峯村部材店主

太平記 39巻

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巻第三十九では、大内弘世・山名時氏・仁木義長らの帰参、関東の苦林野合戦、春日神木をめぐる神訴と斯波高経(道朝)の失脚を描く。

後半は、高麗使節と倭寇、蒙古襲来・神功皇后をめぐる長大な異国・神国説話、そして光厳院法皇の行脚と山国での崩御へ進む。年代・軍勢数・神異・異国説話には一般的な歴史叙述と大きく異なる箇所があるため、『太平記』本文の語りと史実を分けて示す。

巻第三十九|目次

※読み方:『太平記』本文を第一に現代語訳し、一般的な歴史叙述と異なる箇所や、本文自身に年代・数量上の矛盾がある箇所は注記して区別した。通常の数量は算用数字へ統一し、尺・寸・丈・町・間などは原単位を残して現代のおおよその値を必要に応じて併記する。「里」は時代・地域で長さが一定しないためkmへ単純換算しない。巨大な軍勢数、神託・怪異、蒙古襲来・神功皇后などの説話は史実と断定せず、『太平記』が語る中世の物語として示す。


322. 大内氏の降伏――善悪より富を重んじる世

変心の多い乱世

聖人が世へ現れ、正義と道を教えた時代でさえ、賢い者は少なく、愚かな者は多かった。

人々の心が、すべて一致することはなかった。

堯の世にも四凶がいた。

魯国にも悪人は存在した。

まして現在は、道徳が衰えた末世であり、日本も小さな国である。

仁義を理解する者が少なくても、不思議ではない。

それにしても近年の人々ほど、嘆かわしい者たちはないと『太平記』は批判する。


利益や恨みで立場を変える

武士であるならば、

  • 正しい道のため死に
  • 義を守って名を失わない

ことを第一とするべきである。

しかし少しでも欲を持てば、すぐ相手の味方となる。

わずかな恨みを抱けば、簡単に敵となる。

誰を最後まで味方として頼れるだろうか。

変わりやすい心は鴻の羽より軽く、曲がらない志は麒麟の角より珍しい。

身分の低い者の中に、たまたま1度も寝返らない者が1、2人いたとしても、禄や利益を示して呼ぶ者があれば、1日も同じ所へ留まらないだろう。50歩だけ逃げた者が100歩逃げた者を笑うようなもので、程度の差にすぎない――と『太平記』は皮肉る。


古代の賢者とは違う

「昔の百里奚も虞を捨て秦へ仕え、管仲も公子糾とともに死なず、斉桓公へ降ったではないか」

と思う者もいるだろう。

しかし外見は似ていても、事情はまったく異なる。

百里奚は、虞公が宝玉や名馬という賄賂へ迷い、晋へ道を貸そうとしたため諫めた。

しかし聞き入れられないと悟り、秦の穆公へ仕えた。

管仲も、自分だけの利益のため降伏したのではない。

古代の賢者が天下を治めるため二君へ仕えたことと、今の人々が利益を求めて降伏することには、天地ほどの隔たりがある。


大内氏が足利方へ降伏する

大内弘世(本文では「大内介」)は長年、南朝方として周防・長門両国を平定し、恐れる敵もなく暮らしていた。

ところが貞治3年春ごろ、突然心を変えた。

ここは『太平記』本文の年代に従った記述である。一般的な歴史叙述では、大内弘世が幕府方へ転じ、周防・長門両国の守護となったのは正平18年/貞治2年(1363年)とされる。

「現在支配している周防・長門両国を正式に与えてくださるならば、将軍方へ参ります」

と義詮へ申し入れた。

幕府は、

「西国平定の基礎となる」

として、すぐ望みどおり両国を与えた。


厚東氏が菊池方へ移る

それまで忠節を変えなかった厚東義武(駿河守)は、長門守護職を奪われ、深い恨みを抱いた。

長門を離れ、九州へ渡った。

菊池氏と協力し、大内氏を攻めようとした。


大内軍は菊池へ敗れる

大内氏は3000騎余りを率し、先に豊後へ攻め寄せ、菊池軍と戦った。

2度目の戦いで敗れ、菊池軍へ包囲された。

大内氏は降伏を願い、命を助けられた。

自国へ戻った後、京都へ上った。


莫大な贈り物

京都滞在中、大内氏は、

  • 数万貫の銭(当時の貨幣単位)
  • 新しく輸入された唐物

など、豪華な贈り物を用意した。

それを、

  • 奉行
  • 頭人
  • 評定衆
  • 遊女
  • 田楽師
  • 猿楽師
  • 遁世者

までへ配った。


人の評価は富によって決まる

まだ大内氏がどのような人物か見たこともない者まで、

「この人以上に役立つ人物はいない」

と褒めた。

世間の評判は善悪によって決まらず、人が用いられるか捨てられるかは、貧富によって決まる。

『太平記』は、

「まさに今の世のことをいう言葉である」

と批判する。

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323. 山名時氏父子、足利方へ帰参する

山名時氏と子の山名師氏(のち山名師義)は、近年足利方の敵となった。

山名時氏父子が足利義詮へ帰参したのは、一般に正平18年/貞治2年(1363年)とされる。

南朝と協力し、2度まで京都を攻略した。

義詮にとっては、これ以上ない大敵だった。


道誉への恨みだけだったと弁明する

山名父子は、ひそかに縁故のある者を通して申し入れた。

「2度の不義は、義詮殿の政権を危うくしようとしたものではありません」

「佐々木道誉の、あまりにも無礼で不本意な振る舞いへ、思い知らせるためでした」

「罪をお許しになり、現在支配している国々だけでも正式に与えてくださるならば、将軍方へ参り、忠義を尽くします」


5か国の守護職を得る

幕府は考えた。

「山名父子が味方となれば、各地の宮方は力を失う」

「西国も平穏となるだろう」

山名氏が近年支配していた、

  • 因幡
  • 伯耆

のほか、

  • 丹波
  • 丹後
  • 美作

を加え、5か国の守護職を与えた。


旧功の者は所領を失う

長年足利方へ忠功を立てた武士たちは、何も得られず、手を空しくした。

一方、何度も敵となった山名父子は、季節外れの春を得たように栄えた。

嫉妬し、嘆く者たちは言った。

「多くの所領が欲しいならば、まず将軍の敵となるべきなのだ」

しかし何を言っても、決定は変わらなかった。


路傍の花に及ばない松柏

詩人は、

人々は、競って華やかな花を争い、
美しい馬は飾られた車を追う。

この時、常緑の松や柏は、
道端の花にも及ばない。

と詠んだ。

変わらず忠義を守る者より、1度敵となって華々しく降伏した者の方が重く用いられる世を、まさに表す言葉だった。

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324. 仁木義長の降伏――かつての権臣の孤独

仁木義長には、特に大きな不義があったわけではない。

しかし行動があまりにも自分勝手だったため、多くの人々から嫌われた。

本人の意思とは関係なく、足利方の敵となった。

伊勢へ下り、長野城へ立てこもった。


伊勢国が三つへ分かれる

初めは、

  • 佐々木氏頼(法号・崇永)
  • 土岐頼康(法名・善忠)

