太平記 37巻


306. 細川清氏・楠木正儀、京都攻略を計画する

細川清氏は石塔頼房を通じ、南朝へ申し上げた。

「清氏は未熟な身ですが、南朝へ参ったことにより、

  • 四国
  • 東国
  • 山陰道
  • 東山道

の各地で、ほとんど同時に義兵が挙がっております」

「京都には、もともと十分な武将が一人もおりません」

「細川頼之と赤松則祐は、現在、山名時氏と対陣し、戦いの最中です」

「自国を離れ、京都へ援軍を送ることはできないでしょう」

「土岐・佐々木氏も仁木義長と戦い、両陣が向かい合っているため、上洛できません」

「京都を守る兵も、救援へ来る軍もない時です」

「急いで和田・楠木氏へ、

『清氏へ協力せよ』

と命じてください」

「清氏が先頭に立ち、一日のうちに京都を落とします」

「正月以前に、南朝天皇の京都還幸を実現いたします」


楠木正儀の慎重論

南朝天皇は、

「もっともな提案である」

と思った。

楠木正儀を召し、

「清氏の意見を、どう思うか」

と尋ねた。

正儀は、しばらく考えて答えた。

「尊氏が正月16日の戦いへ敗れ、九州へ落ちて以来、足利方が京都を失ったことは、すでに五度に及びます」

「それでも天下の武士には、南朝天皇を戴こうとする者が少ないため、官軍は京都へ長くとどまれませんでした」


京都を落とすだけなら難しくない

「一時的に京都を落とすことなら、清氏の力を借りるまでもありません」

「正儀一人の軍勢でも、容易でしょう」

「問題は、敵が引き返して反撃した時です」

「どの国が官軍を助けるでしょうか」


再反攻を受ける危険

「退くことを恥じ、京都で戦うならば、

  • 四国・中国の足利軍が兵船で背後を襲い
  • 美濃・尾張・越前・加賀勢が宇治・勢多から攻め寄せる

でしょう」

「その時、天下を再び足利方へ奪われることは、手のひらの中にあるように明らかです」


勅命には従う

「ただし私は、知恵も才能も乏しい者です」

「公議を自分の意見だけで妨げるべきではありません」

「最終的には、どのような勅命にも従います」


公卿たちは京都帰還を望む

天皇をはじめ、皇族・后妃・公卿・武官たちは、住み慣れた京都を懐かしく思っていた。

後の困難を考えず、

「一夜だけであっても、京都の宮中で旅寝をしたい」

「その後は、その一夜の夢を思い出して暮らせる」

と語った。

公卿の意見は一致した。

翌年から三年間は北の方角がふさがるとされていた。

「節分前に京都の足利軍を追い落とし、天皇の還幸を実現する」

と決め、軍勢を招集した。


307. 義詮、京都を失い近江へ退く

南朝軍の出陣

南朝方では、

  • 公家大将に二条殿・四条隆俊
  • 武家大将に石塔頼房・細川清氏
  • 細川頼利
  • 和田・楠木氏
  • 湯浅・山本・恩地・贄川氏

らが立った。

軍勢二千騎余りは12月3日、住吉・天王寺へ集まった。

細川氏春は淡路勢を率い、兵船八十艘余りで堺へ着いた。

赤松範実は、

「摂津国兵庫から出発し、山崎へ攻める」

と連絡した。


京都の人々が避難を始める

京都では、

  • 財宝を鞍馬・高雄へ運び
  • 蔀や引き戸を外して持ち去る

者が続いた。

京都・白河は大騒動となった。


義詮方四千騎

義詮は2日から東寺へ陣を置き、軍勢を調べた。

直属・外様合わせて四千騎余りだった。

「敵より味方の方が多い」

「京都の外で防戦しよう」

と決めた。


各方面の防備

佐々木高秀を摂津へ送り、五百騎余りで忍常寺へ陣を置かせた。

摂津は父・道誉の支配国だったため、国内勢を集め、南朝軍を見下ろして待った。

今川伊予守には三河・遠江勢七百騎余りをつけ、山崎へ送った。

吉良氏・宇都宮氏・黒田氏を大渡へ置いた。

そのほか千騎余りを、

  • 鳥羽
  • 伏見
  • 竹田

へ配置した。

義詮直属千騎余りは東寺へ立てこもった。


清氏の作戦

12月7日、南朝軍は川を渡り、軍議を行った。

清氏は言った。

「京都軍の人数も、兵の気持ちも、すべて知り尽くしております」

「この戦いでは、私の言うとおりになさってください」


佐々木高秀は戦わないと読む

「清氏が後陣となって山崎へ進みます」

「忍常寺の佐々木高秀は、何千騎いても矢を一本も射ないでしょう」

「山崎を守る今川伊予守も、一戦もしないでしょう」


徒歩兵による防御

「京都市中で戦いとなったならば、大和・河内・和泉・紀伊の官軍は、全員徒歩となります」

「一面に盾を並べ、盾の陰へ槍・長刀の兵を五、六百人ずつ置きます」

「敵が騎馬で攻めれば、

  • 馬の脇腹

を突き、次々と跳ね落とします」

「一歩も進まず、一歩も退かない姿を見せれば、敵は二度と攻め込めません」


義詮を追撃する

「その時、

  • 石塔頼房
  • 赤松範実
  • 清氏

が一手となり、敵中央を突破します」

「義詮を見つけさえすれば、どこまででも追いましょう」

「天下の決着は、一度に定まります」

諸将は、

「まことにもっともである」

