ホーム | 太平記 全40巻・全339章 | ← 巻第二十五 | 巻第二十七 →
巻第二十六では、貞和3年/正平2年(1347年)11月の住吉・天王寺の戦い後に楠木正行が敵兵を救う話から始まり、同年12月の吉野参内、翌1348年1月の四條畷の戦い、吉野炎上と後村上天皇の賀名生への移動へと進む。後半では、高師直・高師泰兄弟への厳しい批判、上杉重能・畠山直宗との対立、中国故事を用いた政治論、足利直冬の西国下向が描かれる。
この巻は、『太平記』本文内部でも四條畷の戦いと賀名生移動の年代にずれがあり、軍勢数や超人的な戦闘、怨霊、宗教的説話、中国故事にも文学的な誇張が多い。本文の流れを保ちながら、西暦を補い、確認できる史実との差や本文内部の矛盾を注記した。
巻第二十六|目次
- 216. 楠木正行、最後の覚悟を胸に吉野へ参内する
- 217. 四條畷の戦い――楠木正行、高師直本陣へ突進する
- 218. 楠木正行の最期――143人、君臣2代の忠義に死す
- 219. 吉野炎上――黒木御所と蔵王堂、灰となる
- 220. 賀名生の黒木御所――山中へ追われた南朝
- 221. 高師直・高師泰兄弟の奢り――寺社と公家を踏みにじる
- 222. 上杉重能・畠山直宗、高一族を讒言する――廉頗と藺相如の忠義
- 223. 妙吉侍者、高師直・高師泰兄弟を讒言する――秦王朝滅亡の教訓
- 224. 足利直冬、西国探題として中国地方へ下る
※読み方:年代・人物名は可能な限り西暦と実名を補ったが、『太平記』本文と一般的な歴史叙述が異なる場合は両者を区別した。旧単位は尺・寸・丈・町など換算できるものに現代のおおよその値を併記し、中世・中国故事の「里」は現在のkmへ単純換算しない。軍勢数、超人的な戦闘、怨霊、神仏・天狗、中国故事の巨大数は史実として断定せず、『太平記』本文上の叙述として読む。
216. 楠木正行、最後の覚悟を胸に吉野へ参内する
敵兵500人余りの命を救う
阿倍野・住吉方面の戦いが行われたのは、貞和3年/正平2年(1347年)11月26日のことだった。
渡辺橋から押し落とされ、川へ流された足利方の兵は500人余りに及んだ。
彼らは楠木正行の軍に川から引き上げられ、どうにか命を救われた。
しかし晩秋の霜は体を傷つけ、明け方の氷が肌へ張りついていた。
このままでは、とても生きられそうになかった。
正行は負傷した敵を介抱する
正行は情け深い人物だった。
濡れた兵には乾いた小袖を着せ、体を温めた。
薬を与え、傷の治療もさせた。
4、5日の間、敵兵を丁寧に介抱した。
馬や武具まで与えて帰す
回復して馬へ乗れる者には、馬を与えた。
武具を失った者には、新しい武具を着せた。
さらに礼を尽くして、足利方の陣へ送り返した。
敵兵も正行の情けへ心を動かされる
敵でありながら正行の情けへ感動し、
「今後は、ひそかに楠木方へ心を通わせよう」
と考える者もいた。
受けた恩へ報いようとして、そのまま正行の軍へ加わった者もいた。
その者たちは後に、四條畷の戦いで正行とともに討ち死にしたという。
2度の敗戦に京都が動揺する
1347年、足利方は2度の戦いで楠木軍へ完全に敗れた。
畿内の多くの土地が宮方に攻められ、遠国でも宮方が兵を挙げたとの報告が相次いだ。
足利尊氏・足利直義兄弟は、熱湯の中で手を洗うように落ち着きを失った。
高師直・高師泰兄弟を大将とする
「地方の源氏一族や、各国から集めただけの軍を向かわせても、もはや勝てないのではないか」
足利方は、そう考えた。
そこで執事の高師直と、その弟・高師泰を大将とし、
- 四国
- 中国地方
- 東山道
- 東海道
など20か国余りの兵を招集した。
高師泰軍が淀へ入る
部隊分けが決まってから1日も過ぎないうちに、高師泰は直属軍3000騎余りを率いて出発した。
1347年12月14日の早朝、淀へ到着した。
師泰軍は2万余騎となる
これを聞いて、
- 武田甲斐守
- 逸見孫六入道
- 長井丹後入道
- 厚東駿河守
- 宇都宮三河入道
- 赤松信濃守
- 小早川備後守
らが駆けつけた。
軍勢は合わせて2万騎余りとなった。
淀・羽束師・赤井・大渡の民家だけでは収容できず、寺院の堂舎まで兵で満ちた。
高師直軍は6万余騎となる
1347年12月25日、高師直は直属軍7000騎余りを率いて八幡へ到着した。
これへ、
- 細川清氏
- 仁木頼章
- 今川五郎入道
- 武田伊豆守
- 高師兼
- 高師冬
- 南部宗継
- 千葉介
- 宇都宮氏
- 佐々木道誉
- 六角判官
- 黒田判官
- 長氏
- 松田氏
- 多田院御家人
など、多数の武将が加わった。
源氏23人、外様大名436人、合わせて6万騎余りとなった。
軍勢は、
- 八幡
- 山崎
- 真木
- 葛葉
- 鹿島
- 神崎
- 桜井
- 水無瀬
一帯へ満ちた。
正行・正時兄弟が吉野へ向かう
足利軍が雲や霞のように淀・八幡へ集まったと聞くと、楠木正行は弟の楠木正時や一族を連れ、1347年12月27日に吉野の皇居へ参上した。
正行は四条隆資(四条中納言)を通じて、後村上天皇へ次のように申し上げた。
父・正成の忠功
「父・正成は、微弱な身でありながら大敵の勢いを打ち砕き、先帝・後醍醐天皇の御心を安らかにいたしました」
湊川での討ち死に
「その後、天下は間もなく乱れ、逆臣が西国から攻め上ってきました。
父は以前から、
『危機を見たならば命を差し出す』
と決めていたため、摂津国湊川で討ち死にいたしました」
13歳の正行へ残した遺言
「その時、正行は13歳でした。
父は私を戦場へ連れて行かず、河内へ帰しました」
※本文の年齢:ここでは『太平記』本文どおり、湊川の戦い(1336年)の時の正行を13歳とする。楠木正行の生年・享年は諸説・諸本で差があるため、本文の年齢を確定した史実とは扱わない。
一族を養い、朝敵を討て
「父は、
『生き残った一族を養い、朝敵を滅ぼし、天皇を再び正しい御代へお戻し申し上げよ』
と言い残して亡くなりました」
今こそ父の遺言を果たす時
「正行も正時も、すでに成人いたしました。
今度、自ら力の限り戦わなければ、亡き父の遺言へ背くことになります。
また、武略のない役立たずだとの非難を受けるでしょう」
病死すれば不忠・不孝となる
「人間の命は、自分の思いどおりにはなりません。
戦わないうちに病気へ侵され、早く亡くなることもあるでしょう。
そうなれば天皇に対して不忠の臣となり、父に対しては不孝の子となります」
師直・師泰との決戦を誓う
「今度、高師直・師泰と正面から戦います。
命の限り戦い、
- 師直・師泰の首を正行が取るか
- 正行・正時の首を彼らに取られるか
その2つのどちらかによって、戦いの勝敗を決めます」
最後に天皇の顔を拝する
「この世で、もう1度天皇の御顔を拝見するため、参内いたしました」
正行は言い終わる前から、鎧の袖へ涙を落とした。
忠義の心は、その表情へはっきりと現れていた。
伝奏も、まだ天皇へ取り次がないうちから、直衣の袖を涙で濡らした。
天皇が正行を近くへ召す
天皇は南殿の御簾を高く巻き上げさせた。
美しく輝く御顔で兵たちを見渡し、正行を近くへ召した。
2度の勝利を称賛する
「お前は以前の2度の戦いに勝利し、敵軍の士気をくじいた。
朕の長年の怒りを慰めたことは、代々の武功と比べても、まことに見事である」
今度の戦いは天下の分かれ目
「敵は今、全軍を挙げて向かっている。
今度の戦いは、天下が保たれるか滅びるかを決めるものとなるだろう」
進退の時を見極めよ
「状況に応じて進退し、機会に合わせて動くことは、勇士の心得である。
朕が戦い方を細かく命じるべきではない」
退くことも将来を保つためである
「進むべき時を知って進むことは、好機を失わないためである。
退くべき時を見て退くことは、後の戦いを保つためである」
「お前を朕の手足と思っている」
「朕はお前を、自分の手足となる重臣だと思っている。
十分に慎み、命を保ちなさい」
正行は返答せず退出する
正行は額を地面へつけた。
進むとも退くとも返答しなかった。
今回を最後の参内と、すでに心へ決めていたのである。
143人がともに死ぬと誓う
正行・正時兄弟のほか、
- 和田新発意
- 和田新兵衛
- 紀六左衛門の子2人
- 野田四郎の子2人
- 楠将監
- 西河の子
- 関地良円
ら、今度の戦いで1歩も退かず、同じ場所で討ち死にすると誓った武士は143人に及んだ。
後醍醐天皇陵へ参拝する
一同は先帝・後醍醐天皇の御陵へ参った。
「今度の戦いが困難となったならば、討ち死にいたします」
と、最後の別れを申し上げた。
如意輪堂の壁へ名前を記す
そして如意輪堂の壁板へ、それぞれの名前を過去帳のように書き連ねた。
その最後へ、正行は1首の歌を書いた。
帰らじと
かねて思へば
梓弓
なき数に入る
名をぞとどむる
意味は、およそ次のようになる。
生きて帰らないと、すでに心を決めている。
そこで、弓を取って戦いに向かう今、
亡くなった者の中へ加わる自分の名を、ここへ書き残しておく。
髪を切り、吉野を出る
一同は、生前に自らの供養を行う逆修のためだろうか。
それぞれ鬢の髪を切り、仏殿へ投げ入れた。
その日のうちに吉野を出発し、敵陣へ向かったのである。
217. 四條畷の戦い――楠木正行、高師直本陣へ突進する
師直・師泰は年を越して軍勢を待つ
