太平記 2巻


9. 南都・北嶺への行幸


奈良への行幸

元徳2年(1330年)2月4日、後醍醐天皇は、行事を担当する万里小路藤房を呼び、こう命じた。

「来月8日、東大寺と興福寺へ行幸する。供をする者たちに、早く知らせよ」

藤房は昔の例を調べ、天皇に付き従う人々の服装や、道中の行列の順番を決めた。

行幸の日には、佐々木備中守が警備の指揮を執った。警備の武士たちは鎧を着け、京都の辻々を固めた。

大臣や公卿をはじめ、多くの役人が列を作って天皇に付き従った。その行列は、言葉では表せないほど立派で厳かなものだった。

東大寺は、聖武天皇の願いによって建てられ、この世で最もすぐれた盧舎那仏、つまり奈良の大仏がまつられている寺である。

興福寺は藤原不比等が建てた寺で、藤原氏が代々大切にしてきた大寺院である。

歴代の天皇たちも、これらの寺を参詣したいという思いを持っていた。しかし、天皇が御所の外へ出ることは簡単ではなかったため、長い間、行幸は行われていなかった。

後醍醐天皇は、その途絶えていた行事を復活させ、自ら奈良へ向かった。

寺の僧たちは喜び、手を合わせて天皇を迎えた。仏の威光も、天皇の参詣によって、いっそう輝きを増したように見えた。

春日山を吹く風の音も、今日から天皇の長い治世を祝っているかのようだった。

また、藤原氏を象徴する藤の花も、千年の繁栄を願うように、春の日差しの中で美しく咲いていた。


比叡山への行幸

同じ年の3月27日、後醍醐天皇は比叡山へ行幸し、大講堂の供養を行った。

この大講堂は、深草天皇の願いによって建てられ、大日如来の像がまつられていた。

しかし、建て直されてから長い年月がたっても、正式な供養が行われていなかった。

その間に屋根は壊れ、戸も落ちてしまった。

壊れた屋根の間にかかる霧は、絶えることのない香の煙のように見えた。戸のなくなった堂内を照らす月は、消えることのない仏前の灯火のようだった。

比叡山の僧たちは、荒れた大講堂を長い間嘆いていた。

ところが後醍醐天皇の命令によって修理が完成し、すぐに供養の儀式も行われることになった。

比叡山の僧たちは皆、喜びに顔をほころばせ、天皇と皇子たちを敬い仰いだ。

供養の導師を務めたのは、妙法院の尊澄法親王、後の宗良親王だった。

祈りの言葉を唱えたのは、当時の天台座主であった大塔宮尊雲法親王、後の護良親王である。

仏をたたえる声が響くと、まるで釈迦が説法を行った霊鷲山に、花の香りが満ちているかのようだった。

歌や音楽によって天皇の徳がたたえられると、比叡山を吹く風までが、その声に合わせて響いているように思われた。

楽人たちが美しい曲を奏で、舞を舞う少年たちが雪のように白い袖をひるがえす。

その見事さは、獣たちまで一緒に踊り、鳳凰さえ舞い降りてくるのではないかと思われるほどだった。


津守国夏の歌

住吉大社の神主である津守国夏も、大太鼓を担当するため比叡山へ登っていた。

国夏は宿坊の柱に、次のような意味の歌を書きつけた。

縁があって、私はこの比叡山を訪れた。
ここに、最高の悟りへ至る種を植えたのだろうか。

これは、伝教大師最澄が比叡山を開いた時、

「最高の悟りを得た仏たちよ、私がこれから開くこの山をお守りください」

と祈った故事を思い浮かべて詠んだ歌なのだろう。


行幸に隠された目的

しかし、ここで一つの疑問が残る。

1321年ごろから、天皇は悩みを抱え、朝廷の家臣たちも幕府から軽く扱われていた。世の中には、心の休まる時がほとんどなかった。

そのような時に、後醍醐天皇はなぜ奈良と比叡山へ行幸したのだろうか。

その理由を調べると、次のような事情があったという。

近年、鎌倉幕府の実権を握る北条高時の行いは、これまで以上にひどくなっていた。

しかし、武士たちは幕府の命令に従う者たちである。天皇が呼びかけても、簡単に味方になるとは思えなかった。

そこで後醍醐天皇は、奈良の大寺院と比叡山の僧兵たちを味方につけ、その力を借りて鎌倉幕府を討とうと考えていた。

この二度の行幸は、ただ寺を参詣するためだけではなく、幕府を倒す計画の一部だったといわれている。


武芸に励む大塔宮

大塔宮尊雲法親王、後の護良親王は、当時、比叡山で最も高い地位にある天台座主を務めていた。

ところがこのころには、仏教の学問や修行よりも、朝から晩まで武芸の練習に熱中していた。

体の動きは非常に素早く、高さ七尺、およそ二メートルもある屏風さえ、軽々と飛び越えたという。

刀や薙刀などの武器の扱いにもすぐれ、兵法の奥義をすべて身につけたかのようだった。

天台座主は、初代の義真和尚から数えて百代以上続いていた。しかし、尊雲法親王ほど武芸に打ち込んだ座主は、それまで一人もいなかった。

当時の人々は、その行動を不思議に思っていた。

しかし、後に幕府との戦いが始まってから振り返ると、すべては鎌倉幕府を討つために、武芸を身につけていたのだと分かったのである。


10. 僧たち、六波羅に捕らえられる――為明を救った一首の歌


秘密というものは、いつまでも隠し通せるものではない。

大塔宮尊雲法親王が武芸に励んでいることや、宮中で鎌倉幕府を倒すための祈祷が行われていることは、一つ残らず鎌倉へ伝わってしまった。

これを知った北条高時は、激しく怒った。

「後醍醐天皇が位にあるかぎり、天下が静まることはない。この際、承久の乱の時と同じように、天皇を遠い国へ移すべきだ。大塔宮は死罪にしなければならない。

まずは最近、天皇のすぐ近くで北条氏を倒すための祈祷をしているという者たちを捕らえ、その事情を問いただせ」

高時が名を挙げたのは、法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、奈良の知教教円、浄土寺の忠円僧正であった。

