峯村部材店主

太平記 6巻

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巻第六|目次

このページは『太平記』巻第六の第37〜42章を、現代の読者が流れを追いやすいように現代語にしたものである。検索から途中の章へ来た場合は、この目次から同じ巻の別の章へ移動できる。年月は元号だけにせず、分かる範囲で西暦を併記し、数量は原則として算用数字で表記する。

【読み方の注意】 『太平記』には、夢・神仏の霊験・予言、非常に大きな軍勢数、史実と一致しない可能性のある年代や数字が含まれる。この現代語訳では、本文の物語をできるだけ保ちながら、史実として確認できることと、『太平記』が語る内容とを区別して示す。


37. 民部卿三位局の夢――北野天満宮の瑞夢


夢や幻のような世の中

月日は、放たれた矢や流れる水のように、少しも止まることなく過ぎていく。

喜びと悲しみも、花が咲いたあとに葉が黄色くなって散るように、次々と入れ替わる。

そう考えると、この世の出来事は、夢と呼ぶべきなのか、幻と呼ぶべきなのか分からない。

うれしいことにも悲しいことにも心を動かされ、涙で袖をぬらすことは、今に始まったことではない。

元弘元年(1331年)9月に笠置城が陥落し、その後、元弘2年(1332年)3月に後醍醐天皇が隠岐国へ流されてからというもの、朝廷の旧臣たちは悲しみに沈み、それぞれ家へ閉じこもった。

『太平記』は、宮中の女房たちを「3,000人の宮女」と大きな数で表現し、皆が涙を流して悲しみに沈んだと描く。

この世では、栄えと衰えが入れ替わるものだとはいっても、その中でも特に悲しい姿を見せていたのが、民部卿三位局であった。一般には、護良親王の母である源親子とされる女性である。


後醍醐天皇に愛された女性

民部卿三位局は、後醍醐天皇から深く愛されていた。

さらに、大塔宮護良親王の母でもあった。

そのため、ほかの女御や后たちは、美しい花のそばにある、目立たない山の木のように見えるほどだったという。

ところが世の中が乱れてからは、宮中での暮らしも、すべて以前とは変わってしまった。

住む場所さえ安定せず、荒れる海の上を行き先もなく流される船のように、頼れる場所のない日々を送っていた。


天皇と大塔宮を思う悲しみ

そのうえ、後醍醐天皇は西の海の彼方にある隠岐国へ流され、帰れるかどうかも分からない。

天皇は遠い島で、涙の乾く暇もない生活を送っているという。

民部卿三位局は、夜明け前の月を眺めながら、はるか遠くにいる天皇を思った。

一方、息子の大塔宮は、吉野や熊野の山中で、道のない雲の中を迷うような逃亡生活を送っている。

しかし、大塔宮がどこにいるのか分からず、春の雁に手紙を託すことさえできない。

後醍醐天皇のことを思っても悲しい。

息子である大塔宮のことを思っても悲しい。

どちらか一方だけではない深い嘆きによって、豊かだった黒髪は薄くなった。

「いつの間に、これほど老いてしまったのだろう」

と、自分でも不思議に思うほどだった。

美しかった肌もやせ衰え、

「今日で命が終わってしまえばよいのに」

と思うことさえあった。


北野天満宮への参籠

民部卿三位局には、長年祈りを頼んでいた北野天満宮の僧がいた。

その僧は、これまでも経を読んだり、災いを移すための人形を用意したりして、三位局のために祈っていた。

三位局はその僧に、

「北野天満宮へこもり、7日間祈りたい」

と申し出た。

この時期、幕府に知られることへの心配がないわけではなかった。

しかし僧は、これまで受けた恩が深かったことに加え、今の三位局の姿をあまりにも気の毒に思った。

「ここで冷たく断ることなどできない」

と考え、拝殿のそばに小さな一室を用意した。

そして、

「身分の低い女房が祈りのためにこもっている」

ということにして、三位局をかくまった。


昔とは変わった暮らし

以前であれば、三位局は美しい帳の中で暮らし、薄絹を張った窓の奥に姿を隠していた。

左右には数えきれないほどの女房たちが仕え、その美しさと身分の高さによって、周囲まで明るく輝くようだった。

ところが今は、人目を避けた小さな部屋へ、ひっそりとこもっている。

京都の近くにいながら、言葉を交わしに訪れる者さえいない。

夜には、松を吹く風の音で夢から目を覚ます。

梅の香りが漂ってくると、昔の華やかな春の日々を思い出した。


菅原道真の苦しみに思いを重ねる

北野天満宮にまつられている菅原道真も、かつて都を追われ、遠い大宰府へ流された人物である。

中世の伝承では、道真は流されたのち怨霊・天神として畏れられ、やがて北野天満宮などで神としてまつられるようになった。

民部卿三位局は、道真が都を離れ、つらい旅をしたことを思った。

その苦しみを、隠岐国へ流された後醍醐天皇の姿に重ねた。

また、自分自身の悲しみにも重ねた。

さまざまな思いが胸へ押し寄せ、三位局は祈りの言葉を唱えることさえ、しばらくやめてしまった。

そして涙を流しながら、次の歌を詠んだ。

忘れずは
神もあはれと
思ひ知れ
心づくしの
いにしへの旅

その意味は、

道真公よ、昔のつらい旅を今も忘れておられないなら、
遠く流された後醍醐天皇と、
それを悲しむ私の心も、
どうか哀れと思ってください。

というものだった。


夢に現れた老人

その夜、三位局は少し眠った。

すると夢の中に、1人の老人が現れた。

老人は正式な衣冠を身につけ、年は80歳を超えているように見えた。

左手には梅の花を一枝持ち、右手には鳩の飾りがついた杖をついている。

たいへん苦しそうな姿で、三位局の枕元に立っていた。

三位局は夢の中で不思議に思った。

「この都の外れにある、草の生い茂った寂しい場所には、話しかける相手さえいない。

そのような所へ、道に迷って来られたあなたは、いったいどなたですか」

そう尋ねた。

しかし老人は、ひどく悲しそうな表情を見せるだけで、何も答えなかった。

持っていた梅の枝を三位局の前へ置き、そのまま立ち去った。


梅の枝に結ばれた歌

三位局が、

「何とも不思議なことだ」

と思って梅の枝を見ると、1枚の短冊が結ばれていた。

そこには、次の歌が書かれていた。

めぐり来て
つひにすむべき
月影の
しばし曇るを
何か嘆かん

その意味は、

月の光は、いったん雲に隠れても、
やがて再びめぐってきて、
澄んだ光を放つようになる。
ほんのしばらく曇っているからといって、
どうしてそれほど嘆くのか。

というものだった。


後醍醐天皇が戻るという知らせ

夢から覚めた三位局は、この歌の意味を考えた。

雲に隠れた月とは、皇位を奪われ、隠岐へ流された後醍醐天皇のことだろう。

しかし月は、やがて再び雲の上へ現れ、明るく輝く。

つまりこの夢は、

「後醍醐天皇は、最後には京都へ戻り、再び宮中で天皇として暮らすことになる」

という、よい知らせに違いない。

三位局はそう考え、深く心強く思った。


信じる心に応える神

ここから『太平記』の作者は、北野天満宮の天神を、人々を救う慈悲深い神仏としてたたえる。

本文では、1度でも天満宮へ参詣すれば現世と来世の願いが成就し、天神の名を唱えるだけでも多くの願いが満たされる、と信仰上の功徳を説いている。

まして民部卿三位局は、数えきれないほどの涙を流しながら、7日7夜、心の底から祈り続けた。

『太平記』は、その真心が神へ届いたため、すぐに夢のお告げが与えられたのだと説明する。

そして、世の中が乱れた時代であっても、本物の信心があれば神の霊験は現れるのだ、と結んでいる。

三位局は、後醍醐天皇がいつか必ず都へ戻ると、ますます強く信じるようになったのである。

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38. 楠木正成、天王寺へ進出――隅田・高橋の敗北と宇都宮公綱