と賛成した。

南朝軍は中島を越え、京都へ進んだ。


清氏の予言どおりとなる

忍常寺の麓を通る時、南朝軍は、

「高秀は現職の侍所である」

「甥二人も摂津で楠木軍へ討たれている」

「ここで以前の恥をすすぐため、激しく戦うだろう」

と覚悟していた。

しかし高秀は、清氏の勢いに圧倒されたのだろうか。

矢を一本も射ず、南朝軍を通した。


今川氏も退く

「それならば山崎で戦いが起こる」

と思った。

しかし今川伊予守も、

「勝てない」

と考えたのか、一戦もしないまま鳥羽秋山へ退いた。

ほかの陣の兵も、敵が近づく前から逃げ支度を始めた。


義詮、近江へ退く

義詮は、

「このままでは、まともな戦いにならない」

「いったん京都を離れ、東国・北国の軍勢を待とう」

と判断した。

持明院統の天皇を守り、12月8日の夜明け前、

  • 苦集滅道
  • 勢多

を通って、近江国武佐寺へ退いた。


家臣は君主を支え、また倒す

古い言葉に、

君主は舟、臣下は水である。
水は舟を浮かべるが、舟を転覆させることもある。
臣下は君主を守るが、君主を倒すこともある。

とある。

一昨年の春、清氏は幕府執事として義詮を支えた。

今年の冬、清氏は敵となり、義詮を京都から追い落とした。

魏徴が唐太宗を諫めた『貞観政要』の言葉が、そのとおりだと思い知らされた。


南朝軍が京都へ入る

同日の夕方、南朝軍は京都へ入り、義詮の御所を焼き払った。

予想に反し市街戦が起こらなかったため、

  • 逃げる足利軍
  • 入京する南朝軍

の双方とも、大きな略奪をしなかった。

京都・白河は、それまでより静かにさえなった。


道誉の風流な退去準備

佐々木道誉は京都を去る時、

「自分の屋敷には、必ず有力な敵将が入るだろう」

と考えた。

屋敷を美しく整えた。

六間の会所には美しい畳を並べ、

  • 本尊
  • 掛け絵
  • 花瓶
  • 香炉
  • 茶釜

まで置いた。

書院には、

  • 中国の書家・義之の草書
  • 韓愈の文集

を用意した。

寝室には、

  • 沈香の枕
  • 緞子の夜具

を置いた。


酒肴を残す

十二間の遠侍には、

  • 白鳥

を三列へ掛けた。

三石ほど入る大きな酒樽を満たした。

遁世者二人を残し、

「誰であっても、この屋敷へ入った者へ酒を勧めよ」

と細かく命じた。


楠木正儀が屋敷へ入る

楠木正儀が最初に入った。

遁世者二人は出迎え、

「この屋敷へお入りになるだろうと思っておりました」

「一献を差し上げるよう、道誉禅門から命じられております」

と挨拶した。

道誉は清氏の宿敵だったため、正儀は初め、

「屋敷を壊し、焼き払おう」

と思っていた。

しかし道誉の心遣いへ感動し、やめた。

庭の木一本、客殿の畳一枚も損なわなかった。


正儀から道誉への返礼

正儀は遠侍の酒肴を、以前よりさらに立派に整えた。

寝室へは、

  • 秘蔵の鎧
  • 白太刀一振り

を置いた。

家臣二人を残し、

「道誉への返礼とせよ」

と命じ、京都を離れた。

人々は、

「道誉の振る舞いは情け深く、風流である」

と感心した。

一方、

「古い博奕打ちに出し抜かれ、楠木は鎧と太刀まで取られた」

と笑う者も多かった。


308. 南朝軍、京都を維持できず退去する

南朝方は、

「京都の敵を追い落とせば、元弘の乱の時のように、天下の武士が次々と足利方を離れ、南朝へ従う」

と期待した。

しかし予想は外れた。

新たに南朝へ参る武士は一人もいなかった。


各地の南朝方は動けない

南朝方には、

  • 九州の菊池氏
  • 伊予の土居・得能氏
  • 周防の大内氏
  • 越中の桃井氏
  • 新田一族

などがいた。

しかし、

  • 道をふさがれ
  • 勢力が足りず

一人も京都へ上れなかった。


味方が次々と敗れる

伊勢の仁木義長は、土岐氏の向城へ攻めかかって敗れ、城へ引き返した。

仁木頼夏は丹波で仁木三郎へ敗れ、京都へ戻った。

山名時氏は兵を休めるため、美作から伯耆へ帰った。

赤松範実も養父・則祐から説得され、播磨へ帰った。

足利方の各地の将軍は、勢いづかない者がいなかった。


足利方の反撃軍

越前から斯波氏の子・左衛門佐ら三千騎余りが、近江武佐寺へ駆けつけた。

佐々木高秀・小原氏は昼間に京都を通り抜け、道誉へ合流した。

道誉軍は七百騎余りとなり、野路・篠原へ陣を置いた。

土岐桔梗一揆五百騎余りも、伊勢の仁木義長包囲軍から離れ、鈴鹿山を越えて合流した。

そのほか、

  • 佐々木崇永
  • 今川伊予守
  • 宇都宮氏

など合わせて一万騎余りが集まった。

12月24日に武佐寺を出発し、26日には先陣が勢多へ着いた。


各街道から京都へ迫る

丹波路からは仁木三郎が、山陰道勢七百騎余りを率して進んだ。

播磨路からは赤松世貞・則祐が千騎余りで兵庫へ着いた。

さらに赤松氏範へ五百騎余りをつけ、船で堺・天王寺へ向かわせた。

その目的は、

  • 南朝天皇を捕らえ
