峯村部材店主

太平記 7巻  

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巻第七|目次

このページは『太平記』巻第七の第43〜49章を、現代の読者が流れを追いやすいように現代語にしたものである。検索から途中の章へ来た場合は、この目次から同じ巻の別の章へ移動できる。年月は元号だけにせず、分かる範囲で西暦を併記し、数量は原則として算用数字で表記する。旧単位は原文の単位を残し、尺・寸・丈・町・石など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。

【読み方の注意】 『太平記』には、神仏の霊験、非常に大きな軍勢数、史実と一致しない可能性のある年代や数字が含まれる。この現代語訳では、本文の物語をできるだけ保ちながら、史実として確認できることと、『太平記』が語る内容とを区別して示す。また、中世の「里」など現代の単位へ単純換算できないものは、無理に換算しない。


43. 吉野城の戦い――村上義光、護良親王の身代わりとなる


幕府軍、吉野城を攻める

元弘3年(1333年)1月16日、幕府軍の大将である二階堂貞藤(法名・道蘊)は、『太平記』本文で6万騎余りとされる大軍を率い、後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)が立てこもる吉野城へ攻め寄せた。

幕府軍が菜摘川のよどみから山上を見上げると、峰には白旗、赤旗、錦の旗が立ち並んでいた。

旗は深い山から吹き下ろす風になびき、雲なのか花なのか、見分けがつかないほど美しく見えた。

山のふもとには、数千人の朝廷軍が並んでいた。

兜の金具は光り、鎧の袖が隙間なく連なっている。その姿は、地面に美しい錦を敷き詰めたようだった。

吉野山は峰が高く、道は細い。

山は険しく、苔の生えた岩は滑りやすい。

たとえ何十万もの大軍で攻めたとしても、簡単に落とせる城には見えなかった。


7日間続いた激戦

元弘3年(1333年)1月18日の卯刻(午前6時ごろ)、幕府軍と朝廷軍は互いに矢を放ち、戦いを始めた。

兵を交代させながら、昼も夜も攻撃と防御を繰り返した。

朝廷軍は、吉野の山道をよく知る者たちである。

狭い道や険しい場所を走り回り、集まったり散らばったりしながら、幕府軍へ矢を浴びせた。

一方、攻める幕府軍は、死を恐れない東国武士たちだった。

親が討たれても構わず、主人や家来が倒れても気にせず、その遺体を乗り越えて城へ近づいた。

両軍は7日間、ほとんど休まず戦い続けた。

朝廷軍では300人余りが討たれ、幕府軍も800人余りを失った。

矢に当たり、石を受け、生きているのか死んでいるのか分からないほどの傷を負った者は、数えきれない。

血は草を赤く染め、道には多くの遺体が横たわった。

それでも吉野城の守りは、少しも弱くならなかった。

幕府軍の兵たちは次第に疲れ、戦意を失い始めた。


岩菊丸の作戦

幕府軍には、この山の道をよく知る岩菊丸という者がいた。

岩菊丸は吉野の寺院を管理する立場にあり、吉野城攻めの一方を任されていた。

彼は自分の兵を呼び寄せて言った。

「赤坂城は、すでに幕府軍によって落とされたと聞いている。

我々は吉野の道をよく知っているからこそ、一つの攻め口を任された。

それなのに何日たっても城を落とせないのは、まことに残念だ。

この城を正面から攻め続けても、こちらの兵が討たれるだけで、落とすことは難しい。

だが、城の背後にある金峰山は非常に険しい。

朝廷軍も、その険しさを信じ、背後にはそれほど多くの兵を置いていないだろう。

山道に慣れた身軽な兵を150人選び、歩いて金峰山へ回らせよう。

夜のうちに城へ忍び込み、愛染宝塔の上で夜が明けるころ、突然攻撃の声を上げるのだ。

城兵が背後の声に驚き、混乱したところへ、正面と左右の三方から一斉に攻め上る。

そうすれば城を落とし、大塔宮を生け捕りにできるだろう」


背後から忍び込む150人

岩菊丸は、山道をよく知る兵150人を選んだ。

その日の夕方から金峰山へ回り、岩を伝い、谷を登った。

予想どおり、朝廷軍は険しい地形を頼りにしていた。

ところどころの木に旗を結びつけてあるだけで、守りの兵は1人もいなかった。

150人の幕府兵は、思いどおりに城内へ忍び込んだ。

木の下や岩陰に弓矢を置き、兜を枕にして、夜が明けるのを待った。


吉野城への一斉攻撃

合図の時刻になると、正面にいた5万騎余りの幕府軍が、三方から城へ攻め上った。

吉野の僧兵500人余りは、山道へ下り、幕府軍を迎え撃った。

攻める者も守る者も、命を惜しまない。

幕府軍が押し上れば朝廷軍が押し返し、朝廷軍が追い下ろせば幕府軍が再び攻め上る。

武器と武器がぶつかり、火花を散らす激戦となった。

その時、金峰山から背後へ回っていた150人が、愛染宝塔から一斉に下りてきた。

そして城内の建物へ次々と火をつけ、大声で攻撃の声を上げた。


前後から攻められる朝廷軍

吉野の僧兵たちは、正面と背後の両方から敵に攻められ、支えきれなくなった。

ある者は自ら腹を切り、燃え上がる炎の中へ飛び込んだ。

またある者は、向かってくる敵と組み合い、互いに刀を突き立てて死んだ。

それぞれが思うままに戦い、討ち死にしていった。

正面の堀には遺体が積み重なり、ついには平地のようになった。

その上を幕府軍が乗り越え、城内へ攻め込んだ。


大塔宮、敵中へ突入する

背後から侵入した幕府軍は、誰も予想していなかった勝手明神の前から押し寄せた。

そして大塔宮のいる蔵王堂へ攻めかかった。

大塔宮は、

「もはや逃れられない」

と覚悟した。

『太平記』本文では、この時はまだ巳の刻(午前10時ごろ)だったと記している。

赤い錦の鎧直垂を着て、赤い糸で飾った鎧を身につけた。

竜の頭の飾りをつけた兜の緒を締め、白檀で磨いたすね当てをつけた。

そして3尺5寸(約1.1m)ほどの小長刀を脇に抱えた。

20人余りの勇敢な家来たちが、大塔宮の前後左右を守った。

大塔宮は、敵が大勢集まっている場所へ走り込み、東西の敵を払い、南北へ追い回した。

長刀を振るうたび、敵の中に黒い煙が立つように見えた。

幕府軍は大勢だった。

しかし大塔宮とわずかな家来たちに激しく斬り立てられ、風に飛ばされる木の葉のように、四方の谷へ逃げ下った。


戦場での最後の酒宴

敵が退くと、大塔宮は蔵王堂の広い庭へ戻った。

家来たちと並んで座り、大きな幕を上げ、最期の酒宴を開いた。

大塔宮の鎧には、7本の矢が突き立っていた。

頬にも1か所、両腕にも2か所の傷があり、血は滝のように流れていた。

それでも大塔宮は、刺さった矢を抜こうともせず、流れる血をぬぐおうともしなかった。

敷物の上に立ったまま、大きな杯で酒を3度飲んだ。


首を太刀に刺して舞う木寺相模

すると木寺相模が、4尺3寸(約1.3m)もある長い太刀の先に、討ち取った敵の首を刺して現れた。

大塔宮の前でひざまずき、次のような言葉を歌いながら舞った。

槍や刀が降りかかる様子は、稲妻のようである。
大きな岩が飛んでくる様子は、春の雨のようである。
しかし、どれほど激しい攻撃であっても、天皇の皇子には近づけない。
戦いを好む者たちは、この方のために打ち破られるのだ。