新しい六波羅探題

『太平記』では、元弘2年(1332年)3月5日、北条時益北条仲時が新たな六波羅探題に任命され、鎌倉から京都へ上ったとする。

それまでの3、4年間は、常葉範貞が1人で六波羅探題の仕事を取り仕切っていた。しかし範貞が強く辞任を申し出たため、新しい2人が任命されたのだという。


楠木正成、再び姿を現す

楠木正成は元弘元年(1331年)、赤坂城を脱出する際、自害して焼け死んだように見せかけていたと『太平記』は語る。

幕府はそれを本当だと思い込み、赤坂城周辺を治める地頭として、湯浅孫六入道定仏を置いた。

幕府は、

「楠木正成は死んだ。これで河内国に大きな問題は起こらないだろう」

と安心していた。

ところが元弘2年(1332年)4月3日、正成は『太平記』によれば500騎余りを率いて突然現れ、湯浅の城へ攻め寄せた。

正成軍は、休む間も与えず激しく攻撃した。


湯浅城への兵糧を奪う

城内では、十分な食料を用意していなかったようである。

湯浅は、自分の領地である紀伊国阿瀬川から、500〜600人の人夫に食料を運ばせ、夜のうちに城へ入れようとした。

その情報を知った正成は、兵を険しい道へ先回りさせ、食料をすべて奪い取った。

そして、食料の俵の中身を出し、代わりに鎧や武器を入れた。

その俵を馬や人夫に持たせ、200〜300人の兵を、兵糧輸送隊の護衛のような姿に変装させた。

こうして偽の輸送隊を、湯浅城へ向かわせたのである。

正成の別の部隊は、輸送隊を追い散らそうとしている幕府軍のふりをした。

両軍は、追ったり追い返されたりしながら、仲間同士で戦っているように見せかけた。


正成軍、城内へ入る

湯浅入道は城の中から、その様子を見た。

「食料を運んできた我が軍が、楠軍に襲われている」

と信じ込んだ。

そこで城の兵を出し、輸送隊を助けて城内へ引き入れた。

正成の兵たちは、思いどおり城へ入り込むことに成功した。

中へ入ると、俵の中から鎧や武器を取り出した。

全員がたちまち武装し、一斉に攻撃の声を上げた。

同時に、城外で待っていた正成軍も門を破り、塀を乗り越えて攻め込んだ。

湯浅入道は、城の内と外から敵に囲まれた。

もはや戦う方法はなく、すぐに降伏した。


正成の軍勢が増える

『太平記』では、正成は降伏した湯浅の兵も自軍に加え、700騎余りとなったという。

さらに和泉国と河内国の武士たちを次々と従え、軍勢を大きくしていった。

元弘2年(1332年)5月17日、正成はまず住吉・天王寺方面へ進出し、渡辺橋より南に陣を構えた。

和泉・河内からは、何頭もの早馬が続けて京都へ向かった。

「楠木正成が、いよいよ京都へ攻め上ろうとしている」

という知らせが伝えられると、京都の人々は大いに騒いだ。

武士たちは東西へ走り回り、身分の高い者も低い者も、どうすればよいか分からず慌てた。


六波羅軍、天王寺へ向かう

六波羅探題には、畿内や近国の軍勢が、雲や霞のように次々と集まった。

六波羅軍は、

「楠木正成が今にも京都へ攻めてくる」

と待ち構えていた。

しかし正成は、なかなか京都へ進まない。

そこで六波羅は考えた。

「うわさほどではなく、楠軍は実は少ないのだろう。こちらから攻め寄せ、蹴散らしてしまえ」

六波羅は、隅田高橋を軍奉行に任命した。

『太平記』では、京都を警備する武士、京都在住の御家人、畿内や近国の兵を合わせ、5,000騎余りを天王寺へ向かわせたという。

元弘2年(1332年)5月20日、六波羅軍は京都を出発した。

尼崎、神崎、柱松の付近に陣を取り、遠くまでかがり火をたいて、夜が明けるのを待った。


楠木正成のわな

この知らせを受けた正成は、『太平記』によれば2,000騎余りを3つの部隊に分けた。

主力は住吉と天王寺の周辺へ隠した。

そして、わずか300騎ほどだけを渡辺橋の南に並べた。

大きなかがり火を2、3か所でたかせ、六波羅軍と向かい合った。

正成の狙いは、わざと敵に渡辺橋を渡らせることだった。

川を渡った敵を深い水辺へ追い詰め、1度の戦いで勝敗を決めようとしていたのである。


六波羅軍、少数の楠軍を侮る

翌元弘2年(1332年)5月21日、六波羅軍5,000騎余りは、各地に置いていた部隊を1つに集め、渡辺橋まで進んだ。

川の向こうにいる楠軍を見ると、わずか200〜300騎ほどしかいない。

しかも兵たちの乗っている馬はやせ、手綱も縄で作られているような、粗末な姿だった。

隅田と高橋は笑った。

「やはり和泉や河内の武士など、この程度のものだ。

まともに戦えそうな者は、1人もいないではないか。

こいつらを1人ずつ生け捕りにし、六条河原で首をさらせば、六波羅殿から大いにほめられるだろう」

隅田と高橋は、ほかの兵が続くのも待たず、先頭に立って橋の下流をまっすぐ渡った。

5,000騎余りの兵も、

「自分こそ先に敵を討つ」

と馬を進めた。

橋の上を渡る者もいれば、浅瀬を渡る者もいる。

一斉に川の向こう岸へ駆け上がった。


正成軍、戦わずに退く

楠軍は、敵が川を渡ったのを見ると、遠くから矢を少しだけ放った。

そして、まともに戦うこともなく、天王寺の方向へ退いた。

六波羅軍は、

「楠軍が逃げた」

と考え、勝ちに乗った。

兵も馬も休ませず、天王寺の北側にある民家の付近まで、激しく追い続けた。

正成は、敵の兵と馬が十分に疲れるまで待った。

そして、隠していた2,000騎を三方から動かした。

一隊は天王寺の東側から現れ、敵の左側へ攻めかかった。

一隊は西門の石の鳥居から、魚のうろこのような鋭い陣形で進んだ。

もう一隊は住吉の松林から現れ、ツルが翼を広げるように左右へ展開した。


六波羅軍、三方から囲まれる

六波羅軍は5,000騎余りで、楠軍よりはるかに多かった。

しかし追撃に夢中となり、隊列はひどく乱れていた。

そのため、かえって少ない楠軍に包囲されそうになった。

隅田と高橋は命じた。

「敵は後方に大軍を隠していたのだ。

この付近は地面が悪く、馬を自由に動かせない。

いったん広い場所へ敵を誘い出し、相手の数を確かめてから、攻撃と退却を繰り返して勝負を決めよ」

5,000騎余りの兵たちは、

「敵に退路を切られる前に、渡辺橋まで戻らなければならない」

と、一斉に退却を始めた。

楠軍は三方から勝利の声を上げ、追いかけた。


渡辺橋での大混乱

橋が近づくと、隅田と高橋は敵の数を見直した。

「敵は、それほどの大軍ではない。

川を背後にしたまま逃げ続ければ、かえって危険だ。

ここで引き返して戦え!」

2人は馬を止めようとしながら、何度も命令した。

しかし大軍が1度逃げ始めると、簡単には止まらない。

誰1人として振り返らず、

「自分だけでも先に橋を渡ろう」

と殺到した。

橋が危険なほど混雑していることも構わず、人と馬が一斉に押し寄せた。

そのため、多くの人馬が橋や岸から押し落とされ、川で溺れた。

川の深い場所と浅い場所を知らずに渡り、命を落とす者もいた。

岸から馬ごと転げ落ち、そのまま討ち取られた者もいた。

馬や鎧を捨て、何とか逃げ延びようとする者はいた。

しかし、引き返して楠軍と戦おうとする者は1人もいなかった。

『太平記』は、5,000騎余りいた六波羅軍が大きな損害を受け、残り少ない人数となって京都へ逃げ帰ったと描く。


隅田と高橋を笑う歌

翌日、誰が書いたのか、六条河原に立て札が置かれていた。

そこには、次の歌が書かれていた。

渡辺の
水いかばかり
早ければ
高橋落ちて
隅田流るらん

その意味は、

渡辺川の水は、どれほど速かったのだろう。
高橋が落ち、
隅田まで流されてしまった。

というものだった。

「高橋が落ちる」「隅田が流れる」と、2人の名を橋や川の言葉に掛けた落書である。

京都の町の人々は、他人の失敗を面白がるところがある。

