峯村部材店主

太平記 28巻

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巻第二十八では、観応元年(1350年)に入って高師直・高師泰兄弟の権勢が頂点へ達する一方、足利直冬が九州で勢力を広げ、幕府内部の対立が全国へ波及していく。石見では高師泰軍が三隅氏を攻め、九州の情勢悪化を受けて足利尊氏・高師直は西国へ出陣する。

その直前、足利直義は京都を脱出して大和へ逃れ、やがて南朝へ降伏を申し入れる。巻末では、直義を受け入れるべきかをめぐる南朝の議論の中で、北畠親房が劉邦と項羽の漢楚戦争を長く語る。『太平記』本文と一般的な歴史年表の年代差、中国故事の史実との違いも区別して読めるよう補足した。

巻第二十八|目次

※読み方:年代・人物名は可能な限り西暦と実名を補ったが、『太平記』本文と一般的な歴史叙述が異なる場合は両者を区別した。旧単位は尺・寸・丈・町など換算できるものに現代のおおよその値を併記し、中世日本・中国故事の「里」は現在のkmへ単純換算しない。軍勢数や中国故事の巨大数は、厳密な実数ではなく『太平記』本文上の叙述として読む。


235. 足利義詮の政務――実権を握る高師直・高師泰


貞和6年(1350年)2月27日、北朝では改元が行われ、年号は観応となった。

※年代:観応への改元は1350年2月27日である。『太平記』本文の伝本には月の字が欠けて見えるものもあるが、ここでは一般的な改元日を補った。

貞和5年(1349年)8月14日、高師直・高師泰兄弟は足利尊氏の屋敷を兵で包囲し、上杉重能・畠山直宗の引き渡しを要求した。

2人が流刑先で殺された後、足利直義は出家し、政治の世界から身を退いた。

そのため足利尊氏の嫡男・足利義詮が、貞和5年(1349年)10月23日に鎌倉から上洛し、天下の政務を行うこととなった。

しかし、実際には何事も高師直・師泰兄弟の判断によって決められた。

高一族の権勢は、魯の哀公の時代に季桓子が威勢を振るった姿や、唐の玄宗皇帝のもとで楊国忠が驕りを極めた姿と、少しも変わらなかった。

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236. 少弐頼尚、足利直冬を娘婿として迎える


足利直冬は肥後の河尻幸俊を頼る

足利直冬は、足利尊氏の子で、足利直義の養子となった人物である。貞和5年(1349年)9月に備後国を逃れ、肥後国の河尻幸俊(河尻肥後守)のもとへ身を寄せていた。

尊氏の名によって、

「直冬を討て」

という御教書も出された。

しかし人々は、

「これは尊氏自身の意思から出た命令ではない。

高師直が尊氏の名を利用して発行したものだろう」

と考えた。

後に直冬が勢力を取り戻した場合の報復も恐れたため、進んで直冬を討とうとする者はいなかった。

そのような中、少弐頼尚は何を思ったのか、足利直冬を自分の娘婿として館へ迎え入れた。

※史料の読み方:少弐頼尚が直冬を娘婿にしたという話は『太平記』本文に記される。少弐氏が1350年に直冬を強く支持したことは同時代文書からも確認できるが、婚姻関係の細部は『太平記』の叙述として読む。

すると九州9か国だけでなく、ほかの地域にも、少弐氏の呼びかけへ従い、直冬の命令を重んじる者が増えた。

この結果、諸国の武士は、

  • 吉野の南朝方
  • 足利尊氏・義詮の将軍方
  • 足利直冬方

の3つへ分かれた。

戦乱は、ますます収まる時がなくなった。

その姿は漢王朝が傾いた後、魏・呉・蜀の三国が鼎の三本脚のように並び立ち、互いに残る2国を滅ぼそうと争った三国時代の始まりに似ていた。

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237. 石見・三隅兼連の反乱――熊狩りの隙に鼓崎城が陥落


