峯村部材店主

太平記 30巻

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巻第三十では、観応2年(1351年)2月の足利尊氏・直義兄弟の和睦後から、両者の再対立、薩埵山の戦い、足利直義の急死までを描く。さらに物語時間を少し巻き戻し、正平一統の破綻と南朝軍の京都攻略へ続く。

巻末では、足利義詮が近江へ退き、北朝側の光厳・光明・崇光と直仁親王が南朝方へ移される。『太平記』本文と一般的な歴史年表で日付・系譜・移送経路などが異なる箇所は、本文を残しながら違いを注記した。

巻第三十|目次

※読み方:年代・人物名は可能な限り西暦と実名を補ったが、『太平記』本文と一般的な歴史叙述が異なる場合は両者を区別した。尺・寸・丈・町・半時などは原単位を残して現代のおおよその値を併記し、「里」は現在のkmへ単純換算しない。軍勢の巨大数、天狗・神託・怪異、中国故事の誇張的な数値は、厳密な実数・史実と断定せず、『太平記』本文上の叙述として読む。


252. 足利尊氏・直義兄弟の和睦――夜ごと現れる天狗の軍勢


※年代と読み方:この章は観応2年(1351年)2月、観応の擾乱で尊氏・直義がいったん和睦した後を描く。夜ごと現れる軍勢は、『太平記』自身が天狗の仕業かと語る怪異譚であり、史実上の軍事行動と断定しない。

尊氏と直義が再び和解する

志が一致すれば、遠く離れた異国同士でさえ隔たりはなくなるという。

まして足利尊氏と足利直義は、同じ父母から生まれ、浮き沈みをともにし、かつては一日も離れず暮らした兄弟だった。

今回の争いも、もとは高師直・師泰兄弟の不義を罰しようとしたことから始まったにすぎない。

どうして血を分けた兄弟が、いつまでも互いに離れていられるだろうか。

観応2年(1351年)2月、足利尊氏と足利直義の和睦が成立した。

尊氏は播磨から、義詮は丹波国井原石龕から、直義は八幡から、それぞれ京都へ入った。

3人はただちに会い、酒を酌み交わした。

しかし近ごろの対立が、さすがに気まずく感じられたのだろう。

互いに言葉は少なく、宴も盛り上がらないまま、それぞれ帰った。


直義のもとへ人々が集まる

直義は、もともと慈悲深い人物として振る舞い、世間の批判を気にする人だった。

そのため、すぐに天下の政務へ戻り、威勢を振るおうとはしなかった。

それでも世間の人々が直義を尊敬することは、以前よりも強くなった。

家臣たちは何事につけても勢いを増した。

門前には車や馬が並び、客が堂上へ群がった。

人々は直義の前で、礼儀を慎みながら挨拶した。


直義の最愛の子が亡くなる

このように、めでたいことが続く中で、『太平記』本文では観応2年(1351年)2月26日、直義が最も愛していた一子が4歳で突然亡くなったとする。

※直義の子:この子は一般に如意丸(如意王丸)とされる。同時代の日記『園太暦』では死亡は2月25日とされ、『太平記』の26日とは1日ずれる。

母をはじめ、身分の高い者も低い者も、限りなく泣き悲しんだ。


高師直・師泰一族の葬儀

東国と西国の戦いは、符節を合わせたように同時に起こった。

師直・師泰兄弟と、その子どもたちの首は、皆京都へ送られた。

等持寺の長老・旨別源が葬儀を行い、火葬の仏事を勤めた。

その席で、

昨夜、春の庭に風雨が激しく吹き、
兄弟の枝を、棣棠の花とともに吹き落とした。

という意味の漢詩が読まれた。

これを聞いた人々は、皆、涙を流した。


昨日までの高一族の家臣たち

この20年余り、高一族の家臣として身を寄せ、その恩を誇っていた者は何千、何万人いたことだろう。

昨日までは、

  • 烏帽子の折り方
  • 衣服の着方

まで高一族をまねし、

「自分こそ執事家の者である」

と見せ、人々から重んじられようとしていた。

ところが今日は姿を変え、顔を隠し、

「師直方の者だ」

と知られることを恐れた。

中国の東方朔は、

用いられれば鼠も虎となり、
見捨てられれば虎も鼠となる。

と言った。

まことに、そのとおりだった。


兄弟は和解しても家臣は争い続ける

尊氏と直義自身は、本当にわずかな隔たりもなく和解し、恨みを残していなかった。

しかしその一門へ属し、権力者へ取りついて出世しようとする者たちは違った。

他人が時勢を得れば嫉妬し、自分が権勢を失えば恨んだ。

  • 石塔氏
  • 上杉氏
  • 桃井氏

は、さまざまな讒言を作り、尊氏へ従う者たちを失脚させようとした。

一方、

  • 仁木氏
  • 細川氏
  • 土岐氏
  • 佐々木氏

は計略を巡らせ、直義のもとで勝手に振る舞う者たちを滅ぼそうとした。


夜ごと現れる怪しい軍勢

天魔は、このような人間の心の隙をうかがうものである。

どのような天狗の仕業だったのだろうか。

夜になると、どこから来たのか分からない武者が、

  • 500騎
  • 300騎

と集まり、

  • 鹿ヶ谷
  • 北白川
  • 阿弥陀ヶ峰
  • 紫野

などで、たびたび軍勢を整えた。

尊氏方の者は、

「直義殿が攻め寄せるのではないか」

と肝を冷やした。

直義方の者は、

「尊氏殿から討手が来るのではないか」

と警戒した。


有力武将たちが国へ下る

争いは利益と欲望から起こり、静まることがなかった。

有力武将たちは、自分の領国へ下り、兵を集めて目的を果たそうとした。

  • 仁木頼章は病気と称して有馬温泉へ下った。
  • 弟の仁木義長は伊勢へ下った。
  • 細川頼春は讃岐へ下った。
  • 佐々木道誉は近江へ下った。
  • 赤松貞範・赤松師範・赤松範直は播磨へ逃げ下った。
  • 土岐頼康は、何も遠慮する様子を見せず、昼間に300騎余りを率い、合戦の用意をして美濃へ下った。