木寺相模が首を太刀に刺して舞う姿は、中国で項羽と劉邦が会った鴻門の宴で、武将たちが剣を抜いて舞った時にも似ていた。


村上義光の進言

正面の戦いは、ますます激しくなっていた。

敵と味方の叫び声が入り交じって聞こえてくる。

しばらくすると、村上彦四郎義光が大塔宮の前へ現れた。

義光の鎧には、16本もの矢が刺さっていた。

折れた矢が鎧から垂れ下がる姿は、冬の枯れ野で風に倒れた草のようだった。

義光は言った。

「正面の一の木戸は、残念ながら破られました。

私は二の木戸で、しばらく敵を防いでおりました。

その時、御所で酒宴をなさっている声が聞こえたため、ここへ戻ってまいりました。

敵はすでに勢いに乗り、味方の兵は疲れています。

この城で、さらに手柄を立てることは、もう難しいでしょう。

敵がすべての道をふさぐ前に、一方を打ち破って、ひとまずお逃げください。

しかし、ここへ残って敵を防ぐ者がいなければ、

『大塔宮が逃げた』

と敵に知られ、どこまでも追われるでしょう。

恐れ多いお願いですが、今お召しになっている錦の鎧直垂と鎧を、私にお与えください。

私が宮のお名前を名乗り、敵を欺き、宮の命に代わって死にます」


大塔宮は拒む

大塔宮は言った。

「どうして、そのようなことができるだろう。

死ぬのであれば、同じ場所で一緒に死のう」

すると義光は、言葉を強めて言った。

「何という情けないお考えですか。

昔、漢の高祖が滎陽の城で項羽に包囲された時、家臣の紀信は、高祖の身代わりとなって敵をだますことを申し出ました。

高祖は、その忠義を受け入れたではありませんか。

このように小さなことさえ決断できないお考えで、どうして天下の大事を成し遂げようとなさったのです。

早く鎧をお脱ぎください」

義光はそう言うと、自ら大塔宮の鎧のひもを解き始めた。


大塔宮と義光の別れ

大塔宮も、義光の言うことがもっともだと思ったのだろう。

鎧と錦の鎧直垂を脱ぎ、義光へ渡した。

そして言った。

「もし私が生き延びることができたなら、必ずお前の死後を供養しよう。

もし私も敵に捕らえられ、命を落とすことになれば、あの世でも同じ道を一緒に進もう」

大塔宮は涙を流しながら、勝手明神の前を通り、南の方角へ逃れていった。


村上義光、身代わりとなる

義光は二の木戸の高い櫓へ上った。

そして遠くへ逃れていく大塔宮の後ろ姿を、いつまでも見送った。

大塔宮の姿が、かすかに遠くへ消えていくのを見ると、

「これでよい」

と決心した。

義光は櫓の板を切り落とし、自分の姿を敵からよく見えるようにした。

そして大声で名乗った。

「私は、天照大神の子孫、神武天皇から数えて95代の帝、後醍醐天皇の第2皇子、大塔宮である!

反逆する家臣たちによって滅ぼされることになった。

この恨みをあの世で晴らすため、ただ今、自害する。

お前たちは、この姿をよく見ておけ。

やがてお前たちの武運が尽き、自ら腹を切る時の手本とせよ!」

【本文注】 この名乗りは『太平記』本文の表現を残したものである。本文は後醍醐天皇を「神武天皇から95代」、護良親王を「第2皇子」とする。現在の宮内庁の代数では後醍醐天皇は第96代とされ、護良親王の皇子順位にも史料による違いがある。


義光の壮絶な自害

義光は鎧を脱ぎ、櫓の下へ投げ落とした。

錦の鎧直垂の袴だけを残し、2枚重ねて着ていた小袖も脱いだ。

白く清らかな肌をあらわにし、刀を腹へ突き立てた。

左の脇腹から右の脇腹まで、真横に腹を切り開いた。

さらに自分の内臓をつかみ出し、櫓の板へ投げつけた。

最後に太刀の切っ先を口にくわえ、そのままうつぶせに倒れ、体を貫いて死んだ。


幕府軍は大塔宮が死んだと思い込む

正面と背後から攻めていた幕府軍は、その姿を見て叫んだ。

「大塔宮が自害されたぞ!」

「自分こそ、宮の首を取るのだ!」

兵たちは四方の包囲を解き、一斉に義光のいる場所へ集まった。

その間に、本物の大塔宮は城を脱出し、天川の方へ逃れていった。


村上義隆、追手を防ぐ

南側から回ってきた岩菊丸の軍勢500騎余りは、長年この山に住み、道をよく知っていた。

先回りして大塔宮を囲み、討ち取ろうとした。

村上義光の息子に、村上兵衛蔵人義隆という者がいた。

父が自害した時、義隆も二の木戸の櫓の下まで駆けつけ、

「父と一緒に腹を切ろう」

と考えた。

しかし父の義光は、強く止めた。

「親子の情として、お前が私と死にたいと思うことは分かる。

だが、今は生きて大塔宮の行く末を見届けよ」

父の最後の教えに従い、義隆は命を延ばして、大塔宮の供をしていた。


500騎を1人で防ぐ

逃げる道での戦いは、たいへん厳しくなった。

このまま誰かが討ち死にして敵を止めなければ、大塔宮は逃げ切れない。

義隆は、ただ1人その場へ踏みとどまった。

追ってくる敵の馬の両ひざをなぎ払い、馬を倒した。

落ちた武士の首を斬り、谷へ跳ね落とした。

曲がりくねった細い山道で、500騎余りを相手に、半時(およそ1時間)も戦い続けたと『太平記』は描く。

義隆の意志は、石のように固かった。

しかし、その体は金や鉄でできているわけではない。

敵に囲まれ、矢を射かけられたため、義隆は10か所余りの傷を負った。


義隆の最期

義隆は、

「死ぬとしても、敵の手にかかってはならない」

と考えたのだろう。

小さな竹林へ走り込み、そこで腹を切って死んだ。

村上義光と義隆の父子が、敵を防ぎながら討ち死にした。

その間に大塔宮は危険な包囲から逃れ、高野山へ落ち延びることができたのである。


偽の首

二階堂道蘊は、村上義光が大塔宮のふりをして自害したことに気づかなかった。

義光の首を大塔宮の首だと思い、京都へ送った。

六波羅探題で首を確認させると、

「これは大塔宮の首ではなく、まったく別人の首である」

と分かった。

そのため獄門にさらされることもなく、首は野原の苔の下へ埋められた。


大塔宮を捜す幕府軍

二階堂道蘊は、吉野城を攻め落とした。

これは幕府にとって大きな戦功だった。

しかし、大塔宮を逃してしまったことが悔しくてならなかった。

道蘊はすぐに高野山へ攻め寄せ、大塔付近に陣を置き、大塔宮の居場所を捜し回った。

しかし、高野山の僧たちは皆で心を合わせ、大塔宮をかくまった。

幕府軍は何日も苦労して捜したが、何の成果も得られなかった。

道蘊は大塔宮を捕らえることをあきらめ、楠木正成が守る千早城へ向かったのである。

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44. 千早城の戦い


100万騎に囲まれた千早城

『太平記』本文では、千早城を攻める幕府軍には、もともと80万騎が集まっていたとする。

そこへ赤坂城と吉野城を攻めた軍勢も加わったため、『太平記』によれば、その数は100万騎を超えたという。

城の四方2、3里の範囲は、まるで相撲や見世物を見るために人が集まった場所のようだった。ここでいう「里」は中世の里程で、現在のkmへ単純換算はしない。

わずかな空き地もないほど、幕府軍で埋め尽くされていた。

風になびく無数の旗は、秋の野原に生えるススキよりも多く見えた。

太陽の光を受けた刀や槍は、明け方の霜が枯れ草一面に降りたように輝いていた。

大軍が近づくと、山そのものが動くように感じられた。

兵たちが一斉に上げる声は、大地の軸まで砕いてしまうのではないかと思われるほどだった。

これほどの大軍を前にしながら、楠木正成は1000人にも満たない兵で千早城に立てこもっていた。

待っている援軍があるわけでもない。

それでも城を守り、戦おうとする正成の心は、まことに大胆であった。


険しい山城

千早城の東西には深い谷があり、人が登ることは難しかった。

南北は金剛山へ続いていたが、峰は切り立っている。

ただし『太平記』本文では、城そのものは高さ2町(約220m)ほどで、周囲も1里に満たない小さなものだったとする。周囲の「里」は中世の里程であり、現在のkmへは単純換算しない。