三隅兼連が足利直冬方として勢力を広げる

石見国の武将・三隅兼連(『太平記』本文では「三角入道」)は、足利直冬の命令へ従って国内の武士を支配下へ置き、荘園を奪い、勢力を広げていると伝えられた。

足利方は、

「大事となる前に討伐しなければならない」

と判断した。

高師泰は観応元年(1350年)6月20日に京都を出発し、途中の軍勢を集めながら石見国へ向かった。


3つの城と大河

観応元年(1350年)7月27日の夕方、高師泰軍が川辺へ到着した。

遠くを見ると、佐和善四郎が守る、

  • 青杉城
  • 丸屋城
  • 鼓崎城

という3つの城が、4、5町(約440〜550m)ずつ離れ、3つの壺を置いたように並んでいた。

麓には大河が流れていた。

城から出た敵兵300騎余りは対岸へ控え、

「ここを渡って来い」

と足利軍を挑発した。

足利軍2万騎余りは川辺へ並び、渡れる場所を探した。

深山から流れ出る川は、樹木の影を映して青い山全体が動くように見え、岩へ砕ける白波は雪が舞うようだった。

諸将は話し合った。

「道案内もなく、知らない急流を勢いだけで渡り、溺れて滅びては、勇敢であっても意味がない。

もう日も暮れる。

夜に水泳の達者な者を入れ、浅瀬を調べ、明日渡ろう」


森・高橋の強行渡河

ところが先陣の森小太郎・高橋九郎左衛門は言った。

「治承年間(1177〜1181年)に足利忠綱が宇治川を渡り、承久の乱(1221年)で柴田橘六が供御瀬を渡った時、浅瀬を調べさせたでしょうか。

敵が対岸へ控えているのは、ここが渡れる場所だからに違いありません。

この川の地形を、私以上に知る者はいません。

皆、続け」

2人は真っ先に馬を川へ入れた。

家臣300騎と三吉一族200騎も続き、馬を並べて流れをせき止めるように渡り、対岸へ駆け上がった。

敵は1度防戦したが、追い立てられて城へ退いた。

しかし3つの城から同時に兵が出て、渡河した部隊を前後左右から包囲し、激しく矢を射た。

森・高橋・三吉勢は100人余りが重傷を負い、投石にも打たれて動けなくなった。

高師泰が、

「三吉勢を討たせるな。続け」

と命じると、山口氏や各一揆の1000騎余りが駆けつけた。

敵は新手の大軍に攻められ、城へ引き返した。

足利軍は逆茂木の近くまで進み、盾を並べた。


城を攻め落とす方法がない

野戦には勝ち、敵を城へ追い込んだ。

しかし城壁は高く切り立ち、守りも厳しかった。

中へ入る手段も、城を落とす方法もなかった。

両軍は城壁を隔て、矢を射ち合いながら日を過ごした。

三吉一揆の勇士たちは相談した。

「このまま攻め続けても、味方は食糧不足となるだろう。

それでも正面の敵に敗れて退くことはない。

しかし備中・備後・安芸・周防には直冬方が多い。

背後にも敵が現れ、前の城も落とせなければ、どのような勇将・名軍師でも持ちこたえられない。

今のうちに夜襲で城を落とそう」

6000余騎の中から、夜襲に慣れた一騎当千の勇士27人が選ばれた。


熊を利用した夜襲

観応元年(1350年)8月25日の夕方、27人は城の背後にある深山から、はうように忍び寄った。

