ホーム | 太平記 全40巻・全339章 | ← 巻第十五 | 巻第十七 →
巻第十六は、足利尊氏の九州下向と多々良浜の戦い、西国での再起と東上、備中福山から兵庫へ続く攻防、湊川の戦いと楠木正成の最期を描く。
巻第十六|目次
- 足利尊氏、九州へ渡る
- 少弐・菊池の戦い――宗応蔵主の忠節
- 多々良浜の戦い――高重茂(高駿河守)の先例
- 西国の蜂起――官軍の進発
- 新田義貞、播磨の赤松円心を攻める
- 児島高徳、熊山で挙兵――船坂の戦い
- 尊氏、九州から上洛する――瑞夢
- 備中福山の戦い
- 新田義貞、兵庫へ退く
- 楠木正成、兵庫へ下る
- 兵庫へ迫る海陸の足利軍
- 本間孫四郎の遠矢
- 経ヶ島の戦い
- 楠木正成・正季兄弟の討ち死に
- 湊川の戦い――新田義貞の奮戦
- 小山田高家の忠死――青麦を刈った罪
- 後醍醐天皇、再び比叡山へ移る
- 光厳上皇、東寺へ潜幸する
- 日本の朝敵を論じる
- 楠木正成の首、故郷へ送られる
※読み方:軍勢の数、超人的な戦闘、瑞兆、神仏の加護、怪異、因果応報などは、『太平記』本文の叙述であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定が一般的な歴史叙述や現存史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、尺・寸・丈・町・斗など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。一方、中世・中国説話の「里」や当時の貨幣は単純に現代単位へ換算しない。
125. 足利尊氏、九州へ渡る
兵庫を離れた時には7000騎余り
建武3年(1336年)2月8日、足利尊氏が兵庫を退いた時には、従う兵がまだ7000騎余りいた。
しかし備前国の児島へ到着すると、尊氏は軍勢の一部を各地へ残すことにした。
京都から官軍の追討軍が下ってきた場合、三石付近で防がせるためである。
尾張左衛門佐氏頼を、
- 田井氏
- 飽浦氏
- 松田氏
- 内藤氏
らとともに、備前国へ残した。
細川定禅らを東国へ戻す
尊氏は、
「東国の情勢も心配である」
として、
- 細川定禅
- 細川刑部大輔義敦
を東国へ戻した。
そのほかの軍勢も、それぞれ尊氏へ別れを告げ、自分の国へ残った。
従うのは足利一門と東国勢だけとなる
尊氏へ最後まで従ったのは、
- 高氏
- 上杉氏
- 仁木氏
- 畠山氏
- 吉良氏
- 石塔氏
ら、足利一門や重臣たちだった。
これに武蔵・相模の兵が加わるだけで、ほかには尊氏へ従う軍勢がほとんどいなくなった。
多々良浜へ着いた時には500人未満
尊氏が筑前国の多々良浜の港へ到着した時、軍勢は500人にも満たなかった。
打出・瀬川方面での戦いによって、矢はほとんど射尽くしていた。
馬や鎧も、兵庫や西宮から船へ乗る際に、ほとんど捨ててしまっていた。
泥の中の魚、追い詰められた鳥
兵たちは気力を失い、軍勢としての力も尽きていた。
その姿は、車輪の跡に残った泥の中で、苦しそうに口を動かす魚のようだった。
また追い詰められ、人の懐へ飛び込んで助かろうとする鳥のようでもあった。
知らない土地で身を寄せる
尊氏一行は、知らない土地で宿を求めた。
これまで親しくなかった人々を頼り、その家へ身を寄せた。
朝になっても食べ物がなく、飢えと渇きに苦しんだ。
夜に目を覚ませば、辺りは青々と暗く、心細さが増すばかりだった。
明日の命さえ分からない
兵たちは思った。
「いつの日、どのような敵の手へかかり、命を失うのだろう。
魂は故郷を離れたままさまよい、骨は異国の地へさらされる。
この世の果てで、故郷を思う亡霊になるのではないか」
明日の命さえ頼りにできない。
誰もが生きる望みを失い、暗い気持ちになっていた。
宗像大宮司が館へ招く
その時、宗像大宮司が尊氏のもとへ使者を送った。
使者は申し上げた。
「現在おいでになる場所は、あまりにも狭く、軍勢を泊める宿もございません。
粗末な屋敷ではございますが、どうか私の館へお入りください。
しばらく旅の苦しみをお休めになり、九州各国へ命令書を出して、軍勢をお集めください」
尊氏は申し出を受け、すぐに宗像大宮司の館へ入った。
少弐妙恵へ援助を求める
翌日、足利尊氏は少弐貞経(入道名・妙恵)へ使者を送った。
使者には、
- 南遠江守宗継
- 豊田弥三郎光顕
の2人を選んだ。
尊氏は、
「どうか我々を助けてほしい」
と伝えさせた。
少弐頼尚が300騎で参上する
少弐妙恵は、少しもためらわなかった。
嫡男の少弐太郎頼尚に、若い武士300騎をつけた。
そして尊氏のもとへ向かわせた。
九州へ落ち延び、滅亡寸前となっていた尊氏は、こうして最初の援軍を得たのである。
126. 少弐・菊池の戦い――宗応蔵主の忠節
菊池武俊が少弐軍を待ち伏せる
建武3年(1336年)、『太平記』本文では菊池掃部助武俊と記される人物が、以前から後醍醐天皇方として肥後国にいた。一般的な歴史資料では、この時期に少弐氏と戦い、多々良浜で足利尊氏を迎え撃った菊池方の中心人物は菊池武敏とされる。以下では原文との対応を保つため、本文どおり「武俊」と表記する。
武俊は、
「少弐氏が足利尊氏方へ加わった」
と聞いた。
そこで尊氏のもとへ向かう少弐軍を、途中で討ち散らそうと考えた。
3000騎余りを率い、水城の渡しへ向かった。
少弐頼尚は待ち伏せを知らない
少弐太郎頼尚は、菊池軍が待ち構えているとは、夢にも思っていなかった。
軍勢を小船7艘へ乗せ、川を渡り始めた。
頼尚自身は、最初の船で向こう岸へ到着した。
しかし畦籠豊前守らは、まだ手前の岸に残っていた。
彼らは船が戻ってくるのを待っていた。
菊池軍が三方から攻める
そこへ菊池軍3000騎余りが、三方向から押し寄せた。
少弐軍を川の中へ追い落とし、1人残らず討とうとした。
畦籠豊前守の兵は、わずか150騎だった。
150騎が全滅する
畦籠らは、
「どうせ逃げることのできない場所である」
と覚悟を決めた。
菊池軍の大勢の中へ、一筋に突入した。
そして150騎は、1人も残らず討ち死にした。
頼尚は対岸から見守るしかない
頼尚は、川の向こう岸から一族や若い家臣たちが包囲される姿を見ていた。
しかし間には大河があり、船がなければ渡ることができない。
頼りにしていた者たちが討たれていくのを、ただ見ているほかなかった。
その心の内は、無念でやりきれないものだった。
船が戻らず、尊氏のもとへ向かう
周囲に船は1艘も見えなくなった。
頼尚は怒りを胸へ押し込み、そのまま尊氏のもとへ参上した。
菊池軍が内山城へ向かう
菊池武俊は最初の戦いに勝ち、
「出陣の門出から、めでたい勝利を得た」
と喜んだ。
そのまま軍勢を率い、少弐妙恵が立てこもる内山城へ攻め寄せた。
内山城には300人もいない
少弐家の主だった兵は、ほとんど頼尚につけられていた。
その軍勢の多くも、水城の渡しで討たれてしまった。
城に残る兵は300人にも満たなかった。
菊池軍の大勢に勝てるとは思えなかった。
険しい城を守り続ける
それでも内山城は、たいへん険しい場所に築かれていた。
城兵は切り立った崖の下に敵を見下ろしながら防戦した。
戦いは数日間に及んだ。
菊池軍は新しい兵を次々と入れ替え、昼も夜も四方から攻めた。
しかし城兵は1人も討たれず、矢もまだ尽きなかった。
城内では、
「どれほど攻められても、この城は落ちないだろう」
と思うようになった。
少弐一族が突然寝返る
ところが少弐一族の者たちが、突然心を変えた。
彼らは城を攻める側へ移り、新田氏の中黒の旗を掲げた。
そして妙恵へ伝えた。
「我々には考えるところがあり、朝廷方へ加わることにしました。
あなたもご同意なさいませんか」
妙恵は返答せず自害する
少弐貞経(妙恵)は一言も返事をしなかった。
ただ、こう言った。
「たとえ生き残っても、義を失うのであれば、死んで名を残す方がよい」
妙恵は持仏堂へ走り込み、腹を切って倒れた。
家臣100人余りも後を追う
家臣100人余りも仏堂の広い床へ並んで座った。
全員が同時に声を上げ、一斉に腹を切った。
その叫び声は天まで響き、仏教でいう最も高い天界の一つ、非想非非想天(ひそうひひそうてん)にまで届くのではないかと思われるほどだった。『太平記』本文では「悲想悲々想天」と記されている。
宗応蔵主が父を火葬する
少弐貞経(妙恵)の末の子に、宗応蔵主という僧がいた。
宗応は、蔀や引き戸を踏み壊して薪とした。
そして父の遺体を火葬した。
宗応が唱えた最期の言葉
宗応は、静かに火葬の作法を行いながら、次のような言葉を唱えた。
果てしなく青い空に、風は高く、月は明るい。
慧公の行脚とは、いかなるものであろうか。
白刃を踏み越え、身を翻して進むことである。
激しい炎が重ねて焼き、ただ一つの清らかな境地を残す。
死や刃を恐れず、炎によって迷いを焼き尽くし、清らかな悟りへ入るという意味だった。
宗応も炎の中へ入る
宗応は父を焼く炎の中へ、自ら飛び込んだ。
そして父や一族と同じく、死を選んだ。
こうして『太平記』は、少弐貞経(妙恵)とその一族が内山城で壮絶な最期を迎えたと語る。
127. 多々良浜の戦い――高重茂(高駿河守)の先例
菊池軍が多々良浜へ進む
『太平記』では、少弐貞経(妙恵)の内山城が攻め落とされ、一族や家臣165人が同じ場所で命を失ったと語る。
菊池武俊の軍勢は、さらに大きくなった。
菊池軍は、そのまま多々良浜へ攻め寄せた。一般的な歴史資料では、この多々良浜の戦いは建武3年(1336年)3月2日に行われ、菊池方の中心人物は菊池武敏とされる。『太平記』本文では「武俊」と記されるため、ここでは本文との対応を保っている。
尊氏軍はわずか300騎
足利尊氏は香椎宮へ入り、はるかに菊池軍を眺めた。
『太平記』によれば、敵は4万、5万騎にも見えたという。
これに対し、尊氏方はわずか300騎ほどだった。
しかも半数は馬へ乗っておらず、鎧さえ身につけていなかった。
尊氏は自害しようとする
尊氏は言った。
「この兵力で、あの大軍と戦うことは、小さな虫が大木を動かそうとし、カマキリが走る車を止めようとするのと同じである。
無理に戦い、名もない敵の手へかかるくらいならば、ここで腹を切ろう」
直義が尊氏を止める
弟の足利直義は、強くいさめた。
「合戦の勝敗は、必ずしも兵の多少だけで決まるものではありません。
中国で漢の高祖が項羽の包囲から逃れた時には、わずか28騎となっていました。
それでも最後には項羽の100万騎を破り、天下を治めました」
源頼朝の7騎の例
直義はさらに言った。
「日本でも源頼朝公が、土肥の杉山の戦いに敗れ、倒木の中へ隠れた時には、わずか7騎しか残っていませんでした。
それでも最後には平氏一門を滅ぼし、その子孫は長く武家の大将となりました」
命を惜しんだのではなく、天運を信じた
「28騎で100万騎の包囲を抜け、7騎で倒木の下へ隠れたのは、臆病で命を捨てられなかったからではありません。
自分たちの天運が、まだ尽きていないと信じたからです」
300騎は1騎当千の勇士
「敵軍は確かに雲や霞のような大軍です。
しかし味方の300騎余りは、これまで苦難をともにし、我々の最後を見届けようとしている、1騎で1000人に当たる勇士です。
この300騎が心を一つにすれば、敵を追い払えないはずがありません。
決して自害なさってはなりません。
まず直義が敵へ向かい、一戦してまいります」
直義はそう言い残し、香椎宮を出発した。
250騎が大軍へ向かう
直義へ従ったのは、
- 仁木義長
- 細川顕氏
- 高師重
- 大高重成
- 南宗継
- 上杉重能
- 畠山国清
- 大友氏
- 島津氏
- 曾我氏
- 白石氏
- 八木岡氏
- 相庭氏
らだった。
軍勢は合わせて250騎だった。
彼らは3万騎余りの敵へ向かい、自分の命を塵やごみのように軽く考えていた。
その覚悟は、まことに見事なものだった。
カラスが杉の葉を落とす
直義が旗を下ろし、香椎宮の社殿前を通り過ぎようとした時だった。
一羽のカラスが杉の葉を1枝くわえ、直義の兜の上へ落とした。
直義は馬から降りた。
「これは香椎宮が我々を守ってくださる吉兆である」
と礼拝し、杉の枝を鎧の射向の袖へ挿した。
大高重成が引き返す
敵味方が近づき、今にも鬨の声を上げようとした時、大高伊予守重成が言った。
「将軍の本陣が、あまりにも小勢です。
私は将軍のもとへ戻ります」
大高は引き返した。
直義が大高を臆病者と罵る
直義はこれを見ると、あざ笑った。
「最初から残るというならば、まだ分かる。
敵を見てから引き返すとは、臆病の極みである。
大高の5尺6寸(約1.7m)の体から5尺(約1.5m)を切り捨て、残った6寸(約18cm)を剃刀にでもしてしまえ」
大高の大きな体に似合わぬ臆病さを、激しく皮肉ったのである。
菊池軍が矢合わせを行う
菊池武俊は5000騎余りを率い、浜の西から近づいた。
まず戦いの開始を告げる鏑矢を射た。
直義軍は1本の矢も射返さなかった。
静かに敵の動きを見守り、隙ができれば直接斬り込もうとしていた。
不思議な白羽の鏑矢
その時、誰が射たのか分からない、白い羽の鏑矢が飛んだ。
矢は菊池軍の上空で大きな音を響かせた。
しかし、どこへ落ちたのかは見えなかった。
直義の兵たちは、
「これは普通の出来事ではない。
神が我々を助けるしるしだ」
と心強く思い、勇気を奮い立たせた。
菊池方の武者が1騎で先駆けする
両軍が向かい合い、まだ武器を交えていない時だった。
菊池方から1人の武者が、味方より3町余り(約330m)も先へ出てきた。
黄河原毛の馬へ乗り、火威の鎧を身につけていた。
ただ1騎で先駆けしたのである。
徒歩の3人が武者を討つ
足利方の先頭には、
- 曾我左衛門
- 白石彦太郎
- 八木岡五郎
の3人がいた。
3人とも馬も鎧も持っていなかった。
白石が敵へ近づき、馬から引き落とそうとした。
敵は太刀を捨て、腰の刀を抜こうと体を反らしたが、そのまま真っ逆さまに落馬した。
白石は起き上がらせず押さえつけ、首を取った。
3人が馬・鎧・首を分ける
敵の馬には曾我が走り寄り、すぐに乗った。
鎧は八木岡が剥ぎ取り、自分で着た。
白石の手柄によって、ほかの2人も利益を得た。
3人は、そのまま敵軍の中へ攻め込んだ。
仁木・細川らも敵中へ入る
仁木・細川氏らは、
「味方を討たせるな。続け!」
と叫び、大軍の中へ突入した。
