太平記 21巻


190. 足利政権下の世相――公家が武家へ従う時代


宮方が一時は再起したように見えた

暦応元年の末、各地の勢力が後醍醐天皇を助けるため、ほぼ同時に大軍を起こした。

そのため世間では、

「今こそ天皇の運が開いた」

と思われた。


顕家・義貞が相次いで戦死する

しかし北畠顕家と新田義貞は、ともに流れ矢を受けて命を失った。

さらに奥州へ下ろうとした宮方の軍勢も、海上で暴風に遭い、行方が分からなくなったと伝わった。

この知らせを聞くと、世間の人々の考えも、再び足利方へ傾いたらしい。


結城氏も足利方へ降伏する

結城上野入道道忠の子・大蔵少輔も、父が残した、

「朝敵を討ち続けよ」

という遺言に背き、足利方へ降伏した。


芳賀禅可が主家を押さえる

芳賀兵衛入道禅可も、主君である宇都宮入道の子・加賀寿丸を自分の支配下へ置き、足利将軍方へ味方した。

主従の礼儀を乱し、自分の威勢を思うままに振るった。


新田一族や皇子たちは身動きできない

この時も、新田一族の生き残りは各地の城へ立てこもっていた。

皇族の方々も、それぞれの国で再起の時を待っていた。

しかしその姿は、檻の中へ閉じ込められた猛虎や、翼を切られた追い詰められた鳥のようだった。


変化の時を待つしかない

彼らは怒りに満ちた目を持ちながらも、百歩先まで威勢を振るうことはできなかった。

悲しみながら、はるか大空の雲を見上げ、いつか時勢が変わるのを待つばかりだった。


足利一門は危機の中でも奢っていた

天下が最も危うかった時でさえ、世間の非難を気にせず、贅沢を極め、欲望を思うままにした有力武家がいた。

足利一族や、高氏・上杉氏の一門である。


才能もない者が高い地位へ上る

彼らの中には、特別な能力も技芸もないのに、戦乱の恩賞によって順序を飛び越え、高い地位へ上った者がいた。

前例にも法にも合わないまま、警察・裁判・政治判断をつかさどる役職を得た。


初めは朝廷を尊重する姿を見せた

足利方も初めのころは、

「朝敵と呼ばれてはならない」

と恐れていた。

そのため、何事も天皇の御意向を仰いで決めるような姿を見せていた。


武家だけで天下を治められると考える

しかし今では、

「天下はすべて武力へ従った。

公家が存在しても、何の役に立つのか」

と考えるようになった。


公家・皇室の所領まで武士が奪う

公卿や殿上人、役所へ勤務する者たちの所領はいうまでもなかった。

皇族や后妃、天皇・上皇の御領まで、武家の者たちが勝手に占領した。


宮中の年中行事が絶える

そのため、

  • 曲水の宴
  • 重陽の節句
  • 白馬節会
  • 踏歌節会

など、宮中の年中行事もほとんど行われなくなった。

わずかに形式だけを残す程度だった。


御所や上皇の御所も荒れ果てる

天皇の御所も、上皇の御所も、寂しく荒れ果てた。

宮中へ参上し、礼拝して仕える者もいなくなった。


朝廷政治も武家の判断に従う

まして朝廷の政治そのものが、武家の計らいによって動かされていた。

摂政・関白などの最高位の公家でさえ、幕府の奉行や頭人の前へ出ると、機嫌を取った。


学者の名門も武家へ贈り物をする

学問を受け継ぐ名家の人々も、執事や侍所の役人へ贈り物をし、取り入ろうとした。


武士は公卿を見ても嘲笑する

武家の者たちは、納言や参議などの公卿が道を通る姿を見ても敬わなかった。

公家の話し方をまねし、指を差して笑い、軽蔑した。


公家も坂東武者の話し方をまねる

公家たちは、武士から笑われないようにしようとした。

いつの間にか、これまで使ったこともない東国訛りで話すようになった。


折烏帽子をかぶり武士の姿をまねる

着慣れない折烏帽子をかぶり、額を見せ、武家の人々へ紛れようとした。


公家にも武家にも見えない

しかし立ち居振る舞いには、やはり公家らしい優雅さが残っていた。

また普段の冠によってついた額の跡も、武士とは違う位置へ下がっていた。

そのため公家らしくもなく、武士らしくもなかった。


都と地方の両方で居場所を失う

彼らの姿は、都にも地方にもなじめず、歩むべき場所を失った人のようだった。

公家社会は権威を失いながら、武家社会へ完全に入ることもできなかったのである。


191. 佐々木道誉の流刑――妙法院焼き討ちと山門の強訴


道誉一族の華美な鷹狩り

このころ特に時勢を得て、華やかな栄華で人々を驚かせていたのが、佐々木佐渡判官入道道誉だった。

道誉の一族や若い家臣たちは、いつものように派手な趣向を凝らし、京都の西郊や東山で小鷹狩りを楽しんだ。


妙法院の紅葉を折らせる

一行が狩りから帰り、妙法院の前を通った。

その時、後方にいた下人たちへ、南庭にある紅葉の枝を折らせた。


門主も紅葉を眺めていた

ちょうど妙法院の門主は御簾の内から、暮れようとする秋の景色を眺めていた。

そして唐詩の、

霜葉は二月の花よりも紅なり。

という句を口ずさみ、紅葉の美しさを楽しんでいた。


下人が美しい枝を折る

特に色鮮やかな紅葉の下枝を、道理を知らない下人たちが乱暴に引き折った。

門主はそれを見て命じた。

「誰かいるか。

あの者たちを止めなさい」


坊官が制止する

一人の坊官が庭へ出た。

「何者だ。

どうして御所の中の紅葉を、そのように勝手に折るのか」

と注意した。


下人たちは御所を嘲笑する

しかし下人たちは、まったく聞き入れなかった。

「御所とは何のことだ。

大げさで、聞いていて恥ずかしくなる言葉だ」

などと嘲笑した。

さらに大きな枝を引き折った。


山法師が下人を打ち据える

その時、妙法院には門跡へ仕える比叡山の僧兵が大勢宿直していた。

彼らは、

「何と悪い者たちの乱暴だ」

と怒った。

下人の持つ紅葉の枝を奪い取り、その枝で何度も打ち据え、門外へ追い出した。


道誉が激怒する

このことを聞いた道誉は怒った。

「相手がどのような門主であろうと、今の時勢で道誉の家臣へ、このような仕打ちをする者がいるとは思わなかった」


三百余騎で妙法院を襲う

道誉は自ら三百騎余りを率い、妙法院の御所へ押し寄せた。

そして、ただちに火を放った。


強風で建仁寺まで延焼する

ちょうど風が激しく吹いていた。

火と煙は四方へ広がった。

そのため建仁寺の、

  • 輪蔵
  • 開山堂
  • 塔頭の瑞光庵

なども、同時に焼け上がった。


門主は裸足で逃げる

門主は修法の最中で、持仏堂にいた。

異変へすぐ気づき、裏の小門から裸足で逃げ、光堂の中へ入った。


若宮を道誉の子が打つ

門主の弟子である若宮は、いつもの御所にいた。

板敷の下へ逃げ込んだが、道誉の子・源三判官が走り寄り、若宮を打ち据えた。


僧侶や侍法師が逃げ散る

このほか高僧・坊官・稚児・侍法師らは、それぞれの方向へ逃げ散った。


京都中が騒然となる

夜中の出来事だった。

鬨の声は京都から白河まで響き、火は四方を覆った。

京都にいた武士たちは、

「何が起きたのか」

と慌て、上下へ走り回った。


前代未聞の悪行と批判される

事情を知った者は、誰もが言った。

「ああ、何ということだ。

前代未聞の悪行である。

比叡山の強訴が、必ず起こるだろう」


比叡山は道誉父子の死罪を求める

比叡山の僧たちは、この事件を聞いて怒った。

「昔から寺院で不意の喧嘩が起きた例は多い。

しかし門主や灌頂を受けた高僧の御所を焼き、高僧や坊官を捕らえ、辱めた例は聞いたことがない」


朝廷と幕府へ訴える

山門は、

「道誉と、その子・秀綱を引き渡し、死罪にせよ」