この命令を受け、幕府の使者である二階堂下野判官と長井遠江守が鎌倉から京都へ向かった。

二人が京都に到着すると、後醍醐天皇は、

「今度は、いったいどのような厳しい処分を行うつもりなのだろうか」

と深く心を悩ませた。


僧たちの逮捕

元徳3年(1331年)5月11日の明け方、六波羅探題は雑賀隼人佐を使者として、円観上人、文観僧正、忠円僧正の三人を捕らえた。

このうち忠円僧正は、仏教の教えに深く通じた高僧だった。幕府を倒すための祈祷を行った僧の中には、もともと数えられていなかった。

しかし、忠円は後醍醐天皇の近くに仕え、比叡山の大講堂供養などについて、天皇と直接相談する立場にあった。

そのため幕府は、

「比叡山の僧たちを天皇の味方につけようとした計画について、忠円が何も知らないはずはない」

と考え、彼も捕らえたのである。

さらに、知教と教円も奈良から呼び出され、六波羅へ連行された。


二条為明も疑われる

また、二条為明という公家も捕らえられた。

為明は和歌の名人で、月の美しい夜や雪の降った朝には、後醍醐天皇の歌会にたびたび招かれていた。

倒幕計画に深く関わったという証拠はなかった。しかし、天皇のそばにいることが多かったため、

「天皇が何を考えていたのか、何か知っているのではないか」

と疑われたのである。

為明は捕らえられ、斎藤という幕府の役人に預けられた。

五人の僧たちは、初めから鎌倉へ送って取り調べることが決まっていた。そのため、京都の六波羅では詳しい尋問を行わないことになった。

一方、為明については、まず京都で取り調べを行い、自白した場合には、その内容を鎌倉へ報告することになった。

そして、為明に拷問を加える準備が始まった。


恐ろしい拷問の準備

六波羅の北側の庭で、大量の炭が赤々と燃やされた。

その上に割った青竹を並べ、竹と竹との間を少しずつ空ける。隙間からは激しい炎が吹き上がっていた。

役人たちは為明の両腕を左右から引っ張り、その燃える竹の上を歩かせようとしていた。

その光景は、重い罪を犯した者が地獄の炎で身を焼かれ、恐ろしい鬼たちから責め苦を受ける姿そのものに見えた。

見ているだけで、恐ろしさに気を失いそうなほどだった。

為明はその拷問の準備を見ると、静かに尋ねた。

「硯はあるか」

役人たちは、

「罪を認める文を書くつもりなのだろう」

と思い、硯と紙を差し出した。

しかし、為明が書いたのは自白文ではなかった。

一首の和歌であった。

思ひきや
我が敷島の道ならで
浮世のことを
問はるべしとは

その意味は、次のようなものである。

思ってもみなかった。
和歌の道についてではなく、
この世の政治のことについて、
私が取り調べを受けることになろうとは。

「敷島の道」とは、日本の和歌の道を意味する。

為明は、

「私は和歌だけを大切にして生きてきた。それなのに、政治の陰謀について尋問されるとは、思いもしなかった」

と、この一首に自分の無実と悲しみを込めたのである。


和歌が拷問を止める

取り調べを担当していた常葉駿河守は、この歌を読むと深く心を打たれた。

為明の無実を信じ、涙を流した。

鎌倉から来た二人の使者も歌を読み、同じように涙で袖をぬらした。

こうして為明は、火の上を歩かされる拷問を受けずに済み、罪のない者として釈放された。

和歌は朝廷の人々が大切にするものであり、弓や馬は武士が身につけるべきものとされていた。

そのため、武士たちは普段、必ずしも和歌に親しんでいたわけではない。

しかし、人の心が優れたものに動かされるのは、身分や立場とは関係のない自然なことである。

一首の歌に心を打たれ、拷問を取りやめた幕府の武士たちの心は、思いやりのある立派なものだった。

紀貫之は『古今和歌集』の仮名序で、歌について次のように述べている。

力を使うことなく天地を動かし、目に見えない鬼や神をも感動させ、男女の仲をやわらげ、勇ましい武士の心さえなぐさめるものが歌である。

為明の歌が武士たちの心を動かしたことを考えれば、紀貫之の言葉はまさにそのとおりだったのである。



11. 三人の僧、鎌倉へ送られる


元徳3年(1331年)6月8日、幕府の使者は、円観上人・文観僧正・忠円僧正の三人を連れ、鎌倉へ向かった。


三人の高僧

忠円僧正は、浄土寺の慈勝僧正の弟子であった。

仏教の難しい問題について答える試験にも合格し、比叡山でも並ぶ者がいないほど学問にすぐれた僧だった。

文観僧正は、もとは播磨国の法華寺にいた僧である。

若いころに醍醐寺へ移り、真言密教のすぐれた僧となった。その後、東寺の長者や醍醐寺の座主という高い地位に就き、真言密教を代表する人物となった。

円観上人も、もとは比叡山の僧だった。

仏教の教えにも密教にも深く通じ、その知識は比叡山全体を照らす光のようだといわれた。

学問だけでなく、日ごろの行いも立派であり、ほかの寺にも並ぶ者がいないほどの高僧だった。

しかし円観は、こう考えた。

「このまま比叡山の乱れた空気の中に長くいれば、名誉や地位を求める心が強くなり、最後には仏の道を外れてしまうだろう。

人前で講義をして名声を得る生活を捨て、昔の高僧たちが歩んだ本来の仏道へ戻る方がよい」

そこで円観は、名誉や利益を求める生活を捨て、人との交わりを断って静かに修行する道を選んだ。

初めは比叡山西塔の黒谷に住み、わずかな衣と鉢だけを持って、質素な生活を送った。

だが、立派な徳を持つ者は、いつまでも一人ではいられない。

円観のすぐれた人柄は自然に世間へ知れ渡り、ついには五代の天皇から師として敬われ、戒律を広める中心人物となった。

これほど知恵と徳を備えた高僧であっても、その時代に起きた災いから逃れることはできなかった。

それとも、前世からの因縁によるものだったのだろうか。

三人は幕府の囚人となり、故郷を離れて旅をしなければならなくなった。


鎌倉への苦しい旅

円観上人には、宗印・円照・道勝という三人の弟子がいた。

三人は影が体から離れないように円観に付き従い、その乗る輿の前後を守って歩いた。

しかし、文観僧正と忠円僧正には、付き従う者が一人もいなかった。

二人は見慣れない粗末な馬に乗せられ、知らない武士たちに囲まれた。

まだ夜が明けきらず、鳥が鳴き始めたころ、三人は東へ向かう旅に出た。

その心細さは、どれほどのものだっただろう。

しかも、

「鎌倉まで連れて行かず、途中で殺されるらしい」

といううわさまで流れていた。

宿に着くたびに、

「ここで命を奪われるのではないか」

山道で休むたびに、

「ここが最期の場所になるのではないか」

と考えたことだろう。

まだ命があるうちから、心はすでに消え入りそうだった。

昨日が過ぎ、今日も暮れていく。

三人が自ら望んで急ぐ旅ではなかったが、日を重ねるうちに鎌倉へ近づき、6月24日、ついに到着した。

円観上人は佐介越前守に、文観僧正は佐介遠江守に、忠円僧正は足利讃岐守に預けられた。


調伏の祈祷だったのか

京都から三人を連れてきた幕府の使者は、鎌倉へ戻ると、僧たちが祈祷に使っていた本尊の姿や、祭壇の形を絵に描いて報告した。

しかし、それがどのような祈祷なのか、普通の武士には分からない。

そこで幕府は、密教に詳しい頼禅僧正を呼び、絵を見せた。

頼禅は、

「間違いなく、敵を呪い倒すための調伏の祈祷である」

と答えた。

これを聞いた幕府は、

「それならば、三人を厳しく取り調べよ」

と命じた。

三人は侍所へ移され、水や火を使った激しい拷問を受けることになった。


文観と忠円の自白

初めに取り調べられたのは文観だった。

文観は、どれほど問いつめられても、しばらくは何も話さなかった。

しかし、水を使った拷問が何度も続くと、体も心も弱ってしまったのだろう。

ついに、

「天皇の命令によって、幕府を倒すための調伏の祈祷を行ったことに間違いはない」

と自白した。

次に、忠円が取り調べられることになった。

忠円は、もともと非常に気の弱い人物だった。

まだ拷問を受ける前から恐ろしくなり、知っていることを次々と話し始めた。

後醍醐天皇が比叡山の僧たちを味方にしようとしていたこと。

大塔宮が武芸に励んでいたこと。

日野俊基がひそかに倒幕計画を進めていたこと。

さらには、本当にあったことだけでなく、実際にはなかったようなことまで、すべて自白書に書き記してしまった。

ここまで証言が出た以上、幕府にとって疑う余地はなかった。

しかし、円観も同じ罪で捕らえられた人物である。

円観だけを取り調べずに済ませるわけにはいかないとして、翌日、拷問を行うことが決まった。


北条高時の夢

その夜、北条高時は不思議な夢を見た。

比叡山の東にある坂本の方から、二千、三千もの猿が群れをなしてやって来た。

そして、円観上人を守るように、その周りへずらりと並んだのである。

高時は目を覚ますと、

「この夢には、何か特別な意味があるに違いない」

と思った。

そこで夜が明ける前に、円観を預かっている者のもとへ使者を送り、

「円観上人への拷問は、しばらく中止せよ」

と命じた。

ところが、その使者が着くより先に、円観を預かっている役人が高時のもとへ駆け込んできた。

役人は、こう報告した。

「今朝早く、円観上人を取り調べるため、上人の部屋へ参りました。

すると上人は、灯火をともして座禅を組み、静かに心を集中させておられました。

その後ろの障子に映った影を見ると、恐ろしい不動明王のお姿そのものに見えました。

あまりのことに驚き、まずこのことをご報告しようと思い、急いで参ったのです」

高時の夢と、役人が見た不思議な光景が重なった。

幕府の人々は、

「円観上人は普通の人ではない」

と考え、拷問を取りやめた。


三人への処分

7月13日、三人の流罪先が決められた。

文観僧正は、遠く海上にある硫黄島へ流された。

忠円僧正は、越後国へ流された。

円観上人だけは、遠い島へ流す罪を一段軽くされ、結城上野入道に預けられることになった。

そして、結城の領地がある奥州へ連れて行かれた。

島流しではなかったとはいえ、都から遠く離れた土地へ移されることには変わりがない。

円観にとっては、これもまた苦しく長い流罪の旅だった。

昔、中国で僧の肇法師が処刑の苦しみにあい、また一行阿闍梨が遠い国へ流されたという。

円観が山を越え、川を渡って奥州へ向かう悲しみも、それらと同じようなものだっただろう。

円観は名取川を渡る時、一首の歌を詠んだ。

陸奥の
浮き名取川
流れ来て
沈みや果てん
瀬々の埋もれ木

その意味は、およそ次のようなものである。

不名誉な評判を背負い、