高師直・高師泰兄弟は淀・八幡で年を越し、さらに諸国の軍勢が到着するのを待ってから、河内へ向かおうと相談していた。
※年代:四條畷の戦いは、一般に貞和4年/正平3年(1348年)1月5日の戦いとされる。この章の正月2日・3日・5日は、1348年の日付として示す。
ところが、
「楠木正行は敵を迎え撃つため吉野へ最後の暇を申し上げ、今日、河内の往生院へ到着した」
という知らせが入った。
高師泰が和泉へ進む
貞和4年/正平3年(1348年)1月2日、高師泰は2万騎余りを率いて淀を出発した。
和泉国境の堺浦へ陣を置いた。
高師直が四條へ進む
高師直も1348年1月3日の朝、6万騎余りを率いて八幡を出発し、四條へ到着した。
足利軍は5つの陣へ分かれる
そのまま正行へ近づくこともできた。
しかし足利方は考えた。
「楠木軍は必ず、険しい場所を前に置いて待つだろう。
こちらから攻めるのは不利である。
敵から攻めさせた方がよい」
そこで全軍を5か所へ分け、鳥が雲へ集まるような陣形を作った。
隠れた部隊と表へ出る部隊を組み合わせ、敵を待った。
白旗一揆5000騎
白旗一揆は県下野守を旗頭とした。
5000騎余りが飯盛山へ上り、南側の尾根へ控えた。
大旗一揆3000騎
大旗一揆は河津・高橋の2人を旗頭とした。
3000騎余りが秋篠・外山方面の峰へ上り、東側の尾根へ控えた。
武田軍は四條畷の田中へ
武田伊豆守は1000騎余りを率い、四條畷の田の中へ陣を取った。
前方へ騎馬軍が突撃できる空間を残して待った。
佐々木道誉は生駒山へ陣取る
佐々木道誉は2000騎余りを率い、生駒山の南側へ上った。
正面へ畳盾500枚を並べた。
800人の射手を配置する
足軽の射手800人を馬から下ろした。
「敵が山へ攻め上がってきたならば、まず馬の腹を射よ。
敵が動きを止めたところへ、後方の騎馬軍が一気に山を駆け下りよ」
という作戦だった。
師直の本陣
大将の高師直は、前線から20町余り(約2.2km)後方へ退いた場所へ陣を取った。
足利将軍の御旗の下へ、輪違紋の旗を立てた。
前後左右には騎馬武者2万余騎、馬廻りには徒歩の射手500人を置いた。
10町余り四方(1辺約1.1km)を、稲や麻のように密集した兵が囲んでいた。
正面から破れない堅陣
各一揆は互いに勇気を競い、隙のない陣を作った。
項羽の山を抜く力や、魯陽公が太陽を引き戻したほどの勢いがあっても、この堅陣へ正面から入って戦えるとは思えなかった。
四条隆資軍が飯盛山へ向かう
1348年1月5日の早朝、まず四条隆資(四条中納言)が大将として動いた。
和泉・紀伊の野武士2万余人を率い、色とりどりの旗を掲げ、飯盛山へ向かった。
足利方の一揆を引きつける陽動
これは白旗・大旗の両一揆を山麓へ下ろさず、正行軍を四條畷へ進ませるための陽動作戦だった。
足利軍は陽動へ引かれる
両一揆は、これが見せかけの軍勢とは知らなかった。
「こちらが宮方の主力だ」
と考え、射手を分け、旗を進めて坂の中ほどまで下りた。
険しい場所で待ち受けようとした。
正行軍3000余騎が四條畷へ進む
その間に、
- 楠木正行
- 弟・楠木正時
- 和田新兵衛高家
- 和田新発意賢秀
らは、精鋭3000騎余りを率いた。
霞へ隠れるように進み、まっすぐ四條畷へ押し寄せた。
目標は師直ただ1人
正行の作戦は明確だった。
まず前方の敵を蹴散らす。
その後、大将の高師直へ直接攻め寄り、勝負を決める。
少しもためらわず進んだ。
県下野守が道をふさぐ
県下野守は、白旗一揆の旗頭として遠い峰へ控えていた。
菊水の旗1流が、ひたすら高師直の本陣を目指しているのを見た。
県軍は北の岡から駆け下り、馬を降りた。
正行軍が進む道を東西へ一文字にふさぎ、徒歩で待ち構えた。
正行軍はためらわず進む
勇気の盛んな楠木軍は、徒歩の敵が道をふさいでいるのを見ても、少しも立ち止まらなかった。
3手へ分けた前陣500騎余りが、静かに馬を進めた。
戦いの始まり
足利方から秋山弥次郎・大草三郎左衛門が前へ進み、戦いが始まった。
秋山が倒れると、居野七郎は敵へ勢いを与えまいとして、その上を飛び越えた。
「ここを狙え」
と射向けの袖をたたき、小さく跳びながら進んだ。
居野七郎が討たれる
敵が東西から雨のように射た矢が、兜の内側や草摺の外れへ深く刺さった。
居野七郎が太刀を地面へ突き、矢を抜こうとして動けずにいるところへ、和田新発意が駆け寄った。
兜の鉢を強く打ち、倒れたところを家臣に討ち取らせた。
県軍が崩れる
これを始まりとして、楠木方の騎馬兵500余騎と、県軍の徒歩兵300余人が激しく戦った。
平らな田野では、騎馬軍が自由に進退できた。
徒歩兵は馬へ攻め悩まされ、白旗一揆の兵300余人が、ほとんど討たれた。
県下野守が退く
県下野守も5か所へ深手を負った。
「これ以上はかなわない」
と考え、生き残った兵とともに師直の本陣へ退いた。
武田軍との第2戦
次に、
「1度戦って疲れた楠木軍を討とう」
と、武田伊豆守が700騎余りで進んだ。
楠木第2陣が包囲する
正行の第2陣1000騎余りが迎え撃った。
2手へ分かれ、武田軍を1人も逃さないよう包囲した。
7、8度の激突
汗を流す馬が東西へ駆け違った。
旗は南北へ分かれ、敵味方が包囲し、また包囲されながら、命を惜しまず戦った。
7、8度まで激しくもみ合った。
武田軍も大損害を受ける
武田軍700余騎は、わずかな人数まで討たれた。
楠木軍の第2陣も半数ほどが傷を負い、全身を血へ染めて控えた。
小旗一揆の48騎
※本文の呼称:『太平記』本文は、はじめ「白旗一揆」「大旗一揆」と記した後、この場面では「大旗・小旗両一揆」「小旗一揆」と呼んでおり、呼称に揺れがある。ここでは本文の呼び方を残す。
小旗一揆は初めから、四条隆資の見せかけの軍勢へ向き合い、飯盛山へ上っていた。
そのため本戦を遠くから見下ろしていた。
楠木第2陣の疲れを見抜く
楠木軍の第2陣が戦い疲れ、山麓へ控えたのを見ると、小旗一揆から精鋭48騎が駆け下りた。
長崎・松田・須々木・河勾・高橋・青砥・有元・広戸氏らだった。
48騎が1000余騎を止める
彼らは小松原から下り、山を背にして、楠木軍を麓へ見下ろす位置で戦った。
わずか48騎でありながら、楠木第2陣1000余騎の進撃を止めた。
佐々木道誉が疲れた楠木軍を襲う
佐々木道誉は考えた。
「楠木軍は、ほかの敵など相手にせず、師直の旗だけを目指しているだろう。
少し前へ通した後、背後をふさいで討とう」
3000余騎が山を駆け下りる
道誉は3000騎余りを率い、飯盛山南側の峰へ控えていた。
楠木第2陣が2度の戦いで馬も兵も疲れ、少し動きを止めたところを見逃さなかった。
3000騎を3手へ分け、同時に鬨の声を上げて山を駆け下りた。
楠木第2陣が崩れる
楠木軍はしばらく防戦した。
しかし敵は大軍であり、味方は疲れていた。
元気な騎馬軍へ激しく攻められ、第2陣は大半が討たれた。
生き残った兵は南へ退いた。
正行の前陣は300騎以下となる
もともと小勢だった楠木軍は、後陣を破られた。
残る前陣は、300騎にも満たないように見えた。
普通ならば、ここで持ちこたえられるはずはなかった。
143人の誓い
しかし正行と和田新発意は、まだこの中にいた。
吉野で過去帳へ名を記し、
「今日の戦いで討ち死にする」
と誓った143人も、1か所へ密集していた。
後陣の敗北を顧みない
彼らは後陣が破られたことを、少しも気にしなかった。
「高師直は、さらに後ろへ控えている」
ただ師直を目指し、前進した。
細川清氏軍を破る
足利方は、
「味方は勝ち、敵は小勢となった」
と勢いづいた。
まず細川清氏が500騎余りで正行軍へ向かった。
正行の300騎は少しも滞らず、正面から攻め合った。
細川軍は50騎余りを討たれ、北へ退いた。
仁木頼章軍を破る
2番目に仁木頼章が700騎余りで攻めた。
正行軍は轡を並べて中央へ突入し、火花を散らして戦った。
仁木頼章軍は四方八方へ追い散らされ、再び1か所へ集まることができなかった。
千葉・宇都宮軍も退く
3番目に、
- 千葉介
- 宇都宮遠江入道
- 宇都宮三河入道
ら500騎余りが東西から攻め、楠木軍の中央を破ろうとした。
敵の陣形へ同じ陣形で応じる
楠木軍は破られなかった。
敵が虎韜の陣形で囲めば、楠木軍も虎韜へ分かれて応戦した。
敵が竜鱗の陣形で攻めれば、竜鱗へ組み直して戦った。
3度戦い、3度離れた。
千葉・宇都宮軍も多くの兵を討たれ、退いた。
100余騎を失い徒歩となる
この戦いで、和田・楠木軍は100騎余りを失った。
残る馬も3本、4本と矢を受けていないものはなかった。
兵たちは馬を放し、徒歩となった。
田の畔で兵糧を取る
田の畔を背にして座り、箙へ差していた竹葉包みの兵糧を取り出した。
心静かに食事をし、気力を取り戻した。
足利軍は退路を空ける
足利方は考えた。
「これほど死を覚悟した敵を包囲して討とうとすれば、味方も大勢失う。
後ろを空け、逃げるならば逃がそう」
数万騎は、完全に包囲する姿を見せなかった。
正行は逃げることを恥じる
楠木軍は小勢だった。
逃げようと思えば逃げることができた。
しかし正行は吉野で、
「師直の首を取って帰れなければ、正行の首が六条河原へさらされるものと思ってください」
と奏上していた。
その言葉を恥じたのだろう。
あるいは運命が、ここで尽きようとしていたのだろう。
