峯村部材店主

太平記 24巻

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巻第二十四では、戦乱で失われた朝廷の年中行事から、天龍寺の建立・供養、比叡山の強訴と公卿たちの宗教論争、児島高徳らの挙兵計画、壬生地蔵の身代わり説話までが語られる。後半では物語の時間が1345年から1343年へ戻るため、年代が分かるよう西暦も補った。

巻第二十四|目次

※読み方:軍勢の数、宗教上の奇跡、霊夢、神仏の加護、因果応報などは、『太平記』本文の叙述であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定が一般的な歴史叙述や同時代史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、丈・町・間など換算できるものには現代のおおよその値を併記する一方、中世・中国故事の「里」は単純にkmへ換算しない。


206. 戦乱によって失われた朝廷の年中行事


戦は静まっても、人々の困窮は続く

北朝で暦応元年(1338年)へ改元されたころから、戦乱はひとまず静まり、天下は平穏になったように見えた。

しかし京都に住む身分の高い者も低い者も、なお貧困に苦しんでいた。

国衙領や荘園は、本来の領主である公家や寺社の支配へ戻っていなかった。

正税や年貢も、戦乱と交通の混乱によって京都へ運ぶことが難しかった。

公家は日を追って困窮し、朝廷の儀式はほとんど廃絶した。

政治も、泥や炭の中へ落ちたように乱れていた。


天皇は万機を治める存在である

そもそも天皇は、政治上のあらゆる事柄を処理し、天下を治める存在である。

そのため朝廷では、1年を通して多くの儀式や神事、仏事、政務が行われることになっていた。

その主な内容は、次のとおりである。


正月の行事

正月には、元日の早朝に天地四方拝が行われる。

天皇が天地と四方の神々を拝み、国家の平安と五穀豊穣を祈る儀式である。

続いて、

  • 屠蘇や白散を飲む儀式
  • 群臣による朝賀
  • 小朝拝
  • 七曜の暦の奏上
  • 腹赤という魚の供え物
  • 氷の見本の献上
  • 式部省・兵部省による中央・地方官の任命簿の提出

などが行われる。


立春から正月末まで

立春の日には、主水司が立春の水を献上する。

そのほか、

  • 初子の日の若菜
  • 初卯の日の御杖
  • 月初めの政務報告を確認する告朔の礼
  • 中宮・皇太子による年始の拝礼

などがあった。


正月5日から8日

正月5日には、東寺で国忌(天皇・皇后などの忌日の法要)が行われ、位階授与についての会議が開かれる。

7日には兵部省が弓を奏上し、同じ日に白馬節会が行われる。

8日には大極殿で御斎会が開かれる。

さらに同日、

  • 真言院の御修法
  • 太元帥法
  • 諸寺の修正会
  • 女官への位階授与

なども行われる。


正月11日以後

11日には地方官の任命を決める除目が行われる。

14日には殿上で内論議が開かれる。

15日には七種の粥を食べ、宮内省が宮中で用いる薪を献上する。


正月16日の行事

16日には踏歌節会が開かれる。

また、

  • 秋冬に用いる馬の飼料
  • 各役所へ支給する食糧
  • 射礼
  • 賭弓
  • 年給に関する帳簿
  • 神祇官の御麻

などの奏上や儀式が行われる。


正月晦日

正月の最後の日には、御巫が天皇の災いを移す御贖を奉る。

上皇の御所では、尊勝陀羅尼が唱えられる。


2月の行事

2月最初の丁の日には、孔子を祭る釈奠が行われる。

最初の申の日には春日祭、その翌日には率川祭が行われる。

最初の卯の日には大原野祭がある。

そのほか、

  • 京都の官人を任命する除目
  • 祈年祭
  • 三省による官人考課の目録
  • 官人を並べて功績を確認する列見
  • 位禄の支給
  • 季節の御読経
  • 仁王会

