峯村部材店主

太平記 18巻

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巻第十八では、後醍醐天皇の吉野潜幸、高野山と根来寺の対立、瓜生一族の挙兵、越前府中・金ヶ崎をめぐる戦い、金ヶ崎城の落城、恒良・尊良両親王をめぐる物語、そして比叡山開創の縁起が語られる。

巻第十八|目次

  1. 160. 後醍醐天皇、吉野へ潜幸する
  2. 161. 高野山と根来寺の対立
  3. 162. 瓜生一族の挙兵
  4. 163. 越前府中の戦い――金ヶ崎城への後詰め
  5. 164. 瓜生保の老母――程嬰・杵臼の故事
  6. 165. 金ヶ崎城の落城
  7. 166. 皇太子の還御――一宮御息所の悲嘆
  8. 167. 比叡山開創の由来

※読み方:軍勢の数、超人的な戦闘、神託、瑞兆、怪異、神仏の加護、因果応報などは、『太平記』本文の叙述であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定が一般的な歴史叙述や現存史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、尺・寸・丈・町・斗など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。一方、中世・中国説話の「里」や当時の貨幣は単純に現代単位へ換算しない。


160. 後醍醐天皇、吉野へ潜幸する


尊氏の言葉を信じた後醍醐天皇

後醍醐天皇は、

「再び天皇の位へ戻ることは間違いありません」

と、足利尊氏がさまざまに申し上げた偽りの言葉を信じ、比叡山から京都へ戻った。

『太平記』は、足利尊氏が最初から後醍醐天皇を欺くつもりだった、と描く。

後醍醐天皇は花山院の古い御所へ閉じ込められ、もの寂しく荒れ果てた場所で深く心を悩ませた。


遠い寺の鐘と北山の雪

霜の降りた夜、遠くの寺から響く鐘の音を聞くと、天皇は枕から頭を上げて耳を澄ませた。

その音は、中国の詩に詠まれた楓橋での夜泊のように、旅と孤独の悲しみを深くした。

北山の木々へ積もり、梢からあふれるほどの雪を見るため御簾を上げると、かつて宮中で楽しんだ華やかな遊びを思い出し、涙を流した。


宮女も臣下もいなくなる

花のように美しかった大勢の宮女たちも、突然吹き荒れた嵐に散らされたように、どこへ行ったのか分からなくなっていた。

夜、御殿へ入っても、昔の宮中生活は夢の中にしか現れなかった。

紫宸殿に星のように並んでいた多くの老臣たちも、空を覆う雲に隠されたように姿を消した。

天皇のもとへ参上する者は、1人もいなかった。


天下の情勢を知る方法もない

後醍醐天皇は、

「天下は今、どのようになっているのか」

と尋ねようにも、外の事情を知らせてくれる者がいなかった。


自らの不徳を嘆く

天皇は思った。

「そもそも朕には、どのような徳の不足があるのだろうか。

どうしてこれほど神仏からも見放され、逆臣に皇位を侵されるのだろう」

過去の行いに原因があったのかと嘆き、この世の中に希望を持てなくなった。


出家や退位を考える

そこで天皇は、寛平年間の遠い昔の例や、花山天皇が突然出家した近い時代の例にならおうかと考え始めた。

このまま世を捨て、仏門へ入ろうとまで思ったのである。


刑部大輔景繁がひそかに仕える

そのころ刑部大輔景繁が、足利方の許可を得て、ただ1人だけ後醍醐天皇のそばへ仕えていた。

景繁は勾当内侍を通じ、ひそかに天皇へ申し上げた。


金ヶ崎城では官軍が善戦している

「越前国の金ヶ崎城では、攻め寄せる足利軍が毎回敗れているそうでございます。

そのため加賀国の剣社・白山の僧兵たちも官軍へ味方しようとしています」


加賀・九州でも義兵が起こる

「彼らは富樫介が立てこもる那多城を攻め落とし、金ヶ崎城の後詰めとなろうと計画しているそうです。

また、天皇の京都還幸に従って上京した、

  • 菊池武俊(『太平記』本文の名。一般には菊池武敏とされる)
  • 日吉加賀法眼

らも、それぞれ自国へ逃げ帰りました。

現在は各地で義兵を挙げ、国内を官軍へ従わせていると申します」


天下が再び動くとの噂

「天下の形勢が再び変わる日は遠くないという評判が、いたるところで語られております。

どうか近日中に夜陰へ紛れ、大和国へお移りください」


吉野・十津川を拠点とするよう勧める

「吉野や十津川付近へ皇居を定め、諸国へ綸旨をお出しください。

新田義貞の忠義をお助けになり、正しい皇統の徳を再び天下へ輝かせてください」

景繁は外の情勢と脱出計画を、詳しく申し上げた。


天皇は景繁の言葉に希望を得る

後醍醐天皇は、すべてを詳しく聞いた。

そして思った。

「天下の武士の中には、今も天皇の徳を慕う者が多く残っている。

これは天照大神が景繁の心へ入り、その口を通じて朕へ道を示してくださったのだ」


脱出を命じる

天皇は景繁へ命じた。

「明日の夜、必ず馬寮の馬を用意し、東側の小門付近で待っていなさい」


三種の神器を持って御所を脱出する

約束の時刻になると、後醍醐天皇は三種の神器を新勾当内侍へ持たせた。

子どもたちが踏み崩した築地塀の穴から、女房の姿に変装して、ひそかに御所を抜け出した。


景繁が天皇を馬へ乗せる

景繁は、以前から準備を整えていた。

天皇を馬寮の馬へ乗せ、三種の神器は自ら背負った。

一行は夜が明けないうちに大和路へ入り、梨間宿まで逃れた。


南都を通るため輿へ乗り換える

しかし、この姿のまま昼間に奈良の町を通れば、人々に怪しまれる可能性があった。

そこで天皇を粗末で怪しげな張り輿へ乗り換えさせた。

供をする北面の武士たちは、輿を担ぐ人夫へ姿を変えた。


三種の神器を弁当箱に隠す

三種の神器は、脚のついた食器箱の中へ入れた。

物詣でへ向かう人が、弁当などを入れて運んでいるように見せた。

景繁自身も人夫の姿となり、それを持って歩いた。


慣れない姿で内山へ到着する

誰もが普段したことのない仕事だった。

急いでいるつもりでも、なかなか前へ進めなかった。

その日の夕方ごろ、ようやく内山へ到着した。


追手を恐れて吉野を目指す

一行は、

「ここまで来ても、敵が追ってくるかもしれない」

と安心できなかった。

どうにかして、その夜のうちに吉野付近まで天皇をお連れしようとした。

そこで再び馬寮の馬を天皇へ差し出した。


真っ暗な山道

この日は8月28日の夜だった。

※年代について:『太平記』本文では、この夜を8月28日とする。しかし一般的な歴史年表では、後醍醐天皇が神器を奉じて吉野へ逃れたのは建武3年(1336年)12月で、福井県史年表は12月21日としている。ここでは8月28日は『太平記』本文上の日付として読む。

道は非常に暗く、進むことができそうになかった。

ところが『太平記』によれば、突然、春日山の上から金峯山の峰にかけて、光る物が飛び渡ったように見えたという。


不思議な光が一晩中道を照らす

本文では、松明のような不思議な光が一晩中、空を輝かせ、地上を照らしたと語る。

そのため道がはっきりと見えた。

一行は迷うことなく進み、夜明けごろには大和国賀名生という場所へ到着した。


賀名生の貧しい山里

賀名生は集落から遠く、人家の煙もかすかにしか見えない場所だった。

山が深く、鳥の声さえほとんど聞こえなかった。

住民は柴を囲って家とし、芋や山芋を掘って、かろうじて暮らしていた。


天皇が住める場所も食事もない

天皇の仮御所にできる建物はなかった。

天皇へ差し上げる食事を用意することも難しかった。

景繁は、

「このままではいけない。

吉野の僧兵へ協力を求め、天皇を吉野へお迎えしよう」

と考えた。


吉水法印へ事情を伝える

景繁はすぐに吉野へ向かった。

吉野山の長老である吉水法印へ、天皇脱出の事情を詳しく話した。


吉野の僧たちが蔵王堂へ集まる

吉水法印は吉野山全体の僧を呼び集めた。

一同は蔵王堂へ集まり、天皇を迎えるかどうか相談した。


天武天皇の先例

僧たちは話し合った。

「昔、清見原天皇、すなわち天武天皇は、大友皇子に攻められた時、この吉野へお入りになった。

その後、間もなく天下を平定された」


吉野が天皇を迎えるのは当然である

「後醍醐天皇が、その先例にならって今、吉野へ来られた。

我々が受け入れることに、何の異論があるだろうか」


夜の光は神々の加護

「そのうえ昨夜、不思議な光が天皇の進む道を照らした。

これは吉野山の守護神である、

  • 蔵王権現
  • 小守明神
  • 勝手明神

が三種の神器を守り、天皇を護衛された吉兆の光である」


三百余人の僧兵が迎えに行く

「少しの間も、ためらってはならない」

吉野山の若い僧兵300人余りが、全員武装し、後醍醐天皇を迎えに向かった。


楠木正行らも集まる

このほか、

  • 楠木正行
  • 和田次郎
  • 真木定観
  • 三輪西阿

らも駆けつけた。

紀伊国からは、

  • 恩地氏
  • 牲川氏
  • 貴志氏
  • 湯浅氏

らが、それぞれ500騎、300騎と、絶えることなく集まった。


後醍醐天皇が吉野へ入る

雲や霞のように集まった軍勢が、天皇の輿の前後を守った。

後醍醐天皇は、間もなく吉野へ入った。


吉野朝廷(のちに南朝と呼ばれる)の再出発

人々は、

「春の雷が1度鳴れば、冬眠していた虫たちが目を覚まし、動き始める。

それと同じように、天皇の運がたちまち開き、忠義ある臣下たちが現れた」

と喜んだ。

こうして後醍醐天皇は吉野を新たな皇居とし、再び天下の回復を目指した。後世、この吉野の朝廷は一般に「南朝」と呼ばれる。

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161. 高野山と根来寺の対立


※注:以下の覚鑁上人が不動明王の姿となる話や、投げた石が空中で砕ける話は、『太平記』の説話である。一般的な歴史では、覚鑁(1095〜1143)は1130年に伝法院、1132年に大伝法院を整え、高野山内部の対立から1140年に根来へ移り、1143年に没した。『太平記』が語る「入定→廟を掘り開く→門徒が廟を根来へ移す」という筋を、そのまま史実の時系列とはみなさない。

諸寺・諸社が後醍醐天皇へ味方する

後醍醐天皇が花山院をひそかに抜け出し、吉野へ入ると、近隣諸国の武士たちは次々と天皇へ従った。

武士だけではなかった。

各地の寺院の僧兵や神社の神官たちも朝廷方へ加わった。

ある者は戦争に必要な物資を提供し、ある者は天皇の勝利を祈った。


根来寺だけは吉野へ来ない

しかし根来寺の僧たちは、1人も吉野へ参上しなかった。

これは必ずしも、根来寺が足利方を特に支持し、朝廷へ背こうとしたためではなかった。


後醍醐天皇の高野山崇敬を嫌う

後醍醐天皇が高野山を深く崇敬し、各地の所領を寄進し、さまざまな願いを立てていると根来寺の僧たちは聞いていた。

そのため高野山への対抗心を抱き、感情的になっていたのである。


僧侶は柔和と忍耐を重んじるはず

そもそも仏門に入った者は、柔和な心を根本とし、侮辱や苦難へ耐える心を衣とするべきである。

それなのに根来寺と高野山は、なぜこれほど激しく憎み合っているのだろうか。

その争いの始まりを尋ねると、次のような話があった。


高野山伝法院の覚鑁上人

少し以前、高野山の伝法院に覚鑁上人という高僧がいた。

覚鑁は1度、密教の修行道場へ入って以来、仏・菩薩や宇宙のすべてを表す四種曼荼羅と離れない修行を、長年怠らなかった。

瞑想と修行を長い年月にわたり続けた。


即身成仏を説きながら迷いを残す

密教では、

「この身のままで仏となることができる」

と説く。

しかし覚鑁は、自分がまだ煩悩を持つ生身の人間のままであることを嘆いた。

そこで記憶力や智慧を得るための求聞持法を、7度にわたって修行した。


求聞持法が成就しない

それでも、求聞持法で得られるとされる三段階の成就のうち、どれを得たとも感じられなかった。

そこで覚鑁は覚洞院の清憲僧正のもとへ入り、印と真言の秘法を授かった。

そして改めて100日間、修行を行った。


自然の智慧を得る

今度は修法がたちまち成就した。

覚鑁は自然に湧き出す智慧を得た。

密教の浅い教えから最も深い秘密の教えまで、習ったことのない部分さえ理解し、聞いたことのない意味まで明らかにした。


天狗が覚鑁の修行を妨げようとする

高慢や邪悪な心を持つ大天狗たちは、

「どうにかして人の心へ取りつき、覚鑁の決して退かない修行と学問を妨げよう」

と考えた。

しかし覚鑁の精神集中は非常に堅く、天狗たちはつけ入る隙を見つけられなかった。


入浴の快楽へ心を奪われる

ところがある時、覚鑁が温室へ入り、皮膚の腫れ物を湯で温めていた。

体も心も気持ちよくなり、ほんのわずかな快楽へ心を奪われた。

その時、天狗たちはようやく力を得た。

そして覚鑁の心へ、何かを造り出し、名を残したいという魔の心を吹き込んだ。


伝法院建立を願う

この時から覚鑁は、

「伝法院を建立し、自分の教えを受け継ぐ門徒を栄えさせたい」

と強く願うようになった。

鳥羽法皇へ願い出て、堂舎を建て、僧坊を造った。


伝法院は短期間で完成する

法皇の援助を受けたため、伝法院の建立は短期間で完成した。

ここから『太平記』は説話的な展開となる。本文では、覚鑁はその後すぐに「入定」の扉を閉じた、と語る。

そして、仏教の宇宙観で弥勒菩薩がこの世へ現れるとされる56億7000万年後の朝を待つため、永い瞑想へ入った、と『太平記』は語る。


高野山の僧たちが反発する

高野山の僧たちは、この話を聞いて怒った。

「どうして覚鑁房が、高慢な心から自らを土中へ埋め、弘法大師の入定と同じことをしようとするのか。

そのような伝法院ならば、破壊してしまえ」


伝法院を焼き払う

高野山の僧兵たちは伝法院へ押し寄せた。

堂舎を焼き払い、覚鑁の廟を掘り開けた。


覚鑁は不動明王の姿となっている

『太平記』では、廟の中を見ると、覚鑁上人が不動明王の姿となっていた、と描く。

燃え上がる迦楼羅炎の中へ座っているように見えた。


若い僧が覚鑁を引き起こそうとする

若い僧兵の1人が走り寄り、覚鑁の体を引き起こそうとした。

しかし、その体は巨大な岩のように重かった。

怪力の神である那羅延天の力でも動かすことができず、金剛杵を使っても砕けないように見えた。


僧兵たちはなおも信じない

荒法師たちは、それでも恐れなかった。

「何と大げさなことだ。

どれほど年を経た狸や狐でも、人を化かす力があれば、この程度の姿は作れるだろう。

本物の不動明王なのか、覚鑁が怪しい姿へ化けているだけなのか、試してみよう」


四方から石を投げつける

僧兵たちは大きな石を拾い、四方八方から覚鑁へ投げつけた。

ところが投げられた石の音は、大日如来の真言のように響いた。

石は覚鑁の体へ一つも当たらず、空中で砕けて粉々となった。


覚鑁に慢心が生まれる

その時、覚鑁は思った。

「やはり、この者たちが投げる石が、私の体へ当たるはずはない」

覚鑁の心に、ほんの少し慢心が起こった。


一つの石が額へ当たる

その瞬間、一つの石が覚鑁の額へ当たった。

傷口から、わずかに血の色が現れた。


高野山の僧たちが笑う

僧兵たちは、

「やはりそうではないか」

と、一斉に大声で笑った。

そしてそれぞれの院や谷へ帰っていった。


覚鑁の門徒が高野山を離れる

覚鑁上人の門徒500坊は、この出来事をたいへん悲しんだ。

高野山にとどまることができないと考え、伝法院にあった覚鑁の廟を根来へ移した。

そして根来の地へ、真言密教の道場を建立した。


高野山と根来寺の確執

『太平記』は、この出来事を高野山と根来の長い確執の起源として説明する。

実際にも高野山側と大伝法院方の対立を背景として覚鑁が根来へ移ったが、ここで語られる怪異の細部は『太平記』の説話である。

後醍醐天皇が高野山を厚く保護していると聞いた根来寺が、吉野へ味方しなかったのも、この古い確執が原因だったのである。

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162. 瓜生一族の挙兵


※年代について:この章の11月2日・11月8日・11月23日などは、『太平記』本文の年代順に従う。一般的な歴史年表では後醍醐天皇の吉野入りは建武3年(1336年)12月なので、この章の11月という設定とはそのまま一致しない。

