峯村部材店主

南方紀伝 巻一――元弘の乱から宗良親王の旅まで


巻一は、後醍醐天皇の倒幕計画が明らかになる元弘元年(1331年)から、南朝勢力が常陸の諸城で追い詰められる興国五年/康永三年(1344年)ごろまでを扱います。

鎌倉幕府の滅亡、建武政権、護良親王の最期、足利尊氏の離反、南北朝の分立、北畠顕家・新田義貞・後醍醐天皇の死、北畠親房の書状、宗良親王の旅などが記されています。

このページの18節は、写本にもともと付けられていた章題ではありません。3ページ前後に分けて行った復刻作業の区分をもとに、読者が内容を理解しやすいよう公開用の見出しを付けたものです。

巻一の読み方

  • 各節の「詳細現代語訳」が、情報を可能な限り省略しない主本文です。
  • 「流れが分かる現代語訳」では、人物関係と事件の進行を理解しやすく説明します。
  • 写本翻刻・校訂本文・活字本文・異同・判読保留・作業記録は、各節の折りたたみ欄から確認できます。
  • 目次の節名を押すと、その節へ直接移動します。
  • 各節末尾の「巻一目次へ戻る」から、目次へ戻れます。

巻一目次

  1. 元弘元年の倒幕計画――僧侶の逮捕と笠置への動き
  2. 笠置山の陥落――後醍醐天皇の捕縛と隠岐配流
  3. 隠岐脱出――足利高氏の転向と鎌倉幕府の滅亡
  4. 建武政権の成立――恩賞と護良親王への告発
  5. 護良親王の最期――中先代の乱と足利尊氏の東下
  6. 尊氏追討――箱根・竹ノ下の敗北と北畠顕家の反撃
  7. 尊氏の再起――九州からの東上と湊川合戦
  8. 南北朝の分立――光明天皇践祚と後醍醐天皇の吉野移動
  9. 金ヶ崎城の悲劇――北畠顕家の第二次西征と戦死
  10. 新田義貞の戦死――南朝皇子たちの海上分散
  11. 後醍醐天皇崩御――後村上天皇践祚と北畠親房の著述
  12. 東国へ広がる南朝――宗良親王・宇津峰宮と常陸戦線
  13. 常陸諸城の攻防――高師冬の進攻と小田治久の離反
  14. 北畠親房書状①――九か月待っても援軍が来ない
  15. 北畠親房書状②――皇統論と足利尊氏への批判
  16. 北畠親房書状③――結城氏へ決断を迫る最後の訴え
  17. 宗良親王の旅①――遠江・駿河と富士山の和歌
  18. 宗良親王の旅②――信濃・越中への道と巻末の編纂記録

1.元弘元年の倒幕計画――僧侶の逮捕と笠置への動き

対象年代:元弘元年(1331年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-2/明治期活字本PDF第1~2画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

写本翻刻、和歌、人名、日付には再確認を要する箇所があります。確定できない文字や語句は、無理に一つへ決めず、判読保留として示しています。

この節の概要

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために進めていた計画が、幕府側へ知られ始めます。

その直前の京都では、花見や舞楽が行われる一方、比叡山の僧侶同士の争い、大地震、海岸の隆起、富士山頂の崩壊など、さまざまな事件や異変が記録されています。

幕府は、後醍醐天皇の祈禱に関わったとされた円観・文観・忠円や、天皇の側近日野俊基らを捕らえます。さらに、後醍醐天皇を流罪にし、大塔宮を討つという方針まで示されました。

身の危険が迫った後醍醐天皇は京都を出て、奈良方面を経て笠置山へ向かいます。ここから、鎌倉幕府との実際の戦いである元弘の乱が始まります。

情報を省略しない詳細現代語訳

『南方紀伝』の始まり

『南方紀伝』上巻は、後醍醐天皇の名が尊治であったことを記した後、元弘元年の記事から始まる。

この年の春、弾正尹や大納言を務めていた花山院師賢は出家し、北長尾山にある山荘へ入った。

師賢は、春宮大夫師兼へ和歌を送った。歌は、世を捨てて山へ入った後も、なお浮世への迷いや悲しみを捨てきれない心を詠んだものだった。

師兼も返歌を送り、これほど嫌になった世の中であっても、簡単には捨てられず、なお迷ってしまうという気持ちを返した。

二首の和歌は、後に大きな政治事件へ巻き込まれていく師賢の不安な心境を、巻頭に置く役割を果たしている。

比叡山で僧侶同士が戦う

二月、比叡山延暦寺の東塔北谷に属する僧侶たちの間で争いが起こり、ついには合戦となった。

延暦寺は大きな武力を持つ宗教勢力であり、内部の対立が京都の政治や治安にも影響を与える存在だった。

後醍醐天皇の北山花見

三月、後醍醐天皇は北山へ花見に出かけた。

この行幸では管弦の演奏が行われ、北畠親房の子である北畠顕家が「陵王」という舞を舞った。

顕家はこの時十四歳だった。天皇は顕家の舞を喜び、褒美として衣を与えた。

北畠顕家は、この数年後、後醍醐天皇のために奥州から大軍を率いて上洛することになる。ここではまだ、宮廷で舞を披露する少年として登場している。

幕府の使者が京都へ来る

五月十一日、鎌倉幕府から二人の使者が京都へ到着し、六波羅探題へ入った。

活字本には、二階堂下野判官と長井遠江守に当たる人物が使者として上洛したと記されている。

幕府側は雑賀隼人佐を使いとして送り、円観上人・文観・忠円らの僧侶を捕らえさせた。

この僧侶たちは、後醍醐天皇のために鎌倉幕府を倒す祈禱を行ったと疑われていた。

六月八日、円観・文観・忠円らは関東へ送られた。

地震と海岸の隆起

七月二日、大地震が起こった。

紀伊国の千里浜では、海だった場所が陸地となり、その範囲は二十余町に及んだと記されている。

このころには、富士山の頂上が百余丈も崩れたという大地震の記事も置かれている。

『南方紀伝』は、政治事件だけではなく、地震や地形の変化なども年代順に記録している。

日野俊基が捕らえられる

幕府は、後醍醐天皇の側近である日野俊基も捕らえた。

写本では、俊基や三人の僧侶が捕らえられ、関東へ送られる流れとして記されている。

一方、明治期活字本には、「俊基以下をすべて処刑する」という意味に読める文章があり、写本と活字本で処置の表現が異なっている。

実際に日野俊基が処刑されるのは翌元弘二年であるため、活字本の文章には、事件の結果を先にまとめた可能性や、本文上の混乱が考えられる。

元弘への改元を幕府が認めない

八月九日、元号が元徳から元弘へ改められた。

朝廷は改元のことを鎌倉へ知らせたが、幕府では、改元の詔書はあるものの正式な改元記録がないとして評定を行った。

幕府は新しい元号「元弘」を使用せず、しばらく「元徳」の年号を使い続けたと記されている。

元号をめぐるこの対立は、朝廷と鎌倉幕府の関係がすでに深く悪化していたことを示している。

倒幕計画が発覚する

後醍醐天皇と大塔宮は、鎌倉幕府を倒すために兵を集めようとしていた。

天皇は日野具行や花山院師賢らに命じ、幕府を倒す計画を進めさせていた。

しかし計画は幕府側へ知られた。

鎌倉の北条高時はこれを聞いて大いに驚き、後醍醐天皇の側近や、計画に関わった僧侶を捕らえるよう命じた。

八月二十二日、幕府の使者が再び京都へ来た。

使者が伝えた方針は、後醍醐天皇を流罪にし、天皇の側近と大塔宮を処刑するという、きわめて厳しいものだった。

師賢が山荘を出る

花山院師賢は、長尾山の山荘を出て京都へ戻った。

師賢は、自分の行く先が嵐の中の山道のように定まらないことを嘆く和歌を詠んだ。

また、自分が山を出て迷いの多い世の中へ戻るのは、すべて後醍醐天皇のためであるという歌も記されている。

後醍醐天皇が笠置山へ向かう

八月二十四日の夜、後醍醐天皇は京都を離れた。

天皇は奈良方面へ向かい、その後、笠置山へ入った。

中宮は野宮へ移り、師賢ら天皇方の人々も笠置山へ向かった。

後醍醐天皇が笠置山へ入ったことで、秘密の倒幕計画は、幕府軍と直接戦う元弘の乱へ変わっていく。

流れが分かる現代語訳

1331年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒す計画を進めていた。

しかし、幕府は天皇の動きを疑い始めた。

幕府の使者は京都へ来て、天皇のために特別な祈禱をしたと疑われた円観・文観・忠円を捕らえた。天皇の側近である日野俊基も捕らえられた。

その一方、京都では後醍醐天皇の花見が行われ、十四歳の北畠顕家が舞を披露していた。華やかな宮廷行事の裏で、幕府と朝廷の対立が急速に深まっていたのである。

この年には大地震も起こり、紀伊国では海だった場所が陸地になり、富士山の頂上が大きく崩れたと記されている。

八月、元号は「元弘」に変わった。しかし鎌倉幕府は、この新しい元号を使わず、以前の「元徳」を使い続けた。

やがて、後醍醐天皇と大塔宮が兵を集め、幕府を倒そうとしていることが知られた。

幕府は、後醍醐天皇を流罪にし、大塔宮と天皇の側近を殺す方針を決めた。

危険を感じた後醍醐天皇は京都を脱出し、奈良方面を通って笠置山へ向かった。

ここから、鎌倉幕府を倒すための戦いである元弘の乱が本格的に始まる。

人物・用語・史実注記

花山院師賢

後醍醐天皇の側近として倒幕計画に関わった公家です。出家して山荘に入った後も、天皇のために再び行動しました。

北畠顕家

北畠親房の子です。この節では十四歳で陵王を舞う少年として登場しますが、後に南朝軍を率いる中心人物となります。

円観・文観・忠円

後醍醐天皇と関係の深い僧侶です。幕府を倒すための祈禱を行ったと疑われ、捕らえられて関東へ送られました。

日野俊基

後醍醐天皇の側近で、倒幕計画の中心人物の一人です。この節で捕らえられ、翌年に鎌倉で処刑されます。

大塔宮

後醍醐天皇の皇子、護良親王を指します。寺院勢力や武士へ働きかけ、倒幕運動を進めました。

六波羅探題

鎌倉幕府が京都に置いた出先機関です。朝廷や西国武士の監視、京都の治安維持を担当しました。

元号をめぐる対立

朝廷が元号を「元弘」に改めても、幕府がすぐには使用しなかったという記事は、元号を決める朝廷と、実際の政治権力を握る幕府との緊張を示しています。

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史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-2、全3ページ
  • 対象年代:元弘元年(1331年)
  • 明治期活字本:PDF第1画像左丁から第2画像右丁冒頭付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

写本は、巻頭の題記と後醍醐天皇の諱を記した後、元弘元年の記事へ入る。

春、花山院師賢が出家して山荘に籠もり、師兼へ和歌を贈る。続いて、比叡山東塔北谷の衆徒による合戦、後醍醐天皇の北山花見、北畠顕家の陵王舞を記す。

五月以後、東国から来た幕府の使者が、円観・文観・忠円らを捕らえ、関東へ送る。日野俊基も捕らえられる。

大地震、紀伊千里浜の陸地化、富士山頂崩壊の記事を挟み、八月九日の元弘改元、幕府側が新年号を用いなかったことを記す。

後醍醐天皇・大塔宮・日野具行・花山院師賢らの倒幕計画が発覚し、幕府は天皇の流罪、近臣と大塔宮の処刑を命じる。

師賢は長尾山の山荘を出て京都へ戻り、和歌を詠む。八月二十四日、後醍醐天皇は京都を離れ、奈良方面を経て笠置山へ向かう。

注:写本の逐字翻刻は、原画像による最終確認前のため、本ページでは安定して確認できた内容の要旨を掲載しています。逐字版では、□・〔 〕・判読確度を付して別途掲載します。

校訂本文――公開用仮本文

南方紀伝上。後醍醐院、御諱尊治。

辛未、元弘元年。春、花山院師賢、遁世して北長尾山の山荘に籠もり、春宮大夫師兼へ和歌を贈る。

二月、山門東塔北谷の衆徒の中に不和あり、合戦に及ぶ。

三月、帝、北山へ花見に行幸す。管弦あり。北畠親房の子・顕家、陵王を舞う。時に十四歳。御衣を給わる。

夏五月十一日、東使二人上洛して六波羅に着く。雑賀隼人佐をして、円観上人・文観・忠円らの僧徒を召し捕らしむ。六月八日、関東へ下向す。

秋七月二日、大地震。紀伊国千里浜、陸地となること二十余町。

日野俊基ならびに僧三人、召し捕らる。僧らは関東へ送らる。

このころ、また大地震あり、富士山絶頂、百余丈崩る。

八月九日、元弘と改元す。朝廷より関東へ改元を知らせるが、関東は新年号を用いず、元徳の暦を用う。

帝と大塔宮、兵を集め、日野具行・花山院師賢らをして関東を傾けんと欲す。その計画、すでに発覚す。

八月二十二日、東使上洛し、今上を流罪に処し、近臣ならびに大塔宮を誅すべき由を伝う。

師賢、長尾山の山荘を出て帰洛し、和歌を詠む。

八月二十四日夜、主上、京都を出でて南都へ行幸し、さらに笠置山へ向かう。

明治期活字本文――主要部分

南方紀伝上。後醍醐天皇、諱尊治。

元弘元年辛未、八月九日改元。同年春、弾正尹前亜相師賢卿遁世、籠北長尾山山庄。二首和歌、送春宮大夫師兼許云。

更ニ又住侘ル身ヲ歎ニ
捨テモ同シ浮世成ケレ

返シ。

更ニ又歎ク時ケハカクハカリ
イトハシキ世モ捨ツワツラフ

二月、山門東塔北谷衆徒中不和、及合戦。三月、帝北山花見行幸、御遊、有管絃。北畠親房息顕家舞陵王、于時十四歳、給御衣。

夏五月十一日、東使二人上洛、着六波羅。召捕円観上人、文観、忠円等僧徒。六月八日、関東下向。

秋七月二日、大地震。紀州千里浜、陸地成二十余町。

八月九日改元。関東不用新年号、用元徳暦。

八月、帝与大塔宮集兵、命黄門具行、師賢欲傾関東、已発覚。

八月二十二日、東使上洛、可奉配流今上、并近臣及大塔宮可誅伐之由云々。

八月二十四日戌刻、主上行幸南都、又笠置山。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
師賢・師兼の和歌 仮名を中心として和歌を記す 本文冒頭に二首を配置 歌句・配置とも再校訂が必要
円観・文観・忠円 捕縛され、関東へ送られる流れ ほぼ同じ 大筋は一致
日野俊基らの処置 捕縛・関東下向として読める 「俊基以下悉誅之」と記す 活字本は後の処刑を先取りしたか、本文混乱の可能性
人物・官職 仮名書きや略記が多い 官職・姓名を漢字で記す 活字本による補読を含む
笠置山への移動 末尾で次の戦闘記事へ接続 次頁で笠置夜討ちへ続く 第2節との境界を要確認

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
師兼の返歌 「更に又歎く時けは……」 仮名遣いと句切りに異読がある 低~中
倒幕計画の人物列 日野具行・花山院師賢 写本では人物と官職の語順が崩れている
舞楽名 陵王 写本字形は崩れているが活字本で補強 中~高
俊基らの処置 捕縛・関東下向 活字本の「悉誅之」と一致しない
富士山崩壊記事 絶頂百余丈崩る 日付と直前記事の接続に再確認余地
笠置山記事 主上、南都より笠置山へ 第1節末尾と第2節冒頭の境界を要再確認

復刻作業記録

  • 手書き写本part-2の全3ページを一括して確認した。
  • 次のpart-3冒頭が笠置山夜討ちへ続くことを確認し、後醍醐天皇の笠置山移動までを第1節とした。
  • 明治期活字本PDF第1画像左丁から第2画像右丁冒頭を照合した。
  • 人名・官職は活字本で補強したが、写本にない情報を無条件には採用していない。
  • 日野俊基らの処置については写本と活字本が一致しないため、異同として残した。
  • 和歌は読みを確定せず、句切りと仮名遣いを再校訂対象とした。

翻刻・校訂記号の説明を見る

手書き写本第1冊 part-2の史料ページを見る

明治期活字本PDF第1画像を見る

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2.笠置山の陥落――後醍醐天皇の捕縛と隠岐配流

対象年代:元弘元年~元弘三年(1331~1333年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-3/明治期活字本PDF第2画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

人物名、和歌、日付、赤坂城陥落後の記事には未確定箇所があります。写本と活字本で異なる箇所は、どちらかへ統一せず異同として示します。

この節の概要

笠置山に入った後醍醐天皇に対し、鎌倉幕府は大軍を送って攻撃しました。幕府軍の夜襲によって笠置山の防備は崩れ、天皇方の武士たちは討死または自害します。

後醍醐天皇は山中へ逃れましたが、やがて捕らえられ、京都へ戻された後、隠岐国へ流されました。尊良親王や天皇の側近たちも、それぞれ遠い土地へ流されます。

しかし、天皇方の抵抗がすべて終わったわけではありません。赤坂・吉野・金剛山などで反幕府勢力が再び動き始め、赤松円心も兵を挙げます。後醍醐天皇が隠岐にいる間にも、倒幕運動は各地へ広がっていきました。

情報を省略しない詳細現代語訳

幕府軍が笠置山を夜襲する

後醍醐天皇が笠置山へ入ると、鎌倉幕府は京都周辺や西国の武士を動員し、笠置山を包囲した。

笠置山は険しい山に築かれた守りの固い場所だった。天皇方は山上に陣を置き、幕府軍の攻撃を防いだ。

しかし幕府方の武士たちは夜のうちに山へ登り、笠置方を不意に攻撃した。

暗闇の中で混乱が広がり、山上の建物にも火がかかった。天皇方は十分に態勢を整えられないまま、防御線を破られた。

錦織義綱らが自害する

笠置山の陣が崩れると、天皇に従っていた武士たちは各所で討死し、または自害した。

写本には、錦織義綱らが最後まで戦った後、自害したことが記されている。

笠置山に集まっていた人々は、武士だけではなかった。天皇の側近、公家、僧侶なども混在していたため、陣が破られると統一した行動を取ることが難しかった。

天皇方の人々は、それぞれ山中へ逃れるか、その場で命を絶つかという状況へ追い込まれた。

後醍醐天皇が笠置山を脱出する

後醍醐天皇は、笠置山が陥落すると山中へ逃れた。

天皇は、わずかな供の者とともに険しい道を進んだ。しかし、山中を逃げ続けることはできず、やがて幕府方に発見された。

天皇は捕らえられ、幕府軍の監視のもとで京都へ戻されることになった。

『南方紀伝』は、この時の後醍醐天皇の心情を示す御製を記している。ただし、写本の歌本文とその配置には再確認を要する箇所があるため、現段階では歌の趣旨のみを示す。

その歌は、都を離れ、行く先も分からない身となった天皇の悲しみと、それでも志を捨てない思いを表したものと読める。

後醍醐天皇が京都へ戻される

捕らえられた後醍醐天皇は、京都へ護送された。

天皇はもはや自由に政治を行える状態ではなく、幕府方の厳しい監視下に置かれた。

鎌倉幕府は、後醍醐天皇をそのまま京都に置けば、再び倒幕運動の中心となると考えた。

そこで幕府は、天皇を都から遠く離れた隠岐国へ流すことを決めた。

後醍醐天皇が隠岐国へ流される

元弘二年(1332年)、後醍醐天皇は京都を出され、隠岐国へ流された。

隠岐は日本海に浮かぶ島々であり、京都から遠く離れていた。幕府は、天皇を政治の中心から隔離する場所として隠岐を選んだ。

天皇は厳しい監視のもとで生活することになったが、鎌倉幕府を倒す意志を完全には失わなかった。

この後、天皇は隠岐から脱出し、再び倒幕運動の中心となる。しかし、それは次の第3節で扱う。

尊良親王が土佐国へ流される

後醍醐天皇の皇子である尊良親王も、幕府によって処分された。

尊良親王は土佐国へ流された。

写本には、皇子の年齢や母方に関する細字の注記があるとみられるが、文字が小さく、現段階では完全には判読できていない。

幕府は、後醍醐天皇本人だけでなく、皇子や側近たちも各地へ分散させることで、倒幕勢力の再結集を防ごうとした。

花山院師賢の流刑と辞世

後醍醐天皇の側近であった花山院師賢も、都を離れて流刑となった。

師賢は、元弘元年の記事の初めに、世を捨てて山荘へ入る人物として登場していた。しかし、後醍醐天皇の倒幕計画に加わったため、幕府から処罰されることになった。

写本には、師賢が流刑に向かう際の辞世または別れの歌が記されている。

「時雨」「雪」などの語を含む歌とみられるが、句切りと仮名遣いが確定していないため、完全な本文は判読保留とする。

歌の趣旨は、都を離れて遠い土地へ向かう悲しみと、自分の運命を冬の景色に重ねたものと考えられる。

赤坂城でも天皇方が敗れる

笠置山と同じころ、赤坂城でも幕府軍と反幕府勢力の戦いが行われた。

赤坂城も幕府方の攻撃を受け、やがて落城した。

写本には、赤坂城陥落後に「楠山入道が自害した」と読める記事がある。

一方、明治期活字本では、「楠山城が落ち、関係者が自害した」という意味にも読める。

「楠山入道」という人物なのか、「楠山城」という城名なのかによって事件の意味が変わるため、この箇所は現在も重要な判読保留事項である。

吉野・金剛山方面で抵抗が続く

笠置山と赤坂城が落ちた後も、反幕府勢力は完全には消滅しなかった。

吉野や金剛山など、幕府軍が容易には攻め込めない山岳地帯で抵抗が続いた。

幕府は各地へ軍勢を送り、これらの拠点を攻撃した。

後醍醐天皇が隠岐へ流された後も、天皇方に味方する武士や僧侶は各地に残り、次の機会を待っていた。

赤松円心が兵を挙げる

元弘三年(1333年)になると、播磨国では赤松円心が幕府に反抗して兵を挙げた。

赤松円心の挙兵によって、反幕府運動は畿内周辺だけでなく、西国にも広がった。

同じころ、赤坂・吉野・金剛山などでも戦いが続き、幕府は複数の地域で反乱への対応を迫られた。

後醍醐天皇が隠岐にいる間にも、各地の反幕府勢力は再び勢いを増していった。

この後、後醍醐天皇は隠岐から脱出し、足利高氏や新田義貞も幕府に背く。鎌倉幕府の滅亡へ向かう動きは、次の第3節で本格化する。

流れが分かる現代語訳

後醍醐天皇が笠置山へ入ると、鎌倉幕府は大軍を送って山を包囲した。

笠置山は守りの固い場所だったが、幕府軍は夜に山へ登り、天皇方を不意に攻撃した。

陣地には火がつき、天皇方の武士たちは混乱した。錦織義綱らは最後まで戦い、自害した。

後醍醐天皇は山中へ逃げたが、やがて幕府方に捕らえられた。

幕府は天皇を京都へ戻した後、遠く離れた隠岐国へ流した。

天皇の皇子である尊良親王も土佐国へ流され、花山院師賢などの側近も処罰された。

幕府は、天皇とその仲間を全国へ分散させれば、倒幕運動を終わらせられると考えた。

しかし、赤坂・吉野・金剛山では抵抗が続き、播磨国では赤松円心も兵を挙げた。

後醍醐天皇が隠岐に流されても、倒幕運動は終わらなかった。

1333年、天皇は隠岐を脱出する。ここから鎌倉幕府の滅亡へ向けて、歴史が大きく動き始める。

人物・用語・史実注記

笠置山

現在の京都府南部にある山です。険しい地形を利用した防御拠点でしたが、幕府軍の夜襲によって陥落しました。

錦織義綱

笠置山で後醍醐天皇方として戦った武士として、写本に名前が見えます。笠置陥落時に自害した人物の一人として記されます。

尊良親王

後醍醐天皇の皇子です。笠置山の敗北後に捕らえられ、土佐国へ流されました。後に再び南朝方として戦います。

花山院師賢

後醍醐天皇の側近です。倒幕計画に関わり、笠置山の敗北後に流刑となりました。写本には、流刑へ向かう際の和歌が記されています。

赤松円心

播磨国の有力武士です。元弘三年に幕府へ反抗して兵を挙げ、後醍醐天皇方の勢力拡大に大きな役割を果たしました。

隠岐配流

政治的な敵を都から遠ざけ、島や遠国で生活させる処分です。後醍醐天皇は隠岐へ流されましたが、後に脱出して倒幕運動へ復帰しました。

元弘の乱

後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の動きから、1333年の幕府滅亡まで続いた戦乱です。笠置山・赤坂城の戦いは、その初期の主要な出来事です。

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史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-3、全3ページ
  • 対象年代:元弘元年~元弘三年(1331~1333年)
  • 明治期活字本:PDF第2画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前part末尾の後醍醐天皇笠置山入山記事から続く。

幕府軍による笠置山夜討ち、山上の混乱と陥落、錦織義綱ら天皇方武士の自害を記す。

後醍醐天皇は山中へ逃れるが、幕府方に捕らえられる。天皇の御製を載せ、京都への護送、隠岐国への配流へ続く。

尊良親王は土佐国へ流される。皇子の年齢・母方に関する細字傍書があるが、判読は未確定。

花山院師賢も流刑となり、辞世または別れの和歌を詠む。「時雨」「雪」等を含む歌とみられるが、句切りは未確定。

その後、赤坂城の落城、吉野・金剛山方面の合戦、赤松円心の挙兵など、元弘三年に向けて各地で抵抗が再開する記事を記す。

注:写本第一頁冒頭、佐々木時信の家人とされる人物、海東左近将監の後の語、「楠山入道」の実体には未解決の問題があります。

校訂本文――公開用仮本文

〔前節より続く〕幕府の官軍、笠置山を囲み、夜討ちを行う。

笠置山中、混乱して火起こり、天皇方の陣、破る。錦織義綱ら、力戦の後、自害す。

主上、笠置山を出でて山中へ逃れ給う。その後、幕府方に捕らえられ、京都へ還される。御製あり。

元弘二年、主上、隠岐国へ配流せらる。

尊良親王、土佐国へ配流せらる。

花山院師賢も流刑となる。道中、辞世の和歌を詠む。

赤坂城、幕府軍の攻撃を受けて落つ。写本には「楠山入道自害」と読める記事あり。ただし活字本は「楠山城没落」とする可能性があり、未確定。

その後、吉野・金剛山等において天皇方の兵、抵抗を続く。

元弘三年、赤松円心、播磨国に兵を挙げ、幕府方と合戦す。各地に戦起こる。

〔後醍醐天皇隠岐脱出の記事へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第2画像付近には、笠置山の夜討ちと陥落、天皇方武士の自害、後醍醐天皇の捕縛・隠岐配流、皇子・近臣の流刑、赤坂・吉野・金剛山方面の戦いが、漢文調の編年記事として収録されています。

人物名・日付・人数は写本より明確な箇所がある一方、写本の「楠山入道自害」に対し、活字本は「楠山城没落・自害」のように読め、固有名詞の解釈が異なります。

注:活字本文の逐字版は、版面を再拡大し、改めて行単位で掲載します。ここでは作業台帳で確認された対応記事の要旨を示しています。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
笠置山へ向かった人物 仮名・略記が多く、人物の区切りが不明瞭 人名・官職を漢字で列記 活字本を補助にするが、無条件には統一しない
赤坂城落城後の記事 「楠山入道自害」と読める 「楠山城没落・自害」と読める 人物か城名か未確定として保持
尊良親王の注記 年齢・母方らしい細字あり 本文中または割注として簡略化 写本細字は高精細画像で再確認
師賢の辞世 仮名書きで記すが句切りが難しい 活字化されるが歌句になお異読あり 和歌本文は確定せず候補を併記する
日付・人数 数字の崩れや略記あり 日付・人数を漢字で示す 他史料も含めて再校訂する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
写本第1頁冒頭 前節の笠置山記事から続く 主語と人物列の接続が不明瞭
海東左近将監後の語 「二類」等か 語義・人名の区切りが不明 低~中
赤坂城後の記事 楠山入道自害 人物名か、楠山城という城名か未確定
皇子の傍書 年齢・母方の説明 小字で、写本画像から完全に読めない 低~中
師賢の辞世 「時雨雪けば……」 句切り・仮名遣い・下句が未確定 低~中

復刻作業記録

  • 手書き写本part-3の全3ページを一括して確認した。
  • 前part末尾の笠置山入山記事との接続を確認した。
  • 次のpart-4が後醍醐天皇の隠岐脱出から始まるため、隠岐配流後の各地の抵抗までを第2節とした。
  • 明治期活字本PDF第2画像付近と照合した。
  • 人物名・官職・日付は活字本を補助にしたが、写本との差は異同として保存した。
  • 「楠山入道/楠山城」は事件内容に影響するため、確定せず保留した。
  • 師賢の辞世は、和歌索引や別写本による再確認対象とした。
  • 尊良親王の傍書は、高精細画像・皇統系譜との照合対象とした。

翻刻・校訂記号の説明を見る

手書き写本第1冊 part-3の史料ページを見る

明治期活字本PDF第2画像を見る

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3.隠岐脱出――足利高氏の転向と鎌倉幕府の滅亡

対象年代:元弘三年(1333年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-4/明治期活字本PDF第2~3画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

隠岐脱出日、摩耶山・山崎・分倍河原の合戦日、北条一門の人数、北条時益の最期の場所には、写本と活字本の異同または判読上の問題があります。

この節の概要

元弘三年(1333年)、隠岐国に流されていた後醍醐天皇は島を脱出し、伯耆国へ渡ります。名和長年は天皇を船上山へ迎え、周辺の武士を集めて幕府軍へ抵抗しました。

鎌倉幕府は足利高氏を西国へ派遣します。しかし高氏は幕府から離反し、後醍醐天皇方へ加わりました。高氏らの軍勢は京都の六波羅探題を攻撃し、探題方は京都を捨てて東国へ逃れます。

六波羅勢は近江国番場で追い詰められ、多くの武士が自害しました。一方、関東では新田義貞が挙兵し、小手指・久米川・分倍河原などで幕府軍と戦い、ついに鎌倉へ攻め込みました。

こうして、約百五十年にわたって続いた鎌倉幕府は滅亡しました。

情報を省略しない詳細現代語訳

後醍醐天皇が隠岐を脱出する

元弘三年、隠岐国に流されていた後醍醐天皇は、幕府の監視を逃れて島を脱出した。

写本では、天皇が閏二月二十三日の夜に隠岐を出たように読める。一方、明治期活字本は閏二月二十四日とする。

夜のうちに出発し、翌日に海を渡った可能性もあるため、単純な誤りとは断定できない。

後醍醐天皇は船で海を渡り、伯耆国へ向かった。

名和長年が天皇を迎える

伯耆国の武士、名和長年は、後醍醐天皇を迎え入れた。

天皇は船上山に入り、ここを新たな拠点とした。

名和長年は周辺の武士へ呼びかけ、天皇を守るための軍勢を集めた。

笠置山の敗北と隠岐配流によって一度は終わったように見えた倒幕運動は、船上山を中心として再び始まった。

幕府軍が天皇方を攻める

鎌倉幕府は、後醍醐天皇が隠岐を脱出したことを知り、西国の武士へ討伐を命じた。

天皇方と幕府方は、船上山周辺だけでなく、摩耶山や京都へ通じる各地でも戦った。

『南方紀伝』は、摩耶山の合戦日を記しているが、写本と活字本では十一日・二十一日などの異同がある。

また、船上山の記事末尾には人物や行動の区切りが不明瞭な部分があり、完全な逐字校訂には別写本との比較が必要である。

足利高氏が西国へ向かう

鎌倉幕府は、足利高氏に後醍醐天皇方を討つよう命じ、西国へ派遣した。

足利氏は源氏の有力な一族であり、高氏は幕府軍の中でも大きな軍事力を持つ武将だった。

しかし、高氏は幕府の命令どおりに後醍醐天皇を攻めるのではなく、途中で幕府から離反した。

高氏は京都へ入り、後醍醐天皇方の軍勢に加わった。

幕府が討伐軍の中心として期待していた武将が天皇方へ移ったことで、西国の戦況は大きく変化した。

京都周辺で戦いが広がる

足利高氏が天皇方へ加わると、京都周辺では幕府方の六波羅探題と、後醍醐天皇方の軍勢との戦いが激しくなった。

『南方紀伝』には、摩耶山・山崎・京都周辺の合戦が年代順に記されている。

ただし、山崎合戦の日付は、写本では十五日、活字本では十八日などと読む可能性があり、現在も校訂を保留している。

この時期には多くの武士が天皇方へ加わり、六波羅探題の軍勢は次第に京都を守れなくなった。

六波羅探題が京都を捨てる

足利高氏らの軍勢は六波羅探題を攻撃した。

六波羅探題は、鎌倉幕府が京都に置いていた重要な政治・軍事機関だった。

探題方は京都での防戦を続けられなくなり、上皇や皇族を伴って東国へ逃れようとした。

写本には「上皇」「先帝」「新主」などの呼称が現れるが、どの皇族を指すかには整理が必要である。

六波羅勢は京都から近江国方面へ退いた。

番場で六波羅勢が自害する

京都から逃れた六波羅勢は、近江国番場まで進んだ。

しかし、進路をふさがれ、東国へ逃れることができなくなった。

六波羅探題に従っていた北条氏や武士たちは、寺院へ入り、多くが自害した。

『南方紀伝』は、北条一門や家臣の人数を記しているが、写本と活字本では人数に差がある。

また、北条時益の最期についても、道中で討たれたのか、番場で自害した人々と同じ場所だったのか、本文上の違いがある。

六波羅探題の滅亡によって、鎌倉幕府は京都と西国を支配する拠点を失った。

新田義貞が上野国で挙兵する

関東では、新田義貞が鎌倉幕府に反抗して兵を挙げた。

義貞の軍勢には、幕府の支配に不満を持つ関東の武士が次々に加わった。

軍勢は急速にふくらみ、鎌倉を目指して武蔵国を南下した。

小手指・久米川の戦い

新田軍は、小手指や久米川で幕府軍と戦った。

幕府方も鎌倉を守るために大軍を出したが、新田軍は戦いながら前進した。

関東の武士が新田軍へ加わり続けたため、幕府軍は次第に押し戻された。

分倍河原の戦い

武蔵国分倍河原でも、新田軍と幕府軍の大きな戦いが行われた。

写本では五月十六日、明治期活字本では五月十八日と読めるため、合戦の日付には明確な異同がある。

分倍河原の戦いを経て、新田軍は鎌倉へ進む道を開いた。

新田軍が鎌倉へ攻め込む

新田義貞の軍勢は鎌倉へ到着し、複数の方面から市中へ攻め込んだ。

鎌倉は山と海に囲まれ、切通しなどの限られた道を守れば防御しやすい都市だった。

しかし幕府軍は、各地から押し寄せる新田軍を防ぎきれなかった。

『南方紀伝』には、足助三郎以下、多数の武士の名が列記されているが、人名の区切りには未確定部分が残っている。

北条一門が自害する

鎌倉市中の防御が崩れると、北条高時をはじめとする北条一門は、最後の拠点となった寺院へ集まった。

北条氏の一族と家臣たちは、幕府の再建が不可能であると判断し、次々に自害した。

北条一門の人数については写本と活字本で表現が異なるため、現在の公開本文では特定の人数に統一しない。

鎌倉幕府が滅亡する

京都では六波羅探題が滅び、鎌倉では北条一門が自害した。

これによって、源頼朝以来、約百五十年にわたって続いた鎌倉幕府は滅亡した。

後醍醐天皇は、隠岐へ流された敗者の立場から、再び全国の政治を行う立場へ戻ることになった。

しかし、幕府を倒すために大きな力を発揮した足利高氏や新田義貞を、どのように新しい政治へ組み込むかという問題が残った。

次の第4節では、後醍醐天皇の京都還幸と、建武政権の人事・恩賞について扱う。

流れが分かる現代語訳

1333年、後醍醐天皇は流されていた隠岐国から脱出した。

伯耆国の武士、名和長年は天皇を船上山へ迎え、幕府軍と戦うための武士を集めた。

鎌倉幕府は、有力武将の足利高氏を西国へ送り、天皇を討たせようとした。

しかし高氏は幕府を裏切り、後醍醐天皇方へ加わった。

高氏らは京都の六波羅探題を攻撃した。

六波羅勢は京都を捨てて東国へ逃れようとしたが、近江国番場で追い詰められ、多くの武士が自害した。

一方、関東では新田義貞が兵を挙げた。

新田軍は小手指・久米川・分倍河原で幕府軍と戦い、鎌倉へ進んだ。

鎌倉の防御が破られると、北条高時をはじめとする北条一門は自害した。

こうして、約百五十年間続いた鎌倉幕府は滅亡した。

後醍醐天皇は京都へ戻り、新しい政治を始める。しかし、幕府を倒した足利高氏や新田義貞との関係が、後に新たな争いを生むことになる。

人物・用語・史実注記

名和長年

伯耆国の武士です。隠岐を脱出した後醍醐天皇を船上山へ迎え、天皇方の軍勢を組織しました。

船上山

現在の鳥取県にある山です。隠岐を脱出した後醍醐天皇が入り、倒幕運動を再開する拠点となりました。

足利高氏

後の足利尊氏です。この時点では「高氏」と名乗っていました。幕府から後醍醐天皇討伐を命じられましたが、幕府に反旗を翻し、六波羅探題を攻撃しました。

六波羅探題

鎌倉幕府が京都に置いた政治・軍事機関です。朝廷や西国武士を監視していましたが、足利高氏らの攻撃によって滅亡しました。

番場

近江国にあった交通の要所です。京都から東国へ逃れようとした六波羅勢が追い詰められ、多くの武士が自害しました。

新田義貞

上野国の武士です。鎌倉幕府に反抗して挙兵し、関東の武士を集めながら鎌倉へ攻め込みました。

分倍河原

現在の東京都府中市付近にある合戦地です。新田軍と幕府軍が戦い、新田軍が鎌倉へ進む大きな転機となりました。

北条高時

鎌倉幕府の得宗家当主です。幕府滅亡時、北条一門や家臣とともに鎌倉で自害しました。

原文・復刻資料を開く

史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-4、全3ページ
  • 対象年代:元弘三年(1333年)
  • 明治期活字本:PDF第2~3画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partの赤松円心挙兵・各地の攻防から続き、後醍醐天皇の隠岐脱出を記す。

