『南方紀伝』巻四では、応永4年(1397)から応永34年(1427)までの出来事を扱う。足利義満・義持・義量の時代を中心に、応永の乱、対明外交、北畠満雅の乱、上杉禅秀の乱、応永の外寇、京都の幕府と鎌倉府との対立、赤松氏の内紛などが記されている。
本ページでは、公開上の本文巻四を、手書き写本第4冊part-2~part-12に沿って全11節に分けて掲載する。各partは3ページであり、巻四全体では写本33ページに相当する。
各節には、事件の概要、情報を省略しない詳細現代語訳、流れが分かる現代語訳、人物・用語・史料注記を掲載する。さらに折りたたみ欄の中に、写本翻刻――第一次判読の要旨、校訂本文――公開用仮本文、明治期活字本との比較、判読保留、復刻作業記録を収録している。
翻刻・校訂上の注意:本ページの「写本翻刻」は写本全体の逐字翻刻ではなく、総合作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。「校訂本文」も、現段階における公開用仮本文であり、確定本文ではない。
人名・地名・日付・官職・行動主体が確定できない箇所では、明治期活字本による補読を含むことを明記し、異なる読みを一つに統一しない。また、一般的な歴史年表や人物系譜に合わせて、写本の本文値を無断で修正しない。
冊数と巻数について:今回確認した手書き写本は物理的に全4冊である。一方、明治期活字本の本文は全5巻構成である。写本4冊と本文5巻との関係は未解決であり、活字本巻五を「後世に加えられた付録」「補遺」「増補」などとは断定しない。
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巻四目次
- 応永の乱前夜――北山第・幕府職制と大内義弘の堺入り
応永4~6年(1397~1399年)/第4冊part-2 - 応永の乱――大内義弘の討死と堺焼失
応永6~7年(1399~1400年)/第4冊part-3 - 義満の対明外交――伊達政宗の反抗と琉球船来航
応永8~12年(1401~1405年)/第4冊part-4 - 「日本国王」号への批判――連歌流行と足利義満の死
応永12~16年(1405~1409年)/第4冊part-5 - 鎌倉府の代替わり――持氏継承と称光天皇の即位
応永17~20年(1410~1413年)/第4冊part-6 - 北畠満雅の乱――両統迭立問題と白米の計略
応永20~22年(1413~1415年)/第4冊part-7 - 上杉禅秀の乱①――氏憲の出家と持氏の鎌倉脱出
応永22~23年(1415~1416年)/第4冊part-8 - 上杉禅秀の乱②――世谷原合戦と禅秀方の崩壊
応永23~24年(1416~1417年)/第4冊part-9 - 応永の外寇――義量元服・彦仁親王誕生と災害
応永24~28年(1417~1421年)/第4冊part-10 - 義量将軍と京都・鎌倉の対立――小栗城攻略と後亀山院崩御
応永28~31年(1421~1424年)/第4冊part-11 - 義量の急死――赤松氏内紛と第4冊巻末
応永31~34年(1424~1427年)/第4冊part-12
1.応永の乱前夜――北山第・幕府職制と大内義弘の堺入り
対象年代:応永4~6年(1397~1399年)
対応史料:管理No.34・手書き写本第4冊part-2(全3ページ)/明治期活字本PDF第20画像(印刷38~39頁)
公開状態:第一次判読・第一次校訂
小山若犬丸の子の人数・年齢、九州蜂起の人名、大友修理大夫の記事、三管領・四職・七頭、小笠原両人、応永五年末の紅葉記事と十二月の記事、平井新左衛門と大内義弘堺入り記事の接続には未確定箇所があります。
以下の「写本翻刻」は逐字全文ではなく、第一次判読の要旨です。
この節の概要
手書き写本第3冊は応永三年の記事で終わり、第4冊は応永四年から始まります。明治期活字本では両年の記事が連続しているため、ここが物理的な冊の境であることは示されません。
応永四年、足利義持は従三位となり、さらに権中納言へ進みました。一方、関東で抵抗を続けた小山若犬丸の幼い子が、会津の蘆名直盛と読まれる人物に捕らえられました。
その子は鎌倉へ送られ、海へ沈められたと記されています。ただし、子の人数は写本では二人にも見え、活字本では一人・五歳となっています。
京都では、足利義満が北山に新しい邸宅を造り始めました。これが北山第です。義満は義持へ将軍職を譲った後も、政治・外交・文化活動の中心にあり続けました。
九州では、少弐氏・菊池氏が兵を挙げ、千葉氏・大村氏らも加勢したと記されます。幕府方の大内義弘とその弟たちが出兵して反乱軍を破りましたが、伊予守と記される義弘の弟は討死しました。
応永五年には崇光院が亡くなり、畠山基国が管領となりました。さらに、義満が三管領・四職などの幕府職制を定めたと記されます。
三管領には斯波・細川・畠山、四職には赤松・京極・山名・一色が挙げられています。七頭と読まれる有力家の列挙や、小笠原両人を弓馬礼式の奉行とした記事もありますが、制度語の区切りと人物の実名には再確認が必要です。
関東では、鎌倉公方足利氏満が亡くなり、その子の満兼が後を継ぎました。写本は氏満を「関東管領」と呼びますが、この箇所では後世の関東管領職ではなく、関東を治める鎌倉公方を指す呼称として用いられています。
応永六年には、足利満兼が幕府へ反乱を起こすという噂が流れました。しかし、写本は、その噂は事実ではなかったと説明します。
同年九月、客星が現れ、九月十五日には相国寺七重塔の供養が行われました。塔の高さは三百六十尺と記されています。
十月十三日、大内義弘は平井新左衛門と読まれる人物を案内役として、和泉国の堺へ入りました。文章は、義弘が堺へ籠もり、足利義満と戦う応永の乱へ続きます。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読・準翻刻をもとに、写本の記事順と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
第4冊は応永四年から始まる
手書き写本第3冊の編年本文は、応永三年の記事で終わっていた。
第4冊は、その翌年に当たる応永四年の記事から始まる。
このため、本文の年代には大きな空白がなく、第3冊から第4冊へ連続している。
しかし、明治期活字本は応永三年から応永四年へそのまま続き、写本のような物理的な冊の境を示さない。
第4冊冒頭の応永四年標題は、手書き写本の冊構成を考えるうえで重要な資料である。
足利義持が従三位となる
応永四年正月五日、足利義持は従三位に叙せられた。
義持はすでに将軍職を継いでいたが、朝廷の位階・官職も次第に高くなっていった。
ただし、この写本記事は任官の事実を簡潔に記すものであり、叙位の儀式・宣旨・参列者などは確認できない。
そのため、義持が正月五日に従三位となったことまでを本文とする。
小山若犬丸の子が捕らえられる
正月十四日、小山若犬丸の幼い子が捕らえられた。
捕らえた人物は、会津蘆名左京大夫直盛と読まれる。
ただし、この人名は写本の崩し字だけでは確定しにくく、明治期活字本によって補読した部分を含む。
小山若犬丸は、関東で鎌倉府へ抵抗した小山氏関係者として、前冊にも登場していた。
その子が捕らえられたことは、小山氏の反乱に関係する残存勢力への処分が続いていたことを示す。
子は一人か二人か
小山若犬丸の子の人数は、この節で最も重要な本文異同である。
手書き写本の字形は、「一人」にも「二人」にも見える。
明治期活字本は、「子一人」と明記し、年齢を五歳とする。
写本の年齢部分も五歳と読める可能性があるが、朱印・連綿に近い部分が不鮮明である。
そのため、公開用仮本文では「幼い子」とし、原文資料欄で写本一人/二人候補、活字本一人・五歳という違いを示す。
鎌倉へ送られ、海へ沈められる
捕らえられた子は鎌倉へ送られ、その後、海へ入れられたと記される。
写本と活字本は、この処分内容について大筋で一致している。
ただし、どの海岸・海域で行われたのか、誰が処分を命じ、誰が実行したのかは、この範囲からは分からない。
また、子の人数が確定していないため、複数人が同じ処分を受けたと断定することもできない。
本ページでは、写本が幼い子への厳しい処分を記していることを、推測を加えずに示す。
反乱者の子にまで及んだ処分
反乱を起こした人物の子は、成長後に再び一族をまとめて抵抗する可能性があると警戒されることがあった。
そのため、幼い子であっても政治的な危険人物として扱われ、厳しい処分を受ける場合があったと、この記事から理解できる。
ただし、これは記事の背景を理解するための説明であり、写本が処分理由をこの言葉どおりに論じているわけではない。
義持が権中納言となる
三月二十九日、義持は権中納言に任じられた。
正月の従三位叙位に続く任官記事である。
義持は将軍として武家政権の長となるだけでなく、朝廷の位階・官職も高めていった。
ただし、義持がこの官職において具体的にどのような朝廷政務を行ったかは、写本には記されていない。
足利義満が北山第を造る
夏四月、足利義満は北山に新しい邸宅を造り始めた。
写本は、「相国、北山第を創る」と記す。
ここで「相国」と呼ばれる人物は、足利義満を指すと整理されている。
明治期活字本も「相国創北山第」と記し、内容はほぼ逐語的に一致する。
ただし、造営開始の日付、建物の配置、工事担当者、費用などの細部は、この写本範囲では確認できない。
北山第と義満の政治
北山第は、義満が政治・文化活動を行う重要な場所となったと作業台帳では説明されている。
義満はすでに義持へ将軍職を譲っていたが、北山に大規模な邸宅を造営できる政治力と財力を持っていた。
そのため、将軍職の名義が義持へ移った後も、義満が政権の中心にいたことを示す記事として整理できる。
ただし、この評価は巻三末尾から巻四冒頭の一連の記事を理解するための公開用解説である。
九州で少弐・菊池氏が兵を挙げる
応永四年秋、九州で少弐氏・菊池氏に関係する軍勢が兵を挙げた。
写本では、大宰少弐入道と菊池肥前守が蜂起し、千葉氏・大村氏らが加勢したと読まれる。
ただし、少弐入道の法名は「宗闇」などとも見えるが、確定していない。
菊池肥前守・千葉・大村についても、実名・官職・名字の境界は、活字本による補読への依存が大きい。
そのため、主本文では少弐・菊池・千葉・大村と読まれる九州の勢力が蜂起したという大筋を示す。
合一後も九州の戦いは続く
南北朝はすでに一つの朝廷へ合一していた。
しかし、地方の武士が一斉に幕府へ従ったわけではない。
九州には、所領・一族関係・過去の戦争などを背景として、幕府へ抵抗する武士が残っていた。
この蜂起記事は、南北朝合一後も地方の軍事的対立が続いたことを示す。
ただし、各勢力が旧南朝方として戦ったのか、別の地域的・一族的な争いだったのかは、今回の三ページだけでは確定できない。
大内義弘らが九州へ出兵する
幕府方では、大内義弘と、その弟たちとみられる人物が九州へ出兵した。
写本には、伊予守弘勝・六郎成見と読まれる人物名がある。
しかし、実名の字形と、義弘との兄弟関係は、明治期活字本による補読への依存が大きい。
本ページでは、大内義弘とその一族・軍勢が蜂起した勢力を攻撃したという範囲を本文とする。
蜂起軍を破る
大内義弘らの幕府軍は、少弐・菊池氏らの軍勢を破ったと記される。
ただし、合戦場、軍勢数、戦闘日、降参した人物、逃亡した人物は、この範囲では確定していない。
そのため、「大内義弘らが出兵し、蜂起した軍勢を破った」という大筋を示す。
個々の戦闘経過は、別史料や九州関係記事との照合が必要である。
義弘の弟が討死する
幕府方が戦いに勝った一方、伊予守と記される大内義弘の弟は討死した。
作業台帳では、伊予守弘勝と暫定的に読んでいる。
しかし、実名の文字は活字本への依存があり、確定した人物名としては扱わない。
また、討死した場所・相手・戦闘の状況も分からない。
そのため、「義弘の弟とみられる伊予守が討死した」と限定して説明する。
建仁寺が焼失する
冬十一月十八日、京都の建仁寺が焼失した。
しかし、火災の原因、焼けた建物、人的被害、再建の経過は、現在の作業台帳要旨では確認できない。
そのため、建仁寺火災の日付と焼失のみを本文とする。
写本は、九州の戦闘と京都の寺院火災を、同じ年に起きた重要事件として並べている。
大友修理大夫に関する記事
建仁寺火災の記事の近くには、大友修理大夫に関係するとみられる文章がある。
しかし、前年記事の続きなのか、九州蜂起の戦後処理なのか、別事件へ移ったのかを確定できていない。
主語・動詞・対象人物を十分に読めないため、現代語訳の主本文へ具体的な行動を入れない。
原文資料欄に「大友修理大夫の記事・全文判読保留」として保存する。
応永五年へ進む
本文は応永五年の記事へ進む。
この年には、義持の昇進、崇光院の崩御、北野の法会、公家の関白任官、偏諱、東大寺塔、管領任命、幕府職制、鎌倉公方の代替わりが記される。
朝廷・幕府・寺社・関東の記事が、同じ年の出来事として連続して置かれている。
義持が正三位へ進む
応永五年正月五日、義持は正三位へ進んだ。
前年の従三位から、さらに位階を上げたことになる。
ただし、叙位に伴う儀式・宣旨・参内などの細部は記されていない。
崇光院が亡くなる
正月十三日、崇光院が亡くなった。
写本・活字本とも、享年を六十歳と記す。
この点は両本で一致しているため、公開用仮本文へ採用する。
ただし、崩御の場所・葬送・法名などは、この範囲では詳しく確認できない。
北野の万部経
春には、北野で万部経に関係する法会が始められたと読める。
写本では「北野万部経始行」と暫定的に校訂している。
ただし、「万部経」周辺の字形が崩れており、法会の正式名称・実施日・主催者は確定していない。
そのため、「北野で万部経に関する法会が始まったとみられる」と限定する。
藤原師嗣が関白となる
三月、藤原師嗣が関白となった。
写本では三月九日と読めるが、近接する別の記事にも三月九日が置かれており、日付配列に再確認の余地がある。
人物の実名字形は、明治期活字本によって補強している。
このため、師嗣の関白任官を本文とし、同日記事の配列問題は史料欄へ残す。
道忠が「満」の字を与えられる
師嗣の子である道忠は、足利義満から「満」の字を与えられ、満基と改名したと記される。
上位者が自分の名前の一字を別の人物へ与えることを、偏諱という。
ただし、「道忠」「満基」の実名字形は活字本によって補強している部分があり、写本のみで完全に確定したとはいえない。
本ページでは、義満が師嗣の子へ「満」の字を与えたという大筋を示す。
東大寺の塔で柱立てが行われる
東大寺では、塔の柱立てに関する記事が置かれる。
日付は三月九日と読める。
しかし、藤原師嗣の関白任官にも同じ三月九日が置かれているように見える。
二つの事件が実際に同日に行われたのか、写本の配列または日付の誤写なのかは確定していない。
そのため、東大寺塔柱立の記事を保存しつつ、日付配列を判読上の注意点とする。
畠山基国が管領となる
五月八日、畠山基国が管領となった。
写本と明治期活字本は、この日付と内容で一致する。
管領は、将軍を補佐し、幕府の政務をまとめる重要な役職である。
ただし、就任の儀式・前任者・具体的な職務開始日などは、この記事では確認できない。
義満が幕府の職制を定める
写本は、この年、義満が武家の三管領・四職などを定めたと記す。
三管領には、斯波・細川・畠山の三氏が挙げられている。
四職には、赤松・京極・山名・一色の四氏が挙げられている。
さらに、「七頭」と読まれる区分に関係して、山名・一色・土岐・赤松・京極・上杉・伊勢などの名字が列挙される可能性がある。
ただし、制度語と名字の区切りが不明瞭であり、この一覧を確定した幕府制度表として掲載することはできない。
三管領
写本では、斯波氏・細川氏・畠山氏を三管領とすると記される。
三氏は、管領を担う有力家として説明されている。
ただし、写本がこの年に制度を初めて創設したとするのか、既存の役職家を整理・確認したとするのかは、和文の助詞・動詞を再確認する必要がある。
本ページでは「義満が三管領を定めたと写本は記す」とし、制度成立の歴史的評価までは確定しない。
四職
四職には、赤松氏・京極氏・山名氏・一色氏が挙げられる。
写本は、三管領とともにこれらの有力家を説明的な和文で記す。
明治期活字本は、同じ名字を漢文調で簡潔に列挙する。
両本の大筋は一致するが、写本中の「四職」の字と前後の助詞には再確認が必要である。
七頭と読まれる有力家
三管領・四職に続き、「七頭」と読まれる有力家の列挙があるとみられる。
作業台帳では、山名・一色・土岐・赤松・京極・上杉・伊勢などを候補としている。
しかし、名字の数・順序・制度上の意味を確定できていない。
四職に含まれる名字と重複するため、写本が別の制度区分を示しているのか、複数の説明が連続しているのかも検討が必要である。
そのため、原文資料欄では暫定読みを保存し、主本文では「七頭等の有力家を列挙する」と説明する。
小笠原両人が弓馬礼式を担当する
写本は、小笠原両人が弓馬礼式の奉行となったと記す。
弓馬礼式は、武士の弓・馬・儀礼・作法に関係するものとみられる。
しかし、「両人」が誰と誰を指すのか、二人の実名は今回の写本範囲では明記されないか、判読できていない。
第3冊巻末にも小笠原・今川・伊勢氏に関係する武家礼式の記事があり、この箇所と続けて検討する必要がある。
本ページでは、小笠原氏の二人が弓馬礼式を担当したという写本記事までを示す。
有力守護を幕府の役職へ組み込む
義満は、土岐康行の乱と明徳の乱を通して、強大な守護勢力を追討・再編してきた。
この節では、有力な守護家を三管領・四職などの幕府職制へ位置づける記事が置かれる。
作業台帳では、これを、義満が強い守護大名を幕府の役職へ組み込み、将軍を中心とする政治の仕組みを整えた記事として説明している。
ただし、この政策目的を写本が直接論じているわけではなく、職制記事の配置から導いた公開用解説である。
足利氏満が亡くなる
冬十一月四日、関東を治めていた足利氏満が亡くなった。
写本は氏満を「関東管領」と記す。
ただし、この呼称は後世の上杉氏が務めた関東管領職を指すのではなく、この文脈では鎌倉公方を指して用いられていると整理されている。
死亡日は十一月四日、法名は永安寺と読まれ、写本と活字本で一致する。
「永安寺」を寺号・法名のどちらとして扱うかには確認余地があるため、写本表記として保存する。
足利満兼が後を継ぐ
氏満が亡くなると、その子である足利満兼が鎌倉府を継いだ。
満兼は左馬頭に任じられたと記される。
写本と活字本は、満兼の継承と左馬頭任官について一致する。
ただし、鎌倉公方としての正式な継承儀礼、幕府との連絡、関東武士の支持などの細部は、この範囲では記されていない。
応永五年秋の紅葉記事
第3ページ右丁には、応永五年秋八月に関係する紅葉の記事がある。
「紅葉の賀」または「紅葉の歌」などと読む可能性がある。
しかし、本文と明治期活字本の対応を確定できず、主語・行事・和歌の有無も分からない。
八月と紅葉の関係を含め、日付・語句の再確認が必要である。
そのため、公開用主本文へ具体的な行事内容を入れず、判読保留欄へ残す。
冬十二月の未読記事
同じページには、冬十二月の記事もある。
二条家または朝廷儀礼に関係する可能性があるが、全文を読めていない。
人物名・動詞・行事名を一般的な公家史料から補うことはしない。
応永五年末に未読記事が二つ存在することを、写本の判読保留として保存する。
応永六年へ進む
本文は応永六年の記事へ進む。
興福寺金堂の供養、藤原経嗣の関白任官、満兼謀反説、客星、相国寺七重塔、大内義弘の堺入りが記される。
興福寺金堂の供養
春三月十一日、興福寺金堂の供養が行われた。
写本は、職衆三百人が参加したと記す。
「職衆」という用語は明治期活字本によって補読している。
三百人という人数は写本・活字本で一致すると整理されている。
ただし、職衆の内訳、供養を主催した人物、儀式の内容は、この範囲からは分からない。
藤原経嗣が関白となる
夏四月十九日、藤原経嗣が関白となった。
写本の実名字形は、明治期活字本によって補強している。
作業台帳では再任の可能性も示されているが、この写本本文だけからは任官回数を確定しない。
足利満兼の謀反説
秋七月七日、足利満兼が幕府へ反逆するという噂が流れた。
しかし、写本は、その噂はいずれも事実ではなかったと説明している。
明治期活字本も、「そのような噂はあったが、事実ではなかった」という趣旨を簡潔な漢文調で記す。
両本は内容上ほぼ逐語的に一致する。
ただし、誰が噂を流し、なぜ満兼が疑われたのか、誰が事実ではないと判断したのかという細部は、現在の要旨では確定していない。
客星が現れる
九月、客星が現れたと記される。
客星は、通常は見えない位置に突然現れたように見える天体を表す中世の用語である。
ただし、現代の天文学上の分類を、この写本記事だけから確定することはできない。
彗星・新星などのどれに当たるかを決めず、史料上の表現である「客星」を保存する。
相国寺七重塔の供養
九月十五日、相国寺七重塔の供養が行われた。
塔の高さは三百六十尺と記される。
日付・高さとも、手書き写本と明治期活字本で一致する。
ただし、三百六十尺をどの基準で測ったか、塔の構造・供養の参加者・造営担当者は、この写本範囲では確認できない。
本ページでは、九月十五日・七重塔供養・高さ三百六十尺を、写本と活字本の一致本文として掲載する。
大内義弘が堺へ入る
冬十月十三日、大内義弘は和泉国の堺へ到着した。
写本・活字本とも、十月十三日と記す。
義弘は、それまで九州の蜂起鎮圧など、幕府方の有力武将として活動していた。
しかし、この堺入りの後、義弘は堺に軍勢を集めて籠城し、足利義満と戦うことになる。
今回のpartは義弘が堺へ着いたところで終わり、籠城理由・軍勢配置・幕府との交渉は次partへ続く。
平井新左衛門を案内とする
義弘の堺入りには、平井新左衛門と読まれる人物が関係する。
写本では、義弘が平井新左衛門を案内としたと読める。
しかし、平井新左衛門が道案内、堺の現地案内、軍事上の先導、宿所の手配などのどの役割を果たしたのかは確定していない。
名字・通称も明治期活字本による補読を含む。
そのため、「平井新左衛門と読まれる人物を案内として、義弘が堺へ入った」と限定して示す。
大内義弘の立場が変わる
この節の前半では、大内義弘は九州の蜂起を鎮圧する幕府方の武将として登場した。
節の最後では、その義弘が堺へ入り、次の応永の乱へ向かう。
同じ人物が幕府のために戦った記事と、幕府へ反抗する直前の記事が、一つのpartに収められていることが重要である。
ただし、義弘と義満の関係が悪化した具体的な理由は、このpartではまだ記されていない。
その理由、堺籠城、幕府軍による包囲、義弘の討死は次の第2節で扱う。
この節に並ぶ三つの政治変化
この節には、次の三つの大きな変化が並んでいる。
- 京都:北山第造営と三管領・四職などの幕府職制
- 関東:足利氏満の死と満兼の鎌倉公方継承
- 西国:九州蜂起の鎮圧から大内義弘の堺入りへ
義満が京都で政治制度と拠点を整える一方、関東では鎌倉公方が交代し、西国では大内義弘の反乱が近づいていた。
次の応永の乱は、突然始まったのではなく、このような幕府・守護・地方勢力の関係の中から起こった事件として読むことができる。
ただし、これは記事全体を理解するための公開用整理であり、写本の直接的な評言ではない。
流れが分かる現代語訳
手書き写本第4冊は、応永四年(1397年)の記事から始まる。
正月、足利義持は従三位という高い位を与えられた。
一方、関東で抵抗を続けた小山若犬丸の幼い子が、会津の蘆名直盛と読まれる武士に捕らえられた。
その子は鎌倉へ送られ、海へ沈められたと記される。
ただし、子が一人だったか二人だったかは確定していない。活字本は一人・五歳とする。
義持はその後、権中納言となった。
足利義満は京都の北山に新しい邸宅を造り始めた。
義満は将軍職を義持へ譲っていたが、北山第を造営できるほど大きな政治力を持ち続けていた。
九州では、少弐氏・菊池氏が兵を挙げ、千葉氏・大村氏らも加わった。
幕府方の大内義弘らは九州へ出兵して蜂起軍を破ったが、義弘の弟とみられる伊予守は討死した。
京都では建仁寺が焼けた。
応永五年には、義持が正三位へ進み、崇光院が六十歳で亡くなった。
義満は、幕府の中心となる有力家を三管領・四職などに整理したと写本は記す。
三管領は斯波・細川・畠山、四職は赤松・京極・山名・一色とされる。
また、小笠原氏の二人が弓馬礼式を担当したと記されるが、その二人の実名は分からない。
関東では足利氏満が亡くなり、息子の満兼が鎌倉公方を継いだ。
翌年、満兼が幕府へ反乱を起こすという噂が流れたが、写本は、その噂は事実ではなかったと説明する。
九月には客星が現れ、相国寺の七重塔で供養が行われた。
塔の高さは三百六十尺だったと記される。
十月十三日、大内義弘は平井新左衛門と読まれる人物を案内役として、和泉国の堺へ入った。
義弘はこの後、堺へ籠もって足利義満に反抗する。
次の節では、幕府軍による堺包囲、十二月十四日の総攻撃、大内義弘の討死、堺の町の焼失へ進む。
人物・用語・史料注記
足利義持
足利義満の子で、前冊において将軍となった人物です。この節では従三位・権中納言・正三位への昇進が記されます。
小山若犬丸の子
関東で抵抗を続けた小山氏関係者の幼い子です。写本は人数が一人にも二人にも見え、活字本は一人・五歳とします。鎌倉へ送られ、海へ入れられたと記されます。
会津蘆名左京大夫直盛
小山若犬丸の子を捕らえた人物として暫定的に読んでいる名前です。名字・官職・実名は明治期活字本によって補読しています。
北山第
義満が北山に造り始めた大規模な邸宅です。写本・活字本は造営記事でほぼ一致しますが、建物の配置・工事担当者・費用などはこの範囲では確認できません。
九州蜂起
少弐・菊池・千葉・大村などと読まれる勢力の蜂起です。個々の実名・法名・所属・合戦場は未確定です。
三管領
写本では、斯波・細川・畠山の三氏を三管領とすると記されます。制度を新設したのか、役職を担う家を整理・確認したのかは再校訂が必要です。
四職
写本では、赤松・京極・山名・一色の四氏を四職とします。活字本も同じ名字を列挙しますが、写本の制度語と助詞は再確認が必要です。
七頭
三管領・四職に続いて記されるとみられる制度語です。山名・一色・土岐・赤松・京極・上杉・伊勢などの名字が候補ですが、数・順序・制度上の意味は確定していません。
小笠原両人
弓馬礼式の奉行とされた二人です。ただし、二人の実名・担当した礼式の具体的内容は未確定です。
足利氏満・満兼
関東を治めた鎌倉公方です。氏満は応永五年十一月四日に亡くなり、満兼が後を継いで左馬頭となりました。
関東管領という写本表記
写本は氏満を「関東管領」と呼びます。ただし、この箇所では上杉氏などが務めた関東管領職ではなく、関東を治める鎌倉公方を指す呼称として用いられています。
客星
通常は見えない位置に突然現れたように見える天体を表す中世の用語です。現代天文学上の彗星・新星などのどれかには確定しません。
相国寺七重塔
応永六年九月十五日に供養が行われ、高さ三百六十尺と記される塔です。日付・高さは写本と活字本で一致します。
大内義弘
九州蜂起の鎮圧に関係した有力武将です。この節末尾では応永六年十月十三日に堺へ入り、次節の応永の乱へ進みます。
平井新左衛門
大内義弘の堺入りを案内したと読まれる人物です。道案内・軍事的先導・現地調整などの具体的な役割は未確定です。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第4冊 part-2、全3ページ
- 対象年代:応永四年~応永六年(1397~1399年)
- 内容区分:編年本文・幕府職制・応永の乱導入
- 明治期活字本:PDF第20画像・印刷38~39ページ
- 第一次判読の確度:中
- 判読保留:8項目
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
第4冊part-2第1ページ右丁は白紙。本文なし。
丁丑、応永四年。
春正月五日、足利義持、従三位に叙せらる。
正月十四日、小山若犬丸の子、会津蘆名左京大夫直盛と読まれる人物に生け捕らる。
子の人数は一人とも二人とも見える。活字本は一人・五歳とす。
子、鎌倉へ送られ、海に入れらると記す。
三月二十九日、義持、権中納言に任ず。
夏四月、相国、北山第を創る。
秋、大宰少弐入道・菊池肥前守、蜂起す。
千葉・大村等、これに加勢す。
大内義弘ならびに舎弟、伊予守弘勝・六郎成見と読まれる人物ら、発向してこれを撃つ。
伊予守、討死す。
冬十一月十八日、建仁寺焼失す。
大友修理大夫に関する記事あり。ただし全文未確定。
戊寅、応永五年。
春正月五日、義持、正三位に叙せらる。
正月十三日、崇光院崩御。御年六十。
春、北野万部経始行と読まれる法会記事あり。
三月、藤原師嗣、関白に任ず。
師嗣の子・道忠、義満の諱字「満」を賜り、満基と改む。
三月九日、東大寺塔柱立と読まれる記事あり。ただし日付配列に再確認余地あり。
五月八日、畠山基国、管領となる。
この年、義満公、武家の三管領・四職等を定む。
斯波・細川・畠山を三管領とす。
赤松・京極・山名・一色を四職とす。
七頭と読まれる区分に、山名・一色・土岐・赤松・京極・上杉・伊勢等の名字を列挙するとみられる。
小笠原両人、弓馬礼式の奉行たり。
冬十一月四日、写本が関東管領と呼ぶ足利氏満、卒す。
法名、永安寺。
子の満兼立ち、左馬頭に任ず。
秋八月、紅葉の賀または紅葉の歌に関係するとみられる記事あり。未確定。
冬十二月、二条家または朝廷儀礼に関係するとみられる記事あり。未確定。
己卯、応永六年。
春三月十一日、興福寺金堂供養。職衆三百人。
夏四月十九日、藤原経嗣、関白に任ず。
秋七月七日、足利満兼謀反の由、その聞こえあり。
されども、いずれも実ならずと記す。
九月、客星出づ。
九月十五日、相国寺七重塔供養。高さ三百六十尺。
冬十月十三日、大内左京大夫義弘、和泉堺に着く。
平井新左衛門と読まれる人物を案内とす。
末尾は大内義弘の堺籠城・応永の乱へ続く。
校訂本文――公開用仮本文
応永四年。
正月五日、足利義持、従三位に叙せらる。
正月十四日、小山若犬丸の幼き子、会津蘆名左京大夫直盛と読まるる人物に捕らえらる。
子の人数、写本は一人または二人と見ゆ。活字本は一人・五歳とす。
子、鎌倉へ送られ、海に入れらる。
三月二十九日、義持、権中納言に任ず。
夏四月、足利義満、北山第を創る。
秋、九州において少弐・菊池氏ら蜂起す。千葉・大村等これに加わる。
大内義弘ならびに一族の軍勢、これを討つ。
義弘の弟とみらるる伊予守、討死す。ただし実名未確定。
十一月十八日、建仁寺焼失す。
大友修理大夫に関する未読記事あり。
応永五年。
正月五日、義持、正三位に叙せらる。
正月十三日、崇光院崩御。御年六十。
北野に万部経に関する法会ありとみらる。
三月、藤原師嗣、関白に任ず。
師嗣の子・道忠、義満より「満」の字を賜り、満基と改む。
東大寺塔柱立の記事あり。三月九日と読まるるが、日付配列未確定。
五月八日、畠山基国、管領となる。
義満、武家の三管領・四職等を定むと記さる。
斯波・細川・畠山を三管領、赤松・京極・山名・一色を四職とす。
七頭等の有力家を列挙す。ただし制度語・名字の区切り、未確定。
小笠原両人、弓馬礼式の奉行となる。ただし二人の実名未確定。
十一月四日、足利氏満、卒す。法名永安寺。
子の足利満兼、後を継ぎ、左馬頭に任ず。
応永五年末に紅葉関係・十二月の朝廷関係とみられる未読記事あり。
応永六年。
三月十一日、興福寺金堂供養。職衆三百人。
四月十九日、藤原経嗣、関白となる。
七月七日、足利満兼謀反の噂あり。されども実ならず。
九月、客星出づ。
九月十五日、相国寺七重塔供養。高さ三百六十尺。
十月十三日、大内義弘、和泉国堺へ入る。
平井新左衛門と読まるる人物を案内とす。
〔大内義弘の堺籠城、幕府軍の包囲、応永の乱へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第20画像・印刷38~39ページには、義持の叙位・任官、小山若犬丸の子の捕縛と処分、北山第造営、九州蜂起、崇光院崩御、幕府職制、氏満死去と満兼継承、相国寺七重塔、大内義弘の堺入りに対応する記事があります。
事件の順序と内容は、写本と活字本で全体的によく一致します。
小山若犬丸の子について、写本の字形は一人・二人の両方に見えますが、活字本は「子一人・五歳」と明記します。
子を捕らえた人物は、活字本によって会津蘆名左京大夫直盛と補読できます。
九州蜂起では、活字本が少弐・菊池・千葉・大村・大内方の人物名を漢字で列挙し、写本より補読しやすくなっています。
武家職制について、写本は三管領・四職・七頭等を説明的な和文で記し、活字本は名字を漢文調で列挙します。
満兼謀反説は、写本が噂は事実ではないと和文で説明し、活字本は同じ趣旨を短い漢文で記します。
相国寺七重塔は、九月十五日・高さ三百六十尺で一致します。
大内義弘の堺入りも、十月十三日・和泉堺という日付・場所で一致します。
写本part-2は義弘の堺到着で終わりますが、活字本はそのまま堺籠城・応永の乱へ続きます。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 第4冊の開始 | 応永四年から新しい物理的冊として開始 | 第3冊末尾に相当する応永三年記事から連続 | 写本独自の冊境として保存する |
| 小山若犬丸の子 | 一人にも二人にも見える | 子一人・五歳 | 本文では「幼い子」とし、人数・年齢は両説を注記する |
| 九州蜂起の人物 | 仮名交じりで人物境界が不明瞭 | 少弐・菊池・千葉・大村・大内方を漢字で列記 | 活字本を補読に用いるが、実名・法名を無条件には採用しない |
| 武家職制 | 三管領・四職・七頭等を説明的な和文で記す | 制度語と名字を漢文調で列挙 | 写本の説明性を保存し、七頭の区切りは保留する |
| 満兼謀反説 | 噂は事実ではないと和文で説明 | 「噂はあったが事実ではない」と簡潔に記す | 写本の説明的な表現を優先する |
| part末尾 | 大内義弘の堺到着で中断 | 堺籠城・応永の乱へ続く | PDF分割による中断として、次partとの接続を保存する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 小山若犬丸の子 | 一人/二人、五歳か | 人数は写本で二人にも見え、年齢部分も不鮮明。活字本は一人・五歳 | 低~中 |
| 九州蜂起の人物 | 少弐入道・菊池肥前守・千葉・大村/伊予守弘勝・六郎成見 | 法名・実名・人物境界を活字本による補読へ依存している | 低 |
| 大友氏の記事 | 大友修理大夫に関する記事 | 前年記事の続きか、九州戦後処理か、別事件かを確定できない | 低 |
| 武家職制 | 三管領・四職・七頭 | 制度語、名字、人数、区切りが不明瞭 | 低~中 |
| 小笠原氏 | 小笠原両人・弓馬礼式奉行 | 二人の実名と担当した礼式の具体的内容が不明 | 中 |
| 応永五年秋 | 紅葉の賀/紅葉の歌 | 本文と活字本の対応、日付、主語、行事内容を確定できない | 低 |
| 応永五年冬 | 二条家・朝廷儀礼の記事か | 主語・人物・事件内容が未読 | 低 |
| part末尾 | 平井新左衛門を案内として義弘堺入り | 案内役の具体的役割と、次part冒頭の主語・籠城記事との接続を要確認 | 中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第4冊part-2の全3ページを、第4冊巻頭・幕府職制・応永の乱導入を含む一つの範囲として確認した。
- 第1ページ右丁が白紙であることを確認し、本文として扱わなかった。
- 第3冊が応永三年で終わり、第4冊が応永四年から始まる冊間接続を確認した。
- 活字本では冊境が示されないため、第4冊の開始を写本独自の巻構成資料として保存した。
- 義持の従三位・権中納言・正三位への昇進を、記事順に整理した。
- 小山若犬丸の子の人数は、写本一人/二人候補、活字本一人・五歳として両方を保存した。
- 子を捕らえた会津蘆名左京大夫直盛という人名は、活字本による補読を明示した。
- 海へ入れられた場所・命令者・実行者を推測で補わなかった。
- 北山第造営を確認したが、工事担当者・費用・建物配置を補わなかった。
- 九州の少弐・菊池・千葉・大村氏らの蜂起を確認した。
- 九州蜂起参加者の法名・実名・人物境界を、活字本だけで確定しなかった。
- 大内義弘とその一族による鎮圧を確認したが、合戦場・兵数・詳しい戦闘経過を補わなかった。
- 義弘の弟とみられる伊予守の実名を、確定情報として扱わなかった。
- 建仁寺焼失の日を十一月十八日として採用し、出火原因・焼失範囲は補わなかった。
- 大友修理大夫の記事は全文未確定として、主本文へ具体的な行動を入れなかった。
- 崇光院崩御・享年六十を、写本と活字本の一致本文として採用した。
- 北野万部経、師嗣・道忠・満基、東大寺塔柱立の記事は、活字本による補読部分を明示した。
- 三月九日が複数記事へ重なって見える問題を、日付配列上の保留事項として残した。
- 畠山基国の五月八日管領就任を、写本・活字本の一致本文として採用した。
- 三管領・四職については大筋を採用したが、七頭の制度語・名字・順序を確定しなかった。
- 小笠原両人の実名と弓馬礼式の具体的内容を推測しなかった。
- 写本の「関東管領」が、この箇所では鎌倉公方足利氏満を指す呼称であることを注記した。
- 氏満の十一月四日死去、法名永安寺、満兼の継承と左馬頭任官を確認した。
- 応永五年末の紅葉記事・十二月記事を推測で復元しなかった。
- 興福寺金堂供養・職衆三百人を、写本・活字本の一致する記事として整理した。
- 満兼謀反説について、写本が噂を事実ではないと説明する点を保存した。
- 客星を現代天文学上の特定天体へ断定しなかった。
- 相国寺七重塔の九月十五日供養・高さ三百六十尺を、一致本文として採用した。
- 大内義弘の十月十三日堺入りと、平井新左衛門の案内記事を確認した。
- 義弘の堺到着でpartが終わることを確認し、籠城理由・幕府軍・戦闘記事は次節へ送った。
2.応永の乱――大内義弘の討死と堺焼失
対象年代:応永6~7年(1399~1400年)
対応史料:管理No.35・手書き写本第4冊part-3(全3ページ)/明治期活字本PDF第20左~21右画像(印刷39~40頁付近)
公開状態:第一次判読・第一次校訂
青蓮院門跡関係者、大内方武将の人名群、十二月七日前後の各地の戦闘、戦後残党処分、足利満兼の鎌倉帰還日、上杉禅助、斯波左京大夫の記事、奥州宇都宮氏記事への接続には未確定箇所があります。
写本の「堺一万軒」と活字本の「堺一万間」は、どちらかへ統一せず、重要な本文異同として併記します。
この節の概要
前節の末尾では、大内義弘が応永六年十月十三日に和泉国の堺へ入りました。
この節では、義弘が堺に軍勢を集め、足利義満を中心とする幕府軍と戦った応永の乱が記されます。
義弘のもとには、和泉・紀伊・九州・中国地方などから軍勢が集まりました。南方兵衛正秀と記される人物は二百余騎を率いて加勢し、赤松・土岐・池田・山名氏関係者とみられる武士も大内方へ加わりました。
ただし、大内方武将の人名は仮名交じりで密集しており、赤松池田前守兼朝・土岐宮内少輔詮直・池田周防守秋政などの読みは、明治期活字本による補読を含みます。
足利義満は絶海和尚を義弘のもとへ送り、反抗をやめるよう説得しました。しかし、義弘は従いませんでした。
義満は諸国の有力武将を集めました。幕府軍は三万余騎に達したと記され、堺城を包囲しました。
11月29日、幕府軍は堺城を攻撃しました。戦いは朝の卯の刻から夜半まで続きましたが、両軍とも力を使い果たし、いったん兵を退きました。
この戦いでは、北畠満泰と読まれる人物が討死しました。また、大内方の土岐詮直らは美濃方面でも戦い、敗れて長森城へ立て籠もったと記されます。
12月7日前後にも、矢田庄・八田庄・近江方面などで大内方・山名方と幕府方の戦いが続きました。しかし、人名・地名・戦闘主体が密集しているため、個々の勝敗には再校訂が必要です。
12月14日、幕府軍は堺城の四方へ火を放ち、総攻撃を行いました。
大内義弘は長刀を振るい、敵陣へ突入しました。義弘は畠山満家と戦い、ついに討死しました。
畠山満家は義弘の首を取りました。義弘の子・新介持盛は降参し、楠木勢と菊池氏は敗走しました。
戦いの火は堺城だけでなく市街地へ燃え広がりました。写本は「堺一万軒、一宇も残らず焼失」と記し、活字本は「一万間、一宇不残」と記します。
戦後、畠山基国には河内・紀伊両国、細川頼元には摂津・和泉両国が恩賞として与えられました。
応永七年には、足利義持が従二位へ昇進し、伊勢神宮外宮の遷宮が行われました。
関東では、足利満兼が足利庄から鎌倉へ帰りました。写本では3月5日と読めますが、数字の字形には再確認が必要です。
上杉禅助と読まれる人物が、京都の幕府との和睦を強く勧めたため、満兼は鎌倉へ戻ったと記されています。