と朝廷へ奏上した。

幕府へも正式に訴えた。


妙法院門主は皇族だった

妙法院の門主は、上皇の正統な皇子だった。

朝廷も道誉の行為を無念に思い、

「死罪か流刑へ処したい」

と考えた。


朝廷だけでは処罰できない

しかし当時は、朝廷だけの判断で武士を処罰できる時代ではなかった。

やむを得ず、幕府へ処分を求めた。


尊氏・直義は道誉をかばう

ところが尊氏も直義も、道誉を徹底してかばった。

山門は正当な訴えを続けても疲れるばかりだった。

訴状はむなしく積み重なった。


道誉はますます法を軽んじる

道誉は寺院の規則も国家の法も軽んじ、ますます勝手な贅沢と振る舞いを続けた。


神輿を京都へ下ろす強訴を決める

比叡山の強硬な若い僧たちは、

  • 大宮
  • 八王子

の神輿を根本中堂へ上げ、その後京都の御所へ入れようと相談した。


山内の仏事と祭礼を停止する

比叡山は各院・各堂で行われていた講義を中止した。

天皇や上皇のための祈願も停止した。

末寺・末社の門を閉じ、祭礼も取りやめた。


天下の大問題となる

比叡山がどちらへ動くかは、天下の安否に関わる重大事となった。


幕府も流刑を提案する

幕府も、さすがに山門の強訴を無視できなかった。

そこで朝廷へ、

「道誉は死罪より一段軽い遠流へ処してはどうか」

と申し入れた。


院宣によって道誉を流罪とする

ただちに院宣が出され、山門をなだめることになった。


山門も時勢を見て受け入れる

以前であれば、死罪でなければ強訴は収まらなかっただろう。

しかし長老たちは言った。

「物事は時勢による。

五刑の一つである流刑を行い、山門の訴えを正しいと認めたのだから、神の訴えも面目を保ったことになる」


神輿を元へ戻す

4月12日、三社の神輿は元の社へ戻された。


道誉父子を上総へ流す

同月25日、道誉と秀綱の流刑地が決定した。

二人は上総国山辺郡へ流されることとなった。


三百余騎が流人を送る

道誉が近江国の国分寺まで進む間、若い家臣三百騎余りが前後へ従った。

表向きは、流人を見送るためだった。


流刑の行列とは思えない派手さ

家臣たちは皆、猿の皮を矢を入れる道具へ掛け、猿皮の腰当てをつけていた。

一人ひとりに鶯籠を持たせていた。


道中で酒宴と遊女を楽しむ

道々へ酒や料理を用意し、宿ごとに遊女を集めて楽しんだ。

普通の流人の行列とはまったく異なり、華やかで立派に見えた。


朝廷と山門を嘲る演出

この派手な行列も、

  • 朝廷の処分を軽んじる
  • 山門の怒りを嘲笑する

ために、わざと行ったものだった。


山門へ逆らった者は十年以内に滅びる

昔から、

「比叡山との訴訟に敗れた者は、十年を経ないうちに身を滅ぼす」

といわれていた。


過去の例

治承年間には、

  • 新大納言成親
  • 西光
  • 西景

がいた。

康和年間には後二条関白がいた。

このほかにも、例は数えきれなかった。


道誉一族の将来を不安視する

知恵ある人々は、

「道誉一族も、今後どうなるだろうか」

と注意して見ていた。


道誉の子・孫が相次いで死ぬ

果たして文和3年6月13日、持明院統の天皇が山名時氏に襲われ、近江へ避難した時、道誉の長男・源三判官秀綱は堅田で比叡山の僧兵に討たれた。


弟・子孫も戦死する

秀綱の弟・四郎左衛門は、大和国の内郡で野武士に殺された。

道誉の嫡孫・近江判官秀詮と、その弟・次郎左衛門は、摂津国神崎の戦いで南朝方に討たれた。


山王の神罰と考えられる

武士の家に生まれ、戦場で死ぬことは本望だともいえる。

それでも人々は、

「これらは皆、薬師如来や日吉山王の神仏から罰を受けたためではないか」

と考えた。

話を聞いた者は舌を鳴らし、恐れない者はいなかった。


192. 法勝寺の塔炎上――仏法・王法衰退の前兆


岡崎の民家から出火する

康永元年3月20日(1342年)、岡崎の民家から突然火が出た。

しかし火は間もなく消し止められた。


小さな火の粉が十余町を飛ぶ

ところが、ごく小さな燃えさしが一つ、風へ乗った。

それは十町余りもの距離を飛び、法勝寺の五重塔の最上部へ落ちた。


灯籠の火のように見える

しばらくは、灯籠の火のように小さく見えた。

消えることもなく、大きく燃え上がることもなかった。


僧たちは手の施しようがない

寺の僧たちは慌てふためいた。

しかし塔の上へ登る階段がなく、火を消す方法もなかった。

空を見上げ、手を打ち合わせながら立っているだけだった。


檜皮葺きへ燃え移る

やがて燃えさしは、乾燥した檜皮へ燃え移った。

黒煙が天を焦がし、塔は激しく燃え上がった。


猛火が空へ巻き上がる

猛火が雲を巻きながら空へ上る様子は、天上世界の最も高いところまで達するようだった。


九輪が落ちる音

塔の頂上にある九輪が、地響きを立てて落ちた。

その音は大地の最も深い底まで聞こえるのではないかと思われるほど、すさまじかった。


強風で周囲の堂舎へ延焼する

激しい風が吹き続け、火の粉と煙が四方を覆った。

そのため、

  • 金堂
  • 講堂
  • 阿弥陀堂
  • 鐘楼
  • 経蔵
  • 総社宮
  • 八脚門である南大門
  • 八十六間の回廊

が、短い時間にすべて焼けた。

地面は、たちまち灰で満ちた。


鬼や天狗が火をつける姿

火事の最中、外から寺を見ると、煙の上に不思議な姿が見えた。

ある者は鬼の姿で、諸堂へ火を吹きかけているようだった。


天狗が松明を振る

別の者は天狗の姿をしていた。

松明を振り上げ、塔の各階へ火をつけているように見えた。


金堂の棟木が落ちると笑う

鬼や天狗たちは、金堂の棟木が落ちるのを見ると、一斉に手を打った。

大声で笑い、

  • 愛宕山
  • 大嶽
  • 金峯山

の方角へ去っていったように見えた。


花頂山・醍醐寺の塔も同時に燃える

しばらくすると、

  • 花頂山の五重塔
  • 醍醐寺の七重塔

も同時に焼けた。

『太平記』は、これを不思議な出来事として記している。


上皇が二条河原まで出る

上皇は二条河原まで出た。

仏法が滅びることを象徴するような煙を見て、胸を痛めた。


尊氏も西門前で火事を見る

足利尊氏は法勝寺西門の前で馬を止めた。

大火の災いを見ながら、世の中の将来を心配した。


法勝寺は国家安泰を祈る寺

法勝寺は、天下の平和と代々の天皇の安全を祈るため、白河上皇が建立した霊地だった。


堂舎は美の限りを尽くす

寺の建物は、善美の限りを尽くして造られていた。

本尊の装飾には金をちりばめ、玉を磨いて用いた。


八角九重の大塔

中でも八角九重の塔は、横幅も高さも八十四丈あったという。

各層には金剛界九会曼荼羅が安置されていた。


三国無双の塔

その美しさと高さは、日本・中国・インドの三国にも比べるものがない塔だった。


建立時には各地の水面へ影が映った

この塔が初めて建てられた時、

  • インドの無熱池
  • 中国の昆明池
  • 日本の難波浦

に、その姿がはっきり映ったという。

それほど不思議な霊験を持つ塔だった。


寺一つの焼失ではない

そのような霊徳を持つ祈願所が、わずかな時間で焼け落ちた。

人々は、

「これは法勝寺一寺が衰えるだけの出来事ではない」

と考えた。


仏法と王法衰退の前触れ

「これから天下は、さらに不安定になるだろう。

仏法も王法も、存在しながら存在しないのと同じ状態となる。

朝廷も武家も、ともに衰えるに違いない」


