ホーム | 太平記 全40巻・全339章 | ← 前の巻:太平記 巻第二 | 次の巻:太平記 巻第四 →
巻第三|目次
- 19. 後醍醐天皇の夢――楠木正成との出会い
- 20. 笠置山の戦い――陶山・小見山の夜襲
- 21. 笠置城の陥落――後醍醐天皇、山中を逃れる
- 22. 赤坂城の戦い――楠木正成の奇策
- 23. 桜山四郎入道の自害
このページは『太平記』巻第三の第19〜23章を収録している。検索から途中の章へ来た場合は、この目次から同じ巻の別の章へ移動できる。年月は元号だけにせず、分かる範囲で西暦を併記し、数量は原則として算用数字で表記する。
【読み方の注意】 『太平記』には、非常に大きな軍勢数、超人的な武勇、夢のお告げ、神仏の霊験など、軍記物語としての誇張や説話的表現が含まれる。この現代語訳では、それらを史実として断定せず、『太平記』本文が語る内容として区別して読む。
19. 後醍醐天皇の夢――楠木正成との出会い
笠置山に集まらない味方
元弘元年(1331年)8月27日、後醍醐天皇は笠置山へ入り、本堂を仮の御所とした。
しかし、最初の1、2日ほどは、鎌倉幕府の力を恐れて、天皇のもとへ味方としてやって来る者は1人もいなかった。
その後、
「比叡山の東坂本で、六波羅軍が僧兵たちに敗れた」
という知らせが届いた。
すると、笠置寺の僧たちをはじめ、近くの国々の武士が、あちらこちらから集まるようになった。
それでも、名の知られた武将や、100騎、200騎もの兵を率いる有力者は、1人も現れなかった。
後醍醐天皇は不安になった。
「これほどの兵だけで、幕府軍から御所を守ることができるのだろうか」
そう思い悩みながら、少し眠りについた。
不思議な夢
後醍醐天皇は、夢を見た。
場所は、京都御所の紫宸殿の前庭のようだった。
そこには、大きな常緑樹が立っていた。
緑の葉が深く茂り、とくに南へ伸びた枝が、勢いよく広がっていた。
その木の下には、大臣や役人たちが、身分の順に並んで座っている。
南を向いた最も高い場所には、立派な畳が高く敷かれていた。
しかし、その席には誰も座っていなかった。
天皇は夢の中で、
「これは、いったい誰のために用意された席なのだろう」
と不思議に思い、立ったまま眺めていた。
すると、髪を結った2人の少年が突然現れ、天皇の前にひざまずいた。
2人は袖で涙をぬぐいながら言った。
「今の天下には、天皇のお身をしばらく隠せる場所が、どこにもありません。
ただし、あの木の陰には、南を向いた席があります。
あれは天皇のために用意された御座所です。しばらく、そこにお座りください」
そう言うと、2人の少年は、はるか空の彼方へ昇っていった。
そのところで、後醍醐天皇は夢から目を覚ました。
「木」と「南」で楠
後醍醐天皇は、
「これは、天が私に何かを知らせた夢に違いない」
と思った。
そして、夢に現れたものの意味を考えた。
「木」という字と「南」という字を合わせれば、楠という字になる。
さらに2人の少年は、木の陰にある、南向きの席へ座るようにと言った。
天皇が南を向いて座ることは、天下を治める君主の姿を表している。
そこで後醍醐天皇は、
「楠という名を持つ者が私を助け、私は再び天皇として南を向いて座り、天下の武士たちを従わせることになる。
2人の少年は、日光菩薩と月光菩薩であり、その未来を示してくれたのだろう」
と、夢の意味を考えた。
天皇は、これならば幕府を倒し、再び国を治めることができるかもしれないと、心強く感じた。
楠という武士を捜す
夜が明けると、後醍醐天皇は笠置寺の僧である成就房律師を呼び、尋ねた。
「この近くに、楠という名字の武士はいないか」
成就房は答えた。
「この付近に、そのような名字の者がいるとは聞いたことがございません。
しかし、河内国の金剛山の西には、楠木正成という、武芸で名を知られた者がいるそうです。『太平記』本文では「楠多聞兵衛正成」と記されています。
『太平記』は、楠木正成を「敏達天皇から4代後の橘諸兄の子孫」とする系譜を伝えている。ただし、これは『太平記』本文が伝える系譜であり、確定した史実として扱うべきものではない。
また『太平記』によれば、正成の母は若いころ、信貴山の毘沙門天へ100日間参詣し、夢のお告げを受けて正成を授かったという。
そのため、幼いころの名を「多聞」と呼んだそうです」
後醍醐天皇は、
「昨夜の夢が示していたのは、この楠木正成に違いない」
と思った。
そして、
「すぐに正成を呼び寄せよ」
と命じた。
正成、笠置山へ向かう
万里小路藤房は天皇の命令を受け、急いで楠木正成を呼び出す使者を送った。
勅使は正式な天皇の命令を持って正成の屋敷へ行き、事情を説明した。
正成は思った。
「武士として、天皇から直接呼び出される以上の名誉があるだろうか」
正成は迷わなかった。
詳しく考えるより先に、まず人目を避けて笠置山へ向かった。
後醍醐天皇と楠木正成の対面
後醍醐天皇は、万里小路藤房を通して、正成に言葉を伝えた。
「鎌倉幕府を討つにあたり、私が正成を頼りにしようと思う特別な理由があり、使者を送った。
すると正成は少しも時を置かず、すぐに駆けつけてくれた。私はたいへんうれしく思う。
さて、幕府を倒して新しい世を開くには、どのような作戦を用いればよいだろうか。
どうすれば早く勝利を決め、国中に平和を取り戻せるのか。
考えていることを、残さず話してほしい」
正成は、かしこまって答えた。
正成の戦略
「近ごろの幕府の行いは、あまりにも道を外れています。
すでに天の怒りを招いている以上、衰え始めた幕府に天罰を下すことは、決して難しいことではありません。
ただし、新しい世を作るために必要なのは、武略(戦い方)と智謀(知恵を使った作戦)の2つです。
もし正面から大軍同士で戦うなら、日本60余州の兵をすべて集め、武蔵国と相模国の幕府軍にぶつけたとしても、簡単には勝てないでしょう。
しかし、知恵と作戦を使って戦うのであれば、恐れる必要はありません。
幕府の武士たちは、力で敵を打ち砕き、堅い守りを破ることしか知りません。
つまり、だますことは難しくなく、恐れるほどの相手ではないのです。
戦には勝つ時もあれば、負ける時もあります。
1度や2度の勝敗だけを見て、すべてが終わったと思わないでください。
たとえ味方の軍が敗れたとしても、
『楠木正成がまだ生きている』
とお聞きになるかぎり、最後には必ず天皇の運が開けるとお考えください」
正成は、力強くそう言った。
後醍醐天皇に希望を与える言葉を残し、正成は兵を集めるため、河内国へ帰っていった。