遠い陸奥の名取川まで流されてきた。
私はこのまま、川底に沈む埋もれ木のように、
人に知られず一生を終えるのだろうか。


高僧でも災いからは逃れられない

どれほどすぐれた聖人であっても、その時代に起きる災いから逃れられないことがある。

昔、インドの波羅奈国に、戒律・精神統一・知恵の三つをすべて身につけた、一人の立派な僧がいた。

その僧は国王の師として、国中の人々から頼りにされていた。

人々がその僧を敬う様子は、まるで釈迦がこの世に現れ、悟りを開いた時のようだった。

ある時、国王は大きな仏教の儀式を行うことになり、教えを説く役として、この僧を宮殿へ招いた。

僧は王の命令に従い、宮殿へやって来た。

ところが、その時、王は碁に夢中になっていた。

僧が到着したことを役人が王へ伝えたが、王の心は碁に向けられており、報告が耳に入らなかった。

ちょうどその時、王は碁の石を取る意味で、

「切れ」

と命じた。

報告をした役人は、それを、

「僧の首を切れ」

という命令だと聞き違えてしまった。

そこで僧を宮殿の門の外へ連れ出し、すぐに首をはねてしまった。


誤って殺された僧

碁を終えた王は、

「あの僧をここへ呼べ」

と命じた。

すると役人は、

「ご命令どおり、すでに首をはねました」

と答えた。

王は激しく怒った。

「死刑を決めた後でさえ、三度は確認するものだといわれている。

それなのに、たった一言を聞き違え、罪のない僧を殺した。これは、王である私の徳を傷つける大きな罪である」

王は命令を聞き違えた役人を捕らえ、その一族まで重く処罰した。

それでも王は、

「これほど徳の高い僧が、罪もないのに殺されたのには、何か理由があるはずだ。前世で作った因縁によるものではないか」

と考えた。

そこで、すぐれた修行者である阿羅漢に、その理由を尋ねた。

阿羅漢は七日間、深い精神統一に入り、僧と王の前世を見た。

すると、次のようなことが分かった。

殺された僧は、前世では田畑を耕す農民だった。

国王は、前世では水の中にすむ一匹のカエルだった。

ある春の日、農民がくわを使って山あいの田を耕していると、誤って、くわの先でカエルの首を切ってしまった。

その因果によって、農民は今の世で僧として生まれ、カエルは波羅奈国の王として生まれた。

そして王は、前世とは反対に、誤って僧を死刑にしてしまったのである。

何とも悲しい因果であった。

円観上人が、これほど思いがけない罪に巻き込まれたのも、私たちには分からない前世からの因縁があったのだろうか。

『太平記』の作者は、そう不思議に思わずにはいられなかったのである。


12. 日野俊基、再び鎌倉へ送られる


日野俊基は以前、土岐頼貞が討たれたあと、倒幕計画に関わった疑いで捕らえられ、鎌倉まで送られたことがあった。

その時は、取り調べに対してさまざまな説明をし、それがもっともだと認められたため、罪を許されて京都へ帰ることができた。

ところが今度、捕らえられた僧たちの自白書には、

「倒幕計画の中心となって動いていたのは、日野俊基である」

とはっきり書かれていた。

そのため1331年7月11日、俊基は再び六波羅探題に捕らえられ、鎌倉へ送られることになった。

法律では、同じ罪を二度犯した者は許されないことになっている。

俊基は、

「今度は何を申し開きしても、助かることはないだろう。鎌倉へ着く前に殺されるか、着いてから首を切られるか、そのどちらかに違いない」

と覚悟を決めて、京都を出発した。


愛する家族と都との別れ

春、桜の花びらが雪のように散る中を歩く片野の花見。

秋、紅葉が錦のように山を包む嵐山の夕暮れ。

そのような楽しい旅でさえ、家を離れて一晩泊まるとなれば、何となく寂しく感じるものである。

まして俊基は、深く愛する妻や子どもたちを京都に残し、その先どうなるかも分からない旅へ出ようとしていた。

長年住み慣れた都とも、これが最後の別れになるかもしれない。

何度も後ろを振り返りながら、望んでもいない東国への旅に出る俊基の心は、悲しみに満ちていた。


近江路を行く

俊基は逢坂の関を越えた。

関の清水に袖をぬらしたのは、水しぶきのためだけではない。別れの涙のためでもあった。

山道を抜け、打出の浜に出て、はるか沖を見渡す。

海を渡る船のように、自分の運命も浮いたり沈んだりして、どこへ流されるのか分からない。

馬のひづめを響かせながら、長い瀬田の唐橋を渡った。

近江の野では鶴が鳴いていた。

その声を聞くと、鶴も離れてしまった子を思って悲しんでいるように感じられた。

時雨が激しく降る守山を通り、木の葉から落ちる露に袖をぬらしながら篠原を進んだ。

鏡山が目の前にあっても、涙で目が曇り、その姿をはっきり見ることができない。

物思いに沈んでいると、夜の間にも老蘇の森へ着いた。

俊基は馬を止め、再び京都の方角を振り返った。

だが、故郷はすでに雲の向こうに隠れていた。

番場、醒井、柏原を通り、不破の関へ着く。

昔の関所はすっかり荒れ果てていたが、秋の雨だけは今も変わらず降り続いていた。


尾張から遠江へ

やがて尾張国へ入り、熱田神宮を遠くから拝んだ。

鳴海潟では潮が引き、傾きかけた月が進む道を照らしていた。

日が暮れ、また夜が明ける。

それを何度も繰り返しながら旅を続け、遠江国へ入った。

浜名の橋の近くでは、夕方の潮の中に、引く者もいない小舟が捨てられていた。

自分も、あの舟と同じように見捨てられ、やがて沈んでしまうのではないか。

俊基には、そう思われた。

夕暮れを知らせる鐘が鳴るころ、一行は池田の宿に着いた。


平重衡を思い出す

昔、1184年ごろ、平重衡が源氏に捕らえられ、東国へ送られた時にも、この池田の宿へ泊まったことがあった。

その時、宿の主人の娘が、重衡を気の毒に思って、次のような意味の歌を詠んだという。

東国への道にある粗末な小屋に泊まり、
重衡様は、どれほど故郷を恋しく思っていることだろう。

今、自分もまた囚人として同じ宿に泊まっている。

俊基は重衡の悲しみを思い出し、いっそう涙を流した。

宿の灯は暗く、夜明けを知らせる鶏の声が聞こえる。

馬が朝風の中でいななくと、一行は再び旅立った。


小夜の中山

天竜川を渡り、小夜の中山を越えた。

山道には白い雲が立ちこめ、夕暮れになると、どちらへ進めばよいのかも分からなくなった。

俊基は遠く京都の空を見つめた。

昔、西行法師は、この小夜の中山を再び越えた時、

もう一度この山を越えることができたのは、命があったからなのだ

という意味の歌を詠んだ。

西行は二度目の旅をすることができた。

しかし俊基には、京都へ帰り、再びこの山を越えられる見込みはない。

西行の旅が、うらやましく思われた。


菊川に残した歌

馬は速く進み、太陽が空の高いところまで昇った。

昼食を取ることになり、俊基を乗せた輿が宿の庭に止められた。

俊基は輿をたたき、警護の武士を近くへ呼んだ。

「ここは何という所か」

「菊川という宿です」

その名を聞いた俊基は、承久の乱の時に処刑された藤原光親のことを思い出した。

光親は、後鳥羽上皇の命令文を書いた罪によって鎌倉へ送られ、この菊川の宿で殺された。

その時、光親は柱に、次のような意味の文章を書き残したという。

昔、中国の南陽には菊水という川があり、
その水を飲んだ者は寿命を延ばしたという。
しかし今、東海道の菊川では、
その西岸に宿を取った私は命を終える。

遠い昔の出来事が、今度は自分の身にも起ころうとしている。

俊基は深い悲しみを感じ、宿の柱に一首の歌を書きつけた。

古も
かかるためしを
菊川の
同じ流れに
身をや沈めん

その意味は、

昔もこの菊川で、
私と同じように命を奪われた人がいた。
私もまた、その人と同じ運命の流れに沈むのだろうか。

というものだった。


大井川から宇津ノ谷へ

大井川を渡ると、俊基は京都にいたころに聞いた「亀山」という名を思い出した。

亀山上皇が嵐山へ行幸した時、花が満開の中、龍や水鳥の頭を飾った美しい船に乗り、詩や和歌を詠み、音楽を楽しんだことがあった。

俊基も、かつてはそのような華やかな宴に参加していた。

だが今となっては、それらは二度と見ることのできない夢のように思われた。

島田、藤枝を通り、岡部へ向かう。

葛の葉が枯れた寂しい夕暮れ、俊基は宇津ノ谷峠を越えた。

山には蔦や楓が生い茂り、道も見えないほどだった。

昔、在原業平も東国へ向かう途中でこの山を越え、

夢の中でさえ、都に残した人に会うことができない

という意味の歌を詠んだ。

俊基も今、業平と同じ悲しみを感じていた。


富士山を見ながら

清見潟を通ると、波が関所の番人のように行く手をさえぎっている。

せめて夢の中だけでも京都へ帰りたいと思うのに、その夢さえ通してもらえないように感じられ、俊基はさらに涙を流した。

三保の岬、興津、蒲原を通り過ぎる。

やがて富士山の高い峰が見えた。

白い雪の中から煙が立ち上っている。

その煙は、俊基の胸の中に燃え続ける苦しい思いにも似ていた。

朝の霞の中に松が見える浮島ヶ原を通り、田子の浦の近くを進む。

浅瀬には舟が浮かんでいた。

俊基の乗る一行もまた、苦しいこの世を巡るように東へ進み続けた。


足柄山を越え、鎌倉へ

車返し、竹之下を通り、険しい足柄山を越える。

山頂から大磯、小磯へ向かって一気に下った。

小余綾の海では、波が俊基の袖を越えるほど高く打ち寄せた。

旅を急いでいたわけではない。

しかし、毎日少しずつ進み続ければ、やがて目的地には着いてしまう。

こうして7月26日の夕方ごろ、俊基はついに鎌倉へ到着した。


厳しい牢へ

鎌倉に着いたその日のうちに、俊基の身柄は南条高直に引き渡され、さらに諏訪左衛門という武士に預けられた。

俊基は、一つしか部屋のない狭い場所へ入れられた。

周りには厳しく縄が張られ、逃げることができないように閉じ込められた。

その姿はまるで、地獄へ送られた罪人が、死者を裁く十人の王の前へ引き出され、首や手に枷をはめられて、罪の重さを調べられているかのようだった。

俊基は今度こそ、自分の命が終わりに近づいていることを悟ったのである。


13. 長崎高資の強硬論と、阿新の仇討ち


持明院統からの催促

後醍醐天皇の倒幕計画が明らかになると、持明院統に仕える人々は、

「これで後醍醐天皇は退位させられ、皇位はすぐに持明院統へ移るだろう」

と考えた。

天皇の近くに仕える者から、身分の低い女房に至るまで、皆が喜び合っていた。

ところが、土岐氏と多治見氏が討たれたあとも、天皇を退位させるという話はまったく出なかった。

