ホーム | 太平記 全40巻・全339章 | ← 前の巻:太平記 巻第七 | 次の巻:太平記 巻第九 →
巻第八|目次
- 50. 摩耶山・酒部・瀬川の戦い
- 51. 3月12日の京都攻防戦――赤松則祐、桂川を渡る
- 52. 光厳天皇、六波羅へ避難――河野・陶山の反撃
- 53. 宮中・上皇御所の祈祷――山崎の戦い
- 54. 比叡山の僧兵、京都へ攻め寄せる
- 55. 4月3日の京都合戦――頓宮・田中の四勇士と妻鹿孫三郎
- 56. 後醍醐天皇、自ら金輪法を修する――千種忠顕の京都合戦
- 57. 谷堂炎上――西山の寺院と民家が焼かれる
このページについて:『太平記』巻第八の内容を、中学3年生程度でも流れを追いやすい現代語に整理している。本文の出来事・発言・説話・作者の評価をできるだけ残し、史実と『太平記』独自の年代・軍勢数・伝説的描写が食い違う場合は、その違いが分かるように注記する。
旧単位について:尺・寸・町・間など換算しやすい旧単位は原文の単位を残したまま、現代のおおよその値を併記する。中世の「里」や仏教説話の「由旬」のように時代・文脈で値が一定しないものは、無理に現代のkmへ換算しない。巨大な軍勢数や超人的な身体・武器の描写は、『太平記』本文上の表現として読む必要がある。
50. 摩耶山・酒部・瀬川の戦い
後醍醐天皇の脱出に驚く六波羅
後醍醐天皇はすでに隠岐を脱出し、伯耆国の船上山へ入っていた。
天皇を追った佐々木清高(隠岐判官)は船上山の戦いに敗れ、近くの国々の武士たちが次々と天皇のもとへ集まっている。
この知らせは、出雲国や伯耆国から何頭もの早馬によって、京都の六波羅探題へ伝えられた。
それを聞いた人々は、
「天下は、ついに大変な事態になった」
と顔色を失った。
六波羅は考えた。
「京都に近い場所で、朝廷方にしっかりとした拠点を築かせてはならない。
まず摂津国の摩耶城を攻め、赤松則村(法名・円心)を討たなければならない」
六波羅軍、摩耶城へ向かう
六波羅は、佐々木時信(六角時信。本文表記:佐々木判官時信)と常陸前司時知(本文表記)を大将とした。
これに京都各所の警備兵、京都に住む武士、三井寺の僧兵300人余りを加えた。
その軍勢は、合わせて5,000騎余りとなった。
六波羅軍は元弘3年(1333年)閏2月5日に京都を出発した。
そして同年閏2月11日、卯刻(午前6時ごろ)、摩耶城南側のふもとにある求塚と八幡林の方面から攻め寄せた。
赤松円心、敵を険しい山中へ誘う
赤松則村(法名・円心)は、攻めてくる大軍を見た。
そして、
「敵を、戦いにくい険しい場所まで誘い込もう」
と考えた。
足の速い弓兵100人、200人ほどを山のふもとへ下ろした。
弓兵たちは遠くから矢を少し放つと、まともに戦わず、摩耶城へ向かって退いた。
六波羅軍は、
「赤松軍が逃げた」
と思い、勝った気になった。
5,000騎余りの兵は、非常に険しい南側の坂を、兵も馬も休ませず、勢いに任せて登っていった。
七曲の細い山道
摩耶山へ登る途中には、七曲と呼ばれる、険しく細い道があった。
六波羅軍はそこへ来ると、思うように登れなくなり、道の途中で動きを止めた。
その時、赤松則祐(律師)と飽間九郎左衛門尉光泰が、2人で南側の尾根へ下りてきた。
2人は矢を惜しまず、六波羅軍へ激しく射かけた。
六波羅兵は矢に圧倒され、少しずつ後ろへ押された。
さらに互いを盾にし、その陰へ隠れようとして、隊列を乱し始めた。
赤松軍の一斉攻撃
円心は、敵が動揺した様子を見逃さなかった。
円心の息子である、
- 赤松信濃守範資
- 赤松筑前守貞範
をはじめ、佐用氏、上月氏、小寺氏、頓宮氏の一族500人余りが、武器の先をそろえて山から打って出た。
その勢いは、大きな山が崩れ落ちるようだった。
六波羅軍の後方では、
「引くな、戻って戦え!」
と命令する者がいた。
しかし兵たちは、もはや耳を貸さない。
誰もが、
「自分だけでも先に逃げよう」
と、山道を下っていった。
逃げることも戦うこともできない
退却路には深い田があり、馬の脚はひざの辺りまで泥へ沈んだ。
また、いばらや草木が生い茂り、道は先へ行くほど狭くなった。
振り返って戦おうとしても、場所がない。
その場に踏みとどまり、防ごうとしても、十分に武器を使えない。
摩耶城のふもとから武庫川の西岸まで、3里(中世の里程で、現代のkmには単純換算しない)ほどの道には、兵と馬が重なって倒れた。
遺体が道をふさぎ、通行することさえできないほどだった。
なお、『太平記』はこの軍勢を先に5,000騎余りと記している一方、ここでは7,000騎余りだったとも記しており、本文内で人数が一致していない。
しかし、京都へ戻れた者は、1,000騎にも満たなかった。
京都の動揺
この大敗を聞き、京都の町も六波羅探題も大いに慌てた。
それでも幕府方は、まだ赤松軍を軽く見ていた。
「敵は近くの国から立ち上がっただけだ。
従っている兵も、それほど多くないという。
1度や2度勝ったとしても、大したことはできないだろう」
六波羅軍は敗れたものの、完全に戦意を失ったわけではなかった。
備前国の武士たちも朝廷方へ
ところが、備前国の地頭や御家人の多くも、幕府を離れ、朝廷方へついたという知らせが届いた。
六波羅は、
「赤松の摩耶城へ、さらに多くの軍勢が集まる前に討たなければならない」
と考えた。
そこで元弘3年(1333年)閏2月28日、再び1万騎余りの軍勢を摩耶城へ向かわせた。
赤松円心、城を出て迎え撃つ
この知らせを受けた円心は言った。
「戦いで勝つためには、敵の予想しない作戦を使い、その勢いをくじくことが大切だ。
状況に応じて素早く動き、敵より先に行動しなければならない」
円心は3,000騎余りを率いて摩耶城を出た。
そして久々智と酒部に陣を置き、六波羅軍を待ち受けた。
酒部での突然の攻撃
元弘3年(1333年)3月10日、
「六波羅軍は、すでに瀬川へ到着した」
という知らせが届いた。
円心は、
「戦いは明日になるだろう」
と考え、少し油断した。
ちょうど一時的な雨が降ったため、兵たちは鎧や武器についた雨露を乾かそうと、近くの小さな民家へ入り、天気が回復するのを待った。
ところがその時、阿波国の小笠原が、3,000騎余りを率いて突然攻めてきた。
小笠原軍は船で尼崎まで来て、そこから上陸していたのである。
円心、50騎で3,000騎と戦う
この時、円心の周囲には、わずか50騎余りしかいなかった。
それでも円心は、大軍の中へ突入した。
敵へ背中を見せず、激しく戦い続けた。
しかし、さすがに3,000騎の大軍を、50騎だけで支えることはできなかった。
『太平記』では47騎が討たれ、円心父子を含めて6騎ほどになったという。ただし、直前の「50騎余り」という数字と合わせても人数は一致せず、本文内に数のずれがある。
6騎は、味方であることを示す印をすべて投げ捨てた。
そして敵の大軍の中へ紛れ込み、あちらこちらを駆け回った。
敵は、それが円心たちであることに気づかなかったのだろう。
あるいは、天運が円心を助けたのかもしれない。
6騎は1人も傷つくことなく敵陣を抜け出した。
そして小屋野宿の西側に控えていた、味方3,000騎余りの中へ駆け込んだ。
円心は、危ういところで命を救われたのである。
両軍のにらみ合い
六波羅軍は、前日の戦いで赤松軍の激しい戦いぶりを見た。
そして、
「赤松軍は少数であっても、簡単には侮れない」
と考えた。
そのため瀬川宿にとどまり、それ以上進もうとしなかった。
一方、赤松軍も敗れた兵を集め、遅れている味方が到着するのを待ったため、すぐには攻撃しなかった。
両軍は陣を隔て、まだ勝敗を決めずに向かい合った。
赤松軍、瀬川宿へ進む
円心は考えた。
「元気な兵たちを、いつまでも戦場にとどめ、意味もなく疲れさせてはいけない。
長く待たせれば、敵の勢いに押され、味方の気持ちが弱くなる」
そこで元弘3年(1333年)3月11日、円心は3,000騎余りを率い、六波羅軍の陣へ向かった。
まず敵の様子を調べると、瀬川宿の東西には、200本、300本もの旗が立っていた。
旗は木の上を吹く風にひるがえっている。
その様子から、敵は2万騎、3万騎ほどいるように見えた。
『太平記』はさらに、赤松軍は敵100人に対して1、2人ほどしかいないように見えた、と極端な兵力差を強調する。直前の3,000騎対2万〜31万騎という数字とは一致しないため、ここは軍記的な誇張を含む表現として読む必要がある。
しかし、戦わなければ勝つこともできない。
赤松軍は、ただ討ち死にする覚悟を決めた。
7騎が敵陣へ近づく
まず、
- 赤松筑前守貞範
- 佐用兵庫助範家
- 宇野能登守国頼
- 中山五郎左衛門尉光能
- 飽間九郎左衛門尉光泰
らが、郎党を加えた7騎で先へ進んだ。
7騎は竹林の陰から回り込み、南側の山へ馬を進めた。
六波羅軍は、それを見ると盾の列を少し動かした。
攻撃してくるのかと思えば、そのまま動かない。
兵たちは落ち着きを失い、動揺しているように見えた。
7騎はすぐに馬から飛び降りた。
そして茂った竹林を、木でできた盾の代わりに利用し、前へ出たり引いたりしながら、激しく矢を射た。
25騎を射落とす
六波羅軍は、瀬川宿の南北30町余り(約3.3km)にわたり、物を隙間なく並べたように密集していた。
これほど多くの兵がいるのだから、赤松軍の矢が外れるはずもない。
近くにいた敵25騎が、馬から真っ逆さまに射落とされた。
六波羅兵は、前にいる仲間を盾の代わりにし、自分の馬を射られないようにしようとした。
しかし混乱のため、思うように陣を保てなくなった。
700騎の突撃
平野伊勢前司をはじめ、佐用氏、上月氏、田中氏、小寺氏、八木氏、衣笠氏の若い武士たちは叫んだ。
「敵が動揺しているぞ!」
彼らは矢を入れた箙をたたき、勝利の声を上げた。
700騎余りが馬を並べ、一斉に六波羅軍へ突撃した。
大軍が崩れる
大軍は、1度崩れ始めると止まりにくい。
六波羅軍では、前方の兵が振り返って戦おうとしても、後ろの兵が続かなかった。
進む先の道は狭い。
大将が、
「慌てず静かに退け!」
と命令しても、誰も耳を貸さなかった。
子は親を捨て、家来は主人を忘れ、
「自分だけでも先に逃げよう」
