太平記 1巻



私は、昔から今に至るまでの歴史を振り返り、世の中が栄えたり滅んだりする理由を考えてきた。

天は、すべてのものを分け隔てなく包み込む大きな徳を持っている。

優れた君主は、その天のあり方を手本として国を治める。

大地は、あらゆるものを受け入れ、決して見捨てることがない。

優れた家臣は、その大地のようなあり方を手本として国を支える。

しかし、君主が徳を失えば、高い地位にあっても国を治め続けることはできない。

その例が、中国の夏王朝最後の王・桀王(けつおう)である。暴政の末に国を失い、南巣へ逃げた。

また、殷王朝最後の王・紂王(ちゅうおう)も、牧野の戦いで敗れ、王朝は滅んだ。

一方で、家臣が正しい道を踏み外せば、どれほど大きな権力を持っていても、その栄華は長く続かない。

秦では趙高(ちょうこう)が権力をほしいままにしたが、やがて国は滅びた。

唐でも安禄山(あんろくざん)が反乱を起こし、一時は勢いを誇ったものの、最後は敗れ去った。

だからこそ、昔の聖人や賢人は歴史を深く学び、同じ失敗を繰り返さないよう、後の世の人々に教えを残したのである。

それなのに、後の時代の人々は、なぜ過去の歴史を振り返り、そこから教訓を学ぼうとしないのだろうか。


1. 後醍醐天皇の治世と武家の繁栄


日本では、初代・神武天皇から数えて九十五代目の天皇、後醍醐天皇(在位:1318~1339年)の時代を迎えていた。

そのころ、鎌倉幕府の実権を握っていたのが、執権・北条高時である。

しかし、この時代になると、天皇には本来あるべき徳が失われ、家臣たちも忠義を忘れ始めていた。

そのため世の中は大きく乱れ、人々が安心して暮らせる日は一日もなかった。

戦ののろしは空を覆い、人々は戦乱に苦しみ続ける。

こうした混乱は40年以上も続き、誰一人として心安らかな日々を送ることができなかった。

もちろん、この乱れは突然起こったものではない。

その始まりは、約百五十年前にさかのぼる。

1185年、源頼朝は平氏を滅ぼし、その功績によって後白河法皇から全国の軍事・警察権を任された。

これをきっかけに、幕府は全国へ守護を置き、荘園には地頭を配置するようになる。

こうして武士の力は急速に強まっていった。

頼朝のあとを継いだのは、長男の源頼家、続いて次男の源実朝だった。

この二人を合わせ、頼朝を含めた三人を「鎌倉幕府三代将軍」という。

しかし、頼家は実朝との争いで命を落とし、実朝も甥の公暁に暗殺された。

わずか四十二年で、源頼朝の血筋による将軍家は途絶えてしまった。

その後、頼朝の妻・北条政子の父である北条時政の一族が実権を握る。

続く北条義時は政治の実権を完全に掌握し、その勢いは日本中に及ぶようになった。

当時の上皇は後鳥羽上皇である。

武士の力が朝廷をしのぐようになったことを憂えた後鳥羽上皇は、北条義時を討とうと決意した。

これが1221年の承久の乱である。

しかし戦いはわずか一日で朝廷軍が敗れ、後鳥羽上皇は隠岐へ流されてしまった。

こうして北条氏の権力はさらに強まり、日本中を支配するようになった。

義時のあとも、泰時・時頼・時宗・貞時ら歴代の執権は政治を安定させた。

彼らは高い地位を望まず、民を思いやり、礼儀を重んじたため、多くの人々から信頼されていた。

鎌倉幕府は京都から皇族や摂関家の人物を迎えて将軍とし、武士たちはその将軍に忠誠を誓った。

さらに京都には六波羅探題を置いて朝廷を監視し、西国を統治した。

九州には鎮西探題を置き、外国からの侵攻に備えた。

こうして日本中が幕府の命令に従うようになり、その権力は全国へ及んだ。

もちろん、幕府が最初から朝廷を軽んじようとしていたわけではない。

しかし現実には、荘園では地頭の力が領主を上回り、一国では守護が国司よりも大きな権限を持つようになっていた。

その結果、朝廷は年々力を失い、幕府はますます勢いを増していった。

歴代の天皇は、この状況を変えようと考えていた。