後醍醐天皇の吉野入りが諸国へ伝わる

後醍醐天皇が吉野へ入り、近隣諸国の武士たちが次々と参集しているという知らせが広まった。

京都の足利方が慌てたことは、いうまでもない。

諸国の武士たちも、

「天下は再び大きく乱れるのではないか」

と、不安を抱いた。


金ヶ崎城には外部の情報が届かない

後醍醐天皇が吉野へ入ってから、すでに一、2か月が過ぎていた。

しかし金ヶ崎城は足利軍に包囲され、人の出入りが完全に絶えていた。

城内には、外の情勢を知る者がいなかった。


海を泳いでくる1人の男

11月2日の暖かな朝だった。

櫛川の島崎から金ヶ崎城へ向かい、海を泳いでくる者が見えた。

城兵は初め、

「海藻を取る海人だろうか」

「波間を漂う水鳥だろうか」

と思った。

しかし、よく見ると人だった。


亘理新左衛門が綸旨を運ぶ

泳いでいたのは、亘理新左衛門という武士だった。

後醍醐天皇が吉野で発した綸旨を、髻の中へ結びつけ、海を泳いで運んできたのである。

城兵は驚き、急いで綸旨を開いた。


吉野からの再起を知らせる綸旨

綸旨には、次のように記されていた。

「先帝はひそかに吉野へ移られた。

近隣諸国の武士たちも、続々と天皇のもとへ集まっている。

遠くないうちに、京都を攻めることになるだろう」


城内は大いに喜ぶ

足利方の包囲軍は、

「これまで隠してきた後醍醐天皇の吉野入りを、城内に知られてしまった」

と不安に思った。

一方、金ヶ崎城内では、

「我々を助ける軍勢が諸国で次々に起こっている。

間もなく包囲軍を追い払える」

と、身に余るほど喜んだ。


瓜生保は足利方の陣にいた

瓜生判官保は、この時、斯波高経の軍へ属し、金ヶ崎城を攻める陣にいた。

一方、弟の、

  • 瓜生兵庫助重
  • 瓜生弾正左衛門照
  • 義鑑房

の3人は、まだ金ヶ崎攻めには加わらず、杣山城にいた。


杣山では挙兵計画が進んでいた

その前月、10月11日、新田一族が北国へ落ちてきた際、義鑑房は脇屋義助の子・式部大輔義治をひそかに預かっていた。

3人の弟は、この義治を大将として義兵を挙げようと、日夜計画していた。


瓜生保も弟たちへ加わることを考える

保は弟たちの動きを聞き、考えた。

「この者たちが突然反乱を起こせば、

『兄の保が知らなかったはずはない』

と疑われ、自分は金ヶ崎の陣で殺されるだろう。

それならば兄弟が心を一つにし、ともに行動した方がよい」

保は、足利方の中にも同じ考えを持つ者がいないか探り始めた。


二引両と大中黒をめぐる会話

ある時、隣り合う陣屋にいた宇都宮美濃将監と天野民部大輔が、世間話の中で、諸家の旗印について話していた。

末席の1人が尋ねた。

「足利氏の二引両と、新田氏の大中黒では、どちらが優れた紋でしょうか」


宇都宮が大中黒を吉兆とする

宇都宮美濃将監は答えた。

「紋の美しさについては、ひとまず置こう。

吉凶という点では、大中黒ほどめでたい紋はないと思う。

前の時代、北条氏は三つ鱗を紋としていたが滅び、今は二引両の世となった。

その二引両を滅ぼす紋は、一引両の形を含む大中黒であろう」


天野も新田氏の天下を予言する

天野民部大輔も言った。

「まったくそのとおりです。

『周易』では、一の文字を『敵なし』と読むともいいます。

大中黒の紋を持つ新田氏が天下を治め、五畿七道に敵のない世を作るのでしょう」

その場の者は、紋の形へこじつけながら知識を披露した。


「天に口なし、人をもって言わしむ」

別の者が、遠慮なく笑いながら言った。

「天は自ら口を持たない。

そのため人の口を使って、天意を語らせるというではないか」


保は2人の本心を知る

瓜生保は、この会話を聞いて思った。

「この人々も、足利方から離れようという考えを持っている」

保は喜んだ。

その後、宇都宮と天野へたびたび酒や茶を贈り、親しく付き合うようになった。

そして十分に信頼関係ができた後、

「大事を起こし、官軍へ味方したい」

と打ち明けた。

宇都宮と天野も、

「異存はありません」

と同意した。


杣山へ戻る道をふさがれる

3人は、

「すぐに杣山へ帰り、旗を挙げよう」

と相談した。

しかし諸国の兵が、許可も得ずに金ヶ崎の陣を抜け、自分の所領へ帰り始めていた。

これを止めるため、高師泰は各地の道へ厳重な関所を設け、人を通さなかった。

用事があって通る者も、師泰の通行許可書が必要だった。


馬の飼料を運ぶという名目

瓜生保は、関所を欺いて通ろうと考えた。

高師泰のもとへ行き、申し出た。

「軍馬に与える大豆を取り寄せるため、杣山へ人夫150人を送りたいと思います。

関所を通る札をいただけないでしょうか」


通行札を書き換える

師泰の執事である山口入道は、杉板へ、

この人夫150人、通行を許す

と書き、判を押して渡した。

瓜生保は札を受け取ると、下部の印だけを残し、上の文字をすべて削った。

そして、

上下300人、通行を許す

と書き換えた。

瓜生保・宇都宮・天野らは、この偽造した札を使い、三山寺の関所を無事に通過した。


脇屋義治を大将として挙兵する

瓜生保が杣山へ帰ると、3人の弟は大いに喜んだ。

すぐに脇屋義治を大将とした。

11月8日、飽和社の前で、新田氏の中黒の旗を掲げた。


隠れていた官軍が集まる

その年の10月、坂本から北陸へ落ちた官軍の兵たちは、各地へ身を隠していた。

彼らは挙兵の知らせを聞くと、いつの間に集まったのか、間もなく1000騎余りとなった。


北陸道をふさぎ、退却用の城を築く

瓜生軍は兵500騎余りを分け、

  • 鯖波宿
  • 湯尾峠

へ関所を設け、北陸道を遮断した。

さらに、かつての火打城の南東にある、険しく水にも恵まれた山頂へ、退却用の城を築いた。

城内には兵糧7000石余り(石は当時の容量・年貢の単位)を蓄えた。

これは大軍との戦いに敗れた場合、そこへ立てこもるための備えだった。


高師泰が6000騎を送る

高師泰は瓜生氏の挙兵を聞き、言った。

「討伐が遅れれば、剣社・白山の僧兵と合流し、重大な事態となる。

ただちに杣山城を攻め落とし、安心して金ヶ崎城を攻められるようにせよ」

師泰は、

  • 能登
  • 加賀
  • 越中

3か国の兵6000騎余りを、杣山城へ向かわせた。


瓜生軍が周辺の村を焼く

瓜生氏は、

「敵に陣地を整えさせてはならない」

と考えた。

新道・今庄・桑原・宅良・三尾・河内など、4、5里にわたる民家(中世の里程であり、単純にkm換算しない)を一軒残らず焼き払った。

ただし杣山城の麓にある湯尾宿だけは、わざと焼かずに残した。

敵をそこへ誘い込むためだった。


足利軍が湯尾宿へ入る

11月23日、足利軍6000騎余りが到着した。

深い雪の中を、かんじきもつけず、8里の山道(中世の里程であり、単純にkm換算しない)を1日で越え、湯尾宿へ入った。

杣山までは50町ほど(約5.5km)離れ、その間には大河があった。


疲れた足利兵は無防備に眠る

すでに日が暮れ、兵たちは山道を歩き疲れていた。

「明日、城へ近づき、矢合わせを始めよう」

と考えた。

わずかに残っていた民家へ押し入り、火をたいて体を温めた。

そして前後の警戒もせず、深く眠り込んだ。


瓜生軍の夜襲

瓜生氏は初めから、敵を谷間の宿へ誘い込む計画だった。

「今こそ攻める時である」

その夜の夜中ごろ、農兵3000人を宿の背後の山へ上らせた。

さらに足軽700人余りを左右へ回し、一斉に鬨の声を上げた。


宇都宮・紀清両党が陣へ突入する

眠り込んでいた足利兵は、突然の鬨の声に驚き、慌てふためいた。

そこへ宇都宮軍と、紀氏・清原氏の両党が宿へ乱入した。

家々へ火を放った。


深雪の中で身動きできない

鎧を着た者は太刀を取る暇がなかった。

弓を持った者も、矢をつがえることができなかった。

『太平記』本文では5尺余り(約1.5m超)も積もった雪の中へ、かんじきもつけずに飛び出した。

兵たちは胸まで雪へ沈んだ。

足を引き抜こうとしても、まったく動けなかった。


300人余りが捕らえられる

足利兵は、泥の中で動けなくなった魚のようだった。

生け捕りとなった者は300人余りに及んだ。

討ち取られた者の数は分からなかった。

運よく逃げ延びた者も、鎧や武具をすべて捨てていた。

弓矢を持ったまま逃げられた者は、1人もいなかった。

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163. 越前府中の戦い――金ヶ崎城への後詰め


※年代について:『太平記』は正月11日に金ヶ崎救援軍が出発し、その翌日の戦いで瓜生保が討ち死にしたように描く。一方、福井県史は関連史料から、杣山城の南朝軍が金ヶ崎城包囲軍を攻撃し瓜生保が戦死した戦いを建武4年(1337年)2月16日として整理している。以下では『太平記』本文の順序を残し、史実年表との差を区別する。

