峯村部材店主

太平記 20巻

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巻第二十では、黒丸城・足羽をめぐる新田義貞と斯波高経の戦い、越後勢の来援、後醍醐天皇の宸筆の勅書、比叡山との連携、八幡山炎上、義貞の夢と凶兆、藤島での最期、脇屋義助の敗軍収拾、勾当内侍の悲嘆、奥州下向船団の暴風と結城宗広の最期が語られる。

巻第二十の目次

  1. 177. 黒丸城最初の戦い――足羽の連戦
  2. 178. 越後勢、越前へ進む
  3. 179. 後醍醐天皇、新田義貞へ宸筆の勅書を下す
  4. 180. 新田義貞、比叡山へ協力を求める
  5. 181. 八幡山炎上
  6. 182. 新田義貞、再び黒丸城を攻める――平泉寺の調伏
  7. 183. 新田義貞の夢――諸葛孔明の故事
  8. 184. 新田義貞の馬が暴れる
  9. 185. 新田義貞の最期
  10. 186. 脇屋義助、敗残兵を集める
  11. 187. 新田義貞の首、獄門へ――勾当内侍の悲嘆
  12. 188. 奥州下向の船団、暴風に遭う
  13. 189. 結城宗広、地獄へ堕ちる夢

この巻の読み方

巻第二十は、『太平記』本文の年次が前後する箇所があり、夢・凶兆・神仏の加護・地獄巡りなどの説話も多い。物語の筋は原文に従い、一般的な歴史叙述と大きく違う部分には注記を添えた。軍勢の巨大な数字や超人的な武勇、中国故事も『太平記』の叙述として読む。また、尺・寸・丈・町などは原単位を残しておおよその現代換算を添え、里は中世・古典の距離を単純にkmへ置き換えない。

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177. 黒丸城最初の戦い――足羽の連戦


※年代について:この巻の中心となる新田義貞の藤島での戦死は、一般に暦応元年/延元3年(1338年)閏7月2日とされる。『太平記』巻第二十には、延元2年(1337年)・建武4年(1337年)とする文書日付や、前後関係の逆転も現れるため、物語の順序を保ちながら、必要な箇所で年代上の注意を補う。

越前国府での勝利

新田左近衛中将義貞は、先の2月初め、越前国府の戦いで足利方に勝利した。

その時、越前国内にあった敵の城70か所余りを、短い間に次々と攻め落とした。

義貞の勢力は、再び強大となった。


比叡山も義貞へ心を寄せる

この時、比叡山の僧たちは以前からの関係を思い、ひそかに義貞へ味方する意思を伝えていた。

そのため義貞がすぐに比叡山へ入り、吉野の官軍と力を合わせて京都を攻めれば、成功する可能性は高かった。


黒丸城へこだわる

ところが斯波高経は、なお越前国の黒丸城へ残っていた。

義貞は、

「高経を攻め落とさず、京都へ向かうのは無念である」

と考えた。

こうして天下を左右する大事よりも、目の前の小さな城攻めを優先してしまった。

『太平記』は、この判断を嘆かわしいこととして批判している。


義貞軍が足羽城を包囲する

5月2日、義貞は自ら6,000騎余りを率い、越前国府へ進んだ。

さらに5,000騎余りを、

  • 波羅密
  • 安居
  • 河合
  • 春近
  • 江守

の五方面へ派遣し、足羽城を攻めさせた。


第一陣・一条行実軍

第一陣は、義貞の義弟にあたる一条少将行実だった。

行実は500騎余りを率い、江守方面から進んだ。

黒龍明神の前で、足利軍と戦った。

しかし行実軍は勝つことができず、元の陣へ引き返した。


第二陣・船田政経軍

第二陣は船田長門守政経だった。

700騎余りを率い、安居の渡しから攻め寄せた。

兵の半数ほどが川を渡った時、細川出羽守が200騎余りで対岸へ駆けつけた。


高岸から矢を浴びせられる

細川軍は高い岸の上へ陣取り、川を渡る船田軍へ激しく矢を射た。

増水した川へ多くの人馬が落ち、溺れて討たれた。

船田軍は本格的に戦うこともできず、引き返した。


第三陣・細屋右馬助軍

第三陣は細屋右馬助だった。

1,000騎余りを率い、河合荘から攻め寄せた。

北端にある勝虎城を包囲し、

「すぐに攻め落とそう」

と、城壁へ取りつき、堀の中まで入って攻めた。


鹿草兵庫助が背後から攻撃する

そこへ鹿草兵庫助が、300騎余りを率いて後詰めとして現れた。

鹿草軍は細屋軍の背後へ回り、大軍の中へ突入した。

周囲を振り返ることもなく、激しく戦った。


前後から攻められ退却する

細屋軍は、

  • 城内から打って出た兵
  • 背後へ回った鹿草軍

の両方から攻め立てられた。

細屋軍も元の陣へ引き返した。


足羽攻めで三度敗れる

こうして義貞軍は、足羽で三度戦い、三度とも敗れた。


名将たちが敗れた理由

一条行実・船田政経・細屋右馬助の三人は、いずれも天下に名を知られた優れた人物であり、武略に長けた将だった。

それでも敵をあまりにも侮り、むやみに先を急いだ。

そのため毎回の戦いに敗れたのである。


光武帝の教え

後漢の光武帝は、戦いへ臨むたびに、次のように語ったという。

大敵を見れば、恐れずに攻めよ。
小敵を見れば、侮らず警戒せよ。

大軍だけを恐れ、小勢を軽く見ることが、かえって敗北を招く。

この教えは、まことに道理にかなっていると思われた。


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178. 越後勢、越前へ進む


越後国と新田氏の深い関係

越後国は上野国と国境を接し、新田一族が多く住む土地だった。

そのうえ『太平記』は、元弘の乱以後、越後国は後醍醐天皇から新田義貞へ与えられ、義貞が国司として治めてから長い年月が過ぎていた、と語る。


越後の地頭・御家人は義貞へ従う

越後国の地頭や御家人は、長い間、義貞の統治へ従っていた。

原文の「烹鮮」は、小魚を煮る時のように、余計に手を加えず穏やかに国を治めることをいう。


義貞の京都進撃を知る

越後の武士たちは、

「義貞が北陸を平定し、京都へ攻め上ろうとしている」

と聞いた。

そこで、

  • 大井田弾正少弼
  • 大井田式部大輔
  • 中条入道
  • 鳥山左京亮
  • 風間信濃守
  • 禰津掃部助
  • 大田滝口

らが軍勢を集めた。

その数は、合わせて2万騎余りだった。


越後府を出発する

7月3日、越後軍は越後国府を出発し、越中国へ入った。


越中守護・普門俊清が迎え撃つ

越中国の守護である普門蔵人俊清は、国境まで出て越後軍を防ごうとした。

しかし俊清軍は小勢だった。


普門軍が松倉城へ退く

普門軍は大半を討たれ、松倉城へ退いて立てこもった。

越後軍は松倉城を攻めず、そのまま通り過ぎて加賀国へ入った。


富樫介が500騎で迎える

加賀国の富樫介は、この知らせを聞いた。

500騎余りを率い、安宅・篠原付近で越後軍を迎え撃った。


富樫軍も敗れる

しかし二万余騎の越後軍と正面から戦える兵力ではなかった。

富樫軍は200騎余りを討たれ、那谷城へ退いた。


越後軍は北陸の敵を軽く見る

越後軍は、越中・加賀で二度戦い、いずれも勝利した。

兵たちは、

「北陸各地の敵など、恐れるほどではない」

と思うようになった。


兵糧を集めるため加賀に滞在する

越後軍は、そのまま越前へ進むこともできた。

しかし加賀から京都までの街道は、長年の戦乱によって荒れていた。

国は疲弊し、民衆も困窮していたため、道中で食糧を調達することは難しいと考えた。


今湊宿へ十日余り滞在する

そこで、

「加賀国へしばらく滞在し、今後の兵糧を準備しよう」

と決めた。

越後軍は今湊宿へ、十日余り滞在した。


神社や寺院へ押し入る

その間、兵たちは、

  • 剣社
  • 白山

をはじめ、各地の神社や寺院へ押し入った。

神仏へ供えられた物を奪い、勝手に持ち去った。


民家から財産を奪う

さらに民家へ押し入り、物資を奪った。

住民の財産を取り上げる行為は、常識の範囲を大きく越えていた。


神の怒りは災いを招く

古い言葉に、

霊神が怒れば、災害が分かれ道のすべてへ満ちる。

とある。

神仏の領域を荒らせば、その報いは軍勢の進むすべての道へ現れるという意味である。


悪行の報いは大将へ及ぶ

人々は、この越後軍の悪行を見て考えた。

「兵たちの罪が大将一人へ帰せられるのであれば、新田義貞が今回、大きな功績を立てられるとは思えない」


先を見る者は不吉に感じる

将来の兆しを早く見抜く者たちは、越後軍の略奪を見て、ひそかに不吉なものを感じていたのである。

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179. 後醍醐天皇、新田義貞へ宸筆の勅書を下す


越後軍が越前へ到着する

日が過ぎ、越後軍はついに越前国河合へ到着した。

二万余騎の援軍が加わったため、義貞の軍勢はますます強大となった。


黒丸城攻略は目前と思われる

兵たちは、

「今なら足羽城・黒丸城を攻め落とすことなど、手のひらの中にある物を握りつぶすほど簡単だ」

と思った。

誰もが勝利を確信した。


黒丸城の斯波高経

確かに斯波高経の忠義を守る心は、簡単に奪えるものではなかった。

しかし高経は、わずかな平城へ300騎余りで立てこもっていた。

これを義貞軍3万騎余りが、四方から包囲していた。


籠の鳥、干上がった魚

高経らの姿は、籠の中の鳥が空を恋い求めるようだった。

また水のなくなった場所にいる魚が、水を求めて苦しむようでもあった。


敵は高経を嘲り、味方は悲しむ

宮方の兵は、

「高経は、いつまで命を保てるというのか」

と嘲り、勝利へ勇み立った。

一方、城内の足利兵は自軍の弱さを悲しんだ。


7月21日の総攻撃を準備する

義貞軍は、

「来る21日に黒丸城を総攻撃する」

と決めた。

堀を埋めるため、越前国中の人夫に、3万荷余りの木や草を運ばせた。

さらに持ち盾3,000枚余りを作らせ、さまざまな攻城準備を整えた。


吉野から勅使が来る

その時、吉野の後醍醐天皇から勅使が派遣された。

勅使は義貞へ、天皇の命令を伝えた。


八幡山の官軍が包囲されている

「義興・顕信は敗れ、疲れた兵を率いて八幡山へ立てこもっている。

京都の逆賊は、ありったけの軍勢を集め、八幡山を包囲している」

ここでいう義興は新田義貞の子・新田義興、顕信は北畠顕家の弟・北畠顕信を指す。


城内は食糧不足となっている

「城内では、すでに食糧が乏しくなり、兵は皆疲れている。

それでも、

『北陸から義貞軍が間もなく京都へ上る』

と聞き、その希望によって渇きと苦しみに耐えている」


進軍が遅れれば官軍は滅びる

「義貞の進軍がさらに遅れれば、官軍が滅亡することは疑いない。

天下が保たれるか滅びるかは、今度の一挙にかかっている」


黒丸城攻めを捨て、京都へ向かえ

「すぐに越前国境での戦いを中止せよ。

何よりも京都での戦いを優先しなさい」

『太平記』は、後醍醐天皇が自ら筆を執った勅書を義貞へ下した、と語る。


義貞が自筆の勅書を拝見する

義貞は、天皇自筆の勅書をうやうやしく拝見した。

そして深く感激した。


源平の名将にもなかった栄誉

義貞は考えた。

「源氏・平氏の武将が、代々どれほど大きな功績を立てたとしても、天皇から直接、自筆の勅書をいただいた例は聞いたことがない」


新田家にとって身に余る名誉

「これは新田家にとって、身分を越えた、限りなく大きな名誉である。

この時に命を軽くして戦わないならば、いったいいつ命を懸けるというのか」


足羽城攻めを中止する

義貞は黒丸・足羽方面での戦いを中止した。

そして何よりも先に、京都への進軍準備を急いだのである。

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180. 新田義貞、比叡山へ協力を求める


※文書の日付について:この章に載る義貞の牒状と延暦寺の返牒は、いずれも『太平記』本文で「延元2年(1337年)7月」とされる。しかし物語は、一般に1338年閏7月2日とされる義貞の戦死へ続いており、巻第十二以降に見られる『太平記』の年次混乱の一例として注意が必要である。以下では本文の日付をそのまま残す。

