ホーム | 太平記 全40巻・全339章 | ← 巻第三十 | 巻第三十二 →
巻第三十一では、正平7年(1352年)の武蔵野合戦を中心に、新田義宗・新田義興・脇屋義治ら南朝方と足利尊氏の激戦を描く。小手指原から鎌倉、笛吹峠へ戦場が移り、東国の戦況が大きく動く。
後半では舞台が京都・八幡へ戻り、楠木正儀・和田五郎らの戦い、後村上天皇の八幡脱出が語られる。『太平記』本文には同じ事件の日付が前後の巻で食い違う箇所や、一般的な史料年表と異なる日付・巨大な軍勢数があるため、本文を残しながら注記した。
巻第三十一|目次
- 260. 新田義宗・義興・脇屋義治、東国で挙兵する
- 261. 武蔵野・小手指原の大合戦――新田義宗、足利尊氏を追う
- 262. 新田義興・脇屋義治、鎌倉を占領する
- 263. 笛吹峠の戦い――宗良親王・新田義宗軍の敗走
- 264. 八幡の戦い――楠木正儀・和田五郎と官軍の夜襲
- 265. 後村上天皇、八幡山から脱出――南朝方の敗走と救援軍
※読み方:年代・人物名は可能な限り西暦と実名を補ったが、『太平記』本文と一般的な歴史叙述が異なる場合は両者を区別した。尺・寸・町・間・半時などは原単位を残して現代のおおよその値を併記し、「里」は現在のkmへ単純換算しない。数万・数十万騎という巨大な軍勢数や神異・怪異は、厳密な実数・史実と断定せず、『太平記』本文上の叙述として読む。
260. 新田義宗・義興・脇屋義治、東国で挙兵する
※年代と史実:この章は正平7年(1352年)の武蔵野合戦へ向かう東国の動きを描く。『太平記』は閏2月8日に新田方が西上野へ出たとし、史料年表でも閏2月16日条で、それ以前に新田義宗・義興らが挙兵して武蔵へ進んだことを記す。軍勢の10万・20万・8万などは『太平記』本文上の巨大数で、厳密な実兵力とは扱わない。また足利直義の死は、本文では毒殺として語られるが、一般には毒殺説として扱われる。
天下は再び乱れる
南朝と足利方が和睦していた間は、京都も地方も、しばらく静かだった。
しかし和睦が破れ、戦いとなった後、畿内・京都周辺だけは南朝へ従ったものの、遠国には足利方へ従う者が多かった。
諸国の兵は互いに相手を討ち、従わせようとして威勢を張った。
合戦のやむ時はなかった。
すでに争いそのものが世の常となった以上、簡単に静まるはずもなかった。
元弘・建武以来、天下は長く乱れ、1日も完全に治まったことがない。
人々は、
「どこか静かな山奥はないだろうか」
と、身を隠す場所を求めた。
しかし、どこへ行っても同じ憂き世だった。
隠者の釣り台では水が冷たく、山中の庵では薪を背負う道が険しかった。
「どのような前世の因果によって、この乱世へ生まれたのか。
生きながら餓鬼道の苦しみを受け、死ぬ前から修羅道の奴隷となったのだろうか」
と、嘆かない者はいなかった。
新田義貞の子らと脇屋義治
この時、亡き新田義貞の次男・新田義興、三男・新田義宗、そして義貞の弟・脇屋義助の子である脇屋義治は、
- 武蔵
- 上野
- 信濃
- 越後
の間を移動し、居場所を定めず隠れていた。
時勢を得れば義兵を挙げようと計画していた。
南朝からの命令
後村上天皇がまだ住吉にいた時、由良信阿を勅使として東国へ送った。
命令は次のようなものだった。
「南朝と義詮との和睦は、一時的な計略にすぎない。
時機を迷い、好機を逃してはならない」
「すぐに義兵を挙げ、尊氏を追討し、天皇の御心を安らかにせよ」
信阿は東国へ急ぎ、3人へ命令を伝えた。
3人は、
「ただちに兵を集めよ」
として、東国8か国へ回状を送った。
同心する者は800人に及んだ。
石堂・三浦らの陰謀
石堂四郎入道は、近年直義へ従っていた。
薩埵山で敗れ、命だけを助けられ、鎌倉へいた。
頼りとしていた足利直義はすでに亡くなっていた。『太平記』は、直義が毒殺されたとする説を物語の前提としている。
自分から兵を挙げることはできなかったが、
「誰か反乱を起こしてくれれば、味方したい」
と思っていた。
新田方から手紙が届くと、渡りに舟と喜び、すぐ同心した。
また、
- 三浦介
- 葦名判官
- 二階堂下野二郎
- 小俣宮内少輔
も直義方として薩埵山で敗れ、降伏して命をつないでいた。
しかし世間から情けない者と見られたことを悔しがり、反乱の機会を待っていた。
新田方から協力を求められると、願ってもない機会と喜んだ。
尊氏を戦場で包囲する計画
彼らは鎌倉の扇谷へひそかに集まり、相談した。
「新田勢が上野から武蔵へ入れば、尊氏は鎌倉で待たず、
- 関戸
- 入間川
付近へ出て防ぐだろう」
「我々5、6人の軍勢だけでも、3000騎ほどになる」
「尊氏が戦場へ出た時には、わざと馬廻りへ控える」
「戦いが半ばとなった時、尊氏を中央へ包囲し、1人残らず討ち取る」
「その後、新田軍へ加わろう」
このように合図を定めた。
石堂・三浦・小俣・葦名らは、表面上動かず鎌倉へ残った。
新田軍10万余騎
『太平記』本文では、正平7年(1352年)閏2月8日、新田義宗らは、まず800騎余りで西上野へ出た。
新田一族や外様の武士が、各国から駆けつけた。
新田一族には、
- 江田
- 大館
- 堀口
- 篠塚
- 羽川
- 岩松
- 田中
- 青龍寺
- 小幡