20. 笠置山の戦い――陶山・小見山の夜襲
六波羅軍、大津を固める
後醍醐天皇が笠置山に入り、近くの国々から朝廷方の兵が集まり始めたという知らせが、京都へ届いた。
六波羅探題は、
「比叡山の僧兵たちが再び勢いを取り戻し、六波羅を攻めてくるかもしれない」
と警戒した。
そこで、佐々木時信に近江国の軍勢をつけ、大津へ向かわせた。
しかし時信が、
「この人数だけでは、とても守りきれません」
と申し出たため、さらに丹波国の久下氏や長沢氏の一族を加えた。
こうして800騎余りの兵が、大津の東西に陣を構えた。
高橋又四郎の抜け駆け
元弘元年(1331年)9月1日、六波羅探題の軍事を担当する糟谷宗秋と隅田次郎左衛門が、500騎余りを率いて宇治の平等院へ進んだ。
そこで各地から集まる軍勢の人数を確認していると、正式な命令を待つこともなく、諸国の兵が昼夜を問わず到着した。
その数は、10万騎余りに達したという。
笠置山への総攻撃は、翌1331年9月2日の午前10時ごろに始めると決められた。
ところがその前日、高橋又四郎という武士が、
「誰よりも先に攻めて、手柄を立てよう」
と考えた。
高橋は一族の兵、わずか300騎余りを率い、命令を待たずに笠置山のふもとへ進んだ。
城にこもる朝廷方は、それほどの大軍ではなかった。
しかし、幕府を倒して天下を変えようとする、勇気に満ちた者たちである。
わずか300騎が近づいてきたのを見ると、すぐに3,000騎余りが山を下り、木津川の近くで高橋軍を取り囲んだ。
「1人も逃がすな」
朝廷方は激しく攻めかかった。
高橋は、初めの勢いがうそのように、大軍を見ると1度も反撃しなかった。
馬にむちを打ち、ただちに逃げ出した。
多くの兵が木津川の激しい流れへ追い落とされ、討たれたり、おぼれたりした。
命だけは助かった者も、馬や鎧を捨て、裸同然の姿となって、昼間の京都へ逃げ帰った。
何とも見苦しい敗走だった。
これを見て笑った者が、平等院の橋のたもとに、次のような歌を書いて立てた。
木津川の
瀬々の岩波
早ければ
駆けてほどなく
落つる高橋
その意味は、
木津川の流れが速いように、
勇んで駆け出した高橋も、
あっという間に逃げ落ちていった。
というものだった。
小早川も敗走する
高橋が抜け駆けしたと聞き、
「高橋が退いたなら、今度は自分たちが入れ替わって手柄を立てよう」
と、そのあとを追っていた小早川の軍勢もいた。
しかし小早川勢も、朝廷軍に追い立てられると、1度も反撃せず、宇治まで逃げ帰った。
そこで、先ほどの歌の横に、さらに別の歌が書き加えられた。
駆けも得ぬ
高橋落ちて
行く水に
憂き名を流す
小早川かな
その意味は、
高橋は満足に攻めることもできず逃げ、
そのあとに続いた小早川も、
川の流れとともに不名誉な評判を流した。
というものだった。
7万5,000騎が笠置山を囲む
前日の戦いで朝廷方が勝ったという知らせが広がると、六波羅は不安になった。
「このまま時間をかければ、各地からさらに多くの味方が笠置山へ集まってしまう」
そこで予定を変えず、1331年9月2日に総攻撃を始めることにした。
六波羅軍は、笠置山を四方から攻めるため、軍勢を分けた。
南からは、畿内5か国の兵7,600騎余りが、光明山の裏を回って笠置山の背後へ向かった。
東からは、伊賀・伊勢・尾張・三河・遠江などの兵2万5,000騎余りが、伊賀路を通り、金剛山越えへ向かった。
北からは、山陰道8か国の兵1万2,000騎余りが、市野辺山のふもとを回り、正面の攻め口へ進んだ。
西からは、山陽道8か国の兵3万2,000騎余りが、木津川に沿って進み、2手に分かれて攻め寄せた。
正面と背後を合わせた兵の数は、7万5,000騎余りに達した。
笠置山を中心とした2、3里の範囲は、少しの空き地もないほど、幕府軍で埋め尽くされた。
笠置山への総攻撃
翌1331年9月3日の午前6時ごろ、東西南北の幕府軍は、互いに近づいて一斉に声を上げた。
その声は、何百、何千もの雷が同時に落ちたように響き、天地まで揺れるほどだった。
幕府軍は3度、攻撃の声を上げ、合戦開始の矢を射た。
しかし笠置山の城内は、静まり返っていた。
朝廷方は声を返さず、矢も射てこない。
笠置山は非常に高く、峰には白い雲がかかっていた。
谷は深く、青黒い岩が道をふさいでいる。
曲がりくねった急な道を18町(約2km)も登らなければならず、天然の岩が堀となり、積み重なった石が城壁の役目を果たしていた。
たとえ守る者が1人もいなくても、簡単に登れる山ではなかった。
それでも、城の中があまりに静かだったため、幕府軍は、
「敵はすでに逃げたのだろう」
と思った。
7万5,000騎の兵たちは、崖や堀も恐れず、つる草につかまり、岩を伝って登り始めた。
そして一の木戸や、仁王堂の前まで進んだ。
山上に現れた朝廷軍
幕府軍はそこで息を整え、城の中を見上げた。
すると、錦の旗に金銀で太陽と月を描いた天皇の旗が、日の光を受けて輝いていた。
その旗の下には、鎧で身を固めた3,000人余りの武士が、隙間もないほど並んでいた。
兜の金具は光り、鎧の袖が一面に連なっている。
その姿は、雲や霞が山を覆っているようだった。
櫓や塀の陰には、大勢の弓の名手が待ち構えていた。
弓の弦を強く張り、矢をすぐに放てるよう準備し、矢尻には油まで塗っている。
どこから攻めても、簡単には破れそうにない。
山を登ってきた1万騎余りの幕府軍は、前へ進むことも、後ろへ退くこともできず、その場で立ち止まった。
足助重範の一矢
しばらくすると、一の木戸の上にある櫓の板が開いた。
そこから、1人の武士が名乗った。
「私は三河国の住人、足助次郎重範である。
恐れ多くも天皇からお任せいただき、この城の一の木戸を守っている。
先頭に見える旗は、美濃や尾張の武士たちのものと見えるが、見間違いだろうか。
ここは天皇のおられる城であるから、六波羅の大将自身が攻めてくると思い、大和の鍛冶に作らせた特別な矢を用意している。
まずは1本、その身で受けてみるがよい」
足助重範は、3人がかりで張るほどの強い弓に、大きな矢をつがえた。
十分に引きしぼり、狙いを定めて放った。
矢は深い谷を越え、2町余り(約220m余り)先にいた荒尾九郎の鎧の肩の板を貫き、そのまま右脇の奥深くまで突き刺さった。
荒尾九郎は馬から逆さまに落ち、起き上がることもなく死んだ。
荒尾弥五郎の挑発
荒尾九郎の弟、弥五郎は、兄が射殺されたことを敵に気づかれまいとして、その前に立った。
そして盾の端から進み出て、足助重範へ言った。
「足助殿の弓の力は、以前から聞いていたほどではないようだ。
