火を放った。
兵たちは叫び声を上げて攻め込んだ。
180万騎が山を逃げ下る
足利軍の陣は、ここから崩れた。
『太平記』が180万騎という極端に大きな数で記す寄せ手は、
- 今道
- 古道
- 音無の滝
- 白鳥
- 三石
- 大岳
などの険しい山道を、雪崩のように逃げ下った。
谷は深く、行き止まりも多かった。
人と馬が折り重なって倒れた。
その光景は、治承年間に木曾義仲の夜襲を受けた平家軍が、倶利伽羅谷へ落ちて埋まった時よりもひどいと思われた。
高師重が捕らえられる
大将の高師重は、自分の太刀で太腿を深く突いてしまい、歩くことができなくなった。
舟田長門守の家臣が、師重を生け捕りにした。
白昼、東坂本を引き回し、新田義貞の前へ両手を後ろに縛った姿で連れてきた。
唐崎で処刑される
師重は仏法と神を敵にした中心人物だった。
比叡山の僧兵たちは、
「平重衡の先例にならうべきである」
として、身柄の引き渡しを求めた。
僧兵は唐崎の浜で師重の首をはね、さらした。
神託が現実となる
高師重は、足利尊氏の執事・高師直の養子の弟であり、一方面の大将を任されるほどの人物だった。
身代わりとなろうとする家臣は、数えきれないほどいたはずである。
それにもかかわらず、若い家臣1人にも助けられず、敵に生け捕りとなった。
人々は、
「これはひとえに薬師如来と山王権現の罰である」
と考えた。
昨日の神託が本当だったのだと悟り、身の毛がよだつほど恐れたのである。
146. 二度の京都攻撃――足利軍の伏兵と官軍の敗北
比叡山攻防戦の大きな犠牲
延元元年(1336年)6月5日から20日まで続いたと『太平記』が描く比叡山の戦いでは、討ち死にした者、傷を負った者は、何万人いたのか分からないほどだった。
最後には足利方が東西の坂から追い落とされた。
敗走する足利兵は京都でも足を止めず、各方面へ逃げ去った。
そのため京都市中の足利軍は、非常に少なくなった。
足利方は、
「これからどうすればよいのか」
と驚き慌てた。
官軍はすぐ京都を攻めなかった
この時、官軍が比叡山から1日も置かず京都へ攻め寄せていたならば、足利軍は再び京都を守れなかっただろう。
ところが比叡山側には、さまざまな意見の対立があった。
そのため10日余りを何もしないまま過ごしてしまった。
足利軍が京都へ戻る
京都の周辺や郊外へ逃れ、身を隠していた足利兵は、その間に気力を取り戻した。
彼らは再び京都へ戻った。
こうして京都の足利軍は、再び大勢となった。
官軍10万騎が京都へ向かう
比叡山側は、この事情を知らなかった。
「京都には足利軍がほとんどいない」
という情報を信じた。
延元元年(1336年)6月晦日(月末)、『太平記』本文で10万騎余りとされる官軍を二手へ分け、今道と西坂から京都へ向かった。
足利尊氏は小勢をおとりにする
足利尊氏は、わざと少数の兵だけを河原へ出した。
足利兵は官軍と矢を1本射交わすと、すぐに退却しようとした。
これを見た、
- 千葉氏
- 宇都宮氏
- 土肥氏
- 得能氏
- 仁科氏
- 高梨氏
らは、
「敵は弱い」
と思った。
勝利の勢いに乗り、足利軍を追って京都市中へ攻め込んだ。
東寺から50万騎が現れる
尊氏は官軍を十分に市中へ引き入れた。
その後、東寺から用意していた『太平記』によれば50万騎の軍勢を出した。
足利軍は縦の小路、横の小路に、その場に応じて形を変える陣を張った。
官軍を東西南北から分断し、四方八方を包囲して、1人も逃すまいと攻めた。
官軍は500人余りを失う
官軍は短時間のうちに、500人余りを討たれた。
そして西坂を目指して退却した。
この勝利によって京都の足利軍は再び勢いを得た。
一方、比叡山方は気力を失った。
両軍は再び、二頭の牛が角を突き合わせるように、互いに譲らない状態となった。
北陸から二条師基が到着する
しばらく大きな合戦は起こらなかった。
その後、二条大納言師基が北陸から、
- 敷地氏
- 上木氏
- 山岸氏
- 瓜生氏
- 河島氏
- 深町氏
ら3000騎余りを率い、1336年7月5日に東坂本へ到着した。
比叡山側は、再び力を得た。
1336年7月18日、官軍は京都へ攻め寄せることになった。
京都を東西から挟み、焼き攻めにする策
官軍では、前回の敗北について話し合った。
「前回は京都市中を通り、遠く東寺まで攻め込んだ。
そのため小路ごとに前後左右の敵を防ぎきれず、包囲を破ることができなかった。
今回は一隊が二条通を西へ進み、内野へ出て、大宮通を南へ攻める。
もう一隊は河原を南へ進む。
京都を東西から挟み、各所へ火を放って攻撃しよう」
作戦が足利方へ漏れる
しかし、どのような裏切り者がいたのだろうか。
この作戦は事前に京都の足利方へ伝えられた。
尊氏は、官軍の計画を詳しく知った。
足利軍60万騎の配置
尊氏は『太平記』によれば60万騎を三手へ分けた。
『太平記』本文では、第一の20万騎を東山と七条河原へ置いたとする。
河原から進む官軍を、東西から逆に包囲するためだった。
第二の20万騎は、船岡山の麓と神祇官南側へ隠したとする。
内野から進む官軍を、南北から包囲するためだった。
残る20万騎は、西八条・東寺付近へ待機させたとする。
各方面の部隊が官軍に破られた時、新しい兵と入れ替える予備軍だった。
官軍が二手へ分かれる
1336年7月18日の午前6時ごろ、比叡山の軍勢は、
- 北白川
- 八瀬
- 藪里
- 下松
- 修学院
へ進み、東西二つの軍へ分かれた。
新田一族5万騎余りは、糺の森を南に見ながら、紫野から内野へ進んだ。
河原方面の官軍
二条師基、千葉介、宇都宮・仁科・高梨氏らは、真如堂の西を通り、河原を南へ進んだ。
足軽兵が各地へ走り散り、京都市中の民家数百か所へ火を放った。
激しい炎が空へ燃え上がり、黒煙が四方を覆った。
五条河原で戦いが始まる
五条河原から戦闘が始まった。
飛び交う矢は雨のようだった。
刀や槍は稲妻のように光った。
やがて内野でも戦いが始まった。
右近馬場の東西、神祇官の南北で、汗をかいた馬が駆け違う音と鬨の声が交じった。
何百、何千もの雷が大地で鳴り響くようだった。
河原軍が先に敗れる
しばらくすると、五条河原方面の官軍が、1度の戦いで敗れて退いた。
すると内野に隠れていた足利の大軍が、さらに勢いを強めた。
新田義貞・義助兄弟の軍を、十重、二十重に包囲し、叫び声を上げながら攻めた。
義貞軍は幾重もの包囲を破る
しかし義貞の兵は、臨機応変の戦い方を何度も鍛え、完全に自分たちのものとしていた。
1度の突撃で、百重にも見える包囲を破った。
左右に兵を配置し、1人も討たれることなく退いた。
何度も引き返して戦いながら、再び比叡山へ戻った。
敗因は作戦の漏洩だった
兵法書には、次のようにある。
将軍の計略が敵へ漏れれば、軍は利益を得られない。
外の敵が内部の事情を知れば、災いを防ぐことができない。
今回の京都合戦で官軍が敗れたのは、足利方へ内通する者が官軍の中にいたためだった。
その後、官軍の武将たちは互いに疑いを持ち、用心し合うようになったのである。
147. 比叡山、南都へ援軍を求める
官軍の士気が衰える
官軍は2度にわたる京都攻撃に敗れ、兵も馬も疲れ、勢いを失っていた。
後醍醐天皇は、
「山上や坂本で、何者かが足利方へ内通し、思いがけない事件を起こすのではないか」
と心配した。
天皇は少しも安心できず、深く心を悩ませた。
比叡山へ広大な所領を与える
天皇は、まず比叡山の僧たちを励ますため、日吉七社の神々と九院の寺院へ、それぞれ2、3か所ずつ大きな荘園を寄進した。
さらに「一所住」と呼ばれる僧800人余りが早尾へ集まり、官軍の兵糧などを管理していた。
この僧たちへ、近江国で所有者を失った土地300か所余りを与えた。
近江国の国衙領も、比叡山が永久に支配することを認める宣旨を下した。
富によって仏法が衰える危険
官軍が勝利すれば、比叡山の繁栄は疑いないように見えた。
しかし3000人の僧が皆、恩賞や富を誇るようになれば、誰が学問の窓へ向かい、天台宗の教えを学ぶのだろうか。
誰が仏道の高い峰へ登り、1本の花、一つの香りにも仏の真理を見いだそうとするのだろうか。
富と繁栄の時代は、かえって仏法が滅びる原因にもなり得る。
知恵ある者たちは、この大きな恩賞を素直には喜ばなかった。
比叡山三千の衆徒が集会を開く
延元元年(1336年)6月17日、比叡山三千の衆徒は大講堂の庭へ集まり、東塔・西塔・横川の三塔合同で協議した。
僧たちは、次のように論じた。
「比叡山は王城の鬼門を守る、神聖な霊地である。
代々の天皇の位が守られてきたのは、比叡山の祈りによる。
外敵や反乱が鎮められてきたのも、日吉七社の守護による」
足利尊氏・足利直義を仏法と王法の敵とする
「ところが源氏の末流である足利尊氏・足利直義兄弟は、天皇の政治を傾け、仏法を滅ぼそうとしている。
外国の大逆人を調べても、安禄山でさえ彼らには及ばない。
日本の悪人を振り返っても、物部守屋の罪さえ軽く見えるほどである」
僧侶も命を捧げるべき時
「天下のすべては天皇の領土である。
僧侶の身であっても、この時には命を捧げて忠義を尽くすべきである。
北の比叡山は天皇の本命を守る寺院であるから、朝廷の危機を救う計略をめぐらさなければならない。
南都の興福寺は藤原氏の氏寺であるから、一族や朝廷の苦難を救うべきである」
東大寺・興福寺へ共同戦線を呼びかける
「速やかに東大寺・興福寺へ書状を送り、ともに義兵を挙げ、力を合わせる約束を求めよう」
三千の衆徒は全員、この意見に賛成した。
そして南都へ正式な牒状を送った。
延暦寺から興福寺への牒状
書状には、およそ次のように記されていた。
「仏法が日本へ伝わってから700年余りがたった。
皇統を祝福し、民衆を救ってきた教えの中でも、法相宗と天台宗の奥義は特に優れている。
神々は全国七千余りの社へ姿を現し、天皇の位を守り、その威光を輝かせてきた」
興福寺と比叡山の由緒
「藤原鎌足は興福寺を建て、人間の心の働きを明らかにする法相宗の教えを広めた。
桓武天皇は比叡山を開き、天台宗の教えの灯を掲げた。
それ以来、南都と北嶺は、ともに国家と天皇を守る祈りを行ってきた。
天台宗と法相宗は、仮の教えと真実の教えの奥義を、ともに究めてきた」
仏法と王法は互いに支え合う
「仏法によって王法を守り、王法によって仏法を広める。
これが国家の根本である。
比叡山に苦しみがあれば、興福寺へ書状を送り、心を一つにしてきた。
朝廷に事件があれば、ともに忠誠を尽くし、天下の平安を祈ってきた」
尊氏は朝廷の恩を忘れた
「ここ5、6年以来、天下は乱れ、民衆は落ち着いて暮らすことができない。
とりわけ尊氏・直義兄弟は、東国の一武将から身を起こし、天皇から身に余る恩を受けた。
それにもかかわらず、君臣の道を忘れ、狼のような心を抱いた。
徒党を組み、武士たちを誘い、偽の命令を使って朝廷を守る人々を害した」
建武政権の再興は尊氏1人の功績ではない
「天皇の政治が再興されたのは、尊氏1人の武功によるものではない。
それなのに尊氏は、新田義貞を敵と呼び、天下の功績を自分1人の力であるかのように奪った。
これは恥ずべき行いである」
京都炎上と民衆の苦しみ
「この春、尊氏らの軍は野原を焼く火よりも激しい炎を放ち、宮中を灰にした。
暴風が都を吹き荒れ、罪のない民衆を苦しめた。
この悪行を、誰が嘆かずにいられるだろうか」
比叡山が天皇を守った功績
「天皇は災いを避け、神の助けを求めて日吉七社のもとへ行幸された。
比叡山三千の僧は命を忘れ、官軍を助けた。
老若が心を一つにし、神仏の力によって逆賊を降伏させた。
尊氏軍は旗を巻いて西へ逃れ、多くの者が武器を捨てて敗走した」
