巻三は、弘和三年/永徳三年(1383年)から応永三年(1396年)までを扱います。
足利義満が准三后となり、相国寺を建立して京都での権威を高める一方、土岐康行の乱・明徳の乱を通して有力守護大名を統制していく過程が記されています。
また、関東では足利氏満の上洛計画と上杉憲春の諫死が起こり、河内・紀伊・伊勢・九州などでは南朝方の武士や城が抵抗を続けました。
巻の後半では、大内義弘の仲介による南北朝和平、南朝天皇の上洛、三種神器の渡御、両統迭立・本領安堵などの合一条件が記されます。
南北朝合一後は、足利義持の元服と将軍就任、義満の出家、対外関係、武家礼式の整備へ進みます。手書き写本第3冊は応永三年で終わり、巻末には朱印と後筆があります。
このページの7節は、写本にもともと付けられた章題ではありません。復刻作業上の各partと内容のまとまりをもとに、公開用の見出しを付けています。
巻三の読み方
- 第1節冒頭には、後小松院の系譜・両親・第3冊の収録年代を示す写本独自の巻頭説明があります。
- 第2節以後は、土岐康行の乱、南朝残存勢力、明徳の乱、南北朝合一へ進みます。
- 各節の「情報を省略しない詳細現代語訳」が、史料情報を可能な限り残した主本文です。
- 「流れが分かる現代語訳」では、事件の因果関係を理解しやすく説明します。
- 写本翻刻・校訂本文・活字本との異同・判読保留・作業記録は、各節の折りたたみ欄から確認できます。
- 明徳三年(1392年)の南北朝合一記事では、写本に記された和平条件と、その後の実際の展開を区別します。
- 各節末尾の「巻三目次へ戻る」から目次へ戻れます。
巻三目次
- 義満の准三后――相国寺建立と南朝の文化・外交
- 土岐康行の乱――三国守護の失脚と義満の守護統制
- 上杉憲春の諫死――氏満の上洛計画と各地の南朝残存勢力
- 明徳の乱①――山名氏清・満幸の挙兵
- 明徳の乱②――氏清の討死と山名領国の再分配
- 南北朝合一――神器渡御と両統迭立の約束
- 合一後の義満政権――義持将軍・義満出家と第3冊巻末
1.義満の准三后――相国寺建立と南朝の文化・外交
対象年代:弘和三年/永徳三年~元中四年/至徳四年(1383~1387年)
対応史料:手書き写本第3冊 part-2、全3ページ/明治期活字本PDF第16~17画像・印刷30~33ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
第3冊巻頭の朱印下にある説明、守永親王と読まれる皇族名、遣明僧「如海」、元中元年冬の記事、元中三年後半の南都・河内・南禅寺記事、次partへの接続には未確定箇所があります。
以下の「写本翻刻」は全文の逐字翻刻ではなく、第一次判読の要旨です。
この節の概要
手書き写本第3冊は、後小松院に関する系譜・父母・巻の収録年代を説明する巻頭部分から始まります。
この巻頭説明は明治期活字本に同じ形式で収録されておらず、第3冊がどの年代を一冊としてまとめたのかを考える重要な写本独自資料です。
編年本文では、足利義満が准三后となり、朝廷内で特別に高い待遇を受けるようになったことが記されます。また、京都では相国寺の建立が進み、義満の宗教的・政治的な権威が強まっていきました。
一方、南朝は明国へ使者を送りました。使者には「如海」と読まれる僧が関係した可能性がありますが、僧名の文字は確定していません。
南朝皇族として「守永親王」と読まれる人物も現れます。ただし、「守秋」「守良」などの異読も考えられるため、人物同定は保留します。
文化記事としては、『新後拾遺和歌集』に南朝方の歌が収録されなかったことに関係する説明、五百番歌合、南朝宮廷の和歌活動が記されています。
また、男山の神輿、大雪八尺という気象記事、足利義持の誕生も収録されています。
節の末尾では、元中三年後半の南都・河内・南禅寺に関係する記事を経て、元中四年正月の記事へ続きます。しかし、最後の動詞と主語が次partへまたがるため、具体的な事件内容は確定していません。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、写本の記事順に沿って説明文へ展開したものです。逐字本文が確定していない箇所は、一般的な歴史知識によって補っていません。
第3冊巻頭の説明
手書き写本第3冊の冒頭には、通常の編年記事に入る前に、この冊の対象となる皇統と年代を説明する部分が置かれている。
そこには、後小松院の名、父母に関係する注記、第3冊が収録する年号の範囲などが書かれているとみられる。
ただし、巻頭には朱印が重なっており、その下にある細字・助詞・巻次説明を完全には読めていない。
現在確認できるのは、この冊が弘和三年/永徳三年の記事から始まり、南北朝合一前後までを扱う巻として構成されているという大筋である。
明治期活字本には、これと同じ形式の巻頭説明は見当たらない。
後小松院に関する系譜注記
巻頭には、後小松院について、諱・父・母などを示すとみられる細字がある。
しかし、朱印・裏写り・細字の密集により、人物名と父母注記を一字ずつ確定できていない。
そのため、本ページでは後小松院に関する系譜説明があることを示し、父母の実名・官職・家系を推測で補わない。
この巻頭注記は、編年本文を書き始める前に、当時の北朝皇統を読者へ示す目的で置かれた可能性がある。
第3冊の収録年代
巻頭には、この冊が扱う年代を説明する文章もある。
第一次判読では、弘和三年から元中九年までに関係する収録範囲を示す可能性がある。
ただし、助詞・年数・巻次説明が朱印の下に重なっているため、文章全体は確定していない。
また、現在の第3冊は南北朝合一後の応永三年まで続くため、巻頭説明が本文全体の終点をどのように示しているかには検討の余地がある。
したがって、巻頭の年代説明を、現存第3冊の完全な目録とは断定しない。
第2冊から本文が続く
手書き写本第2冊は、弘和二年/永徳二年の記事で終わっていた。
第3冊は、その翌年に当たる弘和三年/永徳三年の記事から始まる。
このため、物語本文には大きな年代上の空白はなく、第2冊から第3冊へ続いている。
一方、明治期活字本では弘和二年から三年の記事が同じ版面上で連続し、ここが物理的な冊の境であることは示されない。
現存写本の冊分けを考えるうえでは、第3冊巻頭の説明と、第2冊巻末の後筆・朱印を合わせて読む必要がある。
弘和三年・永徳三年の記事
編年本文は、南朝年号の弘和三年、北朝年号の永徳三年の記事へ入る。
この時期、南朝と北朝・室町幕府の対立はまだ続いていた。
しかし、京都では足利義満の政治的地位が上昇し、朝廷の高い待遇と大寺院の建立を通して、その権威が強まっていった。
一方、南朝も外交・和歌・寺社行事を続け、自らの政治的・文化的な存在を保とうとしていた。
足利義満が准三后となる
足利義満は、准三后と記される特別な待遇を受けるようになった。
准三后とは、后・皇太后・太皇太后に準じる待遇を意味する称号である。
ただし、この節の写本は、義満がどのような儀式・文書・手続を経て准三后となったかを、第一次判読では完全には確定できていない。
確認できるのは、将軍である義満が、武家の棟梁という立場を越えて、朝廷内でも特別に高い待遇を受けたという点である。
写本はこの経過を和文で説明し、明治期活字本は漢文調に圧縮している。
義満の朝廷内での地位が高まる
義満は、すでに将軍職に加え、内大臣・左大臣など朝廷の高い官職へ進んでいた。
准三后となったことは、義満の地位が、通常の武士や将軍の範囲だけでは説明しにくいほど高まっていたことを示す。
ただし、この説明は写本の記事を理解するための整理であり、写本が義満の権力を肯定的に評価していると断定するものではない。
南朝側の立場から編まれた年代記の中に、義満の昇進・准三后が記録されていること自体が、当時の政治秩序の変化を示している。
相国寺の建立
京都では、相国寺の建立に関する記事が記される。
相国寺は義満に関係する大寺院として、造営・寺院組織・京都の政治に大きな意味を持ったと考えられる。
しかし、今回のpartでは、建立を開始した日、完成した建物、造営奉行、僧侶の人名などを逐字で確定できていない。
そのため、本ページでは、義満が准三后となった時期に相国寺の建立が進められたという大筋を示す。
明治期活字本は同記事を漢文調に短くまとめるため、写本の説明的な和文を優先して再校訂する必要がある。
寺院建立と義満の権威
大寺院を建立するには、多くの土地・材木・工人・費用・僧侶が必要になる。
したがって、相国寺の建立記事は宗教上の出来事であると同時に、義満が大規模な事業を進められる政治力を持っていたことを示す。
ただし、『南方紀伝』がこの建立をどのように評価したかは、逐字本文を確定した後に判断する必要がある。
現段階では、義満の准三后と相国寺建立が同じ年代範囲に置かれたことを記録する。
南朝が明国へ使者を送る
南朝側も明国へ使者を送ったと記される。
第2冊では、九州で活動していた懐良親王の遣使や、明国使節の京都来訪が記されていた。
第3冊でも南朝の遣明記事が置かれ、南朝が外国との関係を保とうとする動きが続いていたことが分かる。
ただし、使節の出発地、明国へ送った文書、贈答品、返答、使者の全員の名は確定していない。
そのため、南朝が明へ使者を派遣したという確認できる範囲を本文とする。
遣明僧「如海」
遣明使の記事には、「如海」と暫定的に読んでいる僧名が現れる。
しかし、下の字は「海」ではなく、「瑰」など別の文字である可能性も残る。
また、この僧が正使・副使・通訳・随行僧のどの立場であったかも確定していない。
そのため、現在の本文では「如海と読まれる僧が遣明使に関係した」と限定する。
人物の出身寺院・法系・渡航歴は、外交史料や別写本による照合後に検討する。
守永親王と読まれる皇族
南朝関係記事には、「守永親王」と暫定的に読まれる皇族名が現れる。
しかし、「守永」の二字は確定していない。
「守秋」「守良」など、異なる親王名として読む可能性もある。
さらに、遣明使・南朝宮廷・和歌記事のどの部分に関係する人物かも再確認が必要である。
したがって、特定の南朝皇族へ置き換えず、「守永親王と暫定的に読む人物」として保存する。
南朝の外交を支えた僧侶
海を越える外交では、外国語・仏教・航海・文書作成に関わる僧侶が重要な役割を担うことがあった。
この写本で僧名が遣明記事に現れることも、南朝の外交に僧侶が関係した可能性を示す。
ただし、今回の史料から、その僧の具体的な役割まで確定することはできない。
本ページでは、遣明使に僧侶が関わった可能性を説明し、それ以上の職掌を推測しない。
男山の神輿
この年代範囲には、男山の神輿に関係する記事がある。
神輿の記事は、寺社行事、神威を示す行動、都への移動、政治的な訴えなど、複数の意味を持つ可能性がある。
しかし、今回の要旨では、神輿を誰が動かし、どこからどこへ移し、何を要求したのかを確定できていない。
そのため、男山神輿に関係する事件が記されていることを示すにとどめる。
第2冊の日吉神輿記事と同様、寺社勢力が政治史の中に現れる記事として保存する。
大雪八尺
元中二年に関係する記事には、大雪が八尺に及んだと記される。
「大雪八尺」という表現は、写本と明治期活字本の双方で一致すると整理されている。
ただし、八尺が平地で測った正確な積雪深なのか、雪の深さを強調した年代記的表現なのかは、この史料だけでは判断できない。
また、雪による死者、建物被害、交通・軍事への影響は、現在の要旨では確認できない。
本ページでは、写本が大雪八尺と記録したことを、そのまま史料上の表現として掲載する。
元中元年冬の記事
元中元年の冬に関係するとみられる文章は、仮名の連綿が強く、全文を確定できていない。
北朝・仙洞・宮廷人物に関係する記事である可能性があるが、主語・動詞・人物名の区切りが不明である。
一般的な同年の出来事を使って空白を埋めることはせず、判読保留として残す。
公開用仮本文では、「元中元年冬に宮廷関係とみられる記事があるが、内容未確定」とする。
『新後拾遺和歌集』と南朝方の歌
この範囲には、『新後拾遺和歌集』に関係する記事がある。
作業台帳では、南朝方の人々の歌が同集へ収録されなかったことを説明する記事として整理している。
ただし、どの歌人・どの歌を指すのか、誰が収録しなかったと説明しているのかは、逐字本文を再確認する必要がある。
そのため、「南朝方の歌が載せられなかったという写本の説明がある」とし、個別の歌人名を推測で補わない。
写本と活字本は大筋で同じ趣旨を伝えますが、活字本は短い漢文調に圧縮しています。
和歌集にも表れる南北朝の分断
南朝と北朝の対立は、軍事・皇位・領地だけの問題ではなかった。
誰の和歌を宮廷和歌集へ収録するかという文化的な選択にも、政治的な立場が影響した可能性がある。
『南方紀伝』が南朝方の歌の不採録を記すことは、南朝側が自分たちの文化的な排除を意識していた可能性を示す。
ただし、これは写本記事の趣旨から導いた説明であり、個々の撰者の意図を確定するものではない。
五百番歌合
南朝では、五百番歌合に関係する記事が記される。
歌合は、歌人を左右に分け、同じ題で詠んだ和歌を比較・判定する催しである。
五百番という名称は、非常に大規模な和歌の組合せ・作品群を示す。
しかし、このpartに五百番すべての歌が書き写されているわけではない。
参加者、判者、歌題、開催地、成立の経緯については、現在の作業台帳要旨では確定していない。
戦乱中の南朝文化
南朝は軍事的に厳しい状況に置かれていたが、和歌制作を停止したわけではなかった。
前の第2冊では、『新葉和歌集』の編纂・献上が記されていた。
第3冊では、南朝方の歌が別の勅撰集へ載らなかったことと、五百番歌合が続けて記される。
これらの記事から、南朝が和歌を自らの宮廷文化と歴史を残す手段として重視していたことが読み取れる。
ただし、写本が文化事業の目的を明確に論じているとは限らないため、これは記事配置からの整理として示す。
足利義持が生まれる
足利義持の誕生も、この年代範囲の記事として記される。
義持は、義満の後継者となる人物である。
しかし、今回の写本範囲では、誕生の日付、母の名、産所、幼名などを逐字で確定できていない。
そのため、義満の子として後に将軍となる義持が誕生したという大筋だけを本文とする。
義満の准三后・相国寺建立と、後継者義持の誕生が同じ節に記されることで、義満政権の拡大と継承の両方が示される。
元中三年後半の記事
元中三年後半には、南都・河内・南禅寺に関係するとみられる記事が続く。
しかし、人名・寺院名・地名・戦闘結果の文字が難しく、写本だけでは記事の全体を確定できていない。
明治期活字本は人名・地名を漢字で記しており、補読の手がかりとなる。
一方、活字本の底本と手書き写本が同じ系統とは限らないため、活字本文をそのまま写本の欠字へ補うことはしない。
現段階では、南都・河内・南禅寺に関係する複数の記事があることを示し、個々の事件内容を保留する。
南都の記事
南都に関係する記事には、寺社・僧兵・軍事・処分などのいずれかに関係する語が含まれる可能性がある。
しかし、現在の第一次判読では、どの寺院を指し、誰が行動したのかを確定できていない。
「南都」という地域名だけから、特定の事件を一般史へ結びつけることはしない。
公開用本文では、元中三年後半に南都関係の記事があることだけを記録する。
河内の記事
河内に関係する文章も置かれている。
河内には南朝方の武士・城・地域勢力が残っていたが、今回の記事が具体的にどの合戦を指すかは確定していない。
人物名・城名・勝敗を活字本だけから補うことは避ける。
そのため、「河内方面で南朝・幕府方に関係する記事がある」とするにとどめる。
南禅寺の記事
南禅寺に関係する記事も記される。
第2冊には、日吉神輿と南禅寺をめぐる争論がすでに現れていた。
しかし、第3冊のこの箇所が同じ争論の続きなのか、寺院人事・火災・造営・僧侶処分など別の記事なのかは分からない。
写本画像と活字本の版面を再確認するまでは、南禅寺に関する具体的な事件名を付けない。
元中四年・至徳四年へ続く
part-2の末尾は、元中四年/至徳四年正月の記事へ続く。
しかし、末尾では動詞または主語が欠けた状態で文章が切れている。
次のpart-3冒頭と続けて読むことで、土岐氏・寺院・義満の行動に関係する記事へ移ることが分かる。
それでも、part-2末尾の文がどこまで次の記事へかかるのかは確定していない。
このため、第1節では元中四年正月への接続までを示し、具体的な動作・事件は次の第2節へ送る。
この節に並ぶ二つの政治世界
この節には、京都の足利義満と、南朝宮廷の活動が並んで記されている。
- 義満側:准三后、相国寺建立、後継者義持の誕生
- 南朝側:遣明使、皇族、和歌集をめぐる問題、五百番歌合
義満が京都で朝廷内の地位と寺院造営を通して権威を高める一方、南朝は外交と文化活動を続けていた。
『南方紀伝』は、一方が直ちに消滅したとは描かず、二つの政治・文化的な動きを同じ年代の出来事として記録している。
流れが分かる現代語訳
手書き写本第3冊の初めには、後小松院の系譜と、この冊が扱う年代を説明する文章がある。
しかし、朱印が文字に重なっているため、父母の名や収録年代の説明を完全には読めていない。
この巻頭説明は、明治期活字本には同じ形で載っていない。
本文では、足利義満が准三后となったことが記される。
准三后とは、天皇の后に準じるほど高い待遇を受けることである。
義満は将軍でありながら、朝廷の中でも特別に高い地位へ進んでいった。
京都では相国寺の建立も進められた。
大きな寺を建てられることは、義満が多くの人・土地・費用を動かせる力を持っていたことを示している。
一方、南朝も活動をやめてはいなかった。
南朝は明国へ使者を送り、「如海」と読まれる僧がその使節に関係した可能性がある。
ただし、僧の名前と役割はまだ確定していない。
「守永親王」と読まれる南朝皇族も記されるが、名前には別の読み方も考えられる。
文化の面では、『新後拾遺和歌集』に南朝方の歌が載せられなかったことに関係する説明がある。
その一方で、南朝では五百番歌合などの和歌活動が続けられていた。
大雪が八尺に及んだという記事や、男山の神輿に関係する記事も記されている。
また、後に将軍となる足利義持が生まれた。
義満が京都で権威を強め、後継者も生まれる一方、南朝は外国との外交と和歌文化を続けていたのである。
節の最後には、南都・河内・南禅寺の記事があるが、人物名・出来事・勝敗はまだ十分に読めていない。
文章は、次の土岐康行の乱へつながる元中四年の記事へ続く。
人物・用語・史料注記
後小松院
第3冊巻頭の系譜・父母・収録年代説明に現れる北朝皇統の人物です。朱印下の細字が難読なため、父母の実名と説明全文はまだ掲載しません。
准三后
后・皇太后・太皇太后に準じる待遇です。この節では、足利義満の朝廷内における特別に高い地位を示す記事として記されます。
相国寺
義満に関係して建立された京都の大寺院です。今回の写本では建立記事を確認できますが、造営日・建物・僧侶などの細部は未確定です。
守永親王
南朝皇族名として暫定的に読んでいる名前です。「守秋」「守良」などの異読も考えられ、系譜上の人物同定は保留しています。
如海
南朝の遣明記事に現れるとみられる僧です。「如瑰」など別の字である可能性があり、正使・随行僧などの役割も未確定です。
男山神輿
男山に関係する神輿の記事です。移動先・主体・目的を確定できていないため、寺社行事または政治的行動のどちらかへ限定しません。
大雪八尺
元中二年の記事にある気象記録です。写本と活字本が一致しますが、八尺を正確な積雪測定値とみるか、雪の深さを強調した表現とみるかは確定できません。
『新後拾遺和歌集』
この節では、南朝方の歌が同集へ収録されなかったことに関係する説明があると整理されています。個々の不採録歌人・歌は未確定です。
五百番歌合
多数の和歌を左右に組み合わせて比較する大規模な歌合です。参加者・判者・歌題・開催地は、現在の作業台帳要旨では確定していません。
足利義持
足利義満の後継者となる人物です。この節に誕生記事がありますが、日付・母・産所・幼名などの細部は確定していません。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第3冊 part-2、全3ページ
- 内容区分:巻頭説明・編年本文・和歌・外交・寺社・気象
- 対象年代:弘和三年/永徳三年~元中四年/至徳四年(1383~1387年)
- 明治期活字本:PDF第16~17画像・印刷30~33ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 判読保留:6項目
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
第3冊巻頭に、後小松院の諱・父母・冊の対象年代に関する説明あり。
朱印が説明文へ重なり、助詞・年数・巻次の全文は未確定。
弘和三年/永徳三年の記事へ入る。
足利義満、准三后となる。
相国寺建立の記事あり。
南朝、明国へ使者を送る。
守永親王と読まれる南朝皇族名あり。ただし守秋・守良等の異読候補あり。
遣明使に如海と読まれる僧が関係する。ただし僧名・役割未確定。
男山神輿に関係する記事あり。主体・移動先・目的未確定。
元中元年冬に関係するとみられる宮廷記事あり。全文未確定。
元中二年、大雪八尺と記す。
『新後拾遺和歌集』に南朝方の歌を載せずとする趣旨の記事あり。
五百番歌合に関する記事あり。
足利義持誕生の記事あり。
元中三年後半、南都・河内・南禅寺に関する記事あり。人名・地名・事件内容未確定。
末尾は元中四年/至徳四年正月の記事へ続くが、動詞・主語が欠け、次partとの接続を要する。
校訂本文――公開用仮本文
第3冊巻頭、後小松院の系譜・父母・本冊収録年代に関する説明あり。
ただし朱印下の細字、なお未確定。
弘和三年/永徳三年。
足利義満、准三后となる。
相国寺建立の記事あり。
南朝、明国へ使者を遣わす。
守永親王と読まるる皇族あり。ただし親王名、なお未確定。
如海と読まるる僧、遣明使に関係す。ただし僧名・役割未確定。
男山神輿に関する記事あり。
元中元年冬、宮廷に関する記事あり。ただし全文未確定。
元中二年、大雪八尺。
『新後拾遺和歌集』、南朝方の歌を載せずとする趣旨の記事あり。
五百番歌合あり。
足利義持、誕生す。
元中三年後半、南都・河内・南禅寺に関する記事あり。ただし人名・地名・事件内容、なお未確定。
〔元中四年/至徳四年正月、土岐氏関係記事へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第16~17画像・印刷30~33ページ付近には、義満准三后、相国寺建立、南朝遣明、男山神輿、大雪、和歌記事、義持誕生、元中三年後半の記事に対応する本文が収録されています。
義満准三后・相国寺の記事は、写本が説明的な和文で記すのに対し、活字本は漢文調に圧縮します。
『新後拾遺和歌集』について、南朝方の歌を収録しなかったという趣旨は大筋で一致しますが、活字本は短く整理しています。
元中二年の「大雪八尺」は写本・活字本で一致します。
元中三年後半の南都・河内・南禅寺記事は、活字本では人名・地名が漢字化され、写本より読み取りやすい部分があります。
ただし、活字本の底本と写本の本文系統が同じとは限らないため、活字本の人名・地名を無条件には補入しません。