などが行われる。


3月の行事

3日には節供を献じ、御灯をともす。

同じ日に曲水の宴が開かれる。

7日には薬師寺で最勝会が始まる。

さらに、

  • 石清水八幡宮の臨時祭
  • 東大寺の華厳会と授戒
  • 鎮花祭

などが行われる。


4月1日の行事

4月1日には告朔の礼がある。

掃部寮は冬用の御座を取り払い、夏用の御座を整える。

主水司は、この日から氷を献上する。

兵衛府は天皇へ扇を差し上げる。


4月の諸社の祭り

4月には、

  • 山科祭
  • 平野祭
  • 松尾祭
  • 杜本祭
  • 当麻祭
  • 当宗祭
  • 梅宮祭
  • 大神祭
  • 広瀬祭
  • 竜田祭

などが行われる。


4月5日から10日

5日には中務省が、妃・夫人・嬪・女御へ支給する夏衣の文書を提出する。

同じ日に、父祖の官位によって与えられる准蔭の位記が出される。

7日には仮の位階について奏上する擬階の奏が行われる。

8日には釈迦の誕生を祝う灌仏会がある。

10日には女官が、春夏の装飾品についての文書を奏上する。


4月中旬以後

宮中の弓場では区画や設備が整えられる。

斎内親王の御禊も行われる。

中旬の申の日には国祭がある。

関白は賀茂社へ参詣する。

中旬の酉の日には賀茂祭が行われる。

そのほか、

  • 男女への馬の下賜
  • 下旬の子の日の吉田宮祭
  • 東大寺授戒の使者
  • 駒牽
  • 神衣祭
  • 三枝祭

などがある。


5月の行事

5月3日には六衛府が、菖蒲と花を献上する。

4日には走馬の組み合わせと、馬の毛色が奏上される。

5日には端午の節会があり、

  • 薬玉
  • 節供
  • 競馬
  • 日吉祭
  • 最勝講

などが行われる。


6月の行事

6月には、内膳司が清浄な火で炊いた御飯を供える。

中務省が暦を奏上し、造酒司が甘酒を献上する。

神祇官は天皇の御体について占いを行う。


6月の神事

この月には、

  • 月次祭
  • 神今食
  • 道饗祭
  • 鎮火祭
  • 荒世の災いを除く御贖
  • 東西の文部による祓刀の奏上

などが行われる。

15日には祇園祭がある。

晦日には節折と大祓が行われる。


7月の行事

7月1日には告朔がある。

広瀬・竜田の祭へ使者が派遣される。

五位の官人についての審議や、女官の任命簿の提出も行われる。


七夕・盆・相撲節会

2日には最勝寺で法華八講が始まる。

7日には七夕の乞巧奠がある。

8日には文殊会、14日には盂蘭盆会が行われる。

19日には尊勝寺の八講がある。

28日には相撲節会が開かれる。


8月の行事

8月最初の丁の日には釈奠が行われる。

翌日には宮中で内論議が開かれる。

4日には北野祭がある。

11日には官人の成績を決める定考・小定考が行われる。

15日には石清水八幡宮の放生会がある。

16日には、

  • 駒引
  • 仁王会
  • 季節の御読経

が行われる。


9月の行事

9月9日には重陽の宴が開かれる。

11日には伊勢神宮へ例幣使が派遣される。

そのほか、

  • 祈年祭
  • 月次祭
  • 神嘗祭
  • 新嘗祭
  • 大忌祭
  • 風神祭

などがある。


9月15日以後

15日には東寺で灌頂が行われる。

さらに、

  • 鎮花祭
  • 三枝祭
  • 相嘗祭
  • 鎮魂祭
  • 道饗祭

などが行われる。


10月の行事

10月には掃部寮が夏用の御座を取り払い、冬用の御座を整える。

兵庫寮は鼓や笛を鳴らす。

刑部省は、その年に行った刑罰についての文書を提出する。


猪子・弓場始・維摩会

亥の日には3度にわたり猪子の祝いがある。

5日には弓場始が行われる。

10日には興福寺で維摩会が開かれる。

競馬で負けた側からの献上品や、大歌始もある。


11月の行事

11月1日には、内膳司が忌火で炊いた御飯を供える。

中務省は翌年の暦を奏上する。

神祇官は御贖を奉る。


11月の祭礼

この月には、

  • 斎院の御神楽
  • 山科祭
  • 平野祭
  • 春日祭
  • 森本祭
  • 梅宮祭
  • 大原野祭
  • 新嘗会
  • 賀茂臨時祭

などが行われる。


12月の行事

12月1日から18日まで、内膳司は忌火で炊いた御飯を供える。

神祇官は天皇の御体を占う。

陰陽寮は翌年の天皇の物忌の日を計算し、内侍へ提出する。


年末の仏事と神事

そのほか、

  • 荷前の使者
  • 御仏名
  • 大寒の日の土牛童子
  • 晦日の宮内省による御薬の奏上
  • 大禊
  • 御髪上げ

などが行われる。


追儺の節会

晦日の夜には、近衛府の兵が4つの隊へ分かれて並ぶ。

各御所には灯がともされ、昼のように明るくなる。

沈香を燃やした火のそばへ座り、笙を吹く。

鬼や災いを追い払う追儺の節会が行われる夜である。


数え尽くせない朝廷の儀式

これらの儀式を細かくすべて書き記せば、車へ文書を積んでも足りないほどになる。

ここでは大まかな内容だけを述べた。


国家を治めるための大切な仕組み

これらは代々の聖天子や賢明な君主が、天の命を受け、大地を奉じ、世を平和にして国家を治めるための重要な仕組みだった。

本来、1度でも途絶えさせてはならないものだった。


戦乱によってすべて失われる

しかし近年は天下の戦乱によって、どの儀式も行われなくなった。

仏法も神道も、朝廷の儀式も節会もない世となった。

何と嘆かわしいことだろう。


災害の原因を理解する者がいない

政治が何一つ正しく行われないため、天もどのような災いを下せばよいのか分からないほどだった。

それでも正しい道を知る者はいなかった。

天下の罪を自分の責任として受け止め、自らを責める者もいなかった。


疫病と飢饉が民衆を苦しめる

そのため疫病と飢饉が毎年のように起こり、多くの民衆を苦しめることになったのである。

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207. 天龍寺の建立――後醍醐天皇の怨霊を鎮める


武士の浪費が国を疲弊させる

武士たちが諸国の土地を占領することも、戦争に必要な費用を用意するためであれば、戦乱の時代なので仕方がないと考える余地もあった。

しかし実際には、武士たちは意味のない華美な風俗へ夢中になっていた。


衣食と遊宴に財産を費やす

身には五色の華やかな衣を飾った。

食事には八珍と呼ばれる豪華な料理を並べた。

茶会や酒宴に多額の費用を使い、遊女や田楽の芸人へ限りない財産を与えた。


飢饉・疫病・盗賊・戦乱

そのため国は疲弊し、人々も苦しんだ。

飢饉・疫病・盗賊・戦乱が、絶えることなく続いた。


天災ではなく政治の失敗

これは天が災害を下したのではない。

ただ国に正しい政治がなかったためである。

ところが人々は愚かで、道理を理解しなかった。

天下の罪を自分の責任として受け止め、自らを反省することもできなかった。


夢窓国師の進言

夢窓疎石(夢窓国師)は足利直義へ申し上げた。

「近年の天下の様子を見ますと、人間の力だけで、どうして災いを除くことができるでしょうか」


後醍醐天皇の霊の怒り

※ここからは『太平記』が伝える夢窓疎石の発言・霊夢であり、災害の原因を史実として説明するものではない。

「吉野の先帝が崩御された時、さまざまな不吉な現象が現れたと聞いております。

先帝の神霊が深い怒りを抱き、国土へ災いを下しているのではないかと思います」


夢に現れた後醍醐天皇

「暦応2年(1339年)6月24日の夜、夢を見ました。

吉野の先帝が鳳凰で飾られた車へ乗り、亀山の離宮へ入られました」


金色の竜に乗る姿

「その夢から間もなく、先帝は亡くなられました。

その後も時々、先帝が金色の竜へ乗り、大井川のほとりを歩いておられる姿を見ます」


亀山に寺を建立するよう勧める

「京都西郊のこの霊地には、檀林皇后の時代から伝わる多くの由緒があります。

ここへ立派な寺院を1つ建立し、先帝の菩提を弔ってはいかがでしょうか。

そうすれば、天下も必ず静まるでしょう」


怨霊を神として祭った先例

「菅原道真公には死後に官位を贈りました。

宇治の悪左府・藤原頼長にも官位を贈りました。

讃岐院・崇徳上皇や、隠岐院・後鳥羽上皇には尊号を贈り、その御霊を都へお迎えしました」


怨霊は鎮護神となった

「すると怨霊は皆静まり、かえって国家を守る神となりました」


尊氏・直義も賛成する

足利尊氏も直義も、

「まことに道理のある意見である」

と賛成した。


夢窓国師を開山とする

夢窓国師を開山として、新しい寺を建立することとなった。

寺地には、亀山殿の旧跡が選ばれた。


安芸・周防を寺の財源とする

寺院建設の費用をまかなうため、安芸国と周防国が料国として与えられた。

こうして天龍寺の建立が始まった。


海外貿易による利益

『太平記』本文では、建立費用を得るため、宝物を「宋」へ送って貿易を行ったとする。

※本文と史実:この時期の中国王朝は元である。天龍寺の公式沿革では、足利直義と夢窓疎石が元との貿易再開を計画し、その利益を造営費に充てた「天龍寺船」と説明されている。

売買によって100倍もの利益を得たと、『太平記』は語る。


材木運搬にも順風が吹く

遠国から材木を集めた。

運搬する船はほとんど苦労することなく、自然と順風を得た。


天竜八部も喜んだように見える

その様子は、天竜八部衆も寺の建立を喜び、諸天善神も願いを受け入れたかのようだった。


短期間で完成する

  • 仏殿
  • 法堂
  • 庫裏
  • 僧堂
  • 山門
  • 総門
  • 鐘楼
  • 方丈
  • 浴室
  • 輪蔵
  • 雲居庵
  • 70余棟の僧房
  • 84間(約150m)の廊下