が討手となり、長野城を攻めた。

その後、佐々木は別の用事で京都へ召された。

土岐氏だけが伊勢へ残り、義長を攻め続けた。

しかし義長は城を落とされなかった。


北畠顕信も勢力を持つ

伊勢国司の北畠顕信も、雲出川より西を支配し、機会を見て兵を出した。

伊勢国は、

  • 仁木方
  • 足利将軍方
  • 南朝北畠方

の三つへ分かれた。

1日として戦いが絶えることはなかった。


5、6年後の降伏

『太平記』は「5、6年が過ぎた」と語る。一般的な歴史叙述では、仁木義長が幕府へ帰参したのは正平21年/貞治5年(1366年)とされる。

義長は日ごろの過ちを悔い、

「将軍方へ降伏したい」

と申し入れた。

幕府は、

「義長には以前、大きな忠功があった」

「今回降伏すれば、伊賀・伊勢両国も静まるだろう」

として、義長を京都へ戻した。


何も持たない帰参

しかし義長の勢力が、すでに衰えた後の降伏だった。

  • 支配する国もなく
  • 従う兵もいなかった。

異国へ捕らわれた李陵のように、昔の友人さえ訪ねてこなかった。


1人だけの春と秋

人が訪れない庭の花は、春の中で1人だけ春を迎えるようだった。

馬の少ない門前の柳は、秋の中で1人だけ秋風へ吹かれるようだった。

かつて7か国を支配し、天下へ威勢を振るった仁木義長は、孤独な身となったのである。

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325. 芳賀禅可の反乱――足利基氏、武蔵野で奮戦する

上杉氏と芳賀氏の争い

貞治への改元後、京都や西国は、ひとまず静まった。

しかし東国では、足利方同士の戦いが起こり、民衆は安心して薪を取ることもできなかった。

原因は上杉氏と芳賀氏の対立だった。


上杉氏の復帰

数年前、尊氏・直義兄弟が争った時、上杉憲顕(本文では「上杉民部大輔」)は直義方へついた。

上野国板鼻で宇都宮氏へ敗れ、薩埵山でも尊氏方へ敗れた。

信濃へ逃れ、南朝方となり、再起の機会を待っていた。


基氏は上杉を許す

鎌倉の足利基氏は、幼いころ上杉氏へ養育された。

その昔からの親しみを捨てられなかった。

特別に越後守護職を与え、上杉氏を呼び戻した。


芳賀禅可の怒り

『太平記』本文は芳賀禅可を「越後国の守護」として語る。一方、一般には宇都宮氏綱が越後守護で、禅可はその重臣として越後支配に関わったとされる。禅可は処遇に怒った。

「降伏した不忠者の上杉へ、忠功によって得た自分の国を与えるとは」

芳賀氏と上杉氏は、越後で数か月戦った。

最後には芳賀氏が敗れた。

越後を奪われ、一族や若党も多数討たれた。

禅可は、

「何かの事情で世が再び乱れれば、上杉と戦い、この恨みを晴らしたい」

と願った。


板鼻で待ち伏せする

やがて上杉氏が基氏の執事となり、鎌倉へ移ると聞いた。

禅可は途中で上杉を討とうとし、上野国板鼻へ陣を置いた。

しかし上杉が上野へ入る前に、基氏は言った。

「自分勝手に、なぜこのような乱暴を行うのか」

「不満があれば、後から訴えればよい」

「合戦を企てることは、まことにけしからぬ」

「討伐する」

基氏は自ら大軍を率し、宇都宮へ向かった。


禅可の子ら800騎

禅可は、

「それならば、まず鎌倉殿と戦おう」

と決めた。

自分は宇都宮へ残ったまま、

  • 長男・芳賀伊賀守高貞
  • 次男・芳賀高家(駿河守)