- 大井田
- 一井
- 世良田
- 籠沢
などがいた。
外様には宇都宮・三浦・天野・松田・河村・大森・葛山など、多くの武士が加わった。
児玉党、丹党、西党、東党、熊谷、太田、平山、村山、横山、猪俣党なども従った。
『太平記』によれば、軍勢は10万騎余りとなり、各地へ火を放ちながら武蔵国へ入った。これは『太平記』本文上の巨大な軍勢数であり、厳密な実兵力とはみなさない。
鎌倉への急報
武蔵・上野から鎌倉へ、櫛の歯を引くように早馬が届いた。
「敵はどれほどか」
と尋ねると、使者は皆、
「20万騎を下らないでしょう」
と答えた。
仁木・細川らは尊氏へ申し上げた。
「大変な事態です。
鎌倉の兵は1000騎を越えません」
「諸国の軍勢が集まるとしても、今すぐには役に立ちません」
「1000騎未満で20万騎を防ぐことはできません。
まず安房・上総へ退き、兵を集めて戦ってください」
尊氏は鎌倉で決戦すると決める
尊氏は考えて答えた。
「戦いでは、1度退いた後に利益を得ることは、千に一つしかない」
「軍勢を集めるため安房・上総へ退けば、武蔵・相模・上野・下野の武士は、尊氏へ心を寄せていても敵に遮られ、味方できない」
「尊氏が鎌倉を捨てたと聞けば、諸国で敵となる者も増える」
「今回は小勢であっても鎌倉を出て、街道で敵を待ち、決戦するほかない」
『太平記』本文では、正平7年(1352年)閏2月16日の早朝、足利尊氏は500騎余りで鎌倉を出発し、武蔵国へ向かった。
尊氏軍が増える
鎌倉から多くの武将が追いついた。
石堂・三浦・小俣・葦名・二階堂ら3000騎余りは、陰謀を抱いたまま、ほかの部隊を交えず、尊氏の馬の前後へ隙間なく控えた。
尊氏が久米川へ1日滞在すると、
- 河越氏
- 江戸氏
- 高坂氏
- 豊島氏
- 土屋氏
- 土肥氏
- 二宮氏
- 曾我氏
- 渋谷氏
- 海老名氏
- 小早川氏
- 豊田氏
- 狩野氏
- 那須氏
- 本間氏
などが駆けつけた。
『太平記』によれば、尊氏軍は8万騎余りとなった。これも本文上の軍勢数である。
石堂の子が陰謀を拒絶する
翌日を決戦と決めた夜、石堂入道は三浦介へ言った。
「陰謀を、息子の右馬頭へ知らせていない」
「息子だけ事情を知らず、尊氏方へ残って討たれるかもしれない」
「家を二つへ分け、義兵へ味方するのも、成功した時に子孫へ栄えを残すためである」
「事情を教えるべきではないか」
三浦は、
「これほどのことを知らせなければ、後悔するでしょう」
と答えた。
石堂は息子を呼び、
「明日の戦いの途中、三浦・葦名・二階堂らと協力して尊氏を討つ。
一戦によって家運を開こうと思う。
私の旗へ従え」
と告げた。
息子は顔色を変えた。
「武士の道では、二心を持つことを恥とします」
「ほかの人は知りませんが、私は尊氏殿から深く信頼されております。
背後から矢を射て、名を後世へ汚すことはできません」
「父子・兄弟が敵となる例は、昔からあります」
「三浦・葦名らの陰謀を尊氏殿へ知らせなければ、大きな不忠となります」
「父子の恩義は、これで終わりました。
この世でお会いするのは、これが最後です」
息子は怒り、尊氏の陣へ向かった。
陰謀が崩れる
石堂入道は驚き、三浦のもとへ走った。
「子を思うほど、子は父を思わないものです」
「事情を知らせたところ、
『尊氏へ告げる』
と言って戻りました」
「必ず密告するでしょう。
すぐ討手が来ます」
「今夜、兵を分け、関戸から武蔵野へ回り、新田軍へ加わりましょう」
三浦・葦名・二階堂らは恐れ、3000騎余りを率いて尊氏軍を離れ、関戸を回って新田軍へ向かった。
この陰謀が事前に崩れたことは、尊氏の運がまだ尽きていなかったためだった。
261. 武蔵野・小手指原の大合戦――新田義宗、足利尊氏を追う
※年代と軍勢数:『太平記』本文は小手指原の合戦を正平7年(1352年)閏2月20日とする。一方、史料年表では宗良親王・新田義宗らが小手指原・高麗原・笛吹峠などで尊氏軍と戦った日を閏2月28日と整理しており、本文の戦闘日程とは一致しない。以下の数万・数十万という軍勢数も本文上の表現として読む。
新田軍の布陣
三浦らの陰謀が崩れたことを、新田義宗は知らなかった。
『太平記』本文では、正平7年(1352年)閏2月20日午前8時ごろ、武蔵野の小手指原へ進んだ。
一方には新田義宗が5万騎余りを率いた。
- 白旗
- 中黒旗
- 頭黒旗
- 児玉党の打輪旗
- 坂東八平氏
- 赤印一揆
を五手へ分け、5か所へ陣を置いた。
別の一方では新田義興が2万騎余りを率い、
- 酢漿草紋
- 鷹の羽紋
- 一文字紋
- 十五夜の月
- 弓一揆
を五手へ分け、四方6里へ陣を張った。
さらに脇屋義治が2万騎余りを率い、
- 大旗
- 小旗
- 下濃旗
- 鍬形一揆
- 母衣一揆
を5か所へ配置した。
射手を左右へ進ませ、突撃部隊を後ろへ控えた。
尊氏軍の五陣
尊氏は10万騎余りを五手へ分け、中道から進んだ。
第一陣は平一揆3万騎余りだった。
装束や目印まで、すべて赤で統一され、特に鮮やかだった。
第二陣は白旗一揆2万騎余りだった。
白い馬へ乗り、白い目印と白旗を用いた。
敵にも白旗があると聞き、急いで旗を短く切った。
第三陣は饗庭命鶴を大将とする花一揆6000騎余りだった。