この落書きを歌にして歌い、語り伝えて笑った。

隅田と高橋はすっかり面目を失った。

宮仕えに出ることもやめ、病気のふりをして家へ閉じこもった。


宇都宮への出陣命令

六波羅探題は、この敗北を聞いて激しく怒った。

そして、もう1度討伐軍を送ろうと相談した。

そのころ、

「京都には強い兵が少なすぎる」

として、鎌倉から宇都宮公綱(治部大輔)が派遣されていた。

六波羅は宇都宮を呼び、こう言った。

「戦では運によって勝敗が入れ替わることもあり、昔から珍しいことではない。

しかし今回、南へ向かった軍が負けたのは、ひとえに大将の作戦が悪く、兵たちが臆病だったためである。

天下の人々が笑っており、その口をふさぐ方法もない。

とりわけ、北条仲時が京都へ来たあと、あなたも上洛したのは、反乱軍が起きれば、すぐに向かって鎮めるためだった。

今のような敗北した兵を何度集めて送っても、まともに戦えるとは思えない。

今こそ天下の大事件である。

あなた自身が出陣して、楠軍を討っていただきたい」


宇都宮、迷わず引き受ける

宇都宮は辞退する様子もなく答えた。

「大軍がすでに敗れたあとに、私が小勢で向かうことには、難しいところもあります。

しかし鎌倉を出た時から、このような大事件が起きたなら、命を惜しまず戦おうと決めておりました。

今は必ずしも、すぐに勝敗を決めるべき時ではないでしょう。

たとえ私1人であっても、まず向かって1度戦います。

もし苦しい状況になれば、その時に改めて援軍をお願いしましょう」

宇都宮は、本当に覚悟を決めている様子だった。


わずかな兵で京都を出る

宇都宮は1人で大敵へ向かう以上、もともと命を惜しんでいなかった。

わざわざ自分の屋敷へ帰ることさえせず、六波羅から直接出陣した。

元弘2年(1332年)7月19日の正午ごろ、京都を出て天王寺へ向かった。

東寺の付近までは、主従合わせても14、15騎ほどにしか見えなかったと本文は記す。

しかし京都にいた宇都宮方の武士たちが次々と加わり、四塚や作道へ着くころには、本文では500騎余りとなった。

一行は道で出会った者から、身分の高い家の者であっても馬を奪った。

人夫も強制的に集めながら進んだ。

旅人は道を変えて逃げ、村人たちは家の戸を閉じた。

その夜、宇都宮軍は柱松へ陣を置き、夜明けを待った。

兵の中には、生きて帰ろうと考えている者は1人もいなかった。


和田孫三郎、夜襲を提案する

河内国の武士である和田孫三郎は、この知らせを聞き、楠木正成のもとへ来て言った。

「先日の敗北に腹を立て、京都から宇都宮が向かってきました。

今夜はすでに柱松へ着き、その兵はわずか600〜700騎ほどだと聞いております。

前に隅田・高橋が5,000騎で向かってきた時でさえ、我々は少ない兵で追い散らしました。

そのうえ今回は、こちらは勝利によって勢いづき、軍勢も増えています。

敵は敗北して勢いを失い、しかも小勢です。

宇都宮がどれほど武勇にすぐれていても、恐れるほどのことではありません。

今夜こちらから攻めかかり、敵を蹴散らしてしまいましょう」


正成、小勢の覚悟を恐れる

正成はしばらく考え、答えた。

「戦の勝敗は、必ずしも兵の多さや少なさで決まるものではない。

兵士たちが心を1つにしているかどうかで決まる。

だからこそ、

『大軍を見たら侮り、小軍を見たら恐れよ』

という言葉があるのだ。

よく考えてみよ。

先の戦いで大軍が敗れて逃げ帰ったあと、宇都宮は自分1人で小軍を率い、我々へ向かってきた。

その兵たちの中に、生きて帰ろうと思っている者がいるはずはない。

しかも宇都宮は、東国一といわれる武将である。

その配下の紀・清両党の兵たちは、戦場では自分の命を、ちりやごみよりも軽いものと考える者たちだ。

その700騎余りが心を1つにして死ぬ覚悟で戦えば、こちらの兵に逃げる心がなくても、半分以上は必ず討たれるだろう。

天下の勝負が、今回の一戦だけで決まるわけではない。

これから長く戦いを続けなければならないのに、数の少ない味方を最初の戦いで失えば、その後、誰が力を貸してくれるだろうか」


「戦わずして勝つ」

正成はさらに続けた。

「『すぐれた大将は、戦わずに勝つ』といわれている。

私は明日、わざとこの陣を離れて退こうと思う。

そして宇都宮に、

『敵を退かせ、面目を保った』

と思わせるのだ。

その後、4、5日たったところで、周囲の山々に多数のかがり火をたけばよい。

そうすれば東国の武士たちは、間もなく疲れて、

『長くここにいれば危険だ。面目を立てた今のうちに京都へ帰ろう』

と言い出すに違いない。

戦を仕掛けるのも退くのも、その時に合った判断が必要だというのは、このようなことをいうのだ。

夜はもう明けようとしている。

敵も間もなく近づくだろう。

さあ、ここを退こう」

正成は天王寺を離れた。

和田や湯浅の兵たちも、正成とともに退いた。


宇都宮、天王寺へ入る

夜が明けると、宇都宮は700騎余りを率いて天王寺へ進んだ。

古宇都の民家へ火をつけ、大きな攻撃の声を上げた。

しかし敵の姿はなく、誰も戦いに出てこない。

宇都宮は、

「敵の作戦かもしれない。

この付近は地面が悪く、道も狭い。

むやみに突入し、軍の中央を破られたり、背後を包囲されたりしないようにせよ」

と命じた。

紀・清両党の兵たちは馬の足並みをそろえ、天王寺の東西の入口から攻め込んだ。

2度、3度と突入したが、敵は1人もいない。

正成軍が燃やしていたかがり火に、わずかな火が残っているだけだった。

夜は次第に明けていった。


宇都宮、勝利を神仏に感謝する

宇都宮は、

「戦わずして、まず1度勝つことができた」

と感じた。

本堂の前で馬を降り、聖徳太子(上宮太子)を伏し拝んだ。

「これは自分の武力によるものではない。

ただ神や仏のご加護によるものである」

と考え、深く感謝し、喜んだ。

すぐに京都へ早馬を送り、

「天王寺の敵を、ただちに追い落としました」

と報告した。

六波羅探題をはじめ、幕府に仕えるすべての武士が、

「今回の宇都宮の行動は、ほかの者よりはるかにすぐれている」

とほめた。


正成、かがり火で大軍を装う

宇都宮は、簡単に天王寺から敵を追い払ったように見え、面目を保つことができた。

しかし兵が少ないため、そのまま正成の陣へ攻め込むことはできない。

かといって、1度も本当の戦いをしないまま京都へ帰ることも、武士としてためらわれた。

宇都宮は進むことも退くこともできず、天王寺にとどまった。

4、5日後、和田と正成は、和泉・河内の野武士たちを4,000〜5,000人集めた。

さらに戦える武士200〜300騎を加え、天王寺周辺の遠くの場所へ、多数のかがり火をたかせた。

宇都宮軍は、

「敵が出てきたぞ」

と騒いだ。

夜が深くなるにつれて周囲を見ると、秋篠、外山、生駒山に見える火は、晴れた夜の星よりも多かった。

志紀津の浦、住吉、難波の里で燃えるかがり火は、漁船が海上でたく火が、波そのものを焼いているように見えた。

大和・河内・紀伊の山や海岸で、かがり火のない場所は1つもない。

その数から考えれば、敵は何万騎いるか分からないほどだった。


宇都宮軍の疲労

正成軍は、このようなかがり火を二晩、三晩と続けた。

しかも、日ごとに火を天王寺へ近づけていった。

ついには東西南北、斜めの方向、上も下も、すべて火で満たされ、暗い夜が昼のように明るくなった。

宇都宮は、

「敵が攻めてきたなら、1度戦い、ここで勝敗を決めよう」

と覚悟した。

馬の鞍も下ろさず、鎧のひもも解かずに待ち続けた。

しかし、敵は攻めてこない。

ただ大軍に包囲されているような状態が続く。

そのため、兵たちの勇気も武力も次第に疲れ、