と走り出した。
六波羅軍は大半の兵を討たれ、わずかな人数だけが、ようやく京都へ逃げ帰った。
300余りの首をさらす
赤松軍は、負傷した敵や生け捕りにした敵300人余りの首を取り、宿河原にさらした。
そして円心は、いったん摩耶城へ戻ろうとした。
ところが円心の息子、帥律師則祐が進み出て意見を述べた。
則祐、京都への追撃を主張する
則祐は言った。
「戦いで勝つためには、勝利の勢いに乗り、逃げる敵を追うことほど大切なものはありません。
今回向かってきた敵の名簿を見ると、京都にいる幕府軍のほとんどが出陣していたようです。
この兵たちは、これから4、5日の間、遠い道を逃げ続けた疲れによって、兵も馬も役に立たないでしょう。
敵が敗北の恐怖から立ち直る前に、そのまま攻め続ければ、六波羅探題を1度の戦いで攻め落とすこともできるはずです。
これは中国の名軍師・太公望の兵法書にも記され、漢の張良が心の奥に秘めていた作戦ではありませんか」
諸将は皆、則祐の意見に賛成した。
赤松軍、京都へ攻め上る
赤松軍は、その日の夜のうちに宿河原を出発した。
道沿いの民家へ火をつけ、その明かりを松明の代わりとした。
そして逃げる六波羅軍のあとを追い、そのまま京都へ向かって攻め上ったのである。
51. 3月12日の京都攻防戦――赤松則祐、桂川を渡る
六波羅は赤松軍の接近を知らない
六波羅探題は、このような事態になっているとは夢にも知らなかった。
摩耶城へは大軍を向かわせているので、
「赤松軍を攻め落とすまで、そう日数はかからないだろう」
と安心していた。
六波羅は、勝利の知らせが届くのを今か今かと待っていた。
ところが、
「摩耶城へ向かった幕府軍が敗れ、京都へ逃げ帰っている」
という話が広まった。
しかし、まだ詳しい報告は届いていない。
六波羅では、
「いったい何が起きたのか」
と、疑いと不安が広がっていた。
京都の周囲で火が上がる
元弘3年(1333年)3月12日、申刻(午後4時ごろ)、淀・赤井・山崎・西岡など、京都の西南にある30か所余りで、一斉に火が上がった。
人々が、
「これは何事だ」
と尋ねると、
「西国の朝廷軍が、すでに三方から京都へ攻め寄せている」
という答えが返ってきた。
京都の町は、上も下もひっくり返ったような大騒ぎになった。
六波羅が兵を集める
南北の六波羅探題は驚き、地蔵堂の鐘を鳴らして、京都にいる兵を集めようとした。
しかし、主力となるはずの兵は、摩耶城の戦いで赤松軍に追い立てられ、あちらこちらへ逃げ隠れていた。
そのほかに集まったのは、役人や軍の責任者などと呼ばれながら、戦場から離れ、太って動きの鈍くなった者たちだった。
自分で馬に乗ることも難しく、人に助けられて馬へ乗せられるような者たちが、400騎、500騎ほど集まった。
しかし皆、ただ驚き迷っているばかりだった。
敵と戦う強い意志も、統一された作戦もなかった。
六波羅軍、京都の外へ出る
六波羅北方の北条仲時は、戦況を見て言った。
「このまま京都に座って敵が来るのを待つのは、武士の作戦として十分ではない。
京都の外へ出て、敵を防ぐべきだ」
そこで、治安や軍事を担当する隅田と高橋に、京都在住の武士2万騎余りをつけた。
そして、
- 今在家
- 作道
- 西朱雀
- 西八条
の方面へ向かわせた。
このころは南風によって山の雪が解け、川の水が増し、岸からあふれそうになっていた。
六波羅軍の作戦は、増水した桂川を前に置き、川を防御線として赤松軍と戦うことだった。
赤松軍、桂川へ到着する
赤松則村(法名・円心)は、3,000騎余りの兵を2手に分けた。
そして久我縄手と西七条の方向から、京都へ攻め寄せた。
正面を進む赤松軍が桂川の西岸へ到着し、川向こうの六波羅軍を見渡すと、非常に大きな軍勢が並んでいた。
鳥羽の野を吹く春風に、各家の旗が激しくひるがえっている。
軍勢は城南離宮の西門から、作道・四塚・羅城門の東西を経て、西七条口まで続いていた。
その姿は、雲や霞が地上を埋め尽くしたようだった。
川を挟んだにらみ合い
六波羅軍は、
「桂川を前にして敵を防げ」
という命令を守り、誰1人として川を渡ろうとしなかった。
一方、赤松軍も、
「予想以上の大軍だ」
と考え、簡単には攻めかからなかった。
両軍は桂川を挟み、矢を射合うだけで時間を過ごした。
赤松則祐、川を渡ろうとする
赤松円心の子である帥律師則祐は、馬から降りて徒歩になった。
矢の束を解き、体を楽にして、1枚の盾の陰から前へ出たり引いたりしながら、激しく矢を射た。
しかし、しばらくすると独り言を言った。
「このまま矢を射合っているだけでは、勝敗は決まらない」
則祐は、脱いでいた鎧を肩にかけ直した。
兜の緒を締め、馬の腹帯を固く締め直した。
そして、ただ1騎で岸を下り、手綱を手繰りながら桂川を渡ろうとした。
円心が息子を止める
父の円心は、遠くからそれを見つけた。
急いで馬を寄せ、則祐の前をふさいで止めた。
「昔、佐々木高綱が藤戸を渡り、足利忠綱が宇治川を渡った時には、前もって浅瀬に目印をつけていた。
川の様子を十分に調べ、敵が少ないことも確認したうえで、先陣を争ったのだ。
今の桂川は、上流の雪解け水で増水し、どこが深く、どこが浅いかも分からない。
川の様子をまったく知らずに渡って、無事に向こう岸へ着けると思うのか。
たとえ馬が強く、川を渡れたとしても、あの大軍の中へ1人で突入すれば、討たれないはずがない。
天下の行方が、必ずしも今日の一戦だけで決まるわけではない。
しばらく命を守り、後醍醐天皇の世が戻る日を待とうという気持ちはないのか」
円心は何度も強く止めた。
則祐が兵法を語る
則祐は馬を止め、抜いていた太刀を鞘へ戻して答えた。
「味方と敵が、同じほどの人数であるならば、私が自分で危険を冒さなくても、戦いの結果を運に任せることができるでしょう。
しかし味方は、わずか3,000騎余りです。
敵は、その百倍にも見えます。
すぐに勝負を決めず、敵にこちらの兵が少ないことを見抜かれれば、戦っても勝ち目はありません。
中国の太公望の兵法には、
『戦いに勝つ方法は、敵の動きを細かく見抜き、有利な機会をすぐにつかみ、相手の予想しない時に素早く攻撃することだ』
とあります。
これはまさに、疲れた少数の味方が、強大な敵の陣を破るための作戦ではありませんか」
則祐はそう言い残した。
そして名馬に鞭を当て、水の盛り上がる川へ入った。
逆巻く波を立てながら、桂川を泳がせた。
5騎が則祐に続く
則祐の姿を見ると、
- 飽間九郎左衛門尉
- 伊東大輔
- 川原林二郎
- 木寺相模
- 宇野能登守国頼
の5騎も、続いて勢いよく川へ入った。
宇野と伊東の馬は強く、流れを真横に切るようにして、まっすぐ向こう岸へ渡った。
木寺相模は逆巻く水に馬を流され、兜の後ろ側だけが、わずかに水面へ見えていた。
波の上を泳いだのか、水中を潜ったのか分からない。
しかし誰よりも先に向こう岸へ着き、川の中州に立って、鎧から水を滴らせていた。
六波羅軍が動揺する
6人の勇ましい行動を見て、六波羅軍は、
「普通の武士ではない」
と思ったのだろう。
2万騎余りの人馬は、東へ西へと動揺した。
誰1人として、前へ出て6人と戦おうとしなかった。
盾の列まで乱れ始め、全軍に不安が広がった。
則祐はそれを見て叫んだ。
「先陣の味方を討たせるな。皆、続け!」
3,000騎が桂川を渡る
赤松信濃守範資と筑前守貞範が先頭に進んだ。
続いて佐用・上月の兵3,000騎余りが、一斉に桂川へ飛び込んだ。
多くの馬が並んで川を渡る姿は、馬を筏のように連ねて、流れをせき止めたようだった。
水は岸からあふれ、流れが幾つもの方向へ分かれた。
そのため、もともと深かった場所も、かえって陸地を進むように渡れた。
3,000騎余りの赤松軍は、向こう岸へ駆け上がった。
そして、
「この1度の戦いに命を捨てよう」
と、勇み立って進んだ。
六波羅軍、戦わずに逃げる
六波羅軍は、その勢いを見て、
「勝つことはできない」
と思ったのだろう。
まだ本格的に戦ってもいないのに、盾を捨て、旗を巻いて退却を始めた。
作道から北へ進み、東寺の方向へ逃げる者がいた。
竹田河原を北上し、法性寺大路へ逃げる者もいた。
20〜30町(約2.2〜3.3km)ほど続く道には、捨てられた鎧や武器が一面に散らばった。
それらは、逃げる馬のひづめが上げる土ぼこりの中へ埋もれていった。
赤松軍が京都市中へ入る
そのころ、西七条方面を攻めていた高倉少将の子・左衛門佐や、小寺・衣笠の兵たちは、すでに京都市内へ攻め込んでいた。
大宮・猪熊・堀川・油小路など、50か所余りに火を放った。
八条と九条の間でも戦いが起きたらしく、汗にぬれた馬が東西へ駆け違った。
兵たちの叫び声は天地を響かせた。
その光景は、大火・大風・大水という世界を滅ぼす三つの災害が同時に起こり、すべてが炎によって焼き尽くされるのではないかと思われるほどだった。
暗闇の中で混乱する京都軍
京都市内の戦いは、夜中まで続いた。
辺りは、狙う敵の姿さえ分からないほど暗かった。
あちらこちらから攻撃の声だけが聞こえる。
敵と味方の人数も、どのような陣形で戦っているのかも見分けられなかった。
そのため、どこへ向かい、誰と戦えばよいのか、誰にも判断できなかった。
京都にいた幕府軍は、まず六条河原へ集まった。
しかし、ただ驚き、途方に暮れた様子で待機しているばかりだった。
52. 光厳天皇、六波羅へ避難――河野・陶山の反撃
誰もいなくなった京都御所
日野資名(中納言)と、その一族の日野資明(左大弁宰相)は、同じ牛車に乗って京都御所へ向かった。
2人が到着すると、御所の四つの門はすべて開いたままになっていた。
門を守る武士は、1人もいない。
光厳天皇は南殿へ出て、
「誰かいるか」
と尋ねた。
しかし、宮中を警備する役人も、朝廷のさまざまな役所に勤める者も、どこへ逃げたのか分からない。
天皇の前に残っていたのは、勾当内侍と2人の少年だけだった。
六波羅への避難を勧める
資名と資明は天皇の前へ進み出て、申し上げた。
「幕府軍は戦いに敗れ、朝廷方の軍勢が思いがけず京都へ攻め込んでまいりました。
このまま御所におられれば、敵兵が勢いに任せて宮中へ乱入するかもしれません。