ススキ・刈萱・篠竹を切り、鎧や兜へ差して草むらに身を隠した。

鼓崎城の切岸の下、岩陰へ伏せた。

すると草むらで寝ていた猪や、朽ち木の穴にいた熊が人影へ驚き、20〜30頭ほど城の前の篠原へ走り出た。

城兵は初め、

「夜討ちだ」

と考えた。

各櫓で弓弦を鳴らし、火のついた松明を城外へ投げ、静かに様子を見た。

やがて、

「夜討ちではない。

山から熊が走り出ただけだ」

との声が上がった。

城兵300騎余りは、

「自分が先に射取ろう」

と、弓矢を持ち、熊を追って遠くの麓へ下った。

城内に残った兵は、わずか50人余りとなった。


27人が城へ突入する

夜はすでに明けかけ、城門は開いたままだった。

27人は少しもためらわず、武器を抜いて城へ突入した。

城主の佐和善四郎は家臣3人とともに鎧を肩へ掛け、城門へ下りて1歩も退かず戦った。

善四郎が膝を斬られ、片膝をつくと、家臣3人が前へ立って防いだ。

3人は討ち死にした。

その間に善四郎は自分の陣所へ戻り、火を放って腹を切った。

ほかの40人余りは1度も防戦せず、青杉城へ逃げた。

熊を追った兵も城へ戻らず、そのまま散り散りに逃げた。


石見の32城が降伏する

頼みとしていた鼓崎城を落とされ、佐和善四郎も討たれたため、残る2城も1日後には陥落した。

「伏せた野の雁は、列を乱して飛ぶ」

という兵法の言葉を知っていれば、熊を追って城を失うようなことはなかっただろうと、人々の笑いものとなった。

高師泰が石見の兵を従えて国中へ進むと、『太平記』本文では石見国にあった32の城が、

「攻められてからでは逃げられない」

と考え、戦わずして降伏した。

最後に残ったのは、三隅入道の三隅城だけだった。

城は険しい山上にあり、守りも堅かった。

力攻めでは落とせなくても、近国に救援軍はなく、支配できる領地も残っていない。

足利軍は周囲の峰々へ向城を築き、

「2年、3年かかっても攻め落とせ」

と包囲した。

城内の兵は次第に気力を失い、頼るものがなくなった。

※史実との区別:『太平記』はここで三隅城が包囲され、城内が次第に弱ったところまで描く。現在の地域史では、観応元年(1350年)の高師泰軍は三隅城を100日余り包囲したものの落とせず、観応2年(1351年)に撤退したとされる。

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238. 足利直冬、九州で勢力を拡大――足利尊氏の西国出陣


肥後から緊急報告が届く

中国地方は、おおむね平穏となったように見えた。

しかし九州では、再び大きな反乱が起こった。

観応元年(1350年)9月29日、肥後国から早馬が京都へ到着した。

報告は、次のような内容だった。

「足利直冬殿は観応元年(1350年)8月13日に肥後国へ到着し、河尻幸俊の館へ入られました。

※『太平記』本文内の年代:第236章では、足利直冬は貞和5年(1349年)9月に備後国を逃れた後、すでに河尻幸俊のもとにいたと記される。一方、本章では観応元年(1350年)8月13日に肥後国へ到着したとする。本文の中でも時系列が一致しないため、どちらかを消さず、そのまま区別して残した。

