峯村部材店主

太平記 33巻

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巻第三十三では、文和4年(1355年)の京都市街戦と足利直冬方の退却から始まり、延文2年(1357年)の北朝皇族の帰京、公家社会の窮乏と武家の奢侈、延文3年(1358年)の足利尊氏の死へ進む。

後半では、『太平記』が崇徳上皇の怨霊によるものとして語る細川繁氏の死、正平14年/延文4年(1359年)の筑後川の戦いを描き、最後に時間を正平13年/延文3年(1358年)へ戻して、新田義興の矢口渡での最期と怨霊譚を語る。

巻第三十三|目次

※読み方:『太平記』本文を第一に現代語訳し、一般的な歴史叙述や人物資料と異なる箇所は注記して区別した。尺・寸・丈・町・間・半時などは原単位を残し、現代のおおよその値を併記する。「里」は時代・地域で長さが一定しないため原則としてkmへ単純換算しない。数万騎などの巨大な軍勢数や、神託・怨霊・雷・巨大な鬼などの怪異は、史実と断定せず『太平記』が語る物語として読む。巻第三十三には本文内部で日付の前後や一般的な史料との食い違いがあるため、該当箇所では本文の記述を消さずに違いを示した。


274. 京都の市街戦――二宮兵庫助、桃井を名乗って死す


焼き払われる京都

神南の戦いで山名軍が敗れると、足利尊氏は比叡山を下り、『太平記』本文では3万騎余りの軍勢を率いて東山へ陣を置いた。

仁木頼章は丹波・丹後勢3000騎余りで嵐山へ入った。

京都南部から淀・鳥羽・赤井・八幡までは、足利直冬・南朝方の陣となった。

東山・西山・山崎・西岡は足利尊氏方の陣となった。

神社・寺院は陣地の盾へ使うため破壊された。

山林の木や竹は、薪や櫓の材料として伐り尽くされた。

足利尊氏方は、敵が横から攻める時に見通せるよう、京都東側から市街を焼いた。

足利直冬方も、敵を雨露へさらして人馬を疲れさせようと、東寺側から白河方面を焼いた。

残った皇族・公卿の邸宅も、人がいなくなり、狐のすみかとなった。


細川清氏へ挑む武者

文和4年(1355年)2月8日、細川清氏が1000騎余りで四条大宮へ進み、北陸勢800騎余りと1日中戦った。

夕方、双方が退こうとした時、紫の母衣を着けた40歳ほどの武者が1騎で近づいた。

「今日の戦いで、進む時には兵の先に立ち、退く時には最後を守ったのは、細川清氏殿でしょう」

「私は桃井直常です」

「清氏殿と戦い、日ごろ聞く力を見てみたい」

と名乗った。

清氏は挑戦されると我慢できない人物だった。

1騎で引き返した。

2人は近づき、組み合った。

清氏は、

「言葉ほど桃井の力は強くない」

と感じた。

相手の兜を引きちぎり、鞍へ押しつけ、首を切った。


桃井ではなく二宮兵庫助

細川清氏は首と母衣を持たせ、足利尊氏へ、

「桃井直常を討ちました」

と報告した。

明かりの下で首を見ると、年齢は似ていたが、桃井本人には見えなかった。

降伏した八田左衛門太郎を呼び、確認させた。

八田は一目見るなり、涙を流した。

「これは越中国の住人、二宮兵庫助の首です」

「先月、敦賀の気比神宮で、

『京都の戦いで仁木・細川へ会えば、自分は桃井直常と名乗り、組み合って勝負する』

と誓約書を書いていました」

母衣を調べると、

越中国の住人・二宮兵庫助、戦場へ屍をさらし、末代へ名を残す。

と書かれていた。

昔の斎藤実盛は白髪を染めて敵へ向かった。

今の二宮は名を変え、命を捨てた。

人々は、その勇気を惜しんだ。


朝倉勢と細川・佐々木勢

同じ文和4年(1355年)2月15日、東山の足利尊氏方が上京へ入り、兵糧を取っているとの情報が入った。

足利直冬方の苦桃兵部大輔・尾張左衛門佐は、500騎余りで東寺を出て、一条・二条方面へ二手に分かれた。

これを見て細川清氏・佐々木黒田判官ら700騎余りが東山から下った。

朝倉下野守が50騎ほどで後陣を進んでいた。

細川・黒田勢は、

「追い離して討とう」

と攻めた。

朝倉は慌てず、馬を東へ向けて敵を待った。


南部六郎の奮戦

直冬方300騎余りが朝倉を救うため引き返した。

六条付近で七、8度戦った。

尊氏方は何度も追い立てられた。

しかし南部六郎という名高い勇士が、1騎で踏みとどまった。

引き返しては敵を斬り、八方へ戦った。

直冬方の兵は進めなくなった。


金乗坊が南部へ組みつく

直冬方には、

  • 三村首藤左衛門
  • 後藤掃部助
  • 西塔金乗坊

ら勇士5人がいた。

南部へ近づいた。

南部は笑い、

「立派な人々だ。

胴を斬り、太刀の切れ味を見せてやろう」

と5尺6寸(約1.7m)の太刀を振った。

金乗坊が隙なく組みついた。

南部は怪力で、金乗坊を持ち上げた。

しかし投げることはできず、築地へ押しつけた。

馬が倒れ、2人は組み合ったまま地面へ伏した。

ほかの4人が駆けつけ、南部を討った。

金乗坊は首を取り、槍先へつけて戻った。

この戦いは双方が引き分けた。


七条河原の戦い

同日の夕方、仁木義長・土岐頼康勢3000騎余りが七条河原へ進んだ。両軍は七条河原の3町ほど(約330m)の範囲を東西へ追いつ追われつしながら戦った。

桃井直常・赤松氏範・原・蜂屋勢2000騎余りと、20回余り戦った。

桃井軍の半数以上が負傷し、新手と替わるため東寺へ退いた。

土岐の桔梗一揆100騎余りが追撃した。

退く者は斬られ、城へ入ろうとする者は逆茂木へ遮られた。

東寺は今にも落ちるように見えた。


赤松氏範の反撃

赤松氏範は、負傷して歩けない家臣・小牧五郎左衛門を馬上から引き上げていた。

直冬が櫓の上から、

「引き返して味方を助けよ」

と扇で招いた。

氏範は小牧を抱え、城内へ投げ入れた。

5尺7寸(約1.7m)の太刀を持ち、1騎で引き返した。

追ってくる敵の兜や胴を次々と斬った。

桔梗一揆は耐えられず、七条河原へ退いた。


那須五郎の討ち死に

文和4年(1355年)3月13日、仁木・細川・土岐・佐々木・佐竹・武田・小笠原ら、足利尊氏方7000騎余りが七条西洞院へ攻めた。一手は但馬・丹後勢と、もう一手は斯波高経勢と戦った。