へ800騎余りをつけ、武蔵国へ送った。

軍勢は坂東路80里を1夜で進み、正平18年/貞治2年(1363年)6月17日午前8時ごろ、苦林野へ着いた。


基氏軍の大陣

芳賀軍が丘へ上り、基氏の陣を見ると、

  • 東には白旗一揆5000騎余り
  • 西には平一揆3000騎余り
  • 中央には基氏直属軍3000騎余り

が陣を取っていた。

これは『太平記』が掲げる軍勢数である。現代の毛呂山町の史跡解説では、苦林野合戦の基氏軍を総勢3000人余り、芳賀軍を800騎として紹介している。

二引両の旗が朝日へ輝き、その下を多くの側近と騎射の兵が守った。

後方からは、関東8か国の軍勢が雲霞のように集まりつつあった。

1000騎にも満たない芳賀軍が攻めて勝てる相手とは思えなかった。


芳賀兄弟の先陣争い

芳賀伊賀守は馬へ乗り、母衣を整えて言った。

「平一揆・白旗一揆とは、以前から連絡を取った事情がある」

「戦況によっては、敵にも味方にもなるだろう」

「後方から来る大軍も、どれほど多くても、すぐには役に立たない」

「家の存亡と自分の運命は、この一戦で決める」

堂々と前へ進んだ。

弟の駿河守は言った。

「戦場には兄弟の礼はない」

「今日の先駆けは、自分以外にいない」

兄より前へ出て敵へ突入した。

800騎余りも魚鱗の陣で続いた。


基氏も正面から進む

基氏は勇猛な敵を見ても、少しもひるまなかった。

相手へ向かい、馬を静かに進めた。

芳賀軍が鬨の声を3度上げ、しばらく構えた。

基氏軍は天地が裂けるような一声を上げ、左右へ開いた。

芳賀軍800騎を東西から包囲した。


両軍が陣地を入れ替える

敵味方は、

  • 斬り
  • 落とされ
  • 組みつき
  • 組み伏せられ

半時ほど(約1時間)戦った。

両軍は互いに元の陣を奪い、南北へ分かれた。

原野は血に染まり、草は緑色を失った。

人馬の汗と血によって、池まで赤くなった。

双方100人余りが討たれ、負傷者は数えきれなかった。


駿河守が見えない

芳賀伊賀守が尋ねた。

「主だった者の中で、誰が討たれた」

「駿河守殿は、基氏殿へ斬り落とされたように見えました」

「乗っていた馬だけが戻っています」

兄は涙を汗とともに拭った。

「影のように離れず、生死をともにしようとした弟を目の前で討たれた」

「遺体の場所も分からないまま、ここへいることはできない」

母衣を結び直し、鎧を整え、再び攻め込んだ。


基氏も家臣の死へ怒る

基氏方でも70人余りが討たれた。

木戸兵庫助は、敵へ組みついたところを重なった敵に討たれた。

基氏は聞いて目を怒らせた。

「この戦いで、死ぬ時はともに死に、生きる時はともに生きようと約束した」

「命を惜しむ時ではない」

刃こぼれした太刀を小刀で削り直し、再び進もうとした。

左右の兵3000騎余りが大将より先へ出て、一斉に激突した。

その声は、広い武蔵野へ満ちた。


基氏の馬が倒れる

基氏は激しく戦い続けた。

乗馬の頭へ三太刀、首へ三太刀を受け、馬が倒れた。

敵は基氏と見抜き、

  • 背後から兜を打とうとする者
  • 馬を飛び降り、徒歩で組みつこうとする者

が左右から近づいた。


基氏の太刀

基氏は力が人より強く、判断も素早かった。

黄石公や李道翁の剣法を、状況へ応じて使った。

  • 兜を真二つに割り
  • 引き戻す太刀で背後の敵を斬り
  • 鎧の胴を打ち切り
  • 余った勢いで左側の敵を払った。

敵は刃を恐れ、近づけなかった。

基氏が馬を失ったことは、誰の目にも明らかだった。


大高重成が馬を譲る

大高左馬助重成が遠くから見て、急いで駆けつけた。

馬から下り、基氏の左側へ立った。

「何とすさまじい働きでしょう」

「昔の和泉・朝比奈でも、これほどではなかったでしょう」

と褒めた。

「早く、この馬へお乗りください」

基氏は喜び、馬へ飛び乗った。

そして言った。

「平家の侍・後藤兵衛が主君の馬へ乗って逃げたのとは、まるで違う働きだ」

「今日こそ本当に、大高の名へふさわしい」

互いに褒め合った。


岩松が基氏の鎧を着る

芳賀軍は、基氏が白糸威の鎧を着ていることを見抜いた。

岡本信濃守は、

「白糸威の若武者こそ基氏である」

と考え、組み討ちにするつもりだった。

基氏方の岩松治部大輔は、敵が大将の鎧を見分けたと察した。

「基氏殿の命へ代わろう」

として、

  • 自分の紺糸威の鎧を基氏へ着せ
  • 基氏の白糸威の鎧を自分が着た。

主従が命を代える

岡本信濃守は、白糸威の岩松を基氏と思い、近づいた。

岩松も基氏の身代わりとなる覚悟で、命を惜しまなかった。

2人が草鹿の的場ほどの距離へ近づいた時、岩松の家臣・金井新左衛門が前へ出た。

岡本と組み合い、馬から落ちた。

2人は互いに刺し違え、ともに死んだ。

岩松は基氏の命へ代わろうと鎧を替え、金井は岩松の命へ代わって死んだ。

主従ともに義を守り、忠節を重んじた人物だった。


芳賀八郎は助けられる

芳賀八郎は捕らえられていた。

しかし幼く、まだ髪を垂らした少年だった。

戦いの後、基氏は人をつけ、芳賀方へ帰したという。

優しく情け深い振る舞いだった。


芳賀軍の退却

芳賀軍800騎余りは、前日に2日分の道を1夜で進んでいた。

馬は疲れていた。

この日は入れ替わる新手もなく、1日中戦った。

兵は息も続かなくなった。

夕方、残った300騎余りを助け、宇都宮へ退いた。


追撃による損害

それまで戦いを外から見て、勝つ方へつこうとしていた白旗一揆は、芳賀軍が疲れて退くのを見ると追撃した。

後から基氏軍へ加わろうとしていた兵も、橋を引き、道をふさいだ。

退却路でも100騎余りが討たれた。

故郷へ戻った者の多くは髪を切り、出家して、世間から姿を消した。


基氏の威勢が高まる

戦いの後、

「宇都宮氏綱も討つべきである」

として、基氏は『太平記』によれば80万騎で小山氏の館へ進んだ。

宇都宮氏は急いで参上した。

宇都宮氏綱は、「芳賀禅可の行動へ、自分は同意しておりません」

「主従の道へ背いた罪から逃れられず、禅可自身はすでに逃亡しました」

「軍勢を向ける必要はありません」

基氏は深い考えがあったのだろう。

翌日、そのまま鎌倉へ帰った。


諫める子が必要である

古い言葉に、

君主に諫める臣がいなければ、君主は国を失う。
父に諫める子がいなければ、父は家を失う。

とある。

芳賀禅可が老いて考えを誤り、悪い企てをしても、子どもたちが正義を知り、止めていれば、多くの一族を死なせ、世間から笑われることはなかった。

禅可の思慮のない戦いによって、かえって基氏の威勢は強くなった。

東国大名や一揆の強訴も、それ以後少し収まった。

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326. 春日神木、京都へ入る――怪異と神訴

斯波高経(道朝)、越前を支配する

斯波高経(法名・道朝)は、尊氏・直義兄弟が争った時、直義方へついて敗れた。

一時は南朝へ身を寄せた。

その後、義詮が礼を尽くして何度も招いたため、再び足利方へ戻った。

『太平記』では「三男」とする斯波義将を表向きの執事へ立て、幕府政治を思いどおりに行うようになった。なお一般的な系譜では、義将は高経の四男とされる。


興福寺領・河口荘の押領

斯波氏は長年、越前守護だった。

越前国内の寺社領・本所領へ半済を行い、半分を家臣へ分けた。

『太平記』は、中でも南都興福寺領の河口荘を、すべて高経の家臣団の所領としたと語る。

一方、福井県史は、河口荘押領の中心人物は高経の被官・朝倉高景(宗賢)だったとしている。ここでは『太平記』の責任の置き方と、史料に基づく歴史叙述を区別する。


維摩会を支える荘園

河口荘の年貢は、毎年行われる維摩会の費用だった。

それだけではない。

興福寺の学僧たちは河口荘の収入によって、

  • 朝夕の食事を得て
  • 夜の灯火をともし
  • 学問を続けていた。

維摩会が行えなくなる

河口荘を奪われたため、必要な費用がすべて不足した。

維摩会の会場には柳の枝だけが風へ揺れ、舞人の手を垂らす姿のようだった。

問答の席では学僧の声に代わり、鶯がゆっくり歌うだけとなった。

興福寺は、

「これは寺院滅亡の始まりであり、天下を乱す原因ともなる」

「すぐ押領をやめ、維摩会を再興してください」

と、朝廷と幕府へ訴えた。


誰も裁定を実行しない

朝廷から命令は出た。

しかし用いる者はいなかった。

幕府の命令書も出た。

しかし斯波氏を恐れ、届ける者がいなかった。


春日神木を斯波邸前へ置く

興福寺の若い僧兵や春日社の氏人・国民たちは、強訴を行った。

正平19年/貞治3年(1364年)12月20日、春日神木を飾り、斯波高経(道朝)の屋敷前へ振り捨てた。

その日のうちに勅使が迎え、神木を長講堂へ入れた。


朝廷が神木へ奉仕する

天皇は自ら玉座を下り、普段の御膳を神木へ奉った。

摂関家は門を閉じ、毎日の神饌を供えた。

政治が捨てられ、ないも同然の末世だった。

それでも神意は明らかに存在するように見えた。

人々は、

「早く訴えを裁いてほしい」

と願った。

しかし斯波氏の権勢を恐れ、具体的に処理する者はいなかった。


ここからの大鹿、怪しい首、童の憑依、火災などは、『太平記』が春日明神の神意・祟りと結びつけて語る怪異譚である。出来事の因果関係を史実として断定するものではない。

2頭の大鹿

5月17日、どの山から現れたか分からない大鹿2頭が京都へ入った。

  • 家の棟
  • 築地塀の屋根

を走り渡った。

長講堂南門前で4度鳴いた。

その後、どの山へ帰ったとも分からず、姿を消した。


顔のない入道の首

人々が、

「不思議な出来事だ」

と噂していると、5月21日、七条東洞院で異様な物が現れた。

剃髪した跡はあるが、

  • 目もなく
  • 鼻もなく
  • 髪だけが長く生えた

生々しい入道の首が、一つだけ北へ転がっていった。

やがて、かき消すように消えた。


3日3夜跳び続ける少年

5月28日、長講堂の庭で独楽を回して遊んでいた10歳ほどの少年が、突然神がかった。

2丈、3丈(約6〜9m)も跳び上がり、3日3夜踊り続けたと『太平記』は語る。

参詣人が、

「どの神がお乗りになったのですか」

と尋ねた。

少年は口を閉じたまま答えず、1首の歌を高らかに3度詠んだ。

人が勝つのか、神が負けるのか。
しばらく待て。
三笠山が、この世へある限り。

詠み終えると、神がかりは醒めた。


神訴が3年放置される

見るにも恐ろしく、聞けば身の毛が立つ神託だった。

人々は、

「これで、すぐ神訴が裁かれる」

と思った。

しかし朝廷も幕府も聞き流し、3年間放置した。

朱塗りの玉垣には、引く者のない注連縄が朽ちた。

白い幣や榊の葉も、塵へ落ちようとしていた。

人々は神意を思い、将来を恐れた。


斯波邸の大火

当時、各国の守護・大名で、寺社領や本所領を押領していない者は、ほとんどいなかった。

しかし寺社側も、かなわない訴えに疲れ、黙っていた。

そのため不法が多くても、守護自身は罪へ問われないように見えた。

ところが斯波氏だけは、大社が正式に訴え、神訴と呪詛を直接受けた。

「これは斯波氏にとって不吉である」

と思われた。


春日明神の祟り

10月3日、七条東洞院の斯波高経(道朝)邸から突然火が出た。

財宝は一つも残らず、厩の馬も多く焼け死んだ。

人々は、

「春日明神の祟りである」

と噂した。


なお衰えない権勢

それでも道朝は、すぐ三条高倉へ新しい屋敷を建てた。

義詮のすぐ近くへ住み、門前には鞍を置いた馬が絶えなかった。

庭には酒肴を運ぶ列が続いた。

昔から、

「富貴の家は鬼がにらむ」

といわれる。

まして神訴を受けた人物である。

知恵ある者たちは、

「この先、どうなるだろう」

と怪しんだ。

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327. 諸大名、斯波道朝を讒言する――佐々木道誉の大原野花見