節の末尾では、斯波左京大夫の死去・法名とみられる記事を経て、奥州の宇都宮氏に関する次節の記事へ続きます。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読・準翻刻をもとに、写本の記事順と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。人名・地名・合戦主体・戦後処分が確定していない部分は、推測で補っていません。
大内義弘の堺入りから続く
前節の末尾では、応永六年十月十三日、大内義弘が和泉国の堺へ入った。
義弘は、平井新左衛門と読まれる人物を案内として堺へ到着した。
このpartの冒頭は、その堺入りの記事から直接続いている。
ただし、平井新左衛門が単なる道案内だったのか、現地の軍事・宿所・港湾関係者だったのかは確定していない。
写本は、義弘の堺到着後、青蓮院門跡関係者と大内方軍勢の集結を記す。
青蓮院門跡関係者の記事
写本冒頭には、青蓮院門跡の法親王と、その坊官に関係する記事がある。
法親王名は、活字本との照合から「尊道」と補読できる可能性がある。
しかし、写本の字形は明瞭ではなく、確定した法親王名とはしない。
坊官として、伊予法眼と読まれる人物が記される。
伊予法眼は召し出されたものの、事情があるとして参上しなかったと読める。
ただし、誰が伊予法眼を召し、なぜ参上しなかったのか、応永の乱とどのように関係するのかは確定していない。
大内方の軍勢が堺へ集まる
和泉・紀伊・筑紫・中国地方から、大内方の軍勢が集まった。
写本は、堺城が兵で満ちたと表現している。
ただし、各地域から何人の軍勢が参加したのか、全体の人数は記されていないか、現在の第一次判読では確認できない。
義弘は、中国地方だけでなく、九州・紀伊・和泉や旧南朝方に関係する武士からも支持を得ていたと、写本の記事構成から読み取れる。
ただし、すべての参加者を旧南朝方と断定することはできない。
南方兵衛正秀が二百余騎で加勢する
南方兵衛正秀と記される人物は、二百余騎を率いて大内義弘へ加勢した。
二百余騎という人数は、写本と明治期活字本で一致する。
しかし、「南方」が名字・地域・南朝方を示す表現のどれに当たるのか、兵衛正秀の実体は確定していない。
そのため、本ページでは写本の表記を保ち、「南方兵衛正秀と記される人物」とする。
赤松・土岐・池田・山名氏関係者
大内方へ加わった人物として、赤松池田前守兼朝と読まれる人物が記される。
さらに、土岐宮内少輔詮直、池田または油田周防守秋政、山名満氏の一族と読まれる人々が、大内方へ味方したとみられる。
しかし、名字・官職・実名をどこで区切るかには問題がある。
「池田」は「油田」などの別字にも見え、「山名満氏の一族」に当たる部分も別の語として読む可能性がある。
そのため、これらを確定した武将一覧とはせず、大内方に加勢した人名群の暫定読みとして保存する。
義満が絶海和尚を送る
足利義満は、絶海和尚を大内義弘のもとへ派遣した。
義満は、義弘に反抗をやめ、幕府へ従うよう説得しようとした。
写本は、絶海和尚を遣わして義弘を宥めたものの、義弘は従わなかったと説明する。
明治期活字本も、義満が絶海和尚を遣わしたが、大内義弘は従わなかったという同じ内容を漢文調で記す。
ただし、絶海和尚が伝えた具体的な条件・書状・義弘の回答全文は、この範囲には記されていない。
和平による解決は成立しなかった
義満が僧侶を介して説得を試みたことから、幕府が直ちに総攻撃だけを考えていたわけではないことが分かる。
しかし、義弘が説得へ応じなかったため、堺をめぐる軍事衝突へ進んだ。
義弘が従わなかった理由、幕府が示した赦免・処遇条件、義弘側の要求は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
したがって、「絶海和尚による説得は成功しなかった」という確認できる範囲を本文とする。
義満が東寺へ入る
11月8日、足利義満は諸軍を率いて東寺へ入った。
写本は、この時の義満を「前将軍」と呼ぶ。
義満はすでに将軍職を義持へ譲っていたが、応永の乱では幕府軍を集め、軍事行動の中心となった。
義持が現職の将軍である一方、義満が実際の政治・軍事を主導していた状況が表れている。
ただし、これは記事を理解するための整理であり、写本が父子の権限分担を詳しく論じているわけではない。
11月14日に八幡へ陣を進める
11月14日、義満は軍勢を八幡へ進めた。
東寺から八幡へ陣を移すことで、堺方面へ向かう幕府軍の配置が進められたとみられる。
ただし、義満本人がどの場所まで進んだのか、各部隊の移動経路・宿営地は確定していない。
本ページでは、11月8日の東寺入り、14日の八幡への陣進出という写本の時間経過を保存する。
幕府方諸将が集結する
幕府方には、畠山基国・斯波義将・細川頼元らが集まった。
さらに、山名氏・京極氏・赤松氏・吉良氏・石堂氏・武田氏・小笠原氏・富樫氏・河野氏などと読まれる諸勢力が加わった。
写本では名字・官職・実名が仮名交じりで連続し、人名の区切りが難しい。
明治期活字本は漢字で人名を列挙し、補読に役立つ。
ただし、活字本の人名一覧を無条件に写本本文へ置き換えず、「幕府方諸将」として大筋を示す。
幕府軍は三万余騎
幕府軍の兵力は、三万余騎に達したと記される。
「三万余騎」は写本・活字本で一致する。
ただし、この数字が実際に一人ずつ数えた正確な人数か、非常に大きな軍勢を表す年代記的な数字かは、この史料だけでは判断できない。
本ページでは、写本が三万余騎と記録したことを、そのまま史料上の表現として掲載する。
堺城の防備
大内義弘は、堺に城を構えた。
城には矢倉と井楼を築き、幕府軍の攻撃へ備えた。
井楼は、高い見張り台・攻撃台として用いられる施設と考えられる。
写本と活字本は、義弘が堺城に矢倉・井楼を築いて防いだという点で一致する。
ただし、城の正確な範囲・門・堀・矢倉数・市街地との境界は、この史料からは分からない。
11月29日の堺合戦
11月29日、幕府軍は堺城を攻撃した。
戦いは朝の卯の刻から夜半まで続いた。
卯の刻は早朝に当たるが、現代の時刻へ厳密に換算することは避ける。
幕府軍と大内軍は長時間にわたって戦い、双方とも力を使い果たした。
この日は決着がつかず、両軍はいったん兵を退いたと記される。
北畠満泰が討死する
11月29日の戦いでは、北畠源左少将満泰と読まれる人物が討死した。
人物名と官職は、明治期活字本によって補読している部分がある。
写本と活字本は、北畠満泰が討死したという点で一致する。
ただし、満泰がどの軍勢を率い、どの場所で誰と戦って討死したのかは、今回の要旨だけでは確定できない。
そのため、討死の事実と暫定人名を示し、戦闘経過は補わない。
美濃方面でも戦いが起こる
応永の乱は、堺だけで行われた戦いではなかった。
大内方へ味方した土岐宮内少輔詮直・池田周防守秋政らは、美濃方面でも幕府方と戦った。
土岐美濃守頼益と読まれる人物が、詮直らを攻撃したとみられる。
詮直は敗れて、長森城と読まれる城へ立て籠もった。
ただし、人名・実名・城の現在地は、明治期活字本や地域史料との再照合が必要である。
12月7日前後の各地の戦い
12月7日には、各地で複数の戦いが記される。
一つは、矢田庄と読まれる場所における合戦である。
富永五郎左衛門資員・弾正四郎資貞と読まれる人物らが、山名勢と戦ったとみられる。
しかし、富永方の誰が討たれたのか、人名の境界と主語を確定できていない。
そのため、矢田庄で富永氏関係者と山名勢の合戦があったという範囲を本文とする。
丹波八田庄から山名満氏が出兵する
同じ12月7日、山名満氏と読まれる人物が、藤野・高田以下の軍勢を率いて丹波八田庄から出兵したとみられる。
山名方は佐々木小原勢と戦った。
宮上野守・今川・名古屋三郎・勝間田遠江守などと読まれる人物が戦い、討死したとみられる。
ただし、人名が密集し、誰が山名方・幕府方のどちらに属するか、誰が討死したかを一人ずつ確定できていない。
これらの名前は、活字本による補読を含む暫定人名として扱う。
近江方面の戦い
京極五郎左衛門秀満と読まれる人物らが、近江方面へ出兵したとみられる。
三井寺の衆徒がこれを防ぎ、京極方は敗れて行方が分からなくなったと読める。
しかし、京極方の出兵先、三井寺衆徒の所属、敗走後の行方を確定できていない。
そのため、12月7日前後に近江方面でも応永の乱に関係する戦いがあったことを示すにとどめる。
応永の乱が複数地域へ広がる
大内義弘が堺へ籠もったことを中心として、戦いは美濃・丹波・近江などにも広がった。
義弘へ味方した武士や一族が、それぞれの地域で幕府方と戦ったためである。
ただし、すべての地方戦闘が義弘の直接命令によるものか、それぞれの一族対立が応永の乱と結びついたのかは確定していない。
本ページでは、応永の乱が堺だけの局地戦ではなく、複数地域の軍事衝突を伴ったことを示す。
12月14日の総攻撃
12月14日、幕府軍は堺城へ総攻撃を行った。
写本と明治期活字本は、ともに12月14日を総攻撃の日として記す。
幕府軍は堺城の四方から火を放ち、城内へ攻め入った。
火を用いた攻撃は城の防備を破る一方、市街地へ延焼する大きな危険を伴った。
ただし、どの部隊がどの方向から攻撃したのかは、現在の作業台帳要旨では確定していない。
大内義弘が敵陣へ突入する
総攻撃を受けた大内義弘は、なお戦い続けた。
写本は、義弘が長刀を振るって敵陣へ駆け入ったと、物語的な和文で記している。
ただし、「長刀」と読むか「薙刀」と表記すべきかには再確認の余地がある。
本ページでは写本の第一次判読に従い、「長刀を振るった」とする。
畠山満家と戦う
義弘は、畠山尾張守満家と戦った。
写本・活字本とも、義弘が畠山満家と戦って討死したという大筋で一致する。
しかし、一騎討ちのような形だったのか、両軍の混戦の中で戦ったのかは、写本の文章だけから厳密には判断できない。
そのため、「畠山満家と戦い、討死した」という史料上の記述を示し、具体的な戦闘姿勢を過度に再現しない。
大内義弘が討死する
大内義弘は、12月14日の戦いで討死した。
中国・九州に大きな勢力を持ち、かつて幕府方として戦ってきた有力守護が、足利義満の軍勢との戦いで命を失った。
義弘の死によって、堺城に籠もった大内方は軍事的な中心を失った。
ただし、義弘が死亡した正確な場所、傷、最期の言葉などは、この写本範囲では確認できない。
森民部丞・杉備中守らも戦死する
義弘に従っていた森民部丞・杉備中守と読まれる武士らも戦死した。
ただし、両者の実名は写本に記されていないか、判読できていない。
名字・官職のみを暫定的に保存し、具体的な人物伝は補わない。
畠山満家が義弘の首を取る
義弘が討死した後、畠山満家が義弘の首を取ったと記される。
明治期活字本も「満家得其首」と記し、内容は一致する。
ただし、満家が義弘を直接討ち取ったことと、義弘の首を確保したことを、完全に同一の行為として解釈できるかには注意が必要である。
本ページでは、写本・活字本に従い、「畠山満家が義弘の首を取った」と記す。
義弘の子・持盛が降参する
義弘の子である新介持盛は、幕府方へ降参した。
写本と活字本は、持盛が降参したという点で一致する。
ただし、降参した場所・相手・条件・その後の処遇は、今回の要旨では確定していない。
そのため、義弘の死後、子の持盛が降参したという範囲を本文とする。
楠木勢と菊池氏が敗走する
義弘方に加わっていた楠木勢は敗走した。
菊池肥前守と記される人物も敗れ、九州へ逃れたと記される。
ただし、菊池肥前守の実名が写本に記されている可能性はあるものの、現在は確定していない。
楠木勢の指揮者・人数・逃走先も不明である。
このため、大内方の敗北後、楠木勢・菊池氏関係者が戦場を離れたという大筋を示す。
城の火が堺の町へ燃え広がる
戦いは夜明けまで続いたとみられる。
暁になるころ、堺城の矢倉から出た火が堺の町へ燃え広がった。
火は城郭・軍事施設だけにとどまらず、市街地の家屋へ移った。
写本は、堺の町がほとんど焼き尽くされたと、強い表現で記している。
写本は「堺一万軒」と記す
手書き写本は、
堺一万軒、一宇も残らず焼失す
と読める。
「一万軒」は、堺にあった多数の家屋を数える表現である。
ただし、実際に一万軒を一戸ずつ数えた正確な数字なのか、大都市が全面的に焼けたことを強調する表現なのかは、この史料だけでは判断できない。
活字本は「一万間」と記す
明治期活字本は、同じ箇所を、
堺一万間、一宇不残
と記す。
写本の「軒」と活字本の「間」は、一字・助数詞の明確な異同である。
現在は、どちらかを誤りとして削除せず、
写本「一万軒」/活字本「一万間」
として両方を保存する。
最大の被害を受けた堺の町
応永の乱は、足利義満と大内義弘という有力者同士の政治・軍事対立だった。
しかし、戦場となった堺では、城だけでなく市街地の家屋が焼けた。
堺に住んでいた人々は、住居・店・倉・財産などを失った可能性がある。
ただし、写本は住民の死傷者数・避難先・復興の経過までは記していない。
本ページでは、市街地全体へ被害が広がったことを示し、具体的な住民被害を推測で補わない。
戦後の大内方残党処分
義弘の討死と堺焼失の後、大内方の残党に対する処分記事が続く。
しかし、写本の数行は文字が不明瞭で、主語・処分対象・降参者・処刑者を確定できていない。
明治期活字本や幕府関係史料によって補える可能性がありますが、現在の公開用本文へ具体的な処分内容を入れない。
原文資料欄では、判読不能箇所を「□」として保存する。
戦後の恩賞
幕府方として戦った有力武将には、恩賞が与えられた。
畠山基国には、河内・紀伊両国が与えられた。
細川頼元には、摂津・和泉両国が与えられた。
この領国配分は、写本と明治期活字本で一致する。
ただし、各国の全所領を完全に支配することを意味するのか、守護職・特定権益を与えたのかという制度的細部は、この写本記事からは確定しない。
義満の将軍権力が強まる
大内義弘は、中国・九州などに大きな影響を持つ有力守護だった。
その義弘を軍事的に破り、戦後の領国を幕府方の功臣へ与えたことで、義満は有力守護を統制する力を示したと整理できる。
巻三では土岐康行の乱・明徳の乱が記され、巻四では応永の乱が続く。
いずれも、有力守護と将軍義満との関係、追討、戦後の守護職・領国配分という問題を含んでいる。
ただし、三つの事件が義満の同一計画によって起こされたと断定することはできない。
本ページでは、結果として義満の統制力が強まったという公開用解説として示す。
応永七年へ進む
応永の乱後、本文は応永七年の記事へ進む。
この年には、足利義持の昇進、伊勢神宮外宮の遷宮、足利満兼の鎌倉帰還、斯波氏人物の死去などが記される。
足利義持が従二位となる
応永七年正月、将軍足利義持は従二位へ昇進した。
写本・活字本は、この昇進記事で一致する。
ただし、正確な叙位日、儀式、参内者などは、今回の準翻刻では確定していない。
義持の将軍としての官位が、応永の乱後も高められていったことを示す記事として扱う。
伊勢神宮外宮の遷宮
2月28日、伊勢神宮の外宮で遷宮が行われた。
遷宮とは、神体を新しい社殿などへ移す儀礼である。
ただし、今回の写本記事からは、造営の経過、儀式の参加者、費用などは確認できない。
2月28日の外宮遷宮を、編年上の寺社記事として保存する。
足利満兼が鎌倉へ戻る
関東では、足利満兼が足利庄から鎌倉へ戻った。
写本では、帰還日を3月5日と読める。
明治期活字本も同日付付近に対応する記事を置きますが、写本の数字字形には再確認が必要です。
そのため、公開用仮本文では「3月5日と読める」とし、完全確定の日付とはしない。
足利庄からの帰還
満兼は、足利庄から鎌倉へ帰ったと記される。
しかし、なぜ足利庄にいたのか、いつ鎌倉を離れたのか、軍勢を伴っていたのかは、この範囲からは分からない。
前節には満兼が幕府へ反乱するという噂があったものの、事実ではなかったとする記事があった。
今回の帰還記事は、京都と鎌倉府との対立が大規模な戦争へ進まなかったことと関係すると整理できる。
ただし、満兼が応永の乱で具体的にどの立場を取ったのかは、今回の写本だけから断定しない。
上杉禅助が和睦を勧める
満兼の鎌倉帰還には、上杉禅助と読まれる人物が関係した。
写本は、京都との和睦を行うべきだと、禅助が繰り返し申し入れたため、満兼が鎌倉へ帰ったと記す。
しかし、「禅助」が法名・通称のどちらか、上杉氏のどの人物を指すかは確定していない。
そのため、「上杉禅助と読まれる人物が、京都との和睦を強く勧めた」と限定して示す。
京都と鎌倉府の戦争が避けられる
京都の幕府と鎌倉府が武力衝突すれば、東国と西国の多数の武士を巻き込む大規模な戦争になる危険があった。
写本は、上杉禅助の勧めによって満兼が鎌倉へ戻り、和睦の方向へ進んだと説明している。
ただし、正式な和睦条件・使者・書状・誓約などは、現在の準翻刻には記されていない。
本ページでは、満兼の帰還によって、京都と鎌倉府の軍事衝突がひとまず避けられたという流れとして説明する。
斯波左京大夫の記事
応永七年9月8日には、斯波左京大夫に関係する記事が置かれる。
実名は「持□」としか読めず、末字を確定できていない。
死去を表す動詞とみられ、法名は「法英」または「法英院」と読める可能性がある。
しかし、実名・死亡記事・院号の有無を確定できない。
そのため、「斯波左京大夫持□の死去と法名に関する記事」として、判読保留に残す。
奥州宇都宮氏の記事へ続く
part-3の末尾は、奥州で宇都宮氏を退治したとみられる記事へ続く。
しかし、対象となる宇都宮氏人物、討伐した側、地域名を、このpartだけでは確定できない。
次のpart-4冒頭と通読することで、奥州の人名・地名へ続くことは確認できるが、人物境界には問題が残る。
このため、奥州宇都宮氏の具体的記事は、次の第3節で扱う。
この節が示す三つの結果
応永の乱とその直後の記事から、次の三つの結果が読み取れる。
- 大内義弘の敗北:巨大な軍事力を持った有力守護が幕府軍に敗れた
- 堺の被害:武将同士の戦いが市街地の焼失へ拡大した
- 京都と鎌倉府の和睦:満兼の鎌倉帰還によって、さらなる大戦争が避けられた
義満は応永の乱に勝利して守護への統制を強めましたが、その代償として堺の町は大きな被害を受けました。
また、応永の乱が終わった後も、関東・奥州などの地域問題は続いていました。
次の第3節では、内裏火災、明国書の「日本国王源道義」、伊達政宗の反抗、北畠氏、新田氏残党、琉球船の六浦来航へ進みます。
流れが分かる現代語訳
大内義弘は、和泉国の堺へ入り、そこに城を築いた。
和泉・紀伊・九州・中国地方などから多くの軍勢が集まり、堺城は兵で満ちた。
南方兵衛正秀と記される人物は二百余騎を率いて大内方へ加わった。
赤松氏・土岐氏・池田氏・山名氏に関係するとみられる武士も義弘へ味方したが、人名の区切りはまだ完全には読めていない。
足利義満は、絶海和尚を義弘のもとへ送り、反抗をやめるよう説得した。
しかし、義弘は従わなかった。
義満は幕府方の有力武将を集めた。
幕府軍は三万余騎に達したと記される。
義弘は堺城に矢倉や見張り台を築き、幕府軍の攻撃へ備えた。
11月29日、幕府軍は堺城を攻撃した。
戦いは早朝から夜中まで続いたが、両軍とも力を使い果たし、この日は決着がつかなかった。
北畠満泰と読まれる人物は、この戦いで討死した。
また、堺だけでなく、美濃・丹波・近江などでも、大内方と幕府方に関係する戦いが起こった。
12月14日、幕府軍は堺城の四方へ火を放ち、一斉に攻め込んだ。
大内義弘は長刀を振るって敵陣へ突入した。
義弘は畠山満家と戦い、ついに討死した。
畠山満家は義弘の首を取った。
義弘の子・持盛は降参し、楠木勢・菊池氏は敗走した。
戦いの火は堺城から町へ燃え広がった。
手書き写本は、
堺一万軒、一宇も残らず焼失した
と記す。
明治期活字本は「一万軒」ではなく「一万間」と記している。
どちらも、堺の町がほとんど焼き尽くされたことを伝えている。
応永の乱は、義満と大内義弘という有力者の戦いだった。
しかし、戦場となった堺では、多くの家や建物が焼け、町の人々も大きな被害を受けた。
戦後、畠山基国には河内・紀伊、細川頼元には摂津・和泉が与えられた。
大内義弘のような有力守護を破ったことで、足利義満の力はさらに強まった。
翌1400年、足利義持は従二位へ昇進した。
関東の足利満兼は、上杉禅助と読まれる人物から京都との和睦を勧められ、足利庄から鎌倉へ戻った。
帰還日は3月5日と読めるが、数字の字形には再確認が必要である。
京都と鎌倉府との大きな戦争は、ひとまず避けられた。
文章は、斯波左京大夫の記事と、奥州の宇都宮氏に関係する次の出来事へ続く。
人物・用語・史料注記
応永の乱
大内義弘と、足利義満を中心とする室町幕府方との戦いを示す一般的な事件名です。写本にこの節名が付けられているわけではありません。
大内義弘
中国・九州などに大きな勢力を持った有力守護です。前節では九州蜂起を幕府方として鎮圧しましたが、この節では堺へ籠もり、幕府軍と戦って討死します。
絶海和尚
義満から大内義弘のもとへ派遣され、反抗をやめるよう説得した僧侶です。伝えた条件・書状・義弘の回答全文は、この写本範囲では確認できません。
南方兵衛正秀
二百余騎を率いて大内方へ加わった人物として記されます。「南方」が名字・地域・南朝方のいずれを意味するかは未確定です。
幕府軍三万余騎
堺へ向かった幕府軍の兵数として写本・活字本が記す数字です。史料上の表現として掲載しますが、現代的な正確な実数とは断定しません。
堺城
大内義弘が堺に構え、矢倉・井楼を築いて守った軍事拠点です。城の正確な範囲・構造・市街地との境界は未確定です。
北畠満泰
11月29日の戦いで討死したと記される人物です。「源左少将」の官職を含め、人物名は活字本による補読を含みます。
長森城
美濃方面で敗れた土岐詮直が立て籠もったと読まれる城です。正式な字形・現在地・攻防の経過は別途確認が必要です。
畠山満家
12月14日の総攻撃で大内義弘と戦い、義弘の首を取ったと記される幕府方の武将です。直接の討ち手と首取得者の関係には解釈上の注意が必要です。
大内持盛
写本で新介持盛と記される義弘の子です。義弘の討死後、幕府方へ降参しました。降参条件・その後の処遇は未確定です。
堺一万軒/一万間
堺市街の焼失規模を示す重要異同です。写本は「一万軒」、活字本は「一万間」と記します。どちらかへ統一せず、両本文を保存します。
上杉禅助
足利満兼へ京都との和睦を勧めたと記される人物です。「禅助」が法名・通称のどちらか、上杉氏のどの人物かは未確定です。
斯波左京大夫
応永七年9月8日の記事に現れる人物です。実名末字、死去を表す動詞、法名「法英/法英院」の院号の有無は確定していません。
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史料情報
- 手書き写本:第4冊 part-3、全3ページ
- 対象年代:応永六年~応永七年(1399~1400年)
- 内容区分:編年本文・応永の乱
- 明治期活字本:PDF第20左~21右画像・印刷39~40ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 判読保留:8項目
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前part末尾の大内義弘堺入り記事から続く。
青蓮院門跡〔尊道か〕法親王の坊官・伊予法眼、召されるも事情ありとして参らず。
法親王名、坊官との関係、召した主体は未確定。
和泉・紀伊・筑紫・中国の勢、堺城に充満す。
南方兵衛正秀、二百余騎を率いて大内へ加勢す。
赤松池田前守兼朝・土岐宮内少輔詮直・池田または油田周防守秋政・山名氏一族等、大内方へ加わるとみらる。
ただし名字・官職・実名の区切り未確定。
足利義満、絶海和尚を遣わして義弘を宥むるも、大内従わず。
十一月八日、前将軍義満、諸軍を率いて東寺へ入る。
同十四日、八幡へ陣を進む。
畠山基国・斯波義将・細川頼元・山名・京極・赤松・吉良・石堂・武田・小笠原・富樫・河野等の幕府方諸将、泉州へ発向す。
その兵、三万余騎。
義弘、堺城を構え、矢倉・井楼を築きてこれを防ぐ。
十一月二十九日、諸軍、堺城を攻む。
卯の刻より夜半に至るまで力戦し、両軍力尽きて退く。
北畠源左少将満泰と読まれる人物、討死す。
土岐宮内少輔詮直・池田周防守秋政等、大内方へ与力す。
土岐美濃守頼益と読まれる人物これを攻め、詮直敗軍して長森城へ立て籠もる。
十二月七日、矢田庄に合戦あり。
富永資員・資貞等と読まれる人物、山名勢と戦う。ただし討死者・主語未確定。
同日、山名満氏、藤野・高田以下を率いて丹波八田庄より発向す。
佐々木小原勢と合戦す。
宮上野守・今川・名古屋三郎・勝間田遠江守等と読まれる人物あり。ただし所属・討死者未確定。
京極秀満と読まれる人物ら近江方面へ発向し、三井寺衆徒に防がれて敗軍すとみらる。
十二月十四日、幕府軍、四方より火を放ち、堺城へ攻め入る。
大内義弘、力戦し、長刀を揮いて敵陣へ馳せ入る。
義弘、畠山尾張守満家と戦い、討死す。
森民部丞・杉備中守等、戦死す。
畠山満家、義弘の首を取る。
義弘の子息・新介持盛、降参す。
楠木勢、敗走す。
暁天に及び、矢倉の火、堺中へ移る。
堺一万軒、一宇も残らず焼失す。
菊池肥前守、敗れて九州へ走る。
戦後、畠山基国に河内・紀伊両国、細川頼元に摂津・和泉両国を給う。
大内方残党の処分に関する数行あり。ただし主語・人物未確定。
応永七年。
春正月、将軍足利義持、従二位に叙せらる。
二月二十八日、伊勢外宮遷宮。
三月五日と読める日、足利満兼、足利庄より鎌倉へ帰る。
上杉禅助と読まれる人物、京都との和睦を頻りに勧める。
九月八日、斯波左京大夫持□に関する死去記事あり。
法名、法英または法英院と読める可能性あり。
末尾は奥州宇都宮氏の討伐記事へ続く。
校訂本文――公開用仮本文
応永六年。
前partの大内義弘堺入りより続く。
青蓮院門跡の法親王ならびに坊官伊予法眼に関する記事あり。ただし人物名・構文未確定。
和泉・紀伊・筑紫・中国の軍勢、堺城に集まる。
南方兵衛正秀、二百余騎を率いて大内義弘へ加勢す。
赤松・土岐・池田・山名氏関係者と読まるる人々、大内方へ加わる。ただし人名区切り未確定。
足利義満、絶海和尚を遣わして義弘を説得するも、義弘従わず。
十一月八日、義満、諸軍を率いて東寺へ入る。
十一月十四日、八幡へ陣を進む。
幕府方諸将、三万余騎を率いて泉州へ発向す。
義弘、堺城へ矢倉・井楼を築き、防戦す。
十一月二十九日、幕府軍、堺城を攻む。
卯刻より夜半まで戦い、両軍力尽きて退く。
北畠満泰と読まるる人物、討死す。
大内方の土岐詮直ら、美濃方面において戦い、敗れて長森城へ籠もる。
十二月七日前後、矢田庄・八田庄・近江方面等において合戦あり。
人名・地名・戦闘主体、なお未確定。
十二月十四日、幕府軍、堺城の四方へ火を放ち、総攻撃す。
大内義弘、長刀を揮い、敵陣へ入り、畠山満家と戦う。
義弘、討死す。
畠山満家、義弘の首を取る。
義弘の子・持盛、降参す。
楠木勢・菊池氏関係者、敗走す。
矢倉の火、堺市中へ燃え移る。
写本は「堺一万軒、一宇も残らず焼失」と記す。
活字本は「堺一万間、一宇不残」と記す。
戦後、畠山基国に河内・紀伊、細川頼元に摂津・和泉を与う。
大内方残党処分に関する未読記事あり。
応永七年。
春正月、足利義持、従二位に叙せらる。
二月二十八日、伊勢外宮遷宮。
三月五日と読まるる日、足利満兼、足利庄より鎌倉へ帰る。
上杉禅助と読まるる人物、京都との和睦を勧む。
九月八日、斯波左京大夫持□、卒すとみらる。
法名、法英または法英院と読まる。ただし未確定。
〔奥州宇都宮氏、内裏火災、義満の対明外交へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第20左~21右画像・印刷39~40ページ付近には、大内義弘の堺籠城、絶海和尚による説得、幕府軍三万余騎、十一月二十九日の攻撃、各地の戦い、十二月十四日の総攻撃、義弘討死、堺焼失、戦後恩賞、義持昇進、満兼帰還に対応する記事があります。
写本と活字本は、事件の順序・主要人物・戦闘経過について全体的によく一致します。
義弘への説得、南方兵衛正秀の二百余騎、幕府軍三万余騎、矢倉・井楼、十一月二十九日の長時間戦闘、十二月十四日の総攻撃、畠山満家による首取得、持盛の降参は一致します。
写本は、義弘が長刀を振るって敵陣へ入り、畠山満家と戦って討死する場面を、活字本より物語的な和文で記します。
幕府方・大内方の武将について、活字本は人名を漢字で列記するため補読に有効ですが、活字本の区切りを無条件に写本本文へ採用しません。
堺焼失について、写本は「堺一万軒」、活字本は「堺一万間」と記します。
戦後恩賞は、畠山基国に河内・紀伊、細川頼元に摂津・和泉で一致します。
満兼の鎌倉帰還日は写本で三月五日と読め、活字本にも同日付付近の記事がありますが、写本数字の再確認が必要です。
part末尾の斯波左京大夫記事は写本PDF内で途中となり、活字本は法名と奥州関係記事へ続きます。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 義弘への説得 | 絶海和尚を遣わして宥めた経過を和文で説明 | 同じ内容を漢文調で記す | 内容一致。写本の説明的な文章を優先する |
| 大内方武将 | 仮名交じりで名字・官職・実名の区切りが難しい | 多数の人名を漢字で列記 | 活字本による補読を明示し、確定一覧とはしない |
| 幕府軍 | 幕府方諸将と三万余騎を記す | 同じ武将名・兵数を記す | 三万余騎を一致本文として採用する |
| 十一月二十九日の戦い | 卯刻から夜半まで力戦し、両軍退く | 同じ | 一致本文として採用する |
| 義弘の最期 | 長刀を振るい敵陣へ入り、畠山満家と戦って死ぬ | 同内容を漢文調に圧縮 | 写本の物語性を保ち、細かな戦闘姿勢は断定しない |
| 義弘の首 | 畠山満家が取る | 満家得其首 | 一致本文として採用する |
| 堺焼失 | 堺一万軒、一宇も残らず | 堺一万間、一宇不残 | 最重要の助数詞異同として両方を併記する |
| 戦後恩賞 | 畠山=河内・紀伊、細川=摂津・和泉 | 同じ | 一致する大筋を採用する |
| 満兼の鎌倉帰還 | 三月五日と読める | 同日付付近 | 数字字形の再確認まで暫定日付とする |
| part末尾 | 斯波左京大夫の記事途中で終了 | 法名・奥州記事へ続く | PDF分割による中断として次節へ接続する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 青蓮院門跡関係者 | 尊道法親王・伊予法眼 | 法親王名、坊官との関係、召した主体、参上しなかった理由が不明瞭 | 低~中 |
| 大内方武将 | 赤松池田前守兼朝・土岐詮直・池田秋政・山名氏一族等 | 名字・官職・実名の区切りを活字本による補読へ依存している | 低 |
| 十二月七日前後の合戦 | 矢田庄・八田庄・小原勢等 | 人名・地名・所属・討死者・戦闘主体が密集している | 低 |
| 戦後残党処分 | 大内方残党に関する数行 | 主語・処分対象・降参者・処刑者を確定できない | 低 |
| 満兼の鎌倉帰還日 | 三月五日 | 数字の字形と活字本の記事位置を再確認する必要がある | 中 |
| 和睦を勧めた人物 | 上杉禅助 | 法名・通称・上杉氏内での人物比定が未確定 | 低~中 |
| 斯波左京大夫の記事 | 持□・法英〔院か〕 | 実名末字、死去の動詞、院号の有無を確定できない | 低 |
| part末尾 | 奥州宇都宮氏を退治 | 対象人物・地域・討伐主体が次partへ続き、この範囲だけでは確定できない | 中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第4冊part-3の全3ページを、応永の乱と応永七年の記事を含む一つの範囲として確認した。
- 前part末尾の大内義弘堺入り記事と、part-3冒頭を通読した。
- 青蓮院門跡の法親王名を尊道と補読する可能性を残したが、確定人名とはしなかった。
- 伊予法眼を坊官と読んだが、召した主体・不参理由を推測しなかった。
- 和泉・紀伊・筑紫・中国勢が堺へ集結したという写本の地域列挙を保存した。
- 南方兵衛正秀の二百余騎を、写本・活字本の一致する人数として採用した。
- 赤松池田前守兼朝・土岐詮直・池田秋政・山名氏関係者は、活字本による補読を含む暫定人名とした。
- 「南方」を名字・地域・旧南朝方の一つへ断定しなかった。
- 絶海和尚による説得と義弘の拒否を、写本・活字本の一致する大筋として採用した。
- 説得条件・書状・義弘の回答を推測で補わなかった。
- 十一月八日の義満東寺入り、十四日の八幡進陣を記事順に整理した。
- 幕府方諸将の人名は、活字本を補助に使用したが、確定一覧とはしなかった。
- 幕府軍三万余騎を一致本文として採用したが、現代的な正確な実数とは断定しなかった。
- 堺城の矢倉・井楼を確認したが、城の構造・範囲・矢倉数を補わなかった。
- 十一月二十九日の戦いが卯刻から夜半まで続き、両軍が退いたことを一致本文として採用した。
- 北畠満泰の討死を確認したが、官職・人物名は活字本補読を含むことを明示した。
- 土岐詮直の長森城籠城を暫定的に採用し、城の現在地へ比定しなかった。
- 十二月七日の矢田庄・八田庄・近江方面の合戦は、人名・所属・勝敗を確定しなかった。
- 富永氏・山名満氏・藤野・高田・宮・今川・名古屋・勝間田・京極等の人名群を、活字本補読による暫定読みとして保存した。
- 十二月十四日を堺城総攻撃日として、写本・活字本の一致本文を採用した。
- 義弘が長刀を振るって敵陣へ入ったという写本の物語的な記述を保存した。
- 長刀/薙刀の表記差の可能性を残した。
- 義弘が畠山満家と戦って討死したことを採用したが、一騎討ちのような具体的構図へ固定しなかった。
- 森民部丞・杉備中守の実名を推測で補わなかった。
- 畠山満家が義弘の首を取ったことを、写本・活字本の一致本文として採用した。
- 新介持盛の降参を採用したが、降参条件・処遇を補わなかった。
- 楠木勢・菊池氏の敗走を採用したが、指揮者・人数・逃走経路を確定しなかった。
- 堺焼失について、写本「一万軒」/活字本「一万間」を、最重要の一字・助数詞異同として保存した。
- 堺の住民被害・死傷者・復興過程を、資料にない情報で補わなかった。
- 戦後残党処分の数行は、主語・処分対象が不明なため未読として残した。
- 畠山基国への河内・紀伊、細川頼元への摂津・和泉の配分を、写本・活字本の一致する大筋として採用した。
- 領国配分を具体的な全所領支配と断定しなかった。
- 応永七年の義持従二位・伊勢外宮遷宮を記事順に整理した。
- 満兼の鎌倉帰還日を三月五日と暫定的に保持した。
- 上杉禅助が京都との和睦を勧めたという記事を採用したが、人物を特定しなかった。
- 京都・鎌倉府間の正式な和睦条件を推測しなかった。
- 斯波左京大夫の実名末字・死去動詞・法名の院号を確定しなかった。
- 次part冒頭との接続を確認し、奥州宇都宮氏の具体的記事は次節へ送った。
3.義満の対明外交――伊達政宗の反抗と琉球船来航
対象年代:応永8~12年(1401~1405年)
対応史料:管理No.36・手書き写本第4冊part-4(全3ページ)/明治期活字本PDF第21画像(印刷40~41頁付近)
公開状態:第一次判読・第一次校訂
前partから続く奥州宇都宮氏の記事、後の称光天皇となる皇子の諱、七月の異常現象、伊達政宗の和歌、新田氏残党の人物名、相国寺塔雷火の日付、応永十一年の北畠氏系譜、春日神木・管領関係の記事には未確定箇所があります。
明国書にある「日本国王源道義」と、琉球船の六浦来航・船中の音楽は、写本と明治期活字本で一致する重要記事として扱います。
この節の概要
前節末尾では、応永の乱後の斯波左京大夫に関係する記事と、奥州で宇都宮氏を討つ記事が途中で切れていた。本節冒頭はその続きから始まり、その後、応永8年以後の内裏火災、対明外交、奥州情勢へ移る。ただし、斯波氏・宇都宮氏の記事は人名と行動主体が未確定であるため、推測では補わない。
この節は、前節末尾の奥州宇都宮氏に関係する討伐記事から始まります。討ち取られた者の首が鎌倉へ送られ、侍所で実検されたと読めますが、人物名・地名の区切りは確定していません。
応永八年二月二十八日、京都の内裏が火災で焼け、天皇は准后の邸宅へ移りました。
この年、足利義満は明国の皇帝へ「金三万」と記される贈り物を送りました。足利義持は権大納言となり、三月二十九日には、後に称光天皇となる皇子が誕生しました。ただし、皇子の諱は写本では確定していません。
応永九年、明の建文帝から書状が届きました。宛名は「日本国王源道義」でした。「源道義」は、源氏である足利義満を指すと整理されています。
同じ年、鎌倉公方足利満兼は弟の満貞を奥州へ派遣しました。これに対して伊達政宗が反抗し、鎌倉府は上杉氏憲を送ります。
五月二十一日の赤館合戦では、最初に派遣された上杉軍が敗れました。その後、鎌倉から追加の軍勢が送られ、今度は伊達方が敗れ、九月五日に政宗は降参しました。
政宗が「山家の雪」を題とする和歌を献上したとみられる記事もありますが、写本では歌の本文を確認できていません。
同年十月には、伊勢国司北畠顕泰が亡くなり、満雅が伊勢国司を継いだと記されます。
応永十年、義満は二度目と記される遣明使を送りました。同じころ、新田氏の一族が相模国箱根山中へ潜伏していたことが発覚し、鎌倉府の命令によって処刑されたとみられます。
六月には相国寺の塔へ雷が落ちて火災が起こりました。ただし、その日は六月二十三日・二十五日・二十六日のいずれとも読め、確定していません。
七月、渋川満頼が九州探題となり、九州へ向かいました。
さらに、琉球国の船が鎌倉に近い六浦へ流れ着きました。写本は、船の中から音楽の声が聞こえたと記しています。
応永十一年には、義満が再び明国へ使者を送りました。北畠俊泰・顕泰・満雅の家督・親子・養子関係に関する記事も置かれていますが、構文は難読です。
秋七月には、山名持豊が生まれました。写本は時熙の子と記します。
応永十二年、北畠俊泰は従三位へ昇進し、帯剣を許されました。六月九日には洪水が起こり、祇園社の鳥居も倒れました。
その後、斯波義重が「三管領」となったと読める記事と、上杉憲定が関東管領となった記事が置かれます。斯波義重の記事は、管領就任を示すとみられますが、「三管領」という写本表現には注意が必要です。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読・準翻刻をもとに、写本の記事順と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
奥州宇都宮氏の記事から続く
前節の末尾では、斯波左京大夫の死去・法名とみられる記事の後、奥州の宇都宮氏に関係する文章へ移っていた。
このpartの冒頭と続けて読むと、奥州で宇都宮氏関係者とみられる人物を討ち、その首を鎌倉へ送ったと読める。
首は鎌倉の侍所で実検された。
しかし、「宇都宮」に続く文字は、人名・地名・複数人物の列挙のいずれとも判断しにくい。
作業記録では「広子」「公島」などの可能性も示されていますが、確定していません。
そのため、「奥州で宇都宮氏関係者とみられる者が討たれ、その首が鎌倉で実検された」という範囲を本文とします。
応永八年・内裏が焼ける
応永八年二月二十八日、京都の内裏が火災で焼けました。
内裏は天皇が政務や儀式を行い、生活する宮殿です。
写本は「内裏炎上」と記し、明治期活字本も同じ内容を記します。
ただし、出火場所、原因、焼失した殿舎、死傷者などは、この写本範囲からは確認できません。
天皇が准后の邸宅へ移る
内裏が焼けたため、天皇は准后の邸宅へ移りました。
写本は「帝、准后第へ遷幸す」と読める内容を和文で記します。
明治期活字本も、「帝遷幸准后第」と記し、大筋は一致します。
ただし、「准后」が具体的に誰を指し、どの邸宅へ移ったのかは、この第一次判読では確定していません。
そのため、特定の邸宅名を補わず、「准后の邸宅へ避難した」とします。
北野経堂・地蔵送り・大雪
同じ春には、北野に経堂を造ったとみられる記事があります。
また、地蔵送りと読まれる行事が行われ、大雪が降ったことも記されています。
しかし、経堂の造営者・完成日・建物規模、地蔵送りの主催者と行列、大雪の積雪量・被害は確認できません。
そのため、寺社行事・造営・気象記事が同じ年の出来事として置かれていることを示します。
義満が明国の皇帝へ「金三万」を贈る
北山殿足利義満は、明国の皇帝へ「金三万」と記される贈り物を送りました。
写本と活字本は、義満が大明帝へ金三万を贈ったという点でほぼ一致します。
ただし、「金三万」の単位・品目・実際の価値を、この写本だけから確定することはできません。
現代の金額へ換算せず、史料上の表現を保存します。
足利義持が権大納言となる
三月、将軍足利義持は権大納言に任じられました。