幕府軍は、

「これほど小さな城なら、大したことはない」

と侮った。

最初の1、2日は、きちんと陣を構えることもなく、攻城用の道具も用意しなかった。

兵たちは我先にと、盾を頭上に並べながら城門近くまで登っていった。


大石と矢による反撃

城兵たちは少しも慌てなかった。

静かに敵が近づくのを待ち、高い櫓から大きな石を次々と投げ落とした。

幕府兵の盾は粉々に砕かれた。

石を受けて混乱した者たちへ、城内の弓兵が狙いを定めて矢を射た。

兵たちは四方の坂を転げ落ち、次々と重なった。

けがをした者や死んだ者は、1日だけで5000人、6000人にもなったという。

軍の指揮を執っていた長崎四郎左衛門尉は、死傷者を調べさせた。

12人の書記が、昼も夜も筆を置かず、3日間かけて名前と人数を書き続けたほどだった。

そこで幕府軍は、

「今後、大将の許可を得ずに勝手に攻撃した者は、逆に処罰する」

と全軍へ命じた。

兵たちはひとまず攻撃をやめ、それぞれの陣を整えた。


千早城の水を断つ作戦

赤坂城を攻め落とした金沢右馬助は、大仏貞直(陸奥守)に言った。

「先日、赤坂城を落とせたのは、兵たちが勇敢に戦ったからではありません。

城内へ水を送る仕組みを見つけ、その水を止めたため、敵が降伏したのです。

この千早城を見ても、これほど小さな山頂に、十分な水があるとは思えません。

ほかの山から水を引けるような地形でもありません。

それなのに城内には、多くの水があるように見えます。

おそらく城兵は夜ごと東の山のふもとへ下り、谷川の水をくんでいるのでしょう。

有力な武将1人か2人に命じ、水をくませないようにしてはいかがでしょうか」

2人の大将も、

「もっともな考えだ」

と賛成した。

そこで名越越前守を大将とし、3000騎余りを谷川の近くへ向かわせた。

城兵が下りてきそうな道には逆茂木を並べ、待ち伏せをさせた。


正成が用意していた水

しかし楠木正成は、勇気だけでなく、深い知恵を持つ武将だった。

城を築く時から、水の問題を考えていた。

千早城の峰には、山伏たちだけが場所を知る「五所の秘水」という泉があった。

『太平記』本文では、一晩に5斛(およそ5石。単純換算で約900L)ほどの水がわき、どれほど日照りが続いても枯れなかったとする。

普通に飲むだけなら、この泉で足りるはずだった。

しかし戦いが始まれば、火矢を消すためにも水を使う。

多くの兵が激しく動けば、のども渇く。

泉の水だけでは足りなくなるかもしれない。

そこで正成は、大きな木をくり抜き、二百、三百もの水槽を作らせていた。

そこへ、あらかじめ水をいっぱいにためておいたのである。

また、城内に並ぶ数百の建物の屋根には、雨どいをつけた。

雨が降れば、屋根から落ちる水を一滴も無駄にせず、水槽へ集められる仕組みだった。

水槽の底には赤土を沈め、水が腐りにくくなるよう工夫していた。

これだけあれば、50日、60日、雨が降らなくても耐えられる。

正成は、

「それほど長い間に、1度も雨が降らないことはないだろう」

と考えていた。


水場を守る幕府軍への奇襲

そのため城兵は、無理に谷川まで水をくみに行く必要がなかった。

しかし谷川を見張る幕府兵たちは、そのことを知らない。

最初のうちは、

「今夜こそ城兵が来るかもしれない」

と、毎晩緊張して待っていた。

ところが、いつまでたっても誰も来ない。

しだいに気がゆるみ、警戒もおろそかになった。

正成は、その様子を見逃さなかった。

弓や刀の腕にすぐれた200、300人を選び、夜の暗さに紛れて城から下ろした。

夜明け前、まだ辺りが霞に隠れているころ、正成軍は水辺の幕府軍へ突然攻めかかった。

20人余りを斬り倒し、そのまま休む間もなく攻撃を続けた。

名越越前守は支えきれず、自分の陣へ退却した。


幕府の旗を奪う

周囲にいた数万の幕府軍は、味方を助けようと騒いだ。

しかし谷や尾根に道を遮られ、すぐに駆けつけることができない。

その間に正成軍は、幕府兵が置いていった旗や大きな幕を持ち、落ち着いて城へ戻った。

翌日、正成は城の正面に、3本の唐傘を描いた名越氏の旗と、同じ模様の幕を掲げた。

そして城内から大声で言った。

「これは名越殿からいただいた御旗です。

名越家の紋がついていますので、ほかの方には必要ないでしょう。

名越家の方々は、こちらへ取りに来てください」

城兵たちは、全員でどっと笑った。

天下の武士たちも、

「名越殿は、何という失敗をしたのだ」

と、口々に笑った。


名越軍の怒りの攻撃

名越一族は、この話を聞いて激しく怒った。

「我が軍の兵は、1人残らず城門を枕にして討ち死にせよ」

と命じた。

名越軍5000人余りは、死を覚悟した。

敵から斬られても矢を射られても気にせず、倒れた仲間を乗り越え、城の逆茂木を1重破った。

そして崖の下まで攻め上った。

しかし崖は高く、切り立っていた。

矢が届きそうな近さに見えても、上まで登ることができない。

兵たちは城をにらみ、怒りをこらえながら、その場で息を整えていた。


大木を落とす

その時、城内では、崖の上へ横向きに置いていた大木を10本ほど、一斉に切り落とした。

大木は坂を転がり落ち、幕府兵を将棋の駒のように次々となぎ倒した。

400人、500人ほどが押しつぶされて死んだ。

生き残った者たちが混乱して逃げようとすると、十方の櫓から矢が降り注いだ。

名越軍5000人余りは、残り少ない人数にまで討ち減らされた。

こうして、その日の戦いは終わった。

名越軍の覚悟は勇ましかった。

しかし何の手柄も立てられず、多くの兵を失った。

人々は、

「恥をかいたうえに、これほど損害を出すとは」

と、なおも笑い続けた。


幕府軍、兵糧攻めを決める

千早城の普通ではない戦い方を見て、幕府軍も簡単には攻められないと思うようになった。

最初のように、勢いだけで城へ進もうとする者はいなくなった。

長崎四郎左衛門尉は言った。

「この城を力ずくで攻めても、兵が討たれるばかりで、成功することは難しい。

ただ城を囲み、食料が尽きるのを待て」

幕府軍は攻撃をやめ、包囲を続けることにした。


陣中で連歌を始める

しかし、ただ城を見張っているだけの生活に、兵たちは退屈した。

そこで京都から、花見の席などで連歌を詠む者たちを呼び寄せ、1万句の連歌会を始めた。

初日の最初の句を詠んだのは、長崎九郎左衛門師宗だった。

先駆けて
勝つ色見せよ
山桜

その意味は、

山桜よ、ほかの花に先駆けて咲き、
我が軍が勝つしるしを見せてくれ。

というものだった。

これに工藤二郎右衛門尉が、次の句をつけた。

嵐や花の
敵なるらん

その意味は、

しかし、嵐が吹けば、
花の敵となって散らしてしまうのではないか。

というものだった。

二つの句は言葉のつながりも巧みで、美しい歌だった。

しかし自分たちを花に、楠木正成を嵐にたとえたため、

「嵐によって幕府軍が散らされる」

という不吉な意味にも読めた。

後になって、人々は、

「これは幕府軍の敗北を示していたのだ」

と思った。


遊びにふける幕府軍

大将の命令で戦いが止まると、兵たちはすることがなかった。

ある者は碁や双六を打って1日を過ごした。

ある者は茶の味を当てる遊びや、和歌の勝ち負けを競う会を開き、夜を明かした。

戦いがなくなったことで、城内の兵たちは、かえって苦しい気持ちになった。

敵が攻めてくれば、戦うことに集中できる。

しかし、ただ包囲されているだけでは、心を晴らす方法がなかったのである。


わら人形の作戦

しばらくすると、正成は言った。

「それでは、また幕府軍をだまし、居眠りを覚ましてやろう」

正成は草やわらを使い、人間ほどの大きさの人形を20体、30体作らせた。

人形に鎧や兜を着せ、武器を持たせた。

夜中に城のふもとへ立て、前には盾を並べた。

さらにその後ろへ、選び抜いた兵500人を隠した。

夜が明けかけ、辺りが霞に包まれているころ、城兵たちは一斉に攻撃の声を上げた。


幕府軍、人形へ殺到する

四方を囲む幕府軍は、その声を聞いて叫んだ。

「城兵が打って出てきたぞ!」

「城の運が尽き、死を覚悟して攻めてきたのだ!」

兵たちは我先にと集まった。

正成軍は、少し矢を射て戦うふりをした。

そして幕府軍が十分に近づくと、人形だけを木陰に残し、本物の兵は少しずつ城へ戻った。

幕府兵は、わら人形を本物の城兵だと思い、討ち取ろうとして1か所へ集まった。

正成は、敵が狙いどおり密集したのを見ると、大石40個、50個を1度に落とさせた。

幕府兵300人余りが、その場で押しつぶされて死んだ。

重傷を負い、生きるか死ぬか分からない者も500人余りに達した。


万人の笑いもの

戦いが終わって調べてみると、幕府兵が、

「何と勇敢な敵だ。一歩も退かなかった」

と思っていた相手は、すべてわらで作られた人形だった。

人形を討ち取ろうとして集まり、石や矢に当たって死んだ者は、手柄を立てたとはいえない。

人形を恐れて近づかなかった者も、臆病であることを示してしまった。

どちらにしても、幕府兵は世間の笑いものとなった。

これ以後、幕府軍はますます戦いを避けた。

各国から集まった兵たちは、ただ城を見上げて座っているだけで、何もすることがなかった。


幕府軍を笑う歌

誰が詠んだのか、昔の歌を作り変えた一首が、大将の陣の前へ立てられた。

よそにのみ
見てややみなん
葛城の
高間の山の
峰の楠

その意味は、

幕府軍は遠くから眺めるだけで、
葛城の高い山に立つ楠を、
とうとう攻め落とせないまま
終わるのだろうか。

というものだった。

ここでは山に立つ「楠」と、楠木正成の名が重ねられている。


幕府軍の陣中で起きた争い

戦いもせず、ただ敵と向かい合っている退屈に耐えられず、幕府の大将たちは、江口や神崎から遊女たちを呼び寄せ、さまざまな遊びを始めた。

名越遠江入道と名越兵庫助は、伯父と甥の関係だった。

2人とも一方の大将を務め、城の近くに並んで陣を構えていた。

ある時、遊女たちの前で双六をしていた。

さいころの目をめぐり、わずかな言い争いが起きたのだろうか。

伯父と甥は互いに刀を突き立て、2人とも死んでしまった。

2人の家来たちも、特別な恨みがあったわけでもないのに、主人に続いて互いに刺し違えた。

わずかな時間に、200人余りが死んだ。

城内からそれを見た兵たちは笑った。

「天皇に敵対した天罰によって、自分たちで滅びていく者たちの姿を見よ」

これは普通の出来事ではなかった。

悪い魔物のしわざではないかと思われるほど、嘆かわしい事件だった。


城へ橋をかける作戦

元弘3年(1333年)3月4日、鎌倉から急使が到着した。

「戦いをやめ、何もせず日を過ごしているのはよくない」

という命令だった。

主だった大将たちは相談した。

そして幕府軍の陣と千早城の間にある、深く切り立った谷へ橋をかけ、その橋を渡って城内へ入ろうと考えた。

京都から500人余りの大工を呼び寄せた。

『太平記』本文では、5、6、8、9寸(約15〜27cm)ほどの材木を集め、幅1丈5尺(約4.5m)、長さ20丈余り(約60m超)の巨大なはしごのような橋を作らせたという。