寄手が押し立てられて苦しくなると、足利尊氏は、

「那須五郎を向かわせよ」

と命じた。

那須五郎は出陣前、故郷の母へ、

「討ち死にしたならば、親より先に死ぬことをお許しください」

と手紙を送っていた。

母は返事へ書いた。

「武士の家に生まれた者は、名を惜しみ、命を惜しまない」

「妻子や父母との別れを悲しんでも、家名と世間の嘲りを思い、命を捨てる」

「体や髪を傷つけず育ったことで、すでに孝行は果たした」

「今、正しい道を行い、名を後世へ残すことが孝行の完成である」

「今度の戦いでは命を軽くし、先祖の名を失ってはならない」

さらに、祖先の那須与一が屋島で扇を射た時に着けていたという薄紅の母衣を送った。

那須五郎は足利尊氏の命令を受けると、兄弟2人を含む一族・家臣36騎で敵中へ突入し、一歩も退かず全員討ち死にした。


尊氏方が東寺前へ陣を進める

那須の死によって敵が勢いづけば、危険な状況だった。

佐々木六角崇永と細川清氏が一手となり、七条大宮へ攻め抜けた。

両軍は半時ほど(約1時間)激しく戦った。

清氏が負傷し、討たれそうになると、崇永がさらに前へ出て守った。

そこへ土岐桔梗一揆500騎余りが新手として進んだ。

足利直冬方は盾の陰を捨て、半町ほど(約55m)退いた。

佐々木方の旗指し・堀次郎は、回り込む時間さえ惜しいとばかりに、竿ごと旗を敵の盾内へ投げ込み、自分も盾を乗り越えて入った。その後、佐々木・土岐勢が左右から盾内へ入り、3000騎余りを集め、向かい城のように陣を固めた。

東寺の直冬軍は気力を失い、城門外へ出なくなった。


仁木頼章は戦場へ出ない

京都の戦いは何日も続き、勝敗は毎日入れ替わった。

しかし当時の管領・仁木頼章は、1度も桂川より東へ出なかった。

嵐山から戦況を見下ろし、

  • 味方が勝ちそうなら喜び
  • 負けそうなら顔色を変え、逃げ支度をする

だけだった。

同じ陣にいた備中守護・飽庭だけが見かね、自軍で何度も戦った。


直冬軍が京都を退く

直冬方は、

  • 山陰道を仁木頼章
  • 山陽道を足利義詮
  • 東山道・北陸道を足利尊氏

にふさがれた。

開いているのは河内路だけだった。

兵糧運送も絶え、援軍も来なかった。

戦いは互角に見えても、足利尊氏軍は日ごとに増えた。

「最後には勝てない」

として、文和4年(1355年)3月13日の夜、足利直冬は各国の大将とともに、

  • 東寺
  • 鳥羽

の陣を捨て、

  • 八幡
  • 住吉
  • 天王寺
  • 堺浦

へ退いた。

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275. 石清水八幡の神託――父を討つ直冬へ勝利なし

八幡・住吉・天王寺へ退いた足利直冬方の兵を数えると、『太平記』本文では5万騎余りが残っていた。

さらに伊賀・伊勢・和泉・紀伊勢が集まるとも伝えられた。

諸将は、

「軍勢を散らさず、もう1度戦うべきではないか」

と議論した。

足利直冬は言った。

「戦うべきか退くべきかは、人間の浅い考えだけで決められない」

「石清水八幡宮で神楽を奉納し、神託によって戦いの吉凶を知ろう」

さまざまな幣帛や供物を奉り、神託を待った。

鼓や鈴の音が夜の月へ響き、人々は信心を深めた。

神がかりした巫女は、巧みな言葉でさまざまに語った後、1首の神歌を繰り返した。

父母を守る神であるから、
親に背く者の供え物を、どうして受けるだろうか。

神は、その歌を2度、3度詠んだ後、巫女から去った。

諸将は、

「足利直冬殿を大将として、父である足利尊氏殿と戦うことは、今後も成功しない」

と悟った。

東山道・北陸道勢は馬を走らせ、自国へ帰った。

山陰道・西国勢も船で落ちていった。

軍勢が勇敢であっても、勝敗は総大将によって決まる。

周の武王は父・文王の木像を軍へ立て、殷を討った。

漢高祖は義帝を尊び、秦を滅ぼした。

足利直冬は父・足利尊氏を攻めようとしている。

天が、どうして許すだろうか。

朴翁が以前、インドと中国の故事を引き、

「直冬方が勝つことは難しい」

と批判したことは、道理だった。

東寺から足利直冬方が退いた翌日、東寺の門には、敗れた武将たちを嘲る落書が立てられた。『太平記』は3首を伝えている。

兎に角に 取立てにける 石堂も
九重よりして 又落ちにけり

石堂頼房の名と「石堂(石塔)」を掛け、「せっかく取り立てた石堂も、九重の都からまた落ちていった」とからかった歌である。

深き海 高き山名と 頼むなよ
昔もさりし 人とこそ聞け

「深い海」「高い山」に山名の名を掛け、山名時氏を頼りにしてはいけない、以前にも退いた人だと聞いている、と皮肉った。

唐橋や 塩の小路の 焼けしこそ
桃井殿は 鬼味噌をすれ

唐橋・塩小路の焼失と桃井直常の名を使った言葉遊びである。最後の「鬼味噌」まで含め、敗軍の武将を嘲笑する当時の落書として『太平記』が載せている。

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276. 賀名生から帰洛した三上皇――出家して静寂へ入る

足利直冬・斯波高経・山名時氏・桃井直常らは、諸国から攻め上った。

しかし東寺・神南の戦いへ敗れ、それぞれの国へ逃げ帰った。

それでも目的を果たそうと、なお計画を続けた。

京都は、ひとまず平静となった。

しかし遠国では、なお戦いがやまず、人々は武器と兵糧を用意し続けた。

持明院統では、

  • 光厳上皇(『太平記』本文の「本院」)
  • 光明上皇(同「新院」)
  • 崇光上皇(同「主上」。すでに退位していたため、ここでは上皇とする)
  • 直仁親王(同「春宮」・旧皇太子)

が南朝方に連れ去られていた。『太平記』本文は「2年前の春から」と語るが、実際に4人が南朝方へ連行されたのは正平7年/観応3年(1352年)であり、延文2年(1357年)まで約5年が経過している。