宅磨別当太郎守直も味方となり、国内の兵を集めています」

「将軍方へ心を寄せる者もおりますが、直冬方の圧力に耐えられず、従わない者はいません」


肥後の将軍方が敗れる

「河尻軍は雲霞のような大軍となり、宇都宮三河守の城を包囲しました。

1日1夜戦い、死者100人余り、負傷者は数えきれません。

ついに城は落とされ、宇都宮三河守の生死も分かりません」

「宅磨・河尻軍はさらに大軍となり、鹿子木大炊助を包囲しています。

少弐氏の代官・宗利が近国へ援軍を求めていますが、九州9か国2島の兵の大半が直冬殿へ心を寄せているため、集まる者は多くありません。

事態は非常に困難です。

急いで援軍をお送りください」


高師直が尊氏自身の出陣を求める

尊氏は驚き、高師直へ尋ねた。

「誰を討手として九州へ下すべきだろうか」

師直は答えた。

「遠国の反乱を鎮めるだけなら、足利一門の末々の者か、この師直が下ればよいでしょう。

しかし今回は、尊氏殿御自身が下らなければなりません」

「九州の者が直冬殿へ従うのは、将軍の御子であるため、

『本当は尊氏殿も、ひそかに直冬殿へ心を寄せているのではないか』

と考えているからです」

「尊氏殿が自ら討伐に向かえば、父子の争いへ加わって天罰を受けようとする者はいなくなるでしょう」

「将軍の御旗の下で師直が命を惜しまず戦えば、九州・中国地方のすべてが敵となっても、何を恐れる必要があるでしょうか。

昼夜を問わず、急いでお下りください」

尊氏は反対しなかった。

京都の守りには義詮を残した。

『太平記』本文では、観応元年(1350年)10月13日、征夷大将軍・足利尊氏は高師直を伴い、8000騎余りを率いて、足利直冬討伐のため西国へ向かった。

※年代:ここから第240章にかけて、『太平記』本文の日付と一般的な歴史年表にずれがある。本文の物語時間は残し、史実側の日付が重要な箇所では別に注記する。

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239. 足利直義、京都を脱出――観応の擾乱が本格化


足利直義が西国出陣の前夜に姿を消す

『太平記』の物語では、足利尊氏が観応元年(1350年)10月13日に西国へ出発すると伝えられた、その前夜のことだった。

※史実との区別:『太平記』は直義の京都脱出を尊氏出陣の前夜、尊氏・高師直の出発を10月13日とする。一方、一般的な歴史整理では、足利直義の京都脱出は1350年10月26日深夜、尊氏・師直らの西国出陣はその後とされる。以下は『太平記』本文の時間の流れを残している。

出家して慧源と名乗った足利直義は、石堂頼房だけを伴い、行き先を知らせず京都から逃れた。

世の危うさを理解する者は、この知らせを聞いてささやいた。

「ついに天下の大乱が始まった。

高一族も、間もなく滅びるだろう」

事情を知らない直義方の人々や女性たちは泣き悲しんだ。

「何ということだ。

直義殿には、供をする者もいない。

馬もすべて厩へつながれたままである。

徒歩では、どこへも逃げられるはずがない。

高師直が今夜、ひそかに直義殿を殺したに違いない」


師直は追跡を拒む

仁木・細川の人々は師直邸へ集まり、申し上げた。

「直義殿が逃げられたことは、遠くない将来の災いとなるでしょう。

しばらく京都へとどまり、居場所を十分に捜すべきではありませんか」

師直は答えた。

「何を大げさに言うのか。

直義殿が吉野や十津川の奥、あるいは鬼界ヶ島や高麗まで逃げたとしても、師直が生きている間、誰が味方するというのか」

「首が獄門へさらされ、遺体が名もない兵の矢へ掛かるまで、3日とかからない」

「そのうえ将軍出陣の日は諸国へ知らせてある。

予定を変えれば、多くの問題が起きる。

少しも京都へとどまる必要はない」

『太平記』本文では、観応元年(1350年)10月13日の早朝、高師直は京都を出発した。

足利尊氏を先頭にし、道中の軍勢を集め、観応元年(1350年)11月19日に備前国福岡へ到着した。


福岡で進軍が止まる

尊氏は福岡で四国・中国地方の軍勢を待った。

しかし海は波風が激しく、船が通れなかった。

山陰道には雪が積もり、馬も進めなかった。

集まる兵は少なかった。

「九州へ向かうのは、年が明けてからにしよう」

尊氏は備前国福岡で、何もできないまま日を過ごした。

※史料上:足利尊氏が観応元年(1350年)11月に備前国福岡へ滞陣していたことは、観応元年(1350年)11月21日付の尊氏御教書からも確認できる。

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240. 持明院統から足利直義へ院宣が下る


足利直義は大和国へ逃れる

足利直義は、

「師直が西国へ下るころ、自分をひそかに殺す計画がある」

と聞いた。

命を逃れるため、まず大和国へ向かい、越智伊賀守を頼った。

越智氏と近隣の住民は直義へ協力し、街道を遮断し、四方へ関所を置いた。

その態度には裏切りがないように見えた。

大和へ入った翌日になると、石堂頼房をはじめ、直義へ好意を持つ旧知の者たちも駆けつけた。

直義が大和へいることは、もはや隠しきれなくなり、都でも地方でもさまざまな噂が流れた。


院宣を求める

直義は考えた。

「天皇・上皇の命令がなければ、自分1人の力で目的を果たすことは難しい」

まず京都へ使者を送り、持明院統の上皇(『太平記』本文では「持明院殿」)へ院宣を求めた。

院宣は、すぐに下された。

直義が望んでいなかった鎮守府将軍の官職まで与えられた。

院宣の趣旨は、およそ次のようなものだった。

聖徳太子が物部守屋を討ち、朱雀天皇が平将門を討ったことは、悪を捨てて善を守る、聖王の政治ではなかったか。

今、凶徒を退治し、一族の武将たちの憂いを鎮めようとする志は、深く賞賛すべきものである。

よって鎮守府将軍に補任し、左兵衛督へ復任させる。
九州9か国2島および畿内・七道の軍勢を率いて上洛し、天下を守護せよ。

『太平記』本文では、観応元年(1350年)10月25日、権中納言国俊が奉じ、足利直義へ伝えられた。

※年代上の注意:この院宣の日付も『太平記』本文上のものである。一般的な年表では足利直義の京都脱出を10月26日とするため、本文どおりに並べると院宣が脱出より先に出たことになる。ここでは矛盾を消さず、『太平記』の記載として残した。

