ホーム | 太平記 全40巻・全339章 | ← 前の巻:太平記 巻第三 | 次の巻:太平記 巻第五 →
巻第四|目次
- 24. 笠置山の戦後処分――北畠具行の最期と藤房の悲恋
- 25. 8歳の皇子が詠んだ歌
- 26. 尊良親王と妙法院尊澄法親王の流刑
- 27. 元の禅僧・俊明極――後醍醐天皇との禅問答
- 28. 中宮の嘆き――後醍醐天皇との別れ
- 29. 後醍醐天皇、隠岐へ向かう
- 30. 児島高徳の忠義――桜に刻んだ言葉と呉越の故事
このページは『太平記』巻第四の第24〜30章を、現代の読者が流れを追いやすいように現代語にしたものである。検索から途中の章へ来た場合は、この目次から同じ巻の別の章へ移動できる。年月は元号だけにせず、分かる範囲で西暦を併記し、数量は原則として算用数字で表記する。
【読み方の注意】 『太平記』には、史実と一致しない年代、説話、夢・予言、非常に大きな人数、中国故事をもとにした長い挿話などが含まれる。この現代語訳では、本文の物語をできるだけ保ちながら、史実として確認できることと、『太平記』が語る内容とを区別して示す。
24. 笠置山の戦後処分――北畠具行の最期と藤房の悲恋
捕らえられた人々への処分
元弘元年(1331年)に笠置山が攻め落とされた時、多くの皇族、公家、僧、武士が幕府に捕らえられた。
しかし1331年の年末は、朝廷でも幕府でも年末の事務を処理する時期だったため、『太平記』では捕らえられた人々への処分が、しばらく先送りにされたと語る。
元弘2年(1332年)を迎え、朝廷の新年行事や幕府の政務が始まると、処分が具体化した。
鎌倉から、工藤次郎左衛門尉と二階堂信濃入道行珍の2人が京都へ来た。
2人は六波羅探題で評定を開き、
- 誰を死刑にするか
- 誰を流罪にするか
- どの国へ流すか
という幕府の決定を伝えた。
比叡山や奈良の寺院に属する皇族や高僧、公家、役人たちは、それぞれ罪の重さに応じて、投獄や流罪にされた。
その中でも、笠置山の一の木戸を守って戦った足助重範は、六条河原へ引き出し、首をはねることになった。
老いた宣房の悲しみ
万里小路宣房は、息子の万里小路藤房と万里小路季房が後醍醐天皇に従ったため、父である自分まで幕府に捕らえられていた。
宣房は、すでに70歳近い老人だった。
しかも、
「後醍醐天皇は遠い島へ流されるらしい」
という話が聞こえてくる。
2人の息子も、死刑にされるかもしれない。
そして自分自身まで囚人となっている。
宣房は、
「どうして私は、今まで長生きをしてしまったのだろう。長く生きたために、このようなつらい出来事ばかりを見聞きしなければならない」
と悲しみ、1首の歌を詠んだ。
長かれと
何思ひけん
世の中の
憂きを見するは
命なりけり
その意味は、
私はなぜ、長く生きたいなどと思ったのだろう。
長く生きる命があるからこそ、
世の中のつらい出来事を
見なければならないのだ。
というものだった。
後醍醐天皇に仕えた人々の没落
後醍醐天皇に仕えていた公家たちは、実際に罪があったかどうかに関係なく、次々と処分された。
ある者は宮中への出仕を止められ、世間を離れて静かに暮らした。
またある者は官職を奪われ、苦しい生活を送ることになった。
人の運が開ける時もあれば、ふさがる時もある。
世の中がうまく治まる時もあれば、乱れる時もある。
昨日まで栄えていた者が、今日は罪人となる。
喜びと悲しみは、夢や幻のように入れ替わる。
もともとこの世は、苦しみの多い場所である。
栄えたからといって喜びすぎても仕方がなく、没落したからといって、いつまでも嘆いても仕方がないのである。
北畠具行、鎌倉へ送られる
北畠具行(『太平記』本文では「源中納言具行」)は、佐々木道誉(佐々木高氏)の警護を受けて、鎌倉へ送られることになった。
しかし、
「具行は鎌倉まで行かず、途中で殺されるらしい」
と、前もって知らせた者がいたようだった。
具行は逢坂の関を越える時、1首の歌を詠んだ。
帰るべき
時しなければ
これやこの
行くを限りの
逢坂の関
その意味は、
もう都へ帰れる時は来ない。
この旅こそが、私の生涯最後の旅なのだろう。
人と再び「会う」という名を持つ逢坂の関でも、
私には再会の望みはない。
というものだった。
さらに瀬田の唐橋を渡る時にも、歌を詠んだ。
今日のみと
思ふ我が身の
夢の世を
渡るものかは
瀬田の長橋
その意味は、
今日が命の終わりかもしれないと思いながら、
夢のようにはかないこの世を渡っている。
私が渡っているのは、
ただ瀬田の長橋だけではないのだ。
というものだった。
柏原で告げられた死刑
具行は、近江国の柏原で処刑されることになっていた。
幕府からの使者が来て、その命令を佐々木道誉へ伝えた。
道誉は具行の前へ出て、言った。
「前世からのどのような因縁によって、大勢の囚人の中から、私があなた様をお預かりすることになったのでしょう。
今、このようなことを申し上げれば、私が情けを知らない者のように思われるかもしれません。
しかし、私にも逆らうことのできない命令なのです。
これまでは、何とか幕府から許しが出ないかと待ちながら、日を延ばしてまいりました。
けれども鎌倉から、必ず処刑せよという厳しい命令が届きました。
どうか、すべては前世から決まっていた運命なのだと思い、心をお慰めください」
道誉は、最後まで言い終わらないうちに、袖を顔へ当てて泣いた。
具行も思わず涙を流したが、すぐにぬぐって答えた。
「まことに、そのとおりであろう。
これまで道誉殿が私に示してくれた情けは、あの世へ行っても忘れない。
後醍醐天皇が、すでに遠い島へ移されると聞いている。
天皇でさえそのような目に遭われる以上、私のような者がどうなろうと、もはや仕方がない。
とりわけ、これまで受けた道誉殿の親切には、たとえ生き続けたとしても、お礼を返すことはできないだろう」
具行はそれだけ言うと、その後は何も話さなかった。
具行の最期
具行は硯と紙を取り寄せ、家族や知人へ向けた長い手紙を書いた。
そして道誉に、
「機会があれば、私を知る人々へ届けてほしい」
と頼んだ。
日が暮れると輿が用意され、具行は街道の西にある山際へ運ばれた。
松の木が集まって生えている場所で輿が下ろされると、具行は敷物の上に姿勢を正して座った。
そして再び硯を取り寄せ、静かに辞世の言葉を書いた。
生死の間を歩み続けて、四十二年。
今、山河は一変し、
天地はからりと開けている。
その下に、元弘2年(1332年)6月19日の日付と自分の名を書いた。
筆を置き、手を組み、座り直した。
処刑人の田児六郎左衛門尉が後ろへ回ったかと思うと、具行の首は前へ落ちた。
あまりにも悲しい最期だった。
佐々木道誉は泣きながら遺体を火葬し、さまざまな供養を行って、具行の成仏を祈った。
後醍醐天皇と具行
北畠具行は、後醍醐天皇がまだ尊治親王として「帥宮(そちのみや)」と呼ばれていたころから、そば近くに仕えていたと『太平記』は語る。
朝も夕も礼を尽くし、昼夜を問わず、誰よりも熱心に働いた。
そのため順調に昇進し、後醍醐天皇からも深く信頼されていた。
具行がこのような最期を迎えたことを後醍醐天皇が聞けば、どれほど悲しまれるだろうかと思われた。
良忠法印の取り調べ
同じ元弘2年(1332年)6月21日、良忠法印が大炊御門油小路の警備所で捕らえられ、六波羅へ連れて行かれた。
六波羅探題の北条仲時は、斎藤十郎兵衛を使者として、良忠にこう伝えた。
「今では天下の天皇でさえ倒幕を成功させることができなかった。
それなのに、あなたのような者が反乱を考えるとは、身の程を知らず、あまりにも軽率ではないか。
後醍醐天皇を幕府から奪い返すため、この付近の地図まで持ち歩いていたという。
幕府への敵対行為として、これ以上ないほど重い罪である。
どのような計画を立てていたのか、1つ残らず話せ。詳しく鎌倉へ報告する」
良忠は、少しも恐れず答えた。
良忠の堂々とした返答
「天下のすべての土地は天皇のものであり、そこに住むすべての人は天皇の民である。
後醍醐天皇の苦しみを悲しまない者が、どこにいるだろうか。
人間でありながら、天皇が捕らえられたことを喜ぶ者がいるだろうか。
天皇のお心に代わって、そのお体を幕府からお救いしようと考えることが、なぜ身の程知らずなのか。