急いで三種の神器を先に運ばせ、六波羅へお移りください」
光厳天皇はすぐに腰輿へ乗り、二条河原を通って六波羅へ向かった。
その途中で、
- 堀河大納言
- 三条源大納言
- 鷲尾中納言
- 坊城宰相
など、20人余りの公卿や殿上人が追いつき、天皇に付き従った。
皇族たちも六波羅へ移る
光厳天皇が六波羅へ避難したことを知ると、『太平記』本文にいう上皇・法皇・皇太子・皇后、さらに尊胤法親王(梶井の二品親王)まで、皆六波羅へ移った。
高位の公家たちが軍勢の中に交じり、
「天皇がお通りになる。道を開けよ」
という声が何度も上がった。
それを見た六波羅の人々は、敵の攻撃とは別の意味でも、たいへん慌てた。
六波羅北方の屋敷を急いで空け、上皇や天皇の仮の御所とした。
すべてが突然のことであり、たいへん騒がしい様子だった。
六波羅軍、七条河原へ出る
南北の六波羅探題は、すぐに七条河原へ出陣した。
そして京都へ近づく赤松軍を待ち受けた。
赤松軍も、六波羅方の大軍を見て、簡単には攻められないと思ったのだろう。
あちらこちらを走り回り、建物へ火をつけ、攻撃の声を上げるだけで、同じ場所にとどまっていた。
六波羅は、その様子を見て考えた。
「敵は実際には小勢なのだろう。こちらから向かい、追い散らせ」
隅田と高橋には3,000騎余りをつけ、八条口へ向かわせた。
河野九郎左衛門尉と陶山次郎には2,000騎余りをつけ、蓮華王院の方面へ向かわせた。
河野・陶山の作戦
陶山は河野に言った。
「急に集められた兵たちと一緒に戦っても、かえって我々の動きを妨げるだけだ。
攻めることも退くことも、自由にできなくなるだろう。
六波羅から付けられた2,000騎余りは八条河原へ置き、そこで攻撃の声を上げさせよう。
我々は自分の手勢だけを選び、蓮華王院の東側から敵の中へ突入する。
敵陣を縦横に駆け破り、左右から追い立てながら、逃げる敵を馬上から射よう」
河野は、
「もっともな作戦だ」
と同意した。
六波羅から付けられた2,000騎余りを、塩小路の道場の前へ向かわせた。
河野の手勢300騎余りと、陶山の手勢150騎余りは別行動を取り、蓮華王院の東側へ回った。
背後から赤松軍へ突入する
合図の時刻になると、八条河原にいた六波羅軍が一斉に攻撃の声を上げた。
赤松軍は、
「正面から敵が来る」
と思い、馬の頭を西へ向けて待ち構えた。
その時、河野・陶山の400騎余りが、赤松軍の予想もしなかった背後から大声を上げて突入した。
2人は敵の大軍の中を、東西南北へ縦横に駆け破った。
赤松軍を1か所へ集まらせず、追い立てながら攻撃した。
河野と陶山の軍は、ある時は一つになり、またある時は二つに分かれた。
7度、8度と敵陣へ突入し、激しく攻め続けた。
長い行軍で疲れた赤松兵
赤松軍には、長い道を歩いて京都まで来た徒歩の兵が多かった。
その兵たちは、速い馬に乗る河野・陶山軍に攻め立てられ、多くが討たれた。
赤松軍は負傷者を置き去りにし、道を求めて散り散りになりながら退却した。
しかし河野と陶山は、逃げる敵を追い続けなかった。
「西七条の戦いが、どうなっているのか気にかかる」
そう言って七条河原をまっすぐ西へ進み、七条大宮へ出た。
隅田・高橋軍の苦戦
河野と陶山が朱雀の方を見ると、隅田・高橋の3,000騎余りが、赤松方の高倉左衛門佐、小寺・衣笠らの2,000騎余りに攻め立てられていた。
六波羅軍は馬を止めることもできず、押され続けている。
河野は言った。
「このままでは味方が討たれてしまう。すぐに攻めかかろう」
ところが陶山は、
「しばらく待て」
と止めた。
陶山、味方をすぐには助けない
陶山は理由を説明した。
「こちらの戦いがまだ決着していないうちに、我々が隅田・高橋を助けたとしても、あの2人は口がうまい。
きっと我々の働きまで、自分たちの手柄として報告するだろう。
しばらくこのまま戦いの様子を見よう。
敵が勝ちに乗ったとしても、どれほどのことができるだろうか」
河野と陶山は、すぐには戦いに加わらず、しばらく見物していた。
六波羅軍が崩れ始める
やがて隅田・高橋の大軍は、小寺・衣笠らの小勢に追い立てられた。
振り返って戦おうとしても、もう軍を立て直すことができない。
朱雀大路を北へ進み、内野の方へ逃げる者がいた。
七条通を東へ向かって逃げる者もいた。
馬を失った兵は、仕方なく振り返って戦い、その場で討ち死にした。
陶山は、それを見て言った。
「これ以上見ているだけで、味方を本当に弱らせてしまっても意味がない。
今こそ攻めかかろう」
河野も、
「もちろんだ」
と答えた。
河野・陶山、再び突撃する
2人は軍勢を一つにまとめ、赤松軍の中へ突入した。
長い時間にわたり、激しく戦った。
河野・陶山軍は、敵の堅い陣を打ち破り、戦況の変化に応じて巧みに戦った。
赤松軍はこの戦いでも敗れ、寺戸の西へ退却した。
赤松貞範・則祐兄弟の孤立
一方、赤松筑前守貞範と帥律師則祐の兄弟は、桂川を渡った最初の戦いで、逃げる敵を追い続けていた。
夢中で進んだため、後ろから味方が続いていないことにも気づかなかった。
兄弟は郎党を合わせ、わずか6騎だけで竹田から北へ進んだ。
法性寺大路を駆け抜け、六条河原へ出た。
そして、
「このまま六波羅の屋敷へ攻め込もう」
と、味方の到着を待っていた。
周囲が敵ばかりになる
ところが、東寺方面から進んでいた味方は、すでに敗れて退いたらしい。
赤松兄弟の周囲には、東西南北、敵しかいなくなった。
「それならば、しばらく敵の中へ紛れ込み、味方が来るのを待とう」
6人は味方の印である笠印を、すべて投げ捨てた。
そして敵軍の中に交じり、1か所にとどまっていた。
ぬれた鎧を目印にする
その時、隅田と高橋が馬で回りながら、大声で命じた。
「赤松の兵が、まだ味方のふりをして、この中へ紛れ込んでいるはずだ。
桂川を渡った者ならば、馬や鎧がぬれていないはずはない。
ぬれた馬や武具を目印にして、組みついて討ち取れ」
貞範と則祐は、
「このまま敵へ紛れようとする方が危険だ」
と判断した。
兄弟と郎党、わずか6騎は馬を並べて大声を上げ、2,000騎の敵軍へ突入した。
6騎で2,000騎を混乱させる
6人は、ある場所では大声で名乗り、別の場所では敵兵の中へ紛れ込みながら戦った。
幕府軍は、まさか敵が6騎しかいないとは思わなかった。
「大勢の赤松軍が攻め込んできた」
と思い、東西南北へ入り乱れた。
混乱の中で、幕府兵同士が斬り合うことさえ、長い間続いた。
しかし少数で大軍をだます作戦は、長く続けられるものではない。
郎党4人は、それぞれ別の場所で討たれた。
貞範も、則祐から引き離された。
則祐、1騎で逃れる
則祐は、ただ1騎となった。
七条通を西へ進み、大宮を南へ下って逃げた。
すると印具尾張守の家来8騎が追いかけてきた。
8騎は声をかけた。
「敵ながら、見事な戦いぶりだ。
いったい何者なのか。名を名乗られよ」
則祐は馬をゆっくりと進めながら答えた。
「私は大した者ではない。
名を名乗っても、あなた方は知らないだろう。
ただ首を取って、人々に見せればよい」
敵が近づけば振り返って戦い、敵が離れれば馬をゆっくり歩かせた。
則祐は20町余り(約2.2km余り)にわたり、敵8騎を連れたまま、落ち着いて進んだ。
味方の300騎を発見する
西八条の寺の前から南へ出ると、赤松信濃守の軍300騎余りがいた。
羅城門の前を流れる水で馬の脚を冷やしながら、敗れて散った味方を集めようと、旗を立てて待っていた。
則祐は味方の旗を見つけると、両足で馬の腹を強く蹴り、一気にその中へ駆け込んだ。
追ってきた8騎は、
「見事な敵だったのに、とうとう討ち漏らしてしまった。残念だ」
と言いながら、馬を引き返した。
赤松軍、再び1,000騎に戻る
しばらくすると、七条河原や西朱雀で追い散らされていた赤松兵が、あちらこちらから集まってきた。
軍勢は、再び1,000騎余りとなった。
赤松軍は東西の通りから兵を進ませ、七条付近で再び攻撃の声を上げた。
六波羅軍7,000騎余りは、六条院を背後にして迎え撃った。
両軍は攻めたり退いたりしながら、二時ほど(およそ4時間)戦った。
このままでは、いつ勝負が決まるのか分からないように見えた。
河野・陶山軍が背後へ回る
その時、河野・陶山の500騎余りが、大宮を南へ下って現れた。
そして赤松軍の背後を包囲しようと回り込んだ。
赤松軍は後方の陣を破られ、多くの兵を討たれた。
軍勢がわずかな数に減ったため、山崎を目指して退却した。
長追いをやめる
河野と陶山は勝ちに乗り、作道の付近まで赤松軍を追った。
しかし、赤松軍が動きを止め、振り返って戦おうとする様子を見せた。
2人は言った。
「今日の戦いは、ここまでにしよう。
あまり長く追ってはならない」
河野・陶山軍は鳥羽殿の前から引き返した。
捕虜20人余りと、討ち取った首七十三を持ち帰った。
首を槍の先へ刺したため、武器を血で赤く染めながら六波羅へ戻った。
光厳天皇が戦果を見る
光厳天皇は御簾を上げ、その様子を自ら見た。
南北の六波羅探題も敷皮の上に座り、捕虜や首を確認した。
六波羅の人々は、河野と陶山を何度もほめた。
「お2人の働きがすぐれていることは、いつものことである。
しかし今夜の戦いでは、2人が自ら戦い、命を惜しまなかったからこそ、敵を退けることができた」
河野・陶山への恩賞
その夜、すぐに臨時の任命が行われた。
河野九郎は対馬守に任じられ、天皇から剣を与えられた。
陶山次郎は備中守に任じられ、宮中の馬を与えられた。
これを見聞きした武士たちは、
「何という武士の名誉だろう」
と、うらやむ者もいれば、ねたむ者もいた。
河野と陶山の名は、天下に広く知られるようになった。
873の首
戦いが終わった翌日、隅田と高橋は京都中を走り回った。
堀や溝に倒れている死者や負傷者の首を集め、六条河原へ並べた。
『太平記』によれば、並べられた首は873に達した。
ただし『太平記』は、実際に赤松軍がそれほど多く討たれたわけではなかった、と続けている。
手柄のために作られた偽の首
『太平記』は、まともに戦わなかった六波羅方の武士たちが、
「自分も敵を討ち取って手柄を立てた」
と報告するため、京都や郊外の住民の首を切り、敵将の首だと偽って提出した、と記している。