京都では、すでに新しい天皇が即位していた。

そのため、

「これ以上、山中へ置くことは、あまりにも気の毒である」

として、『太平記』は延文2年(1357年)2月に4人全員が賀名生から出され、京都へ戻されたと記す。

※史料との違い:一般的な歴史整理では、光明上皇は文和4年(1355年)8月に先に帰京し、延文2年(1357年)2月に光厳上皇・崇光上皇・直仁親王が帰京したとされる。以下では『太平記』の叙述を残しつつ、人物名を明確にする。

崇光上皇は、亡き上皇が住んでいた伏見殿へ移った。

しかし参仕する公卿は1人もいなかった。

庭には草が茂り、桐の落葉を踏み分ける道もなかった。

軒には苔が深く生え、月さえ人の袖を濡らすような寂しさだった。

光厳上皇(本院)は観応3年(1352年)8月8日、河内の行宮で出家していた。

『太平記』本文では41歳で、法名を勝光智といった。

帰洛後、光厳上皇(本院)・光明上皇(新院)は、どちらも夢窓国師の弟子となった。

光厳上皇は嵯峨奥の小倉山麓に静かな庵を結んだ。

光明上皇は伏見の大光明寺へ住んだ。

どちらも人目の少ない寂しい暮らしだった。

釈迦は王宮を出て檀特山へ入り、善施太子も王位を捨てて布施の行を行った。

十六の大国を支配した王でさえ、捨てる時には位を塵よりも軽く見た。

まして日本は、インドや中国から見れば小さな国である。

天下を統一し、平穏な世を楽しんだとしても、大国の王位には及ばない。

光厳・光明の2上皇は、この道理を悟り、憂いをきっかけに世を捨てた。

身だけでなく心も軽くなり、

  • 小さな庵へ掛かる雲
  • 座前を照らす月

を禅の友として、かえって安らかに暮らした。

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277. 飢えた公家一家、思出川へ身を投げる

20年余りに及ぶ戦乱によって、

  • 内裏
  • 上皇御所
  • 皇族御所
  • 皇后御所
  • 公卿・殿上人の邸宅
  • 官人たちの宿所

の多くが焼失した。

わずかに二、3割が残っていたものも、東寺をめぐる戦いで再び焼かれた。

京都・白河では、武士の館以外、民家1軒さえ続いていなかった。

荒野には草が茂り、白骨が重なった。

かつて都だった跡さえ見分けられなくなった。

高貴な公家や女房たちの中にも、

  • 桂川の水底へ身を沈める者
  • 遠国へ逃れ、農民へ身を寄せる者
  • 田舎の粗末な庵へ隠れ住む者

がいた。

着る物は薄く、夜明けの霜は冷たかった。

炊事の煙が絶え、飢え死にする人も多かった。


上北面の兵部少輔

特に哀れな話があった。

ある御所の上北面で、兵部少輔某という男がいた。

以前は富み栄え、楽しみは身に余るほどだった。

しかし戦乱の後、財産はすべて奪われた。

家臣・親族も散り散りになった。

残ったのは、

  • 7歳の娘
  • 9歳の息子
  • 長年連れ添った妻

だけだった。


丹波へ落ちる

京都には頼れる者もなく、道端で物乞いをすることも恥ずかしかった。

妻は娘の手を引き、夫は息子の手を引いた。

泣きながら丹波へ向かった。

頼る相手もなく、どこへ行けばよいかも分からなかった。

4、5町(約440〜550m)歩いては野原で夜を明かし、一歩進んでは木の根元へ伏して泣いた。

夢の中を歩くように、10日ほどかけ、丹波国井原岩屋前を流れる思出川へ着いた。


疲れを乞う夫

京都を出てから、道へ落ちた栗や柿を拾い、命をつないだ。

全員が疲れ果て、足も立たなくなった。

妻と子は川辺へ倒れた。

夫は近くの屋敷へ行き、中門前で、

「少し食べ物をお恵みください」

と願った。


夜討ちの間者と疑われる

屋敷から侍や下人10人余りが走り出た。

「警戒中に、見慣れない者が物乞いをするのは怪しい」

「夜討ちや強盗のために様子を見ている者か、南朝の回状を持つ使者だろう」

夫は手足を縛られ、2時ほど(約4時間)厳しく拷問された。


妻子は夫が殺されたと思う

妻と子は事情を知らず、川辺で夫を待っていた。

通りかかった人が立ち止まり、

「京都の人らしい40歳ほどの男が、物乞いをしたため、あの屋敷で拷問されています」

「もう殺されたかもしれません」

と話した。


3人が川へ身を投げる

妻と2人の子は泣いた。

「今後、誰に手を引かれ、誰を頼りとして命をつなげばよいのか」

「夫や父の後に死ねば、死後の旅まで1人で迷う」

「少し待ってください。私たちも一緒に参ります」

母と2人の子は手を取り合い、思出川の深い淵へ身を投げた。


解放された夫

夫は、どれほど拷問されても、本当に罪がないため何も白状しなかった。

屋敷の者は、

「それならば許せ」

と解放した。

夫は拷問へ懲りることなく、飢えた妻子を思い、別の家へ行って果物をもらった。

川辺へ戻ると、

  • 3人の草履

だけが残り、人はいなかった。


妻子の遺体を発見する

夫は慌て、周囲を探した。

渡し場より少し下の堰へ、何かが引っ掛かっていた。

見ると、妻と2人の子が、互いに手を取り合ったまま流れ着いていた。

夫は遺体を引き上げ、泣き悲しんだ。

しかし体は冷たくなり、色も変わっていた。

夫は妻子を抱き、元の淵へ飛び込んだ。

4人とも亡くなった。

今でも村人や旅人は、この川を通る時、話を聞き、涙を流すという。

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278. 公家と武家の栄枯逆転――豪華な茶会と賄賂政治

公家の人々は貧困し、谷や溝へ倒れ、道をさまよった。

一方、武家の富と権力は、以前の100倍となった。

身には錦や刺繍をまとい、食事には最高の珍味を並べた。

鎌倉幕府の北条氏が天下を支配した時代、諸国の守護は、

  • 大番催促
  • 謀反人の逮捕
  • 殺害人の逮捕

など、大犯三箇条以外には、国政へ関与しなかった。

しかし現在は、大事も小事も守護の判断だけで決められた。

守護は1国を思うままに支配し、

  • 地頭・御家人を家臣のように使う
  • 寺社・公家の領地を兵糧料所として押収する