人々は天下の将来を嘆く

この大火は、これから起きる衰退を、あらかじめ示したものだと考えられた。

嘆かない者はいなかった。


193. 後醍醐天皇崩御――北を望む魂と南朝の継承


後醍醐天皇が病に倒れる

南朝の年号で延元3年8月9日(1338年)から、吉野の後醍醐天皇は病気となった。

病状は次第に重くなった。


神仏への祈りも薬も効かない

病を治す薬師如来の誓願へ祈っても、効果はなかった。

古代の名医である耆婆や扁鵲のような医術による薬を用いても、効き目はなかった。


天皇の体は日ごとに衰える

天皇の体は日ごとにやせ衰えた。

崩御の時が遠くないことは、誰の目にも明らかだった。


大塔忠雲僧正が枕元へ進む

大塔忠雲僧正は、天皇の枕元へ近づいた。

涙を抑えながら申し上げた。


再び皇運が開くと信じていた

「伊勢神宮のある神路山に、再び花が咲く春を待ち、石清水八幡宮の流れが最後には澄む時が来るならば、神仏や三宝も、天皇をお見捨てにはならないと思っておりました」


脈が変わったと医師が告げる

「しかし典薬頭が驚いて、

『天皇の脈は、すでに通常とは変わっています』

と申し上げました」


皇位への執着を捨てるよう勧める

「今は十善の徳によって得られた天皇の位を離れ、仏の悟りの道へ向かうことだけをお考えください」


最期の一念が来世を決める

「経典には、最期の一念によって次に生まれる世界が決まると説かれております。

天皇が亡くなられた後のことについて、御心へ掛かることはすべてお言い残しください。

その後は、来世の善い場所へ生まれることだけを、御心へお掛けください」


後醍醐天皇が苦しい息の中で答える

後醍醐天皇は、苦しそうに息を吐きながら答えた。


妻子・財宝・王位は死後へ持っていけない

「妻子も財宝も王位も、命が終わる時には自分へ従ってこない。

これは釈迦如来の真実の言葉であり、日ごろから朕も心に留めていた」


殉死や副葬を望まない

「秦の穆公が三人の優れた臣下を殉死させたことも、秦の始皇帝が宝玉を墓へ持ち込んだことも、朕の望むところではない」


唯一残る執念

「ただ、生まれ変わるたびに執念となって残るであろうことが一つある。

朝敵をすべて滅ぼし、天下を平和にしたいという願いだけである」


第七皇子を次の天皇とする

「朕が亡くなった後は、第七皇子を天皇の位へつけなさい」


賢臣・忠臣と相談して政治を行う

「賢い者、忠義ある者と相談し、天下のことを進めなさい」


新田義貞・義助の忠功を子孫へ報いる

「新田義貞・義助兄弟の忠功を賞しなさい。

その子孫が不義を行わない限り、天皇の手足となる重臣として、天下を鎮めるために用いなさい」


遺体は南山、魂は北の京都へ

「そのように考えているため、朕の遺体が吉野の南山の苔の下へ埋められたとしても、魂は常に北にある京都の空を望むだろう」


君臣が使命へ背くことを戒める

「もし次の天皇がこの遺命へ背き、正義を軽んじるならば、その君は正統を継ぐ天皇ではない。

臣下が忠義を捨てるならば、その者も忠烈の臣ではない」

後醍醐天皇は、以上のことを詳しく遺言として残した。


法華経と剣を手にする

後醍醐天皇は、左手に法華経第五巻を持った。

右手は御剣へ添えた。


8月16日、後醍醐天皇崩御

8月16日の午前2時ごろ、後醍醐天皇は、ついに崩御した。


黄泉の旅へ従う臣はいない

何と悲しいことだろう。

北極星が空の高い位置にあり、多くの星が百官のように周囲へ並んでいても、黄泉への旅へ従う臣下は一人もいない。


無常の敵を防げる兵はいない

吉野は山深い辺境だった。

大勢の兵が雲のように集まっていても、無常という敵が訪れるのを防ぐ兵は一人もいなかった。


舟が覆り、灯が消えるような悲しみ

その悲しみは、川の中ほどで舟が覆り、一つの壺を頼りとして波へ漂うようだった。

また暗い夜に灯が消え、夜明け前の雨の中へ取り残されるようだった。


遺言に従って葬儀を行う

葬儀については、あらかじめ天皇自身の遺言があった。

そのため亡くなった時の御姿を大きく改めなかった。

棺を厚く造り、御体を正しい姿勢へ安置した。


吉野山の北東へ葬る

吉野山の麓、蔵王堂から北東にある林の奥へ、高い円墳を築いた。

そして御体を北向きにして葬った。

京都の方角を望む姿だった。


空山に鳥の声が響く

静まり返った山の中で、鳥が鳴き、日はすでに暮れた。


墓の草へ涙を注ぐ

数尺の土を積んだ墓へ草が生えた。

経を一巻読み終え、涙が尽きても、悲しみは尽きなかった。


旧臣と后妃が天皇を慕う

旧臣や后妃は泣きながら、天皇が昇った雲を見上げた。

空の月へ恨みを重ね、墓地を吹く風の中で朝夕を過ごし、夢の中の花へ亡き天皇の姿を求めた。

まことに悲しい出来事だった。


末法の乱世

天下が長く乱れへ向かうことは、末法の世の風俗であるとして、ひとまず置く。


延喜・天暦以来の優れた天皇と評価する

『太平記』は、延喜・天暦の時代以来、後醍醐天皇ほど神聖で武勇ある天皇はいなかったと評している。


人々は皇運の再興を信じていた

人々は、

「いつか必ず天皇の徳が開き、忠功を立てた者の望みがかなう」

と頼みにしていた。


崩御によって希望が絶たれる

しかし後醍醐天皇の崩御を目の前にすると、人々は感じた。

「伊勢の御裳濯川の流れも、これで末まで絶えるのではないか。

筑波山の陰へ身を寄せる者もなくなり、天下はすべて魔物の手中へ落ちる世になるのではないか」


公卿たちは隠遁を考える

長年、天皇へ仕えてきた公卿や殿上人たちは、世の中をむなしく感じた。


海外へ去る者、山へ隠れる者

ある者は東海の波を渡り、斉を救った後に名誉を捨てて去った魯仲連の生き方にならおうとした。

ある者は山中の歌を歌い、隠者のように生きようとした。

人々は、それぞれ身を隠す場所を探そうとした。


吉水法印宗信が朝廷の動揺を知る

吉野執行の吉水法印宗信は、この動きをひそかに聞いた。

急いで参内し、申し上げた。


後醍醐天皇の遺言を守るべきである

「後醍醐天皇が崩御される際、

『第七皇子を皇位へつけ、朝敵追討の願いを果たせ』

と、諸卿へ直接お言い残しになりました」


すぐに退散するのは理解できない

「崩御から、まだ日もたっていません。

それなのに皆様が吉野を離れ、隠遁しようとしていると聞きました。

私には理解できません」


文王・武王の先例

「中国では周の文王が困難な時代の君主として基礎を築き、その子・武王が周王朝の事業を起こしました」


高祖の死後も漢は続いた

「漢の高祖が亡くなった後も、文帝・景帝が漢王朝を保ったではありませんか」


一人の天皇が亡くなっても忠臣は残る

「今、後醍醐天皇が早く亡くなられたとしても、長く苦労してきた者たちが功績を捨て、敵へ降伏しようと考えるはずはありません」


各地に残る新田一族

「まして天下の危機を見て、ますます命を軽くしようとする官軍は数多く残っています」


義興・義宗

「上野国には、新田義貞の次男・新田義興がいます。

武蔵国には新田家の嫡流である左少将義宗がいます」


脇屋義助・義治

「越前国には脇屋義助と、その子・義治がいます」


新田一族四百余人

このほか、

  • 江田氏
  • 大館氏
  • 里見氏
  • 鳥山氏
  • 田中氏
  • 羽川氏
  • 山名氏
  • 桃井氏
  • 額田氏
  • 一井氏
  • 金谷氏
  • 堤氏
  • 青龍寺氏
  • 青襲氏
  • 小守沢氏