今こそ南都も立つべきである
「ところが賊軍は再び京都をうかがい、官軍は戦場で苦戦している。
天皇は前回と同じく、再び日吉社へ行幸された。
比叡山の興亡は今にかかり、仏法と王法の盛衰も今日にかかっている。
天台宗と日吉七社が朝廷と運命をともにするならば、法相宗と春日社も国家を助けるべきではないか」
「ためらってはならない」
「興福寺が国へ報いる忠義を持つならば、僧たちは天皇を助ける計略をめぐらすべきである。
比叡山の訴えには、これまで書状を通じて力を合わせてきた。
天下の治乱がかかった今、どうして議論するだけで、援軍を出さずにいられるだろうか。
事情を記し、この牒状を送る。
決してためらってはならない」
書状には、
延元元年6月
延暦寺三千衆徒
と記されていた。
興福寺から返書が届く
興福寺の僧たちは書状を読むと、ただちに比叡山へ味方することを決め、返書を送った。
その内容は、およそ次のとおりだった。
法相宗と天台宗は国家を守る教え
「天台宗は中国から日本へ伝えられ、比叡山に根づいた。
法相宗はインド・中国・日本と受け継がれ、興福寺へ伝わった。
どちらも長い年月にわたり、仏法を広め、皇室を守ってきた教えである」
尊氏兄弟は恩を忘れた逆臣
「尊氏・直義兄弟は東国から来た降伏者にすぎない。
特別な才能があるわけでもないのに、たびたび朝廷の重要な武将へ取り立てられた。
それにもかかわらず、朝廷の恩を忘れ、野心を抱いた。
国々を略奪し、役人と民衆を捕らえ、京都を焼き、多くの寺院を滅ぼした。
その乱暴は、昔の赤眉軍や黄巾賊を超えている」
天に背く者に味方は少ない
「天の道へ背く者には、大きな罪がある。
正しい道を失った者には、味方する者が少ない。
暴力によって得た勢力が、長く続くはずはない」
興福寺も出兵する
「天皇は都の外へ移り、比叡山に軍陣を置いておられる。
比叡山三千の僧と日吉七社が、必ず天皇を守るであろう。
興福寺の僧も、天皇が北へ避難されて以来、心を尽くして皇位の長久と賊軍の滅亡を祈っている。
若い僧や大和国の武士にも、官軍へ加わろうとする者が多い」
南都も苦しい状況にあった
「しかし比叡山と興福寺の間には、敵軍がいて道をふさいでいる。
さらに敵は興福寺の近くでも陰謀をめぐらし、内側にも争いがある。
前には敵軍、後ろにも敵軍があり、進むにも退くにも難しい状況である。
それでも天皇の命令がたびたび下り、比叡山からも書状が届いた以上、黙っていることはできない。
速やかに精鋭を率い、逆賊を討つ」
書状には、
延元元年6月
興福寺衆徒
と記されていた。
畿内の武士が官軍へ味方する
南都が比叡山へ味方したと伝わると、畿内や周辺諸国で、
「どちらへ味方すべきか」
と迷っていた武士たちは、次々と比叡山へ連絡を取った。
しかし京都の足利軍が道をふさいでいるため、直接東坂本へ行くことはできなかった。
そこで、
「大将を送っていただければ、それぞれの土地で陣を取り、京都を攻めます」
と申し入れた。
八幡方面の官軍
朝廷は四条中納言隆資を八幡へ派遣した。
すると、
- 真木
- 葛葉
- 禁野
- 片野
- 宇殿
- 賀島
- 神崎
- 天王寺
- 賀茂
- 3日の原
などの武士が集まった。
軍勢は3000騎余りとなった。
彼らは大渡橋の西側へ陣を取り、川尻を通る道をふさいだ。
宇治方面の官軍
宇治へは中院中将定平を派遣した。
- 宇治
- 田原
- 醍醐
- 小栗栖
- 木津
- 梨間
- 市野辺山
- 城脇
などの者が集まり、2000騎余りとなった。
宇治橋の板を二、三間ほど外し、橘小島崎へ陣を取った。
丹波道を押さえる軍勢
北丹波道には、大覚寺宮を大将とし、額田左馬助を派遣した。
300騎余りが、白昼堂々と京都市中を通り、長坂へ上った。
さらに、
- 嵯峨
- 仁和寺
- 高雄
- 栂尾
- 周山
- 山内
- 芋毛
- 村雲
などの兵が集まり、1000騎余りとなった。
彼らは京都を見下ろす京見峠・嵐山・高雄・栂尾へ陣取った。
京都への七つの道をふさぐ
このほか鞍馬道は比叡山西塔の軍勢がふさいだ。
瀬田方面も愛知・信楽の兵が遮断した。
京都へ通じる四方七つの道のうち、開いているのは唐櫃越だけとなった。
京都が兵糧不足となる
各国から京都へ物資を運ぶ道が絶たれた。
京都の足利兵は、食糧不足に苦しんだ。
初めは馬や武具を売り、その代金で食べ物を手に入れた。
しかし最後には京都・白河の民家や寺院へ押し入り、衣服を剥ぎ取り、食糧を奪って食べるようになった。
公家も庶民も飢える
公卿や殿上人も、兵火によって家を焼かれていた。
辻堂や神社の拝殿へ身を寄せ、小さくなって暮らした。
僧侶も俗人も、男も女も、道端で食べ物を乞うた。
塀の陰や門の敷居の上で、飢えて倒れる者もいた。
『太平記』は、
「国が始まって以来、多くの戦乱があったが、これほど道理を失った世は記録にない」
と嘆いている。
阿波・淡路勢が比叡山へ到着する
京都の足利軍が疲れ、比叡山が再び勢いを得たという知らせが広まった。
諸国から100騎、200騎という軍勢が、絶えることなく東坂本へ駆けつけた。
中でも阿波・淡路から、
- 阿間氏
- 志知氏
- 小笠原氏
らが3000騎余りで到着した。
公卿たちは、たいへん心強く思った。
阿弥陀ヶ峰に並ぶかがり火
「これ以上、いつまで待つ必要があるだろうか」
官軍は四方の軍勢と連絡を取り、最後の京都攻撃の日を決めた。
四国勢は阿弥陀ヶ峰へ向かい、夜ごとにかがり火をたいた。
火は2、3里(中世の里程で、現代のkmには単純換算できない)にわたって連なり、空の星がすべて地上へ落ちて並んだように見えた。
高重茂(高駿河守)の狂歌
ある夜、東寺の足利兵が楼門へ上り、阿弥陀ヶ峰の火を見た。
1人が、
「何と恐ろしい数のかがり火だ」
と言った。
すると高重茂(高駿河守)が、すぐに狂歌を詠んだ。
多くとも
四十八には
よも過ぎじ
阿弥陀ヶ峰に
ともす篝火
阿弥陀如来の四十八願に掛けて、
「火が多いといっても、四十八を超えることはないだろう」
と冗談を言ったのである。
その場の者たちは皆、大笑いした。
天皇が赤い袴を兵へ与える
京都への最後の攻撃を行うことが決まった。
兵たちを励ますため、後醍醐天皇は自ら赤い袴を脱いだ。
それを3寸ずつ(約9cm)の布へ切り、希望する兵たちへ与えた。
兵たちは、その布を天皇からの守りとして身につけた。
義貞が天皇の前で誓う
1336年7月13日、総大将の新田義貞は、これまでの戦いで生き残った一族43人を率い、まず天皇の仮御所へ参上した。
後醍醐天皇は穏やかな顔で一同を見渡し、
「今日の戦いでは、何よりも忠義を尽くせ」
と命じた。
「東寺へ矢を射込むまで戻らない」
義貞は全軍を代表して申し上げた。
「合戦の勝敗は時の運によるものであり、あらかじめ決めることはできません。
しかし今日の戦いでは、尊氏が立てこもる東寺の中へ矢を1本射込むまでは、決して帰ってまいりません」
義貞はそう誓い、天皇の前を退出した。
「三木一草」
諸軍勢は義貞の前後を守り、白鳥の前を通過した。
その時、見物していた女性や子どもたちが、名和伯耆守長年が少し後ろを進んでいる姿を見た。
そして言った。
「近ごろ天下では、
- 結城親光
- 名和長年
- 楠木正成
- 千種忠顕
の4人を『三木一草』と呼び、朝廷の恩を大いに受けた人々だといわれていました。
3人はすでに討ち死にし、伯耆守1人だけが残っているのですね」
名和長年が討ち死にを決意する
長年は、その言葉を遠くから聞いた。
そして考えた。
「私が今まで討ち死にしなかったことを、世間では情けないと噂しているのだろう。
だから女性や子どもまで、このようなことを言うのだ。
今日の戦いで味方が敗れたならば、たとえ1人になっても踏みとどまり、討ち死にしよう」
長年は、これを自分にとって最後の戦いと覚悟し、京都へ向かった。
148. 四条隆資、八幡から京都へ攻め寄せる
京都攻撃は午前10時と定められていた
京都への総攻撃は、延元元年(1336年)7月13日の巳の刻(午前10時ごろ)に始めると、あらかじめ各方面へ伝えられていた。
東坂本から進む官軍は、逢坂山や今道付近へ待機し、決められた時刻を待っていた。
北白川に大火が起こる
その時、北白川で火災が起こり、煙が青空を覆った。
足利方が官軍を欺くため、わざと火を放ったのかもしれない。
八幡軍は攻撃開始と誤解する
八幡から京都へ進む官軍は、煙を見ると考えた。
「比叡山の軍がすでに京都へ攻め入り、火を放ったのだ。
今日の戦いに遅れれば、どのような顔で仲間に会えるだろうか」
八幡軍は、決められた時刻を待たなかった。
わずか3000騎余りで、鳥羽の造道から東寺南大門の前へ攻め寄せた。
東寺の主力は北白川へ向かっていた
東寺の足利軍は、
「比叡山から攻めてくる敵を防ぐ」
として、河合・北白川方面へほとんど出払っていた。
東寺に残っていたのは、
- 公卿や殿上人
- 足利尊氏に近侍する老人
- 少年たち
などが中心だった。
八幡軍の攻撃を防ぐ兵は、ほとんどいなかった。
足軽が東寺へ矢を射込む
官軍の足軽は鳥羽の田のあぜ道を進んだ。
四塚や羅城門付近の高い場所へ並び、東寺へ激しく矢を射た。
高師直の兵500騎余りが造道まで出て防いだ。
しかし矢を浴びせられ、東寺へ退いた。
東寺南西の櫓が焼かれる
官軍はますます勢いを得た。
盾を隙間なく並べ、少しずつ東寺へ近づいた。
南西の角に張り出していた塀の上の高櫓が、簡単に破られ、火をつけられた。
城内では人々が慌て、声を上げて騒いだ。
足利尊氏は少しも動揺しない
しかし足利尊氏は、少しも驚かなかった。
東寺の鎮守社の宝前で、静かに経を読んでいた。
尊氏の前には、
- 問注所信濃入道道大
- 土岐伯耆入道存孝
の2人が控えていた。
土岐存孝が「悪源太」を惜しむ
存孝は周囲を見回し、言った。
「息子の悪源太を、北側の戦場へ向かわせず、ここへ残しておけばよかった。
あの者がいれば、この程度の敵は簡単に追い払っただろうに」
その時、土岐氏の武者「悪源太」が突然、尊氏の前へ現れた。
※悪源太について:『太平記』は土岐伯耆入道存孝の「愚息」と記すが、悪源太の実名には諸説があり、確定しにくい。本ページでは無理に実名を断定せず、本文の呼称「悪源太」を用いる。
悪源太が東寺へ戻る
存孝はうれしそうに尋ねた。
「北側では、まだ戦いは始まっていないのか」
悪源太は答えた。
「そちらのことは、まだ分かりません。
三条河原まで向かっていましたが、東寺の南西に煙が見えたため、引き返してきました。
こちらの戦いは、どのような様子でしょうか」
高師直が出撃を求める
高師直は言った。
「造道の戦いに敗れて退いた。
この陣には兵が少なく、新しい部隊と入れ替えることもできない。
南西の塀を破られ、櫓まで焼かれた。
将軍の危機は今である。
1騎だけでもよい。
お前が出て、あの敵を追い払ってくれ」
悪源太は、
「承知しました」
と答え、尊氏の前を退出しようとした。
尊氏が愛用の太刀を与える
尊氏は、
「少し待て」
と呼び止めた。
いつも身につけていた御所作りで兵庫鎖を用いた太刀を、悪源太へ与えた。
悪源太は尊氏の太刀を受け、心が奮い立った。
悪源太の武装
悪源太は洗革の鎧を着て、白星の兜の緒を締めた。
尊氏から与えられた金作りの太刀に加え、3尺8寸(約1.15m)の黒塗りの太刀も帯びた。
山鳥の尾羽を使った36本の矢を、森のように背負った。
3人張の強弓へ丈夫な弦を掛け、口で湿らせた。
脛当てをつけない理由
悪源太は、わざと脛当てをつけなかった。
時には馬から飛び降り、深い田の中を歩いて戦うつもりだったからである。
1人で敵の側面へ回る
悪源太は東寺北側の小門から出た。