などが、短い期間で建てられた。

建物は美しく装飾された。


夢窓国師の庭園

夢窓国師は生まれつき、清らかな水や石の景色を好んだ。

水に浮かぶ浮草のように、1か所へ執着しない生活を理想としていた。

そこで山と水を利用し、10の優れた景観を造った。


天龍寺十境

その十境とは、次のようなものだった。

  • 普明閣
    観音菩薩の化身を思わせる楼閣。
  • 霊庇廟
    神仏が姿を変え、人々を守ることを象徴する廟。
  • 曹源池
    秋空の中心が水面へ映る池。
  • 三級岩
    金色の魚の尾が焦げるほどの急流を思わせる、三段の岩。
  • 龍門亭
    竜のあごの宝珠を磨き上げたような亭。
  • 亀頂塔
    3つの仙山を背負う亀の頂に立つような塔。
  • 万松洞
    雲の間へ、多くの松が続く洞。
  • 拈花嶺
    釈迦が花を掲げ、言葉なく微笑した故事を表す峰。
  • 絶唱渓
    音もない中から、優れた響きを聞く谷。
  • 渡月橋
    天の川を渡る月を思わせる橋。

絵画にも勝る景観

石を集めれば、煙に包まれた山々の色を表した。

木を植えれば、風に荒れる大波の音を移した。

慧崇の煙雨図や、韋偃の山水画でさえ、この庭園の風情には及ばないように思われた。


五山第2位となる

『太平記』本文では、康永4年(1345年)に造営が完成したとする。

そして天龍寺は五山の第2位に置かれたと記す。

※寺史との違い:臨済宗の公式系統の沿革では、天龍寺は康永元年(1342年)に五山第2位となり、康永4年(1345年)に落慶したとされる。『太平記』はこれらをまとめて記している。


朝廷と武家の寺

全体としては朝廷の勅願寺であり、特に武家の祈祷所でもあった。

『太平記』本文では、寺には1000人の僧が置かれたとする。

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208. 比叡山、天龍寺供養に強訴する――公卿たちの宗教論争


