ホーム | 太平記 全40巻・全339章 | ← 巻第九 | 巻第十一 →
巻第十|目次
- 68. 千寿王、鎌倉の大蔵谷を脱出する
- 69. 新田義貞の挙兵――天狗山伏が越後の軍勢を集める
- 70. 大多和義勝の進言――分倍河原の戦い
- 71. 鎌倉攻防戦――新田軍、三方面から攻める
- 72. 赤橋守時と本間山城左衛門の自害
- 73. 稲村ヶ崎に干潟が現れる
- 74. 鎌倉炎上――長崎父子の奮戦
- 75. 大仏貞直と金沢貞将の討ち死に
- 76. 普恩寺信忍、息子・仲時を思って自害する
- 77. 塩田道祐・俊時父子の自害
- 78. 塩飽聖遠と、その子らの自害
- 79. 安東聖秀の自害――王陵の母の故事
- 80. 亀寿殿(北条時行)の信濃脱出――北条泰家の偽装
- 81. 長崎高重、最後の合戦
- 82. 東勝寺の最期――北条高時と一門の自害
※読み方:軍勢の数、超人的な戦闘、瑞兆、神仏の加護、因果応報などは、『太平記』本文の叙述であることが分かるように示している。本文の年代・人物比定が一般的な歴史叙述や現存史料と異なる場合は、その違いを注記した。旧単位は原則として残し、尺・寸・丈・町など換算できるものには現代のおおよその値を併記する。一方、中世の「里」や当時の貨幣は単純に現代単位へ換算しない。
68. 千寿王、鎌倉の大蔵谷を脱出する
高氏の離反を知らない鎌倉
足利高氏(治部大輔。のちの足利尊氏)が鎌倉幕府に背き、後醍醐天皇方へ加わった。
しかし、京都と鎌倉の間は遠い。
まだ知らせを伝える使者が到着していなかったため、鎌倉では高氏の離反について、まったく知られていなかった。
千寿王が鎌倉を脱出する
そのような中、元弘3年(1333年)5月2日の夜中、足利高氏の二男・千寿王(のちの足利義詮)が、大蔵谷の屋敷を脱出した。
その後、どこへ向かったのか分からなくなった。
千寿王は、のちの室町幕府第2代将軍・足利義詮である。
千寿王が突然姿を消したため、鎌倉では身分の高い者も低い者も、
「これは、いよいよ大事件が起きたのではないか」
と激しく騒いだ。
京都の状況を確かめる使者
京都は遠いため、鎌倉にはまだ確かな情報が届いていなかった。
何が起きているのか分からず、幕府の人々は不安でならなかった。
そこで、
- 長崎勘解由左衛門入道
- 諏訪木工左衛門入道
の2人を使者として京都へ向かわせ、詳しい状況を調べさせることにした。
駿河国で六波羅の早馬と出会う
2人の使者が東海道を上っていくと、駿河国の高橋で、六波羅探題から鎌倉へ向かう早馬と出会った。
早馬の使者は報告した。
「名越尾張守殿は討ち死になさいました。
足利高氏殿は、幕府の敵となりました」
2人は、この知らせを聞いて驚いた。
「それならば、鎌倉でも何が起きているか分からない」
長崎と諏訪は京都へ向かうことをやめ、すぐに道を引き返して鎌倉へ下った。
竹若の上洛
そのころ、高氏の長男・竹若は、伊豆の山に滞在していた。
竹若は、伯父にあたる宰相法印良遍に伴われ、ひそかに京都へ向かっていた。
良遍のほかにも、稚児や同じ寺に暮らす僧13人が付き従っていた。
一行は正体を隠すため、全員が山伏の姿へ変装していた。
浮島原で幕府の使者と出会う
竹若の一行が駿河国の浮島原まで進むと、鎌倉へ引き返していた長崎入道と諏訪入道に出会ってしまった。
2人は山伏姿の一行を怪しみ、竹若を生け捕りにしようとした。
逃れることはできないと悟った宰相法印良遍は、やむを得ず馬上で腹を切った。
そして道のそばへ倒れ、息絶えた。
長崎入道の言葉
長崎入道は、その姿を見て言った。
「やはり、心の中に反逆の考えを持つ者は、外から問い詰められると、言い逃れる言葉を失うものだ」
良遍が突然自害したことを、高氏一族の反逆を示す証拠だと考えたのである。
竹若の殺害
長崎入道らは、竹若を鎌倉へ連れ帰ることさえしなかった。
ひそかにその場で、竹若を刺し殺した。
さらに、竹若に付き従っていた13人の僧たちも、1人残らず首をはねた。
その首を浮島原にさらし、2人の使者は鎌倉へ戻っていった。
まだ幼い竹若と、その一行は、父・高氏の離反によって、上洛の途中で命を奪われたのである。
69. 新田義貞の挙兵――天狗山伏が越後の軍勢を集める
新田義貞、ひそかに挙兵を準備する
新田義貞(新田太郎)は、『太平記』本文によれば、先の3月11日に後醍醐天皇から綸旨を受けていた。
そこで千早城攻めの陣から、
「病気になった」
と偽って上野国へ帰り、信頼できる一族をひそかに集め、幕府に背いて兵を挙げる計画を進めていた。
しかし鎌倉幕府は、義貞がそのような計画を立てているとは、まったく気づいていなかった。
幕府による重い臨時税
北条高時は、弟の北条泰家(四郎左近大夫入道・法名恵性)へ10万騎余りをつけ、京都へ送ろうとしていたと、『太平記』は記している。
畿内や西国で起きている反乱を鎮めるためである。
そのため幕府は、
- 武蔵国
- 上野国
- 安房国
- 上総国
- 常陸国
- 下野国
の6か国から、軍勢を集めようとした。
さらに、その軍勢が使う食料や費用を用意するため、近国の荘園へ臨時の重い税を課した。
新田庄へ6万貫を要求する
中でも新田庄の世良田には、財産を持つ者が多いと考えられていた。
そこで幕府は、出雲介親連と黒沼彦四郎入道を使者として送り、
6万貫を、5日以内に納めよ。
と厳しく命じた。
6万貫(当時の貨幣単位)とは、『太平記』が新田庄に課された額として記す、非常に大きな金額である。現代の円へ単純換算はしない。
2人の使者は世良田へ到着すると、大勢の兵を人々の家へ入り込ませ、決まりを超えるほど激しく税を取り立てた。
義貞、幕府の使者を捕らえる
このことを聞いた義貞は、激しく怒った。
「私の屋敷の近くを、身分の低い兵たちの馬に踏み荒らさせたとは、何とも悔しいことだ。
これを目の前で見ながら、どうして我慢できようか」
義貞は多くの兵を差し向け、幕府の使者2人を、たちまち生け捕りにした。
出雲介親連は捕らえて監禁した。
黒沼入道は首を切り、その日の夕方、世良田の里にさらした。
北条高時の怒り
この知らせを聞いた北条高時は、大いに怒って言った。
「北条家が天下を治めてから、すでに9代になる。
これまで日本中で、北条家の命令に従わない者など1人もいなかった。
ところが近ごろは、遠い土地で幕府の命令へ従わない者が現れ、関東の国々でも命令を軽く見る者が増えている。
まことに許し難いことである。
そのうえ新田氏は、幕府を守るべき関東の内側にいながら、幕府の使者を殺した。
その罪は決して軽くない。
ここで厳しく処罰しなければ、大きな反乱の始まりとなるだろう」
※「9代」について:これは『太平記』が北条高時の発言として記す表現であり、「高時が第9代執権」という意味ではない。高時は鎌倉幕府の第14代執権である。
高時は、武蔵・上野両国の武士たちへ命じた。
新田太郎義貞と、その弟・脇屋次郎義助を討ち取り、その首を鎌倉へ差し出せ。
新田一族の評定
幕府から討伐命令が出たことを知った義貞は、主だった一族を集めて相談した。
「これから、どのようにするべきか」
しかし意見は、なかなか一つにまとまらなかった。
ある者は言った。
「沼田庄を要害として、利根川を前に置き、幕府軍を待ち受けるのがよい」
別の者は言った。
「越後国には、新田家の一族が大勢いる。
越後の津張郡へ移り、上田山の道を木でふさぎ、軍勢を集めて戦うのがよい」
さまざまな意見が出たが、結論は決まらなかった。
脇屋義助の意見
すると義貞の弟、脇屋次郎義助が、しばらく考えたのち、進み出て言った。
「武士の道では、命を軽く考え、名誉を重く考えることを正しい行いとする。
特に北条氏は、天下の実権を握ってから160年余りになる、と義助は語った。
今でもその武威は盛んであり、幕府の命令を重く見ない土地はない。
※年代について:「160年余り」は『太平記』本文中の義助の発言であり、鎌倉幕府の成立から1333年までを厳密に計算した年数ではない。
そのため利根川を頼りにして防いだとしても、我々の運が尽きていれば勝つことはできない。
また越後国の一族を頼ったとしても、人々の心が一つでなければ、長く続けられる作戦にはならない」
逃げ回って討たれるのは恥である
義助は、さらに続けた。
「何の働きもできないまま、あちらこちらの国へ逃げ回り、
『新田某は、北条氏の使者を殺した罪によって、他国へ逃げ、そこで討たれた』
と世間の人々に語られることこそ、何よりも悔しい。
どうせ討ち死にする命ならば、反逆者と呼ばれたとしても、朝廷のために捨てるべきである。
そうすれば我々が死んだあとも、勇気ある行動は子孫の誇りとなる。
忠義の名によって、道端にさらされる遺体さえ清められるだろう」
綸旨を額に当てて戦う
義助は言った。
「先に後醍醐天皇から綸旨をいただいたのは、何のためであったのか。
皆、その綸旨を額に当てて拝み、運命を天に任せよう。
たとえ1騎だけであっても、国中へ出て正義の兵を挙げるのだ。
味方が集まれば、そのまま鎌倉を攻め落とせばよい。
味方が集まらなければ、鎌倉を枕にして討ち死にする。
それ以外に、何があるというのか」
義助は正義を第一とし、勇気を重んじて、このように述べた。
その場にいた一族30人余りは、皆この意見に賛成した。
生品明神での挙兵
「計画が幕府へ漏れる前に、すぐに出発しよう」
新田義貞は、元弘3年(1333年)5月8日の午前6時ごろ、生品明神の前で倒幕の旗を掲げた。
後醍醐天皇の綸旨を開き、3度、丁寧に拝んだ。
そして笠懸野へ進んだ。
挙兵時の軍勢
義貞に従った主な武士は、
- 大館次郎宗氏
- その子・孫次郎幸氏
- 次男・弥次郎氏明
- 三男・彦二郎氏兼
- 堀口三郎貞満
- その弟・四郎行義
- 岩松三郎経家
- 里見五郎義胤
- 脇屋次郎義助
- 江田三郎光義
- 桃井次郎尚義
らだった。
しかし軍勢は、わずか150騎ほどにすぎなかった。
義貞たちは、
「この兵力で、本当に鎌倉と戦えるだろうか」
と思わずにはいられなかった。
利根川方面から現れた2,000騎
ところが、その日の夕方、利根川の方から、馬も武具も立派に整えた兵2,000騎ほどが、土煙を立てて駆けてきた。
義貞たちは、
「敵が来たのか」
と警戒して見た。
しかし敵ではなかった。
越後国にいる新田一族の、
- 里見氏
- 鳥山氏
- 田中氏
- 大井田氏
- 羽川氏
らだった。
「どうして挙兵を知ったのか」
義貞は大いに喜び、馬を止めて尋ねた。
「幕府へ背く計画は以前から考えていたが、昨日や今日に挙兵することは、自分でも決めていなかった。
急に決意したため、皆へ知らせる時間もなかった。
それなのに、どうして挙兵を知って駆けつけることができたのか」
大井田遠江守は、馬上でかしこまり、答えた。
天狗山伏の知らせ
「後醍醐天皇の命令によって、義貞殿が大きな計画をお始めになると知らなければ、どうしてこのように駆けつけることができたでしょうか。
5日の日に、
『新田殿の使いである』
と名乗る1人の天狗のような山伏が、わずか1日の間に越後国中を回り、挙兵を知らせました。
そのため我々は、夜も休まず馬を進め、ここまで参ったのです。
遠い土地にいる一族も、明日には到着するでしょう。
他国へ進むのであれば、しばらく彼らをお待ちください」
この「天狗のような山伏」が1日で越後国中を触れ回ったという話は、『太平記』の説話的な叙述である。
一行は馬から降りてあいさつを交わし、兵と馬を休ませた。
甲斐・信濃の源氏も集まる
すると後ろから、越後の軍勢だけでなく、甲斐・信濃の源氏たちも、家々の旗を並べて駆けつけた。
その数は5,000騎余りだった。
義貞と義助は、この上なく喜んだ。
「これは、ひとえに八幡大菩薩のご加護によるものだ。
もう、ここにとどまってはいられない」
一行は翌5月9日、武蔵国へ入った。
千寿王が義貞軍へ加わる
武蔵国へ入ると、紀五左衛門が、足利高氏の子である千寿王をお連れし、200騎余りで駆けつけた。
千寿王は、鎌倉の大蔵谷を脱出していた幼い公子である。
足利氏の後継者である千寿王が加わったことで、義貞軍は、いっそう大きな名分を得た。
20万を超える大軍
この後、
- 上野国
- 下野国
- 上総国
- 常陸国
- 武蔵国
の武士たちが、約束していたわけでもないのに集まった。
招集されていない者まで、自ら進んで義貞軍へ加わった。
『太平記』によれば、その日の夕方には、軍勢は20万7,000騎余りとなったという。
武蔵野を埋め尽くす軍勢
『太平記』は武蔵野を「四方800里余り」と表現し、その広大な野が兵と馬で埋め尽くされたと描いている。ここでの「里」は中世の距離表現であり、現在のkmには単純換算しない。
人が自分の体を置く場所さえなく、軍勢が四方を囲んでいるため、空を飛ぶ鳥も通れず、地を走る獣も隠れる場所がないように見えた。
草原から昇る月は、馬の鞍の上にほのかに現れ、やがて鎧の袖の方へ傾いた。
ススキの穂先を分けて吹く風は、無数の旗をひるがえし、武士たちの母衣を絶えず揺らした。
鎌倉へ相次ぐ急報
新田軍が大軍になったという知らせは、国々の早馬によって、次々と鎌倉へ届けられた。