正しい道に反する幕府を討つため、ひそかに計画を立てることは、決して軽率なことではない。
私は初めから後醍醐天皇のお考えを知り、笠置山の御所へ参上した。それに間違いはない。
しかし、天皇が突然京都を出られ、笠置山の守りも十分でなく、朝廷軍が敗れたため、残念ながら目的を果たせなかった。
その間に源具行と相談し、天皇の命令書を出していただき、諸国の武士へ配ったことも事実である。
私が行ったことは、それですべてだ」
良忠は、堂々と答えた。
良忠の処分は鎌倉へ
六波羅では、良忠をどのように処分するかについて、さまざまな意見が出た。
二階堂行珍が進み出て言った。
「この者の罪が重いことに疑いはなく、処刑されても仕方がありません。
しかし、ほかにも仲間がいるのではないか、さらに調べる必要があります。
そのうえで、もう1度鎌倉へ報告するべきでしょう」
長井右馬助も、
「もっともな意見です。これほどの大事件であれば、鎌倉へ報告してから処分を決めるべきです」
と賛成した。
全員の意見が一致したため、良忠は五条京極の警備所で加賀前司に預けられ、牢へ入れられた。
そして改めて、鎌倉へ報告が送られた。
そのほかの人々への処分
平成輔(本文では「平宰相成輔」)は、河越三河入道円重に警護されて鎌倉へ送られるはずだった。
しかし鎌倉へ着く前に、相模国の早川の河口で殺された。
正親町三条公明と洞院実世の2人は、表向きには許された。
しかし幕府は、まだ2人を信用していなかったようである。
波多野宣通と佐々木三郎左衛門尉に預けられ、自分の屋敷へ帰ることは許されなかった。
師賢、下総国へ流される
花山院師賢は、下総国へ流され、千葉介に預けられた。
師賢は15歳ごろから、日本と中国の学問を熱心に学んできた。
出世したり、恥を受けたりすることに、心を奪われない人物だった。
そのため遠い国へ流されることになっても、少しも気にしていないように見えた。
昔、中国の詩人・杜甫は、戦乱に巻き込まれて遠くをさすらい、その悲しみを詩にした。
日本でも小野篁が隠岐国へ流された時、
海原の八十島を越えて、私は舟をこぎ出していく
という意味の歌を詠んだ。
しかし師賢は、時代には苦しい時も楽な時もあることを知り、悲しむべき時にも、むやみに悲しまなかった。
昔から、
主君が心配すれば、家臣は恥じる。
主君が辱めを受ければ、家臣は命を捨てる。
といわれている。
後醍醐天皇が辱めを受けた以上、自分がどのように苦しめられても、悲しむほどのことではない。
師賢はそう考えていた。
流刑地では、季節や目の前の景色に心を動かされるたび、詩や歌を詠みながら日々を送った。
師賢の出家と死
師賢は、
「この世に対する望みは、もうすべてなくなった」
として、何度も出家したいと願い出た。
北条高時から許可が出ると、師賢はまだ40歳にもならないうちに、黒く美しい髪をそり落とし、僧となった。
しかし、それからあまり時を置かずに病にかかり、亡くなったという。
季房と藤房の流刑
万里小路季房(本文では「東宮大進季房」)は常陸国へ流され、長沼駿河守に預けられた。
兄の万里小路藤房も同じ常陸国へ流され、小田民部大輔に預けられた。
遠い国へ流される悲しみは、誰にとっても同じである。
しかし藤房の心の内を思うと、とりわけ哀れであった。
藤房には、都に残してきた、忘れることのできない女性がいたからである。
藤房と左衛門佐局
近ごろ、中宮に仕える女房に、左衛門佐局という、世にも美しい女性がいた。
『太平記』によれば、元亨年間(1321〜1324年)の秋ごろ、後醍醐天皇が北山殿へ行幸し、祝いの舞が行われたことがあった。
舞人たちは美しい袖をひるがえし、楽人たちは華やかな曲を奏でた。
弦楽器や管楽器の音は、まるで金や玉が触れ合うように澄み切っていた。
左衛門佐局は、琵琶を演奏する役に選ばれ、青海波という曲を弾いた。
その音は、花の下で鳴くウグイスの声のようになめらかであり、氷の下を流れる泉のように静かだった。
ある時は悲しげに、ある時は穏やかに曲調が変わる。
4本の弦を1度強く鳴らすと、絹を引き裂くような音が響いた。
その演奏は、梁の上をツバメが飛び、水の中から魚が跳ね上がるほど見事だった。
3年間続いた藤房の思い
藤房は、その時、左衛門佐局の姿をわずかに目にした。
その日から、誰にも知られないまま、彼女を思うようになった。
思いは日ごとに深くなった。
しかし気持ちを伝える方法がない。
藤房は、思いを胸に隠したまま、夜は嘆き、昼も彼女のことを考え続けた。
『太平記』は、そうして3年ほどが過ぎたと語る。
【年代注】 本文は出会いを元亨年間(1321〜1324年)の秋ごろとし、その後「3年」を経て1331年の笠置山脱出前夜へつなぐ。したがって、本文内部の年数関係は必ずしもきれいには一致しない。ここでは『太平記』の物語の順序を保って訳す。
やがて、どのような人目のない機会があったのだろうか。
2人はついに思いを伝え合い、1晩だけ、ともに過ごすことができた。
しかし、その幸福は夢のようにはかないものだった。
ただ1晩で訪れた別れ
その翌日の夜、後醍醐天皇は突然、笠置山へ向けて京都を脱出した。
藤房も正式な公家の装束を脱ぎ、戦いに適した服へ着替えて、天皇に付き従おうとした。
だが藤房は思った。
「これから先、再び左衛門佐局に会えるかどうか分からない。
昨夜の1晩だけの夢にも、まだ心残りがある。
せめて、もう1度だけ会いたい。私の姿も見てもらいたい」
そこで藤房は、左衛門佐局が住んでいた西の対へ向かった。
しかし、よりによってその朝、左衛門佐局は中宮から呼び出され、北山殿へ出かけていた。
藤房は会うことができなかった。
そこで自分の髪を少し切り、1首の歌を書き添えて残した。
黒髪の
乱れん世まで
ながらへば
これを今はの
形見とも見よ
その意味は、
この黒髪のように世の中が乱れる中、
もし私が生き続けることができたならば、
それまでの間、この髪を
私の最期の形見だと思って見ていてほしい。
というものだった。
左衛門佐局の悲しみ
左衛門佐局は帰ってくると、藤房が残した髪と歌を見つけた。
歌を読んでは泣き、泣いてはまた読み返した。
何100回、何1,000回と巻き直して読んでも、心は乱れるばかりで、どうすることもできなかった。
涙によって文字が消えそうになり、いっそう悲しみに耐えられなくなった。
せめて藤房がどこにいるのか分かれば、虎が伏す野原でも、クジラが流れ着く荒れた海辺でも、あとを追っていきたい気持ちだった。
しかし藤房がどこへ向かったのか、はっきりとした知らせはない。
再び会える世が来るかどうかさえ分からない。
左衛門佐局は、あまりの悲しみに耐えられなくなったと『太平記』は描く。
【史実との区別】 万里小路藤房と左衛門佐局の恋、その後の自害は、『太平記』が伝える文学的な挿話として読む。ここでは史実として断定せず、本文の物語を現代語にしている。
そして藤房が残した歌に、次の歌を書き添えた。
書き置きし
君が玉章
身に添へて
後の世までの
形見とやせん
その意味は、
あなたが書き残した大切な手紙を、
いつもこの身に添えておこう。
そして、あの世へ行ったあとまで、
あなたの形見としよう。
というものだった。
左衛門佐局は、藤房の髪を袖の中へ入れた。
そして京都の大井川(桂川上流にあたる呼び名)の深い淵へ身を投げ、命を絶ったと本文は語る。
何とも悲しい出来事だった。
中国の言葉に、
あなたから受けた一日の愛情が、
私の百年の生涯を狂わせた。
というものがある。
まさに、このようなことを言うのであろう。
そのほかの流刑者
洞院公敏(本文では「按察大納言公敏」)は、上総国へ流された。
東南院僧正聖尋は、下総国へ流された。
峰僧正俊雅は、初め対馬国へ流されるといわれていたが、急に行き先が変わり、長門国へ流された。
さらに『太平記』本文で「第四の宮」とされる皇子は但馬国へ流され、その国の守護である太田判官に預けられた。皇子の序列は諸史料で食い違いがあるため、ここでは本文の呼び方を残す。
25. 8歳の皇子が詠んだ歌
都に残された第9皇子
後醍醐天皇の第9皇子(恒良親王とみられるが、『太平記』本文は「第九宮」とのみ記す)は、まだ幼かったため、中御門宣明に預けられ、京都に残されていた。
元弘2年(1332年)、『太平記』本文では皇子は8歳だったとされる。