児島高徳の進言

児島備後守高徳は、新田義貞へ申し上げた。

「以前の京都での戦いにおいて、官軍が比叡山を離れ、敗れた原因は、決して戦いそのものに負けたからではありません」


敗因は兵糧不足だった

「北陸方面の敵によって補給路をふさがれ、食糧が尽きたためです。

今後も同じ状態になれば、たとえ比叡山へ陣を取ったとしても、以前と同じ敗北になることは間違いありません」


北陸の城へ守備兵を残す

「そこで越前・加賀の主だった城には、軍勢を残してください。

それぞれの城から、比叡山へ兵糧を運ばせるのです」


1、2人の大将を比叡山へ先行させる

「大将を一人か二人選び、6,000、7,000騎をつけ、先に比叡山へ陣取らせてください。

そして京都を昼夜絶えず攻めさせるべきです」


補給路を確保した持久戦

「そうすれば根を深く張り、果実の付け根を固めるような、簡単には崩れない戦略となります。

八幡山の官軍にも力を与え、京都にいる逆賊を滅ぼす道となるでしょう」


小勢で比叡山へ行く危険

「ただし小勢のまま比叡山へ上れば、僧たちは期待を裏切られたと思い、官軍から離れる者が出るかもしれません」


先に書状を送るよう勧める

「まず比叡山へ正式な牒状を送り、僧たちの考えを確かめてはいかがでしょうか」


義貞は高徳の策を採用する

義貞は答えた。

「確かにこの計略は深く、先のことまでよく考えている。

それならば、比叡山へ牒状を送ろう」


高徳がすぐに書状を書く

児島高徳は以前から、書状の内容を心の中で考えていたのだろう。

すぐに筆を取り、義貞の名で牒状を書いた。


義貞から延暦寺への牒状

書状の冒頭には、次のように記した。

正四位上、左近衛中将兼播磨守、源朝臣義貞から延暦寺へ申し送る。
速やかに比叡山の援助を約束していただきたい。
逆臣・足利尊氏、直義以下の一党を討ち、仏法と王法を再び輝かせたい。


比叡山創建の目的

「古い時代を振り返り、その深い教えを聞けば、桓武天皇が比叡山へ一つの大寺院を築かれたのは、顕教と密教の両宗を永遠に栄えさせるためだった」


伝教大師の九鎮

「伝教大師が、王城を守る九つの寺を設けるよう願い出たのも、仏法の威力によって国家を永久に平和にするためだった」


朝廷と比叡山は支え合う

「したがって比叡山が衰えるのを見れば、朝廷は悲しむ。

朝廷が傾くのを見れば、比叡山も悲しむ。

天皇の聖なる位は、三千の僧によって守られる。

三千の僧は、天皇の保護によって存在できる。

両者は切り離せない」


尊氏・直義の忘恩

「元弘の乱によって天下が改まり、全国が後醍醐天皇へ従った後、源氏の末流である尊氏・直義兄弟が現れた。

忠義もないまま大きな恩賞を求め、才能もないまま高い官位へ上った」


皇恩へ誇り、天道を忘れる

「二人は身に余るほどの皇恩を誇りながら、満ちれば欠けるという天の道を顧みなかった。

突然、君臣の道を捨て、狼のような心を抱いた」


民衆と全国へ災いを広げる

「尊氏らの害悪は民衆へ及び、災いは国の隅々まで満ちた。

そこで朝廷は、やむを得ず天罰を下そうとした」


後醍醐天皇が比叡山へ避難した

「しかし戦火と塵が宮中を覆い、天皇は再び比叡山へ移られた。

その時、比叡山は朝廷の危機を助け、義貞らは暴虐を退けようとした」


利益へ走る者が多かった

「しかし正しい道を守って死のうとする者は少なく、利益を求めて強い側へつく者が多かった。

そのため官軍は敗れ、後醍醐天皇は敵のもとで囚人のような辱めを受けた」


金ヶ崎で皇族が自害した

「金ヶ崎城では食糧が尽き、尊良親王らが戦場の刃の上へ身を伏せて亡くなった」


逆賊が思うままに振る舞う

「それ以来、逆徒はますます思うままに振る舞い、不当な刑罰を行った。

その残酷さは、あらゆる悪の限りを尽くした」


天地が崩れたように感じる

「天を支える綱が切れ、太陽と月が掛かる場所を失ったように思われた。

大地の軸が砕け、山や川さえ載せられなくなったようだった。

その有様は、耳をふさぎ、目を覆いたくなるほどだった」


義貞は敵討ちの時を待っていた

「義貞は、この苦しみに耐えながら時を待った。

炭を飲み、刃を口へ含んで仇を討とうとした予譲のように、近くの敵を倒す機会を求めていた」


後醍醐天皇の吉野入りを知る

「その時、後醍醐天皇が吉野へ移り、北極星を多くの星が囲むように、忠臣が再び集まったと聞いた」


義貞は恩と憤りを思い出す

「この知らせによって、義貞は天皇から受けた恩を思い出した。

胸の中へ抑えていた怒りを、再び燃え上がらせた」


わずかな兵から再起する

「険しい北陸の地で兵を挙げ、わずかに郡県の軍勢を集めた。

それでも金牛によって道を開き、火のついた鶏を飛ばして敵城を破るような奇策を用いた」


越前府を一戦で奪回する

「戦いの半ばにもならないうち、一度の攻撃で勝敗を決し、四方の敵を退けた」


中国の名将にも劣らない勝利

「昔、范蠡は黄池で呉の三万軍を破った。

周瑜は赤壁で魏の十万軍を打ち破った。

しかし今の義貞の勝利と比べれば、取り上げて語るほどのものでもない」


全国を挙げて朝敵を討つ

「今、国を挙げて朝敵を討とうとしている。

後醍醐天皇は義貞を、朝廷の爪と牙となる武将へ任じられた」


吉凶を占わず京都へ向かう

「成功するか失敗するかを占っている暇はない。

腕を奮い、京都へ向かおうとしている」


比叡山が助ければ必ず勝てる

「比叡山が昔からの友情を捨てずに助けるならば、大敵を手の中で打ち破ることは間違いない」


日吉七社の霊験

「比叡山の神仏が国家を守った働きは、昔から現在まで、天地の間に抜きん出ている」


藤原良房と大威徳法

「承和年間、藤原良房が大威徳法を修した結果、その娘の子が天皇の位へついた」


平将門と四天王像

「承平年間には鉄の四天王像を安置し、平将門の鉄のような体を破った」


七社と比叡山の祈りを頼る

「そこで義貞は、日吉七社の神々の応答へよい運を託す。

比叡山の心を尽くした祈りによって、以前の正しい政治を取り戻したい」


義は宮方にある

「よく考えれば、

  • 悪は尊氏方にある
  • 義は宮方にある

天下が治まるか乱れるか、比叡山が栄えるか危機へ陥るかも、この選択にかかっている」


軍勢を動かし、ともに戦ってほしい

「速やかに全山で援助を決め、遠くから軍令の符を合わせていただきたい。

三千の僧兵を出し、竜旗を掲げる官軍とともに進んでほしい」

書状には、

延元2年(1337年)7月
新田義貞

という趣旨が記されていた。


比叡山は宮方再興を願っていた

比叡山の僧たちは、前年の春と夏、後醍醐天皇が二度にわたって比叡山へ避難した時、身を削るほどの忠義を尽くした。

その功績によって多くの所領を与えられた。


足利の世となって望みを失う

しかし官軍は北陸へ退き、後醍醐天皇も京都へ戻った。

比叡山が期待していたことは、すべて実現しなかった。

僧たちは、

「何か不思議な変化が起こり、再び後醍醐天皇の世になってほしい」

と祈っていた。


義貞の牒状を喜ぶ

そこへ義貞の牒状が届いた。

比叡山全体が、限りなく喜び合った。


大講堂で返書を決める

7月23日、比叡山に常住する僧たちが大講堂の庭へ集まった。

そして義貞へ返書を送った。


延暦寺から義貞への返牒

返書の冒頭には、次のように記した。

延暦寺から新田左近衛中将家へ申し送る。
朝敵追討についての書状一通を受け取った。


武将と比叡山の役割

「周辺の異民族や反乱を鎮め、国家を平和にすることは、武将が失ってはならない務めである。

代々の天皇の位を祈り、天地の災いを消すことは、比叡山が他へ譲れない務めである」


道は異なっても目的は同じ

「武将と僧侶では進む道は異なる。

しかし国家を守るという目的は同じである。

どうして、その間へ1本の糸ほどの隔たりを置くことができようか」


尊氏・直義の悪行は前代未聞

「尊氏・直義兄弟の暴悪は、昔から例を聞かない。

仏法・王法の敵であるだけではない。

国と民を害する残虐な賊でもある」


自分から出た悪は自分へ戻る

「孟子は、

『自分から出たものは、自分へ戻ってくる』

と述べた。

尊氏らが今滅びないならば、いつ滅びるというのか」


逆臣が栄え、義士が苦しむ理由

「しかし現在は、逆臣の威勢がますます強まり、正義ある者がいつも苦しんでいる。

なぜ、そのようなことになるのだろうか」


夫差と項羽の敗北

「過去の例を見れば、呉王夫差の強い勢力も、最後には越王勾践に打ち破られた。

山を引き抜くほどの力を持った項羽も、漢の高祖に捕らえられた」


義のない強さは長く続かない

「呉には正義がなく、ただ勇猛だった。

漢には仁があり、正しかった。

国の安全と危険を決めるものは、天命に勝るものがない」


比叡山は義貞の忠義を頼りとする

「比叡山の内では、新田義貞の忠烈を重く見て、良い時機が来ることを待っている。

外では後醍醐天皇から受けた尊崇をありがたく思い、皇室の発展を祈っている」


義貞の書状を待ち望んでいた

「山上の僧は皆、聞きたい知らせを待っていた。

そこへ青鳥が便りを届けるように、義貞の書状が届き、真心が尽くされていた。

全山の喜びは、何にたとえられるだろうか」


七社の神威が今こそ現れる

「日吉七社の神々の御判断も、今こそ明らかとなるだろう」


比叡山を捨てた者は敗れる

「過去の吉凶を考えれば、比叡山を捨てた者は、天下を挙げて兵を起こしても成功しない」


高倉宮と木曾義仲の例

「治承の乱では、高倉宮が比叡山を離れ、都の外で命を失った。

一方、元暦の初め、木曾義仲は比叡山へ味方し、京都の権力を得た」


神意が味方する者を選ぶ

「これは人の心が動き、神の心もそれに応じ、ある者を捨て、ある者を選んだためである」


比叡山は義貞へ全面協力する

「比叡山全体の意見は、今述べたとおりである。

逆賊を討ち滅ぼすことに、何の疑いがあるだろうか。

時機はすでに到来した。

少しも出陣を遅らせてはならない」

返書には、

延元2年(1337年)7月
延暦寺

と記されていた。


義貞は返書を大いに喜ぶ

比叡山からの返書が越前へ届いた。

義貞は、たいへん喜んだ。

すぐに京都へ進もうとした。


北陸を完全に捨てる危険

しかし義貞は考えた。

「北陸を完全に無防備のまま捨てれば、斯波高経が背後で再起するだろう。

そうなれば北陸道を再びふさがれ、比叡山への補給路も断たれる」


軍を二手へ分ける

そこで、

  • 一方は北陸を守る
  • 一方は京都を攻める

という二手の作戦を取ることにした。


義貞は越前へ残る

新田義貞は3,000騎余りを率い、越前国へ残った。


脇屋義助が二万余騎で出発する

弟の脇屋義助は2万騎余りを率いた。

7月29日に越前国府を出発し、翌日には敦賀津へ到着した。

義助軍は、比叡山と合流して京都を攻めるため、南へ進み始めたのである。

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181. 八幡山炎上


※年代と物語性について:前章では脇屋義助が7月29日に越前国府を出て翌日に敦賀へ着いたとする一方、この章の末尾では八幡山の官軍が「6月27日」に退いたと記される。前後が逆転しており、『太平記』本文内部の年代矛盾である。また、忍びによる放火や高木十郎・松山九郎の怪力譚など、戦闘の細部は『太平記』の物語として読む。

