峯村部材店主

太平記 1巻

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巻第一|目次

このページは『太平記』巻第一の「序」と第1〜8章を収録している。検索から途中の章へ来た場合は、この目次から同じ巻の別の章へ移動できる。年月は元号だけにせず、分かる範囲で西暦を併記し、数量は原則として算用数字で表記する。




私は、昔から今に至るまでの歴史を振り返り、世の中が栄えたり滅んだりする理由を考えてきた。

天は、すべてのものを分け隔てなく包み込む大きな徳を持っている。

優れた君主は、その天のあり方を手本として国を治める。

大地は、あらゆるものを受け入れ、決して見捨てることがない。

優れた家臣は、その大地のようなあり方を手本として国を支える。

しかし、君主が徳を失えば、高い地位にあっても国を治め続けることはできない。

その例が、中国の夏王朝最後の王・桀王(けつおう)である。暴政の末に国を失い、南巣へ逃げた。

また、殷王朝最後の王・紂王(ちゅうおう)も、牧野の戦いで敗れ、王朝は滅んだ。

一方で、家臣が正しい道を踏み外せば、どれほど大きな権力を持っていても、その栄華は長く続かない。

秦では趙高(ちょうこう)が権力をほしいままにしたが、やがて国は滅びた。

唐でも安禄山(あんろくざん)が反乱を起こし、一時は勢いを誇ったものの、最後は敗れ去った。

だからこそ、昔の聖人や賢人は歴史を深く学び、同じ失敗を繰り返さないよう、後の世の人々に教えを残したのである。

それなのに、後の時代の人々は、なぜ過去の歴史を振り返り、そこから教訓を学ぼうとしないのだろうか。

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1. 後醍醐天皇の治世――武家政権の繁栄


『太平記』は、後醍醐天皇を初代・神武天皇から数えて95代目の天皇として物語を始める。なお、現在一般的な皇統の数え方では後醍醐天皇は第96代で、在位は1318~1339年である。

そのころ、鎌倉幕府の実権を握っていたのが、執権・北条高時である。

しかし、この時代になると、天皇には本来あるべき徳が失われ、家臣たちも忠義を忘れ始めていた。

そのため世の中は大きく乱れ、人々が安心して暮らせる日は1日もなかった。

戦ののろしは空を覆い、人々は戦乱に苦しみ続ける。

こうした混乱は40年以上も続き、誰も心安らかな日々を送ることができなかった。

もちろん、この乱れは突然起こったものではない。

その始まりは、約150年前にさかのぼる。

元暦年間(1184〜1185年)、『太平記』は、源頼朝が平氏追討の功績によって後白河法皇から全国66か国の総追捕使に任じられたと述べる。

これをきっかけに、幕府は全国へ守護を置き、荘園には地頭を配置するようになる。

こうして武士の力は急速に強まっていった。

頼朝のあとを継いだのは、長男の源頼家、続いて次男の源実朝だった。

この2人を合わせ、源頼朝を含めた3人を「鎌倉幕府3代将軍」という。

『太平記』本文では、源頼家は弟・源実朝のために討たれたと語られる。一方、源実朝は頼家の子・公暁に討たれた。ここは『太平記』独自のまとめ方を含むため、史実そのものとしてではなく本文の叙述として読む必要がある。