義持は将軍職だけでなく、朝廷の高い官職も得ていきました。
ただし、任官の儀式・宣旨・参列者などは、今回の写本には記されていません。
後の称光天皇となる皇子が生まれる
三月二十九日、皇子が誕生しました。
写本は、この皇子が後の称光院であると明記します。
しかし、諱の文字は不明瞭です。
第一次判読では「実仁親王」と補読する可能性が示されていますが、確定した写本本文とはしません。
そのため、「後の称光天皇となる皇子」として本文に示し、諱は判読保留にします。
日吉社八講
五月には、日吉社で八講が行われたと記されます。
しかし、法会の正式名称・主催者・参加者・実施日などは、現在の準翻刻では確定していません。
本ページでは、日吉社における仏教法会の記事として扱います。
洪水と「玉落ちて大鳴す」
秋七月には洪水が起こりました。
さらに、「玉落ちて大鳴す」と暫定的に読まれる異常現象の記事があります。
「玉」の字自体に異読があり、何が落ち、何が大きな音を立てたのか分かりません。
明治期活字本にも同様に意味を取りにくい語句があります。
そのため、雷・隕石・建物の倒壊などの特定現象へ置き換えず、「洪水と難解な異常現象が記される」とします。
応永九年・義持が正二位となる
応永九年正月五日、源義持は正二位に叙せられました。
義持の位階がさらに高くなったことを示す記事です。
ただし、写本は任官事実を簡潔に記すだけで、儀式の詳細は記していません。
明の建文帝から書状が届く
二月、明の建文帝から日本へ書状が届きました。
その宛名は、
日本国王源道義
でした。
この表記は手書き写本と明治期活字本で一致し、比較的明瞭です。
「源道義」と足利義満
「源」は足利氏が源氏であることに関係し、「道義」は出家後の足利義満を指す名として整理されています。
明国は、外交文書の宛先として義満を「日本国王」と呼びました。
ただし、この節では、明国書の到着と宛名を中心に扱います。
「日本国王」号に対する写本の詳しい批評は、次の第4節で扱います。
この年は大旱となる
応永九年の夏には、大旱があったと記されます。
ただし、旱魃の範囲・作物被害・米価・死者・救済策は確認できません。
そのため、義満の対明外交と同じ年に大旱が記録されたことを示すにとどめます。
足利満貞が奥州へ向かう
鎌倉公方足利満兼は、弟の満貞を奥州へ派遣しました。
満貞は「奥州管領」として、篠川城または篠川殿と呼ばれる拠点へ下向したと記されます。
ただし、この「奥州管領」という呼称の制度上の意味と、篠川の拠点の正式な呼称には注意が必要です。
本ページでは、満兼の弟満貞が奥州支配のため篠川へ派遣されたという大筋を示します。
伊達政宗が満貞へ反抗する
奥州の住人である伊達大膳大夫政宗入道は、篠川の満貞に対して反抗しました。
写本は「逆意あり」と記し、政宗が鎌倉府の支配へ従わなかったことを示します。
ただし、対立の具体的な原因・要求・所領問題は、今回の写本範囲では説明されていません。
上杉氏憲が派遣される
鎌倉府は、伊達政宗を討つため、上杉右衛門佐氏憲を奥州へ送りました。
人物名は明治期活字本によって補強されています。
ただし、軍勢数・同行者・進軍経路は確認できません。
五月二十一日の赤館合戦
五月二十一日、奥州の赤館で合戦が行われました。
「赤館」は「赤舘」などの表記も考えられます。
この戦いでは、最初に派遣された上杉軍が敗れました。
ただし、戦場の現在地、両軍の人数、討死者、敗走経路は確定していません。
鎌倉から追加の軍勢が送られる
赤館合戦で上杉軍が敗れると、鎌倉から再び軍勢が送られました。
次の戦いでは伊達方が敗れました。
しかし、追加軍の大将・参加武将・合戦場は、現在の準翻刻では確定していません。
九月五日に伊達政宗が降参する
九月五日、伊達政宗は降参しました。
この日付と降参記事は、写本と活字本で一致します。
ただし、降参した相手、場所、条件、所領の処遇は、この範囲では確認できません。
そのため、九月五日の降参を確定部分とし、条件は補いません。
伊達政宗の和歌
政宗の降参記事の後には、政宗が「山家の雪」を題とする和歌を献上したとみられる注記があります。
明治期活字本には割注がありますが、手書き写本では歌の本文を確認できません。
そのため、歌を推測で復元せず、「和歌献上記事がある可能性」のみを示します。
明国から僧の使者が来る
九月、明国から僧の使者が来たと記されます。
しかし、僧の名、人数、持参した書状、到着地、面会相手は、今回の準翻刻では確定していません。
本ページでは、「明使僧が来た」という範囲を本文とします。
冬の地震
冬には地震が起こりました。
発生日・震源・被害地域・建物被害などは記されていないか、現在は確認できません。
そのため、同年の自然災害記事として保存します。
北畠顕泰が亡くなる
十月、伊勢国司北畠顕泰が亡くなりました。
実名は明治期活字本によって補強されています。
死去の日・享年・法名・葬所は、この写本範囲では確定していません。
北畠満雅が伊勢国司を継ぐ
顕泰の死後、満雅が伊勢国司となりました。
写本と活字本は、顕泰の死後に満雅が継承したという大筋で一致します。
ただし、後の応永十一年の記事では、俊泰・顕泰・満雅の親子・養子関係が複雑に説明されます。
そのため、この時点では「満雅が伊勢国司となった」とし、系譜関係の詳細は保留します。
応永十年・義満が二度目の遣明使を送る
応永十年三月、足利義満は再び明国へ使者を送りました。
写本は「二度」と記し、明治期活字本も同じ趣旨を記します。
ただし、「二度」が義満の遣使全体の何回目を数えるのか、使者の名、船、書状、贈り物は、この写本範囲からは確定できません。
そのため、「二度目と記される遣明使」とします。
義満が石清水八幡宮へ参詣する
同じ三月、義満は石清水八幡宮へ参詣しました。
参詣の日、同行者、祈願内容、儀式の詳細は確認できません。
遣明使の記事と同じ月に置かれていますが、両者が直接関係するとは断定しません。
新田氏の一族が箱根山中へ潜伏する
四月二十五日、新田氏の一族とみられる人物が、相模国箱根山中へ潜伏していたことが発覚しました。
人物名は「義治」「義隆」など複数の読みが考えられ、確定していません。
潜伏先は、木賀彦六と読まれる人物の住所とされています。
しかし、「木賀」が地名か名字か、彦六の実名・立場も不明です。
鎌倉府が新田氏残党を処分する
新田氏の人物が潜伏しているという知らせを受け、足利満兼は安東某と読まれる人物へ処分を命じました。
その人物は鎌倉で討たれたとみられます。
ただし、討伐者の名の後半、捕縛の場所、鎌倉までの移送、処刑方法は確定していません。
南北朝合一後も、新田氏など旧反幕府勢力への警戒が続いていたことを示す記事として整理します。
相国寺塔へ雷が落ちる
六月、相国寺の塔へ雷が落ち、火災が起こりました。
ただし、日付の数字が崩れています。
六月二十三日、二十五日、二十六日のいずれとも読む可能性があります。
明治期活字本の数字も拡大して再確認する必要があります。
そのため、主本文では六月とだけ示し、具体日を確定しません。
渋川満頼が九州探題となる
秋七月、渋川左近将監満頼が九州探題となり、九州へ向かいました。
人物名は明治期活字本によって補読しています。
ただし、任命日・同行者・進軍経路・九州での具体的な任務は、この範囲では確認できません。
琉球国の船が六浦へ来る
琉球国の船が、六浦へ流れ着きました。
「六浦」は写本では「むつうら」と仮名書きされ、地名として比較的確実に読めます。
六浦は鎌倉に近い港として記事に現れます。
ただし、船が意図して来航したのか、風や潮によって漂着したのかは、「流れ来る」という表現からだけでは完全に判断できません。
船中から音楽が聞こえる
写本は、琉球船の中から音楽の声が聞こえたと記します。
明治期活字本にも、「船中に音楽の声あり」という同趣旨の記事があります。
ただし、どの楽器を使い、誰が演奏し、どのような音楽だったのかは記されていません。
そのため、「船中から音楽が聞こえた」という写本・活字本の一致内容を保存します。
京都・奥州・九州・琉球を結ぶ記事
この節では、京都の義満による対明外交、奥州での鎌倉府と伊達氏の戦い、九州探題の派遣、琉球船の六浦来航が続けて記されています。
『南方紀伝』が、京都の政治だけでなく、奥州・九州・琉球を含む広い地域の出来事を同じ年代の中へ収めていることが分かります。
ただし、これらすべてが一つの政策や事件によって直接結びついていたと断定することはできません。
応永十一年正月の異常記事
応永十一年正月には、下野・那須に関係するとみられる異常現象の記事があります。
しかし、大部分が判読できず、何が起きたのかを確定できません。
地震・気象・天文・動物など、一般的な異変記事から内容を推測することはしません。
原文資料欄に「応永十一年正月、下野・那須関係とみられる未読記事」として保存します。
義満が再び明国へ使者を送る
この年の春、義満は再び明国へ使者を送りました。
使者名・船・書状・贈答品・出発地は、この写本範囲では確定していません。
応永十年の記事と同様、義満が継続して明国との外交を進めていたことを示す記事として扱います。
北畠俊泰の官位記事
三月十七日には、北畠俊泰に関係する官位・任官の記事があります。
土佐守などの官職に見える語がありますが、語順と係り方は未確定です。
そのため、応永十一年に北畠俊泰の官位・家督に関係する記事が置かれていることだけを示します。
北畠氏の親子・養子関係
北畠俊泰・顕泰・満雅の親子・家督・養子関係を説明する文章が続きます。
顕泰の次男を養い、満雅と号したと読める可能性があります。
しかし、誰が誰を養子とし、家督を誰から誰へ伝えたのか、助詞と主語を確定できていません。
活字本には漢文と割注がありますが、写本の系譜関係を無条件に置き換えることはしません。
そのため、「北畠氏の親子・養子関係を記すが、逐字未確定」とします。
山名持豊が生まれる
秋七月、山名持豊が生まれました。
写本は、持豊を時熙の子と記します。
明治期活字本も同じ内容を記します。
ただし、誕生した具体的な日は記されていません。
持豊は後に出家して宗全と呼ばれる人物ですが、この節では誕生記事までを扱います。
応永十二年・北畠俊泰が従三位となる
応永十二年正月六日、北畠俊泰は従三位に叙せられました。
この日付と昇進記事は、写本と明治期活字本で一致します。
ただし、前の年の北畠氏系譜記事との関係を含め、人物の家督・官職全体は再校訂が必要です。
帯剣を許される
四月二十六日、北畠俊泰は帯剣を許されたと記されます。
写本・活字本は、この日付と内容で一致します。
ただし、儀式・宣旨・参内時の具体的な作法は、この範囲には記されていません。
春日神木の記事
五月二十二日には、春日神木に関係する記事があります。
しかし、神木が移されたのか、京都へ入ったのか、元の場所へ戻ったのかを確定できません。
そのため、具体的な移動・儀礼を補わず、「春日神木に関する記事」として判読保留にします。
六月九日の洪水
六月九日、洪水が起こりました。
この日付は写本と活字本で一致します。
しかし、洪水の地域・川・浸水範囲・死傷者・建物被害は確認できません。
そのため、六月九日の洪水を史料上の一致記事として保存します。
祇園社の鳥居が倒れる
洪水のころ、祇園社の鳥居が倒れました。
六月の記事であることは分かりますが、具体的な日は記されていないか、判読できません。
写本・活字本とも、洪水と鳥居倒壊を同じ時期の記事として記します。
斯波義重が「三管領」となる
斯波義重が「三管領」となったと読める記事があります。
明治期活字本は、「斯波義重、京において三管領となる」と読める表現を記します。
具体的には幕府の管領へ就任したことを示すと考えられますが、「三管領」の制度的意味と語法には注意が必要です。
そのため、「斯波義重が管領となったとみられる」とし、写本の「三管領」という表現も史料欄へ保存します。
上杉憲定が関東管領となる
上杉安房守憲定は、関東管領となりました。
人物名は明治期活字本によって補強されています。
写本と活字本は、上杉憲定の関東管領就任について一致します。
ただし、正式な就任日・前任者・任命手続は、この範囲では確認できません。
この節が示す政治世界の広がり
この節には、内裏火災、義満の対明外交、鎌倉府の奥州支配、伊勢北畠氏、新田氏残党、九州探題、琉球船など、広い地域の出来事が並びます。
京都の義満政権だけでなく、鎌倉府・奥州・九州・琉球・明国を含む政治・外交・海上交流が同時に進んでいたことを伝える構成です。
次の第4節では、明国が義満を「日本国王」と呼んだことに対する写本の詳しい批評、連歌の流行、災害、足利義満の死へ進みます。
流れが分かる現代語訳
応永八年、京都の内裏が火事で焼けた。
天皇は、准后の邸宅へ避難した。
同じ年、足利義満は明国の皇帝へ「金三万」と記される贈り物を送った。
足利義持は権大納言となり、三月二十九日には、後の称光天皇となる皇子が生まれた。
ただし、皇子の諱は写本でははっきり読めていない。
七月には洪水と、意味の分からない大きな音を伴う異常現象が記された。
応永九年、明の建文帝から書状が届いた。
宛名は「日本国王源道義」だった。
「源道義」は、源氏である足利義満を指す。
明国は、外交上の相手として義満を日本国王と呼んだのである。
同じころ、関東を治める足利満兼は、弟の満貞を奥州へ派遣した。
奥州の伊達政宗は満貞に反抗した。
鎌倉府は上杉氏憲を送ったが、五月二十一日の赤館合戦では、最初の上杉軍が敗れた。
鎌倉から追加の軍勢が送られると、今度は伊達方が敗れた。
九月五日、伊達政宗は降参した。
政宗が和歌を献上したとみられる記事もあるが、歌の本文は確認できていない。
十月には北畠顕泰が亡くなり、満雅が伊勢国司を継いだ。
応永十年、義満は再び明国へ使者を送った。
同じ年、新田氏の一族が箱根山中へ隠れていることが発覚し、鎌倉府によって処分されたとみられる。
六月、相国寺の塔へ雷が落ちたが、日付は二十三日・二十五日・二十六日のいずれか確定していない。
七月には渋川満頼が九州探題となった。
そのころ、琉球国の船が六浦へ流れ着いた。
船の中からは音楽が聞こえたという。
この短い記事は、日本が海を通して琉球とつながっていたことを伝えている。
応永十一年、義満は再び明国へ使者を送った。
北畠氏の親子・養子関係も記されるが、文章は難しく、まだ確定していない。
秋七月、後に宗全と呼ばれる山名持豊が生まれた。
応永十二年、北畠俊泰は従三位となり、帯剣を許された。
六月九日には洪水が起こり、祇園社の鳥居も倒れた。
斯波義重は幕府の管領となったとみられ、上杉憲定は関東管領となった。
次の節では、「日本国王」という呼び方を写本がどのように批判したか、連歌の流行、足利義満の死へ進む。
人物・用語・史料注記
日本国王源道義
明の建文帝から届いた書状の宛名です。「源道義」は足利義満を指すと整理されています。写本と活字本で一致します。
後の称光天皇となる皇子
応永八年三月二十九日に誕生したと記されます。称光院であることは明記されていますが、諱の字形は不明瞭です。
足利満貞・篠川
鎌倉公方足利満兼の弟で、奥州管領として篠川へ下向したと記されます。「篠川城」「篠川殿」「篠川御所」など、拠点の呼称には確認が必要です。
伊達政宗
奥州で足利満貞に反抗した人物です。五月二十一日の赤館合戦後、追加の鎌倉府軍に敗れ、九月五日に降参しました。
赤館合戦
上杉氏憲の軍と伊達方が戦った合戦です。写本では五月二十一日と記されます。赤館・赤舘などの表記差があります。
北畠顕泰・満雅
応永九年十月に顕泰が亡くなり、満雅が伊勢国司を継いだと記されます。応永十一年の系譜記事では、俊泰を含む親子・養子関係が難読です。
新田氏残党
相模国箱根山中へ潜伏していた新田氏の一族です。人物名は義治・義隆など複数候補があり、潜伏先の木賀彦六、討伐者の安東某も未確定です。
渋川満頼
応永十年七月に九州探題となり、九州へ向かったと記されます。実名は活字本によって補読しています。
琉球船と六浦
琉球国の船が六浦へ流れ着いた記事です。「六浦」は比較的確実に読め、写本・活字本とも船中から音楽が聞こえたと記します。
山名持豊
応永十一年秋七月に生まれ、時熙の子と記されます。後に宗全と呼ばれる人物ですが、この節では誕生記事までを扱います。
北畠俊泰
応永十二年正月六日に従三位となり、四月二十六日に帯剣を許されたと記されます。応永十一年の官職・家督・養子関係は未確定です。
春日神木
応永十二年五月二十二日の記事です。神木の移座・入洛・帰座など、どの移動を記すのかは確定していません。
斯波義重・上杉憲定
応永十二年の記事で、斯波義重は「三管領」となったと読め、上杉憲定は関東管領となります。斯波記事は具体的には管領就任とみられますが、語法に注意が必要です。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第4冊 part-4、全3ページ
- 対象年代:応永八年~応永十二年(1401~1405年)
- 内容区分:編年本文・外交・奥州・北畠氏・海上交流
- 明治期活字本:PDF第21画像・印刷40~41ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 主要判読保留:8群
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前part末尾の斯波左京大夫法名記事・奥州宇都宮氏記事から続く。
奥州において宇都宮氏関係者とみられる者を討ち、その首を鎌倉へ送り、侍所で実検す。
人名・地名の区切り未確定。
応永八年。
二月二十八日、内裏炎上。
帝、准后第へ遷幸す。
春、北野経堂を創る。
地蔵送りあり。
大雪あり。
北山殿足利義満、大明帝へ金三万を贈る。
三月、足利義持、権大納言に任ず。
三月二十九日、皇子誕生。後の称光院なり。ただし諱未確定。
五月、日吉社八講。
秋七月、洪水。
「玉落ちて大鳴す」と暫定的に読まれる異常現象あり。語義未確定。
応永九年。
正月五日、足利義持、正二位に叙せらる。
二月、大明建文帝の書来る。
宛名「日本国王源道義」。
夏、大旱。
足利満兼の弟満貞、奥州管領として篠川へ下向す。
伊達大膳大夫政宗入道、満貞に対して逆意あり。
鎌倉より上杉右衛門佐氏憲、発向す。
五月二十一日、奥州赤館にて合戦。上杉軍敗る。
重ねて鎌倉より軍勢発向し、伊達方敗る。
九月五日、伊達政宗降参す。
政宗、「山家の雪」を題とする和歌を献上したとみられる。ただし歌本文なし。
九月、明使僧来る。
冬、地震。
十月、北畠顕泰薨ず。
満雅、伊勢国司となる。
応永十年。
春三月、義満、二度と記される遣明使を送る。
同月、義満、石清水へ参詣す。
四月二十五日、新田氏の一族とみられる人物、相模国箱根山中の木賀彦六住所に潜伏す。
その告げにより、足利満兼、安東某をして鎌倉においてこれを討たしむとみらる。
新田氏人物名・潜伏先・討伐者名、未確定。
六月、相国寺塔、雷火。
日付は六月二十三日・二十五日・二十六日等の候補あり。
秋七月、渋川左近将監満頼、九州探題となり、発向す。
琉球国の船、六浦へ流れ来る。
船中に音楽の声あり。
応永十一年。
正月、下野・那須に関係するとみられる未読の異常記事あり。
春、義満、大明へ使を遣わす。
三月十七日、北畠俊泰の官位・家督に関する記事あり。
俊泰・顕泰・満雅の親子・養子関係を記すとみられるが、構文未確定。
秋七月、山名持豊生る。時熙の子なり。
応永十二年。
正月六日、北畠俊泰、従三位に叙せらる。
四月二十六日、帯剣を許さる。
五月二十二日、春日神木に関する記事あり。移座・入洛・帰座の別、未確定。
六月九日、洪水。
同月、祇園社の鳥居倒る。
斯波義重、「三管領」となると記さる。管領就任とみられるが語法に注意。
上杉安房守憲定、関東管領となる。
校訂本文――公開用仮本文
前partの奥州宇都宮氏関係記事より続く。
奥州において宇都宮氏関係者とみらるる者を討ち、その首を鎌倉へ送り、侍所にて実検す。ただし人物名未確定。
応永八年。
二月二十八日、内裏炎上す。
帝、准后の第へ遷幸す。
春、北野経堂を創る。地蔵送り・大雪の記事あり。
北山殿足利義満、大明帝へ金三万を贈る。
三月、足利義持、権大納言に任ず。
三月二十九日、皇子誕生す。後の称光院なり。ただし諱未確定。
五月、日吉社八講あり。
秋七月、洪水あり。また難解なる異常現象の記事あり。
応永九年。
正月五日、足利義持、正二位に叙せらる。
二月、大明建文帝の書来る。
「日本国王源道義」へ贈る。
夏、大旱。
足利満兼の弟満貞、奥州管領として篠川へ下向す。
伊達政宗、これに逆意あり。
鎌倉府、上杉氏憲を奥州へ発向せしむ。
五月二十一日、赤館にて合戦あり。上杉軍敗る。
鎌倉より重ねて軍勢を遣わし、伊達方敗る。
九月五日、伊達政宗、降参す。
政宗の和歌献上記事ありとみらる。ただし歌本文なし。
九月、明使僧来る。
冬、地震あり。
十月、北畠顕泰、薨ず。
北畠満雅、伊勢国司となる。
応永十年。
春三月、義満、二度と記さるる遣明使を送る。
義満、石清水へ参詣す。
四月二十五日、新田氏の一族、相模国箱根山中へ潜伏すとみらる。
足利満兼、これを鎌倉にて討たしむ。ただし人物名未確定。
六月、相国寺塔、雷火に遭う。日付未確定。
秋七月、渋川満頼、九州探題となり、発向す。
琉球国の船、六浦へ流れ来る。
船中に音楽の声あり。
応永十一年。
下野・那須に関係するとみらるる未読記事あり。
春、義満、大明へ使を遣わす。
北畠俊泰・顕泰・満雅の官位・家督・親子・養子関係の記事あり。ただし構文未確定。
秋七月、山名持豊、生る。時熙の子なり。
応永十二年。
正月六日、北畠俊泰、従三位に叙せらる。
四月二十六日、帯剣を許さる。
五月二十二日、春日神木に関する記事あり。ただし移動内容未確定。
六月九日、洪水あり。
同月、祇園社鳥居倒る。
斯波義重、管領となるとみらる。ただし写本は「三管領」と記す。
上杉憲定、関東管領となる。
〔「日本国王」号への批評、災害、連歌流行、義満の死へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第21画像・印刷40~41ページ付近には、奥州宇都宮氏記事、内裏炎上、義満の対明外交、皇子誕生、明国書、伊達政宗の反抗、北畠氏、新田氏残党、琉球船、山名持豊、洪水・管領記事に対応する本文があります。
内裏炎上と天皇の准后邸への移動、義満が明帝へ金三万を贈る記事、「日本国王源道義」、満貞の奥州下向、伊達政宗の九月五日降参は、大筋または逐語的に一致します。
伊達政宗の和歌について、活字本には「山家雪」を題とする歌を献上したとみられる割注がありますが、写本では歌本文を確認できません。
義満の遣明使、新田氏残党、渋川満頼の九州探題就任、琉球船の六浦来航も大筋で一致します。
琉球船については、写本・活字本とも「船中に音楽の声あり」と記します。
北畠氏の親子・養子関係は、活字本の漢文・割注によって補読できますが、写本の助詞・主語を無条件に置き換えません。
山名持豊の秋七月誕生・時熙の子、北畠俊泰の正月六日従三位、六月九日の洪水、上杉憲定の関東管領就任は一致します。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| part冒頭 | 奥州で討った者の首を鎌倉へ送り、侍所で実検 | 同趣旨 | 前partから続く記事として保存し、人物名は保留する |
| 内裏炎上 | 天皇が准后邸へ移ったことを和文で記す | 「内裏炎上、帝遷幸准后第」 | 内容一致として採用する |
| 明帝への贈物 | 「金三万を大明帝へ贈る」と記す | 同趣旨 | 単位・価値を補わず史料表現を保存する |
| 称光天皇 | 皇子誕生と称光院を記すが、諱が難読 | 同じ皇子誕生記事を載せる | 皇子の諱は確定しない |
| 七月の異変 | 洪水と「玉落ちて大鳴す」とみられる記事 | 同じく難解な語を記す | 特定の自然・天文現象へ置き換えない |
| 建文帝書状 | 「日本国王源道義」 | 同じ | 一致本文として採用する |
| 伊達政宗 | 赤館合戦後、九月五日に降参 | 同じ | 一致本文として採用する |
| 政宗の和歌 | 和歌記事はあるが歌本文を確認できない | 「山家雪」を題とする歌の割注あり | 歌本文を推測で復元しない |
| 新田氏残党 | 人名・捕縛者が不明瞭 | 人物関係を写本より詳しく記す | 活字本を補読に用いるが確定人名とはしない |
| 相国寺塔雷火 | 六月二十三日・二十五日・二十六日等の候補 | 数字の再確認が必要 | 具体日を確定せず六月の記事とする |
| 琉球船 | 六浦へ来航し、船中から音楽 | 同じ | 一致本文として採用する |
| 北畠氏系譜 | 和文で親子・養子関係を記すが難読 | 漢文・割注で人物関係を説明 | 活字本だけで系譜を確定しない |
| 山名持豊 | 秋七月に誕生、時熙の子 | 同じ | 一致本文として採用する |
| 斯波義重 | 「三管領」と記す | 同趣旨の管領記事 | 管領就任とみられるが、写本表現を注記する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 前partとの接続 | 奥州宇都宮〔広子・公島等か〕 | 人名・地名の区切りと、討伐対象を確定できない | 低 |
| 皇子の諱 | 実仁親王か | 称光院であることは明記されるが、諱の字形が不明瞭 | 低~中 |
| 応永八年七月 | 玉落ちて大鳴す | 「玉」以外の字の可能性があり、現象の意味も不明 | 低 |
| 伊達政宗の和歌 | 「山家雪」を題とする歌か | 活字本に注記があるが、写本では歌本文を確認できない | 低 |
| 新田氏残党 | 義治・義隆等/木賀彦六/安東某 | 人物名・潜伏先・討伐者の実名を確定できない | 低 |
| 相国寺塔雷火 | 六月二十三日/二十五日/二十六日 | 数字が崩れ、写本・活字本とも拡大再確認が必要 | 低 |
| 応永十一年の記事群 | 下野・那須の異変/北畠俊泰・顕泰・満雅の系譜 | 異変記事が未読で、北畠氏の親子・養子関係も逐字確定できない | 低 |
| 応永十二年の記事群 | 春日神木/斯波義重「三管領」 | 神木の移動内容と、三管領の語法・制度的意味が未確定 | 低~中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第4冊part-4の全3ページを、奥州・京都・外交・北畠氏・琉球船記事を含む一つの編年範囲として確認した。
- 前part末尾の斯波左京大夫記事と、奥州宇都宮氏関係記事への接続を確認した。
- 奥州宇都宮氏記事の人名・地名を推測で確定しなかった。
- 応永八年二月二十八日の内裏炎上と、天皇の准后第への移動を、写本・活字本の一致する大筋として採用した。
- 准后の具体的人物・邸宅名を補わなかった。
- 北野経堂・地蔵送り・大雪を同年の寺社・気象記事として整理した。
- 義満が明帝へ贈った「金三万」の単位・価値を現代的に換算しなかった。
- 義持の権大納言任官と、三月二十九日の皇子誕生を整理した。
- 皇子が後の称光院であることを採用したが、諱「実仁親王」は確定しなかった。
- 日吉社八講を確認したが、正式名称・参加者・儀式内容を補わなかった。
- 七月の「玉落ちて大鳴す」とみられる語を、特定の自然・天文現象へ置き換えなかった。
- 応永九年正月五日の義持正二位を記事順に整理した。
- 明国書の宛名「日本国王源道義」を、写本・活字本の一致本文として採用した。
- 「日本国王」号への詳しい批評は次partに属するため、この節では書状到来と宛名に重点を置いた。
- 満貞の奥州下向、伊達政宗の反抗、上杉氏憲派遣、赤館合戦を一続きの記事として整理した。
- 赤館合戦の現在地・兵数・討死者を補わなかった。
- 九月五日の伊達政宗降参を、写本・活字本の一致本文として採用した。
- 政宗の和歌は、活字本の「山家雪」注記を保存したが、歌本文を復元しなかった。
- 明使僧の実名・持参書状・面会相手を推測しなかった。
- 北畠顕泰の死と満雅の伊勢国司継承を採用したが、系譜の詳細は応永十一年記事とともに保留した。
- 応永十年の「二度」と記される遣明使を採用したが、遣使回数の数え方・使者名・船・文書を補わなかった。
- 新田氏残党の記事は、義治・義隆等の候補を一方へ確定しなかった。
- 木賀彦六・安東某も暫定人名として扱い、処刑方法を補わなかった。
- 相国寺塔雷火の日付を六月二十三日・二十五日・二十六日の一つへ確定しなかった。
- 渋川満頼の九州探題就任を確認したが、任命手続・同行者・任務内容を補わなかった。
- 琉球船が六浦へ流れ着き、船中から音楽が聞こえたことを、写本・活字本の一致本文として採用した。
- 船の来航目的・人数・船種・楽器を推測しなかった。
- 応永十一年正月の下野・那須関係記事を未読として保存した。
- 北畠俊泰・顕泰・満雅の親子・養子関係を、活字本だけで確定しなかった。
- 山名持豊の秋七月誕生・時熙の子を一致本文として採用した。
- 応永十二年正月六日の北畠俊泰従三位、四月二十六日の帯剣許可を一致本文として採用した。
- 春日神木の記事を、移座・入洛・帰座の一つへ確定しなかった。
- 六月九日の洪水を一致本文として採用し、洪水地域・被害を補わなかった。
- 祇園社鳥居の倒壊日を、六月の特定日へ推測しなかった。
- 斯波義重の記事を管領就任とみられるものとして整理しつつ、写本の「三管領」という表現を保存した。
- 上杉憲定の関東管領就任を採用したが、正式な任命日・手続を補わなかった。
4.「日本国王」号への批判――連歌流行と足利義満の死
対象年代:応永12~16年(1405~1409年)
対応史料:管理No.37・手書き写本第4冊part-5(全3ページ)/明治期活字本PDF第21左~22右画像(印刷41~42頁付近)
公開状態:第一次判読・第一次校訂
「日本国王」号への批評末尾、災害記事の建物名、連歌名人、応永十五年二月六日の記事、北山行幸の供奉者、義満の院号・葬送、満兼の避難先、鎌倉御所造営奉行には未確定箇所があります。
写本・活字本の字形は「太政天皇」に近く見えますが、義満へ贈ろうとした尊号の意味は「太上天皇」です。原字と意味を区別して掲載します。
この節の概要
この節は、前節末尾の応永十二年六月の記事から続きます。
六月九日に洪水が起こり、祇園社の鳥居が倒れました。その後、斯波義重の管領就任、上杉憲定の関東管領就任が記されます。
応永十三年正月十三日、畠山基国が五十五歳で亡くなりました。号は長禅寺、法名は徳元と記されています。
この年の春には飢饉、夏には大旱が起こりました。
明国の皇帝は日本へ使者を送り、足利義満を「日本国王」と呼び、帝王の冠服を贈りました。
これに対して、写本は「南軍笑ひて曰く」と記し、南朝方とみられる立場から義満を批判します。
その批評は、日本は小国ではあっても皇統が代々続き、外国から独立した国であるのに、天皇の臣下である武士の義満が、外国から「日本国王」の称号を受けるのは不適切だという趣旨です。
ただし、批評の最後にある数語は読めていません。
同年八月五日には洪水と大風が起こり、楼閣とみられる建物が吹き倒されました。八月十七日、足利義持は右近衛大将を兼ね、九月十二日夜には清水寺の塔が焼け、十一月一日には大地震が起こりました。
応永十四年正月五日にも大地震があり、二月には足利義持の子・義量が生まれました。母は一品資康の娘と記されます。
この年には、雷、霰、旱魃、飢饉、大風、疫病、火災、大潮、地震などが相次ぎました。
その一方、京都では連歌が流行しました。公家・武士・僧侶だけでなく、一般の人々も連歌を好むようになったと写本は説明します。
二条殿の人物をはじめ、祇公法師・周阿法師・真鍋新左衛門・佐渡守などが連歌の名人として知られました。ただし、人名の一部は活字本による補読です。
写本は、旧南朝方の天皇や臣下の中にも、連歌で名高い人物が多かったと記しています。
応永十五年、義満の子・義嗣は十五歳で叙爵され、左馬頭・左近衛中将・従三位・参議へ短期間で昇進しました。
義嗣の弟・義円は青蓮院へ入りました。義円は後に還俗して将軍となりますが、この節では青蓮院入室の記事までを扱います。
三月八日には天皇が北山の准后邸へ行幸しました。供奉者を示すとみられる傍書は不明瞭です。
五月六日、前将軍足利義満が五十一歳で亡くなりました。
写本には、義満の院号・法名として「鹿苑院天山道義」とみられる表記がありますが、「道義」までが本文に含まれるかは確定していません。
天皇は義満へ太上天皇の尊号を贈ろうとしました。しかし、将軍義持は再三これを辞退しました。
写本・活字本の原字は「太政天皇」に近く見えますが、尊号の意味としては、退位した天皇に準じる「太上天皇」です。
義満の葬送・追善に関する数行もありますが、人名・寺院・日付の一部を読めていません。
応永十六年三月、朝鮮から使者が来ました。斯波義重は管領となり、足利義持は内大臣へ進みました。
六月二十九日、鎌倉公方足利満兼の邸宅が火事で焼けました。満兼は三室戸遠江守と読まれる人物の宿所へ移りました。
七月十三日、新しい鎌倉御所の建設が始まり、上杉右衛門佐が奉行となりました。ただし、その実名は確定していません。
八月二十七日には上棟が行われました。写本part-5はここで終わり、その後の記事は次のpartへ続きます。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読・準翻刻をもとに、写本の記事順と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
前節末尾の応永十二年記事から続く
前節の末尾では、応永十二年六月九日の洪水、祇園社の鳥居倒壊、斯波義重・上杉憲定の管領記事が記されていた。
このpartの冒頭にも同じ記事が続いている。
斯波義重について、写本は「三管領たり」と記す。
具体的には幕府の管領となったことを示すとみられるが、「三管領」という原文表現の語法には注意が必要である。
上杉安房守憲定は関東管領となったと記される。
これらは前節との重複・接続記事として扱い、第4節の中心は応永十三年以後とする。
応永十三年・畠山基国が亡くなる
応永十三年正月十三日、畠山金吾基国が亡くなった。
享年は五十五歳だった。
写本は、号を長禅寺、法名を徳元と記す。
明治期活字本も、日付・年齢・号・法名についてほぼ同じ内容を記す。
そのため、正月十三日、五十五歳、長禅寺・徳元を、第一次公開用仮本文へ採用する。
春の飢饉と夏の大旱
この年の春には、天下で飢饉が起こった。
夏には大旱となった。
写本と活字本は、「春、天下飢饉」「夏、大旱」という大筋で一致する。
ただし、飢饉・旱魃の地域、米価、死者数、救済策などは記されていないか、現在の第一次判読では確認できない。
そのため、全国すべてが同じ被害を受けたとは断定せず、史料が「天下飢饉」「大旱」と記すことを示す。
明国の使者が日本へ来る
明国の皇帝は、日本へ使者を送った。
写本は、明国側が足利義満を「日本国王」と呼んだと記す。
前節では建文帝の書状に「日本国王源道義」という宛名があった。
この節では、明国が義満を国王として扱ったことに対して、日本国内から批評が加えられる。
義満へ帝王の冠服を贈る
明国は、義満へ「帝王の冠服」と記されるものを贈った。
写本と明治期活字本は、明国が国王号とともに冠・服を贈ったという大筋で一致する。
ただし、冠服の具体的な名称・形・色・材質・数量は、この範囲には記されていない。
そのため、後世の礼服資料から形状を補わず、「帝王の冠服」とする。
南朝方が笑って批判する
明国からの使者と冠服の記事に続き、写本は、
南軍笑ひて曰く
と記す。
ここでいう「南軍」は、旧南朝方の立場にある人々を指すとみられる。
しかし、実際に発言した特定人物の名は記されていない。
また、「笑う」は単なる楽しさではなく、義満の行動をあざ笑い、批判する文脈で用いられていると整理できる。
日本は小国でも皇統が続く
批評では、日本は小国であるとしても、皇統が代々受け継がれていると述べる。
天皇の血統が連続していることを、日本の政治秩序の根拠としている。
また、日本は外国から独立し、それ自体で一つの天下を成す国であるという趣旨が述べられる。
ただし、写本の全文を一字ずつ確定できているわけではないため、現在は批評の大筋を示す。
武臣である義満が国王号を受けることへの批判
批評は、足利義満が天皇ではなく、天皇に仕える武臣であることを問題とする。
その武臣が外国の皇帝から「日本国王」と呼ばれ、帝王の冠服を受けることは、日本の皇統と君臣関係を乱す行為だという趣旨である。
写本は、義満の対明外交を単なる外国との交流として記録するだけでなく、南朝側とみられる政治的立場から批判している。
ただし、批評の末尾、「武臣の身をもって」以下の数語は判読できていない。
そのため、義満をどのような語で最終的に評価したかは、推測で補わない。
明国から見た義満と日本国内から見た義満
明国側は、実際に外交を行う足利義満を、日本を代表する支配者として「日本国王」と呼んだ。
一方、写本の批評では、日本の正統な君主は天皇であり、武臣である義満は国王ではないと考える。
この記事は、同じ義満が、対外的には国王として扱われ、国内の南朝方からはそれを批判されていたことを伝える。
ただし、この説明は写本の記事構成を理解するための整理であり、当時の日本人全員が同じ意見だったとするものではない。
八月五日の洪水と大風
八月五日、洪水と大風が起こった。
楼閣と読まれる建物が、風によって吹き倒されたとみられる。
しかし、どの建物・地域を指すかは確定していない。
そのため、「楼閣とみられる建物が倒れた」とし、具体的な寺院・邸宅名へ置き換えない。
義持が右近衛大将を兼ねる
八月十七日、将軍足利義持は右近衛大将を兼ねた。
写本と活字本は、この日付と任官内容で一致する。
ただし、任官儀式・宣旨・参内の詳細は記されていない。
清水寺の塔が焼ける
九月十二日の夜、清水寺の塔が火災で焼けた。
写本・活字本は、九月十二日夜という日付で一致する。
ただし、どの塔を指すのか、出火原因、周囲への延焼、人的被害は確認できない。
十一月一日の大地震
十一月一日には大地震が起こった。
被害地域・倒壊建物・死傷者などは、現在の作業台帳要旨には記録されていない。
そのため、日付と大地震の記事のみを保存する。
応永十四年正月にも大地震
翌応永十四年正月五日にも、大地震が起こった。
前年十一月一日の地震との関係は、写本には説明されていない。
同じ地震活動の継続か、別の地震かを現代の地震資料から補うことはしない。
足利義量が生まれる
二月、足利義持の子・義量が生まれた。
具体的な日は、写本・活字本とも欠けているか、記されていない。
母は、一品資康の娘と記される。
「一品資康」の人物関係は、写本の表現をそのまま保存し、外部系譜による置き換えを行わない。
義量は後に将軍となるが、この節では誕生記事までを扱う。
晴天の雷と閏六月の霰
夏六月、空が晴れている中で、雷が一度鳴ったと記される。
閏六月二十七日には、霰が降った。
写本は、通常とは異なる気象現象としてこれらを編年記事に残している。
ただし、場所・被害・気温などは記されていない。
大旱と飢饉
この年にも大旱と飢饉が起こった。
応永十三年に続いて、応永十四年にも食料不足に関係する災害記事が置かれている。
ただし、二年にわたって同じ地域が被害を受けたのか、別の地域へ広がったのかは分からない。
八月二十四日の大風と疫病
八月二十四日、大風が吹き、疫病が流行したと記される。
風害と疫病が直接関係するのか、同日に並べて記録されただけかは確定していない。
病名・患者数・死者数・流行地域は確認できない。
九月十九日の大風と大飢饉
九月十九日にも大風が吹き、大飢饉となった。
写本・活字本とも、大風と飢饉を同じ時期の記事として記す。
ただし、風による農作物被害が飢饉を直接引き起こしたと、この文章だけから断定することはできない。
九月二十九日の室町殿火災
九月二十九日、京都の室町殿とみられる建物が焼けた。
写本では「京室町殿」と暫定的に読んでいる。
しかし、別の殿舎名である可能性があり、どの建物を指すかは確定していない。
そのため、「室町殿とみられる建物の火災」とする。
十二月十四日の大潮と大地震
十二月十四日、「大潮入り」と読まれる現象と大地震が記される。
「大潮入り」は、高潮や海水の侵入を表す可能性がある。
しかし、津波・高潮などの一つへ確定することはできない。
被害地域と規模も不明であるため、写本の表現を保存する。
京都で連歌が流行する
このころ、京都の町では連歌が流行した。
写本は「洛中連歌、庶民これを好み、盛んになり」とみられる内容を、仮名交じりの文章で説明する。
連歌は、複数の人が前の句を受けながら、次の句をつないでいく文芸である。
公家や武士だけでなく、町に暮らす一般の人々も連歌を好むようになったことが記される。
二条殿が連歌で名高い
写本は、二条殿と記される人物が、連歌において特に名誉を得たと記す。
しかし、二条家のどの人物を指すのかは確定していない。
そのため、実名を外部系譜から補わず、「二条殿」とする。