脇屋義助の上洛が足利方へ伝わる

足利尊氏は、

「脇屋義助が比叡山と力を合わせ、北陸から京都へ向かおうとしている」

という知らせを受けた。

尊氏は言った。

「八幡山の城をまだ攻め落とせず、味方の兵も長い戦いで疲れている。

そのうえ脇屋義助が比叡山と合流し、北陸から上洛してくるとは、重大な事態である」


八幡攻めを中止して京都へ戻るよう命じる

「危機が迫ってから八幡を退けば、吉野方の敵は勝利の勢いに乗るだろう。

まだ状況が切迫しないうちに、八幡山の戦いを中止し、京都へ戻って北陸軍を待ち受けるべきである」

尊氏は、このように高師直へ命じた。


師直は進退に迷う

高師直は命令を聞き、考えた。

「八幡山を攻め始めたまま、落とさずに退けば、南朝方へ勝利の機会を与えてしまう。

だからといって八幡へとどまり続ければ、北陸軍に京都の隙を突かれる。

いったい、どうすればよいのか」

師直は進むことも退くこともできず、困り果てた。


忍びを入れて八幡宮へ火を放つ

ある夜、激しい雨風が吹いた。

『太平記』では、師直はその混乱に紛れて、優れた忍びの者を八幡山へ潜入させたとする。

そして、その忍びが八幡宮の神殿へ火を放ったと物語る。


石清水八幡宮は源氏の守護神

八幡大菩薩は、王城を守護する国家の重要な神である。

特に源氏が代々厚く信仰してきた霊神だった。


官軍は社殿が焼かれるとは考えなかった

八幡山へ立てこもる官軍は、

「足利方も源氏である。

さすがに八幡宮の社殿を焼くほどの悪事は行わないだろう」

と考え、油断していたのだろう。


城内が火と煙で混乱する

突然、神殿から火が上がった。

城内は大混乱となった。

兵たちは煙の下で方向を見失い、倒れ、逃げ惑った。


足利軍十万余騎が攻め上る

四方を囲んでいた足利軍は、この混乱を見逃さなかった。

『太平記』によれば10万騎余りの兵が、谷々から一斉に攻め上った。

足利軍は、すでに第一、第二の木戸口まで侵入した。


八幡山西側の弱点

八幡山の三方は険しく、容易に登ることができなかった。

そのため守る側に有利だった。

しかし西へ下る尾根だけは平地へ続いていた。

そこには一重の空堀しかなく、守りの弱い場所だった。


北畠顕信軍500騎が動揺する

この西側を守っていたのは、春日少将北畠顕信の兵500騎余りだった。

彼らは城内の火と、勢いよく攻め上る敵を見て動揺した。

兵たちは皆、退却しようとする様子を見せた。


高木十郎と松山九郎

城内の官軍のうち、多田入道の配下に、

  • 高木十郎
  • 松山九郎

という、名を知られた二人の武士がいた。


勇気の高木、怪力の松山

高木十郎は勇敢だったが、力はそれほど強くなかった。

一方、松山九郎は世に並ぶ者がないほどの怪力を持っていたが、臆病な性格だった。

二人は同じ関門を守っていた。


第一の関門が破られる

第一の関門は、すでに敵に攻め破られていた。

二人は第二の関門で、なお踏みとどまっていた。


松山は恐怖で動けない

足利軍は逆茂木を引き破り、関門を切り倒そうとしていた。

しかし松山九郎は、いつもの臆病な性格が出た。

手足が震え、戦おうともしなかった。


高木が松山を厳しく叱る

高木十郎は松山の様子を見ると、目を怒らせた。

腰の刀へ手を掛け、言った。

「敵は四方から城を囲み、一人も逃さず討とうとしている。

ここを破られれば、大将方をはじめ、我々まで逃げ延びられる者はいない」


「今こそ力を使う時ではないか」

「こここそ命を懸けて戦うべき場所である。

それなのに、あなたはあまりにも臆病ではないか。

普段、

『自分には100人、200人に負けない力がある』

と誇っていたのは、何のためだったのか」


「戦わないなら私が斬る」

「ここで持てる力を尽くして戦わないというのなら、私は敵の手に掛かって死ぬより、あなたと刺し違えて死ぬ」

高木は本気で松山を斬ろうとする様子を見せた。


松山は高木を敵以上に恐れる

松山九郎は高木の表情を見た。

目の前の敵よりも、高木の方を恐ろしく思ったのだろう。

「しばらく落ち着いてください。

公にも私にも重大な時です。

命を惜しんでいるのではありません。

それでは一戦し、敵に力を見せましょう」


巨大な石を持ち上げる

松山は鼻息を荒くしながら走り出した。

近くにあった大石を、軽々と持ち上げた。

その石は5、6人がかりでなければ持ち上げられないほどの大きさだった。


足利軍へ大石を投げる

松山は敵兵が密集している場所へ向かい、その大石を投げた。

松山はその大石を敵兵の群れへ投げ込み、山が崩れ落ちるような勢いで落下させた。

※原文について:ここは「十四五程」とあるが、距離の単位は明記されていない。「14、15丈」とは書かれていないため、距離を推定して換算しない。


敵兵が谷底へ転げ落ちる

密集していた足利兵は、大石に打たれた。

将棋の駒が一度に倒れるように、兵たちは次々と谷底へ転げ落ちた。

自分や味方が持つ太刀・長刀へ刺し貫かれ、死傷した者は数えきれなかった。


八幡城は落城を免れる

その夜には確実に落ちると思われた八幡山の城は、思いがけず持ちこたえた。

人々は笑いながら言った。

「松山の怪力を動かしたのは、高木の勇気だったのだ」


北陸軍は敦賀で八幡炎上を知る

そのころ北陸の軍勢は、すでに敦賀まで進んでいた。

彼らは遠くから、

「八幡山が炎上した」

という知らせを聞いた。


八幡城が落ちたと思い込む

北陸軍は、

「きっと八幡山は攻め落とされたのだろう」

と考えた。

真偽を確かめるため敦賀へ数日間滞在し、むなしく日数を過ごした。


兵糧が焼け、八幡軍は退却する

八幡山の官軍は、兵糧を神社の周辺へ積み上げていた。

しかし社殿の火災によって、食糧もすべて焼けてしまった。

北陸軍の到着まで持ちこたえるだけの兵糧がなくなった。


『太平記』本文では6月27日に八幡山を退く

『太平記』本文では「6月27日の夜半」、官軍はひそかに八幡山から退却したと記す。

再び河内国へ戻った。


あと数日の違いで京都を落とせた可能性

もし八幡城が、あと4、5日持ちこたえていたならば。

そして北陸軍が敦賀へ滞在せず、そのまま上洛していたならば。

京都は、ただ一度の戦いで攻め落とされていたかもしれない。


両軍の合図が食い違う

しかし、まだ後醍醐天皇の運が開く時ではなかったのだろうか。

北陸軍と八幡軍の合図は食い違った。

敦賀の軍も、八幡の官軍も、それぞれ前進せずに引き返した。

ここに宮方の運の弱さが、はっきりと現れたのである。

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182. 新田義貞、再び黒丸城を攻める――平泉寺の調伏


※年代の注意:この章に載る斯波高経の文書は、『太平記』本文で「建武4年(1337年)7月27日」とされる。一方、物語は1338年の義貞戦死へ直結する。日付は本文の形を保存し、史実の年次と同一視しない。平泉寺の調伏も、本文が戦いを神仏の力と結びつけて語る部分である。

京都進撃の目的を失う

新田義貞が京都への進軍を急いでいたのは、八幡山の官軍を助け、京都の守りの隙を突くためだった。

しかし北陸軍と八幡軍の連携は失敗した。

八幡山の官軍も、すでに河内へ退いていた。


越前の敵を先に倒すことにする

義貞は考えた。

「合図が食い違った以上、今すぐ京都へ向かっても意味がない。

ここは落ち着いて越前国内の敵をすべて滅ぼそう。

その後、改めて吉野方と連絡を取り、京都を攻めればよい」


義貞・義助が河合荘へ移る

義貞と脇屋義助は、河合荘へ進んだ。

そして、まず足羽城を攻める計画を立てた。


斯波高経は討ち死にを覚悟する

斯波高経は、義貞軍が近づいていると聞いた。

高経は考えた。

「味方は300騎にも満たない。

義貞の3万騎余りに包囲されれば、千に一つも勝てる見込みはない」


逃げる道もない

「しかし敵は、すでに各方面の道をふさいでいるという。

城を捨てて逃げたとしても、どこまで逃げ延びられるだろうか。

ここは討ち死にを覚悟し、城の守りを固めるほかに道はない」


深田へ水を入れる

高経は周囲の深い田へ水を流し込んだ。

馬が足を取られ、立つことができないようにした。


落とし穴と深い溝

道を掘り切って落とし穴を作った。

橋を外し、溝を深くした。


七つの城を連携させる

その内側へ七つの城を築いた。

敵が一つの城を攻めれば、ほかの城の兵が背後へ回り、互いに助け合えるように配置した。


足羽城と藤島荘

足羽城は藤島荘と隣接しており、城郭の半分は藤島荘の土地を含んでいた。


平泉寺が藤島荘を要求する

平泉寺の僧たちが高経へ申し出た。

「藤島荘は、長年にわたって当寺と比叡山が領有を争ってきた土地です。

もし藤島荘を平泉寺へ与えてくださるならば、我々も全面的に協力いたします」


若い僧は城へ、長老は祈祷へ

「若い僧兵は各城へ入れ、敵と戦わせましょう。

年長の僧たちは総持の扉を閉じ、足利方の勝利を祈ります」


高経は大いに喜ぶ

高経は、この申し出を大いに喜んだ。

そして平泉寺へ正式な文書を出した。


藤島荘を平泉寺へ与える

文書には、およそ次のように記されていた。

今度の戦いの勝敗は、平泉寺の僧兵の協力と、霊神の守護に頼るところが大きい。
そのため、まず藤島荘を平泉寺へ与える。
戦いに勝利したならば、さらに恩賞を与えるよう将軍へ申し上げる。

日付は、『太平記』本文では建武4年(1337年)7月27日とされている。


平泉寺の若い僧500人が参戦する

平泉寺の僧たちは、この約束に勇み立った。

若い僧兵500人余りは藤島へ下り、各城へ立てこもった。


長老50人が調伏法を行う

一方、年長の僧50人は寺へ残った。

護摩壇の煙に体を包まれながら、敵を呪い滅ぼす怨敵調伏の法を行った。

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183. 新田義貞の夢――諸葛孔明の故事


※この章の読み方:大蛇の夢と、その解釈に重ねられる諸葛孔明の物語は、『太平記』の文学的な予兆・中国故事である。三国時代の人物関係や年代には史実と合わない部分があるため、本文の筋を残しながら必要な箇所に注記する。