若武者たちは華やかな鎧を着け、薄紅の目印をつけた。
兜へ梅の枝を差し、風が吹くたび、鎧の袖まで香るようだった。
第四陣は御所一揆3万騎余りだった。
二引両の旗の下で尊氏を守り、直属の武将や諸国の大名が静かに控えた。
第五陣は仁木頼章・義長・義氏兄弟の3000騎余りだった。
旗も目印もつけず、遠くへ退き、馬を降りていた。
敵味方が何度も戦い、疲れた時に新手として出て、敵大将の陣を夜襲するためだった。
20万騎の鬨の声
新田・足利両軍20万騎が小手指原へ進んだ。
敵が3度鬨の声を上げると、味方も3度応じた。
その声は天上から大地の底まで響くようだった。
第一戦
最初に新田義興軍2万騎余りと、平一揆3万騎余りが戦った。
追い、返し、入り乱れ、半時(約1時間)ほど戦って左右へ退いた。
両軍の死者は800人余り、負傷者は数えきれなかった。
第二戦
次に脇屋義治軍2万騎余りと、白旗一揆2万7000騎余りが東西から激突した。
馬の足音、太刀の鍔の音が天へ光り、地へ響いた。
敵と組んで首を取る者、取られる者がいた。
左右から斬りかかって馬から落とす者、落とされる者がいた。
血は馬の蹄に蹴られ、紅葉へ降る雨のように散った。
遺体は野を埋め、わずかな土地も残らなかった。
7、8度戦い、東西へ離れた時、さらに500人余りが討たれていた。
花一揆の崩壊
第三戦では、18歳の饗庭命鶴が花一揆の大将として進んだ。
容姿は当代随一といわれ、美しく飾っていた。
新田義宗は、
「花一揆を散らすには児玉党を向かわせよ。
打輪の旗は、風を受けてこそよく動く」
として、児玉党7000騎余りを送った。
花一揆は若武者ばかりで、深い考えもなく敵へ攻めかかった。
児玉党に激しく攻められ、1度も反撃せず逃げた。
本来、ほかの一揆ならば、攻める時は一手へ集まり、退く時は左右へ分かれ、新手を通した。
しかし花一揆は尊氏の本陣へ向かって崩れ落ちた。
新手の軍も妨げられ、進めなくなった。
新田軍は勝ちに乗り、鬨の声を上げて追撃した。
「1度退き、全軍で反撃せよ」
との声もあったが、尊氏軍10万余騎は総崩れとなり、後ろを振り返らなかった。
義宗、尊氏を追う
新田義宗は旗より先に進んだ。
「尊氏は天下にとって朝敵であり、自分にとって父の仇である」
「今、尊氏の首を取り、軍門へさらさなければ、いつその時が来るのか」
南北へ逃げるほかの敵には目もくれず、二引両の大旗だけを追った。
逃げる側も追う側も名馬を走らせ、小手指原から石浜まで46里を、片時(ごく短い間)に進んだと『太平記』は語る。中世の「里」は距離が一定しないため、kmには単純換算しない。
尊氏、石浜で自害を覚悟する
尊氏が石浜を渡る時、新田軍はすぐ後ろへ迫っていた。
尊氏は腹を切ろうとして、鎧の上帯を切り捨て、高紐を外そうとした。
側近20騎余りが引き返し、川へ入りかけた敵へ組みつき、討ち死にした。
その間に尊氏は対岸へ上がった。
逃げる敵は3万騎余り、追う新田軍は500騎余りだった。
対岸は屏風を立てたように高く、数万騎が反撃の構えを見せた。
日は暮れかけ、川の浅瀬も深みも分からなかった。
義宗は続けて渡ることができず、後ろから来る味方もなかった。
悔しさに歯を食いしばり、本陣へ戻った。
これも尊氏の運が強かったためだった。
義興・義治と仁木兄弟
義興・義治は、北へ逃げる白旗一揆を尊氏の軍と思い、50町余り(約5.5km)追った。
途中、降伏する武士たちが馬から下り、挨拶した。
義興らが1人ずつ応対しているうち、軍勢は北へ進み、両大将から離れた。
義興・義治の周囲には、300騎余りしか残らなかった。
仁木頼章・義長は、初めからこのような機会を待ち、まだ1度も戦わず、葦原へ隠れて馬を休めていた。
「末々の源氏や諸国の寄せ集めを何1000騎討っても意味はない。
敵大将を討てる、天が与えた機会だ」
3000騎余りで一手となり、攻め寄せた。
仁木義長の堅陣
義興・義治は、
「敵は大軍なので鶴翼へ開き、包囲しようとするだろう」
と考えた。
300騎を魚鱗の陣とし、敵中央を破ろうとした。
仁木義長は見抜き、命じた。
「敵の馬の立て方と陣形は、普通の兵ではない」
「小勢だからと侮り、中央を破られるな」
「1か所へ馬を寄せ、敵が攻めても攻め返すな」
「大将と思われる者が来れば組んで首を取れ。
雑兵は矢で落とせ」
「敵へ力を使い尽くさせ、味方は少しも動揺するな。
小勢が大勢へ勝てるはずはない」
仁木軍は1か所へ密集した。
義興・義治は我慢できず、300騎を一手にして中央へ攻めた。
しかし仁木軍は動かなかった。
正面へ攻めても後ろは静かで、東へ回っても西は動かず、北へ回っても南は揺れなかった。
敵へ近づけば太刀を交え、組み落とせば別の兵が重なった。
何度攻めても堅陣は崩れず、大将も退かなかった。
義興・義治は疲れ、東へ退いた。
20町余り(約2.2km)逃れた時、300騎余りのうち100騎余りが討たれていた。
義興も義治も鎧・兜・武器をひどく傷つけられ、複数の傷を負った。
義治の太刀は鍔元から折れ、長刀の峰も刃もぼろぼろになっていた。
馬も3か所を斬られ、乗り換えた後に倒れて死んだ。
義宗は笛吹峠へ向かう
義宗は尊氏を討ち漏らした。
日は暮れたため、
「兵を集め、明日石浜へ攻めよう」