急報が重なる様子は、くしの歯が隙間なく並んでいるようだった。
しかし時代の変化を理解できない者たちは、笑って言った。
「何を大げさに騒いでいるのだ。
新田軍に、何ができるというのか。
中国やインドから大軍が攻めてくるというのなら、確かに恐ろしい。
しかし、この日本の中から兵を集め、鎌倉殿を滅ぼそうとするなど、カマキリが腕を上げて車を止めようとするようなものだ。
小鳥が石を運び、海を埋めようとするのと同じである」
幕府内部から起きた大敵
一方、世の中の動きを理解する者たちは恐れた。
「ついに大事件が起きた。
西国や畿内の戦いさえ静まっていないのに、今度は幕府の支配する関東の内側から、大敵が現れた。
昔、中国の伍子胥は呉王夫差をいさめて、
『遠くの敵は皮膚にできた傷にすぎないが、国内に近い越の国は腹や心臓の病である』
と言ったという。
新田義貞の挙兵も、それと同じである」
幕府は、京都へ新しい討伐軍を送る計画をやめ、新田義貞を討つことだけを相談するようになった。
幕府軍を二手に分ける
5月9日、鎌倉で軍議が開かれた。
翌日の午前10時ごろ、幕府軍は二方面へ出発した。
一方は、金沢武蔵守貞将を大将とする5万騎余りだった。
この軍を下河辺方面へ向かわせた。
上総・下総の軍勢を加え、新田軍の背後から攻撃させるためである。
入間川を守る6万騎
もう一方は、桜田治部大輔貞国を大将とした。
これに、
- 長崎二郎高重
- 長崎孫四郎左衛門
- 加治二郎左衛門入道
らが加わった。
武蔵・上野両国の軍勢、合わせて6万騎余りを率い、上道を通って入間川へ向かった。
入間川を前にして陣を構え、新田軍が川を渡るところを討つ作戦だった。
久しぶりの関東での大戦
承久の乱以来、関東では長く大きな戦争がなかった。
人々は弓矢を取ることまで忘れたような、平穏な時代を過ごしていた。
その関東で、今初めて大軍同士が戦うことになった。
兵たちは、
「武勇を示す絶好の機会だ」
と考え、たいへん華やかに身支度をした。
馬、鎧、太刀、刀は、すべて光り輝くほど美しく整えられていた。
出陣する姿は、まことに見事だった。
小手指原の戦い
幕府軍は道中で2日ほどとどまり、5月11日の午前8時ごろ、武蔵国の小手指原へ進んだ。
遠くに新田軍の陣を見ると、その軍勢は雲や霞のように広がり、何万騎いるのか数えることもできなかった。
桜田貞国や長崎高重は、
「聞いていた話とは違う。これほどの大軍だったのか」
と思ったのだろう。
馬を止め、それ以上進めなくなった。
義貞、入間川を渡る
義貞はすぐに入間川を渡った。
一斉に攻撃の声を上げ、軍を前へ進めた。
そして開戦を知らせる鏑矢を射させた。
幕府軍も大声を上げ、旗を進めて攻めかかった。
初めは両軍とも弓の上手な者を選び、激しく矢を射合った。
しかし戦場は馬を走らせるのに適した平地だった。
両軍とも関東で育った騎馬武者たちである。
いつまでも矢を射合っているだけでは、我慢できなかった。
30回を超える激突
両軍は太刀や長刀の切っ先をそろえ、馬を並べて敵陣へ斬り込んだ。
200騎、300騎、1,000騎、2,000騎と、新しい兵を次々と加えながら、30回余りも攻め合った。
新田軍では300騎余りが討たれた。
幕府軍では500騎余りが討ち死にした。
やがて日が暮れ、兵も馬も疲れ果てた。
両軍は、
「続きは明日にしよう」
と約束して退いた。
義貞軍は3里ほど退き、入間川に陣を構えた。ここでの「里」は中世の里程であり、現在のkmには単純換算しない。
幕府軍も3里ほど退き、久米川に陣を置いた。
二つの陣の間は、30町(約3.3km)にも満たなかった。
夜明けを待つ両軍
両軍の兵は、その日の戦いについて語り合いながら、兵と馬を休ませた。
双方の陣には、かがり火がたかれた。
どちらも、
「早く夜が明けてほしい」
と、翌日の戦いを待った。
久米川の戦い
夜が明けると、新田軍は、
「幕府軍に先手を取られてはならない」
と、馬を進めて久米川の陣へ攻め寄せた。
幕府軍も、
「夜が明ければ、新田軍は必ず攻めてくる。
待ち受けて戦えば、こちらが有利だ」
と考えていた。
馬の腹帯を固く締め、兜の緒を締め直し、新田軍を待っていた。
陣形を競う両軍
幕府軍は6万騎余りを一つにまとめた。
左右へ広がり、新田軍を中央へ包囲しようとした。
義貞軍は、それを見ると部隊を内側へ固く閉じ、中央を破られないようにした。
これは中国の名軍師・黄石公や張良が伝えたとされる、敵を包囲し、また包囲を破るための兵法だった。
両軍とも、その戦い方を知っていた。
敵味方が入り乱れながらも、簡単には陣を破られず、包囲もされなかった。
ただ何度も命をかけて戦い、1度の攻撃で相手を倒そうと争った。
幕府軍が退却する
たとえ1,000騎の軍が1騎になるまで減ったとしても、退かないと思われるほどの激戦だった。
しかし時の運が新田軍へ味方したのだろうか。
新田軍の死者は少なく、幕府軍は多くの兵を失った。
加治氏や長崎氏は、
「2度の戦いに敗れた」
と感じ、分倍河原方面へ退いた。
新田軍は、さらに追撃しようとした。
しかし連日の戦いによって兵も馬も疲れていたため、その夜は久米川で休み、翌日の行動に備えた。
幕府から10万の援軍
桜田貞国、加治氏、長崎氏らが12日の戦いに敗れたという知らせが、鎌倉へ届いた。
北条高時は、弟の北条四郎左近大夫入道恵性を総大将として、さらに10万騎余りを送った。
その軍には、
- 塩田陸奥入道
- 安保左衛門入道
- 城越後守
- 長崎駿河守時光
- 佐藤左衛門入道
- 安東左衛門尉高貞
- 横溝五郎入道
- 南部孫二郎
- 新開左衛門入道
- 三浦若狭五郎氏明
らが加わった。
この援軍は15日の夜中ごろ、分倍河原へ到着した。
敗れていた幕府軍も、新しい大軍が加わったことで、再び力を得て勇み立った。
分倍河原の戦い
義貞は、幕府軍へ新しい大軍が加わったことを知らなかった。
5月15日の夜明け前、分倍河原へ攻め寄せ、攻撃の声を上げた。
幕府軍は、まず選び抜いた弓兵3,000人を前へ出した。
新田軍へ、雨が降るように激しく矢を射かけた。
新田軍は矢に押さえつけられ、前へ駆け出すことができなかった。
幕府軍は、
「今こそ好機だ」
と、新田軍を1人も逃さず包囲しようとして攻めかかった。
義貞、敵陣を何度も駆け破る
新田義貞は勇敢な兵を選び、敵の大軍へ突入した。
敵陣を突き破って後ろへ抜けると、すぐに引き返し、大声を上げて再び斬り込んだ。
その動きは稲妻のように激しかった。
クモの脚のように四方へ広がり、輪を交差させるように進路を変え、7度、8度と敵陣へ攻め入った。
しかし相手は大軍であり、しかも戦いに疲れていない新しい兵だった。
さらに幕府軍は、
「これまでの敗北の恥をすすごう」
と、命を惜しまず戦った。
義貞軍、堀金へ退く
新田軍はついに敗れ、義貞は堀金方面へ退いた。
多くの兵が討ち取られ、深い傷を負った者も数えきれなかった。
この時、幕府軍がすぐに追撃していたならば、新田義貞はここで討たれていたかもしれない。
しかし幕府軍は油断した。
「敵は、もう大したことはできない。
新田義貞は、武蔵や上野の幕府方の武士たちが、そのうち討ち取って差し出すだろう」
そう考え、追撃せずに時間を過ごした。
『太平記』は、この判断こそ、北条氏の運命が尽きようとしていたしるしだったと語っている。
70. 大多和義勝の進言――分倍河原の戦い
敗北した新田義貞
分倍河原の戦いに敗れた新田義貞は、多くの兵を失い、堀金方面へ退いていた。
幕府軍には新たな大軍が加わっており、すぐに再戦しても勝てるとは思えない。
義貞が、
「この先、どうすればよいのか」
と苦しんでいたところへ、思いがけない援軍が現れた。
大多和義勝の援軍
大多和平六左衛門義勝(大多和義勝。三浦一族)は、以前から新田義貞に心を寄せていた。
義勝は相模国の、
- 松田氏
- 河村氏
- 土肥氏
- 土屋氏
- 本間氏
- 渋谷氏
らを率い、『太平記』では合わせて6,000騎余りで、元弘3年(1333年)5月15日の夕方に義貞の陣へ駆けつけたとされる。
義貞は大いに喜んだ。
すぐに義勝と対面し、厚く礼を述べた。
そして義勝を近くの席へ招き、これからの戦いについて意見を求めた。
大多和義勝の意見
義勝は、かしこまって申し上げた。
「現在、天下は幕府方と朝廷方の二つに分かれています。
互いの運命を戦いの勝敗にかけているのですから、10度、20度と勝ったり負けたりすることもあるでしょう。
しかし最後に天下がどちらへ帰るかは、天の定めるところです。
朝廷方が最終的に天下を平和にすることに、何の疑いがありましょう。
義貞殿の軍へ私の軍を加えれば、10万騎余りになります。
それでも敵軍の人数には及ばないでしょう。
しかし、今度の戦いで1度勝負してみるべきです」
疲れた兵で戦えるのか
義貞は答えた。
「確かにそうかもしれない。
しかし我が軍は連日の戦いに疲れている。
それに対して敵は、新しい大軍が加わり、勝利の勢いに乗っている。
この状態で攻めかかってよいものだろうか」
すると義勝は、再び申し上げた。
「明日の戦いでは、必ず勝てる理由があります」
勝利のあとには油断が生まれる
義勝は、昔の中国の戦いを例に出した。
「昔、秦と楚が天下を争った時、楚の将軍・武信君は、わずか8万騎余りで、秦の将軍・李由が率いる80万の軍を破りました。
その戦いでは、秦軍40万人余りの首を取ったといわれています。
ところが、この大勝利によって武信君は心がおごり、軍の規律もゆるみました。
そして、
『秦軍など恐れる必要はない』
と思うようになりました。
楚の副将に、宋義という武将がいました。
宋義は武信君の姿を見て、こう言いました。
戦いに勝った大将がおごり、兵が気をゆるめれば、必ず敗れる。
武信君は今、まさにその状態である。
滅びずにいられるはずがない。
その言葉どおり、武信君は次の戦いで秦の将軍・章邯に討たれ、たった1度の敗北で滅びました」
※中国故事の兵数について:ここに出る8万・80万・40万という数字は、『太平記』で義勝が語る故事上の数字として示している。
幕府軍もおごっている
義勝は続けた。
「私は昨日、ひそかに人を送り、敵陣の様子を調べさせました。
敵の大将がおごり、油断している様子は、昔の武信君と少しも変わりません。
まさに宋義が言った状況と同じです。
そこで明日の戦いでは、まだ戦いに疲れていない私の軍が先頭を務めます。
まず敵へ一撃を加え、その反応を見てみましょう」
義貞は、その意見に深く納得した。
今回の戦いの指揮を、大多和義勝に任せることにした。
三浦軍、夜明け前に進む
翌5月16日の午前4時ごろ、『太平記』は大多和義勝が4万騎余りの先頭に立ち、分倍河原へ向かったと記している。
※兵数について:同じ章の直前では義勝の来援を6,000騎余りとしているのに、翌日の場面では4万騎余りとしている。これは『太平記』本文内部の数字のずれであり、ここでは両方をそのまま示す。
敵陣の近くまで進んでも、わざと旗を広げなかった。
攻撃の声も上げなかった。
大軍であることを隠し、敵の不意を突いて、1度の攻撃で勝負を決めるためだった。
完全に油断していた幕府軍
義勝の予想どおり、幕府軍の兵も馬も、前日までの戦いによって疲れていた。
そのうえ、
「新田軍が、すぐに再び攻めてくるはずはない」
と思い込んでいた。
馬に鞍を置いていない者もいる。
鎧や武器を身近に用意していない者もいる。
ある者は遊女と同じ枕を並べ、帯を解いて眠っていた。
ある者は酒宴で酔いつぶれ、前後も分からないほど深く眠っていた。
まるで自ら滅亡を招く、同じ罪を背負った者たちが集まっているようだった。
「三浦軍が味方に来たのだろう」
河原側に陣を置く幕府兵が、静かに近づく軍勢を見つけた。
そして大将へ告げた。
「正面から旗を巻いたまま、大軍が静かに馬を進めてきます。
敵かもしれません。ご用心ください」
ところが大将たちは答えた。
「そのようなことがあるものか。
三浦大多和が相模国の軍勢を集め、幕府方へ駆けつけると聞いている。
きっと、その三浦軍が到着したのだろう。
これほど喜ばしいことはない」
驚いて武器を取る者は、1人もいなかった。
幕府の運が尽きる時とは、何とも恐ろしいものである。
新田軍の総攻撃
新田義貞は、三浦軍のあとに続いて進んだ。
10万騎余りの軍勢を三手に分け、敵陣へ三方向から押し寄せた。
そして全軍が同時に攻撃の声を上げた。
幕府軍の大将・北条泰家(法名・恵性)は、その声に驚いた。
「馬を用意せよ!」
「鎧を持ってこい!」
幕府兵たちは慌て騒いだ。
しかし、その時にはすでに義貞・義助の軍が、縦横無尽に敵陣へ攻め込んでいた。
大多和義勝の7手の軍
大多和義勝も、この機会を逃さなかった。
義勝は、
- 江戸氏
- 豊島氏
- 葛西氏
- 河越氏
- 坂東八平氏
- 武蔵七党
などの軍勢を七つの部隊に分けた。
そしてクモの脚のように四方から進み、輪を交差させ、十文字を描くように敵陣を包囲した。
幕府兵を1人も逃がさない勢いで攻め立てた。
幕府軍の壊滅
北条恵性の軍は大勢だった。
しかし大多和義勝の一瞬の作戦によって、たちまち陣を破られた。
幕府軍は散り散りとなり、鎌倉を目指して逃げ始めた。