首には、さまざまな武将の名を書いた札がつけられていた。
その中には、
赤松入道円心
と書かれた首が、五つもあった。
どの首も、本当に円心を知る者が確認したわけではない。
そのため五つとも、同じように六条河原へさらされた。
京都の人々の笑い
京都の町の人々は、その光景を見て笑った。
「他人の首を借りて手柄にした者は、あとで利子をつけて返さなければならないだろう。
それにしても赤松則村(法名・円心)は、5人に分身したらしい。
これでは何度討ち取っても、敵が尽きることはないだろう」
六波羅軍は戦いに勝ったことを示そうと、多くの首をさらした。
しかし、偽りの手柄を重ねたことで、かえって京都の人々の笑いものとなったのである。
53. 宮中・上皇御所の祈祷――山崎の戦い
戦乱を鎮めるための祈祷
このころ、日本中が大いに乱れ、戦火が空を焦がすほどだった。
天皇は国を背負う立場にありながら、春も秋も心の休まる時がない。
武士たちは槍を立て、軍旗が休む日は1日もなかった。
そこで、
「仏法の力によって反逆者を鎮めなければ、天下が平和になる日は来ない」
と考え、各地の寺院や神社へ命じて、大がかりな祈祷や秘密の修法を行わせた。
宮中と上皇の御所で行われた修法
尊胤法親王(梶井宮)は天皇の一族であり、比叡山延暦寺の最高責任者である天台座主でもあった。
そのため宮中に祭壇を設け、仏眼法という修法を行った。
また、裏辻の慈什僧正は上皇の御所で、薬師法を行った。
いずれも仏の力によって敵を退け、世の中を安定させるための祈りだった。
幕府も寺社へ祈願する
幕府も、比叡山、奈良の寺院、園城寺の僧たちを味方につけ、神仏の加護を得ようとした。
各地の荘園を寺社へ寄進し、さまざまな宝物を奉納して、祈祷を行わせた。
ここで『太平記』作者は、公家の政治の乱れと、幕府が積み重ねた悪行が災いを招いたのだ、と説明する。
作者はさらに、道理に反した祈りをしても神は受け入れない、と論じる。
利益だけを目的として人を誘っても、思うようには従わない。
そのため、どれほど祈りを続けても、各国から危急を知らせる報告が、毎日のように途切れず届いた。
赤松軍、山崎で勢力を立て直す
3月12日の戦いで、赤松軍は河野・陶山軍に敗れ、山崎を目指して退却した。
その時、六波羅がすぐに追撃軍を出していれば、赤松軍は陣を立て直すことができなかっただろう。
しかし六波羅は、
「もう赤松軍が何かできるはずはない」
と考え、油断した。
そのため、戦いに敗れて散っていた赤松兵が、各地から再び集まった。
赤松軍は、間もなく大軍へ戻った。
聖護院宮を名乗る人物を立てる
『太平記』は、赤松則村(法名・円心)が中院中将貞能を立て、これを「聖護院宮」と称した、と記している。
ここでは「聖護院宮」は本文上の呼称として扱い、実際の皇族であったと断定しない。
そして山崎と八幡に陣を置いた。
さらに淀川の河口方面を押さえ、西国と京都を往来する道をふさいだ。
京都への物資が止まる
山崎と八幡を赤松軍に押さえられたため、西国から京都へ人や物を運ぶことができなくなった。
京都の商売は止まり、食料や物資も不足した。
兵士たちは、食料の輸送が滞ったことに苦しめられた。
六波羅、赤松軍への再攻撃を決める
六波羅探題は、この状況を知って怒った。
「赤松1人のために京都中が苦しめられ、兵士たちまで物資不足に悩んでいるとは、我慢できない。
3月12日の戦いを見るかぎり、敵はそれほどの大軍ではなかった。
それなのに、情けなくも敵を恐れ、京都の近くにとどまらせていることは、幕府にとって後世まで残る恥である。
今度こそ朝廷方の陣へ押し寄せ、八幡と山崎の両方を攻め落とせ。
敵を川へ追い込み、首を取って六条河原へさらせ」
このような命令が出された。
5,000騎が山崎へ向かう
京都各所の警備兵や、京都にいた武士たちが集められた。
その数は『太平記』によれば5,000騎余りだった。
幕府軍は五条河原で隊列を整え、元弘3年(1333年)3月15日、卯刻(午前6時ごろ)、山崎へ向かって出発した。
初めは軍を2手に分けて進む予定だった。
しかし久我縄手の道は狭く、周囲には深い田が広がっている。
そこでは馬を自由に進めたり退かせたりすることができない。
そこで八条付近で一つの軍勢にまとまった。
桂川を渡り、川島の南を通って、物集女・大原野方面から山崎へ進んだ。
赤松円心、軍勢を3つに分ける
六波羅軍が来ることを知った赤松円心は、3,000騎余りを三つの部隊に分けた。
第一の部隊は、足の速い弓兵を中心とする500人余りだった。
この部隊を小塩山へ回した。
第二の部隊は、野武士を中心に、少数の騎馬武者を加えた1,000人余りだった。
この部隊を狐川付近に待機させた。
第三の部隊は、太刀や長刀を使う戦いにすぐれた800騎余りだった。
この部隊を向日明神の後ろにある松林へ隠した。
六波羅軍、深く進みすぎる
六波羅軍は、赤松軍がここまで出てきて迎え撃つとは考えていなかった。
警戒することなく、敵地へ深く入り込んだ。
そして寺戸の民家に火をつけながら、先頭の軍勢は向日明神の前を通り過ぎようとした。
その時、善峰や岩蔵の上から、赤松方の足軽弓兵が現れた。
兵たちは1人ずつ盾を持って山を下り、幕府軍へ激しく矢を射た。
山上の弓兵を攻められない
幕府兵は弓兵を見つけると、馬を並べて攻め散らそうとした。
しかし山が険しいため、馬では登れなかった。
「それならば、敵を広い場所へ誘い出して討とう」
と考えた。
しかし赤松方の弓兵も、その考えを見抜いて山から下りてこない。
幕府軍の武将たちは相談した。
「このような名もない野武士たちを相手にして、わざわざ苦労しても仕方がない。
ここは放っておき、そのまま山崎へ進もう」
六波羅軍は小塩山の兵を無視し、西岡を南へ進んだ。
松林から飛び出す50騎
その時、坊城左衛門が50騎余りを率い、向日明神の小さな松林から突然飛び出した。
そして、六波羅の大軍の中央へ斬り込んだ。
幕府軍は、
「敵はわずかな人数だ」
と侮った。
50騎を中央へ包囲し、1人も逃がさず討ち取ろうとした。
赤松軍が各所から現れる
すると田中・小寺・八木・神沢らの軍勢が、こちらから100騎、あちらから200騎というように、次々と姿を現した。
ある部隊は魚のうろこのように細く鋭い陣形で進んだ。
別の部隊は、ツルが翼を広げるように左右へ展開し、六波羅軍を包囲しようとした。
さらに狐川に待機していた500騎余りも動き出した。
細い道を伝って六波羅軍の背後へ回り、退路を断とうとした。
六波羅軍、再び敗走する
幕府軍はそれを見ると、
「このままでは勝てない」
と思ったのだろう。
馬にむちを打ち、急いで引き返した。
戦いは短時間だったため、討ち取られた兵はそれほど多くなかった。
しかし逃げる途中、多くの兵が堀や溝、深い田へ落ちた。
馬も鎧も泥だらけになり、どこをつかめばよいか分からないほど、ぬるぬるに汚れた。
六波羅軍は、そのみじめな姿で、昼間の京都を通って戻った。
京都の人々に笑われる
敗走する幕府兵を見物した京都の人々は、口々に言った。
「河野と陶山を出陣させていたならば、これほど見苦しい負け方はしなかっただろうに」
笑わない者は1人もいなかった。
河野と陶山は、この戦いには出陣せず、京都に残されていた。
それにもかかわらず六波羅軍が敗れたため、かえって2人の武勇と指揮能力が、以前にも増して高く評価されることになったのである。
54. 比叡山の僧兵、京都へ攻め寄せる
大塔宮、比叡山へ味方を求める
京都で戦いが始まってから、朝廷方の軍勢は動くたびに敗れているという知らせが広まっていた。
そこで後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)は、使者と文書を比叡山へ送り、延暦寺の僧兵たちを朝廷方へ味方させようとした。
これを受け、元弘3年(1333年)3月26日、比叡山の僧たちは大講堂の庭へ集まり、相談を行った。
比叡山の僧たちの主張
僧たちは、およそ次のように話し合った。
「我々の比叡山は、日吉七社の神々が姿を現す神聖な土地である。
また、代々の天皇を守る国の防壁として、重要な役割を果たしてきた。
伝教大師最澄がこの山を開いたころは、天台の教えを学び、静かな夜の月を眺めながら仏の真理を求めた。
その後、慈恵大師良源の時代には、仏法を妨げる者を降伏させる力も備えるようになった。
それ以来、怪しいものが天に現れれば仏法の力で退け、乱暴な者が国を乱せば神の力を借りて鎮めてきた。
この山の神を『山王』と呼ぶのも、仏と神が一つでもなく、別のものでもないという深い道理による。
また『比叡山』という名には、仏法と天皇の政治が互いに支え合う意味がある」
国への忠義を尽くすべき時
僧たちは、さらに続けた。
「現在、日本中が乱れ、天皇も安心して暮らすことができない。
北条氏が悪事を重ねた結果、今まさに天が罰を下そうとしている。
その前触れが現れていることは、賢い者にも愚かな者にも、世間の誰にでも分かることだ。
天皇のための仕事を怠ってはならない。
我々は俗世間を離れた僧ではあるが、このような時に、国へ忠義を尽くさなくてよいはずがない。
これまで幕府に味方してきた誤りを改め、今こそ危機にある朝廷を助けよう」
3,000人の僧たちは、全員が、
「まことにそのとおりだ」
と賛成した。
それぞれの寺院や谷へ戻り、幕府を討つ準備を始めた。
10万を超える軍勢
比叡山の僧兵たちは、元弘3年(1333年)3月28日に六波羅へ攻め寄せることを決めた。
すると延暦寺に属する寺や神社の者たちはもちろん、比叡山と関係を持つ近国の武士たちも、雲や霞のように次々と集まった。
元弘3年(1333年)3月27日、大宮の前で軍勢の人数を記録したところ、『太平記』によれば、10万6,000騎余りに達したという。
大軍を頼みにした油断
延暦寺の大衆は、もともと気が早く、自分の考えを抑えない者たちだった。
「これほどの大軍が京都へ攻め込めば、六波羅はひとたまりもない。
我々の軍勢を聞いただけで逃げ出すだろう」
僧兵たちは、六波羅を侮った。
八幡や山崎にいる赤松軍とも相談せず、勝手に行動を決めた。
そして、