  • 楠木軍の退路を断つ

ことだった。


南朝軍の撤退

南朝軍は初め、

「京都で最後まで戦おう」

と話していた。

しかし、

「四方の足利軍は雲霞のような大軍である」

と報告された。

そこで、

「せっかく手へ入れた天下を、一度の戦いで失ってはならない」

「まず南方へ退き、

  • 四国
  • 西国
  • 北陸
  • 信濃
  • 山名
  • 仁木

へ大将を送り、再び京都を攻めよう」

と決めた。

12月26日の夕方、南朝軍は宇治を通り、天王寺・住吉へ退いた。

29日、義詮は京都へ戻った。


309. 新帝の近江からの還幸と、細川清氏の四国渡航

京都奪回の知らせ

持明院統の天皇は、なお近江国武佐寺へいた。

京都の戦いを心配していた。

康安元年12月27日、義詮から早馬が届いた。

「京都の敵を無事に追い落としました」

「急いで還幸なさってください」

天皇をはじめ、公卿・家臣・下人まで、非常に喜んだ。


東坂本で年を越す

翌朝、天皇は出発し、まず比叡山東坂本へ行幸した。

そこで年を越した。

志賀浦は長く荒れていた。

それでも昔からの花園は、

「今年こそ春が来る」

と待っているようだった。


京都へ戻れない事情

公卿たちは、

「一日も早く京都へ戻りたい」

と願った。

しかし前年12月8日に京都を去った時、すでに里内裏は荒れていた。

その後、

  • 格子
  • 御簾

まで破損・紛失していた。

「修理した後に還幸するべきだ」

として、翌年春の終わりまで東坂本へ滞在した。


幕府へ修理を命じる

近ごろは小さなことでさえ、朝廷だけでは実行できなかった。

内裏修理も幕府へ命じられた。

幕府は引き受けたが、いつ完成するか分からなかった。

「いつまでも都の外へ住むことはできない」

として、3月13日、西園寺家の旧邸へ還幸した。


荒れた西園寺邸

西園寺邸は、かつて后妃が遊宴を行い、天皇が訪れた場所だった。

  • 美しい楼閣
  • 妙音堂
  • 法水院

があった。

しかし年月と戦乱によって荒れ果て、昔の姿はなかった。

松風は雨音のように響き、門前の柳は糸を乱したように揺れた。

隠者の住まいのように、物寂しかった。


里内裏への還幸

西園寺邸で春を過ごす間に、諸寮の修理が一応整った。

4月19日、天皇は元の里内裏へ還幸した。

公卿の行列に特別な華やかさはなかった。

しかし辻々を警護する武士は、立派な装備で目を輝かせた。


清氏への期待が外れる

南朝では、

「細川清氏は近年、幕府執事として数万の兵を従えた人物であり、自身も無双の勇士である」

「その清氏が南朝へ降伏したことは、天皇の徳が天意へかなう瑞兆である」

「天下回復は清氏の武徳によって実現する」

と期待した。

清氏には総大将の地位が与えられた。


誰も清氏へ集まらない

ところが期待は外れた。

前年冬、清氏が南朝軍とともに義詮を京都から追い落とし、一時京都へ勢力を振るった時にも、清氏へ新たに集まる兵はいなかった。

南朝軍が京都を退いた後、清氏は河内へいた。

しかし昔の関係を慕い、訪ねてくる者もほとんどなかった。

その姿は、古びて使えなくなった筆へたとえられた、老将軍のようだった。


四国へ渡る

清氏は途方に暮れた。

「四国へ渡れば、以前従っていた武士たちが集まるかもしれない」

と考えた。

正月14日、小舟十七艘へ乗り、阿波国へ渡った。


310. 大将を選ぶ道――漢楚が義帝を立てた故事

大将には人を選ばなければならない

大将を立てるには、守るべき道理がある。

適切な人物を大将としなければ、戦いへ勝つことは難しい。

天下が定まり、文によって世を治める時は、

  • 知恵を第一とし
  • 仁義を根本とする。

そのため、以前敵だった人物を許し、政治を任せ、大官へつけることもある。


平時には旧敵も用いる

魏徴は、もともと唐太宗の敵方にいた人物だった。

しかし太宗は、その才能を認めて用いた。

管仲も、斉桓公の政敵である子糾へ仕えた人物だった。

桓公は管仲を許し、宰相として重く用いた。


戦乱中は降伏者を大将としない

しかし天下がまだ定まらず、武力によって国を取ろうとする時は違う。

功績ある者を賞し、罪ある者を罰する必要がある。

どれほど有力な人物であっても、降伏者を総大将にはしない。


章邯・項伯の例

秦の左将軍・章邯は四十万騎を率して項羽へ降伏した。

しかし項羽は、章邯へ総大将の印を与えなかった。

項伯は鴻門の会で劉邦を助けた。

しかし漢へ従った後、諸侯として国を与えられなかった。


南朝が大将へ任じた降伏者

南朝に仕える公卿たちが、このような先例を知らないはずはない。

それなのに南朝は、

  • 足利直義へ大将の号を与え、兄・尊氏を討たせようとしたが失敗した
  • 足利直冬へ大将の号を与え、父・尊氏を討たせようとしたが失敗した
  • 仁木義長へ大将を任せ、天下を覆そうとしたが失敗した
  • 細川清氏を大将とし、代々の主君・義詮を滅ぼそうとしたが失敗した。