討たれた者は、数えきれなかった。
総大将の恵性も、関戸付近で今にも討ち取られそうになった。
横溝八郎の奮戦
その時、横溝八郎が1人で踏みとどまった。
近づく敵23騎を、短い間に次々と矢で射落とした。
横溝は主人を逃がすため、家来2人とともに戦い、3騎そろって討ち死にした。
安保入道父子の討死
安保入道道堪も、息子たち3人と、付き従う兵100人余りを率いて戦った。
彼らも同じ場所に頭を並べ、全員が討ち死にした。
そのほか、北条家へ代々仕えてきた家来や、わずかな恩を受けたことを忘れなかった武士たち300人余りも、引き返して戦った。
彼らが命を捨てて敵を防いでいる間に、総大将の恵性は傷を負うことなく、山内まで退くことができた。
長崎高重、鎌倉へ帰る
一方、長崎二郎高重は、久米川の戦いで大きな働きをしていた。
組み合って討ち取った敵の首を2つ、太刀で斬り落とした首を13、家来や下働きの者たちに持たせていた。
高重の鎧には、まだ多くの矢が突き立ったままだった。
傷口から流れた血によって、白糸で飾られた鎧は、赤糸で飾った鎧のように染まっていた。
高重は、その姿のまま静かに鎌倉の北条高時の屋敷へ入り、中門の前にひざまずいた。
祖父・長崎円喜の喜び
高重の祖父である長崎入道円喜は、たいへんうれしそうに孫を迎えた。
自ら高重の傷口へ口を当て、血を吸い出しながら、涙を流して言った。
「昔から、
子を知る者は、父に及ぶ者はいない。
という言葉がある。
私もこれまで、お前は北条殿のお役に立てる人物ではないと思い、いつも厳しく扱ってきた。
しかし、それは大きな間違いだった。
お前は今日、死ぬ危険の中から生きて帰り、敵の堅い陣を打ち破る働きをした。
その見事な戦いは、中国の名軍師である陳平や張良でも、簡単にはできないことを成し遂げたようなものだ。
今後も、大きな合戦では我が家の一大事と思って戦え。
父祖の名を高め、北条殿から受けた恩へ報いるのだ」
これまでの厳しい教えを改め、孫の武勇を心から称賛した。
高重は額を地につけ、両目に涙を浮かべた。
六波羅滅亡の知らせ
そのような時、京都の六波羅探題が陥落したという知らせが届いた。
六波羅の一行は近江国の番場まで逃れたが、そこでことごとく自害したという。
鎌倉の人々は、今まさに新田義貞という大敵と戦っている最中に、この知らせを聞いた。
まるで燃え上がっていた大火を突然消されたように、皆がぼう然となった。
驚きと悲しみには、限りがなかった。
六波羅で死んだ者たちの家来や一族は、声を上げて泣き、深く悲しんだ。
どれほど勇敢な武士であっても、手足から力が抜け、東西の方向さえ分からなくなったように感じた。
まず新田軍を防ぐ
それでも幕府は考えた。
「まず目の前の新田軍を退けなければ、京都へ新たな討伐軍を送ることもできない」
そこで、ひとまず鎌倉を守る戦いについて軍議を開いた。
幕府方は、六波羅滅亡の知らせを新田軍へ知られないようにしようとした。
しかし、これほど大きな出来事を隠すことはできなかった。
知らせはすぐに新田軍へ伝わった。
朝廷方の兵たちは、
「何と心強い知らせだ」
と大いに喜び、勇気を増した。
喜び勇まない者は、1人もいなかったのである。
71. 鎌倉攻防戦――新田軍、三方面から攻める
新田軍へ集まる関東の武士たち
新田義貞が、何度もの戦いで幕府軍に勝利したという知らせが広まった。
すると関東8か国の武士たちは、雲や霞が集まるように、次々と義貞のもとへ加わった。
義貞は関戸に1日とどまり、集まった軍勢の人数を記録させた。
『太平記』によれば、その数は60万7,000騎余りに達したという。
義貞はこの大軍を三手に分け、それぞれ2人の大将を置き、三方面から鎌倉を攻めることにした。
極楽寺坂へ向かう軍
一方の軍では、大館二郎宗氏を左将軍とし、江田三郎行義を右将軍とした。
軍勢は合わせて10万騎余りだった。
この軍は、鎌倉西南部の入口である極楽寺坂の切通しへ向かった。
巨福呂坂へ向かう軍
もう一方では、堀口三郎貞満を総大将とし、大島讃岐守守之を副将とした。
この軍勢も、合わせて10万騎余りだった。
彼らは、鎌倉北側の入口である巨福呂坂へ向かった。
化粧坂へ向かう新田義貞本隊
中央の軍は、新田義貞と弟の脇屋義助が全軍を指揮した。
その周囲を、
- 堀口氏
- 山名氏
- 岩松氏
- 大井田氏
- 桃井氏
- 里見氏
- 鳥山氏
- 額田氏
- 一井氏
- 羽川氏
などの一族が、前後左右から守った。
『太平記』によれば、この本隊は50万7,000騎余りだった。
※兵数について:この章では全軍を60万7,000騎余りとしながら、3軍の内訳を10万+10万+50万7,000騎余りとしており、合計すると70万7,000騎余りになる。『太平記』本文内部で数字が一致していないため、ここでは本文の数字をそのまま示す。
義貞本隊は、鎌倉西北部の入口である化粧坂から攻め寄せた。
危機を理解していなかった鎌倉
鎌倉の人々は、前日や前々日まで、
「分倍河原や関戸の戦いで幕府軍が敗れた」
と聞いていた。
しかし、それでも新田軍を大きな脅威とは考えていなかった。
「敵の力など、たかが知れている」
と侮り、特に慌てる様子もなかった。
ところが、正面軍の大将として出陣していた北条泰家(法名・恵性)が、多くの兵を失い、前日の夕方に山内へ退いてきた。
さらに、裏手の大将として下河辺方面へ向かっていた金沢武蔵守貞将も、小山判官・千葉介の軍に敗れ、下道を通って鎌倉へ引き返してきた。
鎌倉の人々は、ようやく事態の深刻さを知った。
「これは思いもよらない大事件だ」
町中が激しく動揺した。
鎌倉周辺に火が上がる
元弘3年(1333年)5月18日の午前6時ごろ、
- 村岡
- 藤沢
- 片瀬
- 腰越
- 十間坂
など、50か所余りで一斉に火が上がった。
新田軍が三方から鎌倉へ攻め寄せたのである。
武士たちは東西へ走り回った。
身分の高い者も低い者も、山や野原へ逃げ惑った。
唐の玄宗と周の幽王の滅亡
その光景は、中国の王朝が突然滅びた時のようだった。
かつて唐の玄宗皇帝は、宮廷で華やかな音楽と舞を楽しんでいた。
ところが突然、安禄山の反乱軍が地を震わせる太鼓を鳴らし、都へ迫った。
また周の幽王は、諸侯をだますため、何度も偽ののろしを上げた。
そのため本当に敵が攻めてきた時には、誰も助けに来なかった。
異民族の軍旗が天を覆い、王朝は滅びた。
鎌倉が突然、三方から大軍に攻められた姿も、玄宗や幽王が国を失った時と同じだったのだろう。
人々は涙を抑えることができなかった。
何とも悲惨な出来事だった。
幕府軍も三手に分かれる
新田義貞の軍勢が三方向から攻めてくると知り、鎌倉幕府も軍を三手に分けた。
全体の指揮を執ったのは、
- 相模左馬助高成
- 城式部大輔景氏
- 丹波左近大夫将監時守
らだった。
化粧坂を守る3万騎
化粧坂方面には、金沢越後左近大夫将監を加えた。
安房・上総・下野の軍勢、3万騎余りを配置し、坂を固く守らせた。
極楽寺坂を守る5万騎
極楽寺坂の切通しには、大仏陸奥守貞直を大将として置いた。
甲斐・信濃・伊豆・駿河の軍勢、5万騎余りを従え、切通しを守った。
洲崎を守る6万騎
洲崎方面には、赤橋守時(北条守時)を大将として置いた。『太平記』本文はここで「赤橋前相模守盛時」と表記するが、一般にこの人物は鎌倉幕府最後の第16代執権・赤橋守時とされる。
武蔵・相模・出羽・陸奥の軍勢、6万騎余りを率い、新田方の軍勢を迎え撃った。
10万騎を鎌倉市中へ残す
そのほかにも、北条一族の有力者80人余りと、各国の兵10万騎を鎌倉市中へ残した。
これは、
「どこかの守りが弱くなった時、すぐに援軍として向かわせる」
ための予備軍だった。
三方面で戦闘開始
同日の午前10時ごろ、三方面で一斉に戦いが始まった。
戦いは1日中続き、夜になっても終わらなかった。
攻める新田軍は大軍だった。
新しい兵を次々と入れ替えながら、休む間もなく攻め込んだ。
一方、鎌倉方は険しい切通しや狭い道など、守る側に有利な場所を利用した。
城外へ打って出ては新田軍を押し返し、再び守りを固めた。
天地を震わせる叫び声
三方面から上がる攻撃の声と、両軍の矢を放つ叫び声は、天を響かせ、大地を動かすほどだった。
ある部隊は魚のうろこのように鋭い陣形で進んだ。
ある部隊は、ツルが翼を広げるように左右へ展開した。
前方の敵へ当たりながら、左右からの攻撃を防ぎ、後ろへ回り込む敵にも備えた。
この戦いは、両軍の運命を1度に決めるものだった。
同時に、
「誰が勇敢で、誰が臆病だったか」
という武士の名を、子孫の代まで残す戦いでもあった。
親子も主従も振り返らない
武士たちは正義や忠義を重く考え、自分の命を軽く考えて戦った。
子が討たれても、父は助け起こさなかった。
その遺体を馬で乗り越え、目の前の敵へ攻めかかった。
主人が矢に射られて馬から落ちても、家来は主人を助け起こさなかった。
主人の馬へ飛び乗り、そのまま敵陣へ向かった。
敵と組み合い、どちらかが首を取るまで戦う者もいた。
互いに刀を突き立て、2人とも死ぬ者もいた。
終わりの見えない激戦
兵たちの激しい戦意を見ると、
「1万人が死んで1人だけになっても、その1人が戦い続けるのではないか」
「百の陣が破られ、一つの陣しか残らなくなっても、なお戦いをやめないのではないか」
と思われるほどだった。
いつになれば終わるのか、まったく分からない激戦だったのである。
72. 赤橋守時と本間山城左衛門の自害
洲崎で戦う赤橋守時
赤橋守時(北条守時。鎌倉幕府最後の第16代執権)は、その日の朝から、鎌倉の洲崎方面へ出陣していた。なお、『太平記』本文は前章でこの人物を「赤橋前相模守盛時」と表記している。
この方面の戦いは特に激しく、『太平記』によれば、1日1夜の間に両軍は65回も斬り合ったという。
守時には、初め数万騎の家来が従っていた。
しかし戦いを重ねるうち、多くの者が討ち死にし、あるいは逃げ去った。
ついには、わずか300騎余りしか残っていなかった。
南条高直へ語る守時
同じ陣で侍大将を務めていた南条左衛門高直に、守時は語った。
「昔、中国で漢と楚が8年間戦った時、漢の高祖・劉邦は何度も項羽に敗れた。
しかし最後には、烏江へ追い詰めて項羽を滅ぼした。
また晋の文公となった重耳も、斉やほかの国々との長い争いの中で、何度も勝つことができなかった。
それでも最後の一戦で勝ち、国を保つことができた。
このように、死ぬほどの危険を何度も逃れ、最後に命を得ることもある。
100回負けても、1度の勝利によって形勢が変わることもある。
それが戦というものだ」
北条氏の運が尽きたとは思わない
守時は続けた。
「確かに、現在の戦いでは敵が少し勝利の勢いに乗っている。
しかし、それだけで北条家の運が、今日すべて尽きたとは思わない。
それでも私は、北条一門が最後にどうなるかを見る前に、この陣で腹を切ろうと思っている」
南条高直は、その言葉を不思議に思った。
守時は、自害を決意した理由を語った。
足利高氏との縁を疑われる
「私は、足利高氏殿と女性を通じた縁を結んでいる」
守時の妹・赤橋登子は、足利高氏の正室だった。
そのため守時は、高氏の義兄にあたる。
高氏が幕府に背いて後醍醐天皇方へついた以上、北条高時をはじめとする北条一門は、
『守時も足利高氏と心を通じているのではないか』
と、私を疑っていることだろう。
勇士にとって、味方から反逆の疑いを受けることほど恥ずかしいことはない」
田光先生の故事
守時は、中国の故事を例に出した。
「昔、田光先生という人物が、燕の太子丹から重大な計画を打ち明けられた。
太子丹は、
『このことを決して他人へ漏らさないでほしい』
と言った。
田光は、
『自分が生きていれば、本当に秘密を守るのかと疑われるかもしれない』
と考えた。
そこで疑いを完全に消すため、太子丹の前で自ら命を絶ったという。
今、この陣では戦いが激しく、兵たちも疲れている。
そのような時に、私が固く守ってきた陣を捨てて逃げたならば、反逆を疑われている身として、どのような顔で生き残ることができようか」
赤橋守時の自害
守時は、戦いがまだ終わっていない最中に陣幕の中へ入った。
鎧や兜を脱ぎ捨てると、腹を十文字に切った。
そして北を枕にして、倒れた。
守時は、北条氏が滅びるから絶望して死んだのではない。
足利高氏の義兄であるために反逆を疑われることを恥じ、自分の忠義を死によって示そうとしたのである。
南条高直も自害する
南条高直は、守時の自害を見ると言った。
「大将がすでに自害された以上、兵たちは誰のために命を惜しむ必要があるだろうか。
それならば、私もお供しよう」
南条も続いて腹を切った。
2人の自害を見た同じ志を持つ武士90人余りも、次々と腹を切った。
彼らは互いの遺体の上へ重なり合うように倒れた。
洲崎の陣が最初に破られる
こうして元弘3年(1333年)5月18日の夕方ごろ、鎌倉を守る3つの陣のうち、洲崎の陣が最初に破られた。
新田義貞の朝廷軍は、そこから山内方面まで攻め込んだ。
赤橋守時らの自害により、鎌倉の防衛線の一つが崩れたのである。
本間山城左衛門
一方、本間山城左衛門という武士がいた。
本間は長年、大仏陸奥守貞直から目をかけられ、特に身近で仕えていた。