敵味方は激しく入り乱れて戦った。
仁木越後守の奮戦
仁木越後守は、近づいた敵5騎を斬り落とした。
さらに6騎へ傷を負わせた。
それでも敵中にとどまり、曲がった太刀を足で踏んで直しては、再び斬り合った。
命の続く限り戦う姿だった。
150騎が3000騎を押し返す
足利方150騎が、一団となって敵の堅い陣を破った。
菊池軍は足利軍の百倍ほどの兵力だった。
それでも、わずかな小勢に攻め立てられ、第一陣3000騎余りが、多々良浜の遠い干潟を20町余り(約2.2km)も退いた。
松浦・神田軍が足利軍を大軍と見誤る
菊池軍の背後へ回っていた松浦・神田氏らは、尊氏軍が300騎にも満たないことを知らなかった。
彼らには足利軍が2万、3万騎の大軍に見えた。
さらに浜へ打ち寄せる波の音まで、敵の鬨の声に聞こえた。
戦わずに降伏する
松浦・神田軍は突然、
「これでは勝てない」
と思った。
1度も戦うことなく旗を巻き、兜を脱いで、尊氏へ降伏した。
菊池軍が肥後へ退く
菊池武俊はこれを見ると、ますます不利になったと考えた。
「足利の大軍が攻めかかる前に退こう」
と、急いで肥後国へ引き返した。
菊池氏の城を攻める
尊氏はすぐに、
- 一色太郎入道道献
- 仁木義長
を派遣し、菊池氏の城を攻めさせた。
菊池方は1日も持ちこたえられず、深い山中へ逃げ込んだ。
足利軍は、そのまま肥後国八代城を攻め、内河彦三郎を追い払った。
阿蘇・秋月氏らの滅亡
阿蘇大宮司八郎惟直は、多々良浜の戦いで深手を負っていた。
その後、肥前国小杵山で自害した。
弟の九郎は見知らぬ里をさまよい、身分の低い農民に捕らえられた。
秋月備前守は大宰府まで退いたが、一族20人余りとともに討たれた。
彼らはいずれも一方面を任されるほどの大将であり、九州で尊氏の強敵となる可能性のある者だった。
しかし時運がまだ彼らへ味方しなかったため、皆、滅びたのである。
九州の諸勢力が尊氏へ傾く
『太平記』は、この勝利の後、九州9か国と壱岐・対馬の2島で、尊氏へ従わない者はほとんどいなくなったと語る。
これは菊池武俊の失敗だけが原因ではなく、直義の策略だけによるものでもなかった。
尊氏が天下の主となるべき過去からの善い因縁が働き、神々がその力を加えたため、思いがけない勝利を得たのだと『太平記』は語る。
尊氏は降伏者を警戒する
尊氏は高氏・上杉氏らへ言った。
「言葉では相手を骨まで溶かすほど喜ばせながら、笑顔の裏で刀を研ぐ。
それが今の人間の心である。
少弐一族は長年の恩を受けた者たちだった。
それでも少弐妙恵を攻めた者は、そう遠い一族ではなかった。
松浦・神田氏が、何の隠れた考えもなく、一戦もしないまま降伏したとは思えない。
信仰が真実である時、不思議な神の助けが現れることはある。
我々の小勢を大軍と見たという話も、まったく疑いがないとはいえない。
皆、決して油断してはならない」
高重茂(高駿河守)が中国の故事を語る
遠く末席にいた高重茂(高駿河守)が進み出た。原文は姓名ではなく「高駿河守」と官職名で記している。
「確かに人の心は、天より高く、地より厚く、測ることが難しいといいます。
しかし、このような大事において、あまりにも人を疑っていては、どうして速やかに大功を立てられるでしょうか。
また味方の兵が大軍に見えたという出来事も、過去に例がないわけではありません」
唐の潼関に現れた十万の神兵
高重茂は、中国の例を挙げた。
「唐の玄宗皇帝の将軍・哥舒翰が、安禄山方の崔乾祐と潼関で戦った時のことです。
黄色い旗を掲げた10万騎余りの軍勢が、突然官軍の陣へ現れました。
崔乾祐は敵の大軍だと思い、兵を退かせ、四方へ逃げ散りました」
石像が神兵となって戦う
「勝利を祝うため勅使が祖先の廟へ参ると、そこへ並べられた石の人形の両足には泥がつき、全身へ矢が刺さっていました。
そこで黄色い旗の10万騎は、王朝の祖先神が官軍の姿へ変わり、反乱軍を退けたものだと分かりました」
天武天皇を助けた2万騎
高重茂は日本の例も語った。
「天武天皇と大友皇子が天下を争った時、備中国の二万郷という場所で、両軍が決戦を迎えました。
天武天皇の軍勢は、わずか300騎余りでした。
大友皇子の軍は1万騎余りで、兵数では戦いにならないほどでした」
どこからともなく現れた援軍
「その時、どこから来たのか分からない、見事に整った兵2万騎余りが天武天皇方へ現れました。
そして大友皇子の軍を四方へ追い散らしました。
この出来事から、その土地が「2万里」と呼ばれるようになったといいます」
※「2万里」について:ここでは距離を示しているのではなく、『太平記』が語る地名の由来説話である。そのためkmへは換算しない。
尊氏の武運は天にかなっている
高重茂は、
「今回、尊氏方が大軍に見えたのも、神々が軍勢の姿となってお助けくださったからでしょう。
足利将軍の武運は、天の御心にかなっております」
と申し上げた。
尊氏をはじめ、その場にいた人々は皆、この言葉を聞いて喜びの笑みを浮かべた。
128. 西国の蜂起――官軍の進発
尊氏が九州へ退いた直後
建武3年(1336年)2月、足利尊氏が九州へ落ち延びた時、四国・西国の足利方は気力を失い、進退に迷っていた。
ある者は山林へ隠れた。
ある者は縁故のある者を頼った。
多くの者が新田義貞へ降伏し、その命令書を受けようとしていた。
義貞がすぐ西国へ下れば
『太平記』は、
「この時、義貞が速やかに西国へ向かっていれば、1人も降伏しない者はいなかっただろう」
と述べる。
足利方の勢力は、それほど弱っていたのである。
勾当内侍との別れを惜しむ
ところが義貞は、当時天下第一の美女といわれた勾当内侍を、宮中から与えられていた。
義貞は、わずかな期間でも勾当内侍と別れることを悲しんだ。
そのため西国への出陣を、3月末まで延ばしてしまった。
傾城・傾国の美女
『太平記』は、この出来事について、
「まことに、美女が城を傾け、国を傾けるという言葉の証明である」
と厳しく批判している。
※この評価について:これは『太平記』の価値判断である。出陣の遅れや戦局の変化を、勾当内侍という女性個人の責任としてそのまま史実上の因果関係に置き換える必要はない。
義貞が出陣を遅らせた間に、足利方は各地で体勢を立て直した。
丹波国の高山寺城
丹波国では、
- 久下氏
- 長沢氏
- 荻野氏
- 波々伯部氏
らが、仁木左京大夫頼章を大将とした。
彼らは高山寺城へ立てこもった。
赤松円心の白旗峰城
播磨国では、赤松入道円心が白旗峰を城として整えた。
そして京都から下ってくる朝廷軍を防ごうとした。
美作国の城
美作国では、
- 菅家氏
- 江見氏
- 弘戸氏
らが、那岐能山と菩提寺に城を築いた。
そして国中の土地を奪い、自分たちの支配下へ置いた。
備前国の二城
備前国では、
- 田井氏
- 飽浦氏
- 内藤氏
- 頓宮氏
- 松田氏
- 福林寺氏
らが、石橋左衛門佐を大将とした。
甲斐川と三石の2か所に城を築き、海路と陸路の両方を防ごうとした。
備中国の勢山
備中国では、
- 庄氏
- 真壁氏
- 陶山氏
- 成合氏
- 新見氏
- 多地部氏
らが、勢山の道を切りふさいだ。
鳥さえ飛び越えられないような、厳しい防御を整えた。
西国全体が尊氏へ従う
これより西の、
- 備後国
- 安芸国
- 周防国
- 長門国
については、いうまでもなかった。
四国と九州も、尊氏へ味方しなければ自分たちが滅ぼされる状況となった。
本心では足利方へ味方する気のなかった者まで、尊氏へ従った。
尊氏の勢力に従わない者は、ほとんどいなくなった。
京都へ相次ぐ反乱の報告
各地で城が築かれ、西国の国々が一斉に蜂起したという知らせが、次々と京都へ届いた。
朝廷は考えた。
「まず東国まで敵に回してしまっては、天下を保つことができない」
北畠顕家を奥州へ戻す
そこで北畠源中納言顕家を、鎮守府将軍へ任命した。
そして再び奥州へ下した。
顕家に東国を押さえさせ、尊氏に味方する勢力が東北で広がるのを防ごうとしたのである。
義貞に16か国の支配を認める
新田左近衛中将義貞には、16か国を支配する権限が認められた。
さらに、
「足利尊氏を追討せよ」
という宣旨が下された。
義貞が発熱する
義貞は天皇の命令を受け、いよいよ西国へ出発しようとした。
ところが瘧病のような、発熱と悪寒を繰り返す病気にかかった。
すぐに自ら出陣することができなかった。
江田・大館軍を先に送る
義貞は、まず、
- 江田兵部大輔行義
- 大館左馬助氏明
の2人を播磨国へ派遣した。
軍勢は2000騎余りだった。
建武3年(1336年)3月4日に京都を出発し、同月6日に書写坂本へ到着した。
赤松円心が先手を打つ
赤松円心は、この知らせを聞いた。
「敵に足を休ませ、陣を整えさせてはならない」
と考えた。
備前・播磨両国の軍勢を合わせ、書写坂本へ攻め寄せた。
室山で両軍が戦う
江田・大館軍は室山へ進み、赤松軍を迎え撃った。
両軍は激しく戦った。
しかし赤松軍は勝利を得ることができなかった。
官軍が戦いを有利に進めた。
官軍は勝利を京都へ報告する
江田・大館は勝利によって自信を得た。
「西国の足利方を討つことは、容易である」
と考えた。
そして何度も早馬の書状を京都へ送り、戦いに勝ったことを報告した。
しかしこの小さな勝利の背後では、赤松円心をはじめとする足利方が、各地の城へ立てこもり、尊氏の九州からの再上洛を支える準備を進めていたのである。
129. 新田義貞、播磨の赤松円心を攻める
義貞、病から回復して西国へ向かう
建武3年(1336年)春、新田義貞(左近衛中将)は病気が回復すると、『太平記』によれば5万騎余りを率いて西国へ向かった。
後続の軍勢が追いつき、全軍の態勢が整うのを待つため、播磨国の加古川に4、5日ほど滞在した。
そこへ、
- 宇都宮治部大輔公綱
- 紀伊常陸守
- 菊池次郎武季
らが、3000騎余りを率いて到着した。
さらに摂津・播磨・丹波・丹後の武士たちも、それぞれ義貞のもとへ駆けつけた。
『太平記』本文では、軍勢は間もなく6万騎余りとなった。
赤松円心の城へ向かう
義貞は言った。
「それならば、すぐに赤松円心の城へ攻め寄せよう」
官軍は播磨国斑鳩の宿まで進んだ。
赤松円心からの和睦の申し入れ
赤松入道円心は、小寺藤兵衛尉を使者として義貞のもとへ送り、次のように申し入れた。
「円心は取るに足りない身ではありますが、元弘の乱の初めに大敵へ立ち向かい、朝廷へ逆らう者たちを打ち破りました。
自分では、それが第一の忠節であったと思っております」
恩賞への不満を訴える
円心は続けた。
「ところが私に与えられた恩賞は、戦わずに降伏した者よりも、さらに少ないものでございました。
そのため一時の恨みによって、それまで積み重ねてきた多くの功績を捨て、足利方へついてしまいました」
護良親王の恩は忘れていない
「しかし護良親王から受けたご恩は、生まれ変わっても忘れることができません。
本心から朝廷の敵へ味方したわけではございません。
播磨国の守護職を認める綸旨に、義貞殿からの書状を添えてお下しくださるならば、以前のように朝廷方へ戻り、忠節を尽くします」
義貞が朝廷へ綸旨を求める
義貞は申し入れを聞いて言った。
「その程度の願いならば、問題はないだろう」
すぐに京都へ使者を送り、円心を播磨守護へ任命する綸旨を出すよう求めた。
円心は10日間で城を完成させる
使者が京都と播磨を往復する間に、10日余りが過ぎた。
円心は、その時間を利用して城の防御を完全に整えた。
そして綸旨が届くと、嘲るように言った。
「播磨国の守護職も国司職も、すでに足利将軍から与えられている。
手のひらを返すように方針を変える朝廷の綸旨を、どうして受けなければならないのか」
円心は和睦の申し入れを取り消し、綸旨を送り返した。
義貞が激怒する
義貞はこれを聞いて怒った。
「天皇のために行う戦いを、弱気に進めてはならない。
たとえ不満を理由として朝敵になったとしても、天の下に生きながら、天皇の命令を欺いてよいものか。
それならば、ここで何か月を過ごすことになっても、円心の城を攻め落とすまでは先へ進まない」
白旗城を幾重にも包囲する
『太平記』本文では、新田義貞は6万騎余りを率い、赤松円心が立てこもる白旗城を、百重、千重に取り囲んだ。
そして昼も夜も休むことなく、50日余りにわたって攻め続けた。
白旗城の堅い守り
しかし白旗城は、四方すべてが険しい地形に囲まれていた。
人が登ることのできる道はほとんどなかった。
水や食糧も十分に蓄えられていた。
さらに播磨・美作で名を知られた弓の名人が、800人余りも城内へ入っていた。
官軍がどれほど攻めても、負傷し、討たれるのは攻め手ばかりだった。
城内には、ほとんど損害がなかった。
脇屋義助が金剛山攻めの失敗を挙げる
脇屋義助は、この状況を見ると義貞へ申し上げた。
「以前、楠木正成が立てこもった金剛山の城を、日本全国の幕府軍が攻め落とせませんでした。
その結果、鎌倉幕府は天下を失いました。
これは先の幕府にとって、大きな後悔となった出来事ではありませんか」
一つの小城へ時間を使う危険
義助は続けた。
「わずか一つの小城へかかりきりになり、むやみに日数を費やせば、味方の軍勢は食糧を失って疲れます。
一方、敵の城は時間がたつほど、ますます守りを固めるでしょう」
尊氏の再上洛が迫っている
「そのうえ尊氏は、すでに九州9か国を平定し、京都へ向かっていると聞きます。
尊氏が近づく前に、備前・備中を平定しなければなりません。
さらに安芸・周防・長門の軍勢を味方へ加えなければ、非常に大きな危機となるでしょう」
一部を残し、山陽道を先へ進む
「ただし、これまで攻め続けた城を落とさずに全軍が退けば、天下の笑いものとなります。
そこで白旗城を攻める兵を一部だけ残し、残る軍勢を船坂へ向かわせてはいかがでしょうか。
まず山陽道の道を開き、中国地方の武士を味方へ加え、そのまま九州へ攻め下るべきです」
義貞が義助の意見を受け入れる
義貞は言った。
「その意見がもっともである」
『太平記』本文では、すぐに宇都宮・菊池氏の軍勢を選び、伊東大和守と頓宮六郎を道案内として、2万騎余りを船坂山へ向かわせた。
山陽道第一の難所・船坂山
船坂山は、山陽道で第一の難所だった。
道の両側には高い峰がそびえ、その間に1本の細い道だけが通っていた。
谷は深く、石は滑りやすかった。
羊の腸のように曲がりくねる山道を、20町余り(約2.2km)も登らなければならなかった。