承久の乱の無念を晴らし、朝廷の権威を取り戻したいと願っていたのである。

しかし、力が足りなかったり、時機が熟していなかったりして、その願いを実現することはできなかった。

ところが北条氏九代目の執権、北条高時の代になると、時代は大きく動き始める。

高時は政治に熱心ではなく、遊びや珍しいものを集めることばかりに夢中だった。

先祖が築き上げた名声を忘れ、人々の苦しみにも目を向けなかった。

その姿は、中国で道楽の末に国を滅ぼした君主たちと同じようだと、人々からあきれられていた。

一方、後醍醐天皇は、後宇多上皇の第二皇子として生まれ、1318年、31歳で即位した。

天皇は学問を重んじ、正しい政治を行うことに力を尽くした。

宮中では礼儀を正し、政治では一つひとつの仕事をおろそかにしなかった。

また、学問や文化、仏教を大切にし、優れた人物を積極的に登用した。

そのため寺社は栄え、学者や僧侶たちも才能を発揮できるようになった。

人々は口をそろえて、

「まさに天が授けた名君である。」

と、その徳をたたえたのであった。


2. 関所の廃止――飢饉救済と後醍醐天皇の政治


関所は、本来、国境を守り、不審者の出入りを取り締まり、非常事態に備えるために設けられたものである。

しかし時がたつにつれ、本来の役目を忘れ、通行人から金を取るための場所になってしまった。

商人は自由に行き来できず、年貢を運ぶ人々も余計な費用や時間を取られるようになっていた。

この状況を知った後醍醐天皇は、大津と葛葉の関所以外の新しく設けられた関所をすべて廃止した。

これによって、人や物の往来は以前よりずっと自由になり、人々の負担も大きく減った。


その後、1321年の夏、日本は大干ばつに見舞われた。

雨は降らず、大地はひび割れ、どこまでも赤く乾いた土が広がる。

田畑の稲や作物は枯れ果て、村々では飢えた人々が道ばたに倒れていた。

米の値段は異常なほど高騰し、わずか一斗の粟を買うだけでも銭三百文が必要になるほどだった。

後醍醐天皇は、この惨状を知ると深く心を痛めた。

「もし政治が悪いために天が怒っているのなら、その責任は私一人が負うべきだ。

罪のない民が、なぜこれほど苦しまなければならないのか。」

そう嘆いた天皇は、自ら朝食を控え、その分の食料や費用を飢えた人々の救済にあてた。

しかし、それだけでは十分ではないと考えた。

そこで検非違使に命じ、米を買い占めて値上がりを待っていた豪商や富豪たちを調べさせる。

隠していた米を市場へ出させ、二条町に仮の市場を設け、公正な価格で販売するよう命じた。

その結果、米の値段は落ち着き、人々は安心して食料を買えるようになった。

商人も適正な利益を得ることができ、民も生活を立て直すことができたのである。

また後醍醐天皇は、

「役人が民の訴えをきちんと伝えていないことがあるかもしれない。」

と考えた。

そこで自ら記録所へ出向き、民の訴えを直接聞き、一つひとつ公平に裁いた。

そのため、不当な裁判はなくなり、人々は安心して暮らせるようになる。

刑罰を受ける者も減り、役所へ苦情を訴えるための太鼓が鳴らされることもほとんどなくなった。

まさに、人々の暮らしを第一に考えた理想的な政治だった。

もし政治の才能だけで評価するなら、歴史に名を残す賢君と肩を並べるほどの人物だったと言えるだろう。

しかし作者は最後に、一つだけ惜しい点があったと語る。

後醍醐天皇は理想を追い求めるあまり、現実の政治とのバランスを十分に考えていなかった。

そのため、立派な政治を始めることはできても、それを長く続けることはできなかったのである。


3. 立后のことと三位殿の局のこと


文保2年(1318年)8月3日。

後醍醐天皇は、西園寺実兼(さいおんじ さねかね)の娘を皇后に立て、弘徽殿へ迎え入れた。

西園寺家は代々、皇后を出す名門であり、鎌倉幕府の北条氏からも厚く信頼されていた。そのため、この立后は朝廷だけでなく幕府に対しても配慮した人事だったと考えられている。