など、新田一族合わせて四百人余りが、諸国でひそかに計画を立て、各地の城へ籠もっていた。

彼らは、わずかな時間にも忠義の戦いを考えないことはなかった。


九州の宮方

「新田一族以外にも、九州には、

  • 菊池氏
  • 松浦鬼八郎
  • 草野氏
  • 山鹿氏
  • 土肥氏
  • 赤星氏

がいます」


四国・淡路・中国地方

「四国には、

  • 土居氏
  • 得能氏
  • 江田氏
  • 羽床氏

がいます。

淡路には阿間氏・志知氏、安芸には有井氏がいます」


石見・出雲・伯耆・備後

「石見には三角入道・合四郎がいます。

出雲・伯耆には名和長年の一族がいます。

備後には桜山氏がいます」


備前・播磨

「備前には、

  • 今木氏
  • 大富氏
  • 和田氏
  • 児島氏

がいます。

播磨には吉河氏がいます」


河内・大和・紀伊

「河内には、

  • 和田氏
  • 楠木氏
  • 橋本氏
  • 福塚氏

がいます。

大和には三輪西阿・真木宝珠丸がいます。

紀伊には、

  • 湯浅氏
  • 山本氏
  • 井遠三郎
  • 賀藤太郎

がいます」


遠江・美濃・尾張・越前

「遠江には井伊介、美濃には根尾入道、尾張には熱田大宮司がいます。

越前には、

  • 小国氏
  • 池氏
  • 風間氏
  • 禰津越中守
  • 大田信濃守

がいます」


比叡山にも味方が残る

「比叡山には南岸の円宗院がいます。

このほかにも、数えきれないほどの宮方が残っています」


忠義は金石のように固い

「皆、忠義の心は金や石のように固く、一度も変わっていない者たちです」


宗信が吉野を守ると誓う

「私自身は取るに足りない者です。

それでも宗信がここにいる限り、吉野山で何を恐れる必要があるでしょうか」


第七皇子を即位させるよう求める

「まず先帝の遺言に従い、正統を継ぐ皇子を天皇の位へおつけください。

そして諸国へ綸旨をお下しください」


公卿たちは考え直す

公卿たちは宗信の言葉を聞き、

「まことにそのとおりである」

と思った。


楠木・和田軍が吉野へ到着する

さらに、

  • 楠木帯刀
  • 和田和泉守

らが二千騎余りを率いて、吉野へ駆けつけた。

彼らは皇居を守り、ほかに心を移す様子をまったく見せなかった。


退散を思い直す

これを見た人々は、吉野を離れようという考えを改めた。

山中の混乱も収まり、南朝は後醍醐天皇の遺志を受け継いで存続することとなった。


194. 南朝の新帝即位――山中で行われた簡略な受禅


伊勢神宮へ奉幣使を送る

同年10月3日、伊勢神宮へ奉幣使が送られた。

そして後醍醐天皇の第七皇子が、南朝の新しい天皇として即位した。


本来は多くの儀式が必要である

本来、新しい天皇が皇位を継ぐ時には、さまざまな大礼を行う必要がある。

まず先帝から新帝へ三種の神器が渡され、即位の儀式が行われる。


翌年に国郡を占う

その翌年3月には、卜部氏の神祇官や陰陽博士が宮中の軒廊へ集まり、大嘗祭に用いる稲を育てる国と郡を占いによって決める。

その後、行事所が初めて設置され、朝廷の多くの役人が、それぞれ順番に神事を執り行う。


河原で御禊を行う

同じ年の10月には、京都東方の河原で御禊が行われる。

天皇は川の水によって身を清め、大嘗祭へ備える。


斎場を造り、稲を収穫する

神泉苑の北側には、祭祀のための斎場が造られる。

先帝あるいは天皇の使者が、祭りに用いる稲を収穫する抜穂の儀式を見る。


大嘗宮を建てる

さらに竜尾壇に建物を設け、壇上で天皇が身を清める。

回立殿や大嘗宮も建てられ、新帝がそこへ行幸する。


五節の舞

その日、殿上の楽人たちは古代の正しい音楽を奏でる。

音楽が一度響くと、庭の舞人は特別な衣の肩を脱ぎ、五度にわたって袖を翻す。

これを五節の舞の宴という。


大嘗祭の神饌

その後、新帝は大嘗宮へ入り、神々へ食物を供える祭りを行う。

悠紀国・主基国の人々は、それぞれ土地に伝わる歌を唱え、天皇の徳をたたえる。


少女たちが稲をつく歌を歌う

童女や八乙女は、稲をつく歌を歌いながら、神前へ食物を供える。


三年間にわたる数々の大礼

これらは代々の皇太子が天皇の位を継ぐ時に行う決まりである。

即位後の三年間には、何度も大きな儀式があり、本来ならば一つも欠いてはならない。


吉野の山中では準備できない

しかし南朝の皇居は、京都の外にある吉野の山中だった。

宮殿も人員も物資も十分ではなく、すべての儀式を整えることはできなかった。


三種の神器を拝して即位する

そのため新帝の即位は、形ばかりのものとなった。

新帝は三種の神器を拝し、簡略な儀式によって天皇の位についたのである。


195. 後醍醐天皇の遺命と、脇屋義助の黒丸城攻略


後醍醐天皇へ追号を贈る

同年11月5日、南朝の公卿たちは相談し、亡くなった天皇へ尊号を贈ることにした。


「後醍醐天皇」と定める

先帝は在位中、延喜年間の醍醐天皇の政治を手本として、教化と政治を行おうとした。

そのため、その名にちなむのが最もふさわしいとして、後醍醐天皇と追号した。


新帝はまだ幼い

新帝は、まだ幼い天皇だった。

また天皇が幼少であり、先帝が亡くなった後には、最高位の臣下が政治全体を統括するという考えもあった。


北畠親房が政治を主導する

そのため国政のすべては、北畠大納言親房の判断によって進められた。

  • 洞院実世
  • 四条隆資

の二人が、特に重要な政務を天皇へ取り次いだ。


脇屋義助へ綸旨を送る

同年12月、北陸にいる脇屋義助のもとへ綸旨が送られた。


義貞と同じ権限を与える

綸旨には、およそ次のようなことが記されていた。

「先帝が義助へ残された遺言は、ほかの者に対するものとは異なっている。

亡き新田義貞と同じように、官軍への恩賞などについて義助が判断し、朝廷へ報告するように」


各地の皇子や武将にも忠戦を命じる

このほか、

  • 九州にいる西征将軍宮
  • 遠江国井伊城にいる妙法院宮
  • 奥州の新国司である北畠顕信

のもとへも綸旨が送られた。

先帝の遺言に従い、特に忠義を尽くして戦うよう命じられた。


義助は勢力を保っていた

新田義貞が討たれた後、脇屋義助の軍勢は以前より弱くなった。

それでも各地の城へ軍勢を置き、足利方に完全に包囲されたわけではなかった。


黒丸城攻略を決意する

義助は考えた。

「いつまで何もせずにいられるだろうか。

各城の兵を一つに集め、黒丸城へ立てこもる斯波高経を攻め落としたい」


先帝崩御の知らせに打ちのめされる

義助が諸将と相談していた時、後醍醐天皇崩御の知らせが届いた。

義助は、暗夜の中で灯火を失ったように、呆然となった。


遺命によって忠義を新たにする

それでも義助には、ほかの者とは異なるほど重い先帝の遺命が与えられていた。

そのありがたさが心へ深く刻まれ、忠義の思いは、かえって強くなった。


南朝の人々を励ますために勝利を求める

「何としても一度の戦いで勝利し、吉野へ仕える公卿や官軍の士気を支えたい」

義助は、そのように願った。


四十九日が終わるのを待つ

しかし後醍醐天皇の喪中に、すぐ大戦を始めることははばかられた。

義助は四十九日の中陰が終わるのを、待ち遠しく思いながら過ごした。


越前では戦いが続いていた

この二、三年、越前国内では三十か所余りの城が敵味方へ分かれ、戦いのやむ日はなかった。


湊城は二十三人で守られた

中でも湊城は、北陸道七か国の足利軍が何度攻めても落とせなかった城だった。

守っていたのは、義助の若い家臣である畑六郎左衛門時能だった。

時能は、わずか二十三人で平地の城へ立てこもっていた。


南朝新帝即位の天運

南朝の新帝が即位し、天運が宮方へ戻ろうとする時だったのだろう。

義助は各城の軍勢へ命令を出した。

「城を出て一か所へ集まり、越前国内の朝敵を平定した後、他国へ進め」


畑時能が湊城を出る

7月3日、畑時能は三百騎余りで湊城を出た。


十二城を攻め落とす

畑軍は、

  • 金津
  • 長崎
  • 河合
  • 河口

などにあった足利方の城十二か所を攻め落とした。


八百人余りを斬る

討ち取った首は八百余りに及んだ。

原文によれば、女や子ども、三歳の幼児まで一人も残さず殺したという。

『太平記』は、宮方の勝利であっても、その残酷さを隠さず記している。


由良光氏も出撃する

7月5日、由良越前守光氏は五百騎余りを率い、西方寺城から出撃した。


六城を二日で落とす

由良軍は、

  • 和田
  • 江守
  • 波羅密
  • 深町
  • 安居

の各荘に築かれた、足利方の六城を二日間で攻め落とした。

その城へ官軍の守備隊を入れ替え、守らせた。


堀口氏政の進撃

同じ7月5日、堀口兵部大輔氏政も、五百騎余りで居山城から出撃した。


十一城を五日で攻略する

堀口軍は、

  • 香下
  • 鶴沢
  • 穴間
  • 河北

などの十一城を、五日間で攻め落とした。


千人余りの降伏兵を連れて合流する

堀口氏政は降伏した兵千人余りを率い、河合荘で義助軍へ合流した。


義助本隊も十七城を落とす