山中には雲や霧が深く立ち込めていた。
1人で守っても大軍を防げる道
1人の勇士が関門へ立てば、何万人もの軍勢であっても通過することが難しい地形だった。
そのうえ敵は岩を削って細い橋を架け、大木を倒して逆茂木としていた。
どれほどの大軍であっても、正面から突破できるとは思えなかった。
菊池・宇都宮軍も進めない
勇猛で知られた菊池・宇都宮軍でさえ、山の麓へ陣を置いたまま、前へ進むことができなかった。
道案内として頼りにされた伊東・頓宮氏の者たちも、険しい山を見上げるだけで、むなしく日を過ごしたのである。
130. 児島高徳、熊山で挙兵――船坂の戦い
山中に潜んでいた児島高徳
備前国の住人・児島高徳(三郎)は、建武2年(1335年)の冬、細川定禅が四国から京都へ攻め上った時、備前・備中で何度も戦い、敗れていた。
その後は山林へ身を隠していた。
高徳は、中国の越王勾践が会稽の敗北の恥をすすいだように、自分も敗戦の恥を晴らそうと考えていた。
そして新田義貞が西国へ下るのを待っていた。
船坂山を越えられないと聞く
やがて、
「官軍が船坂山の要害を越えられずにいる」
という知らせを聞いた。
高徳は、ひそかに義貞のもとへ使者を送り、次のように申し上げた。
熊山で挙兵する計画
「官軍が船坂山から備前へ入ろうとしているという話が本当であれば、あの要害を正面から破ることは難しいでしょう。
私は来る18日、備前国の熊山で義兵を挙げます」
敵を熊山へ引きつける
「そうすれば船坂・三石を守る敵は、必ず熊山へ攻め寄せるでしょう。
敵の兵が減った隙を見て、官軍を二手に分けてください」
正面の陽動と山道からの迂回
「一隊は船坂へ向かい、今にも攻め込むように見せて、敵を引きつけてください。
もう一隊は、三石山の南側にある、木こりだけが通う細道をひそかに回ってください。
そして三石宿の西側へ出れば、船坂を守る敵は前後から包囲され、退く場所を失うでしょう」
船坂が破れれば西国は官軍へつく
「私が国中で旗を挙げ、船坂を最初に破ることができれば、西国の武士で官軍へ味方しない者はいなくなるでしょう。
どうか、この合図に合わせて戦ってください」
義貞は大いに喜ぶ
当時、播磨国から長門国まで、ほとんどすべてが足利方の支配下にあった。
官軍へ土地の様子を知らせる者もいなかった。
そのような中で高徳の使者が現れ、詳しい作戦を伝えた。
義貞は、たいへん喜んだ。
すぐに挙兵と攻撃の日を決め、使者を備前国へ帰した。
高徳、自分の館を焼いて出発する
使者が戻り、合図の日を伝えた。
建武3年(1336年)4月17日の夜中ごろ、児島高徳は自分の館へ火を放った。
そして、わずか25騎で出発した。
近隣の一族が駆けつける
遠く離れた土地にいる一族へは、事態が急であったため連絡できなかった。
しかし近くの親類へ事情を知らせると、
- 今木氏
- 大富氏
- 和田氏
- 射越氏
- 原氏
- 松崎氏
らが、武器や装備を十分に整える暇もなく駆けつけた。
高徳の軍勢は200騎余りとなった。
夜中に熊山へ上る予定が遅れる
高徳は当初、夜中のうちに熊山へ登る予定だった。
山の四方へかがり火をたき、
「大軍が立てこもっている」
と敵へ思わせる計画だった。
ところが馬や鎧を整える騒ぎで時間が過ぎ、短い夏の夜は、すぐに明けてしまった。
それでも合図の時刻を変えるわけにはいかず、高徳軍は熊山へ登った。
船坂・三石軍が熊山へ向かう
高徳の予想どおり、船坂・三石の敵軍は熊山での挙兵を聞いた。
「国中に官軍が現れれば、重大な事態となる。
ほかのことはすべて後回しにして、まず熊山を攻めよ」
船坂・三石の兵から3000騎余りを分け、熊山へ向かわせた。
七つの道を少人数で守る
熊山は比叡山ほどの高さがあり、四方から7本の道が通じていた。
どの道も麓は少し険しいが、山頂は平らだった。
高徳は少ない兵を七つの道へ分け、各方面の敵を防がせた。
1日中戦い、わざと時間を稼ぐ
敵が攻め上れば、高徳軍は追い下ろした。
高徳軍が下れば、敵は再び攻め上った。
1日中この戦いを繰り返し、高徳はわざと時間を稼いだ。
石戸彦三郎が裏道から侵入する
夜になると、攻め手の中に石戸彦三郎という、熊山の地理に詳しい者がいた。
石戸は、誰も予想しなかった道から山へ忍び込んだ。
そして本堂の後ろにある峰で、突然鬨の声を上げた。
高徳は14、15騎しか残っていない
高徳は兵のほとんどを四方の山道へ配置していた。
本堂の庭に残っていたのは、わずか14、15騎だった。
それでも高徳は、石戸の200騎へ向かい、大声を上げて攻め込んだ。
両軍は火花を散らして戦った。
高徳が負傷し落馬する
深い山の木々に月の光が遮られ、辺りは暗かった。
敵の振るう太刀も、はっきりとは見えなかった。
高徳は兜の内側を突かれ、馬から逆さまに落ちた。
敵2騎が駆け寄り、高徳の首を取ろうとした。
甥たちが高徳を救う
そこへ高徳の甥である、
- 松崎彦四郎
- 和田四郎
が駆けつけた。
2人は敵を追い払い、高徳を馬へ乗せ、本堂の縁側へ下ろした。
高徳は意識を失う
高徳は兜の内側へ受けた傷が深かった。
さらに落馬した際、胸の鎧を強く踏まれたため、目がくらみ、意識を失っていた。
しばらくの間、死んだように動かなかった。
父・範長が厳しく叱る
父の備後守範長は、高徳の枕元へ近づき、厳しく言った。
「昔、鎌倉権五郎景政は左目を矢で射抜かれた。
それでも3日3晩、矢を抜かず、敵へ矢を射返したと伝えられている。
この程度の傷一つで弱り、死ぬことがあるものか。
それほど情けない心で、この大事を起こしたのか」
高徳が息を吹き返す
父に叱られると、高徳は突然意識を取り戻した。
そして言った。
「私を馬へ乗せてください。
もう1度戦い、敵を追い払います」
父は大いに喜んだ。
「これならば、もう死ぬことはないだろう。
さあ皆、ここにいる敵を追い散らそう」
17騎で200騎へ突入する
範長は、
- 今木太郎範秀
- その弟・次郎範仲
- 中西四郎範顕
- 和田四郎範氏
- 松崎彦四郎範家
ら、主従17騎で、石戸の200騎へまっすぐ攻め込んだ。
石戸は、敵がこれほどの小勢だとは気づかなかったのだろうか。
1度もまともに戦わず、南側の長坂を下り、福岡まで退いた。
その後、両軍は互いに陣を保ったまま、戦いを行わなかった。
官軍が三手に分かれる
約束した攻撃の日になると、脇屋義助が大将として梨原へ進んだ。
2万騎を三手に分けた。
第一隊は杉坂から美作へ
第一隊は江田兵部大輔を大将とし、2000騎余りで杉坂へ向かった。
菅家氏や南三郷の武士が守る陣を破り、美作国へ入るためである。
第二隊は船坂で敵を引きつける
第二隊は大井田式部大輔氏経を大将とした。
菊池・宇都宮氏の兵5000騎余りを船坂へ向かわせた。
ここで敵を引き止め、別働隊がひそかに背後へ回るための陽動だった。
第三隊は300騎の迂回部隊
第三隊は伊東大和守を道案内とし、
- 頓宮六郎
- 畑六郎左衛門
- 備前国目代の少納言範猷
- 由良新左衛門
- 小寺六郎
- 三津沢山城権守
らを選んだ。
わざと小勢だけを選び、300騎余りとした。
馬の音を消す工夫
兵たちは馬の轡の一部を紙で包んだ。
さらに馬が鳴かないよう、舌の付け根を結んだ。
敵に気づかれず、山道を進むためだった。
敵が知らない鹿道
杉坂越の北、三石の南に、鹿だけが通るような細い道があった。
敵はこの道を知らなかったのだろう。
道を掘り切って遮断することもなく、逆茂木1本さえ置いていなかった。
深い森と険しい山を越える
道には木々が深く茂っていた。
枝が行く手をふさぐ場所では、兵は馬から降りて引いた。
あまりにも急な下り坂で、足を止めることができない場所では、かえって馬へ乗り、勢いをつけて下った。
三時間ほどかけ、険しい山を越えた。
三石宿の西側へ出る
別働隊は、三石宿の西側へ出た。
城兵や船坂の軍勢は、遠くからこの部隊を見た。
しかし予想外の方角から現れたため、
「熊山へ向かっていた味方が戻ってきたのだろう」
と思い、まったく驚かなかった。
中黒の旗を掲げ、宿へ火を放つ
300騎余りは宿の東側にある夷社の前へ集まった。
そこで新田氏の中黒の旗を掲げた。
三石宿の東西へ火を放ち、一斉に鬨の声を上げた。
三石城は兵がいない
城内の主力は、すでに船坂へ送られていた。
三石に残っていた兵も、熊山へ向かっている最中だった。
城内には戦う兵が少なく、防ぐ方法もなかった。
船坂軍は前後から包囲される
船坂へ向かっていた敵は、正面と背後から官軍に挟まれた。
どうすることもできなくなり、馬や鎧を捨てた。
城へ連なる山の上へ、必死に逃げようとした。
100人余りが自害し、50人余りが捕らえられる
正面と背後の官軍は合図を合わせ、
「1人も逃すな」
と追撃した。
逃げ道を失った敵は、各所で追い詰められた。
100人余りが自害し、50人余りが生け捕りとなった。
美濃権介佐重の機転
備前国一宮の在庁官人に、美濃権介佐重という者がいた。
退く場所を失い、今にも腹を切ろうとした。
しかし突然、考えを変えた。
1度脱いだ鎧を再び着て、捨てていた馬へ乗った。
そして正面の官軍を押し分け、播磨方面へ通り抜けようとした。
官軍の案内役を装う
船坂から攻め込んでくる官軍が、
「何者だ」
と尋ねた。
佐重は答えた。
「私は官軍の別働隊を案内した者です。
合戦の様子を、詳しく新田殿へ報告しに向かうところです」
戦場にいた数万の官軍は、
「見事な働きだ」
と感心し、道を開けて通した。
総大将の前で降伏する
佐重は総大将の侍所を務める長浜の前へ進み、ひざまずいた。
「備前国の住人、美濃権介佐重でございます。
三石城から降伏に参りました」
総大将は、
「感心なことである」
と認め、佐重の名を軍勢の名簿へ加えた。
佐重は大勢を欺く機転によって、その日の命を助けたのである。
山陽道の各城へ官軍が進む
船坂が破られると、江田兵部大輔は3000騎余りで美作国へ入った。
那岐能山・菩提寺の二城を包囲した。
城兵は防ぐ方法を失い、馬や武具を捨て、城に続く山へ逃げ上った。
脇屋義助は5000騎余りで三石城を攻めた。
大井田氏経は2000騎余りで備中国へ入り、福山城へ陣を置いた。
官軍はついに、船坂山の難所を越え、中国地方へ進出したのである。
131. 尊氏、九州から上洛する――瑞夢
多々良浜勝利後、尊氏の勢力が広がる
建武3年(1336年)3月2日の多々良浜の戦いの後、『太平記』は、九州9か国で足利尊氏へ従わない者は1人もいないほどとなったと語る。
しかし中国地方には朝廷方の陣が各地に置かれ、上洛の道をふさいでいた。
東国も後醍醐天皇の支配へ従い、尊氏方と連絡を取る者は少なかった。
足利軍は再び上洛することを恐れる
九州の武士たちは、簡単に京都へ攻め上ることができるとは思わなかった。
尊氏が春に京都で敗北したことも、まだ記憶に新しかった。
兵たちは敗戦を恐れ、進んで上洛を主張しようとはしなかった。
赤松則祐らが九州へ来る
そこへ赤松円心の三男・則祐律師と、得平因幡守秀光が、播磨国から九州へ駆けつけた。
2人は尊氏へ申し上げた。
官軍は城攻めに疲れている
「京都から西国へ送られた官軍は、備中・備前・播磨・美作へ満ちています。
しかし彼らは各地の城を攻め落とすことができず、すでに気力を失い、食糧も尽きようとしています」
尊氏が大軍で来れば持ちこたえられない
「足利将軍が大軍を率いて上洛すると聞いただけで、官軍は1度も持ちこたえることができないでしょう。
今こそ、すぐに進発なさるべき時です」
白旗城が落ちれば西国の城も崩れる
「もし出発を遅らせ、白旗城が攻め落とされたならば、ほかの城も1日として持ちこたえられません。
播磨・美作・備前・備中の要害が、すべて官軍の城となった後では、何百万騎の軍勢があっても、京都へ進むことはできないでしょう」
項羽の背水の決戦を引く
「これは昔、趙王の国が秦軍に包囲された時、楚の項羽が船を沈め、釜や蒸し器を壊し、
『戦いに敗れれば、1人も生きて帰らない』
と兵へ覚悟させた決戦と同じです。
天下を取るか失うかは、この1度の出陣にかかっています」
2人は何一つ言い残さず、すべてを尊氏へ訴えた。
尊氏が上洛を決意する
尊氏は話を聞いて言った。
「確かに、その意見はもっともである。
それならば夜を日に継ぎ、急いで京都を目指そう。
ただし九州を何の備えもなく捨ててはならない」
九州の守りを仁木義長らへ任せる
尊氏は仁木義長を九州に残る軍の大将とした。
さらに大友氏と少弐氏を残し、九州の守りを任せた。
太宰府を出発する
建武3年(1336年)4月26日、足利尊氏は太宰府を出発した。
28日、順風を得て船の綱を解き、海へ出た。
5月1日、安芸国の厳島へ船を寄せた。
尊氏は厳島神社へ3日間こもり、戦勝を祈った。
賢俊が持明院統の院宣を届ける
厳島参籠の最終日、三宝院僧正賢俊が京都から到着した。
『太平記』では、三宝院僧正賢俊が「持明院殿」から出された院宣を足利尊氏へ渡したと語る。
尊氏の願いがかなう
尊氏は院宣をうやうやしく拝見した。
そして大いに喜んだ。
「箱と蓋がぴったり合うように、自分の願いと院宣の内容が一致した。
心の中で望んでいたことが、すでにかなった。
これからの戦いでは、負けることはないだろう」
尊氏は、自分が単なる朝敵として後醍醐天皇と戦うのではなく、持明院統の命令を受ける武将という立場を得たのである。
後伏見法皇の崩御
建武3年/延元元年(1336年)4月6日、持明院統の法皇は、持明院殿で亡くなっていた。
後に後伏見院と呼ばれる人物である。
『太平記』は、この院宣について、4月6日に持明院殿で崩御して後伏見院と称された法皇が、崩御前に出したものだったと説明する。
※院宣について:この箇所は『太平記』独自の説明を含む。『梅松論』を踏まえた一般的な歴史叙述では、三宝院賢俊が尊氏へ届けたのは光厳上皇の院宣とされる。後伏見院は建武3年/延元元年(1336年)4月6日に崩御している。ここでは『太平記』本文の記述を削らず、史料・一般的理解との違いが分かるようにした。
厳島を出発する
尊氏は厳島への奉幣を終えると、5月5日に島を出発した。
すると、
- 伊予
- 讃岐
- 安芸
- 周防
- 長門
の軍勢が、500艘余りの船で駆けつけた。
中国地方の武士も集まる
5月7日には、
- 備後
- 備中
- 出雲
- 石見
- 伯耆
の兵6000騎余りが加わった。