斯波高経が越前府へ戻る

北陸道をふさがれ、背後に瓜生軍を残したままでは、金ヶ崎城を攻め続けることは難しかった。

斯波高経は、

「何としても杣山の軍勢が越前国内へ広がるのを防がなければならない」

と考えた。

北陸道4か国の兵3000騎余りを率い、11月28日、蕪木浦から越前国府へ戻った。


瓜生軍が新善光寺城を攻める

瓜生保は高経の帰還を聞くと、

「敵へ陣を整える時間を与えてはならない」

と考えた。

翌29日、3000騎余りで越前国府へ攻め寄せた。

1日一夜にわたって戦い、ついに高経が立てこもる新善光寺城を攻め落とした。


捕虜の首を帆山河原へさらす

この戦いで、足利方の死者は300人余りに及んだ。

さらに130人を生け捕りにし、首をはねた。

その首を帆山河原へ並べてさらした。


脇屋義治の名声が高まる

この勝利によって、若い式部大輔義治の威勢は、次第に近隣諸国へ広まった。

  • 平泉寺
  • 豊原寺

の僧兵や、越前国内外の地頭・御家人たちが、贈り物や酒・料理を持って、日々参上した。


義治は少しも楽しそうではない

しかし義治は、まったく楽しそうな様子を見せなかった。

義鑑房は御前へ近づき、尋ねた。

「これほどめでたい勝利を得られたのに、どうして少しも喜んでおられないのでしょうか」


金ヶ崎城の人々を心配する

義治は袖を整えて答えた。

「味方が2度の戦いに勝ち、多くの敵を滅ぼしたことは、確かに喜ぶべきことです。

しかし皇太子をはじめ、新田一族の方々は金ヶ崎城へ包囲されています。

食糧にも困り、戦いにも苦しみ、心の休まる暇もないことでしょう」


酒宴を楽しめない理由

「そのことを思うと、酒宴の席へ出ても、楽しむ気持ちにはなれません」

義鑑房は、うやうやしく答えた。

「そのことでしたら、どうか御安心ください。

これまで吹雪があまりにも激しく、長い道を徒歩で進むことが難しかったため、少し天候が回復するのを待っていたのです」

義鑑房は感動の涙を抑えながら、御前を退出した。


幼い義治の心を諸将が称賛する

宇都宮氏と小野寺氏は、塀越しに義治の言葉を聞いていた。

2人は言った。

「堅く育つ大木は、まだ地中にある芽の時から百囲の木となる性質を持つ。

迦陵頻伽は卵の中にいる時から、ほかの鳥より美しい声を持つという。

この若君は、幼くても立派な武将の心を持っている。

このように金ヶ崎の人々を思われるとは、実に頼もしい」


金ヶ崎救援軍を編成する

諸将は、

「それならば、すぐに金ヶ崎城の後詰めを行おう」

と決めた。

兵を集め、盾を作らせた。

雪が少ない日を選び、出発する準備を整えた。


『太平記』では正月11日、5000余人が出発する

『太平記』本文では、建武4年(1337年)正月7日の祝宴を終えた。

本文では正月11日になると雪がやみ、風も止まり、少し穏やかな天候となった。

里見伊賀守を大将として、義治は5000余人を金ヶ崎救援のため敦賀へ向かわせた。


雪山用の装備

軍勢は吹雪への備えをしていた。

鎧の上へ蓑と笠を着け、足にはかんじきを履いた。

8里の山道(中世の里程であり、単純にkm換算しない)に積もる雪を踏み分け、その日のうちに桑原まで進んだ。


足利軍二万余騎が待ち構える

高師泰も、以前から救援軍の接近へ備えていた。

敦賀津から東へ20町余り(約2.2km)離れた、守りに適した場所へ今川駿河守を大将として、2万騎余りを配置した。

各所へ盾を並べ、

「いつでも来い」

と待ち構えた。


第一陣の攻撃

夜が明けると、まず、

  • 宇都宮氏
  • 紀氏・清原氏の両党

300人余りが攻め寄せた。

坂の途中を守る敵1000人余りを、遠い峰まで追い上げた。

さらに第二陣へ攻めかかろうとした。

しかし左右の峰にいた大軍から激しく矢を射られ、北側の峰へ退いた。


第二陣が三つの陣を破る

次に、

  • 瓜生氏
  • 天野氏
  • 斎藤氏
  • 小野寺氏

ら700騎余りが、武器をそろえて攻め上った。

今川駿河守の守る陣を3か所まで破り、足利軍を1度は退かせた。


高師泰の新手3000騎

そこへ高師泰の新手3000騎余りが現れ、入れ替わって戦った。

瓜生・小野寺軍は逆に攻め立てられた。

宇都宮軍と合流するため、隣の峰へ退こうとした。


里見伊賀守が少数で踏みとどまる

里見伊賀守は、わずかな兵を率いて横から進み出た。

「卑怯だ。引き返せ!」

と叫び、敵へ攻めかかった。

足利方は里見を官軍の大将だと見抜いた。

ほかの兵には目もくれず、里見だけを包囲して討ち取ろうとした。


瓜生保と義鑑房が救援へ向かう

瓜生保と義鑑房は、里見が包囲されるのを見た。

2人は言った。

「我々がここで討ち死にしなければ、味方の軍勢は助からない」

2人だけで馬を進め、敵陣へ突入しようとした。


3人の弟も引き返す

瓜生保の弟である、

  • 林次郎入道源琳
  • 瓜生兵庫助重
  • 瓜生弾正左衛門照

の3人は、すでに遠くまで退いていた。

しかし兄たちの姿を見ると、

「我々もともに討ち死にしよう」

と引き返した。


義鑑房が弟たちを止める

義鑑房は弟たちを横目でにらみ、厳しく言った。

「日ごろ何度も言い聞かせたことを、もう忘れたのか。

我々2人が討ち死にすれば、それは末永く忠義として残る。

それなのに全員がここで死のうとするとは、後のことを考える心がない。

何と情けないことか」


弟たちは踏みとどまる

3人は、

「確かにそのとおりだ」

と思い直し、しばらくその場へとどまった。

その間に大勢の足利軍が間へ入り、兄弟を分断した。

里見伊賀守・瓜生保・義鑑房の3人は、同じ場所で討ち死にした。


救援軍は雪中で力尽きる

官軍の兵は桑原から深い雪を踏み分け、重い鎧を背負って進んできた。

数時間にわたって戦い続け、新しい兵と入れ替わる余裕もなかった。

戦い疲れ、反撃しようとしても力が尽きていた。

退こうとしても、足が動かなかった。


多くの兵が自害する

兵たちは各所へ取り残された。

逃げ切れないと悟り、腹を切った者は数えきれなかった。

わずかに逃げ延びた者も、弓矢や鎧をすべて捨てていた。


足利兵の嘲笑

敦賀の足利兵は、官軍が捨てた武具を拾いながら笑った。

「以前、越前府や鯖波の戦いで、我々が大量に捨てた武具を、今度はすべて取り返すことができた」


戦争のむなしさ

人間の運命は、これほど定まらない。

命も肉体も、仮の姿にすぎない。

それにもかかわらず、人はその命を大切な財産と思い、互いに罪を重ねる。

そして未来の長い苦しみを受けようとしている。

『太平記』は、そのことを何とも嘆かわしいと述べている。

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164. 瓜生保の老母――程嬰・杵臼の故事


※注:この章で『太平記』が引く中国故事は、『史記』「趙世家」の「趙氏孤児」と大きく異なる。『太平記』は「秦の世の趙盾・智伯」の争いとして語るが、『史記』では晋の趙朔・屠岸賈、程嬰・公孫杵臼、遺児の趙武が中心となる。以下は人物や時代を勝手に直さず、『太平記』本文の筋を保って訳す。

杣山へ敗残兵が帰る

敗れた官軍の兵たちが、杣山城へ戻った。

負傷者や戦死者の数を調べたところ、

  • 里見伊賀守
  • 瓜生保・義鑑房兄弟
  • 甥の七郎

らのほかに、53人が討ち死にしていた。

負傷者は500人余りに及んだ。


家々に泣き声が満ちる

子は父を失い、弟は兄に先立たれた。

泣き叫ぶ声が、城下の家々に満ちた。


瓜生保の老母だけは悲しみを見せない

瓜生保には、年老いた尼の母がいた。

しかし母は、少しも悲しんでいる様子を見せなかった。

老母は大将の脇屋義治の前へ参上した。


里見を死なせたことをわびる

老母は申し上げた。

「今回、敦賀へ向かった者たちが不覚であったため、里見殿を討ち死にさせてしまいました。

若君も、さぞ残念に思っておられることでしょう。

そのお気持ちは、よく分かります」


息子たちだけが生きて帰れば、さらに恥ずかしい

「しかし里見殿が討たれたのを見ながら、瓜生保兄弟が全員無事に帰ってきたならば、私は今よりもさらに、やりきれない思いをしたでしょう」


死ぬべき者と生きるべき者

「瓜生家の伯父・甥にあたる3人は、里見殿のお供をして討ち死にしました。

残った3人の弟は、若君をお守りするために生き残っております。

そのため悲しみの中にも、喜ぶべきことがあると思っております」


「100人、1000人死んでも嘆くべきではない」

「もともと天皇のために、この大事を起こしたのです。

たとえ100人、1000人の子や甥が討たれたとしても、個人的に嘆くべきことではございません」

老母は涙を流しながらも、自ら酒をついだ。

そして義治へ一献を差し上げた。


敗れた兵たちが勇気を取り戻す

老母の言葉を聞き、気力を失っていた兵たちも、肉親との別れを嘆いていた者たちも、しばらく悲しみを忘れた。

再び戦おうという勇気を取り戻した。


義鑑房が弟たちを止めた理由

義鑑房が討ち死にしようとした時、3人の弟も引き返し、ともに死のうとした。

しかし義鑑房は、強く弟たちを制止した。

なぜ、そのようなことをしたのだろうか。


以前から兄弟で決めていたこと

義鑑房は戦いへ出るたび、兄弟へ言っていた。

「もし戦いが危機に陥ったならば、兄弟のうち1人か2人は討ち死にしなければならない。

しかし残る兄弟は命を守り、式部大輔義治殿をお支え申し上げよ」


古人の義に学んだ

義鑑房が全員での討ち死にを避けたのは、古い時代の忠義を守り、昔の人物を手本としていたためだった。

『太平記』は、ここで中国の程嬰と杵臼の故事を語る。


智伯が臣下2人へ幼い子を託す

昔、中国の秦の時代、趙盾と智伯という2人が、趙の国をめぐって長い間争っていたという。

ある時、智伯は趙盾の軍へ完全に包囲された。

「夜が明ければ、自分は必ず討ち死にする」

という状況だった。

智伯は臣下の、

  • 程嬰
  • 杵臼

を呼び寄せた。


「3歳の子を守り、仇を討て」

智伯は2人へ言った。

「私の運命はすでに尽き、趙盾に包囲された。

夜が明ければ必ず討ち死にする。

お前たちが本当に私へ深い忠義を持つならば、今夜ひそかに城を脱出せよ。

そして私の3歳になる遺児を隠して育てよ。

成長したならば趙盾を滅ぼし、私が生前に受けた恥をすすがせよ」


死ぬことより生きて子を守る方が難しい

程嬰と杵臼は答えた。

「主君とともに討ち死にすることは、すぐにできるため簡単です。

3歳の遺児を隠し、長い間命を守り続けることは、遠い将来までかかる難しいことです。

しかし臣下たる者が、簡単な道を選び、難しい道を捨ててよいでしょうか。

必ず主君の御命令へ従います」

2人は、その夜の闇に紛れて城を脱出した。


智伯が討ち死にする

夜が明けると、智伯は討ち死にした。

残る兵もいなくなった。

長年争われた趙国は、ついに趙盾の支配下へ入った。


趙盾が遺児を捜す

程嬰と杵臼は、智伯の遺児を隠そうとした。

しかし趙盾は、そのことを聞きつけた。

遺児を見つけ出し、殺そうと何度も追及した。


誰が死に、誰が生きるか

程嬰は杵臼へ尋ねた。

「亡き主君は、3歳の遺児を我々2人へ託された。

敵を欺くために死ぬことと、しばらく生き続け、遺児を育て上げることでは、どちらが難しいだろうか」

杵臼は答えた。

「死ぬことは、一つの義を守る覚悟さえ決まればできる。

生きることは、さまざまな知恵を尽くさなければ果たせない。

したがって、生き残る方が難しい」


杵臼が死に、程嬰が生き残る

程嬰は言った。

「それならば私は、難しい方を選び、生き残ろう。

あなたは簡単な方を選び、討ち死にしてほしい」

杵臼は喜んで、この役目を引き受けた。


2人の子どもを入れ替える

2人は計略を立てた。

杵臼は、自分の3歳になる息子を、

「これは亡き智伯の遺児である」

と見せかけて抱いた。

程嬰は本物の智伯の遺児を、

「これは自分の息子である」

と偽り、朝夕大切に育てた。


杵臼は山奥へ隠れる

杵臼は偽の遺児を連れ、山深い場所へ隠れた。

程嬰は趙盾のもとへ出向き、

「あなたへ降伏したい」

と申し出た。

しかし趙盾は、なお程嬰を疑い、すぐには受け入れなかった。


程嬰が智伯を裏切ったように装う

程嬰は改めて申し上げた。

「私は以前、智伯のそば近くへ仕え、その行いを見ていました。

そして智伯は、いずれ趙国を失う人物だと知っておりました。

一方、あなたの徳と恩恵は遠くまで聞こえ、智伯よりはるかに優れております。

そのため私は、趙盾殿へお仕えしたいと願っております」


遺児の居場所を密告する

「亡んだ国の主君のため、徳ある賢君を欺こうとは思いません。

私を臣下として受け入れてくださるならば、智伯の3歳になる遺児の居場所をお教えします。

杵臼が、ひそかに育てている場所を詳しく知っております。

その子を亡ぼし、趙国を永く安らかに治めてください」


趙盾は程嬰を信じる

趙盾は程嬰の言葉を聞き、

「程嬰は偽りなく、自分の臣下になろうとしている」

と信じた。

程嬰へ武官の地位を与え、自分の近くへ置いた。


杵臼と偽の遺児の最期

趙盾は杵臼の隠れ場所を詳しく聞き、数1000騎を送って捕らえようとした。

杵臼は、以前から決めていた計略どおりに行動した。

まだ膝の上にいた3歳の自分の子を刺し殺し、叫んだ。

「亡き智伯の遺児は運が悪く、計略が明らかになってしまった」

そして杵臼自身も腹を切って死んだ。


趙盾は完全に安心する

趙盾は、

「これで自分の子孫の世を倒そうとする者はいなくなった」

と喜んだ。

程嬰への疑いを完全に捨てた。

さらに多くの俸禄と高い官位を与え、国の政治を任せた。


智伯の遺児が成長する

その間、本物の智伯の遺児は程嬰の家で成長した。

時が来ると、程嬰は突然兵を挙げた。

3年のうちに趙盾を滅ぼし、智伯の遺児へ趙国を治めさせた。


程嬰は恩賞を受けない

この大功は、すべて程嬰の計略によって成し遂げられた。

趙王は程嬰を褒め、多くの俸禄を与えようとした。

しかし程嬰は受け取らなかった。


杵臼との約束を守って自害する

程嬰は言った。

「私が官位へ上り、俸禄を受け、卑しくも生き続けるならば、杵臼とともに立てた計略の道へ背くことになる」

程嬰は、杵臼の遺体を埋めた古い墓の前へ向かった。

そして自らの剣の上へ身を伏せて死に、杵臼と同じ苔の下へ葬られた。


瓜生兄弟も古人に劣らない

今、瓜生保と義鑑房は討ち死にした。

残る兄弟は、脇屋義治を守り、再起させるために生き残った。

『太平記』は、この兄弟の振る舞いについて、

「昔の程嬰・杵臼の忠義にも、決して劣るとは言い難い」

とたたえている。

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165. 金ヶ崎城の落城


※年代について:金ヶ崎城は建武4年(1337年)3月6日に落城し、尊良親王と新田義顕が自害したとされる。『太平記』の掲載本文には、新田義貞らが城を抜け出した日を「3月5日」とする箇所があるが、そのままでは直後の「20日余りを過ごす」→「3月6日落城」という叙述と矛盾する。福井県史年表は義貞の脱出を2月5日、救援戦を2月16日、落城を3月6日とするため、本訳では脱出日を2月5日として示す。