総大将の脇屋義助は、

  • 禰津氏
  • 風間氏
  • 瓜生氏
  • 河島氏
  • 宇都宮氏
  • 江戸氏
  • 波多野氏

ら三千騎余りを率いた。

越前国府から三手へ分かれて進んだ。


三日三夜の攻城戦

義助軍は、

  • 織田
  • 丹生
  • 荒神峰
  • 安古渡

などにあった十七城を、三日三夜のうちに攻め落とした。

城将七人を捕らえ、兵五百人余りを処刑した。

その後、河合荘へ進んだ。


六千余騎で黒丸城を包囲する

7月16日、四方から進んだ官軍が一か所へ集まった。

その軍勢は六千騎余りとなった。

官軍は黒丸城を三方向から挟み、まだ本格的な戦闘を始めずに包囲した。


河合種経が降伏する

河合孫五郎種経は宮方へ降伏し、畑時能の配下へ入った。


夜通し城の周囲を巡る

畑時能は河合種経の兵も率い、夜中に足羽の北西側にある小山へ上った。

一晩中、黒丸城の周囲を巡り、

  • 鬨の声を上げる
  • 遠矢を射かける

などして、城兵へ圧力をかけた。

後続の大軍が到着すれば、自分が真っ先に城へ攻め入るという姿勢を見せ、夜明けを待った。


上木家光が高経へ退却を進言する

黒丸城には、上木平九郎家光がいた。

もとは新田義貞の兵だったが、近ごろ足利方へ転じていた人物である。

家光は大将の斯波高経へ申し上げた。


前回の勝利へ頼るのは危険

「この城は以前、新田義貞殿から攻められました。

その時は不思議な御運によって勝利なさいました。

しかし、その経験だけを頼りとして、

『今回も問題はない』

とお考えになるのは、浅い御判断です」


以前の新田軍は土地を知らなかった

「以前攻めてきた敵は、東国・西国から来た兵ばかりでした。

土地の様子を知りませんでした。

そのため深田へ馬を乗り入れ、堀や溝へ落ちました。

ついには新田義貞という名将自身も、流れ矢へ当たって亡くなりました」


今回の敵は城の地形を知っている

「今は、以前こちらへ味方していた者の多くが敵方へ移っています。

そのため寄せ手は、黒丸城の地形や守り方を詳しく知っています」


畑時能の怪力

「そのうえ畑六郎左衛門時能という、日本一の怪力を持つ勇士がいます。

時能は、この城を攻めて命を終える覚悟で来ていると聞きます」


今の足利軍に対抗できる者はいない

「現在の味方の中に、畑時能と互角に戦える者がいるでしょうか」


平城に小勢で籠もるべきではない

「援軍の来る見込みもない平城へ、名高い大将が小勢で立てこもり、命を失うことは、まことに残念です」


加賀へ退くよう勧める

「今夜のうちに加賀国へ退いてください。

京都から援軍が下ってきた時に、軍勢を集めて力を合わせ、改めて敵を討てばよいのです。

何の問題があるでしょうか」


諸将も退却へ賛成する

  • 細川出羽守
  • 鹿草兵庫助
  • 朝倉氏
  • 斎藤氏

らも、皆この意見へ賛成した。


高経は黒丸城を焼いて退く

斯波高経は五つの城へ火を放った。

その炎を松明代わりとして、夜のうちに城を脱出した。

加賀国にある富樫氏の城へ退いた。


義助が黒丸城を奪回する

こうして畑時能の計略によって、脇屋義助は黒丸城を落とした。

義助は、兄・新田義貞が討たれた恥を、越王勾践が会稽の恥をすすいだように晴らしたのである。


196. 塩冶高貞の讒死――高師直の横恋慕が招いた一族の滅亡


北陸の宮方再起に京都が動揺する

北陸で宮方が次々と蜂起し、斯波高経が黒丸城を失ったという知らせが京都へ届いた。

足利方は大いに慌てた。

討伐の援軍を北陸へ送ることが決まり、各方面の大将が選ばれた。


加賀方面の大将

高上野介師治は正面軍の大将となった。

加賀・能登・越中の軍勢を率い、加賀国を通って宮腰方面から越前へ向かうことになった。


美濃方面の大将

土岐頼遠は搦手の大将となった。

美濃・尾張の軍勢を率い、穴間・郡上を経て越前国大野郡へ向かうことになった。


敦賀方面の大将

佐々木氏頼は近江国の軍勢を率い、木ノ芽峠を越えて敦賀津から進むことになった。


海上軍の大将・塩冶高貞

塩冶判官高貞は、海上から進む軍の大将となった。

出雲・伯耆の軍勢を率い、兵船三百艘を用意することになった。


海陸から挟撃する作戦

三方面の陸軍が宮方へ近づいた時、塩冶軍は各地の港から上陸する。

そして敵の背後を襲い、陣と陣の連絡を断ち、戦況に応じて攻撃する。

そのように、合図は厳密に決められた。


高貞が出雲へ戻ろうとする

陸路三方面の大将は京都を出発し、それぞれの国で軍勢を集め始めた。

塩冶高貞も出雲国へ帰り、船や兵の準備を整えようとした。


出発直前に討伐される

ところが、その最中に思いがけない事件が起きた。

高貞は突然、高師直によって討伐されることとなった。


原因は師直の横恋慕

なぜ師直が高貞を憎んだのか。

世間では、

「高貞が長年連れ添っていた妻へ、高師直が恋心を抱いたため、何の罪もない高貞が討たれた」

と噂された。


師直が病気で出仕を休む

そのころ高師直は少し体調を崩し、しばらく幕府へ出仕せず、自邸にいた。


家臣たちが酒宴を開く

師直から厚い恩を受けていた家臣たちは、主人を慰めようとした。

毎日、酒や料理を用意した。

芸能に優れた者たちを招き、それぞれの技を披露させ、宴を盛り上げた。


琵琶法師が『平家物語』を語る

ある夜、月が高く昇り、辺りは静かだった。

荻の葉を渡る風が身へ染みる季節だった。

真都検校と覚一検校という二人の琵琶法師が、『平家物語』を語った。


源頼政の鵺退治

物語は、近衛天皇の時代の出来事だった。

紫宸殿の上へ鵺という怪鳥が現れ、毎夜、恐ろしい声で鳴いた。

源三位頼政が天皇の命令を受け、矢で鵺を射落とした。


天皇が頼政を厚く賞する

上皇はたいへん喜び、その場で頼政の肩へ紅の御衣を掛けた。

さらに言った。

「この功績には、官位や一国の所領を与えても、まだ足りない」


菖蒲前への恋を賞にする

「頼政は藤壺にいる菖蒲前という女房を恋い、苦しんでいると聞く。

今夜の恩賞には、その菖蒲前を与えよう」


しかし頼政は菖蒲前の顔を知らない

「ただし頼政は菖蒲前の名を聞いているだけで、まだ顔を見たことがない。

同じような女房を大勢並べ、選ぶのに迷えば、

『菖蒲も分からない恋をしていたのか』

と笑われるだろう」


十二人の美女を同じ姿にする

宮中の多くの女房の中から、花や月も嫉妬するほど美しい女房十二人が選ばれた。

全員を同じように装わせ、御簾の奥へ並べた。

誰が菖蒲前なのか、わずかな違いさえ分からなかった。


頼政へ菖蒲前を選ばせる

頼政は清涼殿の孫廂へ召された。

使者が伝えた。

「今夜の恩賞として、浅香の沼の菖蒲を与える。

その手で自ら引き、妻として連れ帰れ」


頼政は誰が菖蒲前か分からない

頼政が見ると、皆十六歳ほどの美しい女房だった。

顔立ちは絵師の筆でも描ききれず、金や翠で飾られた衣を着て、桃の花のような笑みを含んでいた。

頼政は心を迷わせ、誰を菖蒲前として選べばよいか分からなかった。


使者のからかい

使者は笑って言った。

「水が増えれば、浅香の沼でさえ見分けにくくなるのでしょう」


頼政が歌を詠む

頼政は歌を詠んだ。

五月雨に
沢辺の真菰
水越えて
いづれ菖蒲と
引きぞわづらふ

意味は、およそ次のようになる。

五月雨によって沢の水が増し、菰も水へ隠れてしまった。
どれを菖蒲として引けばよいのか、迷っております。

「菖蒲」と「菖蒲前」を掛けた歌である。


関白が菖蒲前を頼政へ与える

近衛関白は、歌へ深く感動した。

自ら立ち上がり、菖蒲前の袖を引いた。

「この女性こそ、お前の妻となる者である」

そう言って頼政へ与えた。


武勇と和歌の二つの功績

頼政は鵺を射て武士として名を上げた。

それだけではなく、一首の歌によって、長年恋い慕っていた菖蒲前まで妻として得た。

何とも名誉なことである。


師直も物語へ聞き入る

真都検校が声を高くすると、覚一検校が低い調子で受け、見事に語り終えた。

高師直も枕を押しのけ、耳を澄まして聞いた。

御簾の内外にいた者たちは、声を上げて感動した。


若者たちは所領の方がよいと言う

語りが終わった後、若い家臣や遁世者たちは言った。

「頼政が鵺退治の恩賞として美女を与えられたのは名誉ですが、所領や財宝をいただくことに比べれば、かなり劣るのではありませんか」


師直の豪語

師直は聞くなり言った。

「お前たちは、とんでもないことを言う。

私ならば菖蒲前ほどの美女を得られるなら、十か国ほどの国や二、三十か所の所領とでも交換する」


侍従という女房が話を聞く

その場には、かつて公家の高官へ仕え、華やかな宮中生活を見たことのある女房がいた。

時勢とともに落ちぶれ、頼るところもなくなり、師直の屋敷へしばしば出入りしていた。

名を侍従といった。


侍従が師直を笑う

侍従は垣根越しに師直の言葉を聞いた。

後ろの障子を開け、大笑いして言った。

「まあ、善悪の区別もないほどの御考えですこと」


菖蒲前はそれほどの美女ではなかったと推測する

「話から考えますと、昔の菖蒲前は、それほど美しい女性ではなかったのでしょう。