そのほかの国々の武士も、招かれていないのに集まり、攻められてもいないのに服従した。
その様子は、風が吹けば草木が一斉になびくのと変わらなかった。
陸路と海路へ軍を分ける
新田義貞軍は、すでに備中・備前・播磨・美作へ満ち、各地の城を攻めていると伝えられた。
そこで尊氏は、備後国鞆の浦から軍勢を二手に分けた。
直義は陸路を進む
弟の足利直義を陸路軍の大将とし、『太平記』によれば20万騎を与えた。
直義軍は山陽道を徒歩と騎馬で東へ向かった。
尊氏は大船団を率いる
尊氏は、
- 足利一族40人余り
- 高一族50人余り
- 上杉一族30人余り
- 外様の大名160人
を従えた。
『太平記』によれば、軍船7500艘余りを並べ、海上から東へ向かった。
鞆の浦を出る時に見た夢
本文では同月5日、尊氏が備後国鞆の浦を出発した時、不思議な出来事があったと記している。
尊氏が船の屋形の中で、しばらく眠った時のことだった。
観世音菩薩が船の舳先へ立つ
夢の中で、南の方角から、まばゆい光を放つ観世音菩薩が飛んできた。
観音は尊氏の船の舳先へ立った。
その周囲には、観音を守る二十八部衆がいた。
彼らはそれぞれ弓矢や武器を持ち、尊氏の船を守っているように見えた。
目覚めると山鳩がいた
尊氏が夢から覚めて見ると、一羽の山鳩が船の屋形の上に止まっていた。
尊氏は考えた。
「夢も山鳩も、観世音菩薩が守護の力を加え、これからの戦いで勝利を得ることを告げているのだ」
尊氏が自ら観音像を描く
尊氏は杉原紙を3枚用意させ、短冊ほどの幅に切らせた。
そして自ら観世音菩薩の姿を描いた。
その絵を、軍船の帆柱すべてへ貼らせた。
足利船団は、観音の加護を示す旗印を掲げ、東へ進んだのである。
海軍と陸軍が備前・備中へ到着する
海路を進んだ尊氏軍は、備前国の吹上へ到着した。
陸路を進んだ直義軍は、備中国の草壁荘へ到着した。
こうして九州で再起した尊氏軍は、陸と海の両方から、新田義貞軍のいる西国へ迫ったのである。
132. 備中福山の戦い
足利の大軍が迫る
建武3年(1336年)5月、備中国の福山城へ立てこもっていた官軍は、足利尊氏・足利直義の大軍が東へ進んでいるという知らせを聞いた。
兵たちは言った。
「この城は、まだ十分に防御を整えておりません。
このまま城へ残るにしても、別の土地へ移るにしても、あの大軍を防ぐことはできないでしょう」
大井田氏経、城に残って戦うことを決める
大井田氏経(式部大輔)は、しばらく考えた後に言った。『太平記』本文では姓を「大江田」と表記しているが、一般には大井田氏経とされる。
「合戦の勝敗は時の運によるとはいえ、こちらの小勢で敵の大軍と戦えば、負けない可能性は千に一つもないだろう。
しかし足利殿の上洛を防ぐため、国境を越えてここまで来た者が、
『敵が大軍だから』
という理由だけで、戦わずに逃げてよいものだろうか。
我々は前世から同じ行いを重ね、ここで一緒に死ぬ運命だったのかもしれない。
命を軽く見て名誉を重んじる者こそ、人と呼ばれるにふさわしい。
皆、ここで討ち死にし、名を子孫へ残そうではないか」
城兵は討ち死にを覚悟する
紀伊常陸守や合田氏らは、
「改めて申されるまでもありません」
と答えた。
全員が討ち死にを覚悟したため、かえって心の中は澄み渡り、迷いがなくなった。
福山城を囲む30万騎
建武3年(1336年)5月15日の夕方から、足利直義は、『太平記』によれば30万騎の軍勢で勢山を越えた。
福山城の麓から4、5里(中世の里程。現在のkmには単純換算しない)の範囲に、数100か所もの陣を置き、無数のかがり火をたいた。
この大軍を見れば、どのような鬼神が守る城であっても、
「今夜のうちに落ちないはずがない」
と思われるほどだった。
福山城の火は消えない
しかし福山城のかがり火は、少しも消えなかった。
城兵が今も持ちこたえていることは明らかだった。
夜が明けると、まず備前・備中の兵3000騎余りが押し寄せ、浅原峠から攻め上った。
城内は物音一つ立てない
それでも城内は、声を潜めたまま、まったく物音を立てなかった。
寄せ手は考えた。
「やはり城兵は、すでに逃げたのだろう。
鬨の声を上げ、敵が残っているか確かめよ」
3000騎余りの兵は盾をたたき、3度にわたって鬨の声を上げた。
太鼓と鬨の声が返ってくる
寄せ手が城へ近づき、坂を登ろうとした時だった。
城の東西にある木戸で太鼓が鳴り、一斉に鬨の声が上がった。
周囲へ陣取っていた足利軍は、これを聞いて言った。
「源氏の大将が立てこもる城である。
たとえ小勢でも、戦わずに逃げることはないと思っていた。
やはり、まだ持ちこたえている。
敵を侮り、最初の戦いで失敗してはならない。
四方を包囲し、同時に攻めよ」
諸国の軍勢が、それぞれ一方面を受け持ち、谷や峰から攻め上った。
木陰から矢を浴びせる城兵
城兵は、以前から覚悟を決めていた。
雲や霞のような大軍に囲まれても、少しも騒がなかった。
木陰へ隠れ、矢を惜しまず激しく射た。
寄せ手は稲や麻のように密集していたため、城兵の矢は1本も無駄にならず、必ず誰かへ当たった。
足利軍は、わざと矢を射返さない
足利軍は、城兵の矢を使い尽くさせようと考え、わざと矢を射返さなかった。
そのため城兵には、まだ1人も負傷者が出ていなかった。
大井田氏経はこれを見て言った。
「こちらの力が尽きないうちに城を出て、直義の陣へ一気に攻め込み、追い散らそう」
1000騎で城外へ打って出る
氏経は徒歩の兵500人余りを城内へ残した。
そして強い馬に乗る精鋭1000騎余りを率いた。
木戸を開かせ、逆茂木を取り除き、北側の尾根の中でも特に険しい場所から、鬨の声を上げて攻め出た。
2万騎を谷底へ追い落とす
その方面を攻めていた2万騎余りの足利軍は、上から攻め下る官軍に打ち崩された。
兵や馬は谷底へ駆け込み、折り重なるように倒れた。
氏経は、その軍勢には目もくれなかった。
二引両の旗へ突入する
氏経は東側の離れた尾根に、足利氏の二引両の旗を見つけた。
「あそこにいるのが直義に違いない」
氏経は2万騎余りが並ぶ敵陣へ突入し、長い時間戦った。
しかし、その部隊にも直義はいなかった。
1000騎が400騎となる
氏経は大軍の中を一気に駆け抜け、味方の兵を確認した。
1000騎余りいた精鋭のうち、500騎余りが討たれていた。
残る兵は、わずか400騎ほどとなっていた。
福山城へ敵が入る
遠く城の方角を見ると、すでに足利軍が入れ替わって占領していた。
櫓や盾へ火がつけられていた。
氏経は残った兵を1か所へ集め、言った。
「今日の戦いは、もうここまでだ。
一方を打ち破って備前国へ戻り、播磨・三石の官軍と合流しよう」
板倉川から唐皮まで戦い続ける
氏経軍は板倉の橋を東へ向かって退いた。
すると敵が2000騎、3000騎と各所へ現れ、道をふさぎ、氏経を討ち取ろうとした。
400騎余りの兵たちも、
「逃げ切れるかどうかは、この戦いにかかっている」
と覚悟していた。
近づく敵の中へ突入し、追い散らした。
板倉川付近から唐皮まで、10回余りにわたって戦った。
三石宿へ落ち延びる
官軍には大きな損害が出ず、氏経も無事だった。
一行は危険な包囲を脱し、5月18日の早朝、三石宿へ到着した。
直義が首実検を行う
足利直義は福山城の官軍を追い払うことができたため、
「上洛の最初の戦いから、よい結果となった」
と大いに喜んだ。
その日は唐皮宿へ滞在し、捕虜と戦死者の首を確認した。
その数は、千三百五十三と記録された。
吉備津宮へ願文だけを納める
直義は備中国の吉備津宮へ参詣しようと考えていた。
しかし合戦中であり、多くの死者へ触れた穢れを慎む必要があった。
そこで自ら参拝することはせず、願文だけを神前へ納めた。
翌日、直義が唐皮を出発すると、尊氏も船を出し、順風に帆を上げて東へ向かった。
脇屋義助から義貞へ急報が届く
5月18日の夕方、脇屋義助は三石から使者を立て、福山城の戦いの様子を詳しく新田義貞へ報告した。
使者はすぐに戻り、義貞の命令を義助へ伝えた。
西国の城攻めを捨てるよう命じる
義貞の命令は、およそ次のようなものだった。
「白旗城・三石城・菩提寺城を、まだ一つも攻め落としていない。
そのうえ尊氏・直義が大軍を率い、海路と陸路の両方から上っている。
陸路の敵を防ぐため、備前国で待ち受ければ、海路の敵が我々を避けて京都を攻めることは疑いない」
摂津まで退き、水陸両軍を迎え撃つ
「すぐに西国での戦いを打ち切り、摂津国付近まで退け。
海路と陸路の敵を1か所で待ち受け、京都を背後にして戦うべきである。
急いで山の里付近まで来て、義貞軍と合流せよ。
美作方面にも同じ命令を送った」
官軍が三石城を捨てる
この命令により、5月18日の夜中ごろ、官軍は三石の陣をすべて捨て、船坂山から退き始めた。
城兵が船坂山で退路をふさぐ
城内の足利方は勢いを得た。
船坂山へ出て官軍の進路をふさぎ、激しく矢を射た。
夕方の月は山陰へ隠れ、前後の様子がよく見えなかった。
親が討たれ、子が討たれても、兵たちは、
「一歩でも前へ進み、逃げ延びよう」
と必死だった。
原源五・源六が後陣を守る
菊池氏の若い家臣に、原源五・源六という名高い勇士がいた。
2人は、わざと軍の後ろへ下がった。
味方を安全に退かせるため、敵へ向かって防ぎ矢を射続けた。
矢を射尽くしても退かない
2人は持っていた矢をすべて射尽くした。
すると刀や長刀の鞘を外し、
「仲間がいるならば、引き返してくれ!」
と呼びかけた。
すでに遠くへ逃れていた菊池家の若党たちは、
「自分はここにいる!」
と名乗りながら戻ってきた。
数万の官軍が無事に退却する
城から追ってきた足利兵も、菊池の兵が次々と戻るのを見ると、さすがに近づくことができなかった。
離れた峰々へ立ち、鬨の声を上げるだけだった。
その間に数万の官軍は、1人も討たれることなく退却した。
大井田氏経も、その夜明けには山の里へ到着した。
児島高徳の父子も三石へ向かう
和田備後守範長と、その子・児島三郎高徳は、
「佐々木軍が船から上陸する」
と聞き、その進撃を防ぐため西川尻へ陣取っていた。
ところが福山城が落ちたという知らせが届いた。
2人は三石の官軍へ合流するため、夜になって三石へ駆けつけた。
脇屋軍はすでに撤退していた
三石で人へ尋ねると、
「脇屋殿は、夕方早くに播磨へ退かれました」
と答えた。
範長は、
「今から船坂を通ることはできない」
と判断した。
以前、官軍の別働隊が回った三石南方の山道を、手探りで1晩中越えた。
そして坂越の浦へ出た。
高徳の傷が悪化する
まだ夜が深かったため、そのまま休まず進めば、新田義貞軍へ簡単に追いつくことができただろう。
しかし高徳が以前の戦いで負った傷は、まだ治っていなかった。
馬に揺られたため、目がくらみ、意識が遠くなり、馬上にいられなくなった。
そこで坂越付近に知り合いの僧を見つけ、高徳を預けた。
その間に時刻が過ぎ、短い5月の夜は明けた。
赤松軍300騎が待ち伏せる
赤松円心は、
「この道を官軍の落人が通った」
と聞いた。
300騎余りを派遣し、名和付近で待ち伏せさせた。
範長は、わずか83騎で大道へ出ようとしていた。
「命が惜しければ降伏せよ」
山陰から赤松軍が現れ、呼びかけた。
「落人と見えるが、何者か。
命が惜しければ弓の弦を外し、鎧を脱いで降伏せよ」
範長はこれを聞き、からからと笑った。
範長は降伏を拒む
「聞いたこともない言葉だ。
降伏するのならば、九州から尊氏がさまざまな命令書を送り、味方になるよう誘った時に、とっくに降伏していただろう。
その命令書さえ引き裂き、火へくべた範長が、お前たちを相手に降伏を願うことなどできるものか。
鎧が欲しいのならば、取りに来い」
83騎が300騎を突破する
範長の83騎は鬨の声を上げ、300騎余りの赤松軍へ突入した。
敵12騎を斬り落とし、23騎へ傷を負わせた。
そして大軍の包囲を破り、海岸沿いの道を東へ逃れた。
赤松軍が周辺の農兵を集める
赤松軍は土地の地理に詳しかった。
追い散らされながらも先回りし、
「落人が通るぞ。
討ち止め、鎧を奪え」
と、周辺の村々へ知らせた。
そのため2、3里(中世の里程。現在のkmには単純換算しない)の範囲から、農兵2000、3000人が集まった。
山陰や田のあぜ道に並び、範長軍へ激しく矢を射た。
18度戦い、6騎となる
範長の若い家臣たちは、主君を逃がすため、前へ進んでは敵陣を破り、後ろへ下がっては討ち死にした。
十八付近から阿弥陀宿付近まで、18回も戦いながら進んだ。
しかし残った兵は、主従わずか6騎となった。
範長、辻堂で最期を決める
範長は、ある辻堂の前で馬を止め、家臣たちへ言った。
「せめて一族が一緒にいれば、播磨国中の敵を簡単に蹴散らして通ることができただろう。
しかし各方面へ分かれ、一族が1か所にいない。
どうやら範長が討たれる時が来たようだ」
念仏を唱えて自害する
「もう逃げられるとは思えない。
最後の念仏を心静かに唱え、腹を切ろう。
その間、敵が近づかないよう防いでくれ」
範長は馬から飛び降り、辻堂の中へ走り込んだ。
本尊へ向かって手を合わせ、200回、300回ほど大声で念仏を唱えた。
そして腹を横一文字に切った。
刀を口にくわえ、うつ伏せになって息絶えた。
4人の家臣も、続いて自害した。
和田範家は死んだふりをする
範長のいとこに、和田四郎範家という者がいた。
範家は、しばらく考えた。
「敵を1人でも道連れにしてこそ、後まで忠義が残る。
追ってくる敵が、赤松一族の子弟であるかもしれない。
それならば組みつき、刺し違えて死のう」
範家は刀を逆手に握り、兜を枕にした。
そして自害したように見せかけ、横たわった。
追手の大将は範家の親類だった
追手を率いていたのは、宇弥左衛門次郎重氏という人物だった。
重氏は和田氏の親類だった。
辻堂の庭へ馬を乗り入れ、死者の首を取ろうとした。
すると死者の袖につけられた笠印は、皆、新田方の下黒の紋だった。
重氏が涙を流す
重氏は太刀を投げ捨て、嘆いた。
「何ということだ。
誰かと思えば、児島・和田・今木の人々ではないか。
この方々だと早く知っていれば、命に代えても助けたものを」
重氏は涙を流しながら、その場へ立っていた。
範家が起き上がる
和田範家は、その声を聞いた。
「範家はここにいる」
と言って、突然起き上がった。
重氏は驚いたが、すぐに近寄り、
「どうしていたのだ」
と喜んだ。
83騎のうち1人だけが生き残る
重氏は範家を連れて帰り、その命を助けた。