連歌の名人たち
連歌の名人として、祇公法師・周阿法師・真鍋新左衛門・佐渡守などが列挙される。
これらの人名は、明治期活字本によって補読した部分が多い。
写本では仮名が強く崩れ、名字・通称・法名の境界を確定しにくい。
そのため、確定した連歌師一覧ではなく、暫定人名として掲載する。
旧南朝方にも連歌の名人がいた
写本は、旧南朝方の天皇・君臣の中にも、連歌で名高い人物が多かったと記す。
「峨眉・小倉殿」などと暫定的に読まれる人物・家名がありますが、区切りは確定していない。
この記事は、南北朝の政治的対立が終わった後も、旧南朝方の人物が文化活動の担い手として記憶されていたことを示す可能性がある。
ただし、この最後の説明は記事の意味を理解するための整理であり、人物名と活動内容は再校訂が必要である。
災害の中でも文化が広がる
応永十三年から十四年には、旱魃・飢饉・大風・疫病・火災・地震などが相次いだ。
その一方で、京都では連歌が身分を越えて広がっていた。
写本が災害記事と連歌流行を同じ年代に並べていることから、社会不安が続く中でも、人々が文化活動を楽しんでいた様子が分かる。
ただし、災害が連歌流行の直接的な原因になったとするものではない。
応永十五年二月六日の未読記事
応永十五年二月六日には、蝦夷または将軍第に関係するとみられる記事がある。
しかし、写本・活字本とも句切りと文意を確定できていない。
蝦夷の人物が将軍邸へ来た記事なのか、別の地名・人物名なのかも不明である。
そのため、主本文へ具体的な出来事を補わず、判読保留として保存する。
足利義嗣が十五歳で叙爵される
三月四日、足利義嗣は十五歳で叙爵された。
義嗣は足利義満の子である。
人名・年齢・日付は、写本と活字本で一致する。
ただし、叙爵の具体的な位階と儀式は、この行だけでは確認できない。
義円が青蓮院へ入る
義嗣の弟・義円は、青蓮院へ入室した。
写本・活字本とも、この内容を記す。
義円は後に還俗して別の名を名乗りますが、この節では青蓮院へ入った記事までを扱う。
入室の日・師となった人物・儀式の細部は確認できない。
天皇が北山第へ行幸する
三月八日、天皇は北山の准后第へ行幸した。
准后第は、足利義満の北山の邸宅を指すと整理される。
ただし、行幸に供奉した人物を示すとみられる傍書は不明瞭である。
行幸の儀式・宴・滞在期間についても、現在の作業台帳要旨には保存されていない。
そのため、「天皇が北山准后第へ行幸した」という範囲を本文とする。
義嗣が左馬頭となる
三月二十四日、義嗣は左馬頭に任じられた。
その五日後の三月二十九日には、左近衛中将に任じられた。
短い期間に官職を次々と与えられたことが分かる。
藤原忠嗣が関白となる
四月二十日、藤原忠嗣が関白となった。
近衛家の人物とみられますが、写本が姓・家名・実名をどのように区切っているかには注意が必要である。
そのため、写本・活字本の表記に従い「藤原忠嗣」とする。
義嗣が従三位・参議となる
四月二十五日、義嗣は従三位に叙せられ、参議となった。
三月四日の叙爵から約二か月の間に、左馬頭・左近衛中将・従三位・参議へ進んだことになる。
写本は、義満の子である義嗣が急速に高い地位を得た経過を、日付を追って記録している。
ただし、義満が義嗣をどのような後継者として考えていたかを、この任官記事だけから断定しない。
足利義満が亡くなる
五月六日、前将軍道義公が亡くなった。
道義公は、出家後の足利義満を指す。
享年は五十一歳だった。
日付・人物・年齢は、写本と明治期活字本で一致する。
死因・臨終の場所・最期の言葉は、この写本範囲では確認できない。
鹿苑院天山道義
義満には、「鹿苑院天山道義」とみられる院号・法名が記される。
ただし、写本・活字本とも「鹿苑院天山」までを明瞭に記し、その下に「道義」が続くかどうかは不明瞭である。
「道義」は生前から出家後の義満を指す名として使われているため、院号・法名全体の区切りには再確認が必要である。
本ページでは「鹿苑院天山道義とみられる」とし、確定した諡号全文とはしない。
義満へ太上天皇の尊号を贈ろうとする
五月九日、天皇は義満へ太上天皇の尊号を贈ろうとした。
写本と活字本の字形は「太政天皇」に近く見える。
しかし、ここで問題となっている尊号の意味は、退位した天皇に与えられる「太上天皇」である。
そのため、原文資料欄では太政天皇/太上天皇の字形問題を示し、現代語訳では太上天皇とする。
義持が尊号を辞退する
将軍足利義持は、義満への尊号を再三辞退した。
写本・活字本は、義持が繰り返し辞退したという点で一致する。
写本には、日本で臣下に法王の号を贈った例に関する説明もあるとみられる。
しかし、先例の人物・時代・尊号との比較を完全には読めていない。
そのため、義持が尊号を辞退したことを本文とし、辞退理由の細部は推測しない。
「日本国王」号と太上天皇尊号
このpartの前半では、外国から義満が「日本国王」と呼ばれたことを、南朝方が批判した。
後半では、義満の死後、日本の天皇から太上天皇の尊号を贈ろうとしたことが記される。
義満が外国からも国内の朝廷からも、通常の武臣を大きく超える地位で扱われたことが、一つのpartの中に並べられている。
ただし、写本が二つの記事を直接比較して論評しているわけではない。
本ページでは、記事配置から分かる義満の権力の大きさと、その権力への批判を、公開用解説として整理する。
義満の葬送・追善記事
義満の死と尊号辞退の後には、葬送・追善に関係するとみられる数行がある。
しかし、人名・寺院名・日付の一部が読めず、文章全体を復元できていない。
明治期活字本も補読の手がかりとなりますが、句切りが難しい部分がある。
そのため、葬所・法会・導師・参加者を外部資料から補わず、判読保留として保存する。
応永十六年・朝鮮使が来る
応永十六年春三月、朝鮮から使者が来た。
写本と活字本は、来訪月を三月と記す。
しかし、使者の名、人数、到着地、持参した文書・贈物、面会者は、この範囲では確認できない。
そのため、「朝鮮使来訪」という大筋を本文とする。
斯波義重が管領となる
斯波義重は幕府の管領となった。
前part末尾の応永十二年にも、斯波義重を「三管領」とする記事がありました。
今回の記事が再任・継続・別の職制説明のどれに当たるかは、この範囲だけでは確定しない。
本ページでは、応永十六年に斯波義重の管領記事が置かれていることを記録する。
足利義持が内大臣となる
七月二十三日、将軍足利義持は内大臣に任じられた。
写本と明治期活字本は、この日付と任官内容で一致する。
ただし、写本ではこの記事の後に六月二十九日の鎌倉御所火災が置かれ、記事が完全な日付順には並んでいない。
現代語訳では年代順に説明しますが、原文資料欄では写本の配列も保存する。
鎌倉公方満兼の邸宅が焼ける
六月二十九日、関東の足利満兼の邸宅が火事で焼けた。
写本は「回禄す」と記す。
回禄は、火災・焼失を表す語として用いられている。
出火原因、焼失した建物、死傷者は確認できない。
満兼が三室戸遠江守の宿所へ移る
邸宅が焼けたため、満兼は三室戸遠江守と読まれる人物の宿所へ移った。
「三室戸」が名字・邸宅名のどちらに当たるか、遠江守の実名は確定していない。
そのため、「三室戸遠江守の宿所」と写本表記を保存し、特定人物へ置き換えない。
新しい鎌倉御所の造営が始まる
七月十三日、新しい鎌倉御所の建設が始まった。
火災から約半月後に再建工事が始まったことになる。
ただし、敷地、建物配置、工事費用、工人、旧御所との位置関係は、この写本範囲からは確認できない。
上杉右衛門佐が造営奉行となる
鎌倉御所造営の奉行は、上杉右衛門佐と記される。
しかし、その実名を確定できていない。
外部の上杉氏系譜に合わせて、特定人物の名前を補うことはしない。
本ページでは、上杉氏の右衛門佐が造営を担当したという範囲を本文とする。
八月二十七日に上棟する
八月二十七日、新しい鎌倉御所の上棟が行われた。
上棟とは、建物の主要な骨組みを組み、棟木を上げる工程・儀礼である。
七月十三日の造営開始と八月二十七日の上棟は、写本と活字本で一致する。
ただし、上棟式の参加者・儀礼・建物の完成日は、この範囲には記されていない。
日付順ではない記事配置
写本では、七月二十三日の義持内大臣任官の後に、六月二十九日の鎌倉御所火災が記されている。
これは、編年本文がすべて完全な月日順に並べられているわけではないことを示す。
今回の詳細現代語訳では、鎌倉御所火災、造営開始、義持内大臣任官、上棟の順序が分かるよう説明を整理した。
ただし、原文資料欄では、写本に記された記事の配列を保存する。
第4節の終わり
この節では、明国から「日本国王」と呼ばれた義満への批判から、義満の死、義持による尊号辞退までが記された。
同時に、災害の続発、連歌の流行、義量の誕生、義嗣の昇進、鎌倉御所再建など、次世代の政治・文化・関東支配に関わる記事も置かれている。
次の第5節では、天龍寺の五山第一、鎌倉公方満兼の死と持氏の継承、新田氏関係者の処刑、明による義満追悼、称光天皇の受禅へ進む。
流れが分かる現代語訳
応永十三年、畠山基国が五十五歳で亡くなった。
この年には飢饉とひどい旱魃が起こった。
明国の皇帝は、足利義満を「日本国王」と呼び、帝王の冠や服を贈った。
明国から見れば、実際に日本の外交を動かしていた義満が、日本を代表する支配者だった。
しかし、南朝方とみられる人々は、これを笑って批判した。
日本には代々続く天皇がいる。
それなのに、天皇の家臣である武士の義満が、外国から「日本国王」と呼ばれ、王の冠や服を受けるのはおかしい、という考えだった。
批評の最後には、まだ読めていない言葉が残っている。
同じ年には、洪水・大風・清水寺塔の火災・大地震も起こった。
応永十四年には、足利義持の子・義量が生まれた。
この年も、雷、霰、旱魃、飢饉、大風、疫病、火災、大潮、地震などが相次いだ。
その一方、京都では連歌が流行した。
連歌は、複数の人が順番に句をつないで作る文芸である。
公家や武士だけでなく、僧侶や町の人々も連歌を楽しんだ。
二条殿、祇公法師、周阿法師、真鍋新左衛門などが、連歌の名人として知られたと記される。
ただし、人名の一部は活字本を使って補っている。
写本は、旧南朝方の天皇や家臣にも、連歌で有名な人物が多かったと記している。
応永十五年、義満の子・義嗣は十五歳で朝廷の位を与えられた。
義嗣は左馬頭・左近衛中将・従三位・参議へ、短い期間で次々に昇進した。
弟の義円は青蓮院へ入った。
三月八日には、天皇が義満の北山第を訪れた。
五月六日、足利義満が五十一歳で亡くなった。
天皇は義満へ、太上天皇という非常に高い尊号を贈ろうとした。
しかし、息子の足利義持は、これを何度も辞退した。
義満が外国から「日本国王」と呼ばれ、死後には天皇に近い尊号を贈られそうになったことから、義満の権力が非常に大きかったことが分かる。
ただし、義満の葬送・追善の記事には読めていない部分がある。
応永十六年、朝鮮から使者が来た。
足利義持は内大臣となった。
関東では、鎌倉公方足利満兼の邸宅が火事で焼けた。
満兼は三室戸遠江守と読まれる人物の屋敷へ避難した。
七月十三日に新しい鎌倉御所の建設が始まり、八月二十七日には上棟が行われた。
工事を担当したのは上杉右衛門佐と記されるが、実名はまだ確定していない。
次の節では、鎌倉公方が満兼から持氏へ代わり、後の称光天皇が即位するまでを扱う。
人物・用語・史料注記
日本国王
明国が外交上、足利義満を呼んだ称号です。写本は、天皇の臣下である義満が外国から国王と呼ばれることを、南朝方とみられる立場から批判します。
南軍の批評
「南軍笑ひて曰く」で始まる、旧南朝方とみられる批評です。日本の皇統と独立を根拠として、武臣義満の国王号受領を批判します。末尾の数語は未読です。
帝王の冠服
明国から義満へ贈られたと記される冠・服です。具体的な名称・形・色・数量は、この写本範囲では確認できません。
足利義量
応永十四年二月に生まれた足利義持の子です。写本は母を一品資康の娘と記します。具体的な誕生日は記されていません。
連歌
複数人が順番に句をつないで作る文芸です。写本は、応永十四年ごろ、京都で公家・武士・僧侶だけでなく庶民にも連歌が広まったと説明します。
連歌名人
二条殿・祇公法師・周阿法師・真鍋新左衛門・佐渡守などが列挙されます。人名の一部は活字本による補読であり、「峨眉・小倉殿」とみられる語も未確定です。
足利義嗣
足利義満の子です。応永十五年に十五歳で叙爵され、左馬頭・左近衛中将・従三位・参議へ急速に昇進しました。
義円
義嗣の弟で、この節では青蓮院への入室が記されます。後の経歴は、この段階の写本記事へ混ぜず、必要な節で扱います。
足利義満の死
応永十五年五月六日、五十一歳で亡くなったと記されます。日付・年齢は写本と活字本で一致します。
鹿苑院天山道義
義満の院号・法名として暫定的に整理している表記です。「鹿苑院天山」の後に「道義」まで含まれるか、区切りには再確認が必要です。
太政天皇/太上天皇
写本・活字本の字形は「太政天皇」に近く見えますが、義満へ贈ろうとした尊号の意味は「太上天皇」です。原字と尊号の意味を区別して扱います。
義持の尊号辞退
天皇が義満へ太上天皇の尊号を贈ろうとしたのに対し、足利義持が再三辞退した記事です。辞退理由・先例説明の全文は未確定です。
回禄
火災・焼失を表す語です。応永十六年六月二十九日、足利満兼の鎌倉の邸宅が「回禄す」と記されます。
三室戸遠江守
邸宅を失った満兼の避難先として記される人物・宿所です。名字・邸宅名の区別と実名は未確定です。
鎌倉御所造営奉行
新しい鎌倉御所の建設を担当した上杉右衛門佐です。上杉氏のどの人物か、実名は確定していません。
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史料情報
- 手書き写本:第4冊 part-5、全3ページ
- 対象年代:応永十二年~応永十六年(1405~1409年)
- 内容区分:編年本文・外交・災害・連歌・義満死去・鎌倉御所
- 明治期活字本:PDF第21左~22右画像・印刷41~42ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 主要判読保留:8群
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前partの応永十二年六月記事より続く。
六月九日、洪水。
同月、祇園社の鳥居倒る。
斯波義重、三管領たり。
上杉安房守憲定、関東管領たり。
応永十三年。
正月十三日、畠山金吾基国、卒す。
五十五歳。号長禅寺、法名徳元。
春、天下飢饉。
夏、大旱。
大明王、日本へ使を遣わし、道義を日本国王と称し、帝王の冠服を贈る。
南軍笑ひて曰く、日本は小国なれども、皇統相継ぎ、独立して天下たり。
今、源義満、武臣の身をもって、かくのごとく国王号を受くることを批判す。
批評末尾、数語未読。
八月五日、洪水・大風。楼閣とみられる建物、吹き倒る。
八月十七日、将軍義持、右大将を兼ぬ。
九月十二日夜、清水寺塔炎上。
十一月朔日、大地震。
応永十四年。
正月五日、大地震。
二月、足利義量生る。義持の男。母は一品資康の女。
夏六月、空晴れて雷一鳴。
閏六月二十七日、霰降る。
この年、大旱・飢饉。
八月二十四日、大風・疫病。
九月十九日、大風吹き、大飢饉。
九月二十九日、京室町殿とみられる建物、焼亡。
冬十二月十四日、大潮入り・大地震。
この頃、洛中に連歌流行し、庶民これを好み、盛んとなる。
二条殿、殊に名誉あり。
祇公法師・周阿法師・真鍋新左衛門・佐渡守等、天下に名を顕す。
峨眉・小倉殿等と読まれる人物、ならびに南帝の君臣にも、連歌の名誉ある人多し。
ただし連歌人名・家名の区切り未確定。
応永十五年。
春二月六日、蝦夷・将軍第に関係するとみられる未読記事あり。
三月四日、足利義嗣、十五歳にて叙爵。
弟義円、青蓮院に入室す。
三月八日、帝、北山准后第へ行幸す。
供奉者に関する傍書、未確定。
三月二十四日、義嗣、左馬頭に任ず。
三月二十九日、義嗣、左近衛中将に任ず。
四月二十日、藤原忠嗣、関白となる。
四月二十五日、義嗣、従三位に叙し、参議に任ず。
五月六日、前将軍道義公、薨ず。五十一歳。
院号・法名、鹿苑院天山道義とみらる。ただし区切り未確定。
五月九日、帝、太政天皇と字形の見える尊号を贈らんとす。意味は太上天皇。
将軍義持、再三これを辞す。
日本に法王の号を臣下へ贈る例に関する記事あり。ただし全文未確定。
義満の葬送・追善に関する数行あり。人名・寺院・日付未確定。
応永十六年。
春三月、朝鮮使来る。
斯波義重、管領たり。
七月二十三日、将軍義持、内大臣に任ず。
六月二十九日、関東満兼の亭、回禄す。
満兼、三室戸遠江守の宿所へ入る。
七月十三日、鎌倉御所新造始まる。
奉行、上杉右衛門佐。ただし実名未確定。
八月二十七日、上棟。
末尾は応永十六年十月以後の記事へ続く。
校訂本文――公開用仮本文
応永十二年六月の記事より続く。
六月九日、洪水あり。
同月、祇園社の鳥居倒る。
斯波義重、管領となるとみらる。写本は「三管領」と記す。
上杉憲定、関東管領となる。
応永十三年。
正月十三日、畠山基国、卒す。五十五歳。号長禅寺、法名徳元。
春、天下飢饉す。
夏、大旱。
大明帝、日本へ使を遣わし、道義を日本国王と称して、帝王の冠服を贈る。
旧南朝方とみらるる者、これを笑いて批判す。
日本は小国なれども皇統相継ぎ、外国より独立して天下たり。
源義満、武臣の身をもって外国より国王号を受くること、不適切なりとする趣旨なり。
ただし批評末尾、未確定。
八月五日、洪水・大風あり。楼閣とみらるる建物倒る。
八月十七日、足利義持、右近衛大将を兼ぬ。
九月十二日夜、清水寺塔炎上。
十一月朔日、大地震。
応永十四年。
正月五日、大地震。
二月、足利義量生る。義持の男。母、一品資康の女。
夏六月、晴天に雷一鳴。
閏六月二十七日、霰降る。
この年、大旱・飢饉あり。
八月二十四日、大風・疫病。
九月十九日、大風・大飢饉。
九月二十九日、室町殿とみらるる建物焼亡。
十二月十四日、大潮入り・大地震。
この頃、洛中に連歌流行し、庶民もこれを好む。
二条殿、祇公法師・周阿法師・真鍋新左衛門・佐渡守等、連歌に名を顕す。
旧南朝方の君臣にも、連歌の名誉ある人多し。
ただし人物名・家名の区切り、未確定。
応永十五年。
二月六日、未読記事あり。
三月四日、足利義嗣、十五歳にて叙爵。
弟義円、青蓮院に入室す。
三月八日、帝、北山准后第へ行幸す。
三月二十四日、義嗣、左馬頭に任ず。
三月二十九日、左近衛中将に任ず。
四月二十日、藤原忠嗣、関白となる。
四月二十五日、義嗣、従三位に叙し、参議に任ず。
五月六日、前将軍足利義満、薨ず。五十一歳。
鹿苑院天山道義とみらるる院号・法名あり。ただし区切り未確定。
五月九日、帝、義満へ太上天皇の尊号を贈らんとす。
写本原字は太政天皇に近し。
将軍義持、再三これを辞す。
義満の葬送・追善に関する未読記事あり。
応永十六年。
春三月、朝鮮使来る。
斯波義重、管領となる。
六月二十九日、足利満兼の亭、回禄す。
満兼、三室戸遠江守の宿所へ入る。
七月十三日、鎌倉御所新造始まる。
上杉右衛門佐、造営奉行となる。ただし実名未確定。
七月二十三日、将軍足利義持、内大臣に任ず。
八月二十七日、鎌倉御所上棟。
〔鎌倉公方の代替わり、持氏継承、称光天皇受禅へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第21左~22右画像・印刷41~42ページ付近には、畠山基国死去、飢饉・大旱、義満の日本国王号、災害、義量誕生、連歌流行、義嗣昇進、義満死去、尊号辞退、朝鮮使、鎌倉御所再建に対応する記事があります。
写本と活字本は、事件と日付について全体としてよく一致します。
日本国王号への批評は、写本が仮名交じりの和文で詳しく説明し、活字本は同じ趣旨を漢文調で記します。
写本は、皇統の継続、日本の独立、義満が武臣であることを批判の根拠として説明します。
ただし、批評末尾は両本を照合しても完全には確定できません。
連歌の名人は、活字本が漢字で人名を記すため補読に有効ですが、写本の人名区切りを無条件に置き換えません。
義嗣の叙爵・左馬頭・左近衛中将・従三位・参議、義円の青蓮院入室、義満の五月六日死去・五十一歳は一致します。
義満の尊号は、写本・活字本とも「太政天皇」に近い字形ですが、意味は太上天皇です。
義持が尊号を再三辞退した点も一致します。
応永十六年の朝鮮使、満兼邸火災、七月十三日の鎌倉御所造営開始、八月二十七日の上棟も一致します。
写本part-5は上棟記事で終わりますが、活字本は義持の内大臣任官・移徙などの記事をさらに続けます。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 日本国王号批評 | 南朝方の批評を、仮名交じりの和文で詳しく説明 | 同じ趣旨を漢文調で記す | 写本の説明性を優先し、末尾の未読箇所は補わない |
| 帝王の冠服 | 明国から義満へ贈られたと記す | 同じ | 一致本文として採用するが、冠服の具体像は補わない |
| 応永十三年の災害 | 洪水・大風・清水寺塔炎上・地震を和文で記す | 同じ事件を漢文調で列記 | 日付の一致する大筋を採用する |
| 義量誕生 | 二月、日付なし。母は一品資康の娘 | 二月の記事。同じ母方表記 | 具体日を補わない |
| 九月二十九日の火災 | 京室町殿と読める可能性 | 殿舎名を補読できる可能性 | 室町殿とみられる建物として保留する |
| 連歌名人 | 仮名が崩れ、人名・家名の区切りが難しい | 祇公・周阿・真鍋新左衛門等を漢字で記す | 活字本による補読を明示し、確定一覧とはしない |
| 応永十五年二月六日 | 文意を確定できない | 句切りが難しい | 未読記事として保存する |
| 義満の院号・法名 | 鹿苑院天山道義とみられる | 鹿苑院天山を記す | 「道義」を含む区切りを保留する |
| 義満の尊号 | 太政天皇に近い字形 | 同様 | 原字に注意し、意味は太上天皇として訳す |
| 義満葬送 | 人名・寺院・日付の一部が未読 | 補読可能箇所はあるが句切り困難 | 葬送の細部を推測で補わない |
| 鎌倉御所造営 | 七月十三日開始、八月二十七日上棟 | 同じ | 一致本文として採用する |
| 記事配列 | 七月二十三日の後に六月二十九日を記す | 同様の配列 | 現代語訳は年代順に整理し、原文資料欄では配列を保存する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 日本国王号批評 | 武臣の身をもって国王号を受く | 批評末尾の数語が読めず、最終的な評価表現を確定できない | 低 |
| 災害・火災記事 | 楼閣吹き倒る/京室町殿焼亡/大潮入り | 対象建物・殿舎名・大潮の具体的現象を確定できない | 低~中 |
| 連歌関係者 | 祇公・周阿・真鍋新左衛門・佐渡守/峨眉・小倉殿等 | 仮名が強く崩れ、人名・家名・通称の区切りが未確定 | 低 |
| 応永十五年二月六日 | 蝦夷・将軍第に関係する記事か | 写本・活字本とも句切りと文意を確定できない | 低 |
| 北山行幸 | 帝、北山准后第へ行幸 | 供奉者を示す傍書が不明瞭 | 低~中 |
| 義満死去後 | 鹿苑院天山道義/太政天皇・太上天皇/葬送記事 | 院号・法名の区切り、尊号字形、葬送の人名・寺院・日付が未確定 | 低~中 |
| 満兼の避難先 | 三室戸遠江守の宿所 | 名字・邸宅名の別と、遠江守の実名を確定できない | 中 |
| 鎌倉御所造営奉行 | 上杉右衛門佐 | 上杉氏のどの人物か実名を確定できない | 低~中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第4冊part-5の全3ページを、外交批評・災害・文化・義満死去・鎌倉御所再建を含む一つの範囲として確認した。
- 前part末尾の応永十二年六月記事との接続を確認した。
- 斯波義重の「三管領」は管領就任とみられるが、原文表現を保存した。
- 畠山基国の正月十三日死去・五十五歳・長禅寺・徳元を、写本と活字本のほぼ一致する本文として採用した。
- 応永十三年の春飢饉・夏大旱を採用したが、地域・被害・米価・死者を補わなかった。
- 明国が義満を日本国王と呼び、帝王の冠服を贈った記事を採用した。
- 冠服の具体的な名称・形・色・材質を補わなかった。
- 「南軍笑ひて曰く」以下を、旧南朝方とみられる立場からの批評として整理した。
- 皇統の継続、日本の独立、義満が武臣であることを批評の主要論点として保存した。
- 批評末尾の数語を推測で復元しなかった。
- 義満の国王号への批判を、当時の日本人すべての共通意見とはしなかった。
- 八月五日の洪水・大風を採用したが、倒壊した建物を特定しなかった。
- 八月十七日の義持右大将兼任、九月十二日夜の清水寺塔炎上、十一月朔日の大地震を記事順に整理した。
- 応永十四年正月五日の大地震を、前年地震と同一の地震活動とは断定しなかった。
- 義量誕生を二月の記事として採用し、具体日を補わなかった。
- 義量の母について、写本の「一品資康の女」という表記を保存した。
- 晴天の雷、閏六月二十七日の霰、大旱・飢饉、大風・疫病を気象・災害記事として整理した。
- 九月二十九日の焼失建物を、室町殿の一つへ確定しなかった。
- 十二月十四日の「大潮入り」を、津波・高潮の一つへ断定しなかった。
- 連歌が洛中の庶民へ広まったという写本の説明を保存した。
- 連歌名人の人名は、活字本による補読を明示し、確定一覧とはしなかった。
- 旧南朝方の連歌関係者「峨眉・小倉殿」等を一つの人名・家名へ確定しなかった。
- 応永十五年二月六日の記事を推測で復元しなかった。
- 義嗣の三月四日叙爵・十五歳、義円の青蓮院入室を、写本・活字本の一致本文として採用した。
- 北山行幸の供奉者を、傍書から無理に補わなかった。
- 義嗣の左馬頭・左近衛中将・従三位・参議への昇進を日付順に整理した。
- 藤原忠嗣の姓・家名を外部系譜で置き換えなかった。
- 義満の五月六日死去・五十一歳を一致本文として採用した。
- 鹿苑院天山道義の区切りを確定した諡号全文とはしなかった。
- 写本・活字本の「太政天皇」に近い字形と、尊号としての太上天皇を区別した。
- 義持が尊号を再三辞退したことを採用したが、辞退理由・先例の全文を補わなかった。
- 義満の葬送・追善記事に、外部史料から人名・寺院・日付を補わなかった。
- 応永十六年三月の朝鮮使来訪を採用したが、使者名・文書・贈物を補わなかった。
- 義持の七月二十三日内大臣任官を、写本・活字本の一致本文として採用した。
- 満兼邸火災の「回禄」を火災として説明したが、出火原因・被害を補わなかった。
- 三室戸遠江守の実名を推測しなかった。
- 鎌倉御所の七月十三日造営開始・八月二十七日上棟を一致本文として採用した。
- 造営奉行の上杉右衛門佐を、特定の上杉氏人物へ置き換えなかった。
- 写本の記事が完全な月日順ではないことを注記し、原文配列を保存した。
- part末尾の上棟後の記事は、次節へ送った。
5.鎌倉府の代替わり――持氏継承と称光天皇の即位
対象年代:応永17~20年(1410~1413年)
対応史料:管理No.38・手書き写本第4冊part-6(全3ページ)/明治期活字本PDF第22画像(印刷42~43頁付近)
公開状態:第一次判読・第一次校訂
御所移徙の主語と場所、鎌倉公方足利満兼の死去記事の年代配置、幸王丸・上杉長基・足利満隆の記事、藤原経嗣の関白再任日、飛騨国司と京極氏の人名、上杉憲定の死去記事、称光天皇の母方系譜には未確定箇所があります。
鎌倉府の代替わり記事は写本上では応永十七年条に置かれるように見えます。本ページでは写本の記事順を保存し、実際の年次へ無理に修正しません。
この節の概要
前節末尾では、鎌倉御所の火災と再建に関係する記事が記されていた。本節冒頭には、京都または鎌倉の御所を夜中に移したと読める記事が続くが、主語と場所が混在しており、どちらの御所の移徙であるかは確定していない。
この節は、前節末尾の鎌倉御所再建後の移徙記事から始まります。
写本には、夜中に御所へ移ったと読める記事と、十二月十八日に鎌倉御所へ移徙したとみられる記事があります。しかし、京都の将軍御所と鎌倉御所の記事が混在しており、それぞれの主語と場所は確定していません。
応永十七年正月二十七日、大地震が起こりました。
二月二十七日、天龍寺が五山の第一位とされました。三月には鹿が内裏へ入り、春には吉野蔵王堂の供養が行われました。
夏四月、将軍足利義持は高野山へ参詣しました。六月五日には、畠山満家が幕府の管領となりました。
関東では、鎌倉公方家の幼い幸王丸が後継者となり、上杉氏憲が関東管領となったと記されます。
ただし、写本では足利満兼の死去と幸王丸の継承が応永十七年条に置かれるように見えます。前後の記事が混入している可能性もあるため、年代を確定しません。
同じ記事群には、新田義宗の子とされる新田貞方が捕らえられ、七里浜で処刑されたことも記されています。
上杉朝宗は、満兼の死を受けて鎌倉府の政務から退き、上総国長柄山へ下って遁世したとみられます。法名は禅助と補読されますが、人名・法名・地名は活字本への依存があります。
八月一日には大水と大風が起こりました。
八月十五日、幸王丸が上杉長基と読まれる人物とともに山内へ出たとみられます。このころ、足利満隆に陰謀の疑いがあるという噂も記されます。幸王丸は九月三日に元の場所へ戻ったと読めますが、主語・動詞・場所には不明点があります。
冬十二月には、藤原経嗣が再び関白となりました。日付は十二月二十一日または二十六日と読め、記事の重複・配列を再確認する必要があります。
応永十八年、春には飢饉が起こりました。夏には興福寺の五重塔・金堂・大湯屋・新御願塔二基などが落雷によって焼けたと記されます。
明の成祖、すなわち永楽帝は足利義持へ書状を送り、亡くなった足利義満を弔う祭文を作りました。そして義満へ「恭献王」という諡号を贈りました。
飛騨国では、南朝方とされる国司の勢力が兵を挙げました。幕府は京極加賀守と読まれる人物を飛騨へ派遣し、向井城・小島城を攻め落としました。
ただし、飛騨国司側の人物名と京極加賀守の実名は、写本では大きく崩れており、確定していません。
十二月二十二日、足利義嗣は権大納言となりました。同じ日、鎌倉の幸王丸が元服し、足利持氏と名乗りました。
応永十九年五月二十九日、足利義持は右近衛大将を辞任しました。その後、源氏長者となり、淳和院・奨学院両院の別当も兼ねました。
十二月二十八日、躬仁親王と読まれる皇子が十二歳で元服しました。
関東では、十二月十八日、関東管領上杉憲定が亡くなったと記されます。写本には、憲定が約二十年間、戦争を起こさず関東を治めたという趣旨の評語があります。
憲定の後は、子の上杉憲基が継ぎました。十二月二十七日、足利持氏は鎌倉の新御堂御所へ移りました。
応永二十年には、一色満範が伊勢国の守護となりました。
七月三日、関東で大風が吹き、由比浜にあった大鳥居の笠木が吹き落とされました。
八月二十九日、躬仁親王が皇位を譲り受け、称光天皇となりました。写本は、後小松天皇の皇子で、母は光範門院であると記します。
母方の父・祖父に関する細字注記もありますが、裏写りと重なり、人物名・官職を十分に読めていません。
南北朝合一時には、二つの皇統が交替して皇位を継ぐ条件が示されたと前巻に記されていました。後小松天皇の皇子である称光天皇の即位は、旧南朝方の不満と北畠満雅の挙兵へつながる背景となります。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読・準翻刻をもとに、写本の記事順と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
前part末尾の御所移徙から続く
前節では、鎌倉公方足利満兼の邸宅が火事で焼けた後、新しい鎌倉御所の建設が始まり、八月二十七日に上棟が行われた。
このpartの冒頭には、御所へ移り住んだことに関係する記事が続く。
一つは、夜中に「うつり移す」と読める記事である。
もう一つは、十二月十八日に渡御・移徙したとみられる記事である。
しかし、京都の将軍御所の移徙と、再建された鎌倉御所の移徙が近接して記されているため、どちらの記事の主語が足利義持・足利満兼のいずれで、どの御所を指すのかを確定できない。
そのため、公開用本文では、前partの御所再建後に移徙記事が続くことを示し、主語・場所を一方へ決めない。
応永十七年正月二十七日の大地震
応永十七年正月二十七日、大地震が起こった。
この日付は、手書き写本と明治期活字本で一致する。
ただし、地震の被害地域、倒壊した建物、死傷者などは、この写本範囲では確認できない。
そのため、正月二十七日の大地震という編年記事のみを保存する。
天龍寺が五山第一となる
二月二十七日、天龍寺が五山の第一位とされた。
五山は、幕府が特に重んじた禅宗寺院の集まりを示す。
写本は「天龍寺を五山第一とす」と記し、活字本も「天龍寺定五山第一」と記す。
日付と内容が一致するため、公開用仮本文へ採用する。
ただし、寺院順位を定めた文書、儀式、ほかの五山寺院の順位は、この三ページには記されていない。
寺院の順位を幕府が定める
天龍寺を五山第一とすることは、寺院内部だけの問題ではなかった。
幕府が有力禅寺の順位を決めることは、足利将軍家が仏教界の秩序にも大きく関わっていたことを示す。
ただし、これは制度の意味を理解するための公開用解説であり、写本が同じ表現で政治的評価を加えているわけではない。
鹿が内裏へ入る
三月、鹿が内裏へ入った。
写本では「鹿、大内に入る」と読め、活字本も同じ内容を記す。
「大内」は、この文脈では内裏を指すと整理される。
しかし、鹿がどこから入り、捕らえられたのか、その出来事を吉兆・凶兆のどちらとして受け取ったのかは記されていない。
そのため、異常・珍事として鹿の内裏侵入を記録するにとどめる。
吉野蔵王堂の供養
春には、吉野の蔵王堂で供養が行われた。
「蔵王堂」の字形は写本では崩れているが、活字本によって補読できる。
ただし、修理・再建・造営完成など、どの事業の供養だったのかは確定していない。
供養を主催した人物、参加者、日付も、この範囲では確認できない。
足利義持が高野山へ参詣する
夏四月、将軍足利義持は高野山へ参詣した。
写本・活字本は、義持の高野参詣という大筋で一致する。
ただし、出発日、道筋、宿所、供奉者、参詣の目的は、この範囲では確定していない。
そのため、義持が四月に高野山へ参詣したという記事までを本文とする。
畠山満家が管領となる
六月五日、畠山満家が幕府の管領となった。
日付・人物・役職は、写本と活字本で一致する。
管領は将軍を補佐し、幕府の政務をまとめる重要な役職である。
ただし、前任者、就任儀式、具体的な政務開始日は、この記事では確認できない。
鎌倉府の代替わり
関東の記事では、鎌倉公方足利満兼の死去と、幼い幸王丸の継承が記される。
幸王丸は、後に足利持氏と名乗る人物である。
しかし、写本ではこの一連の記事が応永十七年条の中に置かれるように見える。
満兼死去の記事が前の年から続くのか、編年上の誤写・混入なのか、別の記事の間へ挿入されたのかを確定できない。
そのため、本サイトでは写本の記事順を保存しながら、満兼死去・幸王丸継承の具体的年次をこの箇所だけから確定しない。
幼い幸王丸が後継者となる
満兼の男である幸王丸が、鎌倉公方家の後継者として立った。
幸王丸はまだ元服前であり、政治を一人で行える年齢ではなかったとみられる。
そのため、鎌倉府の有力者と関東管領が政治を支える必要があったと整理できる。
ただし、この最後の説明は、幼名・管領記事から政治構造を理解するための公開用解説である。
上杉氏憲が関東管領となる
幸王丸の継承記事に続き、上杉氏憲が関東管領となったと記される。
写本と活字本は、幸王丸の継承と上杉氏憲の管領就任を同じ記事群に置く。
ただし、正式な就任日・任命者・前任者との交代手続は、この範囲では確認できない。
氏憲は後の上杉禅秀の乱に関係する人物ですが、この節では関東管領就任までを中心に扱う。
新田貞方が捕らえられる
同じ記事群には、新田義宗の子である貞方の処刑が記される。
写本では実名・親子関係の字が崩れているが、活字本は「新田義宗の男・貞方」と明記する。
そのため、新田貞方という人物名は活字本を用いた補読として扱う。
貞方がどこで捕らえられ、誰が鎌倉へ送ったのかは、この範囲では確定していない。
七里浜で処刑される
新田貞方は、七里浜で処刑されたと記される。
「七里浜」という地名は写本だけでは読みにくく、活字本によって補読される。
処刑方法、命令者、同時に処刑された人物、首の扱いなどは確認できない。
そのため、「七里浜で誅せられた」という史料上の大筋を示し、具体的な処刑場面を補わない。
旧新田氏勢力への警戒
新田氏は、鎌倉幕府滅亡・南北朝内乱の時代に、足利氏と対立した一族だった。
南北朝合一後も、新田氏関係者は鎌倉府から警戒されていたことが、この処刑記事から分かる。
ただし、新田貞方がこの時点で具体的に反乱を計画していたのか、血統だけを理由に処分されたのかは、今回の写本からは確定できない。
上杉朝宗が鎌倉府を退く
足利満兼の死去を受け、上杉朝宗と読まれる人物は、鎌倉府の政務から退いたとみられる。
写本は、その人物が殿中を退出したことを仮名交じりの文章で説明する。
活字本では、人物を上杉朝宗、法名を禅助とし、上総国長柄山へ下向したと記す。
しかし、人名・法名・地名は活字本による補読への依存が大きいため、確定本文とはしない。
上総国長柄山で遁世する
上杉朝宗は、上総国長柄山へ移り、遁世したとみられる。
遁世は、政治・世俗の生活を離れ、出家・隠遁することを表す場合がある。
ただし、正式な出家の場所・戒師・法名授与の時期は確認できない。
本ページでは、鎌倉府から退き、長柄山へ下って遁世したという範囲を示す。
八月一日の大水・大風
八月一日、大水と大風が起こった。
この内容は、写本と明治期活字本で一致する。
しかし、洪水・風害の地域、倒壊した建物、死傷者、農作物被害は確認できない。
そのため、八月一日の風水害という編年記事として保存する。
幸王丸が山内へ出る
八月十五日、鎌倉の幸王丸が、上杉長基と読まれる人物とともに山内へ出たとみられる。
しかし、「上杉長基」という実名、誰が誰を伴ったのか、「山内へ出る」という動作の意味は確定していない。
山内が鎌倉の山内を指す可能性はあるが、現在の地名・邸宅・寺院の一つへ限定しない。
足利満隆の陰謀説
このころ、足利満隆が密かに陰謀を企てているという説があったと読める。
写本では仮名が連綿し、誰が満隆を疑い、どのような陰謀を想定したのかを読めていない。
明治期活字本は「満隆隠謀説有」と簡潔に記す。
そのため、満隆が実際に謀反を実行したとはせず、「陰謀の噂があった」とする。
幸王丸が九月三日に戻る
九月三日、幸王丸は元の場所へ戻ったと読める。
写本では「還座」とみられる語が使われる。
しかし、鎌倉御所・別の宿所・山内のどこへ戻ったのかは確定していない。
そのため、具体的な帰還先を補わず、九月三日の還座記事として扱う。
藤原経嗣が再び関白となる
冬十二月、藤原経嗣が再び関白となった。
ただし、写本の準翻刻では十二月二十一日と読める箇所と、十二月二十六日と読める箇所がある。
記事の重複、別の人物の記事との混在、数字の崩れなどを再確認する必要がある。
現代語訳では具体日を固定せず、「冬十二月、藤原経嗣が再び関白となった」とする。
応永十八年の飢饉
応永十八年春、飢饉が起こった。
しかし、被害地域、米価、死者、救済策は、この写本範囲では確認できない。
そのため、春の飢饉という史料上の記録を示す。
興福寺の建物が雷火で焼ける
夏、興福寺の建物が落雷による火災で焼けた。
明治期活字本は、五重塔・金堂・大湯屋・新御願塔二基を列挙する。
写本でも建物名が仮名交じりで列記されるが、字形が崩れている。
そのため、建物名は活字本による補読を明示し、写本だけで完全に読めた名称とはしない。
火災の具体日、人的被害、周囲への延焼、再建の経過は確認できない。
永楽帝が足利義持へ書状を送る
明の成祖、すなわち永楽帝は、足利義持へ書状を送った。
義持の父・足利義満は、すでに亡くなっていた。
永楽帝は義満を弔うための祭文を作り、日本へ送ったと記される。
写本と活字本は、義持への書状と、義満を弔う祭文という大筋で一致する。
義満へ「恭献王」の諡号を贈る
永楽帝は、亡くなった義満へ「恭献王」という諡号を贈った。
写本の諡号部分は崩れているが、明治期活字本によって「恭献王」と確認できる。
前節では、義満が生前に明国から「日本国王」と呼ばれたことと、それを批判する記事が記されていた。
今回の記事は、義満の死後も、明国が足利将軍家を日本との外交相手として扱ったことを示す。
ただし、この最後の説明は外交記事を理解するための整理であり、写本の直接的な評言ではない。
飛騨国司の勢力が兵を挙げる
秋七月二十八日、飛騨国では、南朝方とされる国司の勢力が兵を挙げた。
