太平記 22巻


197. 鷹巣城の畑時能――十七人で三千騎を破り、流れ矢に倒れる


北陸の宮方は鷹巣城だけとなる

京都から足利方の大軍が攻め下ったため、杣山城も陥落した。

越前・加賀・能登・越中・若狭の五か国では、宮方の城は一つも残らなくなった。

ただ一か所、畑六郎左衛門時能が、わずか二十七人で立てこもる鷹巣城だけが残っていた。


一井氏政も鷹巣城へ入る

一井兵部少輔氏政は前年、杣山城から平泉寺へ移り、僧兵たちを味方につけて旗を挙げようとした。

しかし越前国内で宮方の勢力は弱く、協力する僧もいなかった。

そのため氏政も、鷹巣城へ入って立てこもった。


七千余騎が鷹巣城を包囲する

足利方は考えた。

「畑時能の武勇と一井氏政の知略を、小勢だからと放置すれば、やがて天下を揺るがす大事となるだろう」

そこで、

  • 斯波高経
  • 高師重

を大将とした。

北陸道七か国の兵七千騎余りを率い、鷹巣城を幾重にも包囲した。

さらに三十余か所へ向城を築いた。


畑時能は武蔵国の出身

畑六郎左衛門時能は、もともと武蔵国の住人だった。

十六歳のころから相撲を好み、坂東八か国に勝てる者はいなかったという。

腕の筋肉は太く、太ももの肉は厚かった。

古代中国の怪力の勇士にも劣らないほど、並外れた体を持っていた。


山野・川海で鍛えられた能力

その後、信濃国へ移り住んだ。

長年、山野での狩猟や、川・海での漁を仕事とした。

そのため馬へ乗り、岩や険しい場所を駆け下る技は、神通力を得たようだった。


馬術と水泳

中国の名御者・造父が馬を操り、千里を進んでも疲れなかったという技も、時能には及ばないと思われた。

水泳にも達者であり、伝説の泳ぎの名人と同じ技を得ていた。

竜のあごの下にある宝珠さえ、自ら潜って奪えるように思われた。


弓術と知略

弓についても、中国の名射手・養由基の技を受け継ぐようだった。

弦を鳴らすだけで、遠い木の梢にいる猿を落とせるほどだった。

計略にも巧みで、部下を親しみいたわった。

気力は強く、心がくじけることがなかった。


戦場では敵を圧倒する

戦場へ出るたびに敵をなびかせ、堅陣を打ち破った。

中国の勇将・樊噲や周勃でさえ、身につけられなかった戦い方を得ていたかのようだった。


所大夫房快舜

似た者同士が集まるのが世の習いである。

時能の甥に、所大夫房快舜という僧がいた。

この者も時能へ少しも劣らない、荒々しい僧兵だった。


悪八郎と犬獅子

家臣には、悪八郎という口の裂けた怪力の男がいた。

さらに犬獅子と名づけられた、不思議な犬を一匹飼っていた。


三人は姿を変えて敵城へ入る

時能・快舜・悪八郎の三人は、夜になると、さまざまに姿を変えた。

ある時は兜と鎖帷子を身につけ、足軽の姿となった。

ある時は大鎧を着て、武器一式を持つ武者となった。

そして敵の向城へ忍び込んだ。


犬獅子が敵陣を偵察する

まず犬獅子を先へ行かせ、敵城の警戒の様子を探らせた。

敵の用心が厳しく、入り込む隙がない時には、犬獅子は一声吠えて走り戻った。

敵が寝静まり、夜回りも休んでいる時には、主人のもとへ戻って尾を振った。


犬を案内役として夜襲する

三人は犬獅子を案内役として、城壁を乗り越えた。

敵城へ入ると大声で叫び、縦横に走り回って敵を斬った。


数千人の敵が城を捨てる

数千人の足利兵は突然の夜襲に驚き、混乱した。

三人が忍び込んだ向城で、攻め落とされなかったものはなかった。


犬にも恩を返す心がある

古い言葉に、

犬は、人の家を守るために養われる。

とある。

心を持たないように見える獣にも、恩に報い、徳へ答える心があるのだろう。


周王と犬戎国の伝説

昔、周王朝が衰えようとした時、戎の国が反乱を起こし、王の政治へ従わなかった。

周は軍を送ったが敗北した。

官軍の死者は三十万人、奪われた土地は七千里余りに及んだという。


諸侯まで戎へ降伏しようとする

国は危機へ陥り、兵は辱められた。

諸侯は皆、戎国へ降伏することを願い出た。

周王はこれを深く憂え、安眠できなかった。


王が犬へ冗談で命令する

その時、王の前に一匹の犬がいた。

王は犬へ魚や肉を与え、冗談で言った。

「お前に心があるならば、戎の国へ行け。

ひそかに戎王をかみ殺し、世の乱れを鎮めよ」


功績には宮女と国を与えると約束する

「それを果たしたならば、宮中の三千人の女性から一人を与え、夫婦としよう。

さらに戎国の王としよう」

犬は王の命令を聞くと、立ち上がって三度吠えた。


犬が戎王を殺す

犬は万里の道を越えて戎国へ向かった。

ひそかに戎王の寝所へ入り、たちまち王をかみ殺した。

その首をくわえ、周王の前へ持ち帰った。


王は約束を守る

王は冗談で命じたことだった。

しかし天子の言葉は変えられないとして、後宮の女性一人を犬へ与えた。

犬と夫婦にし、戎国を恩賞として与えた。


犬と宮女の子孫

その女性は、後宮三千人の中でも特に寵愛された者だった。

王の恩愛を捨てるのは悲しかったが、命令であるため、犬とともに戎国へ下った。

長年暮らし、一人の男子を生んだ。


犬戎国の由来

その子は頭が犬で、体は人間と変わらなかった。

子孫が代々、戎国を治めた。

そのため、その国を犬戎国と呼んだという。

『太平記』は、この故事を考えれば、犬獅子の働きも特別珍しいものではないと語る。


毎夜、足利方の向城を落とす

犬獅子が敵城へ入り、警戒の隙を調べた。

そのため足利方が三十七か所へ築き、

  • 逆茂木を置き
  • 城壁を塗り固めた

向城も、毎晩一つ、二つと落とされた。


足利兵は畑時能へ内通する

足利兵は武具を捨て、馬を失い、何度も恥をかいた。

敵の強さよりも、味方から笑われることを恐れた。

そのため、ひそかに時能へ兵糧を送り、酒や料理を届けた。

「できれば自分の城だけは夜襲しないでほしい」

と、時能へ頼まない者はいなかった。


上木家光への疑い

足利方の中に、上木九郎家光という武士がいた。

もとは新田義貞へ仕えていたが、心を変えて足利方へ移り、攻城軍へ加わっていた。


畑へ兵糧を送ったとの噂

上木が数百石の兵糧を、ひそかに畑時能へ送ったという噂が立った。

すると何者かが、斯波高経の陣前へ高札を立てた。

畑を討とうと思うならば、まず上木を斬れ。

「畑」と「伐る」を掛けた皮肉な文だった。


高経や同僚から疑われる

これ以後、斯波高経も上木家光を疑うようになった。

同僚たちも、上木から距離を置いている様子だった。


上木が二百人で鷹巣城を攻める

上木は無念に思った。

2月27日の早朝、自分の一族二百人余りへ、突然、完全武装させた。

大竹を割り、盾の表面へ当てた。

一団となって鷹巣城を攻め上った。


足利軍全体が続く

ほかの寄せ手は、それを見て言った。

「城の地形を知る上木が突然攻めるのだから、城を落とす方法があるに違いない。

上木一人の手柄にするな」

三十余か所の向城から、足利兵七千人が一斉に飛び出した。


十八町の険しい坂を登る

兵たちは武器を十分に取る暇もなかった。