今度は私を射てみよ。
その矢を受けて、私の鎧がどれほど強いか試してみよう」
足助は考えた。
「この男は、鎧の下にさらに腹巻や鎖の防具を重ねているのだろう。
だから兄が射られたのを見ながら、自分を射ろと挑発しているのだ。
鎧を狙えば、矢の軸が砕けたり、矢尻が折れたりして、貫けないかもしれない。
それならば、兜の正面を狙おう」
足助は矢筒から、硬い矢尻をつけた矢を1本取り出した。
矢に油を塗り、
「それでは、一矢お見せしよう。しっかり受けてみよ」
と言った。
そして先ほどよりも強く弓を引きしぼり、放った。
矢は狙いを外さなかった。
荒尾弥五郎の兜の正面についた金具を打ち砕き、その下の眉間を深く貫いた。
弥五郎は一言も発することなく倒れ、兄と重なるようにして死んだ。
これが、この日の本格的な戦いの始まりとなった。
巨石を投げる本性房
正面でも背後でも、城の内外から大声が上がり、激しい戦いが始まった。
矢が飛ぶ音と兵たちの叫びは、少しも止まらない。
大山が崩れて海へ落ち、大地の軸が折れて沈んでしまうのではないかと思われるほどだった。
夕方になると、幕府軍は大きな盾を少しずつ前へ押し進め、木戸の近くまで迫った。
その時、奈良の般若寺から巻数(かんじゅ。祈願や読経の内容・回数などを記した報告)を届けに来ていた、本性房という力の強い僧がいた。
本性房は衣の袖を結び、動きやすいようにした。
そして普通の人なら100人がかりでも動かせないような大岩を、軽々と脇に抱えた。
その大岩を、まりでも投げるように、次々と敵へ投げ落とした。
20個、30個と、続けざまに巨石が落ちてくる。
幕府軍の盾は粉々に砕かれた。
石に少しでも当たった者は地面へ打ち倒され、東西の坂には人の死体が積み重なった。
人と馬が、その上へさらに折り重なる。
深い谷が2つ、死者によって埋まるほどだったという。
戦いが終わったあとも、木津川には血が流れ続けた。
その色は、紅葉の下を流れる川よりも、さらに深い赤だった。
これ以後、幕府軍は大勢でありながら、正面から城を攻めようとはしなくなった。
ただ笠置山の四方を囲み、遠くから見張るだけとなった。
楠木正成、赤坂城で兵を挙げる
こうして笠置山の包囲が続いていた1331年9月11日、河内国から早馬が到着した。
使者は報告した。
「楠木正成という者が天皇方となり、旗を挙げました。
近くの者たちは、志のある者は正成に加わり、加わらない者は東西へ逃げ隠れています。
正成は国中の民家から物資を没収し、兵糧として運び取り、自分の屋敷の上にある赤坂山へ城を築き、500騎で立てこもっています。
討伐を遅らせれば、大変なことになるでしょう。急いで軍勢をお送りください」
六波羅の者たちは、
「また新たな反乱が起きたのか」
と騒いだ。
備後国でも反乱が起きる
さらに1331年9月13日の夕方、備後国からも早馬が到着した。
使者は告げた。
「桜山四郎入道(一般に桜山茲俊とされる人物)とその一族が天皇方に加わって旗を挙げました。
備後国の一宮を城として立てこもり、近くの国々からも反幕府の者たちが加わっています。
その兵は、すでに700騎余りです。
備後国全体を従え、さらに他国へ攻め込もうとしています。
昼夜を分かたず討伐軍を送らなければ、大事件になるでしょう。決して油断してはなりません」
前方では、笠置山の守りが固く、各国の大軍が毎日攻めても落とすことができない。
その後方では、楠木正成や桜山四郎入道が立ち上がり、各地から次々と緊急の知らせが届く。
六波羅探題は、
「南や西の国々は、すでに乱れ始めた。東国や北国まで反乱を起こしたら、どうなるのか」
と不安になった。
そして毎日のように早馬を鎌倉へ送り、東国からの援軍を求めた。
鎌倉から20万の大軍が出発する
北条高時は、この知らせを聞いて大いに驚いた。
「それならば、すぐに討伐軍を京都へ送れ」
と命じた。
北条一門をはじめ、幕府に仕える有力な武将63人が招集された。
大将には、大仏貞直、普恩寺相模守、塩田越前守、赤橋尾張守、江馬越前守、金沢右馬助らが選ばれた。
その中には、後に室町幕府を開く足利高氏(のちの足利尊氏)もいた。
さらに三浦氏、武田氏、結城氏、小山氏、佐竹氏、宇都宮氏、伊達氏、南部氏、毛利氏など、東国各地の有力な武士たちが参加した。
武蔵・相模・伊豆・駿河・上野の5か国からも兵が集められた。
『太平記』には、その総数は20万7,600騎余りだったと記されている。
1331年9月20日、大軍は鎌倉を出発した。
1331年9月30日には先頭の軍が美濃国と尾張国へ到着していたが、後方の軍勢は、まだ遠い峠道につかえていたという。
それほど長大な軍列だった。
陶山・小見山の決意
備中国の武士に、陶山藤三義高と小見山次郎がいた。
2人は六波羅からの命令に従い、笠置山を攻める軍に加わり、川の向こう側へ陣を構えていた。
そこへ、
「東国からの大軍が、すでに近江国まで来ている」
という知らせが届いた。
陶山は一族と家来たちを集めて言った。
「皆は、どう考えている。
この数日間の戦いで、石に打たれたり、遠くから飛んできた矢に当たったりして、何千、何万という者が死んだ。
しかし彼らは、これといった手柄を立てないまま死んだため、遺体がまだ乾かないうちに、その名は忘れられてしまう。
どうせ同じ1つの命を失うのなら、人々が驚くような戦いを1度行って死のうではないか。
そうすれば名誉は1,000年後まで残り、恩賞は子孫の家を栄えさせるだろう。
平家の時代から今まで、勇敢な武士として名を残した者たちを考えてみても、それほど特別な手柄とは思えない。
熊谷や平山が一ノ谷で先頭を駆けたのは、後ろに大軍が続いていると分かっていたからだ。
梶原景時が2度敵へ向かったのは、息子の景季を助けるためだった。
佐々木盛綱が藤戸を渡れたのは、浅瀬を教える案内人がいたからだ。
佐々木高綱が宇治川で一番乗りできたのは、名馬・生食に乗っていたからだ。
それでも彼らの名は、今まで語り伝えられている。
まして日本中の武士が何日攻めても落とせなかった笠置城を、我々だけの力で落としたならば、古今に並ぶ者のない名誉となるだろう。
さあ、今夜の雨風に紛れ、城へ忍び込もう。
夜襲を仕掛け、天下の人々を驚かせようではないか」
一族と家来、50人余りは、
「まことに、そのとおりだ」
と賛成した。
全員が、
「1,000人に1人も、生きて帰る者はいないだろう」
と覚悟していた。
死後の救いを願い、鎧には仏の曼荼羅を描いた紙をつけた。
さらに長い2本の縄を用意した。
縄には1尺(約30cm)ほどの間隔で結び目を作り、先端には熊手のような鉄のかぎをつけた。