赤松則祐と大塔宮の皇子

赤松則祐は、初めから上洛せず、播磨の赤松にいた。

則祐は吉野の南朝から、亡き護良親王(大塔宮)の皇子・興良親王(大塔若宮・赤松宮)を大将として迎え、西国の政務を行わせようとしていた。

近国の軍勢を集め、

  • 吉野
  • 十津川
  • 和田氏
  • 楠木氏

と連絡し、京都へ攻め上ろうとしているとも伝えられた。

天下は再び三つに分かれ、合戦のやむ時はないだろうと、人々は少しも安心できなかった。

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253. 足利直義、京都を離れて北陸へ――殷の紂王・文王の故事


石塔頼房・桃井直常が北陸行きを勧める

観応2年(1351年)7月晦日、石塔頼房(石塔入道)と桃井直常が足利直義のもとへ来て申し上げた。

「仁木・細川・土岐・佐々木は、それぞれ自分の国へ逃げ、反乱を起こしております」

「これも尊氏殿の許可を得たか、あるいは義詮殿の命令書によって兵を集めているのでしょう」

「赤松則祐が大塔宮の若宮を迎え、宮方を名乗っているのも、実際には兵を集めた後、義詮殿へ従うつもりなのかもしれません」

「直義殿が少数の兵で、警戒もなく京都へいることは危険です」

「今夜、夜陰へ紛れ、篠峰を越えて北国へ下ってください」


北陸は安全であると説く

「木ノ芽峠や荒血山をふさいでしまえば、

  • 越前には斯波高経
  • 加賀には富樫介
  • 能登には吉見氏
  • 信濃には諏訪下社の祝部

がおり、皆、直義殿へ二心のない味方です」

「甲斐と越中は、私たちの領国であり、敵はおりません」

「まず北国へ下り、東国・西国へ命令を出せば、誰が従わないでしょうか」

直義は少しも安心できず、

「それならば、すぐに下ろう」

と決めた。

手近にいた者だけを連れ、観応2年(1351年)7月晦日の夜中、篠峰越えから京都を離れた。


京都から軍勢が消える

直義の家臣だけでなく、

  • 外様大名
  • 諸国の守護
  • 篝火を管理する在京武士
  • 畿内・近国
  • 四国・九州

から上洛していた兵たちも、

「我も我も」

と直義の後を追った。

ついには公家の家臣を除き、京都に人がいるとも思えないほどになった。


尊氏は動揺しない

夜が明けると、義詮は尊氏の屋敷へ参上した。

「昨夜の京都の騒ぎは普通ではありません。

落ちていった兵は大軍です。

引き返して攻めてくるかもしれません」

尊氏は少しも動揺しなかった。

「運は天にある。

何を警戒する必要があるのか」

と言い、人物の善悪や政治の得失を書いた書物を取り出し、静かに読み、詩を口ずさんでいた。


直義軍は六万余騎となる

直義が越前の敦賀津へ着き、軍勢の人数を調べると、初めは1万3,000騎余りだった。

しかし日ごとに兵が加わり、6万騎余りとなった。

※軍勢数:1万3,000騎から6万騎へ増えたという数字は、『太平記』本文上の軍勢数であり、厳密な実数としては扱わない。

この時、直義がこの大軍を率いて京都へ攻め寄せていれば、尊氏も義詮も、戦うことさえできなかっただろう。

ところが無用に長い軍議を行い、役に立たない学問上の理屈へ時間を費やし、数日をむだにした。


藤原有範の進言

直義が兄・尊氏や甥・義詮を相手として戦いながら、

「無道の者を討ち、世を静めよう」

と考えたのは、誰の意見によるものだったのだろうか。

禅宗・律宗関係の奉行として用いられていた南家の儒者、藤原有範が、折に触れて進言したためだという。

有範は殷王朝の故事を語った。


天を滅ぼそうとした武乙

昔、殷の武乙という王は、悪事を好んだ。

「自分は天子として天下を支配している。

それでも太陽や月の明暗を思いどおりにできず、暴風雨を止めることもできない。

何としても天を滅ぼしたい」

と考えた。

木で人形を作り、

「天神」

と名づけ、王自ら人形と賭博をした。

人形は本当の神ではなく、代理人がさいころを振るだけなので、王が勝つようになっていた。

王が勝つと、

「天が負けた」

として、人形の手足を切り、首をはね、踏みつけ、獄門へさらした。

さらに革で人形を作り、血を入れて木の梢へ掛け、

「天を射る」

と称して矢を射た。

流れた血は地面を激しく染めた。

このような悪行を重ねたため、武乙が河渭で狩りをしていた時、突然雷が落ち、体をばらばらに引き裂いた。


殷の紂王

『太平記』は、その孫が殷の紂王だったと語る。

※中国史との違い:『史記』「殷本紀」では、武乙の後は太丁→帝乙→帝辛(紂王)と続くため、紂王は武乙の孫ではなく曾孫にあたる。ここでは『太平記』の故事を残し、一般的な系譜との差を区別した。