「28日の午前6時ごろ、法勝寺で軍勢を整える」
と触れを出した。
準備もせずに山を下りる
僧兵たちは、まだ鎧や武器を十分に整えていなかった。
食料の用意さえ済んでいない。
それでも、ある者は今道から、ある者は西坂から、次々と山を下り始めた。
六波羅の作戦
六波羅は、比叡山の大軍が下りてくると知った。
そして、次のように考えた。
「山の僧兵は、たとえ大勢であっても、馬に乗る武士は1人もいないだろう。
こちらは馬上から弓を射ることにすぐれた兵を選び、三条河原で待ち受けよう。
敵が攻めてくれば退き、敵が止まれば左右や背後へ回り、馬に乗って追いながら矢を射ればよい。
僧兵は勇敢であっても、歩いて戦わなければならない。
そのうえ重い鎧に肩を押さえつけられれば、短い時間で疲れるだろう。
少数の軍勢で大軍を砕き、弱い軍勢で強い敵を倒すことができる」
六波羅は7,000騎余りを七つの部隊に分け、三条河原の東西に陣を構えて待ち受けた。
京都へ下る僧兵の大軍
比叡山の僧兵たちは、六波羅がこのような作戦を立てているとは思いもしなかった。
「京都へ最初に入って、よい宿を取ろう」
「敵の財宝を手に入れよう」
そのようなことを考え、1人で20枚、30枚もの宿札を持たせ、まず法勝寺へ集まった。
山から京都まで続く軍列
その軍勢を見渡すと、
- 今道
- 西坂
- 古塔下
- 八瀬
- 藪里
- 下松
- 赤山口
まで、道は僧兵で埋まっていた。
先頭の軍勢がすでに法勝寺や真如堂へ着いているのに、最後尾はまだ比叡山の上や坂本に残っていた。
僧兵たちの鎧や兜に朝日が当たり、その輝きは稲妻のように見えた。
山風になびく旗は、竜や大蛇が動いているようだった。
山から下りてきた軍勢と、京都の幕府軍を比べると、幕府方は僧兵の十分の一にも満たないように見えた。
「この大軍ならば、簡単に六波羅を攻め落とせる」
比叡山の僧兵たちがそう考えたのも、無理のないことであった。
法勝寺への奇襲
先頭の僧兵たちは法勝寺へ到着し、後ろから来る軍勢を待っていた。
そこへ六波羅軍7,000騎余りが、三方から突然攻め寄せ、一斉に攻撃の声を上げた。
僧兵たちは、不意に聞こえた声に驚いた。
「鎧を持ってこい!」
「太刀だ!」
「長刀を取れ!」
大騒ぎになったが、突然のことで武器を取る余裕もない。
わずか1,000人ほどが、法勝寺の西門の前へ出て、近づく幕府軍へ太刀や長刀を抜いて攻めかかった。
騎馬武者に翻弄される僧兵
幕府軍は、あらかじめ戦い方を決めていた。
僧兵が攻めてくると、馬を返して一斉に退いた。
僧兵が追うのをやめると、左右に分かれ、背後へ回って再び攻めた。
このような攻撃を6度、7度と繰り返した。
僧兵たちは徒歩であり、しかも重い鎧を着ている。
馬に乗った武士を追い続け、しだいに疲れた様子を見せ始めた。
幕府軍は、そこを好機と見た。
弓の上手な兵を選び、僧兵たちへ激しく矢を射かけた。
僧兵、法勝寺へ戻れない
僧兵たちは多くの矢を浴び、
「平地で騎馬武者と戦うことはできない」
と考えた。
そこで法勝寺の中へ引きこもろうとした。
その時、丹波国の武士である佐治孫五郎が、西門の前へ馬を横向きに止めた。
『太平記』によれば、佐治は当時でも珍しい、5尺3寸(約1.6m)もある大太刀を持っていた。
そして僧兵3人を、1度に胴から斬り落とした。
大太刀が少し曲がると、その刀身を門の扉へ押し当てて、まっすぐに直した。
さらに敵を待ち受けるため、馬の頭を西へ向け、堂々と門前にとどまった。
山へ逃げ帰る僧兵たち
僧兵たちは佐治孫五郎の姿を見て、その勢いに恐れたのだろう。
あるいは、
「法勝寺の中にも敵がいる」
と思ったのかもしれない。
法勝寺へ入ることができず、西門の前から北へ向かった。
真如堂の前から神楽岡の後ろを通り、2手に分かれて、ただ比叡山へ戻ろうと逃げていった。
豪鑒・豪仙、引き返す
東塔南谷の善智房に、豪鑒と豪仙という2人の僧がいた。
2人は比叡山の三塔でも名を知られた、勇猛な僧兵だった。
しかし味方の大軍が逃げ出したため、2人も思わず北白河の方へ退いていた。
途中で豪鑒が、豪仙を呼び止めた。
「2人の命で比叡山の恥をすすごう」
豪鑒は言った。
「戦いには、勝つ時もあれば負ける時もある。
勝敗は時の運によるのだから、負けること自体は恥ではない。
しかし今日の戦い方は、比叡山にとって大きな恥となり、天下の笑いものになるだろう。
どうだ。私と一緒に引き返して討ち死にしようではないか。
2人の命を捨て、比叡山三塔の恥をすすごう」
豪仙は答えた。
「言われるまでもない。
私も、それこそ望むところだ」
2人はその場へ踏みとどまり、法勝寺北門の前へ並んで立った。
2人の名乗り
豪鑒と豪仙は、大声で名乗った。
「これほどの大軍が逃げていく中から、ただ2人だけが引き返してきた。
これを見れば、我々が比叡山三塔で最も勇敢な者だと分かるだろう。
名は聞いたことがあるはずだ。
東塔南谷、善智房の同宿、豪鑒・豪仙とは我々のことである!
腕に覚えのある武士は、こちらへ来い。
武器を取って戦い、ほかの者たちに見物させようではないか!」
2人はそう叫ぶと、4尺余り(約1.2m余り)の大長刀を水車のように振り回した。
飛びかかっては斬り、武器と武器をぶつけて火花を散らしながら戦った。
幕府兵を近づけない
2人を討ち取ろうと近づいた武士たちは、次々と馬の脚をなぎ払われた。
兜の鉢を割られ、討ち取られる者も多かった。
豪鑒と豪仙は、そこで半時ほど(およそ1時間)幕府軍を防いだ。
しかし、あとに続く僧兵は1人もいなかった。
やがて幕府軍は、雨のように矢を射かけた。
2人とも10か所余りに傷を負った。
豪鑒・豪仙の最期
2人は互いに言った。
「我々の望みも、ここまで果たした。
それでは、あの世までも一緒に行こう」
2人はそう約束し、鎧を脱ぎ捨てた。
上半身を裸にすると、腹を十文字に切り裂いた。
そして同じ場所に頭を並べ、息絶えた。
それを見た幕府の武士たちは、『太平記』によれば言った。
「何と惜しいことだ。
この2人こそ、日本一の勇士であった」
2人を惜しまない者はいなかった。
比叡山の名誉を守った2人
先頭の僧兵が敗れて逃げると、後方にいた大軍は、戦場を見ることさえなく、途中から比叡山へ引き返した。
結局、この日の戦いで比叡山の武名を高めたのは、ただ豪鑒と豪仙の2人の戦いぶりだけだったのである。
55. 4月3日の京都合戦――頓宮・田中の四勇士と妻鹿孫三郎
幕府、比叡山の僧たちを味方へ引き入れる
先月12日の戦いで赤松軍が敗れて退いてから、幕府軍は勝ちに乗り、朝廷方の兵を数1,000人も討ったとされていた。
しかし、日本全国の戦乱は、まだ少しも静まっていない。
そのうえ比叡山延暦寺も幕府に背き、大嶽にかがり火をたき、坂本に兵を集めていた。
そして、
「再び六波羅へ攻め寄せる」
といううわさが広まっていた。
六波羅は、延暦寺の僧たちを幕府方へ引き戻そうと考えた。
そこで大きな荘園13か所を、延暦寺へ寄進した。
さらに有力な僧たちへ、それぞれ条件のよい土地を1、2か所ずつ与え、
「幕府のために祈祷を行ったことへの恩賞である」
とした。
その結果、延暦寺の中では意見が分かれ、幕府へ味方しようとする僧も多く現れた。
赤松軍、再び京都へ進む
八幡と山崎に陣を置く朝廷軍は、先の京都での戦いで、多くの兵を失っていた。
討ち死にした者もいれば、傷を負った者も多い。
そのため軍勢は半分以上に減り、今では1万騎にも満たなかった。
それでも赤松則村(法名・円心)たちは、幕府軍の戦い方や京都の守りを見て、
「恐れるほどではない」
と見抜いていた。
そこで7,000騎余りを2手に分け、元弘3年(1333年)4月3日の午前6時ごろ、再び京都へ攻め寄せた。
伏見・木幡方面から進む軍
一方の軍は、殿法印良忠と中院定平を大将とした。
これに、
- 伊東氏
- 松田氏
- 頓宮氏
- 富田判官の一族
- 真木・葛葉の荒々しい武士たち
が加わった。
その軍勢は、合わせて3,000騎余りだった。
伏見と木幡の民家へ火を放ち、鳥羽・竹田方面から京都へ攻め寄せた。
西七条から進む赤松軍
もう一方は、赤松円心を大将とした。
これに、
- 宇野氏
- 柏原氏
- 佐用氏
- 真島氏
- 得平氏
- 衣笠氏
- 菅家の一族
などが加わった。
軍勢は3,500騎余りだった。
河島や桂の里へ火を放ち、西七条口から京都へ進んだ。
六波羅軍は3万騎
南北の六波羅探題は、これまで何度も朝廷軍との戦いに勝ったと思い、兵たちも勢いづいていた。
そのうえ、『太平記』によれば、集めた軍勢は3万騎を超えていた。
そのため、
「敵が近づいてきた」
という報告を受けても、慌てる様子はなかった。
六条河原へ兵を集め、落ち着いて各方面へ振り分けた。
比叡山への備え
比叡山は、現在は幕府と心を通じている。
しかし、
「また何か別の考えを持っているかもしれない。油断してはならない」
と、六波羅は警戒した。
そこで、
- 佐々木時信(六角時信。本文表記:佐々木判官時信)
- 常陸前司時朝
- 長井縫殿秀正
に3,000騎余りをつけ、糺河原方面へ向かわせた。
河野・陶山を法性寺大路へ
先月12日の戦いでは、河野と陶山が大きな働きをして勝利した。
六波羅は、
「今回も、この2人を使えば縁起がよい」
と考えた。
そこで河野と陶山に5,000騎をつけ、法性寺大路へ向かわせた。
東寺・西七条への配置
富樫・林の一族、島津・小早川の軍には、各国の兵6,000騎余りを加え、八条・東寺方面へ向かわせた。
また、
- 厚東加賀守
- 加治源太左衛門尉
- 隅田
- 高橋
- 糟谷
- 土屋
- 小笠原
には7,000騎余りをつけ、西七条口へ向かわせた。
残る1,000騎余りは、危急の場合に使う予備の軍として六波羅へ残した。
3方面で戦いが始まる
午前10時ごろ、三つの方面で同時に戦いが始まった。
両軍は新しい兵を次々と入れ替えながら、激しく攻め合った。
朝廷軍には騎馬武者が少なく、徒歩の弓兵が多かった。
そのため狭い通りをふさぎ、矢の先をそろえて幕府軍へ激しく射かけた。
一方、六波羅軍は徒歩の兵が少なく、騎馬武者が多い。
馬を左右へ駆け違わせ、朝廷軍を中央へ包囲しようとした。
決着のつかない激戦