さらに日野俊基が再び鎌倉へ送られても、皇位について何か決まったという知らせはない。

持明院統の人々は予想が外れ、深く失望した。

そこで、誰かが幕府へ働きかけたのだろう。持明院統から、ひそかに鎌倉へ使者が送られた。

その使者は、幕府に次のように伝えた。

「後醍醐天皇の倒幕計画は、日に日に進んでいる。このまま幕府が詳しく調べずに放っておけば、近いうちに天下の大乱が起こるだろう」

これを聞いた北条高時は、

「なるほど、そのとおりだ」

と驚き、北条一族の有力者や、幕府の役人、評定衆を集めた。

そして、

「後醍醐天皇を、どのように扱うべきだろうか」

と、それぞれの意見を尋ねた。

しかし、誰も簡単には口を開かなかった。

ほかの者に発言を譲るふりをして黙る者もいれば、自分の身に災いが及ぶことを恐れて、何も言わない者もいた。


長崎高資の強硬な意見

その時、幕府の有力な役人である長崎円喜の子、長崎高資が進み出て、はっきりと言った。

「先年、土岐頼貞が討たれた時、本来ならば、すぐに後醍醐天皇を退位させるべきでした。

しかし、朝廷に遠慮して処分を先延ばしにしたため、倒幕計画は今も終わっておりません。

乱れた世を正し、平和を取り戻すことは、武士が果たすべき大切な役目です。

すぐに後醍醐天皇を遠い国へ移し、大塔宮を二度と帰れない遠国へ流すべきです。

そして日野俊基や日野資朝をはじめとする反乱の中心人物を、一人ずつ処刑するほかありません」

高資は、少しもためらわずに言い切った。


二階堂道蘊の反対

すると、幕府の重臣である二階堂道蘊が、しばらく考えてから口を開いた。

「高資殿の意見は、もっともなようにも聞こえます。

しかし、よく考えてみなければなりません。

武家が日本の政治を握るようになってから、すでに百六十年余りがたっています。

幕府の威勢が全国へ及び、北条氏の繁栄が代々続いてきたのには、理由があります。

幕府は天皇を敬い、私心なく忠義を尽くしてきました。また、民をいたわり、思いやりのある政治を行ってきました。

ところが今、天皇の側近を捕らえ、天皇が信頼する高僧たちを流罪にしました。

これだけでも、武士による悪い行いの一つといわれかねません。

そのうえ天皇を遠国へ流し、天台座主である大塔宮まで流罪にすれば、天も幕府のおごりを憎むでしょう。比叡山の僧たちも、必ず怒ります。

神々が怒り、人々が幕府に背を向ければ、武家の運命も危うくなります。

昔から、

『君主が君主らしくなくても、家臣は家臣としての道を失ってはならない』

といわれています。

たとえ後醍醐天皇が倒幕を考えたとしても、幕府の力が強いうちは、味方する者など簡単には現れません。

それよりも、幕府がこれまで以上に慎み、天皇の命令に忠実に従えば、天皇も考えを改めるかもしれません。

そのようにしてこそ、国の平和と武家の繁栄が長く続くのではないでしょうか。

皆様は、どうお考えでしょう」


高資の反論

長崎高資は、ほかの人々の意見を待とうともせず、不機嫌な顔で再び言った。

「学問による政治も、武力による政治も、国を治めるという目的は同じです。しかし、使うべき時は違います。

平和な時には学問や礼儀によって世を治めればよい。

だが、世の中が乱れている時には、武力を使って急いで鎮めなければなりません。

戦乱の世では、孔子や孟子の教えだけでは役に立ちません。反対に、平和な世では武器は必要ありません。

今は、すでに事態が差し迫っています。

武力によって鎮めるべき時です。

中国では、周の文王や武王が、臣下の立場でありながら、道を外れた君主を討った例があります。

日本でも、北条義時や泰時が、悪い政治を行った上皇たちを遠国へ移しました。世間の人々も、その処置を正しいと認めています。

古い書物には、

『君主が家臣を土や草のように軽く扱えば、家臣も君主を敵のように見る』

という言葉もあります。

このまま決断を遅らせ、幕府を討てという天皇の命令が出されてしまえば、あとで後悔しても手遅れです。

ただちに後醍醐天皇を遠国へ移し、大塔宮を硫黄島へ流し、反乱を計画した日野資朝と日野俊基を処刑するべきです。

それ以外に方法はありません。

そうすれば幕府の平和は、いつまでも続くでしょう」

高資は体を乗り出し、強い口調で言い切った。

その場にいた幕府の役人や評定衆は、高資の権力に迎合したのか、それとも本当にその意見が正しいと思ったのか、皆が賛成した。

二階堂道蘊は、これ以上忠告しても無駄だと悟った。

眉をひそめ、何も言わずに退出した。


資朝の処刑が決まる

こうして幕府の評定では、

「後醍醐天皇に倒幕を勧めたのは、源具行、日野俊基、日野資朝である。この三人は死刑にする」

という結論が出た。

そしてまず、前年から佐渡国へ流されていた日野資朝を処刑するよう、佐渡の守護である本間山城入道へ命令が下された。


十三歳の阿新

資朝が処刑されるという知らせは、やがて京都にも届いた。

資朝の子である国光は、当時十三歳だった。

この少年は、阿新と呼ばれていた。

父が幕府に捕らえられてから、阿新は京都の仁和寺付近に身を隠して暮らしていた。

父が処刑されると聞くと、阿新は決意した。

「もう、自分の命を惜しむ理由はない。

佐渡へ行き、父と一緒に斬られて、あの世への旅に付き従おう。

たとえ一緒に死ぬことができなくても、せめて父の最期だけは、この目で見届けたい」

阿新は母のもとへ行き、佐渡へ向かう許しを求めた。

母は何度も引き止めた。

「佐渡という所は、人もほとんど通わない恐ろしい島だと聞いている。

何日もかかる遠い道を、十三歳のお前がどうやって行けるというのだ。

そのうえ、お前まで私のそばからいなくなれば、私は一日どころか、ほんのわずかな間さえ生きていられるとは思えない」

母は泣きながら、阿新を止めようとした。

しかし阿新は、

「誰も一緒に行ってくれないのなら、どこかの川や淵へ身を投げて死ぬ」

と言った。

母は困り果てた。

無理に止めれば、阿新が本当に目の前で命を絶つかもしれない。

ついに母は、これまで阿新にただ一人付き従ってきた下働きの男を同行させ、佐渡へ行くことを許した。


佐渡への旅

佐渡までは遠い。

阿新たちには、乗る馬もなかった。

履き慣れないわらじを履き、菅笠をかぶり、草についた露をかき分けながら北国への道を歩いた。

その姿は、見る者の胸を痛ませるものだった。

京都を出て十三日目、二人は越前国の敦賀へ着いた。

そこから商人の船に乗り、しばらくして佐渡へ渡った。

しかし佐渡には、頼れる知り合いが一人もいない。

阿新は、そのまま父を捕らえている本間山城入道の屋敷へ向かい、中門の前に立った。

ちょうどそこへ、一人の僧が出てきた。

「この屋敷に何かご用ですか。どのような理由で、ここに立っているのですか」

僧が尋ねると、阿新は答えた。

「私は日野中納言資朝の子です。

近いうちに父が斬られると聞き、せめて最期の姿を見たいと思って、京都からはるばる訪ねてきました」

すべてを言い終わらないうちに、阿新の目から涙が次々とこぼれた。

僧は思いやりのある人物だった。

急いで本間山城入道に事情を伝えた。

本間も、石や木のように心のない人間ではない。

さすがに阿新を気の毒に思ったのだろう。

先ほどの僧に命じ、阿新を屋敷の持仏堂へ案内させた。

足の防具やわらじを脱がせ、足を洗わせ、粗末には扱わずに滞在させた。


許されなかった父子の対面

阿新は、本間が自分を受け入れてくれたことを喜んだ。

そして、

「同じことなら、少しでも早く父に会わせてほしい」

と願った。

しかし本間は、父子の対面を許さなかった。

「今日か明日にも処刑される者に子どもを会わせれば、かえって死ぬ時の心残りになるかもしれない。

また、父子を会わせたことが鎌倉へ知られれば、幕府から何を言われるか分からない」

と考えたのである。

そのため阿新は、父が捕らえられている場所から四、五町ほど離れた所に置かれた。

父の資朝は、息子が佐渡まで来たと聞いた。

京都に残してきた時でさえ、

「あの子はこれからどうなるのだろう」

と心配していた。

その息子が、今はすぐ近くにいるのに会うことができない。

そのことが、いっそう悲しく思われた。

阿新も、父がいる方角を見つめた。

海を越え、遠い島の牢に閉じ込められている父の姿を想像すると、これまで流した涙など数にも入らないほど、さらに涙があふれた。

「あの竹林が茂っている所にある建物が、父上の捕らえられている場所だ」

と教えられて見ると、建物の周りには堀がめぐらされ、塀が築かれていた。

通る人もほとんどいない。

阿新は思った。

「本間という男は、なんと情けを知らないのだろう。

父は牢に閉じ込められ、私はまだ十三歳の子どもにすぎない。

たとえ同じ所に置いたとしても、いったい何を恐れるというのか。

会うことさえ許さず、同じ世に生きていながら、まるで生と死の世界に隔てられているようではないか。

父が亡くなったあと、夢の中で会う以外に、もう顔を見ることはできないのだろうか」

会うことのできない父と子が、互いを思って悲しむ姿は、あまりにも痛ましいものだった。


資朝の最期

その年の5月29日の夕方、資朝は牢から出された。

役人が、

「長い間、湯に入っておられません。体を清めてください」

と言った。

資朝は、それを聞いて悟った。

「いよいよ自分が斬られる時が来たのだ」

資朝は、ただ一言だけ言った。

「ああ、何という悲しいことだ。

私の最期を見届けようと、はるばる佐渡まで訪ねてきたあの子に、一目も会えないまま死ななければならないとは」

その後は、何についても一言も話さなかった。

その日の朝までは悲しそうな顔をし、何度も涙をぬぐっていた。

しかし、いよいよ死が目の前に迫ると、この世のことをすべて捨て、ただ静かに心を整えることだけに集中した。

夜になると輿が用意され、資朝はそれに乗せられた。

牢から十町ほど離れた河原へ連れて行かれ、輿が地面に下ろされた。

資朝には、少しもおびえた様子がなかった。

敷物の上に姿勢を正して座ると、死を前にした詩を書いた。

五蘊、仮に形を成す。
四大、今、空に帰る。
まさに首を白刃に当てん。
一陣の風を断つがごとし。

その意味は、次のようなものだった。

人の体は、さまざまなものが一時的に集まってできたにすぎない。
体を作っている地・水・火・風も、今、本来の空へ帰っていく。
私はこれから、首を白い刃に差し出す。
しかし、それは一陣の風を切るのと同じで、恐れることではない。