第3冊巻頭の後小松院系譜・父母・収録年代に関する同一形式の説明は、活字本にはありません。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 第3冊巻頭説明 | 後小松院の系譜・父母・冊の収録年代を記す | 同一形式の説明なし | 写本独自の冊構成資料として保存する |
| 義満准三后・相国寺 | 説明的な和文で記す | 漢文調に圧縮 | 写本の説明性を優先して再校訂する |
| 南朝遣明 | 皇族名・僧名を含むが、仮名・崩し字が難しい | 漢字で補読できる可能性 | 守永親王・如海を確定せず、活字本は補助にとどめる |
| 『新後拾遺和歌集』 | 南朝方の歌を載せなかったことを説明 | 同趣旨を短く記す | 南北朝期の文化的な対立を示す記事として保存する |
| 元中二年の大雪 | 大雪八尺 | 大雪八尺 | 一致する本文として公開用仮本文へ採用する |
| 元中三年後半 | 南都・河内・南禅寺記事の人名・地名が難読 | 人名・地名を漢字で記す | 活字本で再校勘するが、写本へ無条件には補入しない |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 第3冊巻頭・朱印下 | 弘和三年~元中九年等の収録範囲か | 助詞・年数・巻次説明が朱印と重なり、全文を読めない | 低 |
| 南朝皇族名 | 守永親王 | 守秋・守良などの異読があり、人物を同定できない | 低~中 |
| 遣明僧名 | 如海 | 如瑰など別字の可能性があり、使節中の役割も不明 | 低 |
| 元中元年冬の記事 | 北朝・仙洞関係の宮廷記事か | 仮名の連綿が強く、主語・人物・動詞を確定できない | 低 |
| 元中三年後半 | 南都・河内・南禅寺記事 | 人名・寺院名・地名・勝敗を確定できない | 低 |
| part末尾 | 元中四年正月への接続 | 動詞・主語が次partへまたがり、記事の終点を確定できない | 中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第3冊part-2の全3ページを、一つの巻頭・編年範囲として確認した。
- 第3冊巻頭の後小松院に関する系譜・父母・収録年代説明を、通常の編年本文から分けて整理した。
- 巻頭説明は明治期活字本に同一形式の対応部分がないため、写本独自資料として保存した。
- 朱印下の助詞・年数・巻次を推測で補わなかった。
- 第2冊が弘和二年で終わり、第3冊が弘和三年から始まる冊間接続を確認した。
- 義満准三后・相国寺建立を、義満の朝廷内における地位上昇と寺院造営の記事として整理した。
- 准三后の具体的な宣下手続・儀式を、台帳にない情報で補わなかった。
- 南朝の遣明使を確認したが、使節の文書・目的・航路・贈答品を推測しなかった。
- 守永親王は守秋・守良等の異読候補があるため、特定皇族へ置き換えなかった。
- 遣明僧は如海と暫定表記したが、如瑰等の異読と役割未確定を明記した。
- 男山神輿の記事は、移動主体・目的・行き先を断定しなかった。
- 元中元年冬の記事は全文不明のため、宮廷関係記事の可能性を示すだけにとどめた。
- 大雪八尺は写本・活字本が一致する本文として採用した。
- 『新後拾遺和歌集』に南朝方の歌を載せなかったという記事を、写本の文化記事として整理した。
- 個々の不採録歌人・撰者の意図は、史料が支持しないため補わなかった。
- 五百番歌合は、参加者・判者・歌題を推測せず、催しの存在のみを示した。
- 足利義持誕生は確認したが、日付・母・産所・幼名を補わなかった。
- 元中三年後半の南都・河内・南禅寺記事は、活字本で人名・地名を補読できる可能性を残しつつ、確定本文にはしなかった。
- part-3冒頭との接続を確認したが、元中四年正月記事の主語・動詞を確定できないため、具体的事件を次節へ送った。
2.土岐康行の乱――三国守護の失脚と義満の守護統制
対象年代:元中四年/嘉慶元年~元中六年/康応元年(1387~1389年)
対応史料:手書き写本第3冊 part-3、全3ページ/明治期活字本PDF第17左~18右画像・印刷33~34ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
覚爾和尚の塔に関する記事、義満の宿泊地「岡城」、島田満貞の策謀記事における代名詞、宮内少輔詮直、九州下向軍の人物名、次partへ続く出陣記事には未確定箇所があります。
「土岐康行の乱」は内容を分かりやすく示すために付けた公開用の節名であり、写本の原見出しではありません。
この節の概要
有力守護であった土岐頼康が亡くなると、土岐康行が美濃・尾張・伊勢三国の守護を継承しました。
三国にまたがる大きな軍事力と領国を持った康行は、室町幕府にとって無視できない存在となります。
一方、土岐一族の内部では、守護職・領地・家中の主導権をめぐる対立が生じました。写本では、島田満貞と記される人物がこの対立へ働きかけ、康行と宮内少輔詮直と読まれる人物との関係を利用したとみられる経過が、説明的な和文で記されています。
しかし、満貞・康行・詮直を指す代名詞が連続しており、誰が誰を訴え、誰の言葉を幕府へ伝えたのかは完全には確定していません。
幕府は康行の追討を命じました。康行の勢力が崩れると、美濃・尾張・伊勢の守護職・領国は再配分されました。
この事件によって、足利義満は、一人の有力守護が複数国を固めて幕府から独立することを抑え、守護職を与え直す権限が将軍にあることを示しました。
同じ年代には、義満の高野・駿河方面への移動、各地の南朝勢力への軍勢配置、九州へ下向する軍勢も記されています。節末の出陣記事は、次の上杉憲春と足利氏満の記事へ続きます。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、事件の順序と政治的な意味が分かるよう説明文へ展開した現代語訳です。写本の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
前partの元中四年正月記事から続く
前節末尾は、元中四年/至徳四年正月の記事へ入る途中で文章が切れていた。
主語と動詞の一部が次のpartへまたがっていたため、前節だけでは事件の全体を確定できなかった。
このpartの冒頭と続けて読むと、寺院・僧侶・塔に関する記事を経て、土岐氏と足利義満に関する編年記事へ移るとみられる。
ただし、前part末尾の南都・河内・南禅寺記事と、このpart冒頭の寺院記事が直接同じ事件なのかは確定していない。
覚爾和尚の塔に関する記事
第1ページ右側には、覚爾和尚と読まれる僧侶と、塔に関係する記事がある。
塔の建立・供養・塔銘・死亡記事などの可能性があるが、「塔」に続く文字と記事の終わりを十分に読めていない。
覚爾和尚がどの寺院に属する人物であるか、義満・南禅寺・高野山などの記事のどれに関係するかも未確定である。
そのため、現在の主本文では、「覚爾和尚の塔に関係するとみられる記事がある」と示すにとどめる。
土岐頼康が亡くなる
土岐頼康が亡くなった。
頼康は複数国の守護を務め、広い地域に軍事的・政治的な影響を持っていた人物として記事に現れる。
頼康が亡くなると、その守護職・領国・家臣団を誰が継ぐかが問題となった。
一国だけの領主交代ではなく、美濃・尾張・伊勢という複数国に関係するため、土岐一族だけでなく幕府の政治にも関わる継承問題だった。
ただし、頼康の死去日・享年・法名・葬所は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
土岐康行が三国の守護を継ぐ
頼康の死後、土岐康行が美濃・尾張・伊勢三国の守護を継いだ。
守護は、国ごとの軍事・警察・御家人統率などに関係する幕府の役職である。
一人の人物が三国の守護を兼ねれば、その人物は三国の武士・軍勢・所領争いへ大きな影響を持つことになる。
写本は、康行が三国守護となり、大きな領国を得たことを、その後の内紛と追討の前提として記していると整理できる。
ただし、三国の守護職が一度に正式継承されたのか、国ごとに異なる手続を経たのかは、逐字本文から確定できていない。
守護大名とは何か
守護の中には、複数国の守護職を持ち、各国の武士を組織し、広大な所領と軍事力を持つ者が現れた。
このような有力守護を、説明上「守護大名」と呼ぶ。
守護大名は幕府から守護職を与えられた人物である一方、軍事力が大きくなれば、将軍の命令へ従わず独自に行動する可能性もあった。
土岐康行が三国を持ったことは、土岐氏の力を強めると同時に、幕府にとって警戒すべき問題にもなったと整理されている。
義満が高野方面へ向かう
この年代には、足利義満が高野方面へ向かった記事がある。
ただし、参詣・巡行・寺院訪問・軍事視察のどの性格が中心だったかは、現在の第一次判読では確定していない。
同行者、出発日、通過した道路、高野で訪れた寺院の詳細も未確定である。
そのため、本ページでは「義満が高野方面へ赴いた」とし、移動の目的を一つに限定しない。
義満が岡城へ宿泊する
高野方面への移動に関係して、義満が岡城と読まれる場所へ宿泊したとみられる記事がある。
しかし、「岡城」が正式な城名なのか、岡という土地にある館・城を意味するのかは確定していない。
現在のどの城跡へ当たるかについても比定できていない。
このため、特定の現在地へ結びつけず、「岡城と暫定的に読む宿泊地」として保存する。
義満が駿河方面へ向かう
写本には、義満の駿河方面への移動も記される。
高野方面の記事とは別の時期の移動とみられるが、各記事の日付・旅程・同行者を完全には確定できていない。
義満が京都だけにとどまらず、地方へ赴いて寺社・武士・地域勢力との関係を確認していたことを示す記事として整理できる。
ただし、駿河訪問の目的を特定の軍事事件・遊覧・富士見物などへ限定しない。
土岐一族内部の対立
康行が三国守護となった後、土岐一族の内部で対立が生じた。
複数国の守護職・所領・家臣団を誰が支配するかは、一族の将来を左右する問題だった。
康行の権力が大きくなれば、同じ土岐一族でも、その地位や領地を失う者が現れる可能性がある。
反対に、一族の別の人物が幕府と結びつけば、康行の地位を弱めることができる。
写本は、この一族内の対立が幕府の追討へ結びつく過程を記している。
島田満貞の策謀
土岐氏の内紛には、島田満貞と記される人物が深く関係した。
写本は、満貞が人々の不満や一族関係を利用し、幕府側へ働きかけたとみられる経過を、比較的詳しい和文で説明している。
作業台帳では、これを「島田満貞の策謀」と整理している。
ただし、策謀という言葉は公開用の整理であり、写本が同じ語で満貞を評価しているとは限らない。
また、満貞が最初から康行の失脚を目的としていたのか、別の一族争いから結果的に追討へ進んだのかも断定できない。
代名詞が続き、主語が分かりにくい
島田満貞の記事では、「彼」「この人」「その者」に当たるような表現が続き、文章の主語が分かりにくい。
満貞・康行・宮内少輔詮直と読まれる人物が同じ範囲に現れ、誰が誰へ語ったのかを一義的に決められない。
一つの代名詞を誤って割り当てると、密告者・被告発者・追討を求めた人物が入れ替わる可能性がある。
そのため、現代語訳では、満貞が土岐一族内の対立へ介入し、幕府の判断へ影響を与えたという大筋にとどめる。
宮内少輔詮直
島田満貞と康行の記事には、「宮内少輔詮直」と読まれる人物が現れる。
宮内少輔は官職名であり、「詮直」が実名である可能性がある。
土岐一族に属する人物と考えられるが、今回の写本では名字と実名の接続を完全には確認できていない。
また、「詮直」という実名は明治期活字本による補読への依存が大きい。
したがって、本ページでは「宮内少輔詮直と読まれる人物」とし、確定した実名・系譜としては扱わない。
幕府へ訴えが伝えられる
土岐一族の争いは、幕府へ伝えられた。
守護職は幕府から与えられる役職であるため、一族内部だけで最終的な処分を決めることはできなかった。
康行側と対立する人物が幕府へ訴え、義満または幕府の有力者が事態を判断したとみられる。
しかし、誰が最初に訴えを出し、どのような罪状・理由を示したかは、代名詞関係が難しいため確定していない。
幕府が康行追討を決める
幕府は、土岐康行を追討することを決めた。
追討とは、幕府や朝廷の命令に背いたとされた人物を、軍勢によって討つことである。
康行が三国守護という大きな力を持っていたため、追討には一つの地域だけでなく、複数方面の軍勢を動かす必要があったとみられる。
ただし、追討命令の正式な文言・発令日・罪状・使者は、作業台帳要旨では確定していない。
康行側も抵抗する
康行は、守護職と領国を失うことになる追討命令へ抵抗したとみられる。
三国の守護として従えていた武士や、一族・家臣を動員して防戦した可能性がある。
しかし、具体的な城、合戦場、兵数、康行側の指揮者は、この3ページの第一次判読では十分に確定していない。
そのため、康行が幕府の追討を受けて抵抗したという範囲を本文とし、個別合戦の経過は補わない。
各方面へ軍勢が配置される
幕府は、康行追討や各地の反抗勢力への対応のため、複数方面へ軍勢を配置した。
写本には、国名・武将名・留守を守る人物・遠方へ下向する人物が続けて記されているとみられる。
しかし、誰が京都に残り、誰が美濃・尾張・伊勢・九州などへ向かったのかを区切りにくい。
そのため、現在の主本文では、「幕府が各方面へ軍勢を配置した」とし、人物別の派遣先は確定しない。
康行の勢力が崩れる
幕府の追討を受け、康行の勢力は維持できなくなった。
一族内部が分裂した状態では、三国の軍勢を一つにまとめて幕府軍へ対抗することは難しい。
さらに、守護職が幕府から認められなくなれば、康行に従っていた地方武士が幕府方へ移る可能性も高くなる。
写本は、康行が巨大な領国を得た後、一族内紛をきっかけとして失脚する流れを記している。
ただし、降伏・逃亡・赦免など、康行の最終的な処分を示す逐字表現は、再校訂を要する。
美濃・尾張・伊勢が再配分される
康行の失脚後、美濃・尾張・伊勢の守護職・領国は再配分された。
明治期活字本は、守護職を与えられた人物を漢字で簡潔に列挙している。
一方、写本では人名・官職・国名が仮名交じりで続き、誰がどの国を得たのかを一部確定できていない。
そのため、この公開版では三国が康行一人の支配から切り離され、複数の人物へ再配分されたという大筋を示す。
具体的な国と受領者の対応は、写本と活字本を逐字で再校勘した後に掲載する。
守護職を与え直す将軍の権限
康行の三国を再配分したことは、足利義満の守護統制を考えるうえで重要である。
守護大名は大きな軍事力を持っていたが、その守護職は幕府から与えられた役職でもあった。
義満は、幕府へ従わないと判断した守護を追討し、その国を別の武士へ与えることによって、将軍の権限を示した。
ただし、『南方紀伝』が義満の政治方針をこのような言葉で直接評価しているわけではない。
これは、康行追討と守護国再配分の記事を理解するための公開用解説である。
有力守護の力を分散させる
一人が複数国をまとめて持てば、幕府に対抗できるほど強い勢力となる可能性がある。
康行の三国を分けて別々の人物へ与えれば、一人の守護へ軍事力が集中することを防げる。
その結果、各守護は幕府から守護職を認めてもらう必要があり、将軍への依存を強めることになる。
土岐康行の失脚は、義満が有力守護を抑え、幕府中心の政治秩序を整えていく過程の一つとして整理できる。
一族内部の争いを幕府が利用する
土岐氏のような大きな一族には、複数の有力者がいた。
一族全体が康行を支持すれば、幕府が追討することは容易ではない。
しかし、一族内部に対立があれば、幕府は康行と対立する人物を味方につけることができる。
写本に島田満貞・宮内少輔詮直などの人物が詳しく現れるのは、康行の失脚が幕府と康行だけの単純な対立ではなく、土岐一族内の争いを含んでいたためと考えられる。
ただし、幕府が最初から内紛を計画的に作ったと断定することはできない。
九州へ向かう軍勢
part後半には、九州へ下向する軍勢に関係する記事がある。
上杉・六角などと読める人物名が含まれる可能性がある。
しかし、京都に留守として残った人物と、九州へ下向した人物の区切りが不明である。
また、康行追討の軍勢と九州下向軍が同じ軍事配置の中に記されているのか、別の記事なのかも再確認が必要である。
そのため、人物名と派遣先を確定せず、幕府が九州を含む複数方面へ軍勢を動かしたという大筋を示す。
南朝方への追討も続く
作業台帳では、このpartに全国の南朝勢力への追討・軍勢配置も含まれると整理している。
南北朝合一前であり、河内・紀伊・伊勢・九州・関東などには、なお南朝方の城や武士が残っていた。
幕府は土岐康行のような有力守護を統制する一方、各地の南朝方にも軍勢を向けなければならなかった。
ただし、どの軍勢が康行追討、九州下向、南朝勢力討伐のどれを目的としたかを、全員について確定することはできない。
三月以後の出陣記事へ続く
part-3の末尾には、三月以後の出陣に関係する文章がある。
しかし、主語・派遣先・戦場を示す語が次のpartへ続き、このページだけでは文が完成しない。
次のpart-4冒頭と続けて読むと、足利氏満の上洛計画や上杉憲春に関係する記事へ移ることが分かる。
それでも、part-3末尾の軍勢が、康行追討軍・九州下向軍・氏満関係軍のどれに当たるかは完全には確定していない。
このため、第2節では軍勢配置と出陣の開始までを扱い、足利氏満と上杉憲春の記事は次節へ送る。
土岐康行の乱が示すもの
この事件は、一族内部の争いだけではなかった。
複数国を持つ有力守護と、守護職を任命・停止・再配分する幕府との関係が問われた事件でもあった。
康行が失脚し、三国が再配分されたことで、義満は守護大名より上に立つ将軍の権限を示した。
その後、義満は山名氏など、さらに大きな領国を持つ守護大名とも対立することになる。
土岐康行の乱は、後の明徳の乱へつながる義満の守護統制を理解するための重要な前段階として位置づけられる。
流れが分かる現代語訳
有力な守護だった土岐頼康が亡くなった。
その後、土岐康行が美濃・尾張・伊勢の三国を受け継いだ。
守護は、その国の武士や軍事をまとめる幕府の役職だった。
三国の守護となった康行は、非常に大きな軍事力と領国を持つことになった。
しかし、土岐一族の中では、誰が領地・守護職・家臣を支配するかをめぐって争いが起きた。
島田満貞と記される人物は、この一族争いへ働きかけ、幕府にも情報を伝えたとみられる。
ただし、写本では「彼」「この人」に当たる言葉が続き、誰が誰を訴えたのかを完全には確定できない。
宮内少輔詮直と読まれる人物も関係するが、「詮直」という実名は活字本による補読への依存が大きい。
幕府は、康行を追討することを決めた。
一族内部が分裂していたため、康行は三国の軍勢を一つにまとめて抵抗することが難しくなった。
康行の勢力が崩れると、美濃・尾張・伊勢は別々の人物へ再配分された。
このことによって足利義満は、守護職を与えるのも取り上げるのも幕府であることを、有力守護たちへ示した。
一人の守護が複数国を固めて強くなりすぎることを防ぎ、将軍が守護大名を統制しようとしたのである。
同じ時期、義満は高野・駿河方面へ赴き、幕府は九州など各方面へ軍勢を動かした。
ただし、九州へ向かった武将の人名と、誰が京都の留守を守ったのかは、まだ完全には読めていない。
節の最後の出陣記事は、次の足利氏満の上洛計画と、上杉憲春の諫死へ続く。
人物・用語・史料注記
土岐頼康
美濃・尾張・伊勢などに大きな影響を持った有力守護です。この節では死去が記され、守護職・領国の継承問題が始まります。死去日・享年・法名は未確定です。
土岐康行
頼康の死後、美濃・尾張・伊勢三国の守護を継いだ人物です。一族内紛と幕府の追討を受けて失脚し、三国は再配分されました。
守護
幕府が国ごとに置いた軍事・警察・武士統率に関係する役職です。守護職は世襲化する場合もありましたが、形式上は幕府の任命・承認を受ける立場でした。
守護大名
複数国の守護を兼ね、広い領国と大きな軍事力を持つようになった有力守護を説明する呼称です。写本が直接「守護大名」という語を用いているとは限りません。
島田満貞
土岐氏の内紛と康行失脚へ関係した人物です。写本はその働きかけを和文で詳しく記しますが、満貞・康行・詮直を指す代名詞が連続するため、発言・訴えの主体は未確定です。
宮内少輔詮直
土岐氏の内紛に関係する人物として暫定的に読んでいる名前です。「詮直」の実名は明治期活字本への依存が大きく、写本だけでは確定していません。
岡城
義満の高野方面への移動中の宿泊地として暫定的に読んでいる城名です。正式な表記と現在地は確定していません。
追討
幕府・朝廷の命令に背いたとされた人物を、軍勢を送って討つことです。この節では幕府が土岐康行を追討しますが、命令の正式な文言と罪状は未確定です。
守護国の再配分
失脚した守護が持っていた国を、幕府が別の人物へ与え直すことです。この節では美濃・尾張・伊勢が再配分されますが、国と受領者の正確な対応は逐字再校訂が必要です。
義満の守護統制
将軍義満が、有力守護の守護職を停止・変更・再配分し、幕府への従属を求めた政治を説明する公開用の表現です。写本が同じ言葉で義満の政策を論評しているわけではありません。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第3冊 part-3、全3ページ
- 対象年代:元中四年/嘉慶元年~元中六年/康応元年(1387~1389年)
- 内容区分:編年本文・守護大名統制
- 明治期活字本:PDF第17左~18右画像・印刷33~34ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 判読保留:6項目
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前part末尾の元中四年正月記事から続く。
覚爾和尚と読まれる僧侶の塔に関係する記事あり。塔銘・建立・供養等の別は未確定。
土岐頼康、死去する。
土岐康行、美濃・尾張・伊勢三国の守護を継承する。
足利義満、高野方面へ赴く。
義満、岡城と読まれる所へ宿泊する。具体的な城の比定は未了。
義満、駿河方面へ赴く記事あり。
土岐一族の内部で守護職・領国をめぐる対立が起こる。
島田満貞、一族内部の対立へ働きかけ、康行追討へつながる働きをしたとみられる。
満貞・康行・宮内少輔詮直と読まれる人物を指す代名詞が連続し、誰が誰を訴えたのかは未確定。
幕府、土岐康行を追討する。
康行の勢力、失脚する。
美濃・尾張・伊勢の守護職・領国を再配分する。
各方面へ軍勢を配置する。
九州へ下向する軍勢と、京都に留まる人物の名が記されるとみられるが、人名・区切り未確定。
末尾は三月以後の出陣記事から次partへ続く。
校訂本文――公開用仮本文
元中四年/嘉慶元年以後。
覚爾和尚の塔に関する記事あり。ただし記事末尾、なお未確定。
土岐頼康、死す。
土岐康行、美濃・尾張・伊勢三国の守護を継ぐ。
足利義満、高野の方へ赴く。
義満、岡城と読まるる所へ宿す。ただし城の比定、未確定。
義満、駿河方面へ赴く記事あり。
土岐一族、守護職・領国をめぐり内訌す。
島田満貞、宮内少輔詮直と読まるる人物らに関係して、康行のことを幕府へ訴うとみらる。
ただし代名詞・主語・発言者、なお未確定。
幕府、土岐康行を追討す。
康行の勢力、敗れて失脚す。
美濃・尾張・伊勢の守護職・領国、諸人へ再配分さる。