しかし、考え方は普通の子どもよりもずっとしっかりしていた。
皇子はいつも、悲しそうにこう言った。
「父上は、人もほとんど通わないという隠岐国へ流されてしまった。
それなのに、私1人が都に残っていて何になるのだろう。
どうか私も、父上のおられる国の近くへ流してほしい。
たとえ遠くからでも、父上がその後どうされているのかを聞くことができるだろう」
皇子は何度もそう訴え、涙を止めることができなかった。
父に会いに行きたい
ある時、皇子は宣明に尋ねた。
「父上が閉じ込められておられる白河は、京都から近い所だと聞いている。
それなのに宣明は、なぜ私を連れて父上の御所へ行ってくれないのだ」
宣明は涙をこらえながら答えた。
「天皇のおられる場所が本当に近いのであれば、お連れすることに何の問題もございません。
しかし、白河という所は、京都から何100里も旅をしなければならない遠い場所なのです。
能因法師も、白河の関へ旅をした時、このような歌を詠んでおります。
都をば
霞とともに
出でしかど
秋風ぞ吹く
白河の関
その意味は、
春の霞が立つころに京都を出発したのに、
白河の関へ着いた時には、
もう秋風が吹いていた。
というものです。
これほど長い旅をしなければならず、途中には人を簡単に通さない関所もあるのだと、お考えください」
宣明は、皇子をなだめようとしてそう説明した。
宣明の説明を見破る
皇子は涙をぬぐうと、しばらく何も言わなかった。
しかし、やがて口を開いた。
「宣明は、私を父上のところへ連れて行きたくないから、そのようなことを言うのだ。
能因法師が歌に詠んだ白河の関は、京都にある白河とは違う。
あれは奥州にある有名な場所ではないか。
最近、津守国夏も、能因法師の歌をもとにして、次のような歌を詠んでいる。
東路の
関まで行かぬ
白河も
日数経ぬれば
秋風ぞ吹く
これは、京都の白河は東国の白河の関ほど遠くはないが、それでも日がたてば秋風が吹くという意味の歌だ。
また、最勝寺にあった枯れた桜を植え替えた時、藤原雅経も、京都の白河について歌を詠んでいる。
なれなれて
見しは名残の
春ぞとも
など白河の
花の下陰
このように、名前は同じでも、場所が違うことを示す歌がいくつもある。
宣明は、私を連れて行きたくないから、ごまかそうとしているのだ。
もうよい。これからは、父上に会いたいという思いを心の中にしまい、口には出さない」
『太平記』は、わずか8歳の皇子が、宣明の引用した歌の意味を理解し、その説明の矛盾まで見抜いたと描く。
宣明を恨むようにそう言うと、それからは、
「父上が恋しい」
とさえ口にしなくなった。
しかし、何を見ても心が晴れず、いつも沈んだ様子で過ごしていた。
夕暮れの鐘
ある夕暮れ、皇子が中門のところに立っていると、遠くの寺から、夕方を知らせる鐘の音が静かに聞こえてきた。
皇子は、父のことを思いながら長い間たたずみ、歌を詠んだ。
つくづくと
思ひ暮らして
入り相ひの
鐘を聞くにも
君ぞ恋しき
その意味は、
一日中、物思いに沈んで過ごし、
夕暮れの鐘の音を聞くと、
父上のことが、
いっそう恋しく思われる。
というものだった。
心の中に満ちていた悲しみが、自然に言葉となって現れた歌である。
『太平記』の作者は、わずか8歳の子どもが詠んだとは思えないほど立派で、深い悲しみを感じさせる歌だとたたえている。
そのころ京都に住む僧侶も、武士も、公家も、町の男女も、皆この歌に心を打たれた。
人々は懐紙や扇に歌を書き写し、
「これが8歳の皇子がお詠みになった歌だ」
と言って、大切にしない者はいなかったのである。
26. 尊良親王と妙法院尊澄法親王の流刑
尊良親王、土佐国へ流される
元弘2年(1332年)3月8日、後醍醐天皇の皇子尊良親王(『太平記』本文では「一宮中務卿親王」)は、土佐国の畑という土地へ流されることになった。
道中の警護を命じられたのは、佐々木時信である。
尊良親王は、それまで心の中で願い続けていた。
「たとえ死刑となり、都の近くの野に遺体を埋められることになっても、せめて京都の近くで最期を迎えたい」
天を仰ぎ、大地に伏して、何とか都に残れるよう祈っていたのである。
しかし前日、
「後醍醐天皇も、すでに遠い国へ流された」
と警護の武士たちが話しているのを聞いた。
父である天皇さえ流された以上、自分の願いがかなう望みはない。
尊良親王は、ひどく心細く感じた。
やがて大勢の武士がやって来て、中門へ輿を寄せた。
いよいよ出発しなければならない。
尊良親王は、こらえきれない涙の中で歌を詠んだ。
せきとむる
柵ぞなき
涙川
いかに流るる
浮き身なるらん
その意味は、
流れる涙をせき止める柵は、どこにもない。
この涙の川に流されながら、
私のつらい身は、
これからどこへ運ばれていくのだろう。
というものだった。
妙法院尊澄法親王も讃岐国へ
『太平記』本文では、同じ元弘2年(1332年)3月8日、妙法院尊澄法親王(のちの宗良親王)も、讃岐国へ流されることになった。
【年代注】 『太平記』は尊澄法親王の配流を尊良親王と同じ3月8日とする。一方、『関城書裏書』は3月9日と記している。ここでは『太平記』本文の順序を保ち、史料上の日付の違いがあることだけを補っておく。
警護を務めたのは、長井高広である。
尊澄法親王は前日、父である後醍醐天皇が隠岐国へ流されたことを聞いた。
そしてこの日は、尊良親王まで土佐国へ流されると知った。
その悲しみは、どれほど深かっただろうか。
父も兄も自分も、同じように罪人として遠国へ送られる。
しかも、それぞれが別の土地へ向かわなければならなかった。
兵庫での再会
2人の皇子は、初めは別々に京都を出発した。
しかし元弘2年(1332年)3月11日の夕方ごろ、尊良親王も尊澄法親王も、同じ兵庫の港へ到着した。
尊良親王は、ここから船に乗り、土佐国の畑へ向かうことになっていた。
別れを前に、尊澄法親王は尊良親王へ手紙を送った。
今までは
同じ宿りを
尋ね来て
跡なき波と
聞くぞ悲しき
その意味は、
今までは、離れていても同じ宿をたどり、
こうして再び会うことができた。
けれどもこれから兄上は、
跡も残らない海の波の向こうへ行かれるという。
それを思うと悲しくてならない。
というものだった。
尊良親王は、次の歌を返した。
明日よりは
跡なき波に
迷ふとも
通ふ心よ
しるべともなれ
その意味は、
明日から私は、
航路の跡さえ残らない海をさまよう。
たとえ遠く離れても、
互いを思う心だけは、
私たちを結ぶ道しるべとなってほしい。
というものだった。
四国でも別々の国へ
2人の流刑地は、どちらも四国だった。
そのため2人は、
「せめて同じ国へ流されるのであればよいのに」
と願った。
同じ国にいれば、風の便りに互いの様子を聞き、それを心の慰めにすることもできる。
しかし、その願いさえかなわなかった。
尊良親王は船に乗せられ、揺れる波に身を任せながら、土佐国の畑へ向かった。
尊良親王の土佐での暮らし
尊良親王は、土佐国の畑へ着くと、有井三郎左衛門尉の屋敷のそばに建てられた、小さな部屋へ入れられた。
畑という土地は、南側に山が迫り、北側には低い海岸が広がっていた。
松の枝から落ちる露が戸口へかかる。
その露を見るたびに、尊良親王の袖には、さらに涙が加わった。
海岸へ打ち寄せる波の音は、枕のすぐ下から聞こえてくる。
都から聞こえてくるものは何1つなく、ただ波の音だけが絶えず通ってきた。
故郷の京都を夢に見ることさえ、遠くなったように感じられた。
尊澄法親王、讃岐へ
尊澄法親王は兵庫で兄と別れ、備前国までは陸路を進んだ。
その後、児島の吹上から船に乗り、讃岐国の詫間へ到着した。
詫間も海の近くにある土地だった。
海辺の湿った霧が体を弱らせ、海から吹く冷たい風が身にしみた。
夕方には、漁師の歌や、家畜を追う者が吹く笛の音が聞こえてくる。
山にかかる雲、海に映る月、秋の寂しい景色。
耳に入る音も、目に映るものも、すべてが悲しみを誘い、法親王の涙を増やすものばかりだった。
後醍醐天皇を法皇にする計画
後醍醐天皇は、1221年の承久の乱の時の例にならって、隠岐国へ流すことに決められていた。
しかし幕府も、家臣の立場にありながら天皇を廃位させることには、さすがに恐れを感じていたようである。