道理へ背く大将

これらはすべて、道理へ合わない人物を大将としたためではないか。

  • 父子・兄弟の道へ背き
  • 主従の義を破った。

そのため天罰を受けたのではないか。


陳勝・項梁の失敗

昔、秦始皇帝の天下を奪おうとした陳勝は、自ら大将の印を帯び、大沢から挙兵した。

しかし間もなく秦将に討たれた。

次に項梁も自ら大将を名乗り、楚で挙兵した。

しかし章邯へ討たれた。


范増の意見

項羽・劉邦らは、

「誰を大将として秦を攻めるべきか」

と考えた。

七十三歳の老臣・范増が進み出た。

「天地の間で国が興り、滅びることには、必ず道理があります」

「楚は三戸だけの小国となっても、秦を滅ぼす者は必ず楚王の子孫でしょう」


楚懐王を秦が殺した罪

「秦始皇帝が六国を滅ぼした時、楚懐王は秦へ逆らいませんでした」

「それにもかかわらず、始皇帝は理由なく懐王を殺し、その領地を奪いました」

「罪は秦へあり、善は楚へ残っています」

「秦を討つならば、楚懐王の子孫を探し、君主として立て、全軍がその命へ従うべきです」


羊飼いの孫心を義帝とする

項羽・劉邦は、

「もっともである」

と思った。

楚懐王の子孫を捜すと、孫のという人物が、民間へ落ち、羊を飼って暮らしていた。

彼を捜し出し、義帝とした。

項羽も劉邦も、同じように命へ従った。

その後、漢楚軍は各地で秦軍を破り、秦は滅亡した。


新田義宗・脇屋義治を用いるべきだった

この故事から考えれば、

  • 新田義宗
  • 脇屋義治

を南朝の大将とするべきだった。

父の新田義貞と脇屋義助は、後醍醐天皇を支えた重臣であり、その武功は天下に並ぶものがなかった。

義宗・義治は越後国へいた。

武勇は父に劣らず、知恵も世間へ恥じない人物だった。


旧功ある家を立てるべき

この二人を天皇の前へ召し、総大将へ任じれば、

  • 新田家を軽んじる者はおらず
  • 旧功を継いで従う者も多かった

だろう。

このような人物を差し置き、不義の降伏者を大将としていては、南朝天皇が天下を取り戻すことは、千に一つもない。

一時、戦いへ勝つことがあっても、天下は再びほかの者の物となるだろう。


311. 尾張左衛門佐の出家遁世

新しい執事を選ぶ

細川清氏が敵となった後、京都には幕府執事がいなくなった。

政務が進まないため、

「誰を執事へ置くべきか」

と評議された。

当時、佐々木道誉が特に権勢を得ていた。

その娘婿である尾張大夫入道の子・左衛門佐について、周囲の人々は追従して言った。

「左衛門佐殿以上の人物はいないでしょう」

義詮も異論なく、内々に左衛門佐を執事へ決めた。


父が長男を妨げる

しかし父の尾張大夫入道は、後妻の子である三男・治部大輔義将を特に愛していた。

前妻の子である兄二人が、世に出ることを望んでいなかった。

左衛門佐が執事となると聞くと、

  • 欠点を挙げ
  • 罪を作り
  • 執事の器ではない

と義詮へ訴えた。


三男を執事とする

義詮は他人の意見へ動かされやすい人物だった。

「子を知ることは、父には及ばないという」

「それならば後妻の三男を表向きの執事とし、幼い間は父に政務を行わせよう」

と決めた。


左衛門佐が出家する

左衛門佐は、この話を聞いた。

父を恨んだのか。

世の中を嫌になったのか。

ひそかに出家し、行き先も告げず姿を消した。

従っていた家臣二百七十人も、同時に髻を切り、それぞれ各地へ去った。


最後まで道心を失わない

父の意思へ逆らわず、自分自身の悟りを求め、出家遁世したことは、まれな発心だった。

ただ当時の人々は、

  • 昨日は髻を切って立派な僧に見えた者が
  • 今日は頭を包み、恥知らずに俗人として振る舞う

ということが多かった。

そのため、

「この遁世も、最後まで続かないのではないか」

と疑われた。

しかし左衛門佐は、最後まで仏道の心を失わず、出家者として生涯を終えた。

まことに尊いことだった。


312. 施眼行を退いた舎利弗、一角仙人、志賀寺上人

煩悩を断つ難しさ

煩悩の根を切り、迷いへつながる絆を離れることは、昔も今も非常に難しい。

出家遁世した左衛門佐の心が、どれほど尊いものであったかを示すため、『太平記』は三つの物語を語る。