皇后はまだ16歳。

その美しさは、古代中国で絶世の美女といわれた毛嬙(もうしょう)や西施(せいし)さえ及ばないほどだったという。

誰もが「天皇はきっと皇后を深く愛されるだろう」と思っていた。

ところが実際は違った。

天皇が皇后のもとを訪れることはほとんどなく、皇后は宮中でひとり寂しく日々を過ごした。

春の日はなかなか暮れず、秋の夜は果てしなく長く感じられる。

灯火だけが静かな部屋を照らし、雨の音を聞きながら涙を流す毎日だった。

まさに白楽天が詩に書いた

「女に生まれれば、その幸せも不幸せも他人しだい」

という言葉そのものだった。

そのころ、中宮に仕えていた女房に三位殿の局という女性がいた。

後醍醐天皇は彼女を一目見ると心を奪われ、特別に寵愛するようになる。

後宮には多くの美しい女性がいたが、天皇の心は三位殿の局だけに向けられた。

花見でも月見でも常にそばに置き、どこへ行くにも同行させた。

やがて天皇は政治よりも三位殿の局との時間を優先するようになる。

ついには彼女に准后(皇后に準ずる身分)の宣旨まで与えた。

宮中では、正式な皇后よりも三位殿の局の方が大きな力を持つようになった。

役人たちは彼女の一言を恐れ、その口添えがあれば裁判や人事さえ覆るようになる。

作者はこの様子を見て、中国の古い教えを引きながら、

「美女に心を奪われ、国が乱れる例は昔から数え切れないほどある。」

と嘆く。

そして、後醍醐天皇の政治にも、その危うさが見え始めていると締めくくっている。


4. 皇子たちのこと


後醍醐天皇には、皇后や妃たちとの間に多くの皇子が生まれた。

その数は16人にも及び、宮中はたいへんにぎやかだった。

その中でも、第一皇子の**尊良親王(たかながしんのう)**は、とくに優れた人物として知られていた。

母は二条為世の娘・為子である。

尊良親王は、吉田定房に養育され、幼いころから和歌や学問を熱心に学んだ。

古典や歴史にも深い理解があり、美しい自然を愛し、風や月を眺めながら歌を詠むことを好んだ。

学問と教養を兼ね備えた、理想的な皇子だった。


第二皇子も同じ母から生まれた。

幼いうちから妙法院へ入り、僧となって仏教を学んだ。

しかし仏教だけでなく、和歌や芸術にも優れ、高野山を開いた空海や、歌人として名高い慈円にも劣らないほどの才能を持っていたという。


第三皇子は、三位殿の局との間に生まれた皇子である。

幼いころから非常に頭が良く、後醍醐天皇は本来、この皇子を皇太子にしたいと考えていた。

しかし当時の朝廷では、

「皇位は大覚寺統と持明院統が交代で継ぐ」

という取り決めがあった。

そのため、天皇の希望どおりにはならず、皇太子には持明院統の皇子が立てられた。

政治の重要なことは、朝廷だけで決められず、鎌倉幕府の意向が大きく影響していたのである。

そこで第三皇子も出家し、梨本門跡へ入って仏道を学ぶことになった。

その理解力は驚くほど優れ、教えを一つ聞けば十を理解すると評判だった。

仏教の教えにも深く通じ、多くの僧たちは

「この方なら衰えつつある仏法を再び盛り立ててくれるだろう。」

と大きな期待を寄せていた。


第四皇子もまた出家し、聖護院に入って修験道を学ぶことになる。

厳しい修行を積み、仏の道を究めようと努力していた。


このように、後醍醐天皇には学問にも芸術にも仏教にも優れた皇子たちが数多く育っていた。

作者は、

「これほど多くの立派な皇子がそろっているのだから、皇室はこれからさらに栄え、天皇家は長く繁栄するように思われた。」

と締めくくっている。


5. 中宮の安産祈願と俊基の秘密の旅


1322年ごろ、後醍醐天皇は「中宮がご懐妊されたので、無事に出産できるよう祈願してほしい」と命じた。

そのため、全国の名高い寺や僧侶たちが集められ、さまざまな密教の祈祷が行われた。

中でも法勝寺の円観上人と、小野の文観僧正は特に天皇から厚く信頼され、宮中で直接祈祷を任されていた。

仏眼法、金輪法、孔雀経、薬師法など、当時考えられる最高の秘法が次々と修められた。