しかし、少し貞直の怒りを買ったことがあった。
まだ許しを得られず、貞直のもとへの出仕を止められ、自分の屋敷にとどまっていた。
極楽寺坂の陣が破られる
5月19日の早朝、
「極楽寺坂の切通しを守る幕府軍が破られ、敵が鎌倉へ攻め込もうとしている」
という知らせが届いた。
本間は、
「これが自分の最後の戦いだ」
と決意した。
若い家来や下働きの者100人余りとともに武装し、極楽寺坂へ向かった。
3万騎へ突入する
極楽寺坂方面では、朝廷軍の大将である大館二郎宗氏が、3万騎余りを率いて待機していた。
本間は、その大軍の真ん中へ一気に突入した。
勢いに乗っていた新田軍を八方へ追い散らし、大将の大館宗氏へ組みつこうと、休む間もなく攻め続けた。
3万騎余りの新田軍は、本間軍の激しい攻撃を受け、たちまち左右へ分かれて退いた。
腰越付近まで押し戻されたという。
大館宗氏の討死
本間軍の攻撃があまりにも激しかったため、大館宗氏は馬を引き返し、思う存分戦った。
そして本間の家来の1人と組み合った。
2人は互いに刀を突き立て、刺し違えて倒れた。
朝廷軍の大将、大館宗氏は、ここで討ち死にした。
本間、敵将の首を取る
本間は大いに喜び、馬から飛び降りた。
大館宗氏の首を取り、槍の先へ刺した。
そして、かつての主人である大仏貞直の陣へ急いだ。
本間は陣幕の前にひざまずき、申し上げた。
貞直への最後の言葉
「長年にわたって仕えたことと、これまで受けた多くのご恩には、この1度の戦いによってお報い申し上げました。
私は殿からお疑いを受けたまま、許されずに死ぬことになれば、その思いが死後まで迷いとなって残るでしょう。
しかし今は、どうかお許しをいただきたい。
心安らかに、あの世で殿の道を先導したいと思います」
本間は言い終わらないうちに、あふれる涙を押さえながら腹を切った。
そして、その場で息絶えた。
本間の忠義
本間は主君から怒りを受け、出仕を禁じられていた。
それでも主君を恨むことなく、最後の戦いで敵の大将を討ち取った。
そして受けた恩に報いたとして、自ら命を絶ったのである。
『太平記』の作者は、この本間の行動について、
「三軍の大将でさえ、その志を奪うことができる」
という言葉は、このような人物についていうのだろう。
また、
「恨みを受けても、徳をもって報いる」
という言葉も、本間の行動を表すものだろう。
と称賛している。
大仏貞直の涙
大仏貞直は、本間の言葉と自害を見て、涙を袖に落としながら言った。
「何と見事な本間の心であろうか。
皆で本間の志に応えようではないか」
貞直は自ら陣を出て、敵と戦おうとした。
その姿を見た家来たちは、誰1人として涙を流さない者はいなかったのである。
73. 稲村ヶ崎に干潟が現れる
極楽寺坂の新田軍が敗れる
極楽寺坂の切通しへ向かっていた新田方の大将・大館次郎宗氏は、本間山城左衛門の軍によって討ち取られた。
そのため、大館軍の兵たちは片瀬や腰越の辺りまで退いたという。
この知らせを受けた新田義貞は、選び抜いた勇敢な兵1万騎余りを率い、元弘3年(1333年)5月21日の夜中ごろ、片瀬・腰越方面を回って極楽寺坂へ向かった。
※稲村ヶ崎の場面について:以下の潮が大きく引いて新田軍が海岸を進んだという話は、『太平記』を代表する伝説的な場面である。現在も稲村ガ崎は国指定史跡「新田義貞徒渉伝説地」とされている。
強固に守られた極楽寺坂
夜が明けようとする月明かりの中で、義貞が幕府軍の陣を見渡すと、その守りはたいへん堅固だった。
北側は切通しまで高い山が続き、道も険しい。
幕府軍は木戸を閉じ、垣根や盾を並べ、数万の兵を配置していた。
南側は稲村ヶ崎である。
砂浜の道は狭く、波打ち際まで逆茂木が隙間なく並べられていた。
さらに沖合4、5町(約440〜550m)ほどの場所には、多くの大船が並んでいたと『太平記』は描く。
船の上には矢倉が造られ、海岸を進もうとする新田軍へ、横から矢を浴びせられるようにしていた。
義貞は、この守りを見て思った。
「極楽寺坂を攻めた我が軍が、勝てずに退いたのも当然だ」
正面から突破できるような陣ではなかったのである。
義貞、竜神に祈る
義貞は馬から降り、兜を脱いだ。
そして、はるかに広がる海へ向かって深く拝み、竜神へ祈った。
「伝え聞くところによれば、日本をお開きになった伊勢の天照大神は、本来のお姿を大日如来として隠し、この世では海の竜神として姿を現されるという。
我が君である後醍醐天皇は、その天照大神の子孫である。
それにもかかわらず、反逆する家臣によって西の海へ流され、波の上をさまようことになられた。
私は今、家臣としての道を尽くすため、武器を取り、敵陣へ向かおうとしている。
その目的は、ただ天皇の正しい政治をお助けし、天下の人々を安心して暮らせるようにすることにある。
どうか日本の内海・外海を守る竜神と、その眷属である八部衆よ。
私の忠義をご覧になり、潮をはるか遠くへ退け、我が大軍が通る道をお開きください」
義貞は、心の底から強く祈った。
そして自ら腰に差していた、金の飾りのある太刀を抜き、海の中へ投げ入れた。
稲村ヶ崎の海が引く
竜神が義貞の祈りと太刀を受け入れたのだろうか。
その夜、月が沈もうとするころ、不思議なことが起きた。
『太平記』によれば、それまで1度も大きく干上がったことのなかった稲村ヶ崎の海が、突然20町余り(約2.2km余り)も沖へ引いたという。
広い砂浜が、はるか遠くまで現れた。
平らな砂地が見渡す限り続いている。
新田軍を横から射ようとして沖に並んでいた数千の兵を乗せた軍船も、引いていく潮に流され、はるか沖合へ遠ざかっていった。
これほど不思議な出来事は、ほかに例がないように思われた。
中国と日本の奇跡を語る義貞
義貞は、目の前に現れた広い干潟を見て言った。
「昔、中国・後漢の弐師将軍は、敵の城を攻めている時に水がなくなった。
そこで刀を抜き、岩へ突き刺したところ、たちまち泉が湧き出したという。
また日本の神功皇后が新羅を攻められた時には、自ら干珠を取り出して海へ投げられた。
すると潮が遠くまで引き、ついに戦いに勝つことができたという。
今、目の前に起きた出来事も、中国や日本に伝わるめでたい前例と同じである。
古今に例の少ない、神のしるしだ。
兵たちよ、進め!」
6万騎が干潟を駆け抜ける
義貞の命令を受け、
- 江田氏
- 大館氏
- 里見氏
- 鳥山氏
- 田中氏
- 羽川氏
- 山名氏
- 桃井氏
などをはじめ、越後・上野・武蔵・相模の軍勢が一つの部隊となった。
その数は6万騎余りだったという。
新田軍は、稲村ヶ崎に現れた広い干潟を一直線に駆け抜け、そのまま鎌倉市中へ攻め込んだ。
幕府軍の混乱
稲村ヶ崎を守っていた多くの幕府兵は、新田軍が海岸から鎌倉へ入るのを見て混乱した。
「後ろから入ってきた新田軍を防がなければならない」
と思えば、極楽寺坂の正面にいる新田軍があとを追って攻め込んでくる。
「正面の敵を防ごう」
と思えば、後ろから侵入した大軍が道をふさぎ、攻めかかってくる。
幕府軍は進むことも退くこともできなくなった。
東西どちらへ向かえばよいのかも分からず、まともに敵へ向かって戦うことができなかった。
島津四郎という勇士
幕府方に、島津四郎という武士がいた。
島津四郎は人並み外れた怪力で知られ、体格も能力も、普通の者よりはるかにすぐれていた。
長崎入道は島津四郎の烏帽子親となり、
「1人で1,000人の敵に当たるほどの武士である」
と、たいへん頼りにしていた。
そのため、それまでの小さな戦いには出陣させず、決定的な大戦で使おうとして、北条高時の屋敷近くに待機させていた。
北条高時、島津に名馬を与える
やがて、
「海岸方面の守りが破られ、新田軍はすでに若宮大路まで攻め込んできた」
という騒ぎが起きた。
北条高時は島津四郎を呼び寄せた。
自ら酒をつぎ、島津へ3度飲ませた。
そして3間の馬屋に立たせていた、関東一といわれる白浪という名馬に、白い鞍を置いて与えた。ここでの「間」は建物の柱間を数える表現であり、長さへ単純換算しない。
これを見た者で、島津をうらやましく思わない者はいなかった。
堂々と出陣する島津
島津は門前で白浪へ飛び乗った。
由比ヶ浜から吹く海風に、濃い紅色の大きな笠印をなびかせた。
弓矢などの武具をすべて整え、周囲を圧するような姿で戦場へ向かった。
多くの兵たちは、その姿を見て思った。
「なるほど、これこそ1騎で1,000人に当たる勇士だ。
長崎入道が、これまで大きな恩を与え、島津が他人を恐れず振る舞うことを許してきたのも、当然のことだったのだ」
新田軍の怪力武者たちが進み出る
新田方の兵たちは、島津四郎の姿を見ると叫んだ。
「見事な敵が現れたぞ!」
すると、
- 栗生氏
- 篠塚氏
- 畑氏
- 矢部氏
- 堀口氏
- 由良氏
- 長浜氏
など、怪力で知られた荒武者たちが、
「自分こそ、あの武士と組み合って勝負を決めよう」
と、我先に馬を進めた。
敵味方の名高い怪力武者たちが、ほかの者を交えず、一対一で戦おうとしている。
「これは見物だ。よく見よ」
敵も味方も戦いを止めた。
皆が固唾をのみ、汗を流しながら、その勝負を見守った。
島津四郎、突然降伏する
ところが島津四郎は、馬から飛び降りた。
兜を脱ぎ、ゆっくりと身なりを整え始めた。
人々は、
「いったい何をするつもりなのか」
と見守った。
すると島津は、恥ずかしげもなく新田義貞へ降伏し、そのまま新田軍へ加わったのである。
称賛が非難へ変わる
身分の高い者も低い者も、この様子を見た。
先ほどまで島津の姿をほめていた者たちは、すぐに言葉を変えた。
「何という卑怯な振る舞いだ」
島津を憎み、非難しない者はいなかった。
幕府の家臣たちが次々と裏切る
島津四郎の降伏を最初として、幕府方の武士たちは次々と主人を捨てた。
ある者は、長年にわたり大きな恩を受けてきた家来だった。
またある者は、先祖代々、北条家に仕えてきた家臣だった。
それにもかかわらず、主人を捨てて新田軍へ降伏した。
親を見捨てて敵方へ加わる者さえ現れた。
そのありさまは、まともに見ていられないほどだった。
源氏と平氏が武威を振るい、互いに天下を争ってきた時代も、まさにこの日をもって終わろうとしているように見えたのである。
74. 鎌倉炎上――長崎父子の奮戦
鎌倉の海岸一帯に火が放たれる
新田軍は、由比ヶ浜に面した民家や、稲瀬川の東西へ火を放った。
その時、ちょうど海から激しい風が吹いていた。
車輪のように渦巻く炎が、黒煙の中を飛び散った。
『太平記』では、火の粉は10町、20町(約1.1〜2.2km)も離れた場所へ飛び、同時に20か所余りで新たな火災が起きたと描かれている。
鎌倉の海岸一帯は、たちまち猛火に包まれた。
炎の中へ攻め込む新田軍
新田軍の兵たちは、燃え上がる炎の下から鎌倉市中へ乱入した。
幕府軍の兵たちは、火と煙によって進む方向を見失っている。
新田軍は、その者たちを各所で矢によって射倒し、太刀で斬り伏せた。
敵と組み合い、互いに刀を突き立てて死ぬ者がいた。
生け捕りにされる者や、鎧や武器を奪われる者もいた。
火と煙に追われる女性や子ども
煙の中で道を失った女性や子どもたちは、敵兵に追い立てられた。
燃え盛る炎の中であろうと、深い堀の底であろうと構わず、逃げ込んでは倒れていった。
そのありさまは、帝釈天と阿修羅が戦った時、阿修羅の一族が天の軍勢に罰せられ、刀や槍の上へ倒れた姿のようだった。
また地獄の罪人たちが、獄卒の槍に追い立てられ、煮えたぎる鉄の湯へ落とされる姿も、このようなものかと思われた。
あまりにも悲惨で、語ろうとしても言葉がない。
話を聞くだけでも悲しみがこみ上げ、誰もが涙にむせんだ。
北条高時、葛西ヶ谷へ移る
四方から流れてきた煙と火は、北条高時の屋敷近くにも迫った。
高時は1,000騎余りを率い、葛西ヶ谷へ移った。
そのほかの北条方の大将や兵たちは、東勝寺へ集まった。
東勝寺は、北条氏の先祖代々の墓がある場所だった。
北条一族は、
「ここで兵たちに敵の矢を防がせ、その間に落ち着いて自害しよう」
と考えたのである。
極楽寺坂を守る長崎父子
長崎三郎左衛門入道思元と、その子勘解由左衛門為基は、極楽寺坂の切通しへ向かい、攻め込んでくる新田軍を防いでいた。
ところが敵の攻撃の声は、すでに小町口付近から聞こえてきた。
さらに北条高時の屋敷にも、火がかかったように見えた。
長崎父子は、極楽寺坂に従っていた7,000騎余りの兵を、そのまま防衛地点へ残した。
そして自分たちの直属の兵600騎余りだけを選び、小町口へ向かった。
600騎で新田軍へ突入する
新田義貞の兵たちは、長崎父子の軍が来るのを見ると、
「中央へ包囲して、1人も逃さず討ち取ろう」
とした。
長崎父子は1か所に集まると、魚のうろこのような鋭い陣形を組み、敵陣を突き破った。
また兵を虎が身を伏せて襲いかかるような形に分け、敵を追い崩した。
新田軍の中へ7度、8度と攻め入り、激しく戦った。
新田軍はクモの脚や十文字のように四方へ追い散らされ、若宮大路まで一気に退いた。
そこで、ようやく兵と馬を休ませた。
二つの戦場へ分かれる父子
その時、天狗堂と扇ヶ谷の方面でも戦いが起きたらしく、激しい土煙が上がっているのが見えた。