ようになった。

権威は、かつての六波羅探題や九州探題に似ていた。


佐々木道誉らの豪華な茶会

京都では佐々木道誉をはじめ、在京大名が集団を作り、日々茶会を開いた。

日本・中国の名宝を集め、100席もの座敷を飾った。

座席には豹や虎の皮を敷いた。

金襴・緞子を裁って衣を作り、参加者が並んだ。

その姿は、荘厳された仏たちが光を並べて座るようだった。


豪華な料理

『太平記』は、異国の諸侯が宴を開く時には、1丈四方(1辺約3m)の範囲へ料理を並べるという。

それに負けまいとして、5尺四方(1辺約1.5m)の大きな膳へ、

  • 10種類の精進料理
  • 100種類の点心
  • 魚・鳥
  • 甘味・酸味・苦味・辛味の菓子

などを色とりどりに並べた。


巨額の賞品

食後に酒を三献(酒を3度すすめる形式)飲み、茶の勝負を行った。

賞品は100点以上あり、そのほかにも追加の景品があった。

最初の主催者は、奥染物という高級な染物を、63人それぞれの前へ100反ずつ積んだ。ここでいう「反」は布を数える当時の単位である。

次は小袖10着ずつを置いた。

次は沈香100両(「両」は当時の重量単位)と麝香3個ずつを置いた。

次は砂金100両ずつを金糸の花で飾った盆へ入れた。

次は新しい鎧1領、鮫皮を用いた白太刀、金で飾った刀、虎皮の火打袋を配った。

その後の主催者20人余りも、

「人より優れた物を出そう」

と競い、山のように景品を積んだ。

『太平記』は、その費用が「幾千万」になるか分からないほどだった、と誇張を交えて語る。


芸人へ投げ捨てられる財宝

参加者が景品を持ち帰るならば、まだ財産の交換となったかもしれない。

しかし景品は、

  • 遁世者
  • 田楽師
  • 猿楽師
  • 遊女
  • 白拍子

へ与えられた。

貧しい者や孤児を助けるためでもない。

仏へ供え、僧へ施すためでもない。

金を泥へ捨て、玉を淵へ沈めるのと同じだった。


博奕による浪費

茶会の後には博奕をした。

1勝負に5貫、10貫を賭けた。貫は当時の貨幣単位であり、現代の円へ単純換算はしない。

1晩で5、6千貫負ける者はいても、100貫勝つ者はいなかった。

勝った金も芸人や遊女へ配られたためだった。


財源は寺社領と民衆からの搾取

この武士たちは、地面から財産が湧き、空から金が降ってきたのだろうか。

そうではない。

  • 寺社・公家の領地を奪う
  • 百姓の財産を取り立てる
  • 訴訟当事者から賄賂を集める

ことによって得た金だった。

昔の役人は賄賂を取らず、賭博もせず、囲碁・双六まで厳しく禁じた。

現在の武士は政治を放置した。

訴える者が来ても、

「酒宴中だ」

「茶会中だ」

として会わなかった。

人の悲しみも世間の批判も気にせず、長時間遊び狂った。

前代未聞の悪習だった。


直義への贈位

延文3年(1358年)2月12日、亡き足利直義へ従二位が贈られた。

直義はかつて国家を支える重要な武将だったためである。

出家者が死後、このような官位を贈られた例はないと、人々は語った。

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279. 足利尊氏の死――無常の敵を防ぐ兵はなし

延文3年(1358年)4月20日、足利尊氏の背中へ大きな腫れ物ができ、体調が悪化した。

※没日の違い:『太平記』本文は足利尊氏が4月29日寅の刻に亡くなったと記す。一方、一般的な人物資料では没日は4月30日とされる。以下では『太平記』の日付を残し、一般的な歴史上の日付と区別する。

内科・外科の医師が数多く集まった。

古代中国の名医・倉公や華佗の術を尽くすように治療した。

さまざまな薬を用いたが、効果はなかった。

陰陽師や高僧も集まり、

  • 鬼神を鎮める祭
  • 泰山府君祭
  • 星供
  • 冥道供
  • 薬師十二神将法
  • 愛染明王法
  • 一字文殊法
  • 不動明王法
  • 延命法

などを行った。

しかし病は日ごとに重くなり、回復の望みは薄くなった。

御所の男女は息をのみ、側近たちは涙を抑え、寝食を忘れて看病した。

足利尊氏の体は次第に衰えた。

『太平記』本文では4月29日寅の刻(午前3〜5時ごろ)に、54歳で亡くなった。

親しい者との別れの悲しみだけではなかった。

国家を支える柱が折れたため、

「天下は今後どうなるのか」

と、人々は限りなく悲しんだ。

1日を置き、衣笠山麓の等持院へ葬った。

葬儀では、鎖龕を天龍寺の龍山和尚、起龕を南禅寺の平田和尚、奠茶を建仁寺の無徳和尚、奠湯を東福寺の鑑翁和尚、下火を等持院の東陵和尚が務めた。

足利尊氏は25年間、武将として向かう敵を次々と従わせた。

しかし無常という敵を防ぐ兵はなかった。

60余州を治め、命令へ従う者は数多くいた。

しかし死の世界へ同行する者はいなかった。

体は夕空へ立ち上る数片の煙となり、骨は墓塔の下の一握りの塵となった。

50日ほど後、日野忠光を勅使として、足利尊氏へ従一位・左大臣が贈られた。

足利義詮は宣旨を開き、3度拝礼した。

涙を抑えながら歌を詠んだ。

帰るべき
道しなければ
位山
上るにつけて
濡るる袖かな

意味は、およそ次のようになる。

亡き父が戻ってくる道はない。
それなのに死後、官位の山をさらに上っていく父を思えば、
涙で袖が濡れる。

勅使は感動し、歌を天皇へ奏上した。

後に『新千載和歌集』の哀傷歌へ入れられた。

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280. 新待賢門院と梶井宮の死

『太平記』本文では、延文4年(1359年)4月18日、吉野の新待賢門院(阿野廉子)が亡くなったと語る。

※年代:原文は前章から「同4月18日」と続けるため年次が分かりにくい。尊胤法親王の没年と次章の時間軸から、この章は延文4年(1359年)の出来事として読む。ただし一般的な人物資料では、阿野廉子の没日は1359年4月29日とされる。『太平記』本文の4月18日を史料上の日付へ勝手に直さず、両方を示す。