わずか42年で、源頼朝の血筋による将軍家は途絶えてしまった。

その後、頼朝の妻・北条政子の父である北条時政の一族が実権を握る。

続く北条義時は政治の実権を完全に掌握し、その勢いは日本中に及ぶようになった。

当時の上皇は後鳥羽上皇である。

武士の力が朝廷をしのぐようになったことを憂えた後鳥羽上皇は、北条義時を討とうと決意した。

これが1221年の承久の乱である。

しかし戦いはわずか1日で朝廷軍が敗れ、後鳥羽上皇は隠岐へ流されてしまった。

こうして北条氏の権力はさらに強まり、日本中を支配するようになった。

『太平記』は、北条義時のあとも、北条泰時・北条時氏・北条経時・北条時頼・北条時宗・北条貞時らが相次いで武家政治を担ったと述べる。

彼らは高い地位を望まず、民を思いやり、礼儀を重んじたため、多くの人々から信頼されていた。

鎌倉幕府は京都から皇族や摂関家の人物を迎えて将軍とし、武士たちはその将軍に忠誠を誓った。

さらに京都には六波羅探題を置いて朝廷を監視し、西国を統治した。

九州には鎮西探題を置き、外国からの侵攻に備えた。

こうして日本中が幕府の命令に従うようになり、その権力は全国へ及んだ。

もちろん、幕府が最初から朝廷を軽んじようとしていたわけではない。

しかし現実には、荘園では地頭の力が領主を上回り、1つの国では守護が国司よりも大きな権限を持つようになっていた。

その結果、朝廷は年々力を失い、幕府はますます勢いを増していった。

歴代の天皇は、この状況を変えようと考えていた。

承久の乱の無念を晴らし、朝廷の権威を取り戻したいと願っていたのである。

しかし、力が足りなかったり、時機が熟していなかったりして、その願いを実現することはできなかった。

ところが、『太平記』が北条時政から9代後の子孫と表現する北条高時の代になると、時代は大きく動き始める。なお、北条高時を「9代目の執権」とする意味ではない。

高時は政治に熱心ではなく、遊びや珍しいものを集めることばかりに夢中だった。

先祖が築き上げた名声を忘れ、人々の苦しみにも目を向けなかった。

その姿は、中国で道楽の末に国を滅ぼした君主たちと同じようだと、人々からあきれられていた。

一方、後醍醐天皇は、後宇多上皇の第2皇子として生まれ、1318年、31歳で即位した。

天皇は学問を重んじ、正しい政治を行うことに力を尽くした。

宮中では礼儀を正し、政治では1つひとつの仕事をおろそかにしなかった。

また、学問や文化、仏教を大切にし、優れた人物を積極的に登用した。

そのため寺社は栄え、学者や僧侶たちも才能を発揮できるようになった。

人々は口をそろえて、

「まさに天が授けた名君である。」

と、その徳をたたえたのであった。

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2. 関所の廃止


関所は、本来、国境を守り、不審者の出入りを取り締まり、非常事態に備えるために設けられたものである。

しかし時がたつにつれ、本来の役目を忘れ、通行人から金を取るための場所になってしまった。

商人は自由に行き来できず、年貢を運ぶ人々も余計な費用や時間を取られるようになっていた。

この状況を知った後醍醐天皇は、大津と葛葉の関所以外の新しく設けられた関所をすべて廃止した。

これによって、人や物の往来は以前よりずっと自由になり、人々の負担も大きく減った。


その後、元亨元年(1321年)の夏、日本は大干ばつに見舞われた。

雨は降らず、大地はひび割れ、どこまでも赤く乾いた土が広がる。

田畑の稲や作物は枯れ果て、村々では飢えた人々が道ばたに倒れていた。

穀物の値段は異常なほど高騰し、わずか1斗(約18L)の粟を買うだけでも銭300文(当時の貨幣単位)が必要になるほどだった。

後醍醐天皇は、この惨状を知ると深く心を痛めた。

「もし政治が悪いために天が怒っているのなら、その責任は私だけが負うべきだ。

罪のない民が、なぜこれほど苦しまなければならないのか。」

そう嘆いた天皇は、自ら朝食を控え、その分の食料や費用を飢えた人々の救済にあてた。

しかし、それだけでは十分ではないと考えた。

そこで検非違使に命じ、米を買い占めて値上がりを待っていた豪商や富豪たちを調べさせる。

隠していた米を市場へ出させ、二条町に仮の市場を設け、公正な価格で販売するよう命じた。

その結果、米の値段は落ち着き、人々は安心して食料を買えるようになった。

商人も適正な利益を得ることができ、民も生活を立て直すことができたのである。

また後醍醐天皇は、

「役人が民の訴えをきちんと伝えていないことがあるかもしれない。」

と考えた。

そこで自ら記録所へ出向き、民の訴えを直接聞き、1つひとつ公平に裁いた。

そのため、不当な裁判はなくなり、人々は安心して暮らせるようになる。

刑罰を受ける者も減り、役所へ苦情を訴えるための太鼓が鳴らされることもほとんどなくなった。

まさに、人々の暮らしを第一に考えた理想的な政治だった。

もし政治の才能だけで評価するなら、歴史に名を残す賢君と肩を並べるほどの人物だったと言えるだろう。

ただし『太平記』の作者は、最後に1つ惜しい点があったと評する。

作者は、斉の桓公が覇者となった故事や、「楚の人が弓を失っても、また楚の人が拾う」という故事を引き、後醍醐天皇の考えには、なお視野の狭いところがあったという趣旨の批評を加えている。

そして『太平記』は、政治を始める力は十分にあっても、それを3年を越えて安定して守り続けることができなかった理由は、そこにあったのだと結んでいる。

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3. 皇后冊立――三位局の寵愛


文保2年(1318年)8月3日。

『太平記』によれば、後醍醐天皇は、西園寺実兼(さいおんじ さねかね)の娘・西園寺禧子を皇后に立て、弘徽殿へ迎え入れた。

西園寺家は代々、后妃を出してきた家で、鎌倉幕府の北条氏とも深い関係を持っていた。『太平記』の作者は、後醍醐天皇が幕府からの評判にも配慮して、この立后を特に進めたのではないかと推測している。

西園寺禧子はまだ16歳。

その美しさは、古代中国で絶世の美女といわれた毛嬙(もうしょう)や西施(せいし)さえ及ばないほどだったという。

誰もが「天皇はきっと皇后を深く愛されるだろう」と思っていた。

ところが、『太平記』はそうは描かない。

本文では、後醍醐天皇の寵愛は西園寺禧子に向かわず、「一生、天皇のおそばに近づくことがなかった」とまで語られる。ここは『太平記』の物語上の描写として読む必要がある。