として、小手指原へ戻った。
途中、
「義興殿はどこにいるか」
と尋ねると、
「義興殿と義治殿は仁木軍へ敗れ、東へ落ちました」
と答えがあった。
さらに周辺のかがり火について尋ねると、
「この辺りに味方はいません。
仁木兄弟か白旗一揆の火でしょう」
「小勢でここへとどまるのは危険です。
夜のうちに笛吹峠へ越え、越後・信濃勢を待って、改めて戦ってください」
と勧められた。
義宗は考え、
「確かにそのとおりだ」
として、笛吹峠の場所を尋ねながら、夜中に落ち延びた。
262. 新田義興・脇屋義治、鎌倉を占領する
※読み方:この章は小手指原の戦い後、新田義興・脇屋義治が鎌倉へ向かい、一時的に鎌倉を占領する場面を描く。章末の日付には『太平記』本文内部で矛盾があるため、本文を勝手に一つの日付へ合わせず、その箇所で注記する。
義興・義治は、わずか200騎余りとなり、義宗とも離れた。
味方の軍勢がどこへ行ったのかも分からなかった。
波へも着かず、岸からも離れた舟のような心地で、皆馬から下りて休んだ。
2人は言った。
「この兵力では上野へも帰れない。
ほかに落ちていく場所もない」
「どうせ討ち死にする命ならば、鎌倉へ入り、足利基氏と戦って死のう」
兵たちは皆、賛成した。
最後の戦いを決意し、それぞれ母衣を掛け、鎌倉へ向かった。
石堂・三浦軍と合流する
夜中を過ぎ、関戸を通った。
西へ向かって下る5000、6000騎ほどの軍勢と出会った。
2人は、
「敵が搦手へ回る軍だろう。
鎌倉へ着く前に、関戸で死ぬことになる」
と覚悟した。
1か所へ馬を寄せ、尋ねた。
「どなたの軍勢ですか」
「石堂入道・三浦介が、新田殿へ参上する軍です」
義興・義治は手をたたき、限りなく喜んだ。
死者の骨が再びつながって戦えるようになったとしても、この喜びには及ばないと思われた。
鎌倉の守り
新たな軍勢とともに神奈川へ到着し、鎌倉の様子を尋ねた。
「鎌倉では足利基氏を守り、南遠江守が安房・上総勢3000騎余りで、
- 化粧坂
- 巨福呂坂
をふさいでおります」
「昨日、
『敵が三浦にいる』
と聞いて出撃しましたが、誤報だったとして、今ちょうど鎌倉へ戻ったところです」
大御堂方面から攻め込む
義興らは、
「今こそ戦いの時だ。
ここで準備せよ」
と、兵へ食事をさせ、馬へ飼料を与えた。
3000騎余りを二手へ分けた。
鶴岡八幡宮へ旗を少数送り、主力は大御堂の上から一気に押し寄せた。
鎌倉方は三浦から戻ったばかりで、馬の鞍も下ろさず、鎧の帯も解いていなかった。
若宮大路へ出て、1か所へ集まった。
小俣小輔次郎の先駆け
小俣小輔次郎は、その日の軍奉行と決められていた。
手勢73騎を率い、敵が集まる中へ突入した。
三浦・葦名・二階堂勢は鎌倉の地形を知り、馬も兵も疲れていなかった。
谷や小路から鬨の声を上げて攻め入り、敵陣を破って反対側へ抜けた。
義興の豪勇
義興は浜辺の民家付近で敵3騎を斬り、大軍の中央を突破した。
その時、敵の太刀で小手の手覆いと手綱を切られた。
片方の手綱が地面へ下がり、馬の足に踏まれた。
義興は太刀を左脇へ挟み、鐙から身を下げ、左右の手綱を結び合わせた。
敵3騎は好機と見て近づき、兜や髪を何度も斬った。
義興は少しも慌てず、静かに手綱を結び、鞍へ座り直した。
敵3騎は驚いて馬を退き、
「何という豪勇の武士だ」
と2度、3度声を上げて称賛し、味方へ戻った。
南遠江守の敗走
塔ノ辻の戦いが困難と見えたため、義治と小俣は200騎余りで攻めかかった。
南遠江守は追い立てられ、旗を巻いて退いた。
各谷・小路で戦っていた兵も四方へ散り、1か所へ集まれず、100騎、200騎ずつ逃げた。
石堂・三浦勢も戦い疲れ、深く追撃しなかった。
南遠江守は討ち漏らされ、基氏を守って石浜へ逃れた。
新田方が鎌倉を支配する
新田義興・脇屋義治は、この鎌倉合戦に勝った。
※日付:Wikisource所収の『太平記』本文は、この箇所を「2月13日の鎌倉の軍」と記す。しかし直前の章では閏2月20日の小手指原合戦を描いており、巻内の時系列とは整合しない。そのため、ここでは日付を本文へ断定的に補わない。
父祖以来の恥をすすいだだけでなく、両大将として仰がれ、しばらく関東8か国の政務を行うこととなった。
263. 笛吹峠の戦い――宗良親王・新田義宗軍の敗走
※年代と人物:ここで「上野親王」と呼ばれるのは後醍醐天皇の皇子・宗良親王である。『太平記』は「先朝第二宮」と記すが、皇子の出生順位には系譜によって異同があるため、本文表現として扱う。正平7年(1352年)閏2月28日の笛吹峠の戦いは史料年表でも確認できる。8万・80万騎などは『太平記』本文上の巨大数である。
新田義宗の陣
新田義宗は、石浜で尊氏を討ち取れなかった。
武蔵国を前、越後・信濃を後ろへ置き、笛吹峠へ陣を取った。
そこへ、
- 大江田氏
- 上杉憲顕父子
- 中条氏
- 田中氏
- 堀口氏
- 羽川氏
- 荻野氏
- 酒勾氏
- 長尾氏
- 仁科氏
- 高梨氏
- 禰津氏
- 神氏
- 滋野氏
などが集まった。
『太平記』によれば、軍勢は2万騎余りだった。
『太平記』が「先朝第二宮・上野親王」と呼ぶ宗良親王を大将として、笛吹峠へ出た。
尊氏軍8万余騎