岩を伝い、木の根へつかまりながら、鷹巣城の険しい十八町の坂を一息に攻め上った。

そして城の断崖の下へ到着した。


城兵は静まり返る

しかし鷹巣城では、まったく音を立てなかった。

「敵の様子をよく見よ」

と命じ、静かに待ち構えていた。


五人の勇士が打って出る

足利軍が鹿垣の近くまで迫った時、

  • 畑時能
  • 所大夫房快舜
  • 悪八郎
  • 鶴沢源蔵人
  • 長尾新左衛門
  • 児玉五郎左衛門

らが、それぞれ武装して打って出た。

本文は「五人」とするが、名は六人挙げられており、原文の人数には混乱がある。

彼らは太刀や長刀の刃をそろえ、名乗りを上げ、大声で叫びながら斬り込んだ。


先頭の百人余りが混乱する

足利軍の先頭百人余りは、

「城には人がいない」

と油断して近づいていた。

突然の攻撃へ驚き、散り乱れた。

互いの助けを得ようと、一か所へ密集した。


悪八郎が大岩を転がす

悪八郎は八、九尺ほどの大木を脇へ抱えた。

そして五、六十人でも動かせないほどの大岩を、密集した敵へ転がした。


大岩が敵を押し潰す

岩が転がる様子は、巨大な山が崩れ、石の塊が卵を押し潰すようだった。

時能たちはこの機会を利用し、左右へ激しく攻めた。

八方の敵を払い、敵陣を破っては引き返し、戻っては再び進んだ。


足利軍は多数の死傷者を出す

官軍は縦横に斬り回った。

討たれた者、負傷した者は数えきれなかった。


足利軍は遠巻きに包囲する

その後、足利方は鷹巣城へ攻め上ろうとしなくなった。

山や川を隔て、向城を遠くへ移した。


時能は決戦を望む

敵が遠くへ退いたため、時能から攻撃する方法もなくなった。

時能は、しばらく考えた。

「このままでは、どうにもならない。

もう一度、誰も見たことのない戦いを行おう。

敵を散らすか、自分が散らされるか、その二つの間に天運を試そう」


鷹巣城へ十二人を残す

時能は大将の一井氏政へ、兵十一人をつけて鷹巣城へ残した。

自分は主だった兵十六人を率いた。


伊地山で中黒の旗を掲げる

10月21日の夜中、豊原の北にある伊地山へ登った。

新田氏の中黒の旗二流を立て、足利軍が来るのを待った。


高経は寺社勢力の蜂起と思う

斯波高経は旗が立ったと聞いた。

鷹巣城から兵が分かれて出てきたとは思わなかった。

「豊原寺・平泉寺の僧兵が宮方と手を結び、兵を挙げたのだ」

と考えた。


三千余騎で攻め寄せる

高経は、

「少しも勢力を整える時間を与えてはならない」

と、翌22日の午前6時ごろ、三千騎余りで押し寄せた。


小勢と知り、足利軍が進む

足利軍は初め、敵の人数を測ることができず、簡単には進まなかった。

しかし、

「小勢にすぎない」

と分かると、まったく恐れず、我先にと前進した。


畑時能の完全武装

時能は、敵が遠くへいる間、自分の姿を見せなかった。

敵が一、二町まで近づくと、戦場へ姿を現した。

金属を打ち延ばした鎧へ、火威の威毛を用いたものを、草摺が長く垂れるように着た。

同じ威毛の五枚兜へ鍬形をつけ、緒を強く締めた。

熊野打ちの胸当てと、丈の高い脛当てを身につけた。


太刀と長刀

時能は、

  • 四尺三寸の太刀
  • 三尺六寸の長刀

を持った。

長刀は柄を短く握った。

一引両の旗印を馬の三か所へなびかせた。


塩津黒に乗る

時能が乗った馬は、塩津黒と呼ばれた。

体高五尺三寸もある大馬で、鎖製の馬鎧をつけていた。


「畑将軍ここにあり」

選び抜いた十六人の兵が、時能の前後左右へ従った。

時能は大声で叫んだ。

「畑将軍はここにいる。

斯波尾張守は、どこにいる!」

そして大軍の中へ突入した。


三千余騎をかき乱す

時能は敵を追い回し、陣形を乱した。

八方を払い、四方の進路をふさいだ。

数千の兵は、たちまち散り乱れた。

馬を止めることさえできなかった。


高経が味方を叱る

これを見て斯波高経と鹿草兵庫助は、旗の下へ馬を進めた。

「何と情けない者たちだ。

敵がたとえ鬼神であっても、あれほどの小勢を見て退く者があるか」


魚鱗の陣で包囲するよう命じる

「馬の足を進め、魚鱗の陣形を作れ。

兵法に従って兵を配置し、敵を包囲せよ。

一人も逃さず討ち取れ」

高経は隙間なく命令を下した。


十六人を三千騎が包囲する

足利兵三千騎余りは、大将の叱責によって力を取り戻した。

時能ら十六人を中央へ包囲し、一人も逃すまいと攻めた。


塩津黒の俊足

大軍を欺くことは難しい。

しかし時能の馬は、項羽の名馬・騅にも劣らないほどの俊足だった。


包囲を何度も突破する

馬の鐙へ体をぶつけられ、蹄の下へ転ぶ敵の首を取りながら、時能は駆け抜けた。

取って返しては、再び敵陣を突破した。


十六人も全員が勇士

従った兵たちも、似た者同士が友となっていた。

目の前へ現れた敵を、斬り落とさない者はいなかった。


足利軍が川向こうへ退く

時能らは体を少しも曲げず、目も瞬かないほどの勇気を示した。

三軍でさえ正面から当たりにくいように見えた。

高経軍三千騎余りは東西南北へ散り、川の向こうへ退いた。


五人戦死、九人重傷

戦いが終わり、時能は陣幕へ戻って兵を数えた。

五人が討ち死にしていた。

九人が重傷を負っていた。


快舜の死

中でも特に頼りとしていた所大夫房快舜は、七か所に重傷を負った。

その日の夕方ごろ、亡くなった。


時能も全身に傷を負う

時能も脛当てと小手に守られた場所のほかは、斬られていない所がないほどだった。

小さな傷については、まったく気にしなかった。


肩へ刺さった白羽の矢

しかし一筋の白羽の矢が、障子板の外から肩先へ深く射込まれていた。

どれほど抜こうとしても、矢じりが抜けなかった。


三日間苦しんで亡くなる

時能は三日間、激しい苦痛に責められた。

最後には、うなるような声を上げて亡くなった。


『太平記』は時能の悪行も批判する

畑時能は勇力と知略を備えた武将だった。

しかし『太平記』は、同時に彼を悪逆無道な人物としている。

罪を恐れず、必要もないのに僧侶を殺した。

寺院や神社を焼き壊した。


善行なく悪業は山のようだった

善い行いをしようとする心は、露ほどもなかった。

積み重ねた悪業は、山のように重かった。

そのため勇武と知略を持ちながらも、最後には天罰を受け、流れ矢によって死んだのではないかと論評する。


古代の怪力の英雄も滅びた

昔、九つの太陽を射落とした羿や、陸上で舟を進めたほどの怪力の者もいた。

しかしある者は臣下に殺され、ある者は敵によって討たれた。

皆、悪名を後世へ残した。


むやみに武力を用いる危険

唐の開元年間の宰相が、幼い君主のために、むやみに武力を用いながら辺境で功績を立てられなかった。

その者が思慮のない忠臣と呼ばれたことも、畑時能の姿へ重ね合わせられた。


北陸の宮方は戦意を失う

畑時能が討ち死にすると、北陸の宮方は完全に気力を失った。

再び立ち上がり、表立って戦おうとする者はいなくなったのである。


