ホーム | 太平記 全40巻・全339章 | ← 巻第三十三 | 巻第三十五 →
巻第三十四では、正平13年/延文3年(1358年)に足利義詮が第2代征夷大将軍となったところから、正平14年/延文4年(1359年)末に始まる大規模な南朝征討へ進む。畠山国清(道誓)の関東軍上洛、楠木正儀・和田正武の防衛策、紀伊・河内での城攻めが続き、正平15年/延文5年(1360年)5月の幕府軍撤退までを描く。
この巻には、『太平記』本文上の20万騎・30万騎といった巨大な軍勢数、方角神「大将軍」への信仰、住吉の楠の怪異、興良親王の反乱、中国故事、後醍醐天皇陵の夢など、史実と区別して読む必要のある叙述が多い。本文の物語を残しつつ、年代・人物・旧単位・史料との違いが分かるよう補足した。
巻第三十四|目次
- 284. 足利義詮、征夷大将軍となる
- 285. 畠山国清(道誓)、関東の大軍を率いて上洛する
- 286. 和田正武・楠木正儀の作戦会議と南朝公卿の離散
- 287. 足利義詮の南朝征討――大軍の進撃と軍勢の狼藉
- 288. 紀伊・竜門山の戦い――伏兵に敗れる関東軍
- 289. 再び行われた紀伊の戦い――住吉の楠の怪異
- 290. 興良親王の銀嵩(銀峯山)反乱――曹娥・精衛の孝行説話
- 291. 空城だった龍泉寺城――鳥の動きから見破られた見せ勢
- 292. 平石城陥落――和田正武の夜襲と赤坂城放棄
- 293. 後醍醐天皇陵の神霊――足利軍撤退を告げる夢
※読み方:『太平記』本文を第一に現代語訳し、一般的な歴史叙述・同時代史料・中国古典と異なる箇所は注記して区別した。尺・寸・丈・町・半時などは原単位を残して現代のおおよその値を併記し、「里」は時代・地域で長さが一定しないためkmへ単純換算しない。巨大な軍勢数や怪異・神託・夢は、史実と断定せず『太平記』が語る物語として読む。
284. 足利義詮、征夷大将軍となる
※年代:この章の将軍宣下は正平13年/延文3年(1358年)である。前巻で描かれた筑後川の戦いは史実上は1359年なので、『太平記』の巻三十三から三十四には出来事の年代が前後している箇所がある。
尊氏の死後も、足利方の優勢は変わらない
鎌倉の贈左大臣・足利尊氏が亡くなった時、天下の情勢は、深い淵へ臨み、薄氷を踏むように危うかった。
人々は、
「天下は、また南朝方へ傾くのではないか」
と思った。
しかし武家の棟梁となる力量を持つと期待された新田義興は、すでに武蔵国で討たれていた。
『太平記』本文では「前年まで九州9か国を従えていた」として、菊池武光も、少弐氏・大友氏が敵へ回った後は勢力が衰えたと語る。ただし前巻で描かれた筑後川の戦いは史実上は正平14年/延文4年(1359年)であり、この章の正平13年/延文3年(1358年)より後になる。ここには『太平記』内部の年代の前後がある。
南朝方の人々は、満月を待っていたところへ明け方の雲が掛かったように、望みがかなわない世を嘆いた。
一方、足利方の武士たちは、枯れた木を植え替えて、再び春の花を見るような気持ちとなった。
「これでもう、何も恐れることはない」
と、喜ばない者はいなかった。
29歳で将軍となる
正平13年/延文3年(1358年)12月18日、宰相中将・足利義詮は29歳で征夷大将軍となった。
日野時光が勅使となり、将軍宣旨を届けた。
宣旨は佐々木秀詮が受け取った。
義詮の武功はいうまでもない。
父・尊氏に続いて、足利家が二代続けて征夷大将軍となったことは、武家にとってまことにめでたい出来事だった。
宣旨を受け取った佐々木秀詮
当時、足利家の家臣には、
「自分より忠義を尽くした者はいない」
と誇る者が多かった。
その中で佐々木秀詮が宣旨を受け取る役へ選ばれたことは、本人にとって身に余る名誉だった。
その理由は、祖父と父の功績にあった。
祖父・佐々木道誉の忠節
祖父の佐々木道誉は、元弘の乱の初め、北条高時の政治が悪逆に流れ、北条氏の武運が尽きようとしていると見抜いた。
そこで尊氏へ、
「北条氏を討ち、天下をお治めください」
と、たびたび勧めた。
実際、六波羅探題は尊氏によって滅ぼされた。
その後、天下は20年余りも乱れた。
名を上げた武士たちは、
- 南朝方へついたかと思えば足利方へ降伏し
- 直義へ従ったかと思えば直冬へ味方する
というように、何度も立場を変えた。
その中で道誉は、一貫して足利方へとどまり、多くの親族を戦死させた。
父・秀綱の戦死
秀詮の父・佐々木秀綱は、正平8年/文和2年(1353年)6月、山名時氏の反乱によって後光厳天皇が京都を離れ、北陸方面へ逃れた時に活躍した。
堅田浦で、新田貞祐らが山名方となり、天皇を襲おうとした。
秀綱は引き返して敵を防ぎ、命を捨てて戦った。
その間に天皇は逃れることができた。
この忠節は、ほかの者とは異なるものだった。
そのため息子の秀詮が、将軍宣旨を受け取る役へ選ばれたのである。
これは源頼朝が征夷大将軍となった時、鶴岡八幡宮で三浦荒次郎が宣旨を受け取った先例に倣ったものとされた。
285. 畠山国清(道誓)、関東の大軍を率いて上洛する
※人物:「畠山道誓」は畠山国清の法名である。この章では、一般読者が人物を追いやすいよう、初出を「畠山国清(道誓)」とした。
義詮と基氏の対立を心配する
思いがけず世の中が静かになると、人々はかえって、
「2人の英雄は、いつか必ず争うものだ」
と考えた。
鎌倉の足利基氏と、京都の足利義詮との間にも、いずれ不和が起こるのではないかと心配された。
畠山道誓の提案
畠山国清(法名・道誓)は、鎌倉の足利基氏へ申し上げた。
「尊氏殿が亡くなられた後、天下の人々は、御兄弟の間にいずれ不和が起こるのではないかと疑っております」
「昔、漢の高祖が亡くなった後、呂氏と劉氏が争い、天下が再び乱れようとしました」
「その時、高祖以来の家臣である周勃・樊噲らが兵を集め、国を治めたと聞いております」
「この道誓は、まことに未熟な者です」