金ヶ崎城、救援の望みを失う

金ヶ崎城の人々は、瓜生氏の救援軍が来ることだけを命綱として待っていた。

ところが、

「瓜生判官保が戦いに敗れ、多くの兵が討たれた」

という知らせが届いた。

城兵は頼るものを完全に失い、心細さを募らせた。


魚や海藻で飢えをしのぐ

城内の食糧は、日を追うごとに少なくなった。

ある者は海や川の魚を釣り、飢えをしのいだ。

ある者は磯へ生える海藻を取り、それを食べて日を過ごした。

しばらくは、このような食べ物で命をつなぎながら、城を守ることができた。


秘蔵の名馬まで食べる

しかし事態はいよいよ切迫した。

ついには、朝廷の馬寮に属する馬をはじめ、諸将が大切にしていた名馬まで殺すことになった。

毎日1頭ずつ馬を殺し、その肉を朝夕の食事とした。


「あと10日も持たない」

城兵たちは言った。

「救援軍が来なければ、この城は、あと10日も持ちこたえられないでしょう。

総大将の義貞殿と義助殿は、ひそかに城を出て杣山へ入ってください。

周辺の味方を集め、包囲軍を追い払ってください」


義貞・義助が城を脱出する

新田義貞と脇屋義助は、

「確かに、そのとおりである」

と考えた。

案内役として、

  • 洞院実世
  • 川島維頼

らを伴った。

上下合わせて7人が、建武4年(1337年)2月5日の夜半ごろ、ひそかに金ヶ崎城を抜け出した。

一行は無事、杣山城へ到着した。


杣山でも救援軍を出せない

瓜生氏や宇都宮氏らは、義貞・義助の到着をたいへん喜んだ。

「もう1度金ヶ崎へ向かい、先日の敗北の恥をすすごう。

城内の人々へ、生きる希望を取り戻させよう」

と、さまざまに作戦を考えた。


足利方は10万騎余りとなる

しかし東風が次第に穏やかになり、山道の雪も所々で消え始めていた。

諸国の兵が次々と足利方へ加わり、包囲軍は『太平記』によれば10万騎を超えていた。

一方、義貞のもとに残る兵は、わずか500人余りだった。


武器も馬も十分ではない

義貞軍の心は勇ましかった。

しかし馬も鎧も武器も十分にはそろっていなかった。

「どうすればよいのか」

と、さまざまに悩むうち、20日余りが過ぎた。


城内では10日間食事がない

そのころ金ヶ崎城では、馬もすべて食べ尽くしていた。

城兵は10日ほど、まともな食事を取っていなかった。

兵たちは手足を動かすことさえできなくなっていた。


足利兵が城内の異変に気づく

正面の攻め口にいた足利兵が、高師泰の前へ来て申し上げた。

「この城は、食糧が尽き、馬まで食べているのではないでしょうか。

初めのころには、城内に四、50頭ほど馬がいるようでした。

いつも馬を湯で洗ったり、水辺へ出したりしておりました。

しかし最近は、1頭も外へ引き出されません」


総攻撃を提案する

「1度、全軍で攻めてみてはいかがでしょうか」

諸将は、

「もっともである」

と賛成した。


10万騎が一斉に攻め寄せる

建武4年(1337年)3月6日、卯の刻(午前5〜7時ごろ)、『太平記』によれば正面と背後の足利軍10万騎が一斉に進んだ。

断崖の下と城壁の際まで、兵が取りついた。


城兵には武器を使う力もない

城兵は敵を防ごうとして、木戸の辺りまでよろめきながら出てきた。

しかし太刀を振る力もなかった。

弓を引くこともできなかった。

ただ櫓へ登り、城壁の陰へ集まり、荒い息をついて座っているだけだった。


足利軍が城内へ侵入する

寄せ手は、その様子を見て言った。

「思ったとおり、城兵は弱り切っている。

今日中に攻め落とせるぞ」

乱杭や逆茂木を取り除き、城壁を打ち破った。

そして三重に造られた防御線のうち、第二の木戸まで攻め入った。


由良・長浜が最期の方針を進言する

由良と長浜の2人は、新田義顕の前へ参上した。

そして申し上げた。

「城兵は長い籠城によって疲れ果て、今では矢1本さえ十分に射ることができません。

敵はすでに第一、第二の木戸を破り、間近まで迫っています」


皇太子を小舟で逃がすよう求める

「どれほどお考えになっても、もはや城を守ることはできません。

皇太子は小舟へお乗せし、どこかの浦へお逃がしください。

そのほかの方々は1か所へ集まり、自害なさるほかはないと思います」


2人は敵を防ぐため木戸へ向かう

「その間、我々が攻め口へ向かい、敵を防ぎます。

敵へ見せたくない物は、すべて海へ沈めてください」

2人はそう言って、義顕の前を退出した。


『太平記』が描く、死者の肉を食べて戦う城兵

しかし2人も飢えと疲労によって、足を十分に動かすことができなかった。

ここで『太平記』本文は、第二の木戸のそばに矢を受けて倒れていた死者の腿の肉を切り取った、と記す。

本文では、20人余りの兵が一口ずつその肉を食べたという。

そして、それを力として再び敵と戦った、と『太平記』は語る。


河野備後守ら32人が自害する

『太平記』本文で「河野備後守」と呼ばれる武将は、背後から攻め込む敵を防いだ。実名を通治とする本文系統もあるが、人物比定には問題があるため、ここでは原文の官職名で示す。

半時ほど戦い続けたが、ついに力が尽きた。

深い傷も数多く負っていた。

それでも攻め口から一歩も退かなかった。

河野ら32人は腹を切り、同じ場所に頭を並べて倒れた。


義顕が尊良親王へ最期を告げる

新田越後守義顕は、一宮尊良親王の前へ参上した。

そして申し上げた。

「戦いも、もはやここまでと思われます。

我々は武士として弓矢の名を惜しむ家の者です。

これから自害いたします」


「宮様は敵へ出ても殺されないでしょう」

「宮様については、たとえ敵の中へお出になったとしても、命まで奪われることはないでしょう。

このまま城内へお残りになるのがよいと思います」


尊良親王は明るく笑う

尊良親王は、その言葉を聞くと、たいへん晴れやかな表情で笑った。

そして言った。

「天皇が京都へ戻られた時、私を国家の頭として立て、お前を手足となる臣下にされた。

手足を失って、頭だけが生きていられるだろうか」


「義顕とともに死ぬ」

「私は自分の命を白刃の上で終わらせ、恨みを黄泉の下で報いたいと思う。

ところで自害とは、どのようにすればよいものなのか」


義顕が自害の方法を示す

義顕は感激の涙を抑えながら答えた。

「このように行うものでございます」

言い終わらないうちに刀を抜いた。

逆手に持ち直し、左脇へ突き立てた。

右側の肋骨を二、3本ほど断ち切るように腹を切り開いた。


義顕、尊良親王の前で息絶える

義顕は刀を抜き、尊良親王の前へ置いた。

そしてうつ伏せになり、息絶えた。


尊良親王も義顕の刀を取る

尊良親王は、すぐに義顕の刀を手に取った。

刀の柄は血で滑りやすくなっていた。

そこで御衣の袖を柄へ幾重にも巻きつけ、しっかりと握った。


尊良親王の自害

尊良親王は雪のように白い肌を現した。

刀を胸の辺りへ突き立て、義顕の枕元へ倒れた。

こうして尊良親王と義顕は、同じ場所で最期を迎えた。


親王の側近も後を追う

御前に仕えていた、

  • 一条行房
  • 里見時義
  • 武田与一
  • 氣比氏治
  • 大田帥法眼

らは言った。

「それでは我々も、宮様のお供をいたしましょう」

一同は声をそろえて念仏を唱え、一斉に腹を切った。


庭の兵300人余りも自害する

庭へ並んでいた兵300人余りも、この様子を見た。

互いに刀を刺し違え、折り重なるように倒れた。


氣比大宮司太郎が皇太子を救う

氣比大宮司太郎は、もともと並外れた怪力を持ち、泳ぎの達人でもあった。

彼は皇太子を小舟へ乗せた。

舟には櫓も櫂も残っていなかった。


小舟を引いて30町を泳ぐ

大宮司太郎は舟の引き綱を自分の腰へ結びつけた。

そして海上を30町余り(約3.3km)泳ぎ、皇太子を蕪木浦へ無事にお連れした。


皇太子を漁師の家へ預ける

この脱出を知る者は、ほかに1人もいなかった。

そのまま皇太子を杣山城へお連れすることも、難しくはなかっただろう。

しかし大宮司太郎は考えた。

「尊良親王をはじめ、城内の人々が1人残らず自害している。

その中で自分1人だけ逃げて命を助ければ、世間の笑いものとなるだろう」


「この方を杣山へお送りください」

大宮司太郎は、皇太子を粗末な漁師の家へ預けた。

そして家の者へ言い聞かせた。

「この方は、いずれ日本国の君主となられるべきお方である。

どのような方法を使っても、必ず杣山城へお送りしてほしい」


城へ泳ぎ戻る

大宮司太郎は蕪木浦から海へ戻った。

先ほど泳いできた海上を、再び金ヶ崎城へ向かって泳いだ。


自ら首を切って死ぬ

城へ戻ると、氣比弥三郎大夫が自害して倒れていた。

大宮司太郎は、その遺体の上で自分の首を切り落とした。

切った首を片手に提げ、上半身を裸にした姿で息絶えた。


土岐・栗生・矢島も自害しようとする

  • 土岐阿波守
  • 栗生左衛門
  • 矢島七郎

の3人は、一緒に腹を切ろうとして岩の上へ並んでいた。

そこへ船田長門守が来て言った。


「全員が死ぬことが忠義ではない」

「新田家の運命が、ここですべて尽きるのならば、我々も1人残らず討ち死にするべきでしょう。

しかし総大将の義貞・義助兄弟は杣山におられます。

若君たちも三、4人が各地で御無事です」


生き残って役に立つべきだと説く

「それならば我々のうち1人でも生き残り、後にお役に立つことこそ、長く伝わる忠義ではないでしょうか。

何も考えずに全員で自害し、敵に城と命を与えて、何の役に立つというのです。

さあ、こちらへ来てください。

どこかへ隠れ、生き残れる可能性を探しましょう」


4人が岩穴へ隠れる

3人は船田の後へ従った。

遠浅の波をかき分け、磯を半町ほど(約55m)進んだ。

すると波によって大きく削られた岩穴があった。

「ここならば、隠れるのに最適である」

4人は岩穴の中へ入り、3日三晩を過ごした。

その間の心細さは、言葉にできないものだった。


由良・長浜はなお木戸を守る

由良と長浜は、その時もなお木戸口で戦っていた。

喉が渇けば、自分の傷口から流れる血を受けて飲んだ。

『太平記』本文では、力が落ちて疲れると、目の前へ倒れた死者の肉を切り取って食べたとも語る。

城内の人々が全員自害し終えるまで、戦い続けようとしていた。


大将の自害を知らされる

そこへ安間六郎左衛門が走ってきた。

「いつまで戦い続けるつもりですか。

大将方は、すでに自害なさいました」


敵将と刺し違えようとする

由良・長浜らは言った。

「それならば、どうせ死ぬ命である。

敵の中へ紛れ込み、寄せ手の大将の近くまで進もう。

そして名のある敵と刺し違えて死のう」


五十余人が第三の木戸から出撃する

50人余りの兵は、第三の木戸を同時に打って出た。

一方面を攻めていた足利兵3000人余りを追い上げた。

その敵兵の中へ紛れ込み、高師泰の陣へ近づこうとした。


飢えた姿を見破られる

彼らの心は、ますます勇猛だった。

しかし城から出てきた兵たちは、飢えによって骨と皮だけのようにやせ衰え、見る影もなかった。

普通の足利兵へ紛れることはできなかった。

敵はすぐに城兵だと見抜き、陣から押し離した。

彼らは名のある敵へ近づくこともできず、各所で全員討ち取られた。


城兵のほとんどが死亡する

『太平記』本文では、城に立てこもった人数を160人と記す。

そのうち、

  • 降伏して助かった者が12人
  • 岩穴へ隠れて生き残った者が4人
  • そのほか151人が自害または戦死した

とされる。

ただし、これらの人数は合計が一致しておらず、本文の数字には混乱がある。

いずれにしても、城兵のほとんどが1度に命を失い、金ヶ崎城は陥落した。


怨霊の声が残る

『太平記』は、城兵たちの怨霊が今もこの地へ残っていると語る。

月が雲に隠れ、雨の降る暗い夜には、食べ物を求めて叫ぶ亡霊の声が、悲しげに聞こえるという。

その声を聞けば、全身の毛穴が冷たくなるほど恐ろしかった。


陳陶の「隴西行」

中国の詩人・陳陶は、戦乱で死んだ兵たちを詠んだ。

匈奴を掃わんと誓って、わが身を顧みず、
五千の立派な兵は異国の砂塵に倒れた。
哀れにも、川辺にさらされた白骨は、
今も妻の夢の中では、生きた夫の姿である。

金ヶ崎城で死んだ兵たちと、その帰りを待ち続ける家族を思えば、この詩もまさに同じ悲しみを詠んだものと思われた。

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166. 皇太子の還御――一宮御息所の悲嘆


※注:前半の恒良親王の捕縛・京都移送は金ヶ崎落城後の叙述である。一方、後半の尊良親王と御匣殿の恋、土佐への旅、松浦五郎、鳴門の渦、秦武文の怨霊、奇跡的な再会などは、『太平記』が長く展開する物語的挿話であり、細部まで史実として確認できる話ではない。尊良親王が建武4年(1337年)に金ヶ崎城で亡くなったことと、恒良親王が落城後に捕らえられたこととは区別して読む。