羅城門の西へ回り、馬をあぜ道の陰へ放した。
3町余り(約330m)先に集まっている敵を狙い、矢を次々と射た。
一矢で2人、3人を射倒す
一矢で2人、3人を射落とした。
無駄になる矢は1本もなかった。
東寺南大門へ攻め寄せていた官軍1000人余りは、悪源太1人の矢によって、1度に大きく退いた。
深田を平地のように駆ける
悪源太は勝機を得た。
足の速い名馬へ飛び乗り、深い鳥羽の田を平地のように駆け回った。
敵6騎を斬り落とし、11騎へ傷を負わせた。
曲がった太刀を押して直し、東寺の方を見返しながら、威勢を示した。
その姿は、怪力で知られた和泉小次郎や朝比奈三郎にも勝るように見えた。
足利軍が反撃する
悪源太1人に攻め立てられ、官軍全体が乱れ始めた。
すると高師直が1000騎余りを率い、造道を南へ追撃した。
高師泰も700騎余りで竹田方面を南下し、官軍の退路をふさごうとした。
八幡軍は総崩れとなる
すでに退却を始めた大軍は、足を止めることができなかった。
討たれる仲間を振り返らず、負傷者も助けず、我先にと逃げ散った。
官軍は、元の八幡まで退却したのである。
原題の「隆資卿自八幡被寄事」は、分かりやすく訳すと、「四条隆資卿が八幡から攻め寄せたこと」となる。八幡軍は北白川の煙を総攻撃の合図と誤解し、予定より早く東寺へ攻め寄せる。守備兵の少ない東寺を一時は追い詰めるが、尊氏から太刀を与えられた悪源太が1人で反撃し、高師直・師泰軍も加わったため、官軍は八幡まで敗走する章である。
149. 新田義貞の京都合戦――名和長年の討ち死に
義貞軍は八幡軍の敗北を知らない
八幡方面の官軍が敗れたことを知らないまま、決められた攻撃時刻となった。
※名和長年の戦死日について:『太平記』本文は、この京都合戦を7月13日の出来事として描く。一方、一般的な歴史叙述では名和長年の戦死は建武3年(1336年)6月30日とされる。本ページでは本文の物語順を保ちつつ、この年代差を区別して読む。
正面軍の大将である新田義貞・脇屋義助は、2万騎余りを率いて今道・西坂本から山を下った。
官軍は三手に分かれ、京都へ攻め寄せた。
第一軍――義貞・義助の主力
第一軍は、
- 新田義貞
- 脇屋義助
- 江田行義
- 大館氏明
- 千葉氏
- 宇都宮氏
ら1万騎余りだった。
- 大中黒
- 月に星
- 左巴
- 丹党・児玉党の団扇
などの旗30流余りを並べた。
糺の森の西を通り、大宮通を南へ進んだ。
第二軍――名和長年らの部隊
第二軍は、
- 名和長年
- 仁科氏
- 高梨氏
- 土居氏
- 得能氏
- 春日部氏
ら諸国の兵5000騎余りだった。
総大将義貞の旗を守り、鶴が翼を広げた形や、魚の鱗のような陣形を組んだ。
猪熊通を南へ進んだ。
第三軍――公家を大将とする後陣
第三軍は、
- 二条大納言師基
- 洞院左衛門督実世
を大将とする5000騎余りだった。
牡丹の旗と扇の旗の2流だけを掲げた。
敵に退路を断たれないよう、四条通を東西へ広く陣取り、わざと先へは進まなかった。
阿弥陀ヶ峰・長坂方面も動く
以前から阿弥陀ヶ峰へ陣取っていた阿波・淡路勢1000騎余りは、まだ京都市中へ入らなかった。
泉涌寺前から今熊野付近まで下り、攻撃開始の煙を上げた。
長坂へ陣取っていた額田軍800騎余りも動き出した。
嵯峨・仁和寺付近へ散り、各所へ火を放った。
疲れ切った足利軍と雪辱に燃える義貞
京都の足利軍は大軍だった。
しかし人も馬も疲れていた。
そのうえ朝の八幡軍との戦いで、持っていた矢の多くを射尽くしていた。
官軍は小勢だった。
しかし総大将は名将・新田義貞である。
これまでの戦いで何度も敗れ、今回は会稽の恥をすすごうと、歯を食いしばり、名誉を守るために戦うという。
天下の行方を決める戦い
人々は思った。
「持明院統と大覚寺統のどちらが天下を治めるか。
新田氏と足利氏の長年の争いが、どちらの勝利で終わるか。
すべては今日の戦いで決まる」
緊張しない者は1人もいなかった。
六条大宮で戦いが始まる
六条大宮付近から合戦が始まった。
『太平記』本文では、足利尊氏の軍勢20万騎と新田義貞軍2万騎が入り乱れて戦ったとする。
射交わす矢の音は、夕立が軒先を通り過ぎる音よりも激しかった。
太刀の鍔が打ち合う音は、山彦のように空へ響き、少しも鳴りやまなかった。
足利軍は京都の小路を利用する
足利軍は京都の小路ごとに兵を配置し、官軍を東西から包囲しようとした。
官軍が前へ進めば行く手をふさぎ、左右へ分かれれば中央を破ろうとした。
その場の変化へ応じながら戦った。
義貞軍は陣形を崩さない
しかし義貞の兵は、少しも散らなかった。
中央を破られることもなかった。
退いて背後から押されることもなく、正面の敵を次々と攻め立て、大宮通を南へ一直線に進んだ。
足利の諸軍を次々と破る
義貞軍は、
- 仁木氏
- 細川氏
- 今川氏
- 荒川氏
- 土岐氏
- 佐々木氏
- 逸見氏
- 武田氏
- 小早川氏
らを、こちらで追い散らし、あちらで打ち破った。
足利方は各所へ退き、陣を立て直した。
義貞軍、東寺の小門へ到達する
義貞の2万騎余りは、ついに東寺の小門前へ押し寄せた。
そして全軍が一斉に、大きな鬨の声を上げた。
天皇への誓いを果たす時
義貞は坂本を出発する時、天皇の前で申し上げていた。
「今日の戦いでは、尊氏が立てこもる東寺へ矢を1本射込むまでは、決して帰りません」
今、東寺を矢の届く距離まで攻め寄せた。
義貞は、
「ついに誓いを果たす時が来た」
と大いに喜んだ。
義貞が尊氏へ呼びかける
義貞は旗の陰へ馬を止め、東寺をにらんだ。
弓を杖のようについて立ち、高らかに言った。
「天下の乱が終わらず、罪のない民衆が長い間安心して暮らせないのは、皇統同士の争いとはいうものの、結局は義貞と尊氏殿との争いに原因がある」
「2人だけで勝負を決めよう」
「自分1人の功績を立てるため、多くの人々を苦しめ続けるよりも、我々2人だけで勝負を決めたい。
そのため義貞自ら、この軍門までやって来た。
私が義貞であるかどうか、この矢を1本受けて確かめられよ」
義貞の矢が東寺へ飛び込む
義貞は2人張の弓へ、十三束二伏の長い矢をつがえた。
十分に引き絞り、弦音を高く響かせて放った。
矢は二重に築かれた高櫓を越えた。
尊氏のいる陣幕の中を通り、本堂北東側の柱へ、矢羽根の近くまで深く突き立った。
尊氏も1騎討ちを望む
尊氏は矢を見ると、言った。
「私がこの戦いを起こし、鎌倉を出たのは、天皇を倒そうと思ったからではない。
ただ義貞と会い、長年の恨みを晴らすためである。
義貞と私が2人だけで勝負を決めることは、もともと望んでいたことだ。
門を開けよ。
私が打って出る」
上杉重能が尊氏を止める
上杉伊豆守重能は、驚いて尊氏を止めた。
「何ということをおっしゃるのです。
昔、楚の項羽が漢の高祖へ、
『2人だけで戦おう』
と申し出ました。
高祖は、
『お前を討つのに、罪人を使えば十分だ』
と笑ったではありませんか」
「義貞の挑発へ乗ってはならない」
「義貞はあまりにも深く攻め込み、退路を失ったため、よい敵へ出会いたいと投げやりになっているだけです。
その挑発へ軽々しく応じ、外へ出ることがあってよいでしょうか。
思いもよらない行動です」
重能は尊氏の鎧の袖へ取りついた。
尊氏は仕方なく、忠臣の忠告へ従い、怒りを抑えて座った。
土岐頼遠が官軍の後方へ回る
その時、土岐頼遠が300騎余りで上賀茂へ陣取っていた。
五条大宮へ控える官軍の旗を見ると、
「大将は皆、公家の者らしい」
と判断した。
土岐軍は官軍の背後から、大きな鬨の声を上げて攻めかかった。
公家軍が五条河原へ敗走する
「敵が背後へ回ったぞ。
河原へ退き、広い場所で戦え」
という声が上がった。
しかし公家を中心とする軍勢は、1度も戦わなかった。
五条河原へ一気に追い出され、少しも踏みとどまらず、西坂本を目指して逃げた。
足利軍が義貞の背後へ集まる
土岐頼遠が五条大宮で勝ち、勝利の鬨の声を上げると、各地から数千騎が駆けつけた。
土岐軍は大宮通を南へ進み、義貞軍の背後へ攻め寄せた。
三方から義貞軍を包囲する
神祇官付近にいた、
- 仁木氏
- 細川氏
- 吉良氏
- 石塔氏
の2万騎余りは、朱雀大路を斜めに横切り、西八条へ進んだ。
東からは、
- 少弐氏
- 大友氏
- 厚東氏
- 大内氏
- 四国・中国地方の兵
3万騎余りが、七条河原を南下した。
さらに針小路・唐橋方面へ回り、官軍を1人も逃さないよう包囲した。
逃げ道を失う
官軍は三方向から、百重、千重に包囲された。
空を飛ぶか、地中へ潜る以外には、逃げる場所がないほどだった。
正面には東寺の城郭があり、数万の兵が矢じりをそろえ、激しく矢を射た。
義貞は最期の時と覚悟する
義貞は、
「今日が自分の命の最後である」
と覚悟した。
2万騎余りを一つの部隊へまとめた。
そして『太平記』本文で10万騎余りとされる八条・九条の足利軍へ突入し、四方八方へ追い散らした。
三条河原へ突破する
義貞軍は足利軍の包囲を破り、三条河原へ一気に出た。
しかし千葉・宇都宮軍は、すでに各所で分断されていた。
名和長年の軍も、敵によって進路を遮られたようだった。
仁科・高梨軍が鷺森へ抜ける
仁科・高梨・春日部・丹党・児玉党の兵3000騎余りは、一つの部隊となり、一条通を東へ退いた。
300騎余りを討たれながらも、鷺森まで包囲を突破した。
名和長年が200騎で踏みとどまる
名和長年は200騎余りで、大宮通へ引き返した。
そして自ら官軍最後の防壁となった。
1人も残らず、その場で討ち死にした。
出陣前に、
「味方が敗れたならば、1人になっても踏みとどまり、討ち死にしよう」
と誓った言葉を、長年は実行したのである。
義貞軍が再び包囲される
『太平記』本文では、各地の戦いで勝ち誇った足利軍30万騎が、わずかに生き残った義貞軍を再び中央へ包囲したとする。
義貞も死を覚悟し、少しも退こうとしなかった。
全軍の馬を西へ向け、この場で討ち死にしようとした。
天皇の赤い布をつけた兵が集まる
その時、後醍醐天皇から与えられた赤い袴の布を、笠印としてつけた兵たちが、各所から駆けつけた。
その数は2000騎余りとなった。
疲れた足利軍を押し返す
援軍は、1日中戦って疲れた足利軍へ攻めかかった。
何度も突入し、敵陣を激しく乱した。
雲や霞のような足利軍も、馬を踏みとどまらせることができず、京都市中へ一気に退いた。
義貞、死地を脱する
新田義貞・脇屋義助・江田行義・大館氏明らは、死ぬ可能性が万に一つではなく、万死の中から生き延びた。
官軍は再び比叡山坂本へ退いたのである。
150. 近江の戦い――佐々木道誉の偽降伏
官軍の京都包囲作戦が失敗する
官軍は京都を中央に置き、四方から同時に攻め寄せれば、
「今度こそ足利軍を破ることができる」
と期待していた。
ところが各方面の攻撃開始の合図が食い違い、官軍は再び敗れた。
八幡・阿弥陀ヶ峰・長坂の軍も退く
四条中納言隆資は八幡の陣を捨て、東坂本へ戻った。
阿弥陀ヶ峰へ陣取っていた阿波・淡路の兵も、細川定禅に敗れ、坂本へ退いた。
長坂を守っていた額田氏の軍勢も敗れ、比叡山へ帰った。
足利方は解放された鳥のように喜ぶ
京都の足利軍は、籠から外へ放たれた鳥のように喜んだ。
反対に朝廷方は、穴の奥へ追い込まれた獣のように、身を縮めることとなった。
興福寺が足利方へ転じる
南都興福寺の僧兵は、以前、
「比叡山へ味方する」
という返書を送っていた。
そのため比叡山側は、
「南都も必ず力を合わせてくれるだろう」
と期待していた。
ところが足利尊氏は、興福寺へ数か所の荘園を寄進し、味方になるよう働きかけた。
興福寺の僧たちは、目の前の利益に心を奪われ、将来受ける恥を忘れた。