「しかし一時、大将の名をお許しいただけるならば、東国の軍勢を率いて京都へ上り、南朝方へ向かいます」
「和田・楠木氏を攻め落として天下を1度に静め、義詮殿が基氏殿へ抱いている疑いも解きたいと思います」
基氏は、
「まことにもっともな意見である」
と認めた。
「急いで関東8か国の軍勢を集め、南朝方の陣へ向かえ」
と命じた。
功績の前に恩賞を約束する
道誓は、表向きには公の命令を受けながら、その裏では自分の権力を広げようとする心を持っていた。
各地の大名のもとへ直接出向き、
- まだ功績を立てていない者には、厚い恩賞を約束し
- 親しい関係にない者には、末永い交際を約束した
1日でも私欲を抑え、礼儀を尽くして振る舞えば、人々はその仁徳へ帰服するものである。
関東8か国の大小の武士は、1人も残らず道誓の招集へ応じた。
『太平記』では20万7000騎
正平14年/延文4年(1359年)10月8日、畠山国清(道誓)は武蔵国入間川を出発した。
弟の畠山義深らをはじめ、
- 武田氏
- 佐竹氏
- 河越氏
- 小田氏
- 小山氏
- 宇都宮氏
- 長井氏
- 結城氏
- 武蔵七党
- 坂東八平氏
- 伊豆・駿河・三河・遠江勢
などが従った。
『太平記』によれば、その軍勢は20万7000騎余りだった。これは軍記物語本文上の巨大な軍勢数であり、そのまま史実上の実数とはみなさない。
前後70里余りに連なり、櫛の歯を引くように、隙間なく進んだ。ここでの「里」は『太平記』の軍記的表現として残し、kmへは換算しない。
華麗な入京行列
途中で20日余り滞在し、正平14年/延文4年(1359年)11月28日の正午ごろに京都へ入ったと『太平記』は記す。
摂政・関白、公卿・殿上人をはじめ、公家・武家、身分の高い者も低い者も、四宮河原から粟田口まで桟敷を造り、車を並べた。
見物人は道の両側へ群れをなした。
長く武家の世となり、富貴を誇る武士たちが晴れの場として着飾ったため、
- 馬
- 鎧
- 衣装
- 太刀・刀
- 金銀
- 綾や薄絹
に、華麗な装飾を施さない者はいなかった。
色とりどりに染めた馬
中でも河越弾正少弼は、特に華やかな趣向を好んだ。
白鞍を置いた引き馬30頭を、
- 濃い紫
- 薄紅
- 萌黄色
- 水色
- 豹の模様
などに染め、8人の舎人に引かせた。
ほかの大名も、
- 同じ色の鎧を着た500騎、1000騎
- 4尺・5尺ほど(約1.2〜1.5m)の白太刀を2振りずつ帯びた100騎、200騎
というように、それぞれ趣向を凝らした。
中国の孟嘗君や春申君が、大勢の食客と財産を誇った姿も、このようなものだったのだろう。
見る者は目を奪われた。
286. 和田正武・楠木正儀の作戦会議と南朝公卿の離散
※皇居:この章の南朝天皇は後村上天皇で、当時は河内国天野の金剛寺を行宮としていた。『太平記』は楠木正儀・和田正武の進言により観心寺へ移る経緯を描く。
天野の皇居
このころ南朝の後村上天皇は、河内国天野の金剛寺を皇居としていた。
楠木正儀と和田正武は天野の御所へ参上し、申し上げた。
「畠山国清(道誓)は関東8か国の兵20万騎を率い、すでに京都へ到着しております」
「山陽道は播磨まで、山陰道は丹波まで、さらに東海・東山・南海・北陸道の兵も、ほとんど残らず上洛したようです」
「敵の軍勢は、雲や霞のような大軍でしょう」
それでも南朝が勝つと断言する
「しかし、戦いでは必ず南朝方が勝つと考えております」
「戦には3つの条件があります」
「天の時、地の利、人の和です」
「この1つでも欠ければ、どれほど大軍であっても勝てません」
天の時
「まず天の時を考えますと、翌正平15年/延文5年(1360年)から、大将軍という方角神が西へ移り、東から西へ軍を進めることは3年間ふさがれるとされます」
「畠山は冬至の後、東国から出発しました」
※『太平記』内部の年代差:この発言では畠山国清が「冬至の後」に東国を出発したとするが、前章では正平14年/延文4年(1359年)10月8日に入間川を出発したと明記している。本文の矛盾を無理に直さず、両方の記述を残す。
「すでに天の時へ背いております」
地の利
「次に地の利を考えます」
「南朝方の陣の背後には深い山が続き、敵は道を知りません」
「前には大河が流れ、細い橋一つだけが通路です」
「千早城の戦いだけではありません」
「建武の乱以来、
- 細川定禅
- 細川顕氏
- 山名時氏
- 高師直
- 高師泰
- 今回の畠山道誓
まで、6度も大軍でこの地へ攻め寄せました」
「しかし1度も南朝方を完全には破れませんでした」
「この地が要害だからです」
人の和
「最後に人の和を考えます」
「畠山が上洛したのは、公の軍勢を借りながら、自分だけ恩賞を得ようとするためでしょう」
「仁木・細川氏は、畠山の権力を憎むはずです」
「土岐・佐々木氏も、畠山だけが大きな恩賞を受けることを、嫉妬しないはずがありません」
「敵方には、人の心の和がありません」
観心寺へ移るよう勧める
「天・地・人の三つが、すべて敵へ背いています」
「敵が100万騎を集めても、恐れる必要はありません」
「ただし現在の皇居は、防御に向かない場所です」
「金剛山の奥にある観心寺へ、天皇をお移しください」
南朝軍の作戦
「正儀・正武は和泉・河内勢を率い、千早・金剛山へ立てこもります」
「竜山・石川付近へ出撃し、昼夜を問わず戦います」
「湯浅・山本・恩地・贄川・野上勢は紀伊守護代の塩冶中務へ従い、
- 竜門山
- 最初ヶ峰
へ陣を置きます」
「紀ノ川付近へ野伏を出し、攻めては退き、退いては攻め、敵へ休む暇を与えません」
「気の短い関東武士は、必ず戦いへ疲れるでしょう」
「敵が疲れて退けば、追撃し、1000里の外へ追い散らします」
「1度に南朝の運を開く戦いとなるでしょう」
天皇や側近の公卿たちは、頼もしい計画だと思った。
公卿たちを各地へ避難させる
天皇は、すぐ観心寺へ移ることとなった。
和田・楠木氏は、
「戦いに必要のない人々を、むやみに同行させるべきではありません」