尊氏が石浜へ無事にいると聞き、
- 千葉
- 小山
- 小田
- 宇都宮
- 佐竹
- 結城
- 河越
- 高坂
- 江戸
- 豊島
- 土肥
- 土屋
- 二宮
- 曾我
- 海老名
- 武田
- 小笠原
- 逸見
などが尊氏の陣へ駆けつけた。
軍勢は8万騎余りとなった。
鎌倉には義興・義治が7000騎余り、武蔵には義宗・上杉軍2万騎余りがいると伝えられた。
尊氏方は相談した。
「兵が疲れないうちに、大軍の義宗方へ勝てば、鎌倉の小勢は戦わず退く」
正平7年(1352年)閏2月25日、足利尊氏は石浜を出発し、武蔵国府へ入った。
甲斐源氏2000騎余りも加わった。
笛吹峠の陣
正平7年(1352年)閏2月28日、尊氏が笛吹峠へ進むと、敵は小松の茂る山の南へ陣を取り、前には小川が流れていた。
峰には錦の御旗、麓には、
- 白旗
- 中黒旗
- 棕櫚葉紋
- 梶葉紋
の旗が無数に並んでいた。
1日中続く激戦
最初に土地の案内を知る甲斐源氏3000騎余りが攻めた。
新田義宗軍と、越後勢3000騎余りが応戦した。
半時(約1時間)ほど戦い、逸見入道ら甲斐源氏100騎余りが討たれ、退いた。
次に千葉・宇都宮・小山・佐竹勢7000騎余りが上杉憲顕の陣へ攻めた。
信濃勢200騎余り、寄せ手300騎余りが討たれ、双方が退いた。
その後も陣を入れ替え、正午から日暮れまで、1日中休まず戦った。
鳥雲の陣を生かせなかった義宗
小勢で大軍と戦うには、鳥雲の陣が最もよいとされた。
背後へ山を置き、左右を川で守り、平野の敵を見下ろす。
味方の人数を敵へ見せず、勇士・射手を交代で出す陣である。
笛吹峠は、まさに鳥雲の陣へ適していた。
待って戦えば有利だった。
しかし義宗は若武者だったため、毎回広い場所へ出て戦い、大軍へ包囲された。
何度敵陣を破っても、敵は目に余るほど多かった。
新田・上杉軍は敗れ、笛吹峠へ引き上げた。
長尾・禰津の尊氏暗殺未遂
上杉軍に、長尾弾正と禰津小次郎という怪力の勇士がいた。
2人は、
「今日敗れたことは、一生の恥である」
と考えた。
敵軍へ紛れ、尊氏を討とうと相談した。
急いで足利方の二引両の目印へつけ替えた。
長尾は乱れ髪を顔へ掛けた。
禰津は自分の額を刀で切り、血を顔へ流した。
討ち取った敵の首を槍先へつけ、2人だけで尊氏の陣へ入った。
道をふさぐ兵が、
「誰の部隊だ」
と尋ねると、
「将軍直属の者です。
新田一族の大将を組み討ちにしたため、首実検へ参ります」
と答えた。
人々は、
「見事だ」
と感心し、疑わなかった。
2人は、
「尊氏殿はどこか」
と尋ね、教えられた方角を見ると、草鹿の的場ほどの距離に尊氏がいた。
「一太刀で斬り落とせる」
と目配せし、かえってゆっくり馬を進めた。
正体を見破られる
しかし尊氏の運が強かったのだろう。
2人を知る者が、
「そこへ紛れて近づく武者は、長尾弾正と禰津小次郎ではないか。
近づけてはならない」
と叫んだ。
武蔵・相模の兵300騎余りが、尊氏との間へ入り、左右から攻めた。
2人は、
「計画が崩れた」
と判断した。
槍先の首を投げ捨て、乱れ髪を振り上げ、大軍の中央を突破した。
2人の武器へ当たった敵は、兜を胸板まで割られるか、腰を切り落とされた。
しかし敵は大軍、2人はわずか2騎だった。
四方から矢を浴びせられ、
「何と運の強い足利殿だ」
と高声で嘲り、静かに本陣へ帰った。
夜の陣
夜になると両軍は退き、かがり火をたいた。
尊氏軍の火は四方5、6里に及び、天の川の星を並べたようだった。
笛吹峠の火は、月へ消えていく蛍の光のように、わずかだった。
義宗は、
「1日の戦いで多くの兵が討たれたとしても、これほど陣が少なくなるはずはない。
兵が逃げているのだろう」
と考え、街道へ関所を置いた。
引かない覚悟を示す
義宗は言った。
「兵が大将を疑えば、戦いは不利となる」
「前には勝ちに乗る大敵、後ろには味方の国々がある。
兵の中には、
『義宗は今夜、越後・信濃へ退くだろう』
と疑う者がいるだろう」
「船を沈め、食糧を捨て、2度と帰らない覚悟を見せることが良将の計略である」
「皆、馬の鞍を下ろし、鎧を脱ぎ、退く意思がないことを示せ」
義宗自身が鎧を脱ぐと、兵も皆鞍を下ろし、馬を休ませた。
上杉・義宗が退く
宵の間は落ち着いていた。
しかし夜中、尊氏方へ大軍が加わる松明が見えた。
「明日の戦いは勝てない」
と考えたのか、上杉憲顕は、かがり火だけを残して信濃へ逃れた。
義宗も明け方、越後へ退いた。
尊氏軍が急増する
それまで新田・上杉へ従った武蔵・上野勢も、勝敗を見ていた上総・下総勢も、我先に尊氏方へ加わった。
『太平記』によれば、軍勢は80万騎となった。これは物語上の巨大な軍勢数であり、厳密な実兵力とは扱わない。
義興・義治も鎌倉を離れる
義興・義治は6000騎余りで鎌倉へいた。
尊氏が笛吹峠で勝ち、関東8か国の兵を率いて鎌倉へ向かうと聞いた。
2人は、
「鎌倉で討ち死にしよう」
と言った。
しかし松田・河村氏が繰り返し勧めた。
「相模川上流に非常に険しい山があります。
まずそこへ入り、
- 京都の情勢
- 越後・信濃の大将の動き
を聞いてください」
「天下の機会を得て諸国の兵を集め、改めて戦うべきです」
正平7年(1352年)3月4日、義興・義治は鎌倉を離れた。