資朝は詩の下に年号と日付、自分の名を書き、筆を置いた。

処刑人が後ろへ回った。

次の瞬間、資朝の首は敷物の上へ落ちた。

しかし、その体は倒れず、今も生きて座っているかのように見えた。


白骨となった父との対面

資朝と日ごろから仏教について語り合っていた僧がやって来て、簡単ではあるが葬儀を行った。

そして遺骨を拾い、阿新へ渡した。

阿新は、その遺骨を一目見ると、持っていた手の力を失い、その場に倒れ込んだ。

「生きている父上には、ついに会えなかった。

それなのに今、変わり果てた白骨だけを見なければならないとは」

阿新が泣き悲しんだのも当然だった。


阿新の決意

阿新はまだ幼かった。

しかし、非常に勇気のある考えを持っていた。

父の遺骨を、ただ一人連れてきた家来に持たせて、こう命じた。

「私より先に高野山へ行き、奥の院に父上の遺骨を納めてくれ」

そして、その家来を京都へ帰した。

阿新自身は、

「旅の疲れで病気になった」

と本間の屋敷の者に伝え、そのまま佐渡にとどまった。

本当に病気だったわけではない。

父に会わせなかった本間山城入道への恨みを晴らそうと考えていたのである。

それから四、五日の間、阿新は昼間は病人のふりをして、一日中横になっていた。

夜になると、ひそかに部屋を抜け出した。

本間山城入道がどこで寝ているのかを細かく調べ、隙があれば、本間かその息子のどちらかを刺し殺し、自分も腹を切ろうと考えていた。


嵐の夜

ある夜、雨と風が激しく吹き荒れた。

見張りの家来たちも皆、離れた詰め所で眠っていた。

阿新は、

「今こそ、待ち望んでいた機会だ」

と思い、本間山城入道が寝ているはずの部屋へ忍び寄った。

ところが、本間は運が、本間は運が強かったのだろう。

その夜に限って、いつもの寝場所を変えていた。

どこにいるのか分からない。

すると、二つ離れた部屋に灯りが見えた。

「もしかすると、本間の息子がいるのではないか。父親を討てないのなら、せめて息子を討って恨みを晴らそう」

阿新は部屋へ忍び込んだ。

しかし、そこに本間の息子はいなかった。

寝ていたのは、父の資朝を実際に斬った本間三郎だった。

阿新は思った。

「この男も、今となっては父の敵だ。本間山城入道に劣らない相手である」

すぐに襲いかかろうとしたが、阿新は太刀も短刀も持っていなかった。

相手の枕元に置かれた武器を奪うしかない。

しかし、部屋の灯りが明るいため、近づけば相手が目を覚ますかもしれない。

阿新は、どうすればよいか考えた。


蛾が消した灯火

季節は夏だった。

灯りに引き寄せられ、たくさんの蛾が障子に止まっていた。

それを見た阿新は、

「ちょうどよい方法がある」

と思った。

障子を少し開けると、蛾の群れが一斉に部屋へ入り、灯火へ飛びついた。

やがて灯りが消え、部屋は真っ暗になった。

阿新は喜び、本間三郎の枕元へ近づいた。

手探りすると、太刀も短刀も置いてある。

まず短刀を取り、自分の腰に差した。

次に太刀を抜き、本間三郎の胸元へ向けた。

だが阿新は、

「眠っている者を殺すのは、死んでいる者を斬るのと同じだ」

と考えた。

そこで、相手を目覚めさせてから討とうと、足で枕を強く蹴った。

本間三郎が驚いて起き上がろうとした瞬間、阿新は一太刀で、へその上から畳まで突き通した。

さらに太刀を返し、喉を切った。

そして慌てることなく、屋敷の裏にある竹林へ身を隠した。


追手からの逃走

本間三郎は、胸を刺された時、

「あっ」

と大声を上げた。

その声で見張りの者たちが目を覚ました。

火をともして部屋を調べると、血のついた小さな足跡が残っていた。

「これは阿新殿の仕業だ。

屋敷の堀は深い。木戸以外から外へ出られるはずはない。

必ず捜し出して殺せ」

家来たちは、それぞれ松明を持ち、木の下から草むらまで、残らず捜し始めた。

阿新は竹林の中に隠れながら考えた。

「もう逃げる場所はない。

敵に捕らえられるくらいなら、ここで自害しよう」

しかし、すぐに思い直した。

「それではいけない。

父の敵を討つことはできた。

今度は何としても命を守り、後醍醐天皇のお役に立ち、父が果たせなかった願いを実現することこそ、忠義ある家臣、親孝行な子の務めではないか。

助かる可能性が少しでもあるなら、逃げてみよう」

阿新は屋敷の堀を飛び越えようとした。

しかし堀は幅が二丈、およそ六メートル、深さも一丈、およそ三メートル以上あった。

とても飛び越えられるものではない。

すると阿新は、堀の上に長く伸びた竹を見つけた。

「この竹を橋の代わりにしよう」

竹の先まで、するすると登っていく。

阿新の重みで竹は反対側へ大きくしなり、その先が堀の向こう岸へ倒れた。

阿新は竹を伝い、無事に堀を越えた。


麻畑に隠れる

まだ夜は深かった。

阿新は、

「港へ行き、船に乗って本土へ渡ろう」

と考え、道も分からないまま海の方へ進んだ。

しかし、次第に夜が明けてきた。

明るくなれば、道を歩くことはできない。

阿新は一日をやり過ごすため、麻やヨモギが深く生い茂った畑へ入り、身を隠した。

すると、追手と思われる百四、五十騎ほどの武士が、あちこちへ走っていった。

彼らは道で出会う人ごとに、

「十二、三歳ほどの少年が、この道を通らなかったか」

と尋ねながら通り過ぎた。

阿新は、その日一日、麻畑の中で息をひそめていた。


山伏との出会い

夜になると、阿新は再び港、阿新を目指して歩き始めた。

どちらへ進めばよいのかも分からない。

すると、阿新の親孝行な心に感じ入り、仏や神が守ろうとしたのだろうか。

一人の年老いた山伏と出会った。

山伏は、阿新の様子を見て気の毒に思い、尋ねた。

「どこから来て、どこへ行こうとしているのですか」

阿新は、これまでに起きたことを、ありのままに話した。

山伏は思った。

「私がこの少年を助けなければ、すぐに恐ろしい目にあうだろう」

そこで、阿新に言った。

「安心しなさい。

港には商人の船がたくさんあるはずだ。その船に乗せ、越後か越中まで送り届けよう」

阿新の足が疲れて動かなくなると、山伏は少年を肩に乗せ、背負って歩いた。

二人は間もなく港へ着いた。


港を離れる船

夜が明けてから、乗せてもらえる船を探した。

ところが、その日に限って、港には一艘の船もなかった。

どうすればよいか困っていると、はるか沖に一艘の大きな船が浮かんでいるのが見えた。

船は順風になったのを見て、帆柱を立て、帆を張ろうとしていた。

山伏は手を上げて叫んだ。

「その船、こちらへ寄ってくれ。この子を乗せてもらいたい」

しかし船の者たちは、聞こえないふりをした。

掛け声を上げながら舟をこぎ、港の外へ出ていこうとする。

山伏は激しく腹を立てた。

柿色の修行衣を肩にかけ、沖へ向かう船に立ち向かった。

数珠を激しくこすりながら、必死に祈った。

「秘密の呪文を一度唱える者でさえ、生まれ変わるたびに神仏から守られるといわれている。

まして私は、長年修行を重ねてきた。

不動明王の誓いに偽りがないのなら、神々、金剛童子、天の竜や夜叉、八大竜王よ、あの船をこちらへ戻してください」

山伏は飛び上がるように身を動かし、心の底から祈り続けた。


船を引き戻した風

山伏の祈りが神に届き、不動明王が守ったのだろうか。

突然、沖の方から激しい逆風が吹いてきた。

船は大きく傾き、今にもひっくり返りそうになった。

船乗りたちは慌てた。

山伏に向かって手を合わせ、ひざを曲げて頼んだ。

「山伏様、どうか私たちをお助けください」

船乗りたちは必死に舟をこぎ、港へ戻ってきた。

船が岸に近づくと、船頭が飛び降りた。

阿新を肩に乗せ、山伏の手を引いて、船の屋形の中へ案内した。

二人が船に乗ると、風は再び元どおりの順風になった。

船は港を出た。


佐渡からの脱出

その後、阿新を捜していた百四、五十騎ほどの追手が港へ駆けつけた。

遠浅の海へ馬を乗り入れ、

「あの船、止まれ」

と何度も呼んだ。

しかし船乗りたちは、追手の姿が見えないふりをした。

順風を受けて帆を上げ、佐渡から遠ざかっていった。

船は、その日の夕方ごろには越後国の国府へ到着した。

こうして阿新は、山伏に助けられ、死の危険から逃れることができた。

これは、親を思って命がけで行動した阿新を、不動明王が確かに守った証しなのだと、『太平記』は語っている。


14. 日野俊基の最期と、助光の忠義


処刑を待つ俊基

日野俊基は、倒幕計画の中心人物と見られていた。

そのため幕府は、

「遠い国へ流すまでもない。近いうちに鎌倉で処刑する」

と決定した。

俊基には、長年続けてきた願いがあった。

自ら『法華経』を六百回読むことを目標にしていたのである。しかし、処刑が決まった時には、まだ二百回ほど残っていた。

そこで俊基は、幕府に願い出た。

「どうか六百回をすべて読み終えるまで、命をお待ちください。その願いを果たしたあとは、どのような処分でもお受けします」

幕府の者たちも、

「これほど長く続けてきた信仰の願いを、途中で終わらせるのは罪深いことだろう」

と考えた。

そこで、残りの二百回を読み終えるまでの、わずかな日数だけ処刑を延ばした。

『法華経』を一回読むたびに、俊基の残された命は少しずつ短くなっていったのである。


妻の手紙を持って鎌倉へ

俊基が長年召し使ってきた家来に、後藤助光という武士がいた。

俊基が捕らえられたあと、助光は俊基の妻に付き従い、京都の嵯峨の奥でひっそりと暮らしていた。

やがて俊基が鎌倉へ送られたという知らせが届いた。

妻は悲しみに耐えられず、寝込んでしまった。

助光もその姿を見て、胸がしめつけられる思いだった。

そこで妻から俊基への手紙を預かり、人目を避けながら鎌倉へ向かった。

俊基の処刑は、

「今日か明日にも行われるらしい」

とうわさされていた。

助光は、

「もう斬られてしまったのではないか」

と心配し、道で会う人ごとに事情を尋ねながら、急いで鎌倉を目指した。

やがて鎌倉へ着くと、俊基が捕らえられている場所の近くに宿を借りた。

何とかして妻からの手紙を届けようとしたが、警備は厳しく、俊基に近づくことができない。

そうして何日かが過ぎた。


処刑の日

ある日、人々が話しているのを助光は耳にした。

「今日、京都から送られてきた囚人が処刑されるそうだ」

「何とも気の毒なことだ」

助光は顔色を失った。

あちこちを走り回って様子を探ると、俊基はすでに屋根のついた輿に乗せられ、化粧坂の方へ連れて行かれていた。

助光は急いで、そのあとを追った。

化粧坂では、幕府の役人である工藤二郎左衛門尉が俊基の身柄を受け取った。

俊基はさらに葛原岡へ連れて行かれた。

処刑場には大きな幕が張られ、その中の敷物の上に俊基が座らされた。

その姿を見た助光の悲しみは、言葉では表せないほどだった。

目の前が暗くなり、足から力が抜け、今にも気を失いそうになる。

それでも助光は泣きながら工藤の前へ進み出た。

「私は右少弁俊基様に長年お仕えしてきた者です。

御最期を見届けるため、京都からはるばる参りました。

お許しいただけるのであれば、俊基様の前へ出て、奥方様からお預かりした手紙をお渡ししたいのです」

助光は最後まで言い終わらないうちに、涙を流した。

工藤も、その姿を見ると胸を打たれ、涙を抑えることができなかった。

「かまわない。すぐに幕の中へ入りなさい」

そう言って、助光を俊基のもとへ通した。


俊基と助光の対面

助光は幕の中へ入り、俊基の前にひざまずいた。

俊基は助光の顔を見ると、

「どうした……」

と、わずかに言っただけで、すぐに涙で声を詰まらせた。

助光は、

「奥方様からのお手紙でございます」

と言い、俊基の前へ差し出した。

しかし、それ以上は何も言えなかった。

涙で顔を上げることさえできず、ただその場で泣き続けた。

しばらくして、俊基は涙をぬぐい、妻からの手紙を開いた。

そこには、次のようなことが書かれていた。

今にも消えそうな露のような私には、心を落ち着ける場所がありません。
どの日の夕暮れに、あなたがこの世を去ったという知らせを聞くことになるのでしょう。
そのことを思うたびに、胸が押しつぶされ、涙が止まりません。
私の悲しみは、あなたが想像するよりも、はるかに深いものです。