道朝への期待

幕府の管領は、将軍家の有力な一族が務める重要な職だった。

斯波高経(法名・道朝)は関東が栄えた時代の政治も知っていた。

礼儀や法度についても、当時の人々よりは詳しいと思われた。

人々は初め、

「この人物こそ、武家の世を治めるだろう」

と期待した。

しかし道朝の政治は、多くの大名の利害へ反した。

最後には失脚し、翌正平22年/貞治6年(1367年)に越前の杣山城で病死することとなった。

『太平記』は、それも春日明神の神意だったと見る。


武家役を20分の1へ増やす

近年、日本中の地頭・御家人領へ、毎年50分の1の武家役が掛けられていた。

道朝は管領となると、これを20分の1へ増やした。

大名・御家人たちは、

「天下の先例にない」

と憤った。


赤松則祐の所領没収

義詮が三条坊門万里小路へ新御所を造った時、1棟ごとに大名1人へ工事を課した。

赤松則祐も担当者だった。

工事が遅れ、期日を少し過ぎた。

道朝は、

「法を破った」

として、則祐の新恩地である大荘園1か所を没収した。

赤松氏が道朝を恨む最大の理由となった。


五条橋を先に完成させる

佐々木道誉は五条橋再建の奉行となり、京都中から棟別銭を集めていた。

しかし大工事だったため、完成が遅れていた。

道朝は、

「道誉を励まそう」

と考えた。

ほかの大名の力を借りず、民衆へ負担も掛けず、数日間で五条橋を完成させた。

道誉は面目を失った。

「必ず、これに相応する返礼をしてやる」

と、機会を待った。


義詮邸の花見

義詮邸の庭へ、紅・紫の花が咲き、見事な景色となった。

道朝は多くの酒肴を用意し、貞治5年3月4日、将軍御所で花見の宴を開こうとした。

正平21年/貞治5年(1366年)3月4日のこととして『太平記』は描いている。

特に道誉へ参加を知らせた。

道誉は初め、

「参ります」

と答えた。


道誉が大原野へ宴を移す

ところが道誉は、わざと約束へ反した。

京都中の、

  • 芸能の名人
  • 連歌師
  • 猿楽師
  • 白拍子

を1人残らず集め、大原野の花の下へ宴席を設けた。

世に並ぶもののない遊宴を行った。


金襴で包んだ橋

一行は大原野小塩山へ向かった。

麓へ車を止め、蔓草をつかみ、曲がった山道を登った。

谷川へ架かる橋には、

  • 高欄を金襴で包み
  • 擬宝珠へ金箔を押し
  • 橋板へ唐氈・綾・蜀江錦

を色とりどりに敷いた。

落花がその上へ積もり、横橋へ雪が残るようだった。

踏めば足は冷たく、履物には香りが移った。


山中の茶席

山道を登ると、竹筧で甘い水を引き、石鼎へ茶の湯を用意していた。

松風が音を譲るほど、茶の香りは濃かった。

1杯の中へ仙境を得られるようだった。


香りに満ちた山

紫藤の曲がった枝ごとへ、美しい布を掛けた。

香炉へ沈香をたいた。

春風は香りによって暖かく、栴檀林へ入ったようだった。

山川と霞が重なり、歩かずして四海五湖の景色を集めたように見えた。


豪華な花瓶と香炉

本堂の庭には、幹の周囲十抱えほどの大桜が4本あった。

その下へ高さ1丈余り(約3m)の真鍮製花瓶を置き、巨大な花を生けた。

間には二つの大香炉を置き、名香一斤を1度にたいた。

香りは四方へ散り、人々は香りだけでできた世界にいるようだった。


山のような景品

花陰へ幔幕を巡らし、席を並べた。

  • 百種類の珍しい料理
  • 100服の本茶・非茶
  • 山のような景品

を用意した。

猿楽師が舞い、白拍子が歌うと、人々は大口や小袖を脱ぎ、投げ与えた。


夜の帰路

遊宴が終わり、酒へ酔った。

帰路に月がなかったため、松明が天を照らした。

飾り車の車輪が鳴り、名馬の轡が響いた。

人々が走り、叫ぶ姿は、夜中に百鬼が道を通るようだった。

道誉の宴は京都中の話題となった。


道朝の怒り

この話が道朝へ伝わった。

「自分が主催する将軍家の花見を、

『かわいらしい小さな遊びだ』

と嘲ったのだ」

道朝は不快に思った。

しかし個人的な怒りだけでは、公的に処罰できない。

「道誉が何か公法を破らないか」

と、機会を待った。


道誉の摂津守護を奪う

道誉は2年間、20分の1の武家役を納めていなかった。

道朝は、

「格好の罪ができた」

と喜んだ。

  • 道誉が得ていた摂津守護職を解任し
  • 旧領の多田荘を没収し
  • 政所の料所とした。

道誉は深く恨んだ。


諸大名が道朝を讒言する

道誉は、

「何としても、この管領を失脚させたい」

と考えた。

諸大名を味方へ誘った。

  • 六角崇永は佐々木家の惣領
  • 赤松氏は道誉の娘婿
  • ほかの大名の多くも道誉へへつらっていた。

人々は、事あるごとに、

「道朝は天下の政務を行う人物ではない」

と義詮へ讒言した。


多数の評判にも調査が必要である

孔子は、

多くの者が憎む人物も、必ず自分で調べなければならない。
多くの者が好む人物も、必ず自分で調べなければならない。

と述べた。

集団が徒党を組み、理由なく1人を憎むこともある。

1人だけ独立してへつらわず、多くの者から嫌われることもある。

人の評判は、好評も悪評も、必ず真偽を調べなければならない。


調査せず討伐を決める

しかし義詮は、諸人の讒言の真偽を調べなかった。

罪のない道朝を討つことへ決めた。

佐々木氏頼(法号・崇永)へ、ひそかに命令し、近江勢を招集させた。


道朝が義詮へ直接訴える

道朝は計画を聞いた。

貞治4年8月4日夕方、義詮の前へ参り、申し上げた。

ここは本文の年代に注意が必要である。直前の花見を貞治5年(1366年)3月4日とした後で、『太平記』は貞治4年(1365年)8月4日へ時間を戻している。一般的な歴史叙述でいう「貞治の政変」は貞治5年(1366年)8月8日である。