師直との決戦だけを求める
和田も楠木も1歩も後ろへ退かなかった。
「ただ師直へ近づき、勝負を決めよ」
と口々に叫びながら、ゆっくり歩いて進んだ。
足利方7000騎が襲いかかる
これを見た、
- 細川頼春
- 今川五郎入道
- 高師兼
- 高師冬
- 南部氏
- 佐々木六角判官
- 黒田判官
- 土岐周済房
- 明智氏
- 荻野朝忠
- 長氏
- 松田氏
- 宇津木氏
- 曾我氏
- 多田院御家人
ら、師直の前後左右へ控える精鋭7000騎余りが、
「自分が真っ先に討ち取ろう」
と叫びながら攻めかかった。
正行軍の迎撃方法
正行軍は少しも恐れなかった。
息を整えたい時には、一斉に地面へ座った。
鎧の袖を互いに重ね、敵に思うまま矢を射させた。
敵が近づくと、同時に立ち上がり、武器の切っ先をそろえて飛びかかった。
南次郎左衛門尉を討つ
最初に攻め寄せた南次郎左衛門尉は、馬の両膝を薙ぎ払われて落馬した。
立ち上がる暇もなく討たれた。
松田次郎左衛門を討つ
次に松田次郎左衛門が、
「自分も負けまい」
と攻め込んだ。
和田新発意へ近づき、敵を斬ろうとして体を前へ倒した。
和田は長刀の柄を伸ばし、松田の兜の鉢を強く打った。
錣が傾いたところへ兜の内側から突きを入れ、逆さまに馬から落として討ち取った。
7000騎が一時崩れる
目の前で斬り落とされた者は50人余り。
腕を切り落とされて血に染まった者は200騎余りに及んだ。
足利軍7000騎余りは激しく追い立てられ、
「これ以上はかなわない」
と左右へ開いて退いた。
淀・八幡を越え、京都まで逃げた者も多かった。
高師直が味方を呼び戻す
この時、師直まで1歩でも退いていれば、逃げる大軍に巻き込まれ、楠木軍が京都まで追いついたと思われた。
しかし師直は少しも動揺しなかった。
大声で叫んだ。
「引き返せ。
敵は小勢だ。
師直はここにいる!」
名誉を捨てて逃げるのか
「私を見捨て、京都へ逃げ帰った者が、どのような顔で将軍の御前へ出られるというのか。
運命は天にある。
武士ならば名を惜しめ!」
師直は目を怒らせ、歯を食いしばりながら四方へ命令した。
恥を知る兵は引き返し、師直の前後へ集まった。
土岐周済房が討ち死にする
土岐周済房の軍は散らされ、自身も膝を斬られて血まみれとなっていた。
周済房が師直の前を素っ気なく通り過ぎると、師直は厳しい目で見た。
「普段の勇ましい言葉とは違い、今日は見苦しく見えますな」
師直の一言で引き返す
周済房は答えた。
「何が見苦しいのでしょう。
それならば討ち死にして御覧に入れます」
馬を引き返して敵中へ突入し、ついに討ち死にした。
それを見た雑賀次郎も攻め入り、戦死した。
上山六郎左衛門が師直を名乗る
正行軍と師直本陣の間は、わずか半町(約55m)ほどとなった。
「正行の長年の願いが、今こそかなう」
と思われた。
その時、上山六郎左衛門が師直の前へ立ちふさがった。
師直の身代わりとなる
上山は大声で名乗った。
「八幡太郎義家以来、源氏代々の執権として武功を天下へ示す、高武蔵守師直はここにいる!」
上山は師直を名乗り、討ち死にした。
その間に本物の師直は遠くへ退き、正行は目的を果たせなかった。
上山が命を捨てた理由
大軍の中で、なぜ上山だけが師直の命へ代わって死んだのか。
事情を尋ねると、師直から受けた、ただ一言の情けへ感動したためだという。
上山が師直の鎧を借りる
正行軍が突然攻めてくるとは思わず、上山は師直の陣で、くつろいで話をしていた。
敵襲の騒ぎが起こった時、自分の陣へ戻って鎧を着る時間がなかった。
家臣が鎧を渡すことを拒む
師直が着替え用として置いていた、同じ色の鎧2領があった。
上山が唐櫃のひもを引き切り、鎧を取って肩へ掛けた。
すると師直の若い家臣が鎧の袖をつかんだ。
「何をなさるのです。
これは執事殿の御着替えです。
何も断らず持って行かれては困ります」
師直は上山へ鎧を与える
師直は馬から飛び降り、若い家臣を厳しくにらんだ。
「何と情けない振る舞いだ。
今、師直の命へ代わろうとしている人へ、たとえ1000両、1万両の鎧であっても、どうして惜しむのか。
そこを退け」
師直が上山を称賛する
師直は上山へ向かって、
「見事にお召しになったものです」
と、かえって褒めた。
上山は心から喜んだ。
その一言の情けへ深く感動した心は、言葉にしなくても表情へ現れていた。
情けを受けた者が身代わりとなる
事情を知らず鎧を惜しんだ家臣は、戦いが困難になると真っ先に逃げた。
しかし師直の情けへ感動した上山は、師直の命へ代わって討ち死にした。
何とも哀れなことである。
秦の穆公と馬を食べた兵
『太平記』は、同じような中国の故事を挙げる。
秦の穆公が戦いへ敗れ、敵国へ逃げていた時、乗馬が疲れた。
後ろから来る乗り換えの馬を待っていたが、家臣は馬を連れて来なかった。
飢えた兵が馬を食べる
家臣たちは、疲れて飢えた兵20人余りを縛り、穆公の前へ連れてきた。
「乗り換えの御馬を、この者たちが殺して食べました。
死刑にするため捕らえました」
穆公は兵を許す
穆公は怒らずに言った。
「死んだ馬は2度と生き返らない。
たとえ生き返るとしても、獣の命のために人間の命を失ってよいものか」
酒と薬を与える
「飢えて馬の肉を食べた者は、病気になることがあると聞く」
穆公は兵たちへ酒と薬を与え、治療させた。
罪へ問わなかった。
後に穆公の命を救う
後に穆公が敗れ、大敵へ包囲され、今にも討たれようとした。
その時、馬を食べて許された兵20人余りが、穆公の命へ代わって戦った。
敵を散らし、穆公を救った。
情けは巡って自分へ戻る
大将となる者は、罰を軽くして許し、恩賞を厚く与えるべきである。
穆公が馬を惜しんで兵を殺していたならば、敵の包囲から逃れられなかった。
師直が鎧を惜しんでいたならば、上山が命へ代わることもなかった。
「情けは人のためならず」とは、このようなことをいう。
正行は師直を討ったと喜ぶ
正行は上山を討ち、その首を見た。
清らかな顔立ちの男だった。
鎧には輪違紋を金具で透かし彫りにしてあった。
首を手玉のように扱う
「間違いなく師直を討った。
長年の願いが、今日ついにかなった。
皆、これを見よ」
正行は首を空へ投げ上げては受け取り、手玉のようにして喜んだ。
弟が間違いへ気づく
正行の弟が走り寄った。
「大切な首を傷つけてはなりません。
まず旗竿の先へつけ、敵味方へ見せましょう」
太刀の先へ首を刺し上げ、よく見ると、
「師直ではありません。
上山六郎左衛門の首です」
と気づいた。
正行は上山の勇気を称賛する
正行は大いに腹を立て、首を投げ捨てた。
しかし、すぐに言った。
「上山六郎左衛門と見たのは、自分の見間違いだったか。
お前は日本一の勇士である。
我が天皇にとっては、この上ない朝敵である。
それでも、あまりにも勇敢だったことは立派である」
首を丁重に包む
「ほかの首と一緒にしてはならない」
正行は自分の小袖の片袖を引き裂き、上山の首を包んだ。
そして岸の上へ丁重に置いた。
本物の師直を発見する
鼻田弥次郎は膝へ矢を受け、動けずに立っていた。
「師直は、まだ討たれていない。
何とも悔しい。
師直はどこにいる」
その声を力として、血まみれの目で北を見た。
輪違の旗1流の下へ、立派な老武者を大将として70〜80騎ほどが控えていた。
偽装退却の策
「必ず師直である。
攻めよう」
と正行が言った。
和田新兵衛が鎧の袖を引いて止めた。
「少し考えがあります。
勢いだけで大敵を討ち漏らしてはなりません」
徒歩では騎馬の師直を追えない
「敵は騎馬武者、我々は徒歩です。
追えば敵は必ず退くでしょう。
退かれれば、どうして討ち取れますか」
退却を装って敵を引き寄せる
「我々が持ちこたえられず退く姿を見せれば、敵は勢いへ乗って追ってくるでしょう。
十分近くまで引き寄せます」
馬の膝を斬り、師直を討つ
「その中から師直と思われる者の馬の両膝を薙ぎ、地面へ落とします。
そこで細い首を斬り落とし、我々も討ち死にするのはいかがでしょう」
師直は動かない
生き残った50人余りは、
「その策がよい」
と同意した。
盾を背後へ担ぎ、退却する姿を見せた。
しかし師直は思慮深い大将だった。
敵がわざと退いていることを見抜き、少しも馬を動かさなかった。
高師冬軍を打ち破る
西側の田中へ高師冬が300騎余りで控えていた。
師冬は、
「敵が本当に退いた」
と考え、1人も逃さないよう追撃した。
楠木・和田軍は、敵の太刀先が鎧へ当たるほど近くへ引き寄せた。
一斉に鬨の声を上げ、岩へ当たった波が返るように反撃した。
師冬軍が敗走する
師冬軍は引き返す暇を失った。
その場で50人余りが討たれた。
残る兵も斬り立てられ、馬を左右へ開いて逃げた。
本陣を通り過ぎ、20町余り(約2.2km)も退いたのである。
218. 楠木正行の最期――143人、君臣2代の忠義に死す
※年代:この章は、貞和4年/正平3年(1348年)1月5日の四條畷の戦いの終盤を描く。軍勢数や超人的な戦闘描写は、『太平記』本文上の叙述として読む。
師直まで1町に迫る
高師直と楠木正行の間は、ついに1町(約110m)ほどとなった。
正行は、
「これこそ長年求めてきた敵である」
と見定めた。
白骨を連ねて戦った中国の勇士の心も、これほどではなかったと思われるほど、勇み喜んだ。