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241. 足利直義、南朝へ降伏を申し入れる――漢楚戦争の故事


※読み方:この章の後半では、北畠親房の発言として漢の劉邦と楚の項羽の戦いが長く語られる。これは『太平記』が政治判断のたとえとして挿入した中国故事である。軍勢数や始皇帝陵の規模などには伝説的な巨大数が含まれ、『史記』と異なる場面もあるため、『太平記』本文上の物語として読む。

足利直義は進退の道を失う

足利直義は京都で、

  • 仁木氏
  • 細川氏
  • 高一族

に背かれ、都を追われた。

大和・河内・和泉・紀伊は、いずれも吉野の南朝へ従っていた。

今さら足利将軍方へ味方するとは思えなかった。

直義は沖へ着くことも、岸へ戻ることもできない舟のように、進退の道を失った。

越智伊賀守は申し上げた。

「このままでは、必ず困難になります。

吉野の天皇へ参り、これまでの過ちを改め、将来の再起を図るべきです」

直義も、

「その意見がよい」

と認めた。


直義から南朝への降伏状

足利直義は使者を吉野へ送り、南朝の四条隆資(四条大納言)へ書状を提出した。

趣旨は次のようなものだった。

元弘の初め(1331年ごろ)、後醍醐天皇が逆臣によって西海へ移され、御心を悩まされていた時、各地で義兵を挙げる者はいました。

しかし敵へ包囲され、戦いに敗れ、皆、志を果たせずにいました。

その時、慧源こと直義が尊氏へ上洛を勧め、勅命に応じて決戦し、天下を1つへ戻しました。この功績は天皇の御記憶へ残っていると思います。

その後、新田義貞らの讒言によって罪もなく天皇の御怒りを受け、君臣の間は異国同士のように隔たり、一族には朝敵の名が残りました。

私の罪が重いとしても、天皇の恩は過去の罪を越えるものです。

昔の廉頗が荊を背負って謝罪したように、私の罪をお許しください。

勅免をいただければ、天下の反乱を鎮め、南朝の安泰を実現いたします。

観応元年(1350年)12月9日、沙弥慧源こと足利直義から四条隆資(四条大納言)へ提出された。


南朝公卿の反対意見

南朝では公卿たちが参内し、

「直義の降伏を受け入れるべきか」

を協議した。

洞院実世が最初に発言した。

「直義の申し出は、まったくの偽りです」

「代々の家臣である師直・師泰に京都を追い出され、身を置く場所がないため、天皇の権威を借り、自分の恨みを晴らそうとしているだけです」

「20年余り、天皇をはじめ多くの公家が都を追われたのは、直義の悪逆が原因ではありませんか」

※年数:「20年余り」は『太平記』本文の表現である。南朝が吉野を拠点とするようになった1336年から1350年までは約14年であり、厳密な経過年数とは一致しない。

「今、幸いに降伏を願い出ています。

これは天が与えた機会です。

この時に討たなければ、後から悔やんでも間に合いません。

直ちに討手を送り、首を宮門へさらすべきです」


二条師基の賛成意見

二条師基(『太平記』本文では「二条関白左大臣」)は、しばらく考えて言った。

※官職名:『太平記』はこの場面の二条師基を「関白左大臣」と呼ぶ。一方、一般的な経歴では師基が南朝の関白となるのは観応2年/正平6年(1351年)とされ、この呼称には年代上のずれがある。