198. 脇屋義助、吉野へ参内する――敗将を賞した新帝の判断


脇屋義助が根尾城へ立てこもる

脇屋刑部卿義助は、前年9月18日、美濃国の根尾城へ立てこもっていた。


土岐軍に根尾城を攻め落とされる

しかし、

  • 土岐頼遠
  • 土岐頼康

に攻められ、城を落とされた。

義助は家臣七十三人を連れ、身分を隠した粗末な姿で逃れた。


熱田大宮司の城へ移る

義助は尾張国波津崎にある、熱田大宮司の城へ落ち延びた。

そこで十日余り滞在し、敗れて散った兵を再び集めた。


伊勢・伊賀を経て吉野へ向かう

その後、伊勢・伊賀を通り、吉野の南朝へ参上した。


新帝へ拝謁する

義助は、ただちに宮中へ参内した。

新帝の御前へ進み、直接拝謁した。


新帝は義助の忠功を称賛する

新帝は、玉のような顔を明るく輝かせた。

義助を前の席へ呼び寄せた。

そして、

「この五、六年の間、北陸で尽くした忠功は、ほかの者とは異なる」

と、深く感謝した。


敗北を責めない

新帝は、義助が北陸で敗れたことを、少しも責めなかった。


生きて戻ったことを喜ぶ

「命を失わず、今ここへ来たことには意味がある。

君主と臣下が、水と魚のように互いを必要とする忠義の徳を、再び世へ示すためである」

新帝は涙を浮かべながら、このように語った。


義助の官位を進める

翌日、臨時の宣下が行われた。

義助の位は一階級進められた。


一族や兵にも恩賞を与える

それだけではなかった。

義助とともに吉野へ参上した一族や、従ってきた兵たちにも、

  • 所領などの恩賞を与える
  • 官位を進める

などの処置が行われた。

義助一行の名誉は、ほかの人々よりも際立って見えた。


洞院実世が義助の恩賞を疑問視する

そのころ公卿たちが、宮中の殿上の入口付近へ集まっていた。

雑談の中で、洞院実世が義助をからかうように言った。

実世は、この時まだ左衛門督だった。


「敗れて逃げてきた者をなぜ賞するのか」

実世は言った。

「脇屋義助は越前の戦いに敗れ、美濃国へ逃げた。

その美濃からも追い落とされ、身を置く場所がなくなったため吉野へ来た」


平維盛の昇進と同じだと笑う

「それなのに天皇が厚く賞し、官位や俸禄を進められたことは、何度考えても理解できない。

これは治承年間、平維盛が東国追討へ向かい、水鳥の羽音へ驚いて逃げ帰ったのに、祖父の平清盛が官位を一階進めたことと同じではないか」

実世は笑いながら言った。


四条隆資が反論する

四条中納言隆資は、その言葉をじっと聞いていた。

やがて進み出て申し上げた。

「今回の恩賞は、天皇の御考えに道理があると思います」


敗北は義助の戦術の拙さではない

「義助が北陸の戦いで敗れたのは、決して本人の戦い方が拙かったからではありません。

天皇の運がまだ開く時ではなかったことが一つです」


大将の権威を軽くしたことが敗因

「さらに朝廷が、軍を任せた大将の権威を軽く扱ったことが原因でした」


孫子と呉王の故事

隆資は言った。

「学問の優れた方へ、このような話を申し上げるのは、細い管から空をのぞき、道で聞いた話を別の道で語るようなものかもしれません。

それでも一端を申し上げましょう」


戦国時代の呉王闔閭

昔、中国の周王朝末期、諸侯が争う戦国の時代だった。

七つの強国が互いに国を奪おうとしていた。

呉王闔閭は、孫子という優れた兵法家を大将とし、敵国を攻めようとした。


孫子が宮女を訓練に使う

孫子は呉王へ申し上げた。

「教えていない民を戦わせることは、民を捨てるのと同じだといいます。

敵国を討とうとするならば、まず宮中の美女を集め、兵の前へ立たせてください」


一日で軍法を教えると申し出る

「陣形を組ませ、矛を持たせ、その命令を私へ任せてください。

一日のうちに三度、戦い方を教えます。

命令へ従えるようになれば、敵国を滅ぼすことは、すぐにできます」


宮女三千人を南庭へ出す

呉王は孫子の申し出を認めた。

宮中の美女三千人を南庭へ出し、軍陣の前へ立たせた。


孫子が軍令を教える

孫子は鎧と兜を着け、矛を持って言った。

「太鼓を打てば前進し、敵と刃を交えよ。

鉦を鳴らせば退き、後ろの部隊へ場所を譲れ。

敵が退けば、すぐに追え。

敵が戻れば踏みとどまり、弱い相手を侮ってはならない。

命令へ背けば、私がお前たちを斬る」

孫子は馬を走らせながら、軍令を教えた。


宮女たちは笑うだけで動かない

三千人の美女は君主の命令で戦いを学ぶため庭へ出た。

しかし華奢で美しく、薄い絹の衣にさえ耐えられないような女性たちだった。

矛を持ち上げることさえできず、刃を交えるどころではない。

ただ呆れたように笑っていた。


孫子が王の寵姫三人を斬る

孫子は怒った。

特に呉王が深く愛していた美女三人を、その場で斬り捨てた。


残る女性は軍令へ従う

その様子を見ると、ほかの女性たちは孫子の命令へ従った。

「兵とともに進め」

と言えば進んだ。

「戻れ」

と言えば止まった。

集散や変化へ応じ、進退も正しく行えるようになった。


目的は軍令の重さを示すこと

孫子は美女を殺すこと自体を、兵法としていたのではない。

大将の命令を、兵がどれほど重く受け止めるべきかを示すためだった。


呉王も孫子の軍法を認める

呉王は、最愛の女性三人を失ったことを悲しんだ。

それでも孫子の教えた軍法が正しいと考えた。

その後、孫子を用いて多くの敵国を滅ぼしたという。


周の武王と太公望

次に隆資は、周の武王と太公望の故事を語った。

周の武王は殷の紂王を討つため、

「大将を任命するには、どのようにすればよいか」

と太公望へ尋ねた。


国家の危機には君主が将軍へ全権を与える

太公望は答えた。

「国家に危機が起きたならば、君主は正殿を避け、将軍を召して告げます。

『国家が安らかになるか危機へ陥るかは、すべて将軍にかかっている。

どうか軍を率い、敵へ当たってほしい』」


吉日を占い、斧と鉞を授ける

「将軍が命令を受ければ、太史へ命じて吉凶を占わせます。

三日間身を清め、祖廟へ行き、霊亀によって吉日を決めます。

そして軍事指揮権の印として、斧と鉞を将軍へ授けます」


天上から地下まで将軍へ任せる

「君主は鉞の刃を持ち、柄を将軍へ渡して言います。

『ここから上、天に至るまでのことは将軍が決めよ』」

さらに斧の柄を持ち、刃を将軍へ渡して言う。

『ここから下、深い淵に至るまでのことは将軍が決めよ』」


太公望が説く将軍の心得

「敵に隙があれば進み、守りが堅ければ止まりなさい。

味方が大軍だからといって、敵を侮ってはなりません。

重い命令を受けたからといって、むやみに死のうとしてはなりません」


人を見下さず、独断を避ける

「自分の身分が高いからといって、人を卑しんではなりません。

自分一人の意見だけを正しいとして、多くの者の考えへ背いてはなりません。

弁舌が巧みだからといって、その言葉が必ず正しいと思ってはなりません」


兵と苦楽をともにする

「兵がまだ座っていない時は、将軍も座ってはなりません。