各方面へ軍勢を配す。
九州下向軍に関する人名あり。ただし下向・留守の区切り、未確定。
〔足利氏満の上洛企図・上杉憲春の諫死へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第17左~18右画像・印刷33~34ページ付近には、土岐頼康の死、康行の三国守護継承、義満の移動、土岐一族の内紛、康行追討、守護国の再配分、各方面への軍勢配置に対応する記事が収録されています。
写本は、島田満貞が一族内部の対立へ働きかけた経過を、仮名交じりの説明的な和文で比較的詳しく記します。
活字本は同じ経過を漢文調に圧縮し、満貞・康行・詮直などの人名を補読するために有効です。
守護国の再配分についても、活字本は受領者の人名・国名を短く列挙します。
ただし、活字本の人物区切り・系譜・国別配分を、写本本文へ無条件には採用しません。
九州下向軍と各方面への軍勢配置は、写本・活字本とも人名が連続し、留守役・派遣先の区切りに再確認が必要です。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 島田満貞の働きかけ | 仮名交じりの和文で経過を詳しく説明 | 人物と処分を漢文調に圧縮 | 写本の説明性を優先し、活字本は人名補読に用いる |
| 満貞・康行・詮直 | 代名詞が続き、発言者・被告発者が不明瞭 | 人名を漢字で区別しやすい | 活字本だけで主語を確定せず、関係を保留する |
| 義満の宿泊地 | 岡城と読める可能性 | 地名を補読できる可能性 | 正式な城名・現在地へ比定しない |
| 守護国再配分 | 国名・人名が続き、一部の対応が難しい | 守護国と人物を漢文調で列挙 | 三国の分割を採用し、個々の配分は再校訂する |
| 九州下向軍 | 人名・留守役・下向者の区切りが不明 | 人名補読に有効だが、句切りになお問題 | 具体的な派遣人物を主本文で断定しない |
| part末尾 | 三月以後の出陣記事が途中で切れる | 後続記事へ漢文調で接続 | 主語・戦場を確定せず、次節への接続として保持する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 第1ページ右 | 覚爾和尚の塔の記事 | 塔銘・建立・供養の別と、塔に続く字・記事末尾が未読 | 低~中 |
| 義満の宿泊地 | 岡城 | 正式な城名・紀伊のどの場所かを比定できない | 中 |
| 島田満貞の策謀 | 満貞・康行・詮直に関する訴え | 代名詞が連続し、発言者・告発者・被告発者を確定できない | 低 |
| 宮内少輔 | 詮直 | 実名を明治期活字本による補読へ依存している | 低~中 |
| 九州下向軍 | 上杉・六角等か | 人名、京都留守、下向者、派遣先の区切りが不明 | 低 |
| part末尾 | 三月以後の出陣記事 | 次partへ続き、主語・目的地・戦場が欠落する | 中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第3冊part-3の全3ページを、一つの編年範囲として確認した。
- 前part末尾の元中四年正月記事と、part-3冒頭を通読した。
- 接続後も覚爾和尚の塔記事の終わりが確定しないため、塔銘・建立・供養の一つへ断定しなかった。
- 土岐頼康死去から康行の美濃・尾張・伊勢三国守護継承までを、一続きの継承記事として整理した。
- 康行が広大な領国を得たことを、その後の一族内紛・幕府追討の前提として整理した。
- 義満の高野・駿河方面への移動を確認したが、目的・日付・同行者を推測で補わなかった。
- 岡城を義満の宿泊地として暫定的に保持し、現在の特定城郭へ比定しなかった。
- 島田満貞の働きかけを、写本の説明的な和文を優先して整理した。
- 満貞・康行・詮直の代名詞関係が未確定であるため、誰が誰を訴えたかを断定しなかった。
- 宮内少輔詮直は、実名を活字本へ依存する暫定人名として扱った。
- 康行追討と三国の守護職・領国再配分を、義満による有力守護統制の過程として公開用に整理した。
- 具体的な三国と受領者の対応は、活字本だけで確定しなかった。
- 各方面への軍勢配置と九州下向軍を確認したが、人名・留守役・派遣先の区切りを保留した。
- part-4冒頭と接続し、末尾が足利氏満・上杉憲春に関係する出陣記事へ続くことを確認した。
- 接続後も主語・戦場が完全には確定しないため、具体的な軍事行動は次節へ送った。
3.上杉憲春の諫死――氏満の上洛計画と各地の南朝残存勢力
対象年代:元中六年/康応元年~元中七年/明徳元年(1389~1390年)
対応史料:手書き写本第3冊 part-4、全3ページ/明治期活字本PDF第18右画像・印刷34ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
氏満上洛記事の冒頭、防州竈戸関と河野氏の実名、伊予派遣軍の細川氏、南朝残存勢力の名字、細川常久の記事、熊野還宮には未確定箇所があります。
「上杉憲春の諫死」「南朝残存勢力」は、内容を理解しやすくするための公開用表現であり、写本の原見出しではありません。
この節の概要
関東を治めていた足利氏満は、軍勢を率いて京都へ向かうことを考えました。
しかし、上杉憲春は、氏満の上洛が幕府との大きな戦争へ発展することを恐れ、計画を思いとどまるよう強く諫めました。
氏満が意見を受け入れなかったため、憲春は自ら命を絶つことで、計画へ反対する決意を示したと整理されています。
憲春の死を重く受け止めた氏満は、上洛を取りやめたとみられます。上杉憲春が自分の命と引き換えに、大規模な内戦を防いだというのが、この節前半の中心です。
同じころ、幕府は伊予・長門・九州などへ軍勢を送りました。防州竈戸関、河野氏、細川氏に関係する記事がありますが、人名と地名には未確定部分があります。
九州では菊池氏が降参し、関東では男体城と読まれる城が落ちました。しかし、これによって南朝方の抵抗が完全に終わったわけではありません。
河内・紀伊・大和・伊勢などには、城・郡・村・武士団を単位とする南朝方の勢力が残り、幕府方への抵抗を続けていました。
写本は、これらの名字と地域を細かく列挙します。ただし、宇佐美・福塚・貴志野上などと暫定的に読む文字列には、名字の境界と字形の問題があります。
河内では落合合戦が起こり、幕府内部では山名時長らとみられる勢力の反抗が始まります。この山名氏の問題が、次の明徳の乱へつながります。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、記事の順序と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
前partの出陣記事から続く
前節の末尾では、幕府が各方面へ軍勢を配置し、三月以後の出陣へ進む途中で文章が切れていた。
このpartの冒頭と続けて読むと、足利氏満の上洛計画と、上杉憲春の諫言に関係する記事へ移る。
ただし、冒頭は前頁から主語・目的語を受ける文章であり、「天下を治め善政を施す」と暫定的に読まれている部分が誰へかかるのかは確定していない。
そのため、現在の本文では、氏満が京都へ向かおうとしたという確認できる大筋から説明を始める。
足利氏満が上洛を考える
関東を治めていた足利氏満は、軍勢を率いて京都へ上ることを考えた。
上洛とは、地方から京都へ向かうことである。
しかし、この場合の上洛は、単なる参詣や儀礼のための旅ではなく、多数の軍勢を伴う政治的・軍事的な移動だったとみられる。
氏満が京都へ軍勢を進めれば、足利義満を中心とする室町幕府との間で大きな対立が起こる危険があった。
ただし、写本が氏満の目的をどのような言葉で説明しているかは、冒頭部分の主語・目的語が省略されているため、完全には確定していない。
上杉憲春が計画へ反対する
上杉憲春は、氏満の上洛計画へ強く反対した。
憲春は、氏満を支える立場にあり、関東の政治と軍事がどのような危険に向かうかを考える必要があった。
氏満が京都へ軍勢を進めれば、室町幕府との戦争になり、関東の武士や領国も大きな損害を受ける可能性がある。
そのため憲春は、氏満へ上洛を思いとどまるよう諫めた。
ただし、憲春が実際に述べた諫言の逐字全文は、現在の作業台帳には保存されていない。
諫言が受け入れられない
氏満は、憲春の意見を直ちには受け入れなかったとみられる。
主君がすでに軍事行動を決意している場合、家臣が言葉だけで計画を止めることは難しい。
憲春は、通常の説得では氏満の決意を変えられないと判断したと整理されている。
ただし、何度諫言したのか、ほかに反対した武士がいたのか、軍勢がどこまで準備されていたのかは、今回の要旨からは確認できない。
上杉憲春が自害する
上杉憲春は、自ら命を絶った。
これは、氏満の計画へ反対する意志を、自分の死によって示す行為だったと整理されている。
家臣が主君を説得するために命を差し出すことは、極めて重大な抗議である。
本ページでは、この行為を公開用見出しで「諫死」と呼ぶ。
ただし、写本が憲春の死を直接「諫死」と名づけているとは限らず、自害の場所・方法・遺言なども現在の史料要旨からは確定していない。
氏満が上洛を取りやめる
氏満は、憲春の死を重く受け止め、上洛計画を取りやめたと整理されている。
憲春は、自分の命によって氏満の軍事行動を止め、関東と京都との大規模な戦争を避けようとしたことになる。
ただし、上洛中止を正式に決めた日、氏満が発した命令、集められていた軍勢の解散過程は、今回の写本要旨では確定していない。
確認できるのは、氏満の上洛企図と憲春の自害が因果関係を持つ記事として置かれていることである。
主君を守るために反対する家臣
家臣の忠義は、主君の命令へ何でも従うことだけではなかった。
主君の行動が一族・領国・政権を危険へ導くと判断した場合、強く反対することも忠義と考えられる場合があった。
上杉憲春の記事は、主君の判断を命がけで止めるという形で、このような忠義のあり方を示している。
ただし、これは事件の意味を理解するための公開用解説であり、写本の確定した評言ではない。
伊予・長門方面へ軍勢が送られる
関東の記事と並行して、幕府が伊予・長門方面へ軍勢を送った記事が記される。
これらの地域には、幕府へ従わない勢力や、南朝方と関係する武士が残っていたとみられる。
しかし、どの軍勢が伊予へ向かい、どの軍勢が長門へ向かったのかは、人名・官職の区切りが難しいため完全には確定していない。
そのため、伊予・長門を含む西国へ幕府方の軍勢が派遣されたという大筋を示す。
防州の竈戸関
長門・周防方面の記事には、防州の竈戸関と暫定的に読んでいる地名が現れる。
「防州」は周防国を指す表現とみられる。
しかし、「竈戸関」の字形、正式な地名、関所・港・戦場のどれに当たるのかは確定していない。
そのため、現在の特定地へ比定せず、写本の暫定地名として保存する。
河野通直か河野通之か
防州・伊予方面の記事には、河野氏の人物名が現れる。
作業台帳の翻刻要旨では「河野通直」、判読保留欄では「河野六郎通之」と整理されている。
「直」と「之」の字、通称「六郎」の位置、地名との接続に問題があるためである。
そのため、本ページでは「河野通直/河野六郎通之と読まれる人物」とし、一方へ統一しない。
この人物の所属勢力・戦闘での役割も、逐字再校訂後に確定する。
伊予派遣軍の細川氏
伊予へ向かった軍勢には、細川氏の人物が関係したとみられる。
作業台帳では、頼之・頼元などの名が候補として挙げられている。
しかし、名字・実名・法名・官職をどこで区切るかが難しく、誰が実際に伊予へ派遣されたのかを確定できていない。
また、細川頼之は出家後の名・立場との区別も必要となる。
このため、主本文では「細川氏の軍勢が伊予方面へ関係した」とし、人物名を断定しない。
九州で菊池氏が降参する
九州では、菊池氏の降参が記される。
菊池氏は、懐良親王など九州の南朝勢力と深く関係してきた一族だった。
その菊池氏が降参したことは、九州における南朝方の大規模な軍事力が弱まったことを示す記事として整理されている。
ただし、菊池氏のどの人物が、誰へ、どのような条件で降参したのかは、現在の作業台帳要旨からは確定できない。
そのため、一族全体が完全に消滅・断絶したとは説明せず、菊池氏の主要勢力が降参したという範囲で扱う。
男体城が落ちる
関東では、男体城と読まれる城が陥落した。
しかし、「男体城」という文字、城の現在地、城主、攻撃した軍勢は、今回の作業台帳要旨だけでは確定していない。
そのため、特定の城跡へ比定せず、「男体城と読まれる城が落ちた」とする。
城の陥落は、関東に残る反幕府・南朝関係勢力への圧力が強まっていたことを示す記事の一つと整理できる。
南朝の大規模な軍事力が衰える
九州で菊池氏が降参し、各地の城が落ちることで、南朝方が広い地域で大軍を動かすことは難しくなった。
しかし、南朝方の勢力がすべて同時に消えたわけではなかった。
大きな軍団や広い領国を失った後も、地方の城・郡・村・一族を単位とする抵抗は続いた。
作業台帳では、この状態を「南朝残存勢力」と整理している。
これは、統一された一軍というより、各地に残った複数の武士団・城郭勢力を示す公開用表現である。
河内に残る南朝方
河内には、南朝方の武士・城・地域勢力が残っていた。
河内は長く楠木氏などの南朝方と関係してきた地域である。
しかし、このpartでは、すべての城名・武将名・支配範囲を確定できていない。
写本は地域と名字を比較的詳しく列挙するが、その境界には判読上の問題がある。
そのため、河内の複数地域で南朝方の抵抗が続いたという大筋を示す。
紀伊に残る南朝方
紀伊にも南朝方の勢力が残っていた。
山地・寺院・城・郡を拠点として、幕府方への抵抗を続けた勢力がいたとみられる。
しかし、今回の写本では名字と地域名が連続し、誰がどの城・郡を拠点としたかを完全には区別できない。
本ページでは、紀伊の南朝関係勢力がなお活動していたことを確定部分とする。
大和に残る南朝方
大和でも、南朝方とみられる武士団が残っていた。
大和には寺社・山地・城郭が多く、小規模な軍勢が抵抗を続ける拠点となる場合があった。
ただし、写本の人物・名字を一般的な大和武士団へ結びつけて補うことはしない。
具体的な氏族・地域は、逐字判読と地誌照合が終わるまで保留する。
伊勢に残る南朝方
伊勢にも、北畠氏など南朝と関係の深い勢力が残っていた。
しかし、このpartに列挙される名字が、北畠氏の直接の家臣なのか、地域ごとの独立した武士なのかは確定していない。
また、国全域を南朝方が支配していたという意味でもない。
伊勢国内の一部地域・城・一族が南朝側として抵抗していたという範囲で説明する。
写本に列挙される名字
写本には、各地に残った南朝方の名字が説明的に列挙されている。
作業台帳では、宇佐美・福塚・貴志野上などと暫定的に整理されている。
しかし、「貴志」と「野上」が別の名字なのか、「貴志野上」という一続きの語なのかを含め、名字の境界が確定していない。
また、同じ名字でも地域によって別の一族である可能性がある。
そのため、主本文では個別氏族を確定一覧として示さず、原文資料欄に暫定読みを保存する。
河内落合合戦
河内では、落合合戦と整理される戦いが起こった。
ただし、「落合」が正式な地名・戦場名であるか、複数の軍勢が合流したことを表す語であるかは、逐字再確認が必要である。
また、戦った両軍の武将名、兵数、勝敗、討死者も、今回の台帳要旨では確定していない。
そのため、河内における南朝残存勢力と幕府方との合戦の一つとして扱う。
小規模な抵抗が続く理由
南朝の大軍が弱くなっても、地方の武士が直ちに幕府へ従うとは限らなかった。
一族の由緒、南朝皇族との関係、所領争い、周辺武士との対立など、地域ごとに異なる事情があった。
また、山地や城へ籠もれば、少数でも一定期間は抵抗を続けられる場合があった。
そのため、全国的な南朝軍が衰えた後も、地方単位の戦いは続いたと整理できる。
山名氏の反抗
幕府内部では、山名氏に関係する反抗の記事が現れる。
作業台帳では、山名時長らの反抗として整理している。
しかし、時長と読まれる人物の実名・官職・反抗の直接的理由は、このpartだけでは完全には確定していない。
また、この段階の記事が次の明徳の乱へ直接つながるどの山名氏人物の動きに当たるかも、逐字確認を要する。
そのため、山名氏一族の中に幕府へ反抗する動きがあったという範囲を本文とする。
細川常久の記事
part後半には、細川常久と読まれる人物に関する記事が数行ある。
しかし、活字本でも句切りが難しく、官職・実名・行動を確定できていない。
次partには、細川常久の管領復帰と整理される記事があるため、その前段に当たる可能性も考えられる。
ただし、外部の人物系譜に合わせて特定の細川氏人物へ置き換えることはしない。
現在は「細川常久と読まれる人物の記事」として判読保留に残す。
熊野還宮
節末近くには、「熊野還宮」と読める語がある。
しかし、何が熊野へ戻ったのか、神輿・神体・皇族・僧侶・使者などのどれを主語とするのか分からない。
また、出発地と経路も不明である。
そのため、熊野に関係する還宮記事があることを記録し、具体的な対象・儀礼・移動経路は推測しない。
明徳の乱への前段階
この節では、足利氏満の上洛計画が上杉憲春の死によって止まり、各地の南朝残存勢力への攻撃が続いた。
同時に、幕府内部では山名氏に関係する反抗が現れ始めた。
義満は土岐康行を追討して有力守護を統制したが、さらに大きな勢力を持つ山名氏との関係も悪化していく。
次の第4節では、大飢饉、山名氏清と義満の対立、山名満幸の守護職停止、謀反の告発を経て、明徳の乱が始まる。
流れが分かる現代語訳
関東を治めていた足利氏満は、軍勢を率いて京都へ向かおうとした。
上杉憲春は、氏満が京都へ行けば室町幕府との大きな戦争になると考えた。
憲春は、上洛をやめるよう何度も諫めたとみられる。
しかし、氏満が考えを変えなかったため、憲春は自ら命を絶った。
氏満は憲春の死を重く受け止め、上洛計画を取りやめたと整理されている。
上杉憲春は、自分の命と引き換えに、関東と京都の大戦争を止めようとしたのである。
同じころ、幕府は伊予・長門・九州などへ軍勢を送った。
防州竈戸関、河野通直または河野六郎通之、細川氏の派遣軍に関係する記事があるが、人名・地名はまだ確定していない。
九州では、南朝方を長く支えてきた菊池氏が降参した。
関東では、男体城と読まれる城も落ちた。
しかし、これで南朝方がすべていなくなったわけではなかった。
河内・紀伊・大和・伊勢には、小さな城や地域、一族を単位とする南朝方の武士が残っていた。
彼らは、広い地域を動く大軍ではなくなっても、それぞれの土地で幕府方への抵抗を続けた。
河内では落合合戦が起き、幕府内部では山名氏の反抗も始まった。
この山名氏の問題が、次の明徳の乱へつながる。
人物・用語・史料注記
足利氏満
足利基氏の後を継いで関東を治めた人物です。この節では軍勢を率いた上洛を考えますが、上杉憲春の自害を受けて中止したと整理されています。
上杉憲春
氏満を補佐した上杉氏の人物です。氏満の上洛計画へ反対し、自害によって計画を止めたと記されます。自害の場所・方法・遺言は未確定です。
諫死
主君へ強く諫言し、自らの死によって主張や警告を示すことを説明する言葉です。この節の公開用見出しに用いていますが、写本の原見出しではありません。
竈戸関
防州、すなわち周防国に関係する暫定地名です。字形・正式表記・関所や港との関係、現在地は確定していません。
河野通直/河野六郎通之
伊予・防州方面の記事に現れる河野氏人物の暫定読みです。作業台帳内でも表記が一致していないため、一方へ統一していません。
菊池氏の降参
九州の南朝方を支えてきた菊池氏の主要勢力が降参したとする記事です。降参した人物・相手・条件は未確定であり、菊池氏一族全体の断絶とは扱いません。
男体城
関東の記事に現れる暫定城名です。字形・現在地・城主・攻撃側は確定していません。
南朝残存勢力
南朝の大規模軍事力が衰えた後も、各地の城・郡・村・一族を単位として抵抗を続けた勢力を説明する公開用表現です。
河内落合合戦
河内の南朝残存勢力に関係する戦いとして整理されています。「落合」の字・場所・両軍・勝敗は再確認が必要です。
山名時長
山名氏の反抗記事に関係するとみられる暫定人名です。実名・官職・反抗の内容は未確定であり、次節の明徳の乱との関係を再校訂する必要があります。
熊野還宮
節末に現れる暫定語句です。何が熊野へ戻ったのか、対象・出発地・経路・儀礼内容は確定していません。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第3冊 part-4、全3ページ
- 対象年代:元中六年/康応元年~元中七年/明徳元年(1389~1390年)
- 内容区分:編年本文・関東・南朝残存勢力
- 明治期活字本:PDF第18右画像・印刷34ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 判読保留:6項目
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前part末尾の三月以後の出陣記事から続く。
足利氏満、軍勢を率いて上洛せんと企つ。
上杉憲春、氏満を諫む。
氏満、直ちには諫言を受け入れず。
憲春、自害して氏満の上洛を止むとみらる。
防州竈戸関と読まれる地名、河野氏人物の記事あり。
河野氏人物は、翻刻要旨では河野通直、判読保留では河野六郎通之と整理され、一方へ確定できず。
伊予方面へ細川氏の軍勢を派遣すとみらる。ただし頼之・頼元等の人名区切り未確定。
伊予・長門方面において合戦あり。
九州の菊池氏、降参する。
関東の男体城と読まれる城、陥落する。
河内・紀伊・大和・伊勢に、南朝方の武士・城・地域勢力なお残る。
宇佐美・福塚・貴志野上等と読まれる名字を列挙するが、名字境界・字形未確定。
河内において落合合戦と整理される戦いあり。
山名時長らとみられる山名氏一族の反抗記事あり。
細川常久と読まれる人物に関する数行あり。ただし構文未確定。
熊野還宮と読まれる記事あり。対象・経路未確定。
〔大飢饉、細川氏の管領復帰、山名氏清・満幸の挙兵へ続く〕
校訂本文――公開用仮本文
元中六年/康応元年以後。
足利氏満、軍勢を率い、上洛せんとす。
上杉憲春、これを諫む。
氏満、諫言を容れざるにより、憲春、自害す。
氏満、憲春の死を重く受け、上洛を止むとみらる。
防州竈戸関と読まるる所に関する記事あり。
河野通直または河野六郎通之と読まるる人物あり。人名、なお未確定。
細川氏の軍勢、伊予方面へ遣わさる。ただし人物名、未確定。
伊予・長門において戦いあり。
九州菊池氏、降参す。
関東男体城と読まるる城、落つ。
されども河内・紀伊・大和・伊勢等には、なお南朝方の城・武士団残る。
宇佐美・福塚・貴志野上等と読まるる名字あり。ただし文字と区切り、未確定。
河内に落合合戦と整理される戦いあり。
山名時長らとみられる人物、幕府へ反抗す。
細川常久と読まるる人物の記事あり。ただし数行未確定。
熊野還宮と読まるる記事あり。ただし主語・対象・経路、未確定。
〔元中八年/明徳二年、山名氏清・満幸の挙兵へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第18右画像・印刷34ページ付近には、足利氏満の上洛企図、上杉憲春の自害、伊予・長門・九州・関東の戦い、菊池氏の降参、各地の南朝残存勢力、河内合戦、山名氏の反抗に対応する記事が収録されています。