「義詮殿が私を疑っていると、以前から教える者がいました」

「自分には不忠・不義がないため、讒言した者の誤りだと思っておりました」

「しかし昨日、近江勢が戦いの用意をして京都へ上ったと聞きました」

「噂は事実だったと信じました」


1人の侍に斬らせればよい

「私は才能のない愚かな身で、管領という重い職を汚しました」

「そのため讒言も多いのでしょう」

「しかし讒言を調べないまま疑いを掛けるのであれば、諸国の軍勢を呼ぶ必要はありません」

「侍1人へ命じ、諫言する臣として死を与えてください」

「老いた後、遺体をさらされることに何の問題がありましょう」

道朝は涙を拭きながら訴えた。


越前へ下るよう命じる

義詮も道理へ感じ入ったようだった。

長く黙り、目へ涙を浮かべた。

道朝が退出しようとすると、義詮は席を近づけて言った。

「あなたの言うことには、もっともな点があります」

「しかし今の世は、自分の思いどおりになることばかりではありません」

「しばらく越前へ下り、諸人の怒りが静まるのを待ってください」

道朝は、

「承知いたしました」

と退出した。


将軍邸が兵で囲まれる

佐々木氏頼(法号・崇永)は準備していた。

武装兵800騎余りを率し、義詮の屋敷へ入り、四門を警固した。

京都は騒ぎとなった。

義詮方へ駆けつける武士と、道朝方へ向かう武士が入り乱れた。

両者の屋敷は半町ほど(約55m)しか離れておらず、誰が敵か味方かも分からなかった。


道朝の退去

道朝は初め、

「一矢を射て腹を切ろう」

と考えた。

しかし義詮が三宝院覚済僧正を使者として何度もなだめた。

道朝は北国へ下ることへ決めた。

ただし無抵抗で京都を出れば、敵へ追撃される恐れがあった。


二宮勢の陽動

本文では続いて8月8日の夜中、二宮信濃守が500騎余りで、高倉側の門から将軍邸へ攻める姿を見せ、鬨の声を上げたとする。

義詮邸へ集まった大軍は、

  • 内へ入ろうとする者
  • 外へ出ようとする者

が押し合った。

戦いが始まる前から、

  • 鎧の袖
  • 太刀
  • 長刀
  • 武具

を失う者が数えきれなかった。

災いは、身内の垣根の中から起こったようだった。


道朝、越前へ脱出する

混乱へ紛れ、道朝は300騎余りを率し、長坂を通って越前へ向かった。

先陣が1里ほど進んだころ、二宮軍も後を追った。

諸大名の兵は、

「疲れへ乗じて討ち取ろう」

と追撃した。


二宮の挑戦

二宮は長坂峠へ控えた。

少しも動揺せず、馬へ道草を食べさせながら、追手へ叫んだ。

「京都で戦わなかったのは、敵を恐れたためではない」

「将軍へ遠慮したためだ」

「今は都を離れ、夜も明けた」

「敵も味方も、これまで互いに知っていた人々である」

「ここで勇気と臆病を見せず、いつ見せるのか」

「早く攻めてこい」

「我々の首を餞別として差し出すか、そちらの首を餞別にもらうか」

「その二つの間で、運を決めよう」


追手は引き返す

二宮は馬上で鎧の上帯を締め直し、東へ向かって待った。

勇気は道理にかなっており、死を軽く見る義があった。

数万騎の追手も、

「今は、これまででよい」

として、長坂麓から引き返した。


越前の二城

道朝は二宮と合流し、越前へ着いた。

自らは杣山城へ立てこもった。

子の義将を栗屋城へ置いた。

北陸を従わせようと計画した。


7000騎の包囲

義詮は討手を送った。

  • 畠山義深
  • 山名中務大輔
  • 佐々木高秀
  • 土岐左馬助
  • 佐々木氏頼(法号・崇永)
  • 山内崇誉
  • 赤松氏

ら、能登・加賀・若狭・越前・美濃・近江勢7000騎余りが、同年10月から二城を包囲した。

昼夜攻め続けたが、城が落ちる様子はなかった。


道朝の死と義将の復帰

翌年7月、道朝は突然病気となり、亡くなった。

子の義将が、さまざまに赦免を願った。

同年9月、所領安堵の命令が出され、京都へ呼び戻された。

義将は間もなく越中の討手となり、桃井直常を退けた。

越中守護へ任じられ、北陸は平穏となった。


讒言によって失脚した人物

道朝の誤りは、何だったのだろう。

結局は、多くの者の讒言によって失脚したのである。

楚の屈原が汨羅で、

世の人々は皆酔っている。
私1人だけが醒めている。

と嘆いた時、漁師は笑って、

世の人々が皆酔っているならば、
なぜ酒かすを食べ、酒をすすらないのか。

と歌ったという。

そのような振る舞いも、必要だったのだと思わされる世となった。

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328. 春日神木、奈良へ帰る

河口荘が興福寺へ返される

斯波高経(道朝)が京都を去った後、越前国河口荘は興福寺へ返された。

春日社の訴えは、ようやく解決した。

正平21年/貞治5年(1366年)8月12日、春日神木が奈良へ帰ることとなった。


雨風が神幸直前にやむ

出発時刻は午前6時と決められていた。

その夜明け前から、

  • 雨が激しく降り
  • 風が強く吹いた。

人々は、

「神の怒りが、まだ残っているのではないか」

と怪しんだ。

ところが出発時刻になると、雨は晴れ、風は静まった。

空は特に美しく澄んだ。

このことも、人々を感動させた。


公卿・僧侶が集まる

まず弁官の嗣房が参り、諸事を奉行した。

正午ごろには、

  • 鷹司左大臣
  • 九条家
  • 一条家
  • 大中納言
  • 検非違使別当

らが順に参った。

関白が席へ着くと、僧綱らはその前で礼を行った。

時の藤氏長者である証しだった。


神宝の出御

出発の時刻となった。

大衆の中から1人が進み出て、評議の言葉を述べた。

声は雲へ響き、言葉は玉を連ねるようだった。

評議が終わると、幄屋で乱声が奏された。

音楽の中、布留の神宝が出された。

関白以下、公卿たちは席を避け、ひざまずいた。


春日社の御榊と御正体

続いて、

  • 春日本社の御榊
  • 四所の御正体

が、輝くような姿で出された。

数千人の神官が覆面をし、それぞれ捧げた。

音楽を担当する者は2列となり、還城楽を奏した。

神人は警蹕の声を上げ、道中の乱れを禁じた。


神幸の行列

赤衣の仕丁が白杖を持ち、神前へ立った。

黄衣の神人は神宝を頭上へ捧げ、次々と従った。

そのほかの神職も束帯姿で列を作った。

白衣の神人や国民数千人が歩いた。


関白良基の供奉

関白二条良基は、柳色の下襲へ糸鞋を履き、周囲が輝くような姿で歩いた。

前駆4人が左右へ従い、殿上人2人が裾を持った。

随身は10人いたが、あえて先頭には立たなかった。

神幸へ遠慮したためである。


公卿たちの列

その後へ、

  • 鷹司左大臣
  • 今出川大納言
  • 花山院大納言
  • 九条大納言
  • 一条大納言
  • 坊城中納言
  • 四条中納言
  • 西園寺中納言
  • 四条宰相
  • 洞院宰相中将

らが続いた。

さらに多数の中将・弁官・少将らが、装束と威儀を整え、静かに列を作った。

『太平記』によれば、供奉する僧兵は2万人で、それぞれ法螺貝を吹き、行列は前後30町余り(約3.3km)へ続いた。


朝廷の威儀がよみがえる

朝廷が無事に政治を行っていた昔へ、遠く立ち返ったようだった。

藤原氏の長者として多くの者から仰がれる徳も、再び現れたように見えた。

神が人々を救うため姿を現さなければ、このような神幸を拝むことはできなかっただろう。

道を埋めた見物人の中に、神徳を尊ばない者はいなかった。

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329. 高麗使節の来朝――日本海賊への抗議

日本の戦乱と海賊

日本では40年余り大乱が続いた。

外国の海も、しばらく静まることがなかった。

陸路では山賊が現れ、旅人は山道を通れなかった。

海上では海賊が多く、船乗りは海難を逃れられなかった。


浦や関所が賊へ奪われる

欲の深い荒くれ者が集団となった。

浦や島の多くが海賊へ奪われた。

街道では宿駅を管理する者がいなくなった。

関所でも本来の関守に代わり、賊が人々を支配した。


元・高麗沿岸を襲う

海賊は数千艘の船をそろえ、

  • 元朝
  • 高麗

の港へ攻め寄せた。

明州・福州の財宝を奪い、役所や寺院を焼き払った。

元・高麗の役人や民衆は防げなかった。

海岸に近い数十か国では、人々が住めず、荒廃した。


高麗から17人の使節

高麗王は元朝皇帝の命令を受け、17人の使節を日本へ送った。

使節は至正23年8月13日に高麗を出発した。

日本の貞治5年9月23日に出雲へ着いた。

ただし至正23年は1363年、貞治5年は1366年であり、この二つの日付は同じ航海としては両立しない。『太平記』本文内部の年代不整合として、そのまま区別して読む必要がある。

宿駅を通り、間もなく京都へ到着した。

しかし市中へは入れず、天龍寺へ置かれた。


春屋和尚が国書を奏上する

当時の天龍寺長老・春屋和尚、後の普明国師が、国書を朝廷へ提出した。

内容は、およそ次のようなものだった。

日本と高麗は、海を隔てて隣接している。

これまで日本人が暴風で高麗へ漂着した時には、道理に従って日本へ送り返してきた。

ところが至正10年以来、日本方面から多数の賊船が現れ、高麗の合浦などへ来て、役所を焼き、民衆を襲い、殺害を行っている。

すでに10年余り海上交通が絶え、国境の住民は安心して暮らせない。

これは島々の住民が法を恐れず、欲のまま海へ出て略奪しているためであろう。

広い日本国の中央政府が、すべてを知っているとは限らない。

軍を送って逮捕すれば、隣国との友好を損なう恐れもある。

日本国内へ命令し、海賊を厳しく取り締まり、今後、国外へ出て略奪しないようにしてほしい。

回答文を高麗へ持ち帰らせてほしい。

使者は万戸の金乙貴、千戸の金龍らだった。


正式な返書は出さない

元・高麗を襲った賊船は、主に四国・九州の海賊によるものだった。

京都の朝廷や幕府が、直接厳罰を加えられる状態ではなかった。

そのため正式な返書は送らなかった。


贈り物を持たせて帰す

ただし来朝への返礼として、

  • 鞍馬10疋
  • 鎧2領
  • 白太刀3振
  • 御綾10段
  • 綵絹100段
  • 扇子300本

を贈った。

各国を通る護送使もつけ、高麗へ帰した。

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330. 大元軍の日本侵攻――神風と3700余社の加護

7度の外国侵攻

『太平記』の語り手は、古い記録を読み、

「外国から日本が攻められたことは、天地開闢以来7度に及ぶ」

と述べる。

特に文永・弘安の2度の戦いは、大元国が中国400州を征服し、天地を圧する勢いだった時の侵攻である。

小国日本の力だけでは退け難かった。

それでも元軍を滅ぼし、日本が無事だったのは、神々の加護によるものだという。

以下は『太平記』が語る蒙古襲来説話であり、日付・兵数・経過には史実と大きく異なる点が多い。一般に蒙古襲来(元寇)は文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2度とされ、博多湾の石築地(元寇防塁)は最初の襲来後、建治2年(1276年)以降に築かれた。したがって、本文の「文永2年の襲来」と、その時すでに石堤があるという叙述は史実とは一致しない。