春の日はなかなか暮れず、秋の夜は果てしなく長く感じられる。

灯火だけが静かな部屋を照らし、雨の音を聞きながら涙を流す毎日だった。

まさに白楽天が詩に書いた

「女に生まれれば、その幸せも不幸せも他人しだい」

という言葉そのものだった。

そのころ、中宮・西園寺禧子に仕えていた女房に、三位殿の局と呼ばれる女性がいた。『太平記』本文では阿野公廉の娘とされ、一般に阿野廉子(あの れんし)として知られる人物である。

後醍醐天皇は彼女を一目見ると心を奪われ、特別に寵愛するようになる。

後宮には多くの美しい女性がいたが、天皇の心は三位殿の局だけに向けられた。

花見でも月見でも常にそばに置き、どこへ行くにも同行させた。

『太平記』は、やがて後醍醐天皇が朝廷の政治を十分に顧みないほど、三位殿の局を寵愛するようになったと描く。

さらに本文では、彼女に准后(皇后に準ずる身分)の宣旨まで与えたと語られる。

『太平記』の叙述では、宮中の人々が三位殿の局を正后のように見なし、その影響力が非常に大きくなった。

役人たちは彼女の一言を恐れ、その口添えがあれば裁判や人事さえ覆るようになる。

作者はこの様子を見て、中国の古い教えを引きながら、

「美女に心を奪われ、国が乱れる例は昔から数え切れないほどある。」

と嘆く。

そして、後醍醐天皇の政治にも、その危うさが見え始めていると締めくくっている。

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4. 後醍醐天皇の皇子たち


後醍醐天皇には、皇后や妃たちとの間に多くの皇子が生まれた。

その数は16人にも及び、宮中はたいへんにぎやかだった。

その中でも、第1皇子の尊良親王(たかながしんのう)は、とくに優れた人物として知られていた。

母は二条為世の娘・二条為子である。

尊良親王は、吉田定房に養育され、幼いころから和歌や学問を熱心に学んだ。

古典や歴史にも深い理解があり、美しい自然を愛し、風や月を眺めながら歌を詠むことを好んだ。

学問と教養を兼ね備えた、理想的な皇子だった。


第2皇子も、尊良親王と同じ二条為子を母として生まれた。本文の記述に当たるのは、のちの宗良親王(むねよし/むねながしんのう)、出家後の尊澄法親王である。

幼いうちから妙法院へ入り、僧となって仏教を学んだ。

しかし仏教だけでなく、和歌や芸術にも優れ、高野山を開いた空海や、歌人として名高い慈円にも劣らないほどの才能を持っていたという。


『太平記』が第3皇子として描くのは、のちの護良親王(もりよししんのう)、出家後の尊雲法親王に当たる人物である。母は第3章の阿野廉子ではなく、本文に「民部卿三位殿」と記される別の女性で、一般に源親子(みなもとの しんし/ちかこ)とされる。