そこで幕府は、後伏見上皇の第1皇子・量仁親王を即位させた。後の光厳天皇である。
そして、その新天皇の命令という形で、後醍醐天皇を隠岐へ移そうと考えたのである。
後醍醐天皇が再び皇位に戻る望みは、もはやない。
そこで幕府は、
「隠岐へ流す前に、後醍醐天皇を出家させ、法皇という立場にしておこう」
と考えた。
そして、僧が着る香染めの衣を用意し、天皇へ差し出した。
出家を拒む後醍醐天皇
しかし後醍醐天皇は、
「今はまだ、出家するつもりはない」
と言い、幕府の求めを拒んだ。
天皇の礼服も脱がなかった。
毎朝、身を清めるための水を使い、仮の住まいを清らかに整えた。
そして宮中の石灰壇と呼ばれる場所で行うのと同じように、伊勢神宮の天照大神を拝み続けた。
『太平記』はここを、「天に2つの太陽はないのに、国に2人の王がいるような状態になった」と表現する。
つまり本文では、後醍醐天皇が出家せず天皇としての礼法と祈りを続けたため、光厳天皇を立てた幕府も、その扱いに困ったと描かれている。
後醍醐天皇が出家せず、天皇としての祈りを続けていたのは、いつか再び皇位を取り戻せるという、強い望みを心の中に持っていたためなのである。
27. 元の禅僧・俊明極――後醍醐天皇との禅問答
元から来た禅僧
『太平記』は、元亨元年(1321年)の春ごろ、元朝から俊明極という禅僧が日本へ来たと語る。
【史実との区別】 この「俊明極」は、一般に元の禅僧明極楚俊(みんき そしゅん)を指すとみられる。ただし、現存する墨蹟などから明極楚俊の来日は嘉暦4年(1329年)とされており、『太平記』の「1321年」という年代とは一致しない。
天皇が外国の僧と直接会うことは、それまでほとんど例がなかった。
しかし後醍醐天皇は禅の教えに深い関心を持ち、さまざまな高僧から教えを受けたいと考えていた。
そこで、仏法について語り合うため、俊明極を宮中へ招くことにした。
厳かな準備
外国から来た高僧を迎える儀式が、あまりに簡単なものであっては、日本の恥となる。
そう考えた朝廷は、たいへん立派な準備を整えた。
大臣や公卿たちは正式な装束を身につけ、役人や警護の武士たちも、厳重に守りを固めた。
夜中になると、灯火を次々に受け渡しながら、俊明極が宮中へ入った。
後醍醐天皇は紫宸殿に出て、俊明極のために、天皇の御座の近くへ席を用意した。
俊明極は3度礼をしたあと、香をたき、天皇の長い治世を祈った。
後醍醐天皇との禅問答
後醍醐天皇は俊明極に尋ねた。
「そなたは険しい山を越え、海を渡り、はるばる日本までやって来た。どのような方法で、人々を救おうとするのか」
俊明極は答えた。
「仏法の最も大切な教えによって、人々を救います」
天皇は、さらに尋ねた。
「それでは、まさに今、この時にはどうするのか」
俊明極は答えた。
天にある星は、すべて北極星を中心として巡ります。
地上を流れる水は、すべて東の海へ向かいます。
これは、
言葉どおりに読めば、「天の星々は北極星を中心に向かい、地上の水は東へ流れていく」という答えである。
これは禅問答なので、意味を1つに決めつけない方がよい。少なくとも『太平記』本文は、この短い比喩的な答えをそのまま記している。
こうして仏法についての話が終わると、俊明極は天皇に礼をして宮中を退出した。
「2度帝位に就く」という言葉
翌日、後醍醐天皇は、洞院実世を使者として俊明極のもとへ送り、禅師の称号を授けた。
その時、俊明極は使者にこう語った。
「この天皇は、いったん高い所へ昇りすぎた竜が、後悔するような災いに遭われるでしょう。
しかし、再び天皇の位に就かれる相を持っておられます」
「高く昇りすぎた竜の後悔」とは、最も高い地位へ昇った者が、かえって災いに遭い、下へ落ちることを意味する。
『太平記』の物語では、その後、後醍醐天皇が幕府方に捕らえられ、隠岐へ流される出来事を、この「亢竜の悔」に重ねている。
そして作者は、のちの復位までを見通す言葉として、この禅僧の発言を描いている。
出家を拒んだ理由
しかし俊明極は同時に、
「後醍醐天皇は、もう1度天皇の位に戻る」
とも予言していた。
後醍醐天皇は、その言葉を強く信じていた。
そのため、幕府に捕らえられ、隠岐国へ流されることになっても、
「今はまだ出家しない」
と強く言い続けた。
『太平記』は、後醍醐天皇が「もう1度帝位に就く」という言葉を頼みにしていたため、出家をしばらく拒んだのだと説明している。
28. 中宮の嘆き――後醍醐天皇との別れ
『太平記』本文では、元弘2年(1332年)3月7日、後醍醐天皇がいよいよ隠岐国へ流されるという知らせが届いた。
【年代注】 この章は3月7日の夜の別れを描く一方、次章も「明くれば3月7日」として出発を記す。『太平記』本文の日時のつながりにはずれがあるため、ここでは本文の記載をそのまま示し、無理に1日の時系列へ直さない。
中宮・西園寺禧子は夜の暗さに紛れ、天皇が閉じ込められている六波羅の御所へ向かった。
中門の前まで牛車を寄せると、後醍醐天皇が建物から出てきた。
天皇は自ら、牛車のすだれを上げた。
別れを前にした2人
後醍醐天皇は、愛する中宮を京都に残し、自分だけが遠い隠岐国へ流されることを思った。
これからは旅先の海辺で、長い波や岸を照らす月を眺めながら、ただ1人で暮らさなければならない。
一方、中宮も、遠い島へ流されていく天皇の姿を思い浮かべた。
これから何を頼りに生きていけばよいのか分からない。
夜がいつまでも明けず、暗闇の中で心だけが迷い続けているように感じられた。
2人が胸の内をすべて語ろうとすれば、秋の長い夜を1,000晩分、たった1晩に集めたとしても、言葉は尽きなかっただろう。
しかし、悲しみがあまりにも深いため、言葉では表すことができなかった。
かえって、何も口に出せない。
2人はただ、涙を流しながら向かい合っていた。
夜明けまで続いた別れ
やがて、夜明けの空が白み始めた。
それでも2人の涙は止まらず、別れの時を告げる朝が、すっかり明るくなるまで一緒にいた。
しかし、いつまでもそこにとどまることはできない。
中宮は牛車の向きを変え、帰らなければならなかった。
その時、中宮は涙の中で、次の歌を詠んだ。
この上の
思ひはあらじ
つれなさの
命よされば
いつを限りぞ
その意味は、
これ以上につらい悲しみは、
もう二度とないだろう。
それなのに、私の命は無情にもまだ続いている。
それならば、この苦しい命は、
いったいいつ終わるのだろう。
というものだった。
中宮は泣き崩れるように身を伏せたまま、牛車に揺られて六波羅をあとにした。
後醍醐天皇と再び会えるという望みは、どこにもない。
帰っていく道の途中、中宮の胸にあった悲しみは、言葉では表せないほど深いものだった。
29. 後醍醐天皇、隠岐へ向かう
京都を出発する
『太平記』本文では、元弘2年(1332年)3月7日、後醍醐天皇は隠岐国へ向けて京都を出発した。
道中の警護を務めたのは、千葉貞胤、小山五郎左衛門、佐々木道誉(佐々木高氏)らである。『太平記』では、その数を500騎余りと記す。
天皇に付き従うことを許された公家は、一条行房(本文では「一条頭大夫行房」)と千種忠顕(本文では「六条少将忠顕」)だけだった。
身の回りの世話をする女房も、阿野廉子(三位殿の局)ただ1人である。
そのほかはすべて、鎧を身につけ、弓矢を持った幕府の武士たちだった。
武士たちは天皇の車を前後左右から取り囲み、厳重に見張りながら進んだ。
一行は七条通を西へ向かい、東洞院通を南へ下っていった。
天皇を見送る京都の人々
京都の身分の高い者も低い者も、男も女も、道の両側に並んで天皇を見送った。
人々は、周囲をはばかることもなく、大声で言った。
「正しい天皇を、家臣である武士たちが遠い国へ流すとは、何というひどいことだ」
「鎌倉幕府の運命も、間もなく尽きるに違いない」
町には、そのような声が満ちた。
人々は、幼い子どもが母親を慕うように、声を上げて泣き悲しんだ。
その姿と声に心を動かされ、天皇を警護していた幕府の武士たちまで、鎧の袖を涙でぬらした。
石清水八幡宮への祈り
一行が桜井の宿を通った時、後醍醐天皇は遠くに見える石清水八幡宮を拝んだ。
そして輿を止めさせ、再び京都へ戻り、天皇の位を取り返すことができるようにと祈った。