と申し上げた。
そのため天皇に従うのは、
- 伝奏を務める上級公卿2、3人
- 奉行役1、2人
- 護持僧2人
- 武官4、5人
ほどに限られた。
高貴な人々が山野へ散る
そのほかの、
- 摂政・関白
- 太政大臣
- 左右大将
- 大納言・中納言
- 弁官・史官
- 五位・六位の官人
- 后妃
- 内侍・更衣
- 上臈女房
- 僧官・坊官
らは、
「敵が退くまで、各地へ隠れて待て」
と命じられた。
ある者は、
- 高野山
- 粉河
- 天川
- 吉野
- 十津川
へ逃げ、身分の低い山人を頼った。
ある者は、
- 志賀の旧都
- 奈良
- 京都・白河
へ戻り、敵の陣中へ紛れて暮らした。
仏が、
あらゆる苦しみの根本は、貪欲にある。
と説いた言葉が、今さらながら思い知らされた。
287. 足利義詮の南朝征討――大軍の進撃と軍勢の狼藉
※年代:この南朝征討は正平14年/延文4年(1359年)12月に始まり、翌正平15年/延文5年(1360年)春まで続く。以下の2月・4月・5月は1360年である。
義詮、南方へ出陣する
正平14年/延文4年(1359年)12月23日、新たに征夷大将軍となった足利義詮は、京都を出発し、南朝方の正面軍へ向かった。
従ったのは、
- 細川氏
- 仁木氏
- 一色氏
- 今川氏
- 土岐氏
- 厚東氏
- 佐々木氏
- 河野氏
- 赤松氏
- 諏訪氏
- 禰津氏
- 長尾氏
らだった。
『太平記』によれば、軍勢は7万騎余りだった。これは軍記物語本文上の軍勢数であり、史実上の実数とは区別して読む。
大島・渡辺・尼崎・鳴尾・西宮は兵で満ち、寺社の堂舎まで宿営地となった。
畠山国清(道誓)の20万騎
畠山国清(道誓)は搦手の大将となり、関東8か国の兵20万騎を率いたと『太平記』は記す。
正平14年/延文4年(1359年)12月24日の午前8時ごろ京都を出て、
- 八幡山下
- 真木
- 葛葉
へ陣を取った。
正面軍が渡辺橋を渡る時、南朝軍が川辺で防げば、畠山軍が左良々・生駒方面を回り、敵を包囲する計画だった。
舟を並べて橋を造る
赤松光範は摂津守護であり、自分の領地の半分が敵陣へ含まれていた。
そのため真っ先に渡辺へ500騎余りで進んだ。
川舟100艘余りを、川面2町余り(約220m)にわたって横へ並べ、柱を立て、舟同士を結び、その上へ板を敷いた。
人馬が並んで渡っても危険のない、浮き橋が完成した。
南朝軍は渡河を妨げない
人々は、
「和田・楠木軍が川へ出て、激しく戦うだろう」
と予想した。
しかし、どのような深い作戦があったのか、南朝方は川を防ごうとしなかった。
正面・搦手合わせて30万騎と『太平記』に記される足利軍は、同じ日に川の南へ渡った。
天王寺・阿倍野・住吉・遠里小野へ陣を取った。
義詮は尼崎へ残る
義詮自身は川を渡らず、尼崎へ本陣を置いた。
赤松氏は大渡へ陣を広げ、斥候を務めた。
仁木義長は3000騎余りを西宮へ集め、
「先陣が敗れたならば、新手として戦い、天下の大功を自分1人のものとしよう」
と考えていた。
南朝軍の山岳戦略
南朝軍は初め、
「城へ立てこもれば包囲され、最後には落とされる」
と考えていた。
そこで、
- 深山へ散り、居場所を知られないようにする
- 敵の前へ現れたかと思えば、背後へ回る
- 騎馬軍と見せて野伏へ変わる
- 敵が追えば険しい場所へ誘い込む
- 敵が退けば後ろから追う
という、遊撃戦を計画していた。
ところが関東軍は予想と異なり、すぐ敵陣へ攻め込まず、各地へとどまって日を過ごした。
南朝方も、前方へ陣を置き、後方へ城を築いて戦う方針へ変えた。
南朝方の城
- 和田正武・楠木正儀勢300騎余りは赤坂城
- 福塚・川辺・佐々良・当木・岩郡・橋本判官ら500騎余りは平石城
- 真木野・酒辺・古折・野原・宇野・崎山・佐和・秋山ら800騎余りは八尾城
へ立てこもった。
大和・河内・宇陀・宇智郡の兵1000人余りは、竜泉峰へ塀や櫓を造り、大軍がいるように見せかけた。
降伏者が続く
翌正平15年/延文5年(1360年)2月13日、足利方は後陣3万騎余りを住吉・天王寺へ入れ替えた。
先陣20万騎余りは、金剛山北西の津々山へ陣を置いた。
両軍の距離は50町余り(約5.5km)だった。
まだ本格的な戦いが始まらないうちに、
- 丹下氏
- 俣野氏
- 誉田氏
- 酒勾氏
- 水速氏
- 湯浅氏
- 貴志氏
ら500騎余りが武器を解き、足利方へ降伏した。
足利軍は、
「やはり敵は弱っている」
「和田・楠木が、いつまで耐えられるだろうか」
と勇み立った。
野伏戦では足利方が苦戦する
本格的な騎馬戦は、まだ行われなかった。
双方が野伏を出し、絶えず弓矢で戦った。
南朝方は土地を知り、戦いにも慣れていた。
足利方は地形を知らなかった。
毎回、足利方の負傷者・戦死者が多くなった。
人々は、
「結局、和田・楠木の計略へ落とされている」
と感じた。
寺社を略奪する兵
初めのうちは、義詮から出された禁制も守られていた。
しかし兵たちが疲れるにつれ、軍紀は乱れた。
寺社へ押し入り、
- 戸帳を引き下ろす
- 神宝を奪い合う
- 獅子・狛犬を壊して薪にする
- 仏像や経巻を売り、魚や鳥を買う
という狼藉が始まった。
前代未聞の悪行だった。
高師泰以上の悪行
以前、高師泰が石川河原へ陣を置いた時、兵たちが仏塔の九輪を下ろし、湯釜へ鋳直した。
人々は、
「これほどの悪行はない」
と思っていた。
しかし今回の軍勢の行いは、それを百倍するものだった。
昔から、
明るい場所で悪事を行えば、人が処罰する。
暗い場所で悪事を行えば、鬼神が処罰する。
といわれる。
高師泰は、その報いによって滅びた。
その前例は、まだ遠い昔ではない。
畠山道誓がこれを戒めとしなければ、同じ危険が近づくだろう。
人々は、
「今度の戦いも、よい結果にはならないだろう」
と、ひそかに語った。
288. 紀伊・竜門山の戦い――伏兵に敗れる関東軍
四条隆俊の陣