幼いころから非常に頭が良く、後醍醐天皇は本来、この皇子を皇太子にしたいと考えていた。

しかし当時の朝廷では、

「皇位は大覚寺統と持明院統が交代で継ぐ」

という取り決めがあった。

そのため、天皇の希望どおりにはならず、皇太子には持明院統の皇子が立てられた。

政治の重要なことは、朝廷だけで決められず、鎌倉幕府の意向が大きく影響していたのである。

そこで第3皇子・護良親王も出家し、梨本門跡へ入って仏道を学ぶことになった。

その理解力は驚くほど優れ、教えを1つ聞けば10を理解すると評判だった。

仏教の教えにも深く通じ、多くの僧たちは

「この方なら衰えつつある仏法を再び盛り立ててくれるだろう。」

と大きな期待を寄せていた。


第4皇子も第3皇子と同じ民部卿三位殿を母とし、出家して聖護院に入った。『太平記』本文は、この箇所ではこの皇子の名を記していない。

厳しい修行を積み、仏の道を究めようと努力していた。


このように、後醍醐天皇には学問にも芸術にも仏教にも優れた皇子たちが数多く育っていた。

作者は、

「これほど多くの立派な皇子がそろっているのだから、皇室はこれからさらに栄え、天皇家は長く繁栄するように思われた。」

と締めくくっている。

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5. 中宮安産の祈祷――日野俊基の偽装籠居


『太平記』によれば、元亨2年(1322年)春ごろ後醍醐天皇は「中宮がご懐妊されたので、無事に出産できるよう祈願してほしい」と命じた。

そのため、全国の名高い寺や僧侶たちが集められ、さまざまな密教の祈祷が行われた。

中でも法勝寺の円観上人と、小野の文観僧正は特に天皇から厚く信頼され、宮中で直接祈祷を任されていた。

仏眼法、金輪法、孔雀経、薬師法など、当時考えられる最高の秘法が次々と修められた。

護摩の煙は宮中いっぱいに立ちのぼり、法具の鈴の音が御所中に響き渡る。

どんな悪霊や災いも近づけないほど、厳重な祈祷が続けられた。

しかし、こうした祈祷は3年近く続いたにもかかわらず、中宮が出産することはなかった。

ここで『太平記』は、この祈祷には別の目的が隠されていたと明かす。

本文によれば、本当の目的は鎌倉幕府を調伏するための祈祷だった。

つまり『太平記』では、「安産祈願」という名目を使い、人目につかないよう密かに幕府打倒を祈っていたと語られている。

後醍醐天皇は、この重大な計画をあまり多くの人には知らせなかった。

もし秘密が漏れれば、すぐに鎌倉幕府へ伝わってしまうからである。

そこで相談相手は、ごく限られた数人だけだった。

日野資朝日野俊基四条隆資花山院師賢平成輔(たいらの なりすけ)ら、ごく限られた側近だけに計画を打ち明けた。

さらに、いざという時のため、味方となる武士も密かに集め始める。

足助重成をはじめ、一部の武士や、奈良・比叡山の僧兵たちも天皇の呼びかけに応じた。

その中心人物の1人が、日野俊基である。

俊基は代々学者の家柄に生まれ、学問にも政治にも優れた人物だった。

朝廷では重要な役職を務め、多忙な毎日を送っていた。

しかし、倒幕の準備を進めるには、自由に動ける時間が必要だった。

そこで日野俊基は、1つの芝居を打つ。

ある日、朝廷で寺から届いた訴状を読み上げる役になった。

その際、「楞厳院(りょうごんいん)」という寺の名前を、わざと「慢厳院」と読み間違えた。

居合わせた公家たちは、

「そんな読み方をする者があるか。」

と大笑いした。

俊基はひどく恥ずかしそうな顔をして、その場を退出する。

そして、

「人前で大失敗をしてしまった。恥ずかしくて出仕できない。」

と言って、朝廷へ姿を見せなくなった。

しかし、それは演技だった。

俊基は山伏の姿に変装し、大和や河内を巡り、戦になった時に城として使えそうな山や土地を調べて回った。

さらに東国や西国へも旅を続け、それぞれの国の事情や有力者たちの勢力・財力を密かに探っていった。

すべては、いつか幕府と戦う日のためだった。

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6. 無礼講――玄恵法印の文談


そのころ、美濃国(現在の岐阜県)に、武勇で知られる土岐氏と多治見氏の武士がいた。

『太平記』のこの底本では、1人を土岐伯耆十郎頼貞、もう1人を多治見四郎次郎国長と記している。

人物注:正中の変で多治見国長とともに討たれた「土岐十郎」は、一般には土岐頼兼(とき よりかね)とされる。一方、土岐頼貞(とき よりさだ)本人はこの事件後も生存した人物である。そのため本ページでは、読者の混乱を避け、以下では土岐頼兼(本文表記:頼貞)とする。

2人はいずれも清和源氏の流れをくみ、武勇に優れていることで知られていた。

後醍醐天皇の側近である日野資朝は、さまざまな縁をたどって土岐頼兼や多治見国長と親しくなった。

しかし、鎌倉幕府を倒すという重大な計画を、すぐに打ち明けてよいものかどうかは分からない。

そこで日野資朝は、彼らの本心を見極めるため、「無礼講(ぶれいこう)」と呼ばれる集まりを開くようになった。

無礼講では、身分の上下をいったん忘れ、公家も武士も僧侶も同じ席で酒を酌み交わした。

『太平記』が参加者として名を挙げるのは、花山院師賢(かざんいん もろかた)四条隆資(しじょう たかすけ)洞院実世(とういん さねよ)日野俊基(ひの としもと)遊雅(ゆうが)玄基(げんき)足助重成(あすけ しげなり)多治見国長らである。