新待賢門院は後村上天皇の母であったため、天皇をはじめ、百官すべてが悲しんだ。

宮中の月を見ても涙を流し、庭へ置く露にも心を砕いた。

人々が悲しみの涙を拭う間もなく、同じ延文4年(1359年)5月2日には、梶井二品親王・尊胤法親王も亡くなった。この日は一般的な人物資料とも一致する。

比叡山の僧侶の悲しみ、皇族の嘆きは比べるものがなかった。

どちらも国家にとって大きな喪失だった。

知る者も知らない者も、

「これから世の中はどうなるのか」

と、ひそかに語り合った。

京都・比叡山・南朝で悲しみが続いた。

朝廷の雲も、武家の煙も暗くなり、比叡山の雲まで悲しい色を見せた。

「今年(1359年)は、どのような年なのか。

高貴な方々が花のように散り、草葉の陰へ入られる」

僧侶も俗人も、男も女も、皆袖を涙で絞った。

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281. 崇徳上皇の怨霊――細川繁氏を討つ怪異

※読み方:以下は、細川繁氏の死を崇徳上皇の怨霊と結び付けて『太平記』が語る怪異譚である。現代の史実として「怨霊が死因だった」と断定するものではない。


九州の足利方が敗れる

延文4年(1359年)春、九州探題として置かれていた一色直氏・一色範光兄弟は、菊池武光へ敗れ、京都へ戻った。

そのため、

  • 少弐
  • 大友
  • 島津
  • 松浦
  • 阿蘇
  • 草野

まで、ほとんどが南朝方へ従った。

九州で足利方として残ったのは、畠山治部大輔が日向国六笠城へ立てこもるだけだった。


細川繁氏を九州へ送る

このまま放置すれば、足利尊氏の死へ勢いづいた菊池軍が京都まで攻め上るかもしれない。

幕府は、

「急いで討手の大将を送らなければならない」

と判断した。

幕府は、細川顕氏の子・細川繁氏を伊予守とし、九州の大将へ任命した。

繁氏は、まず讃岐へ下り、兵船と軍勢を集めた。


崇徳院の怨霊による病

延文4年(1359年)6月2日、細川繁氏は突然病気となり、『太平記』の叙述では狂乱した。

自ら叫んだ。

「私は崇徳上皇の御領地を奪い、軍勢の兵糧料所へした」

「そのため重病となった」

「天罰が8万4000の毛穴へ入り、五臓六腑を満たしている」

「冷たい風へ当たっても激しい炎のように熱い」

「冷たい水を飲んでも沸騰した湯のようだ」

「熱い。耐えられない。誰か助けてくれ」

繁氏は悶え、気を失った。

医師や陰陽師が近づこうとしたが、『太平記』では周囲4、5間(約7〜9m)が猛火のように熱く、誰も近づけなかったと語る。


幻の軍勢

病気となって7日目の午前6時ごろ、黄色い旗一流を掲げた、異様な甲冑の兵1000騎ほどが三方から現れ、鬨の声を上げた。

繁氏方の兵500人余りは、

「敵が来た」

と思い、大庭へ走り出た。

矢を射尽くすと、太刀・長刀で半時ほど(約1時間)戦った。

搦手から来たと思われる紅の母衣の武者10騎余りが、

  • 細川繁氏
  • 家臣の行吉掃部助

の首を取り、槍先へ掲げた。

「悪人は、すべて討ち取った。

よく見よ」

と叫んだ。

大手の敵700騎余りは3度鬨の声を上げ、空へ上り、雲へ乗って白峰方面へ飛び去った。


現実には誰も傷ついていない

怪異の兵が消えると、戦っていた者たちは、

  • 討たれたように見えた者も生きている
  • 負傷したように見えた者も無傷

だった。

人々が不思議に思い、互いに尋ね合っていると、『太平記』では細川繁氏と行吉掃部助だけが同時に亡くなったと語る。

濁った末世とはいえ、何とも不思議な出来事だった。

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282. 筑後川の戦い――菊池武光、少弐軍6万騎を破る

※年代と兵数:この章の前半には、『太平記』本文の中で「11月17日に日向へ出発した」とした後に「11月10日から三保城を攻めた」と記す、日付の前後矛盾がある。本文を勝手に並べ替えず、そのまま区別して示す。また、筑後川の決戦を『太平記』は8月16日夜半として語るが、現在の地域史では正平14年(1359年)8月6日夜半の大保原の戦いとして整理される。軍勢6万騎・8000騎などの数字も『太平記』本文上の記述として読む。


大友・少弐の反撃計画

少弐・大友氏は、菊池武光に九州を平定され、その命令へ従うことを不満に思っていた。

細川繁氏の九州下向を待ち、足利方として挙兵しようとしていた。

しかし『太平記』の怪異譚では、細川繁氏は崇徳上皇の怨霊に罰せられて病死した、と語られる。

少弐・大友は力を失い、すぐには行動できなかった。


菊池、日向へ向かう

日向国六笠城では畠山氏が、まだ南朝へ従わず立てこもっていた。

『太平記』本文では、菊池武光は5000騎余りで11月17日に肥後を出発し、日向へ向かった。

4日間、山や川、険しい道を進んだ。


大友氏の挙兵

少弐・大友氏は、表向き菊池の招集へ応じて豊後へ兵を集めた。

しかし菊池軍を日向へ通過させると、

「今こそ好機である」

として、大友氏時が豊後高崎城へ入り、反旗を翻した。

宇都宮氏は豊前路を、肥前刑部大輔は筑後路をふさいだ。

菊池軍は前後を敵へ囲まれ、籠の鳥、網の魚のように見えた。


菊池は六笠城を攻め続ける

しかし武光は24年間、九州諸氏の戦い方や能力を知り尽くしていた。

背後へ敵が旗を掲げたと聞いても、気にしなかった。

ところが『太平記』本文は、先ほどの11月17日出発より前の「11月10日」から矢合わせを始めたとも記す。畠山氏の子が守る三保城を、昼夜17日間で攻め落とし、300人余りを討った。

畠山父子は深山へ逃げた。

菊池軍が肥後へ戻ると、背後をふさいでいた敵は一戦もせず、各自の館へ帰った。


阿蘇・少弐の裏切り

その後、武光は少弐・阿蘇氏と連絡し、大友氏を討つため豊後へ向かった。

ところが少弐氏は突然、太宰府で挙兵した。

阿蘇大宮司も少弐方へ移り、小国へ9か所の城を築き、菊池軍の帰路をふさいだ。

武光は兵糧路を絶たれ、豊後へ進めず、太宰府へ向かうことも難しくなった。

まず肥後へ戻ることにした。

阿蘇氏の九城を一つずつ攻め落とした。

阿蘇方の精鋭300人余りが討たれ、阿蘇大宮司は命からがら逃げた。


少弐軍6万騎

正平14年/延文4年(1359年)7月、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(征西将軍宮)を大将として、新田一族・菊池一族が太宰府へ向かった。

少弐頼尚は、

  • 少弐忠資
  • 少弐頼泰
  • 朝井氏
  • 草野氏
  • 松浦党
  • 千葉氏
  • 島津氏
  • 渋谷氏
  • 松田氏
  • 河尻氏
  • 宅磨氏