上皇の天龍寺臨幸が計画される

康永4年(1345年)8月、上皇が天龍寺へ臨幸し、寺の供養を行うことになった。

諸国の大名が召集され、過去の例に従って、それぞれの役目が命じられた。

天下を挙げた騒ぎとなり、京都では前代未聞の壮観になると噂された。


比叡山が激しく反発する

これを聞いた比叡山の僧たちは、いつものように激しく怒った。

夜ごと僧兵が集まり、各谷では雷のような騒ぎが絶えなかった。

「天魔が妨害を起こし、法会が乱されるのではないか」

と思われるほどだった。


三門跡も僧兵を鎮められない

比叡山の三門跡が、僧兵を静めるため山へ登った。

しかし強硬な若い僧たちは門跡の御坊へ押し寄せ、短い間に山から追い返した。

その後、三塔の僧たちは大講堂の庭へ集まり、相談した。


比叡山側の主張

僧たちは言った。

「王道が栄えるか衰えるかは、仏法が正しいか邪であるかによる。

国家が安全であるかどうかは、比叡山が守護するかどうかにかかっている」


桓武天皇と伝教大師

「桓武天皇が平安京を築かれたのは、比叡山へ将来を託したためである。

伝教大師が比叡山を開いたのは、帝都を守護するためである」


天台・真言こそ国家守護の仏法

「それ以来、釈迦の教えを伝える正統と、天皇の本命を祈る道場は、天台の止観と真言密教の興隆へ集約されてきた。

聖代の賢明な天皇たちも、これを特に尊崇してきた」


禅宗の隆盛は亡国の前兆

「ところが近年、禅宗ばかりが世間で栄え、顕教・密教は存在しないかのように扱われている。

これは国が滅び、仏法が消える前兆である」


中国と日本の先例

「中国では宋の幼帝が禅宗を尊び、国を蒙古へ奪われた。

日本では北条高時が禅宗を尊び、北条家は現在の時代に滅亡した」


夢窓国師流刑と天龍寺破却を要求する

「同じ轍を踏んではならない。

天龍寺供養が朝廷の勅願法会として整えられ、上皇の臨幸まで行われるという。

これが事実ならば、夢窓疎石を遠島へ流せ。

天龍寺は寺社の神人に破壊させよ」


神輿入洛を予告する

「朝廷が処分をためらうならば、日吉七社の神輿を掲げ、宮中へ入る」

3000の僧は皆、

「そのとおりである」

と賛成した。


比叡山から朝廷への訴状

康永4年(1345年)7月3日、各谷の長老たちは訴状を持ち、朝廷へ参上した。

訴状には、次のような趣旨が記されていた。


天台宗こそ諸宗の頂点

「延暦寺3000の僧が、恐れながら申し上げる。

天下の諸宗の頂点に立ち、代々の天皇を守護するのは、天台顕密の教えだけである」


天龍寺は皇居跡を奪った

「夢窓疎石は皇居の旧跡を移し、個人の寺へ変えた。

三代の朝廷の礼儀を行った宮殿を、野狐が死体を争うような場所へした」


顕密の道場を禅寺へ変えたと批判する

「八宗の僧が仏法を論じた座は絶え、代わって鬼神が舌を振るうような禅の言葉が響いている」


夢窓国師を利益へ走る僧と非難する

「夢窓は世を離れ、山中で粗末に暮らす道人の姿へ背いている。

豪華な住まいと装飾へ身を置き、俗人以上の贅沢をしている」


禅宗は言葉だけ高遠だと批判する

「語る言葉は祖師の語録に似ている。

仏や祖師を超えるほどの悟りを持つように語る。

しかし利益を求める時には権力者へ媚び、檀那や富裕者へ頭を下げない者はいない」


財産で住職の地位を買う

「財産を差し出して住職の地位を求める。

寄進という名で土地を支配する。

これは法が滅びる姿である」


天龍寺の勅願寺指定を取り消すよう求める

「天龍寺から勅願寺の名を削り、勅会を中止せよ。

夢窓疎石を流刑にし、天龍寺を撤去せよ」


応じれば正法が長く輝く

「そうすれば正しい仏法の灯は長く燃え続け、末法の闇を照らす。

天皇の教化も春の空のように明るく輝くだろう」

以上が訴状の主な内容だった。


公卿たちが協議する

訴状は内覧へ渡された。

その後、公卿たちが集まり、

「この問題をどのように処理するべきか」

と協議した。

重大な問題であるため、初めは誰も発言しなかった。


坊城経顕が比叡山を批判する

坊城大納言経顕が進み出て言った。

「比叡山は、中国や日本の例を挙げ、

『禅宗を好んだ時代は必ず滅びた』

と述べている。

これは浅い考えの第1である」


禅宗を尊んだ王朝は長く続いた

「中国で禅宗を尊んだ最初を梁の武帝とするならば、その後の唐は288年、宋は317年続いた。

皇位は長く続き、国家も安定した」


北条氏も9代栄えた

「日本では北条氏が禅宗へ帰依し、9代にわたって栄えた」


滅亡の原因は政治の乱れ

「宋が蒙古へ奪われ、北条高時が滅びたのは、禅宗へ帰依したためではない。

政治を乱し、驕りを極めたためである」


夢窓国師を侮辱するのは許されない

「夢窓国師は3代の国師であり、天下の人々を導く高僧である。

比叡山が訴える権利を持つとしても、道理と礼儀をわきまえ、行き過ぎた言葉をやめるべきである」


強訴の首謀者を処罰すべきだと主張する

「夢窓を遠島へ流し、天龍寺を神人へ破壊させよという要求は、異常なものである。

三門跡へ首謀者を尋ね、死罪や流刑へ処するべきだ」

経顕は断固として主張した。


日野資明は山門にも道理があるとする

日野大納言資明が言った。

「比叡山の態度は強訴に近い。

しかし退いて考えれば、山門の主張にも1つの道理がある」


延暦寺は王城鎮護の寺

「日本の成立は天台山から始まり、王城の守護は延暦寺が中心となってきた。

朝廷が乱れた政治を行えば山門が諫め、邪法が栄えれば僧たちが退けた。

その先例は古い」


法然・栄西らを退けた先例

「後宇多院の時代には太応国師の寺院建立を止めた。

土御門院の時代には法然の専修念仏を訴えた。

後堀河院の時代には、法然の墓を破壊させた。

後鳥羽院の時代には、栄西・能忍らが禅宗を京都へ広めたため、南都・北嶺がともに強訴した」


建仁寺は顕密を併置して許された

「建仁寺が建立された時には、真言・天台の両宗を置き、開山自身も延暦寺の末寺として特別に扱うと申し出たため、ようやく許された」


福原遷都も山門が止めた

「平清盛が都を福原へ移した時も、比叡山だけが訴状を出し、ついに遷都を中止させた」


仏法と王法は互いに支える

「これらは比叡山だけの利益ではない。

仏法と王法が互いに支え合うため、朝廷も訴えを認めてきたのである」


現在の禅僧は宋の禅僧と異なる

「禅宗は宋の作法と祖師の行いを手本とする。

しかし現在の禅僧の心や作法は、それと違っている」


高僧や皇族を敬わない禅僧

「宋では帝師に出会えば、大寺院の長老であっても地へひざまずいた。

ところが日本では、行いも学問もない者でも、

『禅僧である』

というだけで、法務・大僧正・門主・灌頂の高僧と同じ席を望む」


沙弥まで父兄を超えようとする

「出家したばかりの少年でさえ、兄を越え、父を越えようと考える。

これは仁・義・礼・智・信の道へ反する」


禅僧の贅沢

「朝廷や上皇の御所が粗末な門と草屋のようになっているのに、禅寺は玉楼・金殿を磨いている。

公卿が木の実を食べ、粗末な衣を着ているのに、禅僧は珍しい料理と美しい衣へ飽きている」


摩竭陀国の僧の故事

昔、摩竭陀国の城内に1人の僧がいた。

毎朝、東を向いて喜びながら礼拝し、北を向いて嘆き、涙を流した。


粗末でも正法を守る寺

人が理由を尋ねると、僧は答えた。

「東の山中には、戒律を厳しく守る僧がいる。

木の下や岩の上へ座り、すでに悟りを得て長い。

仏法は栄えているため、私は礼拝する」


豪華でも正法のない寺

「北の城内には、数十の堂塔が並ぶ豪華な寺がある。

仏像や経巻は金銀で飾られ、僧俗には食事も衣服も不足しない。

しかし釈迦の正しい教えを究めた僧は1人もいない。

仏法が滅びようとしているため、私は毎朝嘆く」


寺の美しさだけでは意味がない

資明は言った。

「どれほど寺を建てても、人々の苦しみや嘆きばかりを増やすならば利益はない。

山門の訴えには、理由があると思う」


三条通冬は宗論を提案する

2つの意見が対立し、公卿たちは判断できなかった。

しばらくして三条源大納言通冬が言った。

「問題の中心は、天台が正法で、禅が邪法かという争いである。

それならば天台僧と禅僧を召し合わせ、宗論を行わせるべきだ」


祇園精舎建立前の宗論

※以下の宗教説話・奇跡譚は、『太平記』が宗論の先例として語る物語である。歴史的事実として断定せず、本文の叙述として読む。

通冬は宗論の先例として、祇園精舎の故事を語った。

須達長者は祇陀太子の園を買い、釈迦の寺を建てようとした。


土地を黄金で埋める

祇陀太子が冗談で、

「土地を黄金で敷き詰めたならば売ろう」

と言うと、須達長者は倉の黄金を象へ載せ、園全体へ敷き詰めた。

太子は願いの深さへ感動し、土地を譲った。


六師外道が寺院建立へ反対する

しかし六師外道は国王へ、

「釈迦の寺を建てれば国が滅びる」

と訴えた。

王は仏弟子と外道に神通力を競わせ、勝った側へ従うことにした。


舎利弗が外道の奇術を破る

外道は、

  • 巨大な木
  • 七宝の池
  • 3つの山
  • 10頭の竜
  • 鉄の牛
  • 恐ろしい鬼神

を次々と出現させた。


仏法の神通力

舎利弗は、

  • 旋風で木を倒し
  • 白象に池の水を飲ませ
  • 金剛力士に山を砕かせ
  • 金翅鳥に竜を食わせ
  • 鉄の獅子に牛を倒させ
  • 多聞天王に鬼神を退けさせた