比叡山を助けて戦うという約束を取り消し、足利方と協力することを約束した。
朝廷が頼れる勢力はわずかとなる
この時、後醍醐天皇が頼りにできそうな勢力は、わずかしか残っていなかった。
一つは、
- 備後国の桜山氏
- 備中国の那須五郎
- 備前国の児島氏
- 今木氏
- 大富氏
らが水軍を整え、近いうちに京都へ向かうと報告していたことだった。
もう一つは、伊勢国の愛洲氏が、
「伊勢国内の敵を退治し、近江国へ向かう」
と報告したことだけだった。
比叡山の財産も尽きる
比叡山の僧たちは、財産を使い果たしながら、官軍へ食糧を提供していた。
しかし『太平記』本文では、公家・武家の家臣や従者を含め、山上と坂本に集まった人数は20万人を超えていたとする。
延元元年(1336年)6月初めから9月中旬まで、この大人数を養い続けたため、比叡山の財産はすべて尽きようとしていた。
僧も兵も、首陽山でワラビを食べながら餓死した伯夷・叔斉のような状態へ近づいていた。
北陸・近江からの補給路もふさがれる
北陸道は、越前守護の斯波高経がふさぎ、人の往来を止めていた。
近江国でも、小笠原信濃守が野路・篠原へ陣を置いた。
そして琵琶湖を往来する船を止めた。
僧侶の食糧まで尽きる
食糧不足に苦しんだのは官軍だけではなかった。
比叡山三千の僧へ供える食物の運送路も絶たれた。
各谷で行われていた仏教講義も完全に中止された。
日吉社などの祭礼も、行われなくなった。
比叡山軍が近江へ出陣する
比叡山側は、
「このままでは持ちこたえられない。
まず近江国の敵を退治し、美濃・尾張へ通じる道を開こう」
と決めた。
延元元年(1336年)9月17日、三塔の僧兵5000人余りが、志那浜から琵琶湖を渡り、野路・篠原へ攻め寄せた。
小笠原軍が野戦を選ぶ
小笠原信濃守は比叡山の大軍を見ると考えた。
「守りの弱い平地の城へ立てこもり、包囲されれば勝てない」
そこで城へ籠もらず、逆に平野へ打って出て、比叡山軍と戦った。
道場坊祐覚の軍が敗れる
最初に道場坊助注記祐覚の軍勢が、小笠原軍へ攻めかかった。
しかし1度の戦いで敗れ、踏みとどまることもできずに退いた。
成願坊軍が小笠原兵を討ち尽くす
続いて成願坊律師の軍勢が入れ替わった。
成願坊軍は激しく攻め、小笠原方の兵を1人残らず討ち取ったという。
山門、再び二万余人を送る
比叡山の僧たちは、近江での戦いによって、さらに怒りを深めた。
1336年9月23日、三塔の僧の中から特に勇猛な五百房の荒法師を選んだ。
総勢2万人余りが、多くの兵船を連ねて琵琶湖を渡った。
小笠原軍は300騎未満となる
小笠原方の兵は、
「比叡山の大軍が再び攻めてくる」
と聞いて恐れた。
大半の兵が逃げ去り、残った軍勢は300騎にも満たなかった。
僧兵は後続を待たず進む
比叡山の僧兵たちは、いつものように非常に血気盛んだった。
後続の軍勢がそろうのを待たず、
「自分が先に戦おう」
と、我先に進んだ。
小笠原軍は先手を打つ
小笠原軍は、この小勢でありながら戦場に残った武士たちだった。
大軍を前にしても、少しも気力を失わなかった。
午前6時よりも早い時刻に、比叡山軍が陣取っていた四十九院宿へ攻め寄せた。
何度も突撃を繰り返した。
僧兵3000人余りが討たれる
この戦いで、理教坊阿闍梨をはじめとする主だった僧兵が討たれた。
比叡山軍の死者は3000人余りに及んだという。
生き残った僧兵たちは琵琶湖の船へ乗り、堅田を目指して退却した。
佐々木道誉が東坂本へ降伏する
そのころ、佐々木佐渡判官入道道誉が京都をひそかに離れた。
若狭路を回り、東坂本へ現れた。
そして後醍醐天皇方へ降伏を申し出た。
道誉が近江守護職を求める
道誉は申し上げた。
「近江国は代々、佐々木家が守護を務めてきた国です。
ところが小笠原氏は、上洛の途中に一時滞在しただけでありながら、2度の戦いで功績を立て、そのまま近江国を支配しております。
これは道誉にとって、面目を失うことでございます」
「近江を官軍へ従わせる」と約束する
「私を近江守護へ任命してくださるならば、すぐに近江へ向かいます。
小笠原氏を追い払い、国中を平定し、官軍へ力を加えます。
決して日数をかけることはございません」
後醍醐天皇と義貞は道誉を信じる
後醍醐天皇も新田義貞も、道誉が自分たちを欺こうとしているとは気づかなかった。
「確かに、もっともな申し出である」
と考えた。
道誉の願いどおり、近江守護職を与えた。
さらに近江国内で所有者を失った土地数十か所を、恩賞として与えた。
そして近江へ向かわせた。
道誉は最初から足利方だった
これは、道誉が初めから考えたうえで申し出た計略だった。
道誉は近江へ渡ると、
「この国は足利将軍から与えられた」
と言い始めた。
小笠原氏は、すぐに近江国を捨て、京都へ戻った。
道誉が近江を支配する
道誉は、たちまち近江国を支配した。
そして東坂本を、遠くから包囲するように攻めた。
そのため比叡山僧兵の遠縁・親類や、朝廷方の家臣・縁者に至るまで、近江国内へ住み続けることが難しくなった。
朝廷方は道誉の裏切りに気づく
後醍醐天皇方は、ようやく悟った。
「道誉は我々を欺いたのだ。
時を移さず退治せよ」
脇屋義助を大将として、2000騎余りを近江へ向かわせた。
志那浜で官軍が襲われる
脇屋軍が志那の渡しを越え、船から岸へ下りようとした時だった。
佐々木道誉軍3000騎余りが押し寄せた。
官軍が陣を整える暇を与えず、すぐに戦いを始めた。
浅瀬で多くの官軍が討たれる
船は浅瀬で止まり、十分に岸へ着けることができなかった。
兵たちは馬を船から下ろせず、身動きが取れなかった。
そのところへ矢を射られ、太刀で斬られた。
討たれた官軍の数は分からないほどだった。
官軍は再び坂本へ退く
この日の戦いでも官軍は敗れた。
残った兵は、わずかに船へ戻り、東坂本へ漕ぎ帰った。
官軍の軍勢が急速に減る
これ以後、比叡山と坂本では食糧がますます不足した。
最初に100騎、200騎を率いていた武将も、部下は5騎、10騎へ減った。
5騎、10騎を率いていた者は、ついには馬へ乗ることさえできなくなった。
朝廷方の力は、急速に衰えていったのである。
151. 後醍醐天皇、比叡山から京都へ還幸する
尊氏から秘密の使者が来る
延元元年(1336年)10月上旬、『太平記』本文では、足利尊氏がひそかに後醍醐天皇へ使者を送ったと語る。
使者は、尊氏の言葉として次のように申し上げた。
尊氏が反乱の原因を弁明する
「一昨年の冬、近臣の讒言によって天皇のお怒りを受けた時、私は髪を剃って僧となり、無実の罪を許していただこうと考えておりました。
※年次について:『太平記』本文はここを「去々年の冬(一昨年の冬)」とする。巻第十七には史実の年代と一致しにくい箇所があるため、ここでは無理に特定の西暦年へ置き換えず、本文の表現を残す。
ところが新田義貞・脇屋義助らが、天皇のお怒りを利用して、以前からの恨みを晴らそうとしました。
そのため仕方なく戦いを始め、それが天下の大乱へ広がったのです」
「天皇へ反逆したのではない」
「尊氏は、決して天皇へ反逆しようと考えたのではございません。
ただ義貞一族を滅ぼし、今後、讒言を行う臣下への戒めとしたいだけです」
京都へ戻るよう願う
「天皇が私の真心をお見通しくださるならば、讒言によって罪へ落とされた臣下を哀れみ、再び京都の宮中へお戻りください。
そして天皇の御代を、永遠の春のように回復してください」
公家・武家の地位を元へ戻すと約束する
「天皇へ従っている公卿や、官軍へ降伏した武士たちについても、罪の軽重を問題にいたしません。
すべて以前の官職と所領へ戻します。
天下の政治は、公家へお任せ申し上げます」
起請文を添える
尊氏は、
「さまざまな疑いを解いていただくため、別紙を一通添えます」
として、弘法大師を証人に立てた起請文をつけた。
その書状を、浄土寺の忠円僧正のもとへ送った。
後醍醐天皇は尊氏の言葉を信じる
後醍醐天皇は尊氏の書状を読んだ。
「神仏へ誓った起請文まで差し出した以上、偽りを言うはずはないだろう」
と考えた。
天皇は、周囲の老臣や知恵ある臣下へ相談しなかった。
すぐに京都へ戻ることを決めた。
尊氏は天皇を欺けたと喜ぶ
尊氏は、天皇からの返事を聞くと喜んだ。
「天皇の知恵は深いといわれているが、意外に欺きやすいものだ」
そして有力な大名たちへ、縁故のある者を通じて、ひそかに書状を送った。
天皇還幸の計画を知らせ、足利方へ加わるよう誘った。
降伏を考える者が道筋で待つ
京都還幸の日程は、秘密のうちに決められた。
足利方へ降伏しようとする者たちは、あらかじめ今道・西坂本付近へ1人ずつ抜け出した。
天皇が通る時を待ち受けた。
江田・大館も降伏を考える
中でも、
- 江田行義
- 大館氏明
は新田一族に属し、それぞれ一方面の大将を務める人物だった。
本来ならば、新田家と運命をともにすべき立場だった。
しかし何か深い考えがあったのだろうか。
2人とも足利方へ降伏するため、延元元年(1336年)10月9日の明け方より先に山上へ登っていた。
義貞は何も知らない
新田義貞は、このような動きを知らなかった。
参上する軍勢と普段どおり対面し、何事もないように過ごしていた。
洞院実世から知らせが届く
そこへ洞院左衛門督実世から、使者が来た。
「ただ今、天皇が京都へお戻りになるとして、お供の人々を集めております。
このことをご存じでしょうか」
義貞は誤報だと考える
義貞は答えた。
「そのようなことがあるはずはない。
使者が聞き間違えたのだろう」
義貞は、少しも慌てた様子を見せなかった。
堀口貞満が不審を抱く
堀口美濃守貞満は、知らせを聞くとすぐに言った。
「江田・大館の2人が、特に用事もないのに、
『今朝、中堂へ参る』
として山へ登ったことを不審に思っておりました。
まず私が天皇の仮御所へ参り、事情を確かめてまいります」
貞満が急いで皇居へ向かう
貞満は家臣が着ていた鎧を取り、肩へ掛けた。
馬上で上帯を締め、鐙を踏んで急いだ。
仮御所へ近づくと馬から降り、兜を脱いで従者へ持たせた。
そして周囲を鋭く見渡した。
還幸の準備が進んでいる
見ると、まさに天皇が出発しようとしていた。
公卿や殿上人の中には、すでに衣冠を着けた者もいた。
鳳輦が大床へ寄せられていた。
新典侍が、三種の神器を納めた内侍所の櫃を運び出していた。
頭弁範国は、剣と神璽を持つ役目として御簾の前へひざまずいていた。
京都還幸が事実であることは、疑いなかった。
貞満が鳳輦へ取りすがる
貞満は左右の人々へ軽く礼をすると、天皇の前へ進んだ。
鳳輦を支える轅へ取りつき、涙を流して申し上げた。
「なぜ義貞をお捨てになるのですか」
「天皇が京都へお戻りになるという噂は、かすかに聞いておりました。
しかし義貞殿が、
『そのようなことは知らない』
と申されましたので、誤った噂だと思っておりました。
ところが出発の儀式は、すでに本当に整っております。
義貞が、どのような不義を行ったというのでしょうか。
なぜ長年、骨身を惜しまず忠義を尽くした者をお見捨てになり、大逆無道の尊氏へ心を移されるのでしょうか」
義貞の鎌倉攻めの功績
「元弘の乱の初め、義貞は取るに足りない身でありながら、天皇の綸旨を受けました。
そして関東の大敵である鎌倉幕府を、数日のうちに滅ぼしました。
隠岐におられた天皇の憂いを、3年の間にお晴らし申し上げた功績は、昔の忠臣にも例が少ないものです。
近年の忠義ある武士たちも、皆、義貞へ功を譲るほどでした」
尊氏との戦いで多くを失った
「尊氏の反逆が明らかとなって以来、義貞は大軍を率い、何度も尊氏軍を破り、その将たちを捕らえました。
死ぬ危険の中から、何度も命を拾ったことは、数えきれません」