らを集めた。

『太平記』によれば、軍勢は6万騎余りだった。

筑後川の渡しを前に置き、味坂荘へ陣を取った。


宮方8000騎

南朝方は懐良親王(征西将軍宮)を大将とし、

  • 洞院・竹林院・花山院・日野・葉室などの公卿
  • 岩松・世良田・田中・桃井・江田・山名・堀口・里見ら新田一族
  • 菊池武光・武信・武明
  • 赤星武貫
  • 名和長秋
  • 宇都宮・千葉・白石・大村・河野辺氏

らが従った。

『太平記』によれば、軍勢は8000騎余りだった。

高良山・柳坂・水縄山の3か所へ陣を取った。


少弐の起請文を旗へつける

同じ正平14年/延文4年(1359年)7月19日、菊池武光は5000騎余りで筑後川を渡った。

少弐軍は戦わず、30町余り(約3.3km)退いて大原へ陣を置いた。

間には深い沼があり、細道3か所は掘り切られ、細い橋だけが架けられていた。

菊池は少弐を恥じ入らせるため、旗の先へ1通の起請文をつけた。

『太平記』本文で「前年」とされる正平13年/延文3年(1358年)、少弐頼尚が一色氏に攻められた時、菊池武光が救援した。

その時、少弐は熊野牛王宝印の裏へ血で、

子孫七代まで、菊池へ弓を引き、矢を放つことはない。

と誓っていた。

今、その誓いを破ったことを、

  • 天へ訴え
  • 人々へ示す

ためだった。


菊池軍の夜襲

『太平記』本文では8月16日の夜半、菊池武光は夜襲へ慣れた300人を選び、山や川を越えて少弐軍の背後へ回した。

本隊7000騎余りは三手へ分かれ、筑後川沿いから敵陣へ近づいた。

背後の300人は敵陣内へ入り、3か所で鬨の声を上げ、十方へ走り、矢を射た。

狭い場所へ6万余騎が密集していた少弐軍は混乱した。

敵味方の区別もつかず、数時間、同士討ちを続けた。

少弐方の精鋭300人余りが、味方同士で討たれた。


第一陣・少弐忠資の死

夜が明けると、菊池二郎(一般に菊池武政とされる)が起請文を掲げ、1000騎余りで攻め入った。

少弐頼尚の嫡子・忠資は50騎余りで戦った。

父が破った誓いの罪が子へ及んだのだろうか。

忠資は敗れ、敵へ組みつかれて討たれた。

少弐方の勇士100騎余りが引き返し、敵と組み、刺し違えて死んだ。

宮方でも、菊池孫次郎武明ら主だった武士83人が同じ場所で討たれた。


第二陣の戦い

次に菊池武信・赤星武貫が1000騎余りで進んだ。

少弐頼泰ら2万騎余りが迎えた。

後には2万2000騎余りが入り乱れ、半時(約1時間)ほど戦った。

少弐方は赤星武貫を討ち、喜んだ。

宮方は少弐頼泰を捕虜とし、鬨の声を上げた。

双方の主だった武士が、多数討ち死にした。


征西将軍宮の負傷

第三陣では、

  • 征西将軍宮
  • 新田一族
  • 菊池武光

が3000騎余りで敵中へ突入した。

少弐・松浦・草野・山鹿・島津・渋谷勢2万余騎が左右から矢を浴びせた。

宮方が射すくめられて退く時、懐良親王(征西将軍宮)は3か所へ深手を負った。

公卿たちは宮を逃がすため、踏みとどまり、次々と討ち死にした。


新田一族の討ち死に

新田一族33人と1000騎余りが横から攻め、少弐軍の左右を追い払い、中央へ突入した。

敵へ組みつき、刺し違え、命の限り戦った。

  • 世良田氏
  • 田中氏
  • 岩松氏
  • 桃井氏
  • 堀口氏
  • 江田氏
  • 山名氏

らが討たれた。


菊池武光の17度の突撃

武光は、

  • 征西将軍宮が負傷した
  • 多くの公卿・新田一族が討たれた

のを見た。

「何のために命を惜しむのか」

「日ごろの誓いを違えず、従う兵は全員討ち死にせよ」

と励まし、先頭に立った。

少弐方は武光を狙い、雨のように矢を射た。

武光の鎧は、この戦いのために特別に用意したものだった。『太平記』によれば、3人張りの強弓を引く射手に草摺の小札を1枚ずつ試し射ちさせ、矢が貫かなかった堅い小札を1枚おきに交ぜて威していた。

どの矢も裏まで通らなかった。

馬が射られて倒れるたび、乗り換えて攻めた。

17度まで敵陣へ突入した。

兜を落とされ、こめかみを2太刀斬られた。

それでも少弐方の武藤新左衛門と組み合い、首を取った。

敵の兜をかぶり、敵馬へ乗り換え、再び敵中へ入った。


少弐軍の大敗

『太平記』本文では、卯の刻(午前6時ごろ)から酉の下刻(夕方)まで、ほとんど息をつく間もなく戦い、

  • 少弐忠資をはじめ一族23人
  • 主だった家臣400人余り
  • そのほか3226人

が討たれた。

少弐頼尚は太宰府へ退き、宝満岳へ上った。

宮方も勝利したが、戦死者は1800人余りだった。

菊池軍は負傷者を助けるため、肥後へ戻った。

その後、敵味方とも自国へ立てこもり、大きな戦いは、しばらく起こらなかった。

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283. 新田義興、矢口渡で謀殺される

※年代:前章の筑後川の戦いは正平14年/延文4年(1359年)だが、この章は時間を1年戻し、正平13年/延文3年(1358年)の東国を描く。新田義興が矢口渡で亡くなった日は10月10日とされる。後半の怨霊・雷・巨大な姿などは、『太平記』が語る怪異・伝承として読む。