登ることのできない岩壁では、木の枝や岩角にかぎを引っかけ、この縄を使って登るつもりだった。
嵐の夜の崖登り
その夜は1331年9月30日だった。
【年代注】 『太平記』本文では、陶山・小見山らの夜襲を1331年9月30日の出来事として語る。一方、現在の一般的な歴史叙述では、笠置山の陥落は1331年9月28日とされる。ここでは本文の物語上の年代を残し、史実上の年代と区別して読む。
月のない真っ暗な夜で、激しい雨と風が吹き、顔を正面へ向けることさえできなかった。
50人余りの兵たちは、太刀を背負い、短刀を後ろへ差した。
そして城の北側にある、高さ数百丈(1丈約3m)にも思える石壁へ向かった。
そこは鳥さえ飛んで越えるのが難しいほどの断崖だった。
兵たちは、どうにか2町(約220m)ほど登った。
しかし、その上にはさらに高い岩壁が立ちはだかっていた。
屏風をまっすぐ立てたような岩が重なり、古い松の枝が垂れ下がり、青い苔に覆われた地面は滑りやすい。
誰も、どう登ればよいのか分からなかった。
皆が岩壁を見上げたまま立ち止まっていると、陶山藤三は1人で、岩の上をするすると登っていった。
そして用意していた縄の熊手を、上にある木の枝へ引っかけ、縄を下へ垂らした。
後ろの兵たちは、その縄につかまった。
こうして最初の難所を、全員が無事に登ることができた。
その先は、これほど険しくはなかった。
つる草の根につかまり、苔の上につま先を立てながら進み、四時間ほど苦労して、ようやく城の塀の近くへ着いた。
城内へ忍び込む
50人は、そこでしばらく息を整えた。
それから1人ずつ塀を乗り越え、夜の見回りが歩いた跡をたどり、城の中を調べた。
正面の木戸と西の坂口は、伊賀・伊勢の兵1,000騎余りが守っていた。
東側の裏口は、大和・河内の兵500騎余りが守っていた。
南の坂と仁王堂の前は、和泉・紀伊の兵700騎余りが固めていた。
しかし北側だけは、険しい崖を頼りにしていたため、警備の兵が1人もいなかった。
身分の低い下働きが2、3人、櫓の下へむしろを張り、かがり火をたいて眠っているだけだった。
陶山と小見山は城内を回り、四方の守りをすべて確かめた。
次に、
「天皇のおられる御所は、どこだろう」
と探しながら、本堂の方へ向かった。
夜回りの兵を装う
すると、ある詰め所の者が足音を聞きつけ、声をかけた。
「夜中に大勢でひそかに歩いているとは怪しい。何者だ」
陶山吉次が、すぐに答えた。吉次は陶山義高の弟とされる。
「我々は大和の軍勢である。
今夜はあまりにも雨風が激しく、何か起こりそうで心配なので、敵が夜襲に忍び込んでいないか見回っているところだ」
詰め所の者は、
「なるほど」
と答え、それ以上は尋ねなかった。
これ以後、陶山たちは隠れて歩くのをやめた。
「皆様の陣でも、十分にご注意ください」
と大声で呼びかけながら、堂々と本堂へ近づいた。
天皇の御所を見つける
本堂へ上がってみると、そこが後醍醐天皇の御所だと分かった。
多くのろうそくがともされ、僧が振る鈴の音が静かに響いていた。
正式な公家の装束を着た3、4人が、大きな縁側に控えている。
公家たちが警護の武士に、
「誰がいるか」
と尋ねると、武士たちは自分の国と名を名乗り、回廊へきちんと並んだ。
陶山は、天皇の御所の様子まで詳しく確かめた。
「今こそ行動する時だ」
と判断した。
まず城の守り神の前で一礼した。
それから本堂の上にある峰へ登り、人のいない僧坊へ火をつけた。
50人は同時に、大きな攻撃の声を上げた。
城内が大混乱に陥る
山の四方を囲んでいた幕府軍は、城の中から火と叫び声が上がるのを聞いた。
「城内に裏切り者が現れ、火をつけたのだ。こちらも声を合わせよ」
正面と背後を合わせた7万余りの幕府軍が、一斉に叫び声を上げた。
その声は天地を揺らし、世界の中心にあるという巨大な須弥山でさえ崩れそうなほどだった。
陶山の50人は、先ほど城の中を詳しく調べていた。
1つの詰め所へ火をつけては、別の場所で叫び声を上げる。
こちらで叫んだかと思うと、今度は別の櫓へ火をつける。
四方八方を走り回り、まるで城内全体が大勢の敵に占領されたように見せかけた。
城の各所を守っていた朝廷軍は、
「敵の大軍が、すでに城の中へ攻め込んだ」
と思い込んだ。
兵たちは鎧を脱ぎ捨て、弓矢を投げ捨てた。
崖や堀があることも気にせず、転びながら山を逃げ下りた。
錦織判官代の最期
その中で、錦織判官代だけは、逃げていく者たちを見て怒った。
「何と情けない振る舞いだ。
天皇から頼りにされ、武家を敵として戦うと決めた者たちが、敵が大勢だというだけで、戦いもせず逃げるとはどういうことか。
この命を、いったいいつまで惜しむつもりなのだ」
錦織判官代は、向かってくる敵へ何度も走りかかった。
上半身の鎧を脱ぎ捨て、必死に戦った。
やがて矢をすべて射尽くし、太刀も折れてしまった。
もはや戦う方法がなくなると、錦織判官代は息子と並び、13人の家来たちとともに腹を切った。
全員が同じ場所に倒れ、最期を迎えたのである。
21. 笠置城の陥落――後醍醐天皇、山中を逃れる
炎に包まれる笠置山
陶山藤三義高・小見山次郎らが城内へ忍び込み、各所に火を放つと強い風によって炎は東西から燃え広がった。
やがて煙と火の粉は、後醍醐天皇のいる本堂にまで迫ってきた。
後醍醐天皇をはじめ、皇子たち、公家や役人たちは、履物を履く余裕さえなく、行く先も決められないまま笠置山を逃げ出した。
初めの1、2町(約110〜220m)ほどは、多くの者が天皇の体を支え、前後を守りながら進んでいた。
しかし、雨と風は激しく、夜道は真っ暗だった。
さらに、あちらこちらから幕府軍の叫び声が聞こえてくる。
一行は少しずつばらばらになり、最後には、天皇の手を引く者は万里小路藤房と、その弟の季房の2人だけになった。
『太平記』は、尊い天皇が農夫や野人のような身なりになり、どこへ向かえばよいかも分からないまま暗い山中をさまよう姿を描いている。
何とも痛ましい姿だった。
赤坂城を目指す逃亡
後醍醐天皇は、何とか夜のうちに、楠木正成が立てこもる赤坂城へたどり着こうとした。
しかし天皇は、それまで長い道を歩いた経験がほとんどない。
夢の中を歩いているような状態で、1歩進んでは休み、2歩進んでは立ち止まった。
昼間は道のそばにある草の茂った塚の陰へ身を隠し、まばらに生えた草を敷物にして休んだ。
夜になると、人の通らない野原を、露にぬれながら歩いた。
薄い絹の袖は乾く暇もなかった。
こうして昼も夜も3日間歩き続け、山城国多賀郡にある有王山のふもとまで逃れた。