護摩の煙は宮中いっぱいに立ちのぼり、法具の鈴の音が御所中に響き渡る。

どんな悪霊や災いも近づけないほど、厳重な祈祷が続けられた。

しかし、こうした祈祷は三年近く続いたにもかかわらず、中宮が出産することはなかった。

実は、この祈祷には別の目的があったのである。

本当は、鎌倉幕府を打ち倒すための祈祷だった。

「安産祈願」という名目を使い、人目につかないよう密かに倒幕を祈っていたのである。

後醍醐天皇は、この重大な計画をあまり多くの人には知らせなかった。

もし秘密が漏れれば、すぐに鎌倉幕府へ伝わってしまうからである。

そこで相談相手は、ごく限られた数人だけだった。

日野資朝、日野俊基、四条隆資、坊門師賢、成輔ら、信頼できる公家だけに計画を打ち明けた。

さらに、いざという時のため、味方となる武士も密かに集め始める。

足助重成をはじめ、一部の武士や、奈良・比叡山の僧兵たちも天皇の呼びかけに応じた。

その中心人物の一人が、日野俊基である。

俊基は代々学者の家柄に生まれ、学問にも政治にも優れた人物だった。

朝廷では重要な役職を務め、多忙な毎日を送っていた。

しかし、倒幕の準備を進めるには、自由に動ける時間が必要だった。

そこで俊基は、一つの芝居を打つ。

ある日、朝廷で寺から届いた訴状を読み上げる役になった。

その際、「楞厳院(りょうごんいん)」という寺の名前を、わざと「慢厳院」と読み間違えた。

居合わせた公家たちは、

「そんな読み方をする者があるか。」

と大笑いした。

俊基はひどく恥ずかしそうな顔をして、その場を退出する。

そして、

「人前で大失敗をしてしまった。恥ずかしくて出仕できない。」

と言って、朝廷へ姿を見せなくなった。

しかし、それは演技だった。

俊基は山伏の姿に変装し、大和や河内を巡り、戦になった時に城として使えそうな山や土地を調べて回った。

さらに東国や西国へも旅を続け、それぞれの国の様子や武士たちの力、人々の暮らしぶりを密かに探っていく。

すべては、いつか幕府と戦う日のためだった。


6. 無礼講と玄恵法印


そのころ、美濃国(現在の岐阜県)には、**土岐頼貞(とき よりさだ)多治見国長(たじみ くになが)**という二人の武士がいた。

二人とも源氏の名門の血を引き、武勇に優れたことで知られていた。

後醍醐天皇の側近である日野資朝は、さまざまな縁をたどって二人と親しく付き合うようになった。

しかし、幕府を倒すという重大な計画を、本当に任せられる相手なのかどうか、まだ確信が持てなかった。

そこで資朝は、二人の考えを見極めるため、**「無礼講(ぶれいこう)」**と呼ばれる集まりを開くことにした。

無礼講とは、身分や立場を気にせず、誰もが自由に振る舞う宴会のことである。

この集まりには、

坊門師賢(ぼうもん もろかた)
四条隆資(しじょう たかすけ)
洞院実世(とういん さねよ)
日野俊基(ひの としもと)
遊雅(ゆうが)
玄基(げんき)
足助重成(あすけ しげなり)
多治見国長

など、倒幕計画に関わる人々が顔をそろえた。

宴会が始まると、身分の違いはすべて忘れられた。

公家も武士も上下の区別なく杯を交わし、公家は烏帽子を脱ぎ、僧侶は法衣を脱いで白い着物だけになる。

若い女房たちは酒をつぎ、美しい舞や歌で宴を盛り上げた。

豪華な料理が並び、酒は尽きることなく注がれた。

誰もが楽しそうに笑い、歌い、踊っていた。

しかし、その場に集まった人々の胸にある思いは、一つだけだった。

「いつか鎌倉幕府を倒す。」

その決意は、誰も口には出さないものの、全員が心の中で共有していた。

とはいえ、このような集まりを何度も開けば、人々に怪しまれるかもしれない。

そこで資朝たちは、

「文学の勉強会を開いているだけだ。」

と見せかけることを思いつく。

そのため、当時「天下一の学者」と評判だった**玄恵法印(げんえほういん)**を招き、漢文の名作『昌黎文集(しょうれいぶんしゅう)』について講義してもらうことにした。