元軍370万騎・7万艘

大元の万将軍は、日本の畿内5か国を周囲3700里と計算した。

その全域へ隙間なく兵を並べるためには、370万騎が必要と考えた。

『太平記』によれば、その軍勢を大船7万艘余りへ乗せ、各港から出航させた。


日本側の準備

侵攻計画は事前に日本へ伝わった。

  • 四国・九州勢は博多
  • 山陽・山陰勢は京都
  • 東山道・北陸道勢は越前敦賀

へ集まり、それぞれ守りを固めた。


本文では文永2年の襲来とする

本文では文永2年8月13日、元の軍船7万艘余りが同時に博多へ押し寄せたとする。

巨大船は舳先と船尾を並べ、互いへつなぎ、歩み板を渡した。

各船へ幕を張り、武器を並べた。

五島から博多までの海上300里余りが、突然陸地となったようだった。

海上へ幻の城が現れたようにも見えた。


博多の石築地

日本軍は博多の浜辺13里へ高い石堤を築いた。

海側は切り立ち、敵が登りにくかった。

陸側は平らで、日本軍が自由に進退できた。

その陰へ塀と陣屋を設け、数万の兵を並べた。


元軍の高い物見台

日本軍は、

「敵に兵力を見抜かれない」

と思っていた。

しかし元軍は船首へ数十丈もの高い柱(1丈は約3m)を立てた。

横木の先へ見張り台を造り、人を登らせた。

日本軍の陣内を見下ろし、細かな所まで数えられるほどだった。


海上の道路

元軍は幅4、5丈(約12〜15m)の板を筏のようにつなぎ、海上へ平らな道を多数造ったと『太平記』は語る。

京都三条大路や都市の街路のようだった。

元軍は、その道から数万の人馬を出し、命を惜しまず戦った。

日本軍は勢いを失い、退く者が多かった。


鉄炮

戦いが始まると、元軍は鉄炮を用いた。

鞠ほどの鉄の玉が車輪のように飛び、雷鳴や稲妻のような音と光を発した。

2000、3000個を1度に投げたため、日本兵は多数焼き殺された。

櫓にも火がつき、消す暇がなかった。


松浦党の夜襲

上松浦・下松浦の武士たちは、

「普通の戦い方では勝てない」

と考えた。

外海から回り、1000人余りで夜襲した。

志は勇ましかった。

しかし大軍の中では、

  • 九牛の一毛
  • 大倉の一粒

ほどの小勢だった。

敵2、3万人を討ったものの、最後には全員捕らえられた。

手を船縁へつながれ、苦しめられた。


九州勢は退却する

その後は再び戦う方法もなかった。

九州9か国の武士は1人残らず、四国・中国地方へ退いた。

日本中の人々は、

「どうすればよいのか」

と激しく動揺した。


全国の祈祷

  • 神社への行幸・御幸
  • 寺院での大法・秘法

が行われた。

60余州の大小の神社や霊験ある寺院のうち、勅使や幣帛を送られなかった所はなかった。


諸社の奇瑞

祈祷が7日間へ達した日、諏訪湖の上から五色の雲が西へ立ち、大蛇の姿となった。

石清水八幡宮の扉が開き、

  • 馬が走る音
  • 轡が鳴る音

が空中へ満ちた。

日吉21社では、

  • 鏡が動き
  • 神剣の刃が鋭くなり
  • 神の履物が西へ向いた。

住吉大社の神馬は鞍の下へ汗を流した。

吉野の小守・勝手明神の鉄盾も、自ら立ち、敵の方へ並んだ。


神の使いが西へ飛ぶ

『太平記』によれば、全国3750余社の神々だけではなかった。

  • 春日野の神鹿
  • 熊野の霊烏
  • 気比宮の白鷺
  • 稲荷山の狐
  • 比叡山の猿

など、神々の使いが、すべて空を西へ飛び去る夢を、人々が見た。

「神々の助けで異賊を退けられる」

と期待し、祈らない者はいなかった。


伊勢神宮からの奏上

弘安4年7月7日、伊勢神宮の神官12人が連署し、奏上した。

「内宮・外宮の末社である風社の神殿が、長く鳴動しました」

「6日の夜明け前、神殿から一群の赤い雲が出て、天地・山川を照らしました」

「その光から青色の鬼神が現れ、土嚢の結び目を解きました」

「口から火と風を出し、砂を巻き上げ、大木を吹き抜きました」

「九州の異賊は、この日に滅びると思われます」

「予言どおりとなったならば、長年願っている宮号をお認めください」


神風

その後、大元の万将軍は7万艘余りの船のもやいを解いた。

本文では8月17日午前8時ごろ、門司・赤間関を通り、長門・周防へ渡ろうとした。

兵が海上を渡っている時、それまで静かだった空が突然変わった。

北東から黒雲が一群現れ、空を覆った。

激しい風が吹き、逆巻く波が高く上がった。

雷鳴と稲妻が地上へ激しく走った。

大山が崩れ、空が地へ落ちるかと思われるほどだった。


元船全滅

元軍の7万艘余りは、

  • 岩へ当たり粉々となり
  • 逆巻く波へひっくり返された。

1人も残らず失われたという。


万将軍だけが助かる

万将軍1人だけは、風にも飛ばされず、波にも沈まなかった。

暗い空中へ浮かび上がり、立っていた。

そこへ呂洞賓という仙人が西の空から飛んできた。

「日本の3700余社の神々が、この暴風と大波を起こした」

「人間の力が及ぶものではない」

「破船1艘へ乗り、本国へ帰れ」


蜀へ向かう

万将軍は1艘の壊れた船へ乗り、大海を越え、明州へ着いた。

都へ戻ろうとすると、再び呂洞賓が現れた。

「日本で敗れた罪によって、皇帝は怒り、あなたの一族は三族まで処刑された」

「都へ帰れば、あなたも殺される」

「剣閣を越え、蜀へ行け」

「蜀王は、あなたを大将として雍州を攻めたいと願っている」

仙人は餞別として膏薬一つを与えた。

袋には、至雍発と書かれていた。


雍州の石門を溶かす

蜀王は万将軍を喜んで迎え、上将軍へ任じ、雍州を攻めさせた。

雍州では、険しい山へ石門を閉じ、敵が待っていた。

1人が関所へ立てば、1万人も近づけない要害だった。

万将軍は、

「至雍発とは、雍州へ着いたら使えという意味だ」

と考えた。

ひそかに石門の柱へ膏薬をつけさせた。

すると柱も扉も雪や霜のように溶け、山道は平らとなった。

雍州軍は守る方法を失い、蜀王へ降伏した。


癰瘡による死

万将軍は功績によって公侯の位へ上った。

しかし30日後、背中へ癰瘡ができ、間もなく死んだ。

雍州の「雍」と、癰瘡の「癰」は音が通じる。

仙人の薬へ書かれた言葉は、

  • 雍州の門へ塗れ
  • 癰瘡が出た時へ塗れ

のどちらを意味したのか、分からない。

功績は高く、命は短かった。

どちらを捨て、どちらを取るべきだろう。


日本を救ったのは神々である

『太平記』はここで「大元300万騎の蒙古軍が1度に滅びた」と結ぶ。章の前半で掲げた370万騎とは数が一致しておらず、本文内部の数量差である。

3750余社の大小の神々と、祖先の霊による加護だったのだと、『太平記』は結論づける。

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331. 神功皇后の新羅征討――干珠・満珠と神々の軍勢

この章は、神功皇后の新羅征討をめぐる『太平記』独自の神話・軍事説話である。実際の古代東アジア史として読むのではなく、中世に語られた神国思想・異国観を示す物語として読む必要がある。とくに、神功皇后の時代に「唐朝」から兵法書を得るという叙述は時代が合わない。