舎利弗の布施行

昔、インドに身子、すなわち舎利弗という修行者がいた。

仏果を得るため、六波羅蜜の修行を行った。

五つの波羅蜜を成就し、最後に布施の行を修めようとした。


財産と家族を与える

隣国から一人の婆羅門が来て、財宝を求めた。

舎利弗は、

  • 倉の財産
  • 着ていた衣服

を残らず与えた。

次に家族と家を求められると、それも与えた。

次に体の毛を求められると、一本残らず抜いて与えた。


両目を求められる

婆羅門は、なお満足しなかった。

「お前の両目をえぐり、私へ与えよ」

と求めた。

舎利弗は、

「目を失い、盲人として暗闇をさまようことになる」

と悲しんだ。

しかし布施行を途中で終わらせることを惜しみ、自ら両目を抜き、婆羅門へ渡した。


怒りによって修行を失う

婆羅門は目を手へ取り、言った。

「人の目は、抜いてしまえば汚らしく、何の役にも立たない」

地面へ投げ、踏みにじった。

舎利弗は怒った。

「人の体で目ほど大切なものはない」

「役にも立たない目を求め、最後には地面へ捨てるとは、あまりにも無念だ」

この一念の怒りによって、悟りへ向かう心から退いた。

長年積んだ六波羅蜜の功徳は一時に崩れ、破戒の修行者となった。


一角仙人の誕生

昔、インドの波羅奈国に一人の仙人がいた。

その父となる修行者が小便をしていた時、鹿が交尾しているのを見た。

欲情し、精を漏らした。

精が掛かった草を雌鹿が食べ、子を産んだ。

子は人間の姿をしていたが、額へ一本の角があった。

人々は一角仙人と呼んだ。


竜神を閉じ込める

一角仙人は修行を積み、強い神通力を得た。

ある時、雨で濡れた山道を歩き、滑って転んだ。

仙人は腹を立てた。

「竜王が雨を降らせたため、自分が転んだ」

「すべての竜王を捕らえ、閉じ込めよう」

海や世界中の大小の竜を捕らえ、岩屋へ閉じ込めた。


天下が旱魃となる

雨を降らせる竜神がいなくなった。

春から夏の終わりまで、天下は大旱魃となった。

山田の苗は、そのまま枯れた。

天皇は民の苦しみを聞き、

「どうすれば一角仙人の神通力を失わせ、竜神を解放できるか」

と尋ねた。


美女によって仙力を失わせる

知恵ある臣下が答えた。

「仙人は完全に欲を断っていません」

「心が枯木や死灰のようになっていないならば、美しい女性への愛着もあるでしょう」

「宮中第一の美女を庵へ送り、一夜をともにさせれば、仙力を失うはずです」

人々は賛成した。

三千人の宮女の中で最も美しい扇陀女へ、五百人の美女をつけ、一角仙人の庵へ送った。


一角仙人の死

扇陀女は華やかな宮殿を出て、粗末な草庵へ入った。

勅命なので断れなかった。

仙人も岩や木ではなかった。

美しい后へ心を奪われた。

仙道の修行者は、わずかな気だけで生きることができても、性欲へ染まれば仙術を失う。

一角仙人も、一度后へ心を落とすと、戒律も神通力も失った。

仙人の体は普通の肉体へ戻り、病み衰え、間もなく死んだ。

竜神は岩屋から出て天へ上り、再び季節どおり雨を降らせた。

農民は耕作を再開した。

この一角仙人は、釈迦が前世で修行していた姿であり、扇陀女は後の耶輸陀羅であるとされた。


志賀寺上人

日本には、志賀寺上人という修行と学問に優れた聖がいた。

早く迷いの世界を離れ、極楽浄土へ生まれたいと願っていた。

富貴な者を見ても、

「夢の中の楽しみだ」

と笑った。

美しい女性を見ても、

「迷いの中で姿へ執着している」

と哀れんだ。

雲を隣とする柴の庵で暮らした。

自ら植えた庭の松も、いつしか秋風を受ける高さとなった。


京極御息所との出会い

ある時、上人は庵を出て杖をつき、琵琶湖を見ながら水想観を行っていた。

そこへ京極御息所が、志賀の花見から帰る車で通った。

車の物見窓が上げられ、上人と御息所の目が合った。

その瞬間、上人の心は迷い、魂が浮かれた。


修行へ戻れない

上人は車を遠くまで見送った。

庵へ戻り、本尊へ向かっても、観想の中には御息所の姿だけが現れた。

念仏を唱えても、大きなため息しか出なかった。

山の雲を見れば、心はさらに迷った。

月を眺めれば、忘れられない思いは深くなった。


御息所の御所へ向かう