こうして倒幕派の秘密の集まりは、表向きには学問を語り合う会として続けられていくのであった。


7. 頼員の密告と土岐・多治見の最期


頼員の妻の密告

倒幕計画に加わっていた武士の一人に、**土岐頼員(とき よりかず)**という人物がいた。

頼員は、六波羅探題の役人である**斎藤利行(さいとう としゆき)**の娘を妻に迎え、とても仲の良い夫婦だった。

しかし頼員は、倒幕計画が成功するかどうか分からないことをよく理解していた。

もし戦になれば、生きて帰れる保証はない。

そんな思いが日に日に強くなっていた。

ある晩、頼員は妻と語り合っているうちに、静かにこう言った。

「人と人との縁は不思議なものだ。同じ木陰で雨宿りをしただけでも、前世からの縁があると言われる。それなのに、私たちは夫婦となり、三年以上も共に暮らしてきた。

君が私を大切に思ってくれていることは、いつもよく分かっている。

だが、人の命はいつ尽きるか分からない。

もし私が戦で命を落としたと聞いたなら、その後も心変わりせず、どうか私の冥福を祈ってほしい。

もし来世でも人として生まれることができたなら、もう一度夫婦になろう。

もし二人とも極楽浄土へ生まれ変わることができたなら、同じ蓮の花の上で再び会おう。」

そう話す頼員の目には涙が浮かんでいた。

妻はその様子をじっと見つめ、不思議そうに尋ねた。

「急にどうしたのですか。

明日のことさえ分からないこの世で、どうして来世の話までなさるのです。

何か私に隠していることがあるのでしょう。」

頼員はしばらく黙っていた。

しかし、妻だけには隠し続けることができなかった。

「実は……私は天皇の命令を受け、鎌倉幕府を倒す計画に加わっている。

もし計画が明るみに出れば、命は助からないだろう。

だから別れが近いような気がして、今のうちに伝えておきたかった。

だが、このことだけは決して誰にも話してはいけない。」

頼員は何度も念を押した。

妻はうなずいたものの、その夜はほとんど眠ることができなかった。

翌朝になっても、夫の言葉が頭から離れない。

「もし計画が失敗すれば、夫は必ず処刑される。

しかし、もし幕府が滅びれば、父や親戚はどうなるのだろう。

どちらに転んでも、大切な人が命を落としてしまう……。」

妻は苦しみ抜いた末に、一つの決断をする。

「父にすべてを打ち明けよう。

そうすれば夫は計画から抜け出し、命だけは助かるかもしれない。

父や一族も救えるかもしれない。」

そう信じた妻は、父・斎藤利行のもとへ急ぎ、頼員から聞いたことを一つ残らず話した。

利行は、その話を聞いて顔色を変えた。

すぐに頼員を呼び寄せ、静かに問いただす。

「お前が幕府への謀反に加わっているという話を聞いた。

本当なのか。

もしこれが事実なら、私まで罪に問われる。

今すぐ六波羅へ届け出れば、お前も私も助かるかもしれない。

すべて正直に話してくれ。」

頼員は深くうなだれた。

妻に秘密を打ち明けてしまった時点で、もはや隠し通せないことを悟っていた。

「そのとおりです。

土岐頼貞や多治見国長に誘われ、私も計画に加わりました。

もう言い逃れはできません。

どうか、少しでも罪が軽くなるよう取り計らってください。」

利行は一刻も早く六波羅探題へ向かい、倒幕計画のすべてを報告した。

こうして、長い間ひそかに進められてきた後醍醐天皇の倒幕計画は、ついに幕府へ知られることとなった。


土岐頼員、最後の戦い

土岐頼員の計画を知った六波羅探題は、すぐに鎌倉へ急使を送り、京都中の武士たちに出陣を命じた。

しかし、そのまま「土岐討伐」と命令を出せば、頼員たちに逃げられてしまうかもしれない。

そこで六波羅は一つの策を考えた。

「摂津国・葛葉で争いが起きたので、武士たちは明朝出陣せよ。」

という偽の命令を出し、京都中へ知らせたのである。

もちろん、本当の狙いは土岐頼員たちだった。

しかし頼員も多治見国長も、自分たちの計画が幕府に知られたとは思っていなかった。

「明日は葛葉へ向かうのか。」

そう考え、それぞれ自宅で出陣の準備をしていた。

1329年(元徳元年)9月19日、夜明け。

まだ薄暗い卯の刻(午前6時ごろ)、何千騎もの兵が六波羅へ集結した。

討伐軍の大将は、山本時綱小串範行である。

軍勢は二手に分かれ、一隊は多治見国長の屋敷へ、もう一隊は土岐頼員の屋敷へ向かった。

山本時綱は考えた。

「大勢で押しかければ、敵に逃げられるかもしれない。」

そこで本隊を少し離れた場所で待たせ、自分だけが中間二人を連れ、静かに屋敷へ近づいた。