楊貴妃は一度笑えば、後宮の女性すべてが色を失ったといいます。

もし菖蒲前が本当に世に並ぶ者のない美女であれば、千人、万人の女房へ紛れたとしても、頼政が見つけられなかったはずがありません」


師直が十か国と交換してもよいなら

「それほどの女房にさえ、

『十か国と交換しても惜しくない』

とおっしゃるのならば、先帝の外戚である早田宮の御娘、弘徽殿の西の対の御方を御覧になったなら、日本・中国・インドの三国とでも交換なさるのでしょうか」


塩冶高貞の妻の美しさを語る

「その御方こそ、世に並ぶ者のない美しさを持っておられます」

侍従は、宮中の女性たちがさまざまな花へたとえられた時の話を始めた。


宮中の女性を花へたとえる

ある春の日、宮中の人々は、天皇や上皇に仕える美しい女性たちを花にたとえた。

ある人は遠山の花、ある人は雨に濡れる梨の花にたとえられた。


萩・山吹・女郎花・夕顔

別の女性は、

  • 月の移る荒れ野の萩
  • 波の色を映す井手の山吹
  • 嵯峨野の女郎花
  • 黄昏時の夕顔
  • 見る者の思いを誘う牡丹

など、さまざまな花へたとえられた。


どの花も完全ではない

しかし梅は香りが深いが、枝がしなやかではない。

桜は色が優れているが、香りがない。

柳は緑の糸のような枝へ露の玉を通すが、香りも花もない。


梅・桜・柳を合わせた美しさ

「梅の香りを桜の色へ移し、それを柳のしなやかな枝へ咲かせたならば、ようやくあの御方の姿へたとえられるでしょう。

一つの花だけでは、とてもたとえられません」


師直が女性の居所を尋ねる

侍従が冗談めかして言い、障子を閉めて奥へ入ろうとした。

師直は大笑いし、

「待ちなさい」

と袖をつかんだ。

「その女性は今、どこにいる。

年齢は幾つほどなのか」


今も昔以上に美しい

侍従は答えた。

「近ごろは地方武士の妻となったため、宮中にいた昔とは姿も変わり、年齢も盛りを過ぎたのではないかと思っていました」


琵琶を弾く姿

「しかし先日、寺社参詣の帰りに立ち寄り、姿を拝見しました。

昔の若木の花よりも、さらに色が深く、香りも増しておりました。

有明の月が明るく差し込む中、南向きの御簾を高く上げ、琵琶を弾いておられました」


髪・目・唇の美しさ

「こぼれかかる鬢の間から見える眉の美しさ。

芙蓉の花のような瞳。

赤い花のような唇。

どのような聖人であっても、心を迷わさずにはいられないでしょう」


塩冶高貞へ与えられた女性

「どのような巡り合わせでしょう。

女院や御息所になることも、天下の権力者の妻になることもなく、出雲の塩冶判官へ先帝から与えられました」


王昭君のような境遇

「高貴な御方が地方の粗末な住まいへ身を置かれる姿は、中国の美女・王昭君が異民族の国へ嫁がされた話と同じようで、見るのも悲しく思われました」


師直は贈り物を与える

師直は興味深そうに、話を最後まで聞いた。

「たいへん面白い話だった。

まずは贈り物をしよう」

色鮮やかな小袖十着に、沈香で作った枕を添え、侍従の前へ置いた。


仲介を依頼する

侍従は突然の贈り物へ驚きながらも、

「何と不穏な贈り物だろう」

と思い、立ち去れずにいた。

師直は近くへ寄った。


「私の病は恋の病へ変わった」

「役に立たない世間話のために、これまでの病気は治った気がする。

しかし今度は別の病気になってしまった」


塩冶の妻との仲介を迫る

「どうか頼みたい。

この女性と私との間を取り持ってほしい。

成功したならば、所領でも家の財宝でも、望む物を何でも与える」


侍従は恐れて引き受ける

侍従は思った。

「考えもしなかったことだ。

相手には夫がいる。

どうして、この話を持ち出せるだろう」

しかし強く断れば、師直に殺されるか、思いがけない苦しみを受けるかもしれない。

恐ろしくなり、

「まずは申し上げてみましょう」

と答えて帰った。


師直が返事を催促する

侍従は二、三日の間、

「どのように伝えればよいだろう」

と思い悩んだ。

すると師直のもとから、普段にはないほど多くの酒や料理が送られてきた。

「返事が遅い」

という催促だった。


侍従が塩冶の妻を説得する

侍従は断る言葉もなく、塩冶高貞の妻のもとへ行った。

そして、ひそかに話し始めた。


師直へ応じれば子どもの将来も安泰と説く

「このようなことを申し上げるだけでも、私の心まで疑われるでしょう。

聞かなかったこととして済ませたい話ではあります。

しかし、このような申し出が来ている以上、どのようにお考えになりますか」


一度だけなら人にも知られないと誘う

「ほんのわずかでも師直の心を慰めれば、御子息方の将来にも頼りとなります。

私たちのように頼る者のない者も、身を寄せる場所を得られるでしょう」


塩冶の妻は拒絶する

侍従はさまざまに言葉を尽くした。

しかし塩冶の妻は、

「何という、とんでもない話でしょう」

と困惑するだけだった。

受け入れるような言葉は一つもなかった。


侍従は何度も通う

侍従はその後も毎日通い、

「私が師直へ恨まれ、深い淵へ沈められた後に、気の毒だったと思ってくださっても何にもなりません。

せめて一言だけでも、返事をください」

と訴え続けた。


妻がわずかに心を見せる

塩冶の妻も、ついに困り果てた様子を見せた。

「どうにも気が進みません。

このようなことを、人へ話してはなりません。

あまり情に引かれれば、越の海辺へ寄せる仇波のように、悪い噂が立つかもしれません」


師直は手紙を書くことにする

侍従がこの言葉を師直へ伝えると、師直は心を空へ飛ばすように喜んだ。

「何度も手紙を送れば、情にほだされるかもしれない」

と考えた。


兼好法師に恋文を書かせる

師直は能書として知られた遁世者、兼好法師を呼び寄せた。

紅葉襲の色をした薄い紙へ、持つ手まで焦げるほど切実な思いを、言葉を尽くして書かせた。


手紙を開かず庭へ捨てる

師直が返事を待っていると、使者が戻った。

「御手紙は一度手に取られました。

しかし開いて御覧になることもなく、庭へ捨てられました。

人目へ触れないよう、私が拾って懐へ入れ、持ち帰りました」


師直は兼好を怒る

師直は機嫌を損ねた。

「役に立たないものは、書の名人というものだ。

今日から兼好法師を、この屋敷へ近づけるな」

と怒った。


薬師寺公義が現れる

そこへ薬師寺次郎左衛門公義が、用事のため突然やって来た。

師直は公義を近くへ呼び、笑いながら言った。


女の冷たい態度を相談する

「手紙を送っても、手に取って見ようともしない。

とんでもなく冷たい女房がいる。

どうすればよいだろう」


公義がもう一度送るよう勧める

公義は答えた。

「人は岩や木ではありません。

どのような女性でも、強く慕われれば心を動かさないことがあるでしょうか。

もう一度、手紙を送ってみてください」


薬師寺公義の歌

公義は師直に代わって、手紙を書いた。

長い文章は書かず、一首だけを記した。

返すさへ
手や触れけんと
思ふにぞ
我が文ながら
うちも置かれず

意味は、およそ次のようになる。

あなたが手紙を返す時、少しはその手へ触れたのだろうか。
そう思うと、自分が書いた手紙でありながら、手放すこともできません。


塩冶の妻は歌を袖へ入れる

仲介者が手紙を持っていった。

塩冶の妻は歌を見ると、顔を赤らめた。

手紙を袖へ入れ、立ち去ろうとした。


「重が上の小夜衣」

侍従が、

「御返事は、いかがいたしましょう」

と尋ねた。

塩冶の妻は、

「重が上の小夜衣」

とだけ言い残し、奥へ入った。


師直は衣を求めていると思う

侍従から言葉を聞いた師直は、うれしそうに考えた。

すぐに薬師寺公義を呼んだ。

「女房は、

『重が上の小夜衣』

と言ったそうだ。

衣や小袖を用意して送れという意味だろうか。

そうであれば、どのような衣でも簡単に仕立てられる。

本当は、どのような意味なのだ」


公義が歌の意味を解説する

公義は答えた。

「その意味ではありません。

『新古今和歌集』に、

さなきだに
重が上の
小夜衣
我が妻ならぬ
妻な重ねそ

という趣旨の歌があります」


他人の妻へ重なるなという拒絶

「ただでさえ夜着は重い。

その上へ、自分の妻ではない他人の妻を重ねてはならない。

つまり、

『人目をはばかります。他人の妻へ近づいてはなりません』

という意味でしょう」


師直は拒絶を好意と誤解する

師直は拒絶されたにもかかわらず、大いに喜んだ。

「お前は弓矢の道だけでなく、和歌の道でも並ぶ者のない達人だ」

と言った。

金作りの太刀一振りを自ら取り出し、公義へ与えた。


兼好は遠ざけられ、公義は恩賞を受ける

兼好法師は不運となり、公義は突然幸運を得た。

栄える者と衰える者の立場が、一度に入れ替わったのである。


師直が侍従を脅す

その後、師直は事あるごとに侍従を呼び出した。

「主君の危機にこそ捨てようと思っていた命を、何の関係もない男の妻のため、むなしく失うことになりそうだ」


死出の旅へ連れていくと言う

「自分が死ぬ時には、必ず侍従殿を連れていく。

死出の山も三途の川も、ともに越えることになるぞ」