四条隆俊(中納言)は、紀伊国勢3000騎余りを率し、紀伊国最初ヶ峰へ陣を置いていた。
正平15年/延文5年(1360年)4月3日、畠山義深を大将とする、
- 白旗一揆
- 平一揆
- 諏訪勢
- 千葉氏
- 杉原氏
ら3万騎余りが、最初ヶ峰へ向かった。
足利軍は向かい側の和佐山へ上り、3日間進まなかった。
まず自分たちの陣を固め、盾や櫓を築いた後で攻撃するつもりに見えた。
南朝方の偽装退却
南朝方の侍大将・塩谷伊勢守は、敵を欺くため最初ヶ峰を退き、竜門山へ立てこもった。
畠山軍の執事・遊佐勘解由左衛門は、
「敵が退いたぞ。
どこまでも追い、討ち取れ」
と命じた。
勝ちに乗っていたため、
- 盾を用意せず
- 部隊分けもせず
慌ただしく追撃した。
竜門山の険しさ
竜門山は、岩が竜のあごのように重なり、道は羊の腸のように曲がっていた。
岸には松や柏が茂り、山風が鬨の声のように鳴った。
下には小竹が茂り、露によって馬の足も滑った。
それでも麓では敵が現れなかった。
足利軍は勇み、坂の途中まで一気に登った。
少し平らな場所で馬を休め、息を整えようとした。
1000人の伏兵
その時、軽い盾へ矢筒を結びつけた南朝方の野伏1000人余りが、東西の尾根へ現れた。
雨のように矢を射下ろした。
狭い谷底へ3万余騎が密集していた。
人を外れた矢は馬へ当たり、馬を外れた矢は人へ当たった。
1本の矢で2人を傷つけることさえあった。
外れる矢は、ほとんどなかった。
前方は岩壁で登れず、左右は谷が深く、逃げ道もなかった。
足利軍は身を縮め、退こうかどうか迷った。
塩谷伊勢守の突撃
そこへ塩谷伊勢守が、たくましい黄瓦毛の馬へ乗って現れた。
紺糸威の鎧と濃紅の母衣を着け、4尺ほど(約1.2m)の長刀を構えて先頭へ進んだ。
- 野上
- 山東
- 貴志
- 山本
- 恩地
- 贄川
- 志宇津
- 禿
ら2000騎余りが、大山が崩れ、雷が落ちるような声を上げて攻めかかった。
すでに退く気持ちとなっていた足利兵は、一歩も踏みとどまれなかった。
負傷者を助けず、親子が討たれても振り返らず、馬も武具も捨てて、険しい篠原を30町余り(約3.3km)逃げた。
塩谷の討ち死に
塩谷は深く追い過ぎた。
馬へ矢が3本刺さり、槍で2か所突かれた。
馬は険しい場所から逆さまに転落した。
塩谷も5丈ほど(約15m)下の岩場へ投げ出された。
目がくらみ、方角も分からなくなった。
起き上がろうとしたところへ、大勢の敵が戻ってきた。
鎧の隙間を散々突かれ、後続の味方も来なかった。
塩谷は、ついに討ち死にした。
足利方の大敗
半時ほど(約1時間)の戦いで、
- 捕虜67人
- 戦死者273人
と伝えられた。
そのほか、
- 馬
- 鎧
- 弓矢
- 太刀・刀
が数えきれないほど捨てられた。
遊佐勘解由左衛門が金100両(当時の金の単位)を使って造らせた3尺8寸(約1.15m)の太刀もあった。
日本一の太刀といわれた禰津小次郎の6尺3寸(約1.9m)の丸鞘の太刀も捨てられた。
禰津小次郎の大言と逃亡
禰津小次郎は常に、
「関東8か国の武士の中で、私と知らずに太刀を交える者はいるかもしれない」
「しかし私が禰津だと知ったうえで、戦おうとする者はいないだろう」
と誇っていた。
それほどの怪力の勇士でありながら、この戦いでは特別な働きもせず、自慢の力を生かすことなく、人より先に逃げた。
大力も武名も、勇敢さも臆病さも、時の運によって変わるものである。
289. 再び行われた紀伊の戦い――住吉の楠の怪異
足利陣営の動揺
紀伊国の戦いで足利方が大勢討たれ、
「和佐山の陣も維持できない」
と伝えられた。
津々山の兵も尼崎の義詮も、気力を失った。
しかし仁木義長だけは笑って言った。
「何と面白いことだ。
いっそのこと津々山・天王寺・住吉の兵もすべて追い散らされ、裸で逃げればよい」
「さぞ面白い見物になるだろう」
味方とも敵とも判断しにくい、理解できない態度だった。
紀伊へ新手を送る
紀伊路の陣が破られれば、津々山も安全ではない。
敵が来る前に新手を送り、畠山義深へ力をつけることとなった。
正平15年/延文5年(1360年)4月11日、
- 畠山式部大夫
- 今川伊予守
- 細川左近将監
- 土岐宮内少輔
- 佐々木山内判官
- 芳賀伊賀守
- 土岐桔梗一揆
- 佐々木黄一揆
ら7000騎余りが紀伊路へ向かった。
芳賀禅可から息子への教え
芳賀禅可は天王寺へ残り、嫡子の芳賀公頼を紀伊路へ送った。
2、3里ほど見送り、涙を流して言った。ここでの「里」はkmへ換算しない。
「関東には名高い武士が多い」
「しかし弓矢の道で、後ろ指をさされないのは我々の一族だけである」
「前回の敗北で敵は勢いづいている」
「今度の戦いは、さらに厳しくなると知りなさい」
「もし再び敗れて戻れば、敵へ力を与えるだけではない」
「特に仁木義長に笑われることは、私1人の恥である」
「この戦いで敵を追い落とせなければ、生きて2度と私の前へ出てはならない」
「これは円覚寺の長老からいただいた袈裟である」
「母衣として背へ掛け、戦いで作る悪業から、来世の身を救ってもらいなさい」
禅可は七条袈裟を取り出し、泣きながら息子へ与えた。
父子は、これが最後の別れになるかもしれないと感じ、互いに振り返りながら涙を流した。
越智氏の降伏
四条隆俊は、
「前と同じ陣で戦うか、平地へ出て騎馬戦をするか」
と相談していた。
その時、
- 湯川荘司が足利方へ寝返り、熊野路から攻める
- 船を用意し、田辺から上陸する
との情報が入った。
隆俊が判断に迷っていると、大手の木戸を守っていた越智氏が足利方へ降伏し、芳賀公頼のもとへ出た。
芳賀軍が竜門山を攻略する
もともと勇猛な芳賀一族は、父から死を覚悟するよう教えられ、越智氏から地形の案内まで得た。
竜門山の麓へ着くと、
- 盾を並べず
- 矢も射ず
太刀を抜いて直接攻め上った。
南朝方の、
- 恩地
- 贄川
- 貴志
- 湯浅
- 田辺別当
- 山本判官
らは、半時(約1時間)も支えられなかった。