橋が完成すると、2000本、3000本もの太い縄をつけた。

大きな巻き上げ道具を使って橋を持ち上げ、城の崖へ倒しかけた。

その見事な仕組みは、中国の名工・魯班が作ったという、雲まで届くはしごのようだった。


5000、6000人が橋へ殺到する

勇み立った幕府兵5000、6000人は、橋の上を渡り、

「自分が最初に城へ入る」

と、我先に進んだ。

今にも千早城が攻め落とされそうに見えた。

しかし正成は、前もってこの攻撃を予想していたのだろう。

火をつけた松明を次々と橋の上へ投げ込ませた。

松明は、まるで橋の上へ薪を積み上げるように重なった。

さらに本文に「水弾」とある、液体を勢いよく飛ばす道具とみられるものを使い、油を滝のように橋へ浴びせた。

火はたちまち橋桁へ燃え移った。

谷から吹き上げる風によって、炎は一面へ広がった。


燃える橋から逃げられない兵

すでに橋の途中まで渡っていた兵たちは、進むことも戻ることもできなかった。

前へ進めば、激しく燃える炎に体を焼かれる。

後ろへ戻ろうとしても、事情を知らない大軍が後ろから押し続けている。

橋の横へ飛び降りようとしても、谷は深く、岩がそびえ立っている。

兵たちは恐怖の中で押し合い、もがいた。

やがて橋は中央から焼け折れた。

橋の上にいた数千の兵は、橋とともに谷底へ落ちた。

燃え盛る炎の中へ重なり合い、1人残らず焼け死んだ。

その姿は、地獄の罪人たちが刃の山や剣の木に貫かれ、火や煮えたぎる湯で体を焼かれる光景そのものに思われた。


幕府軍の兵糧が断たれる

そのころ、吉野・十津川・宇陀・内郡などの野武士たちが、大塔宮の命令を受けて集まった。

その数は7000人余りとなった。

彼らは峰や谷へ隠れ、千早城を包囲する幕府軍の行き帰りする道をふさいだ。

そのため各国から来た幕府軍は、食料を運び込めなくなった。

兵も馬も、たちまち疲れていった。

食料不足に耐えきれず、100騎、200騎とまとまって国へ帰ろうとする者も現れた。

しかし土地に詳しい野武士たちは、狭い道や谷間で待ち伏せし、次々と討ち取った。

毎日、毎晩、どれほど多くの者が殺されたか分からない。


裸で逃げ帰る幕府兵

めったな幸運で、命だけは助かった者もいた。

しかし馬や鎧を捨て、着物まで奪われ、裸になっていた。

破れた蓑を身にまとい、何とか肌を隠す者がいる。

草の葉を腰へ巻きつけ、恥ずかしい姿のまま逃げる者もいる。

そのような落ち武者たちが、毎日途切れることなく、四方八方へ逃げ散った。

これまで聞いたこともないほどの恥であった。

日本中の武士が代々受け継いできた鎧や太刀、刀の多くも、この時に失われた。


80万騎が10万騎へ

名越遠江入道と名越兵庫助は、つまらない言い争いによって、ともに死んだ。

そのほかの軍勢でも、親が討たれれば、子は髪を切って戦場を去った。

主人が傷を負えば、家来たちは主人を助けて国へ帰った。

初めには80万騎といわれた幕府軍も、今ではわずか10万騎余りにまで減っていたのである。

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45. 新田義貞、後醍醐天皇の綸旨を受ける


源氏の名門・新田義貞

上野国の武士に、新田義貞(小太郎)という者がいた。

『太平記』によれば、新田義貞は八幡太郎義家から十七代目の子孫であり、源氏の正統に連なる名門の出身だった。

しかし、この時は北条氏が天下の実権を握り、日本中の武士がその力に従っていた。

新田義貞も逆らうことができず、鎌倉幕府からの出陣命令に従い、楠木正成が立てこもる金剛山の裏手を攻める軍へ加わっていた。


義貞、幕府に見切りをつける

ある時、義貞は何かを決意した。

執事である船田義昌(入道)を近くへ呼び、こう語った。

「昔から源氏と平氏は、ともに朝廷へ仕えてきた。

平氏が世の中を乱せば、源氏がこれを鎮めた。

源氏が天皇をおびやかせば、平氏がこれを討った。

私は優れた人物ではない。

しかし新田家は源氏の一門であり、代々、弓矢を取る武士として名を伝えてきた。

その名を汚すわけにはいかない。

今、北条高時の行いを見ていると、幕府の滅亡は遠くないと思われる。

私は上野国へ帰り、正義の兵を挙げて、隠岐へ流された後醍醐天皇のお心をお慰めしたい。

しかし、天皇や皇子から命令を受けなければ、勝手に兵を挙げることはできない。

何とかして大塔宮から令旨をいただき、この望みを実現できないだろうか」


船田義昌が引き受ける

船田義昌は、かしこまって答えた。

「大塔宮は、この付近の山中に身を隠しておられると聞いております。

私が方法を考え、急いで令旨をいただいてまいりましょう」

船田は、簡単なことのように引き受け、自分の陣へ戻った。


野武士を捕らえる作戦

翌日、船田は若い家来30人余りを、山中を活動する野武士のような姿に変装させた。

そして夜中に葛城山へ登らせた。

船田自身は、幕府軍に追われて逃げている兵のふりをした。

夜明け前の霞に隠れながら、味方同士で追ったり追われたりし、半時(およそ1時間)ほど戦っているように見せかけた。

宇陀や内郡の野武士たちは、その様子を見た。

「幕府軍と戦っている味方の野武士たちだ」

と思い、力を貸そうとして、別の峰から下りて近づいてきた。

船田の兵たちは、その者たちを中へ誘い込んで包囲し、11人を生け捕りにした。


大塔宮の居場所を尋ねる

船田は、捕らえた野武士たちの縄を解き、ひそかに話した。

「我々がだましてお前たちを捕らえたのは、殺すためではない。

新田殿は上野国へ戻り、幕府を倒すために兵を挙げようとしている。

しかし、大塔宮の命令書がなければ、兵を挙げることができない。

そこで大塔宮の居場所を尋ねるため、お前たちを捕らえたのだ。

命が惜しければ、案内役となり、こちらの使者を宮のおられる場所へ連れていってほしい」

野武士たちは大いに喜んだ。

「そのようなご用件であれば、まことに簡単なことです。

私たちの中の1人に、しばらく時間をください。

大塔宮から命令書をいただいてまいります」

残る10人を船田のもとへ置き、1人が大塔宮のもとへ向かった。


令旨ではなく綸旨が届く

船田たちが、

「まだか、まだか」

と待っていると、1日後、その野武士が文書を持って戻ってきた。

開いてみると、大塔宮が出す令旨ではなかった。

そこにあったのは、後醍醐天皇の意思を側近が伝える形式の綸旨だった。綸旨は天皇の意思を侍臣が代わって伝える文書であり、天皇自身の直筆という意味ではない。

その内容は、およそ次のようなものだった。

教えを広め、国々を正しく治めることは、賢明な天皇の徳である。

乱れた世を正し、天下を鎮めることは、武士の守るべき道である。

近年、北条高時とその一族は、朝廷の決まりを無視し、勝手に反逆の力を振るっている。

その悪行は積み重なり、今や天罰が現れようとしている。

長年にわたる天皇の苦しみを取り除くため、今こそ正義の兵を挙げようとしている。

その忠義を、天皇は深くお喜びになる。