両軍とも、孫子の兵法や呉子の陣形を知っている武将たちだった。
相手の包囲を避け、自分たちの陣も破られないように戦った。
どちらも命をかけて戦ったため、なかなか勝負が決まらなかった。
戦いは1日中続き、太陽が西へ傾き始めた。
河野・陶山軍、木幡の朝廷軍を破る
夕方になると、河野と陶山は軍勢を一つにまとめた。
300騎余りが馬を並べ、一斉に朝廷軍へ突撃した。
木幡方面から来た朝廷軍は、その攻撃を受けると、踏みとどまることができなかった。
宇治方面を目指して退いていった。
しかし河野と陶山は、逃げる敵を追わなかった。
東寺の朝廷軍を包囲しようとする
2人は竹田河原をまっすぐ横切り、鳥羽殿の北門へ回った。
そこから作道へ出て、東寺の前にいる朝廷軍を包囲しようとした。
作道の18町(約2km)ほどの道を埋め尽くしていた朝廷軍は、それを見ると、
「このままでは勝てない」
と思ったのだろう。
羅城門の西を横切り、寺戸方面へ退却した。
島津・小早川、西七条へ向かう
小早川軍と島津安芸前司の軍は、それまで東寺方面の朝廷軍を相手に、攻めたり退いたりしながら戦っていた。
ところが、自分たちが戦っていた敵を、河野・陶山軍に追い払われてしまった。
2人は、
「自分たちの陣の敵を、ほかの軍に退けられた。まるで我々が敗れたようではないか」
と残念に思った。
そこで、
「西七条へ向かった敵と、今度こそ華々しい戦いをしよう」
と、西八条を北へ進み、西朱雀へ出た。
赤松円心の3,000騎
西朱雀では、赤松円心が選び抜いた兵3,000騎余りを率いて待ち構えていた。
その陣は固く、簡単には破れそうになかった。
しかし島津・小早川軍が横から攻めかかるのを見て、戦いに疲れていた六波羅軍も勇気を取り戻した。
三方向から赤松軍へ攻めかかった。
赤松軍は、たちまち陣を開き、3か所に分かれて退いた。
4人の勇士が前へ出る
その時、赤松軍の中から4人の武士が進み出た。
4人は、数1,000騎が待ち構えている六波羅軍へ、ためらうことなく向かっていった。
その姿は、中国の樊噲や項羽が怒りに燃えて立つ姿にも勝るほどだった。
巨大な武士たち
『太平記』がここで7尺(約2.1m)ほどもある大男として描くのは、4人のうち田中藤九郎盛兼である。
これは後世の尺貫法による単純換算の目安であり、以下の巨大な武器や怪力も含め、軍記物語の誇張を交えた人物描写として読む必要がある。
ひげは左右へ分かれて生え、目尻は逆立つようにつり上がっていた。
鎖かたびらの上へ、さらに鎧を重ねて着ている。
大きなすね当てに膝を守る防具をつけ、竜頭の飾りがある兜を、首をすくめるように深くかぶっていた。
腰には5尺余り(約1.5m余り)の大太刀を差している。
さらに8尺余り(約2.4m余り)もある八角形の鉄棒を、柄の部分だけ2尺ほど(約61cm)丸く削り、まるで軽い棒のように片手で下げていたと『太平記』は描く。
六波羅軍が道を開ける
数1,000騎の六波羅軍は、4人の姿を見ただけで、まだ戦う前から三方へ分かれて退いた。
4人は敵を手招きし、大声で名乗った。
「我々は備中国の住人、
- 頓宮又次郎入道
- その子、頓宮孫三郎
- 田中藤九郎盛兼
- その弟、田中弥九郎盛泰
である!」
山賊から朝廷軍へ
4人はさらに言った。
「我々父子、兄弟は、若いころから朝廷の処罰を受け、幕府の敵となった。
そのため山賊を仕事として、一生を楽しく送ってきた。
ところが幸いにも、今この天下の乱れが起こり、恐れ多くも天皇方へ加わることができた。
先日の戦いでは、特に目立った働きもできず、味方が敗れた。
それを我々は、自分たちの恥だと思っている。
今日の戦いでは、たとえ味方が敗れて退いても、我々は退かない。
敵がどれほど強くても、それに従うつもりもない。
敵陣を突き破り、そのまま六波羅殿の前へ進み、直接お目にかかるつもりだ!」
4人はそう大言を吐き、仁王像のように堂々と立った。
島津安芸前司、4人を討とうとする
島津安芸前司は、4人の名乗りを聞いた。
そして2人の息子と家来たちへ言った。
「以前から聞いていた、西国一の怪力の者たちとは、この4人のことだ。
あの者たちを大軍で攻めても、かえって討ち取ることは難しい。
お前たちは少し離れ、ほかの敵と戦え。
私と息子たち3人だけで近づき、進んだり退いたりしながら、しばらく疲れさせよう。
そうすれば、討ち取れないはずがない。
どれほど力が強くても、体に矢が刺さらないわけではない。
どれほど足が速くても、馬に追いつくことはできない。
長年練習してきた犬追物や笠懸などの騎射の技を、今使わずして、いつ使うのだ。
さあ、めったに見られない戦いを、人々に見せてやろう」
島津父子は、ただ3騎だけで軍勢から抜け出し、4人へ近づいた。
田中盛兼、島津をあざ笑う
田中藤九郎盛兼は、それを見て笑った。
「まだ名前は知らないが、なかなか勇ましい心を持つ者だ。
できることなら、お前を生け捕りにして、朝廷方へ加え、我々と一緒に戦わせてやろう」
田中は巨大な鉄棒を振り上げ、ゆっくりと歩いて近づいた。
島津も馬を静かに進めた。
島津の矢が田中を射抜く
矢が届く距離になると、島津安芸前司は非常に強い弓に長い矢をつがえ、十分に引き絞って放った。
矢は狙いを外さなかった。
田中の兜の頬当て付近から、菱縫の板を貫き、矢の軸の半ばほどまで突き刺さった。
急所に深い傷を受けた田中は、どれほど怪力であっても、目の前が暗くなり、前へ進めなくなった。
弟・弥九郎が兄の敵を討とうとする
弟の弥九郎盛泰が走り寄り、兄の兜に刺さった矢を抜いて捨てた。
そして叫んだ。
「天皇の敵は六波羅である。
だが、兄の敵はお前だ。
決して逃がさない!」
弥九郎は兄の鉄棒をつかみ取り、大きく振り回して島津へ攻めかかった。
頓宮父子も、それぞれ5尺2寸ほど(約1.6m)の大太刀を脇へ構え、小躍りするように続いた。
馬上の島津と、徒歩の怪力武者
島津は馬上での戦いに慣れた名手だった。
矢を次々と素早く射ることにもすぐれていた。
少しも慌てず、田中が正面から近づけば、馬を素早く回して矢を放った。
田中が右側へ回れば、島津は反対側から回り込み、正確に射た。
西国で名高い太刀や鉄棒の名手と、馬上での弓に並ぶ者のない武者が、追ったり退いたりしながら、人を交えず戦った。
これまで聞いたこともないほど、見事な戦いだった。
4人の最期
やがて島津の矢も尽き、太刀を使う接近戦になろうとした。
それを見た小早川軍は、
「このままでは島津が危ない」
と思ったのだろう。
朱雀の地蔵堂より北に待機していた200騎が、大声を上げて攻めかかった。
田中たちの後ろにいた朝廷軍は、それを見ると一斉に退いた。
田中兄弟と頓宮父子の4人は取り残された。
鎧の隙間や兜の内側へ、それぞれ20本、30本もの矢を受けた。
4人は太刀を逆さに突いて体を支え、その場に立ったまま息絶えた。
この話を見聞きした者は、後の世まで4人の死を惜しまなかった者はいなかった。
菅家一族の戦い
美作国の菅家一族は、300騎余りで四条猪熊まで攻め込んでいた。
そこへ武田兵庫助・糟谷・高橋らの1,000騎余りが攻めかかった。
両軍は長い時間にわたって戦った。
やがて菅家一族は、後ろにいた味方が退いていくのを見た。
しかし、
「初めから退かないと決めていた」
のだろうか。
あるいは、
「目の前の敵へ背中を見せるのは恥である」
と考えたのだろうか。
有元菅3兄弟
有元菅四郎佐弘、五郎佐光、又三郎佐吉の三兄弟は、近づいてきた敵へ馬を並べて進み、組みついて地面へ落ちた。
佐弘は、その日の朝の戦いで膝を斬られていた。
力が弱っていたため、武田七郎に押さえつけられ、首を取られた。
一方、佐光は武田二郎の首を取った。
佐吉は武田方の家来と刺し違え、2人とも死んだ。
残った兄弟同士の1騎打ち
武田方でも兄弟の1人が死に、菅家方でも兄弟が討たれた。
生き残った佐光と武田七郎は、
「兄弟を失ってまで、1人で生きていても仕方がない。
それならば、我々も勝負を決めよう」
と考えた。
2人は、それぞれが持っていた敵の首を左右へ投げ捨てた。
そして再び組み合い、互いに刀を突き立てて死んだ。
27人が同じ場所で討ち死にする
これを見た、
- 福光彦二郎佐長
- 殖月彦五郎重佐
- 原田彦三郎佐秀
- 鷹取彦二郎種佐
らも、同時に馬を引き返した。
彼らは敵と強く組みついて地面へ落ち、互いに刺し違えた。
合わせて27人の武士が、同じ場所で全員討ち死にした。
これによって、その方面の朝廷軍の陣も崩れた。
怪力の妻鹿孫三郎
播磨国の武士に、妻鹿孫三郎長宗という者がいた。
『太平記』は、妻鹿孫三郎を薩摩氏長の子孫とし、人並み外れた怪力と体格を持つ人物として描く。
『太平記』によれば、12歳の春ごろから相撲を好んで取った。
日本60余州の中で、片手だけでも相手になれる者は最後まで1人もいなかったという。これは妻鹿孫三郎の怪力を強調する軍記的表現である。
怪力の一族17人
人は似た者同士で集まるものである。
妻鹿孫三郎に付き従う一族17人も、皆普通の人間よりはるかに強かった。
彼らはほかの軍勢と交じらず、一族だけで一つの部隊となって進んだ。
六条坊門大宮付近まで攻め込んだ。
3,000騎に包囲される
その時、東寺・竹田方面で勝利し、戻ってきた六波羅軍3,000騎余りが現れた。
妻鹿一族は、たちまち大軍に包囲された。
一族17人は全員討たれ、妻鹿孫三郎だけが生き残った。
孫三郎は独り言を言った。
「生き残っても大した価値のない命かもしれない。
しかし、天皇の大切な戦いが、今日だけで終わるとは限らない。
たとえ1人でも生き残れば、後の戦いで役に立つことができるだろう」
孫三郎は、ただ1騎で西朱雀を目指して退いた。
50騎が追いかける
印具駿河守の軍勢50騎余りが、孫三郎を追いかけた。
その中に、20歳ほどの若武者がいた。
若武者はただ1騎で孫三郎へ追いつき、組みつこうとして鎧の袖をつかんだ。
妻鹿孫三郎は、それを何とも思わなかった。
長い腕を伸ばし、若武者の鎧の背中にある総角をつかんだ。
そして若武者を片手で持ち上げ、宙にぶら下げたまま、馬上で3町ほど(約330m)進んだと『太平記』は描く。
若武者を抱えたまま進む