新田一族132人、家臣8000人が死んだ
「正義を重んじて命を落とした新田一族は、132人に及びます。
忠節を守って戦場へ遺体をさらした家臣は、8000人余りおります。
それでも最近の京都での戦いでは、足利軍の勢いが強く、官軍がたびたび敗れました。
これは戦い方の誤りではありません。
天皇の徳に、何か欠けるところがあるためではないでしょうか。
だから官軍へ加わる兵が少ないのではありませんか」
「京都へ戻るなら、新田一族を処刑してください」
「新田家が長年尽くしてきた忠義を捨て、京都へお戻りになるのであれば、義貞をはじめ新田一族50人余りを、天皇の前へお召しください。
そして首をはね、呉王夫差へ逆らった伍子胥のような罪人として扱ってください。
胸を裂き、殷の紂王をいさめた比干のような刑へ処してください」
貞満は怒りに満ちた顔で涙を流し、道理を尽くして訴えた。
天皇も自らの誤りを悟る
後醍醐天皇は、貞満の言葉を聞き、自分の判断を後悔した様子となった。
供奉する人々も、貞満の道理へ心を打たれた。
誰もがうつむき、言葉を発することができなかった。
152. 恒良親王を新田義貞へ託す――鬼切を日吉社へ奉納
義貞父子・兄弟が軍勢を率いて参内する
しばらくすると、
- 新田義貞
- 新田義貞の子・新田義顕
- 新田義貞の弟・脇屋義助
の3人が、3000騎余りを率いて天皇の仮御所へ参上した。
3人とも心には怒りを抱いていた。
しかし礼儀を乱すことはなかった。
階段下の庭へ袖を並べ、整然と座った。
天皇が義貞・義助を近くへ呼ぶ
後醍醐天皇は、普段よりも穏やかな表情を見せた。
義貞と義助を御前近くへ呼び、涙を浮かべながら語った。
貞満の訴えを一部認める
「堀口貞満が朕を恨んで申し立てたことは、一つの道理を持つように思われる。
しかし、なお将来を見通す考えが十分ではない」
天皇は義貞の忠義を高く評価する
「足利尊氏が身に余るほどの朝廷の恩を受けながら、朝廷を倒そうとした時、新田義貞も同じ源氏の一族であるから、尊氏の反乱へ味方するだろうと朕は思っていた。
ところが義貞は一族としてのつながりを離れ、正義へ心を置いた。
倒れようとする朝廷を助け、自らの命を天運へ懸けて戦った。
その忠義への感激は、決して浅いものではない」
新田一族に天下を守らせるつもりだった
「朕は、新田一族を全国の守りとして、天下を治めさせようと考えていた。
しかし天運がまだその時へ至らず、兵は疲れ、勢力も衰えた」
京都還幸は一時的な和睦のため
「そこで尊氏と一時的に和睦する形を作り、再起の機会を待つため、京都へ戻ることを決めたのである。
義貞を捨て、尊氏へ完全に従おうとしているわけではない」
計画を秘密にした理由
「この計画は、以前からひそかに知らせたいと思っていた。
しかし情報が外へ漏れれば、かえって困難な事態が起こる可能性がある。
そのため実行する直前になってから知らせようと考え、今まで黙っていた。
貞満が恨みを訴えたことで、朕も自分の誤りを知った」
越前国へ向かうよう命じる
「越前国へは、すでに川島維頼を先に下してある。
そのため越前国内では、大きな問題はないだろう。
また氣比神宮の神官たちが敦賀津へ城を築き、朝廷方へ味方していると聞いている」
北陸で軍勢を立て直せ
「まず越前国へ下り、しばらく兵の疲れと士気を回復させよ。
そして北陸諸国を従え、再び大軍を起こし、天下を守る藩屏となれ」
『太平記』が語る恒良親王への「譲位」
「ただし朕が京都へ戻れば、義貞は反対に朝敵という名を受けることになるだろう。
そこで皇太子・恒良親王へ天子の位を譲り、恒良親王も北陸へ下すことにする」
皇太子を義貞へ託す
「天下のことは、大事も小事もすべて新田義貞の判断へ任せる。
朕に代わり、恒良親王をお支え申し上げよ」
※恒良親王の皇位について:恒良親王は建武元年(1334年)からすでに皇太子だった。『太平記』はここで、後醍醐天皇が恒良親王へ「天子の位」を譲り、のちには三種の神器も渡したと語る。一方、一般的な歴代天皇の系譜では恒良親王は天皇に数えられていない。本ページでは、この「譲位」を『太平記』の叙述としてそのまま紹介する。
勾践と范蠡のたとえ
後醍醐天皇は続けた。
「朕は、お前のために越王勾践が会稽で受けたような屈辱を耐える。
お前は朕のために、范蠡のような計略をめぐらせよ」
勾践は一時敵へ屈服しながら、後に国を立て直した王である。
范蠡は勾践を助け、越を再興させた名臣だった。
天皇は、自ら一時尊氏へ従う姿を見せ、その間に義貞へ北陸で再起するよう求めたのである。
義貞の兵たちも涙を流す
天皇は涙を押さえながら語った。
強く怒っていた堀口貞満も、道理を十分に理解していない荒武者たちも、皆うつむいた。
涙を流し、鎧の袖を濡らした。
1336年10月9日は儀式の準備で暮れる
延元元年(1336年)10月9日は、慌ただしい1日となった。
『太平記』本文で「受禅の儀」と呼ばれる恒良親王への皇位継承の儀式と、後醍醐天皇が京都へ戻る準備に時間を費やし、そのまま日が暮れた。
義貞が夜中に日吉大社へ参拝する
夜が更けると、新田義貞は、ひそかに日吉大社の大宮権現へ参拝した。
そして神前で静かに祈りを捧げた。
義貞の祈り
「臣・義貞は、神仏が人々を救うという御誓願を頼みとして、これまで日々を過ごしてまいりました。
しかし朝敵と戦う因縁を結び、すでに長い年月がたっております」
万里の征路での加護を求める
「願わくは、これから遠く万里に及ぶ戦いの道でも、守護のまなざしをお向けください。
※「万里」について:ここは非常に遠い道のりを表す文学的表現であり、中世の「里」を現代のkmへ単純換算することはしない。
再び大軍を起こし、朝敵を滅ぼす力をお与えください」
自分が果たせなければ子孫へ託す
「たとえ私が不運に遭い、生きている間にこの願いを果たせないとしても、祈りが神の御心へかなうならば、子孫の中から必ず大軍を起こす者を現してください。
そして父祖の遺体をさらした恥をすすがせてください」
願いがかなえば新田家は日吉社を守る
「この二つの願いのうち、一つでもかなうならば、新田家の子孫は末永く日吉社の施主となります。
そして神の威光を、いよいよ輝かせ申し上げます」
義貞は深い信仰を込めて誓った。
源氏の宝刀・鬼切を奉納する
義貞は、新田家へ代々伝わる重宝である鬼切の太刀を、日吉大社の神前へ納めた。
鬼切は源氏の宝刀として語られる伝承上の名刀であり、この場面では新田一族の運命を象徴するものとして描かれている。
それを奉納することで、義貞は自分の命と新田一族の未来を、日吉山王へ託したのである。
153. 新田義貞、北陸へ落ちる
後醍醐天皇と皇太子が別々の道を進む
延元元年(1336年)10月10日の巳の刻(午前10時ごろ)、後醍醐天皇は小さな輿へ乗り、今道を西へ進んで京都へ戻った。
一方、皇太子・恒良親王は馬へ乗り、戸津から北国へ向かった。
天皇と皇太子は、同じ場所から正反対の道へ分かれたのである。
後醍醐天皇に従って京都へ向かう公卿
後醍醐天皇の還幸に従った公卿は、
- 吉田内大臣定房
- 万里小路大納言宣房
- 御子左中納言為定
- 侍従中納言公明
- 坊門宰相清忠
- 勧修寺中納言経顕
- 民部卿光経
- 左中将藤長
- 頭弁範国
らだった。
京都へ向かった武士たち
武家では、
- 大館氏明
- 江田行義
- 宇都宮公綱
- 菊池武俊(『太平記』の表記。一般には菊池武敏とされる人物)
- 仁科重貞
- 春日部家綱
- 南部為重
- 伊達家貞
- 江戸景氏
- 本間資氏
- 比叡山の僧兵・道場坊祐覚
らが従った。
その軍勢は合わせて700騎余りだった。
彼らは天皇の輿の前後を守りながら、京都へ向かった。
皇太子とともに北国へ向かう人々
皇太子に従って北国へ落ちる公家には、
- 尊良親王(一宮中務卿親王)
- 洞院実世
- 洞院定世
- 三条泰季
- 御子左為次
- 一条行房
- 行房の子・行尹
らがいた。
新田一族と諸国の武士
武士では、
- 新田義貞
- 新田義貞の子・新田義顕
- 脇屋義助
- 脇屋義助の子・脇屋義治
- 堀口貞満
- 一井義時
- 額田為綱
- 里見義益
- 大井田義政
- 鳥山義俊
- 桃井義繁
- 山名忠家
- 千葉貞胤
- 宇都宮泰藤
- 狩野泰氏
- 河野通治
- 河野通綱
- 土岐頼直
- 一条為治
らが従った。
これに比叡山の僧兵も少し加わった。
『太平記』によれば、その軍勢は合わせて7000騎余りだった。
案内役を先頭に立て、皇太子の前後を取り囲んで北へ進んだ。
皇族・公卿は各地へ散る
このほか妙法院宮は船へ乗り、遠江国へ向かった。
阿曾宮は山伏の姿へ変装し、吉野の山奥へひそかに入った。
四条中納言隆資は紀伊国へ下り、中院少将定平は河内国へ身を隠した。
玄宗皇帝の蜀への避難に似た光景
この様子は、中国で哥舒翰が安禄山軍に敗れ、玄宗皇帝が蜀へ逃れた時の悲劇に似ていた。
その時も皇族や宮中の女性たちは離れ離れとなった。
ある者は履物もなく険しい山道をさまよい、ある者は衣冠を汚しながら、野の草むらへ逃げ隠れたという。
今の日本も、それと同じような有様だった。
再起の日を信じていた人々
昨日、一昨日まで人々は、次のように自分を慰めていた。
「いずれ天皇の運が開けば、立派な衣装を着て故郷へ帰ることができる。
今まで泊まった名も知らぬ村や、見たこともなかった海辺や山中の旅宿について語る日も来るだろう。
そうなれば、つらく悲しかった出来事も、後には忘れがたい思い出となる」
それぞれが、そのような希望を抱いていた。
君臣・父子・夫婦が離れ離れとなる
しかし今、主君と臣下、親と子は、はるか遠く離れた。
兄弟や夫婦も、それぞれ別の方角へ向かった。
ある者は、
「2度と会うことができないかもしれない」
と悲しんだ。
ある者は、
「これから自分は、どこへ身を置けばよいのか」
と悩んだ。
進んでも戻っても敵陣
彼らは、まだ旅の途中にいた。
前へ進んでも敵の陣があり、引き返しても敵の陣があった。
「誰が最初に討たれ、その死を悲しまれるのだろう。
誰が後から死に、死者の数へ加わるのだろう」
誰も口には出さなかったが、心の中で考えない者はいなかった。
春の雁と明け方の月
昔、江相公が別れに際して書いた文章に、次のような言葉があった。
1人は南へ飛び、1人は北へ向かう。
春の雁へ、互いの無事を尋ねる手紙を託すことも難しい。
1人は東へ出て、1人は西へ流れる。
明け方の月を見上げ、互いを思うほかはない。
昔の別れを記したその文章が、今を生きる人々の涙となったのである。
154. 還幸に従った人々の拘禁・処刑
足利直義が三種の神器を要求する
後醍醐天皇の一行が法勝寺付近まで近づくと、足利直義が500騎余りを率いて迎えに出た。
直義は、まず申し上げた。
「三種の神器を、現在の天皇のもとへお渡しください」
ここでいう「現在の天皇」とは、足利方が擁立した持明院統の光明天皇を指す。
『太平記』が語る「偽の神器」
『太平記』本文では、後醍醐天皇はこの要求をあらかじめ予想していたとする。
そして、あらかじめ用意していた「似せ物」にすり替え、それを神器を管理する女官へ渡したと語る。
『太平記』は、後醍醐天皇が「本物」とする神器を手元へ残した、という筋立てで語っている。
※三種の神器について:ここは『太平記』の物語上きわめて重要な主張である。神器の実物・継承をめぐる問題を、現代から単純に「本物」「偽物」と確定できるわけではないため、本ページでは『太平記』が「似せ物」と記すことを明示して紹介する。
花山院へ閉じ込められる
その後、後醍醐天皇は花山院へ入れられた。
四方の門はすべて閉じられ、警備の兵が置かれた。