万里小路藤房も万里小路季房も、3日間、まったく食事を口にしていなかった。
足は動かず、体も疲れ果てた。
もはや敵に見つかっても、逃げる力は残っていない。
3人はどうすることもできず、深い谷の岩を枕にして、君主も家臣も兄弟も一緒に、その場へ倒れるように眠った。
松の木の下で詠んだ歌
松のこずえを吹き抜ける風の音を、後醍醐天皇は雨が降ってきたのだと思った。
雨を避けようと松の木の下へ移ると、枝から落ちる露が、はらはらと天皇の袖にかかった。
それを見た天皇は、歌を詠んだ。
さして行く
笠置の山を
出でしより
天が下には
隠れ家もなし
その意味は、
頼りにして目指してきた笠置山を出てからは、
この天下のどこにも、
私が身を隠せる場所はない。
というものだった。
藤房は涙をこらえながら、歌を返した。
いかにせん
頼む陰とて
立ち寄れば
なお袖ぬらす
松の下露
その意味は、
どうすればよいのだろう。
雨露を避けられる場所だと思って、
松の木陰へ立ち寄ったのに、
その松の露によって、
さらに袖がぬれてしまう。
というものだった。
松の木を頼ったのに、その松にまで袖をぬらされる。
これは、助けを求める場所がどこにもない天皇の苦しい立場を表していた。
後醍醐天皇、発見される
山城国の住人である深須入道と松井蔵人は、この地方の山道をよく知っていた。
2人は山や峰を残らず捜し回り、ついに後醍醐天皇を見つけた。
天皇は、おびえた様子を見せながら2人に言った。
「お前たちに忠義の心があるなら、私を助けよ。天皇の恩を受け、将来の栄えを得るがよい」
この言葉を聞くと、深須入道は心を動かされた。
「この天皇を隠して守り、味方の兵を集めようか」
と考えたのである。
しかし、後ろにいる松井蔵人が何を考えているか分からない。
天皇を隠しても、すぐに秘密が漏れてしまえば、計画を成功させることはできない。
深須入道は迷った末、何も行動しなかった。
何とも残念なことだった。
捕らえられ、奈良へ運ばれる
急なことだったため、立派な輿さえ用意できなかった。
後醍醐天皇は、粗末な張り輿に乗せられ、まず奈良の内山へ運ばれた。
その姿は、昔の中国で、殷の湯王が夏台に閉じ込められたことや、越王勾践が会稽山で降伏したことと少しも違わないように見えた。
このことを聞いた者、実際に見た者で、涙を流さない者はいなかった。
捕らえられた人々
この時、各地で後醍醐天皇方の多くの人々が生け捕りにされた。
皇族では、
- 尊良親王(一宮・中務卿親王)
- 尊澄法親王(第二宮・妙法院宮。のちの宗良親王)
高僧や公家では、
- 春雅僧正
- 東南院聖尋僧正
- 万里小路宣房
- 花山院師賢
- 公敏
- 北畠具行(本文では源具行)
- 公明
- 洞院実世
- 万里小路藤房
- 万里小路季房
- 平成輔
- 二条為明
- 行房
- 千種忠顕
- 能定
- 四条隆兼
- 澄俊法印
などがいた。
さらに、朝廷に仕える武士や家来では、
- 氏信
- 有清
- 重定
- 兼秋
- 宗秋
- 則秋
- 長明
- 足助重範
- 能行
- 大河原有重
らが捕らえられた。
奈良の僧や武士、比叡山の僧兵たちも捕らえられ、その人数は合わせて61人に達した。
その家来や身内まで数えれば、とても数えきれなかった。
捕虜たちは、ある者は粗末なかごに乗せられ、ある者は幕府が用意した馬に乗せられ、昼間の京都へ連れて行かれた。
町の男女は、
「あれが捕らえられた天皇方の人々らしい」
と道に並び、人目も気にせず泣き悲しんだ。
何とも痛ましい光景だった。
宇治の平等院へ
元弘元年(1331年)10月2日、六波羅探題北方の常葉範貞は、3,000騎余りの兵で道を警備し、後醍醐天皇を宇治の平等院へ移した。
その日、鎌倉から来た幕府軍の2人の大将は、京都へは入らず、直接宇治へ向かった。
2人は後醍醐天皇に面会し、こう申し上げた。
「まず三種の神器をお渡しください。それを持明院統の新しい天皇へお渡しいたします」
後醍醐天皇は、藤房を通して答えた。
三種の神器をめぐる後醍醐天皇の反論
【読み方の注意】 以下は『太平記』本文が伝える後醍醐天皇の言葉である。三種の神器の所在については、物語上の記述として読む必要がある。
「三種の神器は、昔から皇位を継ぐ天皇が、天から位を授けられる時、前の天皇が自ら手渡すものである。
たとえ国中に大きな力を振るう反逆者が現れ、一時的に天下を握ったとしても、その者が勝手に三種の神器を奪い、新しい天皇へ渡した例など、私は聞いたことがない。
そのうえ、八咫鏡をまつる内侍所は、笠置山の本堂に置いてきた。おそらく戦場の炎の中で、灰になったことだろう。
神璽は、山中をさまよっていた時、木の枝にかけてきた。いずれ再び、この国を守る宝となるに違いない。
宝剣だけは、今も私の体から離していない。
もし幕府の武士たちが天罰を恐れず、私の体へ近づこうとするならば、私は自らこの剣の刃に身を伏せるつもりである」
天皇がそう答えると、鎌倉から来た2人の使者も、六波羅の者たちも、何も言い返すことができず、退出した。
正式な行列を求める
翌日、幕府側は後醍醐天皇を六波羅へ移そうとした。
しかし天皇は、
「これまでの天皇の移動と同じ、正式な行幸の儀式を整えなければ、私は六波羅へ行かない」
と強く主張した。
幕府側は仕方なく、天皇が乗る正式な鳳輦を用意し、天皇の礼服も準備した。
そのため、後醍醐天皇は1331年10月3日まで平等院に滞在し、その後ようやく六波羅へ入った。
六波羅へ向かう悲しい行列
しかし、その日の行列は、これまでの華やかな行幸とはまったく違っていた。
天皇の鳳輦は、数万の武士によって囲まれている。
高い身分の公家たちも、粗末なかごや輿、借り集められた馬に乗せられていた。
一行は七条から東へ進み、鴨川沿いを北上して六波羅へ向かった。
その姿を見た人は涙を流し、話を聞いた人も心を痛めた。
昨日まで後醍醐天皇は、紫宸殿の高い御座に座り、多くの役人から礼を受けていた。
ところが今は、幕府の粗末な建物へ入れられ、無数の兵に監視されながら、不安な日々を送っている。
時は移り、栄えは去り、楽しみが尽きれば悲しみがやって来る。
天上の神でさえ衰えることがあり、人の世の栄華も、炊いている飯ができるまでの短い夢にすぎない。
すべてが夢のように思われた。
六波羅で詠んだ歌
御所からそれほど遠くない六波羅で、後醍醐天皇は、以前暮らしていた宮中のことを何度も思い出した。
ある夜、にわか雨が板屋根を打ち、軒先の月の前を通り過ぎていった。
天皇はその音を聞いて、歌を詠んだ。