馬を門前に残し、小さな門から音もなく屋敷へ忍び込む。

中門の近くでは、夜番の者たちが武具を枕元に置いたまま、ぐっすり眠っていた。

時綱は屋敷の裏手まで回り込み、逃げ道がないことを確かめる。

「これなら逃がす心配はない。」

そう判断すると、客殿の奥の部屋へ一気に踏み込んだ。

その物音で、土岐頼員は飛び起きた。

乱れた髪をかき上げながら、目の前に立つ山本時綱を見る。

そして短く一言だけ言った。

「そうか。ついに来たか。」

頼員はすぐに太刀をつかみ、障子を蹴破って広間へ飛び出した。

長い太刀を大きく振り回し、近づく者を寄せつけない。

しかし山本時綱は、すぐには勝負を決めようとしなかった。

敵を広い庭へ誘い出し、本隊が到着するまで時間を稼ごうとしたのである。

斬りかかっては引き、かわしてはまた距離を取る。

二人は一対一のまま激しく渡り合った。

やがて時綱が後ろを振り返ると、本隊二千騎余りが屋敷へなだれ込んでくるのが見えた。

それを見た頼員は悟る。

「もう逃げる道はない。」

そう思うと、戦いをやめて屋敷の中へ戻った。

そして静かに腹を十文字に切り、自ら命を絶った。

ともに戦った家来たちも、主人に続いて次々と討ち死にした。

生きて捕らえられた者は、一人もいなかった。

山本時綱は頼員の首を持ち、六波羅へ引き返した。

こうして、土岐頼員の戦いは幕を閉じたのである。


小笠原孫六の壮絶な最期

一方、多治見国長の屋敷にも、三千騎を超える六波羅軍が押し寄せていた。

しかし、その夜の多治見一族は宴を開いていたため、多くの者が酒に酔って眠っていた。

夜明け前、外から聞こえる大勢の兵の声で、一同は飛び起きる。

「敵襲だ!」

屋敷は一気に緊張に包まれた。

多治見のそばにいた遊女は、とっさに鎧を持ってきて主人へ着せ、眠っている家来たちを次々と起こした。

その中に、小笠原孫六という若武者がいた。

孫六は太刀だけを持って門へ駆け出し、外の様子を見渡す。

そこには、見渡す限りの敵兵が押し寄せていた。

すぐに屋敷へ戻ると、大声で叫ぶ。

「六波羅の軍勢だ!

倒幕の計画は知られてしまった!

もう助かる道はない!

最後まで戦い、それぞれ潔く命を終えよう!」

そう言うと、自ら鎧を身につけ、弓と矢を手にして門の上の櫓へ駆け上がった。

櫓の狭間から敵を見下ろし、大声で呼びかける。

「大軍で押し寄せてきたのは誰だ!

近くまで来るがいい。

私の矢を受けてみよ!」

そう言って力いっぱい弓を引きしぼり、一本目の矢を放った。

矢は一直線に飛び、先頭にいた武士の兜を貫いて、そのまま馬から射落とした。

それだけでは終わらない。

孫六は次々と矢を放ち、敵の兜や鎧を射抜いていく。

近づこうとする兵は次々に倒れ、二十人以上が射られたという。

敵兵たちは思わず足を止めた。

「たった一人とは思えない……。」

誰も簡単には近づけなかった。

やがて矢筒には、最後の一本だけが残った。

孫六はその矢を抜くと、静かに腰へ差した。

そして矢筒を櫓の下へ投げ捨てる。

「この一本は、あの世への旅に持っていく。」

そう言って笑うと、敵へ向かって高らかに叫んだ。

「日本一の武士が、謀反人としてどのように死ぬのか。

その姿を、よく見ておけ!」

次の瞬間、孫六は太刀の切っ先を自分の口へ当て、そのまま櫓の上から真っ逆さまに飛び降りた。

太刀は体を貫き、孫六はその場で息絶えた。

その壮絶な最期を目の当たりにした敵も味方も、一瞬、言葉を失った。


多治見一族、最後の戦い

小笠原孫六が壮絶な最期を遂げると、多治見国長をはじめ、一族と家来二十数人は完全に戦う覚悟を決めた。

鎧をしっかりと身につけ、屋敷の中門に並んで敵を待ち受ける。

門の外には、見渡す限りの六波羅軍が押し寄せていた。

しかし、多治見たちは少しもひるまなかった。

「どうせ生きて帰ることはできない。

ならば最後まで戦い抜こう。」

その覚悟は全員同じだった。

ところが、敵も簡単には攻め込んでこない。

先ほど小笠原孫六が見せた戦いぶりを目の当たりにしていたため、屋敷へ踏み込むことを恐れていたのである。

そんな中、伊藤彦次郎は父と兄弟、合わせて四人で前へ進み出た。

「このままでは埒が明かない。

私たちが突破口を開く。」

四人は門のわずかな隙間から屋敷へ飛び込んだ。

その勇気は見事だった。

しかし、多治見一族が待ち構える中へ飛び込んだため、反撃する間もなく全員が討ち取られてしまった。

それを見た攻め手は、ますます攻撃をためらう。

すると屋敷の中から、多治見たちが大声で叫んだ。

「どうした!