この若武者は、身分のある武士だったのだろうか。
後ろから追う50騎余りの兵たちは、
「あの者を殺すな!」
と叫びながら、孫三郎についてきた。
妻鹿孫三郎は後ろを鋭くにらみ、言った。
「敵にも相手を選ぶというものがある。
こちらが1騎だからといって、近づいて失敗するな。
それほど、この若武者が欲しいのならば、さあ、返してやろう。
受け取れ!」
6騎を飛び越えて投げる
孫三郎は、左手でぶら下げていた鎧武者を右手へ持ち替えた。
そして、
「えい!」
と、後ろへ投げ飛ばした。
若武者の体は、追ってきた騎馬武者6騎の頭上を飛び越えた。
そのまま深い田の泥の中へ落ち、姿が見えなくなるほど沈んだ。
これを見た50騎余りの武士たちは、同時に馬の向きを変えた。
そして馬を全速力で走らせ、妻鹿孫三郎から逃げ去った。
赤松軍、八幡・山崎へ退く
この日の戦いで赤松円心は、特に頼りとしていた一族の武士たちを、各地で800騎余りも失った。
兵たちの気力は尽き、戦う力も弱まった。
赤松軍は再び、八幡と山崎の陣へ退いていったのである。
56. 後醍醐天皇、自ら金輪法を修する――千種忠顕の京都合戦
年代について:この章は、前章で描かれた4月3日の京都合戦より前の出来事を含み、のちに元弘3年(1333年)4月2日へさかのぼって叙述する。『太平記』の章立て上の前後関係に注意したい。
後醍醐天皇、自ら戦勝を祈る
京都で行われた数度の戦いでは、朝廷軍が毎回のように敗れていた。
八幡と山崎に陣を置く軍勢も、すでに少なくなっているという知らせが、船上山の後醍醐天皇のもとへ届いた。
後醍醐天皇は、
「このままでは天下はどうなるのだろうか」
と、深く心を悩ませた。
そこで船上山の仮の御所に祭壇を設け、天皇自ら金輪法という秘密の修法を行った。
金輪法とは、仏の力によって国を守り、敵を退けるために行われる、非常に重要な祈祷である。
祭壇に現れた3つの光
『太平記』では、修法を始めて7日目の夜、不思議な出来事が起きたと語られる。
太陽・月・星を表す三光天子が、光を並べて祭壇の上に現れたという。これは『太平記』の宗教的・霊験的な叙述である。
後醍醐天皇は、
「私の願いは、すぐにかなうに違いない」
と、たいへん心強く思った。
そこで、
「ただちに大将を京都へ向かわせ、赤松則村(法名・円心)と力を合わせて六波羅を攻めよ」
と命じた。
千種忠顕を京都へ派遣する
後醍醐天皇は、千種忠顕(本文表記:六条少将忠顕)を頭中将に任じた。
そして山陽道・山陰道の武士たちを率いる大将として、京都へ向かわせた。
忠顕の軍勢は、伯耆国を出発した時には、わずか1,000騎余りだったという。
しかし進軍するうちに、
- 因幡国
- 伯耆国
- 出雲国
- 美作国
- 但馬国
- 丹後国
- 丹波国
- 若狭国
の武士たちが次々と加わった。
『太平記』によれば、その軍勢は間もなく20万7,000騎余りに達したという。
恒良親王を大将に迎える
後醍醐天皇の第6皇子・恒良親王は、元弘の乱が始まった時、幕府に捕らえられ、但馬国へ流されていた。
その親王を、但馬国の守護太田守延(本文表記:太田三郎左衛門尉)が奉じて挙兵した。
太田守延は近国の武士たちを集め、恒良親王を奉じて丹波国の篠村へやって来た。
千種忠顕は、恒良親王が味方に加わったことを大いに喜んだ。
すぐに錦の御旗を立て、恒良親王を上将軍として仰いだ。
さらに恒良親王から各地の武士へ、軍勢を集めるための令旨を出してもらった。
西山に大軍が集まる
元弘3年(1333年)4月2日、恒良親王は篠村を出発し、西山の峰堂を陣所とした。
『太平記』では、従う軍勢は20万騎とされ、
- 谷堂
- 葉室
- 衣笠
- 万石大路
- 松尾
- 桂の里
に入りきらないほどだった。
兵の半分は、家や寺に泊まる場所もなく、野宿をした。
一方、殿法印良忠は八幡に陣を置いていた。
赤松円心は、山崎に軍勢を集めていた。
忠顕の峰堂の陣と、赤松軍の陣は、わずか50町余り(約5.5km余り)しか離れていなかった。
本来ならば、互いに使者を送り、攻撃の日時や場所を相談したうえで、京都へ向かうべきだった。
忠顕、赤松軍と相談せず出陣する
しかし千種忠顕は、自分の軍勢の多さを頼りにしたのだろうか。
あるいは、赤松円心と手柄を分けず、自分1人の功績にしたかったのだろうか。
赤松軍には知らせず、ひそかに攻撃の日を決めた。
そして元弘3年(1333年)4月8日、卯刻(午前6時ごろ)、六波羅へ攻め寄せた。
釈迦の誕生日に始まった戦い
この日は、釈迦の誕生日とされる日だった。
心ある者も、そうでない者も、仏像へ甘茶をかけ、花を供え、香をたき、経を読んでいた。
悪を捨て、善い行いをすることに心を向ける日である。
戦う日はほかにいくらでもある。
それなのに、よりによって仏教の大切な日に戦いを始めた。
人々は、
「まるで仏法を妨げる魔王の道を学んでいるようだ。理解できないことだ」
と、不思議に思った。
味方を見分ける「風」の印
この戦いでは、朝廷軍にも幕府軍にも、源氏と平氏の武士が入り交じっていた。
味方の目印がなければ、同士討ちが起きるかもしれない。
そこで忠顕は、白い絹を1尺(約30cm)ずつに切り、
風
という文字を書かせた。
それを朝廷軍の武士たちの鎧の袖につけさせた。
これは孔子の、
君子の徳は風のようなものであり、
身分の低い者の徳は草のようなものである。
草に風が吹けば、必ずその方向へなびく。
という言葉を表したものだろう。
つまり、
「天皇やすぐれた指導者の徳によって、天下の人々は自然に従う」
という意味だった。
六波羅の防御
六波羅は、朝廷軍が京都の西側から来ると考えていた。
そこで三条から九条まで、大宮大路に沿って城壁を築き、櫓を並べた。
櫓には弓の上手な兵を配置した。
さらに各通りへ1,000騎、2,000騎ずつ兵を置いた。
敵が細い陣形で進んでくれば正面から受け止め、広がれば左右から包囲しようという作戦だった。
幕府軍は忠顕を侮る
六波羅方の武士たちは尋ねた。
「攻めてくる軍勢の大将は、誰なのか」
すると、
「最高指揮官は、後醍醐天皇の第6皇子・恒良親王である。
副将は千種頭中将忠顕だ」
という答えが返ってきた。
武士たちは言った。
「それならば、敵の指揮を恐れる必要はない。
もとは同じ流れに属していても、育つ土地や環境が変われば、性質も変わる。
中国の故事にも、『江南の橘を江北へ移すと枳(からたち)になる』というではないか。
弓や馬の道を守ってきた我々武士と、和歌や音楽を得意とする朝廷の家臣が戦えば、武士が勝たないはずがない」
幕府軍は勇み立った。
7,000騎余りが大宮大路に集まり、朝廷軍が来るのを待った。
忠顕軍、各通りから攻撃する
忠顕は神祇官の前に陣を置き、軍勢を分けた。
北は大舎人付近から、南は七条まで、各通りへ1,000騎余りずつを向かわせた。
幕府軍は守りを固め、弓兵や徒歩の兵を前へ置き、騎馬武者を後方に置いた。
敵の陣が弱ったところを見つけると、騎馬武者が飛び出し、追い立てた。
一方、朝廷軍は二重、三重に新しい部隊を置いていた。
第一陣が退けば第二陣が入れ替わる。
第二陣が敗れれば、第三陣が前へ出る。
このように兵や馬を休ませながら戦った。
戦場には土煙が立ち、空を覆うほどだった。
命を惜しまない両軍
朝廷軍も幕府軍も、それぞれ自分たちの正義のために命を軽く考え、武士としての名を大切にして死を争った。
味方を助けるために前へ進む者はいた。
しかし敵と出会って退く者はいなかった。
戦いは激しく、どちらが勝つのかまったく分からなかった。
京都市中へ火を放つ
その時、但馬・丹波の軍勢は、前もって京都の中へ人を忍び込ませていた。
その者たちが、市内のあちらこちらへ火を放った。
ちょうど強い辻風が吹き、激しい煙と炎が、幕府軍の背後を覆った。
第一線で戦っていた幕府兵は、大宮大路からいったん退き、さらに京都市内へ下がった。
六波羅、新しい軍を投入する
六波羅はこの知らせを受けると、
「敵の守りが弱い場所へ向かわせよう」
と考えた。
予備として残していた、
- 佐々木判官時信
- 隅田
- 高橋
- 南部
- 下山
- 河野
- 陶山
- 富樫
- 小早川
らに5,000騎余りをつけ、一条・二条方面へ向かわせた。
太田三郎左衛門の戦死
この新しい幕府軍と戦い、但馬守護の太田守延(本文表記:太田三郎左衛門尉)が討ち死にした。
太田守延は、恒良親王を奉じて挙兵し、篠村まで伴った人物だった。
朝廷軍にとって、大きな損失だった。
荻野・足立軍の退却
丹波国の武士である荻野朝忠(彦六)と足立三郎は、500騎余りを率い、四条油小路まで攻め込んでいた。
そこへ備前国の、
- 薬師寺八郎
- 中吉十郎
- 丹氏
- 児玉氏
ら700騎余りが立ちふさがった。
両軍は激しく戦った。
しかし、
「二条方面の朝廷軍が破られた」
という知らせが届いた。
荻野・足立軍も味方とともに退却した。
金持三郎、生け捕りとなる
金持三郎は700騎余りを率い、七条東洞院まで攻め込んでいた。
しかし深い傷を負い、思うように退けなくなった。
そこへ播磨国の肥塚一族300騎余りが取り囲み、金持三郎を生け捕りにした。
神池の僧兵、全滅する
丹波国神池の僧兵80騎余りは、五条西洞院まで進んでいた。
味方が退却したことにも気づかず、戦いを続けていた。
そこへ備中国の庄三郎・真壁四郎ら300騎余りが攻めかかった。
神池の僧兵たちは、1人残らず討ち取られた。
名和・小島軍だけが戦い続ける
各方面の朝廷軍は、ある部隊は討ち破られ、ある部隊は押し戻された。
皆、桂川付近まで退却した。
しかし一条方面を攻めていた名和小次郎と児島高徳(本文表記:小嶋備後三郎高徳)の軍だけは、まだ退かなかった。
攻めたり退いたりしながら、長い時間にわたって戦い続けた。
一条方面を守っていたのは、陶山と河野だった。
攻める側は名和と小島である。
小島と河野は同じ一族につながり、名和と陶山は以前からの知り合いだった。
知人同士の激戦
彼らは、以前に交わした言葉を恥じたのだろうか。
あるいは、ここで退けば後々まで非難されると考えたのだろうか。
たとえ死体を戦場にさらすことになっても、逃げて名を失ってはならない。