和睦を信じて京都へ戻ったはずの天皇は、実際には自由を奪われたのである。
降伏した武士も拘束される
天皇に従って京都へ来た武士たちは、足利方の大名へ1人ずつ預けられた。
表向きは客人のように扱われたが、実際には囚人だった。
彼らは後悔した。
「このようなことになると知っていたならば、義貞殿とともに北国へ落ち、そこでどのような最期を迎えてもよかったものを」
しかし、いくら悔やんでも、もはや取り返すことはできなかった。
菊池武俊は九州へ脱出する
10日余りが過ぎた後、菊池肥後守武俊は、警備が緩んだ隙を見つけた。
そして京都を脱出し、故郷の九州へ逃げ帰った。
宇都宮への落書き
宇都宮公綱は、比較的自由な囚人のように扱われていた。
逃げられる機会は何度もあった。
しかし僧の姿となり、何をするでもなく京都へとどまっていた。
これをよく思わない者がいたのだろう。
門の扉へ山雀の絵を描き、その下に歌を書いた。
山がらが
さのみもどりを
うつのみや
都に入りて
出でもやらぬは
意味は、およそ次のようになる。
山雀ならば、いつまでも同じ場所で羽ばたいているものだろうか。
宇都宮殿は都へ入ったまま、どうして出ようとしないのか。
「山雀」と「宇都宮」を掛け、逃げずに京都へ残る公綱をからかった歌である。
本間資氏の処刑
本間孫四郎資氏は、もともと足利将軍家の家臣だった。
しかし建武3年(1336年)正月16日の戦い以後、新田義貞へ従った。
『太平記』は、兵庫の戦いでは遠矢を射て強弓の腕前を示した、と記す。
また雲母坂の戦いでは扇を射て、弓の名人としての技を見せたとする。
足利方への敵対を重く見られる
本間は、もともと足利家へ仕えていながら、たびたび官軍の武将として足利軍を苦しめた。
その振る舞いを許し難いものとされ、六条河原へ引き出された。
そして首をはねられた。
道場坊祐覚の経歴
比叡山の僧兵・道場坊助注記祐覚は、もとは法勝寺の規律を守る僧だった。
後醍醐天皇が船上山へ立てこもっていた時、祐覚は僧の正式な法衣を脱いだ。
荒法師の姿となり、弓矢を取って戦い、一時は大きな権勢を得た。
山門軍の中心人物として処刑される
後醍醐天皇が2度にわたって比叡山へ避難した時、軍事上の準備や兵糧の手配を支えたのは、主に祐覚だった。
そのため足利方から、
「比叡山の僧兵を率いた中心人物である」
と見なされた。
延元元年(1336年)12月29日、祐覚は阿弥陀ヶ峰で斬られた。
祐覚の辞世
祐覚は処刑される前、法勝寺の上人へ一首の歌を送った。
大方の
年の暮ぞと
思ひしに
我が身の果ても
今夜なりけり
意味は、およそ次のようになる。
ただ今年が暮れる夜だと思っていた。
ところが自分の命まで、今夜で終わることになった。
年の終わりと、自分の人生の終わりを重ねた歌である。
公卿たちは死罪を免れる
比叡山から後醍醐天皇へ従って京都へ戻った高位の公卿たちは、かろうじて死罪より一段軽い処分へ減刑された。
しかし官職を解かれ、昇進や任官の道も止められた。
生きてはいるものの、世の中に存在しないのと同じような身となった。
かつての同僚へ顔を上げられない
彼らは、足利方へ味方して栄えている人々の前で、顔を上げることができなかった。
地面の泥や砂へ顔を伏せるような思いをした。
再び将来の栄華を望みながら、その願いがかなわないことを悲しみ、異民族に支配された空の下で涙を流すような気持ちだった。
荒れ果てた邸宅へ戻る
以前暮らしていた邸宅へ戻っても、庭には秋草が生い茂っていた。
道には深い露が降り、人が通った形跡もなかった。
寝室には夜の月だけが差し込み、積もった塵を払う者もいなかった。
清貧だけでは耐えられない
孔子の弟子・顔回は、ひょうたん一杯の水だけで暮らしながら、道を楽しんだという。
しかし司馬相如の家のように、四方の壁しかなく、冷たい風が吹き込む暮らしでは、衣服もない苦しみに耐えることは難しい。
過去の栄華を思い出す悲しみ
仏教では、天人も衰える時に五つの兆しが現れるという。
公卿たちは今、まさに栄華が衰え、没落する悲しみを味わっていた。
かつて高い御殿で楽しんだ日々を思い出すたびに、世の中のつらさは増した。
涙の尽きる時はなかった。
155. 北国へ向かう軍勢の凍死
新田義貞軍、塩津・海津へ到着する
延元元年(1336年)10月11日、新田義貞は7000騎余りを率いて、琵琶湖北端の塩津・海津へ到着した。
しかし越前へ通じる7里半(中世の里程で、現代のkmには単純換算できない)の山道は、越前守護・斯波高経が大軍でふさいでいるという。
そこで義貞軍は進路を変え、『太平記』本文が「木目峠」と記す峠道を越えることにした。本ページでは現在一般に用いられる表記に合わせ、木ノ芽峠として紹介する。
例年より早い厳しい寒さ
北国では、10月初めになると、すでに高い山々へ雪が降る。
麓でも時雨が絶えず降り続く。
この年は、例年よりも寒さの訪れが早かった。
雪と風が兵を襲う
激しい風に吹き散らされた雪が、山道を進む兵の兜や鎧へ降りかかった。
強風は鎧の袖をまくり上げ、兵の顔を激しく打った。
兵たちは寒い谷で道を見失った。
日が暮れても宿はなく、木の下や岩陰で体を小さくして横たわった。
弓矢を燃やして暖を取る
運よく火を手に入れた者は、持っていた弓や矢を折って燃やし、薪の代わりとした。
まだ仲間と離れずにいた者たちは、互いに抱き合って体を温めた。
人と馬が次々に凍死する
もともと薄い衣服しか着ていなかった者や、十分な飼料を与えられなかった馬は、あちらこちらで凍死した。
死体が道をふさぎ、生き残った者も前へ進めなくなった。
寒冷地獄のような光景
苦しみ叫ぶ声は、仏教で説かれる叫喚地獄・大叫喚地獄の声のように、耳を満たした。
凍傷で皮膚が裂ける苦しみは、紅蓮地獄・大紅蓮地獄の責め苦が目の前へ現れたようだった。
生きている今でさえ、このような苦しみである。
死後の世界の苦しみを思うと、さらに悲しいことだった。
河野・土居・得能軍が取り残される
河野・土居・得能氏ら300騎は、後陣を進んでいた。
しかし山道の曲がり角で前軍から遅れ、進むべき道を見失った。
彼らは塩津の北側へ下り、そこへとどまった。
佐々木・熊谷軍に包囲される
そこへ佐々木一族と熊谷氏の軍勢が現れた。
河野らを包囲し、討ち取ろうとした。
河野・土居・得能軍は、
「敵へ突入し、互いに刺し違えて死のう」
とした。
武器を握ることもできない
しかし馬は雪と寒さで凍え、少しも動かなかった。
兵たちも指が凍傷で使えなくなり、弓を引くことができなかった。
太刀の柄さえ握れなかった。
刀を地面へ立てて自害する
彼らは腰の刀を雪と土の中へ立てた。
そして、その刃の上へうつ伏せに倒れ、自らの体を貫いて死んだ。
戦うことさえできないまま、多くの勇士が雪中で最期を迎えたのである。
千葉貞胤が敵陣へ迷い込む
千葉介貞胤は500騎余りを率いていた。
しかし東西の方向も分からないほど激しく降る雪の中で、道を完全に見失った。
そして誤って敵の陣へ入り込んだ。
自害しようとする千葉軍
千葉軍は進むことも退くこともできなくなった。
前後の味方からも離れていた。
そこで1か所へ集まり、全員で自害しようとした。
斯波高経が降伏を勧める
その時、斯波高経のもとから使者が来た。
使者は丁寧に伝えた。
「武士として戦うことも、今はここまででございましょう。
どうか考えを曲げ、こちらへおいでください。
これまで官軍へ味方されたことについては、私が自分の命に代えてでも、将軍へ許しを申し上げます」
千葉貞胤はやむなく降伏する
貞胤は本心では望まなかった。
しかし部下を雪中で全滅させることもできず、やむを得ず降伏した。
貞胤とその軍勢は、斯波高経の支配下へ入った。
敦賀へ到着する
1336年10月13日、新田義貞は敦賀津へ到着した。
※年代について:福井県の歴史資料でも、建武3年(1336年)10月13日に新田義貞と恒良・尊良両親王らが金ヶ崎城へ入ったと整理されている。この部分は『太平記』の月日と一般的な年代整理がおおむね一致する。
氣比弥三郎大夫が300騎余りを率いて出迎えた。
金ヶ崎城へ入る
氣比氏は、
- 恒良親王(皇太子)
- 尊良親王(一宮)
- 総大将の義貞父子・兄弟
を、まず金ヶ崎城へ迎え入れた。
その他の軍勢には、敦賀の民家を宿として割り当てた。
長い旅と雪中行軍による疲労を、少しでも休ませたのである。
軍勢を各地へ分ける
1日休んだ後、義貞は考えた。
「この大軍が1か所へ集まったままでは、食糧も不足し、敵に包囲された時にも危険である」
そこで諸将を、それぞれ北陸の城や国へ分けることにした。
義貞は皇太子と金ヶ崎へ残る
総大将の義貞は皇太子のそばへ仕え、金ヶ崎城へ残った。
義顕は越後国へ向かう
義貞の子・義顕には、北陸の兵2000騎余りをつけた。
そして越後国へ向かわせた。
脇屋義助は杣山城へ向かう
脇屋義助には1000騎余りをつけ、瓜生氏が守る杣山城へ向かわせた。
それぞれの土地で軍勢を集め、後から金ヶ崎城を支援させるためだった。
156. 瓜生保の変心――義鑑房が脇屋義治をかくまう
脇屋義助・新田義顕軍が杣山へ向かう
延元元年(1336年)10月14日、脇屋義助と新田義顕は、3000騎余りを率いて敦賀津を出発した。
一行は、まず瓜生氏の杣山城へ向かった。
瓜生三兄弟が出迎える
瓜生判官保と、その弟である、
- 瓜生兵庫助重
- 瓜生弾正左衛門照
の三兄弟は、さまざまな酒や料理を用意した。
そして鯖波宿まで、両大将を迎えに出た。
兵糧を持たせて軍勢をねぎらう
瓜生氏は、500、600人の人夫へ兵糧を持たせ、義助・義顕軍の兵士へ配った。
一つ一つのことを重大な用事として丁寧に扱う姿は、まったく裏表がないように見えた。
両大将も兵士たちも、
「瓜生氏は頼りになる味方である」
と、心強く思った。
義助が鎧を与える
酒宴が進み、杯が順に回った。
瓜生保は、脇屋義助が飲んだ杯を受け取ると、席を離れて3度飲み干した。
義助は保へ、白い縁取りをした紺糸威の鎧一領を与えた。
瓜生保にとって、身に余る名誉に見えた。
瓜生氏は衣服まで用意する
その後、瓜生保は自分の館へ戻った。
そして義助・義顕のために、さまざまな小袖20着を用意して贈った。
さらに新田一族や外様の兵たちが、あまりにも薄い衣服しか着ていないことを気の毒に思った。
「まず1人へ1着ずつ、小袖を仕立てて送ろう」
倉から大量の絹や綿を取り出し、急いで裁縫させた。
斯波高経から秘密の使者が来る
ところがその時、斯波高経から、ひそかに使者が送られてきた。
使者は、
「これは『先帝』から出された命令である」
として、
「新田義貞一族を追討せよ」
という綸旨を瓜生保へ渡した。
瓜生保は綸旨を本物と信じる
瓜生保は、もともと物事を深く考える人物ではなかった。
『太平記』の語りでは、その綸旨は足利尊氏が働きかけ、本文が「前帝」と呼ぶ後醍醐天皇から出させたものだった。しかし瓜生保は、その事情を知らなかったとされる。
朝敵をかくまうことを恐れる
保は考えた。
「天皇のお怒りを受け、朝敵となった者たちをかくまい、大軍を動かせば、天罰を受けるかもしれない」
瓜生保は、たちまち心を変えた。
杣山城へ入り、関門を閉ざして、新田軍を受け入れなくなった。
弟の義鑑房が義助のもとへ来る
瓜生保の弟に、義鑑房という禅僧がいた。
義鑑房は鯖波宿の義助・義顕のもとへ参上し、申し上げた。
「兄は愚かな者です」
「兄の保は愚かな者です。
将軍が先帝へ無理に出させた綸旨を、本当の天皇の御心だと思い込み、突然官軍へ背こうとしております」
僧であるため兄と刺し違えられない
「私が武士の身であれば、兄と刺し違え、ともに死ぬべきところです。