八幡大菩薩は、応神天皇が神となった存在であり、代々の天皇と国を守るという誓いを立てている。
後醍醐天皇は、
「たとえ自分が都を離れ、遠い土地へ移されても、八幡大菩薩は必ず守ってくださるだろう」
と、心強く思った。
福原の都を見て
湊川を通った時、後醍醐天皇は、かつて平清盛が都を置いた福原を眺めた。
平清盛は、日本中に大きな力を持つようになると、京都の都を捨て、この海に近い低く湿った土地へ都を移した。
しかし、その栄華は長く続かず、平氏は間もなく滅びた。
後醍醐天皇は思った。
「平清盛が滅びたのも、天皇を軽んじ、自分の力を誇りすぎたため、天から罰を受けたからではないか。
それならば、今、私を遠国へ流そうとしている鎌倉幕府も、いつか同じように滅びるかもしれない」
そのように考えることが、わずかな心の慰めとなった。
須磨の浦
一行は印南野を遠くに眺めながら、須磨の浦を通った。
須磨といえば、『源氏物語』の光源氏が、朧月夜との関係によって都を離れ、この地で暮らした場所である。
光源氏は須磨で3度目の秋を迎えた時、波がすぐ近くまで打ち寄せる中、旅先での寂しさを嘆いた。
涙を流した覚えもないのに、枕が浮かぶほどぬれていたという。
後醍醐天皇も今、自ら都を追われて須磨を通り、その悲しみがよく分かるように感じた。
明石から美作へ
明石の浦には、朝霧が立ちこめていた。
その霧の向こうでは、淡路島が次第に遠くなっていく。
波は高砂の浜へ打ち寄せ、尾上の松には強い風が吹いていた。
一行は幾重もの山や川を越え、杉坂を通って、美作国へ入った。
さらに久米の佐良山を越えて進んだ。
季節はもう雪が降るころではない。
それなのに、雲の間から、遠くの高い峰に白い雪が見えた。
後醍醐天皇は警護の武士を呼び、尋ねた。
「あれは何という山か」
武士は答えた。
「あれは伯耆国の大山でございます」
天皇はしばらく輿を止めさせ、大山に向かって、心を込めた祈りをささげた。
厳しい旅路
一行は早朝から旅を続けた。
ある時は、鶏の鳴き声を聞きながら、月の残る宿場を通り過ぎた。
またある時は、馬のひづめで、霜の降りた板橋を踏みながら進んだ。
朝早くから夜遅くまで旅を続け、険しい道を1日ずつ進んだ。
後醍醐天皇が京都を出てから13日目、一行は出雲国の美保の港へ到着した。
隠岐へ渡る風を待つ
美保の港では、後醍醐天皇を隠岐国へ運ぶ船が用意された。
しかし、海を渡るには風向きがよくなければならない。
後醍醐天皇は港にとどまり、隠岐へ向かうための順風が吹くのを待ったのである。
30. 児島高徳の忠義――桜に刻んだ言葉と呉越の故事
児島高徳、後醍醐天皇の救出を決意する
元弘2年(1332年)、備前国に児島備後三郎高徳(児島高徳)という武士がいたと『太平記』は語る。
【史実との区別】 児島高徳の救出計画や桜の木に漢詩を刻む逸話は、『太平記』で特に有名な場面である。一方、児島高徳の事跡は『太平記』以外では確認が難しいとされるため、以下は確定した史実としてではなく、『太平記』の物語として読む。
後醍醐天皇が笠置山に立てこもった時、高徳は天皇方に加わり、幕府を倒すために兵を挙げた。
しかし、高徳が本格的に行動を起こす前に笠置山は落ち、
「楠木正成も赤坂城で自害した」
という知らせが届いた。
これは本文中で高徳が聞いた誤った知らせであり、楠木正成は実際には生き延びていた。
高徳はいったん力を失い、身を隠していた。
ところが、
「後醍醐天皇が隠岐国へ流される」
という知らせを聞くと、忠義を貫く一族を集めて相談した。
高徳は言った。
志のある立派な人は、自分の命を守るために、正しい道を捨てることはない。
正しい道を守るためなら、命を捨てることもある。
昔、中国の衛という国の懿公が、北方の敵に殺されたことがあった。
家臣の弘演は、主君の無残な姿を見るに耐えられなかった。そこで自ら腹を切り、主君の肝を自分の胸に納め、死後まで忠義を尽くしたという。
また、
正しいことだと分かっていながら行動しないのは、勇気がないということだ。
ともいわれている。
高徳は続けた。
「後醍醐天皇が隠岐へ向かう途中で襲撃し、天皇を幕府の手からお救いしよう。
そして再び大軍を集めるのだ。
たとえ戦場で討たれ、遺体をさらすことになっても、忠義を尽くした名は子孫の代まで残るだろう」
一族の者たちは、皆この意見に賛成した。
舟坂山で待ち伏せする
高徳たちは、
「道中の険しい場所で待ち伏せし、幕府軍に隙ができるのを待とう」
と決めた。
そして備前国と播磨国の境にある舟坂山の峰へ隠れ、後醍醐天皇の一行が来るのを待った。
しかし、いくら待っても一行は現れない。
不思議に思って人を走らせ、道の様子を調べさせた。
すると幕府の警護軍は、山陽道を通っていなかった。
播磨国の今宿から北へ進み、山陰道を通って天皇を移送していたのである。
高徳の計画は外れてしまった。
杉坂へ急ぐ
高徳は、
「それならば、美作国の杉坂こそ、待ち伏せに最適な深い山だ」
と考えた。
一行は三石の山から道のない山中へ入り、雲を突き抜けるような峰を越えて、杉坂へ急いだ。
しかし、杉坂へ着いた時には、
「天皇はすでに院庄へ入られた」
という知らせが届いた。
もはや天皇を救出することはできない。
高徳の一族は、やむなく別々に散っていった。
せめて忠義の心を伝えたい
高徳は、それでもあきらめきれなかった。
「天皇をお救いすることはできなかった。
だが、せめて私たちが天皇をお助けしようとしていることだけでも、お耳に入れたい」
高徳は粗末な服に着替え、正体を隠して、天皇が泊まっている院庄の近くへ忍び込んだ。
しかし周囲は幕府の武士たちによって厳重に守られている。
天皇へ直接近づく隙は、まったくなかった。
すると高徳は、天皇の宿の庭に、大きな桜の木があるのを見つけた。
高徳は桜の幹の表面を削り、大きな文字で、次の漢詩を刻んだ。
天、勾践を空しくすることなかれ。
時に范蠡なきにしもあらず。
分かりやすくすると、次のような意味である。
天よ、越王勾践を見捨てないでほしい。
今の時代にも、范蠡のような忠臣は残っている。
この2句は、後醍醐天皇を越王勾践に重ね、なお范蠡のような忠臣がいることを示す言葉である。児島高徳自身をその忠臣になぞらえる意図を読み取ることができる。
つまり、
今は敗れて捕らえられていても、どうか希望を失わないでほしい。
天皇をお助けし、再び立ち上がろうとする忠臣は、まだ生きている。
と伝えたのである。
後醍醐天皇、桜の文字を読む
翌朝、警護の武士たちが、桜の幹に刻まれた文字を見つけた。
しかし、難しい漢文だったため、何が書いてあるのか分からない。
「誰が、何のために書いたものだろう」
武士たちは不思議に思い、そのまま後醍醐天皇へ報告した。
天皇は、文字を見ると、すぐに意味を理解した。
自分を助けようとする者が、今もどこかにいる。
後醍醐天皇は、たいへんうれしそうに笑った。
一方、幕府の武士たちは、この言葉が中国の故事を使った秘密の知らせだとは気づかなかった。
そのため、高徳を疑って捜すこともなかった。
【呉越の故事について】 以下は『太平記』が児島高徳の漢詩を説明するために取り込んだ中国の説話である。中国の史書と細部まで同じ内容とは限らないため、ここでは『太平記』本文の物語を現代語にする。
呉と越の争い
桜の木に刻まれた詩を理解するには、中国の呉越の戦いを知る必要がある。
昔、中国には、隣り合う呉と越という2つの国があった。
両国の王は、正しい政治によって国を治めることよりも、武力によって他国を従えることを望んでいた。
呉は越を滅ぼそうとし、越も呉を倒そうとする。
長い間、戦いを繰り返し、勝ったり負けたりするうちに、互いに親や子を殺された敵となった。
当時の呉王は夫差、越王は勾践といった。
勾践、呉への攻撃を決意する
ある時、越王勾践は、大臣の范蠡を呼んで言った。
「呉は、父や先祖の敵である。
私が呉を討たないまま年月を過ごしていることを、天下の人々は笑っているだろう。
それだけでなく、地下に眠る父や先祖にも申し訳がない。
今こそ国中の兵を集め、私自身が呉へ攻め込み、呉王夫差を倒して恨みを晴らしたい。
お前は国に残り、越を守れ」
しかし范蠡は反対した。
「今、越の力で呉を滅ぼすのは難しいでしょう。
第1に、呉には20万の兵がいますが、越には10万しかいません。