名和長年が天皇を迎え、船上山を拠点として幕府軍へ抵抗する。

摩耶山・山崎・京都方面の合戦、足利高氏の入京と官軍への加入、六波羅探題の陥落を記す。

京都から東国へ逃れた六波羅勢は、近江国番場で追い詰められ、北条一門・家臣が自害する。

関東では新田義貞軍が小手指・久米川・分倍河原で戦い、鎌倉へ攻め込む。

鎌倉では北条一門が自害し、鎌倉幕府が滅亡する。

注:摩耶山・山崎・分倍河原の日付、船上山記事末尾、四月三日の人物、足助三郎以下の人物列は、公開前の再確認が必要です。

校訂本文――公開用仮本文

元弘三年、主上、隠岐国を脱出し、伯耆国へ渡らせ給う。

名和長年、主上を迎え奉り、船上山へ入れ奉る。諸国の兵、次第に馳せ集まる。

官軍と幕府方、摩耶山・山崎・京都近辺において合戦す。

鎌倉より足利高氏、西国へ発向す。高氏、幕府に背き、京都へ入り、官軍に属す。

高氏ら、六波羅を攻む。六波羅勢、上皇・皇族らを奉じて京都を落ち、近江国へ退く。

六波羅勢、番場に至り、進退窮まり、北条一門・郎従、多く自害す。

関東において、新田義貞、兵を挙ぐ。

新田軍、小手指・久米川・分倍河原において幕府軍と合戦し、鎌倉へ進む。

新田軍、鎌倉へ攻め入る。北条高時以下、一門・郎従、自害す。

ここに鎌倉幕府、滅亡す。

〔後醍醐天皇の京都還幸・恩賞記事へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第2~3画像付近には、後醍醐天皇の隠岐脱出、名和長年の船上山迎入、摩耶山・山崎・京都方面の戦い、足利高氏の幕府離反、六波羅探題の陥落、番場での自害、新田義貞軍の関東進撃、鎌倉幕府滅亡が漢文調で収録されています。

人名・官職・軍勢数は写本より明確な箇所がありますが、隠岐脱出日、合戦日、北条一門の人数、北条時益の最期の場所には写本との差があります。

注:活字本文の逐字版は、版面の行単位確認後に掲載します。現在は作業台帳で確認された対応記事の要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
隠岐脱出日 閏二月二十三日夜 閏二月二十四日 夜間出発・翌日移動の可能性を含め、両方を記録
摩耶山合戦日 十一日にも見える 二十一日等の可能性 他史料との照合が必要
山崎合戦日 十五日にも見える 十八日等の可能性 本文を統一せず異同として保持
分倍河原合戦日 五月十六日 五月十八日 重要な日付異同として併記
北条一門の人数 写本の人数表現あり 異なる人数・表現 特定人数へ統一しない
北条時益の最期 最期の場所・経過が活字本と異なる可能性 別の場所・経過として読める 人物記事として再校訂

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
摩耶山合戦日 十一日/二十一日 写本と活字本に日付差 低~中
船上山記事末尾 名和長年らの軍勢記事 主語・人物列・動詞が不明瞭
山崎合戦日 十五日/十八日 数字字形と活字異同 低~中
四月三日の人物 人物名未確定 官職と姓名の区切りが難しい
足助三郎以下 複数の人名群 活字本でも姓名の境界が不鮮明
上皇・先帝・新主 六波羅勢が奉じた皇族 各呼称の対象整理が必要

復刻作業記録

  • 手書き写本part-4の全3ページを一括して確認した。
  • 前partの各地の抵抗記事から、後醍醐天皇の隠岐脱出へ続く接続を確認した。
  • 次のpart-5が後醍醐天皇の京都還幸・建武政権の記事へ移るため、鎌倉幕府滅亡までを第3節とした。
  • 明治期活字本PDF第2~3画像付近を対応箇所として照合した。
  • 隠岐脱出日、摩耶山・山崎・分倍河原の日付は、写本と活字本の両方を保存した。
  • 北条一門の人数は、本文差があるため一つの数字へ統一しなかった。
  • 足助三郎以下の人物列は、別写本・人名辞典による再確認対象とした。
  • 六波羅勢が奉じた「上皇・先帝・新主」の呼称は、同時代の皇統関係と照合する必要がある。

翻刻・校訂記号の説明を見る

手書き写本第1冊 part-4の史料ページを見る

明治期活字本PDF第2画像を見る

明治期活字本PDF第3画像を見る

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4.建武政権の成立――恩賞と護良親王への告発

対象年代:元弘三年~建武元年(1333~1334年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-5/明治期活字本PDF第3画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

成良親王の役職、護良親王の皇子名、高氏による告発文、英時の妻に関する記事などには、写本と活字本の異同または判読保留があります。

この節の概要

鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都へ戻り、新しい政治を始めます。幕府を倒すために功績を立てた足利高氏・楠木正成らへ官位や恩賞が与えられ、朝廷を中心とする政治体制が整えられていきました。

後醍醐天皇は、皇子たちを奥州や鎌倉方面へ派遣し、新政権の支配を地方にも広げようとします。また、護良親王は征夷大将軍となり、武士を率いる重要な地位に就きました。

しかし、護良親王と足利高氏の関係は悪化します。高氏は、護良親王が人々を集めて反乱を企てていると天皇へ訴えました。この告発が、次節で扱う護良親王の失脚・幽閉へつながります。

情報を省略しない詳細現代語訳

後醍醐天皇が京都へ戻る

鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都へ戻った。

天皇は、笠置山で敗れて捕らえられ、隠岐へ流されていた。しかし、隠岐を脱出した後、全国の武士を味方につけ、ついに幕府を倒すことに成功した。

京都への還幸は、天皇が再び政治の中心へ戻ったことを示す重要な出来事だった。

ただし、写本と明治期活字本では、天皇がどこを出発して京都へ戻ったのかという表現に差がある。現在の校訂では、出発地を一つに断定せず、京都へ還幸したという大筋を本文としている。

幕府を倒した人々へ恩賞を与える

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒すために功績を立てた公家・武士・僧侶へ、官位・役職・領地などの恩賞を与えた。

足利高氏や楠木正成も、その功績を認められた。

足利高氏は、幕府から後醍醐天皇を討つために派遣されながら途中で幕府へ反旗を翻し、六波羅探題を滅ぼした人物である。

楠木正成は、赤坂・金剛山方面で幕府軍に抵抗し続け、倒幕運動を支えた。

新しい政権では、これまで幕府に仕えていた武士、初めから天皇方として戦った武士、公家、寺社など、立場の異なる人々へ恩賞を配る必要があった。

誰にどれだけの恩賞を与えるかは、建武政権を安定させるうえで非常に重要な問題だった。

旧幕府方の人々への処分

新しい政権が作られる一方で、旧幕府方の武士や関係者に対する処分も行われた。

写本には、七月九日に処刑または処分された人々に関する記事がある。しかし、その人々がどの軍勢や一族に属していたのかは、文字の判読が難しく、現在も確定していない。

このため、公開用本文では具体的な所属名を推測で補わず、旧幕府方関係者への処分記事として扱う。

英時の妻が詠んだ和歌

写本には、英時の妻に関する記事と和歌が記されている。

英時は旧幕府側の人物であり、その妻は幕府滅亡後、身の置き所を失うことになった。

妻が誰のもとへ預けられたのか、また、その理由が親族関係・縁者関係によるものだったのかについては、原文の句が十分に確定していない。

写本に記された和歌は、夫と旧幕府を失った女性の悲しみや、頼るべき場所を失った心情を表すものと考えられる。

ただし、和歌の逐字本文は現在の台帳に完全な形で保存されていないため、原画像による再確認後に掲載する。

護良親王が征夷大将軍となる

後醍醐天皇の皇子である護良親王は、征夷大将軍となった。

護良親王は、鎌倉幕府との戦いの間、寺社勢力や各地の武士へ働きかけ、倒幕運動を進めていた。

征夷大将軍という地位を与えられたことは、護良親王が新しい政権の軍事面で重要な役割を持ったことを示している。

しかし、同じく大きな軍事力を持つ足利高氏との間には、どちらが武士を統率するのかという緊張が生まれた。

義良親王を奥州へ派遣する

後醍醐天皇は、皇子の義良親王を奥州方面へ派遣した。

義良親王には北畠親房の子・北畠顕家らが従った。

京都から遠く離れた奥州でも新政権の支配を確立し、旧幕府方や北条氏残党を抑えることが目的だった。

義良親王は、後に南朝の後村上天皇となる人物である。

成良親王を鎌倉へ派遣する

もう一人の皇子である成良親王は、鎌倉方面へ派遣された。

鎌倉は滅亡した幕府の本拠地であり、関東の武士を支配するためには、新しい政治組織を置く必要があった。

写本は成良親王の地位を「東国守護」と読める形で記す。一方、明治期活字本では「関東管領」と記されている。

役職の名称が異なるため、公開本文では一つへ統一せず、成良親王が鎌倉・関東支配の中心として派遣されたことを本文とし、役職名は異同として示す。

皇子を地方へ派遣した理由

後醍醐天皇は、京都だけで全国を治めるのではなく、皇子を地方へ送り、その地域の政治と軍事を担わせようとした。

奥州には義良親王、鎌倉には成良親王を置き、皇族を中心とした地方支配を作ろうとしたのである。

しかし、地方には独自の勢力を持つ武士が多く、皇子や公家だけで支配を安定させることは簡単ではなかった。

北条氏の残党が反乱を起こす

鎌倉幕府が滅亡した後も、北条氏の一族や旧幕府に従っていた武士がすべて消えたわけではなかった。

各地では北条氏の残党が兵を挙げ、新政権に反抗した。

後醍醐天皇の政権は、京都で新しい官職や恩賞を定める一方、奥州・関東などで起こる反乱にも対応しなければならなかった。

幕府が滅んだことと、旧幕府勢力が完全に消滅することは同じではなかったのである。

護良親王と足利高氏が対立する

新政権の軍事面では、護良親王と足利高氏がともに大きな力を持っていた。

護良親王は、足利高氏が強大な軍事力を持つことを警戒したとみられる。

一方、高氏側も、護良親王が自分を敵視し、武士を集めていると考えた。

倒幕の間は同じ敵と戦っていた両者だったが、幕府滅亡後は、新しい政権の中で主導権を争う関係となった。

足利高氏が護良親王を告発する

足利高氏は後醍醐天皇へ、護良親王が人々を集め、反乱を企てているという趣旨の訴えを出した。

写本では、護良親王が「人々を語らひ」、つまり仲間を集めて何かを計画していると高氏が告発したように読める。

しかし、告発文の連綿が強く、誰が誰を誘い、具体的に何を計画したとされたのかは完全には確定していない。

明治期活字本では告発の内容が写本より詳しく整理されているが、その詳しさが元の写本にも存在したのか、活字本の底本によるものかは未確定である。

この告発によって、護良親王は新政権の軍事指導者から、政権へ反抗する疑いをかけられた人物へと立場を変えていく。

次の第5節では、護良親王が捕らえられて鎌倉へ送られ、中先代の乱の中で殺害されるまでを扱う。

流れが分かる現代語訳

鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都へ戻り、新しい政治を始めた。

天皇は、幕府を倒すために活躍した足利高氏・楠木正成らへ官位や領地などの恩賞を与えた。

また、皇子の義良親王を奥州へ、成良親王を鎌倉へ送り、地方にも朝廷の支配を広げようとした。

護良親王は征夷大将軍となり、武士を率いる重要な立場に就いた。

しかし、護良親王と足利高氏は、どちらが武士をまとめるのかをめぐって対立するようになった。

足利高氏は後醍醐天皇へ、

護良親王は人々を集め、反乱を起こそうとしています。

と訴えた。

この告発によって、護良親王は政治の中心から追われることになる。

鎌倉幕府を倒した人々の間では、幕府滅亡の直後から、新しい政権の主導権をめぐる争いが始まっていたのである。

人物・用語・史実注記

建武政権

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇を中心として作られた政治体制です。後世には「建武の新政」とも呼ばれます。

恩賞

戦いで功績を立てた者へ、官位・役職・領地などを与えることです。恩賞への不満は、武士が政権から離れる原因にもなりました。

護良親王

後醍醐天皇の皇子です。倒幕運動を進め、幕府滅亡後には征夷大将軍となりました。しかし、足利高氏と対立し、反乱の疑いをかけられます。

義良親王

後醍醐天皇の皇子で、奥州へ派遣されました。後に南朝の後村上天皇となります。

成良親王

後醍醐天皇の皇子で、鎌倉・関東方面へ派遣されました。写本と活字本では、その役職名が「東国守護」「関東管領」と異なります。

征夷大将軍

武士や軍勢を率いる地位として用いられた官職です。護良親王がこの職に就いたことは、皇子が軍事指導者となったことを示します。

足利高氏

後の足利尊氏です。幕府滅亡に大きな功績を立てましたが、護良親王との対立を深めました。

地方への皇子派遣

後醍醐天皇は、皇子と公家を奥州・鎌倉などへ送り、朝廷を中心とする地方支配を作ろうとしました。しかし、現地の武士との協力なしに支配を維持することは困難でした。

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史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-5、全3ページ
  • 対象年代:元弘三年~建武元年(1333~1334年)
  • 明治期活字本:PDF第3画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partの鎌倉幕府滅亡記事から続き、後醍醐天皇の京都還幸を記す。

足利高氏・楠木正成ら、倒幕に功績を立てた人々への恩賞と、新政権の人事を記す。

旧幕府方への処分記事、英時の妻と和歌に関する記事を載せる。

護良親王が征夷大将軍となる。

義良親王は奥州へ、成良親王は鎌倉・関東方面へ派遣される。

各地で北条氏残党の反乱が起こる。

足利高氏は、護良親王が人々を集めて反乱を企てているとの趣旨を、後醍醐天皇へ告発する。

注:七月九日の処刑者の所属、英時妻の記事、師賢の謚号、道忠、護良親王の皇子名、高氏の告発文は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

元弘三年、鎌倉幕府滅亡の後、主上、京都へ還幸す。

倒幕の功ある公家・武士・僧徒を賞し、足利高氏・楠木正成らに官位・所領等を給う。

旧幕府方の関係者を処分す。七月九日の処刑者の所属名は未確定。

英時の妻に関する記事ならびに和歌あり。預け先・縁故関係の句は未確定。

護良親王、征夷大将軍となる。

義良親王、北畠顕家らとともに奥州へ下向す。

成良親王、鎌倉・関東方面へ下向す。その役職を、写本は東国守護、活字本は関東管領と記す。

諸国に北条氏残党の蜂起あり。

足利高氏、護良親王が人々を語らい、謀反を企つる由を奏す。

〔護良親王の捕縛・鎌倉護送記事へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第3画像付近には、後醍醐天皇の京都還幸、足利高氏・楠木正成らへの恩賞、護良親王の征夷大将軍就任、皇子たちの奥州・鎌倉派遣、北条氏残党への対応、足利高氏による護良親王告発が、漢文調の編年記事として収録されています。

活字本は、写本より人名・官職・告発文を詳しく記す箇所があります。ただし、その情報が写本の省略なのか、異なる底本によるものかは確定していません。

注:活字本文の逐字版は、PDF第3画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
天皇の京都還幸 出発地を含む和文で記すが、語句に不明瞭部分あり 漢文調で還幸を記す 出発地は確定せず、京都還幸を本文とする
成良親王の役職 東国守護 関東管領 両本文を併記し、一つへ統一しない
護良親王の皇子名 陸良とも読める 興良等の別表記候補 系譜・別写本による確認が必要
高氏の告発文 「人々を語らひ」以下の連綿が強い 告発内容を比較的詳しく記す 活字本を補助にするが、写本にない文章を無条件には補わない
英時の妻の記事 預け先・縁故理由を和文で説明 漢文調に整理される 人物関係と和歌本文を再確認する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
七月九日の処刑者 千葉屋寄手等 軍勢名・所属名を確定できない
英時妻の預け先理由 縁故・内縁により高氏方へ預けられたか 原文句が未確定
師賢の謚号 未確定 人物記事と追号・法名の区切りが不明 低~中
道忠 人物名として仮読 誰を指すか、前後の記事との関係が不明
護良親王の皇子名 陸良/興良 重要な人名異同 低~中
足利高氏の告発文 人々を語らひ、謀反を企つる由 連綿が強く、目的語・動詞を逐字確定できない 低~中

復刻作業記録

  • 手書き写本part-5の全3ページを一括して確認した。
  • 前partの鎌倉幕府滅亡記事から、後醍醐天皇の京都還幸へ続く接続を確認した。
  • 次のpart-6が護良親王の幽閉・鎌倉護送へ続くため、高氏による告発までを第4節とした。
  • 明治期活字本PDF第3画像付近と照合した。
  • 建武政権の人事、恩賞、皇子派遣、北条氏残党への対応を一続きの政治再編として整理した。
  • 成良親王の役職は、写本「東国守護」と活字本「関東管領」を併記した。
  • 護良親王の皇子名と高氏の告発文は、重要な未確定事項として保留した。
  • 英時妻の和歌は、原画像・和歌索引による再確認後に逐字掲載する。

翻刻・校訂記号の説明を見る

手書き写本第1冊 part-5の史料ページを見る

明治期活字本PDF第3画像を見る

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5.護良親王の最期――中先代の乱と足利尊氏の東下

対象年代:建武元年~建武二年(1334~1335年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-6/明治期活字本PDF第3~4画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

津軽・出羽・信濃の記事に現れる人物名、西園寺公宗の関係者、鎌倉から退却した軍勢の人名区切りには未確定箇所があります。確定できない人名は、推測で補わず判読保留としています。

この節の概要

足利高氏から反乱の疑いをかけられた護良親王は捕らえられ、鎌倉の東光寺へ送られます。親王はそこで、足利高氏の弟・足利直義の監視下に置かれました。

その後、京都では西園寺公宗の謀反が発覚し、東国では北条氏の残党を中心とする軍勢が鎌倉へ攻め寄せます。この反乱は、一般に「中先代の乱」と呼ばれています。

足利直義は反乱軍を防ぎきれず、鎌倉から退却します。その直前、直義方の淵辺は、幽閉されていた護良親王を殺害しました。

東国の危機を知った足利尊氏は、後醍醐天皇の許可を待たずに京都から東国へ向かいます。この東下によって尊氏は軍事力を急速に強め、やがて建武政権から離れていくことになります。

情報を省略しない詳細現代語訳

護良親王が捕らえられる

足利高氏から反乱の疑いを訴えられた護良親王は、後醍醐天皇の命によって捕らえられた。

護良親王は、鎌倉幕府を倒すために各地の武士や僧侶へ働きかけ、幕府滅亡後には征夷大将軍となっていた。

しかし、足利高氏との対立が深まると、親王は新しい政権を支える軍事指導者ではなく、政権に反抗する疑いをかけられた人物として扱われるようになった。

親王は京都から鎌倉へ送られることになった。

鎌倉の東光寺に幽閉される

鎌倉へ送られた護良親王は、東光寺に入れられた。

東光寺では、足利高氏の弟である足利直義が親王を監視した。

親王は自由に外へ出ることができず、政治や軍事へ関わることもできない状態に置かれた。

護良親王を京都から遠い鎌倉へ送ったことには、親王を朝廷や畿内の支持者から切り離す意味があったと考えられる。

奥州・出羽・津軽方面の動き

このころ、『南方紀伝』は奥州・出羽・津軽方面の反乱や人事についても記している。

建武政権は、北畠顕家らを中心として奥州支配を進めていたが、各地には新政権へ従わない武士も残っていた。

ただし、津軽で兵を挙げた人物、出羽国司の名、奥州関係者の官職には判読上の問題がある。

そのため、本ページでは人物名を推測で確定せず、奥州・出羽・津軽方面でも反乱と鎮圧が続いていたという内容を示す。

西園寺公宗の謀反

京都では、西園寺公宗が謀反を企てたとされる事件が起こった。

鎌倉幕府が滅亡した後も、旧幕府と関係の深かった公家や武士が、新しい建武政権に反発する可能性があった。

西園寺公宗とその関係者は、政権へ反抗する計画に関わったとして処分された。

ただし、『南方紀伝』写本に記された関係者名には、文字の区切りや実名が不明瞭な箇所が残っている。

北条氏の残党が信濃から進む

建武二年(1335年)、信濃方面から北条氏の残党を含む軍勢が関東へ進んだ。

鎌倉幕府はすでに滅亡していたが、北条氏の一族や旧幕府方の武士は各地に残っていた。

信濃の武士たちは関東へ入り、鎌倉を目指して進撃した。

この反乱は、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞や足利高氏らの政権に対し、旧北条方が鎌倉を取り戻そうとした戦いだった。

一般には、この戦乱を「中先代の乱」と呼ぶ。

今回の写本では信濃勢の人名区切りに不明瞭な箇所があるため、詳細な人物一覧は原画像・別写本を再確認した後に掲載する。

足利直義が反乱軍を迎え撃つ

鎌倉にいた足利直義は、北条氏残党を中心とする軍勢を防ごうとした。

直義方には、関東の武士や今川氏の軍勢などが加わっていた。

しかし、反乱軍の進撃は速く、直義方は各地で押し戻された。

『南方紀伝』には、信濃・会津などに関係する武士の名が並ぶが、清久山城守・蘆名判官などの人名・官途には未確定箇所がある。

直義が鎌倉から退却する

反乱軍を防ぎきれないと判断した足利直義は、鎌倉から退却することを決めた。

鎌倉を離れるにあたり、直義方には大きな問題が残っていた。

東光寺には、護良親王が幽閉されていた。

親王をそのまま残せば、鎌倉へ入った反乱軍が親王を救い出し、新たな指導者として担ぐ可能性があった。

直義方は、護良親王を連れて退却するのではなく、親王を殺すという判断をした。

淵辺が護良親王を殺害する

足利直義方の淵辺は、東光寺に幽閉されていた護良親王を殺害した。

護良親王は、鎌倉幕府を倒すために大きな役割を果たし、幕府滅亡後には征夷大将軍となった人物だった。

しかし、建武政権内部の対立によって捕らえられ、最後には旧幕府勢力の反乱が起きた混乱の中で命を奪われた。

『南方紀伝』は、護良親王の殺害を、足利直義の鎌倉退却と結びつけて記している。

親王の死は、建武政権内部の対立が、すでに取り返しのつかない段階へ進んでいたことを示している。

手越河原で戦う

鎌倉を退いた直義方は、東海道を西へ向かいながら反乱軍と戦った。

手越河原でも合戦が起こった。

直義方の武士は退却しながら戦わなければならず、軍勢の統制を保つことが難しくなった。

鎌倉を失ったことで、建武政権の関東支配は大きく揺らいだ。

今川勢が追い詰められる

直義方に従っていた今川氏の軍勢も、反乱軍との戦いで追い詰められた。

『南方紀伝』は、今川方の武士が自害したことを記している。

ただし、具体的な武将名、人名の区切り、戦った場所の細部については、写本と活字本の照合をさらに進める必要がある。

中先代の乱が短期間で関東全体へ広がり、直義方を急速に崩していったことが分かる。

足利尊氏が東国へ向かおうとする

足利直義の敗北と鎌倉陥落の知らせは、京都にいた足利尊氏のもとへ届いた。

尊氏は、弟の直義を助け、関東の反乱を鎮めるため、東国へ向かおうとした。

しかし、後醍醐天皇の政権において、尊氏が大軍を率いて独自に東国へ下ることには政治的な問題があった。

尊氏は征夷大将軍への任命や正式な追討命令を求めたと考えられるが、天皇との関係はすでに不安定になっていた。

尊氏が京都から東下する

足利尊氏は、最終的に京都を出て東国へ向かった。

尊氏は中先代の乱を鎮めるために出陣したが、この東下は単なる反乱討伐にとどまらなかった。

尊氏は東国の武士を集め、独自の軍事勢力を作り始める。

中先代の乱を平定した後も、尊氏はすぐには京都へ戻らなかった。

後醍醐天皇と足利尊氏の対立は、ここから表面化していく。

次の第6節では、後醍醐天皇が尊氏追討軍を東国へ送り、箱根・竹ノ下で戦うまでを扱う。

流れが分かる現代語訳

足利高氏から反乱の疑いをかけられた護良親王は捕らえられ、鎌倉の東光寺へ送られた。

親王は足利直義の監視下で、外へ出られない状態に置かれた。

1335年、北条氏の残党を中心とする軍勢が信濃方面から関東へ進み、鎌倉を攻撃した。

この戦いを中先代の乱という。

鎌倉を守っていた足利直義は反乱軍を防ぎきれず、鎌倉から逃れることになった。

直義方は、護良親王が反乱軍に助け出されることを恐れた。

そこで直義方の淵辺が、東光寺にいた護良親王を殺害した。

護良親王は、鎌倉幕府を倒すために戦った人物だったが、幕府滅亡から約二年後、味方同士の争いの中で亡くなった。

直義方は手越河原などで戦いながら西へ退却し、今川氏の武士にも多くの被害が出た。

弟の危機を知った足利尊氏は、京都を出て東国へ向かった。

尊氏は中先代の乱を鎮めた後、東国の武士を自分のもとへ集めるようになる。

この東下が、後醍醐天皇と足利尊氏の本格的な対立の始まりとなる。

人物・用語・史実注記

護良親王

後醍醐天皇の皇子です。倒幕運動を進め、幕府滅亡後には征夷大将軍となりましたが、足利高氏と対立して捕らえられました。

東光寺

鎌倉にあった寺院です。護良親王はここへ送られ、足利直義の監視下で幽閉されました。

足利直義

足利尊氏の弟です。鎌倉・関東の支配を担当していましたが、中先代の乱で鎌倉を失い、西へ退却しました。

中先代の乱

建武二年(1335年)、北条氏の残党を中心とする軍勢が鎌倉を一時的に占領した反乱です。

鎌倉幕府の北条氏を「先代」、後の足利氏を「当代」と考え、その間に鎌倉を支配した勢力を「中先代」と呼んだことに由来します。

今回の作業台帳では信濃勢の人名区切りに未確定箇所があるため、反乱側の個別人名は原画像再確認後に掲載します。

淵辺

足利直義方の人物です。直義が鎌倉から退却する際、幽閉されていた護良親王を殺害したと記されています。

手越河原

東海道に沿った合戦地として『南方紀伝』に現れます。鎌倉から退却する直義方と、追撃する反乱軍との戦いが記されています。

西園寺公宗

鎌倉幕府と関係の深かった公家です。建武政権に対する謀反を企てたとして処分されました。写本では関係者の人名に未確定箇所があります。

足利尊氏の東下

尊氏は弟の直義を助け、中先代の乱を鎮めるため東国へ向かいました。しかし、東国で独自に武士を集めたことが、後醍醐天皇との対立を深める原因となりました。

原文・復刻資料を開く

史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-6、全3ページ
  • 対象年代:建武元年~建武二年(1334~1335年)
  • 明治期活字本:PDF第3~4画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partの足利高氏による護良親王告発記事から続き、護良親王を鎌倉の東光寺へ送る記事を記す。

津軽・出羽・奥州方面の反乱・人事、北畠顕家の任官に関係する記事を置く。

西園寺公宗の謀反と、その関係者への処分を記す。

建武二年、信濃方面の軍勢が関東へ進み、鎌倉を攻撃する。

足利直義は鎌倉を退き、淵辺をして東光寺の護良親王を殺害させる。

直義方は手越河原などで戦いながら退却し、今川勢の武士が自害する。

京都にいた足利尊氏は、直義を救援し、反乱を鎮めるため東国へ下る。

注:津軽反乱者、一品房善文衛、出羽国司、信濃諸氏、清久山城守・蘆名判官などの人名は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

建武元年、護良親王、捕らえられ、鎌倉へ下向す。

親王、鎌倉東光寺に幽閉せられ、足利直義、これを守護す。

奥州・出羽・津軽方面に反乱・任官の記事あり。人名は未確定。

西園寺公宗、謀反を企つ。関係者、処分せらる。

建武二年、信濃の兵、鎌倉を攻めんとして関東へ進む。

足利直義、これを防ぐも敗れ、鎌倉を退く。

直義、淵辺をして、東光寺に幽閉されたる護良親王を害せしむ。

直義方、手越河原等において合戦し、西へ退く。

今川方の兵、戦に敗れ、自害する者あり。

足利尊氏、直義救援のため京都を出で、東国へ下向す。

〔尊氏追討軍の東征・箱根竹ノ下合戦へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第3~4画像付近には、護良親王の鎌倉護送・東光寺幽閉、西園寺公宗の謀反、中先代の乱、足利直義の鎌倉退却、護良親王殺害、手越河原の戦い、足利尊氏の東下が、漢文調の編年記事として収録されています。

活字本は、写本より人物名・官職・軍勢名を明確に記す箇所があります。一方、津軽反乱者名、出羽国司名、信濃諸氏の区切り、直義退却記事の細部には写本との差や判読上の問題があります。

注:活字本文の逐字版は、PDF第3~4画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
津軽の反乱者 仮名・官職・実名の区切りが不明瞭 漢字表記だが人物境界になお問題あり 人物名を確定せず保留
出羽国司 一人か複数人か判然としない 実名らしい漢字を記す 他史料・系譜と照合する
信濃勢の人物 名字・官職・実名の区切りが難しい 写本より明確だが完全ではない 個別人名は再校訂後に掲載
鎌倉からの退却 直義方の人物・戦闘を和文で説明 漢文調で日付・人物を列記 事件の大筋は一致、細部を保留
護良親王殺害 淵辺による殺害を記す 同趣旨 事件の中心内容は一致

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
津軽反乱者 時如・高氏以下か 人名・官職の区切りが不明 低~中
一品房善文衛 人物名または官称 写本・活字本とも実体を確定できない
北畠顕家の任官記事 奥州支配に関する任官 官職名・日付を逐字確定できない
西園寺公宗関係者 謀反関係者の人物列 姓名と処分内容の区切りが不明 低~中
出羽国司名 葉室幸相・光実等か 一人か二人か判然としない
清久山城守・蘆名判官 信濃・会津関係の武士名 実名・所属を確定できない 低~中

復刻作業記録

  • 手書き写本part-6の全3ページを一括して確認した。
  • 前part末尾の足利高氏による護良親王告発から、親王の鎌倉護送へ続く接続を確認した。
  • 次のpart-7が尊氏追討軍の東征から始まるため、尊氏の東下までを第5節とした。
  • 明治期活字本PDF第3~4画像付近と照合した。
  • 中先代の乱の反乱側人物は、写本・活字本とも区切りに問題があるため、個別名を推測で確定しなかった。
  • 護良親王殺害を、足利直義の鎌倉退却判断と結びつく記事として整理した。
  • 奥州・出羽・津軽の記事は、人物名よりも政治的な動きの大筋を優先して現代語化した。
  • 西園寺公宗関係者、出羽国司、清久山城守・蘆名判官は、別写本・人名辞典・系図による再確認対象とした。

翻刻・校訂記号の説明を見る

手書き写本第1冊 part-6の史料ページを見る

明治期活字本PDF第3画像を見る

明治期活字本PDF第4画像を見る

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6.尊氏追討――箱根・竹ノ下の敗北と北畠顕家の反撃

対象年代:建武二年~建武三年/延元元年(1335~1336年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-7/明治期活字本PDF第3~4画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

足利尊氏の将軍就任に関する表現、奥州の記事の日付、矢作・園城寺・宇治川周辺の人物名と討死者名には、写本と活字本の異同または判読保留があります。

この節の概要

中先代の乱を鎮めた足利尊氏は、東国で多くの武士を味方につけ、独自の軍事力を強めました。後醍醐天皇は尊氏を朝廷へ従わせようとしますが、尊氏は京都へ戻らず、新田義貞らとの対立を深めます。

後醍醐天皇は、尊良親王と新田義貞らを東国へ送り、尊氏を追討させました。追討軍は矢作を経て箱根・竹ノ下方面で尊氏軍と戦いますが、敗北して京都方面へ退却します。

尊氏はその勢いに乗って京都へ入りました。しかし、奥州から義良親王と北畠顕家が大軍を率いて上洛し、園城寺・京都周辺で尊氏軍を攻撃します。

一度は京都を占領した尊氏は、顕家・新田義貞らの反撃によって次第に追い詰められていきます。

情報を省略しない詳細現代語訳

足利尊氏が東国で力を強める

足利尊氏は、中先代の乱を鎮めるため京都から東国へ向かった。

尊氏は北条氏の残党を破り、鎌倉を取り戻した。

その戦いで尊氏に従った武士たちは、恩賞として土地や地位を求めた。尊氏は、東国の武士たちへ独自に恩賞を与え、その支持を集めていった。

そのため尊氏は、単に後醍醐天皇の命令を受けて戦う武将ではなく、多くの武士を自分の判断で動かせる存在となった。

『南方紀伝』は、この時期の尊氏の地位について、「征夷将軍と号した」と読める形で記している。

一方、明治期活字本では「征夷将軍宣」とあり、正式な宣下を受けたという意味にも読める。実際にどのような任命を指しているかは、本文上の検討が必要である。

後醍醐天皇と尊氏の対立が表面化する

後醍醐天皇は、反乱を鎮めた尊氏に京都へ戻るよう求めた。

しかし尊氏はすぐには京都へ戻らず、鎌倉を拠点として東国の武士を集め続けた。

後醍醐天皇の側から見れば、尊氏が朝廷の許可を受けずに恩賞を与え、多くの武士を従えていることは、新しい政権に対する大きな危険だった。

尊氏の側から見れば、中先代の乱を実際に鎮めた自分が、東国の武士へ恩賞を与えることは当然であるという考えがあった。

こうして後醍醐天皇と尊氏の対立は、朝廷内部の意見の違いではなく、軍勢を用いる対立へ変わっていった。

尊良親王と新田義貞が東国へ向かう

後醍醐天皇は、尊氏を討つための軍勢を東国へ派遣した。

追討軍には、後醍醐天皇の皇子である尊良親王と、新田義貞らが加わった。

新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼした武将であり、足利尊氏と並ぶ大きな軍事力を持っていた。

後醍醐天皇は、皇子を大将として派遣し、新田義貞らの軍勢によって尊氏を朝廷へ従わせようとした。

しかし、追討軍に参加した武士のすべてが、強く尊氏と戦う意思を持っていたわけではなかった。

足利氏と関係の深い武士や、戦況によって味方を変えようとする武士もいたため、追討軍の結束には不安があった。

矢作方面で戦う

尊良親王・新田義貞らの軍勢は東海道を進み、矢作方面で尊氏方と戦った。

『南方紀伝』には、矢作で戦った武士や討死した人物が記されている。

しかし、写本では姓名・官職の区切りが分かりにくく、明治期活字本とも人物名に違いがある。

そのため、現在の公開本文では、確実に判読できない討死者名を推測で列挙せず、矢作方面で両軍の戦闘が行われたことを本文としている。

戦いながら東へ進んだ追討軍は、やがて箱根を挟んで尊氏軍と向き合うことになった。

箱根・竹ノ下で両軍が衝突する

新田義貞らの追討軍と足利尊氏軍は、箱根・竹ノ下方面で大きな戦いを行った。

箱根周辺は東海道の重要な通路であり、ここを越えられるかどうかは、関東と京都との間を進軍するうえで大きな意味を持っていた。

追討軍は複数の方面に分かれて尊氏軍を攻撃した。

しかし、戦いの途中で軍勢の連携が崩れ、尊氏方へ移る武士も現れた。

竹ノ下方面の戦いでは尊氏軍が優勢となり、朝廷方の軍勢は敗れた。

この敗北によって、新田義貞らは東国へ進むことができなくなり、西へ退却することになった。

追討軍が京都方面へ退却する

箱根・竹ノ下で敗れた追討軍は、東海道を西へ戻った。

敗走する途中にも、尊氏軍の追撃や、各地の武士の離反が続いた。

新田義貞は残った軍勢をまとめながら京都方面へ退いた。

尊良親王も追討軍と行動をともにした。

建武政権は、尊氏を短期間で討つどころか、尊氏軍が京都へ進む道を開いてしまった。

尊氏が京都へ進む

追討軍を破った足利尊氏は、東海道を西へ進んだ。

尊氏が進むにつれて、各地の武士がその軍勢へ加わった。

尊氏は京都へ入り、建武政権の中心を脅かした。

後醍醐天皇方は京都周辺で抵抗したが、箱根・竹ノ下の敗北によって軍勢が弱っており、尊氏の進撃をすぐには止められなかった。

尊氏は一時的に京都を支配する立場となった。

元号を延元へ改める

この戦乱の中で、後醍醐天皇側では元号が「延元」へ改められた。

『南方紀伝』では、尊氏の京都進入や北畠顕家の上洛と並ぶ時期の記事として、延元への改元が記されている。

後に、京都の北朝側では「建武」の年号を引き続き使用し、吉野の南朝側では「延元」を使用するようになる。

この時点ではまだ南北朝の二つの朝廷が完全に成立してはいなかったが、元号の違いは、政治的な分裂が近づいていることを示している。

奥州で義良親王と北畠顕家が動く

京都の後醍醐天皇方が危機に陥ると、奥州にいた義良親王と北畠顕家が軍勢を率いて上洛することになった。

義良親王は後醍醐天皇の皇子であり、北畠顕家らに支えられて奥州支配の中心となっていた。

北畠顕家は、かつて北山の花見で陵王を舞った少年だったが、この時には奥州の武士を率いる軍事指導者へ成長していた。

『南方紀伝』には、この時期の奥州での反乱や戦闘も記されている。

ただし、その日付は写本では八月十三日、別の読みまたは活字本では八月二十三日となる可能性があり、現在も確定していない。

顕家軍が奥州から上洛する

北畠顕家は義良親王を奉じ、奥州の軍勢を率いて京都方面へ向かった。

奥州から京都までの距離は長く、短期間に大軍を移動させることは容易ではなかった。

それでも顕家軍は各地を進み、尊氏方と戦いながら畿内へ入った。

この軍勢の中には、相馬氏や勅使河原氏など、東国・奥州に関係する武士の記事も含まれているとみられる。

しかし、写本では相馬胤平の下の字、勅使河原父子の姓名などが不明瞭であり、人物を完全には確定できていない。

園城寺周辺で尊氏軍と戦う

京都へ向かった顕家軍は、園城寺周辺で尊氏軍と戦った。

園城寺は近江国から京都へ入る交通路に近く、京都の東側をめぐる重要な場所だった。

顕家軍だけでなく、新田義貞らの軍勢も態勢を立て直し、尊氏軍への反撃に加わった。

『南方紀伝』には、園城寺周辺の戦いに参加した人々や討死者が記されているが、写本と活字本で人名・日付に差がある。

臨瀬資連と読める人物についても、「資連」なのか「資忠」なのかが確定していない。

京都・宇治川方面で反撃が続く

顕家・義貞らの軍勢は、園城寺だけでなく、京都周辺や宇治川方面でも尊氏軍と戦った。

尊氏は一度京都を占領したものの、奥州軍と新田軍の反撃を受け、次第に戦況を維持できなくなった。

宇治川周辺の戦闘では複数の武士が討死したとみられるが、写本では人名の境界が分かりにくく、現在も逐字確定には至っていない。

また、憲房と記される人物の系譜・所属についても、前後の記事だけでは確定できない。

京都周辺の戦いによって、尊氏軍は大きく押し戻された。

尊氏が京都で追い詰められる

足利尊氏は、箱根・竹ノ下で追討軍を破り、勢いに乗って京都へ入った。

しかし、奥州から現れた北畠顕家軍と、態勢を立て直した新田義貞軍によって、戦況は再び逆転した。

尊氏は京都を維持することが困難となり、退却を考えなければならない状況へ追い込まれた。

次の第7節では、尊氏が京都から西国へ退き、九州で勢力を立て直した後、再び京都を目指すまでを扱う。

流れが分かる現代語訳

中先代の乱を鎮めた足利尊氏は、鎌倉で多くの武士を味方につけた。

後醍醐天皇は尊氏に京都へ戻るよう求めたが、尊氏は東国にとどまった。

尊氏は自分の判断で武士へ恩賞を与え、朝廷から独立したような行動を取り始めた。

そこで後醍醐天皇は、皇子の尊良親王と新田義貞らを東国へ送り、尊氏を討たせようとした。

追討軍は矢作を経て、箱根・竹ノ下方面で尊氏軍と戦った。

しかし、追討軍の中から尊氏方へ移る武士が現れ、軍勢の連携も崩れた。

新田義貞らは敗れ、京都方面へ退却した。

尊氏は追討軍を追って京都へ入り、一時は都を支配した。

ところが、奥州から義良親王と北畠顕家が大軍を率いて上洛した。

顕家軍は園城寺や京都周辺で尊氏軍を攻撃し、新田義貞も反撃に加わった。

箱根・竹ノ下で勝利した尊氏は、今度は京都で追い詰められることになった。

尊氏はこの後、西国へ退却する。しかし、そこで再び軍勢を集め、京都へ戻ってくる。

人物・用語・史実注記

尊良親王

後醍醐天皇の皇子です。新田義貞らとともに足利尊氏追討軍へ加わり、東海道を東へ進みました。

新田義貞

鎌倉幕府を滅ぼした武将です。建武政権側の主力として尊氏を追討しましたが、箱根・竹ノ下方面の戦いで敗れました。

北畠顕家

北畠親房の子です。奥州の武士を率いて長距離を進軍し、京都を占領していた足利尊氏へ反撃しました。

義良親王

後醍醐天皇の皇子です。北畠顕家に奉じられて奥州から上洛しました。後に南朝の後村上天皇となります。

竹ノ下の戦い

建武二年(1335年)、箱根周辺で足利尊氏軍と、新田義貞らの追討軍が戦った合戦です。追討軍の敗北によって、尊氏が京都へ進む道が開かれました。

園城寺

現在の滋賀県大津市にある寺院で、三井寺とも呼ばれます。近江から京都へ入る道に近く、京都をめぐる戦いの重要な場所となりました。

延元

後醍醐天皇側で用いられた元号です。後に京都の北朝が建武を使用し、吉野の南朝が延元を使用することで、同じ時期に異なる元号が並立します。

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史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-7、全3ページ
  • 対象年代:建武二年~建武三年/延元元年(1335~1336年)
  • 明治期活字本:PDF第3~4画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前part末尾の足利尊氏東下記事から続き、尊氏が東国で勢力を回復し、地位を高める記事を記す。