写本と活字本は、事件の大筋ではよく一致します。
写本は、河内・紀伊・大和・伊勢などに残った南朝方の名字・地域を、仮名交じりの説明的な文章で列挙します。
活字本は同じ内容を漢文調に圧縮し、人名・地名を漢字で示すため補読に有効です。
ただし、活字本の人名区切りをそのまま写本へ採用せず、宇佐美・福塚・貴志野上等の名字は暫定読みとして保存します。
氏満上洛記事の冒頭、河野氏人物、細川氏派遣軍、細川常久、熊野還宮は、活字本と照合してもなお未確定部分が残ります。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 氏満上洛記事冒頭 | 前partから続く和文で、主語・目的語の一部を省略 | 漢文調に整理する | 上洛企図の大筋を採用し、冒頭文の完全な訓読は保留する |
| 防州の記事 | 竈戸関・河野氏人物を仮名交じりで記す | 地名・人名を漢字で補読できる可能性 | 竈戸関、河野通直/通之を暫定読みとして保持する |
| 伊予派遣軍 | 細川氏の人名・官職が連続する | 人名を漢字で区別しやすい | 頼之・頼元等の一方へ確定しない |
| 南朝残存勢力 | 地域・名字を説明的に詳しく列挙 | 漢文調に圧縮して列挙 | 写本の地域情報を優先し、名字は暫定表記とする |
| 細川常久 | 数行の説明があるが構文未確定 | 活字本でも句切りが難しい | 具体的行動を主本文へ補わない |
| 熊野還宮 | 還宮と読めるが、主語・対象・経路が不明 | 補読できる可能性があるが、対象はなお不明 | 語句のみ保存し、出来事を断定しない |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 氏満上洛記事冒頭 | 天下を治め善政を施す | 前partから続き、主語・目的語が省略されている | 中 |
| 防州の地名・人名 | 竈戸関・河野通直/河野六郎通之 | 写本だけでは地名・実名・通称を確定できない | 低 |
| 伊予派遣軍の細川氏 | 頼之・頼元等か | 名字・実名・法名・官職の区切りが難しい | 低~中 |
| 南朝残存勢力の名字 | 宇佐美・福塚・貴志野上等 | 名字の境界・字形・地域との対応が未確定 | 低 |
| 細川氏の記事 | 細川常久 | 数行の主語・動詞・官職が未確定で、活字本も句切り困難 | 低 |
| 節末記事 | 熊野還宮 | 何が戻ったのか、出発地・経路・儀礼内容が不明 | 低~中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第3冊part-4の全3ページを、一つの編年範囲として確認した。
- 前part末尾の三月以後の出陣記事と、part-4冒頭の氏満上洛記事を通読した。
- 接続後も冒頭の主語・目的語が完全には確定しないため、逐字の完全な訓読を保留した。
- 足利氏満の上洛企図と上杉憲春の自害を、一続きの政治事件として整理した。
- 上杉憲春が命によって氏満の上洛を止めたという作業台帳の要旨を採用した。
- 自害の場所・方法・遺言を、一般的な人物伝から補わなかった。
- 氏満の正式な上洛中止日・軍勢解散命令を推測しなかった。
- 防州竈戸関は暫定地名として保持し、現在地へ比定しなかった。
- 河野氏人物は、翻刻要旨の「通直」と判読保留の「六郎通之」を併記し、一方へ統一しなかった。
- 伊予派遣軍の細川氏は、頼之・頼元などの人名候補を確定しなかった。
- 菊池氏の降参を確認したが、降参者・相手・条件を補わなかった。
- 男体城は暫定城名として扱い、現在の特定城郭へ結びつけなかった。
- 南朝の大軍が衰えた後も、河内・紀伊・大和・伊勢の城・郡・武士団が抵抗した状況として整理した。
- 写本に列挙される名字を地域情報として保存したが、宇佐美・福塚・貴志野上等の区切りを確定しなかった。
- 河内落合合戦は、地名・両軍・勝敗を断定しなかった。
- 山名時長らの反抗を、次の明徳の乱へ向かう前段階として整理した。
- 細川常久の記事は、活字本でも句切りが難しいため、具体的行動を補わなかった。
- 熊野還宮は、主語・対象・経路を推測せず、判読保留として保存した。
4.明徳の乱①――山名氏清・満幸の挙兵
対象年代:元中八年/明徳二年(1391年)
対応史料:手書き写本第3冊 part-5、全3ページ/明治期活字本PDF第18右~19右画像・印刷34~36ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
錦御旗を受けた人物、丹後から謀反を告発した人物、遊佐誠教と読まれる武将、山名満幸の陣所、山名上総介・小林重長、次part冒頭の首級記事には未確定箇所があります。
「明徳の乱」「義満の守護統制」などは、事件を理解しやすくするための公開用表現であり、写本の原見出しではありません。
この節の概要
元中八年/明徳二年、天下では大飢饉が起こったと記されています。
その一方、室町幕府の内部では、足利義満と有力守護山名氏との関係が急速に悪化していきました。
写本は、義満が山名氏清を宇治の紅葉見物と酒宴へ招こうとした経緯を、物語的に説明しています。
しかし、氏清は酒宴に出席しませんでした。義満はこれを不快に思い、氏清への疑いと怒りを強めたと記されています。
さらに、山名満幸が持っていた出雲国の守護職が停止されました。満幸は処分に強く反発し、氏清との結びつきを深めます。
その後、山名方が謀反を計画しているという情報が幕府へ伝えられました。ただし、その告発者を誰と読むべきかは確定していません。
義満は諸将を京都へ集め、山名氏の攻撃に備えました。錦御旗を渡された人物も記されていますが、その人物名は判読保留です。
山名氏清・満幸方は京都へ進み、二条大宮・内野口などで幕府軍との戦いが始まりました。
この第4節では、義満と山名氏の関係悪化から、京都市中で明徳の乱が始まるまでを扱います。氏清の討死と戦後処理は、次の第5節へ続きます。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、写本の記事順と因果関係が分かるよう説明文へ展開した現代語訳です。逐字本文が確定していない人物・陣所・告発関係は、推測で補っていません。
前節の山名氏反抗記事から続く
前節の末尾には、山名氏一族の中で、幕府へ反抗する動きが現れ始めたことが記されていた。
山名時長らと読まれる人物の記事、細川氏に関する難読記事、熊野還宮と読まれる記事を経て、このpartは元中八年/明徳二年へ入る。
ただし、前節末尾の山名氏反抗記事と、この節の山名氏清・満幸の記事が、どの人物関係によって直接つながるのかは完全には確定していない。
現在の公開用本文では、幕府と山名氏の関係がすでに悪化しつつあったという大きな流れを示す。
元中八年・明徳二年
本文は、南朝年号の元中八年、北朝年号の明徳二年の記事へ進む。
南北朝の合一はまだ成立しておらず、吉野の南朝と京都の北朝・室町幕府が並立していた。
しかし、この年に京都で起きた大きな軍事事件は、南朝と北朝の直接戦争ではなく、幕府と有力守護山名氏との戦いだった。
幕府内部の有力守護をめぐる対立が、京都市中での大規模な合戦へ発展したのである。
天下の大飢饉
この年、天下に大飢饉があったと記される。
ただし、写本の第一次判読では、飢饉の原因・被害地域・死者数・米価などの詳細は確認できていない。
大雨・旱魃・冷害・戦争による流通の停滞など、一般にはさまざまな原因が考えられるが、この写本が示していない原因を補うことはしない。
本ページでは、明徳の乱が始まった年に大飢饉も記録されているという、史料上の事実を示す。
飢饉の中で軍勢を動員することは、兵粮・馬・輸送・住民への負担をさらに大きくした可能性があるが、これは事件背景を理解するための説明である。
細川氏が再び管領となる
幕府では、細川氏の人物が再び管領となったと記される。
作業台帳の詳細記録では「細川常久再管領」と整理されている。
一方、巻三の骨組み作成時には「細川頼之の管領復帰」と整理していた。
人物名の読みと、前partに現れる細川常久と読まれる人物との関係を確定できていないため、このページでは「細川氏の管領復帰」とする。
特定の細川氏人物への同定は、写本の原字と活字本の人名区切りを再確認した後に行う。
管領復帰の意味
管領は、将軍を補佐し、幕府の政務をまとめる重要な役職だった。
山名氏のような有力守護との対立が深まる中で、誰が管領となるかは、幕府方諸将の動員や政治判断にも関係する。
ただし、写本が管領復帰と山名氏追討をどの程度直接結びつけているかは、現在の要旨だけでは確定できない。
本ページでは、山名氏との対立が本格化する直前に、細川氏の管領復帰記事が置かれていることを記録する。
大勢力となっていた山名氏
山名氏は、複数国の守護職と大きな軍事力を持つ有力守護だった。
山名氏の一族は各地に領国・家臣・軍勢を持ち、幕府にとって重要な存在である一方、将軍に対抗し得るほどの力を持つ可能性もあった。
前の土岐康行の記事では、一人の有力守護が複数国を持つことを義満が警戒し、追討後に領国を分けた経過が記されていた。
山名氏との対立も、有力守護と将軍義満との関係を考えるうえで重要な事件となる。
ただし、写本が「山名氏は強大すぎたため討たれた」と直接評しているわけではなく、これは事件を理解するための公開用解説である。
山名氏清
この節の中心人物の一人が、山名氏清である。
氏清は山名一族の有力者として、多くの武士を従える立場にあった。
写本では、足利義満が氏清を宇治へ招こうとした記事から、両者の関係悪化が物語的に説明される。
ただし、招待以前から両者の間にどのような政治的対立があったのかは、この3ページの要旨だけでは確定できない。
山名満幸
山名満幸も、氏清とともに明徳の乱へ関係する人物として記される。
満幸は出雲守護職を停止されたことに反発し、幕府への不満を強めたと整理されている。
ただし、守護停止に至った具体的な罪状・命令文・処分日・代わって守護となった人物は、現在の作業台帳要旨からは確定できない。
本ページでは、満幸の守護職停止が挙兵へ至る重要な契機の一つだったという大筋を示す。
義満が氏清を宇治へ招こうとする
足利義満は、山名氏清を宇治へ招こうとした。
写本は、宇治で紅葉を見物し、酒宴を開く計画だったとみられる経緯を説明している。
有力守護を宴へ招くことには、親しい関係を確認する意味や、政治的な意思を探る意味があった可能性がある。
しかし、義満が最初から氏清を試す目的で招いたのか、純粋な遊宴だったのかは、写本本文から確定できない。
そのため、現在の本文では、宇治の紅葉見物と酒宴へ氏清を招こうとしたという記事内容までを扱う。
氏清が酒宴へ出席しない
山名氏清は、宇治の酒宴へ出席しなかった。
欠席した理由は、写本の第一次判読では完全には確定していない。
病気・警戒・政治的な不満・幕府への反発など、複数の可能性を考えられるが、史料が示していない理由を一つに決めることはしない。
写本は、氏清が宴へ来なかったことを、義満の怒りと関係悪化へつながる出来事として描いている。
義満が怒る
氏清が酒宴へ出席しなかったため、義満は怒ったと記される。
将軍からの招きを有力守護が拒むことは、単なる宴会の欠席ではなく、将軍の権威を軽んじた行動と受け取られる可能性があった。
しかし、義満が氏清の欠席だけを理由に直ちに追討を決めたと断定することはできない。
写本は宴席の事件を物語上の転機として詳しく記す一方、その背後には守護職・領国・軍事力をめぐる政治問題もあったと考えられる。
この最後の説明は、記事の背景を理解するための整理であり、写本の直接的な評言ではない。
酒宴の記事が持つ意味
写本は、明徳の乱の原因を守護職や軍勢だけで説明していない。
義満の招待、氏清の欠席、義満の怒りという、人間関係の悪化を具体的な出来事として記す。
この点が、事件を短い漢文調でまとめる明治期活字本と比べた際の、写本の大きな特徴である。
ただし、物語的に印象深く書かれた出来事が、事件の唯一の原因だったとは限らない。
山名満幸の出雲守護職が停止される
山名満幸は、出雲国の守護職を停止された。
守護職を失うことは、その国の軍事・警察・武士統率に関係する権限を失うことであり、満幸にとって大きな処分だった。
また、守護職に伴う政治的な影響力や領国支配も弱まる。
満幸はこの処分へ反発し、幕府と対立する道へ進んだと整理されている。
ただし、出雲守護停止と宇治酒宴事件の正確な前後関係は、写本の逐字本文による再確認が必要である。
山名一族内の立場
山名氏清と満幸は、幕府の処分と義満への不満を共有する形で結びついたとみられる。
しかし、山名一族のすべてが氏清・満幸とともに挙兵したわけではない。
幕府方へ従う山名氏人物、態度を決めかねる人物、氏清方へ加わる人物がいた可能性がある。
写本には山名上総介と読まれる人物も現れるが、実名・所属・行動は未確定である。
そのため、「山名氏全体が幕府へ反乱した」と単純化せず、氏清・満幸らを中心とする山名方の挙兵として説明する。
丹後から告発が届く
山名方が謀反を計画しているという情報が、丹後方面から幕府へ伝えられたとみられる。
しかし、誰が告発したのかは確定していない。
明治期活字本は告発者を漢字で明記している可能性があるが、写本の人物名・官職との対応を確認できていない。
告発者が山名一族内部の人物なのか、丹後の別の武士なのか、幕府方の使者なのかも保留する。
本ページでは、丹後から山名方の謀反計画が幕府へ報告されたという大筋を示す。
謀反の告発
告発を受けた幕府は、山名氏清・満幸らが武力によって幕府へ反抗する可能性を警戒した。
謀反と認定されれば、幕府は軍勢を集め、追討を命じることができる。
一方、告発が一族内の対立を利用したものだった可能性も考えられるため、告発内容がすべて事実だったと直ちに断定することはできない。
写本の第一次判読では、告発文の全文・具体的な計画・証拠・山名方の反論は確認できていない。
義満が軍勢を集める
義満は、山名方の京都進攻に備えて、幕府方の諸将を集めた。
京都市中・周辺道路・門・陣所などへ軍勢を配置し、山名軍の侵入を防ごうとしたとみられる。
活字本では、集められた幕府方武将と陣所を、写本より明確に列挙している。
しかし、今回の写本の人物名・官職・陣所との対応には未確定部分があるため、活字本の一覧をそのまま写本本文として採用しない。
錦御旗を渡す
幕府方の人物に、錦御旗が渡されたとみられる記事がある。
錦御旗は、軍勢を率いる権威や、朝廷・幕府側の正統な命令を示すものとして扱われた可能性がある。
しかし、写本で誰が御旗を受け取ったのかを確定できていない。
また、御旗がどの軍勢・陣所へ渡されたのかも保留する。
本ページでは、錦御旗を受けて出陣した人物がいたという範囲にとどめる。
遊佐誠教と読まれる人物
幕府方諸将の中には、遊佐誠教と暫定的に読んでいる人物が現れる。
しかし、「誠教」の字、官職、名字との接続、軍勢中での役割を確定できていない。
活字本は人物名を補読する手がかりとなるが、写本における人名区切りを優先する必要がある。
そのため、主本文では幕府方諸将の一人とみられる可能性を示し、具体的な陣所・戦功は説明しない。
山名上総介・小林重長
戦闘準備の記事には、山名上総介・小林重長と読まれる人物名も現れる。
しかし、山名上総介の実名、氏清・満幸との関係、幕府方・山名方のどちらに属するのかを確定できていない。
小林重長についても、名字・実名・軍勢中の役割は再確認が必要である。
人物の所属を誤ると、京都市中の軍勢配置が逆になる可能性があるため、判読保留に残す。
山名氏清・満幸が挙兵する
山名氏清・満幸らは、ついに幕府へ反抗して兵を挙げた。
氏清・満幸方は、それぞれの領国・家臣・一族から軍勢を集め、京都方面へ進んだとみられる。
ただし、挙兵日、最初の集合地、両者が同時に行動を開始したかどうかは、現在の作業台帳要旨では確定していない。
本ページでは、守護職停止と謀反告発を経て、氏清・満幸が幕府に対して武力行動を始めたという大筋を示す。
満幸の陣所
写本には、山名満幸が陣を置いた場所に関係する語がある。
しかし、地名・寺院名・道路名のいずれに当たるかを確定できていない。
明治期活字本では陣所がより明確に記される可能性があるが、写本と同一の地名表記とは限らない。
そのため、満幸の正確な陣所は判読保留とし、京都方面へ進軍したという範囲を主本文とする。
山名軍が京都へ迫る
山名軍は京都へ近づき、幕府方の軍勢と向かい合った。
京都は幕府・朝廷・公家・寺社・多くの住民が集まる都市であり、市中で戦闘が起これば大きな被害が出る危険があった。
幕府方は道路・門・市街地の要所へ軍勢を置き、山名軍の進入を防ごうとしたとみられる。
ただし、各部隊の人数と細かな配置は、写本本文を再確認するまで断定しない。
二条大宮で戦いが始まる
京都の二条大宮と記される場所で、山名方と幕府方の戦闘が始まった。
写本・活字本とも、京都市中の複数地点で戦いが行われたことを記すと整理されている。
しかし、二条大宮で最初に衝突した武将、攻撃方向、戦死者、勝敗は、このpartだけでは完全には分からない。
本ページでは、二条大宮が合戦開始地点の一つとして記されることを示す。
内野口での戦い
内野口と記される場所でも、戦闘が始まった。
内野口が具体的にどの道路・門・市街地境界を指すかは、本ページでは現在地へ比定しない。
幕府方と山名方が京都の複数方向で衝突したことを示す地名として扱う。
戦いの結果、山名満幸は敗走し、氏清も激しい戦闘へ巻き込まれるが、その経過は次のpartへ続く。
京都市中の戦い
明徳の乱は、遠い地方の城をめぐる戦いではなく、京都市中とその周辺で行われた。
幕府の政治中枢に近い場所で有力守護の軍勢が戦ったため、義満政権そのものが直接攻撃を受ける形となった。
また、京都の住民・寺社・公家の住居などにも被害が及ぶ危険があった。
ただし、今回の写本3ページでは、焼失した建物・民家・死傷した住民などの具体的被害は確定していない。
幕府方諸将が山名軍を迎え撃つ
義満の命を受けた幕府方諸将は、それぞれの陣所から山名軍を迎え撃った。
活字本では武将名・官職・陣所を比較的明確に列挙している。
一方、写本は仮名交じりの続き書きであり、人名と地名の区切りを確定しにくい。
そのため、本ページでは幕府方の諸将が京都の各所へ配置されたという大筋を示し、全員の配置一覧は掲載しない。
氏清の討死記事へ続く
part-5末尾では、京都市中の合戦が始まり、両軍の戦闘が激しくなったところで文章が次partへ続く。
次のpart-6冒頭には、討ち取られた人物や首級に関係する記事が置かれている。
しかし、part-5末尾の誰の行動が、part-6冒頭のどの首級記事へ直接つながるのかは再校訂が必要である。
このため、第4節では京都合戦の開始までを扱い、山名満幸の敗走、山名氏清の討死、首実検は第5節へ送る。
明徳の乱が始まった理由
写本の記事からは、複数の出来事が重なって乱が始まったことが分かる。
- 有力守護山名氏と義満の政治的関係が悪化した
- 宇治の酒宴を氏清が欠席し、義満が怒った
- 山名満幸の出雲守護職が停止された
- 山名方の謀反計画が幕府へ告発された
- 義満が諸将を集め、山名方も軍勢を動かした
ただし、この五つを同じ重さの原因とすることや、酒宴欠席だけで戦争が始まったとすることはできない。
写本は人間関係の悪化を物語的に描きながら、守護職・領国・軍事力をめぐる政治的対立も記していると整理できる。
流れが分かる現代語訳
元中八年/明徳二年、天下では大飢饉が起きた。
そのころ、足利義満と有力守護の山名氏との関係が悪化していた。
義満は、山名氏清を宇治の紅葉見物と酒宴へ招こうとした。
しかし、氏清は酒宴へ来なかった。
義満は、自分の招きを氏清が拒んだことに怒ったと写本は伝えている。
さらに、山名満幸は出雲国の守護職を取り上げられた。
満幸は処分へ反発し、氏清とともに幕府へ対抗するようになった。
やがて、山名方が謀反を計画しているという情報が、丹後方面から幕府へ伝えられた。
ただし、告発した人物の名前はまだ確定していない。
義満は京都へ幕府方の武将を集め、山名軍の攻撃に備えた。
錦御旗を受けて出陣した人物もいたとみられるが、その人名は読めていない。
山名氏清・満幸方は軍勢を動かし、京都へ向かった。
二条大宮や内野口などで、山名軍と幕府軍の戦いが始まった。
酒宴への欠席だけが戦争の原因だったわけではない。
山名氏が大きな領国と軍事力を持っていたこと、満幸が守護職を失ったこと、義満が有力守護を統制しようとしたことなどが重なっていた。
次の節では、山名満幸の敗走、山名氏清の討死、首実検、山名氏の領国再配分へ進む。
人物・用語・史料注記
山名氏清
山名一族の有力守護です。義満が宇治の酒宴へ招こうとしましたが出席せず、両者の関係悪化を示す出来事として写本に記されます。その後、満幸らとともに挙兵します。
山名満幸
出雲守護職を停止されたことを契機として幕府へ反発し、氏清とともに挙兵した人物です。処分の詳しい理由・日付・後任守護は未確定です。
宇治招宴
義満が氏清を宇治の紅葉見物・酒宴へ招こうとした記事です。写本は事件を物語的に詳しく説明しますが、招宴の政治的な目的と氏清の欠席理由は確定していません。
出雲守護停止
山名満幸が出雲国の守護職を取り上げられた処分です。守護としての軍事・政治的権限を失う重大な処分でした。
謀反告発
山名方が幕府へ武力で反抗しようとしているという情報が、幕府へ伝えられた記事です。丹後方面の告発者とされる人物の名は未確定です。
錦御旗
軍勢を率いる権威や、朝廷・幕府側の命令を示す旗として扱われた可能性があります。この節では御旗を受けた人物を確定できていません。
二条大宮・内野口
京都市中で戦闘が始まった場所として記されます。各地点の担当武将・攻撃方向・現在地の細かな比定は再確認が必要です。
明徳の乱
山名氏清・満幸らと、足利義満を中心とする幕府方との戦いを示す一般的な事件名です。写本にこの章題が付けられているわけではありません。
細川氏の管領復帰
作業台帳は「細川常久再管領」としますが、巻三骨組みでは「細川頼之の管領復帰」と整理されていました。原字と人物関係が未確定なため、このページでは細川氏人物の管領復帰として扱います。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第3冊 part-5、全3ページ
- 対象年代:元中八年/明徳二年(1391年)
- 内容区分:編年本文・明徳の乱①
- 明治期活字本:PDF第18右~19右画像・印刷34~36ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 判読保留:6項目
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前partの山名氏反抗記事から続く。
元中八年/明徳二年。
天下、大飢饉となる。
細川氏の人物、再び管領となる。作業台帳は細川常久とするが、人物同定未確定。
足利義満、山名氏清を宇治の紅葉見物・酒宴へ招こうとする。
山名氏清、宇治の酒宴へ出席せず。
義満、氏清の欠席を怒る。
山名満幸、出雲守護職を停止される。
満幸、処分に反発し、氏清らとの結びつきを強めるとみられる。
丹後方面から、山名方の謀反計画を告発する記事あり。告発者未確定。
義満、幕府方の諸将を京都へ集める。