少ない兵で大軍に戦いを挑むのは不利です。
第2に、今は春です。春や夏は命を育て、秋や冬は罪を罰する季節と考えられています。今は戦争を始める時ではありません。
第3に、呉には伍子胥というすぐれた家臣がいます。
知恵が深く、人々の心をつかみ、遠い先のことまで考えて王をいさめる人物です。
伍子胥が呉にいるかぎり、呉を滅ぼすことは難しいでしょう。
麒麟は立派な角を持ちながら、それを肉で包み、むやみに人を傷つけません。
竜も冬の間は水の底に身を隠し、春が来るのを待ちます。
本当に呉を滅ぼし、中国の中心に立ちたいのであれば、今は武力を隠し、時が来るのを待つべきです」
勾践、范蠡の忠告を退ける
ところが勾践は激しく怒った。
「父の敵とは、同じ天の下に生きてはならないといわれている。
私はすでに大人になった。それなのに、まだ呉を滅ぼせず、同じ太陽と月の光を受けて暮らしていることこそ恥ではないか。
兵の数だけで勝敗が決まるのなら、少ない越軍が多い呉軍に勝てないという話は分かる。
しかし、戦の勝敗は兵の数だけで決まるものではない。
時の運と、将軍の作戦によって決まる。
これまで呉と越は何度も戦い、勝敗は何度も入れ替わってきたではないか。
また、春には戦ってはならないというが、中国の湯王や武王が悪い王を討ったのも春だった。
『天の時よりも土地の利が大切であり、土地の利よりも人々が心を合わせることが大切だ』
ともいわれている。
さらに、伍子胥が死ぬまで待っていたら、私と伍子胥のどちらが先に死ぬか分からない。
そのような理由で攻撃をやめることはできない。
すでに兵を集めていることは、呉にも知られているだろう。
こちらがためらっているうちに、逆に呉から攻め込まれれば、後悔しても間に合わない。
『先に動けば人を支配できるが、遅れれば人に支配される』
ともいう。
もう決めたことだ。攻撃は中止しない」
勾践は范蠡の忠告を聞かず、自ら10万余りの兵を率いて呉へ攻め込んだ。
夫差のわな
呉王夫差は、
「敵が少ないからといって、見下してはならない」
と考え、自ら20万の兵を率いて迎え撃った。
夫差は、越軍をだますため、3万余りの兵だけを見える場所へ置いた。
残りの17万は、陣の後ろにある山陰へ隠した。
勾践が呉軍を見ると、わずか2、3万ほどしかいないように見えた。
「思ったよりも少ない兵だ」
と呉軍を侮り、10万の兵を一斉に川へ入れた。
季節はまだ2月初めで、寒さが厳しく、川には氷が張っていた。
兵たちの手は凍り、思うように弓を引けない。
馬も雪と泥に足を取られ、自由に動けなかった。
それでも勾践が進軍の太鼓を打つと、越軍は我先にと川を渡った。
会稽山で包囲される
呉軍は、最初から越軍を険しい場所へ誘い込み、包囲するつもりだった。
そのため、ほとんど戦わずに退却するふりをして、会稽山へ逃げ込んだ。
越軍は、
「呉軍が逃げた」
と思い、勝ちに乗って30里余りも追い続けた。
4つに分かれていた部隊を1つにまとめ、左右への注意も忘れ、馬が息切れするほど夢中で進んだ。
夕方になると、山中に隠れていた呉軍20万が、四方から姿を現した。
越王勾践を中心に取り囲み、
「1人も逃がすな」
と攻めかかった。
越軍は朝から長い距離を進み、人も馬も疲れ果てていた。
しかも兵の数も少ない。
前へ進めば、険しい場所に呉兵が待ち構えている。
後ろへ退こうとしても、大軍が道をふさいでいる。
越軍は完全に追い詰められた。
7万の兵を失う
勾践自身は、非常に勇ましい武将だった。
呉の大軍へ飛び込み、十文字に駆け抜け、円を描くように敵を追い回した。
1か所へ集まったかと思えば三方へ分かれ、四方の敵を払い、八方から来る攻撃を受け止めた。
しかし、どれほど戦っても、大軍には勝てなかった。
越軍は敗れ、7万余りの兵が討たれた。
勾践は会稽山へ逃げ込み、残った兵を数えた。
わずか3万余りで、その半分は傷を負い、矢も尽き、武器も折れていた。
それまで呉と越のどちらにつくか迷っていた周辺諸国も、呉軍の勝利を見て、次々と夫差の味方になった。
呉軍は30万に増え、会稽山を四方から取り囲んだ。
その様子は、稲や麻、竹や葦が一面に生えているようだった。
勾践、死を決意する
勾践は陣の中に兵を集め、言った。
「私の運は尽きた。
この包囲に追い込まれたのは、戦い方を誤ったからではない。天が私を滅ぼそうとしているのだ。
明日、私は皆とともに包囲を破り、夫差の陣へ突入する。
そこで討ち死にし、来世でこの恨みを晴らそう」
勾践は越国の大切な宝を積み上げ、すべて焼こうとした。
さらに、8歳になる最愛の皇太子を呼んだ。
「お前はまだ幼い。
私が死んだあと、敵に捕らえられ、苦しめられるのを見るのは耐えられない。
また、私が生け捕りにされ、お前が先に死ぬのを見ることもできない。
それならば、今ここでお前を先に死なせよう。
そして明日の戦いで私も死に、あの世でも父と子の縁を結び続けよう」
勾践は涙をぬぐいながら、剣を手にして皇太子を殺そうとした。
大夫種の作戦
その時、越の家臣である大夫種が進み出た。
「死ぬことは簡単ですが、生きて時を待つことは難しいものです。
王よ、宝を焼き、皇太子を殺すことは、しばらくおやめください。
私に考えがあります。
呉軍をだまして王の命を救い、越へ帰って再び大軍を起こし、今日の恥を晴らしたいと思います。
呉軍の将軍である太宰嚭は、昔から私の知り合いです。
勇気はありますが、欲が深く、将来の災いを考えない人物です。
また呉王夫差も、知恵が浅く、考えが短く、女性に夢中になりやすい人物だと聞いています。
王も、今回の敗北が、范蠡の忠告を聞かなかったためであることは、お分かりでしょう。
どうか今度は、私の小さな作戦をお許しください。
敗れた何万もの兵の命を、お救いください」
勾践は、ようやく自分の誤りを認めた。
「敗軍の将は、再び作戦について口を出すべきではないという。
これからのことは、すべてお前に任せよう」
こうして宝を焼くことも、皇太子を殺すことも取りやめた。
呉への降伏を申し出る
大夫種は兜を脱ぎ、旗を巻いて、会稽山から下った。
そして呉軍へ向かって叫んだ。
「越王は力尽き、呉王の軍門へ降伏する!」
呉軍30万は勝利の声を上げ、万歳を唱えた。
大夫種は太宰嚭の陣へ入り、ひざまずき、頭を地面につけて言った。
「我が王・勾践は、運が尽き、呉軍に包囲されました。
勾践は今後、永く呉王の家臣となり、わずかな土地を耕す1人の民となることを願っています。
どうか過去の罪を許し、今日の命をお助けください。
もし勾践の命を救ってくださるなら、越国を呉王へ差し出します。
越の宝は将軍に贈り、天下一の美女・西施も、呉王に仕える女性として差し出します。
もし願いが聞き入れられず、勾践を殺すというのであれば、我々は宝を焼き、兵士たちの心を1つにして呉軍へ突入し、死体を軍門の前にさらすまで戦います。
私は長年、将軍と親しく付き合ってきました。
どうか呉王に、この願いを伝えてください」
大夫種は、ある時は怒り、ある時は涙を流しながら、言葉を尽くして頼んだ。
欲の深い太宰嚭は、宝や美女の話に心を動かされた。
「難しいことではない。私が必ず、勾践の命を助けるよう申し上げよう」
そう答え、夫差のもとへ向かった。
夫差、勾践を助ける
太宰嚭が勾践の降伏を伝えると、夫差は怒った。
「呉と越が争ったのは、今日だけではない。
今、勾践は運が尽き、私の手に落ちようとしている。
これは天が勾践を私に与えたということではないか。
それを知りながら命を助けよというお前は、忠義の家臣とはいえない」
太宰嚭は答えた。
「越軍は敗れたとはいえ、まだ3万余りの勇敢な兵を残しています。
呉軍は大勢ですが、昨日の戦いで手柄を立てたため、これからは命を守り、恩賞をもらうことを考えるでしょう。
一方、越軍は逃げ道がなく、心を1つにしています。
『追いつめられたネズミは猫にかみつき、小さな鳥でも戦う時には人を恐れない』
といわれています。
再び戦えば、呉軍も大きな被害を受けるでしょう。
それより勾践の命を助け、小さな土地を与え、呉王の家臣にする方がよいのです。
そうすれば呉王は呉と越を支配するだけでなく、斉・楚・秦・趙などの国々まで従えることができるでしょう」
夫差は欲に心を動かされ、
「それならば会稽山の包囲を解き、勾践を助けよ」
と命じた。