功績に対する恩賞も、決して少なくはない。

ただちに関東を討つための策を実行し、天下を平和にする功績を立てよ。

天皇のお言葉は以上のとおりであるため、ここに伝える。

日付は、元弘3年(1333年)2月11日。

宛名には、

左少将・新田小太郎殿

と書かれていた。


義貞、綸旨を喜ぶ

この綸旨は、新田家にとって大きな名誉となる天皇の言葉だった。

義貞は、この上なく喜んだ。

そして翌日から病気のふりをし、急いで本国の上野国へ帰った。

千早城攻めに加わっていた有力な武士たちも、さまざまな理由をつけ、それぞれ自分の国へ帰るようになった。


千早城の幕府軍が弱り始める

各地の武士が帰り始めたため、兵糧を運ぶ道も途絶えた。

千早城を包囲していた幕府軍は、以前にも増して戦意を失ったという。

六波羅探題は、千早城攻めを立て直すため、再び宇都宮公綱を派遣した。

宇都宮公綱に従う、本文が「紀・清両党」と呼ぶ兵1000騎余りが、幕府軍へ加わった。

彼らはまだ戦いに疲れていない、新しい軍勢だった。


宇都宮軍の激しい攻撃

宇都宮軍は、ただちに千早城の堀のそばまで攻め上った。

昼も夜も、少しも退かなかった。

10日余りにわたり、攻撃を続けた。

このため、城壁のそばにあった鹿垣や逆茂木は、すべて引き破られた。

千早城も、少しずつ守り切れなくなっているように見えた。


山そのものを掘り崩そうとする

しかし、どれほど勇敢な「紀・清両党」の兵であっても、空を飛べるわけではない。

昔の物語に出てくる、空を飛んだという斑足王の体を持っているわけでもない。

また、山を引き裂くほどの怪力を持つ、伝説上の竜伯国の大男でもない。

切り立った崖を越え、力だけで城へ入ることはできなかった。

ほかに方法がなかったためだろう。

前方の兵たちには城兵と戦わせ、後ろにいる者たちは、それぞれ鋤や鍬を持った。

そして、

「山を根元から掘り崩してしまおう」

と考えたのである。


正面の櫓を掘り崩す

実際に、千早城正面の櫓が立つ場所は、昼夜3日間掘り続けると、簡単に崩れ落ちた。

これを見た幕府軍の兵たちは後悔した。

「初めから戦うのをやめ、山を掘ればよかったのだ」

兵たちは我も我もと山を掘り始めた。

しかし『太平記』本文では、千早城が立つ山は周囲が1里以上もある大きな山だったとする。この「里」も中世の里程で、現在のkmへは単純換算しない。

いくら大軍が掘ったとしても、山全体を簡単に崩せるようには見えなかった。

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46. 赤松円心、播磨で兵を挙げる


赤松円心が苔縄城を出る

楠木正成が守る千早城は、幕府の大軍が攻めても簡単には落ちなかった。

その一方で、

「幕府軍の主力が千早城へ向かっているため、京都の守りは薄くなっている」

といううわさが広まった。

これを聞いた赤松則村(法名・円心。赤松二郎入道)は、播磨国の苔縄城を出陣した。

そして西国と京都を結ぶ、山陽道と山陰道の二つの道をふさいだ。

赤松軍は、山里と梨原の間に陣を構えた。


西国の幕府軍が三石へ集まる

そのころ、

  • 備前国
  • 備中国
  • 備後国
  • 安芸国
  • 周防国

の軍勢が、六波羅探題の命令を受けて京都へ向かっていた。

これらの軍勢は三石宿へ集まり、

「山里にいる赤松軍を追い払い、そのまま京都へ進もう」

とした。

しかし、赤松方の赤松筑前守が舟坂山で待ち受けていた。

赤松軍は西国軍の進路をふさぎ、主だった武士20人余りを生け捕りにした。


捕虜を殺さなかった赤松円心

赤松円心は、捕らえた武士たちを殺さなかった。

かえって親切に扱い、情け深く接した。

捕虜の中に、伊東大和二郎という武士がいた。

伊東は円心の恩情に深く感動した。

そして、それまで幕府へ味方していた心を変え、

「これからは朝廷方へ加わろう」

と決意した。


伊東大和二郎の挙兵

伊東大和二郎は、まず自分の屋敷の上にある三石山へ城を築いた。

続いて熊山へ移り、そこで朝廷のための兵を挙げた。

これを討とうとして、備前国の守護である加治源二郎左衛門が攻め寄せた。

しかし加治は戦いに敗れ、児島方面へ逃げていった。

この結果、西国から京都へ向かう道は、いっそう通れなくなった。

中国地方の動乱は、ますます激しくなった。


円心の厚遇で伊東大和二郎が離反する

『太平記』は、円心が捕虜を殺さず厚く扱ったため、伊東大和二郎がその恩に感じて幕府方から朝廷方へ転じた、と語る。

円心はその伊東に西国から京都へ向かう幕府軍を防がせ、自らは東へ進むことができた。


高田兵庫助の城を攻め落とす

背後の心配がなくなると、赤松円心はすぐに進軍を再開した。

まず、高田兵庫助の城を攻め落とした。

そして少しも休むことなく、山陰道を通って京都方面へ攻め上った。

道中の武士たちも、次々と赤松軍へ加わった。

その軍勢は、間もなく7000騎余りにまで増えた。


摩耶山に城を築く

7000騎余りの兵がいれば、六波羅探題を攻め落とすことも、十分に可能だと思われた。

しかし円心は、勝つことだけを考えてはいなかった。

「もし戦いに敗れることがあれば、退いて兵や馬を休ませる場所が必要だ」

と考えたのである。

そこで兵庫の北にある、摩耶山という山寺に城を築いた。

ここを、京都へ攻め上るための拠点であると同時に、敗れた時に退くための城とした。

こうして赤松円心は、幕府軍との距離を20里ほどにまで縮め、六波羅探題への攻撃に備えたのである。この「里」は中世の里程で、現在のkmへ単純換算はしない。

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47. 伊予の土居・得能、幕府に背いて兵を挙げる


六波羅探題の苦しい状況

六波羅探題は、各地で朝廷方の兵が立ち上がる中、対応に苦しんでいた。

頼りにしていた宇都宮公綱の軍勢は、楠木正成が立てこもる千早城へ向かっている。

西国から京都へ来るはずだった幕府軍も、伊東大和二郎に道をふさがれ、上洛できない。

そこで六波羅では、

「四国の軍勢を集め、赤松円心が築いた摩耶城へ向かわせよう」

と相談していた。


伊予国から届いた急報

ところが、『太平記』本文では、元弘3年(1333年)閏2月4日、伊予国から早馬が到着したとする。

使者は、次のように報告した。

「伊予国の土居通増(二郎)と得能通綱(弥三郎)が朝廷方となり、旗を挙げました。

2人は伊予国の武士たちを味方につけ、さらに土佐国へ進もうとしております。

これに対し、先月12日、長門探題の北条時直が、300艘余りの軍船を率いて伊予国へ渡ってきました。

両軍は星岡で戦いました」

【年代注】 『太平記』本文は閏2月4日に届いた急報の中で、「先月12日」に星岡で戦ったと語る。一方、松山市の歴史年表では、北条時直が2月に石井浜で敗れ、土居通増・得能通綱らが星岡で時直を破った戦いを3月に置いている。ここでは『太平記』本文の年代と一般的な歴史叙述を区別する。