男たちは烏帽子を脱いで髪をほどき、僧侶も法衣を脱いで白衣だけになった。

17、18歳ほどの若い女性が10人余り、薄い衣をまとって酒をつぎ、山海の珍しい料理が並び、酒は泉のように注がれたという。

表向きは自由な宴会だったが、集まった人々が心の中で考えていたことは、ただ1つだった。

鎌倉幕府を倒すことである。


文談会を装う

しかし、何度も同じ人々が集まっていれば、周囲から怪しまれるかもしれない。

そこで日野資朝たちは、集まりを文学の勉強会に見せかけることにした。

当時、学問に優れた人物として名高かった玄恵法印(げんえほういん)を招き、韓愈の文章を集めた『昌黎文集(しょうれいぶんしゅう)』の講義をしてもらったのである。

玄恵法印は、そこに倒幕の計画が隠されているとは夢にも知らなかった。

ところが、講義が「韓愈が潮州へ流された話」に及ぶと、参加者たちは急に不吉だと言い始めた。

「流罪の話など縁起が悪い。今の我々に必要なのは、『呉子』『孫子』『六韜』『三略』のような兵法書ではないか」

そう言って、『昌黎文集』の講義をやめさせてしまった。


韓愈と韓湘の不思議な話

ここで『太平記』の作者は、なぜこの文章を不吉だと恐れたのかを説明するため、中国の文人韓愈(かんゆ)と、その一族の韓湘(かんしょう)の故事を長く紹介する。

韓愈は唐代を代表する文人で、詩や文章に非常に優れていた。

一方、韓湘は学問や詩に関心を示さず、道士の術を学び、世間の名誉や争いから離れて暮らしていた。

韓愈は韓湘に、

「人として生まれながら、仁義や学問から離れて暮らすのは恥ずべきことではないか」

と教えた。

すると韓湘は、仁義や学問に縛られず、自然のままに生きる自分の方が自由なのだと反論した。

韓愈が「それほど不思議な術を身につけたというなら、今ここで見せてみよ」と言うと、韓湘は目の前の瑠璃の盆を伏せ、すぐに元へ戻した。

すると盆の上には、突然、美しい牡丹の花が現れた。

しかも花には、金色の文字で2句が浮かんでいた。

雲は秦嶺に横たわり 家はどこにあるのか
雪は藍関を埋め 馬は前へ進まない

韓愈には、その時は意味が分からなかった。

やがて韓愈は、仏教を批判する意見を皇帝へ提出したため、遠い潮州へ流されることになった。

旅の途中、秦嶺には雲がかかり、藍関には深い雪が積もって、馬が先へ進めなくなった。

その時、どこからともなく韓湘が現れた。

韓愈は初めて、以前牡丹の花に現れた2句が、自分の流罪を予告するものだったと悟った。

そこで、その2句を含む8句の詩を作り、韓湘に渡した。

一封朝奏九重天
夕貶潮陽路八千
欲為聖明除弊事
豈将衰朽惜残年
雲横秦嶺家何在
雪擁藍関馬不前
知汝遠来須有意
好収吾骨瘴江辺

意味を大きくまとめれば、

朝、皇帝へ意見を申し上げたばかりなのに、夕方には8000里(中国の故事中の距離表現)も離れた潮州へ流されることになった。私は国のために悪いことを取り除こうとしただけで、老いた命を惜しんだのではない。秦嶺には雲が横たわり、故郷がどこにあるのかも分からない。藍関は雪に閉ざされ、馬も進めない。お前が遠くまで来てくれたのには意味があるのだろう。もし私がこの地で死んだなら、どうか骨を拾ってほしい。