長崎思元と為基は、それぞれ別の方向へ向かおうとした。
しかし息子の為基は、
「これが父との最後の別れになる」
と思ったのだろう。
名残惜しそうに立ち止まり、遠く離れていく父の姿を見た。
両目には涙が浮かび、なかなかその場を離れられなかった。
思元、息子を叱る
父の思元は、その様子を見ると、馬を止め、大声で息子を叱った。
「何をそれほど別れ惜しんでいるのだ。
1人が死に、1人が生き残るというのであれば、再び会うまでには長い時間がかかるだろう。
しかし私もお前も、今日のうちに討ち死にする身だ。
明日には、またあの世で会えるではないか。
わずか一晩の別れを、どうしてそれほど悲しむ必要があるのだ」
「死出の山でお待ちします」
為基は涙をぬぐって答えた。
「それでは、どうか急いであの世への旅へお向かいください。
死出の山道で、父上をお待ちしております」
そう言い残すと、為基は敵の大軍の中へ攻め込んだ。
父と子が互いの死を覚悟しながら別れた、その胸の内は何とも悲しいものだった。
20余騎で3,000騎に囲まれる
為基に従う兵は、すでに20騎余りしか残っていなかった。
そのわずかな軍勢は、敵3,000騎余りの中央へ包囲された。
新田軍は太刀や長刀を手に、接近戦によって一気に討ち取ろうとした。
名刀「面影」
為基の太刀は、面影という名だった。
『太平記』によれば、名工・来太郎国行が100日間の精進を行い、100貫(当時の貨幣単位)をかけて、長さ3尺3寸(約1.0m)に鍛えた名刀だったという。
為基がこの太刀を振るうと、近づく敵は次々と倒された。
ある者は、兜の鉢を縦に真っ二つに割られた。
ある者は、胸の鎧を肩から斜めに斬り下げられ、馬から落とされた。
新田軍の兵たちは為基の剣の勢いに押され、誰も近づこうとしなくなった。
遠矢で討とうとする新田軍
新田軍は為基から距離を取り、矢を隙間なく並べた。
そして遠くから矢を浴びせ、射殺そうとした。
為基が乗っていた馬には、7本もの矢が突き刺さった。
為基は考えた。
「このままでは、名のある敵へ近づき、組み合って勝負をすることもできない」
由比ヶ浜の大鳥居で下馬する
為基は由比ヶ浜の大鳥居の前で、馬からゆっくりと飛び降りた。
そしてただ1人、太刀を逆さに立てて杖の代わりとし、仁王像のように堂々と立った。
新田軍は、その姿を見ても近づかなかった。
なおも四方から、遠矢を射かけるだけだった。
負傷したふりをする
為基は敵をおびき寄せるため、負傷したふりをした。
片膝を折り、その場へ倒れ込んだ。
すると、輪の中に2本の線を引いた笠印をつける武士たち50騎余りが、
「今こそ為基の首を取ろう」
と、隙間なく集まってきた。
為基、突然立ち上がる
敵が近づくと、為基は突然立ち上がった。
太刀を持ち直し、大声で叫んだ。
「何者だ。
人が戦いに疲れて昼寝をしているところを、わざわざ起こすとは。
それほど私の首が欲しいのならば、取らせてやろう!」
為基は、鍔元まで血に染まった太刀を振り上げた。
そして雷が落ちかかるような勢いで、両腕を大きく広げ、敵を追いかけた。
50騎が逃げ出す
50騎余りの兵は、為基の勢いに恐れ、馬を全速力で走らせて逃げた。
為基は大声で叫んだ。
「どこまで逃げるのだ。
卑怯者ども、戻ってこい!」
その声は、逃げる兵たちの耳元で直接響いているように聞こえた。
日ごろは速いと思っていた馬も、その場で跳ねるだけで前へ進まないように感じられた。
兵たちの恐怖は、言葉では表せないほどだった。
為基、敵陣を駆け破る
為基はただ1人で敵陣へ突入し、そのまま後方まで駆け抜けた。
さらに引き返しては、再び敵軍をかき乱した。
為基は、
「今日を自分の最期の日としよう」
と覚悟し、激しく戦い続けた。
5月21日の戦いで、由比ヶ浜の大軍を東西南北へ追い散らし、敵にも味方にも驚くべき武勇を見せた。
しかし、その後、為基が生きたのか死んだのかは、分からなくなったという。
75. 大仏貞直と金沢貞将の討ち死に
極楽寺坂を守る大仏貞直
大仏貞直(北条貞直・陸奥守)は、前日まで2万騎余りの軍勢を率い、極楽寺坂の切通しを守って戦っていた。
しかし、その日の朝に由比ヶ浜方面で激しい戦いが起こると、貞直の軍勢はわずか300騎余りにまで減ってしまった。
そのうえ敵に背後をふさがれ、前へ進むことも後ろへ退くこともできなくなった。
そうしているうちに、北条高時の屋敷にも火がかかったように見えた。
家臣たちが自害する
貞直の主だった家臣30人余りは、
「もはや北条氏の世は終わった」
と思ったのだろうか。
あるいは、主人である貞直にも自害を勧めるつもりだったのだろうか。
家臣たちは白砂を敷いた庭へ出ると、鎧や兜を脱ぎ捨てた。
そして一列に並んで座り、次々と腹を切った。
貞直、家臣の自害を叱る
貞直はその姿を見ると、激しく叱った。
「何という、日本一の臆病者たちの振る舞いだ。
たとえ1,000騎の軍勢が、最後に1騎だけになったとしても、敵を討ち続け、自分の名を後の世へ残す。
それこそ勇士が望むべきことである。
それなのに、まだ戦えるうちから自害するとは何事だ。
それならば私は、最後に思う存分戦い、武士が守るべき道をお前たちに示してやろう」
200騎で6,000騎へ突入する
貞直は200騎余りの兵を従え、敵軍へ向かった。
まず、
- 大島氏
- 里見氏
- 額田氏
- 桃井氏
らが率いる、6,000騎余りの新田軍の中央へ突入した。
貞直軍は敵陣を突き破り、思う存分戦った。
多くの敵を討ち取り、そのまま一気に敵陣の外へ駆け抜けた。
残ったのは60騎
敵陣を抜けたあと、貞直が自分の軍勢を振り返ると、200騎余りいた兵は、わずか60騎ほどに減っていた。
貞直は残った兵を手招きして集め、言った。
「今さら、名もない末端の敵と戦っても意味はない。
最後には、敵の大将を目指して戦おう」
脇屋義助の大軍へ突入する
貞直は60騎余りを率い、脇屋義助が雲や霞のような大軍を並べている、その中央へ突入した。
貞直と家臣たちは、一歩も退かなかった。
そして1人残らず討ち死にし、その遺体を戦場の土の上へ残したのである。
金沢貞将、傷を負って東勝寺へ戻る
一方、金沢貞将(北条貞将・武蔵守)も、山内方面で新田軍と戦っていた。
しかし付き従っていた800人余りの兵は、敵によって追い散らされた。
貞将自身も、7か所もの傷を負った。
貞将は傷ついた体のまま、北条高時がいる東勝寺へ戻った。
北条高時、貞将を昇進させる
北条高時は、重傷を負いながら戻ってきた貞将の忠義を見て、深く感動した。
そして『太平記』は、高時が貞将を「両探題職」に据えるための御教書(命令書)を作らせ、さらに相模守へ移したと記している。
「両探題職」が具体的にどの役職を指すかには解釈の余地があるため、ここでは確定した任官名へ置き換えない。『太平記』では、貞将が長年望み、一族の名誉と考えていた職として描かれている。
滅亡直前の任命
貞将自身は、
「北条一族の滅亡は、もう今日1日も過ぎないうちに起こるだろう」
と分かっていた。
それでも命令書を受け取って思った。
「これは私が長年望んできた地位である。
また、金沢一族にとっても大きな名誉となるものだ。
たとえ今日死ぬとしても、あの世へ持っていく思い出にはなるだろう」
貞将は、その命令書を大切に受け取った。
命令書の裏に書いた言葉
貞将は再び戦場へ出ようとした。
その前に、受け取った命令書の裏へ、大きな文字で次の言葉を書いた。
我が100年の命を捨て、
公の1日の恩に報いる。
その意味は、
本来ならば長く生きられるはずの自分の命を捨て、
今日、主君から受けた恩に報いる。
というものだった。
貞将は、その命令書を鎧の胸元へ入れた。
貞将の討ち死に
貞将は傷ついた体で、再び新田軍の大勢の中へ突入した。
そして激しく戦い、ついに討ち死にした。
北条方の者も、新田方の者も、その最期を知ると、貞将の忠義に深く感動した。
敵味方の区別なく、貞将の行動を称賛しない者はいなかったのである。
76. 普恩寺信忍、息子・仲時を思って自害する
化粧坂を守った普恩寺信忍
北条基時(普恩寺前相模入道・法名信忍。鎌倉幕府第13代執権)も、鎌倉の化粧坂へ出陣し、新田軍を防いでいた。
『太平記』によれば、戦いは昼も夜も続き、すでに5日間に及んでいた。
その激しい戦いの中で、信忍に従っていた家来たちは、ほとんど全員が討ち死にした。
最後に残った兵は、わずか20騎余りだった。
鎌倉の防衛線が崩れる
やがて使者が来て、信忍へ告げた。
「各方面の防衛線は、すべて破られました。
敵軍は、鎌倉の谷々へ入り乱れております」
もはや鎌倉を守り切ることはできない。
逃げ道も、味方の援軍もなかった。
信忍は普恩寺へ入り、最後まで生き残った若い家来たちとともに、自害することを決めた。
息子・北条仲時の死
その時、信忍のもとへ、さらに一つの知らせが届いた。
信忍の息子である北条越後守仲時は、京都の六波羅探題から逃れ、関東へ向かっていた。
しかし近江国の番場で進路を断たれ、腹を切って自害したという。
信忍は、息子の最期の様子を思い浮かべた。
父より先に死んだ息子のことを思うと、悲しみに耐えられなかったのだろう。
血で書き残した歌
信忍は、自害する前に1首の歌を詠んだ。
そして自分の血を使い、御堂の柱へ書きつけたという。
待てしばし
死出の山辺の
旅の道
同じく越えて
浮世語らん
その意味は、
仲時よ、死出の山の旅路で、
しばらく私を待っていてくれ。
私もすぐに同じ道を越えていく。
あの世で再び会い、
この苦しい世の出来事を語り合おう。
というものだった。
歌を愛した信忍
信忍は、長年にわたって和歌を好み、楽しんでいた人物だった。
そのため自分の命が終わろうとする時にも、歌を忘れなかった。
愛する息子を失った悲しみと、自分もまもなく死出の旅へ向かう思いを、1首の歌に込めたのである。
信忍は歌を書き終えると、残った家来たちとともに自害した。
後世に残った父の悲しみ
鎌倉幕府の有力者が滅びる場面でありながら、信忍は武勇や恨みではなく、先に死んだ息子への思いを歌として残した。
人々は、
「最後の時まで和歌を忘れず、自分の悲しみを美しい言葉に表したとは、何と心の深い人物であろう」
と称賛した。
その歌を聞いた者は、皆、感動の涙を流したのである。
77. 塩田道祐・俊時父子の自害
父の前で自害する塩田俊時
ここで、何とも不思議で悲しい出来事が起こった。
塩田陸奥入道道祐の子に、塩田民部大輔俊時がいた。
俊時は、父に自害を決意させようとして、父の目の前で腹を切り、その場へ倒れた。
道祐は、自分より先に息子が自害した姿を見た。
この世での親子の別れは、ほんのわずかな時間にすぎないとはいっても、悲しみのあまり目の前が暗くなり、心も乱れた。
涙は止まることなく流れ続けた。
息子の菩提を祈る
道祐は、
「先に死んだ息子が、あの世で救われるように祈ろう」
と考えた。
同時に、
「これから自害する自分自身のためにも、前もって供養をしておこう」
と思ったのだろう。
息子の遺体へ向かい、長年読み続けてきた経典のひもを解いた。
そして重要な部分を声に出しながら、心を落ち着けて経を読み始めた。
200余人の家臣たち
まだ討たれずに残っていた家来たちも、
「主人とともに自害しよう」
と考え、200人余りが並んで座っていた。
しかし道祐は、その者たちを三方へ向かわせて命じた。
「私がこの経を読み終えるまで、敵を防ぐために矢を射よ」
家来たちは主人の命令に従い、それぞれ敵が近づいてくる方向へ向かった。
狩野重光へ託した最後の仕事
家臣の中に、狩野五郎重光という者がいた。
重光は長年にわたって道祐へ仕え、特に近ごろは、いつも身近に置かれていた家来だった。
そのため道祐は、重光1人だけを自分のそばへ残し、言い聞かせた。
「私が腹を切ったあと、この屋敷へ火をつけよ。
そして敵に、私の首を取らせてはならない」
道祐は重光を深く信頼し、自分と息子の最期を任せたのである。
法華経を読み続ける道祐
道祐は、静かに『法華経』を読み続けた。
やがて第五巻の提婆達多品を読み終えようとした時だった。
狩野重光は突然、門の前へ走り出た。
四方を見回すふりをすると、道祐のもとへ戻り、言った。
「敵を防いでいた者たちは、すでに皆、討ち取られました。
敵が、すぐ近くまで攻め寄せております。
どうか早く自害なさってください」
塩田道祐の自害
道祐はそれを聞くと、
「それならば」
と答えた。
左手には、読んでいた経典を握った。
右手には刀を抜いた。
そして腹を十文字に切り裂き、先に死んだ息子・俊時と同じ場所へ倒れた。
こうして塩田父子は、同じ場所に頭を並べて息絶えたのである。
重光は自害しなかった
狩野重光は、長年仕えてきた家来だった。
主君から受けた恩も深い。
そのうえ、
「屋敷に火をつけ、敵に首を取らせるな」
という、最後の遺言まで直接受けている。
そのため誰もが、
「重光もすぐに腹を切り、主人のあとを追うのだろう」
と思った。
ところが、重光は自害しなかった。
主君の武具と財宝を奪う
重光は、死んだ道祐・俊時父子の鎧を脱がせた。
太刀や刀も奪い取った。
さらに屋敷の中にあった財宝を、下働きの者たちに持たせた。
そして、その品々を持って円覚寺へ向かい、蔵主寮に隠れ住んだ。