しかし私は僧侶です。
僧の姿を恥じ、仏の目を恐れるため、兄を殺すこともできず、黙って見ていなければならないことを悔しく思っております」
いずれ兄を説得できると考える
「しかし、よく考えてみますと、兄も事情を詳しく聞けば、最後には必ず官軍へ戻ると思います。
もし幼い若君が何人かいらっしゃるならば、その中の1人を私へお預けください」
若君を衣の下へ隠す
「私が懐や僧衣の下へ隠して、お守りいたします。
そして時機を得たならば、その若君を奉じて旗を挙げ、金ヶ崎城を背後からお助けいたします」
義鑑房は、言い終わらないうちから涙を流した。
両大将は義鑑房を信じる
義助・義顕は、その様子を見た。
「これほど涙を流して訴える者が、偽りを言うはずはない」
と考え、疑わなかった。
2人は義鑑房を近くへ呼び、ひそかに事情を説明した。
後醍醐天皇の言葉を明かす
「後醍醐天皇が坂本を出られる時、次のようにおっしゃった。
尊氏が強く求めるならば、仕方なく義貞追討の綸旨を出すこともあるだろう。
しかし義貞が仮にも朝敵の名を受けることは望ましくない。
そこで皇太子へ位を譲り、天下の政治を任せる。
義貞はその天皇を支える臣下として、王政を再興する功績を立てよ。
そのうえ三種の神器も皇太子へ渡された」
先帝の綸旨には従う必要がない
「『太平記』本文の筋立てでは、すでに恒良親王へ皇位が譲られたことになっている。したがって、尊氏が本文でいう『先帝』へ働きかけて出させた綸旨があったとしても、思慮のある者ならば従う必要はないと分かるはずである」
瓜生保との交渉を断念する
「しかし瓜生保が、この道理を理解できないのならば、これ以上説明しても仕方がない。
急いで兵をまとめ、金ヶ崎へ戻らなければならない時である。
その中で、兄弟の立場を離れて忠義を示してくれることは、まことにありがたい」
十三歳の脇屋義治を預ける
「あなたの心は頼もしい。
幼い息子・義治を、あなたへお預けしよう。
この子を生かすか、どのように育てるかは、すべてあなたへ任せる」
脇屋義助は、この年13歳(『太平記』本文の年齢表現)になる息子・脇屋義治(式部大輔)を、義鑑房へ預けた。
最愛の子との別れ
義治は、義助が特に深く愛していた幼い1人息子だった。
義助は1日、いや一時さえそばから離さなかった。
荒い風にも当てまいと、大切に育ててきた。
家臣1人もつけず敵地へ残す
その義治を、身近な家臣1人もつけず、これまで心の内を知らなかった僧へ預けた。
しかも周囲は、いつ敵へ変わるか分からない人々ばかりだった。
親子の別れは限りなく悲しかった。
再び会える日があるかどうかも分からなかった。
3500騎が250騎となる
夜が明けると、義助は金ヶ崎へ戻る準備をした。
義顕は越後国へ向かうため、宿の中で兵を集めた。
ところが瓜生保の離反を聞いた兵たちは、いつの間にか次々と逃げ去っていた。
昨日までは3500騎余りと数えられた軍勢が、わずか250騎となっていた。
越後行きを断念する
この人数では、敵陣の続く遠い道を通り、越後国まで行くことはできなかった。
そこで、
「義助も義顕も、ともに金ヶ崎へ戻ろう。
その後、必要ならば船で北国へ向かえばよい」
と決めた。
2人は鯖波宿を出発し、再び敦賀へ向かった。
今庄浄慶が道をふさぐ
この時、越前国の住人・今庄九郎入道浄慶は、
「この道を官軍の落人が大勢通る」
と聞いた。
彼らを討ち止めるため、近くの農兵を集めた。
険しい場所へ鹿垣を結び、要害へ逆茂木を置き、矢をそろえて待ち構えた。
義助は旧臣の一族だと考える
義助は道がふさがれているのを見て言った。
「おそらく今庄法眼久経の一族であろう。
久経は我々へ従い、坂本までともに戦った。
その一族ならば、以前の功績や関係を忘れてはいないだろう。
誰か近づき、事情を尋ねよ」
由良光氏が交渉へ向かう
由良越前守光氏が答えた。
「承知しました」
光氏は1騎で進み、馬を止めて大声で呼びかけた。
「官軍の道をふさぐのか」
「脇屋義助殿は、戦いの相談のため、杣山城から金ヶ崎へ一時的に向かっている。
事情を知らずに、このように道をふさいでいるのか。
もし矢を1本でも射たならば、後にどこへ身を置き、その罪から逃れるつもりか。
すぐに弓を伏せ、兜を脱ぎ、道をお通し申し上げよ」
浄慶の父は官軍へ味方していた
今庄浄慶は馬から降りて答えた。
「私の父である法眼久経は、義助殿へ従って忠義を尽くしました。
そのご恩については、私もありがたく思っております」
浄慶自身は斯波方だった
「しかし浄慶は父とは別の道を選び、斯波高経殿へ仕えております。
この道を何もせずお通しすれば、主君への罪を免れることができません。
そこで形式だけでも、矢を1度射なければならないのです」
1、2人の首を求める
「これは私の本心ではございません。
どうかお供の中から、名のある武士を1人か2人、お出しください。
その首を取り、
『官軍と戦った』
という証拠とすれば、私も主君への罪を免れることができます」
義助は答えに困る
光氏は戻り、浄慶の言葉を報告した。
脇屋義助は進むことも退くこともできなくなり、言葉を失った。
義顕が自分の命を差し出そうとする
新田義顕は言った。
「浄慶の言うことにも、一つの道理はある。
しかし今まで付き従ってきた兵たちの忠義は、親子の情よりも重い。
義顕の命を兵たちの命へ代えることはできても、兵たちの命を守るために自分だけ助かろうとは思わない」
将が兵を重んじる道を示す
「光氏、もう1度向かい、この考えを伝えてくれ。
それでも浄慶が道を通せないと言うならば、仕方がない。
我々も兵たちとともに討ち死にし、将軍が兵を重んじる道を、後世へ伝えよう」
光氏が自分の首を差し出す
光氏は再び浄慶のもとへ向かい、義顕の言葉を伝えた。
しかし浄慶は、なお決断せず、長い時間が過ぎた。
すると光氏は馬から降りた。
鎧の上帯を切って投げ捨てた。
「私の首を取れ」
光氏は言った。
「天下にとって重要な大将でさえ、兵たちの命に代わろうとなさっている。
まして忠義によって命を軽くすべき家臣が、主君の命へ代わらないことがあるだろうか。
それならば、光氏の首を取れ。
そして大将方をお通し申し上げよ」
言い終わらないうちに腰の刀を抜き、自ら腹を切ろうとした。
浄慶は光氏の忠義に心を動かされる
浄慶は光氏の忠義を見ると、さすがに心へ深く感じた。
走り寄り、光氏が持つ刀へ取りついた。
「決して自害してはなりません。
確かに大将のお言葉も、兵たちのお考えも、すべて道理にかなっております」
浄慶が道を開く
「たとえ浄慶が後にどのような罪を受けるとしても、どうしてこれほど情けのないことができるでしょうか。
どうか、すぐにお通りください」
浄慶は兵に弓を伏せさせ、逆茂木を取り除いた。
涙を流しながら道の脇へひざまずき、義助・義顕軍を通した。
義助・義顕が太刀を与える
両大将は大いに感動した。
「我々が戦場の塵となって死んだとしても、将来、新田一族の中から天下を治める者が現れたならば、この太刀を証拠として差し出せ。
そして今日の忠義を明らかにせよ」
義助・義顕は、鎧の左袖へ差していた金作りの太刀を抜き、浄慶へ与えた。
敵味方を超えた義の心
由良光氏は主君の危機を見て、自分の命を代わりに差し出した。
今庄浄慶は敵でありながら、その忠義に心を打たれ、後に受ける罪を顧みず道を開いた。
どちらの行いにも道理があった。
この話を聞き、目にした者で、2人を褒めたたえない者はいなかった。
157. 16騎、金ヶ崎城へ入る
250騎が16騎となる
今庄浄慶との交渉が難航していると聞き、兵たちは、
「金ヶ崎まで通り抜けることはできないだろう」
と思ったのだろう。
つい先ほどまで250騎いた軍勢は、いつの間にか各地へ逃げ去り、わずか16騎となってしまった。
金ヶ崎城は数万の兵に包囲されている
一行が深山寺付近へ来た時、木こりと出会った。
金ヶ崎城の様子を尋ねると、木こりは答えた。
「昨日の朝から、諸国の兵2万、3万騎ほどが城を幾重にも包囲し、攻め続けております」
越後へ向かうか、ここで自害するか
この知らせを聞き、一行の意見は分かれた。
「ここから東山道を通り、身を隠しながら越後へ向かおう」
という者もいた。
「もはやここで腹を切るほかはない」
という者もいた。
栗生左衛門の提案
その時、栗生左衛門が進み出て言った。
「どの道を通っても、遠い越後国まで落ち延びることはできないでしょう。
従者も連れず、疲れ切った旅人が道を進んでいれば、誰でも落人だと気づきます」
「ここで自害するのも早すぎる」
「かといって、この場で皆が腹を切るのも、あまりに性急です。
今夜はこの山中へ隠れ、夜を明かしましょう。
まだ夜が完全に明けきらないころ、金ヶ崎を包囲する敵の背後へ出ます」
後詰めの大軍を装う
「そして、
『杣山城から大軍が金ヶ崎の救援に来たぞ』
と叫び、敵中へ突入しましょう。
敵が驚き、城の攻め口から退けば、その隙に城内へ入りましょう」
道をふさがれたなら討ち死にする
「敵が少しも動揺せず、我々の道をふさぐならば、思う存分太刀を振るって戦いましょう。
総大将の目の前で討ち死にすれば、その名は後世まで残り、地下に埋もれた骨にも名誉が宿るでしょう」
16人は全員、この意見に賛成した。
鉢巻と上帯を旗に見せる
「敵に大軍が来たように見せよう」
16人は鉢巻と鎧の上帯を解いた。
それを青竹の先へ結びつけ、旗のように見せた。
山中の木の梢や、物陰のあちらこちらへ立てた。
そして夜が明けるのを、今か今かと待った。
夜明けとともに奇襲する
鶏が3度鳴いた。
雪より白くなり始めた山の端へ、朝の雲が少しずつ広がった。
16騎は、新田氏の中黒の旗1流を掲げた。
深山寺の木陰から飛び出し、金ヶ崎を包囲する敵陣の背後へ向かった。
「二万余騎の援軍が来たぞ」
16騎は口々に叫んだ。
「瓜生・富樫・野尻・井口・豊原・平泉寺、さらに剣社・白山の僧兵らが、2万騎余りで救援に来たぞ。
城内の人々も打って出て、先陣の者たちが勇敢に戦うか、臆病に振る舞うかを詳しく御覧になり、後の証人となってくだされ!」
そして一斉に鬨の声を上げた。
武田五郎の木太刀
先頭を進んだのは武田五郎だった。
武田は京都の戦いで傷つけた右手の指が、まだ治っていなかった。
そのため太刀の柄を握ることができなかった。
そこで杉板を削って木太刀を作り、右腕へ結びつけていた。
栗生左衛門の樫の棒
二番目を進んだ栗生左衛門には、腰へ差す太刀がなかった。
そこで周囲1尺ほど(約30cm)の深山柏を、1丈余り(約3m超)の長さに切った。
それを金砕棒のように見せ、右脇へ抱えて大軍の中へ突入した。
包囲軍が援軍到着と誤解する
『太平記』本文で3万騎余りとされる金ヶ崎の包囲軍は、突然の鬨の声を聞いた。
「杣山から救援軍が攻めてきたぞ!」
兵たちは、
「馬を引け」
「鎧を着けよ」
と、慌てふためいた。
山中の偽旗が大軍に見える
深山寺の周囲を見ると、木々の間に立てられた多数の旗が、風に翻っていた。
足利軍は、
「本当に大軍の援軍が来た」
と思い込んだ。
攻め口にいた若狭・越前の軍勢は、盾を捨て、弓矢も忘れて一斉に退いた。
城内の800人が打って出る
金ヶ崎城内の兵800人余りは、この混乱を見逃さなかった。
浜の西側、大鳥居の前へ一斉に打って出た。
数万の包囲軍が総崩れとなる
雲や霞のように城を取り囲んでいた大軍は、完全に混乱した。
兵たちは十方向へ逃げ散った。
後ろから来る味方を、
「敵が追ってきた」
と思い込み、振り返って同士討ちをする者もいた。
逃げている味方を敵だと見誤り、覚悟を決めて腹を切る者までいた。
誰も追っていないのに国元まで逃げる