「もう退きたい」

という気持ちが生まれてきた。


宇都宮軍、京都へ戻る

紀・清両党の武士たちも言った。

「我々のような少数の兵で、この大軍と戦い続けることが、最後にはどうなるか分かりません。

先日、天王寺の敵を問題なく追い落とすことができました。

それを手柄として、今のうちに京都へお戻りください」

ほかの者たちも、皆この意見に賛成した。

元弘2年(1332年)7月27日の夜中ごろ、宇都宮は天王寺を出て、京都へ戻った。

翌朝早く、楠木正成はすぐに天王寺へ戻り、再び陣を構えた。


2人の名将

もし宇都宮と楠木正成が正面から戦い、勝敗を決めていたならば、2頭の虎、2匹の竜が争うような激戦となり、どちらも命を失ったかもしれない。

2人とも、それを理解していたのだろう。

1度目には、正成が退き、遠い先まで考えた作戦を成功させた。

次には宇都宮が退き、無理に戦って敗れることなく、武将としての名誉を守った。

『太平記』は、楠木正成と宇都宮公綱の双方を、知恵が深く遠い先まで考えることのできるすぐれた大将として高く評価する。


正成に人々が集まる

楠木正成は天王寺へ進出し、大きな勢力を持つようになった。

それでも民家を苦しめることはせず、兵士たちにも礼儀正しく接した。

その評判は近国だけでなく、遠く離れた土地の人々にまで伝わった。

人々は、

「自分も正成の軍へ加わろう」

と、次々に集まった。

正成軍の力は少しずつ大きくなった。

やがて京都の六波羅探題も、簡単に討伐軍を送ることができないほどの勢力となったのである。

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39. 楠木正成、四天王寺の未来記を読む


住吉大社と四天王寺への参詣

元弘2年(1332年)8月3日、楠木正成は住吉大社へ参詣し、神馬3頭を奉納したと『太平記』は記す。

翌8月4日には四天王寺へ参詣した。

その時、白い鞍を置いた馬、白覆輪(しろぶくりん。銀で縁取った)の太刀、そして鎧1領(1組)を寺へ奉納した。

これは、僧たちに『大般若経』を読んでもらったことに対するお礼だった。

大般若経の転読が終わると、寺の年長の僧が巻数(かんじゅ。読経した経典や回数などを記した報告)を捧げて、正成の前へ来た。

正成はその僧と向かい合い、こう話した。


正成の願い

「私は、決してすぐれた人間ではありません。

そのような私が、鎌倉幕府を倒すという大きな計画を立てたのは、自分の力を考えずに行動しているように見えるかもしれません。

しかし、天皇からいただいた命令を軽く扱うことはできません。

主君に対する礼儀と忠義を守ろうと考え、自分の命が危険にさらされることも忘れて戦っております。

これまで2度の戦いで、わずかながら勝つことができました。

すると、こちらから呼びかけてもいないのに、各国の武士たちが次々と味方に加わるようになりました。

これは天が我々に勝つ機会を与え、仏や神もお守りくださっているためではないかと思っています」

正成は、さらに尋ねた。

「本当のことかどうかは分かりませんが、以前このような話を聞きました。

聖徳太子は昔、これから続く歴代の天皇の世が平和になるか、乱れるかを見通し、日本の未来を書き残されたそうですね。

もし見ることが許されるのであれば、現在の時代について書かれた部分だけでも、読ませていただけないでしょうか」


四天王寺に伝わる秘密の書

【史料上の注意】 ここからは、『太平記』が聖徳太子の「未来記」をめぐって語る説話である。現代の歴史学で確認された予言書の実在を述べているわけではない。

年長の僧は答えた。

「聖徳太子は、物部守屋という仏教に反対した者を討ち、その後に四天王寺を建て、日本に仏教を広められました。

『太平記』の僧は、太子が神々の時代から持統天皇の時代までの出来事を記した30巻の書物を残した、と語る。

これは『先代旧事本紀』と呼ばれ、卜部氏の人々が代々受け継いだ、と本文は説明する。

【『先代旧事本紀』注】 『太平記』はここで「30巻」とし、聖徳太子に結びつけて語る。しかし現存する『先代旧事本紀』は10巻で、現在は平安時代前期に成立した偽撰の史書とされている。したがって、この段の「30巻の旧事本紀」と「未来記」は『太平記』の説話として読む必要がある。

しかし、それとは別に、太子はもう1巻の秘密の書物を残したとも語られる。

その書には、持統天皇よりあとの歴代天皇の世と、天下が平和になる時や乱れる時について書かれています。

本来、この書を簡単に人へ見せることはありません。

しかし正成殿には特別な事情がありますので、ひそかにお見せしましょう」

僧はそう言うと、秘密の書庫の銀の鍵を開けた。

そして、金色の軸をつけた一巻の書物を取り出した。


未来記の文章

正成は喜び、すぐにその書を開いて読んだ。

すると、そこに不思議な文章が一段書かれていた。

その内容は、およそ次のようなものだった。

人皇の95代にあたる時、
天下は1度大きく乱れ、
国を治める君主は安らかではいられない。

この時、東の魚が現れ、
日本中をのみ込む。

太陽は西の空へ沈み、
370日余りが過ぎる。

その後、西の鳥が現れ、
東の魚を食べる。

それから国中は1つにまとまり、
平和が3年間続く。

その後、猿に似た者が天下を奪い、
30年余りにわたって支配する。

大きな乱れを経たのち、
天下は再び1つの始まりへ帰る。

正成は、この不思議な予言を何度も読み返した。


正成が読み解いた意味

正成は、この文章の意味を考えた。

「後醍醐天皇は、初代の神武天皇から数えて95代目にあたる。

『天下が1度乱れ、君主が安らかではいられない』というのは、まさに今の状況を指しているのだろう。

『東の魚が来て日本中をのみ込む』というのは、東国に本拠地を置き、天下を支配する北条高時の一族を意味しているに違いない。

『太陽が西の空へ沈む』というのは、後醍醐天皇が都から西にある隠岐国へ流されたことを表しているのだろう。

『370日余り』とあるならば、来年の春ごろ、天皇は隠岐国から都へ戻られる。

そして再び天皇の位に就かれるという意味ではないか。

『西の鳥が東の魚を食べる』というのは、西の国から現れた誰かが、鎌倉幕府を滅ぼすということだろう」

【皇統の数え方】 『太平記』はこの未来記に合わせ、後醍醐天皇を「人皇95代」と数えている。現在一般的な皇統の数え方では、後醍醐天皇は第96代である。

正成が文章の意味を1つずつ考えると、後醍醐天皇が隠岐から戻り、幕府が滅びる日は、それほど遠くないように思われた。

正成は、これからの戦いに大きな希望を持った。


書物を再び書庫へ戻す

正成は、未来記を見せてくれた老僧に、金色の飾りをつけた太刀を1振り贈った。

そして書物を、もとの秘密の書庫へ納めてもらった。

『太平記』の作者は、後の出来事と照らし合わせると、正成がこの予言を読み解いた内容は「1つも違わなかった」と述べる。

そして作者は、これを聖徳太子が遠い未来を見通して書き残したものとして称賛する。これは『太平記』の物語上の評価である。

この「予言が少しも違わず実現した」という結びも、未来記説話の霊妙さを強調する『太平記』作者の叙述として読むべきである。

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40. 赤松円心、護良親王の令旨を受けて挙兵


播磨国の武将・赤松円心

そのころ播磨国に、赤松則村(法名・円心)という武将がいた。『太平記』本文では「赤松次郎入道円心」と記される。

『太平記』は、円心を村上天皇の第7皇子・具平親王の系統で、従三位・源季房の末裔とする。ただし、これは軍記物語が掲げる系譜であり、そのまま確実な血統として扱うのは慎重であるべきだ。

