巻二は、後醍醐天皇から後南朝までをまとめた「南帝系図」と、正平二十二年/貞治六年(1367年)から弘和二年/永徳二年(1382年)までの編年記事を収録します。
河越城をめぐる戦い、足利基氏・義詮・後村上天皇の死、足利義満の将軍就任、南北朝の和平交渉、懐良親王の対明外交、今川貞世の九州下向、北朝の皇位継承、康暦の政変、『新葉和歌集』の成立などが記されています。
冒頭の南帝系図は、本文の年代を越えて長禄二年(1458年)の「南帝断絶」に関する注記まで含みます。そのため、本文の年代順に作られた系図ではなく、後世の書写者または編纂者が加えた資料である可能性も含めて扱います。
このページの8節は、写本にもともと付けられた章題ではありません。復刻作業上の区分をもとに、読者が内容を理解しやすいよう公開用の見出しを付けています。
巻二の読み方
- 第1節は文章本文ではなく、写本冒頭にある「南帝系図」です。
- 第2節以後が年代順に記された編年本文です。
- 各節の「詳細現代語訳」が、原文の情報を可能な限り残した主本文です。
- 「流れが分かる現代語訳」では、人物関係と事件の進行を理解しやすく説明します。
- 写本翻刻・校訂本文・活字本文・異同・判読保留・作業記録は、各節の折りたたみ欄から確認できます。
- 目次の節名を押すと、その節へ直接移動します。
- 各節末尾の「巻二目次へ戻る」から、目次へ戻れます。
巻二目次
- 南帝系図――後醍醐天皇から後南朝まで
- 河越城の籠城――足利基氏の死と幼い氏満
- 三つの政権の代替わり――義詮・後村上天皇の死と義満
- 南北朝和平交渉――宗良親王の信濃下向と細川頼之の提案
- 南朝の対明外交――懐良親王の遣使と今川貞世の九州下向
- 北朝の皇位継承――九州戦線と後村上院九年忌
- 興良親王の死――鄭夢周来日と康暦の政変
- 小山義政の最期――『新葉和歌集』と第2冊巻末
1.南帝系図――後醍醐天皇から後南朝まで
内容区分:系譜・官位・宮号・母方注記・後南朝
対応史料:手書き写本第2冊 part-2、全4ページ
明治期活字本:同一形式の対応版面なし
公開状態:第一次判読・第一次系譜整理
この節は文章本文ではなく、人物名・親子線・官位・宮号・母方注記から成る系図です。線がページをまたいでいる箇所、黒丸の意味、細字の母方注記などには未確定部分があります。
南帝系図の読み方
この系図では、大きな文字で皇族の名前を記し、その周囲に小さな文字で官位・官職・宮号・母親・母方の家柄・出家先・生没年などを書き加えています。
人物同士を結ぶ線は、原則として親子関係や皇統の流れを示すものと考えられます。
ただし、すべての線を単純な親子線と判断することはできません。線が見開きやページをまたぐ部分、複数人物の上を通る部分、黒丸が置かれた部分があり、その意味が完全には分かっていないためです。
そのため、本サイトでは次の三段階に分けて表示します。
- 明確な親子線:写本の線を連続して追える関係
- 同じ人物群に配置:同じ上段線や同じ欄に置かれているが、親子関係を断定できない人物
- 判読保留:人物名・宮号・母方注記・系譜線のいずれかが確定していない関係
大きな文字
後醍醐院、尊良親王、宗良親王、護良親王、後村上院など、系図の中心となる人物名です。
細字
御諱、官位、官職、宮号、母親、母方の父祖、寺院、法名、早世、配流、生没年などの人物情報です。
系譜線
人物間の親子・皇統関係を示す線とみられます。ただし、ページをまたぐ線や後世に書き加えられた可能性のある線があるため、線の存在だけで関係を確定しません。
黒丸
後村上院などの上部に見える黒丸は、皇位を継いだ人物や皇統の中心を示す記号である可能性があります。しかし、写本内に凡例がないため、意味は未確定です。
母方注記
「母○○女」などの形で、皇子・皇女の母と、その父親や家柄を記しています。中世の皇族にとって、母方の公家・武士・女房の家柄は、政治的な立場を考えるうえでも重要な情報でした。
暫定系譜――明確に追える関係
現段階で、写本の系譜線を比較的明確に追える関係は次のとおりです。
後醍醐院 ├─ 尊良親王 │ └─ 若宮 ├─ 宗良親王 │ └─ 興良親王 └─ 護良親王 └─ 陸良親王
この三系統は、人物名と縦の系譜線が比較的明確に対応しています。
特に、この写本では宗良親王の子を「興良親王」、護良親王の子を「陸良親王」とし、別々の枝に置いています。
後世の系譜・伝承では、興良親王と陸良親王を同一人物と見る考えと、別人と見る考えが混在します。しかし、このページでは外部の系譜へ統一せず、まず写本が二人を別の枝へ配置している事実を記録します。
人物別の詳細解説
後醍醐院
「南帝系図」の起点となる人物です。
周囲には、「御諱尊治」「人皇九十五代」と読める注記や、即位・誕生・崩御・年齢などに関係するとみられる細字があります。
第1冊の編年本文で詳しく記された後醍醐天皇の生涯を、系譜上の人物情報としてまとめ直した部分と考えられます。
尊良親王
後醍醐院から系譜線が続く皇子です。