石堂・小俣・二階堂・葦名・三浦・松田・河村・酒勾氏ら6000騎余りを率い、国府津山の奥へ入った。
264. 八幡の戦い――楠木正儀・和田五郎と官軍の夜襲
※年代と史料差:この章の冒頭で『太平記』巻第三十一は京都合戦を「去月20日」とするが、前巻の本文は南朝軍の京都攻撃を閏2月27日と語っており、『太平記』内部でも日付が一致しない。一般的な史料整理では正平7年(1352年)閏2月20日に楠木正儀らが京都を占領し、足利義詮は3月15日に京都を奪回したとされる。また北朝側の皇族の移送経路も『太平記』の簡略な叙述と史料上の経過には違いがある。
荒廃した京都
『太平記』巻第三十一は、正平7年(1352年)閏2月20日の京都合戦で足利義詮が敗れ、近江へ逃れたところから語り始める。
さらに『太平記』は、持明院統の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・直仁親王が捕らえられ、賀名生へ移されたと語る。
南朝の後村上天皇は、なお世を危ぶみ、八幡にいた。
公卿・殿上人は、
- 西山
- 東山
- 吉峰
- 鞍馬奥
などへ逃れ隠れていた。
帝都は、いつしか強い武士による守りもなく、朝廷の儀式も行われず、狐のすみかのようになった。
桓武天皇が四神相応の土地を選び、
- 東山へ将軍塚を築き
- 北東へ比叡山を置き
百代、万代の皇位を祈った都だった。
「未来永劫、荒廃しない」
と思われた京都が、このようになったことを、嘆かない者はいなかった。
義詮の反撃
義詮は近江国四十九院へいた。
初めは土岐・佐々木氏以外に従う者が少なかった。
しかし尊氏が東国の戦いへ勝ったと聞くと、軍勢が雲霞のように集まった。
「すぐに京都へ攻めよう」
正平7年(1352年)3月11日、足利義詮は3万騎余りで四十九院を出発した。
琵琶湖を舟で渡る軍、堅田・高島を通って馬を進める軍へ分かれた。
南朝方は戦わず退く
南朝方の中院具忠が1000騎余りで大津付近へ控えた。
しかし義詮軍の大勢を見て、
「戦えない」
と考え、敵が近づく前に八幡へ退いた。
3月15日、義詮が京都へ入り、東山へ陣を置くと、南朝の大将・北畠顕能は淀・赤井へ退いた。
3月17日、義詮が下京へ移り、東寺へ陣を置くと、顕能はさらに淀川を引き、八幡山下へ陣を置いた。
戦う前に3度も陣を移したため、
「今後も同じように逃げるだろう」
と、頼りなく見られた。
八幡山の要害
それでも八幡は非常に堅い要害だった。
赤井橋を引き、畿内の官軍7000騎余りが立てこもった。
三方は大河で隔てられ、橋も舟もなかった。
宇治路から背後へ回れば、前後の敵陣へ挟まれる恐れがある。
義詮軍は東寺へとどまり、諸国の援軍を待った。
そこへ、
- 細川顕氏が四国勢3000騎余り
- 赤松則祐が播磨勢
を率いて上洛した。
則祐はそれまで南朝の皇子を奉じていたが、南朝を離れ、義詮へ従った。
義詮軍は竜が水を得、虎が山を得たように勢いを増した。
荒坂山の戦い
正平7年(1352年)3月24日、義詮は3万騎余りで宇治路を回り、木津川を渡って洞ヶ峠へ陣を置こうとした。
河内・東条から八幡へ通じる道をふさぎ、兵糧攻めにするためだった。
八幡から北へは、
- 和田五郎
- 楠木正儀(次郎左衛門)
が向かった。
『太平記』本文では、楠木正儀は23歳、和田五郎は16歳だったとする。
公卿たちは、
「若武者なので、思慮のない戦いをするのではないか」
と心配した。
和田五郎の誓い
和田五郎は参内し、申し上げた。
「親族・兄弟は、たびたびの戦いで命を捨て、討ち死にいたしました」
「今日の戦いは、公私ともに一大事です」
「命を限りに戦い、敵大将を1人も討たなければ、生きて再び天皇の御前へ戻りません」
公卿や諸国の兵は、
「代々の勇士の子である」
と感心した。
土岐悪五郎との戦い
和田・楠木・紀伊勢3000騎余りは荒坂山へ向かい、防戦した。
足利方から、
- 細川清氏
- 細川顕氏
- 土岐大膳大夫
- 弟の土岐悪五郎
ら6000騎余りが攻めた。
山道は険しく、峰は高かった。
寄せ手は麓で馬を放ち、徒歩で登った。
山の戦いに慣れた大和・河内勢は、岩陰や岸の上から矢を射た。
土岐・細川軍の先頭は射すくめられ、進めなかった。
土岐悪五郎は当時有名な怪力の武士だった。
5尺6寸(約1.7m)の大太刀を持ち、猪が突進するように山道を笑いながら登った。
和田五郎は、
「立派な敵だ」
と見た。
盾を投げ捨て、3尺5寸(約1.1m)の小長刀を短く持って向かった。
関将監を救う悪五郎
細川清氏の家臣・関左近将監が悪五郎の脇から走り出し、和田へ攻めた。
和田の下人が松陰から近づき、12束3伏(矢の長さを表す古い尺度)の矢を十分に引き絞って放ち、関の胴を射抜いた。
関は片膝をついた。
悪五郎が助けようとすると、2本目の矢が悪五郎の脇立の板へ深く刺さった。
関は、
「助からない」
と思い、腹を切ろうとした。
悪五郎は、
「まだ自害するな。助ける」
と言った。
脇立へ刺さった矢を板ごと引きちぎって捨て、近づく敵5、6人を斬った。
関を左脇へ抱え、右手で大太刀を振り、3町ほど(約330m)退いた。
和田は後ろから追ったが、悪五郎を討ち取れなかった。
悪五郎の最期