写本の人物名は、「幸桓尹」「尹綱」などに見える部分がありますが、確定できない。
そのため、人物名を一方へ統一せず、「南方飛騨国司と記される勢力」とする。
南北朝が合一した後も、地方では旧南朝方と関係する勢力や、幕府に従わない武士の抵抗が続いていたことを示す記事と整理できる。
京極氏が飛騨へ派遣される
幕府は、京極加賀守と読まれる人物を飛騨国へ派遣した。
実名は「高数」などに見えますが、写本・活字本を再拡大して確認する必要がある。
そのため、主本文では「京極氏の軍勢」とし、実名を確定しない。
向井城・小島城を攻め落とす
京極氏の軍勢は、向井城・小島城と読まれる二つの城を攻め落とした。
城名は明治期活字本によって補強されている。
しかし、写本だけでは「向井」「小島」の字を完全には確定できない。
また、各城の城主、守備兵、攻撃日、落城後の処分も不明である。
そのため、「向井城・小島城と読まれる両城が落ちた」という範囲を本文とする。
明国の使者が帰国する
九月九日、明国の使者が帰国した。
ただし、使者の名前、人数、出発港、船、同行者は確認できない。
義満追悼の書状・祭文を届けた使者と同一かどうかも、この写本本文だけからは確定できない。
飛騨の戦後処理
十一月二十五日には、飛騨国の反乱後の処分・恩賞に関係するとみられる記事がある。
しかし、誰を処分し、誰へ何を与えたのかを十分に読めていない。
そのため、戦後処理の具体的内容を推測で補わず、判読保留として保存する。
足利義嗣が権大納言となる
十二月二十二日、足利義嗣は権大納言に任じられた。
前節では、義嗣が十五歳で叙爵され、短期間に左馬頭・左近衛中将・従三位・参議へ進んだことが記されていた。
今回の権大納言任官は、その昇進がさらに続いたことを示す。
日付は写本・活字本で十二月二十二日と確認できる。
幸王丸が元服して持氏と名乗る
同じ十二月二十二日、鎌倉の幸王丸が元服した。
幸王丸は「持氏」と名乗った。
幼名から足利持氏という成人名へ改めたことは、鎌倉公方として正式に政治を担う段階へ進んだことを示すと整理できる。
ただし、元服の加冠者、烏帽子親、「持」の字を与えた人物、儀式の場所は、この範囲では確認できない。
応永十九年・義持が右近衛大将を辞める
応永十九年五月二十九日、足利義持は右近衛大将を辞任した。
写本には、その前の「去る七日」に兵仗を賜ったと読める傍書がありますが、意味と記事との関係は再確認が必要である。
そのため、主本文では五月二十九日の大将辞任を確定部分として扱う。
義持が院執事となる
同じ五月二十九日、義持は院執事となったと記される。
ただし、どの院に対する執事なのか、具体的な職務は、この写本範囲では詳しく説明されない。
そのため、写本の官職表現をそのまま保存する。
源氏長者となる
十月二十二日、足利義持は源氏長者となった。
源氏長者は、源氏一族を代表する立場を表す。
義持は将軍として武家を治めるだけでなく、源氏の代表として朝廷社会の高い地位にも関わった。
ただし、写本が源氏長者の職務内容を詳しく説明しているわけではない。
淳和院・奨学院の別当を兼ねる
義持は、淳和院と奨学院の別当も兼ねた。
写本では「淳和奨学両院別当」と読める。
二つの院の具体的な管理業務・就任儀式は、この範囲からは確認できない。
本ページでは、義持が将軍職に加えて朝廷社会の複数の地位を持ったことを示す。
躬仁親王が十二歳で元服する
十二月二十八日、躬仁親王と読まれる皇子が元服した。
写本は、年齢を十二歳と記す。
日付・年齢は明治期活字本と一致する。
ただし、加冠者・儀式場所・装束などは、この写本範囲では確認できない。
この皇子が、翌応永二十年に皇位を継ぎ、称光天皇となる。
上杉憲定が亡くなる
関東では、十二月十八日、関東管領上杉憲定が亡くなったと記される。
ただし、写本では十二月二十八日の躬仁親王元服記事と前後して置かれ、記事順が完全な日付順ではない。
死亡日を十二月十八日と読めますが、記事配列を含めて再確認する必要がある。
二十年間、戦争を用いなかったという評
写本には、上杉憲定が関東管領として約二十年間、干戈を用いなかったという趣旨の評語がある。
「干戈」は武器・戦争を表す。
つまり、憲定が大きな戦争を起こさず、関東を治めたという評価とみられる。
しかし、評語の逐字と、二十年の起算点には再確認が必要である。
そのため、「二十年間、干戈を用いなかったという趣旨」と限定して掲載する。
上杉憲基が後を継ぐ
憲定の死後、子の上杉憲基が後を継いだ。
実名は明治期活字本によって補強されている。
正式な就任日・任命手続・関東管領としての最初の政務は、この範囲では確認できない。
持氏が新御堂御所へ移る
十二月二十七日、足利持氏は鎌倉の新御堂御所へ移った。
「新御堂御所」は、写本では「新御堂」または「新御堂御所」と読める。
前節で再建された鎌倉御所と同一の施設か、別の御所名なのかは、写本の呼称を比較して確認する必要がある。
そのため、特定の現在地・建物配置へ比定しない。
応永二十年・一色満範が伊勢守護となる
応永二十年春、一色満範が伊勢国の守護となった。
人物名・守護国は比較的明瞭で、活字本とも一致する。
ただし、任命日、前任守護、守護職交代の理由は、今回の写本には記されていない。
七月三日の関東大風
七月三日、関東で大風が吹いた。
写本・活字本は、この日付と大風の記事で一致する。
ただし、関東のどの地域が被害を受けたか、家屋・船・田畑の被害は確認できない。
由比浜の大鳥居の笠木が落ちる
大風によって、由比浜にあった大鳥居の笠木が吹き落とされた。
「由比」は写本で「由井」とも見えるため、表記差がある。
笠木は、鳥居の最上部に横に渡された部材を指す。
しかし、何の社寺の鳥居だったのか、鳥居の具体的な位置は確定していない。
そのため、「由比浜の大鳥居」とする写本記事を保存し、特定の社寺名を補わない。
躬仁親王が皇位を譲り受ける
八月二十九日、躬仁親王は先帝から皇位を譲り受けた。
写本は「受禅」と記す。
受禅とは、先帝から皇位を譲られて天皇となることを表す。
この日付は写本・活字本で一致すると整理されているため、公開用仮本文へ採用する。
称光天皇となる
皇位を継いだ躬仁親王が、称光天皇である。
写本は「称光院」と記し、人皇百二代とする。
ただし、天皇の代数の数え方は史料・時代によって整理方法が異なる可能性があるため、写本が百二代と記すことを史料情報として示す。
即位儀礼・践祚後の主要行事は、この三ページでは詳しく記されていない。
後小松天皇の皇子
写本は、称光天皇が後小松天皇の皇子であると説明する。
母は光範門院と記される。
この大筋は、明治期活字本の本文・割注と一致する。
ただし、母方の父・祖父の実名と官職を説明する細字は、裏写りと重なり不明瞭である。
「儀同三司資教の女」とみられる語もありますが、系譜全文を確定できていない。
両統迭立の約束との関係
南北朝合一の記事では、二つの皇統が交替して皇位を継ぐという条件が記されていた。
ところが、この節では後小松天皇の皇子である称光天皇が皇位を継いだ。
写本の次の範囲では、皇位継承をめぐる不満と北畠満雅の挙兵が記される。
そのため、称光天皇の受禅は、単なる天皇の代替わりだけでなく、南北朝合一時の条件がどのように扱われたかという問題の前段となる。
ただし、このpartが称光天皇の即位を直接「約束違反」と評しているとは限らず、次partとの記事接続から理解できる政治的背景として説明する。
この節の二つの代替わり
この節には、二つの大きな代替わりが記される。
- 鎌倉府:幸王丸が鎌倉公方家を継ぎ、元服して足利持氏となる
- 朝廷:躬仁親王が受禅し、称光天皇となる
鎌倉府では幼い後継者を関東管領が補佐し、朝廷では南北朝合一後の皇位継承が新たな政治問題へつながった。
次の第6節では、称光天皇即位をめぐる皇位継承問題、奥州の宮方、北畠満雅の挙兵、木造城・阿射賀城の攻防、白米を水に見せる計略へ進む。
流れが分かる現代語訳
応永十七年、正月二十七日に大地震が起こった。
二月二十七日、京都の天龍寺が五山の第一位となった。
五山とは、幕府が特に重んじた禅宗寺院の集まりである。
三月には鹿が内裏へ入り、春には吉野蔵王堂で供養が行われた。
足利義持は高野山へ参詣し、六月五日には畠山満家が幕府の管領となった。
関東では、鎌倉公方家の代替わりが進んでいた。
幼い幸王丸が後継者となり、上杉氏憲が関東管領となった。
ただし、満兼の死と幸王丸の継承が、なぜ応永十七年条に置かれているのかは確定していない。
新田義宗の子とされる新田貞方は捕らえられ、鎌倉に近い七里浜で処刑された。
人名・親子関係・場所は、活字本を使って補っている。
上杉朝宗は鎌倉府の政治から退き、上総国長柄山へ移って遁世したとみられる。
八月一日には、大水と大風が起こった。
このころ、足利満隆が陰謀を企てているという噂もあったが、本当に謀反を起こしたとは書かれていない。
応永十八年、春には飢饉が起こった。
夏には、興福寺の五重塔・金堂・大湯屋などが落雷によって焼けた。
明の永楽帝は足利義持へ書状を送った。
さらに、亡くなった足利義満を弔う祭文を作り、「恭献王」という諡号を贈った。
義満は生前、明国から「日本国王」として扱われていた。
義満の死後も、明国は足利将軍家を日本との外交相手として扱っていたのである。
飛騨国では、南朝方とされる国司の勢力が兵を挙げた。
幕府は京極氏の軍勢を送り、向井城・小島城を攻め落とした。
ただし、飛騨国司と京極氏の実名はまだ確定していない。
十二月二十二日、足利義嗣が権大納言となった。
同じ日、鎌倉の幸王丸が元服し、足利持氏と名乗った。
応永十九年、足利義持は右近衛大将を辞めた。
その後、源氏長者となり、淳和院・奨学院の別当も兼ねた。
将軍は武家だけでなく、朝廷社会の高い地位にも深く関わっていた。
十二月二十八日、躬仁親王が十二歳で元服した。
関東では、上杉憲定が亡くなり、子の上杉憲基が後を継いだ。
写本は、憲定が約二十年間、大きな戦争を起こさず関東を治めたという趣旨で評価している。
足利持氏は、鎌倉の新御堂御所へ移った。
応永二十年、一色満範が伊勢国の守護となった。
七月三日、関東で大風が吹き、由比浜の大鳥居の笠木が吹き落とされた。
八月二十九日、躬仁親王が皇位を譲り受け、称光天皇となった。
称光天皇は後小松天皇の皇子で、母は光範門院と記される。
ただし、母方の細かな系譜は、写本の裏写りと重なって読めていない。
南北朝合一時には、二つの皇統が交替して天皇を出す約束があった。
しかし、後小松天皇の皇子である称光天皇がそのまま皇位を継いだ。
この皇位継承への不満が、次の北畠満雅の挙兵へつながっていく。
人物・用語・史料注記
足利幸王丸・持氏
鎌倉公方家の後継者です。幼名を幸王丸といい、応永十八年十二月二十二日に元服して足利持氏と名乗ったと記されます。満兼死去・継承記事の年代配置には問題があります。
上杉氏憲
幸王丸の継承記事とともに関東管領となったと記されます。後の上杉禅秀の乱に関係しますが、この節では管領就任までを中心に扱います。
新田貞方
新田義宗の子として明治期活字本から補読される人物です。七里浜で処刑されたと記されますが、捕縛者・命令者・処刑方法は未確定です。
上杉朝宗・禅助
足利満兼の死後、鎌倉府の政務から退き、上総国長柄山へ下って遁世したとみられる人物です。朝宗・禅助・長柄山の読みは活字本への依存があります。
天龍寺五山第一
応永十七年二月二十七日に、天龍寺が五山の第一位とされた記事です。写本と活字本で一致します。
恭献王
明の永楽帝が、亡くなった足利義満へ贈ったと記される諡号です。写本の文字は崩れていますが、活字本によって補読できます。
飛騨国司の反乱
南朝方とされる飛騨国司の勢力が兵を挙げた記事です。国司側の人物名は幸桓尹・尹綱などにも見えますが、確定していません。
向井城・小島城
飛騨国司勢力が拠点としたとみられ、京極氏の軍勢によって攻め落とされた二城です。城名は活字本によって補強され、城主・攻防の詳細は未確定です。
上杉憲定
関東管領です。十二月十八日に亡くなったと読め、子の憲基が後を継ぎました。「二十年間、干戈を用いず」とみられる評語の逐字には再確認が必要です。
源氏長者
源氏一族を代表する地位です。足利義持は右近衛大将を辞めた後、源氏長者となり、淳和院・奨学院両院の別当も兼ねました。
躬仁親王・称光天皇
応永十九年十二月二十八日に十二歳で元服し、翌応永二十年八月二十九日に受禅して称光天皇となったと記されます。諱の読みと母方の詳しい系譜には再確認が必要です。
受禅
先帝から皇位を譲られて天皇となることです。この節では、躬仁親王が応永二十年八月二十九日に受禅したと記されます。
両統迭立
南北朝合一時に示された、二つの皇統が交替して皇位を継ぐという条件です。称光天皇の受禅と、その後の北畠満雅の反発を理解するための重要な背景です。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第4冊 part-6、全3ページ
- 対象年代:応永十七年~応永二十年(1410~1413年)
- 内容区分:編年本文・鎌倉府・皇位継承
- 明治期活字本:PDF第22画像・印刷42~43ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 主要判読保留:8群
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前part末尾の鎌倉御所再建後の移徙記事から続く。
京都の将軍御所または鎌倉御所に関して、「夜中うつり移す」と読まれる記事あり。
十二月十八日、鎌倉御所の渡御・移徙とみられる記事あり。
主語・場所・両記事の関係、未確定。
応永十七年。
正月二十七日、大地震。
二月二十七日、天龍寺を五山第一とす。
三月、鹿、大内に入る。
春、吉野蔵王堂供養。
夏四月、将軍足利義持、高野山へ参詣す。
六月五日、畠山満家、管領となる。
関東において、足利満兼の薨去・幸王丸継承の記事あり。
ただし、応永十七年条に置かれるように見え、年代配置未確定。
満兼の男、幸王丸立つ。
上杉氏憲、関東管領となる。
同じ記事群に、新田義宗の男・貞方と読まれる人物の処刑記事あり。
新田貞方、七里浜にて誅せらるとみらる。
人名・親子関係・地名は活字本による補読を含む。
満兼薨去により、上杉朝宗と読まれる人物、殿中を退く。
法名禅助、上総国長柄山へ下向し、遁世すとみらる。
八月一日、大水・大風。
八月十五日、幸王丸、上杉長基と読まれる人物と山内へ出るとみらる。
足利満隆に隠謀の説あり。
九月三日、幸王丸、還座すとみらる。ただし帰還先未確定。
冬十二月、藤原経嗣、再び関白となる。
日付は十二月二十一日または二十六日と読め、未確定。
応永十八年。
春、飢饉。
夏、興福寺五重塔・金堂・大湯屋・新御願塔二基等、雷火によって焼失す。
建物名は活字本による補読を含む。
大明成祖皇帝、足利義持へ書を贈る。
故足利義満を弔慰し、祭文を作る。
義満へ恭献王の諡を贈る。
秋七月二十八日、南方飛騨国司と記される勢力、兵を挙ぐ。
飛騨国司側の人物名、幸桓尹・尹綱等にも見えるが未確定。
京極加賀守と読まれる人物を飛騨へ発向せしむ。
京極氏の実名、高数等にも見えるが未確定。
向井・小島両城を攻め落とす。
九月九日、大明使、帰る。
十一月二十五日、飛騨国関係の処分・恩賞とみられる記事あり。全文未確定。
十二月二十二日、足利義嗣、権大納言に任ず。
同日、鎌倉幸王丸、元服し、持氏と号す。
応永十九年。
五月二十九日、将軍足利義持、右近衛大将を辞す。
同日、院執事となると記さる。
十月二十二日、義持、源氏長者・淳和院奨学院両院別当となる。
十二月二十八日、躬仁親王、十二歳にて元服す。
十二月十八日、関東管領上杉憲定、卒すとみらる。
在職中二十年、干戈を用いず関東を治めたとの評語あり。
ただし死亡日・記事配列・評語の逐字、未確定。
男、上杉憲基立つ。
十二月二十七日、足利持氏、鎌倉新御堂御所へ移る。
応永二十年。
春、一色満範、伊勢国守護となる。
秋七月三日、関東に大風。
由比浜大鳥居の笠木、吹き落つ。
八月二十九日、躬仁親王、受禅す。
称光院、人皇百二代と記さる。
後小松院の皇子、母は光範門院。
母方系譜に関する細字注記あり。ただし裏写りと重なり未確定。
末尾は皇位継承問題・北畠満雅の乱へ続く。
校訂本文――公開用仮本文
前partの鎌倉御所再建後の移徙記事より続く。
京都将軍御所または鎌倉御所に関する移徙記事あり。ただし主語・場所未確定。
応永十七年。
正月二十七日、大地震。
二月二十七日、天龍寺を五山第一とす。
三月、鹿、内裏へ入る。
春、吉野蔵王堂供養。
夏四月、足利義持、高野山へ参詣す。
六月五日、畠山満家、管領となる。
関東において足利満兼の死去・幸王丸の継承記事あり。
ただし応永十七年条に置かるるように見え、年次未確定。
幸王丸、鎌倉公方家を継ぐ。
上杉氏憲、関東管領となる。
新田義宗の男・貞方と読まるる人物、七里浜にて誅せらる。
上杉朝宗と読まるる人物、殿中を退き、上総国長柄山へ下向して遁世す。
法名、禅助とみらる。
八月一日、大水・大風。
八月十五日、幸王丸、上杉長基と読まるる人物と山内へ出るとみらる。
足利満隆に隠謀の説あり。
九月三日、幸王丸還座す。ただし帰還先未確定。
冬十二月、藤原経嗣、再び関白となる。具体日未確定。
応永十八年。
春、飢饉。
夏、興福寺五重塔・金堂・大湯屋等、雷火に遭う。
大明成祖皇帝、足利義持へ書を贈る。
故足利義満を弔う祭文を作り、恭献王の諡を贈る。
秋七月二十八日、南方飛騨国司と記さるる勢力、兵を挙ぐ。
京極氏の軍勢、飛騨へ発向す。
向井・小島両城を攻め落とす。
ただし飛騨国司・京極氏の人名未確定。
九月九日、大明使帰る。
飛騨国戦後処理の未読記事あり。
十二月二十二日、足利義嗣、権大納言に任ず。
同日、幸王丸元服し、足利持氏と号す。
応永十九年。
五月二十九日、足利義持、右近衛大将を辞す。
義持、院執事となる。
十月二十二日、源氏長者・淳和院奨学院両院別当となる。
十二月二十八日、躬仁親王、十二歳にて元服す。
十二月十八日、上杉憲定、卒すとみらる。
約二十年、干戈を用いず関東を治むとの評あり。ただし逐字未確定。
子の上杉憲基、後を継ぐ。
十二月二十七日、足利持氏、鎌倉新御堂御所へ移る。
応永二十年。
一色満範、伊勢国守護となる。
七月三日、関東大風。
由比浜大鳥居の笠木、吹き落つ。
八月二十九日、躬仁親王、受禅す。
称光天皇となる。
後小松天皇の皇子。母、光範門院。
母方系譜の細字注記あり。ただし未確定。
〔皇位継承問題、北畠満雅の挙兵へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第22画像・印刷42~43ページ付近には、御所移徙、応永十七年の大地震、天龍寺五山第一、吉野蔵王堂、畠山満家の管領就任、鎌倉公方家の継承、新田貞方処刑、義満追悼、飛騨合戦、持氏元服、上杉憲定死去、称光天皇受禅に対応する記事があります。
写本と活字本は、事件の大筋で全体的によく一致します。
御所移徙について、写本は「夜中うつり移す」など仮名交じりで記し、活字本は京都・鎌倉それぞれの移徙を簡潔に記すため、主語・場所は活字本の方が分かりやすくなっています。
応永十七年正月二十七日の地震、二月二十七日の天龍寺五山第一、三月の鹿の内裏侵入、吉野蔵王堂供養、畠山満家の管領就任は一致します。
鎌倉府の継承記事も、幸王丸と上杉氏憲を記す点でほぼ一致しますが、写本における満兼死去記事の年次配置には問題があります。
新田貞方は、活字本が新田義宗の子・貞方、七里浜での誅殺と明記するため、人名・場所の補読に有効です。
上杉朝宗の記事も、活字本は法名禅助・上総国長柄山を詳しく記します。
明の永楽帝による義満追悼、「恭献王」の諡号、飛騨国司勢力への京極氏派遣、向井・小島両城の落城は、大筋で一致します。
飛騨国司側・京極氏側の人名は、活字本を用いても再拡大が必要です。
幸王丸の元服・持氏への改名、躬仁親王の十二歳での元服、由比浜大鳥居の記事、称光天皇の受禅も一致します。
称光天皇の父母は活字本の本文・割注で詳しく記されますが、写本の母方系譜注記は裏写りによって読みにくくなっています。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 御所移徙 | 「夜中うつり移す」など仮名交じりで記す | 京都・鎌倉の移徙日を簡潔に記す | 主語・場所を一方へ確定しない |
| 鎌倉府の代替わり | 満兼死去・幸王丸継承が応永十七年条に置かれるように見える | 幸王丸継承・氏憲管領就任を漢文で記す | 写本の記事順を保存し、年次は保留する |
| 新田貞方 | 人名・親子関係・地名が崩れる | 新田義宗の子・貞方、七里浜で誅殺と明記 | 活字本による補読を明示する |
| 上杉朝宗 | 遁世の経過を和文で説明 | 朝宗・禅助・上総国長柄山を詳記 | 具体名は暫定読みとして扱う |
| 幸王丸・満隆 | 主語・動詞が不明瞭 | 満隆陰謀説を簡潔に記す | 実際の謀反とはせず、噂として扱う |
| 興福寺雷火 | 建物名を仮名交じりで列記 | 五重塔・金堂・大湯屋・新御願塔二基を明記 | 建物名は活字本補読を明示する |
| 飛騨国司の反乱 | 国司・京極氏の人名が難読 | 人物名と向井・小島両城を漢字で記す | 人名は保留し、城名は暫定採用する |
| 上杉憲定 | 死去と「二十年干戈を用いず」の評語を記すが崩れが強い | 卒去・憲基継承・平穏を保った評を記す | 大筋を採用し、日付・評語の逐字は保留する |
| 称光天皇系譜 | 父母を和文・細字で説明するが裏写りがある | 本文・割注で父母を詳記 | 父母の大筋を採用し、母方細系譜は保留する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| part冒頭 | 京都・鎌倉御所の移徙 | 「夜中うつり移す」の主語と場所、十二月十八日の移徙記事との関係が不明 | 低 |
| 鎌倉府記事 | 満兼薨去・幸王丸継承 | 応永十七年条に置かれるように見え、実際の年次・前後記事との混入を確認できない | 低 |
| 幸王丸・満隆関係 | 上杉長基と山内へ出る/満隆隠謀説 | 主語・動詞・場所・満隆の陰謀内容を確定できない | 低 |
| 藤原経嗣 | 十二月二十一日/二十六日、関白再任 | 数字・記事重複・配列に問題があり具体日を確定できない | 低~中 |
| 飛騨国司 | 幸桓尹・尹綱等か | 国司側人物の実名が大きく崩れ、一人・複数人の別も不明 | 低 |
| 京極氏・城名 | 京極加賀守高数か/向井・小島両城 | 実名は未確定。城名は活字本によって補強している | 低~中 |
| 上杉憲定 | 十二月十八日卒去/二十年干戈を用いず | 記事順が前後し、死亡日・在職年数・評語の逐字に再確認が必要 | 中 |
| 称光天皇系譜 | 母・光範門院/儀同三司資教の女か | 母方の父・祖父の官職・実名を記す細字が裏写りと重なり不明瞭 | 低~中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第4冊part-6の全3ページを、御所移徙・鎌倉府代替わり・明外交・飛騨合戦・皇位継承を含む一つの範囲として確認した。
- 前part末尾の鎌倉御所再建・上棟記事と、part-6冒頭の移徙記事を通読した。
- 京都将軍御所と鎌倉御所の記事が混在するため、移徙の主語・場所を一方へ確定しなかった。
- 応永十七年正月二十七日の大地震を、写本・活字本の一致本文として採用した。
- 二月二十七日の天龍寺五山第一を一致本文として採用した。
- 五山の具体的な全順位・決定文書を外部資料から補わなかった。
- 三月の鹿の内裏侵入を採用したが、吉兆・凶兆の評価を補わなかった。
- 吉野蔵王堂供養を確認したが、供養対象・主催者・日付を補わなかった。
- 義持の高野山参詣を確認したが、経路・供奉者・目的を推測しなかった。
- 六月五日の畠山満家管領就任を一致本文として採用した。
- 満兼死去・幸王丸継承記事が応永十七年条に置かれるように見える問題を明記した。
- 外部の一般的年表に合わせて、写本の記事位置を無断で変更しなかった。
- 幸王丸の後継と上杉氏憲の関東管領就任を、鎌倉府代替わりの記事として整理した。
- 新田貞方の人名・親子関係・七里浜は、活字本による補読であることを明示した。
- 新田貞方の捕縛者・命令者・処刑方法を補わなかった。
- 上杉朝宗・法名禅助・上総国長柄山は、活字本補読を含む暫定情報として扱った。
- 遁世を正式な出家儀礼の詳細へ置き換えなかった。
- 八月一日の大水・大風を一致本文として採用した。
- 幸王丸・上杉長基・山内の記事は、主語・動詞・場所を確定しなかった。
- 足利満隆の記事を、実際に起こった謀反ではなく陰謀の噂として扱った。
- 九月三日の還座先を推測しなかった。
- 藤原経嗣の関白再任日は、十二月二十一日/二十六日の一方へ確定しなかった。
- 応永十八年春の飢饉を確認したが、被害地域・米価・死者を補わなかった。
- 興福寺雷火の建物名は、活字本による補読を明示した。
- 永楽帝が義持へ書状を送り、義満を弔う祭文と恭献王の諡号を贈った記事を採用した。
- 明使の実名・船・文書全文・帰国経路を補わなかった。
- 飛騨国司勢力を旧南朝方とする写本・台帳の整理を採用したが、人名を確定しなかった。
- 京極加賀守の実名を「高数」などの一つへ統一しなかった。
- 向井城・小島城を活字本で補強した暫定城名として扱った。
- 各城の現在地・城主・攻防経過を補わなかった。
- 十一月二十五日の飛騨戦後処理記事を推測で復元しなかった。
- 十二月二十二日の義嗣権大納言・幸王丸元服を、写本・活字本の一致する記事として整理した。
- 持氏元服の加冠者・烏帽子親・偏諱授与者を補わなかった。
- 応永十九年五月二十九日の義持大将辞任を採用したが、「去る七日」の傍書は保留した。
- 義持の院執事・源氏長者・淳和院奨学院両院別当を記事順に整理した。
- 躬仁親王の十二月二十八日・十二歳での元服を一致本文として採用した。
- 上杉憲定の死亡日・記事配列・二十年間の評語を確定本文とはしなかった。
- 上杉憲基の継承を採用したが、正式な就任手続を補わなかった。
- 持氏の新御堂御所移徙を採用したが、現在地・前節の御所との同一性を断定しなかった。
- 一色満範の伊勢守護就任を採用したが、交代理由・前任者を補わなかった。
- 七月三日の関東大風と由比浜大鳥居の笠木落下を、一致する記事として採用した。
- 大鳥居を特定の社寺へ結びつけなかった。
- 八月二十九日の躬仁親王受禅・称光天皇を採用した。
- 写本の「人皇百二代」は史料表現として保存し、一般的な代数へ無断で置き換えなかった。
- 称光天皇が後小松天皇の皇子、母が光範門院であるという大筋を採用した。
- 光範門院以下の母方系譜注記を、外部系譜から補わなかった。
- 称光天皇受禅と両統迭立問題の関係を、次節への背景として説明した。
- このpartだけで称光天皇即位を明確な「約束違反」と断定しなかった。
6.北畠満雅の乱――両統迭立問題と白米の計略
対象年代:応永20~22年(1413~1415年)
対応史料:管理No.39・手書き写本第4冊part-7(全3ページ)/明治期活字本PDF第22左画像(印刷43頁)
公開状態:第一次判読・第一次校訂
皇位を争った三者、奥州大仏城の討伐者、関氏一党、建長寺の正統庵、伊勢諸城、世保大膳大夫康政、阿射賀城周辺の地名、白米計略の道具と動作には未確定箇所があります。
「北畠満雅の乱」「白米の計略」は内容を理解しやすくするための公開用表現です。白米の記事は写本が伝える籠城伝承として掲載し、実際に同じ方法が行われたことを別史料で確認したものではありません。
この節の概要
前節では、後小松天皇の皇子である躬仁親王が皇位を譲り受け、称光天皇となりました。
しかし、南北朝合一の際には、二つの皇統が交替して皇位を継ぐ「両統迭立」が条件として示されたと記されていました。
写本は、称光天皇の即位前後に、皇位をめぐって三人の候補が争い、武家の評定によって決定されたという趣旨を記します。
ただし、その三人が称光天皇、伏見宮方の皇族、旧南朝方の皇子を指すのかは確定していません。
旧南朝方に近い北畠満雅は、皇位継承のあり方に反発し、伊勢国で兵を挙げました。
満雅には、関氏を中心とする伊勢の武士たちが加わったと記されます。関・神戸・峯・国府・鹿伏兎などと読まれる名前がありますが、名字・地名の境界には再確認が必要です。
北畠方は、木造・阿射賀・多気・大河内・坂内・玉丸などと読まれる伊勢各地の城へ軍勢を配置しました。
一方、北畠俊康と記される人物だけは、京都の幕府方へ属したと写本・活字本は伝えます。
幕府は土岐持益らとみられる軍勢を伊勢へ送り、北畠方の城を攻めました。
木造城や阿射賀城では激しい攻防が続きました。城名・攻撃側の武将名・戦闘順序には、活字本による補読が含まれます。
阿射賀城とみられる城では、水が乏しくなったことを攻め手に悟られないよう、城兵が白米を水のように見せる計略を用いたと記されます。
白米を樽などへ入れ、柄杓で水を扱うように見せることで、城内にはまだ十分な水があると思わせたという話です。
ただし、樽・柄杓・白米をどのように使ったのかという逐字は完全には確定していません。
次のpart冒頭では、この出来事によって、後にその城が「白米城」と呼ばれるようになったと記されます。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読・準翻刻をもとに、写本の記事順と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
称光天皇の即位から続く
前節の末尾では、躬仁親王が受禅し、称光天皇となった。
称光天皇は後小松天皇の皇子であり、写本は母を光範門院と記していた。
しかし、南北朝合一の際には、旧南朝方と北朝方の皇統が交替して皇位を継ぐという条件が示されたと記されていた。
そのため、後小松天皇と同じ皇統から称光天皇が即位したことは、旧南朝方にとって重要な問題となったと整理できる。
ただし、前partの称光天皇即位記事そのものが、即位を明確に「約束違反」と批判しているとは限らない。
このpartで皇位をめぐる争いと北畠満雅の挙兵が続くため、両統迭立問題を事件の背景として説明する。
皇位をめぐって三者が争う
写本は、皇位をめぐって三人の候補が争ったという趣旨を記す。
その中には、称光天皇、伏見宮方とみられる皇族、旧南朝方の皇子が含まれる可能性がある。
しかし、三人の名前を一人ずつ確定できていない。
写本の仮名が連続し、本文と傍書、皇族名と説明文の区切りが不明瞭であるためである。
そのため、本ページでは「皇位をめぐって三者が争った」とし、候補者名を確定一覧として示さない。
武家の評定によって決められる
皇位継承について、武家が評定を行い、結論を出したと読める。
これは、皇位継承が皇族・公家だけの問題ではなく、幕府の政治判断とも深く関係していたことを示す記事である。
しかし、評定に参加した武将、発言内容、最終決定者、三人の候補に対する判断理由は確定していない。
また、写本が称光天皇の即位決定そのものを記すのか、即位後に争いの経過を説明しているのかも再校訂が必要である。
両統迭立とは何か
両統迭立とは、二つの皇統が交替して皇位を継ぐことを意味する。
『南方紀伝』の南北朝合一記事では、この交替即位が和平条件の一つとして記されていた。
ただし、具体的に何代ごとに交替するのか、最初にどちらの皇統が皇位を継ぐのかという細則は、合一条件の逐字を確定できていない。
したがって、この節でも「旧南朝方は両統迭立が守られていないと受け取った可能性がある」という範囲で説明する。
奥州大仏城の宮方
皇位問題の記事に続き、奥州の大仏城と読まれる城に、宮方の勢力がいたことが記される。
「宮方」は、皇族・南朝系の宮を支持する勢力を指すとみられる。
しかし、その宮が誰であるか、大仏城の城主・所在地・兵力は、今回の作業台帳要旨では確定していない。
そのため、「奥州大仏城に宮方勢力が拠った」とする史料上の大筋を示す。
白河修理大夫国詮と読まれる討伐者
大仏城の宮方勢力を討った人物は、白河修理大夫国詮と暫定的に読まれている。
しかし、「白河」の名字、「修理大夫」の官職、「国詮」の実名のすべてが、活字本による補読へ依存している。
一人の人物名なのか、名字・官職・別人物が連続しているのかも再確認が必要である。
そのため、主本文では「白河修理大夫国詮と読まれる人物が討伐したとみられる」と限定する。
奥州にも宮方勢力が残る
南北朝合一後も、奥州には宮方と呼ばれる勢力が残っていた。
これは、京都で二つの朝廷が一つになっても、各地の皇族・武士・城郭勢力がすぐに一斉に服従したわけではないことを示す。
ただし、奥州大仏城の勢力と、伊勢の北畠満雅が直接連絡していたことを、このpartが明記しているわけではない。
同じ時期に残っていた宮方勢力として、編年上続けて記録されていると説明する。
建長寺で火災が起こる
鎌倉の建長寺では火災が起こった。
写本・活字本は、寺内の多くの建物が焼けたという趣旨を記す。
ただし、火災の日、出火原因、焼失した建物の一覧、人的被害は、現在の準翻刻では確定していない。
本ページでは、建長寺火災が記されることまでを本文とする。
正統庵だけが残る
建長寺の火災では、正統庵と読まれる庵だけが残ったとみられる。
明治期活字本は「正統庵計残」と読める形で記す。
一方、写本の字形は「西続庵」などの別の読み方にも見える。
そのため、「正統庵と仮校訂するが、庵名は未確定」とする。
庵の位置・由来・火を免れた理由を推測で補うことはしない。
北畠満雅が兵を挙げる
伊勢国司北畠満雅は、京都の幕府に対して兵を挙げた。
満雅は、旧南朝方と深く関係する北畠氏の人物である。
写本は、称光天皇の即位をめぐる皇位継承問題に続いて、満雅の挙兵を記している。
そのため、両統迭立をめぐる不満が挙兵の背景にあったと整理できる。
ただし、満雅が発した挙兵文書・要求・使者・具体的な条件は、今回の三ページには保存されていない。
北畠満雅の目的
満雅の行動は、単なる伊勢国内の所領争いだけではなく、皇位継承問題と結びつけて記されている。
旧南朝方の皇族を皇位継承へ関わらせること、または両統迭立の条件を守らせることを求めた可能性がある。
しかし、三人の皇位候補と満雅が支持した皇族を同一人物として確定できていない。
そのため、主本文では「皇位継承のあり方に反発して挙兵した」とし、擁立対象を断定しない。
関氏一党が満雅方へ加わる
伊勢の関氏一党は、北畠満雅方へ加わったと記される。
写本には、関・神戸・峯・国府・鹿伏兎などと読める名前が続く。
しかし、これらがすべて名字なのか、城名・地域名・一族名が混在しているのかを確定できない。
また、「峯」「国府」「鹿伏兎」などの字形にも異読の可能性がある。
そのため、確定した参加武将一覧とはせず、「関氏を中心とする伊勢の一党」とする。
伊勢国内の武士が分かれる
伊勢国内の武士がすべて満雅方へ加わったわけではなかった。
一族・所領・幕府との関係により、満雅方へ加わる者、京都方へ属する者、態度を決めない者がいたとみられる。
写本は、北畠俊康と記される人物だけが京都方へ属したと説明する。
この点は明治期活字本の「独属京都」と一致する。
ただし、俊康と満雅の具体的な親族関係・所領・配下は、この範囲では詳しく記されていない。
北畠俊康だけが京都方に属する
北畠俊康は、北畠氏の中で京都の幕府方へ従ったと記される。
写本は、一族の多くが満雅方へ動く中で、俊康だけが京都方へ属したという点を説明的に記す。
しかし、俊康がなぜ京都方を選んだのかは記されていない。
所領・家督・幕府との関係などの理由を外部知識から補わない。
伊勢の諸城へ軍勢を配置する
北畠満雅方は、伊勢国内の複数の城へ軍勢を配置した。
写本では城名が仮名交じりで列挙され、明治期活字本では漢字で記される。
作業台帳では、木造・阿射賀・多気・大河内・坂内・玉丸と暫定的に整理している。
ただし、城名・地域名・武将名が連続しているため、それぞれを独立した六城として確定できていない。
本ページでは、これらを「伊勢諸城の暫定名」として保存する。
木造城
木造城と読まれる城は、北畠方の拠点の一つとして記される。
しかし、城主、守備兵、攻撃した幕府方武将、落城または降参の経過は、現在の作業台帳要旨からは確定できない。
次に記される阿射賀城と同じ方面の攻防に含まれる可能性がありますが、戦闘順序も再確認が必要である。
阿射賀城
阿射賀城と読まれる城では、長い籠城とみられる攻防が記される。
明治期活字本によって「阿射賀」の字を補読できますが、写本の異体字を一字ずつ確定する必要がある。
また、城の正確な位置、城主、郭の構造、井戸・水源は、この三ページだけでは確認できない。
そのため、現在の特定城跡の構造を本文へ補わない。
多気・大河内・坂内・玉丸
多気・大河内・坂内・玉丸と読まれる城・地域も、北畠方の拠点として列挙される。
しかし、四つすべてが城名なのか、地域名と城名が混在しているのかは確定していない。
第1冊・第2冊にも玉丸城と読まれる城が現れていたが、今回の記事との関係は別途照合する必要がある。
本ページでは、伊勢各地へ北畠方の軍勢が配置されたという大筋を示す。
幕府が伊勢へ軍勢を送る
京都の幕府は、北畠満雅の挙兵を鎮めるため、伊勢へ軍勢を送った。
作業台帳の準翻刻では、土岐持益の軍勢が関係すると整理されている。
ただし、土岐持益が全軍の大将だったのか、複数の幕府方軍勢の一つを率いたのかは確定していない。
また、出兵日・軍勢数・進軍経路も、この要旨には保存されていない。
そのため、「土岐持益らとみられる幕府軍が伊勢へ向かった」とする。
世保大膳大夫康政
伊勢合戦の人名として、世保大膳大夫康政と暫定的に読まれる人物が現れる。
「世保」は「勢保」などの別字にも見える。
また、「大膳大夫」が官職として康政へ続くのか、別人物の名前が混在しているのかも再確認が必要である。
この人物が北畠方・幕府方のどちらに属したか、どの城の攻防に関係したかも、主本文では断定しない。
城を取り囲む攻め手
幕府方の軍勢は、北畠方の城を取り囲み、籠城軍を攻めた。
しかし、木造城・阿射賀城・ほかの伊勢諸城のどこが先に攻められたのか、同時に攻撃されたのかは確定していない。
また、弓矢・火攻め・兵粮攻めなど、攻城方法の詳細を写本がどこまで記しているかも判読できていない。
確認できるのは、阿射賀城とみられる城で、水をめぐる籠城計略が行われたと記されることである。
阿射賀城周辺の地名
阿射賀城の攻防記事には、周辺の複数の地名が連続して記される。
作業台帳では、拝野・垂水・小島・尾鷲などと暫定的に整理している。
しかし、地名の区切り、異体字、現在の地名との対応を確定できていない。
特に、遠く離れた地域名に見える語が同じ合戦記事へ続く可能性もあり、一つの進軍経路としてまとめることは危険である。
そのため、主本文には確定地名一覧を載せず、原文資料欄へ暫定読みを残す。
城内の水が不足する
阿射賀城とみられる城では、籠城が続くうちに水が不足したと読める。
城兵が水に困っていることを攻め手に知られれば、包囲を続けるだけで城が降伏すると判断される可能性がある。
そこで城兵は、水がまだ十分にあるように見せる計略を考えたと写本は伝える。
ただし、水不足の原因、城内の人数、井戸・水源の状態は記されていない。
白米を水のように見せる
城兵は、白米を水の代わりに用いたと記される。
遠くから見れば、白く光る米が水のように見えたという筋書きである。
写本は、この場面を明治期活字本より詳しい和文で物語的に説明する。
しかし、米をどこへ入れ、誰がどの位置から見せたのかという逐字は完全には確定していない。
樽と柄杓
計略には、樽・柄杓と読まれる道具が用いられたとみられる。
城兵が樽に入れた白米を柄杓ですくい、水を扱っているように見せた可能性がある。
また、城壁や高い場所から米を流し、水が豊富であるように示した可能性も考えられる。
ただし、後二つの説明は文字の大意から考えられる可能性であり、逐字本文として確定したものではない。
公開用本文では「樽・柄杓・白米を使い、水に困っていないように見せた」と限定する。
攻め手を欺く
攻め手は、城内にまだ水が十分あると思ったと記される。
水不足を待って城を落とそうとする見通しが崩れたため、城兵は一時的に危機を切り抜けたと整理できる。
しかし、攻め手が直ちに撤退したのか、包囲方法を変えたのか、別の戦闘が続いたのかは、今回のpartだけでは確定できない。
そのため、「攻め手を欺いた」という写本の大筋を示し、その後の軍事行動を補わない。
白米計略は史実か伝承か
白米を水に見せる話は、籠城側の知恵を強調する印象的な物語である。
しかし、このサイトの現在の作業は、『南方紀伝』写本と明治期活字本の内容を復元する段階である。
同時代の別史料によって、樽・柄杓・白米を用いた同じ計略が確認されたわけではない。
そのため、「実際に起きたこと」と断定するのではなく、「写本と活字本が伝える籠城伝承」として掲載する。
大量の白米を使う意味