人物名の一部に赤い蔵書印が重なっていますが、大字は「尊良親王」と読むことができます。
周囲には「一品」「中務卿」「兵部卿か」と読める官位・官職注記があります。
尊良親王からはさらに「若宮」へ線が続きます。ただし、若宮の実名と細字注記は確定していません。
宗良親王
後醍醐院から系譜線が続く皇子です。
周囲には「中務卿」「母同上」などのほか、「征夷将軍」または「征東将軍」と読める官職注記があります。
この人物は、第1冊末尾に紀行と和歌が収録された宗良親王に対応します。
宗良親王からは興良親王へ明確な系譜線が延びています。
興良親王
宗良親王の下に配置され、親子線で結ばれています。
周囲には「遠州宮」と読める宮号と、「征夷将軍」または「征東将軍」と読める将軍号があります。
宮号・将軍号の細かな字は再確認が必要ですが、宗良親王の系統として描かれていることは、この写本の重要な特徴です。
護良親王
大塔宮として知られる後醍醐天皇の皇子です。
写本には「大塔宮」「征夷大将軍」「兵部卿」と読める注記があります。
護良親王からは、陸良親王と読まれる人物へ系譜線が続きます。
陸良親王
護良親王の下に配置され、親子線で結ばれています。
写本の大字は「陸良親王」と読めます。
周囲には「征夷将軍」「母准后親房女」と読める注記があります。
「母准后親房女」は、北畠親房の娘または近い女性を母とするという系譜伝承を示す可能性がありますが、「准后」「親房女」を含む正確な文字と関係は再確認が必要です。
世良親王
後醍醐天皇の皇子たちと同じ人物群に配置されています。
周囲には「井上宮」またはそれに近い宮号、母・早世・官位に関係する細字があります。
宮号と母方注記は確定していません。
恒良親王
後醍醐天皇の皇子たちと同じ上段線に配置されています。
母に関する細字が密集していますが、母の名、女房名、母方の父親名をどこで区切るかは確定していません。
第1冊本文では北陸方面の南朝勢力に関わる皇子として登場しましたが、この系図では生涯を簡潔な傍書へまとめています。
成良親王
後醍醐天皇の皇子たちと同じ人物群に配置されています。
周囲には「上野大守」「征夷将軍」と読める官職注記があります。
また、「母同野中将公廉女」「新待賢門院」などに近い細字が見えますが、どの人物へかかる注記かを含めて再確認が必要です。
後村上院
後醍醐天皇を継いだ南朝の天皇です。
人物名の上部には黒丸があり、皇位を継いだ人物または皇統の本流を示す記号である可能性があります。
ただし、写本に記号の説明はなく、黒丸の意味は未確定です。
忠尊法親王
後醍醐天皇の皇子・皇女をまとめた人物群に配置されています。
「聖護院」「初号……」などと読める寺院・宮号・法名に関係する注記があります。
細字の全文は確定していません。
懐良親王
九州方面で活動した南朝皇族として、系図に大きく記されています。
大字は一見すると「良懐親王」にも見えますが、人物名としては「懐良親王」と整理しています。
周囲には「征西将軍」「式部卿」などの注記があります。
ただし、写本が実際に通常と逆の字順で書いた可能性も完全には否定できないため、原字の配置は復刻資料欄に残します。
大覚寺宮
大字で「大覚寺宮」と記されています。
周囲には「小田配流」「将軍」「右近衛……」などに見える注記があります。
しかし、この宮号が具体的にどの皇族を指すかは、この系図だけでは確定できません。
無文和尚
皇子・法親王・皇女をまとめた部分に「無文和尚」と記されています。
周囲には寺院名とみられる語や、「入唐の人なり」と読める注記があります。
ただし、寺院名は「安山法興寺」などにも見え、確定していません。
一品公主
皇女とみられる人物です。
母について、「後京極院」「西園寺相国実兼女」と読める細字があります。
后妃名・母方系譜の正確な文字と区切りは再確認が必要です。
聖助法親王
出家した皇族として記されています。
周囲には「母聖護院道世……」「少将内侍……卿女」などと読める母方注記があります。
女房名・官職・実名の区切りは未確定です。
法仁法親王
法親王として記されています。
「早世」「母女房納言三位局」「為通卿女」などに近い注記があります。
母方注記の行順と係り先には再確認が必要です。
玄円法親王
大字は「玄円法親王」または「玄圓法親王」と読むことができます。
「一条院」「早世」「母従二位守子」などと読める注記があります。
「玄円」「玄園」などの文字差も含め、正式表記は未確定です。
宣政門院
「宣政門院」「一品内親王」と記される皇女です。
系譜線の接続と母方注記については再確認が必要ですが、人物名そのものは比較的明瞭です。
宮・姫宮
実名を記さず、「宮」「姫宮」とだけ記される皇族が配置されています。
姫宮の下には、「鎌倉松岡用堂禅尼是也」と読める注記があります。
この注記は、姫宮を鎌倉松岡にいた用堂禅尼に比定したものとみられます。
ただし、この比定が系図作成者自身の説明なのか、後世の追記なのかは分かりません。
後村上天皇以後に配置された皇族