兵がまだ食べていない時は、将軍も食べてはなりません。

寒さも暑さも、必ず兵とともに受けなさい。

そうすれば兵は、必ず死力を尽くします」


将軍も君主へ全権を求める

「将軍は命令を受けると、君主へ答えます。

『国は外から治めることができません。

軍は中央から細かく統制することができません。

二心を持って君主へ仕えることはできません。

疑いを持ったまま敵へ当たることもできません』」


軍中では君命より将軍命令を優先する

「『私は斧鉞を受け、軍事の全権を任されました。

それが認められないならば、将軍を務めることはできません』」

君主がこれを認めれば、将軍は出陣する。

軍中のことについては、君主から細かい命令を聞かず、すべて将軍の判断によって行う。


敵前では君主さえ後ろに置く

「敵を前にして決戦する時は、二心を持ちません。

その時には、

  • 上に天があることも忘れ
  • 下に地があることも忘れ
  • 前に敵がいることも恐れず
  • 後ろに君主がいることにもとらわれない

ほど、戦いへ集中します」


将軍へ権限を与えれば戦わずして敵を降す

「そうすれば知恵ある者は計略を立て、勇者は戦います。

士気は青雲へ届き、軍の動きは走る馬より速くなります。

刃を交える前に、敵が降伏することもあります」


勝利の後は功績を賞する

「外で戦いに勝ち、国内でも功績を立てたならば、役人を昇進させ、兵へ恩賞を与えます。

民衆も喜び、将軍も罪を受けません。

その結果、風雨は時節にかなって降り、穀物は豊かに実り、国家は安らかになります」


古来、将軍を重く用いて国を治めた

隆資は言った。

「昔から現在まで、このように将軍を重く用いてこそ、敵を滅ぼし、国を治めることができました」


北陸では兵が大将を通さず直接訴えた

「ところが近ごろの北陸の様子を聞きますと、大将の推薦状を持たない兵であっても、直接朝廷へ訴えれば、すぐに裁定が下されました」


わずかな奉仕にも大きな恩賞

「山中で朝廷へわずかに仕えただけの働きへ、軍事に必要な土地を与えました。

北陸の所領を望む者がいれば、事情を詳しく尋ねず、天皇の判断で与えてしまいました」


大将の権威が失われる

「そのため大将の権威は軽くなり、兵たちは勝手に振る舞うようになりました。

義助が数多くの戦いで敗れたのは、このためです」


敗北の原因は義助ではなく朝廷の統制

「敗北は義助の戦い方から生まれたのではありません。

上からの命令と恩賞の与え方が誤っていたためです」


新帝は事情を理解して厚く賞した

「新帝は、この事情を理解しておられます。

そのため今、義助への恩賞を厚くされたのです」


秦の穆公と敗将三人

「昔、秦の将軍である、

  • 孟明視
  • 西乞術
  • 白乙丙

の三人が鄭国との戦いに敗れて帰国したことがありました」


穆公は自分の責任を認める

秦の穆公は喪服のような粗末な服を着て郊外まで迎え、言った。

「私が百里奚や蹇叔の意見を聞かなかったため、この辱めを受けた。

三人に何の罪があるだろう。

これからも心を一つにし、怠らずに仕えてほしい」


敗将の官位と俸禄を戻す

穆公は三人の官位と俸禄を元へ戻した。

「新帝が義助を賞したことも、この故事と同じではありませんか」


洞院実世は反論できない

四条隆資は、以上のように道理を尽くして語った。

学識の高い洞院実世も、返す言葉を失った。


平維盛の例とは違う

隆資は最後に言った。

「どうして、平清盛が孫の維盛をひいきして昇進させた例と、同じだといえるでしょうか」

実世は何も答えられず、その場を退出した。


199. 佐々木信胤、小豆島で宮方の旗を挙げる


伊予国から大将派遣の要請が届く

そのころ伊予国から、特別の使者が急いで吉野へやって来た。

使者は朝廷へ申し上げた。

「急いで、ふさわしい大将を一人お選びになり、伊予国へお下しください。

我々はその大将に従い、足利方を相手として忠義の戦いをいたします」


脇屋義助を四国へ送ることに決まる

朝廷で相談した結果、脇屋刑部卿義助を伊予国へ派遣することになった。

しかし吉野から四国へ向かう道は、海路にも陸路にも足利方の陣があった。

「どの道を通って下るべきだろうか」

と、意見はなかなかまとまらなかった。


佐々木信胤から早馬が来る

その時、備前国の住人である佐々木飽浦三郎左衛門尉信胤から、早馬の使者が到着した。

使者は伝えた。

「信胤は先月23日に小豆島へ渡り、宮方の兵を挙げました。

国内の忠義ある武士たちも次々と加わり、足利方の者を少しずつ討ち従えています」


京都へ通じる海上交通を遮断する

「さらに京都へ物資を運ぶ船の航路をふさいでおります。

どうか近日中に、大将をお下しください」


朝廷は進軍路が開いたことを喜ぶ

公卿たちはこの知らせを聞き、

「四国へ大将を送る道が開いた。

天運が宮方へ向かう時が来たのだ」

と、限りなく喜んだ。


信胤は足利方へ大功を立てていた

そもそも佐々木信胤は、建武の乱が始まったころ、細川定禅へ味方した人物だった。

備前・備中の両国を平定し、足利尊氏のために大きな功績を立てていた。

十分な恩賞も受けていたので、足利方へ恨みを抱く理由はなかった。


なぜ突然、宮方へ移ったのか

それでは、なぜ信胤は突然、宮方へ移ったのだろうか。

事情を尋ねると、原因は当時の天下へ災いをもたらすことの多かった、例の美女をめぐる争いだったという。


菊亭家に仕える美しい女房

そのころ菊亭殿の御所に、妻と呼ばれるほど深く寵愛された女房がいた。

容姿は世に並ぶ者がなく、身分も低くなかった。

優雅で魅力的な女性だった。


心の定まらない女性

しかし、もともと心が軽く、一人の男性へ思いを定める性格ではなかった。

多くの男から誘われ、どこへ心を寄せるのか、本人にも分からないような暮らしをしていた。


高土佐守と密通する

そうはいっても、宮中の奥深くへ住み、普通の者が簡単に近づける女性ではなかった。

ところが、どのように機会を得たのか、当時並ぶ者のない権勢を持つ高土佐守と親しくなった。

二人は人知れず深い仲となった。


次第に人目をはばからなくなる

初めのうちは関係を隠していた。

しかし後には人目をはばかることも少なくなり、女性はたびたび宮中を退出し、高土佐守のもとへ通った。


菊亭殿も黙認する

主人である菊亭殿も、二人の関係を知るようになった。

「毎晩、夜が深くなるまで人目を気にするのも煩わしい」

と考えたのか、女性が宮中を退出することを許す場合もあった。


高土佐守には鎌倉以来の妻がいた

しかし高土佐守には、以前から親しく暮らし、何人もの子をもうけた妻がいた。

鎌倉出身の女性だった。


嫉妬深く気の強い妻

この妻は東国育ちだったためか、嫉妬が激しく、性格もたいへん気が強かった。

『源氏物語』の雨夜の品定めに登場し、男の指へかみついた女性のような振る舞いを、たびたび見せたという。


子どもの母なので離縁できない

高土佐守も、

「何と扱いにくい女だ」

とは思っていた。