円心について、『太平記』は「弓矢取って無双の勇士」と高く評価している。

もともと気持ちが大きく、自由な性格で、ほかの者の下に立つことを好まなかった。

そして、この天下の乱れを見て、こう考えていた。

「衰えた家を再び起こし、失われたものをよみがえらせたい。

この機会に名を世に現し、朝廷への忠義を尽くしたい」


息子・則祐が持ち帰った令旨

円心の息子に、僧となっていた赤松則祐がいた。

『太平記』によれば、則祐はこの2、3年、護良親王(大塔宮)に付き従い、吉野や十津川で苦難をともにしていた。

その則祐が、大塔宮からの令旨を持って円心のもとへ帰ってきた。

令旨とは、皇族、とくに親王などの命令・意向を伝える文書である。

円心がその文書を開いてみると、およそ次のように書かれていた。

日を置かず、ただちに正義の兵を挙げよ。
軍勢を率いて、朝廷の敵を討ち滅ぼせ。
功績を立てた者には、その望みに応じて恩賞を与える。

さらに、詳しい恩賞の内容を示した17か条の書類も添えられていた。

そこに書かれた条件は、どれも赤松家にとって大きな名誉となり、当時の武士たちが望んでいたものばかりだった。

円心はたいへん喜んだ。


苔縄山に城を築く

円心はまず、自分の領地である播磨国佐用庄の苔縄山に城を築いた。

そして周辺の武士たちに、

「大塔宮の命令に従い、幕府と戦おう」

と呼びかけた。

赤松円心の名声と勢いは、しだいに近くの国々へも広がっていった。

『太平記』では、播磨国の武士たちが次々と集まり、間もなくその軍勢は1,000騎余りとなったという。


陳勝の反乱との比較

昔の中国では、秦王朝の支配が衰えようとしていた時、陳勝という人物が粗末な服を着た身分の低い者たちを率い、大沢という場所で兵を挙げた。

その反乱は、やがて秦王朝が滅びるきっかけの1つとなった。

『太平記』の作者は、赤松円心の挙兵を、秦の衰えに乗じて立った陳勝の反乱になぞらえている。


西国から京都へ向かう道をふさぐ

円心はすぐに、杉坂山の里という2か所に関所を設けた。

そして山陽道と山陰道という、西国と京都を結ぶ2つの主要な道をふさいだ。

このため、西国から京都へ向かう道は通れなくなった。

幕府に味方する各国の軍勢も、京都へ援軍として上ることができなくなったのである。

こうして赤松円心の挙兵は、播磨国だけの小さな反乱ではなく、鎌倉幕府の軍事行動を妨げる大きな動きへと発展していった。

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41. 関東の大軍、京都へ上る


六波羅から鎌倉への急報

畿内や西国では、幕府に背く人々が、日を追うごとに次々と兵を挙げていた。

六波羅探題は早馬を鎌倉へ走らせ、その状況を報告した。

知らせを受けた北条高時は大いに驚いた。

「それならば、すぐに討伐軍を京都へ送れ」

高時は北条一族だけでなく、関東8か国の有力な武将たちにも出陣を命じた。


招集された東国の武将たち

『太平記』は、北条一族と東国の諸将を次のように列挙している。官職名・通称だけで記され、個人名を確実に特定しにくい人物は、原文の呼称をそのまま残す。

  • 阿曾弾正少弼
  • 名越遠江入道
  • 大仏前陸奥守貞直
  • 同武蔵左近将監
  • 伊具右近大夫将監
  • 陸奥右馬助
  • 千葉大介
  • 宇都宮三河守
  • 小山判官
  • 武田伊豆三郎
  • 小笠原彦五郎
  • 土岐伯耆入道
  • 葦名判官
  • 三浦若狭五郎
  • 千田太郎
  • 城太宰大弐入道
  • 佐々木隠岐前司
  • 同備中守
  • 結城七郎左衛門尉
  • 小田常陸前司
  • 長崎四郎左衛門尉
  • 同九郎左衛門尉
  • 長江弥六左衛門尉
  • 長沼駿河守
  • 渋谷遠江守
  • 河越三河入道
  • 工藤次郎左衛門高景
  • 狩野七郎左衛門尉
  • 伊東常陸前司
  • 同大和入道
  • 安藤藤内左衛門尉
  • 宇佐美摂津前司
  • 二階堂出羽入道
  • 同下野判官
  • 同常陸介
  • 安保左衛門入道
  • 南部次郎
  • 山城四郎左衛門尉

本文では、主だった大名だけでも132人に達したという。

さらに『太平記』は、その総勢を30万7,500騎余りとする。以下に出る巨大な軍勢数も、軍記物語本文の数字として示す。


鎌倉から京都へ続く大軍

元弘2年(1332年)9月20日、幕府軍は鎌倉を出発したと本文は記す。

同年(1332年)10月8日には、先頭の軍勢が京都へ到着した。

ところが、軍列の後ろの方は、まだ足柄や箱根の山道につかえていた。

先頭が京都に着いても、最後尾は関東をようやく出ようとしていたのである。

それほど大きな軍勢だった。


四国・中国地方からも軍勢が集まる

京都へ向かっていたのは、東国の軍だけではなかった。

『太平記』では、河野九郎は四国の軍勢を率い、300艘余りの大船に乗って海を渡ったという。

尼崎から上陸し、京都の南側へ入った。

厚東入道・大内介・安芸の熊谷氏らは、周防国と長門国の兵を率いた。

200艘余りの軍船で兵庫へ入り、そこから京都の西側へ進んだ。

甲斐・信濃の源氏7,000騎余りは、中山道を通って京都の東山へ到着した。

さらに江馬越前守淡河右京亮は、北陸道7か国の兵3万騎余りを率い、東坂本を通って京都の北側へ入った。

こうして全国各地の軍勢が、

「自分たちも遅れてはならない」

と、競うように京都へ集まった。


兵で埋め尽くされる京都

あまりにも多くの軍勢が集まったため、京都と白河の家々だけでは、兵を泊めることができなかった。

兵たちは、

  • 醍醐
  • 小栗栖
  • 日野
  • 勧修寺
  • 嵯峨
  • 仁和寺
  • 太秦
  • 西山
  • 北山
  • 賀茂
  • 北野
  • 革堂
  • 河崎
  • 清水寺
  • 六角堂