錦御旗を受ける人物あり。ただし人名未確定。
遊佐誠教と読まれる武将、山名上総介、小林重長等の人名あり。ただし所属・陣所未確定。
山名氏清・満幸方、挙兵する。
満幸の陣所に関する記事あり。ただし地名未確定。
山名軍、京都へ進む。
二条大宮・内野口等において、幕府方との戦い始まる。
末尾は次partの敗走・討死・首級記事へ続く。
校訂本文――公開用仮本文
元中八年/明徳二年。
天下、大いに飢饉す。
細川氏の人物、再び管領となる。ただし人物名、なお未確定。
足利義満、山名氏清を宇治へ招き、紅葉を見、酒宴を催さんとす。
氏清、これに参らず。
義満、氏清の不参を怒る。
山名満幸、出雲守護職を停止さる。
満幸、処分に反発し、氏清らとともに幕府へ対抗す。
丹後より、山名方謀反の由、幕府へ告げらる。ただし告発者、未確定。
義満、諸将を集め、京都の各所へ軍勢を配す。
錦御旗を受くる人物あり。ただし人名、未確定。
山名氏清・満幸、兵を挙ぐ。
山名軍、京都へ迫る。
二条大宮・内野口等において合戦始まる。
〔満幸敗走、氏清討死、首実検へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第18右~19右画像・印刷34~36ページ付近には、天下大飢饉、細川氏の管領復帰、山名氏清の宇治招宴、山名満幸の出雲守護停止、謀反告発、幕府方諸将の集結、京都合戦開始に対応する記事が収録されています。
写本と活字本は、事件の大筋ではよく一致します。
写本は、義満が氏清を宇治へ招き、氏清が酒宴を欠席し、義満が怒るまでを、物語的な和文で比較的詳しく説明します。
活字本は同じ経過を漢文調に圧縮し、告発者、幕府方武将、陣所などを写本より明確に示す箇所があります。
ただし、活字本の人物名・陣所を無条件に写本本文へ補い入れません。
part末尾から次part冒頭の首級記事にかけては、写本・活字本とも人名が連続するため、討死者・首を取った人物・首実検の順序に再確認が必要です。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 宇治の招宴 | 紅葉見物・酒宴・氏清欠席・義満の怒りを物語的に説明 | 事件を漢文調に圧縮 | 写本の説明性を優先し、唯一の乱因とは断定しない |
| 細川氏の管領復帰 | 作業台帳は細川常久と整理 | 別の細川氏人物へ読める可能性 | 人物名を確定せず「細川氏の管領復帰」とする |
| 謀反の告発者 | 人名・官職が不明瞭 | 丹後関係者を明記する可能性 | 活字本だけで告発者を確定しない |
| 幕府方諸将 | 仮名交じりで人名と陣所の区切りが難しい | 人名・官職・陣所を漢字で列挙 | 全武将の配置一覧は再校訂後に掲載する |
| 満幸の陣所 | 地名が難読 | 陣所を補読できる可能性 | 正式地名・現在地を確定しない |
| part末尾 | 京都合戦開始後、次partの首級記事へ続く | 討死・首級記事へ漢文調で接続 | 氏清討死・首実検は次節で扱う |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 錦御旗の記事 | 錦御旗を受けて出陣 | 御旗を受けた人物名と軍勢を確定できない | 低 |
| 丹後の告発者 | 丹後から山名方謀反を告発 | 告発者の名字・実名・官職・山名氏との関係が不明 | 低 |
| 幕府方武将 | 遊佐誠教 | 実名の字形・所属・陣所・戦功が未確定 | 低~中 |
| 山名満幸の陣所 | 陣所名未確定 | 地名・寺院名・道路名の区別と現在地を確定できない | 低 |
| 人名群 | 山名上総介・小林重長 | 実名・所属陣営・人物間の区切りが未確定 | 低 |
| 次partへの接続 | 討死者・首級記事 | 誰の行動から誰の首級記事へ続くかを確定できない | 中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第3冊part-5の全3ページを、一つの編年・合戦導入範囲として確認した。
- 前part末尾の山名氏反抗記事から、元中八年/明徳二年の記事への接続を確認した。
- 天下大飢饉を確認したが、原因・被害地域・死者数・米価を推測で補わなかった。
- 管領復帰人物は、台帳の細川常久と骨組みの細川頼之が一致しないため、「細川氏の人物」とした。
- 義満による氏清の宇治招宴、氏清の欠席、義満の怒りを、写本の物語的説明に沿って整理した。
- 氏清の欠席理由を、病気・警戒・反抗などの一つへ確定しなかった。
- 酒宴欠席だけを、明徳の乱の唯一の原因とはしなかった。
- 山名満幸の出雲守護停止を、挙兵へ至る重要な契機として整理した。
- 守護停止の罪状・処分日・後任守護を推測しなかった。
- 丹後からの謀反告発を確認したが、告発者を活字本だけで確定しなかった。
- 錦御旗を受けた人物を特定しなかった。
- 遊佐誠教、山名上総介、小林重長は暫定人名として保存し、所属と陣所を確定しなかった。
- 山名氏全体ではなく、氏清・満幸らを中心とする山名方の挙兵として整理した。
- 満幸の陣所を特定地へ比定しなかった。
- 二条大宮・内野口で京都合戦が始まるところまでを第4節とした。
- part-6冒頭との接続を確認したが、討死者・首を取った人物・首級記事の順序を確定しなかった。
- 氏清討死、首実検、山名旧領再配分は次の第5節へ送った。
5.明徳の乱②――氏清の討死と山名領国の再分配
対象年代:元中八年/明徳二年末~元中九年/明徳三年(1391~1392年)
対応史料:手書き写本第3冊 part-6、全3ページ/明治期活字本PDF第18左~19右画像・印刷35~36ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
山名氏清を討った高島氏、討死者一覧、氏清の首と母衣に関する表現、足利氏満の出兵日、雨山・藤代城、山名満幸の遁世には未確定箇所があります。
以下の「写本翻刻」は逐字全文ではなく、第一次判読の要旨です。領国配分の記事は明治期活字本とほぼ一致しますが、人名と国名の対応は再校訂を要します。
この節の概要
前節では、山名氏清・満幸方が京都へ進み、二条大宮・内野口などで幕府方との戦いが始まりました。
この節では、その戦いの決着が記されます。山名満幸は幕府軍に敗れて京都から逃れ、山名氏清は戦場に踏みとどまりました。
氏清は激しい戦闘の末に討死しました。写本には、高島氏と読まれる人物が氏清を討ったとみられる記事がありますが、実名・所属・戦闘経過は確定していません。
戦いの後、氏清を含む八十余の首が幕府側で実検されました。ただし、討死者名の区切りや、氏清の首と「母衣」に関する表現には難読部分があります。
山名方の敗北後、足利義満は山名氏が持っていた広い領国を幕府方の功臣へ再配分しました。
これは単なる戦後の恩賞ではありません。有力守護であった山名氏の軍事力を弱め、守護職と領国を将軍が与え直す権限を示す政治的な処分でもありました。
しかし、山名氏の勢力がすべて一度に消滅したわけではありません。一族の中には幕府へ降参した者、領国を認められた者、逃亡・遁世した者、紀伊などで抵抗を続けた者がいました。
関東の足利氏満も山名方または京都情勢に関係して援軍を出そうとしたとみられますが、幕府方勝利の知らせを受け、出兵を中止しました。
節の後半では、紀伊に残った山名義理への追討、雨山・藤代城と読まれる城の記事、山名満幸の遁世が記されます。
明徳の乱によって有力守護山名氏は大きな打撃を受け、足利義満の守護統制はさらに強まりました。その直後、幕府は長年続いた南北朝対立を終わらせる和平交渉へ進みます。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、写本の記事順と因果関係が分かるよう説明文へ展開した現代語訳です。逐字本文が確定していない人名・討死者・首級表現・城名・日付は、推測で補っていません。
京都市中の戦いから続く
前節の末尾では、山名氏清・満幸らの軍勢が京都へ進み、二条大宮・内野口などで幕府方との戦いが始まっていた。
幕府方は京都市中とその周辺へ諸将を配置し、山名軍を迎え撃った。
part-5の末尾からpart-6の冒頭にかけて、戦闘中の人名・首級・討死記事が連続している。
しかし、前part最後の人物が誰と戦い、次part冒頭で誰の首を取ったのかは、人名の区切りが難しく、完全には確定していない。
そのため、本ページでは、山名満幸が敗走し、山名氏清が討死したという大きな流れを中心に示す。
山名満幸が敗走する
山名満幸の軍勢は、幕府方との戦いに敗れた。
満幸は京都の戦場を離れ、敗走したと記される。
ただし、どの門・道路・陣所から退いたのか、誰が追撃したのか、何人の家臣が付き従ったのかは、現在の作業台帳要旨からは確定できない。
また、この時点で満幸が直ちに出家・遁世したのか、いったん別の地域へ逃れた後に遁世したのかも不明である。
確認できるのは、京都合戦で山名満幸方が敗れ、満幸自身は戦場から離脱したという点である。
山名氏清は戦場に残る
山名満幸が敗走する一方、山名氏清は戦場に残って戦った。
氏清は山名方の有力な大将であり、氏清が退けば軍勢全体が崩れる可能性があった。
そのため、氏清は幕府方の軍勢と戦い続けたと整理されている。
しかし、氏清の周囲に残った武士の人数、陣形、戦場の正確な地点は、今回の第一次判読では確認できない。
本ページでは、氏清が敗走せず、京都の戦場で最期まで戦ったという大筋を扱う。
山名氏清が討死する
山名氏清は、幕府方との戦闘で討死した。
氏清の死によって、京都へ進攻した山名方は大将の一人を失った。
有力守護本人が戦場で討たれたことは、山名方の軍事的な敗北を決定づける出来事だった。
ただし、氏清がどの場所で、誰と直接戦い、どのような傷を受けて討たれたのかは、写本の人名・動詞を完全には確定できていない。
そのため、一般的な合戦記や人物伝から、氏清の最期の詳細を補うことはしない。
氏清を討った高島氏
写本には、氏清を討った人物として、高島氏と読まれる名字が現れる。
しかし、高島氏の実名・官職・所属軍を確定できていない。
高島という名字が一人の武士を指すのか、その家臣・一族を含む軍勢名なのかも再確認が必要である。
また、氏清へ最初に傷を負わせた人物と、首を取った人物が同一であるかも分からない。
そのため、「高島氏と読まれる人物が氏清の討死に関係した」と限定して示す。
討死者の名が続く
氏清の討死記事の前後には、山名方・幕府方の討死者とみられる人名が続けて記される。
しかし、名字・通称・官職・実名の区切りが難しく、一人の長い名前なのか、複数人を列挙しているのか判別できない部分がある。
さらに、討ち取られた人物と、その首を取った人物が交互に記されている可能性もある。
人名の対応を誤ると、山名方と幕府方の所属が逆になるおそれがある。
そのため、現代語訳の主本文には、確実に確認できない討死者一覧を載せない。
氏清の首が取られる
氏清が討死した後、その首が取られ、幕府方へ届けられたとみられる。
中世の合戦では、敵の大将を討ち取った証拠として、首を大将や主君の前で確認することがあった。
しかし、この写本で氏清の首を誰が運び、誰へ差し出したのかは確定していない。
また、氏清の首の外見・装束に関する文章には「母衣」と読める語があり、その意味と係り方に問題がある。
「母衣を纏う首」の表現
作業台帳では、氏清の首に関係して、「母衣を纏う首」と整理される可能性のある表現を判読保留としている。
母衣は、武士が背中に付ける装具として知られるが、首そのものが母衣を纏うという表現では意味が不自然になる。
氏清が戦闘時に母衣を身につけていたことを説明するのか、首を包んだ物を指すのか、別の語を誤読しているのかは確定していない。
そのため、公開用本文では「氏清の首と母衣に関係する難読表現がある」とし、具体的な姿を再現しない。
八十余の首が実検される
戦いの後、討ち取られた者の首が集められた。
写本は、八十余の首が実検されたと記すと整理されている。
首実検とは、討ち取った敵の首を確認し、人物の身分・名前・戦功を確かめることである。
氏清のような有力者の首が含まれていれば、山名方が敗れたことを幕府側が確認する重要な証拠となる。
ただし、「八十余」が首の総数なのか、有力者だけの数なのか、写本の助数表現には再確認の余地がある。
首実検と戦功の確認
首実検は、戦いの勝敗を確認するだけの行為ではなかった。
誰がどの敵を討ったかを確認することで、幕府は戦功に応じた恩賞を決めることができた。
討死者の身分が高いほど、その首を取った武士の戦功も大きいと評価される可能性があった。
後に行われる山名旧領の再配分も、この合戦で幕府方として戦った武士の功績と関係したと整理できる。
ただし、個々の首と恩賞先の対応は、今回の写本要旨からは確定できない。
山名方の軍勢が崩れる
満幸が敗走し、氏清が討死すると、山名方の軍勢は戦いを続けることが難しくなった。
一族・家臣の中には、その場で討たれた者、京都から逃れた者、幕府へ降参した者がいたとみられる。
ただし、山名氏の一族すべてが同時に敗北・処刑されたわけではない。
山名一族の中には幕府方として戦った者や、乱後も守護職・所領を認められた者がいた可能性がある。
本ページでは、氏清・満幸を中心とする山名方の軍事勢力が崩壊したという範囲で説明する。
明徳の乱が終わる
京都での大規模な戦闘は、幕府方の勝利によって終わった。
しかし、京都合戦が終わっても、山名方の残党・領国・城の処理は残っていた。
幕府は降参者を受け入れる一方、抵抗を続ける者へは追討軍を送った。
また、山名氏が持っていた広い領国を、誰へ与えるかを決めなければならなかった。
そのため、写本は京都合戦の決着後も、元中九年/明徳三年の記事として戦後処理を詳しく記している。
元中九年・明徳三年
本文は、南朝年号の元中九年、北朝年号の明徳三年の記事へ進む。
この年には、山名氏の旧領再配分、残党の降参、関東からの出兵問題、紀伊方面の追討が記される。
同じ年の後半には、南北朝合一の和平交渉が進む。
つまり、幕府が山名氏との大きな内戦を終えた直後に、長年の南北朝対立を終わらせる政治交渉へ移ったことになる。
ただし、写本が明徳の乱勝利と南北朝和平成立を直接の因果関係として説明しているわけではない。
山名氏の広大な領国
乱の前、山名氏一族は複数国にまたがる広い領国と守護職を持っていた。
これらの国々を一族がまとめて持つことは、山名氏の軍事力を支える基盤となっていた。
一方、将軍義満にとっては、幕府へ反抗できるほど大きな守護勢力が存在することにもなる。
氏清方を破った後、義満は旧領をそのまま一人の後継者へまとめて返さず、複数の功臣へ分けたと整理されている。
山名旧領を再配分する
幕府は、山名氏清・満幸方が持っていた守護職と領国を、幕府方の武士へ再配分した。
写本と明治期活字本は、領国配分の記事で大筋が一致する。
ただし、写本では国名・名字・官職・実名が連続しており、どの国が誰へ与えられたかを一部確定できていない。
活字本は人物と国名を漢字で区別しやすいが、活字本の区切りを無条件に写本本文へ採用することはしない。
この公開用本文では、山名旧領が複数の幕府方功臣へ分けられたという大筋を示す。
恩賞として領国が与えられる
合戦で功績を挙げた武士へ守護職・所領を与えることは、幕府が軍勢をまとめる重要な方法だった。
幕府方として危険な京都合戦を戦った武士にとって、山名旧領の配分は大きな恩賞となった。
同時に、旧領を複数人へ分ければ、山名氏のような巨大勢力が直ちに再び成立することを防げる。
したがって、旧領再配分は戦功への褒賞と、有力守護の力を分散させる政治的処置の両方の意味を持ったと整理できる。
ただし、これは事件を理解するための公開用解説であり、写本の確定した評言ではない。
義満が守護職を与え直す
守護職は有力武士の家で継承される場合が多かったが、形式上は幕府が任命・承認する役職だった。
山名方を追討し、旧領を別の武士へ与えたことで、義満は守護職の最終的な承認権が将軍にあることを示した。
前の土岐康行の乱でも、義満は康行が持っていた美濃・尾張・伊勢の守護職を再配分していた。
明徳の乱では、さらに大きな山名氏の勢力を破り、同じように領国を分割した。
この二つの事件は、義満が有力守護を幕府の統制下へ置いていく過程として続けて読むことができる。
山名氏全体が消滅したわけではない
明徳の乱で敗れたのは、氏清・満幸らを中心とする山名方である。
山名氏という一族すべてが、この時に消滅したわけではない。
幕府へ従った山名氏人物、戦後に所領を認められた者、後に再び守護として活動する一族もいたと考えられる。
そのため、「山名氏の滅亡」ではなく、「氏清・満幸方の敗北と山名領国の大幅な縮小・再編」と説明する。
上郷通清と読まれる人物
戦後の記事には、上郷通清と暫定的に読まれる人物名が現れる。
ただし、「上郷」が名字・地名・役職に関係する語のどれに当たるかは確定していない。
また、「通清」の文字、山名氏との系譜関係、旧領配分または降参記事のどちらに関係する人物かも再確認が必要である。
そのため、確定した人物伝を補わず、戦後処理に関係する暫定人名として保存する。
塩冶満清と読まれる人物
塩冶満清と読まれる人物も、山名方の戦後処理に関係して現れる。
しかし、満清が降参したのか、領国を与えられたのか、別の人物の処分に関係したのかは、現在の作業台帳要旨だけでは確定できない。
名字と実名の文字も、明治期活字本による補読への依存がある。
したがって、「塩冶満清と読まれる人物の記事」として扱い、具体的行動は確定しない。
山名方の残党が降参する
京都合戦の後、山名方の残党の中には幕府へ降参する者が現れた。
大将が討死し、領国が幕府方へ再配分されれば、抵抗を続けても援軍・兵粮・所領を維持することは難しい。
そのため、一族・家臣・城主の中には、所領や命を守るために幕府へ従った者がいたとみられる。
しかし、降参した人物名、降参場所、許された条件は、今回の写本要旨ではすべてを確定できない。
本ページでは、山名方残党の降参が進んだという大筋を示す。
足利氏満が援軍を送ろうとする
関東の足利氏満も、京都の合戦または山名方に関係して軍勢を動かそうとしたとみられる。
作業台帳では、氏満の援軍と出兵中止の記事として整理している。
しかし、氏満が誰を助けるために軍勢を出そうとしたのか、京都へ向かう途中だったのか、出兵前の準備段階だったのかは完全には確定していない。
前の上杉憲春記事では、氏満が軍勢を率いて上洛しようとし、憲春の自害によって取りやめたと記されていた。
今回の出兵記事が、その後の新たな計画なのか、同じ構想の余波なのかも再確認が必要である。
氏満が出兵を中止する
幕府方が山名軍に勝利したという知らせを受け、氏満は出兵を中止したと整理されている。
京都で戦いがすでに終わっていれば、関東から大軍を送る必要はなくなる。
また、氏満の軍勢が京都へ向かえば、幕府側から別の政治的意図を疑われる可能性もあった。
ただし、写本が出兵中止の理由をどのような言葉で説明するかは、逐字本文を再確認する必要がある。
氏満の具体的な出兵予定日は、数字が不明瞭なため確定しない。
氏満出兵の日付
氏満が軍勢を動かそうとした日には、判読上の問題がある。
月日を示す数字が崩れており、明治期活字本の数字と完全に対応するかを確認できていない。
一日の差または月の違いがあれば、京都から勝利の知らせが関東へ届くまでの時間関係も変わる。
そのため、現代語訳では具体日を出さず、「氏満は援軍を送ろうとしたが、幕府方勝利を知って中止した」とする。
紀伊に残る山名義理
京都で氏清方が敗れた後も、紀伊には山名義理と記される人物が残っていた。
作業台帳では、紀州山名義理への追討記事として整理している。
ただし、義理が氏清・満幸方とどのような関係にあり、京都合戦へ参加していたのか、紀伊で独自に抵抗していたのかは確定していない。
本ページでは、紀伊に山名方とみられる勢力が残り、幕府が追討したという範囲を本文とする。
紀伊へ追討軍が向かう
幕府は、紀伊に残る山名義理方へ追討軍を送った。
京都合戦に勝利しても、地方の城や領国で抵抗が続けば、山名方が再び兵を集める可能性がある。
そのため、幕府は京都周辺だけでなく、紀伊・但馬などの山名関係勢力も順に処理したと整理されている。
しかし、追討軍の大将・軍勢数・進軍経路・戦闘日を、今回の作業台帳要旨からすべて確認することはできない。
雨山・藤代城
紀伊方面の記事には、雨山・藤代城と読まれる城名が現れる。
ただし、「雨山」と「藤代城」が二つの城を指すのか、「雨山藤代城」という一続きの城名なのかを確定できていない。
第2冊巻末にも藤代城と読まれる城が現れていたが、同じ城・地域を指すかどうかは継続して検討する必要がある。
また、山名義理がこの城へ籠もったのか、別の南朝方・山名方勢力が守っていたのかも不明である。
そのため、城名・城主・勝敗を一方へ確定せず、紀伊追討に関係する暫定城名として保存する。
紀伊・但馬の残党処理
作業台帳では、巨大守護山名氏の敗北後、義満が紀伊・但馬などに残った勢力を順に処分した過程として整理している。
ただし、紀伊と但馬のすべての山名氏人物が反乱側だったわけではない。
幕府へ降参した一族や、乱へ加わらなかった者がいた可能性もある。
そのため、地域全体を「反乱地域」とせず、氏清・満幸方に関係する残党・城・武士が処分されたと説明する。
山名満幸の遁世
山名満幸については、「遁世」と読まれる表現が記される。
遁世は、世俗の生活や政治から離れ、出家・隠遁することを意味する場合がある。
しかし、この箇所では、満幸が正式に剃髪して出家したのか、追討を逃れて身を隠しただけなのか、後世の処分記事をまとめているのかを確定できない。
また、後の第3冊巻末付近には満幸の処刑とみられる記事もあるため、ここでの「遁世」を最終的な生涯の終わりとは説明しない。
本ページでは、「満幸は敗走後、遁世したと記されるが、その具体的意味は未確定」とする。
幕府の勝利がもたらしたもの
明徳の乱で義満は、有力守護山名氏の一部を軍事的に破った。
その後、旧領を功臣へ配り、残党へ降参・追討を迫ることで、戦後の政治秩序を幕府主導で作り直した。
これにより、守護職・領国・恩賞を決める将軍義満の権限は強まったと整理できる。
一方、巨大守護が敗れたからといって、地方の一族・城・所領問題がすべて解消したわけではなかった。
写本が京都合戦後の降参・領国配分・紀伊追討を続けて記すのは、戦場で勝つだけでは内乱が終わらなかったためである。
土岐康行の乱との共通点
巻三第2節では、土岐康行が美濃・尾張・伊勢三国の守護となった後、幕府に追討され、領国を再配分された。
明徳の乱でも、有力守護山名氏の一部が幕府へ反抗し、敗北後に旧領を再配分された。
どちらも、一族内部の対立、幕府への告発・反抗、追討、守護国の再配分という流れを持つ。
ただし、二つの事件が義満によって同じ計画どおりに作られたと断定することはできない。
本サイトでは、義満が結果として有力守護への統制を強めた二つの事件として比較する。
南北朝合一の直前
明徳の乱が終わった元中九年/明徳三年、南朝と北朝・幕府の和平交渉が本格化する。
南朝は各地の軍事拠点を失い、長い戦争を続けることが難しくなっていた。
幕府側も、有力守護との内乱を終えた後、国内の大きな対立を整理する必要があったと考えられる。
ただし、明徳の乱の勝利が直ちに南北朝合一を成立させたと、写本が明言しているわけではない。