しかし子どもたちの母であるため、簡単に離縁することもできず、長年連れ添っていた。


高土佐守が伊勢守護となる

その後、高土佐守は伊勢国の守護となり、現地へ下ることになった。

高土佐守は、

「二人の妻を、どちらも伊勢へ連れていこう」

と考えた。


先に鎌倉の妻を下す

まず鎌倉以来の妻を、先に伊勢へ向かわせた。

そして菊亭家の女房にも、同じように伊勢へ下るよう求めた。


女房は出発を先延ばしにする

しかし女房は、

「今日にしましょうか」

「明日にいたしましょうか」

と言いながら、少し面倒そうな様子を見せた。


高土佐守は三日間引き止める

高土佐守は、かえって恋心を募らせた。

「一緒に行かなければ、どうしても承知できない」

と、出発を三日間延期し、何度も恨み言を述べた。


夜中に輿へ乗せる

女房も、ついに、

「それでは参りましょう」

と答えた。

夜中ごろ、輿を寄せ、几帳で姿を隠しながら、女性を輿へ乗せた。


高土佐守は喜んで伊勢路へ向かう

高土佐守は限りなく喜んだ。

道中で少しも休まず、そのまま伊勢路へ向かった。


夜明け前に逢坂関を越える

まだ夜の明けないうちに、逢坂関の岩角を馬の蹄で鳴らして進んだ。

暁を告げる鳥の声に送られ、水辺に広がる粟津野の露を分けて通った。


瀬田橋を渡る

琵琶湖の水が川となって流れ出す瀬田橋を渡った。

田上川から吹く朝風と、比良山を越えてきた風が、輿の簾を吹き上げた。


輿の中には八十歳ほどの尼

高土佐守が輿の中を見ると、乗っていたのは恋い慕う女房ではなかった。

八十歳ほどの老いた尼だった。

額には深いしわが寄り、歯は一本もなく、腰は二つに折れるほど曲がっていた。


古狸か古狐と思う

高土佐守は驚いた。

「これは古狸か古狐が化けたものに違いない。

鼻へ煙を入れてみろ。

蟇目の矢で射てみよ」


尼が事情を説明する

尼は泣きながら申し上げた。

「私は物の怪ではございません。

長年、菊亭殿へ出入りしていた者です」


女房から田舎へ誘われた

「御妻の局から、

『このまま京都で暮らしに困るより、私の下る田舎へ一緒に行き、しばらく心を慰めなさい』

と、お誘いを受けました」


何も知らず輿へ乗った

「私も頼るところのない身ですので、ありがたいことだと思い、昨日、御局のもとへ参りました。

すると、そのまま泊められました。

妻戸へ輿が寄せられ、

『これへ乗りなさい』

とおっしゃったので、何も知らずに乗っただけでございます」


高土佐守は騙されたと知る

高土佐守は言った。

「さては、あの女房に完全に騙された。

菊亭殿の御所へ押し入り、女を奪わなければ、伊勢へ下るものか」


尼を瀬田橋へ置き去りにする

老尼を瀬田橋のたもとへ置き去りにした。

空になった輿を引き返させ、再び京都へ向かった。


菊亭邸を包囲して捜索する

もともと思慮の浅い高土佐守は、菊亭殿の御所へ押し寄せた。

四方の門を閉ざし、容赦なく屋敷中を捜した。


御所中は大混乱となる

御所の人々は、

「いったい何事だ」

と、上も下も慌てふためいた。


女房は見つからない

しかし、どれほど捜しても女房はいなかった。


侍女を捕らえて行方を尋ねる

高土佐守は、女房が以前住んでいた局にいた少女を捕らえた。

厳しく責め、女房の居場所を尋ねた。


飽浦信胤と深い仲だと聞く

少女は答えた。

「あの女房は親しくしている男性が多かったため、今どこにいるかは分かりません。

ただ最近は、飽浦三郎左衛門という方と特に深い仲になり、人目もはばからないほどだと聞いております」


高土佐守が信胤を討とうとする

高土佐守は、ますます怒りを抑えられなくなった。

すぐに飽浦信胤の屋敷へ攻め寄せ、討ち取ろうと計画した。


信胤は逃げ場を失う

信胤は、その計画を聞いた。

自分にも女性との関係があり、まったく罪がないとはいえなかった。

高師直一門の権勢から逃れ、身を隠すことも難しかった。


足利方での長年の功績を捨てる

信胤は、それまで足利方のために身を削って立てた功績を、すべて捨てた。

そして宮方の旗を挙げたのである。


人の心は山桜のように変わる

古い歌に、

時を得ても
心許すな
山桜
誘ふ嵐に
散るもこそすれ

とある。

意味は、およそ次のようになる。

美しく咲く時を迎えても、安心してはならない。
山桜は誘う嵐によって、たちまち散ってしまうかもしれない。


宮方転向の原因は男女の争い

人の心も、花のように移り変わるものだった。

長年足利方へ尽くした信胤が、一人の女性をめぐる争いによって、突然宮方へ移った。

今になって思えば、何とも嘆かわしい出来事だった。


200. 脇屋義助、四国・西国の大将として伊予へ下る


四国への航路が開く

佐々木信胤が小豆島で兵を挙げ、四国への航路が開いた。

脇屋刑部卿義助は、暦応3年4月1日、後醍醐天皇の後を継いだ南朝の天皇から命令を受けた。

四国・西国方面の総大将として、伊予国へ下ることになった。


長年の部下は各地へ散っていた

義助へ長年従ってきた兵は、もともと数多くいた。

しかし越前・美濃の戦いで敗れた際、大将の行方が分からなくなった。


吉野へ集まった兵は五百騎未満

ある者は山林へ隠れた。

ある者は危険を避け、遠国へ逃れた。

そのため吉野へ駆けつけた兵は、五百騎にも満たなかった。


四国・中国地方には味方が多い

それでも四国・中国地方には、宮方へ心を通わせる武士が多く残っていた。

義助は、

「一日でも早く出発しなければならない」

と考えた。


夜明け前に吉野を出発する

義助は夜明け前に吉野を出発し、紀伊路へ入った。


高野山へ参詣する

義助は思った。

「このような機会でなければ、いつ高野山へ参詣する願いを果たせるだろうか。

来世に仏と出会う縁も、ここで結んでおきたい」

そこで、まず高野山へ参詣した。


三日間、高野山に滞在する

義助は高野山へ三日間滞在した。

山内の院や谷を、一つずつ拝んで回った。


八葉の峰と千仏の座

高野山は、話に聞いていた以上に尊い場所だった。

蓮華の八枚の花びらを思わせる峰々が空へそびえ、多くの仏の座が雲の上へ捧げられているようだった。


弘法大師の入定を待つ霊場

煩悩のない悟りへ通じる扉は、苔に閉ざされていた。

弥勒菩薩が現れる未来の朝を待って、弘法大師が入定していると信じられていた。


説法・念仏の道場

ある場所には説法のため、人々が集まる道場があった。

別の場所には、ひたすら念仏を唱える修行の場があった。


三鈷の松

空海が中国から投げた三鈷杵が、この地へ飛んできたという場所には、その証として一本の松が生えていた。


焼け跡の御影堂

火災の余煙が風へ消えた後も、軒が焦げた御影堂が残っていた。

香の煙が窓から細く出て、心細く見えた。

鈴の音は霧の中へこもり、冷たく響いた。


滝口入道の庵跡

「ここは昔、滝口入道が住んだ庵の跡です」

と案内された。

古い板敷きには苔が生えていた。

建物が荒れても、夜の月光だけは漏れずに差し込むようだった。


西行の柴の庵