疲労と傷で前へ進めない
正行の心は、1000里もの距離を1歩で飛び越えるほどの勢いで、師直へ攻めかかろうとしていた。
しかし午前10時ごろから午後5時ごろまで、30回余り戦い続けていた。
息は切れ、気力も疲れ果てていた。
深手・浅手を負っていない者は、1人もいなかった。
もはや徒歩で騎馬武者を追い、討ち取れる状態ではなかった。
それでも師直を目指す
それでも多くの敵を四方八方へ追い散らし、師直が70〜80騎ほどで控えているのを見た。
「これほどの小勢なら、何ほどのことがあるだろう」
その思いだけを力として、
- 和田氏
- 楠木氏
- 野田氏
- 関地良円
- 河辺石掬丸
らが、我先にと進んだ。
師直が退きかける
正行軍は道理も何もなく、ただひたすら攻め寄せた。
師直も、すでに退却しようとしているように見えた。
須々木四郎の強弓
そこに九州の住人、須々木四郎という弓の名人がいた。
3人がかりで張るほどの強弓を使い、13束2伏(矢の長さを表す古い尺度)の長い矢を射た。
100歩先へ柳の葉を立てても、100本の矢を1本も外さないほどの射手だった。
捨てられた矢を集めて射る
須々木は人々が捨てた箙や矢籠などを抱えられるだけ集めた。
そして雨が降るように、狙いを定めて矢を射た。
1日中着た鎧へ矢が刺さる
楠木軍の鎧は1日中戦い続けたため、ひもや革が緩み、温まっていた。
まともに当たった矢は、どれも深く突き立った。
正時が眉間を射られる
楠木正時は眉間、兜の正面の外れへ矢を受けた。
矢を抜く力さえ残っていなかった。
正行も全身へ矢を受ける
正行は、
- 左右の膝3か所
- 右の頬先
- 左の目尻
へ矢を深く受けた。
矢は冬の野へ霜が伏すように、折れ曲がりながら刺さっていた。
正行は矢へ体を支えられるように立ち、動けなくなった。
全員が数本の矢を受ける
そのほか30人余りの兵も、3本、4本の矢を体へ受けていない者はいなかった。
楠木兄弟が刺し違える
正行は言った。
「もはや、ここまでだ。
敵の手に掛かるな」
楠木兄弟は互いに刺し違え、頭を北へ向けて倒れた。
32人が後を追う
そのほかの兵32人も、それぞれ腹を切った。
正行兄弟の上へ折り重なるように倒れた。
和田新発意は師直軍へ紛れ込む
和田新発意は、どのように紛れ込んだのだろうか。
師直の兵の中へ入り込み、師直へ近づいて刺し違えようとしていた。
湯浅本宮太郎左衛門が見つける
近ごろ河内から足利方へ降伏した湯浅本宮太郎左衛門が、和田を見つけた。
和田の後ろへ回り、両膝を斬った。
和田の眼光
倒れた和田の首を取ろうと、湯浅が走り寄った。
和田新発意は、血を注いだように赤い大きな目を見開き、湯浅を強くにらんだ。
目を閉じないまま首を取られる
和田の目は最後まで閉じなかった。
湯浅は、その首を取った。
湯浅は怨霊に苦しむ
豪勇の和田ににらまれ、湯浅も恐れたのだろうか。
その日から病気となり、心身が乱れた。
空を見上げれば、怒った和田の顔が天へ見えた。
地面を見れば、新発意のにらむ目が現れた。
怨霊が全身を責めた。
戦いから7日後、湯浅は苦しみながら死んだ。
※読み方:和田新発意の怨霊が湯浅を苦しめ、死に至らせる場面は、『太平記』が語る怪異的な叙述である。史実として断定しない。
大塚掃部助が引き返して戦死する
大塚掃部助は負傷していた。
正行が後方に残っていると思い、主を失った馬へ乗って、遠くまで逃げ延びた。
しかし、
「和田・楠木の人々は討たれた」
と聞いた。
ただ1騎で引き返し、大軍の中へ突入して斬り死にした。
和田新兵衛正朝は吉野を目指す
和田新兵衛正朝は、吉野の天皇へ戦いの結果を報告しようと考えたのだろう。
1人だけ鎧を着た徒歩の姿で、太刀を右脇へ引きつけた。
敵の首1つを左手へ提げ、東条方面へ落ちていった。
安保忠実との追跡戦
安保肥前守忠実が、ただ1騎で追いついた。
「和田・楠木の方々が皆、自害されたのに、見捨てて逃げるとは情けなく思われます。
引き返してください。
勝負いたしましょう」
正朝が反撃する
正朝は笑った。
「引き返すことが、どうして難しい」
4尺6寸(約1.4m)の太刀を振り、血のついた刀身を光らせながら、忠実へ走りかかった。
1騎打ちを避ける忠実
忠実は、1騎打ちでは勝てないと考えたのだろう。
馬を遠くへ走らせて逃げた。
忠実が止まれば正朝も逃げ、正朝が逃げれば忠実が追う。
1里ほど(中世の里程で、現在のkmには単純換算しない)進むまで、互いに討つことも、討たれることもなかった。
日は夕暮れへ近づいた。
青木・長崎の矢
そこへ青木次郎・長崎彦九郎の2騎が駆けつけた。
箙に少し矢を残していた。
正朝を追いながら矢を射た。
草摺の外れや鎧の合わせ目の下へ、7本まで矢が刺さった。
正朝は、最後に安保忠実へ首を取られた。
143人が忠義に殉じる
この1日の戦いで、
- 和田・楠木の兄弟4人
- 一族23人
- 従った兵143人
が命を失った。
彼らは後醍醐天皇・後村上天皇という2代の君主への忠義に命を捧げ、古今並ぶもののない功名を後世へ残した。
宮方最後の大きな希望
以前、北畠顕家は阿倍野で討たれた。
新田義貞も越前で亡くなった。
遠国には宮方の城が少し残っていたが、まだ勢いは弱く、足利方が大きく恐れるほどではなかった。
楠木軍は京都近くで足利方を脅かした
しかし楠木正行だけは、京都に近い険しい土地で威勢を振るった。
2度まで大軍を打ち破った。
吉野は正行を頼りとしていた
吉野の天皇は、魚が水を得たように喜んでいた。
京都の足利方も、虎が山へ寄りかかるような楠木軍の勢いを恐れていた。
南朝の運が傾く
その和田・楠木一族が、1度に滅びた。
人々は考えた。
「南朝の運は、すでに傾いた。
足利方の武運は、長く続くだろう」
そう思わない者はいなかった。
219. 吉野炎上――黒木御所と蔵王堂、灰となる
足利軍は吉野攻撃へ向かう
楠木正行の館を焼き払い、吉野の後村上天皇も捕らえようとして、高師泰は6000騎余りを率いた。
貞和4年/正平3年(1348年)1月8日に和泉国堺浦を出発し、石川河原へ向城を築いた。
高師直も3万余騎で進軍する
高師直は3万騎余りを率い、1348年1月14日に平田を出発した。
吉野山の麓へ押し寄せた。
四条隆資が天皇へ避難を勧める
足利軍が吉野郡へ近づいたと聞くと、四条隆資(四条中納言)は急いで黒木御所へ参上した。
「昨日、楠木正行はすでに討ち死にいたしました。
また明日には、師直が皇居へ攻め寄せると聞いております」
※本文内部の年代:『太平記』は四條畷の戦いを1月5日とする一方、この章では師直の出発を1月14日としながら、四条隆資に「昨日、楠木正行は討ち死にした」と語らせている。日付が整合しないため、本文の叙述を残して違いを明示する。
吉野では防げない
「吉野山は防御に適した場所が少なく、敵を防ぐ兵もおりません。
今夜のうちに急いで、天川の奥、賀名生付近へお忍びください」
三種の神器を持ち出す
隆資は内侍・典侍へ、三種の神器を取り出させた。
寮の御馬を庭前へ引き出した。
天皇が黒木御所を離れる
天皇は、何をどのように考えればよいのか分からなかった。
夢の中の道をたどるような心地で、黒木御所を出た。
皇族・公卿・僧侶が一斉に逃れる
- 女院
- 皇后
- 准后
- 内親王
- 皇子たち
- 内侍
- 上童
- 北政所
- 公卿
- 官人
- 諸寮の長官
- 八省の役人
- 僧正
- 僧都
- 稚児
- 坊官
までが、何も持ち出す暇もなく、慌てて逃げた。
山深くへ迷い込む
人々は歩き慣れない岩道を進み、幾重にも重なる山の雲を分け、吉野の奥へ迷い込んだ。
長年暮らした吉野との別れ
吉野山も、本当に心をとどめられる安全な場所ではなかった。
それでも長い間、住み慣れた土地である。
これからさらに山深い所へ入れば、どれほど暮らしにくいだろう。
そう思うだけで、涙が袖へあふれた。
勝手神社で馬を降りる
天皇が勝手神社の前を通った時、寮の御馬から降りた。
涙の中で、1首の歌を詠んだ。
頼みかひ
なくにつけても
誓ひてし
勝手の神の
名こそ惜しけれ
意味は、およそ次のようになる。
勝手の神へ頼み、誓いを立てたにもかかわらず、
その頼みがむなしくなった今、
「勝つ」という名を持つ神の御名さえ、惜しく悲しく思われる。
玄宗・天武天皇の先例
中国では、唐の玄宗皇帝が楊貴妃のために安禄山へ国を乱され、蜀の剣閣山へ逃れた。
日本では、『太平記』は天武天皇(大海人皇子)が大友皇子との争いを前に吉野山へ入った先例を挙げる。
聖主は最後には再起した
どちらも逆臣が一時天下を乱したが、最後には正しい天皇が政治を回復した。
天皇にも、
「このまま終わることはないだろう」
と思える先例はあった。
人々の悲しみに心を痛める
しかし身分ある者も庶民も、男も女も慌て、
「いったいどこへ身を隠せばよいのか」
と泣き悲しんでいた。
その姿を見ると、天皇の御心も休まる時がなかった。
師直が吉野へ入る
高師直は3万騎余りを率い、吉野山へ押し寄せた。
3度、鬨の声を上げた。
しかし敵はすでに退いていたため、何の応答もなかった。
皇居と寺社へ放火する
師直は、
「それならば焼き払え」
と命じた。
皇居や公卿の宿所へ火を放った。
吉野山の堂舎が燃える
強い風が激しく吹き、火を広げた。
- 高さ2丈(約6m)の笠鳥居