という悲しい内容である。

この故事を聞いた無礼講の人々は、自分たちも捕らえられたり流されたりするのではないかと恐れ、『昌黎文集』の講義をやめた。

しかし作者は、「愚かな人の前では夢の話をするな」という言葉を引き、物語の意味を恐れて講義までやめた人々を、むしろ愚かだと皮肉っている。

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7. 土岐頼員の変心


土岐頼員が妻に秘密を漏らす

倒幕計画に加わっていた武士の1人に、土岐頼員(とき よりかず)という人物がいた。

頼員は、六波羅探題の奉行である斎藤利行(さいとう としゆき)の娘を妻に迎えていた。

『太平記』によれば、頼員は妻をたいへん深く愛していた。

しかし世の中はすでに乱れ始めている。もし倒幕の戦いが始まれば、自分も無事では済まないだろう。

そう考えた頼員は、ある夜、妻との寝物語の中で、別れを惜しむような話を始めた。

「同じ木の陰で雨宿りをし、同じ川の水を飲むだけでも、前世からの縁があるという。まして私たちは夫婦となり、もう3年以上も一緒に暮らしてきた。

もし私が死んだと聞くことがあっても、心変わりせず、どうか私の後世を弔ってほしい。

来世でも人として生まれたなら、もう一度夫婦になろう。極楽浄土へ生まれたなら、同じ蓮の花の上で席を分け合おう」

頼員は涙を流しながらそう語った。

妻は不思議に思った。

「明日のことさえ分からない世の中なのに、なぜ突然、来世の約束までなさるのですか。何か私に隠していることがあるのでしょう」

問いつめられた頼員は、ついに秘密を話してしまった。

「実は思いがけず天皇の命令を受け、幕府を倒す計画に加わった。いったん戦になれば、1000に1つも命が助かる見込みはないだろう。

だから別れが近いように思えて、今のうちに話しておきたかったのだ。このことだけは、決して人に知らせてはならない」

頼員は何度も口止めした。

だが妻は翌朝、1人で考え続けた。

もし倒幕計画が失敗すれば、夫の頼員は処刑されるだろう。

反対に幕府が滅びれば、幕府方に仕える父・斎藤利行や親族が無事では済まないかもしれない。

そこで妻は、父にすべてを話し、夫を幕府方へ戻すことで、夫も親族も救おうと考えた。

妻は急いで父・斎藤利行のもとへ行き、頼員から聞いた話をそのまま伝えた。


頼員、六波羅方へ戻る

斎藤利行は驚き、すぐに婿の土岐頼員を呼び寄せた。

「たいへんな話を聞いた。本当に幕府を倒す計画へ加わっているのか。

このことがほかの者の口から知られれば、私たちまで処罰されるだろう。

今すぐ、お前が自分から知らせてきたという形で六波羅へ申し出れば、お前も私も罪を逃れられるかもしれない。どうするつもりだ」

頼員は、妻に重大な秘密を漏らしてしまった以上、もう隠し通せないと悟った。

「この計画には、同族の土岐十郎と多治見国長に勧められて加わりました。どうか、私の罪が助かるように取り計らってください」

斎藤利行は、その日の夜がまだ明けないうちに六波羅探題へ走り、倒幕計画の内容を詳しく報告した。

こうして『太平記』では、土岐頼員は倒幕方から離れ、六波羅方へ戻った人物として描かれる。

重要:ここで頼員は六波羅へ情報を渡す側であり、このあと六波羅軍に襲われて自害する「土岐十郎」とは別人である。


六波羅探題の偽装動員

報告を受けた六波羅探題は、すぐに鎌倉へ早馬を送り、京都とその周辺にいる武士たちを六波羅へ集めた。

ただし、倒幕計画が漏れたことを土岐十郎や多治見国長に知られてはならない。

そこで六波羅は、摂津国の葛葉で争いが起きているため出陣するのだ、と偽って武士たちを集めた。

土岐十郎も多治見国長も、まさか自分たちが狙われているとは思わず、翌日は葛葉へ出陣するつもりで、それぞれの宿所にいた。

年代注:このWikisource底本の『太平記』は、襲撃の日を元徳元年(1329年)9月19日と記す。しかし、歴史上の正中の変で土岐頼兼・多治見国長が襲撃されたのは、一般に元亨4年(1324年)9月19日とされる。ここでは『太平記』本文の年と史実上の年を区別して示す。

『太平記』本文では、その日の卯の刻、つまり明け方ごろ、3000騎余りの軍勢が六波羅へ集まった。

大将を命じられたのは、小串範行山本時綱である。

軍勢は2手に分かれ、多治見国長の宿所がある錦小路高倉と、土岐十郎の宿所がある三条堀川へ向かった。

人物注:この三条堀川で襲撃される「土岐十郎」を、『太平記』のこの底本は「頼貞」とする。しかし史実上は、一般に土岐頼兼とされる。以下では土岐頼兼(本文表記:頼貞)と記す。


土岐頼兼、三条堀川で自害

山本時綱は、大軍のまま押し寄せれば敵を逃がすかもしれないと考えた。

そこで大勢の兵を三条河原に残し、自分は1騎だけで、中間2人に長刀を持たせて土岐頼兼の宿所へ向かった。

門前で馬を捨て、小門から中へ忍び込む。

中門のあたりでは、夜番をしていた者たちが、武具や太刀を枕元に散らしたまま眠っていた。

山本時綱は屋敷の裏へ回り、逃げ道がないことを確かめた。

そして客殿の奥の部屋を勢いよく開けると、土岐頼兼はちょうど起きたところで、髪を整えていた。

頼兼は山本時綱を見ると、

「心得た」

と言うなり、立てかけてあった太刀を取り、障子を蹴破って客殿へ飛び出した。

山本時綱は、できれば頼兼を生け捕りにしようと考え、斬り払っては退き、攻撃をかわしては飛びのき、すぐには組みつかなかった。

やがて後方を見ると、2000騎余りの兵が屋敷へ押し入ってきた。

土岐頼兼は、長く戦えば生け捕りにされると考えたのだろう。

元の寝所へ走って戻り、腹を十文字に切って自害した。

屋敷にいた若党たちも、それぞれ討ち死にし、逃げた者はいなかったという。

山本時綱は土岐頼兼の首を取り、槍の先に貫いて六波羅へ戻った。

ここで討たれたのは土岐頼員ではない。頼員の密告によって六波羅に狙われた、別の土岐氏の武士である。


多治見国長の宿所へ

一方、小串範行は多治見国長の宿所へ向かった。

『太平記』は、ここでも攻め手を3000騎余りと記している。先に「3000騎余りを2手に分けた」とも書くため、人数の記述は一致していない。軍勢の数字は本文上の誇張を含む可能性があるものとして読む必要がある。