第4ページには、後村上天皇以後の南朝皇統・後南朝皇胤に関係する人物が並びます。
ただし、人物上部を通る系譜線と黒丸の意味が完全には分かっていません。
そのため、次の人物をすべて後村上天皇の皇子、または同じ世代の兄弟とは扱いません。
- 長慶院
- 後亀山院
- 泰成親王
- 維成親王
- 源勝法親王
- 世泰親王
- 聖尊
- 姫宮
- 高福院
長慶院
大字は「長慶院」と読めます。
周囲には「御諱寛成」、元中年間、在位、法名などに関係するとみられる細字があります。
細字の全文と系譜線の接続は未確定です。
後亀山院
大字は「後亀山院」と読めます。
「御諱熙成」「母嘉喜門院」「近衛……女」などに近い注記や、即位・譲位・南北朝合一に関係する細字があります。
御諱と母方注記は高精細画像による再確認が必要です。
世泰親王
大字は「世泰親王」と読むことができます。
周囲には生没年、母、和歌、長慶天皇との関係に関する細字があるとみられます。
ただし、別の系譜では長慶天皇の皇子とされる場合があるため、単純に後村上天皇の皇子として配置しません。
聖尊
大字で「聖尊」と記されています。
目立った細字注記が少なく、人物関係・寺院・官位は確定していません。
泰成親王
大字は「泰成親王」と読めます。
「式部卿」「大宰帥」と読める官職注記があります。
系譜線から誰の皇子であるかを確定することは、現段階では避けます。
維成親王
大字は「維成親王」と読めます。
「文中二年」「叙三品」と読める年次・位階注記があります。
文字が重なる箇所があり、官位・年次の全文は確定していません。
源勝法親王
出家した皇族として「源勝法親王」と記されています。
周囲には出家、寺院、法名などに関する多数の細字があります。
ただし、人物の世代と系譜線は未確定です。
姫宮
後村上天皇以後の人物群にも「姫宮」が配置されています。
大字は読めますが、下部の細字は不明瞭であり、実名・母・生涯を確定できません。
高福院
系図の終点に近い位置に「高福院」と記されています。
その下には、比較的明瞭に「長禄二年」「南帝断絶」とあります。
この注記は、写本の作成者または後の書写者が、長禄二年(1458年)を南朝皇胤の一つの終点として理解していたことを示します。
ただし、高福院が具体的にどの皇胤を指すのか、この系図だけでは判断できません。
また、「南帝断絶」は系図作成者の歴史認識を示す言葉であり、南朝皇胤に関するすべての系譜・伝承がこの年に完全に終わったと、本サイトが断定するものではありません。
この系図から読み取れること
後醍醐天皇には多くの皇子・皇女がいた
系図の中心には後醍醐天皇が置かれ、その周囲に多数の皇子・皇女が並びます。
すべての皇子が京都や吉野の宮廷に残ったわけではありません。
- 宗良親王は遠江・駿河・信濃など各地を移動した
- 懐良親王は九州方面で活動した
- 護良親王は倒幕軍を組織し、征夷大将軍となった
- 義良親王は後村上天皇として南朝を継いだ
- 尊良親王・恒良親王らは北陸方面の戦いに関係した
この系図は、南朝の活動が一つの宮廷だけで行われたのではなく、皇族を全国各地へ送り出すことで進められたことを示しています。
皇子には軍事・政治・宗教の役割があった
皇子の中には、軍勢を率いる人物だけでなく、寺院へ入り、法親王や僧となった人物もいました。
- 忠尊法親王
- 聖助法親王
- 法仁法親王
- 玄円法親王
- 源勝法親王
- 無文和尚
南朝にとって、大寺院・僧侶・宗教施設との関係も、政治的・社会的な支えの一つだったことが分かります。
母方の家柄が詳しく記されている
人物の横には、母の名や母方の家について多くの細字が書かれています。
同じ天皇の皇子であっても、母方の公家・武士・女房の家柄によって、支援者・育った環境・政治的な立場が異なることがありました。
ただし、この系図の母方注記は細字が密集しており、人物と母親の対応を完全には確定できていません。
南朝の系譜を後南朝まで一続きに見ている
系図は、後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇だけで終わりません。
世泰親王、泰成親王、維成親王、源勝法親王、高福院など、後世の南朝皇胤に関係する人物までを並べています。
最後に「長禄二年 南帝断絶」と記すことから、系図作成者は後醍醐天皇から後南朝までを、一続きの南朝皇統の物語として見ていたと考えられます。
流れが分かる系譜解説
この系図の中心は後醍醐天皇です。
後醍醐天皇には多くの皇子・皇女がいました。
皇子たちは、全員が吉野の宮廷に残ったわけではありません。
ある皇子は軍勢を率いて各地で戦い、ある皇子は地方の武士を味方につけるため遠くへ移動しました。
また、寺院へ入り、法親王や僧となった皇子もいました。
写本で親子関係を比較的はっきり確認できるのは、次の三つです。
- 尊良親王から若宮へ続く系統
- 宗良親王から興良親王へ続く系統
- 護良親王から陸良親王へ続く系統