竜門山の陣は落ち、南朝軍は阿瀬川城へ退いた。
芳賀公頼は2度目の戦いで前回の恥をすすぎ、無事に津々山へ戻った。
父の禅可は大いに喜んだ。
住吉社の鳴動と楠の倒壊
竜門山の敗北を聞き、南朝天皇や公卿たちは顔色を失った。
その時、住吉神社の神主・津守国久から、ひそかな報告が届いた。
「正平15年/延文5年(1360年)4月12日の正午ごろ、神殿が長い間鳴動しました」
「その後、庭前の楠が、風もないのに中央から折れ、神殿の方へ倒れました」
「ただし枝が地面へ支えとなり、神殿自体に損害はありません」
公卿たちの不安
公卿たちは言い合った。
「神殿の鳴動が凶兆であることは疑いない」
「楠木氏は現在、官軍の棟梁である」
「楠が倒れたならば、誰が天皇を守るのか」
「すべて不吉な前兆である」
忠雲僧正の解釈
大塔忠雲僧正は言った。
「良い出来事も、何も起こらないことには及ばないと申します」
「まして今回を、吉兆とは申しにくいでしょう」
「しかし神が凶兆を示すことは、天がまだ人を見捨てていない証拠でもあります」
後漢光武帝の槐
『太平記』が引く後漢・光武帝の故事では、庭にあった高さ20丈余り(単純換算で約60m)という巨大な槐が、風もないのに根から抜け、逆さまに立ったという。
臣下は恐れた。
しかし光武帝は、
「天が警告を下した」
と喜び、民の生活を調べ、余った財産で不足している者を助けた。
すると槐は1夜で元に戻り、1枚の葉も枯れなかった。
比叡山の松の怪異
『太平記』は、日本でも応和年間(961〜964年)に比叡山三宮林の数千本の松が、1夜で黄色く枯れたという故事を続ける。
神がかりした巫女は、
「比叡山の僧たちは武器を持ち、鎧を着けて社頭を往来し、神意へ背いている」
「このままならば山を捨て、浄土へ帰る」
と告げた。
比叡山の僧たちは、
- 常行三昧の念仏
- 法華経の論議
を行った。
神意が鎮まったためか、松は元の緑へ戻った。
住吉明神と山王の託宣
忠雲僧正はさらに、『太平記』が伝える住吉明神の託宣を引いた。
「天慶年間(938〜947年)に凶徒を討った時には、住吉明神が大将軍、山王権現が副将軍となった」
「承平年間(931〜938年)に逆徒を鎮めた時には、山王権現が大将軍、住吉明神が副将軍となった」
「山王権現は常に一乗の法味を受けているため、その力は住吉明神より勝る」と託宣された、という物語である。
忠雲僧正は、神へ法味を捧げてその力を受けるならば、凶兆も吉へ転じられると説いた。
徳を修めれば災いは転じる
忠雲僧正は続けた。
「天皇が徳を修め、天下の民を安らかにしたいとの願いを起こされるならば、神々へ法味を捧げ、力をお借りすることができます」
「朝敵も味方となり、災いも幸いへ変わるでしょう」
公卿たちは、この意見へ従った。
天皇も深く信仰し、
- 住吉四所明神
- 日吉七社権現
を勧請した。
100日間、途切れることなく祈祷を行った。
天皇は毎朝身を清め、地面へ身を伏せ、災いを除き、安楽を与えるよう祈った。
その誠意には、見る者の身の毛もよだつほどだった。
人々は、
「天地や神仏も、必ず守護の手を差し伸べてくださるだろう」
と頼もしく思った。
290. 興良親王の銀嵩(銀峯山)反乱――曹娥・精衛の孝行説話
※人物と説話:『太平記』が「吉野の将軍宮」と呼ぶ皇子は、一般に興良親王(護良親王の子・赤松宮)とされる。この章後半の曹娥・精衛の話は、中国古典に見える伝承と内容が大きく異なるため、『太平記』版の説話として区別する。
吉野の征夷将軍宮
このころ吉野にいた「征夷将軍宮」は、一般に護良親王の子・興良親王(赤松宮)とされる。『太平記』本文はこの章で実名を書かず、「故兵部卿親王の御子」「吉野の将軍宮」と記している。
『太平記』によれば、母は北畠親房の妹である。
幼いころから文武の道へ優れ、
「この宮こそ天下の乱れを静め、亡き後醍醐天皇の御心を慰める器量を持つ」
と期待された。
南朝の新帝が即位すると、すぐ征夷大将軍へ任じられた。
赤松則祐の裏切り
正平7年(1352年)、赤松則祐が一時南朝へついた時、この皇子を総大将として播磨へ迎えた。
ところが則祐は、すぐ足利方へ戻った。
皇子は意に反して京都へ連れられ、捕虜のような生活を送った。
但馬の武士たちが、ひそかに救い出し、高山寺城へ入れた。
本庄兄弟が皇子へ従い、但馬・丹波を従わせた。
その後、播磨へ進んだが、赤松則祐軍との戦いで本庄兄弟が戦死した。
皇子の軍は敗れ、河内へ逃れた。
吉野で温存される
その後も各地から、
「皇子を総大将としてお迎えしたい」
との願いが来た。
しかし南朝は、
「将来、重大な戦いが起きた時、この皇子を総大将としよう」
として、どこへも送らなかった。
皇子は吉野の奥へ置かれた。
戦場へ出ることを願う
紀伊国の戦いで四条隆俊が敗れ、阿瀬川へ退いた。
和田・楠木氏も津々山の敵へ攻められ、疲れているように見えた。
皇子は、
「今を逃して、いつ戦うのか」
「優れた兵を私へつけてください」
「自ら出陣し、戦います」
と、繰り返し願った。
そこで、ここ3、4年ほど兄弟との不和のため吉野へ参じていたと『太平記』が記す赤松氏範へ、吉野十八郷の兵をつけ、皇子のもとへ送った。
突然、南朝へ反旗を翻す
ところが皇子は、どのような心の迷いを起こしたのだろうか。
「今、南朝天皇を滅ぼし、足利方へ忠義を尽くそう」
「そうすれば吉野十八郷を、自分の領地にできる」
と考えた。
ひそかに義詮へ使者を送り、計画を知らせた。
正平15年/延文5年(1360年)4月25日、興良親王は騎馬兵200余騎、野伏3000人を率して、賀名生奥の銀嵩(現在の銀峯山)へ上り、旗を掲げた。
賀名生の黒木御所をはじめ、山中へ隠れていた公卿たちの宿所を次々と焼き払った。
初めは味方の作戦と思われる
初めは真相を知る者が少なかった。
「中国の伯顔将軍が城を焼き、敵を欺いたような作戦ではないか」
「項羽が自分の宿営地を焼き、2度と帰らない覚悟を示したようなものではないか」