紂王は知恵があり、諫言を拒むための理屈を飾ることができた。

勇力も人に勝り、自ら猛獣を倒すほどだった。

自分の才能を臣下へ誇り、声望を天下へ示した。

すべての人間が自分より下だと考え、諫める臣下を置かず、先王の法にも従わなかった。


妲己と残虐な政治

紂王は妲己という美女を愛し、何事も妲己の言うままにした。

罪なく殺される者が多く、悪事だけが積み重なった。

鉅鹿には周囲30里の倉を造って穀物を積み、朝歌には高さ20丈(単純換算で約60m)の台を築いて財宝を満たしたと、『太平記』は語る。

沙丘には周囲1,000里の庭園を造った。

酒を満たして池とし、肉を木へ掛けて林とした。

若く美しい男女を300人ずつ裸にし、互いに追いかけさせた。

酒池には美しい船を浮かべ、肉林では淫らな音楽を奏でた。

天上の快楽でさえ及ばないように見えた。


炮烙の刑

ある日、妲己が南庭の花を眺めながら、物足りなそうに立っていた。

紂王が、

「何か気に入らないことがあるのか」

と尋ねると、妲己は答えた。

「炮烙という刑を見てみたいのですが、その願いがかなっておりません」

紂王は、

「簡単なことだ」

と言い、ただちに南庭へ炮烙の装置を造らせた。

高さ5丈(単純換算で約15m)の銅柱2本を立て、上へ鉄の縄を張り、下で炭火を激しく燃やしたとされる。

罪人には石を背負わせ、柱へ登らせ、熱せられた縄の上を歩かせた。

罪人は力尽きて火の中へ落ち、灰となって死んだ。

妲己はこれを見て大いに喜んだ。

農民や老人は、毎日のように子や親を殺され、泣き悲しんだ。


西伯・文王の慈悲

この時、後の周文王となる西伯は、民の悲しみと世間の批判を見て、

「天下の乱となる」

と嘆いた。

崇侯虎がこれを紂王へ告げた。

紂王は怒り、西伯を羑里の牢へ閉じ込めた。

西伯の臣・散宜生は、

  • 金3,000両(古代中国の貨幣・重量表現)
  • 名馬100頭
  • 美しい女性100人

を紂王へ献上し、西伯の釈放を願った。

財宝と女性を好む紂王は喜び、西伯を解放した。


民を救うため領地を差し出す

西伯は自分の命が助かったことより、炮烙によって毎日、罪のない民が焼き殺されることを悲しんだ。

洛西の土地300里を妲己へ献上し、炮烙の刑をやめるよう願った。

※「里」:この300里を含め、中国故事に出る30里・1,000里などは古代中国の説話的な距離表現であり、現在のkmへ単純換算しない。

妲己も欲が深かったため、土地と引き換えに刑を中止した。

紂王はさらに西伯へ、

  • 弓矢
  • 斧
  • 鉞

を与え、諸侯を討つ権限まで与えた。


太公望との出会い

その後、西伯が渭水付近で狩りをしようとすると、史編という占い師が言った。

「今日得るものは熊でも羆でもありません。

天が君主へ師を与えるでしょう」

西伯は7日間身を清め、渭水のほとりへ出た。

そこには雨に濡れながら、変わった方法で釣りをする太公望がいた。

西伯は、

「占いが示した人物である」

として、自分の車の右へ乗せ、連れ帰った。

太公望を武成王と呼び、師として尊敬した。

太公望の計略によって西伯は徳ある政治を行った。

その子・武王の時代、天下の人々は殷へ背き、周へ帰した。

周王朝は800年余り続いた。


有範の誤ったたとえ

藤原有範は言った。

「現在の義詮殿の淫乱は、殷の紂王の無道へ似ています。

直義殿が仁政を行い、これを滅ぼすことに何の問題があるでしょう」

有範は直義を文王へ、自分を太公望へなぞらえた。

時勢に合わせた巧みな言葉を、直義が信じたことは愚かだった。

しかし直義の行いは、徳ある甥へ国を譲った泰伯の仁ではない。

また無道な兄・管叔を討った周公旦の義でもない。

正しい政治も、覇者の手腕も、どちらも欠けた人物に見えた。

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254. 足利尊氏、直義追討の宣旨を受ける――賀茂社の鳴動


※年代:この章は観応2年(1351年)8月から10月の尊氏・直義の再対立を描く。賀茂社の鳴動や空を飛ぶ鏑矢は、『太平記』が吉凶の兆しとして語る怪異である。

観応2年(1351年)8月18日、足利尊氏は足利直義追討の宣旨を受けた。

近江国へ下り、鏡宿へ陣を置いた。

京都を出た時には、尊氏の兵は300騎にも満たなかった。

しかし、

  • 佐々木道誉・秀綱父子が近江勢3,000騎
  • 仁木義長が伊賀・伊勢勢4,000騎
  • 土岐頼康が美濃勢2,000騎

を率いて駆けつけた。

軍勢は間もなく1万騎余りとなり、どのような大敵とも戦えるように見えた。


直義方も近江へ出る

直義は、

  • 石塔頼房
  • 畠山国清
  • 桃井直常

を大将とし、それぞれ2万騎余りをつけた。

観応2年(1351年)9月7日、直義方は近江国へ入り、八相山へ陣を置いた。

両軍は堅く守り、決戦を行わなかった。


賀茂社の怪異

その日の未の刻(午後1〜3時ごろ)、京都では賀茂御祖神社(下鴨神社)の神殿が長い間鳴動したと、『太平記』は語る。

さらに鏑矢2本が空を鳴り響かせ、北東の方角へ飛び去ったと奏上された。

人々は、

「尊氏・直義兄弟の戦いについて、吉凶を示す怪異だろう」

と考えた。


秋山光政の死と桃井の撤退

『太平記』によれば、翌8日の午の刻(午前11時〜午後1時ごろ)、佐々木道誉の家臣・多賀将監と秋山光政が突然戦い始めた。

秋山は討たれた。

桃井直常は激しく怒り、

「改めて戦うべきだ」

と主張した。

しかしほかの大将が反対したため、結局、越前へ引き返した。


畠山国清が尊氏方へ移る

畠山国清は直義へ、繰り返し申し上げた。

「兄弟で和解し、天下の政務は義詮殿へ任せてはいかがでしょうか」

直義は聞き入れなかった。

国清は怒り、自軍700騎余りを率いて尊氏方へ移った。

このほかにも、縁故を頼って降伏する者が5騎、10騎ずつ尊氏方へ加わった。


直義は鎌倉へ向かう

桃井直常は直義へ言った。

「このまま越前へいることはできません」

観応2年(1351年)10月8日、足利直義は越前を出発し、北陸道を通って鎌倉へ向かった。

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255. 薩埵山の戦い――宇都宮勢の救援と足利直義の降伏