外道は敗れ、弟子たちは皆出家し、正法へ帰依した。

こうして祇園精舎が建てられた。


後漢の明帝と白馬寺

中国の後漢では、明帝が光を放つ僧の夢を見た。

臣下は、

「インドの釈迦の教えが中国へ伝わる前兆です」

と説明した。


仏僧と道士の術比べ

摩騰・竺法蘭が仏舎利と『四十二章経』を中国へ伝えた。

道士たちは反対し、仏僧と術を競った。

道士は天へ上ることも、地へ入ることも、山を割ることも、月を取ることもできなかった。


摩騰法師が空中へ立つ

『太平記』の説話では、摩騰法師は仏舎利を入れた瑠璃の瓶を持ち、100丈余り(単純換算で約300m)の空へ飛び上がった。

足場もない空中へ立ち、舎利から光を放った。

天皇以下の人々は皆仏法へ帰依し、道士3700人も出家したと物語は語る。

その日に白馬寺が建立された。


村上天皇の御前での天台・法相宗論

日本でも村上天皇の応和元年、天台宗と法相宗の高僧が宗論を行った。

比叡山からは慈慧僧正良源、南都からは松室仲算が参内した。


二人が洪水を渡る奇跡

仲算が木津川へ着くと洪水で渡れなかった。

老人から、

「水は深いが、あなたの知恵は浅い」

と嘲られ、力者へ輿を担いで渡らせた。

すると洪水は左右へ分かれ、皆、足を濡らさず渡った。


慈慧僧正の水牛

慈慧僧正が鴨川へ着くと、こちらも増水していた。

1頭の水牛が現れた。

『太平記』の説話では、車を水牛へつなぐと、水牛は波の上を30町余り(単純換算で約3.3km)走り、内裏へ着くと消えた。


草木成仏をめぐる論争

清涼殿では、天台宗の草木成仏と、法相宗の五性各別が争われた。

仲算は、

「草木には理としての仏性はあっても、修行する仏性がない。

どうして成仏できるのか」

と問うた。


円覚経の文

慈慧僧正は、

地獄も天宮も、皆浄土となり、
仏性を持つ者も持たない者も、等しく仏道を成就する。

という経文を示した。


春日明神が読み方を教える

法相宗を守る春日明神が高座へ現れ、経文の読み方を変えるよう仲算へ教えたという。

しかし慈慧僧正は、

「仏性を持ちながら永遠に成仏できないならば、なぜ仏性と呼ぶのか」

と重ねて難じた。


慈慧僧正が仏の姿となる

仲算は、

「それならば御自身が成仏した証拠を示してください」

と言った。

慈慧僧正はしばらく黙った。

すると法衣は瓔珞で飾られた衣へ変わり、体は紫磨黄金の仏身となった。

大光明が四方を照らし、冬枯れの木々が一斉に花を開いた。


牛の涎が歌となる

後に門外の牛が流した涎を見ると、そこには歌が現れていた。

草も木も
仏になると
聞く時は
情ある身の
頼もしきかな

意味は、

草や木さえ仏になれると聞けば、
心を持つ人間の自分も成仏できると頼もしく思う。

というものだった。


両宗とも認められる

天台と法相のどちらが勝ったとも、簡単には決められなかった。

法相宗は六宗の長、天台宗は諸宗の頂点とされた。


天台と禅の宗論を求める

通冬は言った。

「天台宗は、禅宗が根拠とする経典が中国で失われているため、証拠にならないと批判している。

この疑問を解くためにも、天台宗と禅宗を宗論させるべきだ」


二条関白は宗論を否定する

3つの意見へ分かれ、再び誰も判断できなくなった。

二条関白が言った。

「八宗は分かれ、後世の教えも異なる。

しかし、どれも釈迦の恐れなき説法でないものはない。

どれか一つを取り、ほかを捨てることはできない」


護法・清弁の論争

昔、インドに護法菩薩と清弁菩薩がいた。

護法は法相宗の祖として、物事が存在するという立場を説いた。

清弁は三論宗の祖として、すべては空であると説いた。


7日7夜でも決着しない

2人は7日7夜にわたり議論した。

草木も感動して季節外れの花を開き、鳥や獣も立ち去るのを忘れるほどだった。

それでも決着しなかった。


弥勒の出世まで判断を待つ

護法は兜率天へ上り、清弁は岩を割って修羅窟へ入った。

弥勒菩薩が未来に現れる時まで、結論を待つことになった。

後に華厳宗の香象大師が、

「色は空であり、空は色である」

として両者を調和させた。


末世の僧に宗論は難しい

「古代の菩薩でさえ決着できなかった。

まして末世の僧に、正しい結論を出せるだろうか。

宗論を行っても意味は少ない」


武家へ判断を求める

「近年は大小の政治が、すべて武家の判断で行われている。

まず山門の訴えをどう扱うか武家へ尋ね、その返答を受けて朝廷が決めるべきである」

公卿たちは皆、この意見へ賛成した。


武家は山門の要求を拒否する

翌日、山門の訴状が幕府へ送られた。

尊氏と直義は訴状を読み、言った。

「寺を建て、高僧を尊ぶことで山門の所領を奪うわけでも、僧を苦しめるわけでもない」


神輿が来れば兵で防ぐ

「朝廷と武家が仏法へ帰依して大善を行うならば、僧としてともに喜ぶべきである。

これを妨げようとすることは理解できない。

神輿が京都へ入るならば、兵を送って防ぐ」


天龍寺供養を予定どおり行う

「道中へ神輿を置き去りにされたならば、京都の山法師の土蔵を選び、その財産で神輿を造り直せばよい。

不当な強訴は無視し、天龍寺の供養を厳重に行うべきである」


山門は面目を失う

武家がこのように強く主張したため、朝廷も反対できなかった。

京都へ参上した比叡山の僧たちは、訴状を朝廷の庭へ捨てられ、面目を失って山へ帰った。


比叡山はさらに強硬となる

3000の僧は激しく怒った。

康永4年(1345年)8月16日、

  • 大宮
  • 二宮
  • 聖真子

三社の神輿を根本中堂へ上げた。

祇園社・北野社の門も閉じられた。


末寺・末社へ協力を求める

翌17日には、

  • 剣社
  • 白山
  • 豊原寺
  • 平泉寺
  • 書写山
  • 法華寺
  • 多武峰
  • 内山
  • 日光
  • 太平寺

など、370余りの末寺・末社へ連絡した。

18日には南都の四大寺へ書状を送った。


興福寺への牒状

興福寺への書状には、次のような内容が記されていた。

「正しい教えを守り、異なる邪説を退けることは、南都・北嶺が古くから力を合わせて行ってきた」


禅宗を放置すれば諸宗が滅びる

「近年、禅宗の勢力が天下へ満ちている。

始まりは小さな流れでも、すでに天を覆う波となった。

小さな火を消さなければ、野原を焼き尽くす大火となる。

このままでは諸宗が滅びることは疑いない」


過去に達磨寺を焼いた興福寺を称賛する

「以前、奈良の片岡山にあった達磨寺を焼き払い、住職を流刑にしたことは、興福寺の美しい先例である」


禅寺をすべて破壊するよう求める

「夢窓を遠島へ流せ。

天龍寺だけでなく、京都内外の大小の禅寺をすべて破却せよ。

達磨宗の跡を永遠に消し、正法を広めよ」


藤原氏の公卿へも圧力をかける

「法会を主催し、出席を促す藤原氏の公卿たちは、供養以前に藤原氏から追放せよ。

それでも出仕する者があれば、南都・北嶺の神人や公人をその屋敷へ向かわせ、厳しい処分を行え」


南都・北嶺の連携を求める

「南都と北嶺が心を合わせることが現在の太平を示し、将来の長久を約束する。

宗旨を論じる時には兄弟が家の中で争うように見えても、仏法の危機には同じ舟へ乗った楚と越のように力を合わせるべきである」


公卿たちが妥協を求める

興福寺から返書が届く前に、院司や藤原氏の有力公卿が朝廷へ参上した。

「山門の訴えは、無理を道理として押し通す場合も多い。

しかし今回の主張には、いくらか理由がある」


天下が乱れれば法会も意味を失う

「仏事や高僧の法会も、天下が平和であってこそ意味がある。

日吉の神輿や春日の神木が京都へ入り、南都・北嶺が強訴すれば、幕府が何と言っても法会は混乱する」