と、さまざまに考えた。
皇子が本当に南朝の敵となったとは、誰も思わなかった。
皇子の軍勢が離散する
やがて偵察の使者が、
「皇子が謀反を起こしたことは間違いありません」
と報告した。
正平15年/延文5年(1360年)4月26日、二条前関白を大将とする和泉・大和・宇陀・宇智郡の兵1000騎余りが送られた。
吉野十八郷の兵たちは、
「皇子の謀反へ味方することはできない」
として散り散りに逃げた。
皇子の軍は50騎余りとなった。
赤松氏範の奮戦
赤松氏範は、
「皇子の勢力が弱くなったからといって、今さら見捨てることは武士の道ではない」
「討ち死にするほかない」
と考えた。
主従26騎で四方の敵へ向かい、激しく戦った。
敵は簡単には近づけなかった。
3日3夜戦い、氏範は多くの傷を負った。
皇子は、
「もはや勝てない」
として奈良方面へ逃れた。
氏範は降伏し、再び播磨国へ戻った。
何とも不可解な皇子の反乱だった。
父・護良親王への不孝
『太平記』は、この反乱を厳しく批判する。
『太平記』の語り手は、尊氏が朝敵となり、後醍醐天皇が京都の外で亡くなり、天下が27年も乱れた最大の原因を、「尊氏が護良親王を殺したため」と論じる。ただし一般的な歴史叙述では、護良親王は建武2年(1335年)、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されたとされる。ここは『太平記』の道徳的な因果論として読む。
もし護良親王の霊が皇子を守るならば、天下66か国が、この皇子へ従っても不思議ではなかった、と『太平記』は論じる。
皇子が父の敵を討ち、南朝を助けたならば、父の霊も喜び、神々も忠孝の心へ感じ、皇子の子孫が天下の武将となったかもしれない。
それなのに皇子は思慮のない反乱を起こし、父が仕えた後醍醐天皇の子孫へ敵対した。
亡き父の霊は、どれほど悲しんだだろう。
曹娥の孝行
※中国古典との違い:以下は『太平記』が語る曹娥説話である。『後漢書』では、曹娥の父・曹盱は神を迎える祭礼中に川で溺死し、14歳の曹娥が17日間泣き続けた後、自ら川へ身を投じたとされる。毒蛇に父がさらわれ、水神が蛇を罰するという筋立ては『太平記』の叙述と異なる。
昔、中国に貧しい男がいた。
1人娘の曹娥を連れ、他国へ向かった。
洪河という川を渡ろうとしたが、水が増え、橋も舟もなかった。
父は娘を岸へ残し、浅瀬を調べるため、1人で川へ入った。
そこへ毒蛇が現れ、父をくわえ、水底へ引き込んだ。
曹娥は泣き叫んだ。
1日、2日と川沿いを捜したが、父の姿はなかった。
7日7夜、天と地へ祈った。
「父を奪った毒蛇を罰してください」
「せめて亡骸だけでも、もう1度見せてください」
その祈りが天へ届いたのだろうか。
川の水が血に変わり、毒蛇は水神によって細かく切り裂かれた。
腹の中に父をのみ込んだまま、波の上へ浮かんだ。
曹娥は父の遺骨を拾い、泣きながら故郷へ帰った。
人々は孝行をたたえ、墓と石碑を造った。
精衛の物語
※中国古典との違い:以下も『太平記』版の精衛説話である。『山海経』系統の伝承では、精衛は炎帝の娘・女娃が東海で溺死して鳥になり、西山の木や石を運んで海を埋めようとする存在である。『太平記』の「父を失った幼い子が海へ身を投げ、鳥となった」という話とは異なる。
また発鳩山に、精衛という人がいた。
他国から舟で帰る途中、暴風によって舟が転覆し、海中へ沈んだ。
幼い子は父の死を聞き、海辺で昼夜泣いた。
悲しみに耐えられず、自ら海へ身を投げて死んだ。
その魂は1羽の鳥となった。
「精衛、精衛」
と鳴きながら、海の上を飛んだ。
父を奪った海への恨みが尽きなかった。
鳥は、
「大海を埋め、平地にしよう」
と考え、毎日3度、
- 草の葉
- 木の枝
をくわえて海へ落とした。
大海を埋めることなど、到底できない。
しかし父の恨みを晴らそうと、1枝1葉を運び続ける心は哀れだった。
詩人も、
人は、その働きの小さいことを笑う。
私は、その志の大きいことを哀れむ。
と精衛をたたえた。
皇子への非難
精衛は小さな鳥でありながら、父の恩へ報いるため大海を埋めようとした。
曹娥は幼い少女でありながら、父を思う心によって毒蛇を罰した。
人間でありながら鳥獣にも及ばず、男子でありながら少女にも及ばない。
人々は、この皇子の反乱を批判せずにはいられなかった。
291. 空城だった龍泉寺城――鳥の動きから見破られた見せ勢
※地名:この「龍泉寺城」は、現在の大阪府富田林市の嶽山城にあたり、山腹の龍泉寺から別名「龍泉寺城」と呼ばれる。
龍泉寺城(嶽山城)には初め、和田正武・楠木正儀らが大和・河内勢1000人余りを置いていた。
しかし足利方が、なかなか攻めてこなかった。
和田・楠木氏は、
「ここへ大勢を置いても意味がない」
「兵を各地へ散らし、野戦へ使おう」
と考えた。
城の兵をほとんど呼び下ろし、特に重要でない野伏100人ほどだけを残した。
木の梢や建物の端へ旗を数多く結びつけ、大軍が立てこもっているように見せかけた。
足利軍は150日も動かない
津々山の足利軍は城を見上げ、
「四方が切り立つ山へ、これほど大軍が立てこもっている」
「鬼神であっても、落とせる城ではない」
と恐れた。
攻めようと言う者は1人もいなかった。
旗だけを見上げ、150日余りをむなしく過ごした。
老武者が空城を見抜く
土岐桔梗一揆に、多少兵法を知る老武者がいた。
竜泉城を詳しく観察し、仲間へ言った。
「太公望の兵書には、
『敵の城壁へ鳥が止まっても驚かない時には、敵が偽りの人形を置いていると知れ』
とある」
「この3、4日、城へ近づいて見た」
「空を飛ぶ鳶も、林へ帰る烏も、まったく驚かない」
「これは大軍がいるように見せ、旗だけを立てているのだろう」
「我々桔梗一揆だけで攻め落とし、天下の人々から称賛されよう」
500騎余りは、
「もっともである」
と賛成した。
桔梗一揆の先駆け
正平15年/延文5年(1360年)閏4月29日の夜明け前、土岐桔梗一揆500騎余りは津々山を下り、霧へ紛れて龍泉寺城の一の木戸へ迫った。