城内が食料不足に近づいていたとすれば、白米を計略へ使うこと自体が大きな決断だった可能性がある。
食料を消費してでも、攻め手に水不足を悟らせないことを優先したという物語になるためである。
ただし、写本が使用した米の量、計略後の食料事情、城兵の評価を具体的に記しているかは確認できない。
この説明は計略の意味を理解するための整理であり、確定した逐語訳ではない。
後に「白米城」と呼ばれる
このpartでは、白米を用いた計略が記されたところで、文章が次partへ続く。
次の第4冊part-8冒頭には、この出来事によって、後にその城を「白米城」と呼ぶようになったという記事がある。
写本は「俗に白米城と称す」と記し、活字本も同趣旨を記す。
そのため、城の通称成立の記事は次の第7節冒頭で扱い、この第6節では計略そのものまでを中心とする。
北畠満雅の乱が示すもの
南北朝合一によって、京都の朝廷は形式上は一つになった。
しかし、皇位継承、旧南朝方の所領、官位、地方武士の処遇などの問題は残った。
北畠満雅の挙兵は、合一から約二十年後にも、両統迭立をめぐる不満が政治・軍事問題として残っていたことを示す記事として整理できる。
同時に、伊勢国内でも北畠氏・関氏・諸城・京都方の勢力が分かれ、皇位問題が地方の城郭戦へ結びついた。
ただし、この最後の説明は、このpart全体を理解するための公開用整理であり、写本の逐字評言ではない。
次の上杉禅秀の乱へ
次のpartは、白米城という呼び名の説明から始まる。
その後、関東では上杉氏憲が鎌倉公方足利持氏と対立し、関東管領を辞めて出家する。
氏憲は上杉禅秀と呼ばれ、足利満隆・持仲らとともに鎌倉で兵を挙げることになる。
したがって、第6節末尾の伊勢合戦から、第7節では関東を揺るがす上杉禅秀の乱へ移る。
流れが分かる現代語訳
南北朝が一つになった時、二つの皇統が交替して天皇を出す約束があったと記されていた。
ところが、後小松天皇の皇子である称光天皇が、そのまま皇位を継いだ。
写本は、皇位をめぐって三人の候補が争い、武家の話し合いによって決められたという趣旨を伝えている。
ただし、その三人が誰だったのかは、まだ確定していない。
旧南朝方と深い関係を持つ北畠満雅は、この皇位継承のあり方に反発して、伊勢で兵を挙げた。
満雅には、関氏を中心とする伊勢の武士たちが味方した。
関・神戸・峯・国府・鹿伏兎などと読まれる名前が記されるが、名字と地名の区切りは確定していない。
北畠方は、木造・阿射賀・多気・大河内・坂内・玉丸などの城へ軍勢を置いた。
ただし、城名の字と、それぞれの城主はまだ完全には分かっていない。
北畠俊康と記される人物だけは、京都の幕府方へ味方した。
幕府は、土岐持益らとみられる軍勢を伊勢へ送った。
木造城や阿射賀城では、北畠方と幕府方の戦いが続いた。
阿射賀城とみられる城では、籠城が長引き、水が足りなくなった。
水がないことを攻め手に知られれば、城はもう長く持ちこたえられない。
そこで城兵は、白米を水のように見せる計略を考えた。
樽に白米を入れ、柄杓で水を扱うように見せたとみられる。
遠くから見た攻め手は、城内にはまだたくさんの水があると思った。
ただし、樽・柄杓・白米を実際にどのように使ったのかという原文は、まだ一字ずつ確定していない。
この話は、写本と明治期活字本が伝える籠城の伝承であり、別の同時代史料によって事実と確認したものではない。
次のpartには、この計略によって、後に城が「白米城」と呼ばれるようになったと記される。
北畠満雅の乱は、南北朝が一つになった後も、皇位継承をめぐる争いが終わっていなかったことを示している。
次の節では、関東で上杉氏憲が鎌倉公方足利持氏と対立し、上杉禅秀の乱を起こすまでを扱う。
人物・用語・史料注記
北畠満雅
旧南朝方と深く関係した伊勢国司北畠氏の人物です。称光天皇即位後の皇位継承問題を背景として挙兵したと整理されています。具体的な要求文・擁立した皇族名は未確定です。
両統迭立
旧南朝方と北朝方の二つの皇統が、交替して皇位を継ぐという南北朝合一時の条件です。具体的な順序・代数・対象皇族の細則は未確定です。
皇位を争った三者
称光天皇、伏見宮方の皇族、旧南朝方の皇子などが候補として考えられますが、写本の人物名・傍書・武家評定の文章を確定できていません。
奥州大仏城
宮方勢力が拠ったとみられる奥州の城です。城の正式表記・所在地・城主・支持した皇族は未確定です。
白河修理大夫国詮
奥州大仏城の宮方勢力を討った人物として暫定的に読んでいる名前です。名字・官職・実名のすべてに活字本補読を含みます。
関氏一党
北畠満雅方へ加わった伊勢の武士勢力です。関・神戸・峯・国府・鹿伏兎などと読まれる名前がありますが、名字・地名・城名の区切りは未確定です。
北畠俊康
北畠氏の中で一人、京都の幕府方へ属したと記される人物です。京都方を選んだ理由、満雅との親族・所領関係は、この写本範囲では確認できません。
正統庵
建長寺火災で残ったとみられる庵です。活字本は正統庵と記しますが、写本は西続庵などの別字にも見えます。
伊勢諸城
木造・阿射賀・多気・大河内・坂内・玉丸と暫定的に読んでいる城・地域です。すべてが独立した城名かどうか、城主・配置・攻防順序は未確定です。
土岐持益
北畠満雅方を攻める幕府軍に関係すると整理される人物です。全軍の大将か、一部隊の指揮者か、具体的な軍勢配置は確定していません。
世保大膳大夫康政
伊勢合戦の記事に現れる暫定人名です。「世保/勢保」の字、官職・実名の区切り、所属陣営は再確認が必要です。
阿射賀城
白米を水に見せる籠城計略が行われたとみられる城です。城の位置・城主・水源・攻城軍・戦闘結果は、この写本範囲だけでは確定していません。
白米の計略
水が乏しくなった城内で、白米を水のように見せ、まだ水が豊富にあると攻め手へ思わせたとする籠城伝承です。樽・柄杓・白米の具体的な使い方は逐字未確定です。
白米城
次part冒頭で、この計略によって後に城が「白米城」と呼ばれたと記されます。通称の成立記事は次の第7節で扱います。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第4冊 part-7、全3ページ
- 対象年代:応永二十年~応永二十二年(1413~1415年)
- 内容区分:編年本文・皇位継承・北畠満雅の乱
- 明治期活字本:PDF第22左画像・印刷43ページ
- 第一次判読の確度:中
- 主要判読保留:8群
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前part末尾の称光天皇受禅・系譜注記より続く。
皇位をめぐり三者争うとみられる。
武家、評定して皇位継承を定むる趣旨あり。
三者は称光・伏見宮方・旧南朝皇子等の可能性あり。ただし人物名未確定。
両統迭立問題に関係する記事と整理する。
奥州大仏城に宮方勢力あり。
白河修理大夫国詮と読まれる人物、これを討つとみらる。
ただし名字・官職・実名未確定。
建長寺、火災あり。
正統庵と読まれる庵のみ残るとみらる。ただし写本は西続庵等にも見える。
北畠満雅、皇位継承問題を背景として伊勢に兵を挙ぐ。
関氏一党、満雅方へ加わる。
関・神戸・峯・国府・鹿伏兎等と読まれる名字・地名を列挙す。ただし区切り未確定。
北畠俊康、一人京都方に属す。
満雅方、伊勢諸城へ軍勢を配す。
木造・阿射賀・多気・大河内・坂内・玉丸等と読まるる城名あり。
ただし異体字・地名区切り・城主未確定。
幕府、伊勢へ軍勢を発向せしむ。
土岐持益軍、関係すると整理される。
世保大膳大夫康政と読まれる人物あり。ただし所属・実名未確定。
木造城・阿射賀城等において攻防あり。
阿射賀城周辺に、拝野・垂水・小島・尾鷲等と読まれる地名あり。ただし区切り未確定。
城内、水乏しくなるとみらる。
城兵、白米を水のごとく見せ、攻め手を欺く。
樽・柄杓・白米を用うるとみらる。ただし道具・動作の逐字未確定。
末尾は、後にこの城を白米城と称したという次part冒頭へ続く。
校訂本文――公開用仮本文
応永二十年以後。
皇位をめぐり三者争い、武家の評定によりこれを定むるとみらる。
ただし三者の人物名、なお未確定。
南北朝合一時の両統迭立問題に関係する記事として整理す。
奥州大仏城に宮方の勢力あり。
白河修理大夫国詮と読まるる人物、これを討つとみらる。
建長寺炎上す。
正統庵と読まるる庵のみ残る。ただし庵名未確定。
北畠満雅、伊勢に兵を挙ぐ。
関氏一党、これに与す。
関・神戸・峯・国府・鹿伏兎等と読まるる名字・地名あり。ただし区切り未確定。
北畠俊康、一人京都方に属す。
満雅方、木造・阿射賀・多気・大河内・坂内・玉丸等の諸城へ軍勢を配す。
幕府、土岐持益らとみらるる軍勢を伊勢へ遣わす。
世保大膳大夫康政と読まるる人物あり。ただし所属・人物関係未確定。
木造城・阿射賀城等において攻防あり。
阿射賀城とみらるる城、籠城長引き、水乏しくなる。
城兵、白米を水のごとく見せる計略を用う。
樽・柄杓・白米をもって、水なお豊富なるように示し、攻め手を欺くとみらる。
ただし道具と動作の逐字、未確定。
〔後に俗に白米城と称すとの記事、上杉氏憲・持氏対立へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第22左画像・印刷43ページには、皇位継承をめぐる三者、奥州大仏城、建長寺火災、北畠満雅挙兵、関氏一党、伊勢諸城、幕府軍の出兵、阿射賀城籠城、白米の計略に対応する記事があります。
写本と活字本は、事件の順序と大筋でよく一致します。
皇位継承争いについて、写本は三人が争い、武家の評定で決定した経過を和文で説明します。
活字本は候補者に関する割注を持ちますが、写本の人物名・傍書と完全に対応させるには再校訂が必要です。
建長寺火災について、活字本は「正統庵計残」と記しますが、写本は庵名が別字にも見えます。
伊勢諸城について、活字本は木造・阿射賀・多気等を漢字で明記し、写本の地名補読に有効です。
ただし、活字本の城名を無条件に写本の確定本文へ置き換えません。
北畠俊康が一人京都方に属したという記事は、写本・活字本で一致します。
白米の計略も両本で大筋が一致しますが、写本は樽・柄杓・白米を使って水のように見せる経過を、活字本より物語的な和文で説明します。
次part冒頭には、後に俗に白米城と称したという記事が、写本・活字本ともに続きます。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 皇位継承争い | 三者の争いと武家評定を和文で説明 | 候補者を割注で説明 | 写本の政治的説明を保存し、候補者名は確定しない |
| 奥州大仏城 | 討伐者の人名が仮名交じりで不明瞭 | 白河修理大夫国詮と補読できる可能性 | 暫定人名として保持する |
| 建長寺火災 | 残った庵名が西続庵等にも見える | 正統庵計残 | 正統庵と仮校訂し、異読を注記する |
| 関氏一党 | 仮名交じりで名字・地名を詳しく列挙 | 漢字で関・神戸・峯・国府・鹿伏兎等を記す | 活字本で補読するが、区切りは保留する |
| 伊勢諸城 | 木造・阿射賀・多気等を仮名交じりで列記 | 城名を漢字で明記 | 暫定城名として掲載し、現在地へ比定しない |
| 北畠俊康 | 一人京都方へ属した経過を説明 | 独属京都 | 一致本文として採用する |
| 白米の計略 | 樽・柄杓・白米の使用を物語的に詳述 | 同趣旨を漢文調で記す | 写本の説明性を優先し、逐字未確定部分を明示する |
| 白米城の通称 | 次part冒頭で俗に白米城と称す | 後俗名此城称白米城 | 次節との接続記事として採用する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 皇位継承争い | 称光・伏見宮側・旧南朝皇子等の三者か | 候補者名、傍書、武家評定の主語・結論を確定できない | 低 |
| 奥州大仏城 | 白河修理大夫国詮 | 討伐者の名字・官職・実名を活字本補読へ依存している | 低 |
| 関氏一党 | 関・神戸・峯・国府・鹿伏兎等 | 名字・地名・城名の区切りと字形が未確定 | 低 |
| 建長寺で残った庵 | 正統庵 | 写本は西続庵等にも見え、正式な庵名を確定できない | 低~中 |
| 伊勢諸城 | 木造・阿射賀・多気・大河内・坂内・玉丸 | 異体字、城・地域の別、城主、配置順序が未確定 | 低~中 |
| 伊勢合戦の人物 | 世保大膳大夫康政 | 世保/勢保の字、官職・実名の区切り、所属陣営が不明 | 低~中 |
| 阿射賀城周辺 | 拝野・垂水・小島・尾鷲等か | 複数地名が密集し、進軍路・戦場との対応を確定できない | 低 |
| 白米計略 | 樽・柄杓・白米を用いて水に見せる | 計略の大意は明瞭だが、道具・位置・動作・攻め手の反応の逐字が未確定 | 中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第4冊part-7の全3ページを、皇位継承問題・奥州宮方・北畠満雅の乱・白米計略を含む一つの範囲として確認した。
- 前part末尾の称光天皇受禅・母方系譜記事との接続を確認した。
- 称光天皇即位後の皇位継承問題を、両統迭立と関係する記事として整理した。
- 皇位を争った三者を、称光・伏見宮方・旧南朝皇子の一組へ確定しなかった。
- 武家評定の参加者・発言・決定理由を推測で補わなかった。
- 称光天皇即位を、このpartだけで明確な「約束違反」と断定しなかった。
- 奥州大仏城を宮方勢力の拠点として整理したが、所在地・城主・支持皇族を補わなかった。
- 白河修理大夫国詮を暫定人名として保存し、確定人物とはしなかった。
- 奥州宮方と北畠満雅が直接連絡していたとは説明しなかった。
- 建長寺火災を確認したが、出火日・原因・焼失建物・被害を補わなかった。
- 火災で残った庵を正統庵と仮校訂し、西続庵等の異読可能性を残した。
- 北畠満雅の挙兵を、皇位継承問題と関係する伊勢の反乱として整理した。
- 満雅が擁立した具体的皇族、要求文、使者、和平条件を推測しなかった。
- 関氏一党の参加を確認したが、関・神戸・峯・国府・鹿伏兎等を確定人物一覧とはしなかった。
- 名字・地名・城名の区切りを活字本だけで確定しなかった。
- 北畠俊康が一人京都方へ属した記事を、写本・活字本の一致本文として採用した。
- 俊康が京都方を選んだ理由を補わなかった。
- 木造・阿射賀・多気・大河内・坂内・玉丸を、伊勢諸城の暫定読みとして保存した。
- 各城を現在の特定城跡へ比定せず、城主・兵数・配置順序を補わなかった。
- 土岐持益軍が幕府方の伊勢出兵に関係するという台帳の整理を採用した。
- 土岐持益を全軍の確定した総大将とはしなかった。
- 世保大膳大夫康政の名字・官職・実名・所属陣営を確定しなかった。
- 木造城・阿射賀城攻防の順序・勝敗を推測しなかった。
- 阿射賀城周辺の拝野・垂水・小島・尾鷲等を、確定地名一覧または一つの進軍路とはしなかった。
- 阿射賀城とみられる城で水が不足し、白米を水に見せたという大筋を採用した。
- 樽・柄杓・白米の具体的な道具配置と動作は、逐字未確定として残した。
- 攻め手が直ちに撤退したとは断定しなかった。
- 白米計略を、別史料で史実確認済みの出来事とはせず、写本・活字本が伝える籠城伝承として扱った。
- 白米の量、城内人数、井戸・水源、計略後の兵粮事情を補わなかった。
- 次part冒頭の「俗に白米城と称す」との接続を確認した。
- 白米城通称の記事は第7節冒頭へ送り、この節では計略までを中心に扱った。
7.上杉禅秀の乱①――氏憲の出家と持氏の鎌倉脱出
対象年代:応永22~23年(1415~1416年)
対応史料:管理No.40・手書き写本第4冊part-8(全3ページ)/明治期活字本PDF第22画像左丁~第23画像右丁(印刷43~44頁)
公開状態・判読上の注意:第一次判読と明治期活字本との照合に基づく公開用仮本文である。写本欄は逐字全文の確定翻刻ではなく、作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。上杉氏憲の辞職日、氏憲の家人名、足利義嗣に関する細字、禅秀方の挙兵日、西御門保寿院、持氏の逃走経路、伊豆三島の「荷葉」などには未確定箇所が残る。
写本と明治期活字本は、禅秀方の挙兵日をともに「十二月二日夜」とする。本ページでは、この日付を一般的な年表へ無断で修正せず、『南方紀伝』本文が伝える日付として保存する。
この節の概要
前節では、伊勢の阿射賀城に籠もった北畠方が、白米を水のように見せて、城内に十分な水が残っていると思わせる計略を用いた。本節の冒頭はその話を受け、この城が後に俗に「白米城」と呼ばれたと伝えている。
続いて舞台は関東へ移る。鎌倉公方の足利持氏と、関東管領の上杉氏憲との関係が悪化し、氏憲は関東管領を辞めた。やがて氏憲は出家し、以後、上杉禅秀と呼ばれるようになる。
同じ時期、北山の大塔への落雷、伊豆大島の火山活動または異常現象、伊豆三島で「荷葉」と記された正体不明の現象などが、兵乱の兆しとして記録される。また、京都では足利義嗣が失脚・拘禁されることに関係する記事があり、禅秀方との連絡をうかがわせる構成になっている。ただし、義嗣が具体的にどの地位を目指したのかは、本文から推測で補わない。
応永23年、写本と活字本がともに「十二月二日夜」と記す日に、足利満隆・持仲・上杉禅秀らが挙兵した。鎌倉では由比浜を中心に戦闘が起こり、持氏は本拠を離れ、駿河方面へ逃れることになる。本節は、持氏が鎌倉を追われたところまでを扱い、禅秀方の敗北と崩壊は次節へ送る。
情報を省略しない詳細現代語訳
白米の計略と「白米城」の由来
前節の末尾では、阿射賀城に籠もった北畠方が、城内の水が少なくなっていることを敵に悟られないように、白米を水に見せかける計略を用いた。城兵は白米を水のように扱い、遠くから見ていた幕府方に、城内にはまだ豊富な水があると思わせた。そのため攻め手は、長く包囲しても城を落とすことはできないと考えたという。
本節の冒頭は、この話を受けて、後世、その城が俗に「白米城」と呼ばれるようになったと記す。写本と明治期活字本は、この由来についてほぼ同じ内容を伝えている。ただし、これは城名の成立を説明する伝承として記されたものであり、いつから実際にその名称が使われたのかまでは本文から確定できない。
足利持氏と上杉氏憲の対立
その後、記事は関東へ移る。当時、関東の政治を主導していたのは、鎌倉公方の足利持氏と、関東管領の上杉氏憲であった。鎌倉公方は鎌倉府の最高責任者であり、関東管領は公方を補佐し、関東の武士をまとめる重要な役職である。
ところが、持氏と氏憲の間で対立が深まった。本文には氏憲の家人とみられる人物が登場するが、その名字は写本では崩れており、「越幡六郎」「小幡六郎」などの可能性がある。明治期活字本は「越幡六郎」としているため、本ページでは活字本による補読を含む人物名として扱う。
氏憲は関東管領の職を辞した。辞職の日については、写本の数字が「四月五日」とも「四月二十六日」とも読め、確定していない。他史料に見える日付とも一致しないため、本ページでは具体的な月日を一つに統一せず、応永22年の春ごろに辞職したと暫定的に説明する。
氏憲の出家と「禅秀」の名
関東管領を辞めた氏憲は、やがて出家した。出家後の氏憲は禅秀と呼ばれ、後世、この争乱も一般に「上杉禅秀の乱」と呼ばれる。氏憲が役職を離れたことによって対立が終わったのではなく、かえって持氏政権への反対勢力が禅秀の周囲へ集まり、武力衝突へ向かうことになった。
この付近には、「南軍」との和融または和睦を記したとみられる記事もある。しかし、誰と誰が和睦したのか、北畠満雅の乱と直接関係するのか、将軍の南都参詣とどのようにつながるのかは、写本の主語と文章の区切りが不明瞭である。そのため、特定の勢力同士が正式に和睦したとは断定しない。
雷火・火山活動と兵乱の兆し
京都では、北山の大塔が雷火にあったと記される。また、伊豆大島では火山活動またはそれに類する異常現象が起こったとされる。これらは政治記事の間に置かれ、天下に異変が起こる前触れのように記録されている。
さらに伊豆三島では、「荷葉」と読めるものが現れ、兵乱の兆しであるとされた。ただし、「荷葉」が何を指すのかは分からない。植物の葉、火山現象、天文現象、その他の自然現象のいずれであるかを決める根拠がないため、本ページでは原文の語を残し、正体不明の異常現象として扱う。
足利義嗣の失脚と拘禁
京都では、足利義嗣が政治の中心から退けられ、拘禁されたことに関係する記事が置かれている。義嗣は足利義満から重く扱われ、兄の足利義持との間で将軍家の継承に関係する人物であったことが、本文と細字の注記を交えて説明されている。
ただし、写本では通常の本文と細字注記が混ざり、義嗣が具体的に何を計画し、どの地位を望んだのかを確定できない。そこで本ページでは、義嗣が将軍家の継承問題に関係して失脚・拘禁されたこと、禅秀方との連絡を疑わせる記事として配置されていることまでを示し、それ以上の内容は推測で補わない。
満隆・持仲・禅秀らの挙兵
持氏に反対する勢力は、足利満隆・持仲・上杉禅秀らを中心に武力行動を起こした。写本と明治期活字本は、挙兵の日をともに「十二月二日夜」と記している。この日付は他史料や一般的な年表とずれる可能性があるが、『南方紀伝』の本文値としてそのまま保存する。
禅秀方の挙兵拠点として、「西御門保寿院」と読める場所が記される。ただし、これが寺院そのものを指すのか、寺院に付属する建物や武将の宿所を指すのかは確定していない。現在の特定の施設へ断定的に比定することも避ける。
由比浜合戦と持氏の鎌倉脱出
禅秀方の挙兵によって鎌倉の内外で戦いが始まり、由比浜でも合戦となった。禅秀方は持氏方を圧迫し、持氏は鎌倉の本拠を保つことができなくなった。
持氏の退路に関して、写本には岩殿山、佐介館、由比浜などに関係する語が見える。しかし、どの地点を先に通ったのか、佐介館へ入ったのか、そこから出たのか、由比浜合戦との前後関係がどのようになるのかは、第一次判読では確定できていない。
確実にいえるのは、持氏が禅秀方に押されて鎌倉を脱出し、駿河方面へ逃れたというところまでである。写本part-8は、持氏が駿河へ落ちていくところで区切られる。小田原・箱根・三島を経る具体的な逃走経路、今川氏らによる支援、武蔵での合戦、世谷原合戦、禅秀方の崩壊は、次の第8節で扱う。
流れが分かる現代語訳
- 前節で北畠方が白米を水のように見せた城は、後に俗に「白米城」と呼ばれたと伝えられた。
- 関東では、鎌倉公方の足利持氏と、補佐役である関東管領の上杉氏憲が対立した。
- 氏憲は関東管領を辞めて出家し、上杉禅秀と呼ばれるようになった。しかし、持氏への反対をやめたわけではなかった。
- 京都や伊豆では、北山大塔への落雷、伊豆大島の異常、三島の「荷葉」などが記録され、戦乱の前触れと考えられた。
- 京都では足利義嗣が失脚して拘禁され、禅秀方との関係を疑わせる記事が置かれている。
- 写本と活字本によれば、応永23年「十二月二日夜」、足利満隆・持仲・上杉禅秀らが兵を挙げた。
- 由比浜などで戦いが起こり、持氏は鎌倉を守れなくなった。持氏は鎌倉を脱出し、駿河方面へ逃れた。
- 持氏の具体的な逃走経路と、禅秀方が敗れていく経過は、次の第8節へ続く。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は、本文の人物・役職・場所を理解するための説明であり、写本が直接述べた評価ではない。
- 足利持氏:関東を支配する鎌倉府の長である鎌倉公方。本節では禅秀方の攻撃を受け、鎌倉から脱出する。
- 鎌倉公方:室町幕府のもとで関東を統治した鎌倉府の最高責任者。京都の将軍家と同じ足利氏の一族が務めた。
- 関東管領:鎌倉公方を補佐し、関東の武士をまとめた役職。上杉氏が代々務めることが多かった。
- 上杉氏憲・禅秀:持氏を補佐した関東管領。持氏と対立して辞職・出家した後、禅秀と呼ばれ、反乱の中心人物となった。
- 足利満隆・持仲:持氏に反対し、禅秀とともに挙兵した足利氏の人物。両者の続柄や反乱内での詳しい役割は、系譜資料との再確認が必要である。
- 足利義嗣:足利義満の子。義満から重く扱われ、将軍家の継承をめぐる問題に関係したと説明されるが、本節の本文と細字は混在しており、具体的な計画は未確定である。
- 白米城:白米を水に見せたという計略から生まれたと伝えられる俗称。写本と活字本は由来についてほぼ一致する。
- 北山大塔:京都北山にあった大塔。本節では雷火にあったとされ、政治的混乱と並べて記録される。
- 伊豆大島の異常:火山活動とみられる記事。ただし、噴火の規模や具体的な現象は、今回の第一次判読だけでは確定できない。
- 伊豆三島の「荷葉」:兵乱の兆しとされた正体不明の現象。「荷葉」の文字・意味ともに再確認が必要である。
- 西御門保寿院:禅秀方の挙兵拠点として読まれる名称。寺院・邸宅・宿所などの性格は未確定である。
- 由比浜:鎌倉南側の海岸。本節では禅秀方と持氏方の戦場として現れる。
- 岩殿山・佐介館:持氏の逃走経路に関係するとみられる地点。ただし、本文中の順序と具体的な行動は未確定である。
- 挙兵日:写本と明治期活字本はともに「十二月二日夜」とする。他史料との違いは、本文を修正せず史料間の異同として扱う。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:管理No.40
- 写本:『南方紀伝』手書き写本第4冊part-8・全3ページ
- 対象年代:応永22~23年(1415~1416年)
- 内容区分:編年本文・上杉禅秀の乱①
- 明治期活字本:PDF第22画像左丁~第23画像右丁・印刷43~44頁
- 作業状態:第一次判読済み。確度は中。今後の逐字再校訂が必要
- 判読保留:8件
写本翻刻――第一次判読の要旨
以下は、写本全体の逐字翻刻ではなく、総合作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。
- 前part末尾の白米計略を受け、後に俗に「白米城」と呼ばれたという由来を記す。
- 鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉氏憲の対立を記す。
- 氏憲の家人名は難読で、明治期活字本の「越幡六郎」による補読を含む。
- 氏憲が関東管領を辞し、その後出家して禅秀と呼ばれたことを記す。
- 南軍との「和融」または「和睦」とみられる記事があるが、主語・対象・時期は未確定である。
- 北山大塔の雷火、伊豆大島の火山活動または異常現象を記す。
- 伊豆三島の「荷葉」を兵乱の兆しとするが、「荷葉」の意味は未確定である。
- 足利義嗣の失脚・拘禁と、将軍家の継承事情に関係する本文・細字注記を記す。
- 足利満隆・持仲・上杉禅秀らが「十二月二日夜」に挙兵したと記す。
- 西御門保寿院を挙兵拠点とみられる場所として記す。
- 由比浜合戦と足利持氏の鎌倉脱出を記す。
- 岩殿山・佐介館などを含むとみられる経路を経て、持氏が駿河方面へ落ちるところでpart-8が終わる。
校訂本文――公開用仮本文
前段の白米を水に見せた計略により、その城は後世、俗に白米城と呼ばれたという。
応永22年、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉氏憲との間に対立が生じた。氏憲の家人として「越幡六郎」と読まれる人物が関係するが、この名字は活字本による補読を含む。氏憲は春ごろ関東管領を辞したとみられるものの、写本の日付は四月五日・四月二十六日などの可能性があり、確定できない。
氏憲はその後に出家し、禅秀と呼ばれた。同じ付近には南軍との和融または和睦に関する記事があるが、誰と誰の和睦であるか、将軍の南都参詣や北畠満雅の乱とどのように関係するかは未確定である。
北山の大塔は雷火にあい、伊豆大島でも火山活動または異常現象が起こった。伊豆三島では「荷葉」と記される現象が現れ、兵乱の兆しとされたが、その具体的内容は分からない。
足利義嗣は失脚して拘禁された。義嗣が義満から重く扱われ、義持との間で将軍家の継承問題に関係したことを説明する本文と細字があるが、義嗣が具体的にどの地位を狙ったのかは確定しない。記事は、義嗣と禅秀方との連絡または政治的関係をうかがわせる構成になっている。
応永23年、本文の記す十二月二日夜、足利満隆・持仲・上杉禅秀らが挙兵した。挙兵拠点は西御門保寿院と暫定的に読む。由比浜などで合戦となり、足利持氏は鎌倉を脱出した。
持氏の退路には岩殿山・佐介館・由比浜などが関係するとみられるが、地点の順序は未確定である。持氏が駿河方面へ落ちていくところで写本part-8は区切られ、以後の小田原・箱根・三島への逃走は次partへ続く。
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本の対応範囲は、PDF第22画像左丁から第23画像右丁、印刷43~44頁である。
- 白米の計略を用いた城が、後に俗に白米城と呼ばれたと記す。
- 足利持氏と上杉氏憲の不和、氏憲の関東管領辞職と出家を記す。
- 写本で崩れている氏憲の家人名を「越幡六郎」と記す。
- 北山大塔の雷火、伊豆大島の異常、兵乱の兆しを記す。
- 足利義嗣の系譜・寵遇・将軍継承事情を割注で説明する。
- 満隆・持仲・禅秀らの挙兵日を、写本と同じく「十二月二日夜」とする。
- 由比浜合戦と持氏の敗走を記し、その後の小田原・箱根・三島方面への逃走記事へ続く。
活字本は、写本よりも漢文調に圧縮されている一方、人名・地名・細字注記の補読に役立つ。ただし、活字本の文字だけで写本の不明箇所をすべて確定したものではない。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 公開版での扱い |
|---|---|---|---|
| 白米城の由来 | 俗に白米城と称す | 後に俗名として白米城と称したと記す | 内容が一致するため、公開用仮本文へ採用する |
| 氏憲の家人名 | 字形が崩れ、小幡・越幡などの可能性がある | 越幡六郎 | 「越幡六郎」と暫定的に読み、活字本による補読と明記する |
| 氏憲の辞職日 | 四月五日または四月二十六日などに見える | 日付はなお再確認が必要 | 具体的な一日に統一せず、応永22年春ごろと説明する |
| 南軍との和融 | 和融・和睦とみられるが主語が不明 | 対応記事はあるが、南都参詣との係り方が判然としない | 和睦の当事者・時期・対象を確定しない |
| 足利義嗣の記事 | 通常本文と細字注記が混在する | 系譜・義満の寵愛・継承事情を割注で説明する | 事件本文と人物注記を分離し、義嗣の目的は推測で補わない |
| 禅秀方の挙兵日 | 十二月二日夜 | 十二月二日夜 | 両本文が一致する日付を保持し、一般的年代との差は注記する |
| 持氏の逃走経路 | 岩殿山・佐介館・由比浜などの語が見えるが順序不明 | 後続記事で小田原・箱根・三島へ続く | part-8では駿河方面への脱出までとし、具体的経路は次節で扱う |
| part末尾 | 持氏が駿河へ落ちるところで中断する | 小田原・箱根・三島方面の逃走へ続く | 写本の分割を保存し、禅秀方の崩壊を第8節へ送る |
判読・校訂に自信のない箇所
- 越幡六郎/小幡六郎:上杉氏憲の家人とみられる人物。写本の字形を確定できず、越幡六郎は活字本による補読である。
- 南軍との和融・和睦:和睦した当事者、時期、北畠満雅の乱との関係、将軍南都参詣との係り方が未確定である。
- 足利義嗣の記事:拘禁・失脚・将軍継承事情を説明する本文と細字が混在する。義嗣が望んだ具体的地位は推測で補わない。
- 禅秀方の挙兵日:写本・活字本はともに「十二月二日夜」とする。他史料とのずれがあっても本文を無断修正しない。
- 西御門保寿院:寺院名・地名・武将の宿所のいずれを指すか、語句の区切りを含めて未確定である。
- 持氏の逃走経路:岩殿山・佐介館・由比浜の位置づけと順序を確定できない。複数地点を一本の経路へ推測で統一しない。
- 氏憲の辞職日:四月五日・四月二十六日などの可能性があり、他史料の日付とも一致しない。
- 伊豆三島の「荷葉」:文字・意味・現象の具体像が不明である。植物・火山・天文現象のいずれかへ断定しない。
復刻作業記録
- 総合作業台帳の管理No.40、第4冊part-8の詳細記録を再検索した。
- 前part末尾の白米計略と、後世の白米城命名記事との接続を確認した。
- 次partである第4冊part-9が、持氏の小田原・箱根・三島逃亡、世谷原合戦、禅秀方の崩壊へ続くことを確認した。
- 活字本対応範囲を第22画像左丁~第23画像右丁、印刷43~44頁として確認した。
- 写本翻刻欄は、逐字全文ではなく「第一次判読の要旨」として掲載した。
- 校訂本文は「公開用仮本文」とし、作業台帳にない古文・漢文を新たに作成していない。
- 氏憲の家人名は「越幡六郎」と暫定的に読み、活字本による補読であることを明記した。
- 上杉氏憲の辞職日は一日に確定せず、複数の読みを判読保留へ残した。
- 禅秀方の挙兵日は、写本・活字本の「十二月二日夜」を保持した。
- 西御門保寿院の性格と、岩殿山・佐介館・由比浜を含む逃走経路を推測で確定していない。
- 伊豆三島の「荷葉」を特定の自然現象へ置き換えていない。
- 写本4冊・本文5巻の関係は、未解決の書誌問題として扱った。
関連ページへのリンク
8.上杉禅秀の乱②――世谷原合戦と禅秀方の崩壊
対象年代:応永23~24年(1416~1417年)
対応史料:管理No.41・手書き写本第4冊part-9(全3ページ)/明治期活字本PDF第23画像・印刷44~45頁
公開状態・判読上の注意:第一次判読と明治期活字本との照合に基づく公開用仮本文である。写本欄は写本全体の逐字翻刻ではなく、総合作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。
持氏の小田原・箱根・三島方面への逃走経路、箱根別当・大森氏・今川範忠らの関係、伊豆国清寺の記事、世谷原の表記、雪下御坊で自害した人物の一覧、岩松氏の親子関係などには未確定箇所が残る。人名・地名の一部には明治期活字本による補読を含む。
本節末尾では、上杉憲基を再び召し出す記事が始まるが、文章は次の第4冊part-10へ続く。そのため、本節では憲基の具体的な再任日までを確定本文として完結させない。
この節の概要
前節で鎌倉を追われた鎌倉公方足利持氏は、小田原・箱根を越え、三島方面へ逃れた。持氏の周囲には、箱根別当、大森氏、今川氏、葛山氏など、禅秀方に対抗する武士たちが集まり始めた。ただし、誰が持氏に同行し、誰が途中で迎え、誰が軍勢を率いて援助したのかは、写本だけでは完全には確定できない。
禅秀方は一時、鎌倉とその周辺を支配したが、持氏方は伊豆・駿河方面から反撃を始めた。国清寺付近の記事や武蔵での戦闘を経て、世谷原または瀬谷原と読まれる場所で大きな合戦が起こった。
持氏方の勢力が強まると、禅秀方から離反する者が相次いだ。足利満隆・持仲・上杉禅秀らは鎌倉の雪下御坊に入り、そこで自害した。これによって上杉禅秀の乱は軍事的には終結し、持氏は鎌倉へ戻った。
乱後も追討と処分は続いた。武田信満は木賊山で自害したとされ、岩松氏の人物も処分を受けた。さらに、上杉憲基を再び召し出す記事が始まるが、その文章は次節へ続く。
情報を省略しない詳細現代語訳
持氏が小田原・箱根・三島方面へ逃れる
前節の末尾で、鎌倉公方足利持氏は、足利満隆・持仲・上杉禅秀らの攻撃を受けて鎌倉を脱出し、駿河方面へ落ちていった。本節は、その逃走の続きから始まる。
明治期活字本では、持氏が小田原・箱根・三島へ移っていく経路が、写本よりも日付順に整理されている。写本も同じ逃走を和文で記しているが、各地点を通過した順序と、そこで持氏に従った人物の関係は明瞭ではない。
箱根から三島へ向かう記事には、箱根別当、大森氏、今川範忠と読まれる人物などが現れる。さらに葛山氏も、持氏方の反撃に関係する勢力として記される。ただし、これらの人物が最初から持氏と行動をともにしていたのか、途中で持氏を迎えたのか、軍勢を派遣したのかは確定できない。
氏定の自害と国清寺付近の記事
持氏の逃走と前後して、「氏定」と読まれる人物が自害したという記事が置かれている。ただし、この人物の名字・所属・禅秀方との関係は、作業台帳の第一次判読だけでは確定できないため、本ページでは実名や系譜を推測で補わない。
続いて、伊豆の国清寺に関係する記事がある。写本では地名と武将名の字形が崩れているが、明治期活字本では「国清寺」「木戸将監」と読める名が記される。また、「名越」と読まれる語も関係する可能性がある。
しかし、国清寺が持氏方の陣所だったのか、禅秀方が立て籠もった場所なのか、木戸将監がどちらの側に属していたのかは、現在の校訂段階では一つに決められない。そのため、国清寺付近で持氏方と禅秀方に関係する軍事行動があった、という範囲にとどめる。
持仲方の軍勢と武蔵での戦い
禅秀方では、足利持仲に属する軍勢が行動し、武蔵方面でも戦いが続いた。禅秀方は鎌倉を押さえたことで一時的には優勢であったが、持氏を完全に捕らえることはできなかった。
持氏は伊豆・駿河方面で支援者を集め、今川氏・大森氏・葛山氏などの軍勢が反撃に加わったとみられる。戦いが鎌倉周辺だけでなく、伊豆・駿河・武蔵へ広がったことで、禅秀方は複数の方面から圧力を受けるようになった。
世谷原合戦
両軍は、世谷原と読まれる場所で戦った。写本の地名字形はやや崩れており、「瀬谷原」と読む可能性も残る。明治期活字本は「世谷原合戦」と記しているため、本節の題名と公開用仮本文では「世谷原」を用いるが、異表記の可能性を注記する。
この合戦では、持氏方の反撃が強まり、禅秀方の軍勢は次第に支えきれなくなった。今川氏・大森氏・葛山氏らがどの場所で、どの順番で戦ったのかは再確認が必要であるが、これらの勢力が持氏の鎌倉復帰を支える側に立ったという大きな流れは、写本と活字本で一致する。
禅秀方から離反者が相次ぐ
持氏方が勢いを取り戻すと、それまで禅秀方に従っていた武士の中から、離反する者が相次いだ。禅秀方は鎌倉を占領した当初の優勢を失い、軍勢を維持できなくなった。
この段階で戦いは、単に一度の合戦に敗れたというだけではなく、禅秀方の内部から味方が離れていく崩壊の局面に入った。持氏を追放して新たな鎌倉府を作ろうとした計画は、支援する武士の減少によって成り立たなくなった。
満隆・持仲・禅秀らが雪下御坊で自害する
敗北が決定的になると、足利満隆・持仲・上杉禅秀らは、鎌倉の雪下御坊と記される場所へ入った。そして、そこで自害したと伝えられる。
写本には、満隆・持仲・禅秀とともに自害した人物が列挙されている。しかし、人名部分は連綿が強く崩れている。明治期活字本によれば、憲方・憲春・快尊・長尾兵庫助などの名が含まれるとみられる。
ただし、これらの人物の名字、実名、禅秀との続柄、全員が同じ場所で同時に自害したのかどうかは、活字本や系譜資料をさらに照合する必要がある。そのため、本ページでは確定した自害者名簿としては扱わない。
満隆・持仲・禅秀らの自害によって、上杉禅秀の乱は軍事的に終結した。鎌倉公方を追放するほどの勢いを持った反乱であったが、持氏方の反撃と禅秀方内部の離反によって短期間のうちに崩壊した。
持氏が鎌倉へ帰還する
禅秀方が崩壊した後、足利持氏は鎌倉へ戻った。持氏は鎌倉公方としての地位を回復し、反乱に参加した者や、禅秀方を支援した者への追討と処分を進めた。
三月二十四日の記事には、「桜原美作守」と読まれる人物の宿所と、持氏の行動に関係する記述がある。しかし、持氏がその宿所へ入ったのか、宿所の人物を処分したのか、別の出来事を記しているのかは確定していない。そのため、本ページでは日付と語句を判読保留として残す。
武田信満と岩松氏への追討・処分
禅秀方に関係した武士への追討は、鎌倉以外の地域でも続いた。武田信満は木賊山と読まれる場所で自害したと記される。ただし、「木賊山」の字形、追討軍の行動、信満が自害するまでの詳しい経過には再確認が必要である。
また、岩松治部大夫と、その親子に関係するとみられる処分・処刑の記事がある。「宗純」と読まれる人物も関係する可能性があるが、誰が親で誰が子なのか、処刑された人物の実名は何か、宗純が同一人物の法名なのか別人なのかは確定していない。
上杉憲基の復帰記事は次partへ続く
反乱の終結後、上杉憲基を再び召し出し、関東管領に復帰させることに関係する記事が始まる。しかし、写本第4冊part-9の末尾では文章が完結せず、次のpart-10冒頭へ続いている。
そのため本節では、「憲基を再び召し出す動きが始まった」ところまでを扱う。具体的な再任日と、その後の鎌倉府の体制については、次の第9節で扱う。
流れが分かる現代語訳
- 鎌倉を追われた足利持氏は、小田原・箱根を通り、三島方面へ逃れた。
- 持氏の周りには、箱根・伊豆・駿河の武士たちが集まり、今川氏・大森氏・葛山氏などが反撃に関わった。
- 国清寺付近や武蔵で戦いが続き、世谷原と呼ばれる場所でも合戦が起こった。
- 持氏方が優勢になると、禅秀方から離れる武士が増えた。