勾践、夫差の家臣となる
包囲が解かれることを聞くと、越軍の兵士たちは喜んだ。
「死ぬしかないところから、生きる道へ出ることができた。
すべて大夫種の知恵のおかげだ」
勾践は皇太子を大夫種に預け、越国へ帰した。
自分は白い馬の引く飾りのない車に乗り、越王の印を首へかけた。
そして自らを呉王の家臣と名乗り、夫差の軍門へ降伏した。
しかし夫差は、まだ勾践を信用していなかった。
「立派な人物は、罪人に近づかない」
と言い、勾践の顔を見ることさえしなかった。
勾践は役人に引き渡され、毎日1つの宿場を進む速さで、呉の都・姑蘇へ連れて行かれた。
その姿を見て、涙を流さない者はいなかった。
姑蘇へ着くと、勾践は手と足にかせをはめられ、土で造られた牢へ入れられた。
朝になっても夜になっても、太陽や月の光を見ることができない。
暗闇の中で暮らしていたため、月日がどれほど過ぎたのかさえ分からなかった。
范蠡、魚売りに変装する
范蠡は越国に残り、勾践が捕らえられていると聞くと、骨の髄まで恨みがしみ込むような思いだった。
「何とかして王の命を救い、越国へ帰ってきていただきたい。
そしてともに作戦を考え、会稽山で受けた恥を晴らそう」
范蠡は姿を変え、魚を入れたかごを自分で担いだ。
そして魚を売る商人のふりをして、呉国へ入った。
姑蘇城の近くで勾践が捕らえられている場所を尋ねると、ある人が詳しく教えてくれた。
しかし牢の警備は厳しく、近づくことができない。
そこで范蠡は、短い手紙を魚の腹へ入れ、牢の中へ投げ込んだ。
勾践が不思議に思って魚の腹を開くと、そこにはこう書かれていた。
周の文王は牢へ入れられたが、後に王となった。
晋の文公も国外へ逃げたが、後に天下の有力者となった。
二人とも苦しみに耐えたからこそ、大きなことを成し遂げた。
敵の国で、むやみに死んではならない。
文字の形を見れば、范蠡が書いたことは明らかだった。
勾践は、
「范蠡は今も生き、私のために心を尽くしている」
と知った。
それまで1日でも長く生きることを苦しいと思っていた勾践だったが、再び命を大切に思うようになった。
夫差の病気
そのころ、呉王夫差が重い病気にかかった。
医師が治療しても治らず、祈りを行っても効果がない。
命も危ないと思われた。
そこへ遠い国から名医がやって来た。
「病気は重いですが、治せないものではありません。
病人の排せつ物の味を確かめ、その状態を私に詳しく知らせる者がいれば、治療できます」
しかし、夫差の家臣たちは互いに顔を見合わせるだけで、誰もそれを行おうとしなかった。
勾践はこの話を聞くと、涙をこらえて言った。
「私は会稽山で殺されるはずだった。
それを夫差王の情けによって助けられ、今も生きて、いつか許される日を待っている。
この恩に報いなくて、いつ報いるというのか」
勾践は人目を避けて夫差の排せつ物を確かめ、その状態を医師へ伝えた。
医師がそれをもとに治療すると、夫差の病気はまもなく治った。
勾践、越国へ帰る
夫差は大いに喜んだ。
「人には心というものがある。
勾践が私の命を助けてくれたのに、私だけが恩に報いる心を持たないわけにはいかない」
夫差は勾践を牢から出した。
それだけでなく、越国を返し、
「自分の国へ帰るがよい」
と命じた。
呉の家臣・伍子胥は強く反対した。
「天から与えられた機会を受け取らなければ、かえって災いを受けるといわれています。
今、越国を奪わず、勾践を帰すことは、広い野原へ虎を放すようなものです。
災いは近いうちに起こるでしょう」
しかし夫差は、伍子胥の忠告を聞かなかった。
勾践を越国へ帰してしまった。
カエルを拝む
勾践が車で越国へ帰る途中、数えきれないほど多くのカエルが、車の前へ飛び出してきた。
勾践は、
「これは勇敢な兵士を得て、長年の願いを果たすことができるという、よい前触れである」
と言った。
そして車を降り、カエルに向かって礼をした。
越国へ帰り、かつて住んでいた宮殿を見ると、3年の間にすっかり荒れ果てていた。
フクロウが木の枝で鳴き、キツネが草むらへ隠れ、庭には落ち葉が積もっている。
人影もなく、寂しい姿となっていた。
西施との再会
勾践が死を免れて帰国したという知らせを聞き、范蠡は皇太子を宮殿へ戻した。
越王の後宮には、西施という天下一の美女がいた。
勾践は西施を深く愛し、片時もそばから離そうとしなかった。
勾践が呉に捕らえられている間、西施は災いを避け、身を隠して暮らしていた。
しかし勾践が帰ったと聞くと、すぐに宮殿へ戻ってきた。
3年間、帰りを待ちながら悲しみ続けたため、髪は乱れ、体もやせていた。
その姿は、春の雨にぬれた一輪の梨の花のように美しく、たとえようもなかった。
公家や役人、武人たちも次々と宮殿へ集まり、荒れ果てていた宮中は、再び花が咲いたようににぎわった。
夫差、西施を要求する
ところが呉国から使者が来た。
「呉王夫差は、美しい女性をたいへん好んでおられます。
天下の美女を数多く集めましたが、西施ほど美しい女性は見たことがないと聞いています。
会稽山で越王の命を助けた時、西施を差し出すという約束がありました。
早く西施を呉の宮殿へ送り、后妃の1人として仕えさせてください」
勾践は怒って言った。
「私が呉王の前へ降伏し、恥を忍んで命を守ったのは、国を取り戻し、自分が栄えるためだけではない。
西施と再び夫婦として暮らすためだった。
生きているうちに1度別れ、死後にしか再会できないのなら、国を持っていて何になる。
たとえ呉と越の約束が破れ、私が再び呉の捕虜になったとしても、西施をほかの国へ送ることはできない」
范蠡の計略
范蠡は涙を流しながら、勾践をいさめた。
「王が西施を思うお気持ちは、私も悲しいほどよく分かります。
しかし今、西施を惜しんで渡さなければ、呉と越の戦いが再び始まります。
そうなれば越国は呉に奪われ、西施も力ずくで連れ去られ、国も滅ぼされるでしょう。
夫差は女性を好み、美しさに迷いやすい王です。
西施が呉の宮殿へ入れば、夫差が彼女に夢中になり、政治を行わなくなることは間違いありません。
国の財産がなくなり、人々が呉王に背く時を待って兵を挙げれば、必ず呉に勝つことができます。
そうしてこそ、国を守り、将来、王と西施が再び長く暮らす道も開けるのです」
范蠡が泣きながら道理を尽くして説得すると、勾践もついに受け入れた。
西施は呉国へ送られることになった。
西施との別れ
西施は、ほんの短い間でも勾践と離れたくないと思っていた。
しかし2人は引き離され、まだ幼い皇太子にも別れを告げられないまま、慣れない旅へ出ることになった。
涙は少しも止まらず、袖が乾く暇もなかった。
勾践も、
「これが今生の別れになるかもしれない」
と思い、悲しみに沈んだ。
西施が去っていった空を、いつまでも見つめ続けた。
夕暮れの山にかかる雲は、さらに涙を誘った。
夜は1人で床に伏し、
「せめて夢の中で西施に会いたい」
と願ったが、思うように夢を見ることもできなかった。
西施に夢中になる夫差
西施は天下第一の美女だった。
1度笑えば、あらゆる美しさが王の目を惑わせ、池の上に咲く花がすべて消えたかと思われるほどだった。
静かに顔を見せるだけでも、人々の心を奪い、雲の間から月が消えたかと疑われるほどだった。
西施が呉の宮殿へ入り、夫差のそばに仕えるようになると、夫差の心は完全に彼女へ奪われた。
夜は一晩中、遊びにふけって政治を行わない。
昼も宴会ばかりを開き、国が危険に近づいていることを考えない。
雲に届くほど高い宮殿を建て、周囲300里の山や川まで、寝室から見下ろせるようにした。
すべては、西施と楽しむためだった。
春、道に花がなければ、香料を地面へ埋め、歩くたびに香りが立つようにした。
夏の夜に月がなければ、蛍を集めて灯火の代わりにした。
夫差は毎日遊び続け、上の者も下の者も政治を忘れた。
しかし、王に気に入られようとする家臣たちは、誰も忠告しなかった。
伍子胥の忠告
ただ1人、伍子胥だけが夫差をいさめた。
「昔、殷の紂王は妲己に迷って政治を乱し、周の幽王は褒姒を愛して国を滅ぼしました。
今、王が西施に夢中になっている様子は、その2人以上です。
呉国が滅びる日は遠くありません。
どうか遊びをおやめください」
しかし夫差は聞かなかった。
ある時、夫差が西施と宮殿で宴会を開き、家臣たちにも酒を勧めていた。