「こちらは昔、西行法師が結んだ柴の庵の名残です」

と聞き、立ち寄った。

掃かれることのない庭へ花が散っていた。

朝の雪には、人が踏んだ跡もなかった。


隠遁した維盛の心を理解する

義助は、さまざまな霊場と静かな景色を見た。

そして言った。

「世を離れることができるならば、このような場所で暮らしたいものだ」

平維盛が高野山へ入り、世を捨てようとした心が、本当によく理解できた。


長く滞在することはできない

義助は、

「しばらくこの霊地へとどまり、汚れた自分の身をさらに清めたい」

と思った。

しかし戦いへ向かう途中だったため、願いはかなわなかった。


田辺で船を整える

義助は高野山を出て紀伊路へ入り、千里浜を通過した。

田辺宿へ滞在し、海を渡る船を用意した。


熊野勢が武具と兵糧を提供する

すると、

  • 熊野新宮別当湛誉
  • 湯浅入道定仏
  • 山本判官
  • 東四郎
  • 西四郎

ら熊野の武士が集まった。


行軍に必要な物資がそろう

彼らは、

  • 弓矢
  • 太刀
  • 長刀
  • 兵糧

などを、互いに負けまいとして差し出した。

旅の助けは、十分に整った。


三百余艘で淡路へ向かう

やがて順風となった。

熊野勢は兵船三百艘余りをそろえ、義助を淡路国の武島まで送った。


淡路の宮方が義助を迎える

武島には、

  • 安間氏
  • 志知氏
  • 小笠原氏

の一族が、以前から宮方として城を構えていた。


酒肴と贈り物でもてなす

淡路の武士たちは、さまざまな酒や料理、贈り物を用意した。

さらに三百艘余りの船を整え、義助を備前国の児島へ送った。


児島では佐々木信胤が支配する

児島では、

  • 佐々木薩摩守信胤
  • 梶原三郎

が前年から宮方へ移っていた。

島内に足利方の者は、一人も交じっていなかった。


4月23日、今治浦へ到着する

佐々木信胤らは多くの大船を用意した。

4月23日、義助を伊予国今治浦へ無事に送り届けた。


大館氏明は伊予守護となっていた

大館左馬助氏明は、以前、後醍醐天皇が比叡山から京都へ戻った時、その供をしていた。

しかし何を考えたのか、一度は足利方へ降伏し、しばらく尊氏へ従っていた。


後醍醐天皇の吉野入りを知って帰参する

その後、

「後醍醐天皇がひそかに楼の御所を抜け出し、吉野へ入った」

と聞くと、すぐ吉野へ駆けつけた。


伊予守護へ任じられる

後醍醐天皇は、その帰参を喜んだ。

大館氏明を伊予国守護へ任じた。

氏明は前年の春から、伊予国へ住んでいた。


四条有資も伊予国司として在国する

四条大納言隆資の子、四条少将有資は伊予国の国司だった。

二年前から伊予国へ滞在していた。


伊予の宮方諸氏

  • 土居氏
  • 得能氏
  • 土肥氏
  • 河田氏
  • 武市氏
  • 日吉氏

らも、長年宮方へ味方していた。


讃岐・土佐方面を守る

彼らは讃岐方面の足利軍を防いだ。

西は土佐国幡多を境として守りを固めていた。


義助の到着で勢いを得る

総大将の脇屋義助が下向したため、宮方はますます勢いを得た。

その姿は、竜が水を得、虎が山を頼りとしたようだった。


西国全体が動揺する

義助の威勢は次第に近隣諸国へ広がった。

四国はいうまでもなかった。

  • 備前
  • 備後
  • 安芸
  • 周防
  • 九州

に至るまで、

「再び大乱が起こる」

と噂しない者はいなかった。


伊予国内の足利方の城が降伏する

伊予国内には、足利方の城が十か所余り残っていた。

しかし宮方が攻め寄せる前に、皆、噂を聞いただけで降伏した。


四国統一が目前に見える

人々は、

「これで四国全体は宮方へ統一された。

もはや何も心配することはない」

と、頼もしく思い合った。


201. 脇屋義助の病死と鞆の浦の戦い


脇屋義助が突然病に倒れる

ところが同年5月4日、伊予国府にいた脇屋義助は、突然病気となった。

心身ともに苦しみ、病状は重かった。


七日後に亡くなる

病に伏してわずか七日ほどで、義助は亡くなった。


宮方は大将を失う

義助へ従っていた官軍は、大きな悲しみへ沈んだ。

その悲しみは、秦の始皇帝が沙丘で亡くなり、漢と楚の英雄たちが勢力を伸ばす機会を得た時のようだった。

また諸葛孔明が五丈原で亡くなり、魏や呉が有利となった時のようでもあった。


灯を失い、舟を失ったような心細さ

夜明け前に灯火が消え、破れた窓へ雨が吹き込むようだった。

川の中ほどで舟を失い、ひしゃく一つを頼りとして波へ漂うような心地だった。


義助の死を隠して葬る

宮方の武士たちは考えた。

「義助殿の死が外へ知られれば、敵は大いに勢いづくだろう」

そこで、ひそかに葬儀を行った。

声を抑え、悲しみを隠そうとした。


細川頼春が好機と判断する

しかし大将の死を、完全に隠すことはできなかった。

四国方面の足利方大将・細川刑部大輔頼春は、この知らせを聞いた。


「今こそ攻める時」

頼春は言った。

「機会を少しも逃してはならない。

これは司馬仲達が孔明の死という弱点へ乗じ、蜀を滅ぼしたのと同じ策である」


七千余騎で河江城を攻める

細川頼春は、

  • 伊予
  • 讃岐
  • 阿波
  • 淡路

の兵七千騎余りを率いた。

まず伊予国境にある河江城へ押し寄せ、土肥三郎左衛門を攻めた。


宮方が五百余艘で救援する

義助へ長年恩を受け、従ってきた、

  • 土居氏
  • 得能氏
  • 合田氏
  • 二宮氏
  • 日吉氏
  • 多田氏
  • 三木氏
  • 羽床氏
  • 三宅氏
  • 高市氏

らは、金谷修理大夫経氏を大将とした。

兵船五百艘余りをそろえ、土肥氏を救援するため海上へ出た。


中国地方の足利水軍も出る

この動きを知り、備後国の鞆・尾道で船を整えていた、

  • 備後
  • 安芸
  • 周防
  • 長門

の足利方も出航した。

大船千艘余りで、土肥氏の城へ向かった。


両水軍が海峡で対峙する

両軍の兵船は海の中央へ帆を立てた。

船べりをたたき、鬨の声を上げた。

潮流と風に従いながら、押し合い、ぶつかり合って戦った。


岡部出羽守の十七艘

大館氏明の執事である岡部出羽守は、十七艘の船を率いていた。


宮兼信の四十余艘へ突入する

備後の宮下野守兼信は、四十艘余りの船を左右へ並べていた。

岡部の十七艘は、その中央へ分け入った。


敵船へ乗り移って海中へ飛び込む

岡部軍は敵船へ次々と乗り移った。

敵兵と組み合うと、そのまま一緒に海中へ飛び込んだ。

まことに勇ましい戦い方だった。


足利方は大船から矢を射る

備後・安芸・周防の船は、どれも大船だった。

船尾と船首へ高い櫓を組み、その上から宮方の船へ激しく矢を射下ろした。


宮方は小舟で機動する

伊予・土佐の船は、ほとんどが小舟だった。

船尾にも櫓を立て、縦横へ素早く動きながら敵へ向かった。


互いに一歩も退かない

両軍の兵は考えた。

「たとえ死んで海底の魚に食われようとも、逃げて世間の笑いものにはなるまい」