※軍勢数:この章の20万騎・10万騎・50万騎などは『太平記』本文上の巨大な軍勢数であり、実際の動員数として断定しない。

尊氏、直義を追って東国へ向かう

足利尊氏は八相山の戦いに勝ち、京都へ戻った。

観応2年(1351年)10月13日、再び足利直義追討の宣旨が下された。

足利尊氏は翌14日、京都を出発して鎌倉へ向かった。

南朝方に京都の隙を突かれないよう、足利義詮を京都の守護として残した。


薩埵山へ陣取る

尊氏が駿河国へ入った時には、遠江以東の東国・北国勢は、すでにほとんど直義へ従っていた。

尊氏方へは、十分な軍勢が集まらなかった。

そのまま鎌倉へ進むことは難しかった。

尊氏は、

「まず要害へ陣を置き、兵を集めよう」

と考えた。

観応2年(1351年)11月晦日、尊氏は駿河国薩埵山へ上り、東北側へ陣を置いた。

従う武将には、

  • 仁木頼章・義長兄弟
  • 畠山国清兄弟
  • 今川心省・その子伊予守
  • 武田陸奥守
  • 千葉介
  • 長井兄弟
  • 二階堂氏

らがいた。

軍勢は、わずか3,000騎余りだった。


直義方50万騎が包囲する

直義は、

「宇都宮氏を先に討たなければ、後方から救援される」

と考えた。

桃井直常へ長尾氏と北陸7か国の軍勢をつけ、1万騎余りで上野国へ向かわせた。

直義自身も鎌倉を出発し、薩埵山へ向かった。

  • 大手は上杉憲顕を大将とし、20万騎余りが由比・蒲原へ進んだ。
  • 搦手は石堂頼房父子を大将とし、10万騎余りが宇都ノ佐方面へ回った。
  • 直義は総大将として10万騎余りを率い、伊豆国府付近へ控えた。