調伏開始から七日目の夜

平泉寺が怨敵調伏の法を始めてから、七日目の夜だった。

新田義貞は、不思議な夢を見た。


足羽川付近で高経と向かい合う夢

夢の中の場所は、現在の足羽付近と思われる川辺だった。

義貞と斯波高経は、川を挟んで向かい合い、それぞれ陣を張っていた。


義貞が巨大な大蛇となる

両軍は戦わないまま、数日を過ごした。

すると義貞は突然、高さ30丈ほど(単純換算で約90m)もある巨大な大蛇となった。これは夢の中の誇張された姿である。

そして地上へ横たわった。


高経は数十里逃げる

高経は大蛇となった義貞を見ると、兵を引き、盾を捨てて逃げた。

数十里も逃げたところで、ようやく止まった。

その時、義貞は夢から覚めた。


周囲の者は吉夢と解釈する

義貞は早朝に起き、夢の内容を人々へ語った。

周囲の者は言った。

「竜は雲や雨の気に乗り、天地を動かすものです。

高経は雷鳴に驚くように恐れ、偽物の竜を見て逃げた葉公のように、城を捨てて去るでしょう。

まことにめでたい夢でございます」


斎藤道献だけは不吉と見る

そこに斎藤七郎入道道献がいた。

道献は垣根越しに話を聞いていた。

眉をひそめ、ひそかに言った。

「これは決して、めでたい夢ではない。

天が凶事を告げているのだろう」


三国時代を例に説明する

道献は、その理由として中国の三国時代の話を始めた。

「昔、中国には、

  • 呉の孫権
  • 蜀の劉備
  • 魏の曹操

という三人がいた。

三人は中国全土を三つに分け、それぞれ支配していた」


三人とも天下統一を目指す

「三人は皆、ほかの二国を滅ぼし、中国を一つへ統一しようと考えていた」


曹操の才能

「曹操は、世に並ぶ者がないほど知恵と才能を備えていた。

陣幕の中で計略を巡らし、敵を遠い国境の外で防いだ」


孫権の人材登用

「孫権は、厳しくする時と緩める時を使い分け、兵をいたわり、人々を大切にした。

そのため国を奪い、政治の権力を求める者たちが集まり、帝都を侵して支配した」


劉備の仁義

「劉備は漢王室の血筋から、それほど遠くない人物だった。

仁義に近い心を持ち、私欲を忘れた。

そのため忠臣や孝行者が四方から集まり、文による政治と武による徳を行った」


魏・呉・蜀の三国鼎立

「三人はそれぞれ、

  • 知恵
  • 勇気

という徳を持っていた。

そのため魏・呉・蜀の三国は、鼎の3本足のように並び立った」


南陽に隠れていた諸葛孔明

そのころ諸葛孔明という賢者がいた。

孔明は世を避け、蜀の南陽山で隠遁していた。

静けさを楽しみ、田畑を耕しながら歌を歌った。


「二桃殺三士」の歌

孔明が歌った内容は、中国の斉国で起きた「二桃殺三士」の故事だった。

斉の東門を出て、蕩陰里へ行く。
里には三つの墓があり、どれも同じように並んでいる。
誰の墓かと尋ねれば、田開疆と古冶子らの墓である。
その勇気は南山を押しのけ、その知恵は大地の理を超えた。
しかし一度、讒言を受け、二つの桃によって三人の勇士は死んだ。
この計略を考えたのは誰か。
斉の宰相・晏子である。


劉備へ孔明を登用するよう勧める

蜀の賢臣たちは、この歌を聞き、孔明の非凡さを知った。

そして劉備へ申し上げた。

「孔明を招き、政治を任せ、高い官職へ就けるべきです」


孔明は最初、招きを断る

劉備は贈り物を厚くし、礼を尽くして孔明を招いた。

しかし孔明は命令へ応じなかった。

谷の水を飲み、岩屋へ住み、一生を静かに終えることを楽しみとしていた。


劉備が三度、草庵を訪ねる

劉備は三度まで孔明の草庵を訪れた。

そして語った。

「朕は不肖の身ながら、天下の平和を求めている。

自分の生活を安楽にし、欲望を思うままにするためではない」


民衆を救うためだと説く

「人々が泥や炭の中へ落ち、谷底で苦しむような暮らしをしている。

その民衆を救うためである」


一人の隠遁より万人の救済

「あなたが優れた補佐役として、私の真心を助けてくれるならば、暴虐を退け、殺し合いをやめさせるために、百年も待つ必要はない。

石を枕とし、泉の水で口をすすぎ、山中の静かな生活を楽しむことは、自分一人のためである。

国を治め、民を利益し、優れた政治を実現することは、万人のためである」


孔明が蜀の丞相となる

劉備が真心と道理を尽くして説いたため、孔明には断る言葉がなくなった。

孔明は、ついに蜀の丞相となった。


劉備は孔明を水にたとえる

劉備は孔明をたいへん重く用いた。

「私が孔明を得たことは、魚が水を得たようなものである」

と喜んだ。


臥龍と呼ばれる

劉備は孔明へ高い地位を与え、武侯と呼んだ。

天下の人々は孔明を、

「横たわる竜のような勢いを持つ者」

という意味で、臥龍と呼び、恐れた。


魏が司馬仲達を派遣する

孔明の徳によって天下が蜀へ従うように見えた。

魏の曹操はこれを心配した。

司馬仲達という将軍へ70万騎をつけ、蜀を攻めさせようとした。


劉備は孔明を五丈原へ送る

劉備は、この知らせを聞いた。

孔明へ30万騎を預け、魏と蜀の国境にある五丈原へ向かわせた。


両軍が五十日余り対陣する

魏軍と蜀軍は川を挟み、五十日余り対陣した。

しかし司馬仲達は、まったく戦おうとしなかった。


魏軍の兵糧が減る

そのため魏軍の馬は次第に疲れ、食糧も尽きてきた。

日を追うごとに、食事を作る竈の数が減った。


魏兵は戦いを望む

魏の兵たちは、

「すぐに戦いましょう」

と求めた。

しかし仲達は、

「戦ってはならない」

と許さなかった。


仲達が蜀の農夫を捕らえる

ある時、仲達は蜀軍のために草や薪を取っていた農夫を捕らえた。

そして孔明の陣中が、どのように治められているか尋ねた。


孔明は兵と食事を分ける

農夫たちは答えた。

「蜀の将軍孔明は、兵をいたわり、礼儀と譲り合いを大切にしています。

豆一杯の食事を得ても、兵たちと分けて食べます。

酒一樽を得ても、川の流れへ注ぎ、全軍へ行き渡るようにして、皆と同じように飲みます」


兵が食べるまで大将も食べない

「兵たちの食事がまだ炊けていない時には、孔明も食事を取りません。

兵が雨や露へ濡れる時には、自分だけ雨よけの幕を張ることもありません」


人より先に憂え、後に楽しむ

「孔明は諸侯より後に楽しみ、万人より先に心配します」


夜も眠らず陣を巡る

「夜には一晩中眠ることなく、自ら城や陣を回り、怠ける者を注意します。

昼は一日中、穏やかな顔をして、兵たちと親しく交わります。

少しの間も、自分の心を思うままにし、身を休めている姿を見たことがありません」


蜀軍三十万は心が一つ

「そのため蜀軍30万騎は、全員の心が一つとなり、死を軽く考えています。

太鼓を打って進めと命じれば進み、鐘を鳴らして退けと命じれば退く。

大将の命令へ一歩でも背く者はいないでしょう」


仲達は孔明の病を待つ

仲達は、この話を聞いて言った。

「我が魏軍は70万騎いるが、一人ひとりの心は異なっている。

孔明軍は30万騎だが、その志は一つである。

正面から戦って蜀へ勝つことはできない」


暑さと過労で倒れると予測する

「孔明が病に倒れた時を狙って戦えば、必ず勝てる。

この暑さの中で昼夜心身を働かせている。

熱気が骨へ入り、病気にならないはずがない」

仲達は兵たちから嘲笑されても気にしなかった。

陣を遠くへ置き、何か月も待ち続けた。


魏兵は仲達を臆病と笑う

魏兵は言った。

「どれほど優れた医者であっても、四十里も離れた場所から、見えない敵の脈を取れるはずがない。

仲達は孔明が臥龍と呼ばれることを恐れ、戦わない言い訳をしているのだ」

兵たちは手をたたき、笑い合った。


客星が落ちる

ある夜、両軍の間へ客星が落ちた。

その光は火よりも赤かった。


仲達は孔明の死を予言する

仲達は言った。

「これは七日以内に、天下の傑物が一人亡くなるという星である。

孔明が死ぬ兆しに違いない。

魏が蜀を併合する日は、もう遠くない」

仲達は喜んだ。


孔明が七日後に亡くなる

果たして、その朝から孔明は病に伏した。

七日目に、陣幕の中で亡くなった。


蜀軍は孔明の死を隠す

蜀の副将たちは、

「孔明の死を知れば、魏軍は勢いを得て攻めてくる」

と恐れた。

そこで孔明の死を隠した。


死者の命令として進軍する

副将たちは、

「大将の命令である」

と全軍へ伝えた。

旗を進め、軍勢を整え、魏の陣へ攻めかかった。


仲達は五十里逃げる

仲達は、もともと正面から戦って蜀に勝てないと考えていた。

そのため一戦もせず、馬へ鞭を打ち、五十里も逃げた。

険しい場所まで来て、ようやく止まった。


「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

後世のことわざに、

死せる孔明、生ける仲達を走らす。

という言葉がある。

死んだ孔明の威名だけで、生きている司馬仲達を逃げさせたという意味である。


蜀・呉が滅び、魏が天下を得る

戦いが終わった後、蜀の兵は孔明が死んだことを知った。

多くが仲達へ降伏した。

その後、まず蜀が滅び、次に呉も滅びた。

『太平記』は、ここで「魏の曹操の国が、ついに天下を支配した」と語る。

※中国史との違い:史実では曹操は220年、劉備は223年に死去しており、234年の五丈原の戦いは劉禅の時代である。諸葛亮(孔明)はその五丈原で234年に没した。蜀漢は263年に滅び、魏も265年に司馬氏の晋へ取って代わられ、呉を滅ぼして中国を統一したのは280年の晋である。したがって、ここは『太平記』による故事の組み立てとして読む。


道献が義貞の夢を解釈する

斎藤道献は言った。

「この故事から、今の義貞殿の夢を考えるべきです。

現在の情勢は、魏・呉・蜀三国の争いによく似ています」


大蛇は臥龍を表す

「特に竜は、陽の気が盛んな時には威力を振るいます。

しかし陰の季節になれば、地中へ入って動かなくなります。

今は、まさに陰の季節が始まる時です」


水辺へ伏す竜は孔明の最期に似る

「そのうえ義貞殿は、竜の姿となり、水辺へ横たわったと御覧になった。

これは孔明が臥龍と呼ばれ、最後に病へ伏したことと違いません」


道献は吉夢との解釈を認めない

「皆様は、

『めでたい夢だ』

と解釈されました。

しかし私は、どうしてもその解釈へ同意できません」

道献は眉をひそめて語った。


誰も凶夢とは言わない

周囲の者たちも、話を聞いて、

「確かにそのとおりかもしれない」

という表情を見せた。

しかし心の中で不吉だと思っても、縁起の悪いことを口にするのを恐れた。

義貞へ向かって、

「凶夢です」

と言う者は一人もいなかった。

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184. 新田義貞の馬が暴れる


※史実との関係:新田義貞の戦死日は、一般に暦応元年/延元3年(1338年)閏7月2日とされる。この章の暴れる馬や旗差しの落馬は、最期を予告する凶兆として『太平記』が配置した場面である。

1338年閏7月2日、足羽合戦の触れ

暦応元年/延元3年(1338年)閏7月2日、

「この日に足羽城を攻める」

という命令が出された。

越前国内の官軍は、新田義貞の本陣が置かれた河合荘へ集まった。

その軍勢は雲や霞のような大軍だった。


義貞の装い

総大将の新田義貞は、赤い錦の直垂を着ていた。

鎧は脇を守る部分だけを着け、遠侍の上座へ座った。


脇屋義助の装い

脇屋義助は、紺色の錦の直垂を着ていた。

小具足だけを身につけ、左側の第一の座へ着いた。


新田一族三十余人

このほか、

  • 山名氏
  • 大館氏
  • 里見氏
  • 鳥山氏
  • 一井氏
  • 細屋氏
  • 中条氏
  • 大井田氏
  • 桃井氏

ら、新田一族30人余りが並んだ。


華やかな武装

彼らは、それぞれ思い思いの鎧と兜を身につけていた。

色とりどりの太刀や刀を帯び、華やかさを尽くして、東西二列へ並んだ。


外様の軍勢三万余人

一族以外の武将では、宇都宮美濃将監をはじめ、

  • 禰津氏
  • 風間氏
  • 敷地氏
  • 上木氏
  • 山岸氏
  • 瓜生氏
  • 河島氏
  • 大田氏
  • 金子氏
  • 伊自良氏
  • 江戸氏
  • 紀氏・清原氏両党