後醍醐天皇方は尊良親王・新田義貞らを尊氏追討のため東国へ派遣する。

追討軍と尊氏軍は矢作・箱根・竹ノ下方面で戦い、追討軍は敗れて京都方面へ退く。

元号を延元へ改める。

足利尊氏は軍勢を率いて京都へ入り、一時的に都を占領する。

奥州から義良親王・北畠顕家らが上洛し、園城寺・京都・宇治川周辺で尊氏軍と戦う。

尊氏軍は北畠顕家・新田義貞らの反撃によって追い詰められる。

注:奥州反乱の日付、臨瀬資連、相馬胤平、勅使河原父子、尹良親王記事、宇治川討死者、憲房の系譜は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

建武二年、足利尊氏、東国において勢力を集め、その地位を高む。

写本には尊氏「征夷将軍と号す」とあり、活字本には「征夷将軍宣」とあり。宣下の有無、なお未確定。

朝廷、尊氏を追討せしむ。尊良親王・新田義貞ら、軍勢を率いて東国へ下向す。

官軍、矢作等において尊氏方と合戦す。討死者の人名は未確定。

箱根・竹ノ下方面において合戦あり。官軍敗れ、京都方面へ退く。

元号を延元と改む。

足利尊氏、西上して京都へ入る。

義良親王・北畠顕家、奥州の軍勢を率いて上洛す。

顕家・義貞ら、園城寺・京都・宇治川周辺において尊氏軍と戦う。

尊氏軍、官軍の反撃を受け、次第に退却す。

〔尊氏の京都退去・西国下向記事へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第3~4画像付近には、尊氏の地位上昇、尊良親王・新田義貞らの東征、矢作・箱根・竹ノ下方面での戦い、延元改元、尊氏の京都進入、義良親王・北畠顕家の上洛、園城寺・京都周辺での戦いが漢文調で収録されています。

活字本では、尊氏の地位を「征夷将軍宣」と表現し、写本の「征夷将軍と号す」とは、正式な宣下の有無をめぐって意味が異なる可能性があります。

また、奥州反乱日、矢作の討死者、園城寺周辺の人名・日付は、写本と活字本で差があるか、どちらか一方でのみ明確に読める箇所があります。

注:活字本文の逐字版は、PDF第3~4画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
尊氏の地位 「征夷将軍と号す」 「征夷将軍宣」 正式な宣下を示すか未確定。両本文を併記する
奥州反乱の日付 八月十三日と読める 八月二十三日等の可能性 数字異同として保持し、他史料と照合する
矢作の討死者 仮名・官職が連続し、人名区切りが不明瞭 漢字表記だが写本と一部異なる 確実な人物だけを採用する
園城寺周辺の戦い 人名・日付を和文で記す 漢文調で整理するが異なる人物表記あり 事件の大筋は一致、細部は保留
京都・宇治川の討死者 複数人の人名境界が不明瞭 写本と異なる人物列の可能性 逐字版掲載前に再確認する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
奥州反乱日 八月十三日/二十三日 写本と活字本で数字が異なる 低~中
臨瀬資連 資連/資忠 姓名の下字に異読がある 低~中
相馬胤平 胤平 実名の下字が崩れている
勅使河原父子 父子の姓名未確定 名字・実名・続柄の区切りが不明瞭
尹良親王記事 大智院宮尹良 伝承性が高く、人物同定にも検討が必要
宇治川討死者 複数の武士名 姓名と官職の境界が確定できない
憲房の系譜 憲房に関する親族説明 どの憲房を指すか、系譜の接続が不明 低~中

復刻作業記録

  • 手書き写本part-7の全3ページを一つの範囲として確認した。
  • 前part末尾の尊氏東下から、尊氏が東国で勢力を回復する記事への接続を確認した。
  • 次のpart-8が尊氏の京都退去・西国下向へ続くため、顕家軍によって尊氏が追い詰められるところまでを第6節とした。
  • 明治期活字本PDF第3~4画像付近を対応箇所として照合した。
  • 尊氏の地位は、写本「征夷将軍と号す」と活字本「征夷将軍宣」の両方を保存した。
  • 矢作・園城寺・宇治川の討死者名は、確実に判読できないものを推測で本文へ入れなかった。
  • 尹良親王の記事は伝承性を含む可能性があるため、史実と断定せず再検討対象とした。
  • 相馬氏・勅使河原氏・憲房の系譜は、系図・軍記・人名辞典による再確認対象とした。

翻刻・校訂記号の説明を見る

手書き写本第1冊 part-7の史料ページを見る

明治期活字本PDF第3画像を見る

明治期活字本PDF第4画像を見る

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7.尊氏の再起――九州からの東上と湊川合戦

対象年代:延元元年/建武三年(1336年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-8/明治期活字本PDF第4~5画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

明石の和歌の作者、義良親王元服の加冠者、院宣を出した主体、小高城攻略の主語、六月十日の「重祚」記事などには、写本と活字本の異同または判読保留があります。

この節の概要

北畠顕家・新田義貞らの反撃を受けた足利尊氏は、京都を維持できなくなります。尊氏は一時、自害しようとするほど追い詰められましたが、京都を離れて西国へ退却しました。

尊氏は西国を進み、九州で軍勢を立て直します。その後、再び京都を目指して東へ進みました。

一方、後醍醐天皇方は新田義貞・楠木正成らを派遣して尊氏軍を迎え撃ちます。両軍は湊川方面で衝突し、楠木正成・正季兄弟は敗れて自害しました。

尊氏は湊川での勝利を経て、再び京都へ入りました。京都では後醍醐天皇に代わる新しい天皇を立てる動きが始まり、南北朝の分裂へ向かう政治状況が作られていきます。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、記事の順序を保ちながら説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な現代語訳ではありません。

足利尊氏が京都で追い詰められる

足利尊氏は、箱根・竹ノ下の戦いで後醍醐天皇方の追討軍を破り、一度は京都へ入った。

しかし、奥州から北畠顕家が大軍を率いて上洛し、新田義貞らも反撃に加わったため、尊氏軍は次第に京都を維持できなくなった。

各地で軍勢が敗れ、尊氏自身も非常に追い詰められた。

『南方紀伝』には、尊氏が自害しようとしたという趣旨の記事が記されている。

ただし、誰が尊氏を止めたのか、どの場所で自害を決意したのかという細部は、現在の作業台帳には逐字本文として保存されていない。

尊氏が京都を離れて西国へ退却する

尊氏は京都にとどまることを断念し、軍勢を率いて西国へ退却した。

尊氏方は、後醍醐天皇方の追撃を受けながら、兵庫・播磨方面へ進んだ。

写本には、兵庫の「魚御堂」と暫定的に読んでいる寺堂名が現れる。しかし「魚」に当たる文字が不鮮明であり、正式な地名・寺院名は確定していない。

この西国退却は、尊氏にとって大きな敗北だった。しかし、尊氏の軍事力が完全に失われたわけではなかった。

明石で和歌が詠まれる

尊氏方が西国へ向かう途中、明石に関係する和歌が記されている。

この歌は、敗れて都を離れ、海辺を西へ進む人物の不安や、再び都へ戻ろうとする思いを表したものと考えられる。

ただし、この歌を詠んだ人物について、写本の配置からは足利尊氏とも読める一方、明治期活字本の説明からは細川和氏と読む可能性がある。

作者によって歌の意味と歴史的背景が変わるため、本ページでは作者を一人に確定しない。

和歌の逐字本文も、別写本や歌集との照合後に掲載する。

尊氏が西国で勢力を立て直す

西国へ退いた足利尊氏は、そのまま戦いを諦めたわけではなかった。

尊氏は西国の武士たちへ働きかけ、再び軍勢を集めた。

さらに九州へ入り、そこで自分に従う勢力をまとめた。

作業台帳の要旨では、九州で軍勢を立て直した後、尊氏が再び東へ進んだことが確認できる。

ただし、九州で行われた個々の合戦名や、参加した武将の詳しい一覧は、現在保存されているpart-8の要旨だけでは確認できない。そのため、本ページでは推測による合戦名を追加しない。

義良親王が元服する

同じころ、後醍醐天皇の皇子である義良親王の元服に関する記事が記されている。

義良親王は、北畠顕家らに奉じられて奥州へ派遣されていた皇子である。

元服は、子どもが成人として扱われるようになる儀式だった。

しかし、義良親王の元服で誰が加冠役を務めたのかについては、写本と活字本に異同がある。

そのため、本文では元服したことのみを記し、加冠者は異同表で示す。

奥州・常陸方面でも戦いが続く

『南方紀伝』は、尊氏の西国退却と再進撃の記事の間に、奥州・常陸方面の戦いも記している。

京都と西国で大きな戦いが行われている間にも、東国では後醍醐天皇方と尊氏方、または各地の武士勢力との戦闘が続いていた。

写本には奥州の複数の地名が記されているが、文字の区切りが明確ではない。

特に「三箱」「湯本」「塩坂口」と暫定的に読んでいる部分は、それぞれ独立した地名なのか、複合した一つの地名なのかを確定できていない。

小高城をめぐる戦い

奥州方面の記事には、小高城の攻略に関係する記録が含まれている。

ただし、写本と明治期活字本では、誰が小高城を攻めたのか、または誰が城を落としたのかという主語の取り方に違いがある。

主語を誤って確定すると、勝った側と敗れた側が逆になる可能性がある。

そのため、現段階では「小高城をめぐる攻略戦があった」という範囲にとどめ、攻撃主体を断定しない。

院宣によって軍勢を動かす

尊氏の再進撃に対応するため、院宣によって軍勢を動かそうとする記事も記されている。

院宣とは、上皇や法皇の意思を伝える命令文である。

しかし、この箇所では、どの院が命令を出したのか、誰へ向けた命令だったのかについて、写本と活字本の説明に差がある。

現在の校訂では、院宣が出され、軍事行動を促す動きがあったことだけを本文とし、院宣の主体は判読保留としている。

尊氏が九州から東へ進む

九州で勢力を立て直した足利尊氏は、再び京都を目指して東へ進んだ。

尊氏方には、西国・九州で集まった武士たちが従った。

尊氏軍は、陸路だけでなく海上の移動も利用した可能性があるが、part-8の作業台帳要旨には軍勢の具体的な進路が逐字では保存されていない。

後醍醐天皇方は、京都へ近づく尊氏軍を止めるため、兵庫方面へ軍勢を送った。

楠木正成らが尊氏軍を迎え撃つ

後醍醐天皇方では、新田義貞・楠木正成らが尊氏軍を迎え撃つことになった。

楠木正成は、赤坂・金剛山で鎌倉幕府軍に抵抗し、後醍醐天皇の倒幕運動を支えた武将だった。

しかし、この時の尊氏軍は、西国で新たに多くの武士を集めていた。

後醍醐天皇方は、東から進む新田軍と、兵庫方面で戦う楠木軍などに分かれて対応した。

こうして、京都への道をめぐる決戦が湊川方面で行われることになった。

湊川合戦

尊氏軍と後醍醐天皇方の軍勢は、湊川方面で激しく戦った。

尊氏方は西国から進んできた大軍であり、後醍醐天皇方はその進撃を止めようとした。

戦いの結果、後醍醐天皇方は敗れた。

新田義貞の軍勢は京都方面へ退却し、楠木正成らは戦場に取り残される形となった。

この敗北によって、後醍醐天皇方は尊氏軍が京都へ進むのを防げなくなった。

楠木正成・正季兄弟が自害する

湊川合戦で敗れた楠木正成は、弟の正季らとともに自害した。

楠木兄弟は、鎌倉幕府との戦い以来、後醍醐天皇方を支え続けてきた。

その兄弟が失われたことは、後醍醐天皇方にとって軍事的にも精神的にも大きな打撃となった。

作業台帳では、この出来事を「楠木兄弟自害」として確認している。

ただし、最期の会話や自害した人数など、他の軍記物に見られる詳しい物語は、現在の台帳要旨だけでは確認できないため、本ページには追加しない。

尊氏が再び京都へ入る

湊川で勝利した足利尊氏は、軍勢を率いて再び京都へ入った。

尊氏は、数か月前には京都から敗走し、自害を考えるほど追い詰められていた。

しかし、西国と九州で勢力を立て直し、再び京都を奪い返した。

この出来事によって、建武政権の中心であった後醍醐天皇は、京都で自由に政治を続けることが難しくなった。

持明院統による新帝擁立への動き

京都へ戻った尊氏方は、後醍醐天皇とは別の天皇を立てる準備を進めた。

写本には、六月十日の記事として、「持明院殿先帝重祚」と暫定的に読んでいる記録がある。

「重祚」は、いったん皇位を退いた天皇が再び皇位に就くことを意味する語である。

しかし、この箇所が実際に誰のどの儀礼を指すのか、また文字どおりの再即位を意味するのかは確定していない。

次の第8節では、新しい天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野移動、京都の朝廷と吉野の朝廷が分かれていく過程を扱う。

流れが分かる現代語訳

北畠顕家・新田義貞らに敗れた足利尊氏は、京都から西国へ逃れた。

尊氏は自害しようとするほど追い詰められたが、戦いを諦めなかった。

尊氏は西国を進んで九州へ入り、そこで新しい軍勢を集めた。

その後、尊氏は再び京都を目指して東へ進んだ。

後醍醐天皇方では、新田義貞・楠木正成らが尊氏軍を迎え撃った。

両軍は湊川方面で戦ったが、後醍醐天皇方が敗れた。

新田義貞は京都方面へ退却し、楠木正成と弟の正季は自害した。

尊氏は湊川での勝利によって、再び京都へ入った。

尊氏方は、後醍醐天皇とは別の天皇を立てようとした。

こうして、京都の朝廷と後醍醐天皇の朝廷が分かれる南北朝時代が始まろうとしていた。

人物・用語・史実注記

足利尊氏

一度は京都から敗走しましたが、西国・九州で軍勢を集め直し、湊川合戦を経て京都を奪回しました。この再起によって、後の室町幕府成立へ向かう基盤を作ります。

楠木正成

河内国を中心に活動した後醍醐天皇方の武将です。鎌倉幕府との戦いから建武政権を支えましたが、湊川合戦で敗れて自害しました。

楠木正季

楠木正成の弟です。湊川合戦で兄とともに戦い、敗戦後に自害した人物として記されています。

湊川合戦

延元元年/建武三年(1336年)、兵庫方面で足利尊氏軍と後醍醐天皇方が戦った合戦です。楠木正成の死と、尊氏の京都再占領につながる重要な転換点となりました。

義良親王

後醍醐天皇の皇子です。奥州で北畠顕家らに支えられました。この節には元服の記事がありますが、加冠者について写本と活字本に異同があります。

持明院統

皇統の一方を構成した系統です。尊氏方は持明院統の皇族を中心として、後醍醐天皇とは別の朝廷を京都に作ろうとしました。

重祚

一度退位した天皇が再び即位することです。ただし、『南方紀伝』の「持明院殿先帝重祚」という暫定読みに当たる記事が、具体的にどの儀礼を指すのかは未確定です。

明石の和歌

尊氏方の西国退却中に置かれた歌です。作者を足利尊氏とするか細川和氏とするかについて、写本の配置と活字本の説明が一致していません。

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史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-8、全3ページ
  • 対象年代:延元元年/建武三年(1336年)
  • 明治期活字本:PDF第4~5画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前part末尾の京都周辺戦から続き、足利尊氏が敗れて自害しようとする記事を記す。

尊氏は京都を離れて西国へ退却し、兵庫・明石方面を進む。明石に関係する和歌を載せるが、作者は尊氏または細川和氏で未確定。

尊氏はさらに西国・九州で勢力を立て直し、再び京都を目指して東へ進む。

その間に、義良親王の元服、奥州・常陸の戦い、院宣、小高城攻略に関する記事を挟む。

尊氏軍と後醍醐天皇方は湊川方面で戦う。

楠木正成・正季兄弟らは敗れて自害する。

足利尊氏は再び京都へ入る。

六月十日、持明院統の先帝と「重祚」に関係する記事を記し、新帝擁立への動きへ続く。

注:兵庫魚御堂、細川氏の肩書、明石歌の作者、奥州地名、三箱・湯本・塩坂口、正忠朝臣、持明院殿先帝重祚は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

延元元年/建武三年、足利尊氏、官軍の攻撃を受けて京都に敗れ、自害せんとす。

尊氏、京都を退き、西国へ下向す。

兵庫の〔魚御堂〕に関する記事あり。寺堂名の文字、未確定。

明石において和歌あり。作者は尊氏とも細川和氏とも読め、なお定まらず。

尊氏、西国より九州へ入り、諸軍を集めて勢力を回復す。

義良親王、元服す。加冠者について写本と活字本に異同あり。

奥州・常陸方面に合戦あり。〔三箱・湯本・塩坂口〕等の地名区切り、未確定。

院宣を下し、軍勢を催す記事あり。その主体、未確定。

小高城攻略の記事あり。攻略主体、写本と活字本に異同あり。

足利尊氏、九州より再び東上す。

尊氏軍と官軍、湊川方面において合戦す。

官軍敗れ、楠木正成・正季兄弟、自害す。

足利尊氏、再び京都へ入る。

六月十日、持明院殿先帝「重祚」に関する記事あり。ただし具体的儀礼は未確定。

〔新帝践祚・後醍醐天皇の吉野移動記事へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第4~5画像付近には、尊氏の京都退去、西国・九州での再起、明石の和歌、義良親王の元服、奥州方面の戦い、尊氏の東上、湊川合戦、楠木兄弟の自害、尊氏再入京、新帝擁立への動きが漢文調で収録されています。

活字本は写本より人名・官職・地名を明確にする箇所がありますが、明石の歌の作者、元服の加冠者、院宣の主体、小高城攻略の主語、六月十日の記事では、写本と意味が異なる可能性があります。

注:活字本文の逐字版は、PDF第4~5画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
明石の和歌の作者 記事配置から足利尊氏とも読める 細川和氏と説明する可能性 作者を確定せず、両候補を保存する
義良親王元服の加冠者 人物名・官職の区切りが不明瞭 別の人物または官職として整理 元服の事実のみ本文とし、加冠者を保留する
院宣の主体 代名詞・主語が曖昧 院名または発給主体を補う 写本にない主体を無条件には補わない
小高城攻略 攻略した側の主語が不明瞭 主語を明記するが写本と異なる可能性 勝敗に影響するため断定しない
六月十日の記事 「持明院殿先帝重祚」と暫定読解 新帝擁立過程として異なる整理の可能性 人物と儀礼を確定せず、次節と連続して再校訂する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
兵庫の寺堂名 兵庫魚御堂 「魚」に当たる文字が不鮮明で、正式名称を特定できない 低~中
細川氏の肩書 細川氏某の官職 名字・官職・実名の区切りが不明瞭
明石の歌の作者 足利尊氏/細川和氏 写本の配置と活字本の説明が矛盾する
奥州の地名 複数の城・峠・地域名 文字が連続し、独立した地名の境界が分からない 低~中
地名群 三箱・湯本・塩坂口 三つの地名か、複合地名か未確定
正忠朝臣 正忠朝臣 人名・官職・前後記事との関係を特定できない
六月十日の重祚記事 持明院殿先帝重祚 誰のどの儀礼を指すか、史実関係が未確定

復刻作業記録

  • 手書き写本part-8の全3ページを一つの範囲として確認した。
  • 前part末尾の京都周辺戦から、尊氏の自害未遂・西国退却へ続く接続を確認した。
  • 次のpart-9が新帝の践祚、後醍醐天皇の吉野移動、南北朝分立の記事へ続くため、六月十日の「重祚」記事までを第7節とした。
  • 明治期活字本PDF第4~5画像付近を対応箇所として照合した。
  • 作業台帳に具体的な九州合戦名が保存されていないため、一般的な歴史知識から合戦名を補わなかった。
  • 明石の和歌は、作者を足利尊氏または細川和氏として保留した。
  • 院宣と小高城攻略は、主語を誤ると政治関係・勝敗が変わるため、断定しなかった。
  • 持明院殿先帝の「重祚」は、次partの新帝践祚記事とあわせて再校訂する。

翻刻・校訂記号の説明を見る

手書き写本第1冊 part-8の史料ページを見る

明治期活字本PDF第4画像を見る

明治期活字本PDF第5画像を見る

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8.南北朝の分立――光明天皇践祚と後醍醐天皇の吉野移動

対象年代:延元元年~延元二年/建武三年~建武四年(1336~1337年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-9/明治期活字本PDF第5画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

新帝践祚の記事配置、合戦での討死期間、奥州の地名・人名、官職停止となった人物の区切りには、判読保留または活字本との相違があります。

この節の概要

足利尊氏が再び京都へ入った後も、後醍醐天皇方の抵抗は続きました。無動寺や醍醐寺の周辺では合戦が起こり、後醍醐天皇方の名和長年も戦死します。

京都では光明天皇が践祚し、足利尊氏方を支える新しい朝廷が成立していきました。

一方、後醍醐天皇は京都を離れて吉野へ移ります。これによって、京都の朝廷と吉野の朝廷が並び立つ状態が明確になりました。

各地では金崎城をはじめとする軍事拠点で戦いが続き、奥州でも支配体制の再編と軍事衝突が進みました。また、後醍醐天皇方に属した公家たちへの官職停止や処分も行われました。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、記事の順序に沿って説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な現代語訳ではありません。

京都周辺で戦いが続く

足利尊氏が湊川合戦に勝利して京都へ入った後も、後醍醐天皇方の軍勢がすぐに消滅したわけではなかった。

京都とその周辺では、尊氏方と後醍醐天皇方との戦闘が続いた。

『南方紀伝』は、その戦いの場所として無動寺や醍醐寺を記している。

ただし、この範囲では合戦の記事と討死者の記事が連続しており、戦闘が何日から何日まで続いたのかは完全には判読できていない。

無動寺周辺の合戦

無動寺周辺では、後醍醐天皇方と足利尊氏方との合戦が行われた。

写本には、この戦いに参加した武士や討死した人物が記されている。

しかし、人物名と官職名が連続して書かれているため、誰の姓名がどこで区切られるのか確定していない部分がある。

多田頼氏と暫定的に読んでいる人物も、この合戦またはその前後の記事に現れるが、実名と官職の確認が必要である。

醍醐寺周辺でも戦う

醍醐寺の周辺でも戦闘が行われた。

京都の市街だけでなく、山科・醍醐方面を含む広い地域で、両軍が移動しながら戦っていたことが分かる。

写本には、高豊前守師重と暫定的に読んでいる人物名が現れる。

ただし、「高」が名字なのか、官職や別の人物名とつながるのかについて再確認が必要である。

名和長年が戦死する

京都周辺の戦いの中で、名和長年が戦死した。

名和長年は、隠岐国を脱出した後醍醐天皇を伯耆国で迎え、船上山を拠点とする倒幕運動を支えた武将だった。

鎌倉幕府滅亡後も後醍醐天皇に従い、足利尊氏方との戦いに参加していた。

その長年が失われたことは、後醍醐天皇方にとって大きな打撃となった。

ただし、『南方紀伝』写本では、周辺の討死者を記した期間が「五日から二十日まで」などと読める可能性があるものの、数字と年月日の区切りが確定していない。

京都で光明天皇が践祚する

京都では、光明天皇が新たに皇位へ就いた。

『南方紀伝』写本では、新帝の即位・践祚に関する記事が、本文と傍書に分かれて記されている。

一方、明治期活字本では、関連する文章が漢文調の一続きの記事としてまとめられている。

記事の配置には違いがあるが、京都で新帝を立てる動きが進んだという中心内容は共通している。

これによって、足利尊氏方は、後醍醐天皇とは別の天皇と朝廷を京都に持つことになった。

大覚寺で火災が起こる

同じ時期の記事として、大覚寺の火災が記されている。

『南方紀伝』は、政治や合戦だけでなく、寺院の火災や災害も年代順に記録している。

ただし、火災によって具体的にどの建物が失われたのか、また政治事件と直接関係していたのかについては、現在の作業台帳の要旨だけでは確認できない。

後醍醐天皇が吉野へ移る

足利尊氏方が京都で新しい朝廷を整える一方、後醍醐天皇は京都を離れて吉野へ向かった。

『南方紀伝』は、この移動を後醍醐天皇の吉野行幸として記している。

後醍醐天皇は吉野を新たな政治的拠点とし、自らの朝廷を維持した。

これ以後、京都にある朝廷と吉野にある朝廷が、それぞれ天皇と支持者を持つ状態が続くことになる。

京都の北朝と吉野の南朝

京都の光明天皇を中心とする朝廷は、後に北朝と呼ばれる。

吉野の後醍醐天皇を中心とする朝廷は、後に南朝と呼ばれる。

『南方紀伝』のこの節では、新帝の践祚と後醍醐天皇の吉野移動が同じ時期の記事として並べられている。

そのため、この範囲は、京都と吉野の二つの朝廷が明確に分かれていく転換点として整理できる。

ただし、当時の本文が「北朝」「南朝」という呼称をどのように用いているかは、逐字翻刻の再確認後に判断する。

南朝方の公家が処分される

京都では、後醍醐天皇方に属した公家たちに対する処分も行われた。

写本には、複数の人物について官職を停止されたことや、政治の場から退けられたことを示す記事がある。

しかし、人名・官職・処分内容が連続して書かれているため、どの人物がどの官職を停止されたのか、完全には確定していない。

通冬・宗兼・隆直などと暫定的に区切っている人物名があるが、公家の系譜・官職記録との照合が必要である。

実任・公量・源親光と読める人物についても、下の字や姓名の境界に再確認の余地がある。

金崎城をめぐる攻防

北陸方面では、金崎城をめぐる戦いが続いた。

金崎城は、京都を離れた後醍醐天皇方にとって重要な軍事拠点の一つとなっていた。

このpartでは攻防の途中までが記され、城の陥落と城内にいた人々の最期は、次の第9節へ続く。

したがって、この節では金崎城が攻撃を受けていたことまでを扱い、陥落後の出来事を先取りしない。

奥州の支配体制を整える

『南方紀伝』は、奥州に管領を置いたことに関する記事も記している。

京都と吉野で朝廷が分かれる一方、奥州でも新たな政治・軍事体制を整える必要があった。

ただし、誰が管領に任命されたのか、どの勢力による任命だったのかについては、現在の作業台帳の要旨だけでは逐字確認できない。

そのため、本ページでは「奥州管領設置の記事がある」とし、具体的な人物名は確定しない。

奥州でも軍事衝突が続く

奥州では、管領設置の記事だけでなく、各地の合戦や討死者についても記されている。

久慈東小里郷と暫定的に読んでいる地名も、この奥州関係の記事に現れる。

しかし、この語が一つの地名なのか、「久慈」「東小里郷」など複数の地名に分かれるのかは確定していない。

奥州の人名・地名は写本で崩れが強く、明治期活字本との間でも区切り方に違いがある。

京都と吉野の朝廷が分かれた後、争いは都だけでなく、奥州・北陸を含む各地へ広がっていた。

南北朝の戦いが全国へ広がる

光明天皇の践祚と後醍醐天皇の吉野移動によって、二つの朝廷が並び立つ政治状況が明確になった。

しかし、朝廷が二つに分かれただけで、全国の武士がすぐにどちらか一方へ統一されたわけではなかった。

京都周辺、北陸、奥州などで、双方を支持する軍勢が戦い続けた。

また、京都では南朝方の公家が処分され、地方では城や所領をめぐる争いが進んだ。

次の第9節では、金崎城の陥落、尊良親王・新田義顕の最期、北畠顕家の第二次西征と戦死までを扱う。

流れが分かる現代語訳

足利尊氏が京都へ戻った後も、後醍醐天皇方との戦いは続いた。

無動寺や醍醐寺の周辺で合戦が起こり、後醍醐天皇を長く支えてきた名和長年も戦死した。

京都では、尊氏方が光明天皇を新しい天皇として立てた。

一方、後醍醐天皇は京都を離れ、吉野へ移った。

これによって、京都の朝廷と吉野の朝廷が並び立つことになった。

京都の朝廷は後に北朝、吉野の朝廷は後に南朝と呼ばれる。

京都では、後醍醐天皇に味方した公家たちが官職を停止されるなどの処分を受けた。

北陸では金崎城をめぐる戦いが続き、奥州でも新しい支配体制が作られ、各地で合戦が起こった。

南北朝の争いは、二人の天皇の争いだけではない。

公家・武士・寺院・地方の領主が、どちらの朝廷を支持するかによって全国で分かれて戦う時代となった。

人物・用語・史実注記

光明天皇

足利尊氏方が京都で立てた天皇です。この践祚によって、後醍醐天皇とは別の朝廷が京都に作られていきました。

後醍醐天皇の吉野行幸

後醍醐天皇が京都を離れて吉野へ移った出来事です。吉野は、その後の南朝の政治的中心となりました。

北朝と南朝

京都を中心とした朝廷を北朝、吉野を中心とした朝廷を南朝と呼びます。二つの朝廷はそれぞれ天皇を持ち、各地の武士や公家も二つの側へ分かれました。

名和長年

後醍醐天皇が隠岐を脱出した際、伯耆国で天皇を迎えた武士です。その後も天皇方として戦い、この節の京都周辺戦で戦死します。

無動寺

比叡山に関係する寺院・地域名として、この節の合戦記事に現れます。具体的な戦場範囲と参加者は再校訂が必要です。

醍醐寺

京都南東部にある寺院です。この周辺でも尊氏方と後醍醐天皇方の戦いが記されています。

金崎城

北陸方面における後醍醐天皇方の重要拠点です。この節では攻防の途中までが記され、陥落と城内の人々の最期は次節へ続きます。

官職停止

政治的な立場や行動を理由に、朝廷で持っていた官職を解かれる処分です。この節では、南朝方に属した公家への処分記事が見られます。

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史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-9、全3ページ
  • 対象年代:延元元年~延元二年/建武三年~建武四年(1336~1337年)
  • 明治期活字本:PDF第5画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前part末尾の北朝新帝擁立への動きから続く。

無動寺・醍醐寺周辺の合戦と、複数の討死者を記す。

後醍醐天皇方として戦った名和長年が戦死する。

京都において光明天皇が践祚する。新帝即位・践祚の記事は、本文と傍書に分散している。

大覚寺の火災を記す。

金崎城をめぐる攻防が続く。

後醍醐天皇は吉野へ行幸し、京都の北朝と吉野の南朝が明確に分立する。

奥州に管領を置く記事、奥州各地の戦いと人名・地名を記す。

南朝方の公家に対する官職停止・処分の記事を記す。

注:多田頼氏、高豊前守師重、討死期間、久慈東小里郷、官職停止人物、実任・公量・源親光は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

延元元年/建武三年、京都近辺において、官軍と足利方、なお合戦す。

無動寺・醍醐寺の辺に戦あり。討死者ならびに戦闘期間、本文判読なお未確定。

名和長年、戦死す。

京都において、新帝・光明天皇、践祚す。

写本における新帝即位・践祚の記事は、本文と傍書に分かれて記さる。

大覚寺、火災あり。

金崎城をめぐり、攻防続く。

後醍醐天皇、京都を離れ、吉野へ行幸す。

ここに京都の朝廷と吉野の朝廷、分立す。

奥州に管領を置く記事あり。任命されたる人物、なお未確定。

奥州各地において合戦あり。人名・地名の区切り、なお定まらず。

後醍醐天皇方に属したる公家の官職を停止し、処分する記事あり。

〔金崎城陥落・尊良親王らの最期へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第5画像付近には、無動寺・醍醐寺周辺の合戦、名和長年の戦死、光明天皇の践祚、大覚寺火災、金崎城攻防、後醍醐天皇の吉野行幸、奥州関係記事、南朝方公家への処分が漢文調で収録されています。

新帝即位・践祚の記事は、写本では本文と傍書に分散していますが、活字本では一続きの記事として整理されています。

官職停止となった人物、奥州の地名・人名、討死者と戦闘期間については、写本と活字本で区切り方や表記に差があります。

注:活字本文の逐字版は、PDF第5画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
新帝即位・践祚 本文と傍書に分散して記す 漢文調の一続きの記事として記す 内容を統合するが、写本の配置を注記する
官職停止人物 複数の人名・官職が連続し、区切りが不明瞭 写本とは異なる区切り方で整理される箇所あり 人物ごとの処分を確定せず、原文差を保持する
奥州の地名・人名 仮名・官職・地名が連続する 漢字表記で補読できるが、完全には一致しない 活字本を補助にするが、無条件には統一しない
討死者の期間 五日から二十日まで等にも読める 日付または期間の整理に差がある可能性 数字を確定せず、戦闘期間として保留する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
無動寺・醍醐寺戦の人物 多田頼氏 名字・実名・前後人物との区切りが不明瞭 低~中
合戦関係者 高豊前守師重 「高」が名字か、別の語とつながるか未確定
討死期間 五日から二十日までか 年月日と人数表現の区切りを判別できない 低~中
奥州地名 久慈東小里郷 一つの地名か、複数の地名か不明 低~中
官職停止人物 通冬・宗兼・隆直等 人名・官職・処分内容の対応を確定できない
南朝方公家 実任・公量・源親光 実名の下字と姓名の境界が不鮮明 低~中
奥州管領 人物名未確定 誰の任命か、官職と実名の区切りが不明

復刻作業記録

  • 手書き写本part-9の全3ページを一つの範囲として確認した。
  • 前part末尾の北朝新帝擁立への動きから、光明天皇践祚の記事への接続を確認した。
  • 次のpart-10が金崎城陥落と尊良親王らの最期へ続くため、金崎城攻防の途中までを第8節とした。
  • 明治期活字本PDF第5画像付近を対応箇所として照合した。
  • 新帝即位・践祚は、写本で本文と傍書に分かれているため、公開用本文では内容を統合し、配置差を異同欄に残した。
  • 名和長年戦死、大覚寺火災、後醍醐天皇吉野行幸は、第一次判読で確認された記事として採用した。
  • 官職停止人物は、人物と官職の対応を推測で確定しなかった。
  • 奥州管領・久慈東小里郷・奥州関係者は、地誌・公家系譜・別写本による再確認対象とした。

翻刻・校訂記号の説明を見る

手書き写本第1冊 part-9の史料ページを見る

明治期活字本PDF第5画像を見る

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9.金ヶ崎城の悲劇――北畠顕家の第二次西征と戦死

対象年代:延元二年~延元三年/建武四年~暦応元年(1337~1338年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-10/明治期活字本PDF第5~6画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

経忠の吉野入りの日付、北朝関白名、二月四日の人物、奈良方面の戦いに参加した人名、六月の討死者名などには、写本と活字本の異同または判読保留があります。

この節の概要

北陸における南朝方の重要拠点だった金ヶ崎城が陥落し、城内にいた尊良親王と新田義顕は自害しました。恒良親王についても、足利方に捕らえられたことを示す記事がありますが、本文の細部には再確認が必要です。

南朝方は皇族と有力武将を失いましたが、戦いを諦めたわけではありません。奥州にいた北畠顕家は、再び大軍を率いて西へ向かいました。

顕家軍は青野原から伊勢へ進み、雲津河・奈良・八幡などで足利方と戦いました。しかし、奥州から畿内まで続く長い遠征によって軍勢は消耗していきます。

最後に北畠顕家は堺浦方面で戦い、二十一歳で戦死しました。南朝は、若く有力な軍事指導者を再び失うことになりました。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、記事の順序に沿って説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な現代語訳ではありません。

金ヶ崎城が包囲される

北陸における南朝方の重要拠点である金ヶ崎城は、足利方の軍勢によって攻撃を受けていた。

城内には、後醍醐天皇の皇子である尊良親王と、新田義貞の子である新田義顕らがいた。

金ヶ崎城を守る南朝方は、外部からの援軍を期待しながら抵抗を続けた。

しかし、包囲が長く続くにつれて、城内の軍勢は次第に追い詰められていった。

現在の作業台帳には、包囲中の食料事情や城内評議の逐字本文までは保存されていない。そのため、本ページでは、別の軍記物に見られる詳しい描写を追加せず、『南方紀伝』の第一次判読で確認された範囲にとどめる。