範長の葬儀も丁重に行い、遺骨を故郷へ送り届けた。
83騎のうち、範家1人だけが助かった。
その運命は、何とも不思議なものだった。
133. 新田義貞、兵庫へ退く
加古川で後続軍を待つ
新田左近衛中将義貞は、備前・美作方面から退いてくる軍勢がそろうのを待つため、加古川の西側にある丘へ陣を置いた。
そこで2日間滞在した。
五月雨で川が増水する
折しも五月雨が降り続き、加古川の水は増していた。
諸将は口々に申し上げた。
「後ろから敵が追いついてくる可能性があります。
まず総大将と主だった方々だけでも、船で向こう岸へ渡ってください」
義貞は先に渡ることを拒む
義貞は答えた。
「そのようなことができるものか。
まだ全軍が渡らないうちに敵が攻めてくれば、かえって退く場所がなくなる。
全員が死を恐れず戦うには、都合がよいではないか。
韓信が川を背後にして陣を張ったのも、この考えによるものだ」
弱い馬と負傷者を先に渡す
「兵をすべて渡し終えた後、義貞が最後に渡ったとしても、何の問題があるだろう」
義貞は、まず弱った馬に乗る者や、負傷した兵たちを少しずつ川の向こう側へ渡した。
6万騎余りが川を渡る
その夜のうちに川の水位が下がった。
さらに備前・美作の軍勢も駆けつけた。
『太平記』本文では、官軍は馬をつないだ筏を作り、6万騎余りが同時に川を渡ったとする。
10万騎が2万騎未満となる
『太平記』本文では、ここまでは西国の武士たちが次々と加わり、官軍は10万騎を超えていたとする。
ところが、
「尊氏・直義兄弟が大軍を率いて東へ進んでいる」
という知らせが届いた。
すると兵たちは、いつの間にか次々と逃げ去った。
『太平記』本文では、建武3年(1336年)5月13日、新田義貞が兵庫へ到着した時には、残った兵は2万騎にも満たなかったとする。
※時間の流れ:前章では5月15日から18日の備中福山の戦いを先に描いている。この第133章は、そこから時間を少し戻し、5月13日に義貞が兵庫へ入った時点を語っている。
134. 楠木正成、兵庫へ下る
義貞が朝廷へ急報する
建武3年(1336年)5月、足利尊氏・足利直義兄弟が大軍を率いて京都を目指していた。
新田義貞は、守りやすい土地で防戦するため兵庫へ退いた。
義貞は早馬を京都へ送り、このことを後醍醐天皇へ報告した。
後醍醐天皇が楠木正成を召す
後醍醐天皇は大いに驚き、楠木正成を呼び出した。
そして命じた。
「急いで兵庫へ下り、義貞と力を合わせて足利軍と戦え」
正成は、うやうやしく命令を受けた。
しかし、そのうえで自分の考えを申し上げた。
正成は正面決戦に反対する
「尊氏は、すでに九州9か国の軍勢を率いて上洛しているとのことです。
その軍勢は、雲や霞のような大軍でしょう。
こちらの疲れた小勢をもって、勝利の勢いに乗る敵の大軍と普通の方法で戦えば、官軍が必ず敗れると思われます」
義貞を京都へ呼び戻すよう進言する
正成は続けた。
「新田義貞殿も、まず京都へ呼び戻してください。
天皇は以前のように、再び比叡山へ行幸なさるべきです。
正成は河内国へ戻り、畿内の軍勢を集めて河口をふさぎます」
京都を空城にして敵を疲れさせる策
「義貞殿は比叡山側から、正成は河内側から、京都を両面より攻めます。
敵の食糧輸送を断ち、飢えさせれば、足利軍は日を追うごとに疲れ、逃げ去るでしょう。
反対に官軍には、日がたつにつれて味方が集まります」
敵が弱ったところで攻める
「その時、義貞殿が比叡山から攻め寄せ、正成が背後から進めば、朝敵を1度の戦いで滅ぼすことができるでしょう。
義貞殿も、おそらく同じ考えをお持ちだと思います。
しかし道中で1度も戦わず退けば、
『何とも頼りない人物だ』
と人々から笑われることを恥じ、兵庫へとどまっておられるのでしょう」
最後に勝つことこそ重要である
「戦い方がどのようであっても、最後に勝利することこそ重要です。
どうか遠い将来まで見通して、朝廷の方針をお決めください」
「軍事は武士に任せるべきだ」
正成の意見を聞いた公卿たちは相談した。
「軍事については、実際に戦う武士の意見へ任せるべきではないか」
という意見も出た。
坊門清忠が正成の策に反対する
しかし坊門宰相清忠が、改めて申し上げた。
「正成の意見にも、確かに理由があります。
しかし朝敵を討つために派遣された節度使が、まだ一戦も行わないうちに京都を捨てる。
そのうえ1年のうちに2度も、天皇が比叡山へ避難される。
それは天皇の位を軽く扱うことに見えます。
また官軍として進むべき道を失うことにもなるでしょう」
「尊氏軍は以前より多くない」
清忠は続けた。
「尊氏が九州の兵を率いて上洛するとしても、建武2年(1335年)に東国8か国を従えて攻め上った時より、多いとは思われません。
これまで戦いが始まってから敵が敗れるまで、官軍は毎回小勢でした。
それでも大軍を打ち破れなかったことはありません」
朝廷の運を頼みとする
「これは軍略が優れていたからだけではありません。
天皇の運が天の御心にかなっているからです。
それならば京都の外で決戦し、敵を武力によって滅ぼすことに、何の問題があるでしょう。
時を移さず、楠木正成を兵庫へ向かわせるべきです」
正成は出陣命令を受け入れる
後醍醐天皇は清忠の意見を採用した。
正成は言った。
「ここまで決まった以上、これ以上別の意見を申し上げる必要はありません」
建武3年(1336年)5月16日、楠木正成は京都を出発した。
従う兵は、わずか500騎余りだった。
正成は最後の戦いだと悟る
正成は、
「これが自分にとって最後の戦いになる」
と考えていた。
嫡男の楠木正行は、建武3年(1336年)のこの時、『太平記』本文では11歳だった。
正行も父とともに出陣していた。
しかし正成は考えるところがあり、桜井の宿から正行を河内国へ帰すことにした。
獅子の子のたとえ
正成は正行へ、父としての最後の教えを語った。
「獅子は子を産んで3日たつと、数千丈(単純換算では数km以上。『太平記』本文上の伝説的な巨大さ)の高い岩壁から谷底へ投げ落とすという。
その子に獅子としての力があれば、教えられなくても途中から跳ね返り、死ぬことはないといわれる」
「今生で顔を見るのは最後である」
「まして、お前はすでに10歳を超えている。
今から言う一言を耳へ留め、決して父の教えに背いてはならない。
今回の戦いは、天下が保たれるか滅びるかを決めるものだ。
この世でお前の顔を見るのは、これが最後だと思っている」
「正成が死ねば、天下は足利の世となる」
「正成が討ち死にしたと聞いたならば、天下は必ず足利将軍の時代になったと考えよ。
しかし、わずかな命を助けるために、長年守ってきた忠義を捨て、足利方へ降伏してはならない」
一族が残る限り戦え
「一族や若い家臣が1人でも生き残っている間は、金剛山付近へ立てこもれ。
敵が攻めてきたならば、自分の命を養由基の矢の先へ懸けるほどの覚悟で戦え。
忠義においては、中国の紀信にも劣らぬ者となれ。
それが、お前にできる第一の親孝行である」
正成は涙を流しながら、息子へ言い聞かせた。
父と子は、それぞれ東と西へ別れた。
百里奚の故事
昔、中国の百里奚は、秦の穆公が晋国を攻めようとした時、戦いに勝てないことを見抜いた。
出陣する将軍・孟明視へ向かい、
「これが最後の別れになる」
と悲しんだという。
遠い時代を隔てた忠臣
今、楠木正成は、敵軍が京都の西へ近づいたと聞き、国が滅びようとしていることを悲しんだ。
そして息子・正行を河内へ残し、自分の死後も忠義を守るよう勧めた。
百里奚は中国の優れた補佐役であり、正成は日本の忠臣である。
時代は1000年ほど隔たっていても、聖賢の考える道は同じだった。
得がたい忠臣たちだったのである。
正成と義貞が兵庫で対面する
正成が兵庫へ到着すると、新田義貞はすぐに対面した。
そして、
「天皇は、どのようにお考えなのか」
と尋ねた。
正成は自分が朝廷へ申し上げた作戦と、最終的に下された命令を、詳しく義貞へ語った。
義貞は一戦して名誉を守ろうとする
義貞は言った。
「確かに敗れて疲れた小勢で、勢いを得た大軍と戦っても、勝てるはずはない。
しかし建武2年(1335年)末の関東での戦いに敗れて京都へ戻った時、道中で敵を1度も防がなかったことを、今も人々から笑われている」
西国で成果を上げられなかった恥
「それだけではない。
今回は西国へ派遣されながら、各地の城を一つも攻め落とすことができなかった。
最後には、敵が大軍であると聞いただけで、1度も防がずに京都まで退いたとなれば、あまりにも情けないと思われるだろう。
だから戦いの勝敗を考えず、ただ1度戦い、武士としての義を示したいと思っているだけだ」
正成は世間の非難を気にするなと説く
正成は再び申し上げた。
「多くの愚かな者が騒ぎ立てる言葉は、1人の賢者が静かに同意することにも及ばないといいます。
道理を知らない者たちの非難を、必ずしも心へお掛けになる必要はありません」
勝てる場所で戦い、勝てなければ退く
「戦うべき場所を見て進み、勝てない時を知って退く。
それこそが、優れた将軍であるといわれます。
孔子も、
『虎へ素手で立ち向かい、大河を歩いて渡り、死んでも後悔しないような者とは行動をともにしない』
と、子路を戒めました」
義貞の過去の功績をたたえる
「元弘の乱の初めには、北条高時の強大な勢力を1度に打ち砕かれました。
建武3年(1336年)の春には、尊氏を九州まで退けられました。
それは天皇の運によるとはいえ、義貞殿の武略と徳によるところも大きいのです。
合戦の能力について、誰が義貞殿を非難できるでしょうか」
西国での判断も道理にかなっていた
「今回、西国へ向かわれてからの判断や命令も、一つ一つ道理にかなっていたと私は考えております」
正成の言葉を聞くと、義貞の表情はようやく和らいだ。
2人は夜通し語り合い、何杯もの酒を酌み交わした。
正成と義貞の最後の対面
後から思い返せば、これが楠木正成と新田義貞の最後の対面となった。
まことに悲しい出来事だった。
135. 兵庫へ迫る海陸の足利軍
海上に足利方の大船団が現れる
建武3年(1336年)5月25日の午前8時ごろ、沖の霞が晴れたところから、かすかに船影が見えた。
初めは、
「漁を終えて帰る漁師の船だろうか」
「淡路島の海峡を渡る船だろうか」
と思われた。
そこで海辺から、はるか沖まで眺め渡した。
すると、左右の舷へ盾を並べ、船首と船尾へ旗を立てた、数えきれないほどの軍船が、順風を受けて帆を上げていた。
海面が陸地のように船で埋まる
軍船は、波と霞の続く海上を14、15里ほど(中世の里程。現在のkmには単純換算しない)にわたって連なっていた。
船と船の舷を接するほど近づけ、船首と船尾を並べて進んだ。
海上は突然、陸地へ変わったかのように見えた。
帆に隠され、遠くの山さえ見えなかった。
赤壁や宋滅亡の海戦にも勝る光景
これを見た人々は驚いた。
「何と恐ろしい光景だ。
呉と魏が天下を争った赤壁の戦いも、元が宋を滅ぼした時の戦いも、これほどではなかっただろう」
そう思いながら見ていると、今度は陸上からも足利軍が現れた。
須磨・鵯越方面から陸軍が接近する
須磨の上野、鹿松岡、鵯越方面から、
- 足利氏の二引両
- 佐々木氏の四つ目結
- 直違
- 左巴
- 輪違
などの旗が、500、600流も並んで進んできた。
その軍勢は雲や霞のように兵庫へ押し寄せた。
官軍は敵の大軍に圧倒される
海上の軍船も陸上の軍勢も、想像していたよりはるかに多く、聞いていた以上に恐ろしいものだった。
官軍の兵たちは味方の少なさを振り返り、気力を失いそうになった。
義貞と正成は少しも動揺しない
しかし新田義貞も楠木正成も、大軍を見ても恐れず、小勢の敵も侮らない、漢の光武帝のような心を持つ武将だった。
2人は少しも気力を失った様子を見せなかった。
まず和田岬の小松原へ出て、落ち着いて軍勢を分けた。
脇屋義助軍は経島を守る
一方には脇屋右衛門佐義助を大将とした。
新田一族の23人を中心に、『太平記』によれば5000騎余りが経島へ陣取った。
大館氏明軍は灯炉堂の南へ
別の一方には、大館左馬助氏明を大将とした。
これに従う新田一族16人と、3000騎余りの軍勢が、灯炉堂の南側の浜へ陣取った。
楠木正成は700騎で湊川を守る
楠木正成は、わざと他家の軍勢を加えなかった。
楠木一族と家臣だけの700騎余りで、湊川西側の宿へ陣取った。
正成軍は、鵯越などから進んでくる陸上の足利軍と向かい合った。
総大将・新田義貞は和田岬に陣取る
新田義貞は官軍全体の総大将であり、諸将へ命令を下す立場だった。
義貞は2万5000騎余りを率い、和田岬へ陣幕を張って待ち構えた。
海陸の足利軍が同時に近づく
海上の足利軍は帆を下ろし、岸近くまで船を漕ぎ寄せた。
陸上の軍勢も旗を進め、官軍との距離を縮めた。
敵味方の両軍は、互いに攻め寄った。
足利方が鬨の声を上げる
まず沖の軍船から太鼓が鳴らされ、鬨の声が上がった。
すると陸路から官軍の背後へ回った足利方の大軍も、それに応じて声を合わせた。
『太平記』は、その陸軍を50万騎と記している。
官軍も鬨の声を返す
足利方が3度、鬨の声を上げ終わると、官軍も一斉に応じた。
『太平記』によれば5万騎余りの官軍が、盾の端を打ち鳴らし、箙をたたいて鬨の声を上げた。
天地を揺るがす鬨の声
敵味方の叫び声は、
- 南は淡路島の絵島崎や鳴門の沖
- 西は播磨路の須磨浦
- 東は摂津国の生田森
にまで響き渡った。
四方300里余り(『太平記』本文上の誇張的表現。中世の「里」は現在のkmへ単純換算しない)を揺るがし、天を支える綱が切れて空が落ち、大地を支える軸まで傾くのではないかと思われるほどだった。
こうして、湊川の決戦が始まろうとしていたのである。
136. 本間孫四郎の遠矢
両軍がまだ戦い始めないうちに
建武3年(1336年)5月25日、新田軍と足利軍は互いに向かい合ったが、まだ本格的な戦いは始まっていなかった。
その時、新田方の本間孫四郎重氏が、1人で前へ進み出た。
重氏は太くたくましい黄瓦毛の馬へ乗り、裾の方ほど色の濃い紅色の鎧を着ていた。
和田岬の波打ち際へ進む
重氏は、ただ1騎で和田岬の波打ち際まで馬を進めた。
そして沖に並ぶ足利方の船へ向かい、大声で呼びかけた。
「港の美女たちへ珍しい魚を贈ろう」
「将軍が九州から京都へお戻りになるのならば、鞆や尾道の美しい遊女たちも、大勢お連れになっていることでしょう。