一斉に鬨の声を上げた。
近くへ陣を置いていた細川清氏と赤松範実は、その声を聞いた。
「ああ、人に先を越された」
「しかし城内へ最初に入ることこそ、本当の先駆けである」
「馬へ鞍を置け。旗を急げ」
2人は鎧を肩へ掛け、道を進みながらひもを締め、城へ駆け上がった。
清氏と範実の先陣争い
城の西木戸へ到着すると、2人は馬を放した。
細川清氏は旗差しが急な坂を登れずにいるのを見ると、自ら走り下りて旗を奪った。
切岸の前へ突き立て、
「先駆けは清氏である」
と名乗った。
赤松範実は城内へ入り、
「最初に城へ入ったのは範実である。
後の証人となってください」
と叫び、塀を越えた。
桔梗一揆の武士たちも木戸を破り、城へ入った。
城兵は赤坂へ退く
城内の南朝兵は、しばらく戦った。
しかし敵の大軍と自軍の少なさを見て、
「勝てない」
と判断した。
静かに矢を射ちながら退き、赤坂へ逃れた。
後から来た大軍の悔しがり
しばらくすると各陣の兵が、
「桔梗一揆が竜泉城を攻めている」
「簡単には落ちないだろう。
盾を用意し、射手を先に立てよ」
と、落ち着いて出発した。
『太平記』本文で10万騎余りとされる大軍が麓へ着くと、城はすでに落ち、櫓や盾へ火が掛けられていた。
兵たちは悔しがった。
「城がこれほど小勢だったとは知らなかった」
「土岐・細川勢へ功名を独占させたことが、腹立たしい」
歯ぎしりしない者はいなかった。
292. 平石城陥落――和田正武の夜襲と赤坂城放棄
平石城も落ちる
今川上総介、佐々木六角崇永、山内判官らは、
「竜泉城攻めに間に合わなかったことが悔しい」
と思った。
ほかの軍勢を交えず、手勢500騎余りだけで、同じ正平15年/延文5年(1360年)閏4月29日の夕方に平石城へ攻め寄せた。
1度矢を射交わした後、険しい切岸を登った。
先を進む者の盾、兜の鉢さえ足場として、
- 城門
- 逆茂木
を切り破った。
戦死者や負傷者を顧みず、我先に城内へ入った。
南朝兵は支え切れず、その日の夜中に金剛山へ退いた。
南朝方に残るのは赤坂城だけ
二つの城が簡単に落ち、足利軍は水を得た竜のように勢いづいた。
和田・楠木軍は、泥の中で口を動かす魚のように苦しくなった。
竜門山・平石城が落ちると、八尾城も持ちこたえられなかった。
残るのは赤坂城だけとなった。
赤坂城も、もともと大要害ではなかった。
和田・楠木氏の館の周辺を簡単には奪われないため、急いで築いた城だった。
足利軍は、
「しばらくも耐えられないだろう」
と考えた。
20万騎が赤坂城を包囲する
正平15年/延文5年(1360年)5月3日の早朝、各陣の軍勢20万騎余りが赤坂城へ押し寄せたと『太平記』は記す。
城の西北30町余り(約3.3km)にわたって各部隊を分け、向城を築いた。
楠木正儀の慎重論
楠木正儀は、思慮深い一方、急いで敵へ当たる勢いに乏しい人物だった。
「この大軍と戦うことは難しい」
「金剛山へ隠れ、敵の兵が減るのを待ってから戦おう」
と主張した。
和田正武の夜襲論
和田正武は戦いを優先し、計略を待たない人物だった。
正儀の意見へ反対した。
「戦いでは敗れることも常にある」
「しかし戦える場所で戦わず、自分の命だけを守ることこそ恥である」
「天下を敵へ回した南朝方が、最後まで野伏戦だけしかしなかったと、日本中の武士へ笑われることが悔しい」
「1度、夜襲を行おう」
「太刀の柄が粉々になるほど戦えば、敵は乱れて退くかもしれない」
「敵が退けば、追撃して勝てる」
「退かなければ、その時に金剛山へ入ればよい」
結城氏の陣へ夜襲する
夜襲に慣れた兵300人が選ばれた。
問い掛けられた時には、
「武」
と答えるよう合言葉を決めた。
正平15年/延文5年(1360年)5月8日の夜は、月が早く沈んだ。
300人は、最前線へ進んでいた結城氏の向城へ忍び寄った。
木戸口で鬨の声を上げた。
ほかの陣は驚いて騒いだが、結城の陣は静まり、待ち構えた。
櫓の射手は矢間から激しく射た。
太刀・長刀を持つ兵は逆茂木を隔て、
- 登れば斬り落とし
- 越えれば突き落とした。
和田正武が城内へ飛び込む
和田正武は先頭に立ち、
「日ごろの言葉を忘れるな。
続け」
と叫んだ。
盾を切り破り、一枚盾を脇へ押しのけ、向城の中へ飛び込んだ。
兵300人も続いた。
双方は兜を傾け、鎧の袖をぶつけながら斬り合った。
半時ほど(約1時間)戦うと、結城軍700人余りは疲れ、退き始めた。
細川清氏の後詰め
そこへ細川清氏が500騎余りで南朝軍の背後へ回った。
「清氏が後詰めする。
退くな」
と叫んだ。
結城方の鹿窪・富沢・茂呂氏らが踏みとどまり、戦った。
和田方は数十人を討たれ、多くが負傷した。
「このままでは勝てない」
として、一方の盾を踏み破り、一斉に退いた。
向城へ紛れ込んだ4人
結城方には、物部次郎・郡司ら4人の勇士がいた。
彼らは以前から、
「敵が夜襲に来たならば、退却する敵へ紛れ、赤坂城へ入ろう」
「和田・楠木氏と刺し違えるか、城へ火を放って落とそう」
と約束していた。
計画どおり、4人は退く南朝兵へ紛れ、赤坂城へ入った。
合言葉で正体を見破られる
夜襲や強盗から戻った時には、敵が紛れ込んでいないか調べるため、
- 全員が同時に立つ
- 同時に座る
という「立ち勝り・居勝り」の方法があるという。
和田軍が城へ戻ると、松明を出し、決められた動作を行った。
4人は、そのような作法に慣れていなかった。
すぐ敵と見破られ、大軍へ囲まれた。
4人は全員討ち死にした。
人々は、
「まことに天下一の勇士とは、この者たちのことだ」
と褒めた。
赤坂城を焼いて退く
和田の夜襲でも、足利方の陣は1か所も退かなかった。
かえって城方の勢いが衰えた。
「赤坂城で敵を防ぎ続けることはできない」
として、その夜の夜中、和田・楠木氏は赤坂城へ火を放ち、金剛山の奥へ入った。
293. 後醍醐天皇陵の神霊――足利軍撤退を告げる夢