山門をなだめてから法会を行うべき

「上皇の願いも、かえって無駄になる。

速やかに山門の訴えを受け入れて怒りを静め、その後、心安らかに法会を行うべきである」


朝廷が譲歩する

近年、天下の半分は乱れ、1日も安心できなかった。

そのうえ南都・北嶺が神訴を行えば、大変な事態となる。

そこで朝廷は意向を曲げ、院宣を出した。


勅願供養を中止する

「天龍寺を勅願寺として供養する形式は中止する。

上皇は供養当日ではなく、翌日に個人的な結縁のため参詣する」


山門が強訴を中止する

比叡山は、この処置を受け入れて静まった。

神輿はただちに元の社へ戻された。

陣頭を警護していた武士も馬の腹帯を緩めた。

末寺・末社の門も開かれ、参詣の道が再び通れるようになった。

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209. 天龍寺供養――尊氏・直義と両上皇の参詣


武家主催の供養を行う

山門との協議の結果、供養当日は武家の主催として法会を行い、翌日に上皇が結縁のため参詣することになった。

康永4年(1345年)8月29日、足利尊氏と足利直義は行列を整え、天龍寺へ参詣した。


京都中から見物人が集まる

身分の高い者も低い者も道を埋め、僧侶も俗人も群れをなした。

前代未聞の華やかな光景だった。


第1陣・山名時氏

行列の第1は、当時の侍所を務めていた山名時氏だった。

華やかな鎧を着た兵500騎余りを率い、先頭を進んだ。


第2陣・随兵12人

その次には随兵の先陣として、

  • 武田信氏
  • 小笠原政長
  • 戸次頼時
  • 伊東祐煕
  • 土屋範遠
  • 東常顕
  • 佐々木秀定
  • 佐々木氏綱
  • 大平義尚
  • 粟飯原清胤
  • 吉良満貞
  • 高師兼

の12人が続いた。

※人物名:この行列の人名は基本的に『太平記』本文の呼称を残している。同時代の「天龍寺供養日記」などでは、たとえば『太平記』の「武田信氏」に当たる武田伊豆前司を武田信武と記すなど、名前・実名比定に違いがある。

それぞれ色とりどりの鎧へ烏帽子を掛け、太くたくましい馬へ豪華な馬具をつけていた。


第3陣・帯刀の若武者

続いて、太刀を帯びた若武者たちが2列で歩いた。

武田・小笠原・三浦・二階堂・佐々木・海老名・平賀・逸見などの一族である。

色鮮やかな直垂を着て、思い思いの太刀を帯びていた。


足利尊氏の車

その次に、正二位大納言・征夷大将軍足利尊氏が進んだ。

美しく飾られた小八葉の牛車へ乗り、簾を高く上げていた。

衣冠を正しく整えていた。


後陣の帯刀

尊氏の車の後ろには、設楽・寺岡・逸見・小笠原・秋山・佐々木・富永・宇佐美・曾我・伊勢氏ら16人が続いた。

服装と帯剣は前の帯刀と同様で、行列の順序を守って進んだ。


足利直義の車

続いて参議正三位兼左兵衛督の足利直義が進んだ。

巻纓と老懸をつけ、蒔絵の細太刀を帯び、小八葉の車へ乗っていた。


御剣・御沓・調度・御笠の役

その後には役人8人が続いた。

  • 南部宗継・高師冬は御剣
  • 長井広秀・長井時春は御沓
  • 佐々木秀長・佐々木貞信は御調度
  • 和田宣茂・千秋惟範は御笠

を担当した。


高師直・上杉氏ら

続いて、

  • 高師直
  • 上杉朝貞
  • 高師泰
  • 上杉重能
  • 大高重成
  • 上杉朝房

が進んだ。

布衣と半靴を着け、2騎ずつ左右へ並んだ。


後陣の随兵

その次には、

  • 足利氏頼
  • 千葉氏胤
  • 二階堂行通
  • 二階堂行光
  • 佐竹師義
  • 佐竹義長
  • 武田盛信
  • 伴野長房
  • 三浦行連
  • 土肥高実

の10人が続いた。

鎧や武器は、どれも金銀や玉を磨いたように輝いていた。


外様大名500余騎

その後には外様の大名500騎余りが、直垂姿で従った。

土佐・長井・摂津・二階堂・中条・佐々木・結城・梶原・大内・島津・武田・赤松など、多くの大名が入り交じって進んだ。


行列は大宮から西郊まで続く

さらに、

  • 吉良
  • 渋川
  • 畠山
  • 仁木
  • 細川

をはじめとする有力一族や大名が、弓矢と武器を帯びて続いた。

大宮から京都西郊まで、隙間なく袖が連なるほどだった。


天龍寺山門の警固

行列が天龍寺へ到着すると、佐々木秀綱が検非違使として山門を警固していた。

黒袴を着た走下部、水干姿の者、金銀を延べたように輝く装束の雑色、華やかな若武者300人余りが並んでいた。


法会が始まる

尊氏・直義が参堂すると、

  • 勅使の日野資明
  • 院司の高泰成

らが参列し、法会が始められた。

その日は何事もなく暮れた。


翌日は両上皇の御幸

翌日の康永4年(1345年)8月晦日(旧暦の月末)だった。

この日は結縁のため、両上皇が天龍寺へ御幸したと、『太平記』本文は記す。

※本文と寺史:『太平記』は「両上皇」とする。一方、臨済宗の公式系統の天龍寺沿革では、当初は光厳上皇と光明天皇の臨幸が予定され、比叡山の強訴によって法要当日の臨幸を取りやめ、翌日に行幸したと説明されている。本文と寺史で表現が異なるため、ここでは両者を区別する。

前日とは異なる華やかさで、見物人は町の中へ足を置く場所もないほど集まった。


御車を人の手で引く

上皇の御車が総門へ到着すると、牛を外し、人の手で引くことになった。

牛飼7人は、いずれも持明院党と呼ばれる名高い技術者だった。

中でも松一丸は特に優れ、綾や薄絹を裁ち、金銀で飾った装束を着ていた。


上皇の装束

上皇は御簾を上げ、見物人を御覧になった。

黄練貫の御衣に直衣を重ね、雲立涌文様の織物を用いていた。

薄紫色の指貫を着けていた。


供奉する公卿

竹林院公重をはじめ、

  • 左宰相中将忠季
  • 左中将宗雅
  • 頭左中弁宗光
  • 右少将教貞
  • 春宮権大進時光

らが、さまざまな文様と色彩の装束で供をした。


下北面・御随身

その後には下北面の者として、

  • 中原季教
  • 源康定
  • 源康兼
  • 藤原親有
  • 安倍親氏
  • 豊原泰長

らが続いた。

御随身には秦久文・秦久幸がいた。


参会の公卿

法会へ参会した公卿には、

  • 三条公季
  • 日野資明
  • 四条隆蔭
  • 春宮大夫実夏
  • 足利直義

らがいた。

いずれの装いも、周囲を照らすほど華やかだった。


上皇の御座所

仏殿北側の廊下4間(約7m)を美しく飾った。

大紋の畳を重ね、その上へ毛織物を敷いた。

北側へ平敷の御座を置いた。

西の間は屏風で区切り、休息所とした。


大井川を表す飾り

御前には、風流な島形の作り物が置かれた。

大井川の景色を表し、紅葉が錦を洗うような秋の風情を見せた。

三宝院僧正賢俊が、武家の命令で用意したものだった。


聴聞所と公卿座

仏殿の裏2間(約3.6m)へ御簾を掛け、上皇の聴聞所とした。

その北へ畳を敷き、公卿の座とした。


左右の楽人

仏殿の庭の東西へ幕を張り、左右の楽人11人が唐装束で床几へ座った。

笙・笛などを担当する18人の楽人も並んだ。


夢窓国師の入場

夢窓国師が山門から進み出ると、楽人は巻幄乱声を長く奏した。

法会を聴く人々は、この時、感動の涙を流した。


導師の荘厳な行列

導師は金襴の袈裟と履物を着け、莚を敷いた道を進んだ。

二階堂氏が傘を持ち、島津氏・佐々木氏が綱を持って従った。


五山の長老たち

導師に従ったのは、

  • 南禅寺の智明
  • 建仁寺の友梅
  • 東福寺の一鞏
  • 万寿寺の友松
  • 真如寺の良元
  • 安国寺の至孝
  • 臨川寺の志玄
  • 崇福寺の慧聰
  • 清見寺の智琢
  • 天龍寺の士昭首座