らが集まった。

着到を記された軍勢は、3万人余りに及んだ。


堂上と庭前を埋める兵

兵たちは旗竿を斜めへ寄せた。

膝を折り、手をつき、うやうやしく控えた。

堂上も庭前も、兵で埋め尽くされた。


義貞が各部隊へ目礼する

由良氏・船田氏が大幕を掲げた。

義貞は遠くから各軍勢へ目礼した。

各部隊は順番に座を立ち、総大将へ礼を行った。


尊氏を倒すのは義貞だと思われる

その姿は高く堂々とし、礼儀も立派だった。

この場を見た者は皆、

「足利尊氏から天下を奪う人物は、必ず新田義貞である」

と思った。


上木平九郎が攻城道具を運ぶ

この日の軍奉行は、上木平九郎だった。

上木は人夫6,000人余りへ、

  • 掻盾
  • 堀を埋める草木
  • 城壁の柱
  • 櫓の道具

などを持たせ、運び込んだ。


義貞が出陣の準備をする

義貞は中門へ出た。

鎧の上帯を締めさせ、出陣の準備を整えた。


水練栗毛という大馬

義貞が乗ろうとした馬は、水練栗毛と呼ばれる名馬だった。

体高は5尺3寸(約1.6m)もある大きな馬だった。


馬が突然暴れ出す

舎人が馬へ手綱を掛けた。

義貞が門前で乗ろうとした時、馬は突然、ひどく強情になった。

跳びはね、狂ったように暴れた。


二人の舎人が踏まれる

馬の左右にいた二人の舎人は、馬に踏みつけられた。

二人は半死半生の重傷を負った。


人々は不思議な前兆と見る

周囲の者たちは、

「これは不思議なことだ」

と怪しんだ。


旗持ちの馬も川で倒れる

さらに先頭の旗持ちが足羽川を渡ろうとした時だった。

旗持ちが乗っていた馬も、突然川の中へ伏した。

旗持ちは水の中へ落ち、全身が濡れた。


戦いの前に続く怪異

このような怪異が続き、戦いが始まる前から凶事を示していた。


今さら引き返すことはできない

しかし軍勢は、すでに戦場へ進もうとしていた。

「今さら引き返すことはできない」

と、人々は考えた。


兵たちは不安を抱いたまま進む

兵たちはほかの者と同じように、列を整えて戦場へ向かった。

しかし心の中で、

「この戦いは危険なのではないか」

と不安を抱かない者は、一人もいなかった。

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185. 新田義貞の最期


※史実と『太平記』:新田義貞が暦応元年/延元3年(1338年)閏7月2日に越前で戦死したことは史料・伝承で広く知られる。ただし、眉間に矢を受けた後に自ら首を切ったこと、首の確認方法、鬼切・鬼丸や宸筆の守りなどの細部は『太平記』が描く最期の物語として読む。