星岡の戦い

長門国と周防国から来た幕府軍は、星岡で土居・得能の軍と戦った。

しかし、幕府軍は1度の戦いで敗れた。

死者や負傷者は数えきれないほどだった。

そのうえ、大将である北条時直と、その子の行方まで分からなくなったという。


四国の武士が朝廷方へつく

星岡で幕府軍が敗れてから、四国の武士たちは次々と土居通増・得能通綱のもとへ集まった。

その軍勢は、すでに6000騎余りとなっていた。

彼らは宇多津や今治の港へ船を集め、今にも海を渡って、京都方面へ攻め上ろうとしているという。

使者は最後に、

「まもなく四国の軍勢が攻めてくるでしょう。十分にご用心ください」

と六波羅へ警告した。


四国の援軍を失った六波羅

六波羅探題は、四国の軍勢を朝廷方との戦いに使おうとしていた。

しかし、その四国で土居・得能らが兵を挙げ、幕府軍を破ったのである。

援軍として期待していた四国勢は、逆に六波羅を攻める軍勢へ変わろうとしていた。

こうして六波羅探題は、西国からも四国からも援軍を得られず、次第に孤立していったのである。

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48. 後醍醐天皇、隠岐を脱出して船上山へ入る


天下の乱れと、後醍醐天皇への警戒

畿内の戦いがまだ静まらないうちに、四国や西国でも、日を追うごとに反幕府の動きが広がっていた。

人々は、薄い氷の上を歩くような不安を感じ、深い谷のふちに立っているように、国の行く末を恐れていた。

そもそも、現在の天下の乱れは、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとしたことから始まった。

幕府は、隠岐国の守護である佐々木清高(本文では「隠岐判官」)へ、

「反乱軍が隠岐へ攻め込み、後醍醐天皇を奪い返そうとするかもしれない。十分に警戒せよ」

と、隠岐を守る判官へ命じた。

佐々木清高は、近くの国々の地頭や御家人を集めた。

昼の番も夜の見回りも休むことなく行わせ、門を固く閉ざして、後醍醐天皇を厳重に監視した。


富士名判官義綱の決意

元弘3年(1333年)閏2月下旬、佐々木氏の一族である富士名義綱(富士名判官)が、当番として御所の中門を警備していた。

義綱は、どうしてそのような考えを持ったのだろう。

「この天皇をお助けし、幕府に背いて兵を挙げたい」

と思うようになった。

しかし、後醍醐天皇へ直接申し上げる機会がない。

どうすれば自分の考えを伝えられるかと悩んでいた。


御前から与えられた酒

ある夜、後醍醐天皇のもとから、1人の女房を通じて義綱へ酒が与えられた。

義綱はその酒をいただき、

「これはよい機会だ」

と考えた。

そして、その女房に頼み、後醍醐天皇へひそかに次のように伝えた。

「天皇は、まだ現在の各地の状況をご存じないのでしょうか。

楠木正成は金剛山に城を築いて立てこもっています。

東国から100万騎余りの幕府軍が上洛し、2月の初めから城を攻めていますが、城の守りは固く、攻める側がすでに弱り始めています。

備前国では伊東大和二郎が三石に城を築き、山陽道をふさいでいます。

播磨国では赤松円心が大塔宮から令旨を受け、摂津国まで攻め上りました。

現在は兵庫の摩耶山に陣を構え、その軍勢はすでに3000騎余りとなっています。

京都へ近づき、周辺の土地を支配して、その勢いは近国にまで広がっています。

四国では河野氏の一族である土居通増と得能通綱が朝廷方につき、兵を挙げました。

長門探題の北条時直は2人との戦いに敗れ、行方も分からないまま逃げ去りました。

その後、四国の武士たちは皆、土居と得能に従っています。

大船をそろえ、隠岐まで天皇をお迎えに来るとも、先に京都を攻めるとも伝えられています。

天皇の運が開ける時は、すでに来たように思われます」


隠岐からの脱出計画

義綱は、さらに申し上げた。

「私が警備の当番をしている間に、ひそかに御所をお出ください。

千波の港から船に乗り、出雲か伯耆のどこかの港へ、風に任せてお渡りください。

そこで頼りになりそうな武士をお頼みになり、しばらく時をお待ちください。

私は恐れながら、天皇を追って攻めるふりをして隠岐を出て、そのまま朝廷方へ加わります」

女房は、義綱の言葉を後醍醐天皇へ伝えた。

しかし天皇は、

「義綱は、私を逃がすと言ってだまそうとしているのではないか」

と、まだ完全には信じられなかった。

そこで義綱の本心を確かめるため、使いを務めた女房を義綱へ与えた。

義綱は、身に余る名誉だと感激した。

しかも、その女房を深く愛するようになったため、後醍醐天皇へ忠義を尽くす気持ちは、ますます強くなった。


義綱、出雲へ向かう

後醍醐天皇は義綱に、

「それでは、まず出雲国へ渡り、味方になりそうな一族を説得して、私を迎えに来るように」

と命じた。

義綱はすぐに出雲国へ渡り、塩冶高貞(塩冶判官)を味方へ引き入れようとした。

ところが塩冶高貞は、何を考えたのか、義綱を自分のもとへ閉じ込めた。

義綱は隠岐へ戻れなくなった。

後醍醐天皇は、しばらく義綱の帰りを待っていた。

しかし、あまりにも長く何の知らせもない。

そこで、

「もはや運に任せて、自分で隠岐を脱出しよう」

と決意した。


女房の輿に乗って御所を出る

ある日の夜、まだ人の動きがある宵のうちに、

「三位殿の局が出産を間近に控えたため、御所を出る」

ということにした。

後醍醐天皇は、その女房が乗るはずの輿に身を隠した。

供をしたのは、千種忠顕(六条少将)ただ1人だった。

こうして天皇は、ひそかに御所を脱出した。


天皇が自ら歩く

しかし、そのまま輿に乗っていれば、人に怪しまれる恐れがあった。

そのうえ、輿を運ぶ者もいなかった。

仕方なく輿を捨てることになった。

本来なら、徳を積んだ尊い天皇である。

その天皇が自らわらじをはき、足を土やほこりで汚し、ぬかるんだ道を歩かなければならなかった。

何とも痛ましい姿だった。


暗い夜道を進む

『太平記』本文では、この脱出は元弘3年(1333年)3月23日のことだったという。

【年代注】 この日付は『太平記』本文の物語上の日付である。一方、鳥取県の公式資料では、後醍醐天皇が隠岐を脱出したのは元弘3年(1333年)閏2月24日とされている。ここでは本文の日付を勝手に直さず、史実上の年代と分けて示す。