仲哀天皇の失敗

昔、仲哀天皇は優れた徳と武勇によって、高麗三韓を攻めた。

しかし戦いへ勝てず、日本へ帰った。

神功皇后は、

「知略と軍備が足りなかったためである」

と考えた。


唐から兵法書を得る

『太平記』では、皇后は唐朝へ、師への贈り物として砂金3万両(当時の金の単位)を送ったと語る。

履道翁から1巻の秘書を授かった。

その書は、黄石公が夜明け前の橋上で張良へ授けた兵法書だという。


鹿島へ神々を招く

計画を定めた後、神功皇后は軍議のため、天神地祇を招いた。

日本中の大小の神々は、勅命へ従って常陸国鹿島へ集まった。

しかし海底へ住む阿度部磯良だけは、召しへ応じなかった。


神楽によって磯良を招く

神々は、

「何か理由があるのだろう」

と考えた。

かがり火をたき、榊の枝へ、

  • 白い幣
  • 青い幣

を掛けた。

風俗・催馬楽の曲を、調子を変えながら繰り返し歌った。

磯良は音楽へ感動し、神遊びの庭へ現れた。


海の生物に覆われた姿

磯良の姿を見ると、

  • 小さな巻き貝
  • 牡蠣
  • 海藻へ住む虫

が手足や体全体へ付いていた。

人間の姿とは思えなかった。

神々は尋ねた。

「なぜ、そのような姿となったのか」


海底へ住んだ理由

磯良は答えた。

「海中の魚と交わり、救おうとして、長く海底へ住んでいました」

「そのため、この姿となりました」

「このような姿で高貴な神々の前へ出ることが恥ずかしく、召しへ応じられませんでした」

「しかし美しい音楽へ感動し、恥を忘れ、参上しました」


竜宮から干珠・満珠を借りる

磯良を使者として竜宮城へ送り、

  • 干珠
  • 満珠

の二つの宝玉を借りた。

竜神は神々の命令へ従い、二つの玉を差し出した。


八幡神を身ごもる皇后

神功皇后は、

  • 1巻の兵法書を知略
  • 二つの宝珠を軍備

として新羅へ向かおうとした。

この時、胎内には後の八幡大菩薩となる皇子が宿り、すでに五か月となっていた。

腹が大きく、鎧を着ると脇が開いた。

高良明神の工夫によって、鎧へ脇立が付けられたという。


神々3000艘の船団

  • 諏訪明神
  • 住吉明神

を副将軍とした。

そのほかの大小の神々も従った。

楼船3000艘余りを並べ、新羅へ向かった。

高麗側も兵船1万艘余りで海上へ出た。


干珠によって海が引く

戦いが続き、勝敗が決まらなかった。

神功皇后が干珠を海へ投げると、潮が突然引き、海底が陸地となった。

三韓の兵は、

「天が自分たちへ味方した」

と喜び、船から下り、徒歩で攻めた。


満珠によって敵軍を沈める

その時、皇后は満珠を海へ投げた。

潮が四方から満ちてきた。

数1万人の敵兵は、1人も残らず波へ溺れた。


三韓の王が降伏する

三韓の王は自分の罪を謝り、降伏した。

『太平記』は、神功皇后が弓の先で石壁へ、

高麗王は、日本の犬である。

と書きつけたという。これは『太平記』に記された中世の対外説話上の表現であり、歴史的事実として確認できる碑文ではない。

神功皇后は、その後日本へ帰ったという。


高麗からの貢物

これ以後、高麗は日本へ従い、長年貢物を送った。

  • 呉服部という織物職人
  • 王仁という学者

が日本へ来たことも、この貢物の一部だと語られる。

高麗縁の敷物も、その箱へ入れられた物だという。


現在の海賊を批判する

上古の神功皇后の時代でさえ、外国を従わせることができたのは、神々の力によるものだった。

ところが現在、悪事を尽くす海賊が元・高麗を襲い、逆に相手から使節を送らせ、貢物のような物まで持たせている。

前代未聞の異常な出来事だった。

「このままでは、かえって日本が外国へ奪われるのではないか」

と思われた。


福州の武将から送られた詩

福州の呉元帥王乙は、日本へ詩を送った。

意味は、およそ次のようになる。

日本の狂暴な賊が、中国東南沿岸を乱している。
将軍が変事を聞けば、怒りは虹のように立つ。

浜辺へ軍陣を並べれば、のろしの煙で空は暗くなる。
夜半に賊を皆殺しにすれば、海水は血で赤くなるだろう。

賊は月の下で笛を吹き、
髑髏へ酒を盛り、風に向かって飲んでいる。

いつの日か南山の竹をすべて切り、
この賊を討った功績を書き尽くせるだろうか。


竹が枯れたことへの不安

この詩を思うと、日本中の竹が近年すべて枯れたことも、

「日本討伐の功績を書く竹簡が必要となる前兆ではないか」

と不安に思われた。

将来が心配される出来事だった。

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332. 光厳院禅定法皇の行脚――帝位を捨て、山林へ入る

世を捨てる決意

『太平記』は、光厳院禅定法皇が正平7年(1352年)ごろ、南朝方の賀名生での幽閉を解かれ、京都へ戻ったと語る。

しかし一般的な歴史叙述では、光厳院は正平7年(1352年)に南朝方へ連行され、賀名生・河内金剛寺などで幽居した後、正平12年/延文2年(1357年)に京都へ戻ったとされる。以下の長い行脚も、『太平記』の文学的な構成を含む物語として読む。