皇太子が蕪木浦で保護される

夜が明けると、

「蕪木浦に皇太子がおられる」

という知らせが足利方へ届いた。

そこで島津駿河守忠治が迎えとして派遣され、皇太子を引き取った。


金ヶ崎城の戦死者の首実検

前夜、金ヶ崎城で討ち死に、あるいは自害した者の首151が並べられ、首実検が行われた。

新田一族の中で確認されたのは、

  • 新田越後守義顕
  • 里見大炊助義氏

らの首だけだった。

新田義貞と脇屋義助の首は見つからなかった。


義貞・義助の遺体を海中で捜す

足利方は考えた。

「義貞・義助の遺体は、近くの深い淵か海底へ沈められたのだろう」

そこで海人を海へ潜らせ、2人の遺体を捜させた。

しかし、まったく見つからなかった。


斯波高経が皇太子へ尋ねる

斯波高経は皇太子の前へ参上し、尋ねた。

「義貞・義助2人の遺体が、どこにも見当たりません。

2人は、どのようになったのでしょうか」


皇太子は義貞兄弟の居場所を隠す

皇太子はまだ幼かった。

それでも、

「義貞・義助が杣山にいると敵へ知られれば、ただちに攻め寄せられるかもしれない」

と考えたのだろう。

そこで答えた。

「義貞・義助の2人は、昨日の夕方ごろに自害した。

家臣たちが陣所の中で火葬したと聞いている」


足利方は捜索を打ち切る

足利方は、

「それならば、遺体が見つからないのも当然である」

と考えた。

それ以上、義貞・義助を捜そうとはしなかった。

そのため杣山には、しばらくの間、強い敵軍が向かわなかった。

足利方は、

「義貞兄弟も、いずれ降伏してくるだろう」

と考え、討伐を急がなかったのである。


執着に支配される人間の愚かさ

人は自分への執着と欲望に使われ、互いに敵意を抱き、命を奪い合う。

しかし最後には誰もが無常という殺鬼に出会い、苦しめられる。

その時は、決して遠くない。

まことに哀れで、愚かなことである。


皇太子と首級を京都へ送る

足利方は、

  • 新田義顕ら新田一族3人の首
  • 主だった武将7人の首

を京都へ送ることにした。

皇太子は張り輿へ乗せられ、同じく京都へ送り返された。

供をする足利方の大将たちは、皆、華やかに武装していた。


義顕の首を都大路でさらす

新田義顕の首は京都の大路を引き回され、獄門へさらされた。

しかし当時、

「新しい天皇が即位してから3年間は、天下で死刑を行わない」

というしきたりがあると考えられていた。


即位の儀式さえ終わっていなかった

足利方が擁立した新天皇は、まだ賀茂川での御禊や、大嘗祭さえ終えていなかった。

その時期に戦死者の首を大路で引き回すことについて、

「このようなことを行ってよいはずがない」

という意見が出た。


過去にも不吉な先例があった

後醍醐天皇が1度目に皇位へ戻った時にも、

  • 規矩高政
  • 糸田貞義

らの首が大路を引き回された。

人々は、

「あの出来事も、不吉な先例だったのではないか」

と語った。


朝敵の大将の長男として処罰する

それでも足利方は、

「義顕は朝敵の大将である新田義貞の長男である」

として、意見を退けた。

義顕の首は、ついに京都の大路を引き回された。


皇太子も幽閉される

皇太子が京都へ戻されると、すぐに楼のある御所が用意された。

しかしそれは住居というより、監禁するための場所だった。

皇太子は、その中へ閉じ込められた。


尊良親王の首は夢窓国師へ送られる

金ヶ崎城で自害した一宮尊良親王の首は、禅林寺の長老である夢窓国師のもとへ送られた。

夢窓国師は、親王の葬儀を整えることとなった。


御匣殿の深い悲しみ

尊良親王の御息所である御匣殿の悲しみは、改めて言葉にするまでもなかった。

この御匣殿が尊良親王へ仕えるようになるまでには、世にもまれな心苦しい恋の物語があったという。


尊良親王は皇太子になると期待されていた

尊良親王は元服し、宮中の奥深くで成長した。

学問の才能も優れ、容姿も世に並ぶ者がなかった。

そのため人々は、

「いずれ尊良親王が皇太子に立てられるだろう」

と期待していた。


鎌倉幕府の意向で別の親王が皇太子となる

ところが鎌倉幕府の意向によって、思いがけず後二条天皇の第一皇子が皇太子へ立てられた。

尊良親王へ仕えようとしていた人々は、皆、将来への望みを失った。

尊良親王自身も、世の中のすべてが衰え、色あせたように感じた。


詩歌と風月に心を寄せる

尊良親王は朝も夜も詩歌へ心を寄せ、月や風の景色を眺めて物思いへ沈んだ。

季節に応じた音楽や遊びの催しが開かれても、特に楽しそうな様子を見せなかった。


名門の娘にも心を動かされない

尊良親王ほどの身分であれば、皇族や摂関家の娘を望んだとしても、相手の心を悩ませるほど苦労する必要はなかっただろう。

しかし親王の心に深く染まる女性がいなかったのか、

「この人を妻に迎えたい」

という様子も見せなかった。

ただ1人で年月を送っていた。


関白左大臣邸での絵合わせ

ある時、関白左大臣の邸宅へ、若い公卿や殿上人が大勢集まり、絵合わせが開かれた。

その時、洞院左大将が出した絵の中に、『源氏物語』の一場面を描いたものがあった。


琵琶を弾く絵の女性

その絵には、優婆塞宮の娘が、真木柱の陰へ少し身を隠し、琵琶の調子を整えている姿が描かれていた。

雲へ隠れていた月が突然明るく差し出した。

女性は、

「扇で招かなくても、月の方から現れてくれた」

というように撥を上げ、柱の陰から顔をのぞかせていた。


絵の女性へ心を奪われる

その顔はたいへん優雅で、成熟した気品があり、明るく美しかった。

言葉では表せないほどの姿が、絵師の筆を尽くして描かれていた。

尊良親王は、この絵を一目見ると、限りなく心を引かれた。


絵巻を何度も見返す

親王は絵をしばらく手元へ置いた。

「何度も見れば、少しは心が慰められるだろうか」

と、巻いては開き、開いては巻いて見続けた。

しかし心は、少しも慰められなかった。


漢の武帝と李夫人の故事

昔、漢の武帝が深く愛した李夫人は、甘泉殿の病床で亡くなった。

武帝は悲しみに耐えられず、死者の魂を呼び戻すという返魂香をたいた。

すると煙の中へ李夫人の面影が現れたという。


絵姿を見て悲しみが深まる

武帝は李夫人の似絵を描かせ、それを眺めた。

しかし、

語りもせず、笑いもしない。
かえって人を悲しみに死なせるようだ。

と嘆いたという。

尊良親王は、その気持ちが今こそよく分かった。


絵に恋する自分を恥じる

尊良親王は思った。

「我ながら、何とはかない心の迷いだろう。

本物の美しい女性を見たとしても、この世は夢の中の現実にすぎないとして、思いを捨てるべきものである。

それなのに、絵に描かれただけの女性へ心を奪われるとは、いったい何に化かされているのだろう」


紀貫之の批評を思い出す

遍昭僧正の歌について、紀貫之は、

「歌の姿は整っているが、内容が少ない。

たとえば絵に描かれた女性を見て、むなしく心を動かすようなものである」

と批評したという。

尊良親王は、

「まさに自分が、そのような者になってしまった」

と思い、恋心を捨てようとした。


それでも物思いは深くなる

しかし心の悩みは、ますます胸へ満ちた。

近くに美しい女性がいても、目を向けようとしなかった。

時折手紙を交わしていた女性たちのもとへも、急な雨を避けるための雨宿りほどにも、立ち寄ろうとは思わなかった。


見たことも聞いたこともない女性

実在する女性の噂を聞き、その人へ心を引かれたのなら、手紙を送る機会もあっただろう。

1度でも姿を見た相手なら、消えては戻る水の泡のように、再び近づく機会もあっただろう。

しかしこの女性は、実際に見たことも、話を聞いたこともなかった。

古い物語の中の、仮の筆跡にすぎない。

親王は、どうすることもできずに思い悩んだ。


賀茂の糺社へ参詣する

尊良親王は、

「せめて心を別の方へ向けられないだろうか」

と考えた。

車へ乗り、賀茂の糺社へ参詣した。

御手洗川の水を手ですくって身を清め、何となく川辺を歩いた。


在原業平の禊を思い出す

昔、在原業平が、

「もう恋はするまい」

と御祓をしたという話を、尊良親王はしみじみと思い出した。

そして歌を詠んだ。

祈るとも
神やはうけん
影をのみ
御手洗川の
深き思ひを

意味は、およそ次のようになる。

どれほど祈っても、神はこの願いを聞き届けてくださるだろうか。
御手洗川へ映る影ばかりを見つめる私の思いは、この川の水のように深い。


急な雨の中を帰る

ちょうどその時、激しいにわか雨が通り過ぎた。

木の下へいても雨露に濡れ、親王の袖はすっかり湿った。

やがて、

「もう日が暮れます」

という声がした。

車は音を立て、一条通を西へ進んだ。


荒れた屋敷から琵琶の音が聞こえる

途中、誰の住まいとも分からない古い屋敷があった。

塀には苔が生え、瓦の上には松が育っていた。

長い間、人が住まず荒れていたような、寂しい家だった。

その中から、気品のある撥の音が聞こえた。

演奏している曲は、青海波だった。


親王が車を止める

尊良親王は、

「不思議だ。

どのような人が弾いているのだろう」

と思った。

荒れた塀の前へ車を止め、遠くから屋敷の中をのぞいた。


月明かりの中に現れた女性

女性は、外から見ている者がいるとは気づいていない様子だった。

夕暮れの空へ浮かぶ月が、時雨雲の間からかすかに現れた。

女性は御簾を高く巻き上げていた。

年齢は16歳ほどだった。

言葉にできないほど上品で美しい女房が、秋の別れを悲しむような琵琶の曲を弾いていた。


珊瑚を砕き、玉の盤へ氷を落とす音

琵琶の音は、

「珊瑚を砕く二、三の曲、玉の盤へ無数の氷を落とす音」

にもたとえられるほど、澄みながら激しかった。

複雑な音色は庭の落ち葉へ紛れ、外には降っていない時雨によって、聞く者の袖まで濡れるように響いた。


絵の女性が現実に現れる

尊良親王は、目を離さず女性を見つめた。

すると、このところ心を悩ませ、

「夢の中ででも会いたい」

と恋い慕っていた絵の女性と、少しも違わなかった。

いや、絵よりもさらに優雅で、成熟した気品を備えていた。


親王は屋敷の中へ入る

親王の心は空へ浮いたようになり、自分が何をしているのかも分からなくなった。

車から降り、庭の築山にある松の木陰へ近づいた。


女性は人の気配に気づいて隠れる

女性は、

「誰かに見られている」

と気づいた。

気まずそうに琵琶を几帳のそばへ置き、奥へ隠れた。

白い裳裾の面影だけが残った。


再び現れるのを待つ

尊良親王は、

「また出てくるかもしれない」

と思い、その場を歩き回った。

しかしやがて屋敷の侍が格子を下ろす音がした。

夜の門限となったのである。

親王は、

「いつまでもここにいるわけにはいかない」

と、御所へ戻った。


二条為冬が親王の心を見抜く

その後、尊良親王は表面上は平静に見えた。

しかし自分の気持ちを言葉へ出そうとはしなかった。

いつも歌会へ参加していた二条中将為冬が、親王の様子を見抜いた。


女性の身元を明かす

為冬は申し上げた。

「どうなさいましたか。

賀茂からのお帰りに御覧になった、かすかな宵月を、もう1度御覧になりたいのでしょうか。

そのことであれば、実に簡単でございます」


西園寺公顕(今出川右大臣)の娘

「あの女房の素性を詳しく調べました。

西園寺公顕(今出川右大臣)の娘だそうです。

名目上は徳大寺左大将の妻となることが決まっておりますが、まだ皇太后宮の御匣殿(みくしげどの。宮中の女房名・職名として用いられる呼称)として宮中へ仕えております」


歌会を利用して近づくよう勧める

「強く思っておられるのならば、歌会を理由として今出川邸へお入りください。

御簾の隙からでも、御自分の気持ちを明らかになさってはいかがでしょうか」


その夜に歌会を開かせる

尊良親王は、普段になく晴れやかな表情で笑った。

そして、

「今夜、すぐに右大臣邸で歌の優劣を論じる会を開く」

と、公顕へ命じた。


今出川公顕が親王を迎える

今出川公顕は、

「何とありがたいことだ」

と、急いで屋敷を飾り整えた。

風流を好む人々を大勢集め、準備が整ったと親王へ知らせた。

尊良親王は二条為冬だけを供として、今出川邸へ入った。


歌会は形式だけで終わる

しかし親王にとって、歌はその夜の本当の目的ではなかった。

歌を読み上げるだけで、優劣を論じることは行わなかった。


酒宴の後、人々が眠る

主人の今出川公顕には、急いで準備した簡単な酒宴があった。

公顕が盃を持って進み出ると、親王は普段よりも楽しそうに過ごした。

音楽や歌が見事に演奏され、親王も何杯も酒を飲んだ。

主人も深く酔い、そのまま横になった。

親王も枕へ頭を傾けると、周囲の者は皆眠り、夜も深くなった。


為冬が西の対へ案内する

仲介役の為冬は、事情を知っていたため酔っていなかった。

為冬の案内によって、尊良親王は女性の住む西の対へ、ひそかに入った。


灯火の中で短冊を眺める女性

塀の隙から見ると、室内にはかすかな灯火がともっていた。

花や紅葉を描いた屏風が周囲へ立てられていた。

女性は起きているとも、眠っているとも分からない姿で座り、先ほど人々が詠んだ歌の短冊を取り出していた。

顔を少し傾けている。


言葉でも絵でも表せない美しさ

垂れかかった鬢の髪の間から、明るく、かすかな顔立ちが見えた。

露を含んだ花の夜明け、風へ従って揺れる柳の夕暮れのようだった。

絵に描こうとしても、筆では表せない。

言葉で語ろうとしても、言葉が見つからないほどだった。


親王は完全に心を奪われる

外からかすかに見た時でさえ、

「世に同じ女性がいるだろうか」

と不思議に思った。

しかし今、近くで見る姿は、それ以上だった。

親王の心は、すでに正気を失うほどになった。

自分の魂まで女性の袖の中へ入ってしまったのではないかと感じ、自分の体がそこにあることさえ分からなくなった。


親王が室内へ入る

周囲には人がいなかった。

灯火もかすかだった。

尊良親王は妻戸を少し押し開け、室内へ入った。


女性は静かに横になる

女性は驚いた顔も見せず、静かに振る舞った。

柔らかな衣を引きかぶり、横になった。

その化粧と姿は、何ともいえず柔らかく、上品で美しかった。


長く秘めた恋心を語る

尊良親王も、そのそばへ寄って横になった。

これまでどれほど心を悩ませてきたかを、悲しくなるほど切々と語った。

しかし女性は返事をしなかった。

ただ思いへ沈み、悲しそうな様子を見せた。

その姿には、いっそう深い気品があった。


夜明けまで語り続ける

花が香り、月が霞む夜だった。

尊良親王は女性の腕を枕として、夢のような心の迷いの中で、一晩中語った。

それでも女性は、なお心を固くした様子だった。


明け方の別れ

やがて八声を鳴く鳥が夜明けを告げた。

鳥は雌雄で翼を並べながら、人間の別れの悲しみを知らない。