「『太平記』が張良の『三略』として引く言葉には、

『知恵を推し広め、恩を施せば、兵の力は日々新しくなり、戦いは風のように起こる』

とあります」

「自ら罪を謝る者が、かえって二心なく忠義を尽くすことがあります」

「章邯が楚へ降伏すると秦は急速に破れ、管仲の罪を許した斉はよく治まりました。

今の世でも手本とすべきです」

「直義が味方となれば、天皇が天下を保たれる長い時代は、ここから始まるでしょう。

元弘以来(1331年以降)の功績を捨てず、官職へ戻して使うべきです」


北畠親房の漢楚戦争の故事

反対・賛成の意見は、どちらにも道理があった。

天皇も判断を迷い、ほかの公卿も黙っていた。

その時、北畠親房が中国の故事を語った。

劉邦と項羽の挙兵

秦が滅びようとしていた時、劉邦は沛郡から、項羽は楚から兵を挙げた。

秦へ背いた諸侯は2人へ従い、『太平記』本文では劉邦軍10万余騎、項羽軍40万騎となった。

2人は、楚の懐王の孫で、民間に下って羊を飼っていた心(熊心)という人物を見つけ、義帝として立てた。

そして義帝の前で、

「先に秦の都・咸陽へ入り、秦を滅ぼした者を天下の王とする」

と約束した。

項羽の破釜沈舟

項羽が鉅鹿へ到着すると、秦将章邯が大軍で待っていた。

項羽は20万騎で河を渡ると、

  • 船を沈め
  • 釜や甑を壊し
  • 宿舎を焼いた

これは、

「1人も生きて帰らない」

という覚悟を兵へ示すためだった。

『太平記』本文では、項羽は秦軍と9度遭遇し、100回戦い、副将蘇角を討ち、王離を捕らえたと語る。

さらに秦兵40万余りが討たれ、章邯も項羽へ降伏したと語られる。

さらに『太平記』は、新安城の戦いでも項羽が勝ち、20万人を殺したとする。こうした軍勢数・死者数は『太平記』本文上の巨大数であり、厳密な実数としては扱わない。

しかし項羽は行く先々で、

  • 美女を愛し
  • 酒へ溺れ
  • 財宝を奪い
  • 人々を殺した

ため、進軍が遅れた。

劉邦が先に咸陽へ入る

劉邦は小勢で険しい道を進んだ。

しかし民を慈しみ、財宝を奪わず、人を殺さなかった。

そのため防ぐ城も、降伏しない敵もなかった。

項羽より3か月早く咸陽へ入った。

劉邦は秦の宮殿を焼かず、驪山の財宝も奪わず、降伏した秦王子嬰を保護した。

役人や民衆の名簿を作り、蔵を封印した。

項羽が咸陽を焼く

『太平記』では、項羽は当陽君へ12万騎を付けて函谷関を破らせ、咸陽へ入った。そして降伏していた子嬰を殺し、宮殿へ火を放ったと語る。

『太平記』本文では、広大な宮殿はすべて焼け、火は3か月消えなかったと語る。

秦始皇帝の墓も掘り崩され、地下の宝物が奪われた。

『太平記』は、咸陽の宮殿・楼閣が四方370里にわたって建ち並んでいたと語る。中国故事の「里」は現在のkmへ単純換算せず、これも『太平記』本文上の巨大な描写として読む。