薩埵山は三方が深い谷、一方が海へ切り立つ要害だった。

しかし包囲する敵は50万騎、守る兵は3,000騎余りだった。

馬は疲れ、兵糧も乏しかった。

寄せ手は、

「いつまで持ちこたえられるだろう」

と、山を手中へ収めた気持ちとなり、急いで攻めず、幾重にも包囲するだけだった。


宇都宮勢の出発

宇都宮氏は、薬師寺元可の勧めによって、以前から尊氏へ心を寄せていた。

高師直一族の三戸七郎を大将に立て、薩埵山救援を計画した。

ところが上野国の大胡・山上一族は、宇都宮に先を越されまいと考えた。

新田大島氏を大将として500騎余りで笠懸野へ出た。

長尾孫六・平三兄弟300騎余りが攻めかかると、大島軍は矢を1本射ることもできず、四方へ散った。

宇都宮は、

「余計な戦いをして、敵を勢いづかせた」

と落胆した。

それでも観応2年(1351年)12月15日、宇都宮勢は救援のため出発した。

氏家・芳賀・薬師寺・猪俣・安保・岡部氏ら1,500騎余りが従った。

翌16日、佐野・佐貫勢500騎余りも加わった。


三戸七郎の突然の自害

軍勢は、

「桃井軍など相手にせず、まっすぐ薩埵山へ向かおう」

と決めた。

ところが大将として立てた三戸七郎が突然狂気となり、自害した。

途中で加わった兵たちは、

「出陣の前兆が悪い」

と思い、1騎残らず逃げた。

初めから宇都宮へ味方した者だけとなり、700騎にも満たなくなった。

薬師寺元可は考えて言った。

「吉凶は、より合わせた縄のように入れ替わるものです。

これは宇都宮大明神が、宇都宮殿自身へ大将の地位を授けるために起こしたことでしょう。

少しもとどまってはなりません」

兵たちは気を取り直して進んだ。


那和荘の戦い

12月19日の午の刻(午前11時〜午後1時ごろ)、宇都宮軍は利根川を渡り、那和荘へ着いた。

後方に馬煙が上がった。

味方の援軍かと思ったが、桃井直常・長尾氏の一万余騎だった。

宇都宮軍は小溝を前にして平野へ陣を張った。

  • 紀党・清党700騎余りが北側
  • 氏家勢二百余騎が中央
  • 薬師寺兄弟500騎余りが南側

へ控えた。

両軍は互いに様子を見ながら、半時(約1時間)ほど時を移した。

桃井軍7,000騎余りが宇都宮勢へ、長尾軍3,000騎余りが薬師寺勢へ攻めかかった。

長尾孫六・平三の500人は馬を降り、徒歩で太刀・長刀をそろえ、氏家軍へ進んだ。

広い平野で1万2,000騎余りが激しく戦った。

『太平記』では、追いつ返しつ半時(約1時間)ほど激戦が続いたとする。

長尾兄弟の徒歩兵500人は騎馬軍に縦横へ攻められ、1人残らず討たれた。

桃井・長尾両軍は、

「勝てない」

と考え、四方へ逃げた。

戦後、数か月たっても、2、3里の戦場は血なまぐさく、遺体が道へ横たわっていたという。

※「里」:ここでの2、3里は『太平記』本文の距離表現である。中世の「里」は時代・地域で長さが一定しないため、現在のkmへ単純換算しない。


武蔵国でも直義方が敗れる

同じ日、武蔵国守護代として兵を集めていた吉江中務も、津山弾正左衛門と野与党に攻められ、討たれた。

武蔵・上野では、尊氏方へ敵対する者が1人もいなくなった。

宇都宮へ従う兵は3万騎余りとなった。


薩埵山の包囲軍が逃げる

宇都宮勢が救援へ向かっていると聞き、薩埵山の寄せ手は、

「救援軍が来る前に山を攻め落とそう」

と主張した。

しかし石堂・上杉は許さなかった。

児玉党3,000騎余りだけが、険しい桜野口から攻め上った。

守る今川・南部・羽切勢300騎余りは、高所へ石弓を仕掛けていた。

石を一斉に落とすと、先陣数100人が盾ごと押し潰された。

南部・羽切勢が攻め下り、大類・富田氏をはじめ児玉党17人が討たれた。

ほかの寄せ手は、

「いずれ落ちる城へ、手柄顔で攻めて討たれるとは愚かなことだ」

と笑った。

12月27日、宇都宮を中心とする救援軍3万騎余りが足柄山の敵を破り、竹下へ陣を置いた。

小山判官700騎余りも古宇津へ着き、無数のかがり火をたいた。

包囲軍50万騎余りは、一時も持ちこたえず、四方へ逃げた。


直義の敗走と和睦

仁木義長は300騎余りで逃げる敵を追い、伊豆国府へ攻め寄せた。

直義は防戦せず、北条へ逃れた。

上杉憲顕・長尾勢二万余騎は信濃へ向かった。

千葉一族500騎余りが早川尻で追いつこうとしたが、かえって大軍へ包囲され、全滅した。

直義は北条にもとどまれず、伊豆の山へ退いた。

大きく息をつき、

  • さらにどこかへ逃げるか
  • 自害するか

思い悩んだ。

そこへ再び和睦の話が起こった。

尊氏から何通もの手紙が届き、

  • 畠山国清
  • 仁木頼章
  • 仁木義長

が迎えに来た。

直義は命を捨てがたかったためか、後世の恥を忘れたのだろうか。

直義は降伏者となって尊氏へ従い、正平7年/観応3年(1352年)正月6日の夜、鎌倉へ帰った。

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256. 足利直義の急死――毒殺説と『太平記』の因果応報


直義が降伏した後、従っていた武士は1人もいなくなった。

籠のような屋敷は荒れ、警護の武士が置かれた。

悲しい知らせばかりが耳へ入り、心を傷つけた。

直義は、

「このような憂き世で生き続けても、命に何の意味があるのか」

と、自分の身まで無用なものとして嘆いた。

それから間もない観応3年/正平7年(1352年)2月26日、足利直義は鎌倉で突然亡くなった。

表向きには、

「黄疸という病気へ突然かかった」

と発表された。

しかし『太平記』は、表向きには黄疸とされた一方、「実際には鴆毒を飲まされたため亡くなった」とひそかに噂された、と記している。

※史実との区別:足利直義の毒殺説は当時から広く語られ、後世の歴史叙述にも残る。しかし確定した死因として断定できるものではないため、ここでは『太平記』の記述と毒殺説を区別する。


3年間に同じ因果が巡る

『太平記』は因果応報を強調し、「一昨年の秋、師直は上杉重能を滅ぼした」と振り返る。

続けて「前年の春、直義は師直を誅した」と語る。

そして「今年の春、直義もまた敵によって毒を飲まされ、亡くなった」と結び、3年間の因果が巡ったという形にまとめる。

※年代:一般的な年表では、上杉重能の殺害は貞和5年(1349年)12月、高師直の死は観応2年(1351年)2月26日、直義の死は1352年2月26日である。『太平記』の「一昨年の秋」「前年の春」という整理は、厳密な暦日とは一致しない。

三つの門を通り過ぎる間に、老・病・死が訪れ、
指を1度鳴らすほどの間に、過去・現在・未来が移り変わる。

というのは、このようなことをいうのだろう。

因果応報の道理は、今に始まったことではない。

しかし3年の間、ほとんど同じ日に報いが巡ったことは不思議だった。


直義の罪

直義は政治を心に掛け、仁義も重んじた人物だった。

それでも自滅したのは、どのような罪の報いだろうか。

直義の進言によって、尊氏が鎌倉で偽りの誓約書を残した。

その罰によって兄弟仲が悪くなり、最後には亡くなったのだろうか。

あるいは、

  • 護良親王(大塔宮)を殺したこと――『太平記』が直義の罪として挙げるもの
  • 成良親王(将軍宮)を毒害したこと――同じく『太平記』が直義の行為として挙げるもの

※人物評価:ここは『太平記』の因果応報論である。護良親王の死には直義の命令が関わったとされる一方、成良親王の死因・責任関係も含め、上の2件をそのまま確定史実として読むべきではない。

こうした皇子たちへの仕打ちの怨念によって、直義は滅びたのだろうか、と『太平記』は問いかける。

古い言葉に、

災いには、もともと種がない。
悪事を行うことによって、その種をまく。

とある。

武家へ生まれ、弓矢を仕事とする者であっても、慈悲を第一とし、業の報いを恐れるべきである。

自分に権勢がある時、

  • 神仏の監視を恐れず
  • 人々の苦しみを気にせず
  • 思うままに振る舞えば

楽しみが尽きた後に悲しみが来て、自分自身を苦しめることになる。

何とも愚かなことである。

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257. 正平一統の破綻――南朝と足利義詮の偽りの和睦


※時間の流れ:前章は足利直義が死去した正平7年/観応3年(1352年)2月26日まで進んだが、この章は少し時間を巻き戻し、尊氏が東国へ下った後の京都と、正平一統が破綻していく過程を描く。