涙は凍ったまま解けず、互いの衣は冷たくなった。

有明の月は、2人の心に構わず明るい光を見せた。

尊良親王は御所へ帰った。


数えきれない手紙

その後、尊良親王は何度も手紙を送った。

見事な文章の手紙は積み重なり、千束にもなったのではないかと思われるほどだった。


女性の心も少しずつ動く

女性も親王の切実な思いへ心を引かれた。

上れば下り、下れば上る稲舟のように、はっきり拒絶する気持ちではないことが、次第に表情へ現れた。

それでも2人は、世間の目を見張る関守として、長い間慎重に過ごした。


『貞観政要』の講義

ある時、式部少輔英房という儒学者が、尊良親王のもとへ学問の講義に来た。

英房は『貞観政要』を読んだ。


唐の太宗と魏徴の故事

昔、唐の太宗は鄭仁基の娘を后に迎え、元和殿へ入れようとした。

ところが魏徴が、

「その娘は、すでに陸氏の男性と婚約しております」

と諫めた。

太宗は魏徴の諫めへ従い、女性を宮中へ召すことをやめたという。


尊良親王は自分を恥じる

尊良親王は、この話を深く聞いた。

そして思った。

「昔の立派な君主は、賢人の諫めへ従い、愛欲の心を捨てた。

それなのに自分は、すでに他人の妻となる名が定まっている女性との間へ入り込み、人の心を傷つけようとしている」


手紙を送ることをやめる

親王は昔の賢君の行いへ比べて自分を恥じ、世間の非難を恐れた。

心の中では女性を恋い慕いながらも、その気持ちを言葉へ出さなくなった。

手紙さえ書かなくなった。


女性も親王を待つようになる

何の知らせもなくなったため、女性は悲しんだ。

百夜にわたって男性を待った女のように、

「今度は自分が、親王を待つ日数を数えることになるのだろうか」

と思い悩んだ。

海人が刈った藻のように、心は乱れた。


徳大寺左大将が婚約を退く

こうして月日が過ぎた。

やがて徳大寺左大将が、2人の関係を聞いた。

そして言った。

「尊良親王ほどのお方が、これほど心へ掛けておられる女性である。

どうして私が無理に妻とすることができようか」

徳大寺は別の女性のもとへ通うようになったという。


尊良親王が再び歌を送る

尊良親王も、もはや遠慮する必要がなくなった。

再び女性へ手紙を送った。

何よりも
黒み過ぎてぞ
知らせばや
塩焼く浦の
煙だに
思はぬ風に
なびく習ひを

意味は、およそ次のようになる。

塩を焼く浦の煙でさえ、思いもしなかった風の方へなびくものです。
私の思いも、どれほど深く黒く燃えているのか、あなたに知ってほしい。


御匣殿の返歌

女性は、自分がこれまであまりにも心を固くしていたことを、自らつらく思うようになっていた。

言葉を添えず、歌だけを返した。

立ちぬべき
浮名をかねて
思はずは
風に煙の
なびかざらめや

意味は、およそ次のようになる。

2人の噂が立つことを、前もって恐れていなかったならば、
煙が風になびくように、私の心もあなたへなびかなかったはずがあるでしょうか。

拒み続けたのは、親王を思っていなかったからではなく、世間の噂を恐れていたからだという歌だった。


2人は正式に結ばれる

その後、2人は別々の場所へ結びつけていた心のひもを解いた。

夜の枕をともにし、川島の水のように浅くない、深い契りを結んだ。

生きてはともに老い、死んだ後も同じ苔の下へ眠りたいと思い合った。


10か月後、天下が再び乱れる

2人が結ばれて10か月余りが過ぎたころ、天下に再び大乱が起こった。

尊良親王は土佐国の幡多へ流されることとなった。


御匣殿は都へ残される

御匣殿は1人、京都へ残された。

昼も夜も分からないほど、悲しみに沈んだ。


死別よりもつらい生別

御匣殿は思った。

「これが死による別れであったならば、悲しみに耐えきれず命を終えたとしても、来世で再び会うことを頼みにできる。

しかし同じ世に生きながら、海と山を隔てて離れている」


手紙さえ届かない

互いに風の便りへ手紙を託すことさえできなかった。

これまで仕えていた若い侍や女房も、1人として御匣殿のもとへ通ってこなくなった。

世の中は、すべて昔とは変わってしまった。


荒れ果てた屋敷で泣き暮らす

人が住まず荒れた、ヨモギの生い茂る屋敷には露が降りた。

御匣殿の袖も、涙で乾く暇がなかった。

その悲しみに耐えながら、どうして命を保つことができたのか。

不思議に思われるほどだった。


土佐へ流される親王の悲しみ

尊良親王も都を出た日から、国家のこと、自分自身の悲しみに心を苦しめていた。

それに加えて御匣殿との別れを、

「これが最後かもしれない」

と思った。

食事も取ることができなかった。

道端の草葉へ置かれた露とともに、消えてしまうように見えた。


土佐幡多のわびしい暮らし

惜しいとも思えない命をどうにか保ち、尊良親王は土佐国幡多の、世の中とは思えないほど寂しい海辺へ流された。

そこで月日を送った。

少しも晴れることのない悲しみは、たとえようもなかった。


有井庄司が御匣殿を呼ぶよう勧める

尊良親王の警護をしていた有井庄司は、親王が悲しみに崩れる姿を気の毒に思った。

そして申し上げた。

「何を遠慮なさる必要がありましょう。

御匣殿をひそかに、ここへお迎えしましょう」


旅の衣服まで用意する

有井庄司は御匣殿のため、衣服一揃いを仕立てた。

道中の費用や準備まで、細かく整えた。

尊良親王は限りなくうれしく思った。


秦武文を京都へ送る

親王は、ただ1人そばへ仕えていた随身の右衛門府生・秦武文を、迎えとして京都へ送った。

武文は親王の手紙を預かり、急いで都へ上った。


一条堀川の御所は荒れ果てている

武文が一条堀川の御所へ行くと、雑草が生い茂り、門は閉ざされていた。

松葉が積もり、道さえ見えなかった。

訪れるものといえば、古い木の梢を吹く夕方の風と、軒の隙間から漏れる月の光だけだった。

人の訪れはなく、屋敷は完全に荒れ果てていた。


御匣殿を捜して嵯峨へ向かう

武文は、

「どこへ身を隠されたのだろう」

と、各地へ御匣殿の行方を尋ね歩いた。

やがて嵯峨の奥、深草の里へ至った。


荒れた家から琵琶の音

そこには松の枝を組んだ垣があり、隙間が多く開いていた。

蔦が這いかかり、池も冷たく寂しい姿だった。

水辺の松を吹く秋風も冷たかった。

誰が住むとも思えない荒れた屋敷から、琵琶を弾く音が聞こえた。


武文が御匣殿の撥音を聞き分ける

武文は、

「不思議だ」

と立ち止まった。

よく聞けば、間違えようもない御匣殿の琵琶の音だった。

武文は大いに喜んだ。


壊れた塀から屋敷へ入る

武文は案内を求めることもせず、壊れた築地塀から中へ入った。

そして中門の縁の前へ、うやうやしく座った。


御匣殿が武文へ気づく

破れた御簾の内から、御匣殿が遠くを見て、

「あれは……」

とだけ、かすかな声を出した。

その後は、何も言葉がなかった。

女房たちが小声で騒ぎ始め、まず泣き声だけが聞こえた。


武文も泣き崩れる

武文は、

「親王の使者として上京し、ここまで捜し参りました」

と言い終わらないうちに、縁へ手をかけ、声を抑えられずに泣いた。


親王からの手紙を渡す

しばらくすると、

「こちらへ」

と呼ぶ声がした。

武文は御簾の前へひざまずき、申し上げた。

「遠く都の外から、御身を思っておられる親王の御心は、耐え難いほど切実でございます。

どのような方法を使っても、土佐へお下りいただきたいというお使いで参りました」

そして親王の手紙を差し出した。


御匣殿は土佐行きを決意する

御匣殿は急いで手紙を開いた。

親王の切実な思いが、言葉の一つ一つから伝わった。

文字の葉へ置かれた露のような涙は、袖に収まらないほど流れた。


「どのような土地でも親王とともに」

御匣殿は思った。

「どれほど辺境の粗末な住まいであったとしても、親王とともに暮らせるならば、この都で耐えている苦しみよりはましである」

こうして旅立つことを決めた。


尼崎で順風を待つ

武文は立派な輿を探し出し、御匣殿をまず尼崎までお連れした。

そこで海を渡るため、順風を待った。


松浦五郎が御匣殿を見つける

ちょうどその時、筑紫の武士で松浦五郎という者が、同じ浦で風を待っていた。

松浦は垣の隙間から御匣殿の姿を見た。

「これは天人が地上へ降りたのではないか」

と、目を離すこともなく見つめた。


松浦が御匣殿を奪おうと考える

やがて松浦は思った。

「何と無関係なことを考えているのだ。

たとえ夫のいる女性であっても、女院や皇女のような高貴な方であってもよい。

一夜の契りを得られるならば、100年の命を代わりにしても惜しくない。

奪って九州へ連れ帰ろう」


武文の下人を酒と贈り物で買収する

松浦は、武文の下人が浜辺へ出てきたところを呼び寄せた。

酒を飲ませ、贈り物を与えた。

そして尋ねた。

「お前の主人が、船へ乗せようとしている高貴な女房は、どのような方なのか」


下人が事情をすべて話す

身分の低い者の浅はかさで、下人は酒と贈り物を喜んだ。

事情をありのまま、すべて語ってしまった。


「反逆者のもとへ行く女性なら奪ってもよい」

松浦は大いに喜んだ。

「どのような親王であったとしても、今は反逆者として流されている者である。

その者のもとへ、ひそかに下ろうとしている女性を奪ったところで、重い罪にはならないだろう」


夜襲の準備

松浦は家臣に宿の様子を詳しく調べさせた。

そして日が暮れるのを待った。


30人余りが宿へ乱入する

夜が深くなり、人々が眠りについたころだった。

松浦の家臣30人余りが、鎧を隙間なく身につけた。

松明を掲げ、蔀や引き戸を踏み破り、前後から宿へ乱入した。


秦武文が強盗を迎え撃つ

武文は都育ちの者だったが、勇気があり、これまでも何度も武功を立てていた。

「強盗が入った」

と判断した。

枕元に立てていた太刀を取り、中門へ走り出た。


3人を斬り、30人を追い出す

武文は入ってきた敵3人を目の前で斬り倒した。

縁へ上がっていた30人余りも、大庭へ一気に追い出した。


武文が名乗る

武文は叫んだ。

「武文という勇士がここにいる。

取れもしない物を奪おうとして、二つとない命を失うな、盗人ども!」

曲がった太刀を押して直し、門の脇へ立った。


松浦軍が火を放つ

松浦の家臣たちは、武文1人に斬り立てられ、門外へ逃げた。

しかし、

「卑怯だ。敵は1人だけだ。斬り込め!」

と叫んだ。

近くの民家へ火をつけ、再び鬨の声を上げて攻め寄せた。


武文が御匣殿を背負って逃げる

武文の心は勇敢だった。

しかし浦風にあおられた煙が覆いかぶさり、目が見えなくなった。

これ以上、防ぐことができなかった。

武文はまず御匣殿を背負った。

向かってくる敵を斬り払いながら、沖の船へ呼びかけた。

「どの船でもよい。

この女性をしばらく乗せてください!」


松浦の船が最初に岸へ来る

船は数多くあった。

ところが松浦が迎えとして用意していた船が、真っ先に岸へ近づいた。

武文は敵の船だとは知らず、大いに喜んだ。

御匣殿を船の屋形の中へお乗せした。


武文が宿へ戻る

武文は、取り落とした御匣殿の持ち物や、供の女房たちも船へ乗せようとして宿へ走り戻った。

しかし宿にはすでに火が回り、味方の者は1人もいなくなっていた。


松浦が御匣殿を奪って出航する

松浦は、

「偶然にも自分の船へ、この女性が乗った。

何と深い運命だろう」

と喜んだ。

「ここまでだ。今すぐ全員、船へ乗れ」

松浦の家臣や一族100人余りは、奪った物も十分に持たず、船へ乗り込んだ。

船は沖へ漕ぎ出した。


武文は船へ戻るよう叫ぶ

武文は岸へ戻り、叫んだ。

「その船を岸へ寄せてください。

先ほど屋形へお乗せした女性を、陸へお戻し申し上げる!」

しかし松浦は、

「聞くな」

と命じ、順風に帆を上げた。

船は次第に遠ざかった。


小舟で追うが届かない

武文は海人の小舟へ乗り、自分で櫓を押した。

何としてでも御匣殿の船へ追いつこうとした。

しかし順風を受けた大船へ、手で漕ぐ小舟が追いつけるはずはなかった。


松浦の船から笑い声が聞こえる

武文が遠く沖へ向かって扇を上げ、船を招くように振った。

すると松浦の船から、大きな笑い声が聞こえた。


武文の自害

武文は怒った。

「許すことのできない者たちだ。

それならば今すぐ海底の竜神となり、あの船を無事に行かせるものか」

腹を十文字に切り、青い海の底へ沈んだ。


御匣殿は夢の中にいるようだった

御匣殿は夜襲が始まった時から、魂も体へついていないような状態だった。

夢の浮橋が上がったり沈んだりし、深みと浅瀬をさまようような心地だった。

自分がどうなっていくのかも分からなかった。


武文の死を聞いても顔を上げない

船の者たちが言った。

「何と勇敢な男だったのだろう。

主人の女性を奪われ、腹を切って死んだとは、哀れなことだ」

御匣殿は、

「武文のことだろう」

と聞いていた。

しかしその方向へ目を向けることさえできなかった。

衣を引きかぶり、船の屋形の中で泣き沈んだ。


松浦が御匣殿へ近づく

見るのも恐ろしい、荒々しく髭の生えた男が御匣殿のそばへ来た。

言葉には強い地方訛りがあり、顔の色は非常に黒かった。

松浦は言った。

「なぜそれほど不機嫌でいらっしゃるのですか。

道中の美しい景色や名所を御覧になり、心をお慰めください。

そのように下を向いていては、誰でも船酔いしてしまいます」


御匣殿は恐怖で気を失いそうになる

松浦がさまざまに慰めても、御匣殿は顔を上げなかった。

鬼を同じ車へ乗せ、恐ろしい三峡へ船を進めるよりも、今の状況の方が恐ろしく感じられた。

御匣殿は気を失いそうになった。

その姿を見ると、荒々しい松浦さえ舷へ寄りかかり、呆然とした様子となった。


大物浦で一夜を過ごす

その夜、船は大物浦へ碇を下ろした。

御匣殿は浦風の中へ身を漂わせ、一夜を過ごした。


船は九州を目指す

翌朝、風がよくなった。

同じ港にいた船はそれぞれ帆を上げ、舵を取り、別々の方向へ漕ぎ出した。

京都は、すでに後方の霞へ隔てられた。

船の者が、

「九州へは、いつ到着するだろうか」

と話しているのが聞こえた。


北野天神へ祈る

御匣殿は、

「自分は九州へ連れていかれるのだ」

と知り、さらに心細くなった。

北野天神が荒ぶる神となる以前、左遷されて苦しんだ時の悲しみを思い出した。

そして心の中で祈った。

「私の悲しみをお分かりくださるならば、どうか私を都へお帰しください」


鳴門で船が動かなくなる

その日の夕方、船は阿波の鳴門へ入った。

突然、風向きが変わり、潮流が正面から押し寄せた。

船はまったく進めなくなった。


巨大な渦へ引き込まれる

船乗りたちは帆を下ろし、近くの磯へ船を寄せようとした。

ところが沖の潮の交わる場所へ、底も見えない大きな穴のような渦が現れた。

船を海底へ沈めようとしているようだった。


荷物を渦へ投げ込む