この写本では、宗良親王の子・興良親王と、護良親王の子・陸良親王を別の人物として描いています。
後醍醐天皇の後は、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇へ南朝の皇位が続きました。
南北朝が一つになった後も、南朝皇族の子孫を中心とする動きは続いたと考えられています。
系図の最後には、高福院の下に「長禄二年 南帝断絶」とあります。
この写本を作った人は、1458年を南朝皇胤の一つの終点として考えていたようです。
ただし、高福院が誰であるか、長慶天皇・後亀山天皇以後の人物がどのような親子関係にあるかは、まだ完全には分かっていません。
人物・用語・史料注記
南帝
南朝の天皇を指す表現です。「南帝系図」は、後醍醐天皇以後の南朝皇統をまとめた系図という意味です。
御諱
天皇・皇族の実名です。後醍醐天皇の周囲には「御諱尊治」と読める注記があります。
一品
親王・内親王へ与えられる最高位の品位です。尊良親王や一品公主などの注記に現れます。
法親王
出家した皇族に与えられる称号です。この系図には複数の法親王が記されています。
宮号
皇族を呼ぶための名称です。大塔宮、遠州宮、大覚寺宮、井上宮とみられる宮号などが記されています。
後南朝
南北朝合一後も続いた、南朝皇胤を中心とする動きや伝承を示すために用いられる呼称です。この系図は、長禄二年の「南帝断絶」までを一続きに記しています。
系譜線の限界
この系図では、線の交差、ページをまたぐ線、黒丸、後筆とみられる書き込みがあるため、すべての人物関係を確定できません。人名の配置と親子関係を分けて記録します。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第2冊 part-2、全4ページ
- 原本PDF:第2~5ページ
- 内容区分:南帝系図・官位・宮号・母方注記・後南朝
- 明治期活字本:同一レイアウトの対応版面なし
- 第一次判読の確度:中
- 公開前の再校訂:必要
写本準翻刻――第1ページ
右丁は白紙。左丁に「南帝系図」と題する系図が始まる。
- 南帝系図
- 後醍醐院
- 〔御諱〕尊治
- 人皇九十五代
- 尊良親王
- 一品
- 中務卿
- 〔兵部卿か〕
- 若宮
- 宗良親王
- 〔征夷将軍/征東将軍〕
- 中務卿
- 母同上
- 興良親王
- 遠州宮
- 〔征夷将軍/征東将軍〕
系譜線は、後醍醐院―尊良親王―若宮、後醍醐院―宗良親王―興良親王へ続くとみられる。
写本準翻刻――第2ページ
- 護良親王
- 大塔宮
- 征夷大将軍
- 兵部卿
- 陸良親王
- 征夷将軍
- 母准后親房女
- 世良親王
- 〔井上宮か〕
- 恒良親王
- 成良親王
- 上野大守
- 征夷将軍
- 後村上院
- 忠尊法親王
- 聖護院
- 初号〔未詳〕
- 懐良親王
- 征西将軍
- 式部卿
- 大覚寺宮
護良親王から陸良親王へ系譜線が続く。恒良親王・成良親王の周囲には母方注記が密集しているが、人物との対応は未確定。
写本準翻刻――第3ページ
- 無文和尚
- 〔安山法興寺か〕
- 入唐の人なり
- 一品公主
- 母後京極院〔禧子か〕
- 西園寺相国実兼女
- 聖助法親王
- 母聖護院道世〔以下未詳〕
- 少将内侍〔以下未詳〕卿女
- 法仁法親王
- 早世
- 母女房納言三位局
- 為通卿女
- 玄円法親王
- 一条院
- 早世
- 母従二位守子
- 宣政門院
- 一品内親王
- 宮
- 姫宮
- 鎌倉松岡用堂禅尼是也
いずれも後醍醐天皇の皇子・皇女をまとめた人物群に配置されているとみられるが、すべての親子線を確定できるわけではない。
写本準翻刻――第4ページ
- 後亀山院
- 御諱熙成〔か〕
- 母嘉喜門院〔藤子か〕
- 近衛〔以下未詳〕女
- 世泰親王
- 聖尊
- 泰成親王
- 式部卿
- 大宰帥
- 維成親王
- 文中二年
- 叙三品
- 長慶院
- 御諱寛成
- 源勝法親王
- 姫宮
- 高福院
- 長禄二年
- 南帝断絶
上部の系譜線と黒丸の意味が不明であるため、全員を同じ天皇の皇子、同じ世代の兄弟とは断定しない。
校訂系譜――暫定整理
親子線を比較的明確に追える系統
- 後醍醐院―尊良親王―若宮
- 後醍醐院―宗良親王―興良親王
- 後醍醐院―護良親王―陸良親王
後醍醐天皇の皇子・皇女として同じ人物群に配置
- 世良親王
- 恒良親王
- 成良親王
- 後村上院
- 忠尊法親王
- 懐良親王
- 大覚寺宮
- 無文和尚
- 一品公主
- 聖助法親王
- 法仁法親王
- 玄円法親王
- 宣政門院
- 宮
- 姫宮
後村上天皇以後の南朝皇族として配置
- 長慶院
- 後亀山院
- 泰成親王
- 維成親王
- 源勝法親王
- 世泰親王
- 聖尊
- 姫宮
- 高福院
後村上天皇以後の人物は、全員の親子関係を確定できないため、人物群として整理する。
明治期活字本との相違
| 項目 | 手書き写本 | 明治期活字本 |
|---|---|---|