金ヶ崎城が陥落する

延元二年/建武四年(1337年)、金ヶ崎城は足利方の攻撃によって陥落した。

城を守っていた南朝方は、これ以上抵抗を続けることができなくなった。

城内にいた皇族や武士たちは、脱出・降伏・自害など、それぞれの選択を迫られた。

『南方紀伝』は、金ヶ崎城の陥落に続けて、尊良親王と新田義顕の最期を記している。

尊良親王が自害する

尊良親王は、金ヶ崎城内で自害した。

尊良親王は、後醍醐天皇の皇子である。

元弘の乱では幕府に捕らえられて土佐国へ流され、その後、鎌倉幕府滅亡後の政治と戦乱に再び関わった。

足利尊氏追討の際には、新田義貞らとともに東国へ向かい、箱根・竹ノ下方面でも戦っていた。

その尊良親王が金ヶ崎城で亡くなったことは、南朝にとって皇族の軍事指導者を失う大きな損失だった。

新田義顕も自害する

新田義顕も、尊良親王とともに金ヶ崎城で自害した。

義顕は、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子である。

北陸における南朝方の中心人物として、尊良親王を支えながら金ヶ崎城を守っていた。

尊良親王と新田義顕が同じ城で亡くなったことにより、南朝は北陸戦線で皇族と有力武将を同時に失った。

この出来事は、南朝の北陸支配に大きな打撃を与えた。

恒良親王が捕らえられる

金ヶ崎城陥落後の記事には、恒良親王が足利方に捕らえられたことを示すとみられる記録がある。

恒良親王も後醍醐天皇の皇子であり、北陸方面の南朝勢力にとって重要な存在だった。

ただし、写本では恒良親王捕縛の記事と、その後に続く人物・行動の区切りが十分に確定していない。

そのため、捕縛後の経過や処遇については、この節の確定本文にはまだ組み込まない。

南朝が皇族と有力武将を失う

金ヶ崎城の陥落によって、南朝は尊良親王と新田義顕を失った。

さらに恒良親王も足利方に捕らえられたと読めるため、北陸に配置されていた南朝皇族の活動は大きく制限された。

後醍醐天皇は、皇子たちを各地へ送り、皇族を中心とする地方支配を作ろうとしていた。

しかし金ヶ崎城の敗北は、その構想が軍事的に大きく後退したことを示している。

経忠が吉野へ入る

金ヶ崎城関係の記事に続いて、経忠という人物が吉野へ入ったことが記されている。

写本では、この出来事の日付を四月六日と記す。

一方、明治期活字本では四月五日となっている。

一日の違いではあるが、写本と活字本の系統差を示す明確な日付異同であるため、どちらか一方へ統一しない。

また、経忠の姓名・官職・吉野入りの具体的な目的については、逐字本文の再確認が必要である。

北朝側の人事記事

この時期の記事には、京都の北朝側における関白などの人事も含まれている。

写本では、北朝関白名を「基嗣」と読める可能性がある。

しかし、実名の字形が大きく崩れており、公家の系譜や官職記録と照合しなければ確定できない。

そのため、本ページでは具体的な関白名を本文へ組み込まず、北朝側の人事記事があることだけを示す。

常陸方面でも戦いが続く

『南方紀伝』は、北陸と畿内だけでなく、常陸方面の戦闘も記している。

南朝と北朝・足利方の争いは、一つの地域だけで進んでいたのではなかった。

金ヶ崎城が陥落した時期にも、東国では南朝方の拠点や軍勢が活動していた。

ただし、このpartに記された常陸戦については、現在の作業台帳には参加者・城名・勝敗の逐字本文が保存されていない。

そのため、特定の合戦名や勝敗を一般的な歴史知識から補わず、常陸方面で軍事衝突が続いていたことのみを本文とする。

北畠顕家が再び西へ向かう

奥州にいた北畠顕家は、南朝方を救うため、再び大軍を率いて西へ向かった。

顕家にとって、これは二度目の大規模な西征だった。

一度目の西征では、義良親王を奉じて奥州から京都へ進み、京都を占領していた足利尊氏を退却させた。

しかし、その後も南朝の軍事状況は悪化し、後醍醐天皇は再び顕家の軍事力を必要とした。

顕家軍は奥州から関東・東海道方面を通り、畿内を目指して長距離を進んだ。

青野原で戦う

北畠顕家軍は、青野原で足利方の軍勢と戦った。

『南方紀伝』は、青野原を顕家の第二次西征における主要な戦場の一つとして記している。

ただし、作業台帳の要旨には、参加したすべての武将名や、各軍勢の配置までは保存されていない。

そのため、本ページでは、青野原で顕家軍と足利方が戦ったことを中心に記す。

顕家軍は、その後も西へ進んだ。

伊勢方面へ進む

青野原方面を経た顕家軍は、伊勢方面へ移動した。

奥州から京都へ直進するだけでなく、伊勢・大和方面を経由することになったため、遠征はさらに長くなった。

軍勢は各地で戦いながら移動しなければならず、兵士・馬・食料の負担が増していった。

作業台帳では、顕家の第二次遠征が長距離戦によって消耗していく過程として整理されている。

雲津河で戦う

顕家軍は、雲津河と記される場所でも戦った。

この地名は第一次判読で確認されているが、写本の表記と現在の地名との対応については、地誌による再確認が必要である。

雲津河の戦いにおける軍勢の主語や討死者名についても、完全には確定していない。

そのため、顕家軍が伊勢方面を通過する途中で戦闘を行ったという大筋を本文とする。

奈良方面の戦い

顕家軍は奈良方面へ進み、足利方の軍勢と戦った。

写本には、奈良方面の戦いに参加した人物や討死者が記されている。

しかし、姓名・官職・戦闘場所の区切りが不明瞭であり、明治期活字本とも人名に差がある。

特に、東弥九郎、師泰頼などと暫定的に読んでいる人物については、名字と実名の境界や所属勢力を確定できていない。

現在の公開本文では、不確かな人名を戦死者として断定せず、奈良方面で戦闘が行われたことのみを確定部分とする。

八幡方面へ移る

顕家軍は奈良方面から、さらに八幡方面へ移動した。

八幡は、京都へ入る道や河川交通と関係する重要な地域だった。

しかし、長い遠征と連続する戦闘によって、顕家軍の戦力は次第に低下していった。

この範囲には、北畠顕信の陣地名とみられる語もあるが、地名を確定できていない。

また、「黒地」と暫定的に読んでいる語が、地名・地形・軍装などのどれを指すかも未解決である。

細川和氏の奏状に関する記事

このpartには、細川和氏の奏状に関係するとみられる記事も含まれている。

奏状とは、朝廷や上位者へ事情や意見を申し上げるための文書である。

ただし、誰が誰へ何を報告したのか、また顕家軍との戦いのどの段階に置かれる記事なのかは、現段階では確定していない。

そのため、細川和氏の奏状の内容を推測で復元せず、原文資料欄の判読保留事項として残す。

顕家軍が消耗する

北畠顕家軍は、奥州から畿内まで長距離を移動し、その間に複数の戦いを重ねた。

青野原、伊勢、雲津河、奈良、八幡と進む間に、軍勢は少しずつ消耗していった。

援軍や食料を安定して得られなければ、戦いに勝ったとしても大軍を長く維持することは難しい。

『南方紀伝』の編年記事は、顕家の第二次西征を、各地を転戦しながら戦力を失っていく過程として記している。

堺浦方面で最後の戦いとなる

顕家軍は、最終的に堺浦方面へ進んだ。

ここでも足利方との戦闘が行われた。

顕家軍はすでに長い遠征で疲れ、多くの兵を失っていた。

『南方紀伝』は、この堺浦方面の戦いに続けて、北畠顕家の戦死を記している。

六月の討死者名には写本と活字本で差があり、「高西安東権介」と暫定的に読んでいる箇所も、一人の名なのか複数人の人名・官職なのか確定していない。

北畠顕家が二十一歳で戦死する

北畠顕家は、堺浦方面の戦いで戦死した。

顕家は、この時二十一歳だったと記されている。

元弘元年の記事では、後醍醐天皇の北山花見において、十四歳で陵王を舞う少年として登場していた。

その後、義良親王を奉じて奥州へ下り、奥州の軍勢を率いる指導者となった。

一度目の西征では、京都を占領していた足利尊氏を退却させる大きな役割を果たした。

二度目の西征でも、奥州から畿内まで進んだが、長い転戦の末に戦死した。

北畠顕家の死によって、南朝は若く有力な軍事指導者を失った。

次の第10節では、新田義貞の戦死と、南朝の皇子・北畠親房らが伊勢から海路で各地へ向かう過程を扱う。

流れが分かる現代語訳

北陸にあった南朝方の金ヶ崎城は、足利方の軍勢に包囲されていた。

城内には、後醍醐天皇の皇子・尊良親王と、新田義貞の子・新田義顕がいた。

金ヶ崎城が陥落すると、尊良親王と新田義顕は自害した。

恒良親王も足利方に捕らえられたとみられ、南朝は北陸で皇族と有力武将を失った。

それでも南朝は戦いを続けた。

奥州にいた北畠顕家は、再び大軍を率いて西へ向かった。

顕家軍は青野原で戦い、伊勢・雲津河・奈良・八幡へ進んだ。

しかし、奥州から畿内まで続く長い遠征と、各地での連続した戦いによって、軍勢は疲れ、兵も少なくなっていった。

顕家軍は最後に堺浦方面で戦った。

北畠顕家はこの戦いで亡くなった。二十一歳だった。

顕家は十四歳の時、後醍醐天皇の前で舞を披露した少年だった。

その七年後、奥州の大軍を率いた若い武将として、南朝のために戦い続けた末に亡くなった。

南朝は、尊良親王・新田義顕・北畠顕家という重要な人物を相次いで失った。

人物・用語・史実注記

尊良親王

後醍醐天皇の皇子です。元弘の乱では土佐国へ流され、後に新田義貞らとともに足利尊氏追討軍へ加わりました。金ヶ崎城陥落時に自害しました。

恒良親王

後醍醐天皇の皇子です。北陸方面の南朝勢力に関わりました。金ヶ崎城陥落後に捕らえられたとみられますが、『南方紀伝』写本の記事には再確認事項があります。

新田義顕

新田義貞の子です。尊良親王を支えて北陸で戦い、金ヶ崎城陥落時に自害しました。

金ヶ崎城

北陸における南朝方の重要な軍事拠点です。尊良親王・新田義顕らが籠城しましたが、足利方の攻撃を受けて陥落しました。

北畠顕家

北畠親房の子です。義良親王を奉じて奥州を治め、二度にわたって奥州から畿内へ大軍を進めました。第二次西征の末、二十一歳で戦死しました。

第二次西征

北畠顕家が奥州から再び畿内へ向かった大規模な遠征です。青野原・伊勢・奈良・八幡などを転戦しましたが、長距離移動と連戦によって軍勢が消耗しました。

青野原

北畠顕家の第二次西征で戦場となった場所です。本史料では顕家軍の西進過程に置かれていますが、参加武将や軍勢配置の逐字再確認が必要です。

堺浦

北畠顕家の最期に関係する場所として『南方紀伝』に記されています。この周辺での戦闘と討死者名には、写本と活字本の相違があります。

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史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-10、全3ページ
  • 対象年代:延元二年~延元三年/建武四年~暦応元年(1337~1338年)
  • 明治期活字本:PDF第5~6画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partの金ヶ崎城攻防記事から続く。

金ヶ崎城が陥落し、尊良親王・新田義顕が自害する。

恒良親王が捕らえられたことを示すとみられる記事を記すが、文章の区切りは未確定。

経忠が吉野へ入る。写本は四月六日、活字本は四月五日とする。

北朝側の関白などの人事記事、常陸方面の戦闘記事を記す。

北畠顕家が奥州から第二次西征を開始する。

顕家軍は青野原から伊勢方面へ進み、雲津河・奈良・八幡方面で戦う。

顕家軍は長距離遠征と連戦によって消耗する。

堺浦方面で戦いが行われ、北畠顕家が二十一歳で戦死する。

注:冒頭人物、恒良親王捕縛記事、北朝関白名、二月四日の人物、細川和氏奏状、奈良戦の人名、六月の討死者名は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

延元二年/建武四年、金ヶ崎城、足利方の攻撃を受けて陥落す。

尊良親王・新田義顕、城中において自害す。

恒良親王、足利方に捕らえらるる記事あり。ただし前後の句、なお未確定。

経忠、吉野へ入る。写本は四月六日、活字本は四月五日とす。

北朝関白に関する人事記事あり。人物名、基嗣とも読めるが確定せず。

常陸方面に合戦あり。城名・人物・勝敗の逐字、なお未確定。

北畠顕家、奥州の軍勢を率いて再び西上す。

顕家軍、青野原において足利方と合戦す。

その後、伊勢へ進み、雲津河・奈良・八幡の辺に転戦す。

長途の行軍と連戦により、顕家軍、次第に疲弊す。

堺浦方面において合戦あり。

北畠顕家、戦死す。時に二十一歳。

〔八幡方面からの撤退・新田義貞戦死の記事へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第5~6画像付近には、金ヶ崎城陥落、尊良親王・新田義顕の自害、恒良親王に関する記事、経忠の吉野入り、常陸戦、北畠顕家の第二次西征、青野原・伊勢・奈良・八幡方面の戦い、顕家戦死が漢文調で収録されています。

活字本は、人名・官職を写本より明確に記す箇所があります。一方、経忠の吉野入りの日付、北朝関白名、二月四日の人物、奈良戦の参加者、六月の討死者名には写本との差があります。

注:活字本文の逐字版は、PDF第5~6画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
経忠の吉野入り 四月六日 四月五日 明確な日付異同として両方を保存する
北朝関白名 基嗣とも読めるが大きく崩れる 人名を漢字で整理するが再確認が必要 公家系譜・官職記録との照合まで確定しない
二月四日の人物 人物・官職の区切りが不明瞭 写本と異なる人物列の可能性 個別人名を本文へ入れず保留する
奈良方面の戦い 複数人の姓名・官職が連続する 人名を整理するが写本と一部異なる 確実に一致する人物のみ将来採用する
六月の討死者 人名と官職の境界が不明瞭 異なる人名区切りの可能性 討死者一覧を確定せず、両本文を保存する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
part冒頭の人物 人物名未確定 前partの金ヶ崎城記事との主語・人名の接続が不明 低~中
恒良親王捕縛記事 恒良親王、捕らえらる 捕縛者・場所・後続記事の区切りが不明瞭
北朝関白名 基嗣か 人名字形が大きく崩れている
細川和氏奏状 和氏が奏状を提出した記事か 奏上先・内容・記事位置を確定できない
奈良戦関係者 東弥九郎 名字・通称・所属勢力が未確定 低~中
二月四日の人物 師泰頼等 一人の姓名か、複数の人名・官職か不明
黒地 黒地 地名・地形・軍装表現のどれか確定できない
顕信の陣地 陣地名未確定 地名字形が不明瞭で現在地を比定できない
六月の討死者 高西安東権介 一人の姓名か、複数人の名字・官職か未確定

復刻作業記録

  • 手書き写本part-10の全3ページを一つの範囲として確認した。
  • 前part末尾の金ヶ崎城攻防から、城の陥落と尊良親王・新田義顕の自害へ続く接続を確認した。
  • 次のpart-11が八幡方面からの撤退、新田義貞戦死へ続くため、北畠顕家戦死までを第9節とした。
  • 明治期活字本PDF第5~6画像付近を対応箇所として照合した。
  • 経忠の吉野入りは、写本四月六日・活字本四月五日の両方を保存した。
  • 恒良親王捕縛記事は、主語・捕縛者・後続部分を確定せず保留した。
  • 常陸戦については、台帳に詳細な逐字情報がないため、一般知識から城名・勝敗を補わなかった。
  • 奈良戦と六月の討死者名は、写本と活字本の人名区切りを再確認するまで本文へ列挙しない。
  • 顕家の第二次西征は、青野原・伊勢・雲津河・奈良・八幡・堺浦という史料で確認された地名に限定して整理した。
  • 顕家戦死後の記事は次partへ続くため、新田義貞の最期をこの節へ先取りしなかった。

翻刻・校訂記号の説明を見る

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明治期活字本PDF第5画像を見る

明治期活字本PDF第6画像を見る

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10.新田義貞の戦死――南朝皇子たちの海上分散

対象年代:延元三年~延元四年/暦応元年~暦応二年(1338~1339年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-11/明治期活字本PDF第6~7画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

新田義貞の戦死地、北畠顕信の位階、皇子たちが乗った船と漂着先、二首の和歌、花園宮、勅使の僧名、恒良親王・成良親王の死の記事などに、判読保留または活字本との相違があります。

この節の概要

北畠顕家の戦死後、南朝方は八幡方面から退却します。北陸で戦っていた新田義貞も、足羽・藤島方面に関係する戦いで命を落としました。

有力武将を相次いで失った南朝は、皇子や公家を各地域へ送り、地方の味方を集めようとします。義良親王・尊澄・北畠親房らは、伊勢から船で出発しました。

しかし、船団は海上で激しい風に遭い、それぞれ別の方向へ流されました。目的地へ一団のまま到着することはできず、皇子や公家は東国・四国などへ分散していきます。

写本は、この海難から助かったことを伊勢神宮の加護と結びつけ、和歌も記しています。その後には暦応への改元、伊勢方面の戦い、恒良親王・成良親王の死を伝える記事が続きます。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、記事の順序に沿って説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な現代語訳ではありません。

南朝軍が八幡方面から退く

北畠顕家の軍勢は、奥州から畿内まで長い距離を進み、青野原・伊勢・奈良・八幡方面を転戦した。

しかし、長距離の行軍と連続する戦いによって軍勢は消耗し、顕家自身も堺浦方面で戦死した。

『南方紀伝』の次の記事は、南朝方が八幡方面から退却していくところから始まる。

ただし、撤退した軍勢の主語、途中で戦った人物、蒲杭家兼と暫定的に読んでいる人物名などには、判読上の問題が残っている。

そのため、現在の本文では、北畠顕家戦死後に南朝軍が八幡方面から退いたという大筋を示す。

新田義貞が北陸で戦い続ける

北畠顕家が畿内で戦っていた一方、新田義貞は北陸方面で南朝方の軍勢を率いていた。

新田義貞は、元弘三年に関東で挙兵し、鎌倉へ攻め込んで鎌倉幕府を滅ぼした武将である。

その後は後醍醐天皇方として足利尊氏と戦い、箱根・竹ノ下、京都、北陸方面を転戦した。

金ヶ崎城の陥落によって、新田氏は義貞の子・義顕を失っていたが、義貞はその後も北陸で抵抗を続けていた。

新田義貞が戦死する

延元三年/暦応元年(1338年)、新田義貞は北陸での戦いにおいて戦死した。

写本と明治期活字本は、義貞の戦場を足羽城に近い場所、または足羽城として記しているとみられる。

一方、この出来事は藤島という地名とも深く関係して伝えられている。

しかし、写本本文における「足羽」と「藤島」の関係、どちらが広い地域名でどちらが具体的な戦場なのかは、現在の作業台帳だけでは確定できない。

そのため、本ページでは「足羽・藤島方面に関係する戦いで戦死した」とし、一つの地名へ統一しない。

南朝が新田義貞を失う

新田義貞の死は、南朝にとって非常に大きな損失だった。

南朝は、この直前までに尊良親王、新田義顕、北畠顕家らも失っていた。

鎌倉幕府滅亡以来、後醍醐天皇方の軍事を支えてきた有力者が、短い期間のうちに相次いで亡くなったのである。

南朝は、畿内や北陸の軍勢だけで足利方へ対抗することが難しくなり、地方に新たな拠点を作る必要に迫られた。

北畠顕信・顕能が任官する

『南方紀伝』は、新田義貞の戦死前後の記事として、北畠顕信・北畠顕能の任官を記している。

北畠氏は、顕家の死後も南朝の政治・軍事を支える役割を担った。

ただし、北畠顕信の位階について、写本は従三位とも読める一方、活字本では従二位と読める可能性がある。

数字の違いによって官位が一段変わるため、現段階では顕信が昇進・任官したことのみを本文とし、具体的な位階は異同として示す。

北畠顕能についても任官記事があるが、官職・日付の逐字本文は再確認を要する。

南朝が皇子たちを各地へ送ろうとする

南朝は軍事的な危機を立て直すため、後醍醐天皇の皇子や有力な公家を各地へ派遣しようとした。

皇子を中心に据えれば、その地域の武士たちへ、南朝への参加を呼びかけることができる。

また、北畠親房のような公家が同行することで、政治・軍事・文書発給を行う地方拠点を作ろうとしたと考えられる。

ただし、『南方紀伝』作業台帳が明確に確認するのは、皇子・親房らが伊勢から出航し、嵐によって各地へ分散したという経過である。

各人物の最初の目的地や、出航前に決められていた役割の詳細は、逐字本文の再確認後に整理する。

義良親王・尊澄・北畠親房らが伊勢へ集まる

伊勢には、義良親王、尊澄と記される皇族、北畠親房らが集まった。

義良親王は、北畠顕家に奉じられて奥州で活動し、後に南朝の天皇となる皇子である。

尊澄については、作業台帳の別項目に「宗澄法親王の和歌」と記録されている。

「尊澄」と「宗澄」が同じ人物の表記差なのか、別の人物なのかは、写本の字形と皇族系譜を再確認する必要がある。

北畠親房は、南朝の政治を支える中心的な公家であり、亡くなった北畠顕家の父でもあった。

伊勢から船で出発する

義良親王・尊澄・北畠親房らは、伊勢から船に乗って出発した。

この出航は、南朝方の皇子や公家が、それぞれ新しい地域へ移り、現地の味方と結びつくための行動だった。

作業台帳には、結城道忠の船と暫定的に読んでいる船の記事がある。

しかし、結城道忠が船の所有者・指揮者・同乗者のどれに当たるのか、また誰がその船へ乗ったのかは確定していない。

そのため、人物と船の対応は原文資料欄の判読保留事項として残す。

船団が暴風に遭う

伊勢を出た船団は、海上で激しい風に遭った。

船は同じ進路を保つことができず、互いに離れ離れになった。

皇子・公家・武士たちは、一団となって目的地へ到着することができなかった。

船によって流された方向が異なり、人々は東国や四国方面などへ分散した。

『南方紀伝』は、この暴風による分散を、南朝が各地へ広がっていく重要な転換として記録している。

皇子や公家が別々の地域へ流される

船団が分かれた結果、皇子・公家はそれぞれ異なる地域へ向かうことになった。

作業台帳は、南朝方の人々が東国・四国へ分散した経緯として、この出来事を整理している。

ただし、part-11に記された人物と漂着先のすべてを、現在の台帳だけから一対一で対応させることはできない。

そのため、本ページでは、特定の皇子が必ず特定の土地へ着いたとは断定せず、船団全体が複数の地域へ分散したことを本文とする。

この海上分散は、次の東国・奥州・四国などにおける南朝方の活動へつながる導入となっている。

海上で二首の和歌が詠まれる

写本には、この海上移動や漂流に関係する二首の和歌が記されている。

作業台帳では、宗澄法親王の和歌二首として整理している。

しかし、歌の一句ごとの読み、二首の区切り、作者名には、明治期活字本を照合しても難読箇所が残っている。

そのため、現在の本文では歌の全文を推測で復元しない。

歌が、風や波の中を進む不安、行く先の分からない漂泊、神へ助けを願う心を表すものかどうかも、逐字本文を確定した後に改めて検討する。

伊勢神宮の加護として語られる

写本は、船団の海難と生還に関係して、伊勢神宮の加護を伝える記事を置いている。

これは、暴風の中で船が助かったことを、伊勢の神の守りによるものと理解する史料上の説明である。

実際の気象現象や航海技術を説明する記事ではなく、出来事を宗教的に意味づけた記録として読む必要がある。

「富士の籠」と暫定的に読んでいる語も、この海上移動・神助・地名に関係する可能性があるが、意味は確定していない。

北朝側では暦応へ改元する

京都の北朝側では、元号が建武から暦応へ改められた。

一方、吉野の南朝側は延元の元号を用いていた。

このため、同じ時期が南朝側では延元、北朝側では暦応という異なる年号で記録される。

『南方紀伝』も、南朝年号と北朝年号を対応させながら記事を並べている。

伊勢方面で戦いが続く

皇子・北畠親房らが伊勢から出航した後も、伊勢方面では南朝方と足利方の戦いが続いた。

写本には、愛洲宗実に関係する恩賞の記事や、勅使として派遣された僧に関係する記事が含まれている。

しかし、愛洲宗実への恩賞の日付は写本と活字本で異なる可能性がある。

また、勅使となった僧の名前も、写本と活字本で同一とは確認できていない。

このため、具体的な日付・僧名は本文へ確定的に入れず、伊勢戦とそれに伴う使者・恩賞の記事として扱う。

花園宮の記事

この範囲には、花園宮と記される皇族の記事がある。

しかし、花園宮が懐良親王の別称なのか、別の皇族を指すのかは確定していない。

人物同定を誤ると、海上分散後の皇子の行動と地域が変わってしまう。

したがって、現代語訳の主本文では花園宮を特定の皇子へ置き換えず、写本に現れる宮号として保持する。

恒良親王の死を伝える

『南方紀伝』は、恒良親王の死に関する記事を記している。

恒良親王は、後醍醐天皇の皇子であり、北陸方面の南朝勢力に関わった人物である。

前節では、金ヶ崎城陥落後に足利方へ捕らえられたとみられる記事があった。

しかし、このpartにおける死の記事について、場所・日付・経過が逐字で確定しているわけではない。

そのため、本ページでは、史料が恒良親王の死を記していることだけを示し、最期の具体的状況は断定しない。

成良親王の死を伝える

成良親王の死に関する記事も置かれている。

成良親王は、鎌倉幕府滅亡後、鎌倉・関東方面へ派遣された後醍醐天皇の皇子である。

ただし、作業台帳の判読保留事項には、「吉野で薨じた皇族」が誰であるかという問題も記録されている。

したがって、恒良親王・成良親王の記事と、吉野で亡くなった皇族の記事の対応関係には再確認が必要である。

現在の公開用仮本文では、恒良親王・成良親王の死を伝える記事があることを示し、場所や死因は確定しない。

南朝勢力が各地へ分かれていく

新田義貞・北畠顕家を失った南朝は、畿内の一つの大軍だけで戦うことが難しくなった。

そこで皇子や公家を地方へ送り、各地の武士と結びつく方針を進めた。

しかし伊勢から出た船団は暴風によって分散し、皇子・公家は予定どおり一団で行動できなかった。

結果として、南朝方の活動は東国・奥州・四国など複数の地域へ分かれていく。

次の第11節では、後醍醐天皇の病と崩御、義良親王の皇位継承、後村上天皇の朝廷、北畠親房による著述を扱う。

流れが分かる現代語訳

北畠顕家が亡くなった後、南朝軍は八幡方面から退却した。

北陸で戦っていた新田義貞も、足羽・藤島方面に関係する戦いで亡くなった。

新田義貞は、鎌倉幕府を滅ぼした中心人物の一人だった。

南朝は、尊良親王、新田義顕、北畠顕家に続いて、新田義貞まで失った。

そこで南朝は、皇子や公家を全国の各地域へ送り、現地で新しい味方を集めようとした。

義良親王・尊澄・北畠親房らは、伊勢から船で出発した。

ところが、船団は海上で激しい風に遭った。

船は互いに離れ離れとなり、皇子や公家は東国・四国など別々の地域へ流された。

写本は、暴風の中から助かったことを伊勢神宮の加護として説明し、関係する和歌も記している。

京都の北朝側では、元号が暦応へ改められた。

伊勢方面ではその後も戦いが続き、恒良親王・成良親王の死に関する記事も記されている。

南朝の人々は一つの場所に集まって戦うのではなく、各地へ分かれて活動するようになっていった。

人物・用語・史実注記

新田義貞

上野国の武将です。元弘三年に鎌倉へ攻め込み、鎌倉幕府を滅ぼしました。その後は後醍醐天皇方として足利尊氏と戦い、北陸で戦死しました。

足羽・藤島

新田義貞の戦死地に関係する地名です。写本・活字本は足羽城に近い場所または足羽城と記す一方、藤島との関係も整理する必要があります。

北畠顕信

北畠親房の子で、北畠顕家の弟に当たる人物です。この節には任官・昇進の記事がありますが、位階を従三位とするか従二位とするかに異同があります。

北畠顕能

北畠氏の一員として南朝を支えた人物です。この節には任官記事がありますが、官職・日付は逐字再確認が必要です。

義良親王

後醍醐天皇の皇子です。北畠顕家に奉じられて奥州で活動しました。この後、後醍醐天皇を継いで後村上天皇となります。

北畠親房

南朝の政治を支えた公家です。北畠顕家の父であり、伊勢から皇子らとともに海路で地方へ向かいました。

海上分散

伊勢から出た南朝方の船団が暴風に遭い、皇子・公家が東国・四国など複数の方向へ分かれた出来事です。各船の乗員と漂着先は、逐字本文の再確認が必要です。

伊勢神宮の加護

写本は、海難から人々が助かったことを伊勢神宮の神の守りとして意味づけています。これは史料が示す宗教的な理解であり、気象現象そのものの説明とは区別します。

暦応

京都の北朝側で用いられた元号です。同じ時期、吉野の南朝側では延元が用いられていました。

恒良親王・成良親王

ともに後醍醐天皇の皇子です。この節には二人の死に関係する記事がありますが、場所・日付・記事の対応関係には再確認が必要です。

原文・復刻資料を開く

史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-11、全3ページ
  • 対象年代:延元三年~延元四年/暦応元年~暦応二年(1338~1339年)
  • 明治期活字本:PDF第6~7画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partの北畠顕家戦死記事から続き、南朝軍が八幡方面から撤退する記事を記す。

新田義貞が、足羽城またはその周辺とみられる北陸の戦場で戦死する。

北畠顕信・顕能の任官・昇進に関する記事を記す。

義良親王・尊澄・北畠親房らが伊勢から船で出発する。

船団は海上で暴風に遭い、それぞれ別方向へ漂流する。

皇子・公家らは東国・四国方面などへ分散する。

海上の出来事に関係する和歌二首と、伊勢神宮の加護を伝える記事を記す。

北朝側の暦応改元、伊勢方面の戦い、勅使・恩賞に関する記事を記す。

恒良親王・成良親王の死に関する記事を記す。

注:蒲杭家兼、吉野で薨じた皇族、義貞戦場、顕信位階、結城道忠船、和歌二首、花園宮、頼意、富士の籠は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

延元三年/暦応元年、南朝方の軍勢、八幡方面より退く。

新田義貞、北陸の足羽城に近き戦場において戦死す。藤島との関係、なお未確定。

北畠顕信・顕能、任官す。顕信の位階は、写本に従三位、活字本に従二位とも読め、なお定まらず。

義良親王・尊澄・北畠親房ら、伊勢より船に乗りて出航す。

海上に大風あり、船団、離れ離れとなる。

皇子・公家ら、東国・四国等へ分散す。各船の乗員・漂着先は未確定。

この海難に関する和歌二首あり。作者・歌句、なお未確定。

伊勢神宮の加護を伝うる記事あり。

北朝、暦応と改元す。

伊勢方面に合戦あり。勅使僧・恩賞日に写本と活字本の差あり。

恒良親王・成良親王の薨去に関する記事あり。ただし場所・日付・文章の接続、なお未確定。

〔後醍醐天皇不豫・崩御の記事へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第6~7画像付近には、八幡からの撤退、新田義貞戦死、北畠顕信・顕能の任官、南朝皇子・北畠親房らの伊勢出航、暴風による漂流、和歌、暦応改元、伊勢方面の戦い、皇子の死が漢文調で収録されています。

活字本では人物名・官職・位階を写本より明確に記す箇所があります。一方、新田義貞の戦場、顕信の位階、和歌の作者と本文、花園宮、勅使僧名、愛洲宗実への恩賞日などは、写本と異なる可能性があります。

注:活字本文の逐字版は、PDF第6~7画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
新田義貞の戦場 足羽城に近い場所として読める 足羽城と記す 藤島との関係を含め、一つの地名へ統一しない
北畠顕信の位階 従三位と読める 従二位と読める可能性 任官の事実のみ本文とし、位階は併記する
尊澄・宗澄の和歌 二首を記すが、作者名・句切りが難読 活字化されるが、歌句・作者になお問題あり 全文を推測で復元せず、再校訂後に掲載する
花園宮 宮号として記す 人物を特定する形に整理される可能性 懐良親王等へ置き換えず、未確定の宮号として保持する
勅使の僧名 僧名の字形が不明瞭 別の僧名または明確な漢字表記 人物を確定せず、勅使派遣記事として扱う
愛洲宗実の恩賞 恩賞日を記すが数字に再確認余地 異なる日付の可能性 日付を確定せず、両版面を再照合する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
八幡撤退記事の人物 蒲杭家兼 名字・実名・所属勢力を特定できない
吉野で薨じた皇族 恒良親王または成良親王との関係か 誰の死を指すか、記事の接続が不明
新田義貞の戦場 足羽城付近/藤島方面 本文上の地名と現在知られる戦場名の関係が未確定
北畠顕信の位階 従三位/従二位 数字字形と活字本に異同がある 低~中
結城道忠の船 結城道忠船 船の所有者・指揮者・同乗者のどれか不明
海上の和歌二首 宗澄法親王詠か 句・作者・二首の区切りが未確定
花園宮 懐良親王の別称または別人か 人物同定ができない
頼意 僧名または人名 勅使僧・同行者・別記事の人物か不明
富士の籠 富士の籠 地名・船名・宗教的表現のいずれか確定できない

復刻作業記録

  • 手書き写本part-11の全3ページを一つの範囲として確認した。
  • 前part末尾の北畠顕家戦死から、八幡方面の撤退記事へ続く接続を確認した。
  • 次のpart-12が後醍醐天皇の不豫・崩御から始まるため、皇子薨去の記事までを第10節とした。
  • 明治期活字本PDF第6~7画像付近を対応箇所として照合した。
  • 新田義貞の戦場は、写本の足羽城付近という表現と藤島との関係を確定せず、両方を注記した。
  • 北畠顕信の位階は、従三位・従二位の異同を保存した。
  • 各船の乗員と漂着先は、作業台帳の要旨だけでは一対一に確定できないため、推測による対応表を作らなかった。
  • 伊勢神宮の加護は、史料による宗教的な意味づけとして現代語化した。
  • 和歌二首は、作者・句切りを確定できないため、全文を復元しなかった。
  • 恒良親王・成良親王の死は、場所・日付・吉野の皇族記事との対応を保留した。

翻刻・校訂記号の説明を見る

手書き写本第1冊 part-11の史料ページを見る

明治期活字本PDF第6画像を見る

明治期活字本PDF第7画像を見る

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11.後醍醐天皇崩御――後村上天皇践祚と北畠親房の著述

対象年代:延元四年~興国元年/暦応二年~暦応三年(1339~1340年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-12/明治期活字本PDF第7画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

後村上天皇の正式な即位日、女御の出自、和歌の本文、『職原抄』の傍書、奥州・関東戦線の記事に現れる人名・城名には、写本と活字本の相違または判読保留があります。

この節の概要

延元四年/暦応二年(1339年)、吉野にいた後醍醐天皇は病に倒れました。天皇は皇子の義良親王へ三種の神器を伝え、南朝の皇位を継がせます。

後醍醐天皇はその後、五十二歳で崩御しました。義良親王は後村上天皇となりましたが、この時まだ十二歳でした。

京都を北朝と足利方が押さえる中、吉野の南朝は人材・軍勢・物資のいずれも不足し、厳しい状況に置かれます。

北畠親房は、常陸を中心とする東国戦線で活動しながら、『神皇正統記』や『職原抄』を著しました。軍事力だけでなく、皇統の正当性と朝廷制度を文章によって示し、南朝を支えようとしたのです。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、記事の順序に沿って説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な現代語訳ではありません。

後醍醐天皇が病に倒れる

延元四年/暦応二年(1339年)、吉野にいた後醍醐天皇は病気になった。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒して建武政権を作ったが、その後、足利尊氏との戦いに敗れ、京都を離れて吉野に朝廷を置いていた。

南朝は、尊良親王、新田義顕、北畠顕家、新田義貞ら、軍事面を支えた重要人物を相次いで失っていた。

そのような状況の中で、南朝の中心である後醍醐天皇自身が病に倒れた。

写本は、天皇の病を「不豫」と記している。「不豫」は、天皇や上皇の病気を表す言葉である。

義良親王へ三種の神器を伝える

後醍醐天皇は、病状が重くなる中で、皇子の義良親王へ皇位を継がせる準備を進めた。

既出の第一次判読では、八月十五日に義良親王が三種の神器を受け、皇位を継いだと整理している。

三種の神器は、皇位の継承を象徴する鏡・剣・璽を指す。

南朝にとって、後醍醐天皇から義良親王へ神器を伝えることは、吉野の朝廷が正統な皇位を継承したと示すうえで重要だった。

ただし、写本に記された神器関係の記事、皇位継承の儀礼、後の正式な即位記事は、それぞれ別の日付に置かれている。

そのため、「践祚」「神器の継承」「即位の儀礼」を一つの日付の出来事としてまとめず、史料上の配置を区別して扱う。

神器をめぐる御製

写本には、三種の神器や皇位継承に関係する後醍醐天皇の御製が記されている。

御製とは、天皇が詠んだ和歌である。

この歌は、神器と皇統を次の天皇へ伝え、自らの政治的な志を継がせようとする心を表したものとみられる。

ただし、和歌の句には判読が難しい箇所があり、明治期活字本とも文字・句切りに差がある。

そのため、本ページでは歌意だけを説明し、和歌本文の完全な復元は行わない。

後醍醐天皇が崩御する

後醍醐天皇は、義良親王へ皇位と神器を伝えた後、崩御した。

第一次判読では、八月十六日の崩御として整理している。

年齢は五十二歳と記されている。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府の打倒、建武政権の成立、足利尊氏との戦い、吉野への移動という大きな政治変動の中心にいた。