- 高さ2丈5尺(約7.6m)の金の鳥居
- 金剛力士を安置した2階門
- 北野天神示現の宮
- 72間の回廊
- 38か所の神楽屋
- 宝蔵
- 竈殿
- 金剛蔵王権現の社壇
までが1度に灰となった。
煙は青い空へ高く立ち上った。
※史実上の時期:吉野行宮・金峯山寺が高師直の軍によって焼かれたのは1348年の出来事である。吉野側の案内では、『太平記』に正平3年(1348年)1月28日の兵火と記されると紹介されている。
何とも嘆かわしい光景だった。
吉野の北野天神社
吉野の北野天神社には、次のような由来があった。
承平4年(934年)8月1日、笙の岩屋の日蔵上人が突然死んだ。
蔵王権現が冥界へ導く
蔵王権現は日蔵上人を左手へ乗せ、閻魔王の宮殿へ連れていった。
第1の冥官は、1人の倶生神をつけ、日蔵へ六道を見せた。
地獄にいた醍醐天皇
鉄窟苦所という所へ行くと、熱い鉄湯の中に、玉冠をつけた天皇の姿の罪人がいた。
手を上げ、日蔵上人を招いた。
近づいて見ると、醍醐天皇だった。
菅原道真左遷の罪
日蔵が、
「天皇は在位中、仁義と慈悲を重んじられたはずです。
なぜ地獄へ落ちておられるのですか」
と尋ねた。
醍醐天皇は涙を拭きながら答えた。
「在位中、政治を怠らず、民を治め、1つの誤りもないと思っていた。
しかし藤原時平の讒言を信じ、罪のない菅原道真を流した。
そのため、この地獄へ落ちた」
天神の廟を建てるよう命じる
「上人は不慮の死であるため、現世へ蘇るだろう。
朕と上人には深い師弟の縁がある。
現世へ帰ったならば、菅原道真の廟を建て、人々を救いなさい。
そうすれば朕も、この苦しみを逃れられる」
日蔵が蘇生して社を建てる
日蔵は冥界で直接勅命を受けた。
12日後、蘇生した。
そして吉野山へ菅原道真の廟を建て、救済を行った。
これが吉野の北野天神社だった。
蔵王権現の示現
蔵王権現にも由来がある。
昔、役行者は人々を救うため、金峯山へ1000日間籠もった。
生身の仏・菩薩が現れるよう祈った。
最初は地蔵菩薩として現れる
金剛蔵王は初め、穏やかで忍耐深い姿を示し、地蔵菩薩の形で地中から現れた。
役行者が穏やかな姿では足りないとする
役行者は首を振った。
「未来の悪い世の人々を救うには、そのように穏やかな姿では足りません」
忿怒の姿で再び現れる
蔵王権現は伯耆大山へ飛び去った。
その後、怒りの姿で現れた。
右手には三鈷杵を握り、肘を高く上げた。
左手の5本の指で腰を押さえた。
魔を降伏させる尊像
大きく目を怒らせ、魔を降伏させる姿を示した。
両足の高さを変え、天地を支配する徳を表した。
普通の神とは異なる恐ろしい姿だった。
三尊の蔵王権現
尊像は錦の帳の中へ納められた。
役行者と天暦年間の天皇も、それぞれ自ら像を造り、合わせて三尊が安置された。
吉野最大の霊験
蔵王権現は日本60余州へ善悪を示し、三千世界へ賞罰を現した。
多くの神々の中でも、救済の新しさと霊験において、並ぶものがないとされた。
師直への天罰を予感する
これほど由緒ある社壇や仏閣が、1度に焼き払われた。
悲しまない者はいなかった。
主を失った屋敷の花は、露に泣く姿を添えた。
荒れた庭の松も、風に鳴く声を抑えているようだった。
人々は考えた。
「天の怒りは、どこへ向かうだろう。
この悪行の報いが師直自身へ残るならば、師直は間もなく滅びるに違いない」
220. 賀名生の黒木御所――山中へ追われた南朝
楠木正行一族が滅びる
『太平記』本文では貞和5年(1349年)1月5日、四條畷の戦いで和田・楠木一族は、ほとんどすべて討ち死にした、と記している。
正行の弟・楠木正儀だけが生き残ったと伝えられた。
※年代:四條畷の戦いは一般に貞和4年/正平3年(1348年)1月5日とされる。第217・218章の流れも1348年であり、ここは『太平記』本文自体の1年ずれとして区別する。
高師泰が残る宮方を攻める
足利方は、
「この機会に、残る宮方も1人残らず討ち取ろう」
と考えた。
高師泰は3000騎余りを率い、石川河原へ向城を築いた。
敵味方が攻めたり攻められたりし、戦いのやむ時はなかった。
賀名生に粗末な皇居を造る
吉野から逃れた後村上天皇は、天川の奥にある賀名生という場所へ移った。
※史実:後村上天皇が吉野を離れて賀名生へ移ったのは、一般に正平3年/貞和4年(1348年)とされる。
そこへ、わずかな木を組んだ黒木御所を造り、住んだ。
堯・舜の質素な宮殿
中国古代の堯・舜は、
- 茅葺き屋根を切りそろえず
- 柴の垂木を削らず
質素な宮殿へ住んだという。
賀名生の御所を見ると、その純朴な政治も、このようなものだったのだろうと思われた。
その意味では、尊い姿でもあった。
女院・皇后の苦しみ
しかし女院や皇后は、粗末な柴葺きの庵へ住んだ。
軒から漏れる雨を防ぐこともできなかった。
涙で濡れた袖を乾かす暇もなかった。
公卿は木陰・岩陰に住む
公卿や殿上人は、
- 木の下
- 岩の陰
へ松葉を葺き掛けた。
苔を敷物として片側へ敷き、命を預ける住まいとした。
寒さで眠ることもできない
高い峰から吹き下ろす風が、夜着を裏返した。
露へ濡れた腕を枕にすると冷たく、昔の都を見せる夢さえ見ることができなかった。
家臣・従者の困窮
まして、その家臣や家族たちは、さらに苦しんだ。
夕暮れの山で薪を拾えば、雪を頭へかぶり、肌が凍えた。
深い谷で水をくめば、水面へ映る月まで担うように肩がやせた。
1日も生きられないような暮らし
このような暮らしでは、1日どころか、わずかな時間も生き続けられないように思われた。
それでも露のような命は、簡単には消えなかった。
人々は、
「命さえあれば、いつか世が変わるかもしれない」
というわずかな希望へすがり、山中へ残ったのである。
221. 高師直・高師泰兄弟の奢り――寺社と公家を踏みにじる
勝利後、師直はますます驕る
富や身分へ驕り、功績を誇って、最後まで慎むことができないのは、多くの人に見られることである。
高師直は南朝との戦いへ勝った後、ますます心を驕らせた。
※読み方:この章は、高師直・高師泰の奢侈や乱行を強く非難する『太平記』側の叙述である。個々の逸話をそのまま確定した史実とは扱わない。近年は『太平記』の人物像から距離を置き、師直を室町幕府初期の軍事・内政を支えた人物として再検討する見方もある。
行動はすべて思いどおりとなり、仁義を顧みず、世間の嘲笑も気にしないことが多くなった。
身分不相応の豪邸
当時の決まりでは、四位以下の普通の武士は、立派な関板を備えた家へ住むことさえ許されないものだった。
ところが師直は、一条今出川に大邸宅を造った。
皇族の母の旧御所を奪う
そこは、亡き兵部卿親王の母である宣旨三位殿が住み、後に荒れていた古い御所だった。
師直は、その土地を自分の邸宅とした。
宮殿のような建物
四方へ棟門・唐門を開いた。
- 釣殿
- 渡殿
- 泉殿
を並べ、棟や梁を高く造った。
華麗で壮大な景観を誇った。
各地の大石を集める
庭の池には、
- 伊勢
- 島(『太平記』本文の表記)
- 雑賀
などの大石を集めた。
運ぶ車は重さで軸を折り、牛は暑さと苦しさで舌を垂らした。
名所の草木を庭へ集める
庭には、
- 月世界の桂
- 仙人の家の菊
- 吉野の桜
- 山上の松
- 八入岡の紅葉
- 難波の葦
- 宇津山の蔦楓
など、和歌や物語で知られる名所の風景を、そのまま集めようとした。
公家の娘たちを囲う
戦乱で公家の娘たちは、浮草のように身を寄せる場所を失っていた。
頼れる者から誘われれば、断りにくい事情もあった。
師直は身分の高い公家や皇族の血を引く女性まで、数えきれないほど各所へ隠して住まわせた。
毎晩通う場所も多かった。
「師直の宮巡り」
京都の人々は、
「師直の宮巡りには、供え物を受けない神が1人もいない」
と、女性関係を神社参詣へたとえて笑った。
前関白の妹を連れ出す
中でも特に、神仏の加護を失うのではないかと思われる行いがあった。
二条前関白の妹は、宮中の奥深くへ入れられ、天皇の后妃の1人になることを期待されていた。
師直は、その女性をひそかに宮中から連れ出した。
やがて人目をはばからなくなる
初めは少し関係を隠していた。
しかし後には、公然と振る舞い、何も恐れなくなった。
武蔵五郎が生まれる
年月がたち、その女性との間へ男子が1人生まれた。
武蔵五郎と呼ばれた。
藤原氏最高の家柄を辱める
世の末とはいえ、藤原鎌足の子孫であり、太政大臣家の妹にあたる高貴な女性が、礼を知らない東国武士のもとへ下った。
何とも嘆かわしいことだった。
高師泰の悪行
しかし師直の行い以上に、高師泰の悪行として伝わったことも不思議なものだった。
枝橋へ山荘を造ろうとする
師泰は東山の枝橋という場所へ山荘を造ろうとした。
「この土地の持ち主は誰か」
と尋ねた。
菅原在登の所領
「北野社の長者である菅宰相在登の領地です」
と答えがあった。
師泰はすぐ使者を送り、
「この土地を譲れ」
と要求した。
先祖の墓地なので待ってほしい
菅三位は使者と面会し、答えた。
「御山荘のために必要とのことであれば、土地を差し上げること自体には異存はありません」
墓を移す時間を求める
「しかしこの土地には、菅原家の先祖代々の墓があります。
五輪塔を立て、経を納めた場所です。
墓標を別の場所へ移すまで、少しお待ちください」
師泰は墓を掘り捨てさせる