| 南帝系図 | 4ページにわたり収録 | 同一形式の対応版面なし |
| 人物間の線 | 親子・皇統線を図示 | 系譜図なし |
| 母・外戚 | 多数の細字注記あり | 編年記事中に一部が分散 |
| 官位・宮号 | 人物ごとにまとめて記載 | 各年の記事へ分散 |
| 宗良親王―興良親王 | 親子線で明示 | 系譜図としての表示なし |
| 護良親王―陸良親王 | 別の親子線で明示 | 系譜図としての表示なし |
| 後南朝皇胤 | 世泰親王・高福院などを掲載 | 関係記事が編年本文へ分散 |
| 長禄二年 | 「南帝断絶」と注記 | 同じ系譜的結論なし |
判読・系譜整理に自信のない箇所
| 対象 | 暫定判断 | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 尊良親王 | 尊良親王 | 赤い蔵書印が文字の一部へ重なる | 中~高 |
| 若宮 | 尊良親王から線が続く | 実名・官位・生涯注記を確定できない | 中 |
| 宗良親王の官職 | 征夷将軍/征東将軍 | 将軍号の中間文字が不鮮明 | 低~中 |
| 興良親王 | 遠州宮、征夷または征東将軍 | 宮号・将軍号の細字を再確認する必要がある | 中 |
| 護良親王の子 | 陸良親王 | 後世に興良親王と同一視する伝承もあるが、写本は別枝に置く | 中~高 |
| 世良親王の宮号 | 井上宮か | 字形を確定できない | 低 |
| 恒良・成良親王の母 | 複数の母方注記あり | 母名・女房名・父名の区切りが不明 | 低 |
| 懐良親王 | 懐良親王 | 大字が「良懐」の順にも見える | 中 |
| 大覚寺宮 | 宮号のみ確認 | 具体的な皇族と下部注記を同定できない | 低 |
| 無文和尚 | 人物名は明瞭 | 寺院名・入唐記事の細字が難読 | 中 |
| 一品公主の母 | 後京極院・西園寺実兼女関係か | 后妃名・母方注記の文字を確定できない | 低 |
| 聖助・法仁法親王の母 | 女房名・父の官職を記す | 細字の区切りが不明 | 低 |
| 玄円法親王 | 玄円/玄圓法親王 | 玄園などの表記可能性もある | 中 |
| 第4ページの系譜線 | 後村上院以後の人物をまとめた線 | 黒丸・線の意味と親子関係を確定できない | 低 |
| 後亀山院 | 御諱熙成、母嘉喜門院か | 御諱・母・外戚細字が難読 | 低~中 |
| 世泰親王 | 人物名は比較的明瞭 | 生没年・母・長慶院との関係が未確定 | 中 |
| 泰成・維成親王 | 人物名は比較的明瞭 | 官位・年次注記と系譜線を確定できない | 中 |
| 高福院 | 長禄二年・南帝断絶 | 高福院が具体的にどの皇胤を指すか不明 | 低~中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第2冊part-2の全4ページを、一つの系譜資料として確認した。
- 文章本文ではなく、人物名・系譜線・官位・宮号・母方注記として準翻刻した。
- 赤い蔵書印が重なる尊良親王は、色成分を分けて確認し、人物名を判読した。
- 明確に追える親子線と、同じ人物群に配置されただけの人物を分けた。
- 後醍醐院―尊良親王―若宮、後醍醐院―宗良親王―興良親王、後醍醐院―護良親王―陸良親王を、比較的明確な系統として整理した。
- 宗良親王の興良親王と、護良親王の陸良親王を、写本の配置どおり別人物として記録した。
- 後村上院以後の人物は、上部の線と黒丸の意味が不明なため、全員を同じ親の皇子・同一世代とはしなかった。
- 明治期活字本に同一形式の系譜図がないことを確認した。
- 母・外戚・官位・宮号・長禄二年「南帝断絶」などを、写本独自情報として保存した。
- 高福院を特定の皇胤へ推測で置き換えなかった。
- 系譜の内容が本文年代より後の長禄二年まで及ぶため、後世の書写者・編纂者による付加資料である可能性を残した。
2.河越城の籠城――足利基氏の死と幼い氏満
対象年代:写本所載・正平二十二年/貞治六年(1367年)
対応史料:手書き写本第2冊 part-3/明治期活字本PDF第12~13画像付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
写本は河越城事件を正平二十二年/貞治六年の記事として置きますが、作業台帳では一般的な事件年代との一年差が指摘されています。本文の年次は変更せず、年代差を史料注記として示します。
足利基氏の病気に関する文章、氏満を補佐した人物、御製・公家和歌、第3ページの河内・八幡方面の記事には未確定箇所があります。
この節の概要
関東で、南朝を支持する「宮方」と、平一揆と呼ばれる武士団が兵を挙げ、武蔵国の河越城へ立て籠もりました。
鎌倉方は河越城を攻めるために軍勢を動かします。しかし、その最中に関東の中心人物だった足利基氏が亡くなりました。
基氏の後を継いだ氏満はまだ幼く、自分一人で関東の政治と軍事を動かせる年齢ではありませんでした。写本では「氏満幼稚なれば」と説明されています。