重光は、
「これだけの宝物があれば、生涯暮らしても不足することはないだろう」
と思ったようである。
舟田入道に捕らえられる
『太平記』作者は、この後の出来事を「天罰だったのだろうか」と因果応報の視点から描いている。
重光が主君の財宝を奪って隠れているという話を、舟田入道が聞きつけた。
舟田は兵を率いて円覚寺へ押し寄せた。
重光は逃げることができず、生け捕りにされた。
そして、ついには首をはねられ、その首を由比ヶ浜にさらされた。
主君を裏切った報い
人々は、この出来事を聞いて言った。
「当然、そのような最期になるべきだった」
長年仕え、深い恩を受けた主人の遺言を守らなかった。
それどころか、主人とその息子の遺体から武具を奪い、財宝まで持ち去った。
そのため重光の死を気の毒に思う者は、1人もいなかったのである。
78. 塩飽聖遠と、その子らの自害
長男・忠頼に生き残るよう勧める
塩飽新左近入道聖遠は、嫡男の塩飽三郎左衛門忠頼を呼び寄せた。
そして涙を流しながら言った。
「鎌倉を守る各方面の陣は、ことごとく破られた。
北条一門の方々も、ほとんどが腹を切られたと聞いている。
私も北条殿より先に死に、自分の忠義を知っていただこうと思う。
しかし、お前はまだ私のもとで養われているだけで、幕府から直接恩を受けたわけではない。
だから、たとえ今ここで私と一緒に命を捨てなくても、
『忠義を知らない者だ』
と非難する人はいないだろう。
どこかへしばらく身を隠しなさい。
そして出家して世を離れ、私の死後を供養してくれ。
お前自身も、心静かに生涯を送ってほしい」
聖遠は、長男だけでも生き残らせようとしたのである。
忠頼の返答
忠頼も両目に涙を浮かべ、しばらく何も言えなかった。
やがて、こう答えた。
「そのお言葉には、従うことができません。
確かに私は、幕府から直接恩を受けたことはありません。
しかし塩飽家が今日まで続いてこられたのは、すべて幕府から受けた武士としての恩によるものではありませんか。
もし私が幼いころから僧となり、仏の道へ入っていたのであれば、世俗の恩を離れ、静かな生活へ入ることも正しいでしょう。
しかし私は武士の家に生まれ、家名を背負って生きてきました。
その私が、主家の武運が傾いたのを見て、危険から逃げるために出家したならば、天下の人々から後ろ指をさされるでしょう。
これ以上の恥が、ほかにあるでしょうか。
父上が腹を切られるのであれば、私が先にあの世へ行き、道案内をいたします」
忠頼、父より先に自害する
忠頼は、まだ言葉を最後まで言い終わらないうちに、袖の下から刀を抜いた。
そして誰にも気づかれないよう、腹へ突き立てた。
父の前で礼儀正しく座った姿勢のまま、息絶えた。
聖遠は息子を生かそうとした。
しかし忠頼は、武士として受け継いだ恩と家名を捨てることを恥じ、父より先に命を絶ったのである。
次男も自害しようとする
忠頼の弟である塩飽四郎は、兄の自害を見ると、自分もすぐに腹を切ろうとした。
しかし父の聖遠は、強く止めた。
「少し待ちなさい。
まず父である私を先に死なせよ。
親が先に死に、子がそのあとに続くという順序を守りなさい。
それから、お前も自害するがよい」
塩飽四郎は、抜いていた刀を鞘へ戻した。
そして父の前へ進み、かしこまって待った。
聖遠が辞世を書く
聖遠は、息子が自分の言葉に従ったのを見ると、満足そうに笑った。
中門に座る場所を用意させ、その上で足を組み、仏像のように姿勢を正して座った。
硯を取り寄せると、自ら筆を取り、最期の言葉を書いた。
提持吹毛
截断虚空
大火聚裡
一道清風
意訳すると、次のような意味に読むことができる。
毛を吹きかけただけでも切れるほど、鋭い剣を手に取る。
その剣で、何もない大空さえ断ち切る。
激しく燃える大火の中にも、
一筋の清らかな風が吹いている。
ここでいう鋭い剣は、迷いや執着を断ち切る強い決意を表すものと読むことができる。
大火は、鎌倉の炎や、目前に迫った死を重ねた表現とも読める。
その炎の中にも、心が迷いから解き放たれる、清らかな道があるという仏教的な辞世である。
息子に首を打たせる
辞世を書き終えると、聖遠は両手を胸の前で組んだ。
そして首を差し出し、塩飽四郎へ命じた。
「さあ、私の首を打ちなさい」
四郎は上半身の衣を脱ぎ、父の首を太刀で打ち落とした。
四郎も父のあとを追う
四郎は父を斬った太刀を持ち直した。
そして、その切っ先を自分の腹へ、鍔元まで深く突き通した。
そのまま、うつぶせに倒れて息絶えた。
父の命令どおり、父を先に送り、その直後に自分も死んだのである。
3人の家臣も同じ太刀で自害する
これを見ていた3人の家臣が、すぐに走り寄った。
3人も、聖遠と四郎が使った同じ太刀へ、自分たちの体を次々と貫かせた。
彼らは、串に刺された魚のように、頭を並べて倒れた。
こうして塩飽聖遠の一族と家臣たちは、最後まで主従のつながりを守り、ともに命を絶ったのである。
79. 安東聖秀の自害――王陵の母の故事
新田義貞の妻から送られた手紙
安東左衛門入道聖秀は、新田義貞の妻の伯父にあたる人物だった。
そこで義貞の妻は、義貞が安東聖秀へ送る手紙に、自分の手紙も書き添え、ひそかに聖秀のもとへ届けさせた。
この手紙には、聖秀を新田軍へ降伏させ、命を助けようとする意図があった。
稲瀬川の陣を破られる
安東聖秀は、初め3,000騎余りを率い、稲瀬川方面を守っていた。
しかし新田方の世良田太郎が、稲村ヶ崎から聖秀軍の背後へ回り込んだ。
安東軍の陣は破られた。
退却しようとしたところへ、由良・長浜の軍勢が攻めかかり、周囲を包囲した。
3,000騎余りいた軍勢は、わずか100騎余りにまで討ち減らされた。
聖秀自身も、命にかかわるほどではないものの、体の多くの場所に傷を負った。
それでも何とか包囲を逃れ、自分の屋敷へ戻った。
焼け落ちていた屋敷
しかし、その日の午前10時ごろ、屋敷へ戻ってみると、すでに建物は焼け落ち、跡形もなかった。
妻や子、家族や家来たちは、どこへ逃げたのか分からない。
その後どうなったのかを尋ねようにも、事情を知る者は1人もいなかった。
さらに、
「北条高時殿の屋敷も焼け、高時殿は東勝寺へお移りになりました」
と知らせる者がいた。
聖秀は尋ねた。
「それでは北条殿の屋敷の焼け跡には、仲間の武士が腹を切ったり、討ち死にしたりしているのか」
すると、
「そのような者は、1人も見当たりませんでした」
という返事だった。
「北条殿の恥をすすごう」
これを聞いた聖秀は、悔しがって言った。
「何とも情けないことだ。
長年にわたり日本の支配者であった鎌倉殿の屋敷を、敵の馬のひづめで踏み荒らさせておきながら、そこで1,000人、2,000人という武士が討ち死にすることもなかった。
後の世の人々から、
『北条家の武士には、主人の屋敷を守って死ぬ者さえいなかった』
と笑われることこそ、大きな恥である。
さあ、皆の者。
どうせ死ぬ命ならば、北条殿の屋敷の焼け跡へ行こう。
そこで落ち着いて自害し、鎌倉殿の恥をすすごうではないか」
聖秀は、戦いを生き残った家来100騎余りを率い、小町口へ向かった。
北条高時の屋敷跡
聖秀は、以前に高時の屋敷へ出仕していた時と同じように、塔辻で馬を降りた。
そして、何もなくなった屋敷跡を見回した。
その日の朝までは、美しく大きな屋敷や高い塀が立ち並んでいた。
しかし今では、すべてが一瞬のうちに灰となり、世の中の移り変わりを示す煙だけが残っている。
昨日まで一緒に楽しみ、語り合っていた親族や友人の多くも、戦場で死んでいた。
栄えた者も必ず衰えるという道理を示すように、多くの遺体が残されていた。
聖秀は悲しみの中でも、さらに深い悲しみを感じた。
涙を押さえながら、ぼう然と立っていた。
降伏を勧める手紙
その時、
「新田義貞殿の奥方からの使者です」
という者が現れ、薄い紙に書かれた手紙を差し出した。
聖秀が、
「何が書かれているのか」
と思って開くと、およそ次のような内容だった。
鎌倉が、もはやどうにもならない状況になったと聞いております。
どのような方法を使ってでも、こちらへおいでください。
これまで幕府方として行ってきたことについては、私が自分の命に代えてでも、義貞殿へお願いし、お許しいただきます。
聖秀の命を救いたいという、姪からの手紙だった。
手紙を読んで怒る聖秀
しかし、この手紙を読んだ聖秀は、顔色を大きく変えた。
そして言った。
「栴檀の林へ入った者は、香をつけなくても、その衣が自然に香るという。
武士の妻となった女性は、勇ましい心を一つ持ってこそ、その家を支え、子孫の名を世に示すことができるのだ」
栴檀とは、よい香りを持つ木である。
よい人物のそばにいれば、その影響を受けて自然に心も立派になる、という意味だった。
聖秀は、
「武士の妻ならば、自分の親族であっても、敵へ降伏するよう勧めるべきではない」
と考えたのである。
王陵の母の故事
聖秀は、昔の中国の話を語り始めた。
「昔、漢の高祖・劉邦と、楚の項羽が天下を争っていた時、王陵という武将が城を守っていた。
楚軍がその城を攻めたが、守りが固く、どうしても落とすことができなかった。
そこで楚の武将たちは相談した。
『王陵は母親への孝行心が、たいへん深い。
それならば王陵の母を捕らえ、盾の前へ縛りつけて城を攻めればよい。
王陵は母を射ることができず、きっと降伏するだろう』
楚軍は、ひそかに王陵の母を捕らえた」
息子の名誉を守った母
「王陵の母は、心の中で考えた。
『王陵が私へ尽くしてくれた孝行は、古代の聖人である舜や、親孝行で知られた曾参にも勝るほどである。
もし私が盾の前へ縛りつけられ、城へ連れていかれたならば、王陵は悲しみに耐えられず、城を明け渡すかもしれない。
それならば、残り少ない自分の命を、息子と子孫の名誉のために捨てる方がよい』
王陵の母は、そう決心した。
そして自ら剣の上へ倒れ、命を絶った。
そのため王陵は母のことを心配せず戦い続け、武将としての名を高めることができたのだ」
幕府から受けた恩
聖秀は続けた。
「私は今日まで幕府の恩を受け、そのおかげで世間に名を知られる身となった。
それなのに幕府が危機に陥った今、敵へ降伏したならば、人々が私を、
『恥を知る武士である』
と思うだろうか。
決して、そのようには思わないだろう」
聖秀にとって、長年受けてきた恩を捨て、命だけを助けてもらうことは、武士として耐えられない恥だった。
義貞と妻への批判
聖秀は、さらに怒って言った。
「たとえ女性の浅い考えから、このような手紙を書いたのだとしても、義貞は武士の道を知る人物である。
このような申し出を、当然止めるべきだった。
また義貞が、私が本当に幕府へ忠義を尽くすか確かめるため、わざとこのような手紙を書かせたのだとしても、奥方は、
『伯父の名誉を失わせたくない』
と思うならば、固く断るべきだった。
結局、人は自分と似た心を持つ者を友とするものだ。
このような夫婦を、子孫のために頼りとすることはできない」
聖秀は1度は姪を恨み、1度は義貞へ怒りを向けた。
手紙を刀とともに握りしめて自害する
聖秀は、使者が見ている目の前で、その手紙を刀とともに握りしめた。
そして腹を切り、その場で命を絶った。
『太平記』は、聖秀が降伏を勧める手紙を刀とともに握ったまま腹を切り、その申し出を拒む姿を描いている。
聖秀は、敵方にいる親族の情けによって生き残ることよりも、北条氏から受けた恩へ報い、武士としての名を守って死ぬ道を選んだのである。
80. 亀寿殿(北条時行)の信濃脱出――北条泰家の偽装
最後のお供を願う諏訪盛高
北条高時の弟である北条泰家(四郎左近大夫入道・法名恵性)のもとに、諏訪左馬助入道の子諏訪三郎盛高が仕えていた。
盛高は何度もの戦いで、従っていた家来をすべて失っていた。
ついには、盛高と家来1人の、主従2騎だけになった。
盛高は四郎左近大夫入道の屋敷へ来て、申し上げた。
「鎌倉での戦いも、もはやこれまでと思われます。
最後のお供をするために参りました。
どうか、早くご決心ください」
盛高は、主人とともに自害する覚悟だった。
北条一門を再興する計画
四郎左近大夫入道は、周囲の者を遠ざけた。
そして盛高の耳元へ、ひそかに語った。
「この思いもよらない乱によって、北条家が滅亡しようとしていることには、明らかな理由がある。
ただ兄である相模入道殿の振る舞いが、人々の望みに背き、神の御心にも反していたからだ。
しかし天が、おごる者を憎み、満ちたものを欠けさせるとしても、我が家が何代にもわたって積んできた善行の恵みまで、すべてなくなったとは限らない。
子孫の中に、途絶えた家を継ぎ、衰えた一族を再び興す者が現れないと、どうして言い切れるだろうか」
鮑叔牙と斉の桓公の故事
四郎左近大夫入道は、中国の故事を語った。
「昔、斉の襄公は、道理に外れた政治を行っていた。
斉の国が滅びることを予想した家臣の鮑叔牙は、襄公の一族である小白を連れ、他国へ逃れた。
その後、襄公は公孫無知に殺され、斉の国は乱れた。
すると鮑叔牙は小白を立てて斉へ攻め戻り、公孫無知を討った。
こうして小白は斉の国を取り戻し、後に名君として知られる斉の桓公となったのである」
一族が1度滅びかけても、子孫を生かしておけば、再興する機会が訪れる。