水夫や舵取りは慌てた。

帆やむしろなどを次々と海へ投げ込み、渦へ巻き込ませた。

その間に船を漕ぎ抜けようとした。

しかし船は少しも進まなかった。


茶臼より速く回る船

船は渦へ従い、波とともに回転した。

その速さは、茶臼を回すよりも激しかった。


武具をすべて海へ捨てる

船乗りは叫んだ。

「これは竜神が、我々の財宝へ目をつけたに違いない。

何でも海へ捨てろ!」

弓矢・太刀・長刀・鎧・腹巻などを、数えきれないほど海へ投げ込んだ。

しかし渦は止まらなかった。


御匣殿の衣を海へ投げる

「それならば、美しい色の衣服を欲しがっているのかもしれない」

御匣殿の衣や赤い袴まで海へ投げ入れた。

白波は赤く染まり、紅葉を水へ浸したようになった。


3日三夜、渦から出られない

これによって渦は少し弱まった。

しかし船は、なお同じ場所を回り続けた。

3日三夜が過ぎた。

船内の者は1人も起き上がれず、皆、船底で酔いつぶれた。

それぞれが声を上げて叫び、限りなく苦しんだ。


御匣殿は死ぬこともできない

御匣殿は、もともと生きている心地がしなかった。

激しい波によってさらに肝をつぶし、正気を失っていた。

「これ以上つらい目を見るくらいならば、どのような深みにでも身を沈めたい」

と思った。


死後の罪を恐れる

しかし周囲の人々が、

「今が最期だ」

と叫ぶ声を聞くと考えた。

「千尋の海底へ沈み、水の底の藻屑となったならば、深い罪へ沈む自分を、死後に誰が知り、供養してくれるのだろう」

涙さえ尽き、もはや顔を上げることもできなかった。


松浦も誘拐を後悔する

松浦も、すでに呆然としていた。

「このような高貴な方を奪って連れてきたため、竜神の怒りを受けているのではないか。

役にも立たないことをしてしまった」

本当に後悔している様子だった。


船頭が御匣殿を生贄にするよう求める

その時、舵取りの1人が船底から這い出してきた。

そして言った。

「この鳴門は、竜宮城の東門に当たる場所です。

竜神が欲しがる物を海へ沈めなければ、いつもこのような不思議が起こるといいます」


「竜神はこの女性を望んでいる」

「どうやら竜神は、あの高貴な女性へ心を寄せているのでしょう。

このようなことを申し上げるのは、あまりにも残酷で情けのないことです。

しかしこの女性1人のために、多くの者が道理に合わない死を迎えるのも、気の毒です。

あの女性を海へ入れ、100人余りの命を助けてください」


松浦が御匣殿を海へ投げようとする

松浦はもともと情けを知らない田舎武士だった。

「それで命が助かるのならば」

と、御匣殿のいる屋形へ入った。

荒々しく御匣殿を引き起こした。


松浦の残酷な言葉

松浦は言った。

「いつまでも冷たい態度を取られることは、私も不満です。

そこで海へ沈め申し上げることにしました。

親王との縁が本当に深いならば、土佐の幡多へ流れ着き、その宮という方と同じ浦へお住みください」

御匣殿を無理に抱き上げ、海へ投げ込もうとした。


御匣殿は仏の名を念じる

ここまで追い詰められては、御匣殿に何を言うことができただろうか。

すべて夢のように感じた。

息さえ出さず、心の中で仏の名だけを念じた。

すでに気を失ったように見えた。


同船の僧が人身御供を止める

その様子を見た1人の僧が、便船していた。

僧は松浦の袖をつかみ、言った。

「何をなさるのですか。

竜神も南方の清らかな世界で悟りを開き、仏となる予言を受けた存在です。

罪となる供物を受け取るはずがありません」


経と陀羅尼を唱えるよう勧める

「生きた人間を海へ沈めれば、竜神はさらに怒り、1人も助からなくなるでしょう。

経を読み、陀羅尼を唱え、それを竜神への法楽として差し上げるべきです」

僧は強く制止し、松浦をなだめた。


船中で観音の名を唱える

松浦も僧の言葉に道理を認めた。

御匣殿を屋形の中へ荒々しく投げ戻した。

「それならば僧の言うとおり、祈れ」

船中の上下すべての者が、声をそろえて観音菩薩の名を唱えた。


波の上に不思議な姿が現れる

すると不思議な者たちが、波の上へ次々と浮かび出た。


長持を担ぐ仕丁

最初に、薄い紅色の衣を着た仕丁が現れた。

長持を担いで波の上を通ったかと思うと、姿を消した。


白馬と8人の舎人

次に、白い葦毛の馬が現れた。

白い鞍が置かれ、8人の舎人が引いて通ったように見えた。

それも、たちまち消えた。


秦武文の怨霊

その次に、大物浦で腹を切って死んだ秦武文が現れた。

赤糸威の鎧を着て、同じ色の5枚兜の緒を締めていた。

黄色味を帯びた馬へ乗り、弓を杖のようについていた。

赤い扇を上げ、松浦の船へ向かい、

「その船を止めろ」

と招いているように見えた。

そして波の底へ沈んだ。


小舟へ御匣殿を乗せる案

舵取りは、この光景を見ると言った。

「海を行く船へ不思議な姿が現れることは、珍しいことではありません。

しかし今の姿は、武文の怨霊に違いありません。

その証拠を確かめるため、小舟を1艘下ろし、この女性を乗せて波の上へ流してみましょう。

そうすれば、竜神の心が分かるでしょう」


御匣殿を渦の中へ置き去りにする

人々も、

「そのとおりだ」

と同意した。

小舟を1艘下ろし、水夫1人と御匣殿を乗せた。

渦の波が盛り上がり、巻き返す海上へ浮かべた。


流罪の島よりも孤独な状況

中国の詩には、遠く離れた海岸の山へ流され、

「飢えと寒さの悲しみが深く、涙も尽きた」

と嘆く流人が詠まれている。

それでも人の住む島であれば、立ち寄る場所はあっただろう。


浦でも島でもない海上

御匣殿が置かれた場所は、浦でも島でもなかった。

鳴門の波の上である。

捨てられた小舟は浮き沈みし、潮流の中を回る泡のように、今にも消えそうだった。


松浦の船は西へ吹き流される

しかし竜神も、御匣殿と尊良親王との美しい契りを引き離すことをためらったのだろうか。

突然、風が二つの船を分けた。

松浦の船は西へ向かって吹き流された。

一ノ谷沖から武庫山の風に放たれ、どこへ行ったのか分からなくなった。


海は静まる

その後、波は静かになり、風も止んだ。

御匣殿の小舟に乗った水夫は、しっかりと舟を漕いだ。

そして淡路国の武島という場所へ、御匣殿をお連れした。


小さな孤島・武島

本文では、武島は周囲1里にも満たない小さな島だったとする。ここでの「里」も中世・説話上の距離表現として残す。

魚を取る海人の家以外には、住む者もいなかった。


御匣殿が気を失う

御匣殿は隙間の多い葦葺きの小屋へ入れられた。

この四、5日の風と波によって、心身ともに弱り切っていた。

そのまま気を失った。


海人の子どもたちが介抱する

心を知らないはずの海人の子どもたちまで、

「この方を、どうすればよいのだろう」

と泣き悲しんだ。

御匣殿の顔へ水をかけ、口へ少しずつ水を含ませるなどして介抱した。

半時ほどすると、御匣殿はようやく意識を取り戻した。


土佐へ送るよう頼む

以前から涙で濡れていた御匣殿の袖は、乾く暇もなかった。

そのうえ屋根から漏れる雨露と、海人の粗末な小屋である。

耐えられる旅寝ではなかった。

御匣殿は言った。

「いつまで、このような場所で苦しんでいればよいのでしょう。

土佐国の幡多という浦へ、どうか送ってください」


海人たちは土佐行きを断る

海人たちは皆、同じ考えで答えた。

「これほど高貴で美しい女性を我々の小舟へ乗せ、遠い土佐までお送りしたならば、途中の港で誰かが奪わないはずがありません。

我々の力では、とてもお送りできません」


武島で年を越す

御匣殿には、どうすることもできなかった。

波が寄せ、また退くたびに袖を絞りながら、その年を武島で過ごした。

その悲しみは、ほかに比べるものがなかった。


尊良親王は武文の帰りを待つ

一方、尊良親王は武文を京都へ送った後、長い月日が過ぎても何の知らせもないことを心配していた。

「どのような災難へ遭ったのだろう」

と、落ち着くことができなかった。


京都から来た人へ尋ねる

京都から土佐へ来た者へ、御匣殿のことを尋ねた。

すると、

「昨年9月、御匣殿は京都を出て、土佐へ向かったと確かに聞きました」

と答えた。


途中で奪われたか、海へ沈んだか

尊良親王は思った。

「途中で誰かに奪われたのだろうか。

あるいは浦風の中へ放り出され、深い海底へ沈んだのだろうか」

親王は、ますます深く悲しんだ。


鳴門で見つけた衣の話

ある夜、警護の武士たちが中門で宿直し、世間話をしていた。

その1人が語った。

「昨年9月、阿波の鳴門を通って土佐へ来た時、船の舵へ衣が引っかかっていました。

取り上げて見ると、普通の人が着る衣とは思えないほど立派なものでした」


高貴な女房が海へ沈んだ衣ではないか

「おそらく宮中や院に仕える高貴な女房が、地方へ下る途中で暴風へ遭い、海へ沈んだ。

その女性の衣ではないかと思いました」

武士たちは、

「何とも哀れなことだ」

と話し合った。


親王が衣を取り寄せる

尊良親王は塀越しに話を聞いた。

「もしかすると、御匣殿の衣ではないか」

と不審に思った。

そこで使者を出した。

「少し見たい物がある。

その衣がまだあるならば、持ってきなさい」


御匣殿の衣に間違いない

武士は、

「色は少し傷んでおりますが、まだ私の手元にございます」

と、衣を差し出した。

親王がよく見ると、武文を迎えに送った時、有井庄司が御匣殿のために仕立てた衣だった。


残り布と模様が完全に一致する

親王は、

「何と不思議なことだ」

と、仕立てた時に残った布を持ってこさせた。

二つを合わせると、綾織りの模様が少しも違わず、完全につながった。

御匣殿の衣であることは疑いなかった。


親王は御匣殿が死んだと思う

尊良親王は2度と衣を見ることができなかった。

衣を顔へ押し当て、涙を拭った。

有井庄司も親王の前にいたが、袖へ涙を落としながら退出した。


衣が見つかった日を命日とする

親王は、

「御匣殿がこの世に生きている」

とは、少しも考えなかった。

衣が船の舵へ引っかかった日を、御匣殿の命日と定めた。


御匣殿と武文の冥福を祈る

親王は自ら経文を書き写し、念仏を唱えた。

そして祈った。

「亡くなった藤原氏の娘と、同じく命を失った秦武文が、ともに迷いの世界の苦海を出て、速やかに極楽浄土へ至りますように」

その悲しみは、まことに哀れだった。


鎌倉幕府が滅び、親王は京都へ戻る

その年の春ごろから、諸国で戦いが起こった。

六波羅・鎌倉・九州・北国の朝敵たちは、同時に滅びた。

後醍醐天皇は隠岐国から京都へ戻った。

尊良親王も土佐国幡多から、都へ帰った。


天下が朝廷のもとへ統一される

天下はすべて朝廷の支配へ戻り、めでたい世となった。

しかし尊良親王は、

「御匣殿がこの世にはいない」

ということばかりを悲しんでいた。


御匣殿が武島で生きていると分かる

ところが、

「御匣殿は淡路国の武島で、今も生きておられる」

という知らせが届いた。

親王は急いで迎えを送った。

御匣殿は京都へ帰ることができた。


奇跡の再会

その再会は、中国で仙人の世界から帰った王質が、七代後の子孫に会ったという話にも似ていた。

また海の彼方へ向かった方士が、亡くなった楊貴妃と出会ったという物語にも劣らなかった。


御匣殿が旅の苦しみを語る

御匣殿は語った。

「あなたのもとへ向かった旅で、どれほど心を苦しめたことか。

波の中を回る泡のように、自分の命がいつ消えるのか分かりませんでした。

耐えられない思いで濡れた衣の襟を、あなたはどれほど御想像くださっていたでしょうか」

涙で袖が濡れるほどだった。


親王も都での悲しみを語る

尊良親王も語った。

「遠く海を渡る船の舵の葉へ、どれほど手紙を書いても書き尽くせないほど悲しみました。

何の跡もないあなたの行方を尋ね続けた月日の数と、その間に積み重なった悲しみは、言葉で語ることもできません」


2人に再び栄華が訪れる

あれほど苦しかった世の中は、短い間に一変した。

2人は人間世界の栄華も、天上の楽しみも、限りがないほど味わった。

尽きることのない音楽や遊びが続いた。


永遠に続くと思われた幸福

長生殿では梨の花へ降る雨が永遠の契りを示し、不老門の前では柳を吹く風も枝を鳴らさなかった。

2人は、

「今日こそ1000年の幸福の始まりである」

と思った。


再び天下が乱れる

しかし楽しみが尽きれば悲しみが来るのが、人間の世の習いである。

『太平記』のこの挿話では、1年ほどすると建武元年(1334年)の冬ごろから再び天下が乱れた、と語る。ここも物語内部の年代として読む。

朝廷が支配した世は終わり、武家が政治を行うようになった。


尊良親王が金ヶ崎城で自害する

尊良親王は、ついに越前国金ヶ崎城で自害した。

首は京都へ送られた。

禅林寺の夢窓国師が葬儀を行ったという知らせが、御匣殿へ届いた。


御匣殿が禅林寺へ向かう

御匣殿は、あまりの悲しみにどうすることもできなくなった。

人に助けられて車へ乗り、禅林寺付近まで出ていった。


親王を焼く煙

そこには尊良親王の火葬の煙と思われるものが立っていた。

墨染めの夕雲の中へ煙が上り、松を吹く風になびいていた。

細く心細い煙だった。


高貴な親王が剣の上で亡くなった悲しみ

普通の死別であっても、誰にとっても涙を抑えられない。

まして尊良親王ほど高貴な身の方が、剣の先へ身を触れ、秋の霜のように消えたのである。

比べるもののない悲しみだった。


親王と同じ煙や露になりたい

御匣殿は親王の最期の姿を想像し、いっそう悲しみを深くした。

「自分も親王と前後して墓地の煙となり、北の墓原へ置かれる露とともに消えたい」

そう思いながら、帰りの車の中へ倒れ伏した。

その心の内は、まことに哀れだった。


昔の御所へ戻っても悲しみは深まる

御匣殿は、かつての御所を訪ねた。

竹の庭園や、主を失った宮殿の月が心を傷つけた。

寒く寂しい寝室へ帰れば、1人暮らしの部屋を吹く風が、夢の中まで悲しみを運んだ。


49日を待たずに亡くなる

見るもの、聞くものすべてによって、御匣殿の悲しみは日ごとに深くなった。

やがて病気となった。

尊良親王の49日の供養が終わるよりも前に、御匣殿も亡くなった。


人々は2人の悲恋に涙する

この知らせを聞いた者は、誰もが、

「これほど哀れな恋の結末は、ほかにない」

と感じた。

皆、そろって袖を涙で濡らしたのである。

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167. 比叡山開創の由来


※注:この章で玄慧法印が語る、日本国の起源、釈迦の来日、地主神との対話、地中の舌、三つの太陽、山王諸神の本地仏などは、中世の神仏習合にもとづく縁起説話である。歴史的事実を説明する章ではなく、『太平記』が比叡山の権威をどのような物語で語ったかを読む。