閏六月十七日、葛山備中次郎と記される人物が河越城を攻め落としました。敗れた平一揆の一部は伊勢国へ移り、その子孫が亀山に住んで「関一党」になったと写本は伝えます。
軍事記事の途中には、「今上御製」「関白良基」「為定卿」と読まれる和歌のまとまりも置かれています。
節の末尾では、舞台が関東から河内・八幡方面へ移り、楠木正儀とみられる人物の軍事記事へ続きます。ただし、その事件の主語と勝敗は次の節との接続を含めて再確認が必要です。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、記事の流れが分かるよう説明文へ展開した現代語訳です。写本の逐字本文に対する最終的な全訳ではありません。
南帝系図から編年本文へ移る
第2冊は、後醍醐天皇から後南朝までを記した「南帝系図」で始まっていた。
part-3の第1ページ右丁にも、前の系図に付属するとみられる小さな文字が残されている。
後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇の周辺に関係する系譜、年齢、母方、即位などの補注とみられるが、細字が密集し、蔵書印や裏写りも重なっている。
そのため、第1ページ右丁の細字は通常の編年本文へ組み込まず、前節の南帝系図に付属する資料として分離する。
通常の本文は、第1ページ左丁の「南方紀伝」という題記から始まる。
正平二十二年・貞治六年
写本は、南朝年号を正平二十二年、北朝年号を貞治六年と記して、新しい編年記事を始める。
西暦では1367年に当たる。
ただし、河越城をめぐる一連の事件について、作業台帳では一般的な年代を翌1368年とする注記が置かれている。
本サイトでは、写本の年次を現代の年代へ書き換えない。
まず「『南方紀伝』は正平二十二年/貞治六年の記事として記している」と示し、一般的年代との違いは史料注記で説明する。
関東の宮方が兵を挙げる
二月五日、関東の宮方が兵を挙げた。
「宮方」は、南朝皇族や、南朝皇族を支持する勢力を指すものと考えられる。
ただし、写本には参加者の氏族名・人名・行動が続けて書かれており、どの皇族を中心とする勢力だったかは、この範囲だけでは確定できない。
そのため、特定の皇子や宮号を推測で補わず、写本の表現に従って「関東の宮方」とする。
平一揆も蜂起する
宮方とともに、平一揆と呼ばれる武士団も兵を挙げた。
写本では、「関東の宮方、平一揆、兵を起こして」と読める文章が確認されている。
ただし、宮方と平一揆が完全に同じ軍勢だったのか、別々の勢力が協力したのか、文章の助詞と語順には再確認が必要である。
本ページでは、関東の南朝支持勢力と平一揆が、ともに河越城を拠点として鎌倉方へ抵抗したという大筋を示す。
河越城へ立て籠もる
宮方・平一揆の軍勢は、武蔵国の河越城へ立て籠もった。
写本では「武州河越の城に楯籠る」と記されている。
「楯籠る」は、城や防御施設へ入り、敵の攻撃を防ぎながら抵抗することを意味する。
河越城は関東の重要な地域拠点であり、ここに反鎌倉方の軍勢が籠もったことは、関東の支配にとって大きな問題となった。
鎌倉方は、河越城を包囲・攻撃するために軍勢を動かした。
足利基氏の病気に関する記事
河越城攻防の記事の途中には、足利基氏の病気と鎌倉方の対応に関する文章がある。
基氏が病気となり、幼い氏満を名代または後継者として軍事・政治を進めたという趣旨である可能性がある。
しかし、この部分は写本の文字が薄く、数行の文章全体を確定できていない。
そのため、「基氏が病気になった」「氏満が幼かった」という大筋は示すが、基氏が誰へ何を命じたのか、誰が名代となったのかは確定しない。
足利基氏が亡くなる
四月二十六日、足利基氏が亡くなった。
写本の「卯月二十六日、基氏死して」という部分は比較的明瞭である。
基氏は関東における足利方の中心人物だった。
河越城をめぐる戦いが続く中で基氏が亡くなったため、鎌倉方は軍事的な反乱への対応と、支配者の交代を同時に進めなければならなくなった。
『南方紀伝』は、河越城攻防の記事の中へ基氏の死を置くことで、戦争と政権継承が同時に進んでいたことを伝えている。
幼い氏満が後を継ぐ
基氏の後は、子の氏満が継いだ。
写本は「氏満幼稚なれば」と記す。
つまり、氏満はまだ幼く、一人で関東の政治と軍事を動かせる状態ではなかった。
作業資料では氏満を九歳ほどと説明しているが、写本本文で明瞭に確認できる表現は「幼稚」である。
そのため、本文では年齢を断定せず、「幼い氏満」とする。
氏満を補佐する人々
氏満が幼かったため、有力武将が関東の政治と軍事を補佐したと考えられる。
作業資料では、上杉憲顕らが補佐した可能性を示している。
しかし、今回の写本画像だけでは、補佐した人物名と語順を完全には確定できていない。
したがって、現代語訳の主本文では、
幼い氏満を、有力な家臣たちが補佐して関東の支配を続けた。
という範囲にとどめる。