多治見国長は一晩中酒を飲み、前後も分からないほど酔って眠っていた。

六波羅軍の鬨の声で目を覚ましたが、まだ状況を理解できず、周囲は大混乱となった。

そばに寝ていた遊女は物慣れた女性で、枕元の鎧を取り、多治見国長に着せ、まだ眠っている家来たちを次々と起こした。


小笠原孫六、24人を射落とす

小笠原孫六は太刀だけを持って中門へ走り出し、周囲を見渡した。

築地の向こうに六波羅軍の旗が見える。

孫六は屋敷へ戻り、

「六波羅から討手が来た。この倒幕計画は、もう露見したのだろう。太刀が使える限り戦い、最後は腹を切ろう」

と仲間たちへ呼びかけた。

そして腹巻を身につけ、24本の矢を入れた矢筒と弓を持ち、門の上の櫓へ上がった。

孫六は攻め手へ向かって、

「ずいぶん大げさな大軍で来たものだ。こちらの腕前を見せるにはちょうどよい。討手の大将は誰だ。近くへ来て、まず1本、矢を受けてみよ」

と叫び、強い矢を放った。

最初の矢は、前へ進んでいた武士の兜を射抜き、馬から落とした。

その後も孫六は、鎧の袖、草摺、兜などを狙って矢を射続け、24人を射落としたという。

最後に1本だけ残った矢を腰へ差し、

「この1本は、あの世への旅の用心に持っていこう。日本一の剛の者が、謀反に加わって自害する姿をよく見て、人に語れ」

と叫んだ。

そして太刀の切っ先を口にくわえ、櫓から逆さまに飛び降り、太刀に貫かれて死んだ。


多治見国長ら、最後まで戦う

その間に、多治見国長をはじめ、一族や若党20人余りがしっかりと武具を身につけ、大庭へ出て中門を固めた。

攻め手は大軍だったが、死を覚悟した武士たちが待ち構えているため、なかなか中へ入ろうとしなかった。

そこへ伊藤彦次郎が父・兄弟と合わせて4人で、門の壊れた隙間から屋敷へ入り込んだ。

しかし待ち構えていた多治見方の中へ入ったため、4人ともすぐに討たれてしまった。

攻め手がますます近づかなくなると、屋敷の中から多治見方が門を押し開き、

「討手を命じられたほどの武士が、なんと見苦しいことか。早く入って来い。我らの首を引き出物に差し上げよう」

と挑発した。

怒った先陣500人余りが馬を降り、徒歩で屋敷へ押し入った。

多治見方の20人余りは、どうせ逃げられないと覚悟していたため、一歩も退かず大軍の中へ斬り込んだ。

最初に入った500人余りは散々に斬り立てられ、門の外まで押し返された。

それでも六波羅方は大軍である。第1陣が退けば第2陣が入り、追い出されればまた次の兵が攻め込んだ。

『太平記』では、戦いは辰の刻の初めから午の刻の終わりまで、つまり朝から正午過ぎまで激しく続いたと描かれる。

正面の戦いが激しかったため、佐々木判官の兵1000人余りが裏手へ回り、錦小路側から家々を壊して屋敷へ乱入した。

多治見国長は、もはやこれまでと覚悟した。

中門に並んだ22人は、互いに刺し違え、算木を散らしたように倒れた。

攻め手は屋敷へ入り、その首を取って六波羅へ帰った。

『太平記』は、この戦いで負傷・死亡した者を合わせて273人と記している。

こうして、頼員の密告をきっかけとして、土岐頼兼・多治見国長ら倒幕方の武士たちは討たれたのである。

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8. 日野資朝・俊基の鎌倉下向――後醍醐天皇の告文


土岐頼兼・多治見国長らが討たれたあと、後醍醐天皇の倒幕計画は、しだいに隠しきれなくなった。

鎌倉幕府から、長崎泰光南条宗直という2人の使者が京都へ上った。

年代注:『太平記』のこの底本は、第7章の土岐・多治見襲撃を元徳元年(1329年)9月19日としたあと、ここでは年号を書かずに「5月10日」と続ける。本文の時間の流れに従えば、翌年の元徳2年(1330年)5月10日と読むのが自然である。ただし史実では、正中の変の襲撃は1324年9月19日で、日野資朝・日野俊基は同年秋に捕らえられ、10月には鎌倉へ護送されている。以下では、『太平記』の物語上の年月史実上の年月を区別して示す。