そこへ伍子胥が、礼儀を正して現れた。
ところが美しい階段を上る時、着物の裾を高く持ち上げ、まるで深い水を渡るような歩き方をした。
夫差が、
「なぜそのような歩き方をするのか」
と尋ねると、伍子胥は答えた。
「この宮殿は近いうちに越王によって滅ぼされ、草が生い茂り、露の深い土地となるでしょう。
もし私がそれまで生きていて、昔住んでいた場所を訪ねることがあれば、草やいばらについた露で着物がぬれるでしょう。
その日のため、今から裾を上げる練習をしているのです」
伍子胥、剣を抜く
それでも夫差は、忠告を聞こうとしなかった。
伍子胥は、
「自分の命を捨てても、国の危機を救おう」
と考えた。
ある時、研いだばかりの鋭い剣を持って夫差の前へ出た。
剣を抜き、強い口調で言った。
「私はこの剣を、悪を退け、敵を討つために研ぎました。
呉国が滅びようとしている原因を考えれば、すべて西施から始まっています。
これ以上に危険な敵はいません。
西施の首をはね、国の危機をお救いください」
夫差は激しく怒り、伍子胥を処刑しようとした。
伍子胥は、少しも悲しまなかった。
「命をかけて王をいさめ、忠義のために死ぬことは、家臣の正しい道です。
越軍に殺されるより、王の手によって死ぬ方が、恨みの中にも喜びがあります。
ただし、王が私の忠告を怒り、私を殺そうとするのは、天がすでに王を見捨てた証拠です。
王が勾践に滅ぼされ、処刑されるまで、3年もかからないでしょう。
どうか私の両目をくり抜き、呉の東門にかけてください。
目が枯れないうちに、王が勾践に滅ぼされ、死刑になる姿を見て、笑いたいと思います」
夫差はさらに怒り、伍子胥を処刑した。
そして望みどおり、両目を呉の東門にかけた。
これ以後、夫差がどれほど悪いことをしても、忠告する家臣はいなくなった。
家臣たちは口を閉じ、目で合図を交わすだけとなった。
范蠡、呉へ攻め込む
伍子胥が殺されたという知らせを聞くと、范蠡は喜んだ。
「ついに時が来た」
范蠡は、自ら20万の兵を率いて呉国へ攻め込んだ。
その時、夫差は晋国が呉に背いたと聞き、晋へ出陣していた。
呉国内には、十分な守備兵がいなかった。
范蠡は、まず西施を救い出し、越王の宮殿へ送り返した。
そして夫差が建てた姑蘇台を焼き払った。
斉と楚も越王に味方し、30万の兵を出して范蠡へ協力した。
呉王夫差の敗北
夫差は、越軍が呉へ攻め込んだと聞くと、晋との戦いを中止し、急いで帰国した。
しかし前方には、呉を攻める越・斉・楚の大軍が待ち構えている。
後ろからは、戦いに勝った晋軍が追ってくる。
夫差は前後を大軍に包囲され、逃げる場所を失った。
呉軍は命を惜しまず、3日3夜戦った。
しかし范蠡は、新しい兵を次々と入れ替え、呉軍を休ませず攻め続けた。
呉軍3万余りは、わずか100騎ほどにまで減った。
夫差は32回も自ら敵へ向かって戦い、夜中に包囲を破ると、67騎を連れて姑蘇山へ逃れた。
夫差、命乞いをする
夫差は越王へ使者を送り、伝えた。
「昔、王が会稽山で苦しんでいた時、私はあなたの命を助けました。
どうか今度は私を助けてください。
今後、私は越王の家臣となり、あなたに従います。
会稽山で受けた恩を忘れていないのであれば、今日の私の命を救ってください」
勾践は、かつて自分が同じ立場で命乞いをした時のことを思い出した。
「今の夫差の悲しみは、あの時の自分と同じなのだろう」
そう思うと、夫差を殺すことができず、命を助けようとした。
范蠡が処刑を決める
范蠡は勾践の前へ出て、強く言った。
「木を切るための斧の形は、近くにある木を見れば分かるといいます。
会稽山の時、天は越国を呉王へ与えました。
しかし夫差は越を完全に滅ぼさなかったため、今日の災いを受けています。
今度は天が呉国を越王へ与えました。
ここで呉を取らなければ、越も同じ災いに遭うでしょう。
我々は21年間、心を尽くして呉を滅ぼす計画を進めてきました。
それを1日にして捨てるのは、あまりにも悲しいことです。
王が今、時を考えず夫差を助けようとするなら、私の忠義を無視することになります」
范蠡は、夫差の使者が戻る前に、自ら攻撃の太鼓を打った。
兵を進め、ついに夫差を生け捕りにして、軍門の前へ引き出した。
伍子胥の目
夫差は両手を後ろに縛られ、呉の東門を通った。
そこには、3年前に伍子胥が処刑された時にかけられた両目が、まだ枯れずに残っていた。
その目は明るく開き、夫差の姿を見て笑っているように見えた。
夫差は、伍子胥の目を見ることが恥ずかしく、袖で顔を隠し、うつむいて通り過ぎた。
その姿を見た数万の兵士たちは、皆涙を流した。
夫差は役人へ引き渡され、会稽山のふもとで首をはねられた。
現在でも、
会稽の恥をそそぐ
という言葉が使われるのは、この出来事から来ているのである。
范蠡、国を去る
勾践は呉を滅ぼしただけでなく、晋・楚・斉・秦などの国々も従え、諸国の中心となった。
勾践は范蠡の功績をたたえ、1万戸を治める大領主にしようとした。
しかし范蠡は、恩賞を受けなかった。
「大きな名声を得た人のそばに、いつまでもいてはならない。
功績を成し遂げ、名を得たならば、その身を退くのが天の道である」
范蠡は名前を変え、陶朱公と名乗った。
そして五湖という土地へ隠れ、世間から離れて暮らした。
川辺で釣りをし、雪の中では蓑に白い雪を積もらせ、秋には紅葉の下を小舟で進んだ。
名誉や争いの世界を離れ、月の光の下で静かに暮らし、白髪の老人となったのである。
高徳の詩が伝えたこと
児島高徳は、この呉越の故事を後醍醐天皇の今の状況に重ねた。
後醍醐天皇は、敗れて遠国へ流されようとしている越王勾践である。
そして高徳自身は、王を見捨てず、いつか救い出して敵を倒そうとする范蠡である。
高徳は、わずか2行の詩に多くの思いを込め、ひそかに後醍醐天皇へ伝えたのである。
後醍醐天皇、隠岐へ渡る
その後、後醍醐天皇は出雲国の美保の港に10日余り滞在し、よい風が吹くのを待っていた。
やがて順風となると、船乗りたちは船をつないでいた綱を解き、出航の準備をした。
後醍醐天皇を乗せた船の前後左右には、警護の船300艘余りが並び、大海へこぎ出した。
海は深く静まり、太陽は北西の波の彼方へ沈む。
遠く続く雲や山の上には、月が東南の空から昇った。
漁船が帰っていくころ、岸辺には1つの灯火がかすかに見えた。
夕方になれば、葦の生える岸へ船をつなぐ。
朝になれば、松の間を吹く風を受けて帆を上げる。
海上の旅を何日も続け、京都を出発してから26日目、後醍醐天皇の船はついに隠岐国へ到着したと『太平記』は記す。
黒木の御所
『太平記』によれば、隠岐国の佐々木貞清(本文では「佐々木隠岐判官貞清」)は、「府の島」という場所に黒木の御所を造り、後醍醐天皇の住まいとした。「黒木」とは黒い木という意味ではなく、皮をはいでいない丸木などを用いた粗末な仮御所を指す。
すぐ近くで天皇に仕えることを許されたのは、
- 千種忠顕(本文では「六条少将忠顕」)
- 一条行房(本文では「頭大夫行房」)
- 阿野廉子(三位殿の局)
の3人だけだった。
かつて暮らした金や玉で飾られた宮殿とは、まるで違う。
本文は、竹を垂木に用いた粗末な造りと、松を並べた垣根を描き、かつての宮殿とは比べものにならない住まいだったと嘆く。
一晩暮らすだけでも耐えられないような、わびしい住まいだった。
眠れない夜
夜明けを告げる人の声や、警護の武士が見張りの交代を命じる声が、すぐ枕元まで聞こえてくる。
後醍醐天皇は奥の部屋へ入っても、ほとんど眠ることができなかった。
もはや朝になっても、宮中の政治を行う必要はない。
それでも、たとえ短い眠りの中で夢を見る時にも、毎朝の祈りを忘れなかった。
北極星へ向かって行う天皇の祈りも、少しも怠らなかった。
『太平記』の作者は嘆く。
今年はいったい、どのような年なのだろう。
罪のない多くの役人たちが、流刑地の月を見ながら涙を流している。
ただ一人の天皇が位を奪われ、異国のように遠い土地の風に、心を苦しめている。
天地が始まって以来、これほど不思議で悲しい出来事は聞いたことがない。
空にかかる太陽や月でさえ、
「自分たちは、いったい誰のために明るく輝いているのか」
と恥じるだろう。
心を持たない草や木でさえ、この悲しみに触れれば、花を咲かせることを忘れてしまうに違いない。