など、京都周辺のあらゆる場所に宿泊した。

寺の門の下や鐘楼の中まで兵で埋まり、軍勢が泊まっていない場所はほとんどなかった。

人々は初めて、

「日本は小さな国だと思っていたが、これほど多くの人間がいたのか」

と驚くほどだった。


3つの城への総攻撃

元弘3年(正慶2年・1333年)1月30日、幕府は全国から集めた軍勢を3手に分けたと『太平記』は記す。

攻撃の目標は、

  • 大塔宮が立てこもる吉野
  • 楠木正成方が守る赤坂城
  • 楠木正成の本拠地である金剛山

の3か所だった。

『太平記』では、この時の幕府軍は総勢80万騎に達したとする。これは史料上の実数としてではなく、幕府軍の圧倒的な規模を強調する軍記的数字として扱うのが安全である。


吉野へ向かう軍

吉野へは、二階堂道蘊が大将として向かった。

本文では、道蘊はほかの武将の軍勢を混ぜず、自分が率いる2万7,000騎余りだけで進んだという。

軍を3つに分け、上道・中道・下道から吉野へ攻め寄せた。


赤坂城へ向かう軍

赤坂城へは、阿曾弾正少弼が大将として向かった。

その軍勢は、本文では8万騎余りだった。

まず天王寺と住吉に陣を置き、赤坂城への攻撃に備えた。


金剛山へ向かう軍

金剛山へは、陸奥右馬助が裏手から攻める軍の大将として向かった。

その軍勢は本文では20万騎とされ、奈良方面の道を通って進んだ。


長崎悪四郎の華麗な出陣

中でも、長崎悪四郎左衛門尉は、特別に侍大将を命じられ、正面の攻め口へ向かった。

中世の人名・通称に付く「悪」は、必ずしも「性格の悪い人」という意味ではなく、強さや荒々しさを示す呼称として用いられることがある。

長崎悪四郎は、自分の軍勢の大きさを人々に見せつけようと考えたのだろう。

ほかの軍より1日遅れて出発した。

その行列は、見物する人々を驚かせるほど華やかだった。


先頭を進む800騎

まず旗を持つ者たちが進んだ。

その後ろには、たくましい馬に豪華な飾りをつけ、全員が同じ形の鎧を着た800騎余りの兵が続いたと本文は描く。

彼らは長崎悪四郎より2町(約220m)ほど前を、ゆっくりと馬を進めていった。


長崎悪四郎の姿

長崎悪四郎自身は、その後ろから進んだ。

美しい模様を染めた鎧直垂を着て、上質な布で作られた大口袴をはいていた。

鎧は、上から下へ紫色が次第に薄くなるように染められていた。

頭には白い星の飾りがついた5枚張りの兜をかぶり、兜には8匹の竜が金で飾られていた。

銀色に輝くすね当てを着け、金の飾りのある太刀を腰に差していた。

乗っていたのは、一部黒という名の、体高が5尺3寸(約1.6m)もあると本文が記す、東国一の名馬だった。

鞍には、干潟に浮かぶ小舟の模様が金や貝で描かれていた。

馬には黄色い花のような色をした、厚い飾り房がつけられていた。


弓矢と従者たち

長崎悪四郎は、36本の大きな矢を背負っていた。

矢は白く磨かれ、矢筈は銀で飾られていた。

手には、黒い模様を入れた立派な弓を持っていた。

その姿で、道幅が狭く感じられるほど堂々と馬を進めた。

片腕だけを守る小手と、腹を守る鎧を着けた下働きの兵500人余りが、2列に並んだ。

彼らは長崎悪四郎の馬の前後に付き従い、静かに道を進んだ。


後ろに続く10万騎

さらに4、5町(約440〜550m)ほど遅れて、思い思いの鎧を身につけた10万騎余りが続いたと本文はいう。

兜の金具は日の光に輝き、鎧の袖は隙間なく重なっていた。

道には、物をぎっしりと詰め込んだように兵が並び、その軍列は5、6里も続いたと『太平記』は描く。

軍勢の力強さは、天地を響かせ、山や川を動かすかと思われるほどだった。


13日間続いた軍列

長崎悪四郎の軍以外にも、5,000騎、3,000騎という兵を率いる大名たちが、それぞれ別々に進んだと『太平記』は記す。

軍勢は昼も夜も途切れることなく、13日間にわたって進み続けたという。

その光景を見た人々は言った。

『太平記』は「日本はもちろん、中国・インド・元や南方の国々でも、これほどの大軍は例がない」とまで誇張して、その威容を表現する。

ここは、幕府軍の規模を最大限に大きく見せる軍記物語らしい描写である。

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42. 赤坂城の戦い――人見恩阿・本間資貞父子の討死


総攻撃を前にした幕府軍

赤坂城を攻める幕府軍の大将、阿曾弾正少弼は、後ろから来る軍勢がそろうのを待つため、天王寺に2日間とどまっていた。

そして、

「正慶2年(元弘3年・1333年)2月2日の正午に、赤坂城への攻撃を開始する。それより前に勝手に攻めかかった者は、罪に問う」

と、全軍へ命令した。

ところが幕府軍の中に、その命令を破ってでも、誰よりも先に戦おうとする者がいた。


人見恩阿の決意

武蔵国の武士に、人見四郎入道恩阿という者がいた。

人見は、相模国の武士である本間九郎資貞に語った。

「味方の軍勢は雲や霞のような大軍だ。赤坂城を攻め落とすことは、まず間違いないだろう。

しかし、よく考えてみると、北条氏が天下の実権を握ってから、すでに7代以上が過ぎている。

天は、満ちすぎたものを必ず欠けさせる。栄えが永遠に続かないという道理から、逃れることはできない。

そのうえ北条氏は、家臣の立場でありながら、後醍醐天皇を遠国へ流した。そのような悪い行いを重ねて、最後に自らが滅びないはずがあるだろうか。

私は大した武士ではないが、長年、幕府から恩を受け、すでに70歳を超えた。

これから先、生きていても、特に思い残すことはない。

むやみに長生きをして、幕府の運が衰えていく姿を見るのも、老後の苦しみとなり、死ぬ時の心残りになるだろう。

だから私は、明日の戦いで誰よりも先に赤坂城へ攻めかかり、最初に討ち死にする。

そして自分の名を、後の世まで残したいと思っている」


本間資貞の返事

本間資貞は、心の中では、

「人見殿の言うことにも、確かに道理がある」

と思った。

しかし、口ではこう答えた。

「ずいぶん細かなことを気になさるものだ。

これほどの大軍で城を包囲しているのに、1人だけ勝手に先駆けして討ち死にしても、それほど大きな手柄とはいわれないだろう。

私は、ほかの武士たちと同じように戦うつもりだ」

人見は面白くなさそうな顔をし、その場を離れて、本堂の方へ向かった。

本間は、

「人見殿は、何か隠しているのではないか」

と怪しみ、人をつけて様子を見させた。

すると人見は筆入れを取り出し、四天王寺の石の鳥居に何かを書きつけてから、自分の宿へ帰ったという。

本間は、

「やはり人見殿は、明日必ず抜け駆けするつもりだ」

と確信した。


本間も1人で出発する

本間資貞は、人見に先を越されまいと、その日の夕方から陣を出た。

誰も連れず、ただ1騎で東条を目指した。

石川の河原で夜を明かし、朝霧が晴れてきたころ、南の方を見ると、1人の武士が赤坂城へ向かっていた。

紺色の糸で飾った鎧を着て、白い母衣を背負い、鹿毛の馬に乗っている。

本間が馬を近づけてみると、その武士は人見恩阿だった。

人見は本間を見つけると、笑って言った。

「昨夜、私が話したことを本気だと思ったのなら、孫ほども年の違うあなたに先を越されるわけにはいかない」

そう言って、馬をいっそう速く進めた。

本間は、そのあとを追いながら言った。

「もう、どちらが先かを争う必要はない。

同じ場所で遺体をさらし、あの世までも一緒に行こうではないか」

人見は、

「もちろんだ」

と答えた。

2人は、ある時は先になり、ある時は後ろになりながら、話をして赤坂城へ向かった。


2人の名乗り

赤坂城が近づくと、2人は馬を並べて一気に駆けた。

堀のそばまで進むと、鐙を強く踏み、弓を杖のようについて、大声で名乗った。

「武蔵国の住人、人見四郎入道恩阿、年は73歳!」

「相模国の住人、本間九郎資貞、年は37歳!」