七つの城を包囲する

新田軍3万騎余りは燈明寺の前へ集まり、軍勢を七手に分けた。

そして斯波高経方が築いた七つの城を、それぞれ包囲した。

まず敵城の近くへ向城を築き、長期戦の準備を整える計画だった。


当初の攻城計画

あらかじめ決められていた作戦は、次のようなものだった。

「前方の兵は城兵と向かい合い、戦いを続ける。

その間、後方の足軽が櫓を組み、城壁を築き、向城を完成させる。

その後、時間をかけて敵城を一つずつ攻め落とす」

無理に城へ突入せず、包囲を固めてから攻める慎重な作戦だった。


藤島城が落ちそうに見える

ところが平泉寺の僧兵が立てこもる藤島城は、城内全体がひどく動揺しているように見えた。

「このまますぐに落ちるのではないか」

数万の寄せ手は、そう考えて勢いづいた。


攻城準備を捨てて突撃する

新田軍は向城を築くという当初の計画を放置した。

城壁へ取りつき、堀の中まで入り、大声で叫びながら一斉に攻め始めた。


平泉寺の僧兵も命を捨てて防ぐ

初めは敗れそうに見えた平泉寺の僧兵だったが、

「ここから逃げる場所は、どこにもない」

と悟ったのだろう。

命を捨てる覚悟を決め、必死に城を守った。


走り木と刀槍の応酬

新田軍が櫓を倒して城内へ入ろうとすると、僧兵は長い木を突き出し、敵を堀へ突き落とした。

僧兵が橋を渡って城外へ打って出れば、新田軍は槍先をそろえ、斬り倒した。

敵味方は進んでは退き、退いては入れ替わった。

激しい戦いが長く続いた。


日が西へ傾く

戦っているうちに時刻は過ぎ、太陽はすでに西の山へ沈もうとしていた。


義貞は燈明寺で負傷者を確認する

総大将の新田義貞は燈明寺の前へ控え、運ばれてくる負傷者の様子を確認していた。

しかし藤島城での戦いは予想以上に激しかった。

新田軍が、たびたび城兵に追い立てられているように見えた。


義貞が自ら藤島へ向かう

義貞は、この戦況を腹立たしく思ったのだろう。

馬を乗り換え、鎧も着替えた。

わずか50騎余りだけを従え、通常とは違う道へ入り、田の畔を伝って藤島城へ向かった。


黒丸城から300騎の救援軍が出る

同じころ黒丸城から、

  • 細川出羽守
  • 鹿草彦太郎

を大将とする300騎余りが出撃していた。

藤島城を攻める新田軍を、背後から追い払うためだった。


義貞と細川軍が突然出会う

細川軍は横畷を回って進んだ。

そこへ義貞の50騎余りが、真正面から行き合った。


細川軍には歩兵の射手が多い

細川軍には、歩兵として盾を持った射手が大勢いた。

彼らは深い田へ走り下りた。

前方へ持ち盾を並べ、その陰から義貞軍へ激しく矢を射た。


義貞軍には弓兵も盾もない

一方、義貞の側には射手が一人もいなかった。

盾1枚さえ持たせていなかった。

義貞の前にいた武士たちは、主君を矢から守るため、その前へ立ちふさがった。

そして動くことのできない的のように、次々と射られた。


中野藤内左衛門が退避を勧める

中野藤内左衛門は、義貞へ目で合図しながら申し上げた。

千鈞の強弩は、小さなネズミを射るためには引き金を引かない。

意味は、

「大将ほどの重要な人物が、このような小さな戦いで御自身を危険へさらすべきではありません」

ということだった。


「兵を失って自分だけ逃げるつもりはない」

しかし義貞は、中野の言葉を最後まで聞こうともしなかった。

「兵たちを失い、自分だけが助かることは、私の望むところではない」

そう言うと、さらに敵中へ突入しようとした。

名馬へ鞭を入れ、前へ進ませた。


義貞の馬が矢を受ける

義貞の馬は、名高い俊足の馬だった。

以前なら1〜2丈(約3〜6m)ほどの堀も簡単に跳び越えた、と『太平記』はその俊足を誇張して語る。

しかしすでに5本ほどの矢を受け、弱っていたのだろう。


小さな溝を越えられず転倒する

馬は小さな溝一つを越えることができなかった。

屏風を倒すように横倒しとなり、岸の下へ転がった。


義貞の左足が馬の下敷きになる

義貞は左足を馬の下へ挟まれた。

起き上がろうとした、その時だった。


矢が眉間へ突き立つ

白い羽根をつけた矢が1本飛んできた。

矢は兜の正面の外れから入り、眉間の中央へ深く突き立った。


義貞は意識を失いかける

急所への重傷だった。

義貞は一矢によって目の前が暗くなり、意識も乱れた。

「もはや助からない」

と悟ったのだろう。


自ら首を切る

義貞は抜いていた太刀を左手へ持ち替えた。

『太平記』では、義貞はそして自ら首を切ったと語られる。

切った首を深い泥の中へ隠し、その上へ体を横たえて倒れた。


氏家重国が義貞の首を取る

越中国の住人・氏家中務丞重国が、畔を伝って走り寄った。

泥の中から義貞の首を見つけて取り、槍の穂先へ貫いた。

さらに義貞の鎧・太刀・長刀も持ち、黒丸城へ急いで戻った。


三人の近臣が義貞の前で自害する

義貞の前方で、道をふさいで戦っていた、

  • 結城上野介
  • 中野藤内左衛門尉
  • 金持太郎左衛門尉

の三人は、義貞の死を知った。

馬から飛び降り、義貞の遺体の前へひざまずいた。

そして腹を切り、折り重なって倒れた。


四十余騎も全滅する

このほか40騎余りの兵も、堀や溝の中へ射落とされた。

敵を一人も討ち取ることができないまま、全員が死んだ。

『太平記』は、その死を「犬死に」とまで表現している。


三万余騎は義貞の死を知らない

この時、義貞の軍勢は3万騎余りだった。

誰もが勇敢であり、

「義貞の身代わりとなり、自分の命を差し出したい」

と思う者ばかりだった。


小雨と夕霧が戦場を覆う

しかし戦場には小雨が降り、夕霧が立ち込めていた。

誰がどこにいるのかも、見分けることができなかった。

そのため総大将が自ら戦い、討ち死にしたことを、誰も知らなかった。


義貞の馬だけが本陣へ戻る

離れた場所にいた家臣の一人が、主を失った義貞の馬へ乗り換え、河合方面へ退いた。

数万の官軍は、遠くからその馬を見た。


大将が退却したと誤解する

兵たちは、

「義貞殿が河合へ退かれた」

と思い込んだ。

事情を確かめることもなく、

「大将の後へ従おう」

と、それぞれ勝手に退却した。


大将が自ら小戦へ出る危険

漢の高祖は淮南の黥布を自ら討った時、流れ矢に当たり、後に未央宮で亡くなった。

斉の宣王も、自ら楚軍と短兵を交えて武器に貫かれ、戦場で死んだという。


蛟龍は深い淵にいるべきである

古い言葉に、

蛟龍は、常に深い淵の中へ身を置く。
浅瀬へ出れば、漁師の網や釣り針に掛かる危険がある。

とある。


『太平記』は義貞の行動を批判する

義貞は天皇の手足となる重臣であり、武将の最高位に立つ人物だった。

その身を慎み、命を保ってこそ、天下を回復する大きな功績を立てられたはずである。

それなのに自ら重要でもない小さな戦場へ向かい、名もない一兵士の矢によって命を失った。

運が尽きたとはいえ、まことに残念なことだったと、『太平記』は論評している。


氏家重国が首を高経へ差し出す

戦いが終わると、氏家重国は斯波高経の前へ参上した。

「私が新田殿の一族と思われる敵を討ち、首を取りました。

名乗らなかったため、名前は分かりません」


尋常の武士ではないと説明する

「しかし馬や武具の様子を見ると、普通の武士ではありません。

その者に従っていた兵たちも、遺体を見て腹を切り、討ち死にしました。

身分の低い兵とは思われません」


血と泥のついた首と御守り

氏家は、

「これが、その死者の肌へ掛けられていた御守りです」

と言った。

血をまだ洗っていない首へ、泥のついた金襴の御守りを添えて差し出した。


高経が義貞に似ていると気づく

高経は首をよく見た。

「ああ、不思議なことだ。

新田左中将の顔立ちと、たいへんよく似ている。

もし義貞本人であれば、左の眉の上に矢傷の跡があるはずだ」


左眉の傷跡を確認する

高経は自ら鬢櫛で髪をかき上げた。

血と泥を洗い落とし、顔を確認した。

すると、確かに左眉の上へ古い傷跡があった。


鬼切・鬼丸の太刀

さらに高経は、死者が帯びていた二振りの太刀を取り寄せた。

どちらも金銀を延べて、華麗に作られていた。

一振りには銀で、

鬼切

という文字が刻まれていた。

もう一振りには金で、

鬼丸

という文字が入れられていた。


源氏重代の宝物

この二振りは、ともに源氏へ代々伝わる宝物であり、義貞のもとへ伝わったと聞かれていた。

新田一族の末端の者が、身につけられる太刀ではなかった。


御守りから後醍醐天皇の勅書が出る

高経は、さらに不審を深めた。

肌へ掛けられていた御守りを開いた。

すると中には、吉野の後醍醐天皇が自ら書いた勅書が入っていた。


宸筆の内容

勅書には、およそ次のように書かれていた。

朝敵征伐について、朕の期待はひとえに義貞の武功へかかっている。
ほかの者を選ぶつもりはない。
特に急いで計略を実行するように。


義貞本人と確定する

高経は、

「これで新田義貞の首に間違いない」

と確認した。


遺体を往生院へ送る

義貞の遺体は輿へ乗せられた。

時衆の僧8人に担がせ、葬儀を行うため往生院へ送った。


首を京都へ送る

首は朱塗りの唐櫃へ入れられた。

氏家重国を付き添わせ、ひそかに京都へ送ったのである。

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186. 脇屋義助、敗残兵を集める


義助が石丸城へ戻る

脇屋右衛門佐義助は、河合荘の石丸城へ戻った。

そして兄・新田義貞の行方を尋ねた。


初めは義貞の生死が分からない

初めのうちは、事情をはっきり知る者がいなかった。

しかし時間がたつにつれて、戦場で起きたことが少しずつ明らかになった。

やがて人々は、

「義貞殿は討ち死にされた」

と語り合うようになった。


義助は黒丸城で討ち死にしようとする

義助は言った。

「日を改める必要はない。

すぐに黒丸城へ攻め寄せよう。

兄上が討たれた場所で、自分もともに討ち死にする」


兵たちは呆然として動けない

しかし兵たちは、義貞の死へ驚き、心を失っていた。

ただ呆然としているばかりで、戦おうというはっきりした気勢は起こらなかった。


城へ放火しようとする者が現れる

さらに人々の心は、たちまち義助から離れ始めた。

軍中には、すでに敵へ通じる者がいたらしい。

石丸城へ火をつけようとする事件が、一夜のうちに三度も起こった。


斎藤季基・道献も逃れる

斎藤五郎兵衛尉季基と、斎藤七郎入道道献は、義貞から特に信頼された近臣だった。

二人は城門前の左右へ陣所を並べていた。

しかし幕を捨て、夜の間にどこかへ逃げ去った。


出家する者、降伏する者

これを始まりとして、軍勢は次々に離散した。

ある者は、信仰心もないまま急いで出家し、往生院や長崎の道場へ入った。

ある者は縁故を頼り、自分の罪をわびて、黒丸城の斯波高経へ降伏した。


3万騎が2,000騎以下となる

昨日まで3万騎を超えていた軍勢は、一夜のうちに消え失せた。

翌日には、2,000騎にも満たなくなっていた。


北陸全体を守ることはできない

義助は考えた。

「これほど軍勢が減っては、北陸全体を支配し続けることはできない」

そこで各地の重要な城へ、将を残すことにした。


三つの城へ守将を置く

三峰城には河島氏を入れた。

杣山城には瓜生氏を残した。

湊城には畑六郎左衛門尉時能を置いた。


義助・義治父子が越前国府へ戻る

暦応元年/延元3年(1338年)閏7月11日、脇屋義助は息子の義治とともに出発した。

従ったのは、

  • 禰津氏
  • 風間氏
  • 江戸氏
  • 宇都宮氏

らの兵700騎余りだった。

義助・義治父子は越前国府へ戻ったのである。

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187. 新田義貞の首、獄門へ――勾当内侍の悲嘆


※勾当内侍について:勾当内侍と新田義貞の恋愛・夫婦関係、この章に描かれる再会寸前の悲劇や出家は、『太平記』で強く文学化された物語である。勾当内侍の実像や系譜には後世の異伝もあり、本文の設定をそのまま確定した史実とはしない。

義貞の首が京都へ着く

新田義貞の首が京都へ到着した。

足利方は、

「この者こそ朝敵の中心であり、足利家へ敵対した武将の第一人者である」

として、首を都の大路で引き回した。

その後、獄門へ掛けてさらした。


京都の人々が義貞の死を悲しむ

義貞は後醍醐天皇から深く信頼された臣下だった。

武功も天下に知られていた。

そのため義貞を天下の頼みとし、その厚意を喜び、恩を受けた人々は数えきれないほどいた。


大路を人々が埋める

義貞の首が引き回されると、車や馬が道を埋めた。

男女は道の分かれ目に立ち、その様子を見守った。

しかし正視することができず、人々が泣き悲しむ声が都中へ満ちた。


勾当内侍の悲しみ

中でも、『太平記』で義貞の恋人・妻として描かれる勾当内侍の悲しみは、特に哀れなものだった。

『太平記』は、勾当内侍を頭大夫行房の娘としている。

※人物比定の注意:勾当内侍の系譜には異説があり、現代の人名辞典には一条経尹の三女で行房の妹とする説明もある。したがって、ここでは『太平記』本文の「行房の娘」という設定を保存し、確定した系譜とはしない。