天皇が亡くなった時点でも、京都は北朝と足利方が支配し、南朝が京都を取り戻す見通しは立っていなかった。

後醍醐天皇の崩御によって、南朝は創始者であり最大の政治的象徴でもあった天皇を失った。

女御と尊円親王に関係する和歌

後醍醐天皇の崩御に関係して、写本には女御と尊円親王に関係する和歌が記されている。

これらは、天皇の死を悼み、残された人々の悲しみを示す歌とみられる。

しかし、女御が誰の娘であったのかという出自の説明は、写本と活字本で異なるか、文章の区切りに問題がある。

また、尊円親王の歌についても、作者名・歌の句・前後の文章との接続を完全には確定できていない。

そのため、現段階では「女御と尊円親王に関係する哀悼の和歌がある」とし、歌本文は原画像再確認後に掲載する。

義良親王が後村上天皇となる

後醍醐天皇の皇子・義良親王は、南朝の新しい天皇となった。

後に、後村上天皇と呼ばれる天皇である。

作業台帳では、この時の後村上天皇を十二歳として説明している。

幼い天皇だけで政治や軍事を動かすことはできないため、南朝の公家・武士・皇族が新天皇を支える必要があった。

しかし、北畠顕家・新田義貞など主要な武将はすでに亡くなり、北畠親房も東国で活動していた。

後村上天皇は、非常に困難な状況の中で南朝を引き継ぐことになった。

正式な即位日をめぐる異同

後村上天皇の正式な即位に関する日付には、写本と明治期活字本で違いがある。

手書き写本は十月六日と記す。

明治期活字本は十月五日と記す。

これは一日の違いではあるが、皇位継承に関する重要な日付異同である。

公開用本文では、どちらか一方を誤記と決めつけず、「写本十月六日・活字本十月五日」と併記する。

吉野の朝廷が困窮する

後村上天皇のもとで続くことになった吉野の朝廷は、厳しい状況に置かれていた。

京都の朝廷とは異なり、吉野の南朝には全国から安定して収入や物資が届く制度が整っていなかった。

有力武将の戦死、各地の城の陥落、皇子・公家の分散によって、南朝が直接動かせる軍勢も少なくなっていた。

作業台帳では、この範囲に「吉野朝廷の困窮」を示す記事があると整理している。

ただし、どの物資が不足し、どのような生活状態だったのかという逐字の細部は、現段階の台帳要旨には保存されていない。

そのため、一般的な南朝の困窮像を推測で追加せず、史料が吉野朝廷の苦しい状態を伝えているという範囲にとどめる。

北畠親房が東国で南朝を支える

後醍醐天皇の崩御前後、北畠親房は東国で活動していた。

親房は、伊勢から船で東国へ向かい、常陸を中心として南朝方の勢力をまとめようとしていた。

京都や吉野から離れた場所にいても、親房は南朝の政治と皇統を支える立場にあった。

親房は武士へ命令や書状を送り、城や軍勢を動かそうとする一方、南朝の正統性を文章によって説明する著作も作った。

『神皇正統記』を著す

北畠親房は、東国で『神皇正統記』を著した。

作業記録では、親房が常陸から『神皇正統記』一巻を献上したとする記事として整理されている。

『神皇正統記』は、神代から続く天皇の系譜と歴史を説明し、南朝の皇統が正統であることを示そうとした書物である。

ただし、この節における献上先、記事の日付、傍書の配置については、逐字本文の再確認が必要である。

本ページでは、親房が南朝の皇統を思想面から支える著作を作ったことを中心に説明する。

『職原抄』を著す

北畠親房は、『職原抄』も著した。

『職原抄』は、朝廷の官職・役所・制度などを説明するための書物である。

南朝が正統な朝廷であると主張するためには、皇統の説明だけでなく、朝廷の制度がどのように成り立っているかを示すことも重要だった。

北畠親房は、『神皇正統記』によって皇統の歴史を説明し、『職原抄』によって朝廷制度を説明した。

ただし、写本には『職原抄』に関する細字の傍書があり、その全文と本文への挿入位置は確定していない。

明治期活字本では傍書が本文へ整理されている可能性があるため、写本上の配置との差を残して校訂する必要がある。

軍事だけでなく書物によって南朝を支える

南朝は、軍事面では有力武将を相次いで失っていた。

北畠親房も東国で軍勢を集めようとしていたが、軍事力だけで京都を取り戻すことは難しかった。

そこで親房は、南朝の皇統がなぜ正しいのか、朝廷の制度がどのような原理で作られているのかを文章にまとめた。

この節では、後醍醐天皇の死と幼い後村上天皇への継承に続けて、親房の著述が置かれている。

これは、南朝を支える方法が、戦場での戦いだけでなく、皇統・歴史・制度を説明する活動にも広がったことを示している。

北畠顕信が白河城へ入る

この範囲には、北畠顕信が白河城へ入ったことを示す記事もある。

顕信は北畠親房の子であり、戦死した北畠顕家の弟に当たる。

顕家を失った後も、北畠氏は奥州方面における南朝方の活動を続けた。

ただし、「白河城」と読んでいる城名、入城の日付、同行した人物については、逐字本文の再確認が必要である。

また、周辺には宇都宮氏に関係する人名、源高貞、一品宮などと暫定的に読んでいる記事があるが、それぞれの人物関係は確定していない。

奥州・関東戦線が続く

後醍醐天皇が崩御し、後村上天皇が即位した後も、南北朝の戦いは終わらなかった。

奥州・関東では、北畠顕信ら南朝方と、足利方・北朝方の軍勢との戦いが続いた。

写本には、駒城、宇都宮氏、源高貞、義助、土岐頼明などと暫定的に読んでいる語や人名が現れる。

しかし、城名・姓名・官職・所属勢力の区切りには未確定箇所が多い。

そのため、本ページでは個々の戦闘の勝敗を推測で補わず、後村上天皇への代替わり後も奥州・関東戦線が継続していたことを本文とする。

南朝が新しい時代へ移る

後醍醐天皇の崩御によって、南朝は一つの時代を終えた。

新しい天皇となった後村上天皇はまだ幼く、吉野の朝廷は軍事・経済の両面で困難を抱えていた。

それでも、北畠親房は東国で活動し、『神皇正統記』『職原抄』を通じて南朝の正統性と制度を示そうとした。

北畠顕信らも奥州で軍事活動を続けた。

次の第12節では、宗良親王の越中入り、宇津峰宮の小田城入り、伊勢玉丸城、関城・小田城など、各地へ分散した南朝勢力の活動を扱う。

流れが分かる現代語訳

1339年、吉野にいた後醍醐天皇は病気になった。

後醍醐天皇は、皇子の義良親王へ三種の神器を伝え、南朝の皇位を継がせた。

その後、後醍醐天皇は五十二歳で亡くなった。

義良親王は後村上天皇となった。この時、十二歳だった。

しかし、南朝の状況は非常に厳しかった。

京都は北朝と足利方が支配し、新田義貞や北畠顕家などの有力武将もすでに亡くなっていた。

吉野の朝廷は、軍勢・人材・物資が不足し、幼い後村上天皇を支えなければならなかった。

東国にいた北畠親房は、南朝を軍事面だけでなく、文章によっても支えようとした。

親房は『神皇正統記』を書き、南朝の皇統が正しいと説明した。

さらに『職原抄』を書き、朝廷の官職や制度を説明した。

北畠顕信も奥州方面で活動を続けた。

後醍醐天皇が亡くなっても南朝は終わらず、後村上天皇・北畠親房・北畠顕信らによって新しい段階へ進んでいった。

人物・用語・史実注記

後醍醐天皇

鎌倉幕府を倒し、建武政権を作った天皇です。足利尊氏との対立後は吉野に朝廷を置き、南朝の中心となりました。延元四年/暦応二年に崩御しました。

後村上天皇

後醍醐天皇の皇子で、もとの名を義良親王といいます。父の崩御後、十二歳で南朝の天皇となりました。

践祚と即位

践祚は皇位を受け継ぐこと、即位はそのことを公に示す儀礼を指します。写本では神器継承・践祚・即位に関係する記事が異なる日付に置かれています。

三種の神器

皇位継承を象徴する鏡・剣・璽です。南朝は、後醍醐天皇から後村上天皇へ神器が伝えられたことを、正統な皇位継承の根拠としました。

北畠親房

南朝の政治を支えた公家です。東国で軍事活動を進めながら、『神皇正統記』『職原抄』などを著しました。

『神皇正統記』

天皇の系譜と日本の歴史を説明し、南朝の皇統が正統であることを示そうとした北畠親房の著作です。

『職原抄』

朝廷の官職・役所・制度を説明した北畠親房の著作です。写本には細字傍書があり、本文への組み込み方を再検討する必要があります。

北畠顕信

北畠親房の子で、北畠顕家の弟です。顕家の死後も、奥州方面で南朝方として活動しました。

吉野朝廷の困窮

南朝は京都や主要な経済基盤を失い、有力武将も相次いで戦死していました。写本は、後村上天皇の時代初期における吉野朝廷の苦しい状況を記しています。

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史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-12、全3ページ
  • 対象年代:延元四年~興国元年/暦応二年~暦応三年(1339~1340年)
  • 明治期活字本:PDF第7画像付近
  • 内容区分:編年本文・史書成立
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partの恒良親王・成良親王らの死に関する記事から続く。

後醍醐天皇の不豫、義良親王への神器継承、後醍醐天皇崩御を記す。

後村上天皇の践祚・即位を記す。正式な即位日は写本十月六日。

女御と尊円親王に関係する和歌、神器をめぐる御製を載せる。

後醍醐天皇崩御後の吉野朝廷の困窮を記す。

北畠親房の『神皇正統記』に関する記事と、『職原抄』撰述の記事を記す。

北畠顕信が白河城へ入る記事、奥州・関東方面の軍事記事を記す。

注:南山源季光、女御出自、和歌の句、『職原抄』傍書、宇都宮氏の人名、源高貞、一品宮、駒城、義助・土岐頼明は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

延元四年/暦応二年、後醍醐天皇、不豫。

義良親王、三種神器を受け、皇位を継がせ給う。

後醍醐天皇、崩御す。御年五十二。

義良親王、後村上天皇となる。時に十二歳。

神器に関する御製あり。歌句、なお未確定。

女御ならびに尊円親王に関する和歌あり。女御出自・歌句、なお定まらず。

後村上天皇、即位す。写本は十月六日、活字本は十月五日とす。

後醍醐天皇崩御後、吉野朝廷、困窮す。

北畠親房、東国において『神皇正統記』を著し、これを献ずる記事あり。

親房、『職原抄』を撰す。写本の傍書と活字本本文との関係、なお未確定。

北畠顕信、白河城へ入る。

奥州・関東方面に戦あり。宇都宮氏・源高貞・一品宮・駒城・義助・土岐頼明等の人名・地名、なお未確定。

〔宗良親王の越中入り、宇津峰宮・常陸戦線の記事へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第7画像付近には、後醍醐天皇の病・崩御、後村上天皇の皇位継承と即位、女御・尊円親王に関係する和歌、神器の御製、吉野朝廷の状況、北畠親房の著述、北畠顕信と奥州・関東戦線の記事が漢文調で収録されています。

活字本は、後村上天皇の即位日を十月五日とします。手書き写本の十月六日とは一日異なります。

女御の出自、和歌の句、『職原抄』の傍書、宇都宮氏関係者・源高貞の人名にも、写本との差があります。

注:活字本文の逐字版は、PDF第7画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
後村上天皇の即位日 十月六日 十月五日 重要な日付異同として両方を併記する
女御の出自 父・家系を示す細字または続き書きが不明瞭 出自を整理して記すが、写本との一致を確認できない 女御を特定せず、原文差を保持する
和歌の句 仮名書きで、句切りと文字に難読箇所あり 活字化されるが、写本と語句が異なる可能性 歌本文を推測で統一せず、再校訂後に掲載する
『職原抄』の記事 本文と細字傍書に分かれる 傍書を本文へ組み込んだ可能性 写本上の配置を保存したうえで校訂する
宇都宮氏関係者 名字・官職・実名の区切りが不明瞭 漢字で人名を整理するが、写本との差あり 人物名を確定せず再照合する
源高貞 源高貞とも読める 異なる姓名・表記の可能性 人物同定を保留する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
南山関係者 南山源季光 「南山」が地名・所属・姓名の一部のどれか未確定
後村上天皇即位日 十月六日/十月五日 写本と活字本で一日異なる
女御の出自 父・家系名未確定 細字と本文の区切りが不明瞭
女御・尊円親王の和歌 歌句未確定 作者・句切り・文字に複数の読みがある
『職原抄』傍書 成立・献上等を説明する傍書か 本文へ含める範囲と行順が未確定 低~中
宇都宮氏関係者 宇都宮某 名字・官職・実名の境界を確定できない
源高貞 源高貞 実在人物との同定、活字本の表記に問題がある 低~中
一品宮 一品宮 どの皇族を指すか確定できない
駒城 駒城 城名・地名の比定と前後の戦闘記事が未確定
奥州・関東関係者 義助・土岐頼明 姓名・所属・行動の区切りが不明瞭

復刻作業記録

  • 手書き写本part-12の全3ページを一つの範囲として確認した。
  • 前part末尾の皇子薨去記事から、後醍醐天皇の不豫・崩御へ続く接続を確認した。
  • 次のpart-13が宗良親王の越中入り、宇津峰宮の小田城入り、常陸戦線へ続くため、北畠顕信の白河城入りと奥州・関東記事までを第11節とした。
  • 明治期活字本PDF第7画像付近を対応箇所として照合した。
  • 後村上天皇の即位日は、写本十月六日・活字本十月五日の両方を保存した。
  • 神器の御製、女御・尊円親王の和歌は、歌句を推測で復元しなかった。
  • 『神皇正統記』『職原抄』は、北畠親房が思想・制度面から南朝を支えた著作として整理した。
  • 『職原抄』の記事は、写本の本文・傍書配置を保存し、活字本の一続きの本文へ無条件に合わせなかった。
  • 奥州・関東戦線の人名・城名は、確実に判読できないものを本文で断定しなかった。
  • 宇都宮氏・源高貞・一品宮・駒城・義助・土岐頼明は、別写本・系譜・地誌による再確認対象とした。

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明治期活字本PDF第7画像を見る

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12.東国へ広がる南朝――宗良親王・宇津峰宮と常陸戦線

対象年代:興国二年~興国四年/暦応四年~康永二年(1341~1343年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-13/明治期活字本PDF第8画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

宗良親王の到着地、宇津峰宮の人物同定、奥州諸氏の区切り、玉丸城の表記、結城直朝とみられる幼い大将の年齢、討死者数、方穂庄の地名などには、判読保留または活字本との相違があります。

この節の概要

後醍醐天皇の崩御後も、南朝方の皇子や公家は各地で活動を続けました。越中方面では宮方が兵を挙げ、宗良親王は名子浦と読まれる港へ到着したと記されています。

奥州・関東方面では、宇津峰宮と呼ばれる皇族が供の者や奥州の武士を伴い、常陸国の小田城へ入りました。南朝は皇族を中心に置き、地方武士を味方につけて新たな拠点を作ろうとします。

伊勢では玉丸城に関係する戦いが記され、常陸では関城・小田城を中心とする攻防が始まりました。南朝方は結城氏にも味方になるよう働きかけます。

戦いは城そのものだけでなく、兵糧や連絡を運ぶ道をめぐっても行われました。補給路を断たれた城は、兵が残っていても長く抵抗できません。この補給路争いが、次節の高師冬による常陸進攻へつながります。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、記事の順序に沿って説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な現代語訳ではありません。

南朝の活動が地方へ分かれていく

後醍醐天皇が亡くなり、後村上天皇が南朝を継いだ後も、南北朝の戦いは終わらなかった。

しかし、南朝は新田義貞・北畠顕家などの有力武将を失い、吉野から一つの大軍を動かすことが難しくなっていた。

そのため、南朝方の皇子や公家は、越中・奥州・関東・伊勢などへ分かれ、それぞれの地域で武士を集めようとした。

この節は、各地に分散した南朝方が、地方の城や武士団を拠点として活動する様子を記している。

越中方面で宮方が兵を挙げる

越中方面では、宮方の勢力が兵を挙げた。

宮方とは、南朝の皇族や、その皇族を支持する武士たちを指すものと考えられる。

ただし、写本には氏族名・人名・地名が連続して書かれており、どの武士団がどの場所で蜂起したのかを完全には確定できていない。

明治期活字本は氏族名を漢字で整理している箇所があるが、その区切りが写本と一致しているとは限らない。

そのため、本ページでは、越中方面でも南朝を支持する軍事行動が起こったという範囲を確定部分とする。

宗良親王が名子浦へ到着する

宗良親王は、名子浦と暫定的に読んでいる港へ到着した。

宗良親王は後醍醐天皇の皇子であり、伊勢から出た船団が暴風によって分散した後、各地を移動していた。

皇子がその地域へ入ることには、単なる移動以上の政治的な意味があった。

地方の武士にとって、南朝皇族が直接その土地へ来ることは、南朝方として兵を挙げるための象徴となり得た。

ただし、「名子浦」の文字と現在地の比定には再確認が必要である。

また、この名子浦が、第1冊末尾の宗良親王紀行に現れる同名の場所と同一なのかも、現段階では断定しない。

宗良親王が地方の味方を求める

宗良親王は、移動先で南朝に味方する武士を集めようとした。

この時期の南朝には、全国へ十分な軍勢や物資を送る力がなかった。

そのため、皇子自身が地方へ赴き、その土地の領主や武士へ協力を求める必要があった。

しかし、地方の武士は、南朝への忠義だけでなく、自分の所領や一族を守れるかどうかも考えなければならなかった。

宗良親王の地方活動は、南朝が皇族の存在を中心として地域ごとの軍事拠点を作ろうとした動きの一つとして記録されている。

宇津峰宮が東国で活動する

東国・奥州方面では、宇津峰宮と呼ばれる皇族が活動した。

写本は宮号を記すが、実名は明記していないか、現在の判読では確定していない。

このため、本ページでは宇津峰宮を特定の皇子名へ置き換えず、写本に現れる宮号のまま示す。

宇津峰宮には供の者が従い、さらに奥州の武士たちが関係した。

皇族を軍勢の中心に置くことで、南朝方は奥州と関東の武士を一つの目的のもとに集めようとしたと考えられる。

宇津峰宮と供奉者

写本には、宇津峰宮に従った供奉者とみられる人物が複数記されている。

しかし、人物名・官職・氏族名の境界が分かりにくく、誰が皇族の直接の供で、誰が現地で合流した武士なのかを確定できない。

顕時と暫定的に読んでいる人物もこの付近に現れるが、名字・官職・所属勢力は不明である。

また、出羽守と記される人物についても、官職だけなのか実名まで続いているのかを再確認する必要がある。

現在の公開用本文では、宇津峰宮に公家・武士の一団が従ったという範囲にとどめる。

奥州の諸氏が関わる

宇津峰宮の活動には、奥州の複数の武士団が関わった。

北畠顕家の死後も、奥州では南朝を支持する勢力が残っていた。

一方で、すべての奥州武士が南朝方だったわけではなく、足利方に属する武士や、戦況によって立場を変える武士もいた。

写本と活字本では、奥州諸氏の氏族名をどこで区切るかに違いがある。

そのため、個々の一族を推測で南朝方として列挙せず、奥州の複数勢力が宇津峰宮の東国活動に関係したことを本文とする。

宇津峰宮が小田城へ入る

宇津峰宮は、常陸国の小田城へ入った。

小田城は、この地域で南朝方が活動するための重要な拠点となった。

城へ皇族が入ることによって、小田城は単なる地方領主の城ではなく、南朝方の政治的・軍事的な中心として扱われることになった。

ただし、宇津峰宮が小田城へ入った具体的な日付、同行者、小田治久との関係を示す逐字本文には未確定部分がある。

小田治久と読んでいる人物名も、写本では官職や前後の語と連続しているため、再校訂を要する。

小田城を南朝方の拠点とする

宇津峰宮が入った小田城には、南朝方の武士や公家が集まった。

南朝方は、城を守るだけでなく、周辺の武士へ味方になるよう働きかけた。

また、小田城と他の城との間で、兵・食料・情報を行き来させる必要があった。

城が一つだけ残っていても、周囲の道路や村、物資の供給地を失えば長期間の抵抗はできない。

そのため、常陸戦線では城の攻防と同じくらい、城同士を結ぶ補給路と連絡路が重要になった。

伊勢の玉丸城

東国の記事と並行して、伊勢の玉丸城に関係する記事も記されている。

伊勢は、南朝皇族や北畠氏の活動と深く関係する地域だった。

写本では「玉丸城」と読んでいるが、明治期活字本との比較では「玉丸」ではなく、別宮丸など別の表記である可能性も残る。

城名の字を誤ると、現在地や関係する領主の比定も変わる。

そのため、現段階では「玉丸城」と暫定表記し、地誌による確認が必要であることを明記する。

土岐頼遠に関する記事

この範囲には、土岐頼遠に関係する記事も置かれている。

ただし、現在の作業台帳に保存されているのは人物名を含む記事の要旨であり、その行動・処分・前後の記事との関係までは逐字で確認できない。

したがって、本ページでは土岐頼遠の具体的な事件を一般的な歴史知識から補わず、『南方紀伝』に同人の記事があることだけを示す。

逐字翻刻を再確認した後、伊勢・京都・北朝側の記事のどこに位置づけられるかを改めて整理する。

結城氏へ味方になるよう働きかける

東国の南朝方は、結城氏にも南朝へ加わるよう働きかけた。

結城氏は東国に大きな影響力を持つ武士であり、その協力を得られるかどうかは、常陸・奥州の戦況に大きく関わった。

写本には、結城顕朝と暫定的に読んでいる名や、結城氏に関係する複数の人物が現れる。

しかし、親朝・顕朝・直朝などの人物関係、誰が勧誘の対象で、誰が実際に出陣したのかは整理が必要である。

春日羽林・一条少将と読んでいる公家名・官職も、この勧誘や使者の記事に関係する可能性があるが、逐字の文脈は未確定である。

幼い大将が戦場に立つ

結城氏に関係する戦闘記事には、結城直朝とみられる幼い大将のことが記されている。

作業台帳の現代語訳要旨では、九歳の大将が戦死した記事として整理されている。

ただし、写本と活字本では年齢の読み方や、その戦いで討死した人数に差がある。

また、人物名を本当に結城直朝と読むべきか、顕朝など別の結城氏人物との関係も再確認が必要である。

そのため、本ページでは「結城氏に属するとみられる幼い大将が戦死した」とし、年齢と実名を確定事項にはしない。

討死者数をめぐる異同

幼い大将が戦死した合戦では、ほかにも多くの兵が討死したと記されている。

しかし、討死者数について、写本は百余人とも読める一方、活字本との比較では七百余人となる可能性がある。

数字の差が非常に大きいため、単純な表記差ではなく、句切りや数字字形の誤読を含む可能性がある。

現代語訳の主本文では具体的な人数を決定せず、「多数が討死した」と表現する。

関城をめぐる戦いが始まる

常陸では、関城をめぐる戦いも始まった。

関城は、常陸における南朝方の重要な拠点の一つとなった。

城内の兵は、城壁や地形を利用して足利方の攻撃を防ぐ必要があった。

同時に、小田城やほかの南朝方拠点との連絡を保ち、食料・武器・人員を受け取らなければならなかった。

この節では関城攻防の始まりが記され、戦いがさらに激しくなる過程は次節以後へ続く。

小田城をめぐる攻防

宇津峰宮が入った小田城も、足利方との戦いの中心となった。

小田城には皇族・公家・武士が集まり、南朝方の政治的な拠点としても機能した。

しかし、小田城を守るには、周辺の領主が南朝方であり続けることと、食料や援軍が届くことが必要だった。

戦況が悪化すれば、周辺領主が足利方へ移る可能性もあった。

この問題は、次節で小田治久が足利方へ転じる記事へつながっていく。

方穂庄と補給路

常陸戦線の記事には、方穂庄と暫定的に読んでいる地名が現れる。

この地域は、城へ兵糧や人員を運ぶ道、または城同士を結ぶ連絡路に関係していた可能性がある。

しかし、「方穂庄」という読みそのものに写本と活字本の差があり、正式な地名を確定できていない。

そのため、現在の本文では暫定表記を用い、場所を現在の特定地域へ比定しない。

この地域をめぐる戦いは、次節の三村山などの戦闘へ続く。

補給路を断つ戦い

常陸の戦いでは、敵の城を正面から攻撃するだけでなく、城へ通じる道をふさぐ戦法が取られた。

補給路が断たれると、城内へ食料・武器・援軍を届けられなくなる。

城の兵が多くても、食料がなくなれば長く戦うことはできない。

また、ほかの南朝方拠点と連絡が取れなければ、どこが攻撃されているか、いつ援軍を送るべきかも分からなくなる。

『南方紀伝』は、常陸戦線を、城の数や軍勢の多さだけでなく、補給と連絡をめぐる戦いとしても記録している。

各地の南朝拠点が結びつこうとする

この節では、越中の宗良親王、奥州・関東の宇津峰宮、伊勢の玉丸城、常陸の小田城・関城が一続きの記事として置かれている。

それぞれは遠く離れた場所にあったが、いずれも南朝方の皇族・公家・武士が地方に拠点を作ろうとした動きである。

しかし、地域同士を直接結ぶ軍勢や物資は十分ではなかった。

南朝方は各地に拠点を持ちながら、それらを一つの戦線として維持することに苦しむことになる。

次の第13節では、高師冬が常陸へ進攻し、小田治久の離反、関城・大宝城・下妻城・伊佐城などの攻防がさらに激しくなる過程を扱う。

流れが分かる現代語訳

後醍醐天皇が亡くなった後も、南朝方の皇子たちは各地で戦いを続けた。

越中方面では宮方が兵を挙げ、宗良親王は名子浦と読まれる港へ到着した。

東国では、宇津峰宮と呼ばれる皇族が、供の者や奥州の武士を伴って常陸国の小田城へ入った。

皇族が城へ入ることで、小田城は南朝方の重要な拠点となった。

伊勢では玉丸城に関係する戦いがあり、常陸では小田城・関城をめぐる戦いが始まった。

南朝方は、東国の有力武士である結城氏にも味方になるよう呼びかけた。

結城氏に関係するとみられる幼い大将が戦死した記事もある。作業台帳では九歳と整理しているが、年齢と実名はまだ確定していない。

戦いで重要だったのは、城を守る兵の数だけではなかった。

食料や武器を運ぶ道が断たれると、城は長く戦えない。

そのため両軍は、関城・小田城そのものだけでなく、城へ通じる道路や村をめぐっても戦った。

南朝方は各地に拠点を作ったが、それらを援軍と食料で結び続けることが難しかった。

この弱点を突くように、次には足利方の高師冬が常陸へ大軍を進めてくる。

人物・用語・史実注記

宗良親王

後醍醐天皇の皇子です。伊勢からの海上分散後、各地を移動しながら南朝に味方する武士を求めました。この節では名子浦への到着が記されています。

名子浦

宗良親王の到着地として暫定的に読んでいる地名です。写本の字形と現在地の比定には再確認が必要です。

宇津峰宮

奥州・東国で活動した南朝皇族の宮号です。写本では実名を確定できないため、特定の皇子名へ置き換えずに表示します。

小田城

常陸における南朝方の重要拠点です。宇津峰宮が入り、皇族・公家・地方武士を中心とする活動拠点となりました。

関城

常陸における南朝方の城の一つです。この節から攻防が始まり、後の北畠親房書状では、援軍や食料を待つ窮状が詳しく語られます。

玉丸城

伊勢方面の記事に現れる城名です。「玉丸」の文字や別名の可能性があり、地誌による再確認が必要です。

結城氏

東国の有力武士です。南朝方は結城氏の協力を得ようとしましたが、親朝・顕朝・直朝などの人物関係と各人の行動には判読保留があります。

補給路

城へ食料・武器・兵士・情報を運ぶ道です。補給路を断たれた城は、城壁が残っていても長期間の抵抗が難しくなります。

方穂庄

常陸戦線の補給・連絡に関係するとみられる地名です。ただし、「方穂庄」という読みと現在地の比定は未確定です。

原文・復刻資料を開く

史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-13、全3ページ
  • 対象年代:興国二年~興国四年/暦応四年~康永二年(1341~1343年)
  • 明治期活字本:PDF第8画像付近
  • 内容区分:編年本文
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partの北畠顕信・奥州関係記事から続く。

越中方面において宮方が蜂起する。

宗良親王が名子浦と読まれる港へ到着する。

宇津峰宮と供奉者、奥州の諸氏に関する記事を記す。

宇津峰宮が常陸国の小田城へ入り、南朝方の拠点とする。

伊勢の玉丸城、土岐頼遠に関係する記事を記す。

南朝方が結城氏へ協力を求める。

結城氏の幼い大将とみられる人物が戦死し、多数の討死者が出る。ただし、実名・年齢・人数は未確定。

関城・小田城をめぐる攻防が始まる。

方穂庄と暫定的に読んでいる地域などで、城へ通じる補給路・連絡路を断つ戦いが行われる。

注:神風和記に関する追記、名子浦、宇津峰宮の実名、顕時、奥州氏族、出羽守、小田治久、秀慶、結城顕朝、春日羽林・一条少将、方穂庄は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

興国二年/暦応四年以後、越中方面に宮方の蜂起あり。

宗良親王、名子浦と称する所へ着津す。ただし地名の字、なお未確定。

宇津峰宮、供奉の人々ならびに奥州諸氏を伴い、東国において活動す。

宇津峰宮、常陸国小田城へ入る。宮の実名、なお定まらず。

伊勢玉丸城に関する記事あり。城名は玉丸/別宮丸等の可能性あり。

土岐頼遠に関する記事あり。行動・処分の逐字、なお未確認。

南朝方、結城氏へ味方となるべき由を勧む。

結城氏の幼き大将とみられる者、合戦において討死す。年齢を九歳とする読みあり。ただし人名・年齢、なお未確定。

討死者、多数あり。写本は百余人、活字本は七百余人とも読め、なお定まらず。

関城・小田城をめぐり、合戦始まる。

方穂庄と暫定的に読む地域等において、兵粮・連絡の道を遮断する戦あり。

〔高師冬の常陸進攻、小田治久の離反記事へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第8画像付近には、越中方面の宮方蜂起、宗良親王の到着、宇津峰宮と奥州諸氏、小田城・関城、伊勢玉丸城、結城氏関係者、常陸の補給路をめぐる戦いが漢文調で収録されています。

活字本は、氏族名・人名・官職を写本より明確に区切る箇所があります。しかし、その区切りが写本の構文と一致するとは限りません。

また、玉丸城の表記、結城直朝とみられる人物の年齢、討死者数、方穂庄の地名には、写本との差があります。

注:活字本文の逐字版は、PDF第8画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
第1頁右の追記 神風和記とみられる追記あり 本文へ取り込むか、省略・別配置の可能性 本文との関係を確定せず、追記として保持する
奥州諸氏 氏族名・官職・人物名が連続する 漢字で区切るが、写本と一部異なる 活字本の区切りを無条件には採用しない
玉丸城 玉丸城と読める 別宮丸など別表記の可能性 玉丸城を暫定表記とし、地誌で再確認する
幼い大将の年齢 九歳と読める可能性 年齢または人物説明が異なる可能性 人物名・年齢を確定事項にしない
討死者数 百余人とも読める 七百余人とも読める 具体的数字を本文で採用せず「多数」とする
方穂庄 方穂庄と暫定的に読む 異なる地名表記の可能性 現在地へ比定せず暫定表記を保持する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
第1頁右の追記 神風和記追記 本文・傍書・別資料のどれに当たるか不明
宗良親王の到着地 名子浦 地名字形と現在地の比定が未確定 低~中
宇津峰宮 宇津峰宮親王 実名がなく、どの皇族を指すか確定できない
供奉者 顕時 名字・官職・所属勢力が不明
奥州諸氏 複数氏族名 氏族名と実名の区切りが不明瞭
奥州関係者 出羽守 官職のみか、後続の実名を含むか不明 低~中
小田城関係者 小田治久 官職・行動・前後人物との接続に再確認余地
人物名 秀慶 僧名・法名・武士名のどれか判然としない
結城氏関係者 結城顕朝 親朝・直朝との人物関係と記事の主語が不明
公家・使者 春日羽林・一条少将 二人か一人か、勧誘記事との関係が不明
常陸地名 方穂庄 正式表記・位置・補給路との関係が未確定 低~中
討死者数 百余人/七百余人 数字字形または句切りに大きな差がある

復刻作業記録

  • 手書き写本part-13の全3ページを一つの範囲として確認した。
  • 前part末尾の奥州・関東記事から、越中の宮方蜂起と宗良親王の記事へ続く接続を確認した。
  • 次のpart-14が方穂庄・三村山、高師冬の常陸進攻へ続くため、補給路遮断までを第12節とした。
  • 明治期活字本PDF第8画像付近を対応箇所として照合した。
  • 宗良親王の到着地は「名子浦」と暫定表記したが、現在地へは比定しなかった。
  • 宇津峰宮は、実名を推測で補わず、写本の宮号を保持した。
  • 奥州諸氏は、活字本の人名区切りをそのまま採用せず、個別氏族の列挙を控えた。
  • 玉丸城は別表記の可能性を異同欄へ残した。
  • 結城氏の幼い大将は、実名・年齢を確定せず、作業台帳の「九歳の大将」という要旨を暫定情報として扱った。
  • 討死者数は百余人/七百余人の差が大きいため、現代語訳では「多数」とした。
  • 関城・小田城戦を、城の正面攻撃だけでなく補給路・連絡路をめぐる戦いとして整理した。
  • 方穂庄は、次partの三村山・高師冬進攻記事と合わせて再校訂する対象とした。

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13.常陸諸城の攻防――高師冬の進攻と小田治久の離反

対象年代:興国四年~興国五年/康永二年~康永三年(1343~1344年)

対応史料:手書き写本第1冊 part-14/明治期活字本PDF第8~9画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

小田方面への進軍日、師冬方の損害人数、各城への攻撃日と軍勢数、城名・人名の区切りには、写本と活字本の相違または判読保留があります。

この節の概要

高師冬の軍勢が常陸へ進み、南朝方の城を多方面から攻撃しました。方穂庄・三村山などでは激しい戦いが起こり、野伏や伏兵を利用した戦闘によって、師冬方にも多数の損害が出たと記されています。

しかし、南朝方にとってさらに大きな打撃となったのは、小田治久が高師冬方へ移ったことでした。北畠親房は小田城を頼れなくなり、関城へ移ります。

師冬軍は、関城だけでなく、大宝城・下妻城・伊佐城など、南朝方の複数の拠点へ攻撃を加えました。中郡城・西明寺城と読まれる城も記事に現れますが、城名の区切りには再確認が必要です。

城主や地方武士の中には、長期籠城を続けられず、城を出て降伏する者も現れました。次節では、この危機の中で北畠親房が結城氏へ送った書状を読みます。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、記事の順序に沿って説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な現代語訳ではありません。

常陸の南朝戦線が広がる

常陸では、関城・小田城などを中心として、南朝方と足利方の戦いが続いていた。

南朝方は、北畠親房や皇族を中心として、地方の武士を集め、複数の城を拠点として抵抗していた。

しかし、城同士の距離は離れており、それぞれの城へ援軍・食料・武器を送ることは容易ではなかった。

足利方は、一つの城だけを攻撃するのではなく、複数の拠点と補給路へ同時に圧力をかけようとした。

この節では、常陸の南朝戦線が多数の城へ分かれ、それぞれが孤立していく過程が記されている。

方穂庄をめぐる戦い

前節に続き、方穂庄と暫定的に読んでいる地域で戦いが行われた。

方穂庄は、南朝方の城へ食料や人員を運ぶ道に関係した地域だった可能性がある。

しかし、「方穂庄」という字の読みと、現在のどの地域に当たるのかは確定していない。

写本と明治期活字本でも地名の表記・区切りに差があるため、本ページでは暫定表記のまま示す。

この地域を押さえることは、城そのものを攻めるのと同じほど重要だった。

三村山で戦う

三村山と読まれる場所でも合戦が起こった。

山地での戦いでは、大軍を整然と動かすことが難しく、地形を知る地方の兵が有利になる場合があった。

作業台帳の中学三年生向け現代語訳要旨では、この戦いを野伏戦として整理している。

野伏とは、正規の大軍とは異なり、山野に潜んで不意に攻撃する兵や、地域の地形を利用して戦う集団を指すものと考えられる。

ただし、写本本文が具体的にどの兵を「野伏」と呼んでいるか、三村山の現在地がどこかについては再確認が必要である。

師冬方に多数の損害が出る

方穂庄・三村山周辺の戦いでは、高師冬方にも多数の死傷者が出たと記されている。

手書き写本では、その損害を千余人と読むことができる。

一方、明治期活字本では数千余人と読める。

千余人と数千余人では、軍勢の規模と戦いの激しさの印象が大きく変わる。

数字の字形・句切り・活字本の底本に問題がある可能性があるため、現代語訳では特定の数字へ統一せず、「師冬方にも多数の損害が出た」と表現する。

小田方面への進軍日をめぐる異同

高師冬方が小田城周辺へ軍勢を進めた日付にも、写本と活字本の違いがある。

手書き写本は六月十六日と記す。

明治期活字本は六月十五日と記す。

一日の差ではあるが、常陸戦線における軍事行動の順序を確定するうえで重要な異同である。

公開用本文では一方を誤記と決めず、写本六月十六日・活字本六月十五日として併記する。

白河親朝に関する任官記事

この範囲には、白河親朝と暫定的に読んでいる人物の任官記事も含まれている。

ただし、「白河」が名字・地域名・所属のどれに当たるのか、また「親朝」が結城氏関係者を指すのかについては確定していない。

官職名も写本の崩しが強く、明治期活字本の表記だけで確定することはできない。

そのため、本ページでは、白河親朝と読まれる人物の任官記事があることのみを示し、具体的官職・系譜は保留する。

北郡新城と飯沼楯

常陸戦線の記事には、北郡新城・飯沼楯と読まれる拠点も現れる。

「楯」は、城ほど大規模ではない防御拠点や、武士の館・砦を表す場合がある。

ただし、北郡新城と飯沼楯がそれぞれ別の拠点なのか、地名と施設名が一続きになっているのかは、逐字本文の確認が必要である。

このような小規模拠点も、主要な城へ兵や食料を送るために重要だったと考えられる。

足利方は、南朝方の大城だけでなく、周囲にある砦・館・連絡地点も攻撃していった。

小田治久が高師冬方へ移る

南朝方にとって大きな転換となったのは、小田治久が高師冬方へ移ったことである。

小田治久は、小田城と常陸の南朝戦線に関係する有力者として前節から記事に現れていた。

小田氏が南朝方にとどまる限り、北畠親房や宇津峰宮は小田城を拠点として活動することができた。

しかし、治久が師冬方へ転じたことで、小田城は親房にとって安全な拠点ではなくなった。

写本が治久の行動をどのような言葉で評価しているかは逐字再確認が必要だが、作業台帳では「治久の師冬方転向」「小田治久の離反」と整理されている。

地方領主が立場を変える理由

常陸の地方領主は、南朝への忠義だけを考えて行動できたわけではなかった。

領主には、自分の一族・家臣・所領・城を守る責任もあった。

南朝から援軍や食料が届かず、足利方の大軍が近づけば、南朝方にとどまることで一族全体が滅びる危険もあった。

一方で、足利方へ移れば、これまで南朝方として戦ってきた仲間を裏切ることになる。

作業台帳は、この節を、地方領主が忠義と所領保全との間で判断を迫られ、離反していく状況として整理している。

北畠親房が小田城を離れる

小田治久が高師冬方へ移ると、北畠親房は小田城にとどまることができなくなった。

親房は小田城を離れ、関城へ移った。

関城は南朝方の重要拠点だったが、師冬軍の攻撃を受け、援軍や兵糧を必要としていた。

親房が関城へ入ったことにより、関城は南朝東国戦線の政治的な中心としても大きな意味を持つようになった。

しかし、同時に親房自身も城内へ閉じ込められ、外部の援軍を待つ立場へ追い込まれた。

高師冬軍が多方面から攻撃する

高師冬軍は、関城だけへ全軍を集中させたのではなかった。

南朝方の複数の城・砦へ軍勢を分け、多方面から攻撃を加えた。

一つの城が攻撃を受けても、別の城から援軍が来れば守り続けられる可能性がある。

そのため師冬方は、城同士の連携を断ち、それぞれの拠点を孤立させようとした。

写本には攻城日や軍勢数が記されているが、明治期活字本と数字に差があり、完全には確定していない。

関城を攻撃する

北畠親房が入った関城は、高師冬軍の重要な攻撃目標となった。

関城には南朝方の武士が籠もり、親房を守りながら抵抗を続けた。

しかし、城外との連絡が断たれれば、食料・武器・援軍が入らなくなる。

親房は関城にいながら、東国の有力武士へ援軍を求めなければならなかった。

この切迫した状況が、次節から掲載する結城氏への書状の背景となる。

大宝城をめぐる攻防

大宝城も南朝方の拠点として攻撃を受けた。

関城と大宝城が互いに連絡し、足利方へ抵抗できれば、南朝方は常陸に戦線を維持できた。

一方、どちらか一方が落ちれば、残った城への圧力はさらに強くなる。

ただし、part-14では大宝城の城主名・攻撃日・軍勢数を完全には確定できていない。

そのため、このページでは大宝城が師冬方の攻撃対象となったことを中心に記す。

下妻城をめぐる攻防

下妻城も、常陸南朝戦線を構成する拠点として記事に現れる。

下妻城の中心人物については、次の北畠親房書状にも記述がある。

しかし、誰が城の中心となって守っていたのか、皇族・公家・地方武士のどの人物を主語とするのかは、写本と活字本の句切りに問題がある。

この節では、下妻城が南朝方の拠点として攻撃を受けていたことまでを扱い、城内の中心人物は断定しない。

伊佐城をめぐる攻防

伊佐城も、高師冬軍による多方面攻撃の対象となった。

伊佐城がどの城と連絡し、誰が守っていたのかについては、現在の作業台帳の要旨だけでは逐字確認できない。

ただし、次節の北畠親房書状では、関城・下妻城などと並び、東国の複数の城の一つとして状況が述べられる。

このことから、伊佐城も南朝方の東国戦線を維持するうえで重要な拠点だったことが分かる。

中郡城・西明寺城の記事

写本には、中郡城・西明寺城と暫定的に読んでいる城名も現れる。

ただし、これが二つの別々の城なのか、「中郡西明寺城」という一つの複合した名称なのかは確定していない。

写本では人名・地名・城名が続けて書かれ、明治期活字本でも区切りに問題が残る。

そのため、現在の本文では中郡城・西明寺城を暫定的な二城として示し、城郭資料による再確認が必要であることを明記する。

善光寺山・宗戸田野をめぐる問題

戦闘記事の中には、善光寺山、宗戸田野と暫定的に読んでいる語も現れる。

善光寺山が山名・寺院名・陣地名のどれに当たるのかは確定していない。

宗戸田野についても、一人または複数の人名なのか、地名を含む語なのか判断できない。

これらの語は、戦場や軍勢の配置を復元するうえで重要だが、現段階で一般的な地名へ置き換えることは危険である。

したがって、原文資料欄に暫定読みを保存し、主本文には組み込まない。

顕信・三戸七郎に関する記事

この範囲には、顕信と読まれる人物や、三戸七郎と暫定的に読んでいる人物の記事もある。

顕信が北畠顕信を指すのか、別の同名人物なのかは、前後の文章だけでは確定できない。

三戸七郎についても、名字を三戸と読むべきか、別の名字・地名が続いているのか再確認が必要である。

人物同定を誤ると、奥州勢と常陸勢との関係や、どの軍勢がどの城を守ったかが変わる。

そのため、具体的な行動は判読保留とする。

四保小太郎が城を出る

多方面からの攻撃が続く中、四保小太郎と読まれる人物が城を出たという記事がある。

作業台帳では、四保小太郎の降伏として整理している。

しかし、四保小太郎がどの城を守っていたのか、城を出た後すぐに降伏したのか、別の場所へ移ったのかは完全には確定していない。

そのため、現代語訳では「四保小太郎と読まれる人物が出城し、師冬方へ降伏したとみられる」とする。

城主や有力武士の降伏は、城内の兵だけでなく、周囲の南朝方拠点にも動揺を与えた。

常陸の南朝方が孤立する

小田治久の離反、高師冬軍の多方面攻撃、城主の降伏によって、常陸の南朝方は次第に孤立した。

関城・大宝城・下妻城・伊佐城などがそれぞれ戦い続けても、相互の連絡と補給が失われれば、長期間の抵抗は難しい。

北畠親房は関城に入り、外部からの援軍を求めた。

しかし、援軍は容易には到着しなかった。

次の第14節では、親房が結城氏へ送った書状の冒頭を読み、九か月もの間援軍が来なかったこと、各城で食料が不足していたこと、秋まで待てば手遅れになるという切迫した訴えを扱う。