ある時には目を怒らせて脅し、ある時には顔を伏せて恨み言を述べた。


侍従は姿だけでも見せようと考える

侍従も、すっかり扱いに困った。

そこで考えた。

「師直へ、あの女性が湯から上がったばかりの素顔を見せよう。

そうすれば年齢や姿を見て、気持ちが冷めるかもしれない」


師直へ遠くから姿を見せると約束する

侍従は言った。

「しばらくお待ちください。

見たとも見ないともいえない相手について話をしても、誰も信じられないでしょう。

まず遠くから、実際の姿を御覧に入れましょう」


塩冶邸へ忍び込む

師直はその日から、今日か明日かと待ち続けた。

侍従は、塩冶家へ仕える少女とあらかじめ約束していた。

ある夜、少女が侍従のもとへ来た。

「今夜、塩冶殿は御留守です。

御台様は湯浴みをなさっています」


師直が垣の隙からのぞく

侍従が師直へ知らせると、師直はすぐに侍従を案内役として塩冶邸へ忍び込んだ。

二間ほど隔てた場所へ身を寄せ、垣の隙間から中をのぞいた。


湯上がりの衣と濡れ髪

女房は、ちょうど湯から上がったところだったようである。

紅梅色の美しい衣と、氷のように白い練貫の小袖が、まだ湿ったまま置かれていた。

長く垂れた濡れ髪の香りや、衣へたきしめた香だけが残っていた。

しかし本人の姿は、どこにも見えなかった。


師直は震えて動けなくなる

師直は幻の美女を追うような心地となった。

巫山の花は夢の中に残り、王昭君の故郷の柳は雨の向こうへ遠ざかったように感じた。

物の怪へ取りつかれたように、体を震わせた。


侍従が師直を連れ帰る

長くいれば塩冶高貞が帰ってくるかもしれない。

侍従は師直の袖を引き、半蔀の外まで連れ出した。


師直は縁へ倒れ伏す

師直は縁の上へ平伏した。

どれほど引き起こそうとしても、起き上がらなかった。

「このまま死んでしまうのではないか」

と思われるほどだった。

侍従は、どうにか師直を邸へ帰した。


恋の病へ沈む

その後の師直は、完全に恋の病へ沈んだ。

眠っていても目覚めていても、狂ったような言葉ばかり口にするようになった。


侍従は地方へ逃げる

侍従は、

「このままでは自分も、どのような目へ遭うか分からない」

と恐れた。

行方を知る者もない遠い地方へ逃げ去った。


師直は高貞を謀反人に仕立てる

師直は案内役を失い、どうすればよいか悩んだ。

やがて一つの方法を思いついた。

塩冶高貞が謀反を計画しているという讒言を、さまざまに作り上げた。

そして尊氏・直義へ申し上げた。


高貞は出雲で挙兵することを決める

高貞は自分が謀反人として訴えられたと知った。

「どうしても助からない命である。

それならば故国へ逃げ帰り、兵を挙げよう。

一戦して高師直のために命を捨てよう」

と決意した。


鷹狩りを装って京都を脱出する

3月27日の明け方、高貞は二心のない若い家臣三十人余りを集めた。

皆、狩りの装束を着た。

一人ひとり小鷹を腕へ据え、蓮台野や西山へ鷹狩りに出るように見せた。


山崎から播磨路へ向かう

一行は寺戸から山崎方面へ道を変え、播磨路を通って西へ逃げた。


妻子は丹波路へ逃がす

高貞は身近な家臣二十人余りを、妻や子どもたちへつけた。

寺社参詣の人々のように見せ、本隊とは半時ほど時間をずらし、丹波路から逃がした。


弟が師直へ密告する

当時は子が親へ敵対し、弟が兄を滅ぼそうとする時代だった。

高貞の弟・四郎左衛門は急いで師直のもとへ行き、兄の逃亡計画をすべて密告した。


師直は高貞の妻を逃したことを悔しがる

師直は話を聞くと、

「長い間たくらんでいながら、あの女房を取り逃がしたことが悔しい」

と思った。

すぐに尊氏のもとへ参上した。


西国へ逃げたと報告する

「高貞の謀反について、急いで処分してくださいと申し上げたのに、御聞き入れになりませんでした。

そのため今朝、西国へ向かって逃げたようです」


出雲・伯耆で挙兵すれば大事となる

「もし出雲・伯耆へ到着し、一族を集めて城へ立てこもれば、重大な事態になります」

尊氏も驚いた。


追討役を選ぶ

尊氏は、

「誰を追手として送るべきか」

と人材を選んだ。

その場にいた諸将は、

「自分が追手に選ばれるのではないか」

と息をのみ、緊張していた。


山名時氏・桃井直常・太平氏を派遣する

尊氏は、

「この者たちの中には、高貞を追って討てる者はいない」

と考えた。

そこで、

  • 山名時氏
  • 桃井直常
  • 太平出雲守

を呼び寄せた。

「高貞が西国へ逃げている。

どこまでも追い、必ず討ち止めよ」

三人は異議を述べず、命令を受けた。


山名時氏は借りた武具で直ちに出発する

山名時氏は事情を知らず、通常の出仕姿で来ていた。

「邸へ戻り、武具を整え、兵を集めれば、追いつけなくなる」

と考えた。

師直の家臣が着けていた鎧を借りて肩へ掛け、馬上で高紐を結んだ。

父子・主従七騎だけで門を出て、播磨路を急いだ。


桃井・太平もそのまま追う

桃井直常と太平出雲守も邸へ戻らなかった。

家臣一人だけを帰し、

「乗り換えの馬と鎧を、道中へ持ってこい」

と命じた。

二人は丹波路から追跡した。


妻子の一行が目撃される

途中で人へ、

「怪しい一行を見なかったか」

と尋ねた。

すると、

「小鷹を腕へ据えた武士十四、五騎ほどと、輿へ乗せた女房が、急いで通っていきました。

二、三里ほど先でしょう」

という答えがあった。


追手は波々伯部で兵を待つ

「それほど遠くはない。

遅れてくる味方を待とう」

桃井・太平軍は、その夜、波々伯部宿へしばらく滞在した。

やがて子息や家臣たち二百五十騎余りが、取る物も取りあえず追いついた。


妻子の一行へ追いつく

高貞の妻子を守る家臣たちも、

「今ごろ追手が迫っている」

と急いだ。

しかし女性や幼い子どもを連れているため、旅の準備や休息へ時間を取られた。

播磨国陰山で、ついに追手へ追いつかれた。


家臣たちは輿を小屋へ入れる

高貞の家臣たちは、

「もう逃げられない」

と覚悟した。

妻子の乗る輿を、道のそばの小屋へ入れた。

そして追手へ向かい、鎧の袖を払い、激しく矢を射た。


追手に大きな損害を与える

追手には、まだ十分な鎧を着けていない者が多かった。

近づけば射落とされ、太刀を抜いて攻めれば矢で射抜かれた。

十一人がその場で死に、負傷者は数えきれなかった。


追手は次第に増える

それでも追手の兵は、次々と到着して数を増した。

高貞方の矢も尽き始めた。


妻子を殺して自害しようとする

高貞の家臣たちは、

「まず奥方と幼い子どもたちを殺し、その後、自分たちも腹を切ろう」

と、小屋の中へ走り込んだ。


妻が二人の子を抱く姿

中を見ると、美しく上品な妻が、夜通し泣き続け、すでに自分から消えてしまいそうな様子で座っていた。

膝元へ二人の子を引き寄せ、

「これから、この子たちをどうすればよいのか」

と呆然としていた。


勇士たちも涙で動けない

これまで勇敢に戦っていた家臣たちも、その姿を見ると涙で目がかすんだ。

ただ呆然と立つばかりだった。


追手も妻の確保を命じられる

追手は小屋を間近に包囲した。

そして命令を伝えた。

「この事件が起きた原因は何であるか、よく考えよ。

たとえ塩冶判官を討ち取ったとしても、その妻を生け捕りにしなければ、執事・高師直の望みはかなわない。

決して殺してはならない」


三歳の次男を僧へ託す

高貞の家臣・八幡六郎は、高貞の次男で三歳になる子が、母へ抱きついているのを見た。

子を抱き上げ、近くの辻堂にいた修行者へ渡した。


出雲へ連れていくよう頼む

「この子をあなたの弟子とし、出雲国へ連れていって、命を助けてほしい。

必ず将来、一か所の所領を持つ主人になれるようにする」

小袖一着も添えて渡した。


僧が子を引き受ける

修行者はしっかりと子を受け取った。

「何の問題もございません」

八幡六郎は、限りなく喜んだ。


「私は矢のある限り戦う」

八幡六郎は元の小屋へ戻り、仲間へ言った。

「私は矢が尽きるまで敵を防ぐ。

お前たちは中へ入り、奥方と幼い方々を殺し、家へ火をつけ、腹を切れ」


山城守宗村が妻を刺す

塩冶一族の山城守宗村が小屋へ入った。

太刀を持ち直した。

雪より白く、花より美しい妻の胸の下へ切っ先を当てた。


妻の血が流れる

太刀を突き通すと、赤い血が流れた。

妻は、

「あっ」

と、かすかな声を出した。

薄い衣の下へ倒れた。


五歳の子が母へすがる

五歳になる子は太刀の光に驚き、大声で泣いた。

「母上!」

亡くなった母へ取りすがった。


母子を一つの太刀で貫く

山城守は心を強くした。

子を抱き上げ、太刀の柄を垣へ当てた。

自分と子を一緒に、鍔元まで太刀で貫いた。

母へ抱きついたまま、子と山城守は死んだ。


二十二人が最後の戦いを始める

残る二十二人は、

「これで心配はなくなった」

と喜んだ。

髪を乱し、上半身を裸にした。

敵が近づくたびに走りかかり、火花を散らして斬り合った。


「塩冶高貞はここにいる」と名乗る

どうせ助からない命だった。

「これ以上、人を殺して罪を重ねて何になる」

とも思った。