師泰は返事を聞いて言った。
「本当に土地を惜しんで、そのような返事をしているに違いない。
墓など、すべて掘り崩して捨てよ」
500〜600人で墓地を破壊する
すぐに人夫500〜600人を送り込んだ。
山を崩し、木を伐り、土地をならした。
古い遺骨と墓碑
並んだ五輪塔の下には、苔とともに朽ちた遺体があった。
壊れた墓碑の上には、雨で消えかかった名前が残っていた。
青い草に覆われた墓は破られ、白楊の木も枯れた。
さまよう魂は、どこで嘆くのだろうかと思われる、哀れな姿だった。
墓地へ立てられた落書
誰が行ったのか、1首の歌を書いた札が、ならした土地へ立てられた。
無き人の
しるしの卒塔婆
掘り捨てて
墓なかりける
家造りかな
意味は、
亡き人を示す卒塔婆を掘り捨てて、
墓をなくした場所へ家を造るとは、何ということか。
という風刺だった。
師泰が菅三位を殺させる
師泰は落書を見ると、
「これは菅三位の仕業に違いない。
先日の口論を理由として殺せ」
と命じた。
大覚寺殿に仕える、吾護殿という怪力の稚児を仲間へ引き入れ、菅三位を理不尽に殺させた。
文道の家の長者が無実で死ぬ
菅三位は北野天神の神職であり、学問の道を代表する人物だった。
何の神意へ背き、無実のまま殺されなければならなかったのだろう。
人夫を哀れんだ2人の武士
山荘の工事中、四条隆蔭に仕える青侍、
- 大蔵少輔重藤
- 古見源左衛門
の2人が通りかかった。
過酷な労働を批判する
人夫たちは汗を流し、肩を傷め、休む暇もなく働かされていた。
2人は、
「ああ、気の毒なことだ。
どれほど身分の低い人夫であっても、これほど休みなく働かせなくてもよいだろう」
と同情しながら通り過ぎた。
師泰が2人を人夫として働かせる
工事奉行の家臣が、その言葉を師泰へ告げた。
師泰は怒った。
「簡単なことだ。
人夫を気の毒に思うならば、あの者たち自身を働かせよ」
武士の衣を脱がせる
すでに遠くまで進んでいた2人を呼び戻した。
人夫が着ていたぼろぼろの衣へ着替えさせ、立烏帽子を深く押し込んだ。
1日中、土木作業をさせる
暑い夏の日、
- 鋤で土を集め
- 石を掘り
- もっこで運ぶ
仕事を、1日中休まずさせた。
見物人の冷たい言葉
これを見た人々は皆、指を鳴らして非難した。
「命とは、よほど惜しいものらしい。
これほどの恥を見るくらいなら、死ねばよいのに」
と言わない者はいなかった。
寺社領を押領する
このような行いさえ、まだ小さなことだった。
師泰が石川河原へ陣を置き、周辺を支配してからは、寺社領を1か所も本来の所有者へ返さなかった。
四天王寺の常灯料所を奪う
特に四天王寺の常灯を維持する荘園を押さえ、自分の領地とした。
700年以上、1度も絶えなかった仏前の灯は、寺の威光とともに消えた。
塔の九輪を湯釜へ鋳直す
ある悪人が言い出した。
「この周辺の塔の九輪は、ほとんどが赤銅でできていると思われます。
あれを湯釜へ鋳直せば、さぞ良い物ができるでしょう」
師泰は実行させる
師泰は、
「確かにそのとおりだ」
と思った。
塔から九輪を1つ下ろし、湯釜へ鋳直させた。
美しい湯釜が完成する
出来上がった湯釜は、継ぎ目も傷もなかった。
磨けば冷たい光を放った。
良い茶をたてれば、その味わいもたいへん濃かった。
武士たちがまねをする
身分の高い者が好むことには、下の者も必ず従う。
集まっていた諸国の武士は話を聞き、
「自分も負けてはならない」
と、各地の塔から九輪を下ろして湯釜を造った。
数百の塔が破壊される
和泉・河内の数百か所の塔は、一基として元の姿を保てなくなった。
ある塔は九輪を下ろされ、枡形だけが残った。
ある塔は心柱を切られ、建物だけが残った。
仏像は雨風へさらされる
多宝塔の仏像は、瓔珞を明け方の風へ漂わせた。
五智如来の頭髪は、夜の雨へ濡れた。
物部守屋の再来
人々は、
「仏法を滅ぼそうとした物部守屋が、再びこの世へ生まれたのではないか」
と怪しんだ。
『太平記』は、それほどまでに師直・師泰兄弟の行いを仏法と朝廷を踏みにじるものとして描いている。
222. 上杉重能・畠山直宗、高一族を讒言する――廉頗と藺相如の忠義
高兄弟へ嫉妬する2人
この時、
- 上杉重能(伊豆守)
- 畠山直宗(大蔵少輔)
という2人がいた。
2人は才能が少ないのに、人より高い官位を望んだ。
功績が少ないのに、世間を越える恩賞を求めた。
高師直・高師泰の権勢を憎む
高師直・高師泰兄弟が足利尊氏・足利直義の執事として、何事も思いどおりに行っていることを嫉妬した。
機会があれば、小さな毛を吹いて傷を探すように、わずかな過失まで問題とした。
讒言を作り上げることが絶えなかった。
足利尊氏・足利直義は高兄弟を必要としていた
しかし足利尊氏も足利直義も、
「高兄弟がいなければ、誰が天下の乱れを鎮められるだろうか」
と考え、ほかの者以上に重く用いていた。
少しの過失には耳を貸さなかった。
むしろ讒言する者が世を乱すことを悲しんだ。
真の忠臣は互いに争わない
天下を取り、国を治める君主には、必ず賢く補佐する臣下がいる。
その者たちは国の乱れを鎮め、君主の誤りを正す。
古代の賢臣
- 堯の8元
- 舜の8凱
- 周の10乱
- 漢の3傑
- 後漢光武帝の28将
- 唐太宗の18学士
はいずれも高い官位と厚い俸禄を得ていた。
しかし互いに争う心はなかった。
互いの過ちを諫め、ただ天下の平和だけを願った。
これこそ忠臣と呼ぶべき姿である。
高・上杉両家の争い
ところが高氏と上杉氏の両家は仲が悪かった。
互いの得失を取り上げ、相手の権力を奪おうとした。
いつも争いの機会をうかがっていた。
これを忠義ある者の態度といえるだろうか。
卞和が玉の原石を見つける
『太平記』は愚かな権力争いを戒めるため、中国の故事を語る。
※読み方:以下の卞和・藺相如・廉頗の故事は、『太平記』が日本の政争を批判するために挿入した中国故事である。王名・年代・地理的な巨大数などには一般的な中国史の叙述と一致しない部分があるため、『太平記』本文上の説話として読む。
昔、楚国に卞和という身分の低い男がいた。
楚山で畑を耕していると、周囲1尺余り(約30cm)の石を見つけた。
磨けば立派な玉になる物だった。
武王へ献上する
卞和は、
「個人で用いるべき物ではない」
と考え、献上する君主を待った。
楚の武王が楚山へ狩りに来ると、石を差し出した。
「世に並ぶもののない玉になるでしょう。
磨かせて御覧ください」
偽りと判断され左足を切られる
武王は喜び、玉職人へ磨かせた。
しかし職人は玉を見抜けず、
「普通の石です」
と答えた。
武王は、
「朕を欺いた」
と怒り、卞和の左足を切った。
石を背負わせ、楚山へ追放した。
文王にも理解されない
3年後、武王が亡くなり、文王の時代となった。
文王が楚山へ狩りへ来ると、卞和は再び石を献上した。
しかし別の玉職人も、
「玉ではありません」
と答えた。
文王は卞和の右足まで切り、山へ捨てた。
20年余り泣き続ける
卞和は両足を失った。
それでも自分の痛みより、2代の君主に玉を見る目がなかったことを悲しんだ。
20年余り、石を背負ったまま泣き続けた。
涙は血の色となった。
成王の時代に真価が明らかになる
文王が亡くなり、成王の時代となった。
成王が楚山へ来ると、卞和は地面をはいながら出てきた。
2代の王によって両足を切られた事情を語り、再び石を献上した。
夜光の玉となる
成王が職人へ磨かせると、光は天地を照らした。
道へ掲げれば17台の車を照らしたため、照車の玉と呼ばれた。
宮殿へ掛ければ夜の12の街路を照らしたため、夜光の玉とも呼ばれた。
趙国へ伝わる
玉は歴代の天子の宝となり、後に趙王へ伝わった。
趙王は大切にして手元から離さず、趙璧と呼ばれた。
秦王が玉を狙う
当時、諸国では強国が弱国を奪い、大国が小国を滅ぼしていた。
趙の隣には、強大な秦王がいた。
秦王は趙璧の話を聞き、
「どうにかして奪いたい」
と考えた。
秦・趙の会盟
秦王は趙王へ、国境で会盟を開くと知らせた。
会盟では互いに賢臣・勇士を連れ、知恵と武力を競う。
相手に軽く見られれば、後に国を奪われる恐れがあった。
趙王に瑟を弾かせる
会盟の日、秦王は宴を開いた。
酒宴が進むと、秦の兵が酔ったふりをして進み出た。
「秦王が楽しまれている。
趙王は瑟を弾き、秦王の長寿を祝え」
趙王の屈辱を記録する
趙王が拒めば、秦兵に殺されかねなかった。
仕方なく瑟を弾いた。
秦の記録官は、
「秦王が盃を上げた時、趙王が自ら瑟を弾いて祝った」
と記録した。
藺相如が秦王へ迫る
趙王の臣下となったばかりの藺相如が、秦王の前へ出た。
剣へ手を掛け、言った。
「我が王は秦王のために瑟を弾きました。
秦王も我が王のために祝うべきです」
秦王に缶を打たせる
「拒まれるならば、私は王の御前で死にます」
藺相如は本気の覚悟を示した。
秦王は断れず、自ら趙王の長寿を祝い、缶(打楽器)を打って舞った。
趙の記録官も、そのことを書き残した。
藺相如は趙王の恥をすすいだ。
15城との交換を持ちかける
会盟が終わり、趙王が帰ろうとした時、秦兵20万騎が現れた。
秦王は言った。
「夜光の玉を譲ってほしい。
代わりに秦の15城を与えよう」
趙王は玉を差し出す
『太平記』本文では、異国の1城を360里四方と説明する。ここでの「里」は中国故事中の里程であり、現在のkmへは単純換算しない。