流れが分かる現代語訳

足利方の高師冬は、大軍を率いて常陸へ進んだ。

方穂庄・三村山などで戦いが起こり、山野に潜んだ兵の攻撃によって、師冬方にも多くの損害が出た。

ただし、死傷者の数は、写本では千余人、活字本では数千余人となっており、まだ確定していない。

師冬軍が小田方面へ進んだ日付も、写本は六月十六日、活字本は六月十五日と異なっている。

南朝方にとって最も大きな打撃は、小田治久が師冬方へ移ったことだった。

北畠親房は小田城を頼れなくなり、関城へ移った。

高師冬軍は、関城だけではなく、大宝城・下妻城・伊佐城などを同時に攻撃した。

城同士の道路が断たれたため、南朝方は援軍や食料を送り合うことができなくなった。

長い籠城に耐えられず、四保小太郎と読まれる人物のように、城を出て降伏する者も現れた。

地方の領主は、南朝への忠義を守るか、自分の一族と領地を守るため足利方へ移るかという、厳しい選択を迫られた。

関城へ移った北畠親房は、外部の武士へ必死に援軍を求めた。

次の節では、親房が「九か月待っても助けが来ない」と訴えた書状を読む。

人物・用語・史実注記

高師冬

足利方の武将として常陸へ進攻し、南朝方の複数の城を攻撃しました。写本では、進軍日・軍勢数・損害人数に活字本との異同があります。

小田治久

小田城と常陸戦線に関係する有力武士です。南朝方から高師冬方へ移ったため、北畠親房は小田城を離れて関城へ移ることになりました。

北畠親房

南朝を支えた公家です。東国で南朝方の武士をまとめ、小田治久の離反後は関城へ移りました。次節から、親房が援軍を求めた書状が続きます。

関城

常陸における南朝方の重要拠点です。小田城を離れた北畠親房が入り、高師冬軍の攻撃を受けながら援軍を待ちました。

大宝城

常陸南朝戦線を構成した城の一つです。関城などと連携して抵抗しましたが、師冬軍の多方面攻撃を受けました。

下妻城

南朝方の城の一つとして、編年記事と次の北畠親房書状に現れます。城内の中心人物については、写本と活字本の句切りに問題があります。

伊佐城

関城・下妻城などとともに、東国の南朝方拠点として記されています。城主・攻城日・軍勢数は再確認が必要です。

野伏

山野に潜み、地形を利用して不意に攻撃する兵や小規模な武装集団を指す言葉です。作業台帳では、方穂庄・三村山方面の戦いを野伏戦として説明しています。

多方面攻撃

一つの城だけでなく、複数の城・砦・補給路を同時に攻撃する方法です。城同士の援軍と食料輸送を断ち、それぞれを孤立させる効果があります。

四保小太郎

城を出て降伏したとみられる人物です。名字・実名、守っていた城、出城後の経過には判読保留があります。

原文・復刻資料を開く

史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-14、全3ページ
  • 対象年代:興国四年~興国五年/康永二年~康永三年(1343~1344年)
  • 明治期活字本:PDF第8~9画像付近
  • 内容区分:編年本文
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partの方穂庄・補給路戦の記事から続く。

方穂庄・三村山方面において戦いが行われ、高師冬方にも多数の損害が出る。

白河親朝と暫定的に読んでいる人物の任官記事を記す。

北郡新城・飯沼楯と読まれる拠点に関する記事を記す。

高師冬軍が小田方面へ進む。進軍日は写本六月十六日、活字本六月十五日。

小田治久が高師冬方へ転じる。

北畠親房は小田城を離れ、関城へ移る。

高師冬軍は、関城・大宝城・下妻城・伊佐城など、南朝方の複数の拠点へ多方面から攻撃を加える。

中郡城・西明寺城と読まれる城の記事を含むが、二城か一つの複合名かは未確定。

四保小太郎と読まれる人物が城を出て、降伏したとみられる。

注:方穂庄、三村山、七月七日の人物、宗戸田野、善光寺山、顕信、三戸七郎、軍勢数、中郡城・西明寺城、四保小太郎の出城先は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

興国四年/康永二年、常陸方穂庄・三村山の辺に合戦あり。

高師冬方、多く討たる。写本は千余人、活字本は数千余人と記す。

白河親朝と読まるる人物、任官の記事あり。官職、なお未確定。

北郡新城・飯沼楯に関する記事あり。地名・城名の区切り、なお定まらず。

高師冬、小田近辺へ軍勢を進む。写本は六月十六日、活字本は六月十五日とす。

小田治久、高師冬方へ転ず。

北畠親房、小田城を出で、関城へ移る。

師冬軍、関城・大宝城・下妻城・伊佐城等へ、軍勢を分けて攻む。

中郡城・西明寺城に関する記事あり。二城か複合名か、なお未確定。

四保小太郎と読まるる人物、城を出で、降伏すとみらる。ただし出城・降伏先、なお未確定。

〔北畠親房が結城氏へ送った書状へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第8~9画像付近には、方穂庄・三村山の戦い、高師冬の常陸進攻、小田治久の転向、北畠親房の関城移動、関城・大宝城・下妻城・伊佐城などの攻防が、漢文調の編年記事として収録されています。

活字本では人名・城名・軍勢数を写本より明確に記す箇所がありますが、小田方面への進軍日、師冬方の損害人数、攻城日、軍勢数、城名の区切りに写本との差があります。

特に、小田方面への進軍日は写本六月十六日・活字本六月十五日、師冬方の損害は写本千余人・活字本数千余人という明確な異同があります。

注:活字本文の逐字版は、PDF第8~9画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
小田方面への進軍日 六月十六日 六月十五日 重要な日付異同として両方を併記する
師冬方の損害人数 千余人 数千余人 一方へ統一せず、現代語訳では「多数」とする
各城への攻撃日 日付を記すが数字に崩れあり 異なる攻城日となる可能性 城ごとの攻撃順序を確定せず再照合する
軍勢数 各方面へ分けた人数を記すとみられる 写本と異なる数字または区切り 具体的軍勢数を本文で断定しない
中郡城・西明寺城 二城とも、一続きの名称とも読める 別々の城として区切る可能性 城郭資料で確認するまで暫定的に二城とする
四保小太郎の行動 城を出た記事として読める 降伏記事として整理される可能性 「出城し降伏したとみられる」と限定する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
常陸地名 方穂庄 正式表記と現在地を確定できない 低~中
戦場名 三村山 地名字形・現在地・前後記事との関係が未確定 低~中
師冬方の損害 千余人/数千余人 写本と活字本で人数が大きく異なる
七月七日の人物 人物名未確定 日付後の姓名・官職の区切りが不明
人名・地名 宗戸田野 人物名か地名か、複数語か判別できない
陣地・地名 善光寺山 山名・寺院名・陣所名のどれか未確定
人物名 顕信 北畠顕信か別人か、記事の主語が不明 低~中
人物名 三戸七郎 名字・通称・所属勢力を確定できない
軍勢数 各方面への派遣人数 数字と城名の係り方が不明瞭
城名 中郡城・西明寺城 二城か一つの複合名か判断できない 低~中
城名・砦名 北郡新城・飯沼楯 二拠点か、地名と施設名の組合せか不明 低~中
四保小太郎 出城して降伏 守備城・出城先・降伏相手を確定できない 低~中

復刻作業記録

  • 手書き写本part-14の全3ページを一つの範囲として確認した。
  • 前part末尾の方穂庄・補給路遮断の記事から、三村山の戦いへ続く接続を確認した。
  • 次のpart-15が北畠親房の結城氏宛書状から始まるため、四保小太郎の降伏記事までを第13節とした。
  • 明治期活字本PDF第8~9画像付近を対応箇所として照合した。
  • 小田方面への進軍日は、写本六月十六日・活字本六月十五日の両方を保存した。
  • 師冬方の損害は、写本千余人・活字本数千余人の両方を保存し、現代語訳では「多数」とした。
  • 小田治久の行動は、作業台帳の整理に従い「師冬方への転向・離反」とした。
  • 北畠親房が小田城から関城へ移る流れを、次の親房書状の背景として整理した。
  • 師冬軍の攻撃を、関城・大宝城・下妻城・伊佐城などへの多方面攻撃として整理した。
  • 中郡城・西明寺城、北郡新城・飯沼楯は、名称の区切りを確定しなかった。
  • 宗戸田野・善光寺山・顕信・三戸七郎は、人物・地名・所属を推測で補わなかった。
  • 四保小太郎の記事は、出城と降伏を示す可能性が高いものの、守備城と降伏先を保留した。

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14.北畠親房書状①――九か月待っても援軍が来ない

対象年代:康永二年(1343年)の書状

対応史料:手書き写本第1冊 part-15/明治期活字本PDF第9~10画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

この節は編年記事ではなく、北畠親房が結城氏へ送った書状の冒頭です。逐字本文には未確定箇所があるため、書状の趣旨と確認できた事項を中心に掲載します。

この節の概要

高師冬の軍勢が常陸へ攻め込んでから、すでに九か月がたっていました。

北畠親房は関城を中心に抵抗していましたが、期待していた援軍は到着しません。関・下妻・中郡・真壁・西明寺・伊佐の各拠点は、それぞれ兵糧・軍勢・連絡の問題を抱え、南朝方の東国戦線は崩壊寸前となっていました。

親房は結城氏へ、これ以上決断を先延ばしにせず、すぐに兵を動かすよう求めました。

「秋になってから助けよう」と考えているのであれば、それでは遅すぎる。城が落ち、味方が散った後に出陣しても、もはや救うものは残っていない――これが書状冒頭の中心的な訴えです。

親房は、息子の北畠顕家が過去に素早く出陣したことも例に出し、戦いでは機会を逃さず動くことが重要だと訴えています。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、書状の論旨が分かるよう整理した現代語訳です。写本の逐字本文に対する最終的な全訳ではありません。原文で確定していない人物・語句・各城の細部は、推測で補っていません。

「親房卿、結城へ送る状」

写本は、この部分に「親房卿送結城状」と読める見出しを置いている。

これは、北畠親房が結城氏へ送った書状であることを示す題である。

作業台帳では、結城親朝の離反を受け、親房が結城氏へ即時の救援と決断を求めた書状として整理している。

ただし、書状を直接受け取った人物名、宛所の正式な書き方、見出しと本文の境界は、逐字再確認が必要である。

高師冬の襲来から九か月

北畠親房は、まず、高師冬の軍勢が攻め寄せてから九か月が過ぎたと述べる。

この九か月の間、南朝方は関城をはじめとする東国の城々で抵抗を続けてきた。

しかし、外部から期待していた本格的な援軍は到着しなかった。

戦いは数日や数週間で終わるものではなくなり、城内の兵・食料・武器は次第に失われていった。

親房は、単に「敵が強い」と訴えているのではない。長期間にわたり助けを待ち続けたにもかかわらず、何の有効な行動も起こされていないことを問題にしている。

待ち続けても援軍が来ない

親房は、南朝方がこれまで何度も救援を待ってきたことを述べる。

しかし、援軍の話はあっても、実際に戦場へ到着する軍勢はなかった。

いつか助けが来ると信じているうちに、城は一つずつ孤立し、兵糧と連絡の道が失われていく。

親房の書状は、約束や相談だけでなく、実際の出陣を要求する内容となっている。

作業台帳で「勦力」と暫定的に読んでいる語も、救援・軍事行動・力を尽くすことに関係する可能性があるが、正確な字と訓読は確定していない。

関城の危機

北畠親房自身が関係していた関城は、高師冬方の攻撃を受けていた。

関城は南朝東国戦線の中心的な拠点だったが、城外との連絡を断たれれば、いつまでも抵抗を続けることはできない。

親房は関城から外部へ書状を送り、救援を求めなければならなかった。

書状が残されていること自体が、親房が城内で援軍を待ち、外部の武士を動かそうとしていた状況を示している。

ただし、関城の兵数、残った食料の量、攻撃を受けた具体的な日付は、現在の作業台帳要旨からは確認できない。

東国六城の状態を説明する

親房は、関城だけでなく、東国にある複数の南朝方拠点の状態を説明する。

作業台帳で確認されている城・拠点は、次の六つである。

  1. 下妻
  2. 中郡
  3. 真壁
  4. 西明寺
  5. 伊佐

これらはそれぞれ別の場所にあり、同じ程度の兵力・食料・守備状況だったわけではない。

親房は各城の実情を述べることで、東国の南朝方全体が危機に陥っていることを伝えようとした。

ただし、各城について記した原文の主語や人物名には未確定部分が多く、現段階では城ごとの状況を推測で細分化しない。

下妻城の記事

書状には、下妻城に関する説明がある。

しかし、その文章では、誰が下妻城にいるのか、誰が城を守っているのかという主語が、写本と活字本で異なる可能性がある。

作業台帳でも「下妻城の中心人物」を判読保留としている。

そのため、本ページでは特定の皇族・公家・武士を下妻城の中心人物とは断定しない。

下妻城が東国六城の一つとして危機に陥っていたという点だけを、確認できる内容として扱う。

中郡城の記事

中郡城と読まれる城も、親房が状態を説明した拠点の一つである。

しかし、「中郡」が正式な城名なのか、地域名と城を組み合わせた表現なのかは確定していない。

前節には中郡城・西明寺城と読まれる記事があり、二つの城の区切りにも問題が残っていた。

この書状における中郡城の記事と、前の編年記事との対応は、写本・活字本を行単位で再照合する必要がある。

真壁の拠点

真壁に関係する拠点についても、親房は書状の中で触れている。

作業台帳には「真壁法超」と暫定的に読んでいる人物または語句が登録されている。

しかし、「法超」が人物の法名なのか、別の語を読み違えているのか、真壁の主語として扱うべきかは未確定である。

したがって、真壁の具体的な守備者や城主名は本文へ入れず、南朝方の拠点の一つとしてのみ示す。

西明寺・伊佐の拠点

西明寺と伊佐も、危機にある南朝方拠点として列挙されている。

書状の構成からは、親房が一つの城だけを救ってほしいのではなく、東国に残る複数の拠点をまとめて支援するよう求めていたことが分かる。

ただし、西明寺が寺院を中心とする拠点なのか、城名として扱われているのかは再確認を要する。

伊佐についても、城・地域・守備者に関する逐字の説明は、現在の台帳要旨では確定できない。

城々で食料が不足する

親房は、東国の南朝方拠点で兵糧が不足していることを訴えた。

城は、敵の攻撃を防ぐだけでは守れない。

兵士が食べる米や食料、馬の飼料、武器を修理する材料などが必要になる。

補給路を断たれた状態が長く続けば、城壁が破られなくても城内から抵抗力が失われていく。

ただし、写本で食料欠乏を述べる句は、現在も逐字確定していない。

そのため、具体的な食料名・残量・欠乏期間は補わず、「兵糧が不足していた」という作業台帳の要旨に基づいて説明する。

城同士の連絡が絶たれる

東国の南朝方は、複数の城に分かれて抵抗していた。

そのため、一つの城から別の城へ使者を送り、敵の動きや援軍の予定を知らせる必要があった。

しかし、高師冬方が道路や周辺地域を押さえれば、城同士の連絡は難しくなる。

連絡が途絶えると、どの城がまだ抵抗しているのか、どこへ援軍を送るべきかさえ分からなくなる。

親房は、兵糧だけでなく、東国の南朝方を一つの軍勢として結ぶ連絡そのものが失われつつあることを伝えたと整理できる。

味方内部にも問題がある

作業台帳は、この書状を、兵糧・連絡だけでなく、南朝方内部の対立や協力不足を具体的に示したものとして整理している。

東国の武士たちは、それぞれ自分の一族・所領・城を守らなければならなかった。

そのため、南朝方全体のために兵を動かすべきだと理解していても、自分の地域を離れられない者がいたと考えられる。

また、小田治久のように、戦況を見て高師冬方へ移る者も現れていた。

ただし、書状に記された個々の対立者・協力拒否者の名前は、現在の要旨では確定できない。

宗祐に関する記述

書状には、宗祐と暫定的に読んでいる人物名が現れる。

しかし、宗祐が城の守備者なのか、使者なのか、僧侶なのか、また書状の相手とどのような関係にあるのかは確定していない。

人物の立場を推測で決めると、書状の主語や責任の所在を誤る可能性がある。

そのため、宗祐の具体的な行動は現代語訳の主本文へ組み込まず、原文資料欄の判読保留事項として残す。

「竹園御座」「顕時朝臣」の問題

この書状には、「竹園御座」「顕時朝臣」と暫定的に読んでいる語句もある。

「竹園」は皇族を表す言葉として用いられる場合があるが、この箇所で具体的に誰を指すかは確定していない。

また、「御座」が所在・滞在・身分のどの意味で用いられているかも、前後の句切りによって変わる。

顕時朝臣についても、人物名・官職・別人との混同を再確認する必要がある。

したがって、これらを特定の皇族や公家の行動として断定しない。

「秋になってから」では遅い

親房は、援軍を送る時期を先延ばしにしてはならないと強く訴えた。

秋になってから兵を出せばよいと考えているのであれば、それでは間に合わない。

その時までに城が落ち、兵粮が尽き、味方が降伏・離反してしまえば、援軍が来ても救うべき軍勢は残っていない。

親房が求めているのは、将来の約束ではなく、今すぐ行われる軍事行動だった。

「更無所治歟」と暫定的に読んでいる句も、手の施しようがなくなることや、治めるべき場所が失われることに関係する可能性があるが、正確な訓読は未確定である。

北畠顕家の迅速な出陣を例に出す

親房は、息子の北畠顕家が行った迅速な出陣を例として挙げる。

顕家は南朝の危機に際し、奥州から長い距離を進んで畿内へ向かった人物だった。

この書状で親房が重視しているのは、戦いには適切な時機があり、その時機を失ってから動いても成果を得られないという点である。

ただし、書状中で顕家のどの出陣を、どの語句で説明しているのかは、逐字本文の再確認が必要である。

現段階では、顕家の速やかな行動を例にして、結城氏にも即時の決断を求めたという台帳の要旨に基づいて説明する。

親房が求めたもの

親房が結城氏に求めたのは、同情や励ましの言葉ではなかった。

実際に兵を集め、東国の南朝方を救うために動くことだった。

関城だけでなく、下妻・中郡・真壁・西明寺・伊佐など、複数の拠点を同時に救わなければならない。

一城だけが救われても、ほかの城が落ちて補給路と連絡路が失われれば、東国戦線全体を立て直すことは難しい。

親房は、今が南朝方を救える最後の機会であるという強い危機感をもって書状を書いた。

書状はさらに皇統と先祖の議論へ進む

この第14節では、援軍不着と各城の危機を訴える部分までを扱う。

親房の説得は、軍事情勢の説明だけでは終わらない。

次の第15節では、北畠顕家の忠死、南朝皇統の正統性、足利尊氏・高師直への批判、北条義時・泰時との比較、結城氏が藤原秀郷の子孫として負う責任へと議論が進む。

親房は、目の前の軍事的危機と、結城氏の家名・先祖・将来の名誉を結びつけて、決断を迫ろうとする。

流れが分かる現代語訳

北畠親房は、関城から結城氏へ書状を送った。

親房は、次のように訴えた。

高師冬の軍勢が攻めてきてから、もう九か月になります。

私たちは長い間、援軍が来るのを待ちました。

しかし、今になっても本格的な助けは来ていません。

関城だけでなく、下妻・中郡・真壁・西明寺・伊佐などの拠点も危険な状態だった。

城では食料が不足し、城同士の連絡も難しくなっていた。

親房は、

秋になってから兵を出せばよいと考えているのであれば、それでは遅すぎます。

秋までに城が落ち、味方がいなくなれば、後から援軍が来ても何も救えません。

と警告した。

さらに親房は、息子の北畠顕家が南朝の危機に際して、すぐに軍勢を動かしたことを例に出した。

戦いでは、「いつか動く」ではなく、「必要な時にすぐ動く」ことが重要だからである。

親房が結城氏へ求めていたのは、味方だと言うことではなかった。

実際に兵を出し、今すぐ東国の南朝方を助けることだった。

人物・用語・史料注記

北畠親房

南朝の政治を支えた公家です。東国へ渡り、常陸の城々を拠点として南朝方の武士をまとめようとしました。この書状では、関城を中心とする東国南朝勢力への即時救援を求めています。

結城氏

東国の有力武士です。作業台帳では、結城親朝の離反を受けて親房が送った書状として整理されています。ただし、宛所・人物名の逐字確認は今後の課題です。

高師冬

足利方の武将として常陸へ進攻し、関城など南朝方の拠点を攻撃しました。親房は、師冬の襲来から九か月たっても援軍が来ないと訴えています。

関城

北畠親房が拠点とした常陸の南朝方の城です。高師冬方の攻撃を受け、外部からの援軍と兵糧を必要としていました。

東国六城

この書状では、関・下妻・中郡・真壁・西明寺・伊佐の各拠点が挙げられています。各城の主語・中心人物・具体的状態には未確定箇所があります。

兵糧

軍勢や城内の人々が食べる食料です。長期の籠城では、敵の攻撃だけでなく、兵糧が尽きることが大きな問題となります。

北畠顕家の例

親房は、息子の顕家が南朝の危機に際して迅速に出陣したことを例に出し、救援を先延ばしにしてはならないと訴えています。書状中の具体的な表現は再校訂が必要です。

編年記事から書状へ

第13節までの本文は、事件を年代順に記した編年記事でした。この第14節からは、北畠親房が実際に送ったとされる書状が長く収録されます。戦場の当事者が何を恐れ、誰へ何を求めたかを知るための重要な部分です。

原文・復刻資料を開く

史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-15、全3ページ
  • 対象年代:康永二年(1343年)の書状
  • 内容区分:北畠親房書状①
  • 写本見出し:「親房卿送結城状」と暫定判読
  • 明治期活字本:PDF第9~10画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

「親房卿送結城状」と読まれる見出しを置き、北畠親房書状の冒頭へ入る。

高師冬の襲来から九か月が過ぎても、期待した援軍が到着していないことを訴える。

関・下妻・中郡・真壁・西明寺・伊佐の各拠点の実情を述べる。

東国南朝方における兵粮の不足、城同士の連絡、味方内部の問題を示す。

このまま秋まで待てば、城々が維持できなくなり、時機を失うと警告する。

北畠顕家の迅速な出陣を例に出し、即時の救援と決断を求める。

注:「勦力」「更無所治歟」、食料欠乏句、宗祐、下妻城中心人物、「竹園御座」「顕時朝臣」「真壁法超」、中郡城は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

親房卿、結城へ送る状。

師冬襲来の後、すでに九か月を経たり。しかれども、いまだ援軍の到来なし。

関・下妻・中郡・真壁・西明寺・伊佐等の城々、各々窮迫の状にあり。

兵粮乏しく、城々の連絡も自由ならず。内部の協力もまた十分ならざる由を述ぶ。

秋を待ちて出陣すべしとの儀ならば、その時はすでに遅かるべし。

城落ち、味方散じたる後に兵を出すとも、救うべき所なからん。

顕家が先年、時機を失わず速やかに出陣したる例を挙げ、今こそ決断すべき由を訴う。

結城方、速やかに軍勢を催し、東国の諸城を救援すべきことを求む。

〔北畠顕家の忠死・皇統論・尊氏師直批判へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第9~10画像付近には、北畠親房が結城氏へ送った書状の冒頭として、師冬襲来後九か月の援軍不着、東国の諸城、兵粮と連絡の問題、秋まで待てば手遅れになるという警告が収録されています。

写本と活字本の大筋は一致します。

主な差は、「候」「儀」など一字単位の表記、下妻城関係記事の主語、人物名、書状の句切りと訓読です。

活字本によって文字を補える箇所がありますが、写本にない主語・人物・説明を無条件には採用しません。

注:活字本文の逐字版は、PDF第9~10画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
候/儀などの字 連綿・崩しによって複数の読みが可能 活字で一字に確定している 活字本を補助にするが、文脈と写本字形を再確認する
下妻城の記事 主語・中心人物が不明瞭 人物または主語を補って整理する可能性 中心人物を確定せず、城の窮状のみ本文とする
人物名 仮名・官職・実名が連続する 漢字で区切るが、写本と一致しない可能性 人物同定を保留する
書状の句切り 長い続き書きで、文の境界が不明瞭 句読点のない漢文調だが、活字の行分けがある 意味のまとまりごとに仮に区切り、確定本文とはしない
食料欠乏句 兵粮不足を述べるとみられるが逐字未確定 語句を補読できる可能性 要旨では兵粮不足とし、逐字本文を保留する
中郡城 中郡城と読めるが城名の境界に問題 城名として整理する可能性 暫定城名として表示する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
軍事行動に関する語 勦力 字形・語義・訓読を確定できない
手遅れを述べる句 更無所治歟 「治」の字と文全体の訓読に異読がある
食料欠乏句 兵粮・食料が不足する趣旨 逐字本文と主語が未確定
人物名 宗祐 僧・武士・使者のどれに当たるか不明
下妻城 下妻城の中心人物 主語と人物名の対応が不明
皇族関係句 竹園御座 誰の所在・滞在を指すか確定できない
人物名 顕時朝臣 人物同定と前後の行動が不明 低~中
真壁関係者 真壁法超 法名・人名・別語のいずれか未確定
城名 中郡城 正式な城名・地域名との対応が未確定 低~中
書状の宛所 結城氏/結城親朝 見出しと本文からの人物同定を逐字確認する必要がある

復刻作業記録

  • 手書き写本part-15の全3ページを一つの書状範囲として確認した。
  • 前part末尾の高師冬進攻・小田治久離反・北畠親房関城移動から、親房書状へ続く接続を確認した。
  • 写本の「親房卿送結城状」と読まれる見出しから、書状本文の冒頭として整理した。
  • 次のpart-16が北畠顕家の忠死、皇統論、尊氏・師直批判へ続くため、援軍不着・東国六城・即時救援要求までを第14節とした。
  • 明治期活字本PDF第9~10画像付近を対応箇所として照合した。
  • 書状の中心を「九か月援軍不着」「秋では遅い」「今すぐ動くべきだ」という切迫した訴えとして整理した。
  • 関・下妻・中郡・真壁・西明寺・伊佐を、書状に現れる東国六城として整理した。
  • 各城の具体的状態は台帳要旨だけでは確定できないため、推測で個別の城主・兵数・食料量を補わなかった。
  • 下妻城の中心人物、宗祐、顕時朝臣、真壁法超は人物同定を保留した。
  • 「勦力」「更無所治歟」、食料欠乏句は、逐字本文・訓読とも再確認対象とした。
  • 北畠顕家の迅速な出陣を、時機を逃さず行動するべきだという親房の説得材料として整理した。
  • 次part以後に続く皇統論・先祖論を、この節へ先取りしすぎないよう区切った。

翻刻・校訂記号の説明を見る

手書き写本第1冊 part-15の史料ページを見る

明治期活字本PDF第9画像を見る

明治期活字本PDF第10画像を見る

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15.北畠親房書状②――皇統論と足利尊氏への批判

対象年代:康永二年(1343年)の書状

対応史料:手書き写本第1冊 part-16/明治期活字本PDF第10~11画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

この節は、前節から続く北畠親房の結城氏宛書状です。長い続き書きで句読点がなく、一部の語句・引用・人物関係を確定できていないため、書状の論旨と確認できた事項を中心に掲載します。

この節の概要

北畠親房は、息子の北畠顕家が南朝のために二度にわたって西へ出陣し、最後には命を失ったことを述べます。

親房自身も、東国で南朝のために死ぬ覚悟を持っていると訴えます。

そして、日本では皇統が九十四代にわたって続いてきたのであり、天皇に背く者の支配が永遠に続くことはないと論じます。

親房は、平将門の反乱が六年、安倍貞任の戦いが十二年続いたとしても、最後には朝廷に背いた側が滅びたという例を挙げます。

そのうえで足利尊氏・高師直を批判し、現在二人が大きな力を持っていても、その支配がいつまでも続くとは限らないと警告します。

さらに親房は、結城氏が平将門を討った藤原秀郷の子孫であることを強調します。目先の領地を守るために朝廷へ背けば、先祖が残した名誉を自ら傷つけることになる――これがこの節の中心的な説得です。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、書状の論旨を説明文へ展開した現代語訳です。写本の逐字本文に対する最終的な全訳ではありません。判読できていない引用・語句・人名を推測で補ってはいません。

前節の救援要求から続く

前節で北畠親房は、高師冬の襲来から九か月たっても援軍が来ず、関城をはじめとする東国の城々が危機にあると訴えた。

親房は、秋になってから兵を出すのでは遅く、今すぐ行動しなければ南朝方の拠点がすべて失われると警告した。

この第15節では、単に戦況が厳しいという説明から一歩進み、なぜ結城氏が南朝のために戦うべきなのかを、皇統・歴史・先祖・家名の問題として論じる。

北畠顕家の二度目の西征

親房は、息子の北畠顕家が南朝の危機に際し、奥州から二度にわたって西へ出陣したことを述べる。

顕家は一度目の遠征で、京都を占領していた足利尊氏を退却させた。

その後、南朝の軍事状況が再び悪化すると、顕家はもう一度奥州から畿内へ向かった。

二度目の西征では、青野原・伊勢・奈良・八幡などを転戦し、最後には堺浦方面で戦死した。

親房はこの顕家の行動を、危機に際して時機を逃さず、天皇のために命をかけた忠節の例として示している。

国府・霊山原に関係する記述

書状には、顕家の行動に関係して、国府・霊山原と読まれる地名または戦場名が現れる。

しかし、その後に続く文章は写本の連綿が強く、誰がどこから出陣し、どの戦いを指しているのかを完全には確定できていない。

明治期活字本を使えば一部の文字を補えるものの、地名・主語・動詞の関係は再校訂が必要である。

そのため、現代語訳の主本文では、顕家が奥州から二度目の西征を行ったという確実な論旨を中心とする。

顕家は天皇のために命を失った

親房は、顕家が若くして戦死したことを、単なる合戦での敗北とは扱っていない。

顕家は天皇の命令を受け、南朝を救うために長い距離を進軍し、その役目のために命を失った。

親房にとって顕家の死は、父親としての深い悲しみであると同時に、北畠氏が皇室への忠義を実際の行動で示した証拠でもあった。

親房は、結城氏にも同じ覚悟を求めようとしている。

親房自身も死を覚悟している

親房は、息子だけを戦場へ送り、自分は安全な場所にいるのではないと述べる。

自分も東国へ下り、関城を中心とする危険な戦場に身を置いている。

援軍が来なければ、親房自身も城と運命をともにする可能性があった。

親房は、自分も天皇のために死ぬ覚悟であることを示し、そのうえで結城氏へ決断を求めている。

これは、他人にだけ犠牲を求める訴えではなく、自分と自分の子がすでに代償を払っているという主張である。

皇統は九十四代続いてきた

親房は、日本の皇統が長く続いてきたことを説く。

写本では数字が行をまたぎ、「九」と「十四代」が離れて見える。

明治期活字本によって、ここは「九十四代」と校訂できる。

親房は、長い歴史を持つ皇統が、一時的に力を持った武将によって簡単に失われるものではないと主張した。

この「九十四代」という数は、現代の歴史学上の天皇代数を確定するための数字ではなく、親房が書状の中で皇統の長さと正統性を示すために用いた数字として扱う。

天皇に背く者は最後には滅びる

親房は、天皇に背いた者が一時的に勢力を得ることはあっても、そのまま永遠に栄えることはないと論じる。

反乱側が広い土地を支配し、多くの兵を持っているように見えても、それは一時の状態にすぎない。

親房は過去の反乱を例に挙げ、朝廷へ背いた者が最終的には滅ぼされたという歴史を示す。

書状中の「天亡」と暫定的に読んでいる句も、天意によって反逆者が滅びるという論旨に関係するとみられるが、字形と訓読は確定していない。

平将門の六年

親房は、平将門に関係する反乱が六年続いたという例を挙げる。

将門は大きな勢力を持ち、一時は東国で朝廷に対抗するほどの力を得た。

しかし、最後には討たれ、その支配は続かなかった。

親房は、反乱が数年間続いていることを理由に、その勢力が永遠に続くと考えてはならないと説いている。

「将門六年」という数字は明治期活字本によって文字を確認できるが、起算点と歴史的な年数の数え方は、書状の論法として読む必要がある。

安倍貞任の十二年

親房は、安倍貞任に関係する戦いが十二年続いたという例も挙げる。

長期間にわたって朝廷側を苦しめた勢力であっても、最終的には滅びた。

親房が言おうとしているのは、敵の支配が長引いているからといって、敵が正しいことにも、敵の勝利が確定したことにもならないという点である。

「貞任十二年」も活字本によって比較的明確に確認できるが、前後の訓読と歴史的引用の境界は再確認を要する。

足利尊氏の支配も永遠ではない

親房は、過去の反乱者の例を、現在の足利尊氏へ重ねる。

尊氏は京都を押さえ、多くの武士を従え、北朝を支える大きな軍事力を持っていた。

しかし、将門や貞任の勢力が最後まで続かなかったように、尊氏の支配も永遠に続くとは限らない。

目の前の尊氏が強いという理由だけで南朝を見捨てれば、後に尊氏の勢力が衰えた時、結城氏は忠義も名誉も失うことになる。

親房は、現在の軍事力だけを見て将来を決めてはならないと訴えている。

高師直を批判する

親房は、足利尊氏だけでなく、高師直も批判する。

高師直は足利方の有力武将であり、尊氏政権の軍事を支えていた。

書状では、尊氏・師直の現在の権力を、正統な皇統に代わる永続的な支配とは認めていない。

ただし、親房が二人のどの行為を、どの言葉で批判したのかは、写本の句切りをさらに確認する必要がある。

本ページでは、尊氏・師直を天皇に背いた側として批判しているという作業台帳の要旨に基づいて説明する。

火急の決断を求める

親房の歴史論は、過去を説明するためだけのものではない。

現在の常陸戦線で、結城氏にすぐ行動させることが目的だった。

尊氏の支配がいつか終わるとしても、関城や東国の城々が今落ちれば、親房らはその将来を見ることができない。

そのため、将来は南朝が勝つと信じるだけでは足りず、今この時に兵を動かす必要がある。

写本には火急を表すとみられる強い表現があるが、逐字と訓読は未確定である。

北条義時・泰時との対比

親房は、足利尊氏・高師直を論じる中で、北条義時・泰時の先例にも触れる。

この比較によって、親房はすべての武家政権を同じものとして扱っているわけではないことが分かる。

朝廷への態度、政治の行い方、得た所領や地位をどのように扱ったかという点から、過去の北条氏と現在の足利氏を比較しているとみられる。

ただし、義時・泰時をどこまで肯定的に評価しているのか、尊氏との違いをどの句に求めているのかは、逐字の句切りを確定してから判断する必要がある。

そのため、現代語訳では「義時・泰時との対比を行う」とし、親房の細かな評価を一つに断定しない。

「還本所帯」の意味

書状には、「還本所帯」と読める句がある。

この文字列は明治期活字本によって確認できる。

「本来の所領・立場へ戻る」という趣旨に関係する可能性があるが、誰が何を返したのか、どの歴史的事例へかかるのかは、前後の句切りによって変わる。

したがって、校訂本文には文字列を保存するが、現代語訳では特定の人物が所領を返還したと断定しない。

武士が得る官職や領地は一時的なもの

親房は、現在与えられている官職や領地だけを見て、立場を決めてはならないと訴える。

足利方へ従えば、一時的に官職や所領を得られるかもしれない。

しかし、政治状況が変われば、その地位は失われる可能性がある。

「一道一旦之官」と暫定的に読んでいる句も、一地域の支配や一時的な官職を意味する可能性があるが、正確な字と訓読は未確定である。

親房は、一時的な利益と、先祖以来の名誉や皇室への忠義を比べるよう求めている。

降伏者が多いからといって正しいとは限らない

書状には、多くの者が足利方へ降伏していることに関係する文章もある。

周囲の武士が次々に足利方へ移れば、自分も同じように行動する方が安全だと考えやすい。

しかし親房は、多くの人が従っていることと、その側が正しいことは同じではないと考えている。

「数庶之降人」と暫定的に読んでいる句も、多数の降伏者に関する表現とみられるが、文字と訓読を確定できていない。

結城氏には、周囲の多数に流されず、自分の家の由緒にふさわしい決断をするよう求めている。

結城氏は藤原秀郷の子孫である

親房は、結城氏の先祖として藤原秀郷を挙げる。

藤原秀郷は、平将門を討った人物として知られていた。

親房は、将門を討って朝廷に功績を立てた秀郷の子孫が、今になって天皇へ背く側へ加わるのは矛盾していると訴える。

これは、結城氏に対して単に「援軍を出せ」と命じるだけの議論ではない。

結城氏自身の家系と先祖の名誉を根拠に、南朝へ味方することが本来の道だと説く論法である。

先祖の功績を自ら傷つけてはならない

藤原秀郷の功績は、子孫である結城氏の名誉の基礎となっていた。

その子孫が朝廷に背けば、現在の当主一人の失敗にとどまらず、一族全体の名を傷つけることになる。

親房は、目先の領地を守ることと、何代にもわたって伝わる家名を守ることのどちらが重要かを問いかける。

今だけ足利方に従って所領を保てても、後世に「秀郷の子孫でありながら反逆者に従った」と記されれば、取り返すことのできない不名誉となる。

これが、親房が結城氏の先祖を持ち出した大きな理由である。

日神の誓約に関する句

書状には、日神の誓約に関係するとみられる句がある。

日神は、皇統の起源や神々の誓いに関係する存在として用いられた可能性がある。

しかし、具体的にどの神話・誓約・文言を引用しているのかは確定していない。

親房の皇統論に関係する重要な箇所ではあるが、一般的な神話知識から文章を補わず、原文資料欄の判読保留事項として残す。

『孫子』とみられる引用

書状には、『孫子』などの兵法書を踏まえたとみられる句もある。

親房は公家であったが、戦場で武士へ行動を求めるため、軍事上の時機・判断・勝敗についても論じている。

ただし、どの章句を引用したのか、原文のどこからどこまでが引用なのかは未確定である。

そのため、「兵法書を踏まえたとみられる引用がある」とし、確定した『孫子』の本文としては掲載しない。

「指摩」の語

写本には「指摩」と暫定的に読んでいる語がある。

人名・地名・動作・仏教語など複数の可能性があり、現在の字形だけでは意味を確定できない。

明治期活字本による補読も、前後の訓読を一つに定めるまでには至っていない。

この語は主本文から外し、逐字校訂時の再確認対象とする。

「二流」の意味

書状末尾近くには、「二流」と読まれる語も現れる。

二つの皇統・二つの一族・二つの政治勢力など、複数の解釈が考えられる。

しかし、どの二つを指しているのかは、前後の句切りと次partへの接続を確認しなければ決められない。

そのため、本ページでは特定の二系統を指す語とは断定しない。

親房の説得方法

この書状で親房は、複数の論理を組み合わせて結城氏を説得している。

  1. 関城などが今すぐ救援を必要としているという軍事上の危機
  2. 北畠顕家と親房自身が命をかけているという忠節の実例
  3. 皇統は長く続き、反逆者は最後に滅びるという歴史観
  4. 足利尊氏・高師直の支配は一時的だという判断
  5. 結城氏は藤原秀郷の子孫であるという家系上の責任
  6. 目先の所領より先祖の名誉を重んじるべきだという訴え