月が昇るまでの夜は暗く、どこへ続くかも分からない野道を、手探りで進んだ。

天皇は、

「もう隠岐の御所から、かなり遠くまで来ただろう」

と思った。

しかし後ろの山から流れ落ちる滝の音が、まだ風に乗って聞こえてくるほどしか進んでいなかった。

「追手が追いついてくるのではないか」

と思うと恐ろしく、一歩でも前へ進みたい。

しかし天皇は、このような険しい道を歩いたことがない。

夢の中の道を歩くように、少し進んでは何度も立ち止まった。


忠顕が天皇を支える

忠顕は、

「何としても今夜のうちに港の近くまでお連れしなければならない」

と考えた。

天皇の手を引き、腰を押して進んだ。

しかし2人とも心身ともに疲れ果て、露にぬれた野道をさまよった。

夜がすっかり深くなると、遠くない場所から鐘の音が聞こえてきた。

鐘の音は月の光に溶け込むように響いていた。

忠顕は、その鐘を道しるべとして、人家のある方へ向かった。


1人の男が現れる

忠顕は一軒の家の門をたたき、尋ねた。

「千波の港へ行くには、どちらへ進めばよいか」

すると、中から粗末な姿をした男が1人出てきた。

男は後醍醐天皇の様子を見た。

特別な教養もない田舎の男だったが、何となく天皇を気の毒に思ったのだろう。

「千波の港は、ここからわずか50町(約5.5km)ほどです。

しかし道が南と北に分かれているので、このままでは迷われるでしょう。

私が道案内をいたします」

そう言うと、男は後醍醐天皇を軽々と背負った。

そして、ほどなく千波の港へ到着した。


正体の分からない恩人

港で時刻を知らせる太鼓の音を聞くと、時刻はまだ五更の初(夜明け前)だった。

案内をした男は、今度は港の中を走り回った。

そして伯耆国へ帰ろうとしていた商船を見つけ、船頭を何とか説得した。

後醍醐天皇を船の屋形の中へ乗せると、男は別れを告げ、その場に残った。

この男は、本当にただの人間だったのだろうか。

後醍醐天皇が天下を取り戻したあと、

「あの時、天皇を助けた者には、必ず恩賞を与えよ」

と、隠岐国中を捜させた。

しかし、

「私がその男です」

と名乗る者は、最後まで1人も現れなかった。


船頭に正体を明かす

夜が明けると、船乗りたちは船をつないでいた綱を解き、追い風を受けて帆を上げた。

船は千波の港を離れた。

船頭は後醍醐天皇の様子を見て、

「普通の方ではない」

と気づいたのだろう。

屋形の前へひざまずいて申し上げた。

「このような大切な時に、私どもの船にお乗りいただいたことは、生涯の名誉です。

どの港へ向かうよう命じられても、そのご命令に従って船を進めます」

船頭の様子は、心から天皇を助けようとしているように見えた。

忠顕は、

「ここまで気づかれているのに、かえって正体を隠す方が危険だ」

と考えた。

船頭を近くへ呼び、打ち明けた。


「この方こそ日本の天皇である」

「これほどまでに見抜かれている以上、もう隠すことはない。

屋形の中におられる方こそ、日本国の主である後醍醐天皇だ。

お前たちも聞いているだろう。

天皇は昨年以来、隠岐判官の屋敷へ閉じ込められていた。

私がひそかにお連れ出ししたのである。

出雲か伯耆のどこでもよい。

安全と思われる港へ、急いで船を着けてほしい。

天皇の運が開いたならば、必ずお前を武士の身分に取り立て、1か所の領地を持つ主人にしていただこう」

船頭は、本当にうれしそうな顔をした。

そして船を左右へ巧みに操り、片方の帆いっぱいに風を受けて、急いで進んだ。


隠岐からの追手

船がすでに海上を20、30里ほど進んだと思われたころ、同じ追い風を受けた船が10艘ほど、出雲・伯耆方面へ向かってきた。ここでいう「里」も中世の里程で、現在のkmへは単純換算しない。

九州の船か商船かと思って見ると、そうではない。

佐々木清高(隠岐判官)が、後醍醐天皇を追って出した船だった。

船頭は言った。

「このままでは逃げ切れません。こちらへお隠れください」

後醍醐天皇と忠顕を船底へ隠した。

その上に、乾かした魚を入れた俵を積み重ねた。

さらに水夫や船乗りたちが、その上へ立ち並び、何事もないように櫓をこいだ。


追手が船内を捜す

やがて追手の船1艘が、天皇の乗る船へ追いついた。

追手の兵たちは屋形へ乗り移り、船の中をあちこち捜した。

しかし、後醍醐天皇を見つけられなかった。

兵は船頭に尋ねた。

「この船には乗っておられないようだ。何か怪しい船が通らなかったか」

船頭は平然と答えた。

「昨夜の子の刻(午前0時ごろ)、千波の港を出た船がありました。

京都の身分の高い人のように見え、冠のようなものをつけた人と、立烏帽子をかぶった人が2人、乗っていました。

その船なら、もう5、6里ほど先へ進んでいるでしょう」

追手は、

「それに間違いない。急いで船を進めろ」

と言い、帆を上げ、かじを取り直した。

追手の船は、天皇の船から離れていった。


100艘の追船

後醍醐天皇たちは、

「これでもう安心だ」

と思った。

ところが後ろの海を見ると、1里ほど離れた場所から、100艘余りの追手の船が、天皇の船を目がけ、鳥が飛ぶような速さで追ってきていた。

船頭は帆の下でも櫓を動かし、

「一気に遠くまで逃げ切るぞ」

と、船乗りたちへ声をかけた。

しかし、その時になって風がやんだ。

そのうえ潮の流れまで船の進む方向と逆になり、天皇の船はまったく進まなくなった。

水夫や船頭たちは、

「どうすればよいのだ」

と慌て騒いだ。


仏舎利を海へ浮かべる

その時、後醍醐天皇は船底から出てきた。

肌身につけていたお守りの中から、仏の遺骨である仏舎利を一粒取り出した。

それを紙の上に載せ、海の波へ浮かべた。

竜神が仏舎利を受け取ったのだろうか。

海の風向きが突然変わった。

後醍醐天皇の船には、東へ進む風が吹いた。

反対に、追手の船には西へ押し戻す風が吹いた。

これは、『太平記』が後醍醐天皇の脱出を仏舎利と竜神の加護に結びつけて語る霊験譚である。風向きの変化を、そのまま歴史的事実として証明するものではない。

こうして後醍醐天皇は、追手に捕らえられる危機を逃れた。

船は短い時間のうちに、伯耆国の名和港へ到着した。


名和長年への使者

千種忠顕(六条少将)は、1人で先に船を降りた。

そして道を行く者に尋ねた。

「この辺りに、武士として名を知られている者はいるか」

通行人は立ち止まり、答えた。

「この近くには、名和長年(又太郎)という者がいます。

特別に名高い武将というわけではありません。

しかし家は豊かで、一族も多く、勇気と決断力のある人物です」

忠顕は、名和長年について詳しく聞いた。

そしてすぐに使者を送り、天皇の言葉として伝えた。

「後醍醐天皇は隠岐判官の屋敷を脱出され、現在、この港におられる。

長年の武勇は以前から天皇のお耳に届いている。

そこで長年を頼りたいとのお言葉である。

天皇をお助けするのか、それともお断りするのか。

すぐに返事を申し上げよ」


名和一族の決断

名和長年は、ちょうど一族を集めて酒を飲んでいた。

使者の言葉を聞くと、どうするべきか迷い、すぐには返事ができなかった。

すると弟の名和長重(小太郎左衛門尉)が進み出て言った。

「昔から今に至るまで、人間が望むものは、名誉と利益の二つです。

我々が尊い天皇から頼りにされ、たとえ戦場で命を落としたとしても、その名を後の世まで残すことができます。

それは生きている間の最高の思い出となり、死んだあとの名誉ともなるでしょう。

迷わず、天皇をお助けすると決めるほかに道はありません」

名和長年をはじめ、その場にいた一族20人余りは、皆この意見に賛成した。


長重、天皇を迎えに行く

長重は言った。

「それでは、すぐに戦いの準備をしてください。

追手も間もなく来るでしょう。

私は天皇をお迎えし、そのまま船上山へお連れします。

皆もすぐに出発し、船上山へ集まってください」

そう言い残すと、長重は鎧を一つ抱えて走り出した。

一族の者5人も腹巻を身につけ、高紐を締めながら、天皇を迎えに向かった。


天皇を背負って船上山へ

あまりにも急な出来事だったため、天皇が乗る輿などは用意できなかった。

長重は、自分が着ている鎧の上に粗末なむしろを巻いた。

その背中に後醍醐天皇をお乗せし、鳥が飛ぶような速さで走り、船上山へお連れした。


1日で5000石の兵糧を集める

一方、名和長年は近くの村々へ人を送り、次のように触れさせた。

「事情があって、船上山へ兵糧を運ぶことになった。

我が家の倉にある米や穀物を、1人で1荷(一人で担げる一組の荷物。重さは一定しない)ずつ運んだ者には、500文(当時の貨幣単位)ずつ与える」

この知らせを聞き、あらゆる方向から5000人、6000人もの人夫が集まった。

人々は、

「ほかの者に負けるものか」

と、次々に米を運んだ。

『太平記』本文では、1日のうちに5000石余り(容積の単純換算で約90万L分)の兵糧が船上山へ運び込まれたという。


館を焼き、天皇に従う

その後、長年は自分の家にあった財宝を、すべて村人や百姓たちへ与えた。

そして自らの館へ火をつけた。

もう幕府方へ戻るつもりはなく、すべてを捨てて後醍醐天皇へ従う覚悟を示したのである。

長年は150騎を率いて船上山へ向かい、後醍醐天皇の仮の御所を守った。


500本の白旗

名和長年の一族に、名和七郎という、武勇と作戦にすぐれた者がいた。

『太平記』本文では、名和七郎は白布500端を使い、数多くの旗を作ったとする。「端」は布を数える古い単位で、中世には規格が一定しないため、現代の長さへは単純換算しない。