- 足利満隆・持仲・上杉禅秀らは雪下御坊へ入り、自害した。
- 禅秀方の崩壊によって乱は終わり、持氏は鎌倉へ戻った。
- その後、武田信満や岩松氏など、反乱に関係した者への追討と処分が行われた。
- 上杉憲基を関東管領へ戻す記事が始まるが、続きは次の第9節で扱う。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は人物・場所・役職を理解するための説明であり、写本の直接的な評言ではない。
- 足利持氏:関東を治めた鎌倉公方。禅秀方に鎌倉を追われたが、伊豆・駿河方面で支援を集めて反撃し、鎌倉へ戻った。
- 上杉禅秀:もとの関東管領上杉氏憲。持氏と対立して出家した後、満隆・持仲らと挙兵した。本節で雪下御坊において自害したとされる。
- 足利満隆:持氏に反対し、禅秀方の中心となった足利氏の人物。持氏に代わる政治的な中心として担がれたとみられるが、本文ではその地位を推測で確定しない。
- 足利持仲:満隆・禅秀とともに挙兵した人物。本節では、その軍勢の行動と、雪下御坊での自害が記される。
- 今川氏・大森氏・葛山氏:持氏の反撃に関係したとみられる東国の武士たち。各氏の具体的な軍事行動と合流時期は再確認が必要である。
- 箱根別当:箱根の寺社勢力に関係する役職または人物。本節では持氏の逃走を助けた可能性があるが、具体的な役割は未確定である。
- 国清寺:伊豆にある寺院名として読まれる。本文中では軍事行動に関係するが、陣所・籠城地・戦場のいずれであったかは確定していない。
- 木戸将監:国清寺の記事に現れる武将名。写本では字形が崩れ、明治期活字本による補読を含む。
- 世谷原/瀬谷原:持氏方と禅秀方が戦った場所。活字本は「世谷原」とするが、写本の字形には「瀬谷原」の可能性もある。現在の特定地点への断定的な比定は行わない。
- 雪下御坊:満隆・持仲・禅秀らが自害した場所として記される。寺院・御坊・宿所としての具体的な性格は再確認が必要である。
- 武田信満:禅秀方に関係した武将として追討され、木賊山で自害したと記される。追討経過と地名字形には未確定箇所がある。
- 岩松治部大夫:乱後の処分記事に現れる岩松氏の人物。親子関係、実名、宗純との関係は確定していない。
- 上杉憲基:禅秀方の崩壊後、関東管領として再び召し出されたとみられる人物。復帰記事は第4冊part-9末尾からpart-10冒頭へ続く。
- 上杉禅秀の乱:鎌倉公方持氏と前関東管領禅秀の対立から起こった関東の内乱。本節では持氏の反撃、禅秀方の離反、自害によって軍事的に終結する。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:管理No.41
- 写本:『南方紀伝』手書き写本第4冊part-9・全3ページ
- 元PDFでの範囲:第4冊PDF第23~25ページ
- 対象年代:応永23~24年(1416~1417年)
- 内容区分:編年本文・上杉禅秀の乱②
- 明治期活字本:PDF第23画像・印刷44~45頁
- 作業状態:第一次判読済み
- 判読確度:中
- 判読保留:8件
- 接続:前part末尾の持氏の駿河方面への敗走から続き、末尾の上杉憲基復帰記事は次partへ続く
写本翻刻――第一次判読の要旨
以下は写本全体の逐字翻刻ではなく、総合作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。
- 前part末尾の足利持氏の鎌倉脱出・駿河方面への逃走から続く。
- 持氏が小田原・箱根・三島方面へ移動した経過を記す。
- 箱根別当、大森氏、今川範忠と読まれる人物など、持氏の逃走・支援に関係する人物を記す。
- 「氏定」と読まれる人物の自害を記すが、所属・系譜は未確定である。
- 伊豆国清寺、名越、木戸将監に関係する記事を記す。
- 足利持仲方の軍勢と、武蔵方面での戦闘を記す。
- 世谷原または瀬谷原と読まれる場所での合戦を記す。
- 今川氏・大森氏・葛山氏らによる持氏方の反撃を記す。
- 持氏方が優勢となり、禅秀方から離反する者が相次いだことを記す。
- 足利満隆・持仲・上杉禅秀らが雪下御坊に入り、自害したことを記す。
- 憲方・憲春・快尊・長尾兵庫助など、自害者とみられる人物を列挙するが、人名は活字本による補読を多く含む。
- 持氏が鎌倉へ帰還したことを記す。
- 三月二十四日の桜原美作守宿所に関する記事を記すが、持氏の具体的な行動は未確定である。
- 武田信満が木賊山で自害したとみられる記事を記す。
- 岩松治部大夫の親子と宗純に関係する処分記事を記す。
- 上杉憲基を再び召し出す記事が始まるが、文章は次partへ続く。
校訂本文――公開用仮本文
足利持氏は鎌倉を脱出した後、小田原・箱根を経て、三島方面へ逃れた。箱根別当、大森氏、今川範忠と読まれる人物などが持氏を支援したとみられるが、それぞれの同行・迎接・援軍の関係は未確定である。
この間に、氏定と読まれる人物が自害した。続いて、伊豆国清寺に関係する軍事記事があり、明治期活字本によれば、名越・国清寺・木戸将監などの語を含む。ただし、地名・寺院・武将の関係は確定しない。
足利持仲方の軍勢は武蔵方面で行動し、持氏方との戦闘が続いた。持氏方には今川氏・大森氏・葛山氏らが加わり、反撃を強めた。
両軍は世谷原で戦った。写本の地名字形には瀬谷原の可能性もあるため、表記は未確定である。この戦いを経て持氏方が優勢となり、禅秀方から離反する者が相次いだ。
足利満隆・持仲・上杉禅秀らは雪下御坊に入り、自害した。ともに自害した人物として、憲方・憲春・快尊・長尾兵庫助などの名が読まれるが、人物一覧と続柄には活字本による補読を含む。
禅秀方の崩壊後、足利持氏は鎌倉へ帰還した。三月二十四日には桜原美作守の宿所と持氏に関係する記事があるが、具体的な行動内容は未確定である。
その後、禅秀方に関係した武士への追討と処分が続き、武田信満は木賊山で自害したと記される。岩松治部大夫の親子にも処分が及び、宗純と読まれる人物が関係するが、親子関係と実名は確定しない。
末尾では上杉憲基を再び召し出す記事が始まるが、再任に関する文章は次のpart-10へ続く。
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本の対応範囲は、PDF第23画像・印刷44~45頁である。
- 持氏が小田原・箱根・三島方面へ移動した経路を、写本よりも日付順に整理して記す。
- 箱根別当、大森氏、今川氏など、持氏の逃走と反撃に関係する人物を記す。
- 国清寺の記事では、写本で崩れている「国清寺」「木戸将監」などの固有名詞を比較的明確に記す。
- 武蔵方面の戦闘と世谷原合戦を記す。
- 今川氏・大森氏・葛山氏らの反撃と、禅秀方からの離反を記す。
- 満隆・持仲・禅秀らが雪下御坊で自害したことを記す。
- 雪下御坊で自害した人物を、写本よりも多く列挙する。
- 持氏の鎌倉帰還と、乱後の追討・処分を記す。
- 武田信満の木賊山自害、岩松氏の処分を記す。
- 上杉憲基の復帰記事は、印刷45頁から後続記事へ続く。
活字本は地名・人名・日付の補読に役立つが、活字本の表記だけによって写本の人物関係や出来事の主語をすべて確定したものではない。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 公開版での扱い |
|---|---|---|---|
| 持氏の逃走経路 | 駿河方面へ落ちていく経過を和文で説明するが、地点の順序が不明瞭 | 小田原・箱根・三島を日付順に列記する | 活字本で経路を補足するが、同行者の関係は確定しない |
| 箱根から三島の人物 | 人名と行動主体の区切りが崩れる | 箱根別当・大森氏・今川氏などを比較的明確に記す | 人名は補読するが、同行・迎接・援軍の別は未確定とする |
| 国清寺の記事 | 地名・寺院名・武将名の字形が崩れる | 国清寺・木戸将監を明記する | 活字本による補読を明示し、軍事行動の主語は確定しない |
| 世谷原合戦 | 世谷原または瀬谷原に見える | 世谷原合戦と記す | 見出しでは世谷原を用い、異表記の可能性を注記する |
| 持氏方の反撃 | 戦闘経過を仮名交じりの和文で説明する | 今川・大森・葛山などの名を漢字で記す | 大きな流れは採用し、各軍の行動順序は未確定とする |
| 雪下御坊の自害者 | 人名列挙が崩れ、名字・続柄を区切りにくい | 憲方・憲春・快尊・長尾兵庫助など、多数の人名を記す | 活字本による補読として示し、確定名簿とはしない |
| 武田信満 | 木賊山での自害とみられるが、地名字形と経過に不明点がある | 地名と自害記事を比較的明確に記す | 木賊山と暫定的に読み、追討経過は確定しない |
| 岩松氏の処分 | 親子・実名・宗純との関係が不明瞭 | 人物関係を写本より詳しく記す | 処分の存在は採用するが、親子関係と実名は未確定とする |
| part末尾 | 上杉憲基の復帰記事の途中で終わる | 六月晦日の再任記事へ続く | 第8節では再召の開始までとし、具体的な再任は第9節へ送る |
判読・校訂に自信のない箇所
- 箱根から三島への同行者:箱根別当・大森氏・今川範忠などの名が読まれるが、誰が持氏に同行し、誰が途中で支援したのかは確定できない。
- 伊豆国清寺の記事:名越・国清寺・木戸将監の語が関係するが、地名・寺院・陣所・武将の係り方が不明である。
- 世谷原/瀬谷原:明治期活字本は世谷原とするが、写本の字形には瀬谷原の可能性がある。現在地への断定的な比定を行わない。
- 雪下御坊の自害者一覧:憲方・憲春・快尊・長尾兵庫助などの人名と続柄を活字本に依存している。確定した全員の一覧ではない。
- 桜原美作守宿所:三月二十四日の記事。人名、宿所の場所、持氏が何をしたのかを確定できない。
- 岩松治部大夫の親子:処分・処刑された人物、親子関係、実名、宗純との関係を再確認する必要がある。
- 上杉憲基の復帰:再召・再任の記事は次partへ続く。part-9だけで文法と具体的な再任日を完結させない。
- 武田信満の木賊山自害:木賊山の地名字形と、追討から自害までの行動順序を再確認する必要がある。
復刻作業記録
- 総合作業台帳の管理No.41、第4冊part-9の詳細記録を再検索した。
- 前part末尾の持氏の鎌倉脱出・駿河方面への逃走との接続を確認した。
- 本partが持氏の小田原・箱根・三島逃亡、武蔵の戦い、世谷原合戦、禅秀方の崩壊を扱うことを確認した。
- 活字本対応範囲をPDF第23画像・印刷44~45頁として確認した。
- 写本翻刻欄は、逐字全文ではなく「第一次判読の要旨」として掲載した。
- 校訂本文は「公開用仮本文」とし、作業台帳に存在しない古文・漢文を新たに作成していない。
- 持氏の逃走経路は活字本によって補足したが、同行者と支援者の関係を推測で統一していない。
- 国清寺・木戸将監は活字本による補読であることを明示した。
- 世谷原/瀬谷原の表記差を保存し、現在地を断定していない。
- 雪下御坊の自害者一覧は、確定名簿ではなく活字本による補読を含む候補として掲載した。
- 桜原美作守宿所、岩松氏の親子関係、武田信満の追討経過を判読保留として残した。
- 上杉憲基の復帰記事が次partへ続くことを確認し、本節内で具体的な再任日までを完結させていない。
- 写本4冊・本文5巻の関係は、未解決の書誌問題として扱った。
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9.応永の外寇――義量元服・彦仁親王誕生と災害
対象年代:応永24~28年(1417~1421年)
対応史料:管理No.42・手書き写本第4冊part-10(全3ページ)/明治期活字本PDF第23画像左丁~第24画像右丁(印刷45~46頁)
公開状態・判読上の注意:第一次判読と明治期活字本との照合に基づく公開用仮本文である。写本欄は写本全体の逐字翻刻ではなく、総合作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。
足利義嗣の院号、上総一揆の城名、明使の実名、岩松氏と上杉兵庫頭の記事、上杉憲基の法名、足利義持への呪詛疑惑に関係する人物名には、明治期活字本による補読を含む。未確定の人名・地名・行動主体は一つに統一しない。
朝鮮軍の対馬襲来について、写本と活字本は兵船を「五百余艘」と記している。本ページでは、他史料の数値へ無断で置き換えず、『南方紀伝』本文が伝える数として保存する。
足利義持への呪詛疑惑は、狐を用いた呪詛として語られる伝承性の強い記事である。本文に名前が挙げられる人物を、実際に呪詛を行った者と断定しない。
この節の概要
上杉禅秀の乱が終わると、鎌倉府では政治体制の立て直しが始まった。前節末尾から続いて、上杉憲基が再び召し出され、関東管領へ復帰したことが記される。
京都では、将軍足利義持の子である足利義量が元服した。一方、義持の弟で、かつて父の足利義満から重く扱われた足利義嗣は、「生害」したと記される。その死が自害であったのか、殺害を含む表現なのかは確定できない。
関東では、禅秀方と関係したとされる上総一揆の討伐が続いた。京都では義円が天台座主となり、皇室では彦仁親王が誕生した。彦仁親王は後に後花園天皇となる人物である。
外交記事として、明からの使節来航と、朝鮮軍が対馬へ攻め寄せた応永の外寇が記される。『南方紀伝』は朝鮮の兵船を五百余艘とし、風波によって多くが失われたと伝えている。
その後、上杉憲基が死去し、上杉憲実が関東管領となった。さらに足利義持を狐の術で呪詛したという疑惑、飢饉・疫病・旱魃、伊豆大島の火山活動が記録される。本節末尾の伊豆大島記事は、次節冒頭の海水異常と魚の大量死へ続く。
情報を省略しない詳細現代語訳
上杉憲基が関東管領へ復帰する
前節では、足利満隆・持仲・上杉禅秀らが敗れて自害し、鎌倉公方足利持氏が鎌倉へ戻った。その後も、禅秀方に加わった武士への追討と処分が続いた。
前節末尾で始まった上杉憲基の記事は、本節冒頭へ続く。応永24年六月晦日、憲基は再び召し出され、関東管領へ復帰したと記される。禅秀の乱で混乱した鎌倉府を立て直すため、持氏を補佐する体制が改めて整えられたのである。
ただし、前part末尾と本part冒頭をまたぐ文章であるため、任命・再召・復職を表す語の細部は再校訂が必要である。本ページでは、活字本が示す六月晦日の再任記事を参考にしながら、「関東管領へ復帰した」と暫定的にまとめる。
足利義量の元服
将軍足利義持の子である義量が元服した。元服とは、子どもが成人として扱われるようになるための儀式である。
『南方紀伝』は義量の元服を、将軍家の代替わりに関係する重要な編年記事として記している。ただし、元服の具体的な月日・年齢・官位については、今回の総合作業台帳には公開用の確定本文として保存されていない。そのため、本ページでは元服したという事実までを採用し、それ以上の情報は補わない。
足利義嗣の「生害」
続いて、足利義嗣が「生害」したと記される。義嗣は足利義満の子であり、将軍義持の弟にあたる。父の義満から重く扱われたため、将軍家の継承問題に関係する人物として警戒されていた。
「生害」は人が命を失うことを表す語であるが、この場合、自害を意味するのか、命令による殺害を含むのかは、本文だけでは確定しない。具体的な月日と享年も、今回の公開用仮本文では確定しない。
義嗣の院号または関係寺院名として、「円修院」「林光院」などに見える文字が記される。ただし、どの名称が義嗣本人の院号で、どの名称が寺院を指すのかは未確定である。
小河殿の記事
義嗣の記事の近くには、「小河殿」と読まれる人物に関する記事がある。薨去、死後の追贈、義運と読まれる人物の歌などが関係するとみられる。
しかし、「小河殿」が誰を指すのか、義嗣の記事と直接つながるのか、追贈された官位は何か、歌を詠んだ義運がどの人物であるかは確定していない。このため、公開用仮本文では独立した判読保留記事として扱い、人物を推測で比定しない。
上総一揆の討伐
関東では、上総の一揆が鎌倉公方足利持氏に背いた。一揆とは、同じ目的を持つ武士や住民が結びついて行動することであり、ここでは禅秀方と関係した武士集団の反抗として記されている。
持氏方は軍勢を送り、この一揆を討伐した。本文には、三戸・坂本城などに見える城名が現れるが、どの城を誰が攻め、どの順番で落としたのかは確定できない。
明治期活字本は写本よりも城名と討伐経過を詳しく記している。しかし、城名の区切りや現在地への比定にはなお確認が必要であるため、本ページでは特定の城へ統一しない。
義円が天台座主となる
義円が天台座主となった。天台座主は、比叡山延暦寺を中心とする天台宗の最高責任者である。
義円は足利義満の子で、義持・義嗣の兄弟にあたる。本文は、この時点では義円を武家の後継者としてではなく、仏教界の高い地位に就いた人物として記している。
彦仁親王の誕生
皇室では彦仁親王が誕生した。彦仁親王は、後に後花園天皇となる人物である。
この時点の天皇は称光天皇であった。『南方紀伝』は、将軍家では義量が成長し、皇室では彦仁親王が生まれたことを並べて記し、武家と朝廷の次代を担う人物の登場を編年記事の中に配置している。
明使の来航
明から日本へ使節が来航した。使節の名は、明治期活字本によれば「呂淵」と読む可能性がある。しかし、写本では人名字形が明瞭でなく、実名を活字本に依存しているため、本ページでは「呂淵か」とする。
この記事は、足利義満の時代から続いていた明との外交が、義持の時代にも完全には途絶えていなかったことを示す。ただし、使節が伝えた具体的な文書や要求については、作業台帳の第一次判読から推測で補わない。
朝鮮軍が対馬へ攻め寄せる――応永の外寇
朝鮮軍が多数の兵船を率いて対馬へ攻め寄せた。後世、この事件は一般に「応永の外寇」と呼ばれる。
写本と明治期活字本は、朝鮮軍が五百余艘の兵船を率いて対馬へ襲来したと記している。具体的な上陸地点や島内での軍事行動については、今回の総合作業台帳に公開用の確定情報がないため補わない。
朝鮮軍の船は海上で強い風と波に遭い、多くが漂流または沈没したと記される。『南方紀伝』は、この風波による損害を、対馬襲来の結末を左右した出来事として伝えている。
五百余艘という船数は、写本と明治期活字本が共有する本文値である。本ページでは、外部の年表や別史料に合わせて船数を修正せず、『南方紀伝』がどのように事件を伝えたかを保存する。
岩松氏と上杉兵庫頭の記事
関東では、岩松氏の反乱または処分と、上杉兵庫頭に関係する記事が続く。五月二十八日と、七里浜と読まれる場所が記事に含まれている。
しかし、写本では日付順と主語が乱れ、岩松氏が反乱を起こしたのか、処分を受けたのか、上杉兵庫頭が討伐側か処分側かを確定できない。
前節に記された岩松治部大夫親子の記事とのつながりも考えられるが、同一事件の続きであると断定しない。七里浜についても、戦場・処刑地・移送経路のいずれであるかは保留する。
上杉憲基の死去と憲実の就任
上杉憲基が死去した。憲基は禅秀の乱後に関東管領へ復帰し、持氏を補佐して鎌倉府の立て直しにあたった人物である。
憲基の法名は、「心無海印」などに見える文字で記される。しかし、小字と異体字が不鮮明であり、正確な法名は確定していない。
憲基の死後、上杉憲実が関東管領となった。これによって鎌倉府の補佐役は次の世代へ移った。ただし、任命日と官職記事の細部は、写本と活字本の逐字再校勘が必要である。
足利義持への呪詛疑惑
京都では、将軍足利義持に対して呪詛が行われたという疑いが起こった。本文は、狐を使って人を呪う術が用いられたという形で事件を説明している。
明治期活字本は、広橋・裏松・日野・勧修寺と読まれる公家の名字や、俊経・定棟などに見える人物名を列挙している。また、医師や陰陽師とみられる人物も関係者として記される。
しかし、写本は仮名書きが多く、人名の多くを活字本に依存している。誰が疑いをかけられ、誰が取り調べを行い、誰が処分されたのかは、現在の第一次判読では完全には区別できない。
この事件は、呪詛の存在が事実として証明されたという記事ではなく、当時そのような疑惑と噂が政治問題になったことを伝える記事として読む必要がある。狐の術についても、現実の出来事・信仰・説話のどれに属するかを一つに決めない。
応永28年の飢饉・疫病・旱魃
応永28年には、飢饉と疫病が広がった。また、雨が少なく旱魃となったことも記される。
食料が不足する中で病が流行し、人々の生活は大きく苦しめられたと考えられる。ただし、死者数、被害地域、食料価格などは作業台帳に確定情報がないため、本ページでは補わない。
伊豆大島の火山活動
同じ年、伊豆大島で火山活動またはそれに関係する異常現象が起こった。写本は、噴火とみられる出来事を、飢饉・疫病・旱魃に続く災害として記している。
この火山記事は本part末尾で完結せず、次の第4冊part-11冒頭へ続く。次partでは、海水が熱湯のようになり、多くの魚が死んだという記事が記される。
ただし、噴火・海水温の上昇・魚の大量死が、同じ一回の現象を記したものか、時間を隔てた複数の異常であるかは未確定である。本節では伊豆大島の火山活動までを扱い、魚の大量死以後は次節へ送る。
流れが分かる現代語訳
- 上杉禅秀の乱が終わると、上杉憲基が再び関東管領となり、鎌倉府の立て直しが始まった。
- 将軍足利義持の子である義量が元服した。具体的な月日・年齢・官位は、今回の公開用仮本文では確定していない。
- 義持の弟である足利義嗣は「生害」したと記されるが、自害か殺害か、具体的な月日と享年は確定していない。
- 関東では、禅秀方と関係した上総一揆が起こり、持氏方が討伐した。
- 義円が比叡山の最高責任者である天台座主となり、彦仁親王が誕生した。彦仁親王は後の後花園天皇である。
- 明から使節が来航した後、朝鮮軍が対馬を攻めた。写本は兵船を五百余艘とし、多くが風波によって失われたと伝える。
- 上杉憲基が亡くなり、上杉憲実が関東管領となった。
- 京都では、狐の術を使って義持を呪ったという疑いが起こったが、事件の人物関係は未確定である。
- 応永28年には、飢饉・疫病・旱魃が続き、伊豆大島でも火山活動が起こった。
- 伊豆大島周辺で海水が熱くなり、魚が大量に死んだという続きは、次の第10節で扱う。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は人物・制度・事件を理解するための説明であり、写本が直接述べた評価ではない。
- 上杉憲基:禅秀の乱後に関東管領へ復帰した上杉氏の人物。本節中で死去する。法名は未確定である。
- 上杉憲実:憲基の死後、関東管領となった人物。後の鎌倉府政治で重要な役割を担うが、本節では就任までを扱う。
- 足利義量:将軍足利義持の子。本節では元服が記されるが、具体的な月日・年齢・官位は公開用仮本文では確定していない。
- 足利義嗣:足利義満の子で、義持の弟。義満から重く扱われたため、将軍継承問題に関わる人物とみられた。「生害」の具体的な意味は確定していない。
- 円修院/林光院:義嗣の記事に付された院号または寺院名の候補。どの名称が義嗣本人の院号であるかは未確定である。
- 小河殿:薨去・追贈・義運の歌に関係するとみられる人物。人物比定と記事の係り方は未確定である。
- 上総一揆:上総国で持氏に反抗した武士集団。禅秀方との関係が記されるが、参加者と討伐城は再確認が必要である。
- 義円:足利義満の子。本節では天台座主となる。天台座主は比叡山延暦寺を中心とする天台宗の最高職である。
- 彦仁親王:本節で誕生した皇族。後に後花園天皇となる。
- 明使:明から来航した使節。「呂淵」と読む可能性があるが、実名は活字本による補読に依存する。
- 応永の外寇:朝鮮軍が対馬へ攻め寄せた事件。写本・活字本は兵船を五百余艘とするが、この数は『南方紀伝』の本文値として扱う。
- 岩松氏・上杉兵庫頭:五月二十八日・七里浜の記事に現れる人物または勢力。反乱・討伐・処分の主語と順序は未確定である。
- 呪詛:まじないなどによって相手に害を与えようとする行為。本節では狐を用いた呪詛の疑いが語られるが、伝承性を含む記事として扱う。
- 広橋・裏松・日野・勧修寺:呪詛事件に関係して記される公家の名字候補。個々の人物名と事件内での立場は確定していない。
- 俊経・定棟:呪詛事件に現れる人名候補。写本の仮名表記が多く、活字本による補読に依存する。
- 伊豆大島の火山活動:応永28年の災害記事。次partでは海水の異常と魚の大量死へ続くが、現象同士の関係は未確定である。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:管理No.42
- 写本:『南方紀伝』手書き写本第4冊part-10・全3ページ
- 対象年代:応永24~28年(1417~1421年)
- 内容区分:編年本文・外交・災害・関東
- 明治期活字本:PDF第23画像左丁~第24画像右丁・印刷45~46頁
- 作業状態:第一次判読済み
- 判読確度:中
- 判読保留:8件
- 前partとの接続:上杉憲基の再召・関東管領復帰記事を受ける
- 次partへの接続:伊豆大島の火山活動から、海水異常・魚の大量死記事へ続く
写本翻刻――第一次判読の要旨
以下は写本全体の逐字翻刻ではなく、総合作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。
- 前part末尾の上杉憲基復帰記事を受け、応永24年六月晦日の再召・関東管領復帰を記す。
- 足利義量の元服を記す。具体的な月日・年齢・官位は、公開用仮本文では確定しない。
- 足利義嗣が「生害」したことを記す。死の具体的な形、月日、享年は未確定である。
- 義嗣の院号または関係寺院名として、円修院・林光院などに見える注記を記す。
- 小河殿の薨去・追贈・義運の歌に関係するとみられる記事を記す。
- 上総一揆が持氏に背き、討伐されたことを記す。
- 三戸・坂本城などに見える城名を記すが、地名と城名の区切りは未確定である。
- 義円が天台座主となったことを記す。
- 彦仁親王の誕生を記す。
- 明使来航を記し、使節名は呂淵と読む可能性がある。
- 朝鮮軍が五百余艘の兵船で対馬へ襲来したことを記す。
- 朝鮮軍の船が風波によって多数漂没したことを記す。
- 岩松氏と上杉兵庫頭、五月二十八日、七里浜に関係する記事を記す。
- 上杉憲基の死去と、法名らしい小字注記を記す。
- 上杉憲実が関東管領となったことを記す。
- 足利義持への狐を用いた呪詛疑惑を記す。
- 広橋・裏松・日野・勧修寺・俊経・定棟などに見える関係者名を記す。
- 応永28年の飢饉・疫病・旱魃を記す。
- 伊豆大島の火山活動を記し、海水異常と魚の大量死は次partへ続く。
校訂本文――公開用仮本文
応永24年六月晦日、上杉憲基を再び召し出し、関東管領へ復帰させた。
足利義量が元服した。具体的な月日・年齢・官位は、今回の公開用仮本文では確定しない。
足利義嗣は「生害」したと記される。生害が自害・殺害のどちらを意味するか、具体的な月日と享年は確定しない。院号または関係寺院名には、円修院・林光院などの候補がある。
この付近に、小河殿の薨去・追贈・義運の歌に関係する記事があるが、人物と記事の係り方は未確定である。
上総の一揆が足利持氏に背き、討伐された。討伐記事には三戸・坂本城などに見える城名があるが、地名・城名と行動順序は確定しない。
義円は天台座主となった。皇室では彦仁親王が誕生した。
明から使節が来航した。使節名は呂淵と読む可能性があるが、活字本による補読を含む。
朝鮮軍は五百余艘の兵船を率いて対馬へ襲来した。多くの船は風波によって漂流または沈没したと記される。
関東では、岩松氏と上杉兵庫頭に関係する記事があり、五月二十八日・七里浜の語を含む。ただし、反乱・討伐・処分の主語と記事順は未確定である。
上杉憲基が死去した。法名は心無海印などに見えるが、小字・異体字が不鮮明である。憲基の後、上杉憲実が関東管領となった。
京都では、狐を用いて足利義持を呪詛したという疑いが起こった。広橋・裏松・日野・勧修寺・俊経・定棟などに見える人物が列挙されるが、人名と事件内での立場は活字本による補読を含み、未確定である。
応永28年には飢饉・疫病・旱魃が起こった。さらに伊豆大島で火山活動があり、海水の異常と魚の大量死を記す次partの記事へ続く。
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本の対応範囲は、PDF第23画像左丁から第24画像右丁、印刷45~46頁である。
- 上杉憲基の六月晦日の関東管領復帰を記す。
- 足利義量の元服記事を、写本より整理された形で記す。ただし、具体的な月日・年齢・官位は公開用仮本文では確定しない。
- 足利義嗣の「生害」と、複数の院号または寺院名候補を割注で記す。死の具体的な形、月日、享年は未確定である。
- 上総一揆の城名と討伐経過を、写本より詳しく記す。
- 義円の天台座主就任と彦仁親王誕生を記す。
- 明使の実名を記すが、写本との照合ではなお再確認が必要である。
- 朝鮮軍の兵船五百余艘による対馬襲来と、風波による漂没を写本と同様に記す。
- 岩松氏と上杉兵庫頭の記事を、写本より人物関係が分かる形で配置する。
- 上杉憲基の死去・法名と、上杉憲実の関東管領就任を記す。
- 足利義持への呪詛疑惑について、公家・医師・陰陽師とみられる関係者を多数列挙する。
- 応永28年の飢饉・疫病・旱魃・伊豆大島火山記事を記す。
活字本は、人名・城名・日付・小字注記の補読に役立つ。しかし、活字本に記された人名を、そのまま写本の確定本文としたものではない。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 公開版での扱い |
|---|---|---|---|
| 憲基復帰記事 | 前part末尾から文章が続く | 六月晦日の再任として記す | 活字本で日付を補足し、前後partの接続を明記する |
| 義量元服 | 義量の元服を記す | 元服記事を写本より整理された形で記す | 元服の事実のみを採用し、具体的な月日・年齢・官位は再校訂まで保留する |
| 義嗣の死 | 「生害」と記す | 同趣旨。院号または寺院名の割注を伴う | 自害・殺害の一方へ確定せず、具体的な月日・享年も保留する |
| 義嗣の死 | 「生害」と記す | 同趣旨 | 自害・殺害の一方へ確定せず、「生害」として保存する |
| 上総一揆 | 城名・日付が難読 | 城名・討伐経過を詳しく記す | 活字本で補読するが、三戸・坂本城などの区切りは未確定とする |
| 明使の実名 | 人名字形が不鮮明 | 呂淵と読める | 「呂淵か」とし、活字本による補読と明記する |
| 対馬襲来 | 朝鮮兵船五百余艘・風波による漂没を記す | 同趣旨 | 写本・活字本の本文値を保存する |
| 岩松氏記事 | 日付順・主語が乱れる | 人物関係を写本より明確に記す | 五月二十八日・七里浜を保持し、反乱・処分の主体は未確定とする |
| 憲基の法名 | 小字・異体字が不鮮明 | 法名を記す | 心無海印などの候補とし、確定しない |
| 呪詛事件 | 仮名交じりで狐の呪詛を説明する | 公家・医師・陰陽師を多数列挙する | 人名を補読しつつ、疑惑・伝承として注記する |
| part末尾 | 伊豆大島の火山記事から次partへ続く | 海水異常・魚死記事へ連続する | 火山活動までを第9節、魚の大量死以後を第10節で扱う |
判読・校訂に自信のない箇所
- 足利義嗣の院号:円修院・林光院などに見える。院号と寺院名の区別、名称の所属を確定できない。
- 小河殿の記事:薨去・追贈・義運の歌が関係するとみられるが、人物比定と義嗣記事との係り方は未確定である。
- 上総一揆討伐の城名:三戸・坂本城などの候補があるが、地名・城名の区切りと討伐順序が不明である。
- 明使の実名:呂淵と読む可能性があるが、人名を明治期活字本に依存している。
- 岩松氏・上杉兵庫頭の記事:五月二十八日・七里浜を含むが、反乱・討伐・処分の主語と記事順が乱れている。
- 上杉憲基の法名:心無海印などに見えるが、小字・異体字が不鮮明である。
- 呪詛事件の人物名:広橋・裏松・日野・勧修寺・俊経・定棟などを活字本によって補読している。個々の立場を確定しない。
- 伊豆大島噴火記事の接続:火山活動、海水が熱湯のようになったこと、魚の大量死が一つの現象か複数の記事か未確定である。
復刻作業記録
- 総合作業台帳の管理No.42・第4冊part-10を再検索した。
- 対象年代を応永24~28年(1417~1421年)、写本3ページとして確認した。
- 活字本対応範囲をPDF第23画像左丁~第24画像右丁・印刷45~46頁として確認した。
- 前part末尾の上杉憲基復帰記事が、本part冒頭の六月晦日再任へ続くことを確認した。
- 義量元服、義嗣生害、上総一揆、義円、彦仁親王、明使、対馬襲来の順を確認した。
- 朝鮮兵船「五百余艘」を、写本・活字本が一致する本文値として保存した。
- 上総一揆の城名と明使の実名は、活字本による補読を含むことを明記した。
- 岩松氏・上杉兵庫頭の記事は、五月二十八日・七里浜を保持しつつ、主語を確定していない。
- 上杉憲基の法名を一つに確定していない。
- 義持への呪詛疑惑は、史実として断定せず、疑惑・伝承性を持つ記事として扱った。
- 呪詛関係者名は、活字本による補読を含む候補として掲載した。
- 応永28年の飢饉・疫病・旱魃・伊豆大島火山記事を省略せず掲載した。
- 伊豆大島の魚の大量死は次partに属するため、第10節へ送った。
- 写本翻刻欄は、逐字全文ではなく「第一次判読の要旨」とした。
- 校訂本文は「公開用仮本文」とし、台帳に存在しない古文・漢文を新たに作成していない。
- 写本4冊・本文5巻の関係は、未解決の書誌問題として扱った。
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10.義量将軍と京都・鎌倉の対立――小栗城攻略と後亀山院崩御
対象年代:応永28~31年(1421~1424年)
対応史料:管理No.43・手書き写本第4冊part-11(全3ページ)/明治期活字本PDF第24画像(印刷46~47頁)
公開状態・判読上の注意:第一次判読と明治期活字本との照合に基づく公開用仮本文である。写本欄は写本全体の逐字翻刻ではなく、総合作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。
勧修寺雅縁の和歌、長徳寺殿、足利義持の法名、桃井下野守・佐々木入道、細川常久三十三回忌の日付、服西堂、後亀山院崩御周辺の人物関係には未確定箇所が残る。人名・日付・行動主体を推測によって一つに統一しない。
「日輪二つ」は、写本では二つの太陽が現れたように記され、明治期活字本は「両日出現」とする。本ページでは写本の表現を保存し、幻日・天文現象・その他の気象現象のいずれかへ断定しない。
本節末尾の服西堂の記事は、第4冊part-12冒頭へ続く。本節では服西堂が京都へ上ったところまでを扱い、九月の再下向と京都・鎌倉の和睦は次節へ送る。
この節の概要
前節の末尾では、伊豆大島で火山活動とみられる異常が起こった。本節の冒頭はその続きで、海水が熱くなり、多くの魚が死んだと記す。ただし、噴火・海水の異常・魚の大量死がすべて同じ現象であったかは確定できない。
京都では足利義満の十三回忌法要が行われ、勧修寺雅縁と読まれる人物が和歌を詠んだ。その後、甲州方面への追討、円覚寺の火災、二つの太陽が現れたという怪異などが続く。
関東では、佐竹氏・小栗氏らが鎌倉公方足利持氏に反抗した。持氏は軍勢を送り、反対勢力を強硬に鎮圧した。一方、京都では足利義量が将軍となり、父の義持は出家した。
持氏が小栗城を攻略すると、京都の幕府との対立がさらに深まった。桃井下野守・佐々木入道などが小栗方に同意した、またはその処分に関係したと読まれるが、人物の立場と行動は未確定である。
対立を収めるため、服西堂と呼ばれる人物が将軍側の使者として持氏と対面したとみられる。また、この時期には後亀山院が崩御した。記事には小倉殿・南方法皇・公冬以下の出家に関係するとみられる語句もあるが、人物関係は再確認が必要である。
服西堂は一度京都へ戻ったが、和睦はまだ完結していなかった。服西堂が再び関東へ下り、京都と鎌倉の和睦が成立する経過は、次の第11節で扱う。
情報を省略しない詳細現代語訳
伊豆大島周辺で魚が多数死ぬ
前節の末尾では、応永28年に伊豆大島で火山活動またはそれに関係する異常現象が起こったと記された。本節は、その記事を直接受けて始まる。
海水が熱湯のようになり、魚が多数死んだと記される。海面に多くの魚が浮かんだ、あるいは浜へ打ち上げられたことを表している可能性があるが、具体的な状態までは判読できない。
火山活動によって海水が実際に高温になったのか、海底の異常、魚の大量死、別の自然現象を一続きに記したのかは確定していない。本ページでは、写本が「海水の異常」と「魚多死」を続けて記したことだけを保存する。
足利義満十三回忌と雅縁の和歌
足利義満の十三回忌にあたり、追善法要が行われた。十三回忌とは、亡くなった人の死後十二年目に行う仏教上の法要である。
この法要に関係して、勧修寺雅縁と読まれる人物の和歌が記されている。歌は「相生のかげの朽木……」と続くように見えるが、連綿が強く、語順・仮名遣い・句切りが確定していない。
「相生」は、二本の木が同じ根から生えたように並ぶ姿や、共に長く栄えることを表す語として用いられる。しかし、この歌が義満と誰の関係を詠んだものか、朽木という語にどのような意味を込めたのかは、歌の全文を確定できないため断定しない。
甲州方面への追討
甲州、すなわち甲斐国方面へ追討の軍勢が向けられたと記される。前節までに禅秀方に関係した武田氏への追討記事があるため、その延長である可能性がある。
しかし、本partの記事だけでは、追討対象となった人物、命令を出した者、実際に軍勢を率いた武将、合戦の場所を確定できない。そこで本ページでは、「甲州方面で武田方または反幕府勢力への追討が続いた」と暫定的に説明する。
円覚寺の火災
鎌倉の円覚寺で火災が起こった。円覚寺は鎌倉を代表する禅宗寺院の一つであり、鎌倉府や関東の有力武士とも深い関係を持つ寺院であった。
ただし、焼失した建物、出火原因、被害の範囲については、今回の作業台帳には確定情報がない。そのため、寺院全体が焼失したとはせず、円覚寺で火災があったという範囲にとどめる。
二つの太陽が現れる
空に「日輪二つ」が現れたと記される。明治期活字本は、この現象を「両日出現」と表している。
当時の編年記録では、異常な天候や天体の見え方を、政治的な変動や戦乱の前触れとして記すことがあった。しかし、『南方紀伝』がこの現象をどのような意味で記したのか、本文中の評価は明確でない。
二つの太陽のように見える現象は、後世の気象学で説明できる可能性もあるが、本ページでは特定の現象へ置き換えず、「日輪二つが現れた」とする写本表現を保存する。
長徳寺殿の記事
この付近には、「長徳寺殿」と読まれる人物に関する記事がある。悪党を催した、あるいは悪党を集めた人物への処分を記したようにも読める。
しかし、長徳寺殿が誰を指すのか、本人が反抗勢力を集めたのか、別の人物を処分したのかは確定できない。明治期活字本でも人物と動詞の関係が判然としないため、公開用仮本文では固有名詞と記事の存在だけを保存する。
佐竹氏と小栗氏の反抗
関東では、佐竹氏・小栗氏らが鎌倉公方足利持氏に反抗した。両氏が最初から一つの軍事同盟を結んでいたのか、別々に反抗した記事が続けて記されたのかは、今回の判読では確定していない。
持氏は反抗する武士を放置せず、軍勢を送り、強硬に鎮圧しようとした。この軍事行動は、鎌倉府の支配を関東各地へ及ぼそうとする持氏の姿勢を示す記事として構成されている。
一方、京都の幕府は、持氏が独自の判断で関東の武士を攻め、勢力を広げることを警戒したとみられる。こうして関東内部の反乱は、京都の将軍家と鎌倉公方との政治的な対立へつながっていった。
足利義量が将軍となる
京都では、足利義持の子である義量に将軍宣下があり、義量が将軍となった。将軍宣下とは、朝廷が征夷大将軍の官職を正式に授けることである。
義量は前節で元服し、将軍家の後継者として位置づけられていた。本節では、実際に将軍職を受け、父の義持から表向きの将軍職を引き継いだことが記される。
ただし、義量が将軍となった後も、父の義持が政治から完全に退いたと本文が明言しているわけではない。本ページでは、将軍職の交代があったことまでを説明する。
義持の出家
義量の将軍就任に続いて、足利義持は髪を落とし、出家した。写本には義持の法名とみられる文字が記されるが、「道詮」「道証」など複数の読みが考えられ、確定していない。
そのため本ページでは法名を本文へ固定せず、義持が出家したという事実だけを公開用仮本文へ採用する。法名候補は判読保留欄に残す。
持氏が小栗城を攻める