住みなれぬ
板屋の軒の
村時雨
音を聞くにも
袖はぬれけり
その意味は、
住み慣れない粗末な板屋根の下で、
軒を打つにわか雨の音を聞くだけでも、
宮中での日々を思い出し、
涙で袖がぬれてしまう。
というものだった。
中宮から届いた琵琶
1331年10月7~8日ごろ(六波羅へ入って4、5日後)、中宮・西園寺禧子から後醍醐天皇のもとへ、琵琶が届けられた。
そこには手紙が添えられ、次の歌が書かれていた。
思ひやれ
塵のみ積もる
四つの弦に
払ひもあへず
かかる涙を
その意味は、
お察しください。
あなたのいない部屋では、
琵琶の4本の弦に塵が積もっています。
その塵を払おうとしても、
涙があふれ、払いきることができません。
というものだった。
後醍醐天皇は、返事として次の歌を送った。
涙ゆゑ
半ばの月は
陰るとも
共に見し夜の
影は忘れじ
その意味は、
涙によって、
半月の光がかすんで見えなくなっても、
あなたと一緒に月を見た夜の光を、
私は決して忘れない。
というものだった。
捕虜たちの身柄が分けられる
1331年10月8日、六波羅の軍事を担当する高橋刑部左衛門と糟谷宗秋が、六波羅へやって来た。
そして、今回捕らえられた人々を1人ずつ、有力な武将に預けた。
一宮中務卿親王は佐々木時信に預けられた。
妙法院尊澄法親王は長井高広に預けられた。
源具行は筑後貞知に預けられた。
東南院聖尋僧正は常陸時朝に預けられた。
万里小路藤房と千種忠顕(六条少将)の2人は、引き続き後醍醐天皇のそばに仕えることを許された。
ただし自由になったわけではなく、囚人に近い立場のまま六波羅に残された。
三種の神器、新天皇のもとへ
1331年10月9日、『太平記』本文では三種の神器が、持明院統の新帝・光厳天皇のもとへ渡されたと記されている。
堀河具親と日野資名がそれを受け取り、長講堂へ運んだ。
警備のため、長井弾正蔵人、水谷兵衛蔵人、但馬民部大夫、佐々木清高らが置かれた。
そして1331年10月13日、『太平記』本文では新帝・光厳天皇が「登極」したとして、長講堂から内裏へ入ったと記している。
供をする公家たちは、花を飾り、晴れやかな衣装を整えた。
警護の武士たちは鎧を身につけ、万一の事件に備えた。
栄える者と衰える者
後醍醐天皇に仕えていた者たちは、罪がある者もない者も、
「これから、どのようなひどい目にあうのだろう」
と、何かあるたびに身の危険を感じ、心を痛めた。
一方、新しい天皇のもとへ集まった人々は、忠義があった者もなかった者も、
「これで自分たちは栄えることができる」
と喜び、目や耳を楽しませていた。
実がなって木陰を作る一方で、花は枝から散り落ちていく。
苦しみと成功、栄誉と恥辱は、時の流れによって入れ替わる。
それは今に始まったことではない。
しかし、この時ほど、現実と夢の区別がつかなくなるような、激しい運命の変化はなかったのである。
22. 赤坂城の戦い――楠木正成の奇策
幕府の大軍、赤坂城へ向かう
東国からはるばる上ってきた幕府の大軍は、まだ近江国に入らないうちに、笠置山がすでに落ちたと知った。
せっかく出陣したのに戦う機会を失ったことを残念に思い、誰1人として京都へは入らなかった。
ある軍勢は伊賀・伊勢の山道を通り、別の軍勢は宇治・醍醐の道を進み、楠木正成が立てこもる赤坂城へ向かった。
一行が石川の河原を過ぎ、遠くから赤坂城を眺めると、それは急ごしらえの小さな城にしか見えなかった。
堀も十分には掘られておらず、塀はわずか1重だけである。広さも1、2町四方(1辺約110〜220m)ほどしかなく、その中に20、30ほどの櫓が並んでいるだけだった。
それを見た幕府軍の武士たちは、皆あざ笑った。
「何とも哀れな城だ。この程度なら、片手に載せて投げ飛ばすことさえできそうだ。
どうか楠木正成よ、1日くらいは持ちこたえてくれ。すぐに落ちてしまっては、敵の首を取って手柄を立て、恩賞をもらうこともできないではないか」
誰もが、赤坂城など簡単に落とせると思っていた。
三十万の大軍が押し寄せる
『太平記』によれば、赤坂城へ押し寄せた幕府軍は30万騎に達したという。
軍勢は城へ着くと同時に、我先にと馬を走らせた。
堀へ飛び込み、櫓の下へ集まり、
「自分こそ最初に城内へ入ろう」
と争うように攻め寄せた。
しかし楠木正成は、初めから大軍を正面から迎え撃つつもりはなかった。
『太平記』の作者は、楠木正成の知略を、中国の名軍師・陳平や張良になぞらえて高く評価している。
城内には弓の名手200人余りを配置した。
一方、弟の楠七郎(一般に、のちの楠木正季と同一視される人物)と和田五郎正遠には300騎余りを預け、城から離れた別の山へ隠していた。
幕府軍は、その伏兵の存在にまったく気づいていなかった。
ただ1度の攻撃で、城を押しつぶそうと考え、四方の崖下へ一斉に集まった。
その瞬間、櫓の上や塀の陰から、城兵たちが矢を放った。
敵が密集していたため、狙いを外す心配もない。
弓を引いては射ち、また引いては射ち続けた。
わずかな間に、幕府軍の死傷者は1,000人余りに達した。
伏兵による奇襲
幕府軍の武士たちは、予想外の損害を受けて驚いた。
「この城は、1日や2日では落ちそうにない。
いったん陣を構え、役割を分けてから、改めて攻めよう」
そう言って城から少し離れ、馬の鞍を下ろし、鎧を脱いで幕の中で休み始めた。
遠くの山からその様子を見ていた楠七郎と和田五郎正遠は、
「今こそ攻撃の時だ」
と判断した。
300騎余りを2手に分け、東西の山の木陰から静かに進み出た。
2本の菊水の旗が、松を吹く風になびいている。
兵たちは急がず、ゆっくりと馬を進め、砂煙を巻き上げながら幕府軍へ近づいた。
幕府軍は、その軍勢を見ても、敵なのか味方なのか判断できず、ためらっていた。
その時、300騎が東西から一斉に声を上げた。
そして、雲や霞のように広がる30万騎の中へ、魚のうろこのような鋭い陣形で突入した。
東西南北へ駆け抜け、四方八方の敵を斬って回る。
幕府軍は突然の攻撃に驚き、隊列を整えることができなかった。
城内からも一斉攻撃
同時に赤坂城では、3つの門が一斉に開かれた。
城内の200騎余りが、武器の先を並べて飛び出した。
敵の正面へ回り込み、矢を激しく射かける。
圧倒的な大軍であった幕府軍も、わずかな敵の奇襲に混乱した。
つないでいた馬に飛び乗ろうとしても、馬が驚いて前へ進まない。
弦をゆるめて置いていた弓に、急いで矢をつがえようとしても、すぐには射ることができない。
1つの鎧を2人、3人で取り合い、
「それは私のものだ」
「いや、私の鎧だ」