親房は、忠義という抽象的な言葉だけでなく、結城氏が何を失い、後世にどう評価されるかまで示して決断を迫っている。

書状は結城氏自身の先祖の忠節へ続く

この第15節では、皇統論、尊氏・師直への批判、藤原秀郷の子孫としての責任までを扱う。

次の第16節では、結城氏のより近い先祖である「故上野介朝臣」の忠節を称賛し、結城氏の中にも朝廷へ忠義を尽くした人物がいたことを示す。

さらに親房は、「尊氏にはまだ運があるから、今は待った方がよい」という消極的な意見へ反論し、奥州の南朝勢力が一つ崩れれば全体が連鎖して崩れると警告する。

流れが分かる現代語訳

北畠親房は、結城氏へ次のように訴えた。

私の息子、北畠顕家は、南朝を助けるために二度も奥州から西へ向かい、最後には戦死しました。

私自身も、天皇のためにこの東国で死ぬ覚悟をしています。

親房は、日本の皇統は九十四代にわたって続いてきたと述べた。

そして、天皇に背いた者が一時的に大きな力を持っても、その支配は永遠には続かないと説明した。

平将門の反乱は六年、安倍貞任の戦いは十二年続きました。

しかし、どちらも最後には滅びました。

足利尊氏と高師直が今強いからといって、その力が永遠に続くわけではありません。

親房は、結城氏の先祖である藤原秀郷のことも持ち出した。

藤原秀郷は、朝廷に背いた平将門を討った人物だった。

あなた方は、将門を討って朝廷を助けた藤原秀郷の子孫です。

その子孫が、今になって天皇へ背く側に味方してよいのでしょうか。

目の前の領地を守るために、先祖の名誉まで失ってはなりません。

と親房は迫った。

親房が結城氏に求めたのは、尊氏が弱くなるまで安全な場所で待つことではなかった。

尊氏が今強くても、南朝が危機にある今こそ兵を出し、先祖に恥じない行動を取ることだった。

人物・用語・史料注記

北畠顕家

北畠親房の子です。義良親王を奉じて奥州を治め、二度にわたり奥州から畿内へ進軍しました。第二次西征の末、二十一歳で戦死しました。

九十四代

親房が書状で皇統の長さを示すために用いた代数です。写本では行をまたいで崩れていますが、明治期活字本によって「九十四代」と校訂できます。

平将門

東国で朝廷に反抗した人物です。親房は、将門の勢力も最後には滅びた例として挙げ、尊氏の支配も永続しないと論じます。

安倍貞任

奥州で朝廷側と長期間戦った人物です。書状では「貞任十二年」とされ、長く続いた反抗も最終的には終わるという例に使われています。

足利尊氏・高師直

京都の北朝と足利政権を軍事的に支えた人物です。親房は、二人の現在の権力を正統で永続するものとは認めず、反逆者はいずれ滅びるという歴史観から批判します。

北条義時・泰時

鎌倉幕府の政治を担った北条氏の人物です。親房は尊氏・師直を論じる中で義時・泰時の先例と対比していますが、具体的な評価と文章の句切りは再校訂が必要です。

藤原秀郷

平将門を討った武将として知られる人物です。親房は、結城氏を秀郷の子孫と位置づけ、朝廷に功績を立てた先祖に恥じない行動を求めました。

皇統論

どの皇統が正統であるか、天皇の系譜と歴史をどのように理解するかという議論です。親房は、長く続く皇統を根拠として、南朝への忠義を求めます。

家名と先祖意識

中世武士にとって、先祖が得た名誉と一族の評判は重要でした。親房は結城氏の家系を説得材料とし、現在の領地だけでなく、後世に残る家名を考えるよう迫っています。

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史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-16、全3ページ
  • 対象年代:康永二年(1343年)の書状
  • 内容区分:北畠親房書状②
  • 明治期活字本:PDF第10~11画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partの即時救援要求から続く。

北畠親房は、息子の北畠顕家が二度目の西征に赴き、天皇への忠義のため戦死したことを述べる。

親房自身も、東国において天皇のために死ぬ覚悟であることを示す。

皇統は九十四代にわたって続いてきたと述べ、天皇に反逆する者は最後には滅びると論じる。

平将門の六年、安倍貞任の十二年を例に挙げ、長期間勢力を持った反乱者も最後には滅亡したと説く。

足利尊氏・高師直を批判し、二人の現在の支配も永続するものではないとする。

北条義時・泰時の先例と比較し、武家の政治・所領・朝廷への態度を論じる。

結城氏は平将門を討った藤原秀郷の子孫であるとして、目先の所領のために先祖の名誉を傷つけてはならないと訴える。

注:国府・霊山原後の句、「天亡」「切不切」、火急表現、日神誓約、孫子句、指摩、一道一旦之官、数庶之降人、二流は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

顕家、先年に続き、再び奥州より西上し、朝廷のために戦いて命を失う。

親房もまた、東国において身命を惜しまず、朝廷のために尽くす覚悟なり。

皇統、すでに九十四代に及ぶ。

天皇に背く者、一時勢いを得るといえども、終には滅びざることなし。

将門の乱は六年、貞任の乱は十二年に及びしも、ついには滅ぶ。

尊氏・師直、今は権勢ありといえども、その支配、永く続くべきものにあらず。

義時・泰時の先例と比較し、武家の朝廷への態度、政治、所領のあり方を論ず。

「還本所帯」と読まるる句あり。ただし主語・目的語・訓読、なお未確定。

結城氏は藤原秀郷の後裔なり。秀郷は将門を討ちて朝廷に功あり。

その子孫、目前の所領・官職のため反逆の側へ従い、先祖の名を汚すべからず。

〔結城氏の近祖の忠節、消極論への反論へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第10~11画像付近には、北畠顕家の忠死、親房自身の覚悟、皇統九十四代、将門六年・貞任十二年、尊氏・師直批判、義時・泰時との対比、藤原秀郷後裔への訴えが収録されています。

写本と活字本の論旨は、おおむね一致しています。

活字本によって、「九十四代」「将門六年」「貞任十二年」「還本所帯」などの文字列を確認できます。

主な問題は、長い漢文・和漢混交文をどこで区切るか、誰を主語とするか、引用をどこまでとするかという点です。

注:活字本文の逐字版は、PDF第10~11画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
皇統の代数 行をまたいで「九」+「十四代」と見える 九十四代 活字本と文脈によって「九十四代」と校訂する
平将門の年数 数字・人名が続き書きで不明瞭 将門六年 「将門六年」と校訂するが、年数の起算は書状の論法として扱う
安倍貞任の年数 数字と人名の境界が不明瞭 貞任十二年 「貞任十二年」と校訂する
還本所帯 連綿が強く、一部文字が不鮮明 還本所帯 文字列は採用するが、主語・目的語・訓読は保留する
尊氏・師直批判 長い続き書きで批判対象と動詞の境界が不明瞭 漢文調に整理される 批判の大筋は一致。細かな断定は避ける
義時・泰時との対比 比較部分の句切りが難しい 比較対象を判別しやすい 対比の存在を採用し、評価内容は再校訂する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
顕家西征記事 国府・霊山原後の句 地名・主語・動詞のつながりが不明瞭 低~中
反逆者の末路 天亡 「天亡」か別字か、文全体の訓読が未確定
決断を求める句 切不切 字形・語義・否定の係り方を確定できない
緊急性を示す句 火急を表す表現 逐字本文と訓読が未確定
皇統・神話関係句 日神誓約 どの神話・誓約を指すか確定できない
兵法書の引用 『孫子』の句か 引用元・引用範囲・訓読が未確定
語句 指摩 人名・地名・動作語など複数の可能性がある
官職・所領関係句 一道一旦之官 「一道」「一旦」「一官」など句切りの候補がある
降伏者に関する句 数庶之降人 文字列・主語・文意を確定できない
系統・勢力を示す語 二流 何と何の二流を指すか未確定

復刻作業記録

  • 手書き写本part-16の全3ページを一つの書状範囲として確認した。
  • 前part末尾の即時救援要求から、北畠顕家の忠死と皇統論へ続く接続を確認した。
  • 次のpart-17が結城氏の近祖の忠節、消極論・天命論への反論へ続くため、藤原秀郷後裔としての責任までを第15節とした。
  • 明治期活字本PDF第10~11画像付近を対応箇所として照合した。
  • 写本で行をまたぐ皇統代数は、活字本により「九十四代」と校訂した。
  • 「将門六年」「貞任十二年」「還本所帯」は活字本で文字を補強した。
  • 書状の中心を、顕家・親房の覚悟、皇統の継続、反逆者の滅亡、尊氏・師直批判、秀郷後裔としての責任として整理した。
  • 義時・泰時との比較は確認できるが、親房の細かな評価を一つに断定しなかった。
  • 日神誓約と『孫子』句は、一般知識から引用本文を補わなかった。
  • 「一道一旦之官」「数庶之降人」「二流」は、文意への影響が大きいため判読保留とした。
  • 書状の主張を親房の立場による説得として示し、現代の歴史的評価とは区別した。

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16.北畠親房書状③――結城氏へ決断を迫る最後の訴え

対象年代:康永二年(1343年)の書状

対応史料:手書き写本第1冊 part-17/明治期活字本PDF第11画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

この節は、前二節から続く北畠親房の結城氏宛書状です。比喩・引用・世間の意見を列挙する部分は活字本によって補える箇所がありますが、句切り、発言者、人物名、結論部分には未確定箇所があります。

この節の概要

北畠親房は、結城氏の近い先祖とみられる「故上野介朝臣」が、朝廷のために忠節を尽くしたことを称賛します。

そして、「九牛の一毛」「百鳥の一鶚」という比喩を使い、多くの人々の中で、ただ一人でも正しい行動を取る人物は特別な価値を持つと説きます。

これに対して、世間では、

  • 足利尊氏にはまだ運があるので、今は待った方がよい
  • 尊氏の運が尽きてから兵を挙げればよい
  • 親房は公家なので、武士の事情を十分には分かっていない

などの意見が出ていたとされます。

親房は、自分が公家であり、武家社会の細かな事情に詳しくない点は認めます。しかし、それを理由に何もしないまま待ち続ければ、危機はさらに大きくなると反論しました。

親房は、判断の先送りを「燃えている火の上へ、さらに薪を積むようなもの」と表現します。また、奥州・東国の南朝勢力の一つが崩れれば、ほかの勢力も連鎖的に崩壊すると警告しました。

今動けば、結城氏は一族の名誉と南朝の大義を守ることができる。しかし、すべてが崩れた後に動いても、後悔するだけである――親房は、そのように最後の決断を迫っています。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、書状の論旨が分かるよう整理した現代語訳です。写本の逐字本文に対する最終的な全訳ではありません。未確定の引用・人物・語句は、意味を一つに決めずに説明しています。

前節の先祖論から続く

前節で北畠親房は、結城氏が平将門を討った藤原秀郷の子孫であることを示した。

朝廷に功績を立てた秀郷の子孫が、目先の領地や官職のために、天皇へ背く側へ従ってはならないと説いたのである。

この第16節では、さらに結城氏の近い先祖の忠節を取り上げる。

親房は、遠い昔の藤原秀郷だけでなく、結城氏の家の中にも、朝廷へ忠義を尽くした人物がいたことを示し、現在の結城氏にも同じ行動を求めようとする。

「故上野介朝臣」の忠節

親房は、「故上野介朝臣」と記される人物の忠節を称賛する。

「故」は、すでに亡くなっている人物であることを示す。

「上野介」は官職名、「朝臣」は敬称である。

この人物は、結城氏の先祖または近い親族に当たり、朝廷のために行動した人物として書状に挙げられたとみられる。

ただし、作業台帳では実名を確定していない。

そのため、本ページでは特定の人物名へ置き換えず、写本の表現に従って「故上野介朝臣」とする。

先祖の忠義は一族の名誉である

親房は、故上野介朝臣の忠節が、その人物一人だけのものではないと考えている。

先祖が朝廷へ忠義を尽くせば、その功績と名誉は子孫の家名にも残る。

一方、その子孫が先祖と反対の行動を取り、朝廷へ背けば、先祖の功績を自ら傷つけることになる。

親房は、現在の結城氏がどちらの側へ立つかという問題を、単なる一回の軍事的選択ではなく、一族の歴史全体に関わる問題として示している。

「同逆徒先祖」の問題

この部分には、「同逆徒先祖」と暫定的に読んでいる句がある。

しかし、「同」がどの語へかかるのか、「逆徒の先祖」と読むのか、前後の文とどのようにつながるのかは確定していない。

読み方によっては、忠義を尽くした先祖と、朝廷へ背いた者の先祖を比較している可能性もある。

ただし、現在の資料からは文構造を確定できないため、校訂本文では暫定的な文字列として保存し、主本文には組み込まない。

「亡親魂誠」と読まれる句

先祖の忠節に関係して、「亡親魂誠」と暫定的に読んでいる句もある。

亡くなった父祖の魂、先祖の誠、または先祖の願いに関係する文章とも考えられる。

しかし、文字の区切りと訓読が確定していないため、

亡き先祖の忠義の心に背いてはならない。

という趣旨に関係する可能性を示すにとどめる。

九牛の一毛

親房は、「九牛の一毛」という比喩を用いる。

一般には、多くの牛の中にある一本の毛のように、非常に多くのものの中のごく小さな一部分を表す比喩である。

この書状では、多くの武士が足利方へ従っている中で、南朝への忠義を守る人物がごく少数であることに関係して用いられた可能性がある。

ただし、親房が誰を「一毛」にたとえ、どの集団を「九牛」としたのかは、前後の句切りを再確認する必要がある。

そのため、比喩の存在は採用するが、対象人物を一人に確定しない。

百鳥の一鶚

続いて親房は、「百鳥の一鶚」と読める比喩を用いる。

鶚は鳥の名であり、多くの鳥の中で特に目立つ一羽を示す比喩として使われているとみられる。

多くの人が同じ方向へ流れている時でも、一人だけ正しい判断と行動を示す者には大きな価値がある、という趣旨と整理できる。

親房は、周囲の武士が足利方へ従っているからといって、結城氏も同じ道を選ぶ必要はないと訴えようとしている。

この比喩は明治期活字本によって文字を補強できるが、漢籍上の出典と原文の細かな訓読は今後の確認対象である。

少数であっても忠義を守る意味

南朝方は東国で次第に少数となっていた。

多くの地方武士は、足利方の軍事力を見て降伏・離反し始めていた。

その状況では、南朝方にとどまることは危険であり、現実的な利益も少ないように見えた。

親房は、それでも少数の忠義には意味があると論じる。

周囲と同じ行動を取ることではなく、危機の中で正しいと信じる側へ立つことで、その人物の名誉は際立つという説得である。

世間では「尊氏にはまだ運がある」と言う

親房は、世間で語られている複数の意見を取り上げる。

その一つは、足利尊氏にはまだ運があるという意見である。

尊氏は京都を押さえ、多くの武士を従え、北朝を支える大きな力を持っていた。

そのため、現在尊氏に逆らうのは危険であり、尊氏の運が衰えるまで待った方がよいと考える人がいたとみられる。

ただし、この部分は「或云」などの形で複数の異論が連続しており、それぞれの引用がどこからどこまでかは確定していない。

「運が尽きるまで待つ」という考え

消極的な意見を持つ人々は、尊氏の力が弱まってから南朝方へ動けばよいと考えていたとみられる。

今すぐ戦えば所領や一族を失う危険がある。

反対に、尊氏の政権が内部から崩れるまで待てば、より安全に南朝側へ移れるかもしれない。

しかし親房は、そのように都合のよい時期が来るまで待てる状況ではないと反論する。

関城をはじめとする南朝方の拠点は、すでに目前の危機に置かれていたからである。

天命を理由に何もしないことへの反論

尊氏が現在強いのは、天命や運が尊氏の側にあるためだという考えもあったとみられる。

親房は、天命を人間が何もしないための理由として使うことに反対する。

運命がどうなるかは、行動する前から完全に知ることはできない。

尊氏に運があると決めつけて動かなければ、南朝方は戦う機会そのものを失う。

親房は、天命を待つのではなく、今できる行動を行ったうえで、結果を受け入れるべきだと訴えていると整理できる。

燃える火の上に薪を積む

作業台帳では、親房の反論を「燃える火の上に薪を積むような先送り」と説明している。

すでに火が燃えているのに、何もせず薪を積み重ねれば、火はますます大きくなる。

同じように、尊氏方が攻撃を続けている時に決断を先延ばしにすれば、危機が自然に消えることはない。

南朝方の城は落ち、武士は離反し、尊氏方の力はさらに強くなる。

待つことは中立的な選択ではなく、結果として敵の勢力を大きくする行動になる、という警告である。

親房は公家である

親房は、自分が公家であり、武家社会の事情すべてに詳しいわけではないことを認める。

武士には、所領、一族、家臣、地域の関係など、公家からは見えにくい事情がある。

結城氏がすぐに兵を出せない理由についても、親房が完全に理解しているとは限らない。

しかし親房は、自分が武家の細部に疎いからといって、目の前で起こっている戦線崩壊の危険まで分からないわけではないと主張する。

これは、自分の限界を認めながらも、結論を譲らない説得である。

武家の事情と南朝全体の危機

結城氏には結城氏の事情があり、ほかの武士にもそれぞれ事情がある。

しかし、すべての武士が自分の事情だけを理由に兵を動かさなければ、南朝の東国戦線は維持できない。

親房は、個々の一族の都合と、南朝方全体の存亡を比べるよう求める。

一つの家が一時的に所領を守れても、南朝方の拠点がすべて失われれば、後に立場を変える場所さえなくなる。

そのため、結城氏には、自分の家だけでなく東国全体を考えて行動する責任があると説いている。

「一廉幾乎」と読まれる句

書状には、「一廉幾乎」と暫定的に読んでいる句がある。

一つの際立った功績、一人前の働き、または一廉の人物になることに関係する可能性がある。

九牛一毛・百鳥一鶚の比喩と近い位置にあるため、多くの人々の中で際立った働きを示すことに関係するとも考えられる。

ただし、文字と文構造が確定していないため、現代語訳へ直接組み込まず、判読保留とする。

一人が義を立てる意味

書状には、「一身立義」と読める可能性のある句がある。

これは、たとえ一人であっても義を立て、正しいと考える行動を取ることに関係する可能性がある。

周囲の多数が足利方へ従っていても、結城氏まで同じ行動を取る必要はない。

一人の決断が、ほかの武士へ影響し、新たな軍事行動のきっかけになることもある。

ただし、「一身立義」の文字列と訓読は完全には確定していないため、これは書状の論旨から整理した可能性として示す。

今動けば大きな利益があるという主張

「大義者還可有巨益」と暫定的に読んでいる句もある。

大義のために行動すれば、結果として大きな利益や功績を得られるという趣旨の可能性がある。

ここでいう利益は、土地や官職だけでなく、一族の名誉、先祖への忠節、後世の評価を含むとも考えられる。

しかし、「還」「巨益」などの字と文法関係には再確認が必要である。

そのため、親房が「今動くことは結城氏自身の名誉にもなる」と説いているという範囲にとどめる。

すべてが崩れてから後悔しても遅い

親房は、事態が決定的な段階へ進んだ後に後悔しても遅いと警告する。

「事勢到後悔」と暫定的に読んでいる句が、この警告に関係するとみられる。

関城や奥州勢力が崩れた後に、やはり南朝へ味方すべきだったと考えても、失われた城や軍勢は戻らない。

決断できる時に決断しなければ、後には選択肢そのものがなくなる。

ただし、この句の正確な主語・動詞・訓読は未確定であり、校訂本文では暫定句として保存する。

奥州の一角が崩れれば全体が崩れる

親房は、東国・奥州の南朝方勢力が互いに無関係ではないことを強調する。

一つの城、一つの一族、一つの地域が崩れれば、その影響はほかの地域にも及ぶ。

一つの拠点が落ちれば、そこから送られていた兵・食料・情報が失われる。

さらに、周囲の武士は「南朝方はもう持たない」と判断し、足利方へ移る可能性が高くなる。

こうして一つの敗北が次の離反を生み、離反が次の城の陥落を招く。

作業台帳では、この部分を「奥州が崩れれば全体が崩れる」という戦略的警告として整理している。

連鎖崩壊を止められる最後の時機

親房が即時行動を求めたのは、関城一城だけを救うためではなかった。

関城・常陸・奥州へ続く南朝方の戦線全体が崩れるのを止めるためだった。

結城氏のような有力武士が南朝方として兵を動かせば、ほかの武士が続く可能性がある。

反対に、結城氏まで動かなければ、南朝方の武士は救援が来ないと判断し、さらに離反するかもしれない。

親房は、結城氏の決断が東国戦線全体を左右すると訴えている。

「諸人不受」とみられる句

書状には、諸人が何かを受け入れない、または命令に従わないことを示すとみられる句がある。

作業台帳では「諸人不受句」として判読保留に登録している。

軍勢が命令を受けないのか、世間が親房の主張を受け入れないのか、主語と目的語は確定していない。

このため、味方内部の協力不足に関係する可能性を残しつつ、主本文には確定的に組み込まない。

「将軍三位中将」は誰か

書状末尾近くには、「将軍三位中将」と読まれる人物が現れる。

しかし、実名が記されていないため、どの南朝皇族・武将を指すか確定していない。

官位と役職だけから特定の人物へ置き換えると、書状の人物関係を誤る可能性がある。

そのため、本ページでは「将軍三位中将」という写本上の称号として残し、人物名は補わない。

結城氏へ求める最後の決断

親房は、結城氏に対して、尊氏の運が衰えるまで待つような消極的態度を捨てるよう求める。

今動けば、結城氏は先祖の忠節を受け継ぎ、多くの武士の中で際立った名誉を得られる。

しかし今動かず、奥州・東国の南朝勢力がすべて崩れた後に後悔しても、失われた機会は戻らない。

親房が求めているのは、将来の情勢を安全な場所から見守ることではない。

危険がある今こそ、自ら兵を動かし、一族の名誉と南朝の戦線を守ることである。

書状の結びへ続く

この第16節では、故上野介朝臣の忠節、九牛一毛・百鳥一鶚の比喩、消極論への反論、奥州勢力の連鎖崩壊への警告までを扱う。

北畠親房の書状そのものは、このpartではまだ完全には終わらない。

次の第17節冒頭には書状の結びがあり、その後、本文は宗良親王の遠江・駿河における紀行と和歌へ移る。

なお、書状末尾の日付には、写本と明治期活字本との重大な異同があるため、次節の原文資料欄で別に示す。

流れが分かる現代語訳

北畠親房は、結城氏の先祖の中に、朝廷のために忠義を尽くした人物がいたことを示した。

そして、多くの者が足利方へ従っていても、一人だけ正しい行動を取る者には大きな価値があると説いた。

多くの牛の中にある一本の毛のように、忠義を守る者が少数になっても、その価値がなくなるわけではありません。

多くの鳥の中で一羽の鶚が際立つように、周囲と違っても正しい行動を取る者は、後世まで名を残します。

しかし、世間には、

足利尊氏には、まだ運があります。

今戦うのは危険です。

尊氏の運が尽きるまで待った方がよいでしょう。

という意見があった。

親房は、それでは遅いと反論した。

今の危機を放置することは、燃えている火の上へ、さらに薪を積むようなものです。

待てば待つほど、敵の力は強くなります。

親房は、自分が公家であり、武士の細かな事情に詳しくないことは認めた。

しかし、奥州や常陸の南朝勢力が崩れかけていることまで分からないわけではないと述べた。

一つの城や一つの一族が崩れれば、ほかの味方も次々に崩れます。

すべてが失われた後に後悔しても遅いのです。

親房は結城氏に、尊氏が弱くなるのを待つのではなく、今すぐ兵を動かすよう迫った。

それが、先祖の忠義を受け継ぎ、一族の名誉を守る道だと訴えたのである。

人物・用語・史料注記

故上野介朝臣

結城氏の先祖または近い親族とみられ、朝廷への忠節を称賛されている人物です。写本では実名を確定できないため、官職・敬称のまま表示します。

九牛一毛

非常に多くのものの中にある、ごく小さな一部分を表す比喩です。この書状では、足利方へ従う者が多い中で、忠義を守る少数者に関係して用いられた可能性があります。

百鳥一鶚

多くの鳥の中で、特に際立つ一羽を表す比喩とみられます。文字は明治期活字本によって補強できますが、出典と細かな訓読は未確定です。

尊氏の運を待つという意見

足利尊氏が強い間は戦わず、その力が衰えるのを待つべきだという消極論です。親房は、待っている間に南朝方の城々が失われるとして反論しました。

燃える火に薪を積む

危機を放置すれば、自然に収まるのではなく、さらに大きくなることを表す比喩です。作業台帳では、親房による先送り批判として説明されています。

親房の自己認識

親房は、自分が公家であり、武家社会の細かな事情には疎いことを認めます。しかし、東国・奥州戦線全体の危機については判断できるとして、即時行動を求めました。

連鎖崩壊

一つの拠点が落ちることで補給・連絡・士気が失われ、ほかの拠点も次々に崩れることです。親房は、奥州・東国勢力の一角が崩れれば全体が崩れると警告しました。

将軍三位中将

書状末尾近くに現れる称号です。実名がないため、どの皇族・武将を指すか確定できていません。

書状の引用境界

この節では「或云」などによって世間の意見が複数列挙されているとみられます。しかし、どこからどこまでが引用で、どこからが親房自身の反論なのかは、逐字再校訂が必要です。

原文・復刻資料を開く

史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-17、全3ページ
  • 対象年代:康永二年(1343年)の書状
  • 内容区分:北畠親房書状③
  • 明治期活字本:PDF第11画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partの藤原秀郷後裔としての責任を論じる部分から続く。

結城氏の近祖とみられる「故上野介朝臣」の忠節を称賛する。

九牛一毛・百鳥一鶚の比喩を用い、多数の中で少数の忠義が際立つことを論じる。

足利尊氏にはなお運があるため、今は動かず待つべきだという世間の意見を複数列挙する。

親房は、自分が公家であり、武家の細かな事情に疎いことを認める。

そのうえで、先送りは危機をさらに大きくするだけであり、即時に行動すべきだと反論する。

一人が義を立てること、一族の名誉、大義のために動く利益について論じる。

奥州・東国の勢力の一角が崩れれば、ほかの勢力も連鎖して崩壊すると警告する。

すべてが崩れた後に後悔しても遅いとして、結城氏へ最後の決断を迫る。

注:同逆徒先祖、亡親魂誠、一廉幾乎、世間の異論の引用境界、一身立義、大義者還可有巨益、事勢到後悔、諸人不受句、将軍三位中将は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

故上野介朝臣、先年、朝廷のため忠節を尽くせり。その忠義、子孫の名誉たるべし。

九牛の一毛、百鳥の一鶚のごとく、多数の中に一人忠義を立つる者は、ことにその名を顕す。

世間に或る人云う。尊氏にはなお運あり。今は動かず、その運の尽くるを待つべし、と。

また或る人、天命の尊氏にある間は戦うべからずと云う。

親房、公家の身にして武家の細事に疎きことは、みずからこれを認む。

されども、危急の勢いを放置し、後日の時を待つは、燃ゆる火に薪を加うるがごとし。

一身、義を立てて行動すれば、一族の名誉となり、大義のためにも益あるべし。

事勢すでに極まりたる後に後悔すとも、及ぶべからず。

奥州・東国の一勢力崩るれば、諸勢力、これに続きて崩るべし。

今こそ結城方、速やかに決断し、軍勢を催すべき時なり。

「将軍三位中将」に関する記事あり。ただし人物、なお未確定。

〔書状結語・日付、宗良親王紀行へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第11画像付近には、故上野介朝臣の忠節、九牛一毛・百鳥一鶚の比喩、尊氏の運を待つという世間の意見、親房の自己認識、即時行動の要求、奥州勢力崩壊への警告が収録されています。

写本と活字本の論旨は、おおむね一致しています。

活字本は、比喩の文字、人名、引用の一部を補うために有効です。

一方、複数の「或云」がどこまで続くか、どこから親房自身の反論へ戻るか、人物・称号が誰を指すかという問題は残ります。

注:活字本文の逐字版は、PDF第11画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
九牛一毛 続き書きで比喩の文字が不鮮明 文字を比較的明確に確認できる 比喩の文字列は採用するが、対象人物を確定しない
百鳥一鶚 「鶚」の字が判別しにくい 百鳥之一鶚と補強できる 比喩は採用し、漢籍出典と訓読は保留する
故上野介朝臣 官職・敬称のみで実名が明確でない 人名を補える可能性がある 活字本だけで特定せず、写本の称号のまま表示する
世間の異論 複数の「或云」が連続し、引用境界が不明瞭 行分けによって一部を区別できる 意見の要旨を示し、発言者と引用範囲は確定しない
親房の自己認識 公家・武家の対比を続き書きで記す 語句を補えるが、細かな訓読に問題あり 公家としての限界を認める大筋を採用する
奥州崩壊への警告 各勢力の主語・順序が不明瞭 文章を補読できるが句切りはなお難しい 一勢力の崩壊が全体へ波及する警告として整理する

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
先祖関係句 同逆徒先祖 句構造と「同」の係り先を確定できない
亡父・先祖関係句 亡親魂誠 文字の区切りと訓読が不明瞭
比喩 百鳥之一鶚 文字は活字本で補強できるが、出典と訓読を要確認
人物評価句 一廉幾乎 字形・文法・前後の比喩との関係が未確定
世間の異論 複数の或云 引用がどこで終わり、親房の反論へ戻るか不明 低~中
義を立てる句 一身立義 文字列と主語・条件関係を確定できない
大義と利益の句 大義者還可有巨益 「還」「巨益」の字と訓読に再確認が必要
後悔を警告する句 事勢到後悔 助字・動詞・文の切れ目が未確定
諸人に関する句 諸人不受 何を受けないのか、主語・目的語が不明
人物・称号 将軍三位中将 実名がなく、どの皇族・武将を指すか確定できない

復刻作業記録

  • 手書き写本part-17の全3ページを一つの書状範囲として確認した。
  • 前part末尾の藤原秀郷後裔としての責任から、結城氏の近祖の忠節へ続く接続を確認した。
  • 故上野介朝臣は実名を推測せず、写本の官職・敬称を保持した。
  • 九牛一毛・百鳥一鶚の比喩は、明治期活字本PDF第11画像付近によって文字を補強した。
  • 複数の「或云」によって、尊氏の運を待つという消極論・天命論が列挙されていると整理した。
  • 引用境界が未確定であるため、個々の意見を特定人物の発言とはしなかった。
  • 親房が公家として武家の細かな事情に疎いことを認める一方、戦線全体の危機を理由に即時行動を求める論理として整理した。
  • 作業台帳の現代語訳要旨に従い、先送りを「燃える火の上に薪を積む」比喩として説明した。
  • 奥州・東国勢力の一角が崩れれば、ほかの拠点・一族も連鎖して崩壊するという戦略的警告として整理した。
  • 一身立義、大義者還可有巨益、事勢到後悔は、論旨との関係を示したが、確定した逐字訓読とはしなかった。
  • 「将軍三位中将」は実名を補わず、次partとの接続を含めて再確認対象とした。
  • 書状の結語と日付は次part冒頭へ続くため、この節では確定しなかった。

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17.宗良親王の旅①――遠江・駿河と富士山の和歌

内容区分:北畠親房書状末尾・宗良親王紀行

対応史料:手書き写本第1冊 part-18/明治期活字本PDF第11~12画像付近

公開状態:第一次判読・第一次校訂

親房書状の日付には、写本「2月15日」と活字本「康永2年7月15日」という重大な相違があります。また、遠江・駿河の地名、和歌の句、贈答関係、紀行本文の区切りには未確定箇所があります。

この節の概要

長く続いた北畠親房の結城氏宛書状が、この節の冒頭で結ばれます。ただし、書状末尾の日付は、手書き写本と明治期活字本で大きく異なっています。

その後、本文は宗良親王の紀行へ移ります。

宗良親王は遠江・駿河方面を移動しましたが、南朝方として頼れる武士や安定した拠点を十分に得られませんでした。

旅の途中では、八橋、駿河、興津、清見、富士周辺などに関係する和歌が記されています。

富士山を描いた絵を前に詠んだとみられる歌では、実際に富士を見ても、その姿を言葉や絵だけでは表し尽くせないという思いが示されています。

二条為定との贈答や、忠雲僧正へ送った歌も記されます。宗良親王の旅は、名所を楽しむための旅行ではなく、味方と拠点を求めながら各地を移る不安定な漂泊でした。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、書状と紀行の流れが分かるよう整理した現代語訳です。和歌の逐字本文と地名には未確定箇所があるため、確認できていない語句を推測で補ってはいません。