鴻門の会

『太平記』では、項羽は40万騎を率いて鴻門に陣を置き、劉邦は10万騎を率いて覇上にいたとする。両陣の間は30里と記すが、中国故事の「里」なのでkm換算はしない。

項羽の老臣・范増は、劉邦が財宝や女性へ手を出さないのを見て、

「天下を取る志がある」

と見抜いた。

劉邦を今のうちに殺すよう項羽へ勧めた。

劉邦の部下・曹無傷も、ひそかに項羽へ、

「劉邦は王となろうとしている」

と密告した。

項羽は翌朝、劉邦軍を討つことを決めた。

しかし項羽の叔父・項伯は張良と親しかった。

項伯は張良へ危険を知らせ、

「今夜のうちに逃げよ」

と勧めた。

張良は劉邦を見捨てず、事情を報告した。

劉邦は項伯を招き、兄弟の契りを結び、婚姻まで約束した。

そして、

「函谷関を守らせたのは項羽を拒むためではなく、盗賊に備えるためだった」

と弁明し、翌朝、自ら項羽の陣へ謝罪に行った。

剣の舞による暗殺計画

項羽は劉邦を宴へ招いた。

范増は何度も合図し、劉邦を殺すよう項羽へ促した。

しかし項羽は、范増の合図に応じなかった。

范増は項荘へ、

「剣舞を装って劉邦を斬れ」

と命じた。

項荘が剣を抜いて舞うと、項伯も剣を抜き、自分の体で劉邦を守った。

樊噲の乱入

張良は席を抜け、門外にいた樊噲へ危険を知らせた。

樊噲は鉄の盾を抱え、門番を押し倒して宴席へ入った。

髪は兜を突き上げるほど逆立ち、目は血を注いだ鏡のようだった。

項羽も驚き、

「何者だ」

と尋ねた。

樊噲が天下の勇士だと知ると、大きな器の酒と豚の肩肉を与えた。

樊噲は肉を切ってすべて食べ、酒を3度飲んだ。

そして項羽をにらみ、言った。

「劉邦は約束どおり先に咸陽へ入りました。

それでも財宝へ手をつけず、項羽殿を待ちました。

功績ある者へ恩賞を与えず、かえって殺そうとするのは、滅びた秦の悪政を受け継ぐ行いです」

項羽は答えられず、うつむいた。

劉邦の脱出

劉邦は便所へ行くふりをして席を離れた。

「挨拶せず帰るのは無礼ではないか」

と心配すると、樊噲は答えた。

「大きな行いをする者は、小さな礼儀へこだわりません。

今、相手は包丁で、我々は魚や肉です。

何の挨拶が必要でしょう」

劉邦は樊噲ら4人だけを伴い、間道から自陣へ戻った。

張良は席へ残り、劉邦からの贈り物として、白璧を項羽へ、玉杯を范増へ渡した。

項羽は白璧を喜んだ。

范増は玉杯を地面へ投げ、剣で砕いた。

「項羽は共に計略を立てるに足りない。

天下を奪うのは必ず劉邦だ。

我々は皆、捕虜となるだろう」

と嘆いた。

范増を失った項羽

その後、劉邦と項羽は天下を争った。

『太平記』は、漢・楚それぞれへ集まった諸将を列挙し、総勢を漢30万騎、楚386万騎とする。これは『太平記』本文上の極端に大きな軍勢数であり、厳密な実数としては扱わない。

彭城・睢水で漢軍が大敗する

劉邦は一時、諸侯の大軍を集めて楚の都・彭城へ入った。しかし項羽が精鋭を率いて反撃すると、漢軍は大敗し、多くの兵が睢水へ追い落とされた。

劉邦自身も危うく包囲され、わずかな兵とともに逃れた。『太平記』は、この戦いを項羽の圧倒的な武勇を示す場面として長く語っている。

劉邦の父をめぐる脅し

項羽は劉邦の父・太公を捕らえ、劉邦へ降伏を迫る材料とした。

項羽が、

「降伏しなければ、お前の父を煮殺す」

と脅すと、劉邦は、

「私とあなたはかつて兄弟の契りを結んだ。私の父はあなたの父でもある。どうしても煮るなら、その羹を私にも一杯分けてくれ」

と切り返した。

項羽は怒ったが、項伯に止められ、太公を殺さなかった。

項羽は武勇に優れ、何度も劉邦を破った。

しかし劉邦の軍師・陳平と張良は、項羽と范増を仲違いさせようとした。

項羽の使者が劉邦のもとへ来ると、陳平は初め豪華な料理や宝物を用意した。

しかし、

「范増の使者ではなく、項羽の使者だったのか」

と、わざと驚き、すべてを取り下げ、粗末な食事だけを出した。

使者は帰って、このことを項羽へ話した。

項羽は、

「范増が劉邦と内通している」

と疑い、権限を奪った。

范増は弁明せず、

「天下のことは、もう自分でなされよ」

と去ろうとした。

さらに范増は、

「私の首を刎ねて市中にさらすか、そうでなければ鴆毒(毒を入れた酒)を与え、早く死なせてください」

と願った。

『太平記』では、范増は鴆毒を飲み、3日もたたず血を吐いて死んだと語られる。

※『史記』との違い:『史記』「項羽本紀」では、范増は項羽に毒殺されたのではない。権限を奪われて去り、彭城へ着く前に背中の腫れ物が悪化して亡くなったと記される。毒殺は『太平記』側の物語である。