それ以後、世の中をますます嫌なものと悟った。

仙人が住むという姑射山の雲や、帝王が遊ぶ汾水北岸の花をも捨て、さらに身を軽くしたいと願った。


禅僧となる

長年思っていた願いを果たし、法衣を着け、頭を丸めた出家者となった。

伏見奥の光厳院という静かな場所へ住んだ。


都に近いことも嫌になる

しかし都へ近いため、

  • 昔の家臣が参上しようとする
  • 世間の話が耳へ入る

ことを、うっとうしく思った。

中峰和尚が送った偈に、

来る時にも、とどまる所はない。
去る時にも、住む所はない。
杖の先には、自由な道が開かれている。

とあった。

法皇は、この言葉へ深く心を動かされた。


ただ1人の僧を連れて出る

人夫や行者を1人も連れなかった。

順覚という僧だけを供とし、山林を巡る修行へ出た。

まず西国方面を見たいと思い、摂津国難波浦を通った。


難波浦の歌

御津の浜松には霞がかかり、夜明けの景色は物悲しかった。

法皇は遠くを眺め、歌を詠んだ。

誰を待って、御津の浜松は霞んでいるのだろう。
私が日本の春を治める時代では、もうないというのに。

法皇は涙ぐんだ。


民衆の苦労を知る

高野山へ向かうため、住吉の遠里小野へ出た。

海や野の景色は、歩くごとに新しかった。

かつて金糸を織り込んだ軽い絹の敷物以外、踏んだことのなかった足を、泥や湿地で汚した。

供の順覚は、僧の鉢を脇へ掛けた。

堺浦まで歩くと、干潟では漁民が、

  • 海藻を拾い
  • 磯菜を採っていた。

法皇は言った。

「税を納める民衆が、これほど身を苦しめていることを知らず、軽く扱っていた」

今さらながら、自分の過去を恥じた。


金剛山を見て悔いる

東を振り返ると、雲と霞へ連なる高山が見えた。

休んでいた木こりへ山の名を尋ねた。

「音に聞こえた金剛山城です」

「日本中の武士が、何千、何万と討たれた場所です」

法皇は嘆いた。

「この戦いも、自分たち二つの皇統が天下を争ったために起きた」

「死んだ兵が悪道へ落ち、長く苦しむことも、自分の罪となるだろう」

過去の誤りを悔いた。


紀ノ川の橋から落とされる

数日後、紀ノ川を渡ろうとした。

橋柱が朽ちた危険な柴橋だった。

法皇は足が冷え、恐ろしくなり、橋の中央で立ち止まった。

後ろから腕を張り、目を怒らせた武士7、8人が来た。

相手が法皇とは知らなかった。

「何と臆病な僧だ」

「急ぐ道の1本橋なのだから、渡るなら早く渡れ」

「渡れないなら、後ろへ下がれ」

武士は法皇を押しのけた。

法皇は橋から落ち、川へ沈んだ。


順覚が救う

順覚は、

「ああ、何ということだ」

と、衣を着たまま川へ飛び込み、法皇を引き上げた。

膝は岩角へ当たり、血が流れた。

衣は水へ浸り、絞ることもできなかった。

順覚は泣きながら近くの辻堂へ法皇を入れ、衣を着替えさせた。

昔、天皇であった時には考えられない出来事だった。

君臣は捨てたはずの世を思い出し、涙に濡れた袖を乾かす暇もなかった。


高野山へ登る

心細い山道を進み、高野山へ登った。

山また山、水また水が続き、体は疲れた。

法皇は、かつて大覚寺法皇が高野山へ参詣した時、

  • 公卿・殿上人とともに
  • 1町(約109m)ごとに3度礼拝し
  • 頭を地面へつけた

という話を思い出した。

「自分の在位中、世が平和であったならば、なぜその跡をたどらなかったのだろう」

と思った。


曼荼羅を拝する

高野山へ着くと、大塔の扉を開き、両界曼荼羅を拝した。

  • 胎蔵界700余尊
  • 金剛界500余尊

は、平清盛が自ら描いたものだという。

法皇は考えた。

「悪行を重ねた清盛が、どのような善縁に促され、これほどの大善根を積んだのだろう」

「清盛も、ただの悪人ではなかったのだ」


奥之院へ参る

その日のうちに奥之院へ参った。

弘法大師が入定している室の戸を開いた。

峰の松風や山花の雲は、密教の深い理を示すようだった。

過去の仏の教化は終わっても、説法が今も耳へ聞こえるようだった。

弥勒菩薩の出世は遠い未来であっても、その法会の姿が、すでに目の前へあるようだった。


3日間の通夜

法皇は奥之院で3日間通夜した。

夜明けに出る時、1首を詠んだ。

高野山では、迷いの夢も覚めるだろうか。
その夜明けを待たない夜はない。


2人の武士が出家していた

安居の間は高野山へ静かに住もうと考え、諸堂を巡礼した。

すると出家したばかりらしい、濃い墨染めの衣を着た僧2人が、法皇の前へひざまずき、ただ泣いていた。

よく見ると、紀ノ川の橋で法皇を押し落とした武士たちだった。


法皇へ謝罪する

2人は順覚へ泣きながら言った。

「紀ノ川を渡られた時、高貴な御方とは知らず、体へ乱暴に触れました」

「後から知り、あまりにも恐ろしく思い、出家しました」

「仏道の種は縁から起こるといいます」

「薪を拾い、水をくむ役でも構いません」

「3年間、常にお仕えし、仏神からの罰を免れたいと思います」


法皇は許す

法皇は答えた。

「常不軽菩薩は、ののしる者も責めず、打つ者へも、かえって礼拝した」

「まして私は姿を変え、世の人は昔の身分を知らない」

「一時の誤りを気にする必要はない」

「出家した因縁は尊い」

「しかし、私へ従うことは許せない」

それでも2人は離れなかった。

法皇は夜明けに2人を水くみへ行かせ、その隙に順覚だけを連れ、高野山を出た。


吉野南朝へ入る

帰路は大和路だった。

道の便もよいため、南朝天皇のいる吉野へ入った。

3、4年前まで、南北両朝は敵味方として激しく戦っていた。

今は光厳院が出家者となり、

  • 玉の体を麻衣と草履へ変え
  • 天皇の輿を徒歩へ変え

長い山道を分け入り、吉野へ来た。


南朝天皇との対面

伝奏は事情を奏上する前から涙を流した。

南朝天皇も、まだ顔を合わせないうちから涙を流した。

光厳院は吉野へ1日1夜滞在し、さまざまな話をした。


南朝天皇が出家の理由を尋ねる

南朝天皇は言った。

「現在のお姿は、目覚めた後の夢か、夢の中の迷いかと思われます」

「仙洞御所を捨て、仏門へ入られるとしても、宇多法皇や花山法皇のような先例を追われると思っていました」

「それを水上の浮き草のような行脚の身となり、枯木のような禅の境地へ心を置かれた」

「どのような発心によるのでしょう」

「うらやましく思います」


光厳院が乱世を振り返る

法皇は涙に咽び、しばらく話せなかった。

やがて答えた。

「天皇は聡明であられるため、私が言葉を出す前から、お察しでしょう」

「私は本来、煩悩に満ちた身でありながら、一時の虚しい名誉を望んでいたわけではありません」

「しかし過去の業による縁を離れられず、山へ入ろうと思いながら、老いを止めることもできず、年月を過ごしました」


番場と賀名生での苦しみ

「天下の乱は1日も休みませんでした」

「元弘の初めには近江国番場まで落ち、500人余りの武士が自害する中へ置かれ、血なまぐさい苦しみへ心を酔わせました」

「正平年間には、この吉野の奥で捕らわれ、2年間、罪人のような暮らしを送りました」

「その時、初めて、

『世とは、これほど苦しいものだったのか』

と悟りました」


譲位によって望みが開く

「その後は皇位へ再び戻る望みも、政治への執着も持ちませんでした」

「しかし一方の武士たちが、自分を強いて正統の君主として担いだため、逃れる機会がありませんでした」

「いつか深山へ入り、雲を友とし、松を隣とし、静かに一生を終えたいと願い続けました」

「やがて天命が変わり、譲位が実現しました」

「長年閉ざされていた心が1度に開き、現在の姿となったのです」

南朝天皇をはじめ、公卿たちは皆、袖を絞るほど涙を流した。


馬を断り徒歩で出る

帰ろうとした時、南朝から寮の馬が差し出された。

法皇は固く辞退し、乗らなかった。

すでに体は疲れていた。

それでも雪のように白い足へ粗末な草履を履き、出発した。

南朝天皇は武者所まで出た。

御簾を上げ、見送った。

公卿たちも庭の外まで送り、皆、涙の中へ立ち尽くした。


光厳院から丹波山国へ

諸国を行脚した後、法皇は1度光厳院へ戻った。

しかし勅使がたびたび来て、松風の夢を破った。

昔の家臣も訪れ、月夜の静けさを妨げた。

「ここも、もう住みにくい」

と感じた。

丹波国山国という場所へ、行方を隠して移った。


山中の隠者生活

庭へ落ちた木の実を食べ、秋風の中でも満ち足りた。

柴を燃やして寒さを防いだ。

泉の水をくみ、茶を飲んだ。

蕨を採り、梅の実をかみ、静かな味わいを楽しんだ。

「身が安らぐ場所では、心も安らぐ」

として、天地の外へ遊ぶように、破れた蒲団の上で日を送った。


光厳院の崩御

『太平記』はここを「翌年」とつなぐが、一般的な歴史叙述では光厳院法皇の崩御は正平19年/貞治3年(1364年)である。その年の夏、法皇は病に臥した。

正平19年/貞治3年(1364年)7月7日、丹波山国で静かに崩御した。

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333. 光厳院法皇の葬礼――山中の静かな荼毘

光明院と梶井宮が駆けつける

当時の新院・光明院(光明法皇)と、天台座主を務めた梶井宮は、どちらも禅僧となり、伏見殿へ住んでいた。

光厳院法皇が丹波山中で亡くなったと聞くと、急いで山中へ向かった。

光厳院法皇が崩御したのは正平19年/貞治3年(1364年)7月7日で、翌8日に住庵の後山で火葬されたとされる。

荼毘の準備を整え、法皇を後方の山へ葬った。

光厳院は生前、華美な葬儀で多くの人々を煩わせないよう求めていたと伝わる。ただし、以下の静かな葬送の細部は『太平記』の文学的描写を含む。


帝王らしからぬ静かな葬儀

もし法皇が仙洞御所で亡くなったならば、

  • 百官が涙を流し、葬車へ従い
  • 新帝が悲しみをこらえ、正式な祭礼を行った

だろう。

しかし法皇が亡くなったことさえ、ほとんど知られていない山中の葬儀だった。

ただ鳥が鳴き、挽歌へ声を添えた。

松風がむせび、悲しみの声を助けるだけだった。


七夕の日の死

夢のような出来事だった。

昔の七夕には、宮中の長生殿で、

  • 牽牛・織女の1夜の契りを惜しみ
  • 後宮の美女や楽人が音楽を奏で
  • 乞巧奠の供え物を並べた。

しかし今年の七夕には、深い山中で死の別れを迎えた。

かつて天下を治めた上皇と、天台一山の座主が自ら棺を担ぐようにして、葬送を行った。


月も花も無常へ従う

永遠に続くと思われた月も、雲へ隠れた。

1万年の木へ咲く花も、無常の風へ散った。

山川も悲しみ、雨や雲となったように見えた。

心のない草木まで法皇を悼み、葉を落とし、花をしぼませたようだった。


旧臣を集めない遺言

法皇の恩を感じ、徳を慕う旧臣は多かった。

しかし法皇は生前、

「葬儀へ大勢を集めてはならない」

と遺言していた。

そのため参集する者は少なかった。

わずか3、4人の山僧による勤行で、中陰の菩提を弔った。


年忌ごとの追善

法皇の命日ごとに、さまざまな善行と供養が積まれた。

特に3回忌には、皇位を継いだ今上天皇が、自ら法華経を書写した。

  • 一字ごとに3度礼拝し
  • 紺紙へ金泥で書いた。

5日間の法会

5日間にわたり、

  • 八講
  • 十種供養

が行われた。

楽人が奏でる正しい音楽は、天上の琴の音へ通じるようだった。

導師が仏徳を称える言葉は、弁論第一の富楼那尊者の説法を広げたようだった。


結願の日

法会の最終日には、

  • 雪の中で薪を集めた者
  • 水をくみ、月影を運ぶように奉仕した公卿

までが、法皇へ長年仕えた恩を重んじ、未来の成仏の縁を結んだ。


子孫による最高の供養

この追善は、

  • 善性・善子が父へ尽くした孝行
  • 浄蔵・浄眼が父・妙荘厳王を仏道へ導いた功徳

にも勝るものとされた。

十方の仏たちも、この供養を喜んだだろう。

六道をさまよう生き物も、その残る功徳へあずかったに違いない。

法皇のために行われた、まことに尊い供養だった。

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