15城ならば、2、3か国にも相当する。
しかし拒めば、玉を無償で奪われる恐れがあった。
趙王は仕方なく玉を差し出した。
玉は連城の璧と呼ばれるようになった。
秦王は約束を破る
しかし秦王は1城も渡さず、玉も返さなかった。
趙からの使者を欺き、返事さえしなかった。
趙王は玉を失い、天下の笑いものとなった。
藺相如が1人で秦へ向かう
藺相如は申し上げた。
「私を秦へ行かせてください。
玉を取り返し、王の御怒りを鎮めます」
趙王は、
「大軍で戦っても秦には勝てない。
1人でどうするのか」
と疑った。
「知略で取り返す」
藺相如は答えた。
「武力で奪うのではありません。
秦王を欺いて取り返す計略があります。
1人で参ります」
趙王は許した。
玉に傷があると偽る
藺相如は兵も武器も持たず、使者の正装で秦へ入った。
秦王へ言った。
「以前差し上げた玉には、隠れた傷がございます。
その場所をお教えするため参りました」
玉を手に取り、柱へ押し当てる
秦王は玉を取り出し、藺相如の前へ置いた。
藺相如は玉を取り、楼閣の柱へ押し当て、剣を抜いた。
秦王の不信義を責める
「君子は約束を破りません。
趙王は不本意ながら、15城と交換して玉を渡しました。
しかし秦王は城を渡さず、玉も返しませんでした。
盗賊よりも悪く、詐欺師よりも偽りが深い行いです」
命ごと玉を砕く覚悟
「この玉に傷などありません。
私は玉と自分の命を一緒に砕き、王の御前へ血を流すために来たのです」
藺相如は玉と秦王を激しくにらんだ。
近づく者があれば玉を砕き、その刀で自害する覚悟を見せた。
誰も止められなかった。
藺相如は玉を取り返し、趙へ帰った。
藺相如の大出世
趙王は大いに喜び、藺相如を厚く賞した。
高い官位と広い領地を与えた。
藺相如の地位は王族を越え、宮門を牛車で出入りすることまで許された。
廉頗将軍の嫉妬
趙王の古くからの臣に廉頗将軍がいた。
代々功績を重ね、
「自分と並ぶ者はいない」
と思っていた。
突然、藺相如に権力を越されたことを不満に思った。
3000騎で待ち伏せする
廉頗は藺相如の参内する道へ3000騎余りを配置し、討とうとした。
藺相如も精鋭1000騎余りを率いていた。
しかし廉頗が待ち構えているのを見ると、戦おうとせず、車を走らせて自邸へ逃げ帰った。
部下たちは反撃を望む
廉頗の兵は、
「藺相如は他人の力を借りて威張るだけだ。
直接戦えば廉頗将軍の小指にも及ばない」
と笑った。
藺相如の兵は悔しがり、
「廉頗の館へ攻め寄せ、勝負を決めましょう」
と望んだ。
2頭の虎の争い
藺相如は涙を流して部下へ言った。
「2頭の虎が戦い、両方が死ねば、1匹の狐が疲れへ乗じて食うという」
秦という狐を利するだけ
「廉頗と私は2頭の虎である。
戦えば、ともに死ぬだろう。
秦は、その隙を狙う狐である。
秦が趙を食おうとした時、誰が防ぐのか」
個人の恥より国家を優先する
「私はこの道理を考え、廉頗と戦わない。
一時の嘲笑を恥じ、国家が傾くことを忘れたならば、それは忠臣といえるだろうか」
部下たちは道理へ従い、攻撃をやめた。
廉頗が謝罪する
廉頗も事情を聞き、深く恥じた。
杖を背負い、藺相如のもとへ行った。
「あなたの忠義の真心を聞き、自分の固執を恥じています。
この杖で私を300回打ち、罪をお許しください」
庭へ立ち、泣きながら願った。
藺相如は廉頗を許す
藺相如は正義を重んじ、恨みを抱かない人物だった。
廉頗を打つはずがなかった。
堂上へ招き、酒を勧め、親しい交わりを結んで帰した。
2人の力で趙を守る
趙国は秦・楚に挟まれ、土地も狭く、兵も少なかった。
しかし藺相如が文によって政治を支え、廉頗が武によって守った。
そのため秦にも楚にも滅ぼされず、長く国を保った。
高・上杉両家への批判
私心を忘れ、忠義を重んじる者は、このようでなければならない。
東西南北の敵が、虎や竜のように隙を狙う時だった。
それなのに高氏と上杉氏の両家は、大きな恨みも明確な罪もないまま、権力を争い、互いに嫉妬した。
機会があれば争おうと、相手の隙をうかがった。
このような者たちを、忠臣と呼ぶことはできないのである。
223. 妙吉侍者、高師直・高師泰兄弟を讒言する――秦王朝滅亡の教訓
直義は禅宗へ深く帰依する
近ごろ足利直義は、足利尊氏に代わって天下の政治を担当していた。
直義は特に禅宗へ心を傾け、夢窓国師の弟子となった。
天龍寺を建立し、高僧を招いて法座を開き、香をたく機会が絶えなかった。
仏へ供え、僧へ施す財産も、人々の目を驚かせるほどだった。
妙吉侍者の野心
夢窓国師の弟子に、妙吉侍者という僧がいた。
妙吉は直義から尊敬される夢窓国師の姿を見て、うらやましく思った。
荼枳尼天の法を学ぶ
仁和寺に志一房という、外法を成就した人物がいた。
妙吉はその者から荼枳尼天の法を学び、21日間修行した。
※読み方:妙吉侍者が荼枳尼天の法を修し、願いが思いどおりになるという部分は、『太平記』が語る宗教的・物語的な叙述である。
願いがすべてかなう
法はすぐに成就した。
妙吉が心へ願うことで、かなわないものは少しもなくなった。
夢窓国師まで妙吉を重く見る
それ以後、夢窓国師まで妙吉を、
「非常に重要な弟子である」
と思うようになった。
妙吉を直義の師として推薦する
直義が参禅へ訪れた時、夢窓は言った。
「日夜参禅し、道を学ばれることは結構です。
本来ならば少しでも怠らないようお勧めするべきでしょう」
道中の負担を考慮する
「しかし道が遠く、往復の御負担が心配です。
今後は妙吉侍者という弟子を、そちらへ参らせましょう」
夢窓に代わる人物と紹介する
「妙吉は語録についても、十分に議論できます。
祖師から心へ伝えられた悟りも、直接受け止めています。
恥じる相手はほとんどいません。
私と変わらない者として、常に会って法談をなさってください」
夢窓は妙吉を直義のもとへ送った。
直義は妙吉を達磨の再来と思う
直義は1度妙吉を見ると、信仰を心へ深く刻んだ。
比べるものがないほど尊敬した。
「インドの達磨大師が、再び日本へ来て、人の心を直接示す正しい禅を説いている」
と思うほどだった。
妙吉の寺を建立する
一条堀川の村雲反橋という場所へ寺を建て、妙吉を開山とした。
直義は日夜参学し、朝夕の法談が絶えなかった。
多くの僧・公家・武家が集まる
直義の意向へ従うため、
- 比叡山・園城寺の高僧
- 五山十刹の長老
- 公卿
- 奉行
- 頭人
までが妙吉へ近づき、機嫌を取った。
車や馬が門前へ並び、僧俗が堂上へ群がった。
莫大な布施
1日の布施や、1度の法会で贈られる品を集めれば、山のようになった。
釈迦が在世していた時、王舎城から毎日500台の車へ宝物を積み、仏へ贈ったという。
それにも勝るように見えた。
高師直・高師泰は妙吉を軽蔑する
多くの人が妙吉を尊敬した。
しかし高師直・高師泰兄弟だけは、
「この僧に、どれほどの知恵や学問があるというのか」
と嘲笑した。
1度も会おうとしなかった。
道で会っても礼をしない
妙吉の寺の門前を、馬へ乗ったまま通り過ぎた。
道で行き会っても、妙吉の大衣を履物の先で蹴るような態度を取った。
妙吉は高兄弟を憎む
妙吉は、これを不愉快に思った。
物語や法談の機会があるたび、
「高師直・高師泰兄弟の振る舞いは穏当ではない」
と話した。
上杉・畠山が妙吉へ近づく
上杉重能・畠山直宗は、この話を聞いて考えた。
「高兄弟を讒言して滅ぼすためには、この僧ほど役に立つ者はいない」
2人は妙吉との関係を深め、厚くへつらった。
さまざまな讒言を吹き込んだ。
妙吉も直義へ讒言する
妙吉も、もともと高一族を憎んでいた。
何かあるたび、
「彼らの行いは国を乱し、政治を破壊する最大のものです」
と直義へ申し上げた。
秦の始皇帝の故事を語る
※中国故事:以下の始皇帝説話は、『太平記』が政治の教訓として挿入した物語である。6国統一の年齢、登場人物、秦末の出来事などには一般的な中国史と一致しない叙述が多いため、本文の説話として示す。
ある時、『首楞厳経』の講義が終わり、中国や日本の昔話へ話題が移った。
妙吉は直義へ、秦の始皇帝の故事を語った。
扶蘇と胡亥
「昔、秦の始皇帝には2人の皇子がいました。
兄を扶蘇、弟を胡亥といいました」
扶蘇は父の政治を諫める
「扶蘇は第1皇子でした。
しかし始皇帝の政治が治まらず、民を哀れまず、仁義を重んじないことを常に諫めました。
そのため始皇帝の心へ逆らい、寵愛されませんでした」
胡亥と趙高
「第2皇子の胡亥は、寵愛された后の子でした。
驕りを好み、賢者を嫌いました。
始皇帝から特に愛され、常にそばを離れませんでした」
趙高へ政治を任せる
「趙高という大臣を政治の担当者とし、何事もその判断へ任せました」
始皇帝の天下統一
始皇帝は荘襄王の子だった。
16歳のころから、
- 魏
- 趙
- 韓
- 斉
- 楚
- 燕
の6国をすべて滅ぼし、天下を統一した。
諸侯を従え、全国を支配した古今第1の帝王であるとして、初めて皇帝の号を用い、始皇帝と呼ばれた。
書物を焼く
しかし学識ある儒者たちが、古代の聖王や孔子の道と比べ、
「現在の政治は昔と異なる」
と批判した。
始皇帝は、
「批判できるのは、古い書物が残っているためだ」
と考えた。
歴史書や儒教の経典など3760巻余りを、天下へ1冊も残さず焼かせた。