新田三将の潜伏

足利尊氏が亡くなった正平13年/延文3年(1358年)以後、九州は激しく乱れていた。

東国も完全には静まっていなかった。

  • 新田義興
  • 弟の新田義宗
  • 脇屋義治

の3人は、この3、4年間、越後国へ城を構え、国の半分ほどを従えていた。新田義宗は義興の弟、脇屋義治は脇屋義助の子で義興の従弟にあたる。


東国からの誘い

武蔵・上野の武士から、

「二心なく味方する」

という連署の誓約書が届いた。

「3人のうち1人、東国へ来てください。

大将として義兵を挙げます」

との申し出だった。

義宗・義治は慎重な人物だった。

「この時代の人の心は、簡単には信用できない」

として、受け入れなかった。

しかし義興は気が早く、

「忠功で人に先んじたい」

と常に考えていた。

深く考えず、家臣100人余りを旅人のように見せ、ひそかに武蔵国へ入った。


義興の勢力が広がる

以前、新田義貞へ忠義を尽くした者や、畠山道誓(畠山国清)へ恨みを持つ武士が、ひそかに新田義興へ連絡した。

義興の勢力は上野・武蔵の間で少しずつ広がった。

秘密にしても、

  • 兄が弟へ話す
  • 子が親へ知らせる

うちに、鎌倉の足利基氏・畠山道誓(畠山国清)へ知られた。


義興を討てない畠山道誓

畠山道誓は、寝食を忘れて対策を考えた。

大軍を送っても、義興は国内の味方へ紛れ、行方を消した。

500騎、300騎で夜襲しようとしても、義興は簡単に蹴散らし、包囲を突破した。

「千変万化し、人間の技とは思えない」

といわれた。

畠山は、正面から討つことを諦めた。


竹沢右京亮の買収

畠山は竹沢右京亮を呼び、ひそかに話した。

「あなたは武蔵野の戦いで義興へ従い、忠功を立てた」

「義興も、その旧交を忘れていないだろう」

「義興をだまして討てる者は、あなた以外にいない」

「どのような計略でもよい。

義興を討ち、基氏殿へ首を差し出せ」

「恩賞は望みどおりに与える」

竹沢は欲が深く、世間の批判も昔の恩も気にしない人物だった。

「まず幕府の命令へわざと背き、処罰されて追放された姿となります」

「その後、義興へ近づきましょう」

と計画した。


偽りの処罰

翌日から竹沢は遊女を集め、昼夜酒宴を行った。

仲間20、30人を呼び、10日余り賭博を続けた。

畠山は、わざと怒った。

「法令を破る罪は重大である」

「1人を処罰することは、多くの者を助けるためである」

竹沢の所領を没収し、追放した。

竹沢も、

「基氏殿へ仕えなくても、何とか生きていける」

と大声で言い、領地へ帰った。


義興へ接近する

数日後、竹沢は義興へ使者を送った。

「父は元弘の鎌倉合戦で、新田殿へ仕えて忠功を立てました」

「私も武蔵野の戦いで、義興殿へ従いました」

「その後、仕方なく畠山へ従っていました」

「しかし新田方へ心を寄せていることが知られ、所領を没収され、殺されそうになりました」

「昔の不義をお許しいただければ、家臣となり、大事の時には命へ代わります」

初め義興は信じず、会おうとしなかった。


美女を贈って義興を惑わす

竹沢は信頼を得るため、京都から美しい上臈女房を呼び寄せた。

16、17歳ほどで、容姿・性格とも優れた女性だった。

竹沢は自分の養女とし、美しい装束と女房たちをつけ、義興へ贈った。

義興は、もともと女性を好む心が強かった。

深く愛し、1夜離れることさえ1000年のように思った。

隠れ家を替えようともせず、竹沢側の者へ警戒しなくなった。

褒姒へ笑わせるため周幽王が国を傾け、楊貴妃のため玄宗皇帝が世を失ったのも、このようなことだったのだろう。


竹沢を完全に信用する

竹沢は、

  • 衣服
  • 太刀
  • 武具

を義興と家臣へ贈った。

義興も家臣たちも、

「竹沢以上に頼りとなる者はいない」

と喜んだ。

半年ほど朝夕仕え、忠誠を示した。

義興は完全に信用し、

  • 反乱の計画
  • 味方の人数
  • 隠れ場所

など、すべてを竹沢へ話した。


13夜の暗殺計画

9月13日の夜は、名月だった。

竹沢は、

「月見の宴へ招き、酒席で義興を討とう」

と計画した。

一族・若党300人余りを屋敷付近へ隠した。

夕方、義興へ申し上げた。

「今夜は名月です。

私の粗末な家へお越しになり、草深い庭の月を御覧ください」

「家臣の皆様を慰めるため、白拍子も呼んでおります」

義興と家臣たちは喜び、出発しようとした。


女房の夢による警告

その時、贈られた女房から義興へ手紙が届いた。

「先夜、あなたについて悪い夢を見ました」

「夢占いへ尋ねると、重大な慎みが必要とのことでした」

「7日間は門外へ出てはいけないと申しております」

義興は執事の井弾正へ尋ねた。

井弾正は、

「凶兆を聞きながら慎まないことがあるでしょうか。

今夜の宴は中止するべきです」

と答えた。

義興は急に体調が悪くなったと称し、竹沢を帰した。


女房を殺す

竹沢は計画が失敗し、怒った。

「女房が自分の計画を知り、義興へ知らせたに違いない」

「生かしておけない」

翌夜、女房を門へ呼び出し、刺し殺して堀へ沈めた。

戦乱によって宮中を追われ、頼る場所を失った女性は、竹沢だけを頼っていた。

理由も分からないまま、秋の霜の下へ倒れ、深い堀へ沈められた。

哀れなことであった。


江戸氏を仲間へ加える

竹沢は、

「自分の力だけでは義興を討てない」

と考えた。

畠山へ使者を送り、

「義興の隠れ場所は知っています」

「小勢では討ち漏らす恐れがあります」

「一族の江戸遠江守・下野守をお下しください」

と求めた。

畠山は喜んだ。

しかし討手を送ったと義興へ知られないため、江戸伯父甥の領地である稲毛荘十二郷を、わざと没収した。

江戸氏は怒ったふりをして領地へ下り、給人を追い出し、城を構えた。

500騎余りを集め、

「畠山へ一矢を射て死ぬ」

と宣言した。


義興を鎌倉へ誘う

江戸氏は竹沢を通して義興へ申し上げた。

「畠山から理由もなく領地を奪われ、牢人となりました」

「一族を率いて畠山へ戦いを挑みます」

「しかし大将がいなければ、兵は集まりません」

「義興殿を大将として仰ぎたい」

「まず、ひそかに鎌倉へお越しください」

「鎌倉には江戸一族が2000、3000騎おります」

「相模国を従え、東国八か国を押さえ、天下を覆す計画を立てましょう」

長く仕え、信頼していた竹沢の仲介だったため、義興は疑わなかった。

東国の内応者へ連絡し、正平13年/延文3年(1358年)10月10日の明け方、鎌倉へ向かった。


矢口渡の罠

江戸・竹沢は、矢口渡の舟底へ2か所穴を開け、栓を差していた。

対岸には江戸氏300騎余りが隠れた。

後ろには竹沢が射手150人を置いた。

引き返せば遠矢で射殺す計画だった。

「大軍で進めば、人に怪しまれます」

として、義興の家臣を先に少人数ずつ鎌倉へ向かわせた。

新田義興は、世良田右馬助・井弾正忠・大島周防守・土肥三郎左衛門・市河五郎・由良兵庫助・由良新左衛門尉・南瀬口六郎ら、合計13人の家臣だけを連れ、細工された舟へ乗った。義興を含めると主従14人である。