四郎左近大夫入道は、その故事にならおうとしていた。
亀寿殿を守れ
入道は続けた。
「私には、深く考えていることがある。
軽々しく自害するつもりはない。
逃れることができるなら、いつの日か再び兵を起こし、会稽の恥をすすぎたい」
「会稽の恥をすすぐ」とは、昔、中国の越王勾践が敗北の屈辱に耐え、後に敵を倒した故事から、敗戦の恥を晴らすという意味である。
入道は盛高へ命じた。
「お前もよく考えよ。
どこかへ身を隠して耐え忍ぶか、場合によっては敵へ降伏してでも、命をつなげ。
そして私の甥である亀寿殿(のちの北条時行)を、ひそかに守り育てよ。
時が来たと見たならば、再び大軍を起こし、北条家再興の望みを遂げるのだ。
亀寿の兄である万寿は、五大院右衛門に任せてある。
そちらは心配ないと思っている」
盛高、命令を受け入れる
盛高は涙を押さえながら答えた。
「これまでは、自分の運命を北条一門の存亡に任せてきました。
命を惜しむつもりはありません。
主人の目の前で自害し、決して二心のないことをお見せするために、ここまで参ったのです。
しかし、
一時のうちに死を決めることは簡単だが、
遠い将来まで続く計画を残すことは難しい。
とも申します。
何事も、主人のお命令に従います」
盛高は、自害することをやめ、亀寿殿を救い出す役目を引き受けた。
二位殿の局を訪ねる
盛高は主人の前を退出すると、扇ヶ谷へ向かった。
そこには北条高時の側室で、亀寿殿の母にあたる二位殿の局がいた。
二位殿の局をはじめ、女房たちは盛高が来たのを見て、心から喜んだ。
そして言った。
「この先、世の中はどうなってしまうのでしょう。
私たちは女なので、どこかへ身を隠すこともできるかもしれません。
しかし、この亀寿殿をどうすればよいのでしょうか。
兄の万寿殿については、五大院右衛門が隠す場所を用意しているといい、今朝どこかへお連れしました。
そのため、万寿殿については安心しています。
ただ亀寿殿のことだけが心配でなりません。
露のようにはかない私の命まで、悲しみのために消えてしまいそうです」
二位殿の局は、涙を流して訴えた。
真の計画を隠す盛高
盛高は、
「亀寿殿を信濃へ逃がし、将来、北条家を再興するためにお守りします」
と、すべてを正直に伝えようと思った。
しかし、思い直した。
「女性は心が弱く、後になって誰かへ話を漏らしてしまうことがあるかもしれない」
そこで盛高は、本当の計画を隠して言った。
「この世の状況は、もはやどうにもならないと思われます。
北条一門の方々は、ほとんどが自害されました。
大殿である高時殿だけは、まだ葛西ヶ谷にいらっしゃいます。
高時殿は、
『若君たちに一目会ってから、自害したい』
と仰せになりました。
そのため、亀寿殿をお迎えに参ったのです」
亀寿殿を隠してほしいと願う母
先ほどまで少し安心した様子だった二位殿の局は、盛高の言葉を聞くと、急に沈んだ表情になった。
「万寿殿は五大院右衛門宗繁に預けたので、安心しています。
どうか、この亀寿殿も何とかうまく隠してください」
そう言い終わらないうちに、涙にむせんだ。
盛高も木や石ではない。
胸の中では悲しみに耐えられなかった。
しかし計画を成功させるためには、心を強く持たなければならなかった。
万寿殿も死んだと偽る
盛高は、さらに残酷な作り話をした。
「五大院右衛門宗繁が万寿殿をお連れしていたところを、敵に見つけられ、追いかけられました。
宗繁は小町口の民家へ逃げ込みましたが、逃げ切れないと考え、万寿殿を自ら刺し殺しました。
そして自分も腹を切り、家に火を放って焼け死んだのです」
実際には、盛高は万寿殿の最期を確認したわけではない。
二位殿の局に亀寿殿を手放させるため、そう偽ったのである。
「今日は若君の最期の日です」
盛高は続けた。
「亀寿殿も、今日をこの世の最後の日と思ってください。
どうせ隠し通すことはできません。
狩場のキジが草むらへ隠れても、尾が見えて見つかってしまうように、いずれ敵に探し出されます。
そして幼い若君が敵の手にかかり、北条一族の名を汚されることほど、悔しいことはありません。
それよりは高時殿のお手にかかり、あの世までお供する方が、いつの世までも忠義と親孝行を尽くしたことになるでしょう。
どうか、早く亀寿殿をお渡しください」
亀寿殿にすがりつく女性たち
二位殿の局をはじめ、乳母や女房たちは激しく泣いた。
「何という恐ろしいことを言うのです。
しかし敵の手にかかれば、どのような目に遭うか分かりません。
万寿殿と亀寿殿を大切に抱き育ててきた者たちが、自分たちの手で若君を失うことになれば、どれほど悲しいことでしょう。
まず私たちを殺してください。
そのあとで、この若君をどうするかお決めください」
女性たちは亀寿殿の前後へすがりつき、人目もはばからず、声を上げて泣き悲しんだ。
盛高、亀寿殿を奪い取る
盛高も目の前が暗くなり、心が消えてしまいそうな思いだった。
しかし、ここでためらっては亀寿殿を救うことができない。
盛高は声を荒らげ、顔色を変えて二位殿の局をにらんだ。
「武士の家に生まれた者が、幼い時からこのような事態も起こり得ると覚悟していなかったとは、情けないことです。
大殿も、どれほど亀寿殿を待っておられることでしょう。
早くお渡しください。
北条殿のお供をさせなければなりません」
そう言うと、盛高は走り寄って亀寿殿を抱き取った。
幼い若君を鎧の上から背負い、門の外へ走り出した。
母たちの泣き声
屋敷の中では、女性たちが一斉に、
「わあっ」
と泣き叫んだ。
その声は、はるか遠くまで聞こえた。
その悲鳴がいつまでも耳の底に残り、盛高も涙のために前へ進めないほどだった。
思わず振り返ると、乳母の御妻という女性が、はだしのまま人目も気にせず、あとを追ってきた。
御妻は4、5町(約440〜550m)ほどの間、泣いては倒れ、倒れては起き上がり、盛高のあとを追い続けた。
乳母・御妻の死
盛高は、
「行き先を知られてはならない」
と心を強くし、馬を速めた。
やがて御妻の姿は、後ろに見えなくなった。
取り残された御妻は嘆いた。
「もう私は、誰を育てればよいのでしょう。
誰を頼りにして、この命を惜しめばよいのでしょう」
御妻は近くにあった古い井戸へ身を投げ、そのまま亡くなった。
亀寿殿、信濃へ逃れる
盛高は亀寿殿を連れ、信濃国へ逃れた。
そして諏訪大社の神職である諏訪の祝を頼り、若君をひそかに養育した。
『太平記』本文によれば、亀寿殿は後に関東で兵を起こし、天下を揺るがす大軍の大将となった。
この亀寿殿は、のちに北条時行(相模二郎)と呼ばれ、中先代の乱を起こす人物である。
※年代について:『太平記』はこの後の北条時行の挙兵を「建武元年の春」とするが、中先代の乱は一般に建武2年(1335年)7月の出来事とされる。本文の年代と一般的な歴史年代を区別して読む必要がある。
滅亡した北条一門の中から、再び関東を奪い返そうとする者が現れたのである。
北条泰家の脱出計画
一方、北条泰家は、二心のない家臣たちを呼び集めて言った。
「私は考えるところがあり、奥州方面へ逃れようと思う。
そして再び天下を覆すための計画を立てたい。
南部太郎と伊達六郎の2人は、奥州への道をよく知っているので連れていく。
そのほかの者たちは、ここで自害して屋敷に火を放て。
そして、
『私は腹を切り、屋敷とともに焼け死んだ』
と、敵に思わせてほしい」
家臣たちが命令を受け入れる
20人余りの家臣たちは、反対することなく答えた。
「すべて、殿のお決めになったとおりにいたします」
自分たちは死に、主人だけを逃がす。
それが主人と北条家の将来のためになるならば、命を捨てようと決めたのである。
負傷した新田方の武士を装う
伊達六郎と南部太郎は、姿を変えて荷物運びの人夫に化けた。
2人の下働きには鎧を着せ、馬に乗せた。
さらに新田方の武士を示す、中黒の笠印をつけさせた。
四郎左近大夫入道は乗り物に乗せ、血のついた帷子を上からかぶせた。
こうして一行は、
「新田方の武士が戦いで負傷し、家来に連れられて故郷へ帰る」
ように見せかけた。
敵の兵たちは、この一行を北条方の者だとは気づかなかった。
入道たちは、無事に武蔵国まで逃れることができた。
屋敷に残った家臣たち
主人を逃がしたあと、屋敷へ残った家臣たちは中門へ走り出た。
そして大声で叫んだ。
「殿は、すでに自害なされたぞ。
志のある者は、皆、お供を申し上げよ!」
家臣たちは屋敷へ火を放った。
炎と煙が立ち上る中、20人余りが並んで座り、1度に腹を切った。
300人余りが後を追う
庭や門の外には、ほかにも300人余りの兵が集まっていた。
彼らは主人の自害と、家臣たちの最期を見て、
「自分も人に劣ってはならない」
と考えた。
それぞれが腹を切り、燃え盛る屋敷の中へ飛び込んだ。
遺体は一つも残らず、猛火の中で焼けた。
これほど多くの者が命を捨てたため、誰も四郎左近大夫入道が逃げたとは思わなかった。
人々は皆、
「入道も屋敷の中で自害した」
と信じたのである。
後に京都へ現れる
『太平記』は、北条泰家がその後、西園寺家に身を寄せたと記している。
一般には、泰家はのちに還俗して時興と名乗り、建武2年(1335年)には京都の西園寺公宗邸に潜伏して、北条氏再興を図ったとされる。
鎌倉で焼け死んだと思わせて脱出した人物が、名を変えて再び倒幕後の政治事件に姿を現すことになる。
81. 長崎高重、最後の合戦
80回余りの戦いを重ねる
長崎次郎高重は、武蔵野での戦いが始まってから、この日に至るまで、昼夜を問わず戦い続けてきた。
『太平記』によれば、その間に参加した戦いは80回余りに及んだという。
高重は毎回、軍勢の先頭に立った。
敵の包囲を破り、自ら敵と戦った回数は数えきれなかった。
そのため、初めは大勢いた腕利きの家来や若い従者たちも、次々と討たれていった。
今では、わずか150騎しか残っていなかった。
鎌倉の各所を駆け回る
元弘3年(1333年)5月22日、新田軍はすでに鎌倉の谷々へ入り込み、北条方の大将たちも、ほとんどが討たれたという知らせが入った。
高重は、どの武将が守っている陣かなどには構わなかった。
ただ敵が近づいている場所へ、そのたびに駆けつけた。
八方の敵を追い払い、四つの部隊が固める陣を次々と破った。
馬が疲れれば、別の馬へ乗り換えた。
太刀が折れれば、新しい太刀へ差し替えた。
『太平記』によれば、この日、高重が自ら斬り落とした敵は32人、打ち破った陣は8か所に及んだという。
北条高時への最後のあいさつ
高重はひとまず、北条高時がいる葛西ヶ谷へ戻った。
中門の前にひざまずき、涙を流しながら申し上げた。
「高重の家は、何代にもわたって北条家へお仕えする名誉をいただきました。
朝夕、殿のお顔を拝してきた日々も、この世では今日が最後になると思われます。
私は1人で各所の敵を追い散らし、何度戦っても勝ってまいりました。
しかし、すべての防衛地点が破られ、敵兵が鎌倉中に満ちてしまった以上、いくら長く戦おうと思っても、もはやどうにもなりません。
どうか敵の手にかからぬよう、最期のご決心をなさってください」
「もう1度だけ戦わせてください」
しかし高重は続けた。
「ただし、私が再び戻ってきてお勧めするまでは、軽々しく自害なさらないでください。
殿がまだご存命のうちに、もう1度、思う存分に敵の中へ攻め入りたいのです。
最後の合戦をしてから、あの世で殿のお供をいたします。
その時に、
『鎌倉で最後に、このような戦いをしました』
と、冥途への道中でお話し申し上げたいと思います」
高重はそう言って、再び東勝寺を出ていった。
北条高時は、高重の後ろ姿をいつまでも見送った。
「これが今生で見る最後の姿になるのだろう」
と思ったのか、名残惜しそうに立ち、目に涙を浮かべていた。
兜を脱いで戦場へ向かう
長崎高重は兜を脱ぎ捨てた。
筋模様の帷子に日月の印をつけ、上質な絹の大口袴の上から赤糸の腹巻を着ていた。
腕には小手もつけていなかった。
そして、兎鶏という坂東一の名馬に、金具で飾った鞍と小さな房のついた尻懸けをつけて乗った。
高重は、これを自分の最後の戦いと決めていた。
南山和尚との禅問答
高重は、まず崇寿寺の長老である南山和尚を訪ねた。
面会を願うと、和尚は僧としての正装を整えて現れた。
周囲では激しい戦いが続いており、高重は鎧を着たままだった。
そのため庭に立ったまま、左右へ丁寧に礼をして、和尚へ尋ねた。
「勇士が、このような時に行うべきことは何でしょうか」
和尚は答えた。
「毛を吹きかけただけでも切れる鋭い剣は、
急いで使う時には、前にさえぎるものがない」
これは、
今こそ迷いを断ち切り、ためらわず進め。
という意味の禅の言葉だった。
高重はその一言を聞くと、深く礼をした。
笠印を捨てて敵陣へ入る
高重は寺の門前で馬を引き寄せ、飛び乗った。
150騎の兵を前後に従え、敵味方を見分ける笠印をすべてかなぐり捨てた。
そして静かに馬を歩かせ、新田軍の中へ紛れ込んだ。
高重の目的はただ一つだった。
新田義貞本人へ近づき、直接組み合って勝負を決めることである。
高重たちは旗を立てず、武器も抜いていなかった。
そのため新田方の兵たちは、敵とは気づかなかったのだろう。
何の疑いもなく道を開け、高重の一行を通した。