上杉憲顕などの具体名は、原文・復刻資料欄で補読候補として示す。
鎌倉方は河越城攻撃を続ける
基氏が亡くなり、氏満が幼い状態で後を継いでも、河越城への攻撃は中止されなかった。
鎌倉方の有力武将たちは、反乱を鎮め、関東の支配を維持するために戦いを続けた。
幼い氏満の政権を安定させるためにも、河越城の宮方・平一揆を放置することはできなかった。
こうして、支配者が交代した直後にもかかわらず、鎌倉方は河越城攻略を進めた。
葛山備中次郎
河越城攻略の記事には、葛山備中次郎と記される人物が現れる。
写本でも「葛山備中次郎」に近い文字を確認できるが、「葛」の字などは大きく崩れている。
明治期活字本では、河越城の陥落記事が漢文調に圧縮され、攻略者の具体名が写本ほど目立たない可能性がある。
このため、葛山備中次郎という具体名は、写本が持つ重要な人物情報として保存する。
ただし、実名、所属、河越城攻撃での正確な役割は、人物史料による確認が必要である。
閏六月十七日に河越城が落ちる
閏六月十七日、葛山備中次郎が河越城を攻め落とした。
写本では、
閏六月十七日、葛山備中次郎、武州河越の城を攻め落とす。
という趣旨の記事が確認されている。
河越城の陥落により、宮方・平一揆は関東における主要な拠点を失った。
ただし、城内の指揮者、戦死者、降伏者、落城までの詳しい戦闘経過は、今回の3ページには十分には記されていない。
河越城陥落後の処理と平一揆の敗北は、次の第3節冒頭へも続く。
平一揆が伊勢国へ移る
河越城を失った平一揆の一部は、伊勢国へ移った。
写本には「平一揆、伊勢国へ上る」と読める文章がある。
「上る」が京都方面へ向かうことなのか、伊勢へ移住・逃亡することなのかは、前後の文脈を含めて確認する必要がある。
作業資料では、河越城で敗れた平一揆が伊勢国へ逃れた記事として整理している。
そのため、本ページでも「伊勢国へ移った」と表現する。
子孫が伊勢亀山の関一党になる
写本は、伊勢へ移った人々の子孫についても説明する。
その子孫は伊勢国亀山に住み、「関一党」と呼ばれる一族になったという。
これは、河越城で敗れた武士の子孫が別の地域へ移り、後世の一族へつながったとする系譜伝承である。
ただし、どの家系が関一党へつながるのか、この写本の説明がほかの系譜史料と一致するかは確認できていない。
したがって、本サイトでは確定した系譜事実ではなく、
『南方紀伝』は、その子孫が伊勢亀山の関一党になったと伝えている。
という史料上の伝承として掲載する。
河越城事件の年代問題
この写本は、河越城籠城から落城までを、正平二十二年/貞治六年の記事として置いている。
西暦では1367年である。
一方、作業台帳では、一般的な河越城事件の年代を翌1368年、正平二十三年/応安元年とする注記がある。
この一年差には、次のような可能性がある。
- 写本またはその底本で年次が一年前へずれた
- 事件の始まりと本格的な合戦を異なる年に数えた
- 後世の編纂時に年号標題と事件記事がずれた
- 別系統の年代伝承を採用した
ただし、現在の資料だけで原因を一つに決めることはできない。
本文では写本年次を保存し、一般的年代は補足として別に示す。
「今上御製」
軍事記事の途中には、「今上御製」という大きな見出しが置かれている。
御製とは、天皇が詠んだ和歌である。
ただし、この「今上」が具体的にどの天皇を指すかは、記事の配置だけでは確定できていない。
また、歌本文は仮名が強く続け書きされており、現段階で五句に分けることは危険である。
そのため、「今上御製」という見出しと、御製一首があることだけを確定部分として扱い、歌の全文は掲載しない。
「関白良基」
御製の付近には、「関白良基」と読める人物名が置かれている。
二条良基を指す可能性が高い。
しかし、良基自身の和歌なのか、御製への返歌なのか、歌会での役割を示す名前なのかは確定していない。
そのため、現代語訳では、天皇の御製と関白良基に関係する和歌のまとまりが記されていると説明する。
「為定卿」と読まれる人物
さらに「為定卿」と読める人物名が記されている。
二条為定を指す可能性がある。
ただし、写本の字形からは「為邦」「為秀」など、別の読みの可能性も完全には除けない。
また、どの歌の作者なのか、御製や良基の歌とどの順番で対応するのかも未確定である。
このため、人物名は「為定卿か」として判読保留を付ける。
戦乱の中に和歌が置かれる
『南方紀伝』は、河越城の戦いと関東政権の代替わりだけを記しているのではない。
同じ年代に詠まれた天皇・公家の和歌も、編年記事の中へ挿入している。
戦争が続く中でも、宮廷では和歌が詠まれ、天皇・関白・歌人の間で文化的な交流が続いていた。
ただし、歌の内容が河越城事件を直接詠んだものか、同じ年に詠まれた別の歌なのかは確定していない。
そのため、河越城事件への哀悼歌などとは断定せず、同年の宮廷和歌記事として扱う。
第3ページで舞台が畿内へ移る
第3ページでは、記事の舞台が関東から畿内へ移ったように見える。