項羽が何度も勝利できたのは、范増の計略によって、

  • 民を養い
  • 兵を励まし
  • 敵情を察し
  • 疲れた兵を助けた

ためだった。

范増の死後、諸侯は次々と項羽へ背き、劉邦へ従った。

偽りの和睦

漢軍は兵も食糧も豊富となり、楚軍は疲れ、食糧も尽きた。

劉邦は陸賈を使者として送り、

「鴻溝から西を漢、東を楚とし、天下を二分しよう」

と和睦を申し出た。

項羽は喜び、捕らえていた劉邦の父も返した。

楚軍は東へ、漢軍は西へ退こうとした。

しかし陳平と張良は言った。

「今、漢は天下の大半を持ち、諸侯も従っています。

楚は疲れ、食糧もありません。

天が楚を滅ぼそうとしている時です。

ここで討たなければ、虎を養い、自分の災いを残すことになります」

劉邦は和約を破り、項羽を追撃した。

垓下の包囲

韓信・彭越・周殷らの大軍が集まり、楚軍を東西南北から幾重にも包囲した。

項羽は垓下城へ入った。

夜、四方から楚の歌が聞こえた。

項羽は、

「楚の人々は、すでにすべて漢へ降ったのか」

と思った。

愛妾の虞美人へ向かい、涙を流して歌った。

虞美人は悲しみに耐えられず、剣で自害した。

※『史記』との違い:『太平記』は虞美人がこの場で自害したと語るが、『史記』「項羽本紀」は、虞という女性が項羽の歌に和したことまでは記すものの、この場での自害は記していない。

項羽の最後の戦い

項羽は28騎だけを連れ、漢軍の包囲を突破した。

部下へ言った。

「私は兵を挙げて8年、70回余り戦った。

戦えば必ず破り、攻めれば必ず従わせた。

今滅びるのは、戦い方の罪ではない。

天が私を滅ぼすのだ」

「最後に3度勝ち、漢の大将の首を取り、私の言葉が間違っていないことを示そう」

項羽は28騎を分けて戦い、漢兵数100人を斬り、大将の首を取った。

2度、3度と敵陣を破ったが、兵は20騎、最後には7騎となった。

烏江での自害

項羽は烏江へ到着した。

渡し守は舟を寄せ、

「川の向こうには項羽殿へ従った兵たちの故郷があります。

そこで再起してください」

と勧めた。

項羽は笑った。

「天が私を滅ぼした。

昔、江東の子弟8000人と川を渡った。

今、1人も帰らないのに、自分だけが帰り、父兄へどのような顔を見せられるだろう」

項羽は渡らず、愛馬を渡し守へ与えた。

最後まで戦った後、旧知の漢将・呂馬童を見つけた。

「漢は私の首へ1000金(中国故事上の報奨額。現代の円には換算しない)と1万戸の領地を懸けていると聞く。

友への礼として、この首を与えよう」

呂馬童は涙を流し、項羽を討てなかった。

『太平記』では、項羽は自ら首を切り落とし、左手へ持ち上げたまま立って死んだと語る。

※『史記』との違い:『史記』では、項羽は自ら喉を切って死に、その後、漢将の王翳が首を取ったと記される。自分の首を左手に持って立ったという描写は『太平記』側の脚色である。


親房の結論

北畠親房は言った。

「劉邦が天下を得たのは、陳平・張良の知略によって、1度、偽りの和睦を結び、項羽を油断させたためです」

「今も同じです。

まず直義の申し出どおりに同盟すれば、直義は必ず天皇を京都へお戻しし、天下へ政治を行うでしょう」

「南朝の徳へ諸国の兵が帰服すれば、逆臣を滅ぼすことに何の問題があるでしょうか」

公卿たちは、

「まことにそのとおりだ」

と賛成した。


直義へ綸旨を下す

南朝は直義の罪を許し、次の趣旨の綸旨を下した。

古きを温めて新しきを知ることは、賢者の好むところである。
乱れを払い、正しい政治へ戻すことは、良将が第一に行うことである。

元弘以来(1331年以降)の旧功を忘れず、天命へ帰ろうとすることを深く賞賛する。

速やかに義兵を挙げ、天下を静める策を行え。

正平5年(1350年)12月13日、足利直義へ伝えられた。

これは君臣が長く対立する原因となり、尊氏・直義兄弟が完全に敵味方へ分かれる始まりとなった。

何とも嘆かわしい時代だった。

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