北畠親房書状の結び

前の三節にわたって続いた北畠親房の書状は、この節の冒頭で結びを迎える。

親房は、結城氏に対して、足利尊氏の力が弱まるまで待つのではなく、今すぐ南朝方として兵を動かすよう求めた。

関城をはじめとする東国の拠点は、援軍・兵糧・連絡のいずれも不足していた。

一つの城や一つの一族が崩れれば、ほかの南朝方勢力も次々に崩れる可能性があった。

親房は、結城氏の先祖の忠節や藤原秀郷以来の家名を持ち出し、後世に恥じない決断をするよう迫った。

この節の冒頭には、その書状の最終部分と日付が記されている。

書状の日付をめぐる重大な相違

親房書状の末尾の日付は、手書き写本と明治期活字本で一致しない。

手書き写本では、二月十五日と読める。

明治期活字本では、康永二年七月十五日と記されている。

一日や二日の違いではなく、およそ五か月の差がある。

この違いは、単なる数字の誤写、別の書状との混同、異なる伝本に基づく差など、複数の可能性を考える必要がある。

現在の校訂では、どちらかを正しい日付と決めず、写本二月十五日・活字本康永二年七月十五日の両方を保存する。

書状の結語にも違いがある

書状の最後に置かれた結びの言葉にも、写本と活字本で差がある。

写本は続き書きが強く、どこまでが親房の本文で、どこからが日付・宛所・後筆なのかを区切りにくい。

活字本では一定の区切りが示されているが、その区切りが写本の原形を正確に伝えているとは限らない。

このため、現在の公開用本文では書状の論旨だけを示し、結語の完全な訓読は原画像の再確認後に掲載する。

書状から宗良親王の紀行へ移る

北畠親房の書状が終わると、本文は宗良親王の旅を記す紀行へ移る。

書状と紀行は内容も文体も大きく異なる。

書状では、東国の戦況、皇統、忠義、先祖の名誉を論じ、結城氏へ行動を求めていた。

紀行では、宗良親王が各地を移り、その土地の景色や別れの思いを和歌に詠む。

ただし、写本には明確な大見出しがあるとは限らず、明治期活字本における紀行の開始位置とも差がある。

そのため、本ページでは内容が書状から紀行へ変化する地点を、公開用の区切りとして示す。

宗良親王の漂泊

宗良親王は、後醍醐天皇の皇子である。

南朝方の皇子や公家が伊勢から海路で各地へ向かった際、船団は暴風に遭い、それぞれ別の方向へ分散した。

宗良親王も、その後、各地を移動しながら南朝に味方する武士と拠点を求めた。

この紀行は、安定した館や領地を持つ人物の旅行記ではない。

頼るべき場所を探し、味方との別れを経験しながら、次の土地へ移らなければならない皇子の漂泊を記したものである。

遠江の「八々」

宗良親王の遠江における記事には、「八々」と暫定的に読んでいる語が現れる。

これは地名、土地の勢力名、または和歌の詞書に含まれる語である可能性がある。

しかし、写本の字形と活字本の表記だけでは、正式な読みを確定できない。

この後に八橋に関係する歌が続くため、八橋と関係する表記である可能性もあるが、同一とは断定しない。

主本文では、宗良親王が遠江を移動していたという範囲を確定部分とする。

八橋の歌

宗良親王は、八橋に関係する和歌を詠んだ。

ただし、歌の全文、詞書、八橋という地名の具体的な場所は、現在の作業台帳には逐字で確定されていない。

この歌は、旅の途中に見た景色や、過ぎ去った人・土地への思いを詠んだものと考えられる。

しかし、一般的な八橋の和歌や古典作品の表現を使って、欠けている句を補うことはしない。

和歌本文は、写本画像・活字本・和歌索引を再照合した後に掲載する。

重春と読まれる人物

遠江・駿河の記事には、重春と暫定的に読んでいる人物名が現れる。

しかし、名字・官職・実名の区切りが明確ではない。

宗良親王を迎えた人物、旅に同行した人物、和歌の贈答相手など、複数の可能性がある。

人物の役割を誤ると、宗良親王が誰を頼り、誰と別れたのかという紀行の意味が変わる。

そのため、現在の主本文では重春の行動を具体的に説明せず、判読保留とする。

雲手と読まれる語

この範囲には、「雲手」と暫定的に読んでいる語もある。

人名・地名・景色を表す語・書画に関係する語など、複数の可能性がある。

前後には和歌や富士を描いた絵に関係する記事があるため、書画・景色に関係する可能性も考えられる。

しかし、現在の史料からは決定できないため、校訂本文には暫定的な文字列として保存し、現代語訳へは直接組み込まない。

宗良親王が駿河へ入る

宗良親王は遠江から駿河方面へ移った。

駿河には南朝を支持する人物や、親王を迎えた人々がいたとみられる。

しかし、親王が長期間滞在できる安定した拠点を得たとは限らなかった。

作業台帳では、宗良親王が十分な味方を得られず、駿河から信濃へ移る漂泊の紀行として整理されている。

したがって、駿河の滞在は旅の終着点ではなく、次の土地へ移る途中の一段階だった。

駿河の味方との別れ

宗良親王は、駿河で関わった人々と別れ、再び旅を続けることになった。

南朝方の皇子であっても、軍勢・食料・安全な館がなければ、一つの地域へとどまり続けることはできなかった。

紀行に置かれた和歌は、景色を詠むだけでなく、味方との別れや、頼る場所を持てない不安を含むものとして読める。

ただし、誰との別れを詠んだ歌なのか、個々の歌の詞書には未確定箇所がある。

富士を描いた絵

駿河の記事には、富士山を描いた絵に関係する記録がある。

宗良親王は、その絵または実際の富士山を前にして和歌を詠んだとみられる。

富士山は大きく美しいため、絵に描いても、その姿のすべてを表すことはできない。

また、実際に目で見た感動も、言葉だけでは十分に伝えられない。

作業台帳では、この歌を「言葉では表せない富士」として説明している。

ただし、富士歌の第二句に未確定文字があるため、歌の全文は掲載しない。

富士の歌の第二句

富士山に関係する歌は、第二句の判読が特に難しい。

明治期活字本には活字化された本文があるが、写本の字形と一致しない可能性がある。

和歌は一字の違いによって、掛詞・景色・心情の意味が大きく変わる。

そのため、定型に合わせて不足する音を推測で補ったり、有名な富士の歌に似せて校訂したりしない。

原画像、活字本、別写本、和歌索引を照合した後、候補を併記する。

二条為定との贈答

宗良親王の富士に関係する歌には、二条為定との贈答が記されている。

一方が歌を送り、もう一方が返歌をすることで、旅先の景色や互いの心情を共有したものとみられる。

ただし、どの歌が宗良親王の歌で、どの歌が為定の返歌に当たるのかは、part-19へ続く本文を含めて確認する必要がある。

この節では、富士図をめぐる贈答が始まることまでを扱う。

為定からの返歌や、続く贈答の全文は、次の第18節へ続く。

忠雲僧正へ歌を送る

宗良親王は、忠雲僧正と記される人物へ和歌を送った。

僧正は僧侶の高い位を示す称号である。

しかし、忠雲僧正が宗良親王の旅を助けた人物なのか、和歌の相手としてのみ登場する人物なのかは、現在の要旨では確定していない。

歌の全文と詞書にも未確定部分があるため、具体的な内容を推測して補わない。

宗良親王が旅先でも僧侶・公家・武士との和歌の交流を続けていたことを示す記事として扱う。

興良親王と読まれる人物

紀行の周辺には、興良親王と読める可能性のある人物名が現れる。

しかし、宗良親王との関係、同道した人物なのか、別の記事に属する皇族なのかは確定していない。

皇族名を誤って確定すると、紀行の旅程と人物関係が変わる。

そのため、現代語訳の主本文へは組み込まず、原文資料欄で判読保留とする。

興津へ向かう

宗良親王の旅は、駿河の興津へ続く。

興津に関係する記事には、夜明けや海辺の景色を詠んだとみられる和歌が置かれている。

しかし、興津の記事のどこまでが詞書で、どこからが歌本文かを区切りにくい。

特に「興津夜明け」と整理している歌は、句切りと文字に未確定箇所がある。

そのため、夜明けの景色を詠んだ歌である可能性を示しつつ、全文は掲載しない。

清見潟の歌

清見潟に関係する和歌も記されている。

作業台帳の判読保留には、「江見の関守」などと読める可能性のある句が登録されている。

ただし、「清見」と「江見」の文字、関守を含む句のつながり、歌の定型には未解決の問題がある。

地名と掛詞が用いられている可能性もあるため、通常の地名表記だけから本文を決めることはできない。

清見潟歌は、高優先度の再校訂対象として保存する。

庵崎と読まれる場所

駿河の紀行には、庵崎と暫定的に読んでいる地名も現れる。

正式な地名なのか、海岸・岬・庵のある場所を表す普通名詞なのかは確定していない。

地名である場合も、現在のどの場所に当たるのかを比定できていない。

そのため、本ページでは宗良親王が興津・清見・富士周辺を移動したという大きな旅程だけを示す。

富士の周囲を進む

宗良親王は、富士山を望みながら、その周辺を通って旅を続けた。

写本には、富士の周囲・麓・囲いなどに関係するとみられる語が記されている。

作業台帳では、その語を「富士の籠」と暫定的に読んでいる。

しかし、「籠」が本当に籠の字なのか、富士の麓や周囲を意味する別の語なのかは確定していない。

そのため、宗良親王が富士周辺を巡ったという内容だけを本文とし、語義は保留する。

富士の美しさと旅の不安

富士山を詠んだ歌は、雄大な景色への感動を示す。

一方、宗良親王は安定した居場所を持たず、次の土地へ向かわなければならなかった。

そのため、紀行の和歌は、美しい名所を賞賛するだけのものではない。

目の前の景色が美しいほど、自分には長くとどまれる場所がないという孤独や不安も感じられる。

ただし、これは作業台帳が「頼る場所のない旅」と整理した論旨を説明したものであり、個々の歌の確定した逐語解釈ではない。

駿河から甲斐・信濃へ

宗良親王は駿河に安定した拠点を得られず、さらに甲斐・信濃方面へ向かった。

どの道を通り、どの順番で地域を移ったのかは、地名の逐字判読を確定した後に整理する必要がある。

しかし、駿河に長くとどまらず、次の地域へ移動したという大きな流れは確認できる。

宗良親王の旅は、南朝方の新たな味方と拠点を求める政治的・軍事的な移動でもあった。

この旅は、次の第18節で信濃・越中方面へ続く。

白須の記事へ続く

part-18の末尾から次のpart-19冒頭にかけて、白須と読まれる地名と和歌へ文章が続く。

白須の歌は、次の第18節で詳しく扱う。

ただし、「白須」の字、歌の句、旅程上の位置には再確認が必要である。

この第17節では、宗良親王が遠江・駿河を経て、富士周辺から甲斐・信濃方面へ向かうところまでを扱う。

流れが分かる現代語訳

北畠親房が結城氏へ送った長い書状は、この節の初めで終わる。

ただし、書状の日付は、手書き写本では二月十五日、明治期活字本では康永二年七月十五日となっている。

五か月も違うため、どちらが正しいかはまだ分からない。

その後、本文は宗良親王の旅へ移る。

宗良親王は遠江から駿河へ進んだ。

旅の途中では、八橋や富士山、興津、清見などに関係する和歌を詠んだ。

富士山を描いた絵を見た時には、富士の本当の美しさは絵や言葉だけでは表し尽くせないという思いを歌にしたとみられる。

二条為定との和歌の贈答や、忠雲僧正へ送った歌も記されている。

しかし、これは景色を楽しむだけの旅行ではなかった。

宗良親王は、南朝に味方する武士と、安全に滞在できる場所を探して旅を続けていた。

駿河でも十分な味方や安定した拠点を得られず、親王はさらに甲斐・信濃方面へ向かった。

目の前には美しい富士山があったが、宗良親王自身には、安心して長く暮らせる場所がなかった。

この紀行は、美しい景色と、頼る場所のない皇子の孤独な旅を重ねて記している。

人物・用語・史料注記

宗良親王

後醍醐天皇の皇子です。南朝方の拠点と味方を求めて各地を移動し、多くの和歌を残した人物として、この紀行に登場します。

親房書状の日付

手書き写本は二月十五日、明治期活字本は康永二年七月十五日とします。大きな差があるため、別写本・原文書を確認するまで両方を保存します。

八橋

宗良親王の遠江紀行と和歌に関係する地名です。写本にある「八々」との関係、具体的な場所、歌本文は未確定です。

二条為定

宗良親王との和歌の贈答相手として記される人物です。どの歌が宗良親王の詠、どの歌が為定の返歌であるかは、次節へ続く本文と合わせて再確認します。

忠雲僧正

宗良親王が和歌を送った相手として記されています。親王の旅を援助した人物か、歌の贈答相手としてのみ登場するかは未確定です。

興津・清見潟

駿河の紀行と和歌に現れる地名です。歌には地名と掛詞が用いられた可能性があり、通常の地名表記だけでは校訂できません。

富士図

富士山を描いた絵に関係する記事です。宗良親王は、絵や言葉では富士の姿を表し尽くせないという趣旨の歌を詠んだと整理されています。

漂泊の紀行

安定した住まいや領地を持たず、各地を移り続ける旅の記録です。宗良親王の紀行は、名所見物だけでなく、南朝の拠点と味方を求める政治的な移動でもありました。

原文・復刻資料を開く

史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-18、全3ページ
  • 内容区分:北畠親房書状末尾・宗良親王紀行
  • 明治期活字本:PDF第11~12画像付近
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前partから続く北畠親房書状の結語と日付を記す。

書状の日付は、手書き写本では二月十五日と読める。

書状終了後、宗良親王の紀行へ移る。

宗良親王の遠江における八橋関係の歌を記す。

宗良親王は駿河へ移り、富士を描いた図と富士山に関係する和歌を詠む。

二条為定との歌の贈答が記される。

忠雲僧正へ送った歌を記す。

興津・清見・富士周辺を移動し、それぞれの土地に関係する和歌を記す。

宗良親王は駿河で十分な味方・拠点を得られず、甲斐・信濃方面へ向かう。

末尾は白須に関係する紀行・和歌へ続く。

注:遠江の八々、重春、雲手、興良親王、富士歌第二句、清見潟歌、興津夜明け、庵崎、富士の籠、白須は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

北畠親房、結城氏へ送る書状の結び。

日付、写本は二月十五日とす。活字本は康永二年七月十五日とす。重要なる異同にして、なお決し難し。

書状終わりて、宗良親王紀行へ移る。

宗良親王、遠江を経て、八橋に関する和歌を詠ず。歌句・地名、なお未確定。

親王、駿河へ移る。

富士を描きたる図を見、または富士を望みて和歌を詠ず。第二句、なお未確定。

二条為定との贈答あり。歌の帰属と返歌の順、次partを含めて再確認を要す。

忠雲僧正へ和歌を贈る。

親王、興津・清見・富士の辺を経る。各所に和歌あり。

駿河において頼るべき所を得ず、甲斐・信濃の方へ移る。

〔白須・大河原・名子浦の紀行と巻末識語へ続く〕

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第11~12画像付近には、親房書状の結びと日付、宗良親王紀行の開始、遠江・駿河、富士図、二条為定との贈答、忠雲僧正への歌、興津・清見・富士周辺の歌が収録されています。

親房書状の日付について、活字本は康永二年七月十五日とします。写本の二月十五日とは大きく異なります。

また、活字本と写本では、書状の結語、紀行見出しの有無・位置、和歌の文字、歌の句切り、地名表記に差があります。

活字本は和歌の文字を補うために有効ですが、活字本の本文をそのまま写本の原文とは扱いません。

注:活字本文の逐字版は、PDF第11~12画像を行単位で再確認した後に掲載します。現段階では作業台帳で確認された要旨です。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
親房書状の日付 二月十五日 康永二年七月十五日 最重要異同。どちらかへ統一せず、別写本・原文書の確認を待つ
書状の結語 続き書きで本文・日付・結語の境界が不明瞭 一定の区切りを示す 活字本を参考にするが、写本の区切りを再確認する
紀行の見出し 明確な見出しがない、または本文と一続き 紀行開始を区切っている可能性 公開版では内容変化を基準に区切り、写本上の配置を注記する
富士の歌 第二句を中心に難読 活字化されるが写本との一致を確認できない 歌全文を確定せず、候補を再校訂する
清見潟の歌 地名・掛詞・関守句の区切りが不明 異なる句切りまたは文字の可能性 和歌索引・別写本による確認を行う
地名 八々・庵崎・富士の籠・白須等に難読箇所 漢字表記で補える箇所がある 活字本だけで現在地へ比定しない

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
親房書状の日付 二月十五日/康永二年七月十五日 写本と活字本で約五か月異なる重大な伝本差
遠江の語 八々 地名・勢力名・八橋との関係を確定できない
人物名 重春 名字・官職・宗良親王との関係が不明
語句 雲手 人名・地名・書画関係語など複数の可能性がある
皇族名 興良親王 紀行との関係、同行・別記事のどちらか未確定
富士の和歌 第二句未確定 写本字形と活字本文の一致を確認できない
清見潟の歌 江見の関守等か 地名・掛詞・句切りが未確定
興津の歌 夜明けを詠む歌か 詞書と歌本文の境界が不明瞭 低~中
駿河地名 庵崎 正式表記と現在地を比定できない
富士関係語 富士の籠 麓・周囲・別の語のいずれか不明
次partへの接続地名 白須 地名字形、和歌、旅程上の位置を再確認する必要がある 低~中

復刻作業記録

  • 手書き写本part-18の全3ページを一つの範囲として確認した。
  • 前partから続く北畠親房書状の結びと日付を確認した。
  • 書状の日付は、写本二月十五日・活字本康永二年七月十五日の両方を保存した。
  • 日付差が大きいため、一方を単純な誤写とは判断せず、別写本・原文書を必要とする最重要異同とした。
  • 書状終了後、内容・文体が宗良親王紀行へ移る地点を公開用の区切りとした。
  • 遠江の八橋関係記事、駿河の富士図、二条為定との贈答、忠雲僧正への歌、興津・清見・富士周辺の和歌を確認した。
  • 作業台帳の要旨に従い、宗良親王が駿河で十分な味方を得られず、甲斐・信濃へ移る漂泊として整理した。
  • 富士の歌は「言葉や絵では表し尽くせない富士」という趣旨を示したが、歌本文は復元しなかった。
  • 二条為定との贈答はpart-19へ続くため、歌の帰属・返歌の順序をこの節だけで確定しなかった。
  • 重春・雲手・興良親王・忠雲僧正の役割は、推測で補わなかった。
  • 興津夜明け・清見潟・庵崎・富士の籠・白須は、和歌索引・地誌・別写本による再確認対象とした。

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18.宗良親王の旅②――信濃・越中への道と巻末の編纂記録

内容区分:宗良親王紀行末尾・巻末識語・編纂説明・書写奥書

対応史料:手書き写本第1冊 part-19/明治期活字本PDF第12画像付近+写本独自巻末

公開状態:第一次判読・第一次校訂

白須・大河原・名子浦の地名、宗良親王と二条為定の和歌、第一書・第二書の年代、編纂資料の列挙、無文和尚と正平二年に関する異本注記には未確定箇所があります。

この節の概要

宗良親王の紀行は、白須・大河原・名子浦と読まれる場所を経て、信濃・越中方面へ続きます。

旅の途中では、二条為定との和歌の贈答が記されています。しかし、第二の返歌をはじめ、歌の文字・句切り・作者の対応には未確定箇所があります。

宗良親王の紀行が終わると、本文は『南方紀伝』そのものについて説明する巻末部分へ移ります。

巻末には、「第一書」が十四年間の記事を収めること、「第二書」が興国二年から貞治六年までを扱うことなどが記されています。ただし、年号・干支・年数の対応には整合しない可能性があり、現在の写本4冊との関係も確定していません。

さらに、関東・奥州・京都など各地の記録や、北畠親房の書簡を集めて本文を作ったとみられる説明、後世の書写奥書、異本に関する注記も記されています。

この巻末資料から、『南方紀伝』が一人の記憶だけで書かれたのではなく、複数の地域記録・書簡・伝承を集めて編纂された可能性が見えてきます。

情報を省略しない詳細現代語訳

以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、紀行と巻末説明の流れが分かるよう整理した現代語訳です。写本の逐字本文に対する最終的な全訳ではありません。地名・和歌・年代説明・奥書で確定できていない部分は、推測で補っていません。

前節の白須の記事から続く

前節の末尾から、宗良親王が白須と読まれる場所へ移る記事が続く。

白須が正式な地名なのか、別の文字を白須と読んでいるのか、現在のどの地域に当たるのかは確定していない。

写本には、白須に関係する和歌も記されている。

作業台帳では、「行き通ひ路」などと読める可能性のある句が登録されている。

旅人が行き来する道、同じ場所を再び訪れること、離れた人との往来などに関係する歌とも考えられる。

しかし、掛詞・地名・句切りを確定できないため、歌の全文と歌意を一つには決めない。

宗良親王の旅は信濃方面へ続く

宗良親王は、駿河から甲斐・信濃方面へ移動した。

南朝方の皇子である親王の旅には、各地の武士を味方につけ、新しい軍事・政治拠点を作る目的があったとみられる。

しかし、親王は一つの場所に安定してとどまることができなかった。

旅の記録には美しい景色や和歌が残されている一方、その背景には、十分な軍勢・食料・安全な住居を持たず、味方を求めて移動し続ける状況があった。

このため、宗良親王の紀行は名所を楽しむための旅ではなく、南朝皇族の政治的な漂泊として読む必要がある。

大河原へ移る

宗良親王の旅には、大河原と読まれる場所が現れる。

大河原は、信濃における宗良親王の活動と関係する場所として記されているとみられる。

ただし、写本のこの箇所では、地名・人名・和歌の詞書が続けて記され、どの文が大河原の説明に当たるのかを完全には確定できていない。

そのため、本ページでは宗良親王が大河原と読まれる場所へ移ったことを示し、細かな経路・滞在期間・同行者は断定しない。

香坂高宗と読まれる人物

信濃方面の記事には、香坂高宗と暫定的に読んでいる人物名が現れる。

宗良親王を迎えた武士、旅に同行した人物、または親王の活動を支えた現地勢力である可能性がある。

しかし、名字・実名の字形と、宗良親王との具体的な関係は確定していない。

このため、香坂高宗を特定の役割へ当てはめず、信濃紀行に現れる暫定人名として保存する。

興良親王の記事

この範囲には、興良親王と読まれる皇族名も現れる。

しかし、宗良親王の紀行本文に直接関係する人物なのか、別の皇族記事が挿入されているのかは確定していない。

また、これまでの写本には、護良親王の子に「陸良」「興良」と読める名が現れるなど、皇族名に伝本上の問題がある。

したがって、本ページでは興良親王の名を暫定的に示すだけとし、宗良親王との同行・親子・兄弟関係などを推測しない。

名子浦へ向かう

宗良親王の旅は、名子浦と読まれる場所へ続く。

名子浦は、前の編年記事にも宗良親王の到着地として現れていた。

しかし、前の記事とこの紀行の名子浦が同じ場所を指すのか、表記が正しいのか、現在地をどこに比定すべきかは確定していない。

作業台帳では、宗良親王の信濃・越中移動の中に名子浦の記事を位置づけている。

そのため、宗良親王が信濃から越中方面へ移動する過程に置かれた地名と考えられるが、具体的な道順は断定しない。

名子浦の和歌

名子浦に関係する和歌も記されている。

歌は海辺・浦・旅・別れなどに関係する可能性があるが、詞書と歌本文の境界が明確ではない。

地名を掛詞として用いている可能性もあるため、通常の地名の意味だけから歌意を決めることはできない。

活字本にも対応する歌があるとみられるが、写本と文字・句切りが完全には一致していない。

したがって、名子浦歌の全文は、写本画像・活字本・和歌索引を再確認した後に掲載する。

越中方面へ移る

作業台帳は、この紀行の末尾を宗良親王の信濃・越中移動として整理している。

宗良親王は、信濃方面で活動した後、さらに越中方面へ向かったとみられる。

ただし、いつ信濃を離れ、どの道を通り、どの場所から越中へ入ったのかは、地名の逐字判読が確定していない。

そのため、現代語訳では信濃から越中方面へ移動したという大きな流れのみを示す。

この移動も、安定した居場所を得た旅の終着ではなく、新たな味方と拠点を求める漂泊の一部だった。

二条為定からの返歌

前節から続き、宗良親王と二条為定との和歌の贈答が記されている。

宗良親王が富士や旅の景色に関係する歌を送り、為定が返歌したものとみられる。

ただし、どの歌が宗良親王の歌で、どの歌が為定の返歌なのか、歌の配置と詞書を一つずつ再確認する必要がある。

作業台帳では、為定の返歌を二首として整理している。

第一の返歌も逐字確認が必要であり、第二の返歌は特に難読である。

為定の第二返歌

二条為定の第二の返歌は、「あゆの風」以下と読める可能性がある。

しかし、下の二句を十分に判読できていない。

風の名、地名、季節、旅の進行などに関係する歌とも考えられるが、一般的な和歌表現から不足する句を補うことはしない。

明治期活字本にも難読箇所があり、活字本だけで完全な歌へ復元できる状態ではない。

そのため、為定第二返歌は高優先度の判読保留事項として残す。

離れていても和歌でつながる

宗良親王と二条為定は、同じ場所にいなくても、和歌を送り合うことで互いの心情を伝えた。

宗良親王は各地を漂泊し、いつ同じ人物と再会できるか分からない状態にあった。

その中で、和歌の贈答は、公家・皇族としての文化的なつながりを保つ手段でもあった。

ただし、個々の歌が政治的な依頼・別れ・見舞いのどれを目的としたものかは、詞書を確定してから判断する必要がある。

宗良親王の紀行が終わる

白須・大河原・名子浦と読まれる場所、信濃・越中方面への移動、二条為定との贈答を経て、宗良親王の紀行は終わる。

この紀行に記された旅には、安定した帰る場所がない。

宗良親王は美しい景色を和歌に詠みながらも、南朝の味方を求めて次の土地へ移り続けた。

そのため、巻一の物語本文は、軍勢が勝利して安定した場所へ到着する場面ではなく、皇子がなお旅を続ける姿で終わる。

紀行から巻末識語へ移る

宗良親王の紀行が終わると、写本は『南方紀伝』の構成と成立について説明する文章へ移る。

このような巻末の説明を、本サイトでは「巻末識語」と呼ぶ。

識語とは、本文の後に書かれた説明・由来・書写事情などを示す文章である。

ただし、現在の物理的な第1冊が、識語でいう「第一書」だけに対応するのか、「第一書」と「第二書」の一部を含むのかは確定していない。

したがって、「第一書」「第二書」を現在の第1冊・第2冊と直ちに同一視しない。

第一書は十四年の記事

巻末識語には、「第一書」が十四年間の記事を収めるという趣旨の説明がある。

しかし、その十四年がどの年からどの年までを指すのかは、巻末の文字だけでは完全に確定できていない。

現在の第1冊本文は、元弘元年の記事から始まり、宗良親王紀行と親房書状を含む。

ただし、写本における物理的な冊分けと、識語が説明する「書」の分け方が同じとは限らない。

第一書十四年という説明は、今後、第2冊から第4冊の巻頭・巻末と比較して検討する必要がある。

第二書は興国二年から貞治六年

続いて、第二書は興国二年から貞治六年までを扱うという趣旨の説明がある。

さらに、この期間を二十七年とするように読める。

しかし、南朝年号と北朝年号が混在し、干支・西暦・年数の計算に整合しない可能性がある。

そのため、興国二年から貞治六年・二十七年という記述を写本のまま保存しつつ、正しい年代計算としては断定しない。

この説明は、第2冊以後の実際の記事範囲と比較して、書写時の混乱、異本の混入、別の巻立てなどを検討するための資料となる。

「第一書」「第二書」と現在の写本4冊

今回判読した手書き写本は、物理的には4冊で構成されている。

一方、この巻末識語は「第一書」「第二書」という別の区分を説明している。

さらに、明治期活字本は5巻構成とされ、現在の写本4冊と巻数が一致しない。

したがって、次の三つは区別して考える必要がある。

  1. 現在残る手書き写本の物理的な4冊
  2. 巻末識語が説明する第一書・第二書
  3. 明治期活字本の全5巻

これらがどのように対応するかは、本サイトの伝本・書誌問題で継続して検討する。

各地の記録を集めたという説明

巻末には、『南方紀伝』を作るために各地の記録を集めたことを示すとみられる説明がある。

作業台帳では、関東・奥州・京都などの地域記録が列挙されている可能性を確認している。

ただし、地域名・記録名・人物名が続けて書かれており、どの記録をどの地域から得たのかは完全には判読できていない。

そのため、特定の史料名を推測で復元せず、複数地域の記録を集めたとみられることを確定部分として扱う。

これは、『南方紀伝』が京都だけの記録ではなく、奥州・関東・伊勢など、南朝方が活動した各地域の記事を取り込んでいることとも一致する。

北畠親房の書簡を利用した可能性

編纂資料の説明には、北畠親房の書簡を集めたことに関係する記述もあるとみられる。

巻一には、実際に結城氏宛とされる親房の長い書状が収録されている。

そのため、編纂者が編年記事だけでなく、当事者が送った書状も資料として利用した可能性がある。

ただし、現在の親房書状が原文そのものなのか、後に写された写しなのか、別の記録から転載されたのかは確定していない。

巻末説明は、書状が本文へ入った経緯を考える重要な手がかりとなる。

一人の作者による書き下ろしとは限らない

各地の記録や書簡を集めたという説明が正しければ、『南方紀伝』は一人の作者が最初から最後まで自分の記憶だけで書いた作品とは限らない。

複数の地域・時代・人物から得た記録を編集し、一つの年代記としてまとめた可能性がある。

そのため、同じ人物名の表記が変わること、日付が一致しないこと、詳しい地域と簡略な地域があることも、資料の由来の違いと関係する可能性がある。

ただし、巻末識語だけから具体的な編纂者や成立年代を確定することはできない。

本サイトでは、複数資料を集めて編纂された可能性として示し、作者を断定しない。

書写奥書

巻末には、本文を書き写した事情を記す奥書もある。

奥書は、誰が、いつ、どの本をもとに書き写したかなどを記す部分である。

しかし、今回の奥書は文字が小さく、複数の時期の書き込みが重なっている可能性がある。

また、本文を書いた人物と、後に異本注記を加えた人物が同じとは限らない。

そのため、奥書を一つの時点で書かれた文章としてまとめず、書写本文・後筆・異本注記を分けて再確認する必要がある。

無文和尚に関する異本注記

巻末には、無文和尚と読まれる人物に関する異本注記がある。

これは、別の本に記されていた内容、または異なる伝承を後から書き加えたものとみられる。

作業台帳では、正平二年という年号や、寺院開山に関する伝承との関係を検討課題としている。

しかし、無文和尚の人物同定、正平二年との年代関係、どの寺院・出来事を指すのかは確定していない。

このため、現在の主本文では歴史的事実として断定せず、写本に残された異本注記として記録する。

異本注記が示すもの

異本注記が存在することは、この写本の書写者または後の読者が、別の『南方紀伝』や関連記録を見ていた可能性を示す。

異なる本を比較し、本文と違う内容を巻末へ書き加えたのかもしれない。

これは、『南方紀伝』に一つだけの固定した本文があったのではなく、複数の本文や伝承が存在した可能性を考える材料となる。

ただし、現段階では比較対象となった異本そのものを確認できていない。

したがって、異本の系統や優劣を判断することはできない。

明治期活字本にはない巻末資料

宗良親王紀行の一部は、明治期活字本PDF第12画像付近に対応する。

しかし、その後に続く編纂説明・書写奥書・異本注記は、明治期活字本では確認できない。

このため、写本巻末は、活字本だけを読んでいては知ることができない資料である。

活字本に収録されなかった理由が、省略・底本の違い・版面上の判断・別系統の写本によるものかは分からない。

本サイトでは、活字本にないから不要な文章とは判断せず、写本独自の重要資料として保存する。

巻一の終わり

こうして、現在の手書き写本第1冊は、宗良親王の紀行と、『南方紀伝』の編纂・書写・異本に関する説明によって終わる。

巻一の物語部分では、後醍醐天皇の倒幕計画から、鎌倉幕府の滅亡、建武政権、南北朝の分立、南朝の東国展開までが記された。

さらに、北畠親房の書状と宗良親王の紀行によって、戦場にいた当事者の危機感と、各地を漂泊した皇子の心情が加えられた。

そして巻末には、この本文が複数の記録や書簡を集めて作られ、後世に書き写され、異本と比較された可能性を示す資料が残された。

ただし、第一書・第二書と現存4冊、明治期活字本5巻との関係は未解決である。

この問題は、巻二以後の巻頭・巻末を照合しながら継続して検討する。

流れが分かる現代語訳

宗良親王の旅は、白須・大河原・名子浦と読まれる場所へ続いた。

親王は信濃から越中方面へ移りながら、各地で味方と安全な拠点を求めた。

二条為定との和歌のやり取りも続いたが、返歌の一部は文字が読みにくく、まだ完全には復元できていない。

宗良親王の紀行が終わると、写本は『南方紀伝』そのものについて説明する。

そこには、第一書が十四年間の記事を収め、第二書が興国二年から貞治六年までを扱うと記されている。

しかし、年号と年数の計算には合わない部分があり、現在残る写本4冊との対応も分かっていない。

また、『南方紀伝』を作るために、関東・奥州・京都など各地の記録や、北畠親房の書簡を集めたとみられる説明もある。

このことから、『南方紀伝』は一人が自分の記憶だけで書いたのではなく、各地の記録を集めて作られた可能性がある。

巻末には、後の人がこの本を書き写した事情や、別の本にあった内容を書き加えた注記も残されている。

ところが、これらの編纂説明・奥書・異本注記は、明治期の活字本には載っていない。

そのため、この手書き写本の巻末は、『南方紀伝』がどのように作られ、どのように伝わったかを考えるための、とても重要な資料となる。

人物・用語・史料注記

白須

宗良親王紀行に現れる暫定地名です。和歌も記されていますが、文字・掛詞・現在地の比定は未確定です。

大河原

宗良親王の信濃方面での活動に関係するとみられる地名です。紀行の逐字本文・旅程・滞在事情は再確認が必要です。

名子浦

宗良親王の紀行と和歌に現れる暫定地名です。前の編年記事にも同名の場所が現れますが、同一地かどうか、現在地をどこに比定するかは確定していません。

二条為定

宗良親王と和歌を贈答した人物です。返歌二首が記されると整理されていますが、第二返歌の下二句などに難読箇所があります。

巻末識語

本文の後に置かれた、巻の構成・編纂資料・書写事情などを説明する文章です。作者本人が書いたとは限らず、後世の書写者による部分を含む可能性があります。

第一書・第二書

巻末識語に現れる本文区分です。現在残る物理的な写本第1冊・第2冊と同一かどうかは確定していません。

編纂資料

『南方紀伝』をまとめるために利用されたとみられる地方記録・書簡などです。関東・奥州・京都などの記録が列挙されている可能性がありますが、個々の史料名は未確定です。

書写奥書

本を書き写した人物・時期・底本などを記す巻末文章です。今回の奥書は、本文と後筆・異本注記を分けて読む必要があります。

異本注記

別の写本や伝承では本文が異なっていたことを示す書き込みです。無文和尚・正平二年に関係する注記がありますが、人物・年代・寺院との関係は未確定です。

活字本にない巻末資料

編纂説明・奥書・異本注記は、明治期活字本では確認できません。写本独自の重要資料として、本文から削らず保存します。

原文・復刻資料を開く

史料情報

  • 手書き写本:第1冊 part-19、全3ページ
  • 内容区分:宗良親王紀行末尾・巻末識語・編纂説明・書写奥書
  • 明治期活字本:PDF第12画像付近+写本独自巻末
  • 第一次判読の確度:中
  • 公開前の再校訂:必要

写本翻刻――第一次判読の要旨

前part末尾の白須に関する紀行・和歌から続く。

宗良親王の白須・大河原・名子浦における紀行と和歌を記す。

宗良親王が信濃から越中方面へ移動する記事を記す。

香坂高宗・興良親王と読まれる人物名が現れるが、人物関係は未確定。

二条為定との和歌の贈答と、為定の返歌二首を記す。第二返歌は特に難読。

宗良親王紀行が終わり、『南方紀伝』第一書・第二書の構成説明へ移る。

第一書は十四年間の記事を収めるという趣旨の説明を記す。

第二書は興国二年から貞治六年まで、二十七年とするように読める説明を記す。ただし年号・干支・年数には不整合の可能性がある。

関東・奥州・京都等の地方記録と、北畠親房の書簡を収集したことに関係するとみられる説明を記す。

書写奥書と、無文和尚・正平二年に関係する異本注記を記す。

注:白須歌、香坂高宗、興良親王、名子浦歌、為定返歌二首、第一書・第二書の年代、編纂資料列挙、無文和尚・正平二年は逐字未確定です。

校訂本文――公開用仮本文

宗良親王、白須・大河原・名子浦と読まるる所を経て、信濃より越中の方へ移らせ給う。

各所に和歌あり。白須・名子浦の歌句、なお未確定。

香坂高宗と読まるる人物に関する記事あり。親王との関係、なお定まらず。

興良親王と読まるる皇族名あり。ただし紀行本文との関係、未確定。

二条為定との和歌の贈答あり。返歌二首とみらる。第二返歌「あゆの風」以下、下二句なお未確定。

ここに宗良親王紀行終わる。

巻末に云う。第一書、十四年の記事を収むる由。

第二書、興国二年より貞治六年まで、二十七年とする由。ただし年号・干支・年数、整合なお未定。

関東・奥州・京都等の諸記録ならびに親房卿の書簡等を集め、本文を編する由とみらる。

書写奥書あり。

また無文和尚・正平二年に関する異本注記あり。人物・年代・寺院との関係、なお未確定。

ここに手書き写本第1冊の本文・巻末資料終わる。

明治期活字本――対応記事の要旨

明治期活字本PDF第12画像付近には、宗良親王の紀行末尾、名子浦等に関係する記事、二条為定との和歌の贈答が収録されています。

為定の第二返歌などは、写本・活字本の双方で難読箇所があります。

一方、写本巻末にある第一書・第二書の年代説明、編纂資料の列挙、書写奥書、無文和尚に関する異本注記は、明治期活字本には収録されていません。

このため、活字本第12画像付近との対応は宗良親王紀行までであり、その後の巻末資料は写本独自部分として扱います。

写本と活字本の主要な相違

箇所 手書き写本 明治期活字本 現在の判断
宗良親王紀行末尾 白須・大河原・名子浦と和歌を記す 対応記事を収録するが、地名・歌句に差がある 双方を照合し、地名・和歌を確定せず保存する
為定の第二返歌 「あゆの風」以下、下二句が難読 活字化されるが、完全な補読には至らない 和歌索引・別写本による再確認を行う
第一書・第二書の説明 巻末に存在 収録なし 写本独自の巻構成資料として保存する
編纂資料の列挙 各地の記録・親房書簡等を列挙するとみられる 収録なし 写本独自の編纂事情資料として保存する
書写奥書 巻末に存在 収録なし 本文とは分けて書誌資料として掲載する
異本注記 無文和尚・正平二年に関係する注記あり 収録なし 後筆または異本情報として保存し、史実とは断定しない

判読・校訂に自信のない箇所

対象 暫定読み 問題点 確度
白須の和歌 「行き通ひ路」等か 歌句・掛詞・地名との関係が未確定 低~中
人物名 香坂高宗 字形・宗良親王との関係・役割が未確定
皇族名 興良親王 紀行との関係、同道者か別記事か未確定
名子浦の和歌 全文未確定 詞書・歌本文・掛詞の区切りが不明瞭
為定第一返歌 返歌一首目 作者・歌順・句切りに再確認が必要 低~中
為定第二返歌 「あゆの風」以下 下二句を判読できず、活字本も難読
第一書・第二書の年代 第一書十四年/第二書興国二年~貞治六年・二十七年 年号・干支・年数が整合しない可能性
編纂資料の列挙 関東・奥州・京都等の記録、親房書簡 地域名・人名・記録名の句切りが不明瞭 低~中
異本注記 無文和尚・正平二年 人物同定・年代・寺院伝承との関係が未確定

復刻作業記録

  • 手書き写本part-19の全3ページを、紀行末尾と巻末資料を含む一つの範囲として確認した。
  • 前part末尾の白須記事から、白須・大河原・名子浦の紀行へ続く接続を確認した。
  • 宗良親王の信濃・越中移動と、二条為定との和歌の贈答を確認した。
  • 為定の第二返歌は、写本・活字本の双方で難読であるため、全文を推測で復元しなかった。
  • 宗良親王紀行終了後、第一書・第二書の年代説明へ移ることを確認した。
  • 第一書十四年、第二書興国二年~貞治六年・二十七年という説明は、年代計算の不整合を含む可能性があるため、写本の記述として保存した。
  • 第一書・第二書を、現在の物理的な第1冊・第2冊へ機械的に対応させなかった。
  • 関東・奥州・京都等の記録と親房書簡を利用した可能性を、編纂資料の説明として整理した。
  • 編纂説明・書写奥書・異本注記が明治期活字本に未収録であることを、最重要の本文差として記録した。
  • 無文和尚・正平二年の記事は、異本または後筆注記として扱い、史実として確定しなかった。
  • 第2冊以後の巻頭・巻末と比較し、第一書・第二書・物理的4冊・活字本5巻の関係を継続検討する。

翻刻・校訂記号の説明を見る

4冊と5巻の問題を見る

伝本と編纂資料の問題を見る

手書き写本第1冊 part-19の史料ページを見る

明治期活字本PDF第12画像を見る

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