その方々のために、珍しい魚を一つ差し上げます。
少しお待ちください」
重氏はそう言った。
足利方の兵を挑発するための言葉だった。
魚を取るミサゴを狙う
重氏は箙から鏑矢を1本抜いた。
矢羽根が少し広がっていたため、鞍の前輪へ当てて形を整えた。
そして握りの太い二所藤の弓へ、矢をつがえた。
馬を小松の陰へ寄せ、海上を飛ぶミサゴが、自分の影で魚を驚かせ、海面へ降りてくるのを待った。
敵味方が重氏の射を見守る
足利方の兵たちは、
「これで射損じたならば、世にも珍しい笑いものだ」
と、目を離さずに見ていた。
官軍の兵たちは、
「射当てたならば、この戦いでの大きな名誉となる」
と、息を詰めて見守った。
魚をつかんだミサゴを追い射ちする
高く飛んでいたミサゴが海面へ降り、2尺ほど(約60cm)の魚をつかんだ。
そして魚を抱えたまま、沖へ向かって飛んでいった。
本間重氏は小松原から馬を走らせ、鳥を後ろから追うような姿勢で矢を放った。
片方の翼だけを射切る
重氏は、鳥を殺さず、生きたまま船へ落とそうとした。
そのため体の中央は狙わず、片方の翼だけを射切った。
鏑矢は大きな音を響かせながら飛び、大内介の船の帆柱へ突き立った。
翼を射切られたミサゴは魚をつかんだまま、大友氏の船の屋形の上へ落ちた。
数万の兵が重氏の技をたたえる
誰が射たのかは、まだ足利方には分からなかった。
しかし足利方の7000艘余りの船では、兵たちが舷へ立ち並んだ。
『太平記』本文では、官軍の5万騎余りも海岸へ馬を並べていたとする。
敵味方はそろって、
「射当てたぞ!」
と重氏の技をたたえた。
その声は天地を響かせ、いつまでも静まらなかった。
尊氏は鳥が味方の船へ落ちたことを吉兆と考える
尊氏はこの様子を見ると、言った。
「敵は、自分たちの弓の腕前を見せるため、あの鳥を射たのであろう。
しかし鳥がこちらの船へ落ちたことは、味方にとっての吉兆と思われる。
何とかして、あの射手の名を聞きたいものだ」
小早川七郎が射手の名を尋ねる
小早川七郎が船の舳先へ立ち、重氏へ呼びかけた。
「世にも珍しく、見事な射を見せていただいた。
ところで、あなたのお名前は何とおっしゃるのか。
ぜひ承りたい」
「名前は次の矢で見よ」
重氏は弓を杖のようにして立ち、答えた。
「私は取るに足りない者です。
名前を申し上げても、誰もご存じないでしょう。
ただし弓矢の道においては、坂東8か国の武士の中に、私の名を知る者もいるでしょう。
名前は、この矢を見てご確認ください」
6町余り(約650m)を飛ぶ遠矢
重氏は強い3人張の弓へ、十五束三伏ほどの長い矢をつがえた。
ゆっくりと大きく引き絞り、足利氏の二引両の旗が立つ船を狙って、遠矢を放った。
矢は6町余り(約650m)もの距離を飛んだ。
佐々木顕信の船へ矢が届く
矢は尊氏の船の近くにいた、佐々木筑前守顕信の船まで届いた。
船の屋形にいた兵の鎧の草摺を後ろからかすめ、そこへ突き立った。
矢には本間重氏の名が刻まれていた
尊氏は、その矢を取り寄せた。
見ると矢には、小刀の先で、
相模国住人 本間孫四郎重氏
と書かれていた。
人々は矢を順に手渡して見た。
そして、
「何と恐ろしい矢だ。
どのように運の悪い者が、この矢先に当たって死ぬのだろう」
と、戦いが始まる前から胸を冷やした。
重氏が矢を返せと要求する
本間重氏は扇を上げ、沖の船を招くように振った。
そして呼びかけた。
「合戦の最中ですので、矢1本でも惜しいのです。
その矢を、こちらへ射返してください」
尊氏が射返せる者を尋ねる
尊氏はこの言葉を聞き、高師直へ尋ねた。
「味方の中に、あの矢を射返せる者はいないか」
師直は答えた。
「本間が射た遠矢を、同じ場所まで射返せる者が、坂東の兵にいるとは思えません。
ただ、真偽は分かりませんが、佐々木筑前守顕信は西国第一の弓の名人だと聞いております。
顕信へお命じになってはいかがでしょうか」
佐々木顕信が呼び出される
尊氏は、
「もっともだ」
と、佐々木顕信を呼んだ。
顕信は命令に従い、尊氏の前へ参上した。
尊氏は本間の矢を見せて言った。
「この矢を、飛んできた元の場所へ射返してほしい」
顕信は3度まで辞退する
顕信は、うやうやしく答えた。
「それは、とうてい難しいことでございます」
2度、3度と辞退した。
しかし尊氏が強く命じたため、断ることができなくなった。
顕信が遠矢の準備をする
顕信は自分の船へ戻った。
火威の鎧を着て、鍬形をつけた兜の緒を締め直した。
銀の装飾を施した反りの高い弓を帆柱へ当て、強く押し張った。
そして船の舳先へ立った。
弓弦が鋭い音を立てる姿は、確かに遠矢を射られそうに見えた。
讃岐の兵が勝手に矢を射る
ところがその時、讃岐勢の中から、何とも差し出がましい者が声を上げた。
「まず私の矢を受け、弓の強さをご覧ください!」
その者は勝手に鏑矢を1本放った。
矢は2町(約220m)も届かず海へ落ちる
弓弦が胸当てへ当たったのだろうか。
あるいは、もともと体の小さな者だったのだろうか。
矢は2町(約220m)にも届かず、波の上へ落ちた。
官軍の大笑い
『太平記』本文で5万騎余りとされる官軍は、本間重氏の後ろで一斉に、
「見事に射たものだ!」
と皮肉った。
兵たちは長い間、笑い続けた。
顕信は遠矢を射ることをやめる
これほど笑われた後では、改めて顕信が矢を射ても仕方がなかった。
佐々木顕信は遠矢を射ることを取りやめた。
こうして本間重氏の遠矢は、敵味方の前で比べる者のない武名を示したのである。
137. 経ヶ島の戦い
遠矢を射損じた兵が先駆けする
建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いで、本間孫四郎重氏へ矢を射返そうとして失敗し、敵味方から笑われた足利方の兵は、恥をすすごうと考えたのだろうか。
1艘の船へ200人余りを乗せ、経島へ近づいた。
兵たちは同時に海岸へ飛び降り、官軍の中へ攻めかかった。
脇屋義助軍が200人を包囲する
経島を守っていた脇屋義助の兵500騎余りは、上陸した足利兵を中央へ包囲した。
左右から取りつき、退路を回り込んで矢を射た。
上陸軍は騎馬兵に翻弄される
上陸した200人余りは、気持ちは勇ましかった。
しかし弓の得意な者が少なく、全員が徒歩だった。
そのため騎馬武者に走り回られて苦しめられた。
最後には、1人残らず討ち取られた。
彼らが乗り捨てた船だけが、むなしく岸へ打ち寄せる波の中を漂っていた。
細川定禅が全軍の上陸を命じる
細川定禅はこの様子を見ると、言った。
「後へ続く者がいなかったため、多くの味方をむざむざと討たせてしまった。
今を逃して、いつ戦うというのか。
上陸しやすい場所へ船をつけよ。
馬を次々と船から下ろし、全軍で陸へ上がれ」
700艘余りが紺部の浜へ向かう
四国の兵を乗せた大船700艘余りは、紺部の浜から上陸しようとした。
船団は海岸に沿って東へ進んだ。
官軍も船団に合わせて東へ移動する
兵庫島の3か所へ陣取っていた官軍は、『太平記』によれば5万騎余りだった。
官軍は、
「足利軍を岸へ上げてはならない」
と考えた。
進んでいく船に合わせ、海岸を東へ移動した。
海上軍は進撃、官軍は退却しているように見える
海上の足利軍は、自ら前へ進んで攻めているように見えた。
一方、海岸を東へ移動する官軍は、ひたすら逃げて退いているように見えた。
海と陸の両軍は、互いの動きを見ながら、上陸に適した場所を探して進んだ。
義貞軍と正成軍の間が開く
軍勢が長い海岸を移動したため、新田義貞の陣と楠木正成の陣との間が大きく離れた。
兵庫島の船着き場付近には、足利軍の上陸を防ぐ官軍がいなくなった。
60艘余りが和田岬へ上陸する
この隙を見て、九州・中国地方の兵を乗せた軍船60艘余りが、和田岬へ漕ぎ寄せた。
兵たちは一斉に船から陸へ上がった。
足利軍は、ついに官軍の防衛線の内側へ上陸したのである。
138. 楠木正成・正季兄弟の討ち死に
楠木軍が前後を敵にふさがれる
建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いで、楠木正成は弟の楠木正季へ言った。
「敵は我々の前後をふさぎ、味方の本隊とも引き離されてしまった。
もはや逃れる場所はないようだ。
それならば、まず正面の敵を一気に追い崩し、その後で背後の敵と戦おう」
正季も、
「それがよいと思います」
と答えた。
700騎余りで足利の大軍へ突入する
正成・正季兄弟は700騎余りを前後に並べ、足利軍の大勢の中へ突入した。
直義軍の兵たちは、楠木家の菊水の旗を見ると、
「名のある敵が現れた」
と考えた。
楠木軍を包囲し、1人残らず討ち取ろうとした。
大軍を縦横に打ち破る
しかし正成・正季は、東から西へ敵陣を突破し、北から南へ追い立てた。
名のある敵を見つければ、馬を並べて組みつき、ともに落馬して首を取った。
相手にする価値もない敵は、一太刀浴びせて追い散らした。
正成と正季は、7度合流し、7度離れた。
その目的は、ただ足利直義へ近づき、組みついて討ち取ることにあった。
直義軍が須磨方面へ退く
ついに『太平記』が50万騎と記す直義軍は、楠木軍700騎に攻め立てられ、須磨の上野方面へ退いた。
直義の乗る馬は、ひづめで矢じりを踏みつけてしまった。
右前脚を引きずるようになり、楠木軍に追いつかれた。
直義は、今にも討ち取られるように見えた。
薬師寺十郎次郎が1騎で踏みとどまる
その時、薬師寺十郎次郎が、ただ1騎で蓮池の堤へ引き返した。
馬から飛び降り、長さ2尺5寸(約76cm)の小長刀を構えた。
石突の部分まで長く持ち、攻めてくる敵の馬の首や胸懸けの綱を斬った。
7、8騎ほどを次々と斬り落とした。
その間に直義は別の馬へ乗り換え、遠くへ逃れることができた。
尊氏が援軍を送る
直義軍が楠木軍に追い立てられているのを、尊氏が見た。
「新しい兵を入れ替え、直義を討たせるな」
と命じた。
- 吉良氏
- 石塔氏
- 高氏
- 上杉氏
ら6000騎余りが、湊川の東へ進んだ。
楠木軍の退路を断つため、背後へ回って包囲しようとした。
正成兄弟が再び引き返す
正成・正季兄弟は、再び馬を返した。
新たに現れた6000騎へ攻めかかった。
敵へ突入しては刺し違えて死に、敵中へ入り込んでは組み合って落馬した。
三時間ほどの間に、16度も攻め合った。
700騎が73騎となる
楠木軍は、戦うたびに兵を失った。
最後には、わずか73騎となった。
それでも、この人数で敵陣を打ち破り、逃げようと思えば逃げることはできたという。
正成は初めから死を覚悟していた
しかし正成は京都を出発した時から、
「世の中のことも、自分の命も、もはやこれまでである」
と覚悟していた。
一歩も退かずに戦い続けた。
ついに兵も馬も疲れ果てたため、湊川の北にある一つの村へ駆け込んだ。
正成は11か所の傷を負う
正成は腹を切るため、鎧を脱いで自分の体を見た。
斬られた傷は、11か所にも及んでいた。
ほかの72人も、3か所、5か所と傷を負っていない者はいなかった。
六間の客殿へ並ぶ
楠木一族13人と、配下の兵60人余りは、六間ほどの広さの客殿へ入った。
二列に並んで座り、全員で念仏を10回ほど唱えた。
そして一斉に腹を切った。
正成が正季へ最期の願いを尋ねる
正成は上座に座ったまま、弟の正季へ尋ねた。
「人は最期に抱いた一念によって、次に善い世界へ生まれるか、悪い世界へ生まれるかが決まるという。
地獄から仏の世界まである九つの世界のうち、お前はどこへ生まれたいと願うか」
「7度まで同じ人間に生まれたい」
以下は、楠木正成・正季兄弟の最期について『太平記』が伝える有名な場面である。
正季は、からからと笑って答えた。
「7度まで同じ人間に生まれ変わり、朝敵を滅ぼしたいと思います」
正成も同じ願いを抱く
正成は、たいへんうれしそうな表情を見せた。
「罪深い執念ではあるが、私もまったく同じことを考えている。
それならば、ともに生まれ変わり、この願いを果たそう」
兄弟は、そのように来世を約束した。
そして互いに刀を突き立て、同じ枕に頭を並べて倒れた。
楠木一族も一斉に自害する
続いて、
- 橋本八郎正員
- 宇佐美河内守正安
- 神宮寺太郎兵衛正師
- 和田五郎正隆
ら、主だった一族16人が自害した。
従っていた兵50人余りも、それぞれ並んで座り、一斉に腹を切った。
菊池武朝も正成とともに死ぬ
菊池七郎武朝は、兄の菊池肥前守の使者として、須磨口の戦況を見に来ていた。
その途中、正成が自害する場面へ居合わせた。
武朝は、
「このような最期を目にしながら、正成殿を見捨て、恥ずかしく生きて帰ることができようか」
と思ったのだろう。
自らも腹を切り、炎の中へ倒れた。
智・仁・勇を兼ね備えた武将
元弘の乱以来、後醍醐天皇から頼りにされ、忠義を尽くし、功績を誇った者は、数えきれないほどいた。
しかし再び戦乱が起こると、仁を知らない者は朝廷の恩を捨て、敵へ味方した。
勇気のない者は、命だけでも助かろうとし、かえって処刑された。
知恵のない者は、時勢の変化を理解できず、正しい道から外れた。
正成の死は朝廷衰亡の前兆
智恵・仁義・勇気という三つの徳を兼ね備え、正しい道を守って死んだ者は、昔から現在まで、楠木正成ほどの人物はいなかった。
その正成が弟とともに自害した。
『太平記』はこれを、後醍醐天皇が再び国を失い、逆臣が思うままに権勢を振るうようになる前触れだったと述べている。
139. 湊川の戦い――新田義貞の奮戦
正成の死後、足利軍が義貞へ向かう
建武3年(1336年)5月25日、楠木正成が討ち死にすると、足利尊氏と足利直義は軍勢を一つに合わせた。
※軍勢数について:この章に出る4万騎、6万騎、8万騎、10万騎、30万騎などは、いずれも『太平記』本文上の数字である。実際の兵力として確認された数字ではないため、軍記物語の表現として読む。
そして新田義貞軍へ攻めかかった。
義貞は敵軍を見て言った。
「西宮方面から上陸してくる敵は、旗の紋を見る限り、足利方の末端の者たちである。
しかし湊川から攻めてくる軍は、尊氏・直義兄弟の本隊に違いない。
まさに我々が望んでいた敵だ」
生田森を背後にして陣を敷く
義貞は西宮方面から引き返した。
生田森を背後に置き、4万騎余りを三手に分けた。
そして三方向から足利軍を迎え撃った。
第一陣――大館・江田軍
両軍は勢いを奮い、鬨の声を上げた。
最初に、
- 大館氏明