舟底から水が入る

『太平記』本文では、矢口渡は幅4町余り(約440m余り)、波が荒く、深い川だったとする。

舟が川の中央へ来ると、船頭は、

「誤って落とした」

ように櫓を川へ落とした。

同時に舟底の栓を抜いた。

2人の船頭は川へ飛び込み、潜って逃げた。

対岸から400、500騎が現れ、鬨の声を上げた。

後方からも竹沢勢が笑い、

「愚かな者たちだ。

だまされたことが分からないのか」

と叫んだ。

水は舟へ入り、腰ほどの高さになった。


新田義興の自害

井弾正は義興を抱え、水面より上へ差し上げた。

義興は怒った。

「日本一の不義者にだまされた」

「7度生まれ変わっても、必ず恨みを返す」

腰刀を抜き、左脇から右の肋骨まで2度切り回した。


家臣たちの最期

井弾正は自分の腸を引き出し、川へ投げた。

喉を2か所刺し、自分で首を後ろへ折った。

その音は2町ほど(約220m)先まで聞こえたという。これは『太平記』の軍記的な誇張を含む表現として読む。

世良田右馬助と大島周防守は、互いに刀を柄まで刺し違え、組み合って川へ飛び込んだ。

由良兄弟は舟の前後へ立ち、互いの首を斬り落とした。

土肥・南瀬口・市川の3人は裸となり、太刀を口へくわえ、川へ飛び込んだ。

水底を潜って対岸へ上がり、敵300騎の中へ突入した。

半時(約1時間)ほど斬り合い、敵5人を討ち、13人を負傷させ、3人とも討ち死にした。


首を入間川へ運ぶ

水練の者が川へ入り、新田義興と家臣13人、計14人の首を探し出した。

首を酒へ浸し、江戸・竹沢勢500騎余りで、入間川にいる足利基氏の陣へ運んだ。

畠山は大いに喜んだ。

以前義興へ仕えた者たちは首を確認し、

「間違いなく義興殿です」

と答えた。

数年前に親しく仕えた時のことを語り、皆涙を流した。

敵方も、喜びの中へ悲しみを感じ、袖を濡らした。


義興の人物

義興は新田義貞の愛妾の子だった。

兄の義顕が亡くなった後も、義貞は義興を嫡子とせず、三男義宗を幼いころから宮中へ上げ、重く扱った。

義興は孤独に上野国へいた。

北畠顕家が奥州から鎌倉へ攻め上った時、義貞へ心を寄せる武蔵・上野勢が義興を大将とし、3万騎余りで顕家へ合流した。

鎌倉を落とし、吉野へ参上した。

後醍醐天皇は義興を見て、

「武勇の器であり、義貞の家を再興する者である」

と評価した。

童名・徳寿丸を天皇の前で元服させ、新田左兵衛佐義興とした。


並外れた勇士

義興は武将としての器量が人より優れ、策略を考える判断も非常に早かった。

正平7年(1352年)の武蔵野合戦・鎌倉合戦でも、大敵を破り、1人で多数へ当たる働きをした。

数人だけで武蔵・上野へ潜伏した時、宇都宮清党300騎余りへ包囲されても逃れた。

天を飛び、地へ潜る術があるような勇者と見られた。

足利基氏も義詮も、義興が生きている間は安心できなかった。

その義興が、運命が尽き、愚かな裏切り者にだまされ、水上で命を失った。


江戸・竹沢への恩賞

江戸・竹沢は大きな功績を立てたとして、複数の所領を与えられた。

「あっぱれ武士の名誉だ」

とうらやむ者もいた。

一方、

「何と汚らわしい男たちの振る舞いだ」

と非難する者もいた。

竹沢は、ほかの内応者を調べるため陣へ残された。

江戸氏は恩賞地へ向かった。


江戸遠江守への怨霊の報い

同じ正平13年/延文3年(1358年)10月23日の夕方、江戸遠江守は矢口渡へ着き、舟を待った。

義興を乗せた舟の栓を抜いた船頭が、

「江戸殿が恩賞を得て帰る」

と聞き、酒や料理を用意し、迎えの舟を出した。

舟が川の中央へ来ると、突然空が曇った。

雷が鳴り、水上へ激しい風が吹き、白波が舟を揺らした。

船頭が引き返そうとしたが、逆巻く波で舟が転覆した。

水夫も船頭も全員水底へ沈んだ。

江戸遠江守は、

「これは義興の怨霊の仕業だ」

と恐れ、川辺から戻った。


義興の霊が現れる

江戸は20町ほど(約2.2km)上流へ向かい、別の浅瀬を渡ろうとした。

雷は激しく鳴り、日は暮れ、民家もなかった。

「雷神に蹴り殺される」

と思い、

「兵衛佐殿、お助けください」

と手を合わせた。

山麓の辻堂を目指した時、黒雲が江戸の頭上へ下りた。

雷光の中に、新田義興の姿が現れた。

火威の鎧を着け、竜頭の兜を締めた。

額へ角のある白栗毛の馬へ乗っていた。

『太平記』の怪異譚では、義興の霊は江戸を馬の左側へ追い詰め、幅7寸ほど(単純換算で約21cm)という巨大な雁股の矢を放った。

矢は肩から胸下まで貫いたように見えた。

江戸は馬から逆さまに落ち、血を吐いて気絶した。

輿で屋敷へ運ばれた。

7日間、手足を動かし、水へ溺れるまねをしながら、

「苦しい。助けてくれ」

と叫び、死んだ。


入間川の雷火

翌夜、畠山道誓は夢を見た。

黒雲の上で太鼓を打ち、鬨の声がした。

夢の中では、義興が身長2丈ほど(単純換算で約6m)の鬼となり、

  • 牛頭
  • 馬頭
  • 阿傍
  • 羅刹

ら10人余りを従え、火車を引いて足利基氏の陣へ入った。

目覚めた畠山が夢を語り終わらないうちに、突然雷が落ちた。

入間川の民家300軒余り、寺院数10か所が1度に焼けた。


新田大明神として祭られる

義興が討たれた矢口渡では、夜ごと光る物が現れ、通行人を苦しめた。

『太平記』は、近隣住民が義興の亡霊を神として祭ったと語る。

新田大明神と呼び、祭礼は後世まで絶えなかったという。

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