鎌倉公方足利持氏は、小栗氏の拠点である小栗城を攻めた。小栗方は持氏に対する反抗勢力として城に立て籠もったとみられる。
持氏方は城を攻略し、小栗方を鎮圧した。小栗城攻略は、持氏が関東の反対勢力を武力によって抑えた重要な事件として記されている。
ただし、攻城戦の日付、攻撃軍を率いた人物、城内の人数、落城後の処分については、作業台帳だけでは確定できない。資料にない合戦経過を推測で補わない。
桃井下野守・佐々木入道の記事
小栗方に関係する人物として、桃井下野守・佐々木入道と読まれる名が記される。二人が小栗方に同意した、援助した、または小栗方とともに処分されたという可能性がある。
しかし、二人が同じ立場で行動したのか、それぞれ別の記事に属するのか、処分を受けた対象が誰であるかは確定できない。本ページでは、小栗城攻略に関係する人物候補として掲載し、行動内容は断定しない。
小栗城攻略によって京都との対立が深まる
持氏が小栗城を攻め落としたことにより、京都の幕府と鎌倉府との対立が深まった。持氏は、関東の鎌倉公方として反抗勢力を討つ権限が自分にあると考えて行動したとみられる。
これに対し、京都側は、持氏が幕府の意向を十分に受けずに軍事行動を進めることを問題としたと考えられる。ただし、京都から出された具体的な命令や、持氏の返答全文は、作業台帳には保存されていないため補わない。
こうして、小栗氏の反抗という関東内部の問題は、京都の将軍家と鎌倉公方との権限争いへ発展した。
細川常久三十三回忌
細川常久と読まれる人物の三十三回忌が行われたという記事がある。明治期活字本は日付を三月二日とする。
一方、手書き写本の日付は、三月二日ではなく二月二日にも見える。月の数字に異同がある可能性が高いため、本ページでは「三月二日。ただし写本は二月にも見える」と併記する。
法要の主催者、場所、参列者、常久の人物比定については、今回の第一次判読では確定していない。
服西堂が京都と鎌倉の間を仲介する
京都と持氏の対立を調停するため、「服西堂」と呼ばれる人物が使者として関東へ下ったとみられる。
服西堂は、禅僧の名または号である可能性がある。しかし、実名、所属寺院、将軍義量の使者であったのか、出家後も政治に関与した義持の使者であったのかは確定していない。
服西堂は持氏と対面し、京都側の意向を伝えたとみられる。持氏側の返答を受け、服西堂は一度京都へ上った。
ただし、この時点で和睦が完全に成立したわけではない。写本part-11は、服西堂が京都へ上ったところで中断し、九月に再び関東へ下る記事は次のpart-12へ続く。
後亀山院の崩御
後亀山院が崩御した。後亀山院は南朝最後の天皇であり、南北朝合一後は上皇として扱われた人物である。
『南方紀伝』は、京都と鎌倉の政治的対立の記事と並べて、後亀山院の死を記録している。南北朝合一から年月が経過していたものの、旧南朝に関係する皇族や公家の動向は、なお本書の重要な関心であったことがうかがえる。
崩御記事の周辺には、「小倉殿」「南方法皇」「公冬以下出家」と読める語句がある。しかし、小倉殿が誰を指すのか、「南方法皇」が後亀山院本人を指す表現なのか、誰から誰までが出家したのかは確定していない。
そのため本ページでは、後亀山院の崩御を本文へ採用し、周辺人物と出家記事は判読保留として残す。
次節への接続
本partの末尾では、京都と鎌倉の対立を調停した服西堂が、持氏との対面を終えて京都へ上ったところで文章が切れる。
次のpart-12では、服西堂が九月に再び関東へ下り、京都と鎌倉の和睦が進められる。その後、若い将軍義量の急死、災害、甲斐・志摩の争乱、赤松氏の内紛へ続く。
流れが分かる現代語訳
- 前節の伊豆大島の異常に続いて、海水が熱くなり、多くの魚が死んだと記された。
- 足利義満の十三回忌法要が行われ、勧修寺雅縁とみられる人物が和歌を詠んだ。ただし、歌の全文はまだ確定していない。
- 甲斐方面では武田方などへの追討が続いた可能性があり、鎌倉の円覚寺では火災が起こった。
- 空には二つの太陽が現れたように見えたと記されるが、どのような自然現象だったのかは分からない。
- 関東では佐竹氏・小栗氏らが足利持氏に反抗し、持氏は軍勢を送って鎮圧した。
- 京都では足利義量が将軍となり、父の義持は出家した。義持の法名はまだ確定していない。
- 持氏は小栗城を攻め落としたが、この強硬な行動によって京都の幕府との対立が深まった。
- 服西堂と呼ばれる人物が京都側の使者として持氏と会い、対立を収めようとした。
- この時期、南朝最後の天皇であった後亀山院が亡くなった。
- 服西堂は一度京都へ戻った。再び関東へ下って和睦を進める経過は、次の第11節へ続く。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は人物・制度・事件を理解するための説明であり、写本が直接述べた評価ではない。
- 足利義量:足利義持の子。本節で征夷大将軍となる。若年の将軍であり、次節で急死が記される。
- 足利義持:義量の父で、前将軍。本節で出家する。法名は道詮・道証などの可能性があり、未確定である。
- 足利持氏:関東を治めた鎌倉公方。佐竹氏・小栗氏らを強硬に討ち、小栗城を攻略したことで京都との対立を深めた。
- 小栗氏:常陸国を中心に活動した武士の一族。本節では持氏に反抗し、小栗城を攻められた勢力として記される。
- 佐竹氏:常陸国の有力武士。本節では小栗氏とともに、またはその前後に持氏へ反抗した勢力として記される。
- 小栗城:小栗氏の拠点として記される城。攻城の日付・軍勢・落城後の処分は未確定である。
- 服西堂:京都と鎌倉の間を仲介した人物。禅僧の名または号とみられるが、実名・所属・誰の使者であったかは未確定である。
- 勧修寺雅縁:義満十三回忌に関係する和歌の作者とみられる人物。人名と和歌本文には再確認が必要である。
- 長徳寺殿:悪党の招集または処分に関係するとみられる人物名・称号。人物比定と動詞の主語は未確定である。
- 桃井下野守・佐々木入道:小栗方への同意または処分に関係するとみられる人物。二人の立場と行動は確定していない。
- 円覚寺:鎌倉の禅宗寺院。本節では火災が起こったと記されるが、焼失建物と被害範囲は不明である。
- 日輪二つ:二つの太陽が現れたように見えたという怪異記事。明治期活字本は「両日出現」とするが、具体的な気象現象へは断定しない。
- 細川常久三十三回忌:日付は活字本では三月二日。写本は二月二日にも見えるため、月の異同を残す。
- 後亀山院:南朝最後の天皇。南北朝合一後は上皇となった。本節で崩御が記される。
- 小倉殿・南方法皇・公冬:後亀山院崩御周辺の記事に現れる語句。人物関係と出家者の範囲は未確定である。
- 京都・鎌倉の対立:京都の将軍家と、関東を治める鎌倉公方との権限をめぐとの権限をめぐる対立。小栗城攻略によって緊張が強まったと構成される。
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史料情報
- 管理番号:管理No.43
- 写本:『南方紀伝』手書き写本第4冊part-11・全3ページ
- 対象年代:応永28~31年(1421~1424年)
- 内容区分:編年本文・関東争乱・京都鎌倉対立
- 明治期活字本:PDF第24画像・印刷46~47頁
- 作業状態:第一次判読済み
- 判読確度:中
- 判読保留:8件
- 前partとの接続:伊豆大島の火山活動から、海水異常・魚の大量死へ続く
- 次partへの接続:服西堂の上洛から、九月の再下向・京都鎌倉和睦へ続く
写本翻刻――第一次判読の要旨
以下は写本全体の逐字翻刻ではなく、総合作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。
- 前part末尾の伊豆大島火山記事を受け、海水の異常と魚の大量死を記す。
- 足利義満十三回忌の法要を記す。
- 勧修寺雅縁とみられる人物の和歌を記すが、全文・句切り・歌意は未確定である。
- 甲州方面への追討を記す。
- 円覚寺の火災を記す。
- 日輪が二つ現れたという怪異を記す。
- 長徳寺殿と悪党の招集または処分に関係するとみられる記事を記す。
- 佐竹氏・小栗氏らの反抗を記す。
- 足利義量への将軍宣下を記す。
- 足利義持の落髪・出家と、法名らしい注記を記す。
- 足利持氏による小栗城攻略を記す。
- 桃井下野守・佐々木入道と小栗方との関係または処分を記す。
- 小栗城攻略を契機として京都と持氏の対立が深まったことを記す。
- 細川常久三十三回忌を記すが、日付は三月二日・二月二日の異同候補がある。
- 服西堂が将軍側の使者として持氏と対面したとみられる記事を記す。
- 後亀山院崩御を記す。
- 後亀山院記事の周辺に、小倉殿・南方法皇・公冬以下の出家に関係するとみられる語句を記す。
- 服西堂が京都へ上ったところでpart-11が終わり、再下向と和睦は次partへ続く。
校訂本文――公開用仮本文
前段の伊豆大島の火山活動に続き、海水が熱湯のようになり、魚が多数死んだと記される。ただし、火山活動・海水異常・魚死の因果関係は未確定である。
足利義満の十三回忌法要が行われ、勧修寺雅縁と読まれる人物が和歌を詠んだ。歌は「相生のかげの朽木……」と続くように見えるが、全文と歌意は確定しない。
甲州方面への追討が行われた。追討の対象・指揮者・戦場は未確定である。鎌倉では円覚寺に火災があり、また日輪が二つ現れたと記される。
長徳寺殿と読まれる人物について、悪党を催した、または悪党に関係する処分記事とみられる記述があるが、人物と動詞の関係は確定しない。
関東では佐竹氏・小栗氏らが反抗し、鎌倉公方足利持氏が軍勢を送って鎮圧した。
京都では足利義量に将軍宣下があり、父の足利義持は落髪・出家した。義持の法名は道詮・道証などに見えるが、確定しない。
持氏は小栗城を攻め落とした。桃井下野守・佐々木入道は、小栗方への同意またはその処分に関係するとみられるが、行動内容は未確定である。
持氏による小栗城攻略をめぐって、京都の幕府と鎌倉府との対立が深まった。
細川常久の三十三回忌が行われた。日付は明治期活字本では三月二日であるが、写本は二月二日にも見える。
京都側の使者とみられる服西堂が関東へ下り、足利持氏と対面した。服西堂の実名・所属・誰の使者であるかは未確定である。
後亀山院が崩御した。周辺には小倉殿・南方法皇・公冬以下の出家に関係するとみられる語句があるが、人物関係と出家者の範囲は確定しない。
服西堂は持氏との対面後に京都へ上った。九月の再下向と京都・鎌倉の和睦は、次のpart-12へ続く。
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本の対応範囲は、PDF第24画像・印刷46~47頁である。
- 伊豆大島周辺の海水異常と魚の大量死を記す。
- 義満十三回忌と雅縁の和歌を記す。
- 甲州追討、円覚寺火災を記す。
- 二つの太陽が現れた記事を「両日出現」と表現する。
- 長徳寺殿の記事を収録するが、人物と処分内容は活字本でも判然としない。
- 佐竹氏・小栗氏らの反抗を記す。
- 足利義量の将軍就任と義持の出家を記す。
- 小栗城攻略と、京都・足利持氏の対立を記す。
- 桃井下野守・佐々木入道に関係する記事を記す。
- 細川常久三十三回忌の日付を三月二日とする。
- 服西堂が将軍側の使者として持氏と対面したとみられる記事を記す。
- 後亀山院崩御と、その周辺人物・出家記事を記す。
- 服西堂の上洛から、次頁の九月再下向・和睦記事へ続く。
活字本は日付・人名・漢字表記の補読に役立つが、雅縁の和歌、長徳寺殿、義持の法名、服西堂の実名などは、活字本だけでも確定できない。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 公開版での扱い |
|---|---|---|---|
| 雅縁の和歌 | 連綿が強く一部難読 | 活字化されるが歌意はなお難解 | 冒頭候補のみ示し、全文・現代語訳を確定しない |
| 魚の大量死 | 海水異常・魚多死を前partから続けて記す | 同趣旨 | 現象の因果関係を断定せず、記事の接続を保存する |
| 二つの太陽 | 日輪二つ出づと説明する | 両日出現 | 写本の「日輪二つ」を基本表現として採用する |
| 長徳寺殿 | 人物・処分動詞が不明瞭 | 活字本でも判然としない | 人物を比定せず、未確定のまま保持する |
| 義持の法名 | 道詮・道証などに見える | 法名表記があるが再確認が必要 | 本文では法名を確定せず、候補を判読保留へ残す |
| 桃井・佐々木の記事 | 小栗方との同意・処分の係り方が不明 | 人名を明記するが行動主体はなお不明瞭 | 関係人物候補として示し、行動内容は断定しない |
| 細川常久三十三回忌 | 二月二日にも見える | 三月二日 | 三月二日〔写本は二月にも見える〕と併記する |
| 服西堂 | 将軍使者・持氏対面とみられる | 調停記事を比較的明確に記す | 調停者として扱うが、実名・所属・派遣者は未確定とする |
| 後亀山院崩御 | 小倉殿・南方法皇・公冬以下出家を含むとみられる | 周辺人物の記事を収録する | 崩御は採用し、人物関係と出家者範囲は保留する |
| part末尾 | 服西堂の上洛で中断する | 九月の再下向・和睦へ続く | 第10節では上洛までとし、和睦成立は第11節へ送る |
判読・校訂に自信のない箇所
- 勧修寺雅縁の和歌:「相生のかげの朽木……」と続くように見えるが、語順・仮名遣い・句切り・歌意を確定できない。
- 長徳寺殿:悪党を催した人物なのか、悪党に関係する者を処分した人物なのか、後続の動詞と人物比定が不明である。
- 足利義持の法名:道詮・道証などの異読候補がある。公開用本文では一方に統一しない。
- 桃井下野守・佐々木入道:小栗方への同意・援助・処分のいずれに関係するか、二人の係り方を確定できない。
- 細川常久三十三回忌の日付:明治期活字本は三月二日。写本は二月二日にも見え、月に異同候補がある。
- 服西堂:将軍側の使者として持氏と対面したとみられるが、実名・所属寺院・義量または義持のどちらの使者かは未確定である。
- 日輪二つ:明治期活字本は「両日出現」とする。具体的な天文・気象現象への比定は行わない。
- 後亀山院崩御周辺:小倉殿・南方法皇・公冬以下出家の人物関係と、出家した人物の範囲を確定できない。
復刻作業記録
- 総合作業台帳の管理No.43・第4冊part-11を再検索した。
- 対象年代を応永28~31年(1421~1424年)、写本3ページとして確認した。
- 活字本対応範囲をPDF第24画像・印刷46~47頁として確認した。
- 前part末尾の伊豆大島火山記事から、海水異常・魚多死へ続くことを確認した。
- 義満十三回忌、雅縁の和歌、甲州追討、円覚寺火災、日輪二つの記事を省略せず掲載した。
- 日輪二つを特定の気象現象へ置き換えていない。
- 長徳寺殿の記事は、人物と動詞が活字本でも不明瞭であるため未確定のまま残した。
- 義量の将軍宣下と義持の出家を区別して掲載した。
- 義持の法名を道詮・道証の一方へ確定していない。
- 佐竹氏・小栗氏の反抗と、小栗城攻略を京都・鎌倉対立の流れとして整理した。
- 桃井下野守・佐々木入道を、小栗方の確定した同盟者または処刑者とはしていない。
- 細川常久三十三回忌の日付を、三月二日〔写本は二月にも見える〕として保存した。
- 服西堂を調停者として扱ったが、実名・所属・派遣者は確定していない。
- 後亀山院崩御記事に付随する小倉殿・南方法皇・公冬以下出家を判読保留として残した。
- 本part末尾が服西堂の上洛で中断し、次partの九月再下向・和睦へ続くことを確認した。
- 写本翻刻欄は、逐字全文ではなく「第一次判読の要旨」とした。
- 校訂本文は「公開用仮本文」とし、作業台帳に存在しない古文・漢文を新たに作成していない。
- 写本4冊・本文5巻の関係は、未解決の書誌問題として扱った。
関連ページへのリンク
11.義量の急死――赤松氏内紛と第4冊巻末
対象年代:応永31~34年(1424~1427年)
対応史料:管理No.44・手書き写本第4冊part-12(全3ページ)/明治期活字本PDF第24画像左丁~第25画像右丁(印刷47~48頁付近)
公開状態・判読上の注意:第一次判読と明治期活字本との照合に基づく公開用仮本文である。写本欄は、写本全体の逐字翻刻ではなく、総合作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。
奥州稲村殿満直、足利義量の法名、志摩国伊雑浦の討伐者、興福寺の建物名、武田氏追討の日付と経過、細川満元の院号には未確定箇所が残る。人名・建物名・日付・行動主体を、一般的な通史や系譜に合わせて推測で確定しない。
赤松満祐の上洛日は、写本では「十二月十七日」、明治期活字本では「十一月十七日」と記される。本ページでは一方へ統一せず、明確な本文異同として両方を保存する。
写本第4冊は、応永34年の赤松満祐上洛記事と大型朱印二顆をもって終わる。一方、明治期活字本はその後も本文が続く。写本4冊と本文5巻との関係は未解決であり、活字本巻五を後世の付録・補遺・増補などとは断定しない。
この節の概要
前節では、京都の幕府と鎌倉公方足利持氏との対立を収めるため、服西堂と呼ばれる人物が両者の間を往復した。本節の冒頭では、服西堂が九月に再び関東へ下り、京都と鎌倉の和睦が進められたと記される。
その後、若い将軍足利義量が十九歳で突然亡くなった。義量には将軍職を継ぐ子がいなかったため、父の足利義持が再び幕府政治の中心となったと整理できる。
同じ時期には、鎌倉御所と相国寺の火災、甲斐武田氏への追討、志摩国伊雑浦の争乱、興福寺衆徒の記事、細川満元の死去など、各地の戦乱・火災・政治記事が続く。
応永34年には、洪水が十八度起こったと記される。また、赤松氏の内部で満祐と持貞をめぐる対立が生じ、満祐は白旗城へ退いた。持貞が自害した後、満祐は京都へ戻った。
写本では満祐の上洛を十二月十七日とするが、明治期活字本は十一月十七日とする。この上洛記事の後に大型朱印二顆が押され、手書き写本第4冊は終了する。
情報を省略しない詳細現代語訳
服西堂が再び関東へ下り、京都と鎌倉が和睦する
前節では、鎌倉公方足利持氏が小栗城を攻め落としたことをきっかけに、京都の幕府と鎌倉府との対立が深まった。服西堂と呼ばれる人物が両者を仲介し、持氏と対面した後、いったん京都へ戻ったところで記事が終わっていた。
本節の冒頭では、服西堂が九月に再び関東へ下ったと記される。服西堂は京都側の意向を持氏へ伝え、持氏側の返答も京都へ伝えたとみられる。
その結果、京都の幕府と鎌倉府との間で和睦が成立した、または少なくとも軍事衝突を避けるための合意が整ったと読める。ただし、和睦の具体的な条件、持氏が何を約束したのか、京都側がどの処分を取り消したのかは、作業台帳には確定情報がないため補わない。
服西堂の実名、所属寺院、足利義量と義持のどちらから正式に派遣されたのかについても、引き続き未確定である。
奥州稲村殿満直が鎌倉へ来る
十一月二十一日、奥州稲村殿満直と読まれる人物が鎌倉へ来たという記事がある。
しかし、「稲村殿」が人物の通称なのか、居所や御所の名称なのか、満直が鎌倉公方の一族であるのか、別の奥州武士であるのかは確定していない。また、鎌倉へ来た目的が、持氏への出仕・和睦・援助・処分のいずれであるのかも判然としない。
そのため本ページでは、「奥州稲村殿満直」と暫定的に読み、十一月二十一日に鎌倉へ来訪したとみられることだけを記す。
十九歳の将軍足利義量が急死する
将軍足利義量が突然亡くなった。写本は、その死を「頓死」と表現している。頓死とは、病気や事故などによって急に亡くなることを表す語である。
義量は十九歳であった。父の足利義持から将軍職を譲られ、室町幕府の将軍となってから長い年月は経っていなかった。
義量には将軍職を継ぐ子がいなかったため、将軍家の継承は再び不安定になった。義持は出家していたが、義量の死後、再び幕府の政務を担う立場となったと整理できる。
ただし、義持が改めて征夷大将軍へ再任されたという意味ではない。本ページでは、義量の死後、前将軍である義持が幕府政治の実権を再び担ったという範囲で説明する。
義量の法名または院号は、「聖山道基」などに見える文字で記される。しかし、院号と法名の区別、文字の順序、異体字の判定には再確認が必要であるため、公開用仮本文では一つに確定しない。
鎌倉御所と相国寺の火災
鎌倉御所で火災が起こった。鎌倉御所は、鎌倉公方足利持氏が政治を行う拠点である。焼けた建物の範囲、持氏がどこへ避難したのか、すぐに再建されたのかについては、今回の第一次判読では確定できない。
京都では相国寺にも火災があった。相国寺は足利義満が建立した禅宗寺院で、室町幕府と深い関係を持っていた。
ただし、相国寺のどの堂塔が焼けたのか、鎌倉御所火災と同じ年・同じ月の出来事であるのか、被害の大きさがどの程度であったのかは、資料にないため補わない。
甲斐武田氏への追討
甲斐国では、武田氏に対する追討が行われた。前の時期から、上杉禅秀の乱に関係した武田氏への処分と追討が続いており、本節の記事もその流れに属する可能性がある。
日付は六月十六日または六月二十六日と読む可能性があり、その後の八月二十五日の記事へ続くように見える。
しかし、六月の記事が追討軍の出発・合戦・敗北のいずれを示すのか、八月二十五日に誰が降参したのか、武田氏のどの人物を対象としたのかは確定できない。
そこで本ページでは、甲斐の武田氏に対する追討が続き、戦闘または降参に至ったとみられることまでを説明し、日付と勝敗の細部は判読保留とする。
志摩国伊雑浦の争乱
志摩国の伊雑浦で兵乱または討伐があった。伊雑浦は写本の地名として比較的確認できるが、討伐を行った人物の名字は、「的屋」「的場」など複数の読みが考えられる。
官職部分は美作守と読める可能性があるため、暫定的には「的屋または的場美作守」とする。しかし、これが討伐軍の指揮者なのか、反乱側の人物なのかは確定しない。
伊雑浦で誰と誰が争ったのか、伊勢国司北畠氏、幕府、地域の武士や海上勢力のどれが関係したのかについても、作業台帳にない情報を推測で補わない。
興福寺衆徒が建物を破る
奈良の興福寺では、衆徒が寺内または関係施設の建物を破ったとみられる記事がある。衆徒とは、大寺院に所属し、武力を持つこともあった僧侶や寺院勢力である。
破られた建物名は「勝院」などに見えるが、文字を確定できない。寺院内の院家名なのか、門・役所・宿所などを指すのかも未確定である。
したがって、本ページでは興福寺衆徒による建物破却または騒動があったという範囲にとどめ、施設名を一つに決めない。
細川満元が亡くなる
細川満元が亡くなった。満元は室町幕府で管領を務めた細川氏の有力者であり、足利義持・義量の時代の幕府政治に関わった人物である。
写本には満元の院号または法名に関係する小字があり、「巌栖院」などに見える。しかし、文字の形が不鮮明で、院号・法名・寺院名のどれに当たるかも再確認が必要である。
そのため、公開用仮本文では満元の死去を採用し、院号は候補として判読保留欄へ残す。
応永34年、洪水が十八度起こる
応永34年について、写本は「この年洪水十八度なり」と記す。明治期活字本も「今年洪水十八度也」とし、数値は一致している。
これは、その一年に洪水と認識された出来事が十八度あったという『南方紀伝』の本文値である。本ページでは、この数字を別史料の回数へ置き換えず、そのまま保存する。
ただし、同じ川の増水を繰り返し数えたのか、京都・関東・地方の洪水を合計したのか、どの地域の記録であるのかは明らかでない。近代的な全国災害統計と同じ意味での十八回とは断定しない。
赤松満祐が白旗城へ退く
守護大名赤松氏の内部で、赤松満祐と赤松持貞をめぐる対立が起こった。
本文は、満祐が京都を離れ、播磨国の白旗城へ退いたとみられる経過を記している。白旗城は、赤松氏の重要な拠点として現れる。
しかし、満祐が自ら反乱を起こしたのか、持貞の訴えによって処分を恐れたのか、将軍義持とどのようなやり取りがあったのかは、作業台帳に確定した逐字本文がないため断定しない。
本ページでは、赤松氏内部の対立と幕府との緊張により、満祐が白旗城へ退いたという大きな流れだけを採用する。
赤松持貞の自害
その後、赤松持貞が自害したと記される。持貞の自害によって、満祐をめぐる政治問題は大きく変化したとみられる。
ただし、持貞がどのような罪を問われたのか、誰から自害を命じられたのか、自ら責任を取ったのかは、現在の校訂段階では確定できない。
持貞の自害と満祐の上洛を、単純な善悪や一方的な謀反の失敗として説明せず、守護大名赤松氏の内部対立と幕府政治に関係する事件として扱う。
赤松満祐が京都へ戻る
赤松持貞の自害後、赤松満祐は京都へ上った。本文は、満祐がどのような条件で上洛を許されたのか、幕府との関係がどのように調整されたのかを詳しく記していない。
そのため本ページでは、満祐が反乱を起こして赦免された、または以前の地位へ正式に復帰したとは断定せず、持貞との対立を経た後に京都へ上ったと説明する。
満祐の上洛日には重要な異同がある。手書き写本は「十二月十七日」、明治期活字本は「十一月十七日」と記している。
日の数字である十七日は一致するが、月が一か月異なる。本ページでは、写本の十二月十七日を写本本文値として保存し、活字本が十一月十七日とすることを併記する。一方を誤りと断定せず、他の赤松氏関係史料による確認が必要な異同とする。
手書き写本第4冊が終わる
赤松満祐の上洛記事の後、手書き写本第4冊の本文は終了する。巻末には大型の朱印が二顆押されている。
朱印の印文、印主、押印された時期、写本の旧蔵者との関係は、現在の画像と第一次判読では確定できない。また、朱印が本文の文字に重なっている可能性があり、朱印下の文字も完全には読めていない。
そのため、朱印を作者・書写者・旧蔵者の印とは断定せず、「巻末大型朱印二顆」として保存する。明確な文章を伴う奥書としても扱わない。
手書き写本4冊の本文は、ここで応永34年までを記して終わる。一方、明治期活字本では、赤松満祐の帰洛記事に続いて正長年間以後の記事が掲載され、本文はさらに長禄2年まで続く。
この違いから、写本第4冊に本文が欠けている、活字本巻五が後から付け加えられた、または両者が別系統の本文である、などと現段階で断定することはできない。写本4冊・本文5巻の関係は、伝本・底本・巻立て上の未解決問題として扱う。
流れが分かる現代語訳
- 服西堂が九月に再び関東へ下り、京都の幕府と鎌倉公方足利持氏との和睦を進めた。
- 奥州稲村殿満直と読まれる人物が鎌倉へ来たが、その身分と目的はまだ分かっていない。
- 十九歳の将軍足利義量が突然亡くなった。義量に子がいなかったため、父の義持が再び幕府政治を担った。
- 鎌倉御所や京都の相国寺で火災が起こった。
- 甲斐では武田氏への追討が行われたが、日付・勝敗・降参までの順序には不明な点がある。
- 志摩国伊雑浦でも争いが起こり、興福寺では衆徒が建物を破ったとみられる事件があった。
- 幕府の有力者であった細川満元が亡くなった。
- 応永34年には、洪水が十八度起こったと写本と活字本の両方が記している。
- 赤松満祐は、赤松持貞との対立の中で白旗城へ退いた。持貞が自害した後、満祐は京都へ上った。
- 満祐の上洛日は、写本が十二月十七日、活字本が十一月十七日とする。
- 満祐の上洛記事と大型朱印二顆をもって、手書き写本第4冊は終わる。
- 活字本はその後も続くが、写本4冊と本文5巻との関係はまだ解決していない。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は人物・制度・場所・書誌上の問題を理解するための説明であり、写本の直接的な評言ではない。
- 足利義量:足利義持の子で、室町幕府の将軍。本節では十九歳で突然亡くなる。法名・院号は「聖山道基」などに見えるが未確定である。
- 足利義持:義量の父で、前将軍。すでに出家していたが、義量の死後、再び幕府政治の実権を担ったと整理できる。
- 服西堂:京都と鎌倉の間を往復して和睦を仲介した人物。禅僧の号とみられるが、実名・所属寺院・派遣者は未確定である。
- 奥州稲村殿満直:十一月二十一日に鎌倉へ来たとみられる人物。称号・系譜・来訪目的は未確定である。
- 鎌倉御所:鎌倉公方が政治を行った御所。本節では火災が記されるが、焼失範囲と避難先は分からない。
- 相国寺:足利義満が建立した京都の禅宗寺院。本節では火災が記録される。
- 武田氏追討:甲斐武田氏に対する軍事行動。六月十六日・二十六日、八月二十五日などの日付候補があるが、戦闘・敗北・降参の順序は未確定である。
- 伊雑浦:志摩国の地名。本節では兵乱または討伐記事があるが、討伐者名は「的屋」「的場」などの候補がある。
- 興福寺衆徒:奈良の興福寺に属した寺院勢力。本節では建物を破ったとみられるが、その施設名は確定していない。
- 細川満元:室町幕府の管領を務めた細川氏の有力者。本節で死去する。院号は「巌栖院」などに見えるが未確定である。
- 洪水十八度:写本と活字本がともに記す応永34年の災害記事。『南方紀伝』の本文値として保存し、近代的統計と同じ数え方とは断定しない。
- 赤松満祐:播磨などを基盤とした赤松氏の有力者。本節では白旗城へ退き、持貞自害後に京都へ戻る。
- 赤松持貞:赤松満祐との対立記事に現れ、後に自害したと記される人物。対立の具体的原因と自害命令の主体は未確定である。
- 白旗城:播磨国における赤松氏の重要な拠点。本節では満祐が京都を離れて退いた場所として現れる。
- 巻末大型朱印二顆:第4冊巻末に押された二つの大きな朱印。印文・印主・押印時期は未確定であり、写本固有の伝来資料として保存する。
- 写本4冊・本文5巻:今回の手書き写本は物理的に4冊で応永34年に終わるが、明治期活字本は5巻構成で、その後の記事も収録する。両者の関係は未解決である。
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史料情報
- 管理番号:管理No.44
- 写本:『南方紀伝』手書き写本第4冊part-12・全3ページ
- 元PDFでの範囲:第4冊PDF第32~34ページ
- 対象年代:応永31~34年(1424~1427年)
- 内容区分:編年本文・赤松氏・第4冊巻末
- 明治期活字本:PDF第24画像左丁~第25画像右丁・印刷47~48頁付近
- 作業状態:第一次判読済み
- 判読確度:中
- 判読保留:8件
- 前partとの接続:服西堂の上洛から、九月の再下向と京都・鎌倉の和睦へ続く
- 写本の終点:応永34年の赤松満祐上洛記事と大型朱印二顆で終了
- 書誌上の注意:活字本は満祐上洛記事後も続くが、写本4冊・本文5巻の関係は未解決
写本翻刻――第一次判読の要旨
以下は写本全体の逐字翻刻ではなく、総合作業台帳に保存された第一次判読の要旨である。
- 前part末尾の服西堂上洛記事を受け、服西堂が九月に再び関東へ下ったことを記す。
- 京都の幕府と鎌倉公方足利持氏との和睦を記す。
- 十一月二十一日、奥州稲村殿満直と読まれる人物が鎌倉へ来たことを記す。
- 足利義量が十九歳で頓死したことを記す。
- 義量の法名または院号とみられる小字を記すが、「聖山道基」などの候補があり未確定である。
- 義量の死後、父の足利義持が再び政務を担ったとみられる記事を記す。
- 鎌倉御所の火災を記す。
- 相国寺の火災を記す。
- 甲斐武田氏への追討を記すが、六月十六日・二十六日、八月二十五日などの日付と事件順は未確定である。
- 志摩国伊雑浦での兵乱または討伐を記す。
- 討伐者名を「的屋」または「的場」美作守などと読む可能性がある。
- 興福寺衆徒が建物を破ったとみられる記事を記すが、建物名は「勝院」などに見え未確定である。
- 細川満元の死去を記す。
- 満元の院号または法名を「巌栖院」などと読む可能性がある。
- 応永34年に洪水が十八度起こったと記す。
- 赤松満祐と赤松持貞をめぐる対立を記す。
- 満祐が白旗城へ退いたとみられる経過を記す。
- 赤松持貞が自害したことを記す。
- 赤松満祐が十二月十七日に京都へ上ったと記す。
- 本文末尾に大型朱印二顆があるが、印文は未確定である。
校訂本文――公開用仮本文
服西堂は九月に再び関東へ下り、京都の幕府と鎌倉公方足利持氏との間に和睦が成立したとみられる。和睦の具体的な条件は未確定である。
十一月二十一日、奥州稲村殿満直と読まれる人物が鎌倉へ来た。ただし、その人物比定、称号、来訪目的は確定しない。
将軍足利義量は十九歳で頓死した。法名または院号は「聖山道基」などに見えるが、字形を確定できない。義量の死後、父の足利義持が再び幕府の政務を担ったと整理できる。
鎌倉御所と京都の相国寺で火災が起こった。焼失範囲と被害の詳細は未確定である。
甲斐武田氏への追討が行われた。日付には六月十六日・二十六日、八月二十五日などの候補があるが、戦闘・敗北・降参の順序は確定しない。
志摩国伊雑浦で争乱または討伐があった。討伐者名は「的屋」または「的場」美作守などと読む可能性があるが、行動主体は未確定である。
興福寺衆徒が建物を破ったとみられる。建物名は「勝院」などに見えるが、確定しない。
細川満元が死去した。院号または法名は「巌栖院」などに見えるが、字形が不鮮明である。
応永34年、この年に洪水が十八度起こったと記される。
赤松満祐と赤松持貞をめぐって対立が生じ、満祐は播磨の白旗城へ退いたとみられる。その後、持貞が自害した。
満祐は京都へ上った。写本はその日を十二月十七日とするが、明治期活字本は十一月十七日とする。
満祐上洛記事の後、手書き写本第4冊の本文は終了し、巻末に大型朱印二顆がある。印文・印主・押印時期は未確定である。
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本の対応範囲は、PDF第24画像左丁から第25画像右丁、印刷47~48頁付近である。
- 服西堂の再下向と、京都・鎌倉の和睦を記す。
- 奥州稲村殿満直と読まれる人物の鎌倉来訪記事を収録する。
- 足利義量の急死・享年・法名に関する割注を記す。
- 義量死後の足利義持による政務を記す。
- 鎌倉御所・相国寺の火災を記す。
- 甲斐武田氏への追討と、戦闘・降参の記事を記す。
- 志摩国伊雑浦の争乱、興福寺衆徒の記事を記す。
- 細川満元の死去と院号を記す。
- 応永34年の「洪水十八度」を写本と同様に記す。
- 赤松満祐・持貞の対立、満祐の白旗城退去、持貞の自害を記す。
- 満祐の上洛日を十一月十七日とする。
- 赤松満祐の帰洛記事後も、正長年間以後の記事へ続く。
活字本は人名・日付・法名・地名の補読に役立つが、義量の法名、志摩の討伐者、興福寺の建物名、武田追討の日付などは、活字本によっても完全には確定できない。
また、活字本第25画像には、写本末尾と重複する赤松満祐帰洛記事と、その後の本文が同一版面上に続く。本節では写本と対応する満祐帰洛までを比較対象とし、その後の記事を第4冊写本の本文として扱わない。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 公開版での扱い |
|---|---|---|---|
| 服西堂の記事 | 前part末尾の上洛から、九月再下向・和睦へ続く | 同じ流れを連続して記す | 前後partを接続し、和睦条件は推測で補わない |
| 奥州稲村殿満直 | 十一月二十一日の鎌倉来訪とみられる | 対応する人名・日付を記す | 人物比定・称号・来訪目的を未確定とする |
| 義量の法名 | 聖山道基などに見える | 割注に法名らしい表記がある | 一つの法名へ統一せず、候補として保存する |
| 武田氏追討 | 六月十六日または二十六日、八月二十五日などに見える | 日付と経過を写本より整理して記す | 数字・勝敗・降参の区切りを未確定とする |
| 志摩伊雑浦 | 討伐者名が的屋・的場などに見える | 漢字表記があるが再確認が必要 | 名字と行動主体を一つに確定しない |
| 興福寺の建物名 | 勝院などに見える | 建物名を記すが判読に再確認が必要 | 施設名を未確定のまま保持する |
| 細川満元の院号 | 巌栖院などに見える | 院号または法名を記す | 死去記事は採用し、院号は確定しない |
| 洪水十八度 | 「この年洪水十八度なり」 | 「今年洪水十八度也」 | 両本文が一致するため、公開用仮本文へ採用する |
| 赤松満祐の上洛日 | 十二月十七日 | 十一月十七日 | 最重要の月異同として両本文を併記する |
| 写本の終点 | 応永34年の満祐上洛記事で終了 | 満祐帰洛後も正長年間以後へ続く | 写本が活字本の途中に相当する位置で終わることを明記する |
| 巻末朱印 | 大型朱印二顆がある | 朱印は収録されない | 写本固有の巻末・伝来資料として保存する |
判読・校訂に自信のない箇所
- 奥州稲村殿満直:十一月二十一日に鎌倉へ来たとみられるが、人物比定・称号・行動目的を確定できない。
- 足利義量の法名:「聖山道基」などに見えるが、院号・法名の区別と字形に再確認が必要である。
- 志摩国伊雑浦の討伐者:「的屋」「的場」美作守などの候補がある。名字・地名・官職の区切りと所属を確定できない。
- 興福寺の建物名:「勝院」などに見えるが、衆徒が破った施設の正式名称を確定できない。
- 武田氏追討の日付と経過:六月十六日・二十六日、八月二十五日などの候補があり、出陣・敗北・降参の区切りが不明である。
- 細川満元の院号:「巌栖院」などに見えるが、異体字と小字が不鮮明である。
- 赤松満祐の上洛月:写本は十二月十七日、活字本は十一月十七日。月の異同を解消せず両方を保存する。
- 巻末大型朱印二顆:印文・印主・押印時期・所蔵史、および朱印下の文字が未確定である。
復刻作業記録
- 総合作業台帳の管理No.44・第4冊part-12を再検索した。
- 対象年代を応永31~34年(1424~1427年)、写本3ページとして確認した。
- 活字本対応範囲をPDF第24画像左丁~第25画像右丁・印刷47~48頁付近として確認した。
- 前part末尾の服西堂上洛から、九月の再下向・京都鎌倉和睦へ続くことを確認した。
- 奥州稲村殿満直の記事を、人物比定と来訪目的を確定せず掲載した。
- 義量の死を写本の「頓死」という表現に基づいて説明し、十九歳という本文情報を保存した。
- 義量の法名を「聖山道基」などの候補にとどめ、一つへ確定していない。
- 義持が再び政務を担ったことと、将軍へ再任されたことを区別した。
- 鎌倉御所・相国寺の火災を掲載し、焼失建物と被害範囲を補っていない。
- 武田氏追討の日付・勝敗・降参の経過を判読保留として残した。
- 志摩国伊雑浦の討伐者名を、的屋・的場の一方へ統一していない。
- 興福寺の建物名を確定していない。
- 細川満元の死去は採用し、院号は候補のまま保存した。
- 洪水十八度を、写本・活字本が一致する本文値として採用した。
- 赤松満祐の上洛月について、写本十二月・活字本十一月の異同を明記した。
- 写本が満祐上洛記事で終了し、活字本がその後も続くことを区別した。
- 大型朱印二顆を明確な奥書本文とはせず、写本固有の巻末資料として扱った。
- 朱印の印文・印主・所蔵史を推測で確定していない。
- 写本翻刻欄は、逐字全文ではなく「第一次判読の要旨」とした。
- 校訂本文は「公開用仮本文」とし、作業台帳に存在しない古文・漢文を新たに作成していない。
- 写本4冊・本文5巻の関係は、未解決の書誌問題として扱った。
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巻四巻末書誌注記――手書き写本4冊と本文5巻の関係
今回確認した『南方紀伝』の手書き写本は、物理的には全4冊である。第4冊は応永4年(1397)から応永34年(1427)までを収録し、赤松満祐の上洛記事と大型朱印二顆をもって終了する。
一方、明治期活字本の本文は全5巻構成である。活字本第25画像の冒頭では、赤松満祐の帰洛記事が写本第4冊末尾と重なり、その後は正長・永享・嘉吉・文安・宝徳・享徳・康正・長禄年間の記事へ続く。活字本文の最終年代は長禄2年(1458)である。
さらに、明治33年(1900)6月の近藤瓶城による巻末識語は、『南方紀伝』を「後醍醐天皇の元弘元年より称光院の応永三十四年まで」の書として説明している。この説明は、手書き写本第4冊の終点と一致する一方、活字本巻五相当部分との関係は明らかではない。
したがって、本サイトでは、活字本巻五を「後世に加えられた付録」「後から追加された補遺」「増補部分」などとは断定しない。手書き写本4冊と本文5巻との対応、活字本が用いた底本、異なる伝本系統、巻立ての違いなどを含む、未解決の書誌問題として扱う。
また、近藤瓶城の巻末識語は明治期の編集者による書誌説明であり、手書き写本本文そのものではない。活字本第33画像の左丁から始まる「菊池伝記総目録」も、『南方紀伝』の付録ではなく、刊本に続けて収録された別史料である。