- 江田行義
らが、3000騎余りで攻めた。
これに対する足利方は、仁木・細川氏の6万騎余りだった。
両軍は火花を散らして戦った。
互いに多くの兵を失い、双方ともいったん退いた。
第二陣――中院・大井田・里見・鳥山軍
次に、
- 中院中将定平
- 大井田氏
- 里見氏
- 鳥山氏
ら5000騎余りが攻めた。
足利方では、高氏・上杉氏の8万騎余りが迎え撃った。
両軍は半時(約1時間)ほど、黒煙を上げるほど激しく入り乱れた。
戦い疲れると、双方とも再び退いた。
第三陣――脇屋・宇都宮・菊池・河野軍
三番目に、
- 脇屋義助
- 宇都宮公綱
- 菊池武季
- 河野氏
- 土居氏
- 得能氏
ら1万騎が攻めた。
足利方では、
- 足利直義
- 吉良氏
- 石塔氏
ら10万騎余りが迎えた。
敵味方が組み合って倒れる
鬨の声は天を響かせ、地を揺らした。
敵へ組みつき、重なって馬から落ち、首を取る者もいた。
反対に首を取られる者もいた。
敵と刺し違え、同時に落馬する者もいた。
2頭の虎、2匹の竜が争うような戦いとなった。
両軍とも多くの死者を出し、東西へ退いて、人と馬を休ませた。
義貞が自ら出陣する
義貞は、この様子を見て言った。
「新しい兵はすでに出尽くした。
それでも勝敗は決まっていない。
今こそ義貞自身が戦う時だ」
義貞は2万3000騎を左右に従え、尊氏の本隊へ攻めかかった。
『太平記』は尊氏軍を30万騎と記している。
官軍総大将と武家の大将が激突する
官軍の総大将と、武家の最高の将軍が直接戦う合戦となった。
兵たちは命を鳥の羽よりも軽いものとして、武器を交えた。
矢に射落とされても、矢を抜く暇はなかった。
敵と組んで下になっても、助けに来る味方はいなかった。
親子・主従さえ互いを助けられない
子は親を置き去りにして敵と斬り合った。
家臣は主君から離れ、自分の目の前の敵と戦った。
馬が駆け違う音、太刀の鍔が打ち合う音は、仏教で説かれる修羅の戦いにも勝るほど激しかった。
すべての部隊が再び戦場へ入る
最初に戦い、いったん退いていた両軍の部隊も、
「次の機会など、もうない」
と考えた。
四つの陣が一斉に戦場へ上がり、敵味方が混じり合った。
旗が入り乱れ、敵味方の区別がつかない
- 新田氏の中黒
- 足利氏の二引両
- 巴
- 輪違
などの旗が東へなびき、西へなびいた。
海岸の山風に激しく翻りながら入り乱れた。
どれが味方の軍勢なのか、見分けることもできなかった。
新田氏と足利氏の天下をめぐる争いは、今この時に決着するように見えた。
官軍は5000騎余りとなる
官軍は、もともと足利軍より小勢だった。
命を惜しまず戦ったものの、最後には大軍に押し負けた。
残る兵は、わずか5000騎余りとなった。
生田森の東から、丹波路を目指して退却した。
足利軍は勝利の勢いに乗り、激しく追撃した。
義貞が後陣へ下がる
それでも義貞は武将としての務めを忘れなかった。
味方の軍勢を安全に逃がすため、自ら後陣へ下がった。
何度も引き返し、追ってくる敵と戦った。
義貞の馬へ7本の矢が刺さる
義貞の乗る馬には、7本もの矢が刺さった。
馬は前脚を折るようにして倒れた。
義貞は求塚の上で馬から降り、乗り換える馬を待った。
味方は義貞の危機に気づかない
しかし味方の兵は、義貞が徒歩になったことに気づかなかったのだろうか。
馬から降りて義貞を乗せようとする者は、1人も現れなかった。
足利軍が義貞を包囲する
敵は義貞だと気づいたのだろう。
すぐに包囲し、討ち取ろうとした。
しかし義貞の威勢に押され、近くまで進む者はいなかった。
代わりに十方向から遠矢を射た。
飛んでくる矢は、雨や雹よりも激しかった。
源氏重代の鬼切・鬼丸
義貞は「薄金」と呼ばれる兜をかぶっていた。
腰には、
- 鬼切
- 鬼丸
という、源満仲以来、源氏へ伝えられた二振りの宝刀を帯びていた。
義貞は2本の太刀を左右の手へ抜き持った。
矢を飛び越え、伏せ、斬り落とす
高く飛んでくる矢は跳び越えた。
低く飛ぶ矢には身を伏せた。
体の中央を狙って飛ぶ矢は、2本の太刀を交差させて斬り落とした。
『太平記』によれば、その数は16本に及んだ。
四天王の矢を取る鬼のような姿
その姿は、須弥山の四方にいる四天王が同時に矢を放ち、それを足の速い鬼が走り回り、矢が海へ落ちる前にすべて取って戻るようなものだった。
それほど素早く、神がかった働きに見えた。
小山田太郎が義貞を救う
小山田太郎は、遠く山の上から義貞の危機を見た。
鐙を強く踏み合わせ、馬を急がせて駆けつけた。
そして自分の馬へ義貞を乗せた。
小山田は徒歩となって敵を防ぐ
小山田自身は馬を降り、徒歩となった。
義貞を追う敵を防ぐため、その場へ残った。
しかし大勢の敵に包囲され、ついに討ち取られた。
義貞は包囲を脱出する
小山田が敵を引き止めている間に、義貞は味方の軍勢へ駆け込んだ。
こうして義貞は、虎の口へ入ったような絶体絶命の危機から逃れることができたのである。
140. 小山田高家の忠死――青麦を刈った罪
大将の身代わりになる者は少ない
建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いでは、官軍の中に、正義を知り、命を軽く考える武士が大勢いたと『太平記』は語る。
しかし突然の危機に直面した時、総大将の身代わりとなって命を捨てる者は、ほとんどいなかった。
その中で、遠く離れた場所にいた小山田太郎高家だけが馬を返した。
自分の馬へ義貞を乗せ、自らは徒歩となって敵を防ぎ、討ち死にした。
高家が命を捨てた理由
なぜ高家は、それほど義貞へ忠義を尽くしたのか。
その理由を尋ねれば、義貞から受けた、わずかな情けに報いるため、自分の一生を捨てたのである。
義貞の西国出陣と兵糧不足
『太平記』本文はここを「去年」と記す。しかし、この新田義貞の西国出陣は一般的な年代では建武3年(1336年)春の出来事であり、巻内の年代叙述にずれがある。以下は『太平記』が語る逸話である。
軍勢は多かったが、食糧が不足していた。
義貞は考えた。
「軍中に厳しい規則を定めなければ、兵たちの乱暴や略奪が絶えることはない」
略奪を禁じる大札
義貞は次のような命令を、大きな札へ書かせた。
稲や麦を一粒でも勝手に刈り取った者、
民家を一軒でも襲って品物を奪った者は、
ただちに処刑する。
その札を街道の辻々へ立てた。
農民と商人は安心する
この厳しい命令によって、農民は田畑の耕作を捨てずに済んだ。
商人も安心して品物を売買することができた。
官軍の通る土地でも、民衆の生活は守られていた。
高家が青麦を刈り取る
ところが小山田高家は、敵陣近くの土地へ行き、まだ青い麦を刈らせた。
そして馬の鞍へ積み、陣へ持ち帰った。
侍所の長浜が高家を捕らえる
当時、軍中の規律を担当していた長浜六郎左衛門が、これを見つけた。
高家をすぐに呼び出した。
命令に違反した以上、仕方がないとして、処刑しようとした。
義貞が処刑を止める
義貞は、このことを聞いて言った。
「事情をよく考えるべきだ。
高家が、自分の命を青麦ほど軽いものと思い、わざと法を犯したわけではあるまい。
ここが敵陣の近くなので、民の田畑ではないと思い違えたのかもしれない。
あるいは食糧が尽き、法の重さを忘れたのかもしれない。
まず高家の宿所を調べよ」
高家の陣には食べ物が一粒もない
使者が高家の宿所を調べた。
馬も武具も、見事に整えられていた。
しかし食べ物は、一粒も残っていなかった。
使者は戻り、その様子を義貞へ報告した。
義貞は大将として自分を恥じる
義貞は、たいへん恥じた様子で言った。
「高家が法を犯したのは、戦いのため、空腹に耐えられず、罪の重さを忘れたからだろう。
何よりも先に、兵たちを飢えさせたことが総大将の恥である」
勇士を失わず、軍法も乱さない
義貞は続けた。
「勇敢な武士を失ってはならない。
しかし軍中の法を乱してもならない」
そこで、麦を刈られた田の持ち主へ、小袖二着を賠償として与えた。
高家には食糧十石を与え、丁重に言葉をかけて帰した。
義貞の情けが高家の心へ染みる
高家は義貞の情けに深く感動した。
義貞への忠義は、それまで以上に心へ染み込んだ。
そのため湊川の戦いで義貞が危機へ陥った時、迷うことなく自分の馬を差し出した。
そして総大将の身代わりとなり、たちまち討ち死にしたのである。
武士が命を捨てるのは大将の恩義のため
昔から現在まで、武士と呼ばれるほどの者は、必ずしも利益だけを考えるものではない。
権力に恐れて従うだけでもない。
優れた総大将から受けた情けによって、自分の身を捨て、その命の代わりとなるのである。
武将への戒め
『太平記』は最後に、現在武将の地位にある者へ問いかける。
「兵を率いる者は、この話を深く心へ留め、慎重に考えなければならないのではないか」
兵を命令や罰だけで動かすのではない。
部下の苦しみを理解し、情けをかけることが、最後には命をも惜しまない忠義を生むのである。
141. 後醍醐天皇、再び比叡山へ移る
義貞、わずか6000騎で京都へ戻る
建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いに敗れ、官軍の総大将・新田義貞は、わずか6000騎余りとなって京都へ戻った。
この知らせを受けると、京都の人々は、身分の高い者も低い者も顔色を失った。
都中が限りなく慌て、騒然となった。
敗北した時には比叡山へ移る予定だった
官軍が戦いに敗れた場合、後醍醐天皇は以前と同じように東坂本へ避難することが、あらかじめ決められていた。
そこで『太平記』本文によれば建武3年(1336年)5月19日、後醍醐天皇は三種の神器を先に運ばせ、天皇の乗り物を比叡山へ向けた。
※日付について:『太平記』は直前に5月25日の湊川の戦いを語った後、この場面を5月19日としているため、本文内部で日付が前後している。一般的な歴史叙述では、後醍醐天皇の比叡山退避は湊川敗戦後の出来事として理解する必要がある。
公家政権の再建から3年もたたず
何とも嘆かわしいことである。
元弘の乱によって、朝廷が天下を統一してから、まだ3年もたっていなかった。
それなのに再び大乱が起こり、日本全国の民は安心して暮らすことができなくなった。
1度は尊氏を九州へ追い払った
それでも建武3年(1336年)正月の戦いでは、朝敵とされた足利尊氏がたちまち敗れ、西国の海へ逃れていた。
人々は、
「これは後醍醐天皇の聖なる徳が現れた結果である。
今後、天皇を犯し、乱を起こそうとする者は、もう現れないだろう」
と思っていた。
尊氏軍が再び襲来する
ところが西方の敵軍は、たちまち勢力を取り戻し、京都へ攻め寄せた。
1年のうちに2度まで、天皇が京都を離れる事態となった。
人々は不安に思った。
「このままでは太陽も月も昼夜を照らさなくなり、君主と臣下の上下関係まで分からない世になるのではないか。
仏法も王法も、ともに滅びる時が来たのではないか」
今度は多くの者が天皇へ従う
しかし建武3年(1336年)正月にも後醍醐天皇は比叡山へ避難し、間もなく尊氏軍を退けて京都へ戻っていた。
人々は、
「今回も、同じように足利軍を退けられるかもしれない」
という、確かな根拠のない希望を抱いた。
そのため今回は、公家にも武家にも、天皇へ従って比叡山へ向かう者が多かった。
公卿たちの供奉
摂政・関白を務める家の者については、改めていうまでもなかった。
主だった公卿には、
- 吉田内大臣定房
- 万里小路大納言宣房
- 竹林院大納言公重
- 御子左大納言為定
- 四条中納言隆資
- 坊城中納言経顕
- 洞院左衛門督実世
- 千種宰相中将忠顕
- 葉室中納言長光
- 中御門宰相宣明
らがいた。
殿上人や官人も従う
殿上人には、
- 中院左中将定平
- 坊門左大弁清忠
- 四条中将隆光
- 園中将基隆
- 甘露寺左大弁藤長
- 岡崎右中弁範国
- 一条頭大夫行房
らがいた。
このほか、
- 武官
- 朝廷の各役所の官人
- 外記・史
- 北面の武士
- 官位を持つ者、持たない者
- 滝口の武士
- 公家の家臣
- 朝廷に仕える僧
- 女官
- 医術や陰陽道を扱う者
に至るまで、
「自分もお供しよう」
と、次々に行列へ加わった。
新田一族と諸国の武士
武家では、
- 新田義貞
- 義貞の子・義顕
- 脇屋義助
- 義助の子・義治
- 堀口貞満
- 大館義氏
- 江田行義
- 額田正忠
- 大井田氏経
- 岩松義正
- 鳥山氏頼
- 羽川時房
- 桃井顕氏
- 里見義益
- 田中氏政
ら新田一族が従った。
外様の大名たち
さらに、
- 千葉貞胤
- 宇都宮公綱
- 宇都宮泰藤
- 狩野貞綱
- 熱田大宮司昌能
- 河野通治
- 得能通益
- 武田盛正
- 小笠原政道
- 仁科氏重
- 春日部時賢
- 名和長年
- 名和長生
- 今木範家
- 頓宮忠氏
らも、主だった武将として加わった。
6万騎余りが鳳輦を守る
『太平記』によれば、天皇へ従う軍勢は合わせて6万騎余りだった。
武士たちは天皇の鳳輦の前後を取り囲み、守りながら進んだ。
後醍醐天皇一行は、今路越を通って比叡山へ向かったのである。
142. 光厳上皇、東寺へ潜幸する
持明院統の皇族も比叡山へ向かう
湊川の戦い後の建武3年(1336年)5月、後醍醐天皇方が比叡山へ移る中で、持明院統の、
- 法皇
- 本院
- 新院
- 皇太子
に至るまで、全員を比叡山へ移すことになった。
大田判官全職が道中の責任者となり、行列へ付き従った。
本院は尊氏へ院宣を与えていた
しかし本院は、以前から足利尊氏へ院宣を与えていた。
そのため、
「尊氏が京都を支配すれば、自分が再び政治を行うことになるかもしれない」
と考えていた。
この本院とは、光厳上皇を指す。
北白川で行列を止める
本院は北白川付近まで来ると、突然、
「お体の具合が悪くなった」
と申し出た。
そして乗っていた輿を、法勝寺の塔の前へ下ろさせた。
わざと時間をかけ、その場へとどまった。
京都市中へ足利軍が乱入する
やがて足利軍が、すでに京都へ乱入したことが分かった。
四方では兵火が激しく燃えていた。
全職は、この様子を見ると言った。
「このまま、いつまでも事情が分からないまま待つことはできません。
供奉する方々は、急いで皇族方を比叡山へお連れください」
法皇・新院・皇太子を先に送る
全職は、本院のもとをいったん離れた。
そして、
- 新院
- 法皇
- 皇太子