金ヶ崎城の陥落後、天下は足利方へ傾く

金ヶ崎城が攻め落とされると、諸国の朝廷方は力を失ったのだろう。

ある者は足利方へ降伏し、ある者は軍勢を解散して退いた。

天下の人々が足利将軍の威勢へ従う様子は、風が吹けば草木が一斉になびくようだった。


足利方は比叡山を警戒していた

それまでは各地に朝廷方の城が残り、比叡山の僧兵も、

「今度は何を起こすか分からない」

と恐れられていた。

そのため足利方は比叡山の僧たちを刺激しないようにし、寺領の支配を以前のまま認めていた。


天下が静まると方針を変える

『太平記』はこの時点の情勢を、天下が足利方の武威へ服して平穏になったものとして描く。

そこで足利方の武将たちは考えた。

「もはや比叡山の僧たちに遠慮する必要はないのではないか」

以前の穏やかな処置を改め、比叡山を厳しく処分しようという議論が始まった。


比叡山を三井寺の末寺にする案

評議では、さまざまな意見が出た。

「比叡山延暦寺を、対立してきた園城寺、すなわち三井寺の末寺にしてはどうか」

「比叡山が持つ多数の所領を取り上げても、それだけでは十分ではない」

「いっそのこと九院すべてを没収し、僧たちを山から追放してはどうか」

「僧を追い出した跡地は、足利方の軍勢へ恩賞として与えよう」

高氏・上杉氏らは尊氏の前に集まり、比叡山の処分を相談した。


玄慧法印が現れる

そこへ北小路の玄慧法印が現れた。

高師直は尊氏へ申し上げた。

「この方は深い知恵と広い学問を備え、さまざまな事柄に詳しい人物です。

比叡山についても、よく御存じでしょう。

ここで詳しく尋ねてみてはいかがでしょうか」

尊氏も、

「もっともである」

と答えた。

「法印、こちらへおいでください」

と玄慧を呼び寄せた。


玄慧が天下平定を祝う

玄慧法印は席へ着いた。

まず天下が平穏になったことを祝い、その後さまざまな話が交わされた。

その時、上杉伊豆守重能が玄慧へ問いかけた。


上杉重能が比叡山を非難する

「先ごろ比叡山は、後醍醐上皇が2度にわたって行幸されたことを受け入れ、足利将軍へ敵対しました。

それは明らかなことです。

しかし将軍の武運が天命にかなっていたため、朝敵は一時に滅び、天下は平和となりました」


比叡山の祭礼と寺領への疑問

「そもそも比叡山では毎年祭礼を行い、京都の住民へ大きな負担をかけています。

3000人の僧を養うため、全国の多くの荘園を支配しています。

世の中にとっては大きな費用です」


朝廷と武家が比叡山を保護した理由

「それでも朝廷や武家が比叡山を廃止しなかったのは、ひとえに比叡山の祈りを頼りとし、天下の平穏を願ったからです。

ところが比叡山は今、武家へ恨みを持ち、足利方を朝敵として滅ぼすよう熱心に祈りました。

これは足利家を害する虫であり、仏門に残った賊ではないでしょうか」


比叡山がなかった時代にも国は治まっていた

「聞くところによれば、比叡山が開かれたのは延暦年間の終わりごろであり、桓武天皇の時代です。

比叡山が建てられる以前にも、五十代にわたって天皇が国を治めていました。

外国に侵略されることもなく、怪異に悩まされることもありませんでした。

天皇は高い徳を世に広め、民衆もその政治を喜んでいたのです」


「比叡山はなくてもよいのではないか」

「このことから考えれば、あっても役に立たないものが比叡山であり、いなくても困らない者が山法師ではないでしょうか。

それとも、比叡山がなくてはならない理由があるのでしょうか」


白河法皇の「三不如意」

「白河法皇も、

『朕の思いどおりにならないものは、双六の賽、賀茂川の水、比叡山の僧兵である』

とおっしゃったと聞いています。

その意味も不思議に思われます。

どうか説明してください。

今後の学問の参考にいたしましょう」


玄慧は怒りを抑える

玄慧法印は、重能の言葉をじっと聞いた。

「何という言語道断な話だ。

口を閉じ、耳をふさいで帰ってしまいたい」

と思った。

しかし、

「一言でも語れば、誤った考えを捨て、正しい道へ戻るかもしれない」

とも考えた。

そこで相手の意見へ正面から反発する言葉を控え、長い物語を始めた。


日本国の始まりには多くの説がある

玄慧は語った。

「そもそもこの国の始まりについては、家々に伝わる話が異なり、多くの説があります。

ここでは記録に伝わる一つの説を申し上げましょう」


迦葉仏の時代

天地がすでに分かれた後、第九の減劫、人間の寿命が2万年だった時代に、迦葉仏がインドへ現れた。

そのころ後に釈迦如来となる大聖者は、迦葉仏から未来に仏となる予言を受け、兜率天へ住んでいた。


釈迦が仏法の広まる土地を探す

釈迦は考えた。

「私がこの世へ現れ、悟りを開き、亡くなった後、教えが広まる土地はどこであろうか」

そこで南閻浮提、すなわち人間の住む世界を、空から広く見渡した。


海上から聞こえる法華経の言葉

果てしない大海の上から、波の音が聞こえた。

その波は、次のような仏法の真理を唱えているようだった。

すべての生き物には仏となる性質がある。
如来は常に存在し、変わることがない。

釈迦はこの音を聞いた。


波が止まる場所が仏法の霊地となる

釈迦は考えた。

「この波が流れ着いて止まる場所は、一つの国となるだろう。

そして私の教えが広まる神聖な土地となるに違いない」

『太平記』の縁起説話では、釈迦が波の流れに従い、はるか10万里の海を渡ったと語る。この「里」は伝説的な距離表現であり、kmへ単純換算しない。


1枚の葦の葉が島となる

波は海中に浮かぶ1枚の葦の葉のところで止まった。

その葦の葉は、やがて一つの島となった。

それが現在の比叡山の麓、日吉大社の大宮権現が現れた波止土濃であるという。

波が止まり、土が濃く集まったため、この名になったとされる。


釈迦の誕生と成道

その後、人間の寿命が100年となった時代に、釈迦は中インドの摩訶陀国、浄飯王の宮殿へ生まれた。

19歳の時、2月8日の夜中に王宮を抜け出した。

6年間の苦しい修行を行い、雪山では自分の身を捨てるほどの苦行をした。

さらに菩提樹の下へ座り、悟りを求めた。


釈迦の説法と入滅

修行を始めて6年後の夜明け前、釈迦は悟りを開いた。

その後、

  • 華厳などの大乗の教えを21日間
  • 阿含などの教えを12年間
  • さまざまな仮の教えを30年間
  • 法華経などの真実の教えを8年間

説いた。

最後には跋提河のほとり、沙羅双樹の下で入滅した。


釈迦は日本へ来る

しかし仏は本来、永遠に存在し、世界全体へ行き渡る真理そのものである。

釈迦は自分の教えを後世へ伝えるため、昔、葦の葉から国となった南閻浮提の豊葦原中国、すなわち日本へ来た。


まだ仏法の名も知られない時代

当時は鵜葺草葺不合尊の時代だった。

人々は、まだ仏法という言葉さえ聞いたことがなかった。

しかし日本は大日如来が照らす本来の国であり、仏法が東へ広がる霊地となる場所だった。

釈迦は、

「どこへ人々を救う門を開こうか」

と各地を巡った。


志賀浦で釣りをする老人

比叡山の麓、楽々名美也、現在の志賀浦付近に、釣りをしている老人がいた。

釈迦は老人へ言った。

「あなたがこの土地の主ならば、この山を私へ譲ってほしい。

仏法の結界となる土地として、教えを広めたい」


白髭明神が土地を譲らない

老人は答えた。

「私は人間の寿命が6000年だった時代から、この土地の主である。

この湖が7度まで葦原へ変わったのを見てきた。

この地が仏法の結界となれば、私が釣りをする場所を失ってしまう。

釈迦よ、早く立ち去り、ほかの国で土地を求めなさい」

この老人は白髭明神だった。


薬師如来が現れる

釈迦は土地を得られず、寂光浄土へ帰ろうとした。

その時、東方浄瑠璃世界の教主である薬師如来が、突然現れた。

釈迦は大いに喜び、白髭明神との会話を語った。


薬師如来は比叡山の地主神

薬師如来は、釈迦の願いをたたえて言った。

「釈迦よ、この土地へ仏法を広めようとするのは、まことに素晴らしいことである。

私は人間の寿命が2万年だった時代から、この国の地主である。

あの老人は私のことを知らない。

どうして、この山をあなたへ譲ることを惜しめるだろうか」


釈迦は伝教大師、薬師は山王となる

「時が来て仏法が東へ伝わる時、釈迦は教えを伝える大師となり、この山を開きなさい。

私はこの山の王となり、末法の世まで長く仏法を守ろう」

二仏はこのように約束し、それぞれ東西へ去った。


釈迦が伝教大師として生まれる

それから1800年が過ぎた。

釈迦は伝教大師最澄として、この世へ現れた。

延暦23年、最澄は仏法を求めるため中国へ渡った。

顕教・密教・戒律の三つの教えを深く学び、翌延暦24年に日本へ帰った。


桓武天皇が比叡山建立を支える

桓武天皇は仏法を支える施主となり、比叡山の建立を始めた。

伝教大師は天皇の命令を受け、根本中堂を建てる場所を整えた。


地中に法華経を唱える舌

地面を掘ると、紅い蓮の花のような人間の舌が、土の底から現れた。

その舌は、絶えず法華経を読む声を発していた。

伝教大師は不思議に思い、理由を尋ねた。


六万部の法華経を読んだ僧

舌は答えた。

「私は昔、この山へ住み、法華経六万部を読誦した。

寿命には限りがあるため、体はすでに滅びた。

しかし読経の声は尽きないため、舌だけが今も残っている」


根本中堂の薬師如来像

根本中堂の建立が終わると、伝教大師は本尊となる薬師如来像を、自ら彫った。

斧を1度入れるたびに、次の言葉を唱え、礼拝した。

像法の世となった時、人々を救う。
そのため薬師瑠璃光仏と名づける。

すると木像の薬師如来が、首を曲げてうなずいたという。


小比叡の杉の庵

その後、伝教大師は小比叡の峰に杉の庵を建て、1人で住んだ。

ある時、歌を詠んだ。

波母山や
小比叡の杉の
1人居は
嵐も寒し
問ふ人もなし

意味は、およそ次のようになる。

小比叡の杉の庵へ1人で住んでいると、山風も冷たい。
訪ねてくる人もいない。


三つの太陽が降りてくる

伝教大師が澄んだ心で月を眺めていると、まばゆく光る三つの太陽が空から降りてきた。

その光の中には、

  • 釈迦如来
  • 薬師如来
  • 阿弥陀如来

の三尊が、光を並べて座っていた。


三尊が伝教大師を礼拝する

三尊は僧の姿となったり、俗人の姿へ変わったりしながら、伝教大師を礼拝した。

そして、次のようにたたえた。

十方の大菩薩は、人々を哀れんで道を歩む。
まさに敬う心を起こすべきである。
この方こそ、我々の大師である。


神の名を尋ねる

伝教大師は三尊を深く礼拝し、尋ねた。

「どうか、あなた方の御名をお聞かせください」

三尊は答えた。

「縦に並ぶ三つの点へ、横の一点を加えよ。

横に並ぶ三つの点へ、縦の一点を加えよ。

内では天台円教を守り、外では人々を救う働きを助けるため、この山へ来た」

その光は、何度も磨かれた鏡のように天へ輝いた。


「山王」の文字

伝教大師は、この言葉から文字を作った。

縦の三点へ横の1本を加えれば、山の字となる。

横の三点へ縦の1本を加えれば、王の字となる。


山王の意味

山は高く大きく、動かない形を表す。

王は天・地・人の三つを縦横へ治める徳を表す。

そこで伝教大師は、この神々を山王として崇めた。


大宮権現

大宮権現は、遠い過去から悟りを開いていた仏である。

天照大神が姿を変えて現れたものともいう。

天台宗の教えを守るため、長く比叡山へ住んでいる。

そのため法宿大菩薩とも呼ばれる。

三界の生き物を慈しむ父であり、我々の根本の師である。


聖真子権現

聖真子は、極楽浄土を治める阿弥陀如来であり、八幡大菩薩の分身である。

比叡山の麓へ光を和らげ、三聖の姿を現した。


悪人も救い、一念にも応じる

たとえ十悪を犯した者でも、聖真子は速やかに救い取る。

それは強い風が雲や霧を吹き払うよりも速い。

わずか1度心に念じただけでも、必ず応じる。

それは大海が一滴の露をも受け入れることにたとえられる。


人間世界へ姿を現す目的

神仏が光を和らげ、人間と同じ姿へ交わることは、人々と縁を結ぶ始まりである。

その縁によって極楽へ往生することが、最終的な救いとなる。


二宮権現

二宮は、初めに釈迦と約束した東方浄瑠璃世界の薬師如来である。

日本国の地主でもある。

「それぞれの土地で人々の願いへ応じる」

という誓いは、すでに実現している。


現世と来世を救う薬師如来

薬師如来へ祈れば、現世では平穏を得る。

また西方極楽浄土へ生まれたいと願う者を、来世の悟りへ導く。


八王子権現

八王子は千手観音の垂迹である。

清らかな三昧の力によって、地獄に落ちた者の重い苦しみを救う。

仏法を受け継ぐ大法王子であるため、大八王子と呼ばれる。


補陀落山としての比叡山

本来の仏は極楽浄土にいる。

しかし人々の縁へ応じる影は、はるか比叡山の麓にある神社へ現れる。

それぞれの神が住む浄土を表すならば、比叡山は観音の住む補陀落山とも呼べる。


客人宮

客人宮は十一面観音が姿を変えたものであり、白山の神である。

山王の人々を救う働きを助けるため、北陸の高い霊峰から東山の霊地へ来た。

そのため「客人」と呼ばれる。


客人宮の利益

客人宮を信仰すれば、現世で十種の優れた利益を得る。

命が終わる時には、極楽浄土の九品の蓮台へ生まれることができる。


十禅師宮

十禅師宮は、仏がいない世界で人々を導く地蔵菩薩の化身である。

釈迦の遺した教えを受け、その後の人々を託された。

釈迦入滅から弥勒出現までの間、人々を導く大導師である。


十禅師の託宣

十禅師は、次のように託宣した。

3000人の僧を養い、わが子とする。
法華一乗の教えを守り、わが命とする。

わずかな縁を結んだだけでも、大きな利益を受けられる。


三宮権現

三宮は普賢菩薩の化身であり、妙法蓮華経そのものを表す。

法華経を読む者の窓辺へ姿を現し、その祈りを受け入れる。

恥を知り、罪を悔いる者を導く仏である。

六根の罪を抱える我々が、どうして仰がずにいられるだろうか。


中七社の本地仏

次に中七社について語る。

  • 牛御子は大威徳明王
  • 大行事は毘沙門天
  • 早尾は不動明王
  • 氣比は聖観音
  • 下八王子は虚空蔵菩薩
  • 王子宮は文殊菩薩
  • 聖女宮は如意輪観音

が本来の姿である。


下七社の本地仏

下七社では、

  • 小禅師は弥勒菩薩・龍樹菩薩
  • 悪王子は愛染明王
  • 新行事は吉祥天女
  • 岩滝は弁才天
  • 山末は摩利支天
  • 剣宮は不動明王

である。


三つの竈殿

また、

  • 大宮の竈殿は大日如来
  • 聖真子の竈殿は金剛界の大日如来
  • 二宮の竈殿は日光菩薩・月光菩薩

を表す。

それぞれが慈悲の門から現れ、人々を救う道へ向かう。


四所の菩薩と二十一社

その後、四所の菩薩が山王の働きを助けるため、十方から集まった。

三七、すなわち二十一の神々が光を並べ、比叡山の四方を取り囲んだ。


山王の功徳は語り尽くせない

人々を救い、悟りへ渡す山王の徳は、百千劫もの長い間、舌を伸ばして説き続けても、語り尽くすことができない。


三塔の意味

比叡山は、

  • 戒律
  • 禅定
  • 智慧

という三学を表すため、東塔・西塔・横川の三塔を建てた。


3000人の僧の意味

人は、一つの心の中へ三千の世界を備えるという「一念三千」の教えによって、3000人を定員としている。


天下の治乱と山王の加護

十二の誓願を持つ薬師如来が人々へ目を向ける。

そのため天下の治乱で、山王の応答に関係しないものはない。

七社権現がこの地へ姿を現した。

そのため国内の吉凶で、山王の神聖な判断によらないものはない。


朝廷に事件があれば比叡山が祈る

朝廷に事件が起これば、比叡山は祈り、災いを除き、幸福を招いてきた。

比叡山が訴えを起こした時には、朝廷も山門の悲しみを理解し、道理に反する扱いをしないようにしてきた。


後醍醐天皇を受け入れた理由

「比叡山が2度にわたって後醍醐天皇を受け入れたことは、表面だけ見れば、僧たちの誤った行動だったかもしれません。

しかし追い詰められた鳥が懐へ飛び込んできたならば、狩人であっても哀れに思い、殺さないものです」


天皇が頼ってきたなら拒めない

「まして十善の徳を備えた天皇が、比叡山を頼りとして来られたのです。

どうして味方せずにいられたでしょうか」


恨みを捨て、恩を施すべきである

「その時に足利方への強い執着を持ち、今も野心を抱く僧が、少し残っているかもしれません。

しかし武将がその恨みを忘れ、厚い恩を与えるならば、状況は変わります」


敵の祈りを味方の祈りへ変える

「かつて敵の勝利を祈った僧たちの勤行も、かえって足利家を守る祈りとなるでしょう。

朝敵を助けようとした心も変わり、足利将軍のために二心なく尽くす者となるはずです」


足利方は玄慧の説得を受け入れる

玄慧法印は、仏法と世間の道理を明らかにし、言葉を尽くして説明した。

尊氏・直義をはじめ、

  • 高氏
  • 上杉氏
  • 幕府の奉行人
  • 評定衆

に至るまで、玄慧の話へ聞き入った。


「比叡山なしには天下を治められない」

人々は考えを改めた。

「なるほど、比叡山がなくては、天下を治めることはできないのだ」

足利方は比叡山を改めて信仰するようになった。


比叡山の旧領を安堵する

足利方は、比叡山の従来の所領をそのまま認めた。

それだけではなかった。

武家から新しい土地を、さらに寺領として寄進した。


玄慧の弁舌が比叡山を救う

こうして比叡山を廃絶し、僧を追放しようとしていた評議は取りやめられた。

玄慧法印の長い説明によって、比叡山は所領と地位を守ったばかりか、以前よりも大きな保護を受けることになったのである。

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