『太平記』によれば、敵は2、3里(中世の里程で、現代のkmには単純換算できない)離れても逃げることをやめなかった。
実際には誰も追撃していなかった。
それでも遠くまで敗走し、そのまま各自の国へ帰ってしまった。
『太平記』は、わずか16騎の奇策によって、金ヶ崎城を包囲していた数万の軍勢が一戦も満足に行わず崩れ去った、と劇的に描いている。
158. 金ヶ崎の船遊び――白魚が船へ入る
金ヶ崎城の周囲から敵が消える
幾重にも金ヶ崎城を包囲していた足利軍は、16騎の奇策によって1度に敗走した。
城の周辺には、もはや敵と呼べる者が1人もいなくなった。
城内の人々は、
「これは普通の出来事ではない」
と考えた。
皆が喜び合ったことは、いうまでもなかった。
雪晴れの美しい朝
延元元年(1336年)10月20日の明け方、山も川も雪に覆われた後、空は美しく晴れ渡った。
漁船が1艘、月を帆に載せるように海上を進んでいた。
陣幕は風に巻き上げられ、冬でも緑を保つ松の木々には、花のような雪が積もっていた。
都では見られなかった景色
このような景色は、京都では見たことのない風流な眺めだった。
皇太子や官軍の人々は、旅と戦いによって沈んだ心を少しでも慰めるため、周辺の浦々から船を集めさせた。
船首へ竜や水鳥の飾りをつけた雅楽の御舟に見立て、雪の中での船遊びを楽しむことにした。
皇族・公卿・武将が楽器を奏でる
恒良親王(皇太子)と尊良親王(一宮)は琵琶を演奏した。
洞院実世は琴を担当した。
新田義貞は横笛を吹いた。
脇屋義助は、『太平記』本文に「箏の笛」と記される楽器を奏でた。
川島維頼は打楽器を受け持った。
蘇合香と万寿楽を演奏する
一行は、
- 蘇合香の第三帖
- 万寿楽の破
などを演奏した。
弦楽器と管楽器の音が、時には速く激しく響いた。
1度歌い出すと、何度も感嘆して繰り返したくなるような調べだった。
天人や竜神も聞き入るような音楽
音楽はゆったりと調和し、古代の正しい音楽の理想へかなっているように思われた。
『太平記』は、その調べを「天人たちも空から降り、海中の竜神も喜んで受け入れるほどだった」と、超自然的なたとえを用いてほめたたえる。
中国の聖王・舜の音楽を9度演奏すると、鳳凰が舞い、魚が跳ねたという。
この日の音楽も、それと同じように感じられた。
魚が御舟へ飛び込む
『太平記』は、心を持たないはずの魚まで音楽へ感動したのだろうか、と物語を進める。
そして水中から1匹の魚が跳ね上がり、恒良親王の船の中へ飛び込んだと記す。
実世が周の武王の故事を語る
洞院実世は、これを見ると申し上げた。
「昔、周の武王が800人の諸侯を率い、殷の紂王を討つために孟津を渡った時、白魚が跳ねて武王の船へ入りました」
白魚の故事を勝利の吉兆と受け取る
「武王はその魚を取り、天へ供えました。
その後、武王は戦いに勝ち、殷王朝を滅ぼして、周王朝800年の基礎を築きました。
今日の不思議な吉兆も、昔と同じです。
すぐに魚を天へ供え、長寿と勝利を祝いましょう」
魚を調理して皇太子へ差し上げる
料理人が魚を調理した。
天へ供えた後、その供物を皇太子へ差し上げた。
皇太子が盃を傾けた時、島寺の袖と呼ばれる遊女が酌のために進み出た。
島寺の袖が歌う
島寺の袖は、拍子木を打ちながら歌った。
翠帳紅閨、万事之礼法雖異、
舟中波上、一生之歓会是同。
意味は、およそ次のようになる。
緑の帳を垂らした御殿と、紅色の寝室とでは、さまざまな礼儀作法が異なります。
しかし船の中、波の上で出会い、喜びをともにするこのひとときは、身分にかかわらず同じです。
歌声に一同が涙を流す
島寺の袖は、楽曲の調子の中心を外さず、声を3度抑揚させて歌った。
皇太子や一宮は、その歌へ深く心を動かされた。
武将や官軍の兵たちも、皆すすり泣き、袖を涙で濡らした。
つかの間の安らぎ
彼らは戦いに敗れ、故郷を離れ、雪深い北国へ追われていた。
将来の見通しも立たなかった。
それでも雪景色の中で音楽を奏で、白魚の吉兆を喜んだ。
この船遊びは、追い詰められた人々に与えられた、ほんの短い安らぎだったのである。
159. 金ヶ崎城の攻防――野中八郎の忠節
足利尊氏が金ヶ崎での敗走に激怒する
『太平記』では、杣山から戻ってきたわずか16騎に欺かれ、金ヶ崎城の包囲軍が四方へ逃げ散ったと語る。
この知らせが京都へ届くと、足利尊氏は激しく怒った。
すぐに諸国へ命じ、大軍を金ヶ崎へ向かわせた。
斯波高経軍
越前守護の斯波高経は、北陸道の兵5000騎余りを率いた。
蕪木方面から金ヶ崎へ向かった。
仁木頼章軍
仁木伊賀守頼章は、丹波・美作の軍勢1000騎余りを率いた。
塩津方面から向かった。
今川軍
今川駿河守は、但馬・若狭の兵700騎余りを率いた。
小浜方面から向かった。
荒川軍
荒川三河守は、丹後の兵800騎余りを率いた。
疋田方面から向かった。
細川軍
細川源蔵人は、四国の軍勢2万騎余りを率いた。
東近江方面から進んだ。
高師泰軍
高越後守師泰は、
- 美濃
- 尾張
- 遠江
の兵6000騎余りを率いた。
荒血中山方面から向かった。
小笠原軍
小笠原信濃守は、信濃国の兵5000騎余りを率いた。
新道から金ヶ崎へ向かった。
塩冶高貞の水軍
塩冶高貞(『太平記』本文では「佐々木塩冶判官高貞」)は、出雲・伯耆の兵3000騎余りを率いた。
兵船500艘余りへ乗り、海上から攻め寄せた。
六万余騎が城を包囲する
足利方の軍勢は、合わせて6万騎余りとなった。
山には陣所を並べた。
海上には船や筏を組んだ。
金ヶ崎城の四方は、わずかな隙間もないほど包囲された。
金ヶ崎城の地形
金ヶ崎城は三方を海に囲まれていた。
海岸の崖は高く、岩肌は滑らかだった。
南東には、城より少し高い山が一つあった。
足利軍はその山から城内を見下ろすことができた。
近づくことのできない断崖
しかし崖は切り立ち、土地も険しかった。
城へ近づくことはできなかった。
城は一片の雲の上へそびえているように見えた。
遠くから矢を射ても、城へ届かず、深い谷底へ落ちた。
新田一族と足利家臣の威信を懸けた戦い
どのような工夫をして攻めても、崖の近くまで進めるとは思えなかった。
しかし城内は小勢であり、新田氏の名将たちが一族を挙げて立てこもっていた。
攻め手は大軍であり、足利将軍へ仕える有力武将たちが威勢を示して集まっていた。
『太平記』は、両家の争いの行方がこの城の勝敗によって決まるかのように、緊迫した場面として描いている。
攻防は休みなく続く
敵味方ともに気力を張りつめ、心を一つにして戦った。
戦いは一時も休まなかった。
『太平記』本文では、矢に当たって傷つく者、投石を受けて骨を砕かれる者が毎日1000人、2000人に及んだとする。
それでも足利軍は、逆茂木1本さえ破ることができなかった。
小笠原軍800人の攻撃
小笠原信濃守は、精鋭800人を選んだ。
東側の山の麓から、南東の尾根へ斜めに取りつき、一団となって攻め上った。
城兵300人が打って出る
そこは城側にとって、破られると危険な場所だったのだろう。
城内の兵300人余りは、二つの関門を開き、同時に打って出た。
矢を捨て、太刀と長刀で戦う
両軍の距離が近づくと、矢を射る戦いをやめ、太刀や長刀で斬り合った。
城兵は考えた。
「ここで退けば、敵が続いて城内へ入ってくる」
そのため一歩も退かずに戦った。
寄せ手も命を捨てる
攻め手も、
「情けなく退けば、敵味方から笑われる」
と考えた。
命を捨てる覚悟で攻め続けた。
栗生左衛門が敵中へ走り込む
城兵は小勢だったため、次第に戦い疲れたように見えた。
その時、あの栗生左衛門が現れた。
火威の鎧を着て、竜頭の兜を夕日に輝かせていた。
5尺3寸(約1.6m)の太刀に加え、八角形へ削った樫の棒を持っていた。
棒の長さは1丈2、3尺ほど(単純換算で約3.6〜3.9m)もあったと『太平記』は記す。
一振りで数十人を打つ
栗生は大軍の中へ走り込んだ。
『太平記』では、片手で棒を振れば20人、30人を1度に打ったとする。
さらに重ねて打ち下ろすと、敵兵40、50人が犬のように座り込む姿勢となり、そのまま倒れた、と超人的な怪力として描いている。
ある者は空中へ高く打ち上げられ、砂浜へ落ちた。
城方の四将が攻めかかる
後方の足利兵が、この怪力を見て混乱し、波打ち際へ固まった。
そこへ、
- 氣比大宮司太郎
- 氣比大学助
- 矢島七郎
- 赤松大田帥法眼
の4人が、隙を与えず攻めかかった。
小笠原軍が退く
小笠原軍800人余りは、
「これ以上は勝てない」
と思ったのだろう。
一斉に退き、元の陣へ帰った。
今川駿河守が海からの攻撃を考える
今川駿河守は、この日の戦いを見て考えた。
「城兵がここを最も重要な場所として、城外へ打って出て戦うからには、この場所が城を破れる地点に違いない。
陸地から攻めたため、足場が悪く、簡単に追い払われた。
船を使い、海側から1度攻めてみよう」
小舟百余艘で上陸する
今川軍は小舟100艘余りへ乗った。
前日に小笠原軍が攻めた海岸から上陸した。
上陸するとすぐ、崖の下にある鹿垣を一重破った。
そして張り出した塀の下まで近づこうとした。
城兵200人が反撃する
そこへ城内から、鎧を固く身につけた兵200人余りが、刀を抜き連ねて打って出た。
今川方500人余りは、真っ逆さまに崖を追い落とされた。
我先にと小舟へ乗り込んだ。
中村六郎が岸へ取り残される
船を遠くまで押し出した後、兵たちが振り返ると、中村六郎という者が重傷を負い、船へ乗り遅れていた。
中村は磯陰の小松の下で、太刀を逆さに地面へついて立っていた。
そして、
「その船をこちらへ戻してくれ」
と手招きした。
誰も助けに戻らない
船上の兵たちは、
「あそこにいる」
と言い合うだけだった。
中村を助けるため、船を戻そうとする者は1人もいなかった。
野中八郎貞国が怒る
播磨国の住人に、野中八郎貞国という武士がいた。
貞国は中村の姿を見ると、言った。
「気づかなかったのであれば仕方がない。
しかし味方の兵が船へ乗り遅れ、敵に討たれようとしている姿を実際に見ながら、助けないことがあってよいものか。
この船を戻せ。
中村を助けるのだ」
船の兵は命令を聞かない
しかし船の者たちは、貞国の言葉を耳へ入れようともしなかった。
貞国は激しく怒った。
他人が持つ櫓を奪い取り、船尾へ立った。
自ら逆向きに船を漕ぎ、岸へ戻した。
1人で浅瀬を歩く
貞国は遠浅の場所で船から降りた。
そしてただ1人、中村のいる場所まで歩いていった。
城兵が中村の首を狙う
城兵たちは貞国の動きを見て言った。
「重傷を負って逃げられない者は、きっと名のある武士なのだろう。
だから1度逃げた敵が、討たせまいとして戻ってきた。
追いつき、首を取れ」
12、13人ほどが、中村の背後へ走り寄った。
貞国が1人を斬り倒す
貞国は少しも慌てなかった。
長刀の石突側まで柄を長く持ち、向かってきた敵1人の両膝を横薙ぎに斬った。
敵はその場へ倒れた。
敵の首を槍先へ貫く
貞国は倒した敵の首を取った。
その首を長刀の切っ先へ突き刺した。
そして中村六郎を肩へ担いだ。
悠々と船へ戻る
貞国は敵の首を掲げ、負傷者を担いだまま、慌てることなく船へ戻った。
敵も味方も、その姿を見て言った。
「何と勇敢な武士だろう」
野中八郎貞国を褒めない者は、1人もいなかった。
攻城戦は膠着状態となる
その後も足利軍は大勢だった。
しかし城兵が激しく防戦するため、攻めあぐねた。
足利軍は城の周囲へ柵を築き、逆茂木を置き、向かい櫓を造った。
その後は遠くから矢を射るだけで、1日を過ごすようになった。
金ヶ崎城をめぐる戦いは、長い包囲戦へ移っていったのである。
← 巻第十六 | 太平記 全40巻・全339章 | 巻第十八 → | ホーム