宮中で仕えた美しい女房

勾当内侍は十六歳ほどのころから、内侍として天皇のそばへ仕えた。

華やかな御殿の奥で暮らし、美しい装いを身につけていた。


花や月にたとえられる容姿

薄い絹の衣さえ重く感じられるほど、繊細で美しい姿だった。

その顔は、春風が多くの花を吹き散らした中で、ただ一輪だけ残った花のようだった。

紅をつけた顔は、秋の雲が川の上へ月を吐き出したように明るかった。


宮中の女性たちも気に掛ける

宮中の多くの女性たちは、勾当内侍のもとへ誰が通うのかを気にした。

夜を知らせる宮中の鐘が鳴るたび、

「今夜も何と長いことだろう」

と、さまざまな思いを抱いたという。


建武年間初めの出会い

建武年間の初め、天下が再び乱れようとしていたころだった。

新田義貞はたびたび宮中へ召され、内裏の警護に当たっていた。


月夜に琴を弾く勾当内侍

ある秋の夜、月は冷たく、風も秋らしく吹いていた。

勾当内侍は簾を半分巻き上げ、琴を弾いていた。


義貞が琴の音へ引かれる

義貞は、物悲しい琴の音へ心を引かれた。

思わず宮中の月の下へ立ち、歌を口ずさんだ。

心は何となく体から離れ、勾当内侍の方へさまようようだった。


唐垣の陰から見つめる

義貞は唐垣のそばへ身を隠し、勾当内侍の姿をうかがった。

しかし勾当内侍は、

「誰かに見られている」

と気づいた。

気まずそうに琴を弾くのをやめた。


有明の月の下の姿

夜は深くなった。

有明の月が、隅々まで明るく差し込んだ。

勾当内侍は、

「月までが私につらく当たるのだろうか」

というように、月を眺めた。

そして悲しみに沈み、横たわった。


萩の露よりもはかない姿

その姿は、折ればすぐに落ちてしまいそうな萩の露のようだった。

拾おうとすれば消えてしまう玉のようでもあった。


義貞は恋の道へ迷い込む

義貞は、自分の今後も分からない道へ迷い込んだように感じた。

帰る方向さえ分からなくなった。

淑景舎の近くを離れられず、そのまま夜を明かした。


昼も夜も内侍を思う

朝早く退出しても、昨夜見た美しい面影が、なお目の前に残っているようだった。

世の中の出来事も、人々の会話も、心へ入らなかった。


寝ることも起きることもできない

義貞は、いつからともなく、眠ることも起きることもできなくなった。

夜を明かし、日を暮らし、勾当内侍のことばかり考えた。


仲介者を探す

「もし道を案内する海人がいるならば、忘れ草が生えるという浦まででも、尋ねて行きたい」

それほどまでに思い沈んだ。

義貞は、ついに二人の間を取り持つ者を探し出した。


義貞が歌を送る

義貞は、

「少しだけでも、この思いを知らせたい」

と考えた。

はっきりと恋心を語らず、風に揺れる荻の穂ほどに、わずかに気持ちを示す歌を送った。

我が袖の
涙に宿る
影とだに
知らで雲居の
月や澄むらん

意味は、およそ次のようになる。

あなたは、私の袖へ流れる涙の中に御自分の面影が映っていることさえ知らず、
高い空の月のように、澄んでおられるのでしょうか。


勾当内侍は手紙を受け取らない

しかし勾当内侍は、

「このことを天皇に聞かれたならば、恐れ多い」

と考えた。

たいへん心を動かされた様子ではあったが、手紙を手に取ることさえしなかった。

使者は戻り、そのことを義貞へ伝えた。


義貞は深く落胆する

義貞は、ますます悲しみに沈んだ。

言葉では表せないほど思い悩み、生きていることさえ頼りにはできないと感じるようになった。


後醍醐天皇が二人の恋を知る

誰が申し上げたのか、後醍醐天皇も義貞の思いを知った。

天皇は、

「義貞は東国育ちの武士であり、恋心の扱い方も分からない。

そのような義貞が、これほど深く思い始めたのも無理はない」

と、哀れに思った。


天皇が勾当内侍を義貞へ与える

ある宴の席で、後醍醐天皇は義貞を呼び、酒を与えた。

そして言った。

「勾当内侍を、この盃とともにお前へ与えよう」


義貞は限りなく喜ぶ

義貞は、身に余る恩だと、限りなく喜んだ。

翌日の夜、すぐに美しく整えた牛車を用意し、勾当内侍のもとへ訪れると知らせた。


勾当内侍も義貞を待っていた

勾当内侍も、この長い間の義貞の思いを知り、

「きっかけとなる水の流れさえあれば、その心へ従ってもよい」

と思っていたのだろう。

夜がそれほど深くならないうちに、牛車の音が聞こえた。

車は中門へ入り、轅を向けた。

侍女たちは驚き、妻戸を閉じようとして騒いだ。


二人は結ばれる

義貞は何年もの間、恋い忍んできた女性と、ついに会うことができた。

その喜びは、三千年に一度咲くという優曇華の春を、ようやく迎えたようだった。

二人は深い契りを結んだ。


『太平記』が義貞の恋を批判する

しかし二人の恋心を諫める者はいなかった。

『太平記』は、この恋が後の義貞の軍事行動へ悪い影響を与えたと語っている。


尊氏追撃への出発が遅れる

建武年間の末、足利尊氏が敗れて西国へ逃れた時も、義貞は勾当内侍とのしばらくの別れを悲しんだ。

そのため進軍が遅れたという。


比叡山でも追撃の機会を逃す

その後、後醍醐天皇が比叡山へ移った時、足利軍は大嶽方面から追い落とされた。

そのまま追撃すれば、京都さえ奪回できる状況だった。


恋に心を奪われたとする語り

しかし義貞は勾当内侍への思いに迷い、勝利の勢いに乗って疲れた敵を攻めることを重視しなかった。

その隙を突かれ、ついには足利方へ国を奪われたと『太平記』は述べる。


「一度の笑いが国を傾ける」

昔の人が、

美女が一度ほほ笑めば、国さえ傾ける。

と戒めたことも、もっともだと思われると、『太平記』は恋愛と政治を結びつけて論評している。


北国へ落ちる際に今堅田へ残す

義貞が坂本から北陸へ落ちていった時、旅の困難を考え、勾当内侍を今堅田という場所へ残した。


生き別れの悲しみ

普通の旅立ちでさえ、去る者は後ろを振り返り、故郷の山に掛かる雲へ顔を向ける。

残る者は旅人の行く末を思い、遠い空へ降る雨のように涙を流す。


再会できる保証はない

まして義貞は、将来の見通しもない北国へ向かった。

生きて再び会えるかどうかも分からなかった。


内侍も発見を恐れる

勾当内侍は都に近い漁師の粗末な家へ、身を隠した。

「足利方に発見され、不名誉な噂を世間へ広められるのではないか」

と、別の不安も抱いていた。


父・行房の死

翌年の春、

「『太平記』の筋で父とされる行房が金ヶ崎城で討ち死にした」

という知らせが届いた。

勾当内侍は、恋人との別離に、父を失った悲しみまで加えられた。


二年余りを悲しみの中で過ごす

「明日まで生きていても、何になるだろう」

と嘆き沈んだ。

それでも露のような命は、簡単には消えなかった。

起きても座っても、涙で濡れた袖を乾かすことができないまま、二年余りが過ぎた。


義貞とは手紙だけを交わす

義貞も越前へ到着した日から、

「すぐに迎えを送りたい」

と思っていた。

しかし北陸までの道は危険だった。

また世間の人々が何を言うかという遠慮もあった。

そのため二人は、時折手紙を交わすことだけを命の支えとして、年月を送った。


義貞が迎えを送る

その年の秋の初め、道中も少し静かになった。

義貞は勾当内侍を迎えるため、人を京都方面へ送った。


勾当内侍が杣山へ到着する

勾当内侍は、この三年間、暗い夜の闇へ迷い続けていた。

迎えを受けた時には、突然夜が明けたように感じた。

すぐに北陸へ向かい、まず杣山へ到着した。


義貞は足羽へ出陣していた

ところが義貞は、

「足羽という場所へ出陣している」

と聞かされた。

杣山には、義貞の姿がなかった。


浅津橋で瓜生軍と出会う

勾当内侍は杣山から輿を引き返させ、浅津橋を渡った。

そこへ瓜生弾正左衛門尉が、100騎ほどを率いて通りかかった。


瓜生が義貞の死を告げる

瓜生は馬から飛び降り、輿の前へひれ伏した。

「これは、どちらへ向かわれるのでしょうか。

新田殿は昨日の夕方、足羽という場所で討ち死になさいました」

言い終わらないうちに、瓜生は涙を次々とこぼした。


勾当内侍は涙も流せない

勾当内侍は、

「これはいったい、どのような夢の中の現実なのだろう」

と思った。

胸がふさがり、気が遠くなった。

あまりの衝撃で、かえって涙も流れなかった。

輿の中へ伏し、沈んだ。


義貞の死んだ場所へ行こうとする

やがて勾当内侍は泣きながら言った。

「せめて、あの方が討たれた野原へ連れていってください。

草の露の下にでも、自分の身を捨てて帰ってください。

それほど長く遅れずに、私もあの方とともに消えてしまいたい」


杣山へ連れ戻される

しかし周囲の者は、

「すぐに輿を引き返せ」

と命じた。

勾当内侍は急いで、再び杣山へ戻された。


義貞の書き残した言葉

「ここが義貞殿の住んでいた場所です」

と言われた。

勾当内侍が、色紙を貼り散らした障子の内側を見ると、義貞が何気なく書き残した筆跡があった。


書かれていたのは都への思い

どの書きつけにも、

「いつになれば京都へ戻ることができるだろう」

という意味の言葉ばかりが記されていた。

義貞は都への帰還を思いながら、歌や文章を書き残していたのである。


空しい形見

勾当内侍は、主を失った筆跡を形見として見た。

そのたびに悲しみは、ますます深くなった。


四十九日まで杣山にいたいと願う

心が慰められることはなかった。

それでも義貞が住んでいた場所である。

「ここで四十九日を過ごし、亡き人の後世を弔いたい」

と思った。


敵が近づき京都へ送り返される

しかし間もなく周辺も騒がしくなり、

「敵が近づいている」

という知らせが届いた。

城の麓へ置いておくことは危険だった。

勾当内侍は再び京都へ送り返された。


仁和寺近くの荒れた家

勾当内侍が置かれたのは、仁和寺付近の寂しい家だった。

家の主人さえ住まなくなり、ヨモギが生い茂る荒れた屋敷だった。


京都さえ旅先のように感じる

京都へ戻っても、今の勾当内侍にとっては、かえって旅先のようだった。

決まった住まいもない。

心はさまよい、袖は涙で濡れ続けた。

「どこに、浮舟のような自分の身を寄せればよいのだろう」

と思った。


昔の知人を訪ねる

勾当内侍は、以前知っていた人の行方を尋ね、陽明門付近へ向かった。


道に大勢の人が集まっている

その途中、大勢の人々が集まり、

「ああ、何と哀れなことだ」

と話している声が聞こえた。

勾当内侍は、

「何があったのだろう」

と立ち止まった。


獄門に掛けられた義貞の首

そこには、勾当内侍が遠い北陸まで尋ねていきながら、会うことのできなかった新田義貞の首があった。

獄門の木へ掛けられていた。

目は閉じ、顔色は変わっていた。


勾当内侍が泣き倒れる

勾当内侍は、二度とその首を見ることができなかった。

近くの築地塀の陰へ倒れ、声を上げて泣いた。


見知らぬ人々も涙を流す

勾当内侍を知る者も、知らない者も、その姿を見た。

ともに涙を流さない者はいなかった。


近くの僧が保護する

日が暮れても、勾当内侍には帰る力がなかった。

ヨモギの根元へ置かれた露のように、地面へ伏して泣き続けた。

近くの道場にいた僧が言った。

「余りにもお気の毒です」

そして勾当内侍を寺内へ招き入れた。


その夜に出家する

勾当内侍は、その夜のうちに美しい黒髪を剃り落とした。

華やかな顔を墨染めの衣へ変え、尼となった。


無常の道理を悟る

しばらくの間は、義貞の面影をいつも身近に感じ、泣き悲しんだ。

しかし、

「出会った者は必ず別れる」

という会者定離の道理を理解するようになった。


愛別離苦の夢から覚める

愛する者と別れる苦しみも、結局は迷いの中の夢である。

そう考えるにつれて、汚れた現世を離れたいという心は、日に日に深くなった。


極楽往生を願う

極楽浄土へ生まれたいという願いも、時が過ぎるほど強くなった。


嵯峨の奥で義貞を弔う

勾当内侍は嵯峨の奥、往生院付近にある粗末な柴の庵へ入った。

そこで朝も夕も仏道修行へ専念した。

義貞の菩提を弔いながら、静かに残る生涯を送ったのである。

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188. 奥州下向の船団、暴風に遭う


※第八皇子について:『太平記』本文の「第八宮」は、後文から義良親王(後の後村上天皇)を指す。しかし本文は「今年7歳」とする一方、後村上天皇の生年は1328年とされ、1338年の年齢とは合わない。年齢は『太平記』本文上の数字として残す。また、暴風の中に日輪が現れて皇子の船を守る場面は、皇位継承を予告する神異として描かれている。

吉野の宮方は有力な大将を相次いで失う

吉野では、奥州国司の北畠顕家が阿倍野で討ち死にし、その弟である春日少将顕信も八幡山の城を失っていた。

そのため宮方の兵たちは、皆、力を失っていた。

それでも、

「新田義貞が北陸から京都へ攻め上る」

という知らせが届いていた。

後醍醐天皇は、この知らせだけを頼みとし、

「今に義貞が来るだろう」

と待っていた。


新田義貞の死が伝わる

ところが、その義貞までもが足羽で討ち死にしたという知らせが届いた。

後醍醐天皇の悲しみは、蜀の後主が諸葛孔明を失った時、あるいは唐の太宗が魏徴の死を嘆いた時のようだった。

天皇の御心は、少しも穏やかではなかった。

宮方の武士たちも、皆、顔色を失った。


結城宗広(道忠)が奥州再建を進言する

その時、奥州の住人・結城宗広(法名・道忠、結城上野入道)が参内し、後醍醐天皇へ申し上げた。

「北畠顕家卿が三年のうちに二度も大軍を率いて上洛できたのは、出羽・奥州の両国がすべて国司へ従い、足利方が入り込む隙を与えなかったためでございます」


皇子を奥州へ送るよう求める

「奥州の武士たちの心が、まだ足利方へ移らないうちに、皇子のお一人を奥州へお下しください。

忠義を尽くした者には、皇子から直接恩賞をお与えください。

不忠で役に立たない者は、根を断ち、葉を枯らすように厳しく処分してください」


奥州は日本の半分にも及ぶ

「国の広さを見ますと、奥州五十四郡は、ほとんど日本国の半分にも及びます。

もし国内の兵を残らず一つへまとめれば、40万、50万騎にもなるでしょう」


一年以内に京都へ攻め上ると誓う

「この道忠が皇子をお守りし、老いた頭へ再び兜をかぶることができるならば、もう一度京都へ攻め上ります。

会稽の恥をすすぐまで、一年もかからないでしょう」

ここでいう「会稽の恥」とは、敗北の屈辱を後に晴らした越王勾践の故事を指す。


朝廷は道忠の提案を採用する

後醍醐天皇をはじめ、左右にいた老臣たちは皆、

「まことに道理のある意見である」

と賛成した。


『太平記』が「7歳」とする第八皇子を奥州へ送る

そこで『太平記』では、「今年7歳になった」とする第八皇子・義良親王へ元服の儀式を行わせた。

そして、

  • 春日少将北畠顕信を補佐役
  • 結城宗広(道忠)を護衛の武将

として、皇子を奥州へ下すことにした。


新田義興と北条時行も東国へ送る

さらに、

  • 新田義興
  • 北条時行

の二人へ、

「東国八か国を平定し、奥州へ下る皇子へ力を添えよ」

と命じた。

二人は武蔵・相模方面へ送られた。


伊勢大湊から船で出発する

陸路には足利方の敵が多く、通行は難しかった。

そのため奥州へ向かう一行は、伊勢国の大湊へ集まった。

船をそろえ、順風を待った。


静かな海へ500艘が出航する

9月12日の夕方から風がやみ、雲も消えた。

海上は、特に静かになった。

船乗りたちは船をつないでいた綱を解き、遠い空へ向けて帆を上げた。

『太平記』によれば、兵船は500艘余りに及んだ。

皇子の御座船を中央に置き、東国へ向かった。


天竜灘で暴風に遭う

船団が遠江国の天竜灘を通過していた時だった。

海からの風が突然激しく吹き荒れた。

逆巻く波が、たちまち空を巻き返すように高く上がった。


帆柱を折られる船

ある船は帆柱を吹き折られた。

小さな帆だけを残し、風に流されながら走った。


舵を失い、渦へ漂う船

ある船は舵を折られた。

流れの中を回転し、どこへ行くともなく漂った。


風向きも定まらない

日が暮れると、風はさらに激しくなった。

一方向から吹くのではなく、次々と向きを変えた。


船団は各地へ吹き流される

船団の船は、

  • 伊豆大島
  • 女良湊
  • 亀川
  • 三浦
  • 由比ヶ浜

をはじめ、各地の港や海岸へ吹き寄せられた。

どこかの岸へ流れ着かなかった船は、ほとんどなかった。


皇子の御座船だけが大海へ放り出される

ところが皇子が乗る御座船1艘だけは、果てしない大海へ流された。

船は今にも転覆しそうになった。


船首へ輝く日輪が現れる

その時、まばゆい光を放つ太陽が、御座船の船首の前へ現れたように見えた。

すると風向きが突然逆転した。

御座船は東へ流されるのをやめ、伊勢国の神風浜へ吹き戻された。


日輪の守護と考えられる

多くの船が行方不明となった。

その中で皇子の御座船だけが、輝く日輪の守護によって伊勢へ戻された。

人々は、

「これは普通の出来事ではない」

と考えた。


天照大神が皇位継承を示したと解釈する

人々は言った。

「この皇子は将来、天皇の位を継ぐべきお方である。

九五の天位、すなわち最高の皇位へつかれることを、天照大神がお示しになったのだ」


奥州下向を中止して吉野へ戻す

そこで皇子の奥州下向は、ただちに中止された。

皇子は再び吉野へ戻された。


後に南朝の天皇となる

『太平記』は、後醍醐天皇が亡くなった後に南朝の皇位を継いだ吉野の新帝、すなわち後村上天皇こそ、この第八皇子・義良親王だったと結びつけている。

『太平記』は、暴風の中へ現れた日輪を、後の皇位継承を示す神意として描いている。

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189. 結城宗広、地獄へ堕ちる夢


※史実と説話:結城宗広は法名を道忠といい、1338年、奥州へ向かう途中に暴風で伊勢へ戻され、同地で没したとされる。なお、地獄の光景を見るのは宗広本人ではなく、旅の僧である。地蔵菩薩の出現、宗広が地獄で責められる場面、追善供養による救済は、『太平記』が因果応報を説く仏教説話として描いたものである。