そして松の葉を燃やし、その煙で旗を古びたように見せた。

さらに、近国の武士たちの家名を旗へ書いた。

その旗を、こちらの木の下、あちらの峰と、船上山の各所へ立てた。

500本もの旗が山風に吹かれ、あちらこちらでひるがえった。

遠くから見れば、近国の大軍がすでに船上山を埋め尽くしているように見える。

こうして名和一族は、実際よりもはるかに大きな軍勢が集まっているように見せかけ、追手を迎え撃つ準備を整えたのである。

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49. 船上山の戦い


幕府軍、船上山へ攻め寄せる

『太平記』本文では、前章の「3月23日」に続く同月29日、佐々木清高(隠岐判官)と佐々木弾正左衛門が、3000騎余りの軍勢を率い、南北の2方向から船上山へ攻め寄せたとする。

【年代注】 一方、鳥取県の公式資料では、船上山の戦いは元弘3年(1333年)閏2月29日とされる。したがって、ここでも『太平記』本文の物語上の日付と、史実上の年代を分けて読む必要がある。

船上山は、北側が大山へ続いて高くそびえ、ほかの三方も険しく切り立っていた。

山の峰には白い雲がかかり、山の腰を取り巻くように漂っていた。

しかし、後醍醐天皇が船上山へ入ったのは急なことである。

名和長年たちは、まだ十分な城を築くことができていなかった。

堀は1か所も掘られていない。

城壁も、まったく造られていなかった。

ただ、ところどころで大木を切り倒し、枝を敵の方へ向けて逆茂木の代わりとした。

また、寺院の建物から屋根板をはがし、それを楯のように並べただけだった。


500本の旗を見た幕府軍

幕府軍3000騎余りは、坂の途中まで攻め上った。

そして船上山の城内を見上げた。

松や柏の木が深く生い茂っていたため、城内にどれほどの兵がいるのかは分からない。

しかし木々の間には、さまざまな武士の家紋を描いた旗が、400本、500本も立てられていた。

旗は雲の中にひるがえり、太陽の光を受けて輝いていた。

幕府軍は思った。

「近くの国々の武士が、すでに残らず船上山へ集まっているのだ。

我々だけで攻めるのは難しい」

実際には名和長年が、少ない兵を多く見せるために立てさせた旗だった。

しかし幕府軍はそれを知らず、心の中で恐れ、一歩も先へ進めなくなった。


城兵も人数を隠す

城内の朝廷軍も、実際の兵の少なさを敵に知られないようにした。

兵たちは木陰に身を伏せ、姿を隠した。

時々、弓の上手な者だけを前へ出し、遠くから矢を射させた。

このようにして、決戦を避けながら1日を過ごした。


佐々木弾正左衛門の死

幕府軍の一方を率いていた佐々木弾正左衛門尉は、山から離れたふもとに陣を構えていた。

ところが、どこから飛んできたのか分からない1本の矢が、佐々木の右目を貫いた。

佐々木はその場に倒れ、死んだ。

大将を失ったその軍勢500騎余りは、すっかり顔色を失った。

戦おうともせず、動けなくなった。


佐渡前司の降伏

佐渡前司は、800騎余りを率いて、船上山の裏手へ向かっていた。

しかし佐々木弾正左衛門の死を知ったためだろうか。

突然、旗を巻き、兜を脱いで降伏した。

これによって幕府軍は、正面以外の軍勢をほとんど失った。


事情を知らない隠岐判官

一方、正面から攻めていた隠岐判官は、佐々木の死も、佐渡前司の降伏も知らなかった。

「裏手の軍勢も、今ごろは城へ攻め寄せているだろう」

と思い込んでいた。

隠岐判官は一の木戸口へ攻めかかり、新しい兵を次々と入れ替えながら、長い時間にわたって攻撃を続けた。


突然の激しい雷雨

太陽が西の山へ沈もうとしたころ、空が突然暗くなった。

激しい風が吹き、大雨が降り始めた。

雨は、車の軸ほどもある太い水の柱が落ちてくるようだった。

雷の音は、山を崩すかと思われるほど激しかった。

幕府軍は雷雨におびえ、震え上がった。

兵たちは戦うことをやめ、あちらこちらの木陰へ集まって雨を避けた。


名和長重・長生の反撃

その時、名和長年の弟である名和長重(太郎左衛門)と、名和長生(小次郎)が攻撃を始めた。

2人は弓の上手な兵を左右へ進ませ、木陰に集まる幕府軍へ激しく矢を射かけた。

幕府兵の楯の列が崩れ、隙間ができた。

名和軍は、

「今こそ好機だ」

と、一斉に太刀を抜いて攻めかかった。

正面から攻めていた幕府軍1000騎余りは、坂道から谷底へ次々と追い落とされた。

谷へ落ちた兵たちは、自分の持っていた太刀や長刀に体を貫かれた。

どれほど多くの者が命を落としたか、数えることもできなかった。


隠岐判官、ただ1人逃げる

隠岐判官だけは、何とか命を助けることができた。

小さな船1艘に乗り、隠岐国へ逃げ帰ろうとした。

ところが、隠岐の人々はすでに幕府を見限り、心を変えていた。

各地の港や海岸を固め、隠岐判官が上陸できないようにした。

隠岐判官は国へ帰ることができず、波と風に流されるまま海上をさまよった。

やがて越前国の敦賀へ漂着した。


隠岐判官の最期

その後、あまり時がたたないうちに、京都の六波羅探題が滅びる時が来た。

隠岐判官は近江国の番場にある辻堂で腹を切り、死んだという。

世の中が乱れた末の時代になったとはいっても、天の道理はまだ残っていたのだろうか。

後醍醐天皇をあまりにも苦しめた隠岐判官は、わずか30日余りの間に滅び、その首を軍門の旗のそばへさらされることになった。

『太平記』は、それを不思議な因果応報として語っている。


後醍醐天皇のもとへ集まる武士たち

後醍醐天皇が隠岐国を脱出し、船上山に滞在しているという知らせは、各国へ広まった。

すると武士たちは、途切れることなく船上山へ集まり始めた。

最初に駆けつけたのは、出雲国の守護である塩冶高貞(本文表記:塩谷判官高貞)だった。

塩冶高貞は、かつて富士名義綱を自分のもとへ引き止めていた人物である。

その塩冶高貞が富士名義綱(富士名判官)とともに、1000騎余りを率いて後醍醐天皇のもとへ参上した。


出雲・伯耆・因幡の軍勢

続いて、

  • 浅山二郎の800騎余り
  • 金持氏の一族300騎余り
  • 大山の僧兵700騎余り

が船上山へ駆けつけた。

出雲・伯耆・因幡の三か国では、弓矢を取る武士のうち、朝廷軍へ加わらない者は1人もいないと思われるほどだった。


中国地方の武士たち

さらに中国地方の各国からも、多くの武士が集まった。

石見国からは、沢氏・三角氏の一族。

安芸国からは、熊谷氏・小早川氏。

美作国からは、菅家の一族、江見氏、方賀氏、渋谷氏、南三郷の武士たち。

備後国からは、江田氏、広沢氏、宮氏、三吉氏。

備中国からは、新見氏、成合氏、那須氏、三村氏、小坂氏、河村氏、庄氏、真壁氏。

備前国からも、

  • 今木氏
  • 大富太郎幸範
  • 和田備後二郎範長
  • 知間二郎親経
  • 藤井氏
  • 射越五郎左衛門範貞
  • 小嶋氏
  • 中吉氏
  • 美濃権介
  • 和気弥次郎季経
  • 石生彦三郎

らが集まった。


船上山を埋め尽くす大軍

中国地方だけではなかった。

四国や九州の武士たちも、

「後醍醐天皇が船上山で兵を挙げられた」

という知らせを人から人へ聞き伝え、

「ほかの者より先に参上しよう」

と、競うように駆けつけた。

そのため軍勢は、船上山の上だけでは収まりきらなくなった。

『太平記』本文では、山の四方のふもと、2、3里の範囲には、木の下や草の陰にまで人があふれたとする。この「里」も中世の里程で、現在のkmへは単純換算しない。

人のいない場所は一つもないと思われるほどだった。

最初は150騎ほどに守られていた後醍醐天皇のもとに、船上山の勝利をきっかけとして、全国から大軍が集まり始めたのである。

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