次の第6節では、大内義弘の仲介、十月十五日の合意、南朝天皇の上洛、三種神器の渡御、両統迭立などの和平条件が記される。
流れが分かる現代語訳
京都では、山名氏清・満幸方と、足利義満を中心とする幕府方の戦いが続いていた。
山名満幸は幕府軍に敗れ、京都から逃れた。
山名氏清は戦場に残って戦ったが、最後には討死した。
氏清を討った人物は高島氏と読まれるが、実名・所属・詳しい戦闘経過は確定していない。
戦いの後、氏清を含む八十余の首が幕府側で確認された。
ただし、討死者の名前と、氏清の首に関する「母衣」という表現には、まだ読めていない部分がある。
氏清が討たれ、満幸が敗走したため、山名方の軍勢は崩れた。
幕府へ降参する者も現れた。
足利義満は、山名氏が持っていた広い領国を、幕府方として戦った武士たちへ分けて与えた。
これは、戦功への褒美であると同時に、一人の有力守護が再び大きな力を持つことを防ぐ処置でもあった。
ただし、山名氏一族がすべて滅亡したわけではない。
幕府へ従った者、降参した者、逃げた者、紀伊などで抵抗を続けた者がいた。
関東の足利氏満も軍勢を出そうとしたが、京都で幕府方が勝ったと知り、出兵を中止したとみられる。
紀伊では、山名義理と記される人物や、雨山・藤代城と読まれる城に対する追討が続いた。
山名満幸は遁世したと記されるが、正式に出家したのか、追討を逃れて身を隠したのかは確定していない。
明徳の乱の勝利によって、足利義満は有力守護を統制する力をさらに強めた。
次の節では、大内義弘の仲介による南北朝和平、南朝天皇の上洛、三種神器の渡御へ進む。
人物・用語・史料注記
山名氏清
明徳の乱で山名方の中心となった有力守護です。京都の戦場で討死し、その首が幕府方で実検されたと記されます。最期の場所・戦闘経過・討ち手の実名は未確定です。
山名満幸
出雲守護職停止を受けて氏清らとともに挙兵した人物です。京都合戦で敗走し、その後「遁世」と記されますが、出家・逃亡・隠遁の具体的意味は確定していません。
高島氏
山名氏清の討死に関係したとみられる幕府方人物の暫定名字です。実名・官職・所属軍・首を取った人物との同一性は未確定です。
首実検
合戦で討ち取った敵の首を確認し、人物の身分・名前と、討ち取った武士の戦功を確かめることです。この節では八十余の首が実検されたと記されます。
母衣
武士が背中に付ける装具として知られます。ただし、この写本では氏清の首との係り方が不明であり、「母衣を纏う首」という形で確定的に解釈しません。
山名旧領の再配分
氏清・満幸方の敗北後、山名方が持っていた守護職・領国を幕府方の功臣へ分けて与えた処分です。国と受領者の正確な対応は再校訂が必要です。
上郷通清
山名方の戦後処理記事に現れる暫定人名です。「上郷」の字と人物関係、旧領配分・降参記事のどちらに属するかは確定していません。
塩冶満清
戦後処理の記事に現れるとみられる人物です。降参・恩賞・領国処分のどの記事に関係するかは未確定です。
山名義理
紀伊に残った山名方人物として追討記事に現れます。氏清・満幸との関係、籠城地、戦闘結果は再確認が必要です。
雨山・藤代城
紀伊追討の記事に現れる暫定城名です。二城か一つの複合城名か、城主・攻守・勝敗は確定していません。
遁世
世俗を離れて出家・隠遁することを表す場合があります。この節の山名満幸記事では、正式な出家、逃亡、身を隠したことのどれに当たるか未確定です。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第3冊 part-6、全3ページ
- 対象年代:元中八年/明徳二年末~元中九年/明徳三年(1391~1392年)
- 内容区分:編年本文・明徳の乱②・戦後処理
- 明治期活字本:PDF第18左~19右画像・印刷35~36ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 判読保留:6項目
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前part末尾の二条大宮・内野口等における京都合戦より続く。
山名満幸、幕府方に敗れて敗走する。
山名氏清、戦場に残り、幕府方と戦う。
氏清、討死する。
高島氏と読まれる人物、氏清の討死に関係するとみられる。ただし実名・所属・討ち手と首取得者の同一性未確定。
山名方・幕府方の討死者名を列挙する。ただし名字・官職・実名の区切り未確定。
氏清の首、幕府方へ届けられるとみられる。
氏清の首と母衣に関係する難読表現あり。
氏清以下、八十余の首を実検するとみられる。
山名方の軍勢、敗れて崩れる。
元中九年/明徳三年。
山名氏旧領・守護職を、幕府方の功臣へ再配分する。
上郷通清・塩冶満清と読まれる人物の記事あり。ただし人名・行動未確定。
山名方残党、幕府へ降参する。
足利氏満、軍勢を出そうとするも、幕府方勝利を知り出兵を中止するとみられる。
氏満出兵の日付、未確定。
紀州の山名義理を追討する。
雨山・藤代城と読まれる城の記事あり。二城・複合城名の別、城主・勝敗未確定。
山名満幸、遁世すると記される。ただし出家・逃亡・隠遁の具体的意味未確定。
〔大内義弘の仲介による南北朝和平交渉へ続く〕
校訂本文――公開用仮本文
元中八年/明徳二年末。
山名満幸、幕府方に敗れて走る。
山名氏清、戦場に留まりて戦う。
氏清、討死す。
高島氏と読まるる人物、氏清を討つに関係すとみらる。ただし人物名・戦闘経過、なお未確定。
氏清以下、山名方の討死者多し。
討死者の首、幕府方へ届けらる。
八十余の首、実検さるとみらる。
氏清の首と母衣に関する表現あり。ただし句意未確定。
山名方、敗れて軍勢崩る。
元中九年/明徳三年。
山名氏旧領・守護職、幕府方の功臣へ分配さる。
上郷通清・塩冶満清と読まるる人物の記事あり。ただし人物関係・処遇未確定。
山名方の残党、相次いで降参す。
足利氏満、軍勢を出さんとするも、京都における幕府方勝利を聞き、これを止むとみらる。
出兵の日、なお未確定。
紀州の山名義理、追討さる。
雨山・藤代城と読まるる城の記事あり。ただし城名・攻守・勝敗、未確定。
山名満幸、遁世すと記さる。ただし語意・時期、なお未確定。
〔南北朝和平、神器渡御へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第18左~19右画像・印刷35~36ページ付近には、山名満幸の敗走、山名氏清の討死、首実検、山名旧領の再配分、残党降参、足利氏満の出兵中止、紀州山名義理追討に対応する記事が収録されています。
事件の順序と領国再配分の大筋は、手書き写本と活字本でほぼ一致します。
活字本は討死者・首を取った人物・領国受領者を漢字で示すため、人名補読に有効です。
一方、写本では人名・官職・動詞が仮名交じりで連続し、氏清を討った人物と首を取った人物の関係を確定しにくい部分があります。
氏清の首と母衣に関する箇所は、活字本を用いても句意を完全には確定できません。
山名旧領の国名と配分先は大筋で一致しますが、公開用の確定一覧とするには、写本・活字本の逐字再校勘が必要です。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 氏清の討ち手 | 高島氏と読めるが、実名・動作の係り方が不明瞭 | 人物名を漢字で補読できる可能性 | 高島氏を暫定表記とし、実名・戦功を確定しない |
| 討死者一覧 | 名字・官職・実名が連続し、人物の区切りが難しい | 漢字で人物を区別しやすい | 活字本を補助にするが、確定一覧は掲載しない |
| 氏清の首 | 母衣に関係する表現があるが句意不明 | 首の扱いを補読できる可能性 | 具体的な外見・運搬方法を断定しない |
| 首実検 | 八十余の首と読める | 同趣旨の記事を載せる | 八十余を仮本文へ採用し、助数・範囲に再確認余地を残す |
| 山名旧領再配分 | 国名・受領者名の区切りが一部不明瞭 | 国名・人物を漢文調で列挙 | 配分の大筋を採用し、個別一覧は再校訂後とする |
| 満幸遁世 | 遁世と読めるが、出家・逃亡・隠遁の別が不明 | 人物の後続処分を補える可能性 | 一つの意味へ統一せず、暫定語として保存する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 氏清の討ち手 | 高島氏 | 実名・官職・所属軍、傷を負わせた人物と首を取った人物の同一性が不明 | 低 |
| 京都合戦討死者 | 複数人名の列挙 | 名字・通称・官職・実名と、討ち手・討たれた者の対応を確定できない | 低 |
| 氏清の首 | 母衣を纏う首に関係する表現 | 母衣が氏清本人・首・包み・別の武士のどれへかかるか不明 | 低 |
| 足利氏満の出兵 | 幕府方勝利を知り中止 | 出兵日と、誰への援軍だったかを完全には確定できない | 低~中 |
| 紀伊の城 | 雨山・藤代城 | 二城か複合城名か、城主・攻守・勝敗が不明 | 低 |
| 山名満幸 | 遁世 | 正式な出家、逃亡、隠遁、後世記事の先取りのどれか不明 | 低~中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第3冊part-6の全3ページを、京都合戦決着・戦後処理・地方残党追討を含む一つの範囲として確認した。
- 前part末尾の二条大宮・内野口合戦と、part-6冒頭の討死・首級記事を通読した。
- 接続後も人名と動作の係り方が完全には確定しないため、討死者と討ち手の詳細を推測で補わなかった。
- 山名満幸の敗走と山名氏清の討死を、明徳の乱の軍事的決着として整理した。
- 氏清を討った人物は高島氏と暫定的に保持し、実名・官職・戦功を確定しなかった。
- 討死者一覧は、活字本で補読できる可能性を残しつつ、確定人名一覧として掲載しなかった。
- 氏清の首と母衣に関する文章は、意味を推測して具体的な外見へ復元しなかった。
- 八十余の首実検を確認したが、全員の身分・名字・首数の範囲を断定しなかった。
- 山名方の敗北後、旧領が幕府方功臣へ再配分されたという大筋を採用した。
- 個別の国と受領者の対応は、活字本だけで確定しなかった。
- 山名氏一族全体の滅亡とはせず、氏清・満幸方の敗北と領国縮小・再編として説明した。
- 上郷通清・塩冶満清は暫定人名として保持し、降参・恩賞・領国処分との関係を断定しなかった。
- 山名方残党の降参を確認したが、降参者・条件・場所を補わなかった。
- 足利氏満の援軍記事は、出兵日と援助対象が未確定であることを明記した。
- 幕府方勝利の知らせを受けて氏満が出兵を中止したという作業台帳の要旨を採用した。
- 紀州山名義理への追討を確認したが、氏清・満幸との具体的な関係を推測しなかった。
- 雨山・藤代城は、二城・複合城名、城主、攻守、勝敗を確定しなかった。
- 山名満幸の遁世を、正式な出家・逃亡・隠遁の一つへ統一しなかった。
- 次partとの接続を確認し、明徳の乱の戦後処理から大内義弘仲介の南北朝和平交渉へ移る構成を保存した。
6.南北朝合一――神器渡御と両統迭立の約束
対象年代:元中九年/明徳三年~明徳四年(1392~1393年)
対応史料:手書き写本第3冊 part-7、全3ページ/明治期活字本PDF第19画像・印刷36~37ページ
公開状態:第一次判読・第一次校訂
細川頼之の享年・法名、和平使者「刑部少輔顕連」、和平交渉に関係する「冷泉相国入道殿」、合一条件の逐字全文、北畠顕泰の所領、崇光院の法名には未確定箇所があります。
写本が記す両統迭立・本領安堵・官位待遇は、和平時に示された条件として掲載します。この節では、それらが後世まで完全に実行されたかどうかまでは扱いません。
この節の概要
明徳の乱が終わった元中九年/明徳三年、南朝と北朝・室町幕府の間で、長く続いた対立を終わらせるための和平交渉が進みました。
写本は、各地の南朝方が敗れ、軍事的な力が弱まったことを、和平成立の背景として詳しく説明しています。
交渉には、刑部少輔顕連と暫定的に読む使者が派遣され、大内義弘が仲介しました。ただし、顕連の実名字形と、「冷泉相国入道殿」と読まれる人物・官職はまだ確定していません。
十月十五日、南朝と北朝・幕府方は「合体」、すなわち合一することで合意したと記されます。
閏十月二日、南朝天皇と皇太子は京都へ入り、大覚寺へ移りました。その後、南朝が保持していた三種神器が内裏へ渡されました。
和平条件として、二つの皇統が交替して皇位を継ぐこと、南朝方の公家・武士の本領を安堵すること、官位・待遇を北朝方と同等に整えることなどが記されています。
北畠顕泰については、伊勢の数郡、宇陀・名張・英虞と読まれる地域の所領を認める記事があります。ただし、郡名と所領範囲の逐字確定には至っていません。
合一後、写本は「後小松院御治世十一年・天下統一」とみられる標題を置きます。南朝年号と北朝年号を併記してきた編年本文が、ここで「天下統一」という新しい段階へ移ることを示しています。
その後、後円融院の崩御と、崇光院に関係する法名の小字が記されます。ただし、崇光院の法名は写本・活字本とも不明瞭です。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、写本の記事順に沿って説明文へ展開したものです。合一条件の細かな文言や人物名が確定していない部分は、一般的な歴史知識から補わず、判読保留として残しています。
明徳の乱後の戦後処理から続く
前節では、山名氏清が討死し、山名満幸が敗走した後、山名氏の旧領が幕府方の功臣へ分けられた。
紀伊などに残った山名方への追討も続き、山名満幸は「遁世」と記されていた。
このpartでは、その戦後処理に続いて、細川頼之の死去と南北朝和平の記事へ移る。
ただし、山名氏残党処理のどの記事を最後として、細川頼之の記事へ移るのかは、年号と小字の配置を含めて再確認する必要がある。
細川頼之が亡くなる
細川頼之が亡くなった。
頼之は、第2冊で南北朝和平案を示した人物として登場し、その後、幕府政治の中心から退いたことと漢詩が記されていた。
今回の写本には、頼之の享年を六十四歳、法名を常久とする可能性のある小字がある。
しかし、数字と法名の文字が不明瞭である。
そのため、「享年六十四・法名常久と暫定的に読める」とし、確定した人物情報としては扱わない。
かつての和平案と今回の合一
第2冊では、細川頼之が南北朝を終わらせるための条件を示したが、その時の交渉は成立しなかった。
その後も、信濃・伊勢・河内・紀伊・九州などで戦いが続いた。
今回の元中九年/明徳三年の記事では、以前の和平案と共通する条件を含みながら、実際の合一へ進んだことが記される。
ただし、以前の頼之案がそのまま今回の条件として採用されたのか、別の交渉を経て新しい条件が作られたのかは、現在の作業台帳要旨だけでは確定できない。
南朝方の軍事力が衰える
写本は、南朝方が和平を受け入れるに至った背景を、比較的詳しい和文で説明している。
九州では菊池氏が降参し、関東や各地の城も落ちていた。
河内・紀伊・大和・伊勢などには南朝方の武士団が残っていたが、全国的な大軍をまとめて幕府方と戦い続けることは難しくなっていた。
作業台帳では、この状態を「南軍衰微無力」とする写本の論理として整理している。
ただし、この表現は南朝方のすべての城・武士が直ちに消滅したという意味ではなく、大規模な軍事的反撃が困難になった状況を示すものとして扱う。
長い戦争を続けることが難しくなる
南朝は皇族・公家・武将を各地へ派遣し、長く抵抗を続けてきた。
しかし、年月がたつにつれて、多くの人物が戦死・病死・降参し、地方拠点も失われていった。
写本は、この軍事的衰退を、和平を受け入れる理由として位置づけている。
一方、南朝側に皇統・所領・官位を守る条件が示されなければ、単なる無条件降伏として受け入れることは困難だったと、記事の構成から理解できる。
最後の説明は、写本の条件列挙を理解するための整理であり、確定した逐語訳ではない。
顕連と読まれる使者が派遣される
和平交渉のため、顕連と読まれる人物が使者として派遣された。
作業台帳では、「刑部少輔顕連」と暫定的に整理している。
刑部少輔は官職名とみられるが、実名「顕連」の字形は再確認が必要である。
また、この人物が南朝側から幕府へ派遣されたのか、幕府側から南朝へ派遣されたのか、往復交渉のどの段階を担当したのかも、逐字本文の確認を要する。
そのため、「刑部少輔顕連と読まれる和平使者が派遣された」と限定して記す。
冷泉相国入道殿と読まれる人物
和平交渉の記事には、「冷泉相国入道殿」と読める可能性のある語句が現れる。
しかし、「冷泉」が家名・地名・邸宅名のどれに当たるのか、「相国」が官職を表すのか、後続する「入道殿」と一人の人物を示すのかを確定できていない。
人物名・院号・官職の区切りを誤ると、交渉に参加した人物関係が変わる。
このため、現代語訳の主本文には具体的な役割を入れず、和平交渉に関係する判読保留の人物・官職として保存する。
大内義弘が仲介する
南北朝和平の仲介には、大内義弘が関係した。
写本は、義弘が南朝側と幕府側の間に立ち、合一へ向けた交渉を進めた人物として記していると整理されている。
ただし、義弘が何度使者を往復させたのか、どの人物と直接面会したのか、交渉文書の全文は現在の台帳には保存されていない。
そのため、大内義弘が仲介したという確定できる大筋を示し、具体的な交渉手順は補わない。
和平条件が話し合われる
交渉では、南朝天皇が京都へ入った後の皇位継承、神器、本領、官位、南朝方武士の処遇などが話し合われたとみられる。
写本は、これらの条件を仮名交じりの和文で比較的詳しく説明している。
明治期活字本も同じ趣旨を記すが、漢文調に圧縮されている。
両者の内容は非常によく一致するものの、条件全文の逐字・対象人物・例外規定はまだ確定していない。
十月十五日に「合体」が決まる
十月十五日、南朝と北朝・幕府方は「合体」することで合意したと記される。
ここでいう「合体」は、二つに分かれていた朝廷を一つにすることを表すと整理できる。
手書き写本と明治期活字本は、ともに十月十五日を合一の合意日として記す。
日付が一致しているため、公開用仮本文では十月十五日を採用する。
ただし、この日にすべての儀礼と神器移動が完了したのではなく、南朝天皇の上洛と神器渡御は後の閏十月二日に記される。
合意と実際の上洛は別の日だった
十月十五日は、和平条件がまとまり、合一することが決まった日として記される。
その後、南朝天皇と皇太子が実際に京都へ入るための準備が進められた。
移動には、天皇・皇太子だけでなく、神器、供奉者、警護、宿所などの準備が必要だったと考えられる。
ただし、供奉者・警護・移動経路について、写本がどこまで詳しく記しているかは現在の要旨では確定していない。
本ページでは、十月十五日の合意と、閏十月二日の上洛を区別して説明する。
閏十月二日に南朝天皇が上洛する
閏十月二日、南朝天皇と皇太子は京都へ入った。
写本・活字本とも、この日付を同じく記す。
南朝天皇が長く拠点としてきた地域を離れ、京都へ入ることによって、南北朝合一は実際の形を取ることになった。
ただし、出発地、京都までの経路、途中の宿所、同行した公家・武士の一覧は、現在の作業台帳要旨からは確定できない。
南朝天皇と皇太子が大覚寺へ入る
京都へ入った南朝天皇と皇太子は、大覚寺へ入ったと記される。
写本の校訂要旨は、「南帝・太子が大覚寺へ入る」と整理している。
ただし、皇太子の具体的な名前、到着時刻、宿所となった建物、迎えた人物は確定していない。
そのため、「南朝天皇と皇太子が大覚寺へ入った」という範囲を本文とする。
三種神器が内裏へ渡される
南朝が保持していた三種神器は、内裏へ渡された。
写本は、この神器渡御を南北朝合一の中心的な出来事として記している。
神器が渡されたことによって、京都の朝廷が一つにまとめられたことを示す形となった。
ただし、神器を誰が運び、誰が受け取り、どのような儀礼が行われたのかは、現在の作業台帳要旨だけでは確定できない。
したがって、神器の個別の移動手順・担当者を補わず、「三種神器が内裏へ渡った」とする。
第一の条件――両統迭立
和平条件の一つとして、二つの皇統が交替して皇位を継ぐことが記される。
作業台帳では、これを「両統迭立」または「交替即位」と整理している。
つまり、一方の皇統だけが皇位を独占するのではなく、二つの皇統が順番に天皇を出すという趣旨である。
ただし、何代ごとに交替するのか、次の皇位をどちらの皇統が継ぐのか、候補となる皇族を誰とするのかは、条件全文を再校勘する必要がある。
そのため、公開用仮本文では「両皇統が交替して皇位を継ぐ条件」とし、細則は確定しない。
第二の条件――本領安堵
南朝方の公家・武士が、それまで持っていた本来の領地を認められることも条件として記された。
作業台帳では、これを「本領安堵」と整理している。
ただし、南朝方すべての人物に同じ条件が適用されたのか、対象となる領地に例外があったのかは確定していない。
また、戦乱中に別の武士が支配していた土地を、どのように返還・調整するかという具体的手続も、今回の3ページからは分からない。
本ページでは、南朝方の所領を認めることが和平条件に含まれていたという範囲を示す。
第三の条件――官位と待遇
南朝方の公家・武士の官位と待遇を整えることも、和平条件に含まれていた。
主要異同表では「官位平等」、判読保留表では「官位加階」と整理されている。
このため、南朝方の官位を北朝方と同等に認めること、または必要に応じて位を進めることに関係する条件と考えられるが、逐字全文は確定していない。
現段階では「南朝方の官位・待遇を整える条件」とし、「平等」と「加階」のどちらか一方へ限定しない。
合一条件は全文再校勘が必要
両統迭立・本領安堵・官位待遇は、この節で最も重要な文章である。
写本と活字本は同じ趣旨を伝えているが、写本の助詞・対象人物・条件の区切りを一字ずつ確定できていない。
そのため、この公開版では条件の大筋を示しながら、確定した条約全文のようには掲載しない。
将来、別写本・合一関係史料と照合し、対象範囲と文言を再校訂する必要がある。
北畠顕泰の所領が認められる
南朝方の有力者である北畠顕泰について、所領を認める記事が置かれている。
作業台帳では、伊勢の数郡、宇陀・名張・英虞と読まれる地域が記されると整理している。
主要異同表では、伊勢・大和・伊賀・志摩に関係する郡を列記する地域情報として保存されている。
しかし、各国名と郡名の対応、顕泰本人の所領なのか配下へ伝えるべき所領なのかは完全には確定していない。
そのため、所領名を暫定的に併記し、確定した支配範囲の地図や一覧にはしない。
伊勢の数郡
北畠顕泰の所領として、伊勢国内の複数の郡が認められたと読める。
しかし、写本の第一次判読では、すべての郡名を確定できていない。
また、「伊勢数郡」が伊勢国全体ではなく、国内の一部地域を指すことに注意する必要がある。
本ページでは「伊勢の数郡」とし、伊勢国全域を北畠顕泰へ与えたとは説明しない。
宇陀・名張・英虞
所領記事には、宇陀・名張・英虞と暫定的に読む地名も現れる。
これらがそれぞれ独立した所領名なのか、郡名・地域名・配下武士の支配地を説明するものなのかは再確認が必要である。
特に、所領を顕泰本人へ安堵したのか、顕泰を通じて配下へ認めるよう命じたのかという構文が未確定である。
そのため、地域名を史料上の暫定情報として保存し、現代の行政区域へ置き換えない。
南朝方の処遇を写本が詳しく説明する