妻の思いは言葉だけでは表せないほど深く、文字は墨で黒くにじむほど、びっしりと書かれていた。

俊基はさらに涙を流し、手紙を最後まで読むことができなかった。

その場にいた者たちも、皆、袖を涙でぬらした。


妻への最後の返事

俊基が、

「硯はあるか」

と尋ねた。

役人が、携帯用の筆と硯を俊基の前へ置いた。

俊基は硯箱の中にあった小刀を取り、自分の耳のあたりの髪を少し切った。

そして、その髪を妻からの手紙に巻き添えた。

さらに手紙の裏へ最後の返事を書き、助光に渡した。

助光はそれを大切に懐へ入れた。

そして声を上げることもできず、ただ深くうつむいて泣き続けた。

その姿は、あまりにも痛ましかった。


俊基の辞世

やがて工藤が幕の中へ入り、俊基に告げた。

「もう、かなり時間がたっております」

俊基は、処刑の時が来たことを理解した。

懐から紙を取り出すと、首のまわりを丁寧にぬぐった。

そして紙を広げ、最期の言葉を書いた。

古来一句
無死無生
万里雲尽
長江水清

その意味は、およそ次のようなものだった。

昔から伝えられてきた、ただ一つの真実がある。
本当は、死ぬこともなく、生まれることもない。
はるか遠くまで雲は消え去り、
大河の水は静かに澄んでいる。

人は生きたり死んだりするように見える。

しかし仏教の教えでは、すべてのものは一時的に形を変えているだけであり、本当の意味での生も死もない。

俊基は、死を前にして心の迷いが消え、雲一つない空や、澄み切った大河のような境地に達したと書いたのである。

俊基は筆を置き、乱れた髪を手で整えた。

その直後、背後で太刀が光った。

俊基の首は前へ落ちた。

俊基は落ちた自分の首を、両腕で抱えるようにして、その場へ倒れた。


助光、遺骨を都へ運ぶ

その光景を見た助光の悲しみは、言葉にできるものではなかった。

助光は泣きながら俊基の遺体を葬り、残された遺骨を集めた。

遺骨を首にかけ、俊基が妻へ残した手紙と髪を大切に身につけ、涙を流しながら京都へ戻った。


妻に届いた最後の手紙

俊基の妻は、助光が戻るのを待ち続けていた。

俊基がどうなったのかを、一刻も早く聞きたかったのである。

助光が到着すると、妻は人目も気にせず、簾の外まで迎えに出た。

そして尋ねた。

「俊基様は、いつごろ京都へお帰りになるとのお返事でしたか」

助光は、はらはらと涙を流した。

「俊基様は、すでに処刑されました。

これが、御最期に書かれたお返事でございます」

そう言って、俊基の髪と手紙を差し出し、声を上げて泣いた。

妻は、夫が残した手紙と白骨を見ると、部屋へ戻ることさえできなかった。

縁側に倒れ、そのまま息が絶えたのではないかと思われるほど、動かなくなった。

それも無理のないことだった。

同じ木の陰で雨宿りをしたり、同じ川の水を飲んだりしただけの、ほとんど知らない人でさえ、別れる時には名残を惜しむものである。

まして二人は、深い夫婦の縁を結び、十年以上も共に暮らしてきた。

その夫とは、これからは夢の中でなければ二度と会えない。

この世での永遠の別れを聞き、気を失うほど悲しんだのも当然だった。


妻と助光のその後

俊基の死から四十九日目、妻は形ばかりではあるが、夫の供養を行った。

その後、髪を下ろして尼となり、濃い墨染めの衣を身につけた。

そして人里離れた質素な住まいで、朝も夕も亡き夫の成仏を祈り続けた。

助光も髪を切って出家した。

その後は高野山にこもり、生涯をかけて亡き主人の魂を供養した。

夫婦の深い愛情も、主人と家来の忠義も、本人たちが亡くなったあとまで残った。

何とも心を打つ出来事であった。


15. 相次ぐ怪異と、後醍醐天皇の京都脱出


奈良と比叡山の大火

嘉暦2年(1327年)の春、奈良の興福寺で、大乗院の僧たちと六方の僧兵との間に争いが起こり、ついには合戦となった。

その戦いによって火が広がり、金堂、講堂、南円堂、西金堂などの重要な建物が、次々と焼け落ちた。

さらに元弘元年(1331年)、今度は比叡山延暦寺の東塔北谷から火が出た。

四王院、延命院、大講堂、法華堂、常行堂などが、一度に灰となった。

人々は、

「奈良と比叡山の大寺院が相次いで焼けたのは、これから天下に大きな災いが起こる前触れではないか」

と恐れた。


大地震と富士山の崩壊

同じ年の7月3日、大地震が起きた。

紀伊国の千里浜では、これまで海であった広い干潟が突然陸地となった。その広さは二十町余りにも及んだという。

さらに7月7日の夕方にも地震が起き、富士山の頂上が数百丈にわたって崩れたと伝えられた。

朝廷では、亀の甲羅を焼いて吉凶を占う卜部氏や、星や暦を調べる陰陽師たちに、これらの怪異の意味を占わせた。

占いの結果には、こう記されていた。

国王の位が変わり、大臣が災いに遭う。

占いを行った者たちは、

「この結果は非常に不吉である。十分に慎まなければならない」

と、ひそかに後醍醐天皇へ報告した。

寺々の火災も、各地の地震も、ただの偶然とは思えない。

人々は、

「今に何か恐ろしいことが起こるのではないか」

と、不安を募らせていた。


幕府の使者が三千騎で上洛する

すると、その不安は現実のものとなった。

8月22日、

「鎌倉幕府の使者二人が、三千騎余りの軍勢を率いて京都へ向かっている」

という知らせが届いた。

何のための軍勢なのかは、まだ分からない。

しかし近国の武士たちは、

「京都で何か大事件が起こるらしい」

と考え、我先にと集まってきた。

京都の町は、たちまち大きな騒ぎに包まれた。

幕府の使者が京都へ到着し、まだ鎌倉からの命令書の箱さえ開けていないうちに、どこから漏れたのか、次のようなうわさが比叡山へ伝わった。

今度、幕府の使者が京都へ来た目的は、後醍醐天皇を遠い国へ流し、大塔宮尊雲法親王を死罪にするためである。


大塔宮の作戦

8月24日の夜、大塔宮はひそかに使者を送り、後醍醐天皇へ伝えた。

「今回、幕府の使者が上洛した本当の目的は、天皇を遠い国へ移し、私を死罪にすることだと聞いております。

今夜のうちに、急いで奈良へお逃げください。

まだ城の守りも整わず、味方の軍勢も集まっていないうちに、幕府軍が御所へ押し寄せれば、こちらは戦いに不利となります。

また、京都にいる敵を引きつけ、比叡山の僧たちが本当に味方になるかを確かめるため、天皇の側近の一人を身代わりとして比叡山へ登らせてください。

その者を天皇であると名乗らせ、

『後醍醐天皇が比叡山へ行幸した』

と発表するのです。

幕府軍は、天皇を捕らえようとして、必ず比叡山へ向かうでしょう。

そうなれば比叡山の僧たちは、自分たちの山を守るため、命を惜しまず戦うはずです。

幕府軍が疲れ、戦いが数日続いたところで、伊賀・伊勢・大和・河内から集めた朝廷軍によって、逆に京都を攻めます。

そうすれば、幕府軍をすぐに討ち滅ぼすことができるでしょう。

国の運命は、この一度の作戦にかかっています」

大塔宮は、このような大胆な計画を提案した。

しかし、後醍醐天皇はあまりに突然のことに驚き、すぐには決断できなかった。


藤房の進言

その時、御所には、坊門師賢、万里小路藤房、藤房の弟・季房ら数人の側近が宿直していた。

後醍醐天皇は彼らを御前へ呼び、

「大塔宮から、このような知らせが届いた。どうするべきだろうか」

と尋ねた。

藤房が進み出て答えた。

「反逆する家臣が天皇に危害を加えようとする時、ひとまずその難を避け、後に国を取り戻した例は、昔から数多くあります。

古代中国でも、敵を避けて国外へ逃れたのち、ついには王となり、子孫を長く栄えさせた人物たちがおります。

ご決断を迷っているうちに、夜が明けてしまいます。

一刻も早く、御所をお出になってください」

藤房はそう言うと、すぐに牛車を御所へ寄せた。


女房の車を装って脱出する

三種の神器を車に載せ、後醍醐天皇もその車へ乗った。

車の下のすだれから女物の絹を見えるように出し、まるで高貴な女性が乗っている車のように見せかけた。

一行は、御所の陽明門から外へ出ようとした。

門を守っていた武士たちは車を止めて尋ねた。

「どなたがお乗りになっている車ですか」

車に付き従っていた藤房と季房は答えた。

「これは中宮様の御車である。夜のうちに北山殿へお出かけになるのだ」

門番たちは、

「それなら問題はない」

と言い、車を通した。

後醍醐天皇は、こうして幕府の警備をだまし、御所から脱出することに成功した。


三条河原で仲間が合流する

あらかじめ準備していたのだろう。

三条河原まで来ると、源具行、按察大納言公敏、六条少将忠顕らが追いつき、一行に加わった。

ここで牛車を降り、目立たない粗末な輿に乗り換えた。

しかし、あまりに急な脱出だったため、輿を担ぐ専門の者がいない。

そこで、大膳大夫重康、楽人の豊原兼秋、随身の秦久武らが、自ら輿を担いだ。

付き従う公家たちは、正式な衣冠を脱いだ。

代わりに折烏帽子と直垂を身につけ、京都の公家に仕える下級の武士が、女性を連れて奈良の寺々へ参詣するような姿に変装した。

後醍醐天皇の輿を、女性の乗り物に見せかけたのである。


奈良へ逃れる

一行が木津の石地蔵付近を通るころには、夜が少しずつ明け始めていた。

そこで朝の食事を取り、まず奈良の東南院へ入った。

東南院の僧正は、以前から後醍醐天皇に変わらぬ忠義を抱いていた。

しかし、天皇が奈良へ来たことをすぐには公表しなかった。

まず興福寺の僧たちが、天皇に味方するかどうかを確かめようとしたのである。

ところが興福寺には、幕府の一族である西室顕実僧正という力の強い僧がいた。

僧たちはその権勢を恐れたのだろう。

後醍醐天皇に味方しようとする者は、一人も現れなかった。


鷲峰山から笠置山へ