互いに命を惜しまず、大声を上げながら激しく戦った。
忠顕、名和・小島を呼び戻す
大将の千種忠顕は、すでに内野まで退いていた。
しかし、
「一条方面では、名和と小島がまだ戦っている」
と聞いた。
忠顕は再び神祇官の前まで戻り、使者を送って2人を呼び戻した。
名和と小島は陶山・河野へ向かい、礼儀正しく告げた。
「今日は、もう日が暮れた。
また後日、お会いして勝負を決めよう」
こうして両軍は戦いをやめ、それぞれ東西へ退いた。
朝廷軍、7,000人余りを失う
夕方になって戦いが終わると、千種忠顕は西山の峰堂にある本陣へ戻った。
味方の負傷者と戦死者を調べさせると、その数は7,000人余りに達していた。
その中には、頼りにしていた太田氏・金持氏の一族など、数100人の有力な武士も含まれていた。
忠顕、陣を移そうとする
忠顕は、
「児島高徳ならば、一方の軍を率いる大将にふさわしい」
と考えたのだろう。
高徳を呼び寄せて言った。
「敗れた兵たちは力を使い果たしており、すぐに再び戦うことは難しい。
京都に近いこの場所へ陣を置き続けるのは危険だと思う。
少し離れた場所へ陣を移し、近国の軍勢をもう1度集めたうえで、改めて京都を攻めたい。
お前は、どう考えるか」
児島高徳、忠顕を厳しく批判する
児島高徳は、忠顕の言葉を最後まで聞かないうちに答えた。
「戦いの勝敗は、時の運によるものです。
そのため敗北したこと自体は、必ずしも恥ではありません。
しかし、退いてはならない場所で退き、攻めなければならない時に攻めないことを、大将の失敗というのです。
赤松円心をご覧ください。
わずか1,000騎余りの兵で、3度まで京都へ攻め入りました。
勝てなければ退きましたが、八幡・山崎の陣からは1度も離れていません。
今回、我が軍の半分以上が討たれたとしても、残っている兵は、なお六波羅軍より多いはずです。
この陣は、後ろに深い山があり、前には大きな川があります。
もし敵が攻めてくれば、こちらに有利な地形です。
決して、この陣を捨てようなどと考えてはなりません」
夜襲への備え
高徳は続けた。
「ただし、味方が疲れている機会を利用し、敵が夜襲をかけてくる可能性はあります。
私は300騎余りを率い、七条の橋の西側に陣を置いて待ち受けます。
信頼できる兵を400騎、500騎ほど選び、梅津と法輪の渡し場へ向かわせ、守らせてください」
高徳はそう言い残し、300騎余りを率いて七条橋の西へ向かい、陣を固めた。
忠顕、夜中に陣を捨てる
千種忠顕は、児島高徳から厳しい言葉を受けたため、しばらく峰堂の陣にとどまっていた。
しかし高徳が、
「敵が夜襲をかけてくるかもしれない」
と言ったことに驚いた。
そのため、ますます臆病な気持ちになったのだろう。
夜中を過ぎたころ、恒良親王を馬に乗せ、葉室の前をまっすぐ横切り、八幡を目指して逃げた。
児島高徳、異変に気づく
児島高徳は、忠顕が逃げたことなど思いもしなかった。
夜が深くなったころ、峰堂の方を見ると、それまで星のように輝いていたかがり火が、少しずつ消えていった。
ところどころでは、燃え残った火だけが弱く光っている。
高徳は、
「これは、大将が陣を捨てて逃げたのではないか」
と疑った。
事実を確かめるため、葉室大路から峰堂へ向かった。
荻野彦六から退却を知らされる
その途中、浄住寺の前で荻野朝忠(彦六)と出会った。
荻野は言った。
「大将は昨夜の子刻(午前0時ごろ)、すでに退却されました。
そのため我々も仕方なく、丹後方面へ向かうところです。
高徳殿も一緒に行きましょう」
高徳は大いに怒った。
「このような臆病な人物を、大将として頼ったことこそ、我々の失敗だった。
しかし、自分の目で陣を確認しなければ、後で何か問題になるかもしれない。
あなた方は先へ進んでください。
私は峰堂へ上り、皇子が本当におられないことを確かめたあと、追いつきます」
高徳は兵たちを山のふもとへ残し、1人で逃げる軍勢を押し分けながら、峰堂へ上った。
捨てられた錦の御旗
高徳が、大将のいた本堂へ入ってみると、急いで逃げたことが分かった。
錦の御旗だけでなく、鎧直垂まで捨てられていた。
高徳は激しく腹を立てた。
「この大将は、どこかの堀へでも落ちて死んでしまえばよい」
そう独り言を言い、しばらく堂の縁に立って、歯を食いしばっていた。
高徳、錦の御旗を回収する
しかし、
「兵たちも、私の帰りを待ちかねているだろう」
と考えた。
高徳は錦の御旗だけを巻き、下人に持たせた。
急いで浄住寺の前へ下り、待たせていた兵たちとともに馬を速めた。
追分宿の付近で、荻野彦六に追いついた。
高山寺城へ立てこもる
丹波・丹後・出雲・伯耆方面へ逃れる軍勢は、篠村や稗田の辺りへ集まった。
その数は3,000騎余りとなった。
荻野彦六は、その軍勢を率い、道中で待ち受ける野武士たちを追い払いながら進んだ。
そして丹波国の高山寺城へ入り、立てこもったのである。
57. 谷堂炎上――西山の寺院と民家が焼かれる
千種忠顕の退却を知った六波羅軍
千種忠顕(頭中将)が、西山の陣を捨てて逃げたという知らせが京都へ伝わった。
その翌日の元弘3年(1333年)4月9日、京都にいた幕府軍は、西山一帯へ乱入した。
幕府兵が押し寄せたのは、
- 谷堂
- 峰堂
- 浄住寺
- 松尾
- 万石大路
- 葉室
- 衣笠
などである。
兵たちは寺院の仏堂や神社の社殿を打ち壊した。
僧侶の住む建物や、住民の家にも押し入り、略奪を行った。
中にあった財宝を、残らず運び出した。
西山一帯への放火
略奪を終えると、幕府兵は民家へ火をつけた。
ちょうどその時、まるで魔物が起こしたかのような激しい風が吹いた。
火はたちまち広がり、
- 浄住寺
- 最福寺
- 葉室
- 衣笠
- 三尊院
などを焼き尽くした。
『太平記』によれば、合わせて300か所余りの堂や僧坊、5,000軒余りの民家が、1度に灰となった。
仏像や神像、経典、仏教の教えを記した書物も焼けた。
それらは、たちまち煙となって空へ立ち上った。
谷堂を建てた延朗上人
谷堂は、由緒ある寺院だった。
『太平記』は、八幡太郎義家の嫡男・源義親の子孫にあたる延朗上人が建立した霊場だと伝える。この系譜は本文が示す由緒として読む。
延朗上人は、幼いころから武士として代々続いてきた家を離れた。
そして人のいない静かな場所にこもり、仏道だけに心を向けた。
その後、上人は、
- 戒律を守ること
- 心を静めること
- 仏の教えを正しく理解すること
という、仏道の三つの学びを身につけた。
さらに、目・耳・鼻・舌・身体・心の六つを清らかにする功徳を得たという。
神々も耳を傾けた読経
『太平記』によれば、延朗上人が窓辺で『法華経』を読む時には、松尾明神がそばに並び、その声へ耳を傾けたという。
上人が部屋の中で密教の修法を行う時には、髪を少年のように結った守護神が、手をそろえて仕えたという。
それほど知恵が深く、修行にすぐれた上人が開いた寺院だった。
創建から500年余りが過ぎ、世の中が乱れ、人々の心が濁った時代になっても、仏の教えは清い水のように流れ続けていた。
仏法の灯火も、明るく輝き続けていた。
極楽浄土のような谷堂
谷堂には、3間四方(1辺約5.5m)の輪蔵があった。
輪蔵とは、経典を納めた回転式の書棚である。
それを回すことは、仏が教えを広める「法輪を転ずる」ことを表していた。
中には、7,000巻余りの経典や仏教書が納められていたという。
珍しい木々や変わった形の石が並ぶ池の周囲には、弥勒菩薩が住む兜率天の世界を地上へ移したように、49棟の建物が並んでいた。
12の欄干は、珠や宝石を空へ差し上げたように輝いていた。
五重塔は金銀の光を放ち、月の光まで引き寄せるようだった。
まるで極楽浄土を七つの宝で飾った光景が、この世へ現れたように見えた。
浄住寺に伝わった仏の歯
また、浄住寺も非常に重要な寺院だった。
ここは戒律の教えを広め、僧侶が正しい修行を行うための場所だった。
『太平記』では、寺には釈迦の歯と伝えられる仏牙が安置されていたと語られる。
以下は『太平記』が記す仏教説話である。
捷疾鬼が盗んだ仏牙
釈迦が亡くなった時、遺体を納めた金の棺は、まだ閉じられていなかった。
その時、捷疾鬼という鬼神が、ひそかに沙羅双樹の下へ近づいた。
そして釈迦の歯を1本抜き取り、持ち去った。
その場にいた僧や尼、在家の信者たちは驚き、鬼神を止めようとした。
しかし捷疾鬼は、わずかな時間で4万由旬という遠い距離を飛び越えたという。「由旬」は仏教説話・古代インド系の距離単位で一定せず、ここでは巨大な距離を表す説話上の表現として、現代のkmには換算しない。
そして世界の中心にあると考えられた須弥山の中腹、四天王の住む世界へ逃げ上った。
韋駄天が仏牙を取り戻す
すると仏法を守る神である韋駄天が、そのあとを追った。
韋駄天は捷疾鬼から釈迦の歯を奪い返した。
その歯は、のちに中国の高僧である道宣律師へ与えられたという。
その後、仏牙は代々受け継がれて日本へ渡った。
そして嵯峨天皇の時代に、初めて浄住寺へ安置されたと『太平記』は伝える。
釈迦の体の一部が残る奇跡
何と尊いことであろうか。
『太平記』は、釈迦の入滅から2,300年余りが過ぎても、その体の一部である歯が残り、人々から広く信仰されていた、と称賛する。
浄住寺は、そのような不思議で尊い宝をまつる大寺院だった。
それにもかかわらず、何の罪もない寺が、幕府軍によって滅ぼされたのである。
幕府滅亡の前兆
『太平記』作者は、この焼亡を幕府滅亡の前兆として意味づける。
「これほど霊験のある寺院を、理由もなく焼き滅ぼした。
これは幕府の武運が尽きようとしている前触れではないか」
『太平記』作者は、実際にその後まもなく幕府方が滅びたことを、この前兆と結び付けて語る。
本文は、六波羅勢が近江国の番場で滅び、北条一族も鎌倉で滅亡したことを挙げる。
そして、それを因果応報として受け止めるのが『太平記』の叙述である。
悪事の報い
昔から、
悪事を積み重ねた家には、
その報いとなる災いが、必ず子孫にまで残る。
といわれる。
谷堂や浄住寺を焼いた幕府軍が、間もなく滅びたのは、まさにこのようなことをいうのだろう。
そう思わない者は、1人もいなかったのである。