「我々は鎌倉を出た時から、戦いの先頭に立ち、戦場に遺体をさらすことを望んで、ここまで来た。

腕に覚えのある者は、城から出てきて、我々の戦いぶりを見よ!」

2人は声をそろえて叫び、赤坂城をにらみながら待った。


城兵は相手にしない

城内の兵たちは、2人を見て話し合った。

「これが東国武士の考え方というものか。

昔、熊谷直実や平山季重が一ノ谷の戦いで先陣を争った話を聞き、それをうらやましく思っている者たちなのだろう。

後ろを見ても、続いてくる兵は1人もいない。

2人とも、それほど身分の高い大将にも見えない。

このような命知らずを相手にして、こちらの兵が命を失っても仕方がない。

しばらく放っておき、何をするか見ていよう」

城兵は物音を立てず、返事もしなかった。


人見と本間の突入

人見は腹を立てた。

「早朝からここまで来て名乗っているのに、城から矢1本射てこない。

これは臆病だからなのか。それとも我々を侮っているのか。

それならば、こちらから手柄を見せてやろう」

人見は馬から飛び降りた。

堀の上にかけられた細い橋を、すばやく走り渡った。

本間もあとに続いた。

2人は出し塀(外へ張り出した塀)の脇へ近づき、城門を切り落とそうとした。

城兵たちは、さすがに慌てた。

壁の穴や櫓の上から、雨が降るように矢を射かけた。

人見と本間の鎧には、蓑の毛のように、無数の矢が突き立った。

しかし2人は、初めから討ち死にするつもりで来ている。

一歩も退こうとはしなかった。

命が尽きるまで戦い、2人は同じ場所で討ち死にした。


本間資貞の首と、息子・資忠

ここまで2人に付き従い、最期に念仏を唱えるよう勧めていた1人の僧がいた。

僧は城兵に頼み、人見と本間の首を受け取った。

そして2人の首を天王寺へ持ち帰り、本間資貞の息子である本間源内兵衛資忠に、最初からの出来事をすべて語った。

資忠は父の首を一目見ると、一言も話さなかった。

ただ涙にむせびながら、しばらく座っていた。

しかし、何を思ったのだろう。

突然、鐙を肩へかけ、馬に鞍を置かせ、ただ1人で出陣しようとした。


僧が資忠を引き止める

僧は驚き、資忠の鎧の袖をつかんで止めた。

「いったい、何をなさるのですか。

もしお父上が、ただ自分の名を天下に知られたいと思っただけなら、初めから息子であるあなたも連れて、親子で戦場へ向かわれたはずです。

しかし、お父上は自分の命を幕府へささげ、手柄による恩賞を子孫へ残そうと考えたからこそ、あなたを連れず、1人で討ち死にされたのでしょう。

あなたまで敵陣へ入り、父子がともに死んでしまえば、誰が家を継ぐのですか。

誰が恩賞を受けるのですか。

子孫が末永く栄えることで、父祖に孝行を示すのが正しい道だといわれています。

悲しみのあまり、父と死をともにしたいと思われることは理解できます。

しかし、どうか今は思いとどまってください」

僧が強く止めたため、資忠は涙をぬぐい、仕方なく鎧を脱いだ。

僧は、

「これで出陣を思いとどまった」

と安心した。

そして本間資貞の首を小袖に包み、葬るために近くの野原へ向かった。


資忠、ひそかに出陣する

僧がいなくなると、資忠を止める者はいなくなった。

資忠は再び鎧を着け、ただちに出発した。

まず四天王寺で聖徳太子(上宮太子)の御前に参り、祈った。

「この世での出世や栄えは、今日で命を終える私には、もう願う必要がありません。

ただ、仏の慈悲深い誓いが本当であるならば、父が討ち死にした戦場で、父と同じ土の下へ埋められ、極楽浄土でも父と同じ蓮の花の上に生まれさせてください」

資忠は涙を流しながら祈り、太子堂を出た。


鳥居に残された人見の歌

資忠が石の鳥居を通る時、柱に人見恩阿が書き残した歌を見つけた。

資忠は、

「これは後の世まで語り伝えられる歌になるだろう」

と思った。

そして右手の小指をかみ切り、その血を使って、人見の歌の横へ一首を書き加えた。

それから赤坂城へ向かった。


資忠、城兵に願い出る

城が近くなると、資忠は馬から降りた。

弓を脇に抱え、城門をたたいて叫んだ。

「城内の方々に申し上げたいことがある!」

しばらくすると、2人の兵が櫓の小窓から顔を出した。

「何者だ」

資忠は答えた。

「私は、今朝この城へ攻めかかり、討ち死にした本間九郎資貞の嫡男、源内兵衛資忠という者です。

親が子を思うあまり、正しい判断ができなくなることがあります。

父は、私が一緒に死ぬことを悲しみ、私に何も知らせず、ただ1人で討ち死にしました。

今ごろ、付き従う者もなく、あの世へ向かう途中で迷っていることでしょう。

それを思うと、私も同じ場所で討ち死にし、死んだあとまで父への孝行を尽くしたいと思い、ただ1騎でここへ来ました。

どうか城の大将に、このことを伝えてください。

そして城門を開けてください。

父が討たれた場所で、私も命を終えたいのです」

資忠は丁寧に願い出ながら、涙で声を詰まらせた。


城兵が門を開く

一の木戸を守っていた50人余りの兵たちは、資忠の孝行の心と、敵へ向かう立派な覚悟に深く感動した。

そこで城門を開き、前に置いていた逆茂木を取り除いた。

資忠は馬へ飛び乗り、城内へ駆け込んだ。

50人余りの敵と、火花を散らして斬り合った。

やがて父が討たれた場所へたどり着くと、太刀の切っ先を口にくわえ、真っ逆さまに倒れ込んだ。

太刀は体を貫き、資忠は父と同じ戦場で命を終えた。


3人への称賛

何とも惜しいことである。

父の本間資貞は、弓矢の腕に並ぶ者がなく、国にとって必要な武士だった。

息子の資忠は、ほかに例のない忠義と孝行を示し、家の名誉を高める勇士だった。

『太平記』は、人見恩阿を73歳という高齢で「義を知り、命への執着を年齢とともに捨てた」人物として称賛する。

3人が同じ日に討ち死にしたと伝わると、知っている者も、知らない者も、皆がその死を惜しんだ。


石の鳥居に残された二首

先駆けした武士たちが、命令を破って赤坂城へ向かい、討ち死にしたという知らせが広まった。

大将の阿曾弾正少弼は、すぐに天王寺を出て、赤坂城へ向かった。

出発の前、聖徳太子(上宮太子)の御前で馬を降り、石の鳥居を見た。

左の柱には、人見恩阿の歌が書かれていた。

花咲かぬ
老い木の桜
朽ちぬとも
その名は苔の
下に隠れじ

その意味は、

もう花を咲かせる年ではない老いた桜が、
やがて朽ちたとしても、
その名だけは、苔の下に隠れることなく、
後の世まで残るだろう。

というものだった。

歌の下には、次のように記されていた。

武蔵国の住人、人見四郎恩阿。
年73歳。
正慶2年(元弘3年・1333年)2月2日、赤坂城へ向かい、
武士として受けた恩に報いるため、討ち死にした。


資忠が血で書いた歌

右の柱には、資忠が自分の血で書いた歌が残されていた。

待てしばし
子を思ふ闇に
迷ふらん
六つの街の
道しるべせん

その意味は、

父上、どうか少しだけお待ちください。
私を思いながら、暗いあの世の道を
迷っておられることでしょう。
私もすぐにあとを追い、
六道の道案内をいたします。

というものだった。

歌の下には、こう記されていた。

相模国の住人、本間九郎資貞の嫡男、
源内兵衛資忠。年18歳。
正慶2年(元弘3年・1333年)2月2日、
父の遺体を枕として、同じ戦場で命を終えた。

父と子の深い愛情、主人と家臣との忠義が、この二首の歌に表れていた。

3人の骨は土の下で朽ちても、その名は高い空の上まで届くように、後の世へ残った。

石の上に残された歌を見る者は、その後も皆、感動の涙を流したという。


八万の幕府軍が赤坂城を包囲する

『太平記』では、阿曾弾正少弼は8万騎余りの軍勢を率いて赤坂城へ押し寄せたという。

城の周囲20町余り(約2.2km余り)を、雲や霞のような大軍で包囲したと本文は描く。

その声は山を動かし、大地を震わせ、青い空さえ裂けるかと思われるほどだった。

赤坂城は、三方を高い崖に囲まれていた。

その姿は、大きな屏風を立てたようだった。