「このままでは、奈良にとどまって戦うことはできない」

と判断し、翌8月26日、後醍醐天皇は和束の鷲峰山へ移った。

しかし鷲峰山は、あまりに山深く、人里から遠く離れていた。

味方を集めたり、軍事作戦を進めたりするには不便な場所だった。

そこで、

「もっと守りやすい場所に陣を置こう」

ということになった。

8月27日、一行は天皇の移動であることを隠しながら、奈良の僧兵を少人数だけ連れ、笠置山の石室へ入った。

こうして後醍醐天皇は、鎌倉幕府との戦いに備え、笠置山を拠点とすることになったのである。


16. 師賢、天皇の身代わりとして比叡山へ――唐崎浜の戦い


師賢、後醍醐天皇の身代わりとなる

後醍醐天皇が御所を脱出した夜、坊門師賢は三条河原まで天皇に付き従っていた。

しかし、大塔宮から前もって命じられていた作戦があった。

師賢が後醍醐天皇の身代わりとなって比叡山へ登り、

「天皇が比叡山へ逃れてきた」

と見せかけるのである。

そのうえで、比叡山の僧たちが本当に朝廷の味方となるかを確かめ、兵を集めて六波羅軍と戦うことになっていた。

師賢は法勝寺の前で、天皇だけが着る特別な礼服に着替え、輿に乗った。

四条隆資、二条為明、中院貞平らも正式な装束を身につけ、天皇の行幸に付き従う公家のように、その前後を歩いた。

その行列は、誰が見ても本物の天皇の行幸と思うほど、立派に整えられていた。

一行は比叡山の西塔へ登り、釈迦堂を仮の皇居とした。

そして、

「後醍醐天皇が比叡山を頼り、ここへ行幸された」

と発表した。

この知らせが広まると、比叡山の山上や東のふもとの坂本だけでなく、大津、松本、戸津、比叡辻、仰木、絹河、和邇、堅田など、周辺の人々までもが、我先にと集まってきた。

東塔と西塔は大勢の人で埋め尽くされ、その様子は雲や霞が山を覆っているようだった。


六波羅への密告

ところが六波羅探題は、まだこの出来事を知らなかった。

夜が明けると、鎌倉から来た二人の使者は、まず御所へ向かい、後醍醐天皇を六波羅へ移そうとした。

その時、比叡山の僧である浄林房阿闍梨豪誉から、六波羅へ使者が来た。

豪誉は、ひそかにこう知らせた。

「今夜、寅の刻ごろに、後醍醐天皇が比叡山を頼って行幸されました。

比叡山の三千人の僧たちは、すでに皆集まっております。

近江と越前から来る味方の軍勢を待ち、明日には六波羅を攻めるという話し合いが行われています。

事態がさらに大きくなる前に、急いで東坂本へ軍勢をお送りください。

私が後ろから攻めかかり、天皇の身柄を捕らえてみせます」

この知らせを聞いた六波羅の者たちは、大いに驚いた。

急いで御所へ行ってみると、後醍醐天皇の姿はなかった。

女房たちがあちこちに集まり、泣き声を上げているだけだった。

六波羅の者たちは、

「やはり天皇が比叡山へ逃れたことに間違いない。敵の兵がさらに増える前に、山を攻めなければならない」

と判断した。


六波羅軍、比叡山へ向かう

六波羅は軍勢を二つに分けた。

正面から攻める軍には、京都を警備していた兵と畿内五か国の武士を加えた。

その数は五千騎余りで、赤山のふもとから下松のあたりへ向かった。

もう一方の軍には、佐々木時信、海東左近将監、長井宗衡、筑後貞知、波多野宣道、常陸時朝らが加わった。

美濃、尾張、丹波、但馬の武士たちを合わせ、その数は七千騎余りとなった。

この軍は、大津や松本を通り、琵琶湖の西岸にある唐崎の松へ向かった。


比叡山の僧たちも武装する

坂本では、以前から戦いの準備が行われていた。

妙法院の門主と大塔宮は、前夜から八王子山へ登り、旗を掲げていた。

すると二人に従う僧たちが、三百騎、五百騎と次々に集まり、一晩のうちに六千騎余りの大軍となった。

天台座主をはじめとする高僧たちも、仏に仕えるための衣を脱ぎ、丈夫な鎧を着て武器を手にした。

仏や神をまつる神聖な山は、たちまち武士たちが守る戦場へ変わった。

神々は、この姿をどのように見ていたのだろうか。


唐崎浜で戦いが始まる

やがて、

「六波羅軍が戸津の宿付近まで来た」

という知らせが坂本へ届いた。

坂本の町が騒ぎ始めると、円宗院や勝行房などの僧兵たちは、武器を手に取る暇もないほど急いで、唐崎浜へ向かった。

その数は、歩兵ばかりで三百人ほどにすぎなかった。

六波羅方の武将、海東左近将監は、その小さな軍勢を見て言った。

「敵はわずかな人数だ。後ろから増援が来る前に、蹴散らしてしまわなければならない。皆、私に続け!」

海東は長い太刀を抜き、鎧の袖を盾のように前へかざした。

そして、ひとかたまりになって待ち構える僧兵たちの中央へ、一人で馬を走らせた。

たちまち三人を斬り倒すと、湖の波打ち際に馬を止め、味方の兵が続いてくるのを待った。


海東と快実の一騎討ち

岡本房の僧で、武芸にすぐれていた快実は、遠くからその姿を見た。

快実は、自分の前に立てられていた大きな盾を蹴り倒した。

そして短い薙刀を水車のように大きく振り回し、海東へ飛びかかった。

海東は快実を左側に受け、片手で太刀を振り下ろした。

快実の兜を真っ二つに割ろうとしたのである。

しかし太刀は外れ、快実の鎧の肩から下の部分を斜めに切り落とした。

海東は続けて、さらに強い二太刀目を放とうとした。

ところが力を入れすぎたため、左足をかけていた鐙が壊れ、馬から落ちそうになった。

海東が何とか姿勢を立て直した、その瞬間だった。

快実は薙刀の柄を長く伸ばし、兜と鎧の間から、海東の喉を突き上げた。

海東は喉を正確に突かれ、馬から真っ逆さまに落ちた。

快実はすぐに海東の上へ飛び乗った。

髪をつかんで引き起こし、首を切り落とすと、その首を薙刀の先へ突き刺した。

そして、

「武家の大将を一人討ち取った。戦いの始まりとしては、幸先がよい」

と喜び、大声で笑った。


父の敵に挑んだ幸若丸

その時、見物人の中から一人の少年が走り出した。

年は十五、六歳ほどだった。

髪を唐輪に結い、黄色がかった鎧を着て、立派な大口袴をはいている。

少年は金色の飾りがついた小太刀を抜き、快実へ走りかかった。

そして快実の兜を、三度、四度と激しく打った。

快実が振り返ると、相手はまだ十六歳ほどの少年だった。

太い眉を持ち、歯を黒く染めている。

身分ある家に育った若者だと分かった。

快実は思った。

「これほど幼い少年を討ち殺すのは、僧である自分には情けのないことだ」

しかし、少年は何度も走りかかり、休むことなく小太刀を振るった。

そこで快実は、

「それなら、薙刀の柄で小太刀を打ち落とし、生け捕りにしよう」

と考えた。

ところがその時、比叡辻の者たちが田のあぜ道に並び、横から矢を放った。

一本の矢が少年の胸板を貫いた。

少年はその場に倒れ、息絶えた。

後で調べると、この少年は海東の嫡男、幸若丸だった。

海東は、息子がまだ幼いことから、戦場へ連れてこなかった。

しかし幸若丸は父のことが心配で、見物人の中に紛れ、ひそかにあとを追ってきたのである。

幸若丸はまだ若かった。

それでも武士の家に生まれたため、父が討たれるのを見ると、敵へ向かわずにはいられなかった。

父と同じ戦場で命を落とし、その名を残したことは、何とも哀れな出来事だった。


海東の家来たちの突撃

海東の家来たちは、主人とその息子が目の前で討たれたのを見た。

「二人の主人を目の前で討たれ、そのうえ首まで敵に取られながら、生きて帰る者がいるだろうか」

そう言って、三十六騎が馬を並べ、一斉に快実へ攻めかかった。

主人の遺体を枕にして、自分たちも討ち死にしようと争うように進んだのである。

快実はそれを見ると、からからと笑った。

「おかしなことをする者たちだ。

武士ならば敵の首を取ろうとするものだ。それなのに、自分たちの味方の首を欲しがるとは、武家が滅びる前触れではないか。

それほど欲しいのなら、返してやろう」

そう言うと、持っていた海東の首を、家来たちの中へ投げつけた。

そして坂本の方角を背にして薙刀を振り回し、八方から来る敵を斬り払った。

火花が飛び散り、三十六騎の武士たちは、快実一人に押し返され、馬を進めることさえできなかった。


僧兵たちの増援

後ろに控えていた佐々木時信は、

「味方を討たせるな。皆、続け!」

と命じた。

伊庭、目賀多、木村、馬淵などの武士三百騎余りが、大声を上げて快実へ攻めかかった。

快実は、今にも討ち取られそうになった。

すると、比叡山の僧兵である悪讃岐、小相模、定快、直源の四人が、左右から駆けつけた。

四人は武器の切っ先をそろえ、敵の中へ斬り込んだ。

その戦いで、悪讃岐と直源は同じ場所で討ち死にした。

すると、後ろからさらに五十人余りの僧兵が続き、六波羅軍へ攻めかかった。


唐崎浜の地形

唐崎浜の東側には琵琶湖があり、水際の地面は崩れていた。

西側には深い田が広がり、馬の足が沈んで動けなくなる。

その間には平らな砂浜が続いていたが、戦える道幅は狭かった。

そのため、敵の後ろへ回り込むことも、左右から包囲することもできない。

僧兵も六波羅軍も、先頭に立った者だけが正面から戦い、後ろにいる大勢の兵は、ただ見守ることしかできなかった。


比叡山から大軍が動き出す

「唐崎で戦いが始まった」

という知らせが広がると、比叡山の軍勢が次々と動き始めた。

門跡に従う三千騎余りは、白井の前から今道へ向かった。

延暦寺本院の僧兵七千人余りは、三宮の林を下ってきた。

さらに和邇や堅田の者たちは、小舟三百艘余りに乗り、湖の上から六波羅軍の後ろをふさぐため、大津へ向かってこぎ出した。

これを見た六波羅軍は、

「このままでは勝てない」

と考えた。

志賀の閻魔堂の前を横切り、今道を通って京都へ退却を始めた。


六波羅軍の敗走

比叡山の僧兵たちは、周辺の道をよく知っていた。