と争っている間にも、次々と討たれていった。
主人が殺されても家来は気づかず、父が討たれても子は助けることができない。
幕府軍は、クモの子を散らすように、石川の河原まで逃げていった。
50町(約5.5km)ほど続く道には、捨てられた馬や鎧があふれ、足の踏み場もないほどだった。
近くに住む東条郡の人々は、それらを拾い、突然豊かになったという。
幕府軍、再び攻撃する
東国の武士たちは、最初の戦いで思いがけない敗北を喫した。
楠木正成の戦い方は、決して侮れない。
そう考え、吐田や楢原のあたりへ集まったものの、すぐに再び攻めようとはしなかった。
「今度は、この土地に詳しい者を先頭に立てよう。
背後から襲われないよう周辺の山の木を切り払い、民家も焼き払ってから、安心して城を攻めよう」
そのような作戦を話し合っていた。
しかし、本間氏や渋谷氏の武士たちの中には、先の戦いで親や子を失った者が多くいた。
彼らは怒って言った。
「家族を討たれ、生き残って何になる。
たとえ我々だけでも城へ攻めかかり、討ち死にしてやろう」
その言葉に励まされ、ほかの武士たちも、
「自分も行く」
「自分も戦う」
と、次々に赤坂城へ向かった。
何もしてこない城兵
赤坂城は、東側だけは田のあぜが何重にも高く続き、少し攻めにくい地形だった。
しかし、残りの3方は平地につながっている。
守りも、1重の堀と1重の塀だけに見えた。
幕府軍は、
「どれほど恐ろしい鬼や神が中にいたとしても、この程度の城が何だというのか」
と、再び正成を侮った。
城へ着くと、堀の中や崖下まで攻め寄せ、逆茂木を取り除き、内部へ突入しようとした。
ところが、城内からは物音1つ聞こえない。
幕府軍は考えた。
「昨日と同じように、まず矢を射て多くの兵を傷つけ、我々が混乱したところへ、背後に隠した伏兵を出すつもりだろう」
そこで10万騎余りを後ろの山へ向かわせ、伏兵に備えた。
残る20万騎は、稲や麻、竹や葦が一面に生えているように、赤坂城を取り囲んだ。
それでも城内からは、矢1本飛んでこない。
人がいる気配さえなかった。
幕府軍はますます勢いづき、四方の塀に手をかけ、同時に乗り越えようとした。
倒れる塀の罠
実は正成は、初めから塀を2重に作っていた。
外側の塀は、必要な時に切り落とせるように仕掛けてあったのである。
幕府軍が塀へ大勢で取りついた瞬間、城兵たちは四方の縄を一斉に切った。
塀は外側へ倒れ、取りついていた1,000人余りの兵が、その下敷きとなった。
突然押しつぶされ、目を白黒させている幕府兵へ、城内から大木や大石が次々と投げ落とされた。
この日の戦いでも、幕府軍は700人余りを失った。
2日続けて大きな損害を受けたため、幕府軍には、もう積極的に城を攻めようとする者がいなくなった。
城の周りに陣を構え、遠くから囲むだけとなった。
丈夫な盾を用意する
4、5日ほど、幕府軍は何もせず城を見張っていた。
しかし、
「1辺が4町(約440m)にも足りない平地の城に、わずか400、500人が立てこもっている。
それを東国8か国の大軍が攻め落とせず、遠くから囲んでいるだけとは、何とも情けない。
後世の人々に笑われるのは悔しい」
という声が上がった。
「これまでは勢いに任せ、盾も持たず、攻城用の道具も用意しないまま攻めたから、無駄に多くの者が死んだ。
今度は攻め方を変えよう」
幕府軍は、それぞれに大きな盾を作らせた。
盾の表面には硬い革を張り、石や木を落とされても、簡単には壊れないようにした。
兵たちはその盾を頭上にかざし、再び赤坂城へ進んだ。
熱湯を浴びせる
崖も堀も、それほど高く深いものではない。
走って塀まで近づくことは簡単に思えた。
しかし幕府軍は、
「また塀が倒れる罠ではないか」
と警戒し、すぐには壁へ取りつかなかった。
そこで兵たちは堀へ入り、大きな熊手を塀に引っかけ、外から引き倒そうとした。
塀が今にも破れそうになった時、城内から長い柄のついた大きなひしゃくが突き出された。
そのひしゃくには、煮え立った熱湯が入っていた。
城兵たちは、熱湯を次々と幕府兵の頭上へ浴びせた。
熱湯は兜の上から、首や顔を守る鎧の隙間へ流れ込み、全身を焼いた。
幕府兵は耐えきれず、盾も熊手も投げ捨て、一斉に逃げた。
その見苦しさは、言葉にできないほどだった。
その場で死ぬ者はいなかったが、手足をやけどして立てなくなった者や、全身を傷めて寝込んだ者は、200、300人に達した。
幕府軍が攻め方を変えるたび、正成も守り方を変える。
ついに幕府側は、
「力攻めでは、どうすることもできない。食料が尽きるまで囲むしかない」
と決めた。
兵糧攻め
その後、幕府軍は激しい攻撃をやめた。
それぞれの陣に櫓を建て、逆茂木を並べ、赤坂城を遠くから包囲した。
戦いがなくなったことで、かえって城内の兵たちは苦しくなった。
戦っている間は気持ちを奮い立たせることもできたが、ただ包囲され、食料が減っていくのを待つだけでは、心も体も疲れていく。
赤坂城は、正成が急いで築いた城だった。
十分な食料を用意する時間もなかった。
包囲されてからわずか20日余りで、城内の食料はほとんど尽き、残りは4、5日分だけとなった。
正成の脱出作戦
正成は兵たちを集め、こう言った。
「我々はこれまで何度も戦いに勝ち、数えきれないほどの敵を倒した。
しかし敵はあまりにも大勢であるため、この程度の損害など何とも思っていない。
城内の食料はすでに尽き、援軍も来ない。
我々は、天下の武士に先駆けて新しい世を作る功績を立てようとした。
そのためなら、正しい時に命を捨てることを惜しんではならない。
しかし、危険に出会った時にむやみに死ぬのではなく、作戦を考えて目的を果たすことも、勇敢な武士のすることである。
そこで私は、ひとまずこの城を捨て、自分が自害したように敵へ思わせようと考えている。
正成が死んだと知れば、東国の軍勢は喜び、国へ帰るだろう。
敵が帰れば、私は再び兵を挙げる。
また攻め上ってくれば、深い山へ入って隠れる。
これを4度、5度と繰り返せば、東国の軍勢も、いずれ疲れ果てるに違いない。
これは、自分たちの命を守りながら、敵を倒すための作戦である。
皆はどう思うか」
兵たちは全員、
「もっともな作戦です」
と賛成した。
自害したように見せかける
正成は城内に、深さ2丈(約6m)ほどの大きな穴を掘らせた。
これまでの戦いで堀の中に倒れていた敵の死体を20、30体、穴へ運び入れた。
その上に炭や薪を積み、雨と風の強い夜が来るのを待った。
正成の運が天に味方したのだろうか。
ある夜、突然、砂を巻き上げるほどの強い風が吹き、大雨が激しく降り始めた。