しかし自分たちが少しでも敵を引きつければ、高貞本人が逃げ延びられるかもしれない。

そこで、

「塩冶高貞はここにいる。

この首を取り、師直へ見せよ!」

と、何度も偽って名乗った。


二時間ほど戦い続ける

二十二人は、二時間ほども戦い続けた。

ついに矢を使い尽くし、傷を負っていない者はいなくなった。


小屋へ火を放ち自害する

家の入口へ火をつけた。

燃え上がる炎の中へ入り、それぞれ腹を切った。

二十二人は焼かれ、全員が死んだ。


焼け跡の悲惨な姿

火が消えた後、追手は一山の灰を払いのけた。


妻は胎児をかばう雉のようだった

高貞の妻は、焼け野で雛を翼の下へ隠し、焼け死んだ雉のような姿だった。

胎内にいた子は刃へ掛けられ、半身を母の腹から出し、血と灰にまみれていた。


子を抱いた死者を高貞と誤認する

腹を切った多くの死者の下には、幼い子を抱き、一つの太刀で貫かれた男がいた。

追手は、

「これが塩冶高貞に違いない」

と考えた。

しかし首は焼けて傷んでいた。

持ち帰るほどではないとして、桃井・太平軍は京都へ戻った。


山名軍へ偽の使者が現れる

一方、山陽道を追っていた山名時氏の一行が、山崎の宝寺前を通り過ぎた時だった。

後ろから声を掛ける者がいた。

「高師直殿の御手紙です。

少しお待ちください。

申し上げることがあります」


山名が馬を止める

山名時氏は、

「何事だろう」

と馬を止めた。

使者は三町ほど後ろから叫んだ。

「急いで走りすぎ、息が切れて、そこまで参れません。

こちらへ少し戻ってください」


五騎を使者のもとへ返す

山名は馬から降り、家臣四、五騎へ命じた。

「何の用か聞いてこい。

急いで戻れ」


使者は塩冶家臣だった

五騎が使者の前で馬を降り、

「何の御用でしょうか」

と尋ねた。

男は笑った。

「本当は師直の使者ではない。

私は塩冶殿の家臣である」


主君へ従えなかったことを悔いる

「高貞殿が逃げることを知らず、お供できなかった。

ここで主君のために命を捨て、冥土でこのことを申し上げたい」


五騎を相手に斬り合う

言い終わらないうちに太刀を抜いた。

長い間、五騎を相手に斬り合った。

三人へ傷を負わせ、自分も二太刀を受けた。

「ここまでだ」

と悟り、腹を切って死んだ。


高貞との距離がさらに開く

山名軍は、

「この者に欺かれ、時間を失った。

落人は、さらに遠くへ逃げただろう」

と、馬を急がせた。


京都から湊川まで二時間で進む

京都から湊川までは十八里ほどあった。

山名軍は、わずか二時間ほどで走ったという。

しかし馬は極度に疲れた。

「今日は追いつけない。

一晩馬を休ませ、明日追おう」

山名時氏は湊川へとどまった。


十四歳の山名師氏が夜間追跡を提案する

この時、時氏の子・右衛門佐師氏は十四歳だった。

師氏は気の早い若者を選び、言った。

「逃げる敵は追手を恐れ、夜も休まず進んでいる。

我々は馬が疲れたとして、朝を待っている。

これでは敵へ追いつくことはできない」


父に知らせず十二騎で出発する

「馬の強い者は、私へ従え。

父上には知らせず、今夜のうちに追いつき、道で討ち止める」

言い終わらないうちに馬へ乗った。

小林氏ら十二騎が続き、夜中に追跡を始めた。


一夜で十六里を進む

湊川から賀古川までは十六里ほどだった。

十二騎は一夜で走り抜いた。

夜がほのかに明け始めた。


霧の間から高貞軍を見つける

川面の霧が切れた所から向こうを見ると、普通の旅人とは思えない騎馬武者三十騎ほどがいた。

馬は疲れて足並みを乱しながらも、我先にと急いでいた。


山名師氏が高貞へ呼びかける

「これこそ塩冶高貞だ」

と見定めた。

師氏は川辺へ馬を止め、声を掛けた。

「急いで馬を走らせている方々は、塩冶殿ではありませんか。

私の見間違いでしょうか」


「どこまで逃げるつもりか」

「将軍を敵とし、我々を追手として受けながら、どこまで逃げられるでしょう。

ここで踏みとどまり、正々堂々と討ち死にしてください。

この長い川の流れへ、武名を残されてはいかがですか」


塩冶六郎が殿を引き受ける

高貞の弟・塩冶六郎は、家臣たちへ言った。

「私はここで先に討ち死にする。

お前たちは狭い道ごとに矢を射て防ぎ、高貞殿を逃がせ。

全員が一度に討ち死にしてはならない」

自分の死後のことまで、詳しく指示した。

主従七騎が引き返した。


川を挟んで戦う

山名師氏の十二騎は一斉に川へ入った。

轡を並べて渡ろうとすると、塩冶六郎ら七騎が対岸へ並び、激しく矢を射た。


師氏は矢を受けながら岸へ上がる

師氏の兜の吹返しと左袖には、三本の矢が突き立った。

それでも対岸へ一気に駆け上がった。


塩冶六郎らが討ち死にする

塩冶六郎と山名軍は、何度もすれ違いながら斬り合った。

小林左京亮が塩冶方に馬から斬り落とされ、今にも討たれようとした。

師氏が間へ入り、その敵を斬り落とした。

残る六騎も、それぞれ討ち死にした。


首を路傍へ掛け、追跡を続ける

山名軍は七人の首を道端へ掛けた。

時間を失わず、さらに高貞を追った。


高貞は本道を外れる

その間に高貞は、さらに五十町ほど逃げた。

しかし家臣の馬は疲れ、まったく動かなくなった。

馬を道へ捨て、徒歩で従った。


小塩山へ進路を変える

「本道を進んでは逃げ切れない」

と考えたのだろう。

宿場から道を変え、小塩山へ向かった。


三人の家臣が松林で防ぐ

山名軍が続いて追ってくると、高貞の家臣三人が引き返した。

松の木が集まる場所を盾として、進んでは射、退いては射た。


六騎を射落として死ぬ

真正面から来る敵六騎を射落とした。

矢が尽きると太刀で斬り合い、三人とも討ち死にした。


高貞は出雲へ到着する

これによって高貞は、さらに逃げ延びた。

追手の馬も疲れ切った。

「道中で追いつくことは難しい」

と考え、山陽道の追手は速度を落とした。

3月晦日、高貞は出雲国へ到着した。


山名軍も出雲へ入る

4月1日、追討軍の大将・山名時氏と、その子・師氏は、三百騎余りで出雲国屋杉荘へ到着した。


高貞を討った者へ恩賞を約束する

山名軍は国中へ触れを出した。

「塩冶高貞の反逆が明らかになったため、討伐に来た。

高貞を討ち、あるいは捕らえて差し出した者には、役職のない者や身分の低い者であっても、恩賞を与える」


親族まで高貞を裏切る

この知らせを聞くと、他人だけではなく、親族や肉親まで利益を求めた。

長年の親しい関係を忘れた。

自国・他国の兵が道をふさぎ、前方で待ち伏せし、各地から高貞を討とうと集まった。


高貞には隠れる場所がない

高貞には、一日でも身を隠せる場所がなくなった。

「佐々布山へ上り、最後の一戦をしよう」

と、馬を急がせた。


妻子全滅の知らせ

その時、丹波路から逃げてきた若い家臣の下人一人が、走って追いついた。

「誰のために御命を惜しみ、城へ立てこもろうとなさるのですか」


陰山で全員が死んだと告げる

「御台様とお供の方々は、播磨国陰山で追手へ追いつかれました。

御台様も若君方も殺した後、家臣たちも一人残らず腹を切って死にました」


報告した家臣も自害する

「このことを御知らせするためだけに、役にも立たない命を保ち、ここまで参りました」

言い終わらないうちに、その男も腹を切り、高貞の馬前へ倒れた。


高貞は生きる意味を失う

高貞は聞いて言った。

「一時も離れることが難しかった妻子を失った。

自分だけが命を保って、何になるだろう」


七生まで師直の敵となる

「許すことのできない者だ。

七度生まれ変わっても、高師直の敵となり、必ず思い知らせてやる」


馬上で自害する

高貞は怒りながら、馬上で腹を切った。

そのまま逆さまに馬から落ち、亡くなった。


木村源三が首を隠す

高貞は三十騎余りの家臣を、

「立てこもれる場所を探せ」

と各地へ派遣していた。

そのため最期に従っていたのは、木村源三一人だけだった。


深田へ首を埋める

木村は馬から飛び降りた。

高貞の首を切り、鎧直垂で包んだ。

遠くの深田へ入り、泥の中へ首を埋めた。


高貞の首を守って死ぬ

その後、木村は腹を切り、腸を引き出した。

高貞の首が埋められた場所を隠すように、その上へ重なった。

首を抱き守るような姿で死んだ。


泥のついた足から首を発見する

後に山名軍は、木村の足へ泥がついているのを見つけた。

それを手がかりに深田を捜した。

泥の中から高貞の首を発見し、高師直へ送った。


人々は高貞の死を悲しむ

この話を聞いた者は、皆言った。

「これほど忠義があり、罪もなかった塩冶高貞が、一朝の讒言によって百年の命を失った。

何と哀れなことだろう」


石崇と緑珠の故事

人々は、高貞の最期を中国の石崇へたとえた。

晋の富豪・石崇は、愛妾の緑珠を権力者へ渡すことを拒み、そのため滅ぼされ、金谷園の花のように散ったという。


師直も悪行によって滅びる

その後、高師直は悪行を重ね、間もなく滅亡した。


人を利する者と害する者

古い言葉に、

人を利益する者には、天が必ず幸福を与える。
人を害する者には、天が必ず災いを与える。

とある。

この言葉は、まことに真実であると思われた。