写本は、南朝方がなぜ和平を受け入れたかだけでなく、合一後にどのように扱われることになったかも、活字本より詳しい和文で説明する。
これは、南朝方の立場を記録する『南方紀伝』にとって、皇統・所領・官位が重要な問題だったことを示す記事配置である。
ただし、条件を提示した側、受け入れた側、各条件の最終確認者については、官職名・人物名の再校訂が必要である。
本ページでは、写本の説明性を保ちながら、人物関係を推測で補わない。
「天下統一」の標題
南北朝合一の記事の後、写本には「天下統一」とみられる標題が置かれる。
主要異同表では、「後小松院治世十一年・天下統一」と整理されている。
明治期活字本にも、ほぼ同じ内容の標題がある。
この標題は、南朝年号と北朝年号を並べてきた本文が、合一後の一つの朝廷を前提とする年代記へ移る境目として重要である。
ただし、「治世十一年」の数え方と標題全体の逐字は、巻構成を含めて再確認する必要がある。
約六十年続いた分裂が終わる
後醍醐天皇が吉野へ移って以来、京都と吉野にはそれぞれ天皇を中心とする朝廷が存在してきた。
『南方紀伝』は、その長い対立が、十月十五日の合意と閏十月二日の上洛・神器渡御によって終わったと記す。
作業台帳の中学三年生向け要旨では、これを「約六十年続いた南北朝が合一した」と説明している。
ただし、合一後も、旧南朝方の皇位・所領・待遇をめぐる問題がすべて消えたと、このpartが記しているわけではない。
この節では、合意・上洛・神器渡御・条件提示までを、写本に沿って扱う。
明徳四年の記事へ
本文は、南北朝合一後の明徳四年の記事へ進む。
ここからは、南朝・北朝の二つの年号を並べる形式ではなく、合一後の朝廷と義満政権の出来事が中心となる。
ただし、写本中の年号標題・治世年数・「天下統一」の配置は、巻構成を考えるうえで再校訂が必要である。
後円融院が亡くなる
合一後の記事には、後円融院の崩御が記される。
ただし、崩御の日付・享年・法名・葬送に関する細部は、現在の作業台帳要旨には保存されていない。
そのため、後円融院の死去が記されることまでを本文とし、一般的な皇統資料から数字や儀礼を補わない。
崇光院の法名
この範囲には、崇光院に関係する法名の小字もあるとみられる。
しかし、写本・明治期活字本とも文字が不明瞭で、現在は法名を読めていない。
そのため、既知の皇統資料から法名を補うことはせず、「崇光院の法名に関する小字があるが未読」とする。
合一後の政治へ続く
南北朝合一によって、長く続いた二朝並立は終わった。
しかし、足利義満の政治、関東の反乱、旧南朝方への処遇、皇位継承などの問題は、その後も続く。
次の第7節では、飢饉・寺社造営、足利義持の元服と将軍就任、義満の出家、関東の小山若犬丸・田村氏、倭寇の送還、武家礼式の制定へ進む。
流れが分かる現代語訳
明徳の乱が終わった後、南朝と北朝・室町幕府の間で和平交渉が進んだ。
写本は、南朝方の大きな軍事力が衰え、戦争を続けることが難しくなったことを、和平を受け入れる背景として説明している。
刑部少輔顕連と読まれる使者が派遣され、大内義弘が両者の間を仲介した。
ただし、顕連の名前の文字と、交渉に関係する「冷泉相国入道殿」という人物・官職は、まだ確定していない。
十月十五日、南朝と北朝・幕府方は、二つの朝廷を一つにすることで合意した。
閏十月二日、南朝天皇と皇太子は京都へ入り、大覚寺へ移った。
南朝が保持していた三種神器は、京都の内裏へ渡された。
和平条件として、二つの皇統が交替して皇位を継ぐことが示された。
また、南朝方の公家・武士がもともと持っていた領地を認め、官位・待遇も整えることが約束されたと記される。
ただし、条件全文の一字一字と、どの人物・領地まで対象になったかは、まだ確定していない。
北畠顕泰には、伊勢の数郡、宇陀・名張・英虞と読まれる地域の所領が認められたとみられる。
しかし、それぞれの国・郡と支配範囲の対応には再確認が必要である。
合一後、写本は「後小松院御治世十一年・天下統一」とみられる標題を置く。
約六十年続いた二つの朝廷の並立が終わり、年代記も合一後の時代へ移ったのである。
その後、後円融院の死去が記される。
崇光院の法名とみられる小字もあるが、文字はまだ読めていない。
次の節では、合一後の足利義満政権、義持の将軍就任、義満の出家、関東の反乱、武家礼式へ進む。
人物・用語・史料注記
南北朝合一
南朝と北朝・室町幕府が和平し、一つの朝廷へ移る出来事です。写本は十月十五日に「合体」が決まり、閏十月二日に南朝天皇が上洛して神器を渡したと記します。
細川頼之
第2冊の和平交渉と幕府政変に登場した人物です。この節で死去が記されます。享年六十四歳・法名常久と暫定的に読めますが、小字は不明瞭です。
刑部少輔顕連
和平使者として暫定的に読んでいる人物名です。実名字形と、交渉のどの段階で誰から誰へ派遣されたのかは未確定です。
冷泉相国入道殿
和平交渉に関係するとみられる暫定語句です。人名・院号・官職の区切りを確定できていないため、特定人物へ置き換えていません。
大内義弘
南朝と北朝・幕府方の和平を仲介した人物として記されます。使者の往復回数・面会相手・交渉文書の全文は、現在の作業台帳要旨では確定していません。
三種神器
南朝が保持し、南北朝合一の際に内裏へ渡したと記される神器です。運搬者・受取人・儀礼の手順は、この写本範囲では確定していません。
両統迭立
二つの皇統が交替して皇位を継ぐという和平条件です。具体的な順序・代数・次の皇位候補は、条件全文を再校勘するまで確定しません。
本領安堵
南朝方の公家・武士が、もともと持っていた所領を認められることです。対象人物・領地・例外・返還方法の細部は未確定です。
官位平等/官位加階
南朝方の官位・待遇を整える条件です。主要異同表では官位平等、判読保留表では官位加階と整理されているため、一方へ統一していません。
北畠顕泰
南朝方の有力者です。伊勢の数郡、宇陀・名張・英虞と読まれる地域の所領安堵が記されますが、郡名・支配範囲・配下への伝達記事は未確定です。
天下統一標題
合一後に置かれる「後小松院御治世十一年・天下統一」とみられる標題です。南朝・北朝の年号併記から合一後の編年へ移る、巻構成上の重要な境目です。
後円融院
南北朝合一後の記事に崩御が記されます。日付・享年・法名・葬送の細部は、現在の作業台帳要旨からは確定できません。
崇光院の法名
写本に小字があるとみられますが、写本・活字本とも不明瞭です。既知の皇統資料から補わず、未読のまま保存します。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第3冊 part-7、全3ページ
- 対象年代:元中九年/明徳三年~明徳四年(1392~1393年)
- 内容区分:編年本文・南北朝合一
- 明治期活字本:PDF第19画像・印刷36~37ページ
- 第一次判読の確度:中
- 判読保留:6項目
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前partの明徳の乱後処理・山名残党追討記事から続く。
細川頼之、死去する。
享年六十四歳・法名常久と読める可能性あり。ただし小字未確定。
南朝方、軍事的に衰え、和平を受け入れる背景となる。
刑部少輔顕連と読まれる使者、派遣される。ただし実名字形・派遣関係未確定。
冷泉相国入道殿と読まれる人物・官職語あり。ただし区切り未確定。
大内義弘、南北朝和平を仲介する。
十月十五日、南北両朝、合体することで合意する。
閏十月二日、南帝・太子、京都へ上り、大覚寺へ入る。
南朝の三種神器、内裏へ渡る。
合一条件として、両統の交替即位、南朝方の本領安堵、官位・待遇の調整を記す。
官位条件は、官位平等または官位加階と読まれる趣旨。ただし全文未確定。
北畠顕泰の所領として、伊勢数郡・宇陀・名張・英虞と読まれる地域を記す。
郡名・国との対応・配下への伝達記事、未確定。
後小松院御治世十一年・天下統一とみられる標題あり。
明徳四年の記事へ進む。
後円融院、崩御する。
崇光院の法名とみられる小字あり。ただし未読。
校訂本文――公開用仮本文
元中九年/明徳三年。
細川頼之、死す。
享年六十四、法名常久と読まるる小字あり。ただし未確定。
南朝方、各地の軍勢衰え、長く戦いを続くること難しくなる。
刑部少輔顕連と読まるる使者、和平のため遣わさる。ただし人名・派遣関係、未確定。
冷泉相国入道殿と読まるる人物・官職語あり。区切り、なお未確定。
大内義弘、南北両朝の間に立ち、和平を仲介す。
十月十五日、南北両朝、合体することに定まる。
閏十月二日、南帝・太子、上洛して大覚寺へ入る。
三種神器、内裏へ渡る。
条件として、両皇統交替して皇位を継ぐべきこと、南朝方の本領を安堵すべきこと、官位・待遇を整うべきことを記す。
ただし条件全文・対象人物・細則、なお未確定。
北畠顕泰に、伊勢数郡・宇陀・名張・英虞と読まるる所領を安堵す。
ただし郡名・支配範囲・配下への伝達、未確定。
後小松院御治世十一年・天下統一とみらるる標題あり。
明徳四年。
後円融院、崩ず。
崇光院の法名に関する小字あり。ただし未読。
〔合一後の義満政権、義持将軍就任、義満出家へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第19画像・印刷36~37ページには、細川頼之死去、和平使者、大内義弘の仲介、十月十五日の合一、閏十月二日の南朝天皇上洛・神器渡御、合一条件、北畠顕泰の所領、天下統一標題、後円融院崩御に対応する記事があります。
写本と活字本は、事件内容と日付が非常によく一致します。
合一決定日は十月十五日、南朝天皇上洛・神器渡御は閏十月二日で一致するため、公開用仮本文へ採用します。
合一条件も、両統迭立・本領安堵・官位待遇という同じ趣旨を記します。
ただし、写本は南朝方の軍事的衰退と、南朝方へ約束された処遇を説明的な和文で詳しく記し、活字本は同じ内容を漢文調に圧縮しています。
北畠顕泰の所領についても、両本は伊勢・大和・伊賀・志摩に関係する地域を列挙する点で一致しますが、具体的な郡名と構文は再校訂が必要です。
天下統一標題は、写本・活字本ともほぼ同文です。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 和平成立理由 | 南朝方の軍事的衰微を和文で詳しく説明 | 同じ内容を漢文調に圧縮 | 写本の説明の流れを優先して保存する |
| 合一日・上洛日 | 十月十五日/閏十月二日 | 同じ | 一致本文として公開用仮本文へ採用する |
| 合一条件 | 両統迭立・本領安堵・官位待遇を詳しく説明 | 同趣旨を漢文調で記す | 大筋を採用するが、逐字全文は再校勘する |
| 官位条件 | 官位平等または官位加階に関係する説明 | 同趣旨 | 「官位・待遇を整える」とし、一方の語へ統一しない |
| 北畠顕泰の所領 | 伊勢数郡・宇陀・名張・英虞と読める | 伊勢・大和・伊賀・志摩に関係する地域を同様に列記 | 地域史資料として保存し、支配範囲を断定しない |
| 天下統一標題 | 後小松院御治世十一年・天下統一とみられる | ほぼ同文 | 合一後の標題変化として保存する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 細川頼之の小字 | 六十四歳・常久 | 享年の数字と法名の文字が不明瞭 | 中 |
| 和平使者 | 刑部少輔顕連 | 実名字形と、誰から誰へ派遣されたかを確定できない | 中 |
| 和平交渉の人物・官職 | 冷泉相国入道殿 | 人名・院号・官職の区切りが未確定 | 低 |
| 南北朝合一条件 | 両統迭立・本領安堵・官位平等/加階 | 逐字全文、対象人物、条件の範囲と細則が未確定 | 低~中 |
| 北畠顕泰所領 | 伊勢数郡・宇陀・名張・英虞 | 郡名、国との対応、配下への伝達記事を確定できない | 低~中 |
| 崇光院の小字 | 法名未読 | 写本・活字本とも小字が不明瞭 | 低 |
復刻作業記録
- 手書き写本第3冊part-7の全3ページを、細川頼之死去・和平交渉・南北朝合一・合一後記事を含む一つの範囲として確認した。
- 前partの山名残党追討・満幸遁世記事から、細川頼之死去記事への接続を確認した。
- 細川頼之の享年六十四歳・法名常久は、小字が不明瞭なため暫定読みとした。
- 南朝方の軍事的衰退を和平成立の背景として記す、写本の説明的な和文を保存した。
- 南朝方のすべての城・武士が消滅したとは説明しなかった。
- 和平使者を刑部少輔顕連と暫定的に読んだが、実名字形と派遣関係を確定しなかった。
- 冷泉相国入道殿と読まれる語句は、人名・院号・官職を特定しなかった。
- 大内義弘を和平の仲介者として整理したが、使者往復・面会相手・交渉文書を推測で補わなかった。
- 十月十五日を合一決定日、閏十月二日を南朝天皇上洛・神器渡御の日として、写本・活字本の一致本文を採用した。
- 南朝天皇・皇太子が大覚寺へ入ったという校訂要旨を採用した。
- 神器の運搬者・受取人・儀礼手順を補わなかった。
- 両統迭立・本領安堵・官位待遇を和平条件の大筋として採用した。
- 合一条件を確定した条約全文としては掲載せず、対象範囲と細則を保留した。
- 官位条件は、官位平等/官位加階の両方を残し、「官位・待遇を整える」とした。
- 北畠顕泰の所領を伊勢数郡・宇陀・名張・英虞と暫定整理した。
- 伊勢国全域を顕泰へ与えたとは説明しなかった。
- 郡名・国との対応・配下への伝達記事を確定しなかった。
- 後小松院御治世十一年・天下統一とみられる標題を、合一後の巻構成上の重要な変化として保存した。
- 後円融院崩御を確認したが、日付・享年・葬送を外部資料から補わなかった。
- 崇光院の法名は、既知の皇統資料から補わず未読として保存した。
- 次partとの接続を確認し、合一後の義満政権・義持将軍・義満出家の記事は第7節へ送った。
7.合一後の義満政権――義持将軍・義満出家と第3冊巻末
対象年代:明徳四年~応永三年(1393~1396年)
対応史料:手書き写本第3冊 part-8、全3ページ/明治期活字本PDF第19左~20右画像・印刷37~38ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
明徳四年の寺社記事の日付、上杉憲方の死去記事、山名満幸処刑、田村氏敗亡後の記事、大友氏と義弘右馬頭の人物関係、武家礼式、巻末朱印下の後筆には未確定箇所があります。
手書き写本第3冊は応永三年で終わりますが、明治期活字本は応永四年以後も続きます。本ページでは、写本の物理的な冊境を優先して保存します。
この節の概要
南北朝が合一した後、京都では足利義満を中心とする政治が続きました。
しかし、合一によってすべての問題が解決したわけではありません。明徳四年には大旱と飢饉が記され、寺院の造営・火災、関東・奥州の反乱、旧南朝方や山名方への処分などが続きました。
義満は相国寺・南禅寺などの寺院に関係する事業を進め、伊勢へ参宮しました。また、北畠氏の人物へ偏諱を与えたとみられる記事もあります。
偏諱とは、上位者が自分の名の一字を別の人物へ与えることです。ただし、今回の写本では、北畠氏の誰が、どの一字を受けたのかを完全には確定していません。
応永元年には、足利義持が元服し、九歳で将軍となったと整理されています。将軍職は次の世代へ移りましたが、義満はその後も政治の中心にあり続けました。
応永二年には、小山若犬丸や田村氏に関係する関東・奥州の記事が記されます。白川への到着日は写本と活字本で一日異なります。
同じ年、明徳の乱後に逃れていた山名満幸が捕らえられ、五条坊門高倉と読まれる場所で処刑されたとみられます。ただし、処刑の動詞・場所の逐字は確定していません。
足利義満は出家しました。しかし、政治から完全に退いたわけではなく、外交、将軍家の運営、武家礼式の整備などに関わり続けたと整理されています。
対外関係の記事として、倭寇とされた人々の送還が記されます。ただし、誰が誰をどこへ送還したのかという細部は、現在の作業台帳要旨では確定していません。
応永三年には、小笠原・今川・伊勢と記される武家が礼式の制定・整備へ関係したとみられます。弓馬・儀礼・武家故実などに関係する可能性がありますが、人物の実名と礼式の具体的内容は判読保留です。
この応永三年の記事で、手書き写本第3冊の編年本文は終わります。巻末には朱印と、その下に重なる後筆があります。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、写本の記事順に沿って説明文へ展開したものです。写本の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。日付・人名・主語・処分内容が未確定の箇所は、一般的な歴史知識によって補っていません。
南北朝合一後の時代へ
前節では、南朝と北朝・室町幕府との和平が成立した。
十月十五日に二つの朝廷を一つにすることが決まり、閏十月二日には南朝天皇と皇太子が京都へ入り、三種神器が内裏へ渡された。
写本は、その後に「天下統一」とみられる標題を置き、南朝年号と北朝年号を並べる編年から、合一後の時代へ移った。
しかし、南北朝合一は、国内の戦争・反乱・飢饉・寺社問題がすべて終わったことを意味しなかった。
この節では、合一後の義満政権が、将軍職の継承、関東・奥州への対応、対外関係、武家の制度・礼式の整備へ進む様子が記される。
明徳四年の大旱と飢饉
明徳四年、天下に大旱と飢饉があったと記される。
大旱とは、雨が少なく、長い間土地が乾燥することである。
田畑の作物が十分に育たなければ、食料が不足し、米や穀物の価格も上がる可能性がある。
ただし、この写本は、旱魃の範囲、飢饉による死者数、米価、救済の方法などを、現在の第一次判読で確定できる形では記していない。
そのため、本ページでは、合一直後の明徳四年に大旱・飢饉が記録されたことを示すにとどめる。
合一しても社会の混乱は終わらない
南北朝の合一は、二つの朝廷を一つにする政治上の合意だった。
そのため、天候不順、食料不足、地方武士の反乱、寺社の火災などは、合一後も続いた。
写本が合一記事の直後に大旱・飢饉を置くことで、政治的な統一と人々の生活上の安定が同じものではなかったことが分かる。
ただし、これは記事配置を理解するための説明であり、写本がこのような言葉で合一を批評しているわけではない。
相国寺に関する記事
京都では、相国寺に関係する記事が置かれている。
第3冊の初めにも、義満の准三后と相国寺建立の記事が記されていた。
この節では、相国寺の大塔に関係する記事があると整理されている。
しかし、塔の建立開始・完成・供養・工事などのどの記事に当たるかは、現在の作業台帳要旨だけでは完全に確定できない。
そのため、「相国寺大塔に関する記事」とし、建築工程を推測で補わない。
相国寺大塔の日付異同
相国寺大塔の記事の日付は、手書き写本と明治期活字本で一致しない。
手書き写本は七月二十六日と読める。
明治期活字本は七月二十四日と記す。
二日の違いであるが、寺院の建築・供養・落成などの年代を確定するうえでは重要な異同となる。
現在の校訂では、写本七月二十六日/活字本七月二十四日の両方を保存する。
南禅寺に関する記事
南禅寺に関係する記事も、この年代範囲に置かれている。
第2冊では日吉社の神輿と南禅寺をめぐる争論が記され、第3冊前半にも南禅寺関係の難読記事があった。
しかし、今回の南禅寺記事が、造営・寺院人事・寺格・修理・法会などのどれに当たるかは、現在の要旨では確定していない。
また、相国寺大塔の記事と同じ日付群に置かれるため、写本・活字本間の日付差を含めた再校勘が必要である。
本ページでは、南禅寺関係の記事があることを記録し、具体的な事業内容を補わない。
寺社造営と義満政権
相国寺や南禅寺に関する事業を進めるには、多くの材木・費用・工人・僧侶・所領が必要になる。
そのため、大寺院に関する記事は、宗教上の出来事であるだけでなく、義満政権が人員と物資を動かす力を持っていたことにも関係する。
ただし、写本が寺社事業を義満の権力の象徴として直接評価しているわけではない。
これは、寺社記事を政治史と合わせて理解するための公開用解説である。
北畠氏への偏諱
合一後、北畠氏の人物に対して偏諱が与えられたとみられる記事がある。
偏諱とは、身分の高い人物が、自分の名に使われている一字を、家臣や関係者の名へ与えることである。
偏諱を受けることは、名前の変更だけではなく、与えた人物との政治的な関係を示す場合があった。
しかし、今回の台帳要旨では、北畠氏の誰が、義満または幕府方の誰から、どの字を与えられたのかを確定できていない。
そのため、「北畠氏の人物への偏諱記事」とし、具体的な実名を補わない。
旧南朝方を新しい政治秩序へ組み込む
北畠氏は、南朝を長く支えてきた有力な一族だった。
南北朝合一後、旧南朝方の人物をどのように扱うかは、新しい政治秩序を安定させるための重要な問題だった。
偏諱の記事は、北畠氏の人物が義満政権との新しい関係へ入ったことを示す可能性がある。
ただし、この解釈は偏諱という制度から導いた説明であり、今回の写本本文が服従・和解・恩賞のどれを強調しているかは確定していない。
足利義満が伊勢へ参宮する
足利義満は、伊勢へ参宮したと記される。
参宮は、伊勢の神宮へ参詣することである。
しかし、参宮の日付、出発地、道筋、同行者、滞在日数、参拝の儀礼は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
南北朝合一後の時期に義満が伊勢へ赴いたことは確認できるため、その大筋だけを本文とする。
北畠氏への偏諱記事と伊勢参宮記事が近くに置かれていますが、両者が直接同じ政治目的によるものかは断定しません。
上杉憲方が亡くなる
関東では、上杉憲方の死去が記される。
写本の小字には、享年六十歳、法名を道合とする可能性がある。
しかし、死亡日・年齢・法名の文字には異読が残っている。
作業台帳でも暫定情報として登録されているため、確定した人物情報としては扱わない。
本ページでは、「上杉憲方が亡くなり、享年六十・法名道合と読める可能性がある」と限定して示す。
応永元年へ
本文は、応永元年の記事へ進む。
この年には、寺院火災、足利義持の元服、将軍職の継承が記される。
南北朝合一後の新しい政治秩序の中で、義満は自分の子である義持へ将軍職を継がせることになった。
天龍寺で火災が起こる
京都では、天龍寺の火災が記される。
しかし、火災の日付は写本と活字本で一致しない可能性がある。
写本の数字は六月十日とも十一日とも読める。
明治期活字本は六月十一日と記す。
そのため、現在は写本六月十日または十一日/活字本六月十一日として保存する。
焼失した建物・出火原因・被害人数は、現在の作業台帳要旨からは確認できない。
足利義持が元服する
足利義持は元服した。
元服は、子どもが成人として扱われるための儀式である。
しかし、加冠した人物、烏帽子親、儀式の日付・場所・装束は、現在の第一次判読では確定していない。
本ページでは、義持が元服し、将軍職を継ぐ準備が整えられたという大筋を示す。
九歳の義持が将軍となる
義持は、九歳で将軍となったと作業台帳は整理している。
幼い義持が将軍となっても、直ちにすべての政治を自分一人で決められるわけではなかった。
実際には、父の義満や幕府の有力者が政治を支える必要があったと考えられる。
ただし、この最後の説明は年齢と政権構造を理解するための一般的整理であり、写本の確定した評言ではない。