「夏四月二十三日」と読める日付があり、その後に人物名・寺院名・地名とみられる語が続く。
ただし、この四月二十三日がどの年の記事かは、次のpartとの接続を含めて判断する必要がある。
河越城記事の途中に置かれた同じ年の記事なのか、次年の新しい記事なのか、年号標題との関係が未確定だからである。
「春氏」と読まれる人物
四月二十三日の記事には、「春氏」と読める人物名がある。
細川氏春など、実在する人物へ結びつける可能性も考えられる。
しかし、名字が前行や前頁にあるのか、実名二字だけが書かれているのかを確定できない。
そのため、現段階では「春氏と読まれる人物」として保存し、特定人物へ置き換えない。
河州・八幡方面の記事
第3ページには、「河州」「八幡」と読める文字がある。
「河州」は河内国、「八幡」は八幡方面を指す可能性がある。
このことから、本文が関東の河越城事件から、河内・八幡方面の南朝軍事記事へ移った可能性が高い。
しかし、具体的な城・戦場・軍勢・勝敗は、この3ページだけでは確定できない。
次のpart-4冒頭との接続を確認しても、なお数行の構文に未解決部分が残っている。
楠木正儀とみられる人物
河内・八幡方面の記事には、「正儀」と読める人物名が現れる。
河内を拠点とした楠木正儀を指す可能性がある。
ただし、前後の文字との接続が不明瞭であり、名字を含めて写本から完全には確定できない。
そのため、現在の公開本文では「楠木正儀とみられる人物」とし、確定人名としては扱わない。
文章は次のpartへ続く
第3ページ末尾では、河内・八幡方面の軍事記事が途中で切れている。
主語、敵方・味方の区別、進軍・退却・討死のどの動作を記すかを、このページだけで判断することはできない。
次のpart-4冒頭と連続して読むことで一部は改善したが、全文の構文はまだ確定していない。
そのため、第2節では河内・八幡方面の記事の開始までを扱い、具体的な合戦結果は次節へ送る。
流れが分かる現代語訳
『南方紀伝』によると、正平二十二年/貞治六年、関東で南朝を支持する武士たちと平一揆が兵を挙げた。
彼らは武蔵国の河越城へ立て籠もり、鎌倉方と戦おうとした。
そのころ、関東を治めていた足利基氏が病気になり、四月二十六日に亡くなった。
後を継いだ息子の氏満は、まだ幼かった。
そのため、氏満一人で政治や軍事を行うことはできず、有力な家臣たちが補佐した。
それでも鎌倉方は河越城への攻撃を続けた。
閏六月十七日、葛山備中次郎と記される武将が河越城を攻め落とした。
敗れた平一揆の一部は伊勢国へ移った。
『南方紀伝』は、その子孫が伊勢国亀山に住み、「関一党」という一族になったと伝えている。
ただし、写本はこの事件を1367年の記事としているが、作業台帳では一般的な年代を翌1368年とする注記がある。
本サイトでは、写本の年を勝手に直さず、年代に違いがあることをそのまま示す。
本文には、天皇の歌を示す「今上御製」、関白良基、為定卿と読まれる和歌記事もある。
戦いが続く中でも、天皇や公家は和歌を詠み、宮廷文化を続けていた。
節の終わりでは、舞台が河内・八幡方面へ移り、楠木正儀とみられる人物の戦いへ続く。
人物・用語・史料注記
河越城
武蔵国にあった城です。この節では、関東の宮方・平一揆が立て籠もった拠点として記されています。
宮方
皇族または皇族を支持する勢力を表す言葉です。この節では関東の南朝支持勢力を指すと考えられますが、中心となった皇族は確定していません。
平一揆
関東の武士団として、この節の河越城籠城に参加します。写本は、敗北後に一部が伊勢へ移り、その子孫が関一党になったと伝えています。
足利基氏
関東における足利方の中心人物です。写本では河越城攻防の途中、四月二十六日に亡くなったと記されています。
足利氏満
足利基氏の子です。基氏の死後に関東の支配を継ぎましたが、写本は「氏満幼稚なれば」として、まだ幼かったことを強調しています。
葛山備中次郎
閏六月十七日に河越城を攻め落とした人物として、写本に具体名が記されています。実名・所属・役割の詳細は再確認が必要です。
関一党
写本は、河越城で敗れて伊勢へ移った平一揆の子孫が、伊勢国亀山に住んで関一党になったと説明します。確定した系譜事実ではなく、『南方紀伝』が伝える一族起源説として扱います。
今上御製
その時の天皇が詠んだ歌を示す見出しです。ただし、「今上」がどの天皇を指すか、歌本文がどのような五句になるかは未確定です。
関白良基
二条良基を指す可能性が高い人物名です。自身の和歌、御製への返歌、歌会での役割のどれを示すかは確定していません。
為定卿
二条為定を指す可能性がありますが、「為邦」「為秀」などの異読候補もあり、作者と歌の対応は未確定です。
年代の一年差
写本は河越城事件を正平二十二年/貞治六年(1367年)に置きます。作業台帳では一般的年代を翌1368年とする注記があるため、写本本文と史実注記を分けて表示します。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第2