悪五郎が小さな崖を越えた時、崖の土が崩れ、薬研のような谷へ落ちた。
和田は走り寄り、長刀の柄を伸ばして悪五郎を討った。
乱戦の最中だったため、首までは取らなかった。
悪五郎が引きちぎって捨てた脇立だけを証拠として拾った。
和田は体へ刺さった矢を折り残したまま、天皇の前へ参上し、戦況を報告した。
天皇は、
「初めの言葉に違わず、敵の大将を討ち、多くの傷を負いながら無事に戻った。
前代未聞の功績である」
と、深く感動した。
八幡包囲
官軍は悪五郎を討って有利となった。
しかし敵は大軍であり、長く陣を守れない。
楠木正儀は夜に八幡へ退いた。
翌朝、足利軍が荒坂山へ入り、陣を取った。
双方はすぐに攻めず、八幡を遠巻きにして数日を過ごした。
法性寺左兵衛督の奮戦
山名師氏が出雲・因幡・伯耆勢を率いて上洛した。
荒坂山の戦いに間に合わなかったことを悔しがり、直接八幡へ攻めようと淀から進んだ。
しかし法性寺左兵衛督が淀へ陣を取り、橋を3間(約5.5m)分落とし、西側へ盾を並べていた。
山名軍は橋を渡れなかった。
民家を壊して筏を作ったが、長雨で増水した川へ流された。
数日後、淀大明神前へ浅瀬があると聞き、2000騎余りで川を渡った。
法性寺左兵衛督は1騎で上陸地点へ控え、敵3騎を斬った。
静かに退くと、山名軍3000騎余りが、
「大将と思われる方が敵へ背を見せるとは見苦しい」
と追った。
左兵衛督は、
「引き返すことが難しいものか」
と何度も反撃した。
淀橋から八幡山まで、17度も返して戦った。
馬も傷つかず、自分も重傷を負わなかった。
鎧へ刺さった矢を折り残して、山の陣へ戻った。
四方からの総攻撃
正平7年(1352年)4月25日、足利方は四方から同時に攻めた。
北畠顕能軍3000騎余りは園殿口で戦った。
和田・楠木・湯浅・山本らは佐羅科で防いだ。
戦いの途中、高橋の民家から火が出た。『太平記』はこれを「神火」と呼ぶ。
さらに『太平記』が「魔風」と表現する強風が吹き、火を四方へ広げた。
官軍は煙に巻かれ、防げず、八幡山へ退いた。
足利方2万騎余りは洞ヶ峠へ上り、何重にも陣を置き、八幡山を五重、六重に包囲した。
細川顕氏・清氏は真木・葛葉を回り、八幡西側の如法経塚へ陣を置いた。
敵との間は、堀一つだけだった。
官軍800人の夜襲
正平7年(1352年)5月4日、官軍7000騎余りから、夜襲に慣れた800人が選ばれ、法性寺左兵衛督へつけられた。
左兵衛督は昼から自陣へ集め、同じ笠印をつけさせた。
「誰だと問われたら、『進』と名乗れ」
と約束した。
夜中、宿院の後ろから如法経塚へ押し寄せ、800人が一斉に鬨の声を上げた。
細川軍3000余人は、暗闇の中で部隊の区別もできなかった。
馬は逃げ、人は騒ぎ、
- 太刀を抜けず
- 弓を引けず
多数が討たれ、負傷した。
谷底へ人なだれとなって追い落とされ、馬・武具を捨てた者は数えきれなかった。
夜襲は全軍を崩せない
一陣が破れれば、ほかの陣も崩れるかと思われた。
しかし、
- 土岐
- 佐々木
- 山名
- 赤松
の陣は少しも動かなかった。
鹿垣を厳重に結び、守りを固めていた。
夜襲で破る方法はなかった。
救援へ出た和田・楠木
八幡では、
「このままでは長く持ちこたえられない」
として、和田・楠木をひそかに城外へ出し、河内へ向かわせた。
後方から救援軍を起こさせるためだった。
八幡の人々は救援を待った。
ところが勇敢な和田五郎は突然病気となり、間もなく亡くなった。
ここで『太平記』の語り手は、楠木正儀を、父・楠木正成や兄・楠木正行とは異なり「心少し延びたる者」、つまり決断が遅い人物だと厳しく評する。
「今日にしよう、明日にしよう」
『太平記』は、そう言うばかりで、天皇が大敵に包囲されていることを深く心へ掛けなかった、と批判している。
人々は、
「堯の子は堯に似ず、舜の弟は舜に似なかったとはいう。
しかしこの楠木は正成の子、正行の弟である。
なぜ父や兄と、これほど違うのか」
と非難した。
265. 後村上天皇、八幡山から脱出――南朝方の敗走と救援軍
※年代と怪異:『太平記』本文では後村上天皇の八幡脱出を正平7年(1352年)5月11日夜半とするが、一般的な史料整理では八幡落城は5月28日とされる。さらに本文には4月27日の出発直後に「9月11日」とする時系列上不自然な記述もあるため、そのまま注記する。中黒印の100騎や矢が神器の櫃を貫かなかった話は、『太平記』が語る不思議な出来事として読む。
八幡城内の兵糧が尽きる
正平7年(1352年)3月15日から戦いが始まり、すでに50日余りが過ぎた。
城内では兵糧が尽き、救援軍が来る見込みもなかった。
「この先どうなるのか」
と人々が話し始めると、兵たちの様子は変わった。
逃げ支度以外、何もしなくなった。
矢野・湯河勢の降伏
頼りとなるはずだった、
- 伊勢の矢野下野守
- 熊野の湯河荘司
が東西の陣へ幕を捨て、300騎余りで足利方へ降伏した。
城の地形を敵へ知られれば、逃げようとしても逃げられない。
南朝方は、
「今夜、天皇をお逃がししよう」
と決めた。
夜中の脱出
『太平記』本文では、正平7年(1352年)5月11日の夜半、後村上天皇を寮の馬へ乗せた。
兵が前後を囲み、大和路へ向かって落ち延びた。