義詮から南朝への和睦提案

足利尊氏が鎌倉へ下った時、足利義詮は京都守護として残された。

関東の戦況は、まだ京都へ届いていなかった。

京都の兵力は非常に少なかった。

義詮は、

「このままでは和田・楠木軍に攻められ、情けなく京都を失う」

と考えた。

一時的な計略によって京都を平穏にするため、吉野の南朝へ使者を送った。

「今後は南朝の天皇が天下を治められます」

「国衙領、郷、保、本家・領家が長年支配してきた土地には、武家は一切関与いたしません」

「ただし承久の乱以後に新しく置かれた守護・地頭や、御家人の所領については、武家が処理することをお許しください」

「君臣が和睦されれば、武士は武器を収め、聖なる天皇の長い御代を仰ぐことができるでしょう」

義詮は繰り返し奏上した。


南朝も義詮を欺こうとする

南朝では公卿たちが相談した。

「以前、直義が和睦を申し入れながら、すぐ言葉を変えた。

義詮の申し出も、偽りであることは疑いない」

「しかし計略の一つとして、まず義詮の申し出を受け、天皇が京都へ戻る準備をしよう」

「その後、

  • 義詮は畿内・近国の軍で討ち
  • 尊氏は新田義貞の子らへ命じて追討する

ことに何の問題があるだろうか」

南朝は深い問答もせず、

「和睦を認める」

と返答した。

両者が互いに相手を欺こうとしていることを、誰が知っただろうか。


公卿たちが賀名生へ集まる

これまで持明院統へ仕えていた公卿たちは、皆、賀名生の南朝へ参上した。

摂政・関白、大臣、大納言、中納言、参議、弁官、衛府の官人だけではなかった。

  • 比叡山・園城寺の高僧
  • 三門跡の貫首
  • 禅宗・律宗の長老
  • 寺社の別当・神主

までが、我先にと駆けつけた。

それまで寂しく粗末だった賀名生の山中は、人々が花のように入り交じった。

辻堂や風呂場に至るまで、幕の張られない場所はなかった。


官位の引き下げと異例の昇進

京都から来た公卿の官位は、持明院統から与えられたものとして、一階級ずつ引き下げられた。

ただし三条坊門通冬と、その子為定だけは、以前の官位へ戻された。

2人は以前から南朝へ連絡していたためだった。

一方、長年南朝の山中へ仕えてきた者には、順序を越えた恩賞が与えられた。

貧しい者と栄えた者の立場は、1度に入れ替わった。


北畠親房の異例の待遇

天皇の母は新待賢門院という院号を受けた。

北畠親房は准后となり、華やかな童子を従え、輿に乗って宮中へ出入りした。

親房は北畠顕家の父であり、皇后の父でもあった。

武功・家柄ともに優れてはいたが、皇族・摂関家以外へ准后の宣旨が出た例は、ほとんどなかった。

南朝へ仕えた者は、

  • 名家が清華家を越え
  • 庶子が嫡家を越え

思うままに官職を得た。

もしこのまま天下が定まれば、嘆く者が多く、喜ぶ者は少なかっただろう。

元弘の一統政権も、同じような政治によって乱れた。

それを教訓としなかったことは愚かだった。


天皇、住吉へ向かう

正平6年(1351年)が暮れ、正平7年(1352年)となった。

皇居は山中にあったため、白馬節会や踏歌節会は行われなかった。

四方拝や暦の奏上など、わずかな儀式だけが行われた。

武家からは、

  • 馬10頭
  • 金3,000両

が献上された。

そのほか、女院・皇后・公卿へも、馬・絹・金が贈られた。

正平7年(1352年)2月26日、後村上天皇は賀名生の山中を出発し、まず河内国東条へ向かった。

剣と神璽を持つ役人だけが衣冠を整え、ほかの公卿・武官は皆、鎧を着て前後を守った。

東条へ一泊した後、住吉へ行幸した。

  • 和田氏
  • 楠木氏
  • 真木野氏
  • 三輪氏
  • 湯浅氏
  • 山本氏
  • 熊野勢
  • 吉野十八郷の兵

7,000騎余りが道中を警護した。

住吉大社神主・津守国夏の屋敷を急いで改装し、皇居とした。

国夏は従三位へ進められ、前例のない殿上人となった。


住吉の松が折れる

住吉へ到着して3日目、神社で不思議なことが起きた。

勅使が神馬と幣帛を奉った時、風もないのに瑞垣前の大松が中央から折れ、南へ倒れた。

勅使が驚いて奏上した。

伝奏の吉田宗房は、

「妖怪は徳へ勝てない」

と言い、あまり気にしなかった。


伊達有雅の批判

武者所にいた伊達有雅は、この話を聞いて言った。

「何と嘆かわしいことだ。

この度の京都への還幸は、難しいものとなるだろう」

昔、殷の太戊帝の庭へ、一夜のうちに高さ20丈余り(単純換算で約60m超)の桑と穀の木が生えたと、中国の故事として語られる。

帝が恐れて伊陟へ尋ねると、

「妖怪は徳へ勝てません。

政治に欠けるところがあるため、天が兆しを下したのです。

早く徳を修めてください」

と答えた。

太戊帝が政治を正し、民を慈しみ、賢者を招き、悪臣を退けると、木は一夜のうちに枯れ、霜や露のように消えた。

有雅は言った。

「このように聖徳を行ってこそ、怪異を除くことができる。

現在の政治にどのような徳があるため、

『妖怪は徳へ勝てない』

と簡単に言えるのだろう。

理解しがたい学問である」


松へ書かれた落書

その夜、何者かが折れた松を削り、古歌を作り替えて書いた。

君が代の
短かるべき
ためしには
かねてぞ折れし
住吉の松

意味は、

天皇の御代が短く終わる前兆として、
住吉の松は、あらかじめ折れたのである。

という不吉な歌だった。


天王寺・八幡へ進む

後村上天皇は住吉へ18日滞在し、正平7年(1352年)閏2月15日に四天王寺へ向かった。