夜は深く暗く、幕府軍の陣では、皆が幕を低く下ろして雨風を避けていた。
正成は、
「待っていた夜が来た」
と判断した。
城には1人だけ残し、こう命じた。
「我々が4、5町(約440〜550m)ほど離れたと思うころ、城へ火をつけよ」
そのほかの兵たちは鎧を脱ぎ、幕府軍の兵に紛れやすい姿となった。
5人、3人と別々の組に分かれ、敵の詰め所や、眠っている兵たちのそばを通り、静かに城から脱出した。
長崎の陣を通り抜ける
正成が、幕府の有力者である長崎氏の馬小屋の前を通った時、敵兵に見つかった。
「何者だ。詰め所の前を通るのに、何の断りもなく、なぜひそかに歩いている」
正成は落ち着いて答えた。
「大将の家来ですが、道を間違えました」
そう言い捨てると、早足で通り過ぎた。
しかし、問いかけた兵は疑った。
「やはり怪しい者だ。きっと馬泥棒に違いない。射殺せ」
兵は正成の近くまで走り寄り、背中の中央を狙って矢を放った。
矢は正成の腕のあたりへ強く当たり、深く刺さったように見えた。
しかし正成は鎧を着ていなかったにもかかわらず、矢は体へ少しも刺さらず、はね返って飛んでいった。
『太平記』によれば、後で確かめると、矢は正成が長年信仰して読んでいた『観音経』を納めたお守りに当たっていたという。
矢尻は、
「一心に観音の名を唱えれば、救いを得られる」
という意味の2句のところで止まっていた。
ここは、観音の加護によって正成が救われたと語る、『太平記』の霊験譚である。
炎上する赤坂城
正成は死をもたらす矢から逃れ、20町余り(約2.2km余り)離れたところで後ろを振り返った。
すると約束どおり、赤坂城の建物にはすでに火が放たれていた。
幕府軍は炎を見て驚き、
「城が落ちたぞ」
と勝利の声を上げた。
「1人も逃がすな」
「残らず捕らえよ」
と、大騒ぎになった。
火が静まってから城内を調べると、大きな穴の中に炭が積まれ、その中には多くの焼死体があった。
幕府軍は、それを正成と城兵たちの遺体だと思い込んだ。
「ああ、楠木正成は、すでに自害していたのか。
敵ではあったが、武士として立派な最期を遂げたものだ」
正成をほめない者は、1人もいなかったのである。
23. 桜山四郎入道の自害
味方を失った桜山四郎入道
桜山四郎入道(一般に桜山茲俊〔さくらやま これとし〕とされる人物)は、備後国のおよそ半分を味方につけていた。
【年代注】 『太平記』本文は、この段で桜山四郎入道の自害の日付を明記していない。一般には元弘2年(1332年)1月21日の自害とされる。
そして次には備中国へ攻め込むか、それとも安芸国を従えるかと考えていた。
ところが、
「笠置山の城が落ち、後醍醐天皇が捕らえられた」
という知らせが届いた。
さらに、
「楠木正成も赤坂城で自害した」
という知らせまで伝わってきた。
正成が本当は生きていることを、桜山四郎入道は知らなかったのである。
これを聞くと、それまで勢いに乗って桜山に従っていた者たちは、皆逃げ去った。
最後までそばに残ったのは、血のつながった一族と、長年仕えてきた家来たち、合わせて20人余りだけだった。
逃げ場のない時代
『太平記』はこの場面で、鎌倉幕府の権力が全国に及び、身を隠せる土地がないほどだったと描いている。
親しい者の家へ逃げ込んでも、かくまい続けてもらうことは難しい。
まして、それほど親しくない者を頼ることなどできなかった。
桜山四郎入道は考えた。
「やがて幕府の兵に捕らえられ、殺された遺体を人前にさらされるくらいなら、自分の手で最期を決めよう」
そして備後国の一宮へ向かった。
妻子との最期
桜山四郎入道には、8歳になる大切な息子がいた。
また、長年連れ添ってきた27歳の妻もいた。
『太平記』は、桜山四郎入道が2人を自ら刺し殺したと記している。本文は、この部分で妻子を殺した理由を詳しく説明していない。
続いて神社の建物へ火をつけ、自分も腹を切った。
残っていた一族や家来たち23人も、桜山四郎入道と運命をともにした。
全員が燃え上がる炎の中で、灰となって死んだのである。
なぜ神社へ火をつけたのか
しかし、ここで疑問が残る。
死ぬ場所なら、ほかにもいくらでもあった。
それなのに桜山四郎入道は、なぜわざわざ神社へ火をつけ、その中で自害したのだろうか。
ここから先は、なぜ神社を焼いたのかについて『太平記』作者が示す説明である。
桜山四郎入道は長年、この神社を深く信仰していた。
ところが神社の建物はひどく傷み、修理が必要な状態になっていた。
桜山四郎入道はそれを嘆き、
「いつか私の力で、この神社を建て直したい」
という大きな願いを立てていた。
しかし、神社を建て直すには、莫大な費用が必要だった。
桜山四郎入道には強い願いはあっても、それを実現できるだけの力や財産がなかった。
倒幕に加わった理由
『太平記』の作者は、桜山四郎入道が後醍醐天皇方に加わった理由を、この神社再建の願いを実現するためだったと説明している。
朝廷方が勝利し、自分が功績を立てれば、恩賞を受けることができる。
その力を使って、神社を建て直そうと考えていたのである。
しかし、その計画は失敗した。
味方は去り、桜山四郎入道も死を覚悟しなければならなくなった。
長年の願いも、果たせないまま終わろうとしていた。
神社を焼けば再建される
『太平記』によれば、そこで桜山四郎入道は、最後に1つの方法を考えたという。
「このまま自分が死ぬだけでは、神社は荒れたまま残るだろう。
だが、私たちが神社を焼き払えば、朝廷も幕府も、そのまま放っておくことはできない。
どちらが勝ったとしても、いずれ必ず神社を建て直すことになるはずだ。
たとえ神社を焼いた罪によって、私自身が地獄の底へ落ちたとしてもかまわない。
神社を再建するという願いさえ実現するならば、何も悲しむことはない」
桜山四郎入道は、そのような激しい決意から、神社の中で焼け死ぬ道を選んだのである。
作者の考え
もちろん、神社を焼くことは大きな罪である。
また神は、正しくない方法でささげられた願いを、簡単に受け入れるものではない。
それでも『太平記』の作者は、桜山四郎入道の願いについて考える。
神や仏は、人々を救うため、この世にさまざまな姿で現れるといわれている。
素直に神仏へ従う者との縁だけでなく、逆らい、罪を犯した者との縁さえ、最後にはその人を救うきっかけとなることがある。
それならば、桜山四郎入道がこの世で犯した罪も、いつか神との新しい縁に変わるのかもしれない。
そのように考えれば、桜山四郎入道にも、わずかながら救いの望みがあったように思われるのである。