「この妄念を抱いたまま死ねば、来世の障りとなる」

「自分の思いを一度だけ御息所へ伝え、心安らかに死にたい」

上人は毛皮の衣を着て、鳩の飾りのある杖をつき、泣きながら御息所の御所へ向かった。

蹴鞠の庭の木の下へ、一日一夜立ち続けた。


御息所が上人を召す

周囲の者は、

「修行者か物乞いだろう」

として気にしなかった。

しかし御息所は御簾の内から見た。

「志賀の花見の帰りに目を合わせた聖ではないか」

「私のために迷うならば、その罪は誰へ残るだろう」

「一言だけでも情けを掛ければ、心が慰められるかもしれない」

御息所は、

「上人、こちらへ」

と召した。


二人の歌

上人は震えながら御簾前へひざまずき、何も言えず、ただ泣いた。

御息所は、その思いが偽りでないことを、哀れにも恐ろしくも思った。

雪のように白い手を、御簾から少し差し出した。

上人は手へ取りつき、歌を詠んだ。

新春の初子の日に取る玉箒のように、
あなたの手を取っただけで、私の命は揺らいでいます。

御息所は、すぐ返した。

極楽の蓮の台へ、私を導いてください。
揺らいでいる、あなたの命よ。

その言葉によって、上人の心は慰められた。


遁世の難しさ

このように、

  • 強い信仰を持つ聖人
  • 長年修行した高僧

でさえ、発心と修行を最後まで保つことは難しい。

それなのに、若く、家も豊かだった左衛門佐が、世の絆を離れ、最後まで遁世者として生きた心は、まことに尊いことだった。


313. 畠山道誓の反乱――楊国忠と安禄山の故事

伊豆の三城

畠山道誓と弟の義深・式部大輔らは、五百騎余りで伊豆国へ逃れた。

  • 三津城
  • 金山城
  • 修禅寺城

の三か所へ立てこもった。

鎌倉の足利基氏は、まず平一揆三百騎余りを送った。


寄せ手同士の争い

平一揆は伊豆国府へ着き、周辺の荘園から兵糧や人夫を徴発した。

ところが葛山氏と平一揆の間で所領争いが起こり、今にも戦いとなりそうだった。


畠山方の夜襲

畠山方の遊佐・神保・杉原氏は、

「敵の争いへつけ込む好機だ」

と考えた。

五百騎余りを三手へ分け、3月27日の夜中、伊豆国府へ夜襲した。

葛山軍は、

「平一揆が畠山と組み、自分たちを討とうとしている」

と思った。

平一揆は、

「葛山が畠山方となり、自分たちを討とうとしている」

と思った。

互いに疑い、矢を十分に射なかった。

『太平記』では三万騎とされる寄せ手は、戦わず鎌倉へ逃げた。

子どもに笑われても仕方のない敗北だった。


関東八か国の大軍

基氏は怒り、

  • 新田氏
  • 田中氏

を大将として、武蔵・相模・伊豆・駿河・上野・下野・上総・下総の軍勢を送った。

『太平記』によれば、二十万騎余りだった。


誰も畠山へ味方しない

畠山道誓は十年余り、基氏を妹婿とし、栄華を極めた。

執事として関東を支配し、八か国の武士が、

「命へ代わって従う」

と近づいてきた。

道誓は、それを自分の仁徳だと思っていた。

「自分が旗を掲げれば、四千、五千騎は集まる」

と頼りにした。

しかし予想は外れ、外様の兵は一騎も加わらなかった。

一方の大将として頼みにした狩野氏まで降伏した。

代々の家臣や、深い恩を与えた家臣も、日ごとに逃げた。


修禅寺城へ退く

大軍が再び向かうと聞くと、畠山軍は二つの城へ火を放ち、修禅寺城へ移った。

昨日までは大空を飛ぶ大鵬のように天下を見下ろしていた。

今日は轍へ残された魚が、わずかな水を求めるような姿だった。

道誓は、

「このような目へ遭うと知っていたならば、新田義興を無理に討たせなかったものを」

と後悔したという。

報いが早く来ることを、事前に知らなかったことは愚かだった。


楊国忠・安禄山との類似

『太平記』は、道誓が関東の軍を集め、南朝征討へ向かった企てを、中国の楊国忠・安禄山になぞらえる。

二人も天皇の権威を借り、最後には天下を奪おうとした。


玄宗皇帝と楊貴妃

唐の玄宗皇帝が即位した初め、天下は平穏だった。

しかし平和へ慣れ、驕りを慎まなくなった。

美女を好み、後宮三千人の女性を見ても満足しなかった。

皇后や妃が相次いで亡くなると、玄宗は深く悲しんだ。

臣下は、

「亡き后妃以上の美女はいないか」