義貞まで半町に迫る
高重は、新田義貞からわずか半町(約55m)ほどの距離まで近づいた。
「今だ」
と攻めかかろうとした、その時だった。
新田方の運が強かったのだろうか。
義貞のすぐ前を守っていた由良新左衛門が、高重の姿を見分けた。
由良は大声で叫んだ。
「今、旗も立てずに近づいてくる軍勢は、長崎次郎高重に違いない。
あれほどの勇士が、考えもなくここまで来るはずがない。
1人も逃すな。討ち漏らすな!」
3,000騎に包囲される
前方に陣取っていた武蔵七党の兵3,000騎余りが、東西から回り込んだ。
高重の150騎を中央へ包囲し、
「自分こそ討ち取ろう」
と攻めかかった。
高重は、
「計画が狂った」
と思った。
しかし150騎を1か所へ固く集めると、全員で一斉に攻撃の声を上げた。
そして3,000騎の中へ攻め入り、また駆け抜け、激しく戦った。
敵味方の区別がつかなくなる
高重の兵たちは、敵の中へ現れたかと思えば、たちまち別の場所へ姿を隠した。
ほんの一瞬のうちに集まったり、散ったり、離れたり、再び合流したりした。
前にいたと思えば、突然後ろに現れる。
味方かと思って近づけば、実は高重の兵だった。
十の方向へ同時に分身し、無数の敵を相手に戦っているように見えた。
新田軍は高重がどこにいるのか見定められず、味方同士で討ち合う者も多かった。
笠印のない者を討て
これを見た長浜六郎が命じた。
「何とも情けない味方同士の討ち合いだ。
敵は皆、笠印をつけていなかったはずだ。
軍勢の中に紛れ込んだなら、それを目印として組みつき、討ち取れ」
甲斐・信濃・武蔵・相模の兵たちは、高重の兵へ並んで押し寄せた。
互いに激しく組み合い、馬から落ちて首を取る者もいれば、逆に捕らえられる者もいた。
土ぼこりが空を覆い、兵や馬の血が地面を一面に染めた。
項羽にも劣らない戦い
その戦いぶりは、楚の項羽が漢の3人の将軍を打ち破った時や、魯陽公が激しく戦い、沈みかけた太陽を引き戻したという伝説にも劣らないように見えた。
しかし、長崎高重はまだ討たれていなかった。
高重の軍勢は、主従わずか8騎にまで減っていた。
それでも高重は、なお新田義貞へ組みつく機会を狙っていた。
近づく敵を打ち払い、動く者があれば刺し違える勢いで倒しながら、義貞兄弟だけを目標に駆け回った。
横山重真を一撃で倒す
武蔵国の住人、横山太郎重真が、高重と義貞の間をさえぎった。
重真は、
「自分が高重と組み合おう」
と馬を進め、近づいてきた。
高重も、
「名のある敵ならば、組み合って勝負しよう」
と思い、その顔を見た。
しかし相手が横山重真だと分かると、
「自分が求めているほどの敵ではない」
と思った。
高重は重真を馬の左側に迎え、太刀を振り下ろした。
太刀は重真の兜の鉢から、首を守る菱縫の板まで一気に斬り裂いた。
重真は体を真っ二つにされ、息絶えた。
その馬も尻を地面へつけ、前膝を折って倒れた。
庄為久を投げ飛ばす
同じ武蔵国の住人、庄三郎為久は、この様子を見て、
「これは名のある敵だ」
と思った。
続いて高重へ組みつこうと、両腕を広げて馬を走らせた。
高重は遠くから為久を見ると、からからと笑った。
「武蔵七党の者などと組むつもりならば、先ほどの横山を嫌う必要もなかった。
相手にする価値もない敵が、どのように死ぬのか思い知らせてやろう」
高重は為久の鎧の上部をつかんだ。
『太平記』によれば、高重はその体を宙へ持ち上げ、弓杖5杖(弓5張り分ほど。単純換算で約11m)も先へ軽々と投げ飛ばしたという。
飛ばされた為久の体にぶつかった武者2人も、馬から逆さまに落ちた。
2人は血を吐き、そのまま死んだ。
長崎高重の名乗り
高重は、
「すでに敵へ正体を知られた以上、隠す必要はない」
と思った。
馬をその場に止め、大声で名乗った。
「桓武天皇の第五皇子・葛原親王から3代目の子孫、平将軍貞盛より13代。
前相模守北条高時に仕える長崎入道円喜の嫡孫、次郎高重である。
北条家から受けた武士の恩に報いるため、ここで討ち死にする。
手柄を立てたいと思う者は、近づいて組め!」
鎧を引きちぎって駆け回る
高重は鎧の袖を引きちぎった。
草摺も何枚も斬り落とした。
さらに太刀を鞘へ収めると、左右の腕を大きく広げ、敵を組み伏せようとした。
あちらへ駆け、こちらへ駆け戻り、髪を振り乱した姿で敵軍を追い散らした。
家臣が高重を止める
その時、生き残った家臣たちが高重の馬の前へ走り出た。
「何をなさっているのですか。
殿お1人だけが、このようにいつまでも駆け回っておられます。
敵は大軍で、すでに鎌倉の谷々へ入り、火を放ち、物を奪っています。
すぐにお戻りください。
北条殿へ自害をお勧めしなければなりません」
高重は、家臣たちへ答えた。
「敵が逃げる姿があまりにも面白かったので、大殿と約束したことを忘れてしまっていた。
それでは、戻るとしよう」
児玉党500騎の追撃
高重ら主従8騎は、山内から葛西ヶ谷へ引き返した。
これを見た児玉党の兵500騎余りは、
「長崎高重が逃げていく」
と思った。
「卑怯者、戻ってこい!」
と罵りながら、馬を競わせて追いかけた。
高重は、
「大げさな者たちだ。
いったい、何ほどのことができるというのか」
と思い、初めは聞こえないふりをして進んでいた。
しかし児玉党が激しく追いすがってきた。
17回引き返して戦う
高重ら8騎は突然振り返り、馬の向きを変えた。
山内から葛西ヶ谷の入口へ至るまで、高重たちは17回も引き返して敵と戦った。
そして500騎余りの追撃軍を、そのたびに追い退けた。
敵が下がると、また何事もなかったように静かに馬を進めた。
23本の矢を受けて帰る
高重の鎧には、23本の矢が突き刺さっていた。
折れた矢柄が、みのの毛のように鎧一面へ広がっていた。
その姿で葛西ヶ谷へ戻ると、祖父の長崎入道円喜が待っていた。
円喜は尋ねた。
「どうして今まで遅かったのだ。
いよいよ、これまでなのか」
高重はかしこまって答えた。
義貞とは戦えなかった
「敵の大将である新田義貞へ近づき、組み合って勝負をしたいと思っておりました。
そのため20回余り、敵陣へ攻め入りましたが、ついに義貞へ近づくことはできませんでした。
名のある武将と思われる敵とも出会えず、名もない武蔵七党の者たちを、四、500人ほど斬り捨ててきたにすぎません。
気の毒なことだなどと思わずに済むのであれば、なおも彼らを海岸へ追い出し、馬の左右へ並べて、車輪のように横から斬り、胴を斬り、縦に斬り割って捨てたいと思っておりました。
しかし大殿がどうなされたか心配になり、戻ってまいりました」
高重は、まるで普通の出来事を語るように、涼しい顔で話した。
その話を聞いた北条一門の人々は、まもなく死を迎えようとしていたにもかかわらず、少しだけ心を慰められたのである。
82. 東勝寺の最期――北条高時と一門の自害
長崎高重、東勝寺へ戻る
長崎次郎高重は、最後の戦いを終えて東勝寺へ戻ると、北条高時らへ大声で呼びかけた。
「もはや時はありません。
どうか、早くご自害ください。
まず私が先に腹を切り、皆様のお手本をお見せいたします」
高重は、戦いで壊れ、胴の部分だけになっていた鎧を脱ぎ捨てた。
そして高時の前に置かれていた盃を手に取った。
弟の長崎新右衛門に酒をつがせ、3度飲み干した。
高重が最初に腹を切る
高重は、その盃を摂津刑部大夫入道道準の前へ置いた。
「次は、あなたをご指名いたします。
私の最期を酒の肴になさってください」
そう言うと、高重は刀を左の脇腹へ突き立てた。
そのまま右の脇腹まで、長く腹を切り裂いた。
さらに腹の中から腸を手で引き出し、道準の前へ倒れた。
数えきれないほど戦場を駆け回った長崎高重は、自ら北条一門の自害の先頭に立ったのである。
血の盃が次の者へ渡る
道準は高重の置いた盃を取ると、言った。
「何とも見事な酒の肴だ。
どれほど酒の飲めない者であっても、これを見て飲まない者はいないだろう」
道準は、最期を前にして冗談を言った。
そして盃の酒を半分ほど飲み残し、諏訪入道直性の前へ差し出した。
道準も高重に続き、腹を切って死んだ。
諏訪直性の自害
諏訪入道直性は、その盃を取った。
少しも慌てることなく、静かに3度酒を飲んだ。
そして盃を北条高時の前へ置いて言った。
「若い者たちは、それぞれ見事な技を尽くして最期を飾りました。
私も年老いているからといって、どうして彼らに劣ることができましょう。
これからあとの者は、皆、この盃をあの世への旅立ちの酒にしてください」
直性は腹を十文字に切った。
そして腹を切った刀を抜き、高時の前へ差し出して倒れた。
ためらう長崎円喜
長崎入道円喜は、ここまで来ても、なお北条高時のことを気にかけている様子だった。
高時がまだ自害していないため、自分も先に腹を切ることができずにいたのである。
その時、円喜の孫である長崎新右衛門が、祖父の前へ進み出た。
新右衛門は、この年、わずか15歳だった。
15歳の新右衛門
新右衛門は祖父の前にかしこまり、言った。
「父や祖父の名誉を世に示すことが、子孫にとっての親孝行であると申します。
このような場合ならば、仏や神も、きっと私の行いをお許しくださるでしょう」
新右衛門は、年老いた祖父・円喜の脇へ刀を2度突き立てた。
そして同じ刀で自分の腹を切った。
祖父の体を引き倒すと、その上に重なるように倒れた。
15歳の孫と、年老いた祖父は、互いに重なって息絶えたのである。
北条高時の自害
この幼い少年にまで、武士としての道を示された。
それを見た北条高時も、ついに腹を切った。
続いて城入道も自害した。
こうして高時を中心とする北条一門の最期が始まった。
堂内に並ぶ一門の人々
堂の上に座を並べていた北条一門や、北条家に仕えてきた他家の人々も、それぞれ自害を始めた。
雪のように白い肌をあらわにして、腹を切る者がいた。
自ら首を切り落とそうとする者もいた。
それぞれが思い定めた方法で最期を迎え、その姿はいずれも重々しく、恐ろしいほど見事だった。
東勝寺で自害した人々
『太平記』は、高時らとともに東勝寺で死んだ主な人々として、次の名を挙げている。
- 金沢太夫入道崇顕
- 佐介近江前司宗直
- 甘名宇駿河守宗顕
- その子・駿河左近大夫将監時顕
- 小町中務大輔朝実
- 常葉駿河守範貞
- 名越土佐前司時元
- 摂津刑部大輔入道
- 伊具越前前司宗有
- 城加賀前司師顕
- 秋田城介師時
- 城越前守有時
- 南部右馬頭茂時
- 陸奥右馬助家時
- 相模右馬助高基
- 武蔵左近大夫将監時名
- 陸奥左近将監時英
- 桜田治部大輔貞国
- 江馬遠江守公篤
- 阿曾弾正少弼治時
- 苅田式部大夫篤時
- 遠江兵庫助顕勝
- 備前左近大夫将監政雄
- 坂上遠江守貞朝
- 陸奥式部大輔高朝
- 城介高量
- 城式部大夫顕高
- 城美濃守高茂
- 秋田城介入道延明
- 明石長門介入道忍阿
- 長崎三郎左衛門入道思元
- 隅田次郎左衛門
- 摂津宮内大輔高親
- 摂津左近大夫将監親貞
このほか、名越一族34人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々46人がいた。
北条一門につながる者は、合わせて283人だったという。
東勝寺に火が放たれる
人々は、
「我こそ先に」
と争うように腹を切った。
そして東勝寺の建物へ火を放った。
炎は激しく燃え上がった。
黒煙は空を覆い、天をかすめるほど高く昇った。
庭と門前の兵たちも後を追う
庭や門の前には、まだ多くの兵が並んでいた。
彼らは主人たちが自害し、堂が燃え上がるのを見ると、次々とそのあとを追った。
自ら腹を切り、燃え盛る炎の中へ飛び込む者がいた。
父と子、兄と弟が互いに刀を突き立て、重なって倒れる者もいた。
血と遺体に覆われる東勝寺
人々の血は大地へあふれ、まるで大きな川のように流れた。
遺体は道の上へ幾重にも横たわり、広い野原を覆うようだった。
多くの遺体は火によって焼かれ、姿が分からなくなった。
しかし後になって名前を調べると、『太平記』によれば、東勝寺のこの1か所で死んだ者は、合わせて870人余りだったという。
鎌倉で6,000人余りが後を追う
このほかにも、北条一門につながる者や、恩を受けた者たちがいた。
僧侶であるか俗人であるか、男であるか女であるかを問わず、
「死後の世界で、北条家から受けた恩に報いよう」
と考えて自害した。
親しい者の死を悲しみ、この世を捨てた者もいた。
遠い国々で、どれほどの人が死んだのかは分からない。
しかし鎌倉の中だけを数えても、『太平記』によれば、北条氏の滅亡に伴って死んだ者は、合わせて6,000人余りに及んだという。
鎌倉幕府の滅亡
ああ、この日は何という日だったのだろう。
元弘3年(1333年)5月22日。
『太平記』は、この滅亡を「平家9代の繁栄が一時に滅びた」と表現している。ここでいう「9代」は、鎌倉幕府の執権が9代だったという意味ではない。
一方、長い間、力を抑えられてきた源氏の願いは、この日、一挙に実現した。
鎌倉幕府はここに滅亡し、東国の政治と武士の歴史は、大きな転換点を迎えたのである。
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