狭い道や谷間で六波羅軍を待ち伏せし、あちこちから矢を射かけた。

一方、六波羅の武士たちは土地に不慣れだった。

堀や谷があることにも気づかず、馬を走らせながら必死に逃げた。

そのため、後方を守っていた海東の家来八騎、波多野の家来十三騎、真野入道とその子、平井九郎と家来たちは、谷底で討ち取られた。

佐々木時信も馬を射られた。

代わりの馬が来るのを待っている間に、大勢の敵に左右から取り囲まれ、今にも討ち取られそうになった。

しかし、名誉を重んじ、自分の命を惜しまない若い家来たちが、何度も引き返して戦った。

彼らが各地で討ち死にして時間を稼いだため、時信は何とか包囲を抜け出した。

そして昼のうちに、命からがら京都へ逃げ帰った。


久しぶりに起きた大合戦

このころまで、天下には長い間、大きな戦がなかった。

人々は「合戦」という言葉さえ、ほとんど耳にしていなかった。

そのような世の中で突然、比叡山と六波羅の大軍が戦うという大事件が起きた。

人々は皆、何が起こったのか分からず、慌て騒いだ。

まるで天地が今にもひっくり返るかのようだと、この戦いを話題にしない者はいなかったのである。


17. 持明院統、六波羅へ避難する

世の中が大きく乱れていたため、

「この混乱に乗じて、反乱を企む者たちが持明院統の方々を連れ去るかもしれない」

と心配された。

そこで前日の8月27日、午前10時ごろ、持明院統の上皇と皇太子は、六条殿を出て、六波羅探題の北方へ移った。

お供をしたのは、今出川兼季、三条通顕、西園寺公宗、日野資名、防城経顕、日野資明らである。

彼らは皆、正式な公家の装束である衣冠を身につけ、牛車の前後に付き従った。

そのほか、上皇を警護する北面の武士や役人、当番の者たちの中には、狩衣の下に鎧を着込んでいる者もいた。

京都の町の様子は、ほんのわずかな間に一変した。

大勢の武士が、上皇と皇太子の乗る車を厳重に守って進んだ。

その物々しい行列は、見る者、聞く者を驚かせたのである。


18. 偽の行幸が発覚し、比叡山が離反する――紀信の故事


比叡山の僧たちの不満

比叡山の僧兵たちは、唐崎浜の戦いで六波羅軍に勝利した。

「最初の戦いに勝つことができた。幸先がよい」

と、皆は大いに喜んでいた。

しかし、延暦寺の中心である東塔の僧たちには、一つ不満があった。

後醍醐天皇の仮の御所が、西塔の釈迦堂に置かれていたからである。

東塔の僧たちは言った。

「比叡山の中心である東塔を差し置き、西塔を天皇の御所とするのは、我々にとって面目のないことだ。

昔、後白河法皇が比叡山を頼って登ってきた時も、初めは横川へ入られたが、その後すぐに東塔南谷の円融坊へ移られた。

これは昔からの例であり、縁起のよい先例でもある。

今回も、天皇を早く東塔へお迎えするべきだ」

東塔の僧たちは、この意見を西塔へ伝えた。

西塔の僧たちも、その主張にはもっともなところがあると認めた。

そこで天皇に東塔へ移ってもらうため、大勢の僧たちが仮の御所へ集まった。


偽の天皇が見破られる

その時、山から激しい風が吹き下ろし、御所のすだれを高く巻き上げた。

僧たちは、すだれの奥にいる天皇の顔を、はっきりと見てしまった。

そこにいたのは、後醍醐天皇ではなかった。

天皇の衣を着ていたのは、側近の師賢だったのである。

僧たちは驚き、失望した。

「これはいったい、どのような天狗のいたずらなのだ」

それまで高まっていた戦意も、一気に冷めてしまった。

この出来事が知られると、比叡山の僧たちは、誰一人として仮の御所へ集まらなくなった。


師賢たち、比叡山を脱出する

師賢たちは、

「このままでは、比叡山の僧たちがどのような行動に出るか分からない」

と不安になった。

そこで、その日の夜中ごろ、師賢、四条隆資、二条為明は、ひそかに比叡山を抜け出した。

そして、本物の後醍醐天皇がいる笠置山の石室へ向かった。


幕府方へ寝返る僧たち

一方、浄林房の豪誉は、もともと鎌倉幕府に心を寄せていた。

そこで、大塔宮に仕えていた安居院の澄俊を生け捕りにし、六波羅探題へ引き渡した。

また、護正院の猷全は、大塔宮に従う有力な僧であり、八王子山の第一の門を守っていた。

しかし、

「偽の行幸が明らかになった以上、これ以上戦っても勝ち目はない」

と思ったのだろう。

自分に従う僧や兵を連れ、六波羅へ降伏した。

これをきっかけに、一人、また一人と僧兵たちが比叡山を離れ、幕府側へ寝返っていった。

ついには、光林房の源存、妙光房の小相模、中坊の悪律師など、わずか三、四人の有力な僧を除いて、ほとんど誰も残らなくなった。


妙法院と大塔宮の脱出

妙法院の尊澄法親王と、大塔宮尊雲法親王は、その夜まで八王子山に残っていた。

しかし、味方が次々と離れていく様子を見て、

「このままここにいては危険だ。ひとまず逃れ、後醍醐天皇が今後どうされるのかを確かめよう」

と決めた。

8月29日の夜中ごろ、二人は八王子山のあちこちに多くのかがり火をたかせた。

まだ大軍が山に立てこもっているように、敵へ見せかけたのである。

その間に戸津浜へ下り、小舟に乗った。

最後まで付き従った三百人ほどの僧兵を連れ、まず石山へ逃れた。


二人の宮の別れ

石山に着くと、二人はこれからの行動を相談した。

二人が一緒に逃げ続けるのは、敵に見つかった時の危険が大きく、よい作戦とはいえない。

さらに妙法院は、山道を素早く歩くことが得意ではなかった。

そこで、

「妙法院は、しばらくこの近くにとどまる方がよい」

ということになり、二人は別々の道を進むことになった。

妙法院は、後醍醐天皇のいる笠置山へ向かった。

大塔宮は、十津川の山奥を目指し、まず奈良の方へ逃れた。

二人は、比叡山でも特に高い地位にあった皇族である。

その尊い地位を捨て、これまで経験したこともない、先の見えない逃亡の旅へ出なければならなかった。

長く過ごした比叡山の仏や山王権現とも、これが最後の別れになるかもしれない。

同じ皇族として育った二人が、再び会える日は来るのだろうか。

二人は互いの姿が見えなくなるまで何度も振り返り、涙を流しながら東と西へ別れていった。

その胸の内は、どれほど悲しかったことだろう。


なぜ本物の天皇は比叡山へ行かなかったのか

後醍醐天皇が実際には比叡山へ来ていなかったため、僧たちの心はたちまち離れてしまった。

一見すると、身代わりを使った作戦は失敗だったようにも思える。

しかし、よく考えてみると、これは後醍醐天皇の深い知恵から生まれた作戦だった。

『太平記』の作者は、ここで古代中国の忠臣、紀信の故事を紹介する。


項羽に包囲された漢の高祖

中国では秦が滅びたあと、楚の項羽と漢の高祖が、天下をめぐって八年間争った。

二人が戦った回数は、七十回を超えたという。

多くの戦いで項羽が勝ち、高祖は何度も苦しい立場に追い込まれた。

ある時、高祖は滎陽という城に立てこもった。

項羽の軍は城を何重にも包囲し、逃げ道を完全にふさいだ。

日がたつにつれて城の食料は尽き、兵士たちも疲れ果てた。

高祖には、戦って勝つ力もなく、城から逃げる道もなかった。


紀信の申し出

高祖の家臣に、紀信という武将がいた。

紀信は高祖に、こう申し出た。

「項羽の軍は、城を何重にも囲んでいます。

漢軍には食料がなく、兵士たちも疲れています。

このまま戦えば、漢軍は必ず楚軍に捕らえられるでしょう。

今は敵をだまし、ひそかに城を脱出するほかありません。

どうか私が漢王の名を名乗り、王の身代わりとなって楚軍へ降伏することをお許しください。

楚軍が包囲を解き、私を捕らえようと集まっている間に、高祖様は急いで城から脱出してください。

そして再び大軍を集め、いつか楚を滅ぼしていただきたいのです」

高祖は、紀信が敵へ降伏すれば、すぐに殺されることを分かっていた。

忠実な家臣を死なせることが悲しくてならなかった。

しかし、国を守る立場の高祖が、自分の感情だけを優先するわけにはいかない。

高祖は涙をこらえ、紀信の作戦を受け入れた。


紀信、高祖の身代わりとなる

紀信は喜び、高祖の衣を身につけた。

王だけが乗る立派な車に乗り、高祖の旗を掲げた。

そして城の東門から外へ出ると、大声で叫んだ。

「漢王高祖は罪をわび、楚王項羽に降伏する!」

楚軍はこの声を聞き、城を囲んでいた兵を一か所に集めた。

兵士たちは、

「ついに高祖が降伏した」

と喜び、皆で勝利の声を上げた。

その間に、本物の高祖は三十騎余りの家来だけを連れ、反対側の西門から城を脱出した。

そして成皋という土地へ逃れた。


紀信の死と漢の勝利

夜が明けたあと、楚軍が捕らえた「漢王」の顔を確かめた。

すると、それは高祖ではなかった。

高祖の家臣、紀信だったのである。

項羽は激しく怒り、紀信を処刑した。

しかし、紀信が命をかけて作った時間によって、高祖は逃げ延びることができた。

高祖は成皋で兵を集め直し、再び項羽へ攻めかかった。

やがて項羽の軍は力を失い、項羽は烏江で最期を迎えた。

高祖は漢王朝を開き、中国全土を治める皇帝となったのである。


師賢と紀信

今回、後醍醐天皇も紀信の故事を思い出し、身代わりの作戦を選んだのかもしれない。

そして師賢も、紀信と同じような忠義を尽くそうと考えたのだろう。

紀信は、包囲された高祖を逃がすため、自分を高祖に見せかけて敵をだました。

師賢は、本物の後醍醐天皇を笠置山へ逃がし、幕府軍を比叡山へ引きつけるため、天皇に見せかけた。

一方は中国で、もう一方は日本で起きた出来事である。

時代も場所も違う。

しかし、君主と家臣が心を一つにし、家臣が命をかけて君主を守ろうとした忠義は同じだった。

まさに、千年に一度あるかないかの忠誠心と、わずかな時間で形勢を変えたすぐれた作戦だったのである。