らだった。

いずれも禅林を代表する高僧だった。

釈迦の十大弟子になぞらえられ、荘厳な姿で従った。


願文と説法

正面の戸を閉じた後、願文が読まれ、説法が数時間にわたって行われた。


雅楽と舞

法会が終わると、楽人は元の幕へ戻り、舞楽を行った。

  • 蘇合香
  • 古鳥蘇
  • 陵王荒序
  • 納曾利
  • 太平楽
  • 狛桙

などが舞われた。


秘曲・荒序

中でも荒序は、楽道の深い秘伝であり、簡単には演奏されない曲だった。

しかし天皇の臨幸に準じる法席であるため、演奏しないわけにはいかないとされた。

朝栄が舞い、新秋が笙、景朝が笛、景茂が太鼓を担当した。

楽道にとって大きな名誉であり、天下に比べるもののない壮観だった。


国師が上皇の長寿を祈る

夢窓国師は香を1つまみ取り、

「今上皇帝の御身が万歳まで続きますように」

と祈った。


山のような布施

御布施を運ぶ役として、多くの公卿・殿上人・諸大夫が進んだ。

金銀・珠玉、綾・羅・錦・刺繍品だけではなかった。

日本や中国で名だけを聞き、誰も実物を見たことのないような宝物が、山のように積まれた。


王舎城の供養にも勝る

昔、王舎城で500台の車へ宝物を積み、仏へ献上したという。

その供養でさえ、これには及ばないように見えた。


多くの人が禅宗へ帰依する

2日間の儀式を見た人々は、

「福徳と智慧の二つを成就し、人々を救う道を広めた者として、夢窓国師に勝る人物はいない」

と考えた。

他宗から禅宗へ改宗し、偏った執着を捨てる者も多かった。


法会の成功を喜ぶ

大きな妨害が予想された法会が、無事に終わった。

天皇の願いも、武家の帰依も、一度に満たされた。

人々は喜びの表情を見せた。


慢心によって功徳を失う

仏像を造り、堂を建てる善行は、確かに優れている。

しかし願主が少しでも慢心を起こせば、法会に妨害が生じ、仏法が長く保たれないことがある。


梁の武帝と達磨

梁の武帝は達磨へ尋ねた。

「私は寺を1700か所建て、僧尼10万8000人を養った。

功徳はあるか」

達磨は、

「功徳はない」

と答えた。


「無功徳」の意味

これは本当に功徳がないという意味ではない。

武帝の信仰へ混じった慢心を破り、見返りを求めない大善へ導くための言葉だった。


東大寺大仏供養

『太平記』本文では、日本で聖武天皇が東大寺を建立し、高さ16丈(単純換算で約48m)の金銅の盧舎那仏を安置したとする。

※本文の数値と史実:東大寺公式によれば、現在の盧舎那仏の像高は14.98mで、寺に伝わる奈良時代の記録でも結跏趺坐の像高は5丈3尺5寸(単純換算で約16m)とされる。ここでは『太平記』の「16丈」をそのまま残し、単純換算値を史実の像高とは区別する。

供養の導師として行基菩薩を招いた。


行基はインドから導師を招くと語る

行基は勅使へ言った。

「天皇の命令は重く、辞退できません。

しかし、このような大願の供養は、人間の判断ではなく、見えない神仏の導きへ任せるべきです」


婆羅門僧正を迎える

「供養の日に香と花を用意し、伽陀を唱えます。

インドから高僧を招き、その方を導師として供養を行わせましょう」


人々は疑う

天皇や公卿は、

「インドは100万里の波の彼方にある(中国・仏教説話の「里」であり、現代のkmには単純換算しない)。

明日の供養へ、どうして突然導師が来られるのか」

と疑った。

しかし行基の言葉なので、反対しなかった。


難波の海に一葉の舟

供養当日の朝、行基は難波浦へ出た。

西へ向かって香花を供え、座具を広げて礼拝した。

すると五色の雲が空へ立ち、一枚の葉のような舟が波へ浮かんだ。


菩提僊那が来日する

インドの婆羅門僧正、菩提僊那が突然現れた。

諸天が傘を掲げ、異国の香りが衣を染めた。


行基との歌の交換

行基は婆羅門僧正の手を取り、歌を詠んだ。

迦毘羅衛での昔の約束があったため、
文殊菩薩であるあなたの御顔へ、今再び会うことができました。

婆羅門僧正も答えた。

霊鷲山の釈迦の御前で約束した真実の縁は朽ちず、
今こうして再び会うことができました。


古今まれな大仏供養

供養の詳細は、言葉で尽くすことができない。

天の花が風に舞い、梵音が雲の中へ響いた。

昔にも後世にも、まれな大供養だった。


天龍寺への山門の強訴を考える

寺院供養は、本来このように行われるべきものである。

それにもかかわらず、天龍寺供養に対して山門が強く訴え、ついには勅会の形式を中止させた。

これは普通のことではなかった。


真俗双方の慢心

僧侶にも俗人にも慢心があったため、天魔波旬につけ込まれる隙が生じたのではないか。

人々はそのように考えた。


天龍寺は2度焼ける

『太平記』は、天龍寺が建立後20年余りの間に2度まで焼失したと記す。

『太平記』は、それを不思議な因果として記している。ただし、火災を法会の「慢心」と結びつけるのは『太平記』の因果論である。天龍寺の公式沿革にも延文3年(1358年)と貞治6年(1367年)の大火が記録されているが、火災そのものと本文の宗教的解釈は分けて読む必要がある。

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210. 三宅高徳・荻野朝忠の謀反と、壬生地蔵の身代わり


児島高徳(三宅三郎高徳)が児島へ潜伏する

そのころ備前国の住人、児島高徳(『太平記』本文では三宅三郎高徳)は脇屋義助へ従い、伊予国へ渡っていた。

※年代・人物補足:ここで物語の時間は、前章の天龍寺供養(1345年)より前へ戻る。一般的な人物事典では、児島高徳と荻野朝忠の挙兵計画を康永2年/興国4年(1343年)12月としている。また、児島高徳のこの時期の事績は主として『太平記』によって伝わり、実在や事績の評価には議論がある。本文の物語と史実上の確認範囲を分けて読む必要がある。