南側だけが平地につながっていたが、そこには広く深い堀が掘られ、崖の上には城壁が築かれていた。

さらに城壁の上には櫓が並んでいる。

どれほど力が強く、動きの速い者でも、簡単には攻め込めそうにない城だった。


幕府軍の強攻

それでも幕府軍は、あまりに大勢だったため、城を侮っていた。

兵たちは盾からはみ出すほど前へ進み、敵の矢が飛んでくる場所へ出た。

堀の中へ走り下り、崖を登ろうとした。

すると城壁の内側から、弓の名手たちが十分に狙いを定め、矢を射かけた。

『太平記』は、1度攻撃するたび幕府軍に500人、600人もの死傷者が出たと記す。これも実数として断定せず、激戦を強調する本文上の数字として読む。

それでも幕府軍は損害を気にせず、新しい兵を次々と入れ替え、13日間にわたって攻撃を続けた。

しかし、城兵たちは少しも弱ったようには見えなかった。


吉川八郎、水の秘密を見抜く

幕府軍に、播磨国の武士である吉川八郎がいた。

吉川は大将の前へ出て言った。

「この城を力だけで攻めても、簡単には落とせません。

楠木正成は、この1、2年の間、和泉国と河内国を支配し、多くの食料を城へ運び込んでいるはずです。

兵糧も、すぐには尽きないでしょう。

しかし、よく考えると不思議なことがあります。

この城の三方は深い谷で、ほかの土地につながっていません。

残る一方は平地ですが、山から遠く離れています。

城内のどこに水があるようにも見えません。

それなのに、こちらが火矢を射ると、城兵は大量の水をかけて消しています。

近ごろ雨も降っていないのに、これほど水が豊富なのはおかしい。

おそらく南の山奥から、地中に水を通す管を埋め、城内へ水を引いているのでしょう。

人夫を集め、山の中腹を掘り切って調べてみてはいかがでしょうか」

大将も、

「確かに、そのとおりかもしれない」

と考えた。


地中の水道を発見する

幕府軍は多くの人夫を集め、城へつながる山の尾根を横一文字に掘った。

すると吉川の予想どおり、地面から2丈余り(約6m超)下に、水を通す管が埋められていた。

管の両側には石が積まれ、その上には木の板や瓦をかぶせてあった。

城から10町以上離れた場所(約1.1km以上)から、水を引いていたのである。

幕府軍は、その水路を切断した。


水を失った城兵

水が止められると、城内はたちまち水不足になった。

兵たちは喉の渇きに耐えられなくなった。

4、5日の間、草の葉についた朝露をなめた。

夜の湿気を含んだ地面へ体をつけ、少しでも水分を得ようとした。

雨が降ることを待ったが、雨はまったく降らなかった。

幕府軍は、

「今こそ攻め時だ」

と考え、休む間もなく火矢を射かけた。

正面にあった2つの櫓が、ついに焼け落ちた。

ここで『太平記』は、城兵が「水を飲まないまま12日になった」と記す。文字どおりの史実として受け取るより、籠城側の極端な渇水を強調する軍記的表現として読むのが安全である。

体力はすっかり尽き、もう城を守る方法がなかった。


城兵、最後の突撃を決意する

城兵たちは言った。

「1度死んだ者が、生き返ることはない。

どうせ死ぬ命ならば、まだ少しでも力が残っているうちに城から打って出よう。

敵と刺し違え、思う存分戦って死のうではないか」

城門を開き、全員で同時に突撃しようとした。

すると、城を守る中心人物だった平野将監入道が、高い櫓から走り下り、兵たちの袖をつかんで止めた。


平野入道の説得

平野入道は言った。

「しばらく待て。軽率な行動をしてはならない。

我々は今、力を使い果たし、喉も渇き、疲れ切っている。

この状態で城を出ても、自分が望むような強い敵と戦うことさえ難しい。

名もない下働きや雑兵に生け捕りにされ、恥をさらすことになれば、あまりにつらいではないか。

よく考えてみれば、吉野城も金剛山の城も、まだ戦い続けている。

天下の勝敗は、まだ決まっていない。

西国の反乱も静まっていない。

そのような時に降伏してきた者を、幕府もほかの人々への見せしめとして殺すことはないだろう。

いずれにしても、今の我々には勝ち目がない。

それならば、1度策を用いて降伏し、命を守ろう。

そして、再び時が来るのを待つべきだ」

城兵たちは、皆この意見に賛成した。

その日の討ち死には取りやめとなった。


降伏の交渉

翌日、戦いが続いている最中、平野入道は高い櫓へ上がり、大声で言った。

「幕府軍の大将へ申し上げたいことがある。しばらく戦いを止め、話を聞いてほしい」

幕府軍の大将は、渋谷十郎を使者として送り、事情を尋ねさせた。

平野入道は城門へ出て、渋谷に言った。

「楠木正成が和泉・河内の両国を従え、大きな力を持っていた時、我々は目の前の危険を逃れるため、心ならずも朝廷方へ加わりました。

本当は京都へ行き、その事情を幕府へ申し上げようとしていました。

しかし、その前に大軍で城を攻められました。

武士である以上、攻められれば矢の1本も射ずに降伏することはできません。そのため、これまで戦ったのです。

その罪だけでも許していただけるならば、我々は抵抗せず、首を差し出す覚悟で降伏します。

もし許されないというのであれば、仕方ありません。

最後の一矢を放ち、幕府軍の陣中に遺体をさらすまで戦います。

このことを詳しく大将へお伝えください」


幕府軍が示した降伏条件

話を聞いた幕府軍の大将は、大いに喜んだ。

平野入道たちの領地をそのまま認めるという命令書を作った。

さらに、

「特に大きな働きをした者には、すぐに恩賞を与える」

と返事をし、戦いを止めた。

『太平記』では、城内に立てこもっていた兵は282人だったという。

彼らは翌日には死ぬかもしれない命のことよりも、今すぐ水を飲みたいという苦しさに耐えられず、全員が降伏して城を出た。


降伏者を拘束して六波羅へ送る

降伏した者たちの身柄は、長崎九郎左衛門尉が受け取った。

長崎は、

「降伏者を扱う決まりである」

として、彼らの鎧、太刀、短刀をすべて奪った。

さらに両腕を後ろへ回して厳しく縛り、六波羅探題へ送った。

降伏した兵たちは、

「このような扱いを受けるのならば、城で討ち死にするべきだった」

と後悔した。

しかし、もうどうすることもできなかった。


282人全員が処刑される

何日かして降伏者たちが京都へ到着すると、六波羅は彼らを牢へ入れた。

そして、

「これは今回の合戦の事始めである。

軍神に祭り、ほかの者たちへの見せしめにせよ」

と命じた。

本文では、282人は六条河原へ引き出された。

1人残らず首をはねられ、その首は人々に見えるようにさらされた。

幕府軍の大将は本領安堵の文書を与え、功績のある者には恩賞も与えると返答して降伏を受け入れていた。それにもかかわらず、『太平記』では降伏者は後に全員処刑されたとされる。


降伏しないと決めた朝廷軍

この出来事を聞くと、吉野城や金剛山に立てこもる朝廷方の兵たちは、獅子が歯をかみ鳴らすように激しく怒った。

「幕府へ降伏しても殺されるのならば、最後まで戦うほかない」

もはや、降伏しようと考える者は1人もいなくなった。


『太平記』の批判

昔から、

敵の罪を許すことも、大将の大切な作戦である。

といわれている。

しかし六波羅探題は、そのことを理解していなかった。

本領安堵や恩賞を示して降伏を受け入れた者たちを、あとから全員処刑したのである。

世間の人々は皆、

「六波羅の判断は間違っている」

と批判した。

『太平記』の作者は、この苛烈な処分を批判し、その後まもなく六波羅探題と鎌倉幕府が滅びたことを因果応報の文脈で結びつける。

情けをかけることは、相手のためだけではない。

やがて自分にも、その結果が返ってくる。

力を持つ者があまりにもおごり、自分の思いどおりに人を扱えば、武運も早く尽きる。

因果応報の道理を知るならば、十分に心へとどめておくべき出来事だった。

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