結城宗広(道忠)の船は7日7夜漂流する

船団の中でも、結城宗広(法名・道忠、結城上野入道)が乗った船は、特に激しい暴風へ吹き流された。

果てしない海の上を、7日7夜にわたって漂った。


海底か羅刹国へ落ちるかと思われる

船中の者たちは、

「このまま大海の底へ沈むのではないか」

「人を食う羅刹の国へ流れ着くのではないか」

と思った。


伊勢の安濃津へ流れ着く

やがて風が少し静まった。

道忠の船も伊勢国の安濃津へ吹き寄せられた。


なお奥州下向をあきらめない

道忠は安濃津で十日余りを過ごした。

その後も、

「もう一度、奥州へ下ろう」

と考え、海を渡る順風を待っていた。


突然重病となる

ところが道忠は突然、重い病気となった。

起き上がることも、座ることもできなくなった。

定められた寿命が尽きようとしていることは、明らかだった。


善知識の僧が臨終を諭す

臨終を導く僧が、道忠の枕元へ近づいて言った。

「これまでは、まだ回復なさるのではないかと思っておりました。

しかし御病気は、日ごとに重くなっております。

御臨終の日は、遠くないと思われます」


念仏の中で来迎を待つよう勧める

「決して来世の善い場所へ生まれたいという願いを怠ってはなりません。

仏の名を唱える声の中で、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の来迎をお待ちください」


心残りを尋ねる

「今の世について、何か思い残すことはありますか。

気に掛かることがあるならば、今のうちにおっしゃってください。

御子息方へも、お伝えいたしましょう」


道忠が突然起き上がって笑う

道忠は、すでに目を閉じようとしていた。

しかし僧の言葉を聞くと、突然、勢いよく上半身を起こした。

からからと大声で笑い、震える声で言った。


現世に思い残すことはない

「私はすでに七十歳に達した。

栄華も身に余るほど得た。

今の世については、何一つ思い残すことはない」


朝敵を滅ぼせなかったことだけが妄念

「ただ今回、京都へ上りながら、ついに朝敵を滅ぼせなかった。

そのままむなしく黄泉の旅へ向かうことだけが、長い未来の生まれ変わりにまで残る執念となるだろう」


子へ追善供養を禁じる

「息子の大蔵権少輔へ伝えてほしい。

父の来世を弔おうと思っても、仏へ供え物をし、僧へ施しを行ってはならない」


読経も念仏もするなと命じる

「念仏や読経による追善供養も、決して行ってはならない」


朝敵の首を墓前へ並べよ

「ただ朝敵の首を取り、私の墓の前へ並べて見せよ。

父がこのように言い残したと、必ず伝えてほしい」


歯を食いしばって死ぬ

道忠は、これを最後の言葉とした。

刀を抜き、逆手に持った。

そして歯を強く食いしばったまま死んだ。


前代未聞の悪い臨終

重い罪を持つ者は多い。

しかし臨終の際、これほど恐ろしい様子を見せた者は、昔から今まで聞いたことがないと『太平記』は述べる。


道忠は十悪五逆の悪人だった

道忠の普段の行いを聞けば、十悪・五逆という重罪を極限まで重ねた悪人だったという。


狩猟だけなら世俗の習い

鹿を狩り、鷹を使うことは、世俗の武士が行うことである。

その程度ならば、改めて述べるほどでもない。


罪のない者や僧尼を殺す

しかし道忠は、罪のない者を殴り、縛った。

僧侶や尼を殺したことも、数えきれなかった。


毎日、人の首を見ようとする

道忠は日ごろから、

「死者の首を見なければ、気分が晴れない」

と言っていた。

僧侶・俗人、男・女を区別しなかった。

毎日二人、三人の首を切らせ、わざわざ自分の目の前へ掛けさせた。


道忠の周囲は処刑場のようだった

道忠がしばらく滞在した場所には、死者の骨が満ちていた。

動物を殺す屠殺場のようだった。

遺体が積み重なり、広い墓場のようだった。


故郷では道忠の死をまだ知らない

道忠は伊勢国で亡くなった。

奥州から遠く離れていたため、故郷の妻子は、まだその死を知らなかった。


一人の律僧が下総へ向かう

そのころ道忠と縁のある一人の律僧が、武蔵国から下総国へ向かっていた。

日が暮れ、周囲には人家もなかった。

僧は泊まれる場所を探していた。


山伏が現れる

すると一人の山伏が現れた。

山伏は言った。

「どうぞ、こちらへおいでください。

この近くに旅人をもてなす場所があります。

そこへ御案内いたしましょう」


鉄の築地と金銀の楼門

旅の僧は喜び、山伏の後へ従った。

長い距離を歩くと、鉄で造られた築地塀が見えた。

その中には、金銀で飾られた楼門が建っていた。


「大放火寺」

僧が門の額を見ると、

大放火寺

と書かれていた。

文字どおりならば、「大いに火を放つ寺」という不気味な名だった。


「理非断」と書かれた仏殿

門から中へ入ると、華麗で美しさを尽くした仏殿があった。

その額には、

理非断

と書かれていた。

善悪や道理・非道を裁く場所という意味だった。


僧は宿泊所へ入れられる

山伏は僧を、旅僧のための宿泊所へ案内した。

そして自分は建物の奥へ入っていった。


法華経を持って戻る

しばらくすると、山伏は螺鈿細工の箱を持って戻った。

箱の中には法華経が入っていた。


恐ろしいことが起こると告げる

山伏は言った。

「これから、ここで不思議な出来事が起こります。

どれほど恐ろしくても、息を荒らげてはなりません。

口・身・心の三つの行いを静め、この法華経を読んでください」


寿量品と普門品を読む

山伏は法華経第六巻のひもを解き、如来寿量品を読んだ。

旅僧へは第八巻を渡し、観世音菩薩普門品を読ませた。


僧は妄想を払い、静かに座る

僧は、

「いったい何が起こるのだろう」

と不思議に思った。

しかし山伏の言葉に従った。

口では経を読み、心から余計な思いを払い、静かに座った。


夜半、月が隠れ雷雨となる

夜中を過ぎたころ、月が突然、雲へ隠れた。

激しい雨が降り、稲妻が光った。


牛頭・馬頭と羅刹が集まる

牛の頭をした獄卒、馬の頭をした獄卒、阿防・羅刹と呼ばれる鬼たちが、数えきれないほど大庭へ集まった。


周囲が無間地獄へ変わる

天地は一瞬で変わり果てた。

鉄の城が高くそびえ、鉄の網が四方へ張られた。

激しい猛火が燃え上がり、その炎は1由旬もの広さへ満ちた。由旬は古代インド・仏教世界の距離単位で、時代や文献により値が異なるため、一定のkmには換算しない。

毒蛇は舌を伸ばして炎を吐いた。

鉄の犬は牙を研ぎ、怒って吠えた。


僧は阿鼻地獄だと悟る

僧は、この光景を見た。

「ああ、恐ろしい。

ここは無間地獄に違いない」

震えながら見ていた。


火の車が空から来る

すると火の車が、罪人一人を乗せて現れた。

牛頭・馬頭の鬼たちが車の轅を引き、空中から降りてきた。


鉄のまな板へ罪人を挟む

待ち構えていた鬼たちは、岩のように大きな鉄のまな板を庭へ置いた。

罪人を仰向けに寝かせ、その上へもう一枚の鉄板を重ねた。


鬼たちが罪人を押しつぶす

鬼たちは膝を曲げ、腕を伸ばした。

「えいや、えいや」

と声を合わせ、上下の鉄板を押した。


血が油のように流れ出す

鉄板の端から血が流れた。

油がしたたり落ちるようだった。

鬼たちは、その血を大きな鉄の桶へ受けた。


鉄桶が血で満ちる

桶は、すぐに血で満杯となった。

その赤い血は、夕日を映す大河のように波打った。


紙のように薄くなった罪人

鬼たちは上の鉄板を取り除いた。

罪人の体は、紙のように薄く押しつぶされていた。


鉄串へ刺して焼く

鬼たちは罪人を鉄の串へ刺し貫いた。

炎の上へ立て、何度も裏返しながら焼いた。

料理人が肉を調理する姿と、まったく変わらなかった。


細かく切り刻む

完全に焼き乾かすと、再び罪人を鉄板の上へ広げた。

鉄の箸で押さえ、鋭い包丁によって1寸(約3cm)ごとに切り分けた。

切った肉を銅の箕の中へ投げ入れた。


「生きよ」と唱えて蘇らせる

牛頭・馬頭の鬼は箕を持ち、

「生きよ、生きよ」

と唱えながら振った。

すると罪人は、たちまち蘇り、元の人間の姿へ戻った。


「地獄が責めるのではない」

阿防羅刹は鉄の道具を持ち、罪人へ怒鳴った。

地獄が、お前を責めるのではない。
お前自身の罪が、お前を責めているのだ。


泣こうとしても涙が出ない

罪人は激しい苦しみを受けた。

泣こうとしても、涙は流れなかった。

猛火が目を焼いていたためである。


叫ぼうとしても声が出ない

叫ぼうとしても、声が出なかった。

熱い鉄の玉が喉をふさいでいたためである。

この苦しみを一瞬分だけ語ったとしても、聞いた者は恐ろしさのあまり地面へ倒れるだろう。


僧が罪人の名を尋ねる

旅僧は、この光景を見た。

魂が体から抜け、骨の髄まで砕けるような恐怖を感じた。

山伏へ尋ねた。

「これは、いったいどのような罪人が、このように責め苦を受けているのでしょうか」


罪人は結城宗広(道忠)だった

山伏は答えた。

「この者こそ、奥州の住人・結城上野入道です。

伊勢国で亡くなり、阿鼻地獄へ落ちて責められているのです」


一日経を書写するよう遺族へ伝える

「あなたと縁のある人物ならば、故郷の妻子へ伝えてください。

一日で法華経一部を書き写して供養し、この苦しみから救うようにと」


山伏の正体は地蔵菩薩

「私は道忠が今度上洛した時、鎧の袖へ名を書いていた者です。

六道を巡って人々を教え導く地蔵菩薩です」

山伏は、自らの正体を詳しく明かした。


暁の鐘とともに地獄が消える

山伏の言葉がまだ終わらないうちに、夜明けを告げる野寺の鐘が聞こえた。

鐘の音は、松を吹く風に乗り、かすかに響いた。


僧だけが野原に残される

地獄の鉄城は、たちまちかき消すように消えた。

山伏の姿も見えなくなった。

旅僧だけが、野原の草へ置かれた露の中で、呆然として座っていた。


僧は奥州へ向かう

夢なのか幻なのか、まだ理解できなかった。

しかし夜はすでに明けていた。

僧は目の前へ現れた不思議な出来事に驚き、急いで奥州へ向かった。


道忠の子へ地獄の話を伝える

僧は結城宗広(道忠)の子である大蔵権少輔へ、見たことをすべて語った。

しかし息子は、

「父が伊勢で亡くなったという知らせさえ、まだ届いていない。

これは夢の中の妄想か、幻の怪異ではないか」

と考え、すぐには信じなかった。


伊勢から死の知らせが届く

その3、4日後、伊勢から急使が到着した。

使者は、

  • 道忠の遺言
  • 臨終の恐ろしい様子

を詳しく語った。


『太平記』では僧の話と使者の報告が一致する

使者の話は、旅僧の語った内容と一つも矛盾しなかった。

『太平記』の物語では、道忠の子は、僧の話と使者の報告が一致したため、その不思議な体験を真実だと信じた。


四十九日まで一日経を供養する

その後、七日ごとの忌日が来るたびに、法華経一部を一日で書写した。

そして父の冥福を願い、追善供養を行った。


法華経を聞けば誰もが成仏する

法華経には、

もし法を聞く者がいるならば、一人として仏にならない者はいない。

という意味の教えがある。

これは釈迦如来の真実の言葉であり、法華経の大切な趣旨である。


地獄の炎も消える

導師は説いた。

「法華経の功徳が届けば、八寒地獄・八熱地獄の底まで、その激しい悪業の炎は、たちまち消える。

代わって清く冷たい池の水が満ちるだろう」


聴衆は涙を流す

導師が美しい言葉を連ねて法華経の功徳をたたえると、聴衆は皆、喜びと感動の涙を流した。

袖は涙で濡れた。


地蔵菩薩が地獄を見せた理由

この出来事は、地蔵菩薩が用いた巧みな救いの方法だった。

地獄で苦しむ道忠の姿を僧へ見せ、遺族へ追善供養を行わせるためだったのである。


縁の深さで利益は異なる

仏との縁が深いか浅いかによって、受ける救いの厚さには違いがあるだろう。

それでも仏がいる世にも、仏がいない世にも、人々を導く大慈大悲の地蔵菩薩へ出会うことができれば、真実の世界と現実の世界の両方で、善い願いをかなえることができる。


現世と来世を導く誓願

地蔵菩薩が、現世でも来世でも人々を導くという誓いは、何とも頼もしいものである。

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