互いに士気を高め、一度も退かず、一日中戦った。


突然の風で船団が分けられる

ところが海上へ突然、強い風が吹いた。

宮方の船は、すべて西へ吹き戻された。

足利方の船は、すべて伊予国の海岸へ吹き送られた。


宮方は撤退を提案する

夜になり、風が少し静まった。

宮方の兵たちは言った。

「これほど天運が味方しない時には、どれほど戦っても勝てない。

元の場所へ漕ぎ戻った方がよいのではないか」


金谷経氏は戦い続けることを主張する

しかし大将の金谷修理大夫経氏は言った。

「運の善し悪しを考え、勝利だけを求める時ならば、命を守って功績を立てようとも考えるだろう」


義助を失った今、生き残る意味はない

「しかし唯一頼りとしていた総大将・脇屋義助殿は、病によって亡くなられた。

運に見放された我々が生き残ったとして、どれほどのことができるだろうか」


鞆の浦を攻める

「今は命の限り戦い、武士の道を守るだけである。

運勢や戦いの吉凶を論じる時ではない。

今夜、備後国鞆へ押し寄せ、城を奪おう」


中国地方の味方を集める計画

「鞆の城を落とし、中国地方の宮方が集まれば、その軍勢で西国を平定しよう」

宮方は、その夜の夜中ごろ、備後国鞆へ押し寄せた。


鞆城を攻め落とす

城内は、その時たまたま小勢だった。

三十人余りの城兵は、しばらく戦った後、全員討ち死にした。

宮方は城を奪い、勢いを得た。


大可島を攻城拠点とする

宮方は大可島を攻城の拠点として整えた。

鞆の浦を船で埋め尽くし、武島・小豆島方面から味方が来るのを待った。


中国四か国の足利軍が来る

そこへ、

  • 備後
  • 備中
  • 安芸
  • 周防

四か国の足利方三千騎余りが押し寄せた。


鞆で十日余り戦う

宮方は大可島を背後に置き、鞆の東西の宿へ船を寄せた。

船から降りては戦い、新手と入れ替わりながら攻撃した。

足利方は小松寺へ陣を置き、海岸へ騎馬武者を出した。

敵味方は攻め合い、もみ合い、十日余り戦った。


河江城が落ちる

その時、

「伊予国の土肥氏が守る河江城が攻め落とされた」

という知らせが届いた。

さらに細川頼春が、大館氏明の籠もる世田城へ向かったとも伝えられた。


宮方は伊予へ戻る

土居・得能らは言った。

「どうせ死ぬのであれば、自分たちの国で遺体をさらしたい」

宮方は大可島を捨て、伊予国へ引き返した。


敗残兵二千余騎が集まる

敗軍の兵が集まると、二千騎余りになった。


精鋭三百騎を選ぶ

その中から、日ごろ武功を示し、名を知られた勇士三百騎余りを選び出した。

そして正面からの騎馬戦で、細川頼春軍と決着をつけようとした。


大軍へ寄せ集め兵で挑む危険

人々は言った。

「細川頼春軍は目を疑うほどの大軍だと聞く。

寄せ集めの兵で戦えば、臆病な兵が逃げ、そのため味方全体が敗れるかもしれない」


一騎当千の兵だけで大将を狙う

「そこで一騎当千の勇士だけを選ぶ。

敵の大軍を突き破り、大将の細川頼春へ近づき、組み合って刺し違えるのだ」


全員が曼荼羅を背負う

金谷経氏を大将とする三百騎は、皆同じように曼荼羅を書いた布を母衣へ掛けた。


生きて帰らない覚悟

「どうせ生きては帰れない戦いである」

十死一生、ほとんど助かる望みのない日を、あえて吉日として選んだ。


人々は勇士の覚悟に涙する

三百騎が大軍へ向かう心は、中国の樊噲や周勃でさえ見せなかったほどのものだった。

人々は、

「武士が義を守ろうとする心ほど、美しく、また哀れなものはない」

と語った。

この話を聞いた者は皆、鎧の袖を涙で濡らした。


細川頼春が千町原へ出る

細川頼春は七千騎余りを率いていた。

「敵が出てくるならば、望むところだ。

正面から騎馬戦をしよう」

千町原へ進んだ。


宮方はわずか三百騎

頼春が敵陣を見渡すと、果てしない野原の中に、新田氏の中黒の旗が一流だけ、かすかに風へなびいていた。

その下へ控える兵は、わずか三百騎ほどだった。


頼春は敵の狙いを見抜く

頼春は言った。

「伊予国の敵が、これほど小勢だとは思わなかった。

しかし、あまりに少ない。

おそらく精鋭だけを選び、大軍を突き破って私へ近づき、組み合って勝負を決めるつもりだろう」


小勢を一息に包囲してはならない

「死を覚悟した小勢を、一度に討とうとして近づきすぎれば、かえって味方が討たれることがある」


頼春が細かな戦術を命じる

「敵が突破しようとすれば、あえて突破させ、その後ろをふさげ。

馬を並べて攻めてきたら、偽って退き、敵の馬を疲れさせよ」


接近戦を避けて射落とす

「敵が太刀や長刀で一騎打ちを求めてきたら、馬を横へ操り、押し包むように矢で射落とせ。

敵が疲れたら、新手へ入れ替えて包囲せよ」


大将から離れず戦う

「敵へ近づきすぎ、組み合ってはならない。

味方から離れすぎてもならない。

敵一騎に対し、こちらは十騎を当てられる」


消耗させてから討つ

「十分に敵を苦しめ、疲れたところで一気に攻めれば、討てないはずがない」

頼春は戦術を細かく命じ、自ら旗の正面へ姿を現して、ゆっくり進んだ。


金谷軍が一斉に突撃する

金谷経氏は、

「敵が攻めてきた」

と見ると、少しも様子をうかがわなかった。

宮方三百騎は正面から猛烈に突進した。


一度矢を射ただけで太刀戦へ入る

互いに矢を一度射交わしただけで、宮方は弓矢を投げ捨てた。

太刀や長刀を取り、大声で叫びながら、闇雲に敵陣へ突入した。


頼春の馬廻りが左右へ分かれる

細川頼春の周囲には、藤氏の一族五百騎余りが控えていた。

あらかじめ決めた作戦どおり、左右へ一気に分かれた。


宮方は大将がいると気づかない

宮方三百騎は、その中に細川頼春がいるとは考えもしなかった。

馬廻りを目にも掛けず、そのまま裏側へ突き抜けた。


第二陣七百騎へ攻めかかる

宮方は第二陣へ攻めかかった。

そこには、

  • 三木氏
  • 坂西氏
  • 坂東氏

の兵七百騎余りが、兜の錣を傾け、馬を整然と止めて待っていた。


第二陣も山へ退く

しかし宮方の怪力の勇士に攻め散らされ、第二陣は南の山の峰へ退いた。

宮方は、

「ここにも目指す大将はいない」

と、第三陣へ向かった。


第三陣二千騎を突破する

第三陣には、

  • 詫間氏
  • 香西氏
  • 橘氏
  • 小笠原氏

ら二千騎余りが控えていた。

宮方は、

「ここに大将がいるに違いない」

と見定め、中央を一気に突破した。


取って返して戦う

宮方は敵陣を抜けると、すぐに引き返した。

敵と組み合っては刺し違え、馬から落ちて重なれば首を取った。

一歩も退かず戦った。


三百騎が十七騎となる

しかし宮方の三百騎余りは、次々と馬蹄の下へ倒れた。

最後に残ったのは、わずか十七騎だった。


生き残った十七騎

十七騎には、

  • 大将・金谷経氏
  • 河野通郷
  • 得能弾正
  • 日吉大蔵左衛門
  • 杉原与一
  • 富田六郎
  • 高市与三左衛門
  • 土居備中守
  • 浅海六郎