しかし義助が亡くなった後、備前国へ戻り、児島へ隠れていた。


脇屋義治を大将にしようとする

高徳は、なお宮方の願いを果たそうとしていた。

上野国にいる脇屋義治(『太平記』本文では新田左衛門佐義治)を迎え、大将として兵を挙げようと計画した。


荻野朝忠へ連絡する

同じころ丹波国の住人、荻野彦六朝忠が、足利将軍へ恨みを持っていると伝えられた。

高徳はひそかに使者を送り、共に挙兵するよう呼びかけた。

朝忠は喜んで承諾した。


計画が漏れる

備前・丹波の両方で挙兵の日を決め、出陣しようとした。

ところが計画は突然、足利方へ漏れた。


山名時氏が丹波へ攻める

丹波へは山名時氏が3000騎余りで押し寄せた。

高山寺の麓を四方2、3里にわたって城壁で囲み、食糧を断つ攻撃を行った(中世の「里」は一定でないため、現代のkmには単純換算しない)。


荻野朝忠が降伏する

荻野朝忠は戦い続ける力を失い、ついに降伏した。


児島へ5000余騎が攻める

児島へは、

  • 備前
  • 備中
  • 備後

3か国の守護が、5000騎余りで攻め寄せた。


高徳は京都夜襲を計画する

高徳は考えた。

「児島で戦っても、大きな目的を達成できるほどの勝利は望めない」

そこで大将の脇屋義治を連れ、海路から京都へ上ることにした。


足利方の首脳を同時に襲う

計画は、

  • 足利尊氏
  • 足利直義
  • 高氏
  • 上杉氏

らの屋敷を、夜討ちで同時に襲うというものだった。


諸国の宮方を集める

「小勢では成功しない。

回状を送り、味方を集めよ」

高徳は諸国へ計画を知らせた。


1000人余りが集まる

『太平記』本文では、各地で身を隠し、姿を変えて暮らしていた宮方の兵1000人余りが、昼夜を分かたず駆けつけたとする。


軍勢を分散して隠す

全員が1か所へ集まれば、人々から怪しまれる。

そこで、

  • 200騎余りを義治につけ、東坂本へ隠す
  • 300騎余りを宇治・醍醐・真木・葛葉へ宿泊させる
  • 精鋭300人を京都白河の各所へ散らす

ことにした。

わざと1か所へ集めなかった。


木幡峠で合流する予定

翌日の夜、木幡峠へ集まる。

その後、4隊へ分かれ、尊氏・直義・高氏・上杉氏の屋敷を夜襲する。

このように合図を決めた。


所司代が計画を察知する

しかし決行前日、どのように知られたのだろうか。

『太平記』本文では、当時の京都所司代である都筑入道が200騎余りを率いて動いたとする。


壬生の宿を急襲する

夜討ちの案内役となる精鋭が隠れていた、四条壬生の宿へ、夜明け前に押し寄せた。


宮方は屋根へ上って戦う

立てこもっていた兵は、もともと生死を恐れない者たちだった。

家の屋根へ駆け上がり、矢が尽きるまで射た。

その後、皆、腹を切って死んだ。


各地の同志も離散する

壬生の一団が討たれたと聞き、各地へ隠れていた宮方の同志も散り散りになった。

高徳の計画は失敗した。

児島高徳は脇屋義治とともに、信濃国へ逃れた。


香勾高遠だけが助かる

壬生の民家へ隠れていた謀反人は、逃れることができず、ほとんど全員討たれた。

しかし『太平記』の説話では、武蔵国の住人、香勾新左衛門高遠だけは助かった。

地蔵菩薩が高遠の身代わりになったためだ、と物語は語る。


高遠が壬生地蔵堂へ逃げ込む

所司代の軍勢が夜明け前、四方から10重、20重に包囲した。

高遠は1人で敵中を打ち破り、壬生の地蔵堂へ走り込んだ。


寺僧が念珠と太刀を交換する

「どこへ隠れればよいのか」

と堂内を見回していると、寺僧と思われる法師が奥から出てきた。

法師は高遠を見て言った。

「そのような姿では助かりません。

この念珠と、あなたの太刀を取り替え、念珠を持ちなさい」


高遠は僧の言葉に従う

高遠は、

「確かにそのとおりだ」

と思った。

法師の言うまま、太刀を渡し、長い念珠を受け取った。


足利兵が堂内を捜索する

そこへ足利兵40、50人が、大庭へ走り込んだ。

門を閉じ、容赦なく隅々まで捜した。


高遠は参詣人を装う

高遠は長い念珠を繰りながら、声高く祈った。

大いなる神通力と方便の力によって、
人々を悪い世界へ落とさないでください。


誰も高遠を疑わない

足利兵は高遠の姿を見た。

本当の参詣者だと思ったのだろう。

怪しみ、とがめる者は1人もいなかった。


仏壇や天井まで捜す

兵たちは、

「仏壇の中も、天井の上も破って捜せ」

と叫ぶばかりだった。


血のついた太刀を持つ法師

その時、今しがた人を斬ったように血のついた太刀を、袖の下へ隠し持つ法師が、堂のそばへ立っていた。

足利兵は、その姿を見つけた。


法師が落人として捕らえられる

「ここに落人がいるぞ」

3人が走り寄った。

法師を中央へ持ち上げて倒し、両手を後ろへ回して厳しく縛った。


所司代の牢へ入れられる

法師は侍所へ渡された。

所司代の都筑入道は法師を受け取り、厳重な牢へ入れた。


翌日、法師が消える

翌日は1日中、番人は目を離さなかった。

牢の戸も1度も開かなかった。

それにもかかわらず、夕方になると囚人は消えていた。


牢へ芳香が残る

番人は驚き、囚人がいた場所を調べた。

座っていた場所には芳しい香りが残っていた。

牛頭栴檀の香りのようだった。


捕らえた兵にも香りが残る

法師を捕らえた者たちの手や、鎧の袖・草摺にも不思議な香りが染みついていた。

その香りは、まったく消えなかった。


地蔵堂の本尊を調べる

人々は、

「これは普通の出来事ではない」

と考えた。

壬生地蔵堂の扉を開き、本尊を拝した。


地蔵菩薩の体に傷がある

六道の人々を救う地蔵菩薩の御体は、各所が刑罰の鞭によって打たれたように黒く変色していた。


縄まで地蔵の衣へ残る

両手を後ろへ縛った縄が、まだ地蔵菩薩の衣の上へついたままだった。

『太平記』は、高遠の身代わりとして地蔵菩薩自身が捕らえられたことを示す奇跡として、この出来事を描いている。


3人の兵が出家する

地蔵菩薩を縛った3人の兵は、すべてを告白して泣いた。

自分たちの罪を悔い、懺悔した。

それでも心の苦しみに耐えられなかった。

すぐに髻を切って出家し、仏道修行の身となった。


順縁と逆縁

香勾高遠は、地蔵菩薩へ従った縁によって、現世で命を助けられた。

一方、地蔵菩薩を捕らえた3人も、敵対する逆縁によって、来世に仏と出会う縁を得た。


現世・来世を導く地蔵の誓願

釈迦如来が地蔵菩薩へ人々の救済を託した言葉は、少しも違わなかった。

現世でも来世でも人々を導く地蔵菩薩の悲願は、何とも頼もしいものである。

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