と国中を捜した。


楊貴妃

弘農の楊玄琰の娘に、楊貴妃という美人がいた。

人間の女性とは思えないほど美しかった。

多くの王侯・貴族が結婚を望んだが、父母は許さず、深窓へ隠して育てた。

やがて玄宗の兄・寧王へ仕えることとなった。

玄宗は貴妃の美しさを聞き、高力士を送り、途中から奪い、後宮へ入れた。


玄宗の溺愛

玄宗は楊貴妃へ夢中となり、一時も離れなかった。

昼は同じ車で花を眺め、夜は同じ席で月を見て宴をした。

驪山の温泉宮では、貴妃の白い肌へ香油を塗った湯を掛ける姿を眺めた。

楊家の富貴は皇族を越え、門戸は光り輝いた。


楊国忠の出世

楊貴妃の一族に楊国忠がいた。

家柄は低く、田畑の中で育ち、

  • 学問もなく
  • 武芸もなく
  • 文官にも武官にも向かなかった。

しかし貴妃の親族であるため、すぐ大臣となった。

旧臣・安禄山は、自分の官位や権力が楊国忠へ越されたことを恨んだ。


吐蕃討伐の失敗

辺境の吐蕃が朝廷へ背いた。

「誰を討手とするか」

と評議された。

楊国忠は自分の武威を示そうとして、

「大将へ任じられれば、簡単に鎮めます」

と申し出た。

上将軍となり、五十万騎を率し、大荒峰へ陣を置いた。


兵を顧みない大将

本来、大将は、

  • 兵が食べる前に食事をせず
  • 兵が野宿するならば自分も屋根の下へ入らず
  • わずかな食事や酒も兵と分ける

べきである。

しかし楊国忠は、

  • 朝から酒へ酔い
  • 夜は美女へ囲まれ
  • 兵の飢えを知らず
  • 訴えを聞かず
  • 戦いを忘れた。

五十万騎の敗走

兵は疲れ、大将は怠けた。

吐蕃軍二十万騎が逆襲した。

楊国忠は臆病で、兵の心も一つではなかった。

一度も戦わず、五十万騎は川を渡り、五日路ほど逃げた。

広大な土地が吐蕃へ奪われた。


味方一万人を敵の首と偽る

楊国忠は都へ帰ろうとした。

しかし大将を願い出て出陣し、一度も戦わず戻ることを恐れた。

味方の中から、

  • 馬へ乗れない者
  • 武具を持たない者
  • 疲れた兵

一万人を選び、首を斬った。

「すべて吐蕃兵の首である」

と偽り、都へ持ち帰った。

罪なく殺された兵の親族は、何万人も悲しんだ。

しかし楊国忠を恐れ、天皇へ訴える者はいなかった。

楊国忠は、

「千里の敵地を平定した」

として、大領地まで与えられた。


安禄山の挙兵

世の中の人々は、楊国忠を滅ぼそうと考えた。

辺境にいた安禄山は、

「時が来た」

と喜んだ。

諸侯へ連絡し、兵へ礼を尽くした。

「楊国忠を討てとの宣旨を受けた」

と偽って兵を集めた。

楊国忠に殺された一万人の親族が、我先に加わった。

安禄山軍は、たちまち七十万騎となった。


長安へ進む

安禄山は、

  • 崔乾祐
  • 史思明

を将軍とし、都へ向かった。

道中の民家を荒らさず、城も攻めなかった。

人々は、安禄山が朝敵となって長安へ向かっているとは思わず、食物や飲み物を持って兵をねぎらった。


潼関の敗北

安禄山軍は長安から七十里ほどの潼関へ上り、旗を下ろして鬨の声を上げた。

玄宗は、その時、驪山宮で楊貴妃に霓裳羽衣の舞を舞わせ、楽しんでいた。

急を知らせる太鼓が雷のように鳴った。

玄宗は哥舒翰へ三十万騎をつけ、迎撃させた。

しかし官軍は山上から攻め落とされ、十万騎余りが川へ溺れた。


玄宗と楊貴妃の逃亡

哥舒翰は、

「何度戦っても勝てません」

「急いで蜀へ逃れてください」

と奏上した。

玄宗と楊貴妃は舞を終える間もなく、同じ車で都を離れた。

楊国忠をはじめ、皇族・百官は徒歩で泣きながら従った。


馬嵬で兵が道をふさぐ

一行が馬嵬の坡へ着いた時、官軍六万騎余りが道をふさいだ。

玄宗が理由を尋ねると、兵たちは武器を伏せ、ひざまずいて言った。

「この反乱によって天皇が都を離れたのは、楊国忠が驕り、罪のない人々を殺したためです」

「楊国忠を兵の中へ渡し、首を斬って、天下の怒りを鎮めてください」

「そうでなければ、安禄山軍へ殺されても、天皇の車を通しません」

背後から敵は迫っていた。

玄宗は、

「楊国忠へ死罪を与えよ」

と命じた。

兵は楊国忠を馬から引き落とし、武器で突き刺し、大声で笑った。