らがいた。


六度陣を破る

彼らは一騎当千の勇士だった。

敵へ突入すること十回余り、敵陣を破ること六回に及んだ。

それでも重傷を負った者はなく、疲れた様子も見せなかった。


頼春の姿を見つけられない

十七騎は一か所へ馬を寄せた。

しかし敵味方の馬も武具もよく似ていて、細川頼春がどこにいるのか分からなかった。


雑兵相手に死ぬことを避ける

「名もない地方兵を相手に討ち死にするより、この大軍を破って退こう」

十七騎は再び馬首を返した。


七千騎の中央を突破して退く

十七騎は七千騎余りの中央を打ち破り、備後国を目指して退いた。

まことに勇壮な振る舞いだった。


202. 大館氏明の討ち死にと、篠塚伊賀守の単騎脱出


細川頼春軍の損害

千町原の戦いが終わり、細川頼春は味方の死傷者を調べさせた。

足利方の死傷者は七百人余りに及んだ。


宮方の精鋭二百人余りを討つ

一方、宮方でも主だった勇士二百人余りが討たれた。

足利方の兵たちは、

「強敵をこれほど倒した」

と、士気を高めた。


世田城を攻める

細川頼春は命じた。

「それでは、そのまま大館氏明が籠もる世田城へ向かえ」

8月24日の早朝、足利軍は世田城の背後にある山へ登った。


一万余騎で七方面から包囲する

足利軍は高所から城を見下ろした。

一万騎余りを七手へ分け、城の四方へ進めた。

まず、それぞれの陣地を築いた。


三十日間攻め続ける

城の周囲へ向城を築き終えると、四方から攻撃を始めた。

持ち盾を頭上へかざして城へ近づき、乱杭や逆茂木を取り除いた。

昼も夜も、三十日間にわたって攻め続けた。


城内の主力はすでに失われている

城内で特に頼りとされていたのは、岡部出羽守の一族四十人余りだった。

しかし彼らは以前の戦いで、すでに自害していた。


勇士たちも千町原で戦死する

そのほかの勇士たちも、千町原の戦いで討ち死にしていた。

城内には十分な兵力が残っていなかった。


兵力も食糧も尽きる

守備兵は力を失い、食糧も乏しくなった。

これ以上、城を守る方法はなかった。


9月3日、大館氏明が打って出る

9月3日の明け方、大館左馬助氏明は主従十七騎で第一の木戸から打って出た。


五百余人を麓まで追い落とす

城壁へ取りついていた足利兵五百人余りを攻め立て、遠く山の麓まで追い下した。


十七人が一斉に自害する

敵を追い払った後、大館氏明ら十七人は一度に腹を切った。

枕を並べるようにして倒れた。


残る城兵も死を選ぶ

防御のため矢を射ていた兵たちは、この姿を見た。

「大将が亡くなった以上、今さら何を待つというのか」

それぞれ最期を選んだ。


敵と刺し違える者

ある者は敵へ組みつき、互いに刺し違えて死んだ。


陣所を焼いて死ぬ者

ある者は自分の陣所へ火を放ち、猛火の中へ入って死んだ。

目を向けることもできないほど、悲惨な光景だった。


篠塚伊賀守だけは自害しない

人々が次々と自害する中で、篠塚伊賀守だけは違った。

城の正面にある第一、第二の木戸を、乱暴に押し開いた。

そして、ただ一人で立った。


降伏するようには見えない

足利兵は初め、

「降伏するために出てきたのだろうか」

と思った。

しかし、その姿はまったく違っていた。


篠塚の武装

篠塚は紺糸威の鎧を着ていた。

鍬形をつけた兜の緒を固く締めていた。

四尺三寸の太刀を帯び、八尺余りの金砕棒を脇へ差していた。


大音声で名乗る

篠塚は大声で叫んだ。

「遠くにいても、私の名を聞いたことはあるだろう。

今こそ近づき、この姿を見よ」


畠山重忠の六代の子孫

「私は畠山庄司次郎重忠から六代の子孫である。

武蔵国で育ち、新田殿から一騎当千の武士として頼りにされた篠塚伊賀守だ。

ここにいる。

私を討ち、恩賞を受けよ!」


百騎の中へ単身で突入する

篠塚は名乗り終えると、少しもためらわなかった。

前へ控える敵百騎ほどの中へ、ただ一人で走り込んだ。


足利兵は道を開ける

篠塚は勇ましいだけではなかった。

以前から並外れた怪力で知られていた。

「誰が、この男を正面から止められるだろうか」

百余騎の足利兵は東西へ一気に退き、中央を開けて通した。


二百余騎が追跡する

篠塚は馬へ乗っていなかった。

弓矢も持たず、ただ一人だった。

足利方は言った。

「一人で何ができる。

近づかず、遠くから矢で射殺せ。

引き返してきたら、周囲から攻め悩ませて討て」


藤・橘・伴氏が追う

藤氏・橘氏・伴氏の兵二百騎余りが、篠塚の後を追った。


篠塚は小歌を歌いながら歩く

篠塚は少しも慌てなかった。

小歌を口ずさみながら、ゆっくりと落ち延びていった。


近づく敵を金砕棒で追い払う

敵が、

「逃すな」

と追いついてくる。

篠塚は立ち止まり、あざ笑った。

「お前たち、あまり近づいて、自分の首を取り違えるなよ」

金砕棒を振り回した。


敵兵は蜘蛛の子のように散る

敵兵は蜘蛛の子を散らすように、一斉に逃げた。

しかし少し離れると再び集まり、矢をそろえて射た。


後ろを向けて矢を射させる

篠塚は言った。

「私の鎧には、お前たちの弱々しい矢など刺さらないだろう。

さあ、ここを射てみよ」

わざと背中を向けて休んだ。


二百騎に六里も追われる

それでも篠塚は名高い勇士だった。

足利兵は、

「一人であっても、討ち止められるかもしれない」

と追い続けた。

篠塚は二百騎余りを引き連れるようにして、六里の道を進んだ。


夜中に今治浦へ着く

その夜の夜中ごろ、篠塚は今治浦へ到着した。


船で陰島へ渡ろうとする

篠塚は考えた。

「ここから船へ乗り、陰島へ逃れよう」

周囲を見渡し、船を探した。


敵が捨てた船を見つける

そこには足利兵が乗り捨て、水夫だけが残った船が何艘もあった。

篠塚は、

「これは自分の船として使える」

と喜んだ。


鎧を着たまま海を泳ぐ

篠塚は鎧を着たまま、波の上を五町ほど泳いだ。

そして一艘の船へ、激しい音を立てて飛び乗った。


水夫が正体を尋ねる

水夫や舵取りは驚いた。

「いったい何者だ」

と問いただした。


「宮方の落人、篠塚である」

篠塚は言った。

「そのように騒ぐな。

私は宮方の落人、篠塚という者である。

急いで船を出し、陰島へ送れ」


二十人が扱う碇を一人で引き上げる

船の碇は、普段なら二十人余りで綱を引き、ようやく上げるほどのものだった。

篠塚は、それを一人で軽々と引き上げた。


四十五尋の帆柱を一人で立てる

さらに長さ四十五尋もある帆柱を、軽々と押し立てた。


船内で高いびきをかいて眠る

篠塚は船の屋形へ入った。

枕を高くして横になり、大きないびきをかいて眠った。


水夫たちは人間離れした力を恐れる

水夫と舵取りは、その姿を見た。

「何という力だ。

普通の人間ができることではない」

と恐れた。


順風で陰島へ送る

水夫たちは、ただちに順風へ帆を上げた。

篠塚を陰島まで送り届けた。

その後、別れを告げて帰った。


古今まれな勇士

昔にも今にも勇士は数多くいる。

しかし、これほどの振る舞いは聞いたことがない。

篠塚伊賀守を褒めない者は、一人もいなかった。