『太平記』の物語上では、元徳2年(1330年)5月10日日野資朝日野俊基が捕らえられたことになる。

土岐頼兼の宿所が襲われた時、生け捕りになった者は1人もいなかった。

そのため資朝と俊基は、

「生きたまま捕らえられた者がいないのだから、自白する者もいないだろう。私たちのことまで知られることはないはずだ」

と油断し、逃げる準備をしていなかった。

2人が突然捕らえられると、妻や子どもたちは東西へ逃げ惑い、家の財宝も大路へ引き出され、馬のひづめの塵となった。

日野資朝は日野家の一門で、重要な役職を経て中納言にまで進み、後醍醐天皇から特に厚く信頼されていた。

日野俊基は儒学を家業とする家から出て、才能によって高い地位へ昇った人物である。

作者はここで『論語』の言葉を引く。

「正しくない方法で得た富や高い地位は、私にとって浮かぶ雲のようなものだ」

夢のような栄華は尽き、目の前に悲しみが訪れた。

2人の転落を見聞きした人々は、栄える者も必ず衰えるという道理を思い、涙を流さずにはいられなかった。


資朝・俊基、鎌倉へ

『太平記』の物語上では、元徳2年(1330年)5月27日、幕府の使者は日野資朝・日野俊基を連れて鎌倉へ着いたことになる。

2人は倒幕計画の中心人物と見られていたため、すぐに処刑されるのではないかと思われた。

しかし2人は朝廷の近臣で、才能でも知られた人物だった。

幕府は世間の非難や天皇の怒りを恐れ、すぐに厳しい尋問をすることはせず、普通の囚人のように侍所へ預けた。


七夕の夜、後醍醐天皇が告文を作らせる

『太平記』の物語上では、同じ元徳2年(1330年)7月7日の夜である。

この日は七夕だった。

本来なら宮中では、牽牛と織女が1年に1度会う夜として、竹竿に願いの糸をかけ、庭に果物を並べ、技芸の上達を願う乞巧奠(きっこうでん)が行われる。

しかし世の中が騒がしいため、詩や和歌をささげる人も、音楽を奏でる人もいなかった。

宮中に泊まっていた公家たちも、次は自分が捕らえられるのではないかと恐れ、眉をひそめ、顔を伏せていた。

夜が深くなったころ、後醍醐天皇が、

「誰かいるか」

と呼んだ。

吉田冬房が御前に出ると、天皇は尋ねた。

「資朝と俊基が捕らえられてからも、東国の動きはまだ静まらず、朝廷はいつも危険の中にある。このうえ幕府が何をしようとするのかと思うと、心が落ち着かない。まず幕府の怒りを静める方法はないだろうか」

吉田冬房は、

「資朝と俊基が自白したとは聞いておりませんので、幕府もこれ以上の処分には進まないかもしれません。しかし最近の幕府の動きは急ですから、油断はできません。

まず告文(こうもん)を1通お出しになり、北条高時の怒りを静めてはいかがでしょう」

と答えた。

後醍醐天皇はもっともだと思い、その場で冬房に草案を書かせた。

天皇が文面を見ると、涙が告文の上にはらはらと落ちた。

天皇が袖で涙をぬぐう姿を見て、御前にいた老臣たちも悲しみを抑えられなかった。

やがて万里小路宣房(までのこうじ のぶふさ)が勅使となり、この告文を鎌倉へ持って行った。


北条高時、告文を開こうとする

鎌倉では、北条高時が秋田城介を通して告文を受け取った。

高時がすぐに箱を開けて読もうとすると、二階堂道蘊が強く止めた。

「天皇が武士に対して直接、告文を下された例は、中国にも日本にも聞いたことがありません。

軽々しく開いて読むのは恐れ多いことです。文箱を開けず、そのまま勅使へお返しするべきでしょう」

しかし北条高時は、

「何が問題なのだ」

と言い、斎藤利行に告文を読み上げさせた。

利行が、

「天皇の心に偽りがないことは、天の照覧に任せる」

という意味の一節まで読んだ時だった。

『太平記』によれば、斎藤利行は突然めまいを起こし、鼻血を出して、最後まで読むことができなくなった。

さらに、その日から喉の下に悪いできものができ、7日のうちに血を吐いて死んだという。

注意:ここは『太平記』の文学的・宗教的な因果応報の描写である。告文の「天照覧」は、天照大神の名を直接示す表現ではなく、「天がご覧になること」という意味で読むのが適切である。

作者は、世の中が乱れていても君臣の礼を破れば神仏の罰があるのだ、とこの出来事を受け止める。


俊基は赦免、資朝は佐渡へ

幕府では初め、

「資朝と俊基の倒幕計画は、後醍醐天皇の考えから出たものだ。たとえ告文が出されても信用してはならない。天皇を遠い国へ移すべきだ」

という意見でまとまっていた。

しかし勅使・万里小路宣房の説明にも道理があり、さらに『太平記』では、告文を読んだ斎藤利行が急死したため、人々は恐れて口を閉ざしたと語る。

北条高時も天皇への恐れを感じたのか、

「天皇の治世については朝廷の判断に任せるべきであり、武家が口を出すことではない」

と返答し、告文を返した。

宣房が京都へ戻って報告すると、後醍醐天皇はようやく安心し、公家たちも顔色を取り戻した。

その後、日野俊基は罪の疑いが軽いとして赦免され、日野資朝は死罪を1等減じられて佐渡国へ流された、と『太平記』は巻第一を結ぶ。

史実との違い:史実上の正中元年事件では、日野資朝・日野俊基は1324年に捕らえられ、調査ののち俊基は赦免された。資朝が佐渡へ配流されたのは正中2年(1325年)である。『太平記』は、この一連の出来事の日付を史実とは異なる形に組み替えて物語化している。

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