写本が確認する重要点は、将軍職が義満から次の世代の義持へ移ったことである。
将軍職を譲っても義満の政治は終わらない
義持が将軍となっても、義満は政権から完全に退かなかった。
この後の写本にも、義満の伊勢参宮、出家、外交、武家礼式に関係する記事が続く。
作業台帳では、義持が正式な将軍となる一方、義満が引き続き政治を主導した構造として整理している。
ただし、個々の命令を義満・義持のどちらが出したのかは、記事ごとに確認する必要がある。
応永二年へ
本文は応永二年の記事へ進む。
この年には、関東・奥州の反乱、山名満幸の処刑、義満の出家、対外関係など、性格の異なる事件が続けて置かれる。
小山若犬丸に関係する反乱
関東では、小山若犬丸に関係する反乱記事が記される。
第2冊では小山義政が鎌倉府から追討され、最期を迎えた記事があった。
この節の小山若犬丸記事は、その後も小山氏に関係する抵抗が続いたことを示すものとして整理されている。
しかし、若犬丸がこの時点でどこにいて、誰とともに行動し、どの城・地域で戦ったかは、今回の作業台帳要旨からは確定できない。
そのため、「小山若犬丸に関係する関東反乱が記される」という範囲を本文とする。
田村氏に関係する奥州の記事
奥州では、田村氏と読まれる勢力に関係する戦いが記される。
しかし、田村氏のどの人物が反乱・抵抗の中心だったのか、討伐側は誰だったのかを完全には確定していない。
関東の小山若犬丸記事と、奥州の田村氏記事が、同じ反乱の広がりを示すのか、別々の事件なのかも、逐字本文を再確認する必要がある。
本ページでは、関東・奥州で幕府・鎌倉府に対する抵抗が続いたという大きな流れとして整理する。
白川への到着日
田村氏に関係する記事には、白川と読まれる場所への到着日が記される。
手書き写本は六月二日と読める。
明治期活字本は六月朔日、すなわち六月一日と記す。
一日の違いであるが、軍勢の移動・追討の順序を考えるうえで重要である。
誰が白川へ到着したのかも含め、現在の主本文では一方へ確定せず、写本六月二日/活字本六月一日の異同として保存する。
田村氏敗亡後の記事
田村氏の敗北とみられる記事の後に、「同十九日」以下の文章が続く。
しかし、主語・動詞・対象人物が十分に読めていない。
十九日に誰が移動・降参・処刑されたのか、別の事件へ移ったのかを確定できない。
そのため、現代語訳の主本文へ具体的な事件を補わず、「田村氏敗亡後の記事に未読部分がある」とする。
山名満幸が捕らえられる
明徳の乱で敗走し、「遁世」と記されていた山名満幸は、その後、捕らえられたとみられる。
明徳の乱の第5節では、満幸が正式に出家したのか、逃亡・隠遁しただけなのかを確定できなかった。
今回の記事によって、満幸が最終的には幕府側の処分を受けたことが分かる。
ただし、捕縛場所、捕らえた人物、京都へ送られた経路は、現在の要旨では確定していない。
山名満幸が処刑される
山名満幸は、処刑されたとみられる。
処刑場所は、五条坊門高倉と暫定的に読まれている。
しかし、「五条坊門」「高倉」の地名区切り、処刑を表す動詞、処刑方法は逐字で確定していない。
そのため、「五条坊門高倉と読まれる場所で処刑されたとみられる」と限定して記す。
処刑の具体的な方法や首の扱いを、別の軍記から補うことはしない。
明徳の乱の残党処理が終わりへ向かう
山名氏清は京都合戦で討死し、山名満幸は敗走した後に処刑された。
これにより、氏清・満幸を中心とする山名方の処分は、一つの終点を迎えたと整理できる。
ただし、山名氏一族全体が消滅したわけではなく、幕府へ従う山名氏人物はその後も存在した。
このため、「山名氏の滅亡」ではなく、「山名満幸の処刑によって明徳の乱関係者への処分が進んだ」と説明する。
足利義満が出家する
足利義満は出家した。
出家とは、髪を落とし、仏門へ入る形を取ることである。
しかし、この写本範囲では、出家の日、場所、戒師、法名、儀式の詳細を逐字で確定できていない。
そのため、義満が出家したことを本文とし、具体的な儀礼を補わない。
出家しても政治の中心に残る
義満は、義持へ将軍職を継がせ、自らも出家した。
しかし、作業台帳は、義満がその後も政治・外交・武家の礼式整備を主導したと整理している。
つまり、将軍職を持つ人物と、実際に大きな政治力を持つ人物が、必ずしも完全には一致しない状態だったと説明できる。
ただし、写本が義満をどの肩書で呼び、義持との権限分担をどこまで明記しているかは、逐字本文を再確認する必要がある。
倭寇の送還
対外関係の記事として、倭寇とされた人々の送還が記される。
しかし、どの地域で捕らえられた人々なのか、誰が送還を命じ、どの国・地域へ送ったのかは、現在の作業台帳要旨では確定していない。
船の数、人数、使者、書状、受け渡し場所も不明である。
そのため、「義満政権の対外関係の中で倭寇送還の記事が置かれている」という範囲を本文とする。
出家後も外交を主導する義満
義満の出家記事と倭寇送還記事が同じ年代範囲に置かれることから、義満が出家後も対外関係へ関わったと作業台帳は整理している。
ただし、倭寇送還の命令を義満本人が直接出したと、今回の写本本文から断定できるわけではない。
本ページでは、義満政権が出家後も外交・海上問題へ対応したという大きな流れとして説明する。
大友氏と義弘右馬頭
対外・西国関係の記事には、大友氏と、「義弘右馬頭」と読まれる人物に関する文章がある。
しかし、両者が同じ側に属するのか、以前からの恨みを持っていたのか、一方が他方を殺害・処罰したのかを確定できていない。
作業台帳では、宿意・殺害・処罰の主体が不明として登録されている。
「義弘右馬頭」が大内義弘を指すのか、別の義弘という人物なのかも、官職との接続を確認する必要がある。
このため、主本文には具体的な事件経過を入れず、「大友氏と義弘右馬頭に関する難読記事がある」とする。
応永三年へ
本文は、応永三年の記事へ進む。
この年には、武家礼式に関係する記事が置かれる。
武家の政治秩序を保つためには、戦争の命令や守護職の任命だけでなく、儀礼・服装・行列・弓馬・対面などの作法を整える必要もあった。
ただし、これは武家礼式の一般的な役割を説明したものであり、この写本がすべての内容を列挙しているとは限らない。
武家礼式が整えられる
写本には、武家の礼式を定め、整えることに関係する記事がある。
作業台帳では、義満政権が武家礼式を整備する記事として整理している。
しかし、制定された礼式が、弓馬、装束、対面、宴会、出陣、将軍家行事のどれを中心としたものかは確定していない。
そのため、「武家礼式の制定・整備」とし、具体的な条文・作法を推測で補わない。
小笠原氏
武家礼式の記事には、小笠原氏の名が現れる。
しかし、どの小笠原氏人物が礼式の制定へ関わったのか、実名は確定していない。
第4冊冒頭にも、小笠原両人を弓馬礼式奉行とする可能性のある記事が続くため、第3冊末尾と第4冊冒頭を通読して確認する必要がある。
本ページでは、小笠原氏が礼式整備に関係したという範囲にとどめる。
今川氏
武家礼式の記事には、今川氏と読まれる名字も現れる。
しかし、実名・官職・担当した礼式の種類を確定できていない。
今川氏の人物が小笠原氏と共同で作法を定めたのか、別の分野を担当したのかも不明である。
そのため、確定人物へ置き換えず、武家礼式関係者の暫定名字として保存する。
伊勢氏
伊勢氏と読まれる名字も、武家礼式の記事に置かれる。
しかし、伊勢国の地域名ではなく武家の名字を指すのか、人物実名・官職とどこで区切るのかを逐字確認する必要がある。
作業台帳は、小笠原・今川・伊勢を同じ礼式記事の関係者として整理している。
本ページでも三氏を暫定的に併記するが、それぞれの担当・実名・礼式内容は確定しない。
武力だけでなく制度と作法を整える
巻三では、土岐康行の乱と明徳の乱を通して、義満が有力守護を軍事的・政治的に統制する過程が記された。
巻末ではさらに、武家礼式を整える記事が置かれる。
この配置からは、義満政権が武力による追討だけでなく、将軍家を中心とする儀礼・制度・作法によって武家社会をまとめようとした流れとして読むことができる。
ただし、これは巻全体の構成から導いた公開用の整理であり、写本が直接その政策目的を論じているわけではない。
手書き写本第3冊は応永三年で終わる
武家礼式の記事の後、手書き写本第3冊の編年本文は応永三年で終了する。
これは現存する物理的な第3冊の明確な終点である。
しかし、『南方紀伝』全体の本文が応永三年で終わるわけではない。
第4冊は応永四年の記事から始まり、義持の昇進、幕府職制、鎌倉府、応永の乱などへ続く。
活字本は応永四年以後も続く
明治期活字本は、応永三年の記事の後も、そのまま応永四年以後の記事を続ける。
そのため、活字本だけを読むと、応永三年が手書き写本第3冊の巻末であることは分かりにくい。
一方、写本では本文が終わり、その後に朱印と後筆が置かれている。
この違いは、手書き写本の物理的な冊分けと、明治期活字本の本文巻・版面構成が一致しないことを示す重要な資料である。
本サイトでは、応永四年以後の記事を巻三へ繰り上げず、手書き写本の冊境に従って巻四へ送る。
巻末の朱印
手書き写本第3冊の巻末には、朱印が押されている。
しかし、印文・印主・旧蔵者・所蔵系統は確定していない。
朱印は編年本文そのものではないが、この写本を誰が所蔵し、どのように伝えてきたかを調べる手がかりとなる。
そのため、本文へ混ぜず、写本の伝来に関係する巻末資料として保存する。
朱印下の後筆
朱印の下には、後から書き加えられた可能性のある文字がある。
しかし、朱色の印影と墨書が重なり、文字を十分に判読できない。
本文を書いた人物自身の追記なのか、後世の所蔵者・書写者による後筆なのかも確定していない。
このため、編年本文へ組み込まず、「朱印下の後筆」として分離する。
将来は色分離画像や印譜との照合によって、印文と後筆を別々に確認する必要がある。
第3冊の終わり
手書き写本第3冊は、南北朝合一前後の大きな政治変化を記録した冊である。
巻の前半では、足利義満の准三后、相国寺建立、土岐康行の乱、上杉憲春の諫死が記された。
中盤では、明徳の乱によって山名氏清・満幸方が敗れ、山名氏の広い領国が再配分された。
後半では、大内義弘の仲介によって南北朝が合一し、三種神器が京都へ渡された。
巻末では、義持の将軍就任、義満の出家、関東・奥州への対応、対外関係、武家礼式の整備が記される。
その後に置かれた朱印・後筆は、物語の続きではなく、第3冊の書写・所蔵・伝来を考えるための資料である。
第4冊へ続く
第4冊は、応永四年の記事から始まる。
義持の官位上昇、小山若犬丸の子の処分、北山第、九州の反乱、三管領・四職などの幕府職制、鎌倉府の代替わりへ進む。
さらに、相国寺七重塔、大内義弘の堺入り、応永の乱へつながっていく。
ただし、これらは第4冊part-2以後の本文であり、第3冊の本文へ混ぜず、次の巻で扱う。
流れが分かる現代語訳
南北朝が一つになった後も、国の混乱がすぐに終わったわけではなかった。
明徳四年には、雨が少ない大旱と飢饉が起こった。
京都では、相国寺の大塔や南禅寺に関係する記事が記された。
相国寺大塔の日は、写本では7月26日、活字本では7月24日となっている。
義満は伊勢へ参宮し、北畠氏の人物へ名前の一字を与えたとみられる。
ただし、誰がどの字を受けたのかは、まだ確定していない。
応永元年には天龍寺で火災が起きた。
火災の日は、写本では6月10日または11日、活字本では6月11日となっている。
足利義持は元服し、九歳で将軍となった。
しかし、幼い義持がすべての政治を動かしたわけではなかった。
父の義満は、将軍職を譲った後も大きな政治力を持ち続けた。
応永二年には、小山若犬丸や田村氏に関係する関東・奥州の反乱が記された。
白川への到着日は、写本では6月2日、活字本では6月1日となっている。
田村氏が敗れた後の記事には、主語と動詞を読めていない部分が残る。
明徳の乱で敗走した山名満幸も、最後には捕らえられ、五条坊門高倉と読まれる場所で処刑されたとみられる。
ただし、処刑場所と動詞はまだ完全には確定していない。
足利義満は出家した。
しかし、政治から完全に退いたわけではなく、外交や幕府の制度づくりを続けた。
倭寇とされた人々を送還する記事も記されるが、誰が誰をどこへ送ったのかは未確定である。
応永三年には、小笠原・今川・伊勢と記される武家が、武家の礼式を整えることへ関係したとみられる。
礼式の具体的な内容と人物の実名は、まだ読めていない。
この応永三年の記事で、手書き写本第3冊は終わる。
明治期活字本はそのまま応永四年へ続くが、写本にはここで朱印と後筆がある。
そのため、応永四年以後の記事は第3冊へ入れず、次の巻四で扱う。
人物・用語・史料注記
足利義持
足利義満の子です。この節で元服し、作業台帳では九歳で将軍になったと整理されています。ただし、元服儀礼の加冠者・場所・細部は未確定です。
足利義満の出家
義持へ将軍職を継がせた後、義満が仏門へ入ったことを示す記事です。出家日・場所・戒師・法名の逐字は、今回の作業台帳要旨からは確定できません。
偏諱
身分の高い人物が、自分の名に使う一字を別の人物へ与えることです。この節には北畠氏への偏諱記事がありますが、対象人物と与えられた字は未確定です。
相国寺大塔
明徳四年の寺院記事に現れます。記事の日付は、写本7月26日/活字本7月24日です。建立・完成・供養など、出来事の具体的性格は再確認が必要です。
天龍寺火災
応永元年の記事です。写本は6月10日または11日、活字本は6月11日と記します。焼失範囲・出火原因は未確定です。
上杉憲方
関東の上杉氏人物です。この節で死去が記され、享年60歳・法名道合と読める可能性がありますが、死亡日・数字・法名には異読があります。
小山若犬丸
関東の反乱記事に現れます。第2冊の小山義政追討後も小山氏関係者の抵抗が続いたことを示す可能性がありますが、具体的な行動・城・同行者は未確定です。
田村氏
奥州の戦いに関係する勢力として記されます。敗亡後の「同十九日」以下には、主語・動詞を読めていない部分があります。
白川到着日
田村氏関係記事の日付異同です。手書き写本は6月2日、明治期活字本は6月1日と記します。到着した人物・軍勢も含めて再確認が必要です。
山名満幸
明徳の乱で氏清らとともに挙兵し、敗走した人物です。この節では、五条坊門高倉と読まれる場所で処刑されたとみられますが、動詞・場所・処刑方法は未確定です。
倭寇送還
義満政権の対外関係に置かれる記事です。送還主体・送還先・人数・船・使者・文書は、現在の要旨では確定していません。
武家礼式
武家の儀礼・作法を整えることに関係する記事です。小笠原・今川・伊勢の名字が現れますが、人物実名、担当、礼式の具体的内容は未確定です。
第3冊巻末
手書き写本第3冊は応永3年で終わり、巻末に朱印と朱印下の後筆があります。活字本は応永4年以後も続くため、写本独自の冊境・伝来資料として扱います。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第3冊 part-8、全3ページ
- 対象年代:明徳四年~応永三年(1393~1396年)
- 内容区分:編年本文・義満政権・関東奥州・外交・武家礼式・巻末資料
- 明治期活字本:PDF第19左~20右画像・印刷37~38ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前partの南北朝合一・天下統一・後円融院崩御記事から続く。
明徳四年。
大旱・飢饉の記事あり。
相国寺大塔・南禅寺等の寺社記事あり。日付群に写本・活字本の異同候補あり。
相国寺大塔の記事、写本は七月二十六日、活字本は七月二十四日。
北畠氏の人物へ偏諱を与える記事あり。ただし人物名・与えられた字未確定。
足利義満、伊勢へ参宮する。
上杉憲方、死去する。
享年六十歳・法名道合と読める可能性あり。ただし死亡日・数字・法名未確定。
応永元年。
天龍寺、火災あり。
火災日は写本六月十日または十一日、活字本六月十一日。
足利義持、元服する。
義持、九歳で将軍となると整理される。
応永二年。
小山若犬丸に関係する関東反乱の記事あり。
田村氏に関係する奥州戦の記事あり。
白川到着日は、写本六月二日、活字本六月朔日。
田村氏敗亡後、「同十九日」以下に主語・動詞未読の文章あり。
山名満幸、捕らえられ、処刑されるとみられる。
処刑地は五条坊門高倉と暫定的に読む。ただし動詞・場所未確定。
足利義満、出家する。
倭寇送還の記事あり。ただし送還主体・送還先・人数未確定。
大友氏と義弘右馬頭と読まれる人物に関する記事あり。
宿意・殺害・処罰の主体、人物関係未確定。
応永三年。
武家礼式を定める記事あり。
小笠原・今川・伊勢と読まれる名字あり。ただし人物実名・担当・礼式内容未確定。
手書き写本第3冊の編年本文、応永三年で終了する。
巻末に朱印と朱印下の後筆あり。印文・後筆全文未確定。
校訂本文――公開用仮本文
明徳四年。
大いに旱し、天下飢饉す。
相国寺大塔・南禅寺等に関する記事あり。
相国寺大塔の日、写本は七月二十六日、活字本は七月二十四日とす。
北畠氏の人物、偏諱を賜うとみらる。ただし人物・名の字、未確定。
足利義満、伊勢へ参宮す。
上杉憲方、死す。
享年六十、法名道合と読まるる小字あり。ただし、なお未確定。
応永元年。
天龍寺、火災あり。
火災の日、写本は六月十日または十一日、活字本は六月十一日とす。
足利義持、元服す。
義持、九歳にして将軍となるとみらる。
応永二年。
小山若犬丸に関する関東反乱あり。
奥州田村氏に関する戦いあり。
白川到着の日、写本は六月二日、活字本は六月朔日とす。
田村氏敗亡後、同十九日以下に未読記事あり。
山名満幸、捕らえられ、五条坊門高倉と読まるる所において処刑さるとみらる。
ただし処刑の動詞・場所、未確定。
足利義満、出家す。
倭寇送還の記事あり。ただし主体・送還先・人数未確定。
大友氏・義弘右馬頭に関する記事あり。ただし人物関係・殺害・処罰の主体未確定。
応永三年。
武家礼式を定むる記事あり。
小笠原・今川・伊勢と読まるる名字あり。ただし人物実名・礼式内容未確定。
ここに手書き写本第3冊の編年本文終わる。
巻末、朱印ならびに朱印下の後筆あり。
〔応永四年、第4冊の義持任官・幕府職制記事へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第19左~20右画像・印刷37~38ページ付近には、大旱・飢饉、相国寺・南禅寺、義満伊勢参宮、義持元服・将軍就任、小山若犬丸・田村氏、義満出家、倭寇送還、武家礼式に対応する記事があります。
事件の大筋は写本と活字本で一致します。
相国寺大塔の日は、写本七月二十六日/活字本七月二十四日です。
天龍寺火災は、写本六月十日または十一日/活字本六月十一日です。
白川到着日は、写本六月二日/活字本六月朔日です。
武家礼式については、写本・活字本とも小笠原・今川・伊勢とみられる名字を記しますが、人物実名と礼式の具体的内容は再校訂が必要です。
手書き写本第3冊は応永三年で終わり、朱印・後筆を持ちます。一方、明治期活字本は応永四年以後も同じ本文の流れとして続きます。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 相国寺大塔の記事 | 七月二十六日 | 七月二十四日 | 重要な日付異同として両方を保存する |
| 天龍寺火災 | 六月十日または十一日 | 六月十一日 | 写本数字を確定せず、異同候補として保存する |
| 白川到着日 | 六月二日 | 六月朔日 | 軍勢移動に関係する日付異同として両方を保存する |
| 武家礼式 | 小笠原・今川・伊勢を列挙する | 同じ人物・名字を列挙する | 大筋の一致として扱うが、実名・担当・礼式内容は保留する |
| 第3冊の終点 | 応永三年で本文終了。朱印・後筆あり | 応永四年以後も続く | 写本固有の冊境として保存する |
| 巻末資料 | 朱印と朱印下の後筆あり | 対応する版面資料なし | 写本の成立・所蔵・伝来に関係する独自資料として扱う |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 明徳四年の日付群 | 相国寺大塔・南禅寺等 | 写本と活字本に一日から数日の差があり、各日付がどの記事へかかるか再確認を要する | 低~中 |
| 上杉憲方の記事 | 享年六十・法名道合 | 死亡日、数字、法名の字形に異読がある | 中 |
| 山名満幸処刑 | 五条坊門高倉 | 処刑を表す動詞、地名区切り、具体的場所を確定できない | 低 |
| 田村氏敗亡後 | 同十九日以下 | 主語・動詞・対象人物を読めず、別事件への移行かも不明 | 低 |
| 大友氏・義弘右馬頭 | 宿意・殺害・処罰に関係する記事 | 人物関係と、誰が誰を殺害・処罰したかを確定できない | 低 |
| 武家礼式 | 小笠原・今川・伊勢 | 人物実名、担当分野、制定された礼式の内容が未確定 | 低~中 |
| 第3冊巻末 | 朱印下の後筆 | 朱印と墨書が重なり、印文・後筆・筆者・年代を判読できない | 低 |
復刻作業記録
- 手書き写本第3冊part-8の全3ページを、編年本文・武家礼式・巻末資料を含む一つの範囲として確認した。
- 前partの南北朝合一・天下統一・後円融院崩御記事から、明徳四年の記事への接続を確認した。
- 明徳四年の大旱・飢饉を確認したが、原因・範囲・死者・米価・救済策を推測で補わなかった。
- 相国寺大塔・南禅寺の記事を寺社関係記事として整理したが、造営・完成・供養などの一つへ断定しなかった。
- 相国寺大塔の日付は、写本七月二十六日/活字本七月二十四日を保存した。
- 北畠氏への偏諱記事を確認したが、対象人物と与えられた一字を確定しなかった。
- 義満の伊勢参宮を確認したが、日付・経路・同行者・儀礼を補わなかった。
- 上杉憲方の享年六十・法名道合を暫定読みとし、死亡日・法名を確定情報としなかった。
- 天龍寺火災日は、写本六月十日または十一日/活字本六月十一日として保存した。
- 義持の元服と九歳での将軍就任を、将軍職継承の記事として整理した。
- 元服の加冠者・儀式場所・装束を推測で補わなかった。
- 義持将軍就任後も義満が政治の中心に残ったという作業台帳の整理を採用した。
- 小山若犬丸・田村氏の記事を、関東・奥州の反乱として整理したが、両事件の直接関係を断定しなかった。
- 白川到着日は、写本六月二日/活字本六月朔日の両方を保存した。
- 田村氏敗亡後の「同十九日」以下は、主語・動詞を推測せず未読として残した。
- 山名満幸の処刑地を五条坊門高倉と暫定的に保持し、処刑方法を補わなかった。
- 義満出家を確認したが、出家日・場所・戒師・法名を補わなかった。
- 倭寇送還を対外関係の記事として整理したが、送還主体・送還先・人数を確定しなかった。
- 大友氏・義弘右馬頭の記事は、宿意・殺害・処罰の主体を決めず、判読保留とした。
- 武家礼式の記事に小笠原・今川・伊勢が現れることを確認した。
- 三氏の実名・担当分野・礼式の具体的条文を推測で補わなかった。
- 手書き写本第3冊が応永三年で終了することを、活字本との最重要な冊構成差として記録した。
- 活字本の応永四年以後を第3冊へ繰り上げず、第4冊との物理的な冊境を保存した。
- 巻末朱印・朱印下後筆を編年本文から分離し、成立・所蔵・伝来資料として扱った。