武器を没収する
また宮門を守る武士以外は、誰も武器を持ってはならないと命じた。
天下の弓矢や武器をすべて集めて焼いた。
その鉄で高さ12丈(単純換算で約36m)の金属製の人像を12体造り、湧金門へ立てた、と『太平記』は語る。
不吉な石が落ちる
聖人の道へ背き、天へ逆らう悪行のためだろうか。
邯鄲へ不吉な星が落ち、12丈四方(1辺約36m)の石となった、と『太平記』は語る。
石には、
「秦が滅び、漢の世となる」
という意味の文字が現れた。
周囲10里の住民を皆殺しにする
※「里」について:以下の10里は中国故事中の里程であり、現在のkmへは換算しない。
始皇帝は、
「天の行いではなく、人間の陰謀に違いない。
遠国の者ができることではない」
として、石から四方10里以内へ住む男女を、身分を問わず1人残らず斬首した。
巨大な宮殿
始皇帝は険しい山や大河へ囲まれた土地に、巨大な山と宮殿を築いた。
『太平記』本文では、その山を周囲370里・高さ3里とし、入口には6尺(約1.8m)の銅柱を立てたと語る。ここでの「里」は中国故事中の数値なので、現在のkmへは換算しない。
- 46の前殿
- 36の後宮
- 1000の門
- 1万の戸
を備えた。
金・銀・玉で飾り、太陽や月の光と競うほどだった。
不老不死を望む
住まいを高くし、快楽を極めるほど、命に限りがあることを嘆いた。
「蓬莱にある不死の薬を得て、永遠に皇位を保ちたい」
と願った。
徐福・文成を派遣する
徐福・文成という2人の道士が、
「不死の薬を求める方法を知っています」
と申し上げた。
始皇帝は喜び、高官と大きな俸禄を与えた。
6000人の少年少女を船へ乗せる
15歳以下の少年・少女6000人を集めた。
竜や水鳥の形で飾った船へ乗せ、蓬莱島を探させた。
しかし果てしない海の中で、蓬莱を見つけることはできなかった。
竜神の妨害だと偽る
徐福・文成は嘘が明らかとなり、自分たちが罰せられることを恐れた。
「竜神が妨害しているようです。
皇帝自ら海へ出て竜神を退治すれば、必ず蓬莱を見つけられます」
と申し上げた。
始皇帝自ら海へ出る
始皇帝は信じた。
数万艘の大船を並べ、数百人で引く巨大な弩を各船へ積んだ。
竜神が現れた時に射殺すためだった。
巨大な魚を射殺す
始皇帝が海を進むと、長さ500丈ほど(単純換算で約1.5km)の巨大な魚が現れた、と『太平記』は語る。
頭は獅子のように天へ伸び、背は竜蛇のように海面へ横たわった。
数万の船から一斉に矢を放ち、魚を射殺した。
海は血で赤く染まった。
始皇帝が死ぬ
その夜、始皇帝は竜神と戦う夢を見た。
翌日から重病となり、7日間苦しんだ後、沙丘で亡くなった。
趙高が遺詔を改ざんする
始皇帝は遺詔で、皇位を長男の扶蘇へ譲っていた。
しかし趙高は、
「扶蘇が皇帝となれば賢者が登用され、自分が天下を思いどおりにできない」
と考えた。
遺詔を破り捨て、
「第2皇子胡亥へ皇位を譲る」
と発表した。
扶蘇には討手を送り、殺した。
胡亥を二世皇帝とする
幼い胡亥を二世皇帝へ即位させ、天下の政治を趙高が思うままに行った。
この時から天下は大きく乱れた。
劉邦が沛から兵を挙げ、項羽が楚から兵を挙げ、諸侯も秦へ背いた。
鹿を馬と呼ばせる
趙高は皇帝まで殺し、自分が世を取ろうとした。
まず自分の権勢を試すため、鹿へ鞍を置き、二世皇帝へ献上した。
「この馬へお乗りください」
臣下は趙高を恐れる
皇帝は、
「これは馬ではなく鹿だ」
と言った。
趙高は、
「それならば群臣へ尋ねましょう」
と答えた。
臣下は皆、鹿だと分かっていた。
しかし趙高を恐れ、
「馬です」
と言った。
趙高が二世皇帝を殺す
皇帝が鹿と馬の判断さえできない状態となると、趙高は皇帝を攻めた。
二世皇帝は逃げられないと悟り、剣の上へ伏して自害した。
秦王朝の滅亡
秦の将軍章邯も、
「誰を君主として国を守ればよいのか」
と考え、項羽へ降伏した。
秦はたちまち滅び、劉邦・項羽が咸陽へ入った。
趙高も、権力を奪って21日後に始皇帝の孫・子嬰へ殺された。
子嬰も項羽に殺された。
秦の宮殿は3か月燃え続け、地下へ納めた宝玉も人間界の塵となった。
趙高が秦を滅ぼした
強大だった秦が2代で滅びたのは、趙高の驕りと悪政が原因だった。
執事の善悪が家の運命を決める
妙吉は直義へ言った。
「昔も今も、王朝や家が続くか滅びるかは、内部で政務を担当する執事・管領が善人か悪人かによります」
高兄弟の非法な恩賞
「現在の師直・師泰の振る舞いでは、天下は静まらないでしょう」
寺社・本所領を奪うよう命じる
「自分の家臣が、
『恩賞として受けた土地が少ない』
と訴えれば、
『近くに寺社や本所の所領があるならば、境界を越えて支配せよ』
と命じます」
幕府の命令も無視させる
「罪によって所領を没収された者が高兄弟を頼り、
『どうすればよいでしょう』
と尋ねれば、
『師直は知らないふりをしている。
どのような正式命令が出ても、土地を押さえて支配せよ』
と答えます」
『太平記』が伝える天皇・上皇への暴言
「さらに実際に聞いた恐ろしい言葉があります。
『都に王という者がいて、多くの所領をふさいでいる。
内裏や上皇の御所という所があり、その前では馬から下りなければならないらしい』」
生きた国王を流せとの言葉
「『王がいなければならない道理があるならば、木で造るか金で鋳るかすればよい。
生きている天皇・上皇は、どこかへ皆流してしまいたい』
と言ったのです」
主君を犯す罪
「1人で天下を横行する者を、周の武王は恥じたといいます。
まして自分の行いをへつらう者がいれば、誤りを正しいことへ変えます。
下の者が上の者を犯す罪は、すでに重なっています」
高兄弟を処刑するよう勧める
「彼らを処罰しなければ、いつ天下が平和となるでしょう。
早く高兄弟を討たせてください」
上杉・畠山を執権にする提案
「上杉・畠山を執権とし、幼い若君へ天下を保たせようというお考えはありませんか」
妙吉は多くの言葉と故事を用い、直義へ説いた。
直義も讒言を信じ始める
直義は話を詳しく聞き、
「確かに、そのとおりかもしれない」
と思い始めた。
六本杉の天狗の計画が動き出す
これは、仁和寺六本杉の梢で、天狗たちが再び天下を乱そうと相談した計略が、現実へ現れ始めたものと思われた。
224. 足利直冬、西国探題として中国地方へ下る
西国平定のため直冬を派遣する
『太平記』は、西国を平定するため「将軍の嫡男」として、宮内大輔・足利直冬を備前国へ下した、と語る。
※本文と史実:足利直冬は一般に足利尊氏の庶子とされ、のちに叔父・足利直義の養子となった人物である。「嫡男」は『太平記』本文の表現として区別する。
直冬の出生
そもそも『太平記』は、直冬を、足利尊氏が昔ひそかに1夜通った越前局という女性との間に生まれた人物だと語る。
東勝寺の喝食となる
初めは武蔵国の東勝寺で、喝食として暮らしていた。
成長して男性となった後、京都へ上らされた。
尊氏は父子関係を認めない
直冬が尊氏の子であることを、ひそかに尊氏へ伝える者もいた。
しかし尊氏は、まったく認めなかった。
玄慧法印のもとで学ぶ
直冬は独清軒の玄慧法印のもとで学問した。
人目につかない静かな生活を送り、頼る者もなく暮らしていた。
玄慧が直義へ紹介する
直冬には才能があり、立ち居振る舞いも優れているように見えた。
玄慧法印は機会を得て、足利直義へ事情を話した。
直義が直冬を招く
直義は言った。
「それならば、その人をこちらへ連れてきてください。
人物を十分に試し、本当に優れていると思えば、将軍へも申し上げましょう」
こうして直冬は、初めて直義のもとへ招かれた。
なお尊氏から認められない
それから1、2年が過ぎても、尊氏が正式に子と認めることはなかった。
紀伊の宮方討伐で認知される
ところが紀伊国で宮方が蜂起し、鎮圧が困難となった。
尊氏は初めて直冬を子として認めた。
右兵衛佐へ任じ、紀伊討伐軍の大将として派遣した。
紀伊を一時平定する
紀伊国は、ひとまず平定された状態となった。
直冬が京都へ帰ると、人々も次第に直冬を重く見るようになった。
時々、尊氏のもとへも出仕した。
それでも扱いは低かった
しかし座席などは、
- 仁木氏
- 細川氏
と同じ程度だった。
将軍の子として、特別に厚く扱われることは、まだなかった。
直義が西国探題へ任じる
ところが足利直義の判断によって、直冬は『太平記』が「西国探題」と呼ぶ役目へ任じられた。
※官職名と年代:一般的な歴史叙述では、足利直冬は貞和5年/正平4年(1349年)に中国地方へ下り、中国探題として鞆を拠点にしたとされる。『太平記』本文の「西国探題」という呼称はそのまま残す。
西国の武士が直冬へ従う
すると人々は、たちまち直冬へ心を寄せた。
直冬へ従う者が多くなった。
鞆で中国地方を統治する
直冬は備後国鞆へ滞在し、中国地方の政務を行った。
忠功ある者へ望む前に恩賞を与える
忠義と功績のある者には、本人が望む前に恩賞を与えた。
罪ある者には重罰を科さず、その土地から退かせる
罪のある者には、むやみに重罰を科さず、その土地から退かせた。
高兄弟の悪行が明らかになる
『太平記』は、直冬の政治と対比することで、長年にわたり自分たちの誤りを飾り、上へ背いてきた高師直・高師泰兄弟の悪行が、ますます隠しきれなくなったと評している。