※読み方:後醍醐天皇・日野俊基・日野資朝が夢に現れ、幕府方武将の滅亡を予告する場面は、『太平記』の怨霊・神霊説話である。直後の幕府軍撤退を神霊の働きと史実上の因果関係として断定しない。
観心寺の皇居へ迫る危機
南朝の皇居が置かれた観心寺は、金剛山奥の深山にあり、簡単に敵が近づける場所ではなかった。
しかし警備の要として頼りにしていた、
- 竜泉城
- 赤坂城
が落ちた。
さらに昨日まで味方だった武士の多くが、今日は敵となったと伝えられた。
山人・木こりを案内者として、敵がどれほど深い山へも入ってくると噂された。
天皇をはじめ、女院・皇后・公卿たちは、
「どうすればよいのか」
と、限りなく恐れた。
出家を考えた上北面
二条禅定殿下へ仕える上北面の武士がいた。
南朝軍が敗れ、城を失っていくのを見て、
「敵が近づく前に妻子を京都方面へ逃がそう」
「自分も髻を切り、山林へ入って世を捨てよう」
と考えた。
吉野付近まで出た。
しかし長年の奉公を捨て、主君から離れ、この土地を去ることが悲しかった。
「せめて最後に後醍醐天皇の御陵へ参り、出家する暇を申し上げよう」
と、1人で御陵へ向かった。
荒れ果てた御陵
近ごろは掃除する者もいなかったのだろう。
茨や雑草が道をふさぎ、蔓草と古い苔が扉を覆っていた。
香炉の香は絶え、草むらに一筋の煙が残るだけだった。
御堂には灯火がなく、夜明け前の蛍だけが光っていた。
鳥の声も、岩間を流れる水の音も、悲しみを含んでいるようだった。
神仏へ訴える
上北面は一晩中、御陵の前へ伏し、泣きながら訴えた。
「今の世は、いったいどのような世なのでしょう」
「権力があっても道義のない者は必ず滅びるという、昔の賢者の言葉にも反しています」
「百代の天皇を守るという神々の誓いも、真実ではないのでしょうか」
「身分の低い者でさえ、死ねば霊や鬼となり、善悪を裁くといいます」
「まして後醍醐天皇は、十善の功徳によって天皇の位へおられた方です」
「御骨が土となっても、神霊は天地へ残り、子孫を守り、逆臣の力を滅ぼすと思っておりました」
「しかし臣下が君主を犯しても天罰はなく、子が父を殺しても神の怒りは見えません」
「世は、どうなってしまったのでしょう」
上北面は五体を地面へ投げ出し、礼拝した。
疲れ果て、頭を下げたまま、しばらく眠った。
御陵の中から声がする
夢の中で御陵が長く震動した。
やがて陵内から高貴な声がした。
「誰かいるか。誰かいるか」
東西の山から、
「俊基、資朝、ここにおります」
と答え、2人の人物が現れた。
日野俊基と日野資朝だった。
2人は、後醍醐天皇の倒幕計画へ深く関わり、鎌倉幕府によって処刑された人物である。
『太平記』本文はこの夢の場面で、日野資朝が元徳3年(1331年)5月29日に佐渡で斬られたと語る。しかし一般的な史料整理では、資朝の処刑は元弘2年/正慶元年(1332年)6月2日とされる。日野俊基も同じ元弘2年/正慶元年(1332年)に鎌倉の葛原ヶ岡で処刑された。
姿は生前のままだったが、顔は赤く、目は光り、上下の牙は銀の針のように伸びていた。
怒りの姿の後醍醐天皇
石の扉が開く音がした。
後醍醐天皇は袞竜の御衣を着て、右手へ宝剣を持ち、玉座へ座っていた。
しかし生前の穏やかな顔とは異なった。
目は怒りによって裂け、ひげは左右へ広がり、夜叉や羅刹のような姿だった。
苦しそうに息をするたび、口から炎が出て、黒煙が空へ上った。
逆臣を罰する者
天皇は俊基・資朝を近くへ召し、尋ねた。
「朕の子孫を苦しめ、世を乱す逆臣たちは、誰へ命じて罰するのか」
2人は答えた。
「このことは、すでに摩醯首羅天の前で評議し、討手を決めております」
予言される武将たちの滅亡
「今、南朝の皇居を襲おうとしている五畿七道の朝敵は、楠木正成へ命じました」
「1、2日の間に追い返すでしょう」
「仁木義長は菊池入道愚鑑へ命じたため、伊勢国で滅びます」
「細川清氏は土居・得能氏へ命じたため、四国へ渡った後に滅びます」
「東国から上ってきた畠山道誓と弟の義深は、特に怒りの強い大魔王となった新田義興が、
『自分に罰させてほしい』
と願っております」
「簡単に滅ぼされるでしょう」
「道誓の家臣たちも、各地で首を斬られます」
「中でも江戸下野守・遠江守兄弟は特に悪い者なので、竜ノ口で自分の手によって斬ると義興が申しております」
年号が変わる前に退治せよ
後醍醐天皇は、機嫌よく笑った。
「それならば年号が変わらないうちに、早く退治せよ」
そう言って陵内へ戻った。
その瞬間、夢から覚めた。
誰も夢を信じない
上北面は驚き、吉野から観心寺へ戻った。
人々へ、ひそかに夢の話をした。
しかし、
「自分が望んでいることを、夢に見ただけだろう」
として、信じる者はいなかった。
足利軍が突然撤退する
そのころ南朝方は、
「敵が来たならば、さらに深い山へ天皇をお移ししよう」
と、逃げ道ばかりを探し、戦おうとはしなかった。
ところが『太平記』の叙述では、敵は観心寺の皇居へ1度も近づかなかった。
特に大きな戦果もないまま、
「南朝討伐は、これで終わりである」
として、『太平記』では正平15年/延文5年(1360年)5月28日、総大将の足利義詮が尼崎から京都へ帰ったとする。一方、富田林市史では5月27日に尼崎を立って京都へ帰ったと整理している。
※撤退理由:富田林市史は、幕府軍が南朝へ決定的な打撃を与えないまま引き揚げた理由は明確でないとし、義詮が並行して進めていた南朝との講和工作との関係を指摘する見解を紹介している。『太平記』は夢の説話を直前に置くが、歴史上の撤退理由を神霊だけで説明することはできない。
畠山・仁木・細川・土岐・佐々木・宇都宮ら、五畿七道の兵20万騎も、我先に京都へ戻り、それぞれの国へ帰ったと『太平記』は語る。
このため、人々は上北面の夢を思い出した。
「本当に後醍醐天皇の神霊が働いたのではないか」
「仁木・細川・畠山も、やがて夢の予言どおり滅びるのではないか」
初めは疑っていた者たちも、かえって夢を頼みに思うようになった。