楊貴妃への死の要求

それでも兵は道を開かなかった。

「后妃の徳が正しくなければ、天下は静まりません」

「褒姒が周を乱し、西施が呉を傾けたことは、誰もが知っています」

「楊貴妃を死罪としなければ、我々は胸を裂き、天へ血を注ぎます」

玄宗は逃れられないと悟り、気を失うように車の中へ倒れた。

楊貴妃は玄宗の衣の下へ隠れた。

玄宗は貴妃を抱き、

「まず朕を殺した後、彼女を殺せ」

と嘆いた。

怒っていた兵たちも武器を捨て、地面へ倒れた。


楊貴妃の死

しかし一人の残酷な兵が、

「このままでは決着しない」

と、玄宗へ取りすがる楊貴妃の手を引き離した。

車の下へ引き落とし、馬の蹄へ掛けた。

玉の髪飾りは地面へ散り、白い肌は泥へまみれた。

玄宗は顔を上げられず、貴妃の最期を直接見なかった。

それがかえって、生涯消えない恨みとなった。


粛宗即位と安禄山の敗北

玄宗は蜀へ逃れた。

各地の将軍が大軍を率して集まった。

安禄山軍も、

「楊国忠を討つ軍ではなく、天下を奪おうとする軍だった」

と知られ、兵が離れ始めた。

玄宗は貴妃を失った悲しみから、政治へ心を向けられなかった。

臣下は第二皇子の粛宗を天皇へ立て、諸国の兵を集めた。

祖先の神霊まで軍勢の姿となって現れ、安禄山軍は敗れ、長安・洛陽は回復された。


玄宗の帰還と悲しみ

粛宗は玄宗を再び皇位へ戻そうとした。

玄宗は楊貴妃の死んだ馬嵬の道を見たいと思い、帰還した。

柳の枝は、かつて貴妃の乱れ髪が枕へ掛かった姿に見えた。

草の露は、地面へ落ちた玉飾りのようだった。

玄宗は涙を止められなかった。

長安の華清宮へ戻っても、

  • 楼閣
  • 蓮の花
  • 春の桃や李
  • 秋の桐の葉
  • 雨音
  • 夜の鐘
  • 寝具

のすべてが、楊貴妃を思い出させた。

玄宗は皇位を粛宗へ譲り、涙の中で余生を送った。


道士が蓬莱へ向かう

臨邛の道士・楊通幽が申し出た。

「私は仙術を得ています」

「楊貴妃のおられる場所を捜して参ります」

道士は天へ上り、地へ入り、

  • 青空の果て
  • 黄泉の底

まで捜したが、貴妃はいなかった。

遥かな海上へ飛び、七万里隔たった所へ、

  • 蓬莱
  • 方丈
  • 瀛州

の三神山を見つけた。

巨大な亀が島を背負い、五つの城と十二の楼閣があった。

宮門には、

玉妃太真院

と書かれていた。


仙界の楊貴妃

門をたたくと、二人の童女が現れた。

道士は、

「唐の天皇の使者として、楊貴妃を訪ねてきました」

と答えた。

しばらくして、道士は宮殿へ通された。

楊貴妃は眠りから覚め、髪も整えない姿で現れた。

それでも美しさは比べるものがなかった。

道士は玄宗の深い悲しみを語った。

貴妃は涙を流し、

「昭陽殿での愛は絶え、蓬莱宮では日月だけが長い」

と嘆いた。


玉の鈿と秘密の誓い

道士は帰る時、

「訪ねた証拠となる物をください」

と願った。

貴妃は玉の鈿を半分に割り、渡した。

道士は、

「このような宝物は人間界にもあります」

「天皇と貴妃だけが知る秘密を教えてください」

と願った。

貴妃は答えた。

「七月七日の夜、長生殿に人がいなかった時、牽牛と織女の契りをうらやみ、天皇と二人で誓いました」

天にあっては、翼を並べて飛ぶ鳥となろう。
地にあっては、枝を連ねる木となろう。

「このことは、天皇と私だけが知っています」


玄宗の死

道士は、

  • 玉の鈿の半分
  • 秘密の誓い

を持ち帰り、玄宗へ奏上した。

玄宗は悲しみに耐えられず、伏して泣いた。

その年の夏、未央宮前殿で亡くなった。

一度心へ起こした執着は、数百回の生へ続き、深い思いは無限の時間を人へ縛るという。

玄宗と楊貴妃の契りは、死後も執着を離れられない、罪深いものだった。


畠山道誓への批判

天宝年間の乱は、

  • 安禄山
  • 楊国忠

が皇帝の威を借り、功績を誇り、互いを嫉妬したことから始まった。

今回の関東の争いも、畠山道誓の陰謀から起こった。

古代中国の乱と、よく似ている。

天は驕る者を嫌い、満ち過ぎたものを欠けさせる。

天の罰から逃れられる者はいない。

道誓の運命も、長く頼れるものではないと見られた。