六波羅の武士というものが、それほど臆病なのか!

早く入って来い!

我らの首を土産に持ち帰るつもりではなかったのか!」

敵をあざ笑うような挑発だった。

六波羅軍は怒り、500人余りが一斉に馬を降り、徒歩で屋敷へなだれ込んだ。

しかし、多治見一族は誰一人として退かなかった。

二十数人が一団となり、押し寄せる敵の中へ斬り込んでいく。

刀がぶつかり合い、屋敷の庭はたちまち激戦の場となった。

最初に突入した500人は、多治見たちの激しい反撃を受け、次々と倒れ、ついには門の外まで押し返されてしまった。

だが、敵は圧倒的な大軍だった。

第一陣が退けば第二陣が押し寄せ、また押し返されれば第三陣が続く。

戦いは朝から昼近くまで続き、刀と刀がぶつかる音は絶えることがなかった。

正面からでは突破できないと判断した六波羅軍は、屋敷の裏へ回り込み、塀や民家を壊して内部へ攻め込む。

ついに四方から囲まれた多治見国長は、静かに仲間たちを見渡した。

誰も逃げようとはしない。

国長はうなずき、一族も家来たちも覚悟を決める。

22人は中門へ並び、お互いに短刀を突き立てて自害した。

戦場には静けさが戻る。

やがて六波羅軍が屋敷へ入り、一人ひとりの首を確認して戦いの終わりを告げた。

この戦いで討たれたり傷を負ったりした者は、合わせて273人にのぼったという。

こうして、倒幕計画に加わった土岐・多治見一族は壊滅した。

しかし、この出来事によって後醍醐天皇の志まで消えたわけではなかった。

倒幕の火は、まだ静かに燃え続けていたのである。


8. 資朝・俊基、鎌倉へ送られる――後醍醐天皇の誓約文


土岐氏と多治見氏が討たれたことで、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとしているという疑いは、もはや隠しきれなくなった。

幕府は真相を調べるため、長崎泰光南条宗直という二人の使者を京都へ送った。

そして『太平記』によれば、翌1325年(正中2年)5月10日、倒幕計画に関わったとして、日野資朝日野俊基が捕らえられた。

土岐氏の屋敷が攻められた際、幕府側は一人も生け捕りにできなかった。そのため資朝と俊基は、

「生き残った者がいないのだから、幕府に自白する者もいない。私たちのことまでは知られないだろう」

と油断し、逃げる準備をまったくしていなかった。

突然二人が捕らえられると、妻や子どもたちは逃げ惑った。しかし、身を隠す場所はない。家にあった財産も道へ引き出され、人や馬に踏み荒らされてしまった。

日野資朝は、代々朝廷に仕えてきた日野家の出身である。重要な役職を歴任し、中納言にまで昇った。後醍醐天皇からの信頼も厚く、資朝の一族は大いに栄えていた。

一方の日野俊基は、もともとは学問を仕事とする家柄の出身だった。しかし、すぐれた学識と能力によって高い地位へ昇り、同僚や有力者たちまで彼に取り入るようになっていた。