だけを先に東坂本へ向かわせた。
本院は全職が戻ることを恐れる
本院は、
「全職が再び戻ってくるかもしれない」
と恐れた。
もし全職が戻れば、無理にでも比叡山へ連れていかれる可能性があった。
そこで本院は急いで、別の場所へ移ることにした。
わずかな供だけで東寺へ向かう
本院に従ったのは、
- 日野中納言資名
- 三条中将実継
だけだった。
本院はこの2人を供として、急いで東寺へ向かった。
尊氏が本院を迎える
尊氏は、本院が東寺へ入ったことを知ると、たいへん喜んだ。
そして東寺の本堂を、本院の仮の御所と定めた。
京都に残った公卿が参上する
久我内大臣をはじめ、京都へ残っていた公卿や殿上人たちが、本院のもとへ参上した。
尊氏は本院を中心として、持明院統の皇統を改めて立てた。
尊氏の運が開く前兆
『太平記』は、この出来事を、
「足利尊氏の運が、いよいよ開こうとする吉兆であった」
と記している。
尊氏は後醍醐天皇に反逆するだけの立場から、持明院統の上皇を守る武将という形を整えたのである。
143. 日本の朝敵を論じる
日本の始まり
『太平記』は、ここで日本の始まりから説き起こす。
天地が二つに分かれ、天・地・人の三つが次第に現れたころ、人間の寿命は20000年だったという。
その時、伊弉諾尊と伊弉冉尊が夫婦の神となり、天からこの国へ降りた。
二神は、1人の女神と3人の男神を生んだ。
天照大神と三柱の男神
1人の女神とは、天照大神である。
3人の男神とは、
- 月神
- 蛭子
- 素戔嗚尊
である。
第一の御子である天照大神は、この国の主となった。
そして伊勢国の御裳濯川の辺り、神聖な岩の上へ姿を現した。
神にも仏にも姿を変える
天照大神は、ある時には人々を救うために現れた仏となり、さまざまな時代に姿を変えて教えを広めた。
またある時には、本来の神の姿へ戻り、数えきれない世界の人々を救った。
『太平記』は、これを神と仏が一体となって人々を導く働きとして説明している。
第六天の魔王が仏法を妨げようとする
そこへ第六天の魔王が、眷属を集めて考えた。
「この国に仏法が広まれば、魔物の力は弱くなる。
我々は力を失うことになるだろう」
そこで魔王は、天照大神が仏や神として人々を救うことを妨害しようとした。
天照大神が魔王と約束する
天照大神は、魔王の妨害を止めるため、
「私は仏・法・僧の三宝へ近づかない」
という誓いを立てたとされる。
すると第六天の魔王は怒りを収めた。
全身から血を流しながら、堅い誓約を書いて天照大神へ差し出した。
魔王の誓約
その誓約には、次のような内容が書かれていたという。
未来永劫、天照大神の子孫を、この国の君主とする。
もし天皇の命令へ背き、国を乱し、民を苦しめる者が現れたならば、十万八千の魔王の眷属が朝夕に駆けつけ、その者へ罰を与え、命を奪う。
『太平記』は、これを三種の神器の一つである神璽についての異説として語る。
伊勢神宮に仏教色が少ない理由
伊勢神宮の内宮・外宮は、ほかの神社とは様子が異なっている。
仏の姿を表した鏡を錦の帳の中へ掛けることもない。
念仏や読経の声を止め、僧や尼の参詣も許さない。
『太平記』は、これも天照大神と魔王との約束へ違わないためであり、実際には人々を仏道へ導く方法を、表に出さず隠しているのだと説明する。
朝敵は必ず滅びた
天照大神以来、皇位を継いだ天皇は九十六代に及んだ。
『太平記』は、その間に朝敵となって滅びた者の例を、次々と挙げていく。
神武天皇の時代の巨大な蜘蛛
神日本磐余彦天皇、すなわち神武天皇の時代に、紀伊国名草郡に、身長2丈余り(約6m超。『太平記』本文上の伝説的な巨大さ)の巨大な蜘蛛がいたという。ところが『太平記』本文は、この出来事の年を「天平4年(732年)」とも記している。
※年代について:神武天皇の時代と天平4年(732年)は同時には成立しない。ここは『太平記』の伝説的叙述に含まれる明らかな年代矛盾であり、史実として読む箇所ではない。
手足が長く、その力は普通の人間を超えていた。
数里(中世の「里」で、現在のkmには単純換算しない)に及ぶ網を張り、道を通る人々を捕らえて殺していた。
官軍が鉄の網と熱湯で退治する
官軍は天皇の命令を受け、蜘蛛を討った。
鉄の網を張り、鉄をも溶かすほどの熱湯を沸かし、四方から攻めた。
蜘蛛はついに殺され、その体はばらばらに崩れたという。
藤原千方と4人の鬼
天智天皇の時代には、藤原千方という人物がいた。
千方は、
- 金鬼
- 風鬼
- 水鬼
- 隠形鬼
という4人の鬼を使っていた。
金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼の力
金鬼の体は非常に硬く、矢を射ても刺さらなかった。
風鬼は大風を起こし、敵の城を吹き壊した。
水鬼は洪水を起こし、陸地にいる敵を溺れさせた。
隠形鬼は姿を消し、突然敵を襲った。
伊賀・伊勢が朝廷に従わなくなる
このような不思議な力は、普通の人間の知恵や力で防げるものではなかった。
伊賀・伊勢の両国は四鬼に支配され、朝廷へ従う者がいなくなった。
紀朝雄が一首の歌を送る
そこで紀朝雄という人物が、天皇の命令を受け、伊賀・伊勢へ下った。
朝雄は一首の歌を詠み、四鬼へ送った。
草も木も
我が大君の
国なれば
いづくか鬼の
棲みかなるべき
意味は、
草も木も、すべて天皇が治める国にある。
その中のどこに、天皇へ背く鬼の住みかなどあるだろうか。
というものだった。
四鬼が千方を見捨てる
四鬼はこの歌を読むと考えた。
「我々は悪逆無道の臣下へ従い、善政を行う徳の高い天皇へ背いていた。
これでは天罰を免れることはできない」
四鬼は、たちまち四方へ飛び去り、姿を消した。
千方は力を失い、すぐに紀朝雄によって討たれた。
平将門の反乱
朱雀天皇の承平5年(935年)には、平将門が東国で反乱を起こした。
将門は相馬郡へ都を築き、朝廷と同じように役人を置いた。
そして自らを新皇と称した。
将門の体には武器が通らない
官軍は総力を挙げて将門を討とうとした。
しかし将門の体は鉄のように硬く、矢や石を受けても傷つかなかった。
刀や槍も通らなかったという。
鉄の四天王と祈禱
公卿たちは相談し、鉄で四天王像を鋳造した。
これを比叡山へ安置し、四天王に祈る修法を行った。
すると天から白羽の矢が1本降り、将門の眉間へ刺さった。
将門は、ついに俵藤太秀郷によって首を取られた。
獄門で叫び続ける将門の首
将門の首は獄門へ掛けられた。
三か月たっても色が変わらず、目も閉じなかった。
歯をかみしめながら、夜ごとに叫んだという。
「斬られた私の体は、どこにある。
ここへ来い。
頭と体をつなぎ、もう1度戦おう」
これを聞く者で、恐れない者はいなかった。
歌を聞いて将門の首が枯れる
ある旅人が、この声を聞いて歌を詠んだ。
将門は
米かみよりぞ
斬られける
俵藤太が
謀にて
将門の名と、米をかむこと、こめかみを掛けた言葉遊びである。
将門の首は、からからと笑った。
しかしその直後、目を閉じ、ついに枯れ果てたという。
歴代の朝敵
『太平記』は、これ以外にも朝敵となった者として、次の名を列挙する。
- 大石山丸
- 大山王子
- 大友真鳥
- 物部守屋
- 蘇我入鹿
- 豊浦大臣
- 山田石川
- 長屋王
- 藤原豊成
- 伊予親王
- 氷上川継
- 橘逸勢
- 文屋宮田
- 恵美押勝
- 井上皇后
- 早良親王
- 大友皇子
- 藤原仲成
- 藤原純友
- 源義親
- 藤原頼長
- 源為義
- 藤原信頼
- 安倍貞任
- 安倍宗任
- 清原武衡
- 平清盛
- 木曾義仲
- 阿佐原為頼
- 北条時政から九代後の北条高時
天皇へ背いた者の末路
朝敵となって天皇を悩ませ、仁義の秩序を乱した者は、いずれも処刑の苦しみを受けた。
その遺体や首を獄門の前へさらされずに済んだ者は、1人もいないと『太平記』は述べる。
尊氏が九州へ敗走した理由
足利尊氏も、建武3年(1336年)正月、東国8か国の大軍を率いて京都へ攻め上った。
『太平記』は、その時の尊氏を、天皇に背く「朝敵」と位置づけている。
そして『太平記』は、尊氏が何度も戦いに敗れて九州まで逃れたことを、この「朝敵」という位置づけと結びつけて語る。
今度は持明院統を立てた
一方、『太平記』は今回の尊氏について、「以前の非を悔いた」と語る。
そして皇統の一方である持明院統を立て、上皇の院宣に従って、後醍醐天皇方を討とうとしている。
尊氏に「道理」が加わった
人々は言った。
「尊氏はもともと大きな武力を持っている。
それに加えて今回は、上皇の院宣という一つの道理を得た。
これならば大きな功績を、たちまち立てるのではないか」
世間の人々は、尊氏へ礼を尽くすようになった。
東寺を城郭とする
東寺は、すでに持明院統の上皇の仮御所となっていた。
足利方は寺の四方を城郭のように整え、上皇を警護した。
尊氏も直義も、同じく東寺へ立てこもった。
比叡山から来る官軍を市街戦で迎える
足利方が東寺を城としたのには理由があった。
比叡山から官軍が遠く京都へ攻め寄せてきた場合、都の小路を一つ一つふさぎ、縦横に戦うのに都合がよい。
そのため東寺を、持明院統と足利軍の拠点としたのである。
144. 楠木正成の首、故郷へ送られる
正成の首が六条河原にさらされる
建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いで討ち死にした楠木正成の首は、京都の六条河原にさらされた。
以前の春にも、足利方は正成ではない首を、
「楠木正成の首である」
として獄門へ掛けたことがあった。
そのため今回も、
「これも本物ではないのだろう」
と言う者が多かった。
「今度こそ、まさしく正成の首」
そこで何者かが札へ狂歌を書き、正成の首のそばへ立てた。
疑ひは
人によりてぞ
残りける
まさしげなるは
楠が首
その意味は、およそ次のようになる。
疑う心は、人によってはまだ残っているだろう。
しかし今度の首は、まさしく楠木正成の首である。
「まさしく」と「正成」を掛けた歌である。
尊氏が正成の首を遺族へ返す
『太平記』は、その後、足利尊氏が正成の首を自分のもとへ取り寄せたと語る。
そして言った。
「正成とは、朝廷へ仕えていたころから長く親しく付き合ってきた。
これまでの関係を思えば、何とも気の毒である。
残された妻や子どもたちも、亡くなったとはいえ、もう1度その顔を見たいと思っていることだろう」
尊氏は正成の首を、河内国の遺族のもとへ送り届けた。
『太平記』は、敵将の首を妻子へ返した足利尊氏の情けを「得がたいもの」とたたえている。
妻と正行が正成の首を見る
正成の妻と、息子の正行は、届けられた首と対面した。
正成が兵庫へ出陣した時には、妻子へさまざまな言葉を残していた。
さらに、
「今回の戦いでは、必ず討ち死にするだろう」
と覚悟し、正行を桜井の宿から河内へ帰していた。
そのため2人とも、正成が出発した時から、
「あれがこの世での最後の別れになる」
と覚悟していた。
変わり果てた父の顔
しかし実際に正成の首を見ると、その目は閉じ、顔の色も変わっていた。
生前とはまったく異なる姿となった父の顔を前にして、悲しみが胸へ満ちた。
涙はせき止めることができず、次々と流れた。
11歳の正行が持仏堂へ向かう
建武3年(1336年)のこの時、『太平記』本文で11歳とされる楠木正行は、生きていたころとは似ても似つかない父の首を見た。
さらに母が、どうすることもできず悲しんでいる姿を見た。
正行は流れる涙を袖で押さえながら、持仏堂の方へ歩いていった。
母が正行の後を追う
母は、
「何か様子がおかしい」
と思った。
すぐに妻戸の方から回り、持仏堂の中をのぞいた。
すると正行は、父が兵庫へ向かう際、形見として残していった菊水の刀を右手へ抜き持っていた。
袴の腰を押し下げ、自害しようとしていたのである。
母が正行の腕へ取りすがる
母は急いで走り寄った。
正行の細い腕へ取りつき、涙を流しながら言った。
「『栴檀は双葉のころから、すでによい香りを放つ』という。
お前はまだ幼いとはいえ、正成の子である。
それなのに、どうしてこれほど明らかな道理を見失うのですか。
幼い心なりにも、もう1度よく事情を考えてみなさい」
父は自害させるために残したのではない
母は続けた。
「亡き父が兵庫へ向かう時、お前を桜井の宿から帰したのは、自分の死後を供養させるためだけではありません。
まして、
『父が死んだならば、お前も腹を切れ』
という意味で残したのでもありません」
正成が正行へ残した本当の遺言
「父は、こう言い残したのです。
たとえ自分の運命が尽き、戦場で命を失ったとしても、天皇がどこかで御無事だと聞いたならば、生き残った一族や若い家臣たちを養い、まとめよ。
そしてもう1度軍勢を起こし、天皇の敵を滅ぼし、再び天皇を御位へお立て申し上げよ。
これが父の遺言です」
「父の遺言を忘れたのですか」
母は言った。
「お前は、その遺言を詳しく聞いて、私にも語ってくれたではありませんか。
それを、いつの間に忘れてしまったのですか。
今ここで自害すれば、父の名を完全に失わせることになります。
将来、天皇のお役に立つこともできなくなるでしょう」
母は泣きながら正行を励まし、自害を思いとどまらせた。
母が菊水の刀を奪い取る
母は正行の手から、抜かれた菊水の刀を奪い取った。
自害することのできなくなった正行は、仏前の礼盤の上から泣き崩れた。
母も正行とともに、声を上げて悲しんだ。
正行は父の遺言を胸へ刻む
この出来事の後、正行は父の遺言と母の教えを深く心へ染み込ませた。
その言葉を肝へ刻み、決して忘れないようになった。
子どもの遊びにも朝敵討伐をまねる
ある時、正行は一緒に遊ぶ子どもたちを打ち倒し、その頭をつかむまねをした。
そして言った。
「これは朝敵の首を取ったところだ」
またある時は竹馬へ鞭を当て、
「これは足利将軍を追いかけているところだ」
と言った。
幼い遊びの中にも父の遺志があった
子どもの何気ない遊びに至るまで、正行が行うことは、父の敵を討ち、朝廷へ忠義を尽くすことばかりだった。
『太平記』本文で11歳とされる少年でありながら、その心の中には、すでに将来の戦いへの強い決意が育っていた。
『太平記』は、その幼い正行の心を、
「何とも恐ろしいほどであった」
と評している。
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