伊勢国司・北畠顕能が伊賀・伊勢勢3,000騎余りを率いて参上した。

閏2月19日には石清水八幡宮へ行幸し、田中法印の坊を皇居とした。

赤井・大渡へ関所を置き、山上・山下へ兵が満ちた。

京都では、

「これは合戦の準備ではないか」

と不穏な噂が流れた。


義詮への偽りの返答

義詮は法勝寺の慧鎮上人を使者として送り、尋ねた。

「臣下としての罪を謝り、勅免を願ったところ、天皇は事情をお察しになり、和睦が決まりました」

「それなのに和田・楠木ら官軍が合戦を企てていると聞きます。

どのような事情でしょうか」

天皇は上人へ直接答えた。

「天下の人々が、まだ恐れを抱いているため、非常事態へ備えて官軍を連れているだけである」

「君臣がすでに和睦した以上、異変はない」

「讒言する者がいても、互いに敵対する心を持たなければ、太平の基となるだろう」


南朝軍の奇襲

このような勅答だったため、義詮をはじめ京都の兵は、

「だまされることはない」

と油断していた。

しかし『太平記』本文では、閏2月27日の辰の刻(午前7〜9時ごろ)、南朝軍が一斉に京都へ攻め寄せたとする。

※史料上の日付:一般的な史料整理では、後村上天皇は正平7年(1352年)閏2月19日に八幡へ入り、翌20日に楠木正儀ら南朝軍が足利義詮軍を破って京都を占領したとされる。ここは『太平記』本文の27日と日付が異なる。

  • 北畠顕能は3,000騎余りで鳥羽から進み、東寺南側と羅城門東西へ旗を広げた。
  • 千種顕経は500騎余りで丹波路の唐櫃越えから進み、西七条へ火を放った。
  • 和田・楠木・三輪・越智・真木・神宮寺勢5,000騎余りは、夜のうちに桂川を渡り、七条大宮付近へ集まって鬨の声を上げた。

京都中は、

「楠木軍が来た」

と大混乱となった。


細川顕氏の敗走

細川顕氏は千本へ宿泊していた。

西七条の煙を見て、東寺へ向かおうと140、150騎で朱雀大路を南へ進んだ。

七条大宮へ控える楠木軍へ包囲され、甥の細川八郎がその場で討たれた。

顕氏は主従8騎となり、若狭を目指して逃げた。


細川頼春の討ち死に

当時の侍所・細川頼春も、東寺付近で軍勢を集めようとして、300騎ほどで大宮を南へ進んだ。

六条付近で敵の旗を見た。

「兵を集めている場合ではない。

まず目の前の敵を追い散らさなければ、どこへも行けない」

頼春は3,000騎余りの和田・楠木軍へ向かった。

楠木軍は民家の垣へ階段のような1枚盾を掛け、射手300人余りを屋根へ上げていた。

上から矢を射下ろされた頼春軍は進めなかった。

そこへ和田・楠木勢500騎余りが一斉に攻めた。

頼春軍は左右へ散り、引き返そうとした。

『太平記』は、頼春の馬が敵の太刀へ驚き、弓杖3杖ほど(弓3張り分、単純換算で約6.8m)飛び上がったと語る。

頼春は鞍から投げ出され、逆さまに落ちた。

敵3騎が斬りかかった。

頼春は寝たまま2人の膝を薙ぎ、起き上がろうとした。

そこへ和田方の下人が槍で喉を突き、倒れた頼春の首は和田方へ取られた。

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258. 足利義詮、近江へ逃れる――勢多橋からの脱出


細川頼春は討たれた。

細川顕氏も行方を知られないまま逃げた。

もはや改めて戦う兵はなかった。

義詮は、わずか140、150騎で近江を目指して逃れた。


勢多橋を焼き落とされる

下賀・高山の源氏は、以前から南朝方と連絡していた。

勢多橋を焼き落としていた。

義詮側には舟が1艘もなかった。

比叡山へも南朝から使者が送られ、山徒は皆、南朝方となったと聞いていた。

「逃げてきた我々を討とうと、勢多へ来るだろう」

と考えた。

兵たちは後悔した。

「京都で討ち死にすべきだった。

むなしくここまで逃れ、遺体を琵琶湖へ沈め、名を見知らぬ土地へ埋めるとは、何という恥だろう」


自害を覚悟する

敵の旗が見えたならば腹を切ろうとして、義詮以下全員が鎧を脱ぎ、腰刀だけを持って白砂の上へ並んだ。


曾我左衛門が泳いで舟を取る

相模国の曾我左衛門は、水泳の達人だった。

対岸まで泳ぎ、小舟1艘を手に入れた。

自分で櫓を押し、こちらの岸へ漕ぎ戻った。

義詮をはじめ主だった20人余りが乗り、先に対岸へ渡った。

その後さらに小舟3艘を探し出し、150騎すべてを渡した。


馬や武具も運び終える

敵は、まだ追ってこなかった。

捨てた馬や武具も、順番に対岸へ渡した。

最後に舟をひっくり返して流し、

「これで命が助かった」

と手をたたき、大声で笑った。


義詮軍が再び増える

義詮が近江国四十九院へ無事に到着したと聞き、

  • 土岐氏
  • 大高伊予守

らが東坂本から舟で駆けつけた。

佐々木一族はいうまでもなく、

  • 美濃
  • 尾張
  • 伊勢
  • 遠江

の軍勢も次々と集まった。

義詮は再び大軍を得た。

山陽道・山陰道の武士へ連絡し、京都を攻めようと相談した。

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259. 光厳・光明・崇光と直仁親王、南朝方へ移される


※年代:この章は前章の京都退去後を描きながら、途中で『太平記』本文の「同月23日」へいったん時間を戻す。さらに、北朝側の院・天皇・皇太子の移送経路は、『太平記』の叙述と同時代史料を用いた一般的な年表で異なるため、両者を分けて読む。