孔子は、

「正しくない方法で手に入れた富や地位は、私にとって空に浮かぶ雲のようなものだ」

と語っている。

その言葉のとおり、夢のような栄華は終わり、悲しみが目の前に現れたのである。

二人が捕らえられた姿を見聞きした人々は、「栄えている者も、いつかは必ず衰える」という道理をあらためて思い知らされ、涙を流さずにはいられなかった。


5月27日、幕府の使者は資朝と俊基を連れ、鎌倉へ到着した。

二人は倒幕計画の中心人物と見られていたため、すぐに処刑されるのではないかと思われた。

しかし、二人は後醍醐天皇の側近であり、学問にもすぐれた有名な人物だった。幕府も、むやみに処刑すれば世間から非難され、天皇の怒りを買うことを恐れた。

そのため厳しい拷問は行わず、二人を普通の囚人と同じように、鎌倉の侍所へ預けることにした。


7月7日の夜を迎えた。

この日は七夕である。

本来ならば宮中では、織姫と彦星が一年に一度だけ会う夜を祝って、竹に五色の糸をかけ、庭に果物を並べ、裁縫や芸事が上達するよう祈る行事が行われる。

詩人たちは詩や和歌をささげ、音楽を奏でる者たちは楽器を演奏するはずだった。

しかし、この年の宮中には、七夕を楽しむような空気はなかった。

世の中は騒がしく、資朝と俊基が捕らえられたあと、次に誰が罪に問われるか分からない。

宮中に泊まっていた公家たちも、

「この災いは、次には自分の身に降りかかるのではないか」

とおびえ、顔を伏せていた。

夜が深くなったころ、後醍醐天皇が、

「誰かいるか」

と呼びかけた。

すると、

「吉田中納言冬房がおります」

という返事があり、吉田冬房が御前に出た。

後醍醐天皇は冬房を近くへ呼び、こう尋ねた。

「資朝と俊基が捕らえられてからも、鎌倉幕府の動きは静まっていない。朝廷は今も危険な状態にある。

幕府がこの先、どのような処分を下すのかと思うと、心が落ち着かない。何とかして、まず幕府の怒りを静める方法はないだろうか」

冬房は慎重に答えた。

「資朝と俊基が倒幕計画について自白したとは聞いておりません。そのため、幕府もこれ以上の処分は行わないのではないかと思います。

しかし、最近の幕府の行動には、あまりに急で乱暴なところがございます。決して油断はできません。

まずは天皇のお言葉を記した誓約文を一通、鎌倉へお送りになってはいかがでしょう。それによって、北条高時の怒りを静めることができるかもしれません」

後醍醐天皇も、もっともな意見だと思った。

「それでは、すぐに冬房が文案を書け」

と命じた。

冬房はその場で誓約文の下書きを作り、天皇に見せた。

後醍醐天皇が文面を読んでいると、目からこぼれた涙が誓約文の上へ、はらはらと落ちた。

天皇が袖で涙をぬぐう姿を見て、そばにいた老臣たちも、悲しみをこらえることができなかった。

やがて万里小路宣房が天皇の使者に選ばれ、この誓約文を持って鎌倉へ向かった。


鎌倉では、北条高時が秋田城介に命じて、誓約文を受け取らせた。

高時はその場で箱を開け、内容を読もうとした。

すると、幕府の重臣である二階堂道蘊が強く止めた。

「天皇が武士に対し、直接このような誓約文をお出しになった例は、中国にも日本にもございません。

それほど重い文書を、軽々しく開いて読むことは、神仏に対して恐れ多いことです。箱を開けず、そのまま勅使にお返しするべきです」

道蘊は何度もそう忠告した。

しかし高時は、

「何も問題はないだろう」

と言い、斎藤利行に誓約文を読み上げさせた。

利行が、

「私の心に偽りがないことは、天照大神をはじめとする神々にご覧いただきたい」

という一節を読んだ、その時だった。

利行は突然めまいを起こし、鼻から血を流した。

最後まで読み終えることができず、その場を退出した。

その日から利行の喉の下には悪いできものができ、七日以内に血を吐いて死んだ。

世の中が乱れ、人の道が衰えていたとはいえ、天皇と臣下の身分をわきまえず、礼儀に背いた者には、やはり神仏の罰が下ったのだ。

この話を聞いた人々は、みな恐れおののいた。


幕府では当初、

「資朝と俊基の倒幕計画は、後醍醐天皇の考えから始まったものだ。たとえ誓約文が送られてきても、それを信じてはならない。天皇を遠い国へ流すべきだ」

という意見でまとまっていた。

しかし、勅使の宣房が述べた説明にも道理があった。

さらに、誓約文を読み上げた斎藤利行が突然血を吐いて死んだため、幕府の人々は恐れ、誰も強い意見を言わなくなった。

北条高時も、さすがに天皇の権威を恐れたのだろう。

「天皇が国を治めることは、朝廷が決めることである。武家が口を出すべき問題ではない」

と返事をし、誓約文を天皇の使者へ返した。

宣房はすぐに京都へ戻り、幕府の返事を後醍醐天皇に報告した。

天皇はようやく安心し、公家たちの顔にも明るさが戻った。

その後、日野俊基は、罪を犯したという証拠がはっきりしなかったため、許されて京都へ帰された。

日野資朝は死刑を一段階軽くされ、佐渡国へ流罪となったのである。