数万の敵兵は前をふさぎ、後ろから追い、天皇を討ち取ろうとした。
官軍は義を重んじて命を軽くし、
- 引き返して敵を防ぎ
- 敵陣を破って天皇を先へ進ませた
負傷して腹を切る者、踏みとどまって討ち死にする者は300人に及んだ。
皇子と公卿の戦死
この戦いで皇子1人が討たれた。
さらに、
- 四条隆資
- 円明院大納言
- 三条雅賢
も討ち死にした。
天皇自身も鎧を着る
天皇は兵の中へ紛れるため、山本判官が献上した黄糸威の鎧を着た。
栗毛の馬へ乗っていた。
一宮弾正左衛門有種が追いつき、叫んだ。
「立派な大将とお見受けする。
敵に追われながら、1度も引き返さないとは見苦しいではないか」
弓杖3杖ほど(弓3張り分、単純換算で約6.8m)まで近づいた。
法性寺左兵衛督が追手を倒す
法性寺左兵衛督が振り返った。
「悪い者が何ということを言う。
お前に自分の手柄を見せてやる」
馬から飛び降り、4尺8寸(約1.45m)の太刀で、兜を砕く勢いで有種を打った。
強力の有種も尻をついて倒れ、目がくらみ、肝を失った。
有種が目を閉じて心を静める間に、天皇は遠くへ逃れた。
天皇を矢が取り巻く
天皇が古津川沿いを西へ進んでいると、
- 備前の松田勢
- 備後の宮入道勢
200、300騎が取り囲んだ。
四方から雨のように矢を射た。
逃れられないように見えたが、神仏の加護があったのだろう。
鎧の袖や草摺へ当たった矢も、裏まで貫かなかった。
法性寺左兵衛督の単騎護衛
法性寺左兵衛督は、この時まで天皇から離れず、ただ1騎で供をしていた。
敵が後ろから来れば引き返して追い散らし、前をふさげば敵中を破って、天皇を進ませた。
中黒印の不思議な100騎
その時、どこから来たのか分からない味方の兵100騎ほどが現れた。
全員が新田氏の中黒の笠印をつけ、天皇の馬の前後へ控えた。
近づく敵を四方へ追い散らした後、かき消すように姿を失った。
天皇は無事に東条へ逃れた。
内侍所(神鏡)の櫃
内侍所、すなわち神鏡を納めた櫃を初めに持っていた者は、逃亡中、田の中へ捨てた。
伯耆大郎左衛門長生が見つけた。
長生は鎧を脱ぎ、自ら櫃を背負った。
後方の敵が激しく矢を射た。
櫃の蓋へ矢が当たる音は、板屋根を打つ激しい雨のようだった。
しかし長生の体には、1本の矢も刺さらなかった。
長生は櫃を抱え、賀名生の御所へ届けた。
13本の矢も櫃を貫かない
人々は、
「これほど矢が当たったならば、内侍所の神鏡にも矢が刺さったのではないか」
と恐れ、櫃を調べた。
矢の跡は13か所あった。
しかし薄い檜板さえ、1本も貫いていなかった。
不思議なことだった。
児島志純を東国へ送る
南朝が京都を攻めるため、天皇が住吉・天王寺へ進んだ時、児島志純も召されていた。
天皇は志純へ命じた。
「これは天下の一大事である。
急いで東国・北国へ下れ」
「新田義貞の甥や子らへ義兵を起こさせよ」
「小山・宇都宮をはじめ、協力できる大名を味方とし、すぐに天下の大功を立てるよう知略を巡らせよ」
志純は昼夜を問わず関東へ向かった。
しかし到着した時には東国の戦いは終わっていた。
- 義興・義治は河村城
- 義宗は越後
へいた。
東国・北国軍の救援計画
志純は各地へ後村上天皇の危機を伝えた。
「天皇は大敵へ包囲され、救援軍も力尽きようとしている」
「もし神竜が姿を変え、漁師に捕らえられるように天皇が敵の手へ落ちれば、誰のために天下を争うのか」
「義を重んじるならば、命を軽くするべきである」
小山・宇都宮も、
「天皇の命令に従う」
と約束した。
計画では、
- 義興・義治は東国へ残り、尊氏と戦う。
- 義宗・桃井直常・上杉憲顕・吉良満貞・石堂入道は、東山道・東海道・北陸道勢を率いて二手となり、上洛する。
- 八幡を救援し、朝敵を1000里の外へ退ける。
ことになった。
各地の官軍が動き始める
『太平記』本文では、新田義宗は正平7年(1352年)4月27日に越後国津張を出発し、7000騎余りで越中放生津へ到着した。
桃井直常が3000騎余りで合流した。
軍勢は1万騎余りとなった。なお『太平記』本文は続けて「9月11日、前陣はすでに能登国へ発向した」と記すが、直前の4月27日や八幡救援の文脈とは時系列が整合しない。
吉良満貞・石堂入道も正平7年(1352年)4月27日に駿河を出発し、途中の軍勢を集め、6000騎余りとなった。
『太平記』本文では、正平7年(1352年)5月11日、先陣は美濃の垂井・赤坂へ着き、八幡へ合図する遠いかがり火をたいた。
信濃の諏訪下社勢も、神氏・滋野氏・上杉氏・仁科氏・禰津氏らを率いて同日に出発した。
伊予の土居・得能氏も兵船700艘余りで海上から進んだ。
東山道・北陸道・四国・九州の官軍は、それぞれ国を出発していた。
あと数日待っていれば
街道の距離によって、3日、5日の遅れはあったとしても、
「救援軍が近づいている」
と伝わりさえすれば、八幡を包囲する足利軍は退散したかもしれなかった。
しかし天皇は、あと4、5日を待たず、八幡を脱出した。
各国の官軍は力を失い、それぞれの国へ引き返した。
これも天運の時がまだ来ず、神意によって起きたこととはいえる。
それにしても、南朝方の運が何かを行うたびに行き違う様子は、計り知れないものだった。