南朝天皇は京都へ入らない

義詮軍は京都を退いた。

しかし南朝の後村上天皇は、京都へ入らず、八幡にとどまった。

北畠親房と北畠顕能父子だけが京都へ入り、政務を行った。

ほかの公卿・殿上人は、皆、天皇のいる八幡へ仕えた。


京都にあった神器を南朝へ渡す

『太平記』本文はここで「同月23日」と記し、中院具忠が勅使となり、京都の内裏にあった三種の神器とされた品を、南朝の後村上天皇へ渡したとする。

南朝では、

「後醍醐天皇が比叡山から足利方へ出た時、本物ではない物へ取り替えて持明院統へ渡した神器である」

として、神璽の箱は捨てられた。

宝剣と鏡は、側近の公卿へ与えられ、

  • 衛府の太刀
  • 衣装用の鏡

として使われた。

『太平記』は、これらを「本物の三種の神器ではなかった」と語る。

※神器について:三種の神器の真偽は、南北朝双方の正統性をめぐる主張と深く結びつく。『太平記』の断定を、そのまま現代の確定史実としては扱わない。

しかしすでに3度の大嘗会へ用いられ、20年余り毎日の神拝や御神楽を受けていた。

「神霊が宿っていないはずはない。

あまりにも恐れなく、普通の器物としてしまってよいのだろうか」

と疑問を述べる者も多かった。


持明院殿の包囲

『太平記』本文では「同27日」、北畠顕能は500騎余りを率いて持明院殿へ参ったとする。

周辺の辻や門を堅く守らせた。

女院や皇后は、

「武士が来て、上皇や天皇を殺そうとしている」

と恐れ、深く沈み込んだ。

内侍・女房たちは先のことも分からず、逃げ惑った。


南山へ移すとの命令

顕能は穏やかに西の小門から入り、四条隆蔭を通じて奏上した。

「天下が静まるまで、皇居を南山へ移すようにとの天皇の命令です」

光厳上皇(本院)・光明上皇(新院)・崇光天皇(本文の「主上」)・皇太子直仁親王(東宮)は呆然とした。

言葉も出ず、ただ涙を流した。


新院の願い

しばらくして新院は涙を抑え、言った。

「天下が乱れて以来、わずかに帝位へついたとしても、自分の意思から始まったことではないため、政治を思うままにできませんでした」

「世が暗いならば、山へ身を隠し、花山法皇のように出家したいと思っておりました。

しかしそれもかなわない苦しみを、天皇にもお察しいただきたい」

「今、南朝の天運が開き、人々の望みがかなう時が来たのでしょう」

「もし恩赦を受けられるならば、ただちに出家し、辺鄙な場所へ隠れ住みたい。

このことを、詳しく奏上してください」

しかし顕能は再度の返答を待たなかった。

「すでに命令を受けた以上、重ねて奏上している余裕はありません」

と、車2両を寄せた。


上皇・天皇・皇太子が同じ車で出る

「時刻が遅れています」

と急がせた。

光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・直仁親王は同じ車へ乗り、南門から出た。

春霞の中に見える花の木の間の月は、最後の涙によって、いつも以上に朧だった。

女院・皇后、女房たちは、御簾や几帳の内側で声を隠さず泣いた。

車は暁の月の下、東洞院を南へ進んだ。

鐘の音が東山へ響き、夜明けの雲へ横たわった。


鳥羽から網代輿へ移される

東寺までは多くの公卿が供をした。

しかし顕能が、

「これ以上は供をしてはならない」

と命じた。

  • 三条実音
  • 典薬頭篤直

だけが従った。

見慣れない兵に囲まれ、鳥羽へ着いた時には、すっかり夜が明けていた。

ここで車を止め、粗末な網代輿へ乗り換えさせた。

『太平記』は、数日をかけて吉野奥の賀名生へ移された、と物語を進める。

※一般的な歴史年表:史料に基づく整理では、光厳・光明・崇光の3上皇と直仁親王は京都からまず八幡へ移され、正平7年(1352年)3月4日には河内国東条の広河寺へ、正平7年(1352年)6月2日に賀名生へ移されたとされる。『太平記』はこの移送過程を大きく圧縮している。


賀名生での幽閉生活

南朝天皇の皇居さえ、

  • 黒木の柱
  • 竹の垂木
  • 柴の垣

で囲まれた、しばらく住むことさえ難しい家だった。

まして持明院統の天皇・上皇は敵に捕らえられ、流刑地のような住まいへ置かれた。

古びて傾いた庵の軒へ雨が降り、眠ることのできない夜の寂しさを、雨音までもが深くした。

夜明けには風が冷たく、月は庭の松へ掛かった。

夕暮れには猿が鳴き、風が山の雲を送った。

天皇・上皇は、

「外で聞いていた苦しさなど、数にも入らないほど住みにくい深山である」

と、折に触れて嘆いた。

涙の乾く時はなかった。


梶井宮も捕らえられる

梶井二品親王、すなわち尊胤法親王も、この時に捕らえられたと『太平記』は記す。

同じように捕らえられ、金剛山の麓へ置かれた。

『太平記』は、尊胤法親王を本院(光厳上皇)の弟で、慈覚大師の法流を継ぎ、3度天台座主となった人物と記している。

※人物:一般的な系譜では、尊胤法親王は後伏見天皇の第4皇子で、光厳上皇の弟ではなく叔父にあたる。また天台座主は4度務めたとされる。ここも『太平記』本文との違いを区別した。

門跡としての富貴は並ぶものがなく、弟子は雲のように集まった。

以前は、

  • 獅子舞・田楽
  • 茶会
  • 連歌

を日夜楽しんでいた。

そのため世間の批判や比叡山の訴えが絶えなかったが、本人の楽しみは比べるものがなかった。


孤独な山中生活

今は一転し、流刑地のような深山へ置かれた。

里から遠く、鳥の声さえかすかだった。

使える者は力者1人だけだった。

隙間だらけの柴の庵へ片袖を敷き、苔を寝床とした。

露は枕へ宿っても、京都へ帰る夢は見られなかった。

親王は、

「仏道へ入る種は縁から起こる。

このまま世が終わるならば、門跡として灌頂を受けた名誉を捨て、1人の僧となろう」

と思った。

天下が南朝へ定まり平穏となれば、出家の願いもかなうかもしれない。

反対に武家が南朝軍を破れば、自分が殺されることもある。

そう考えるほど、

「このまま早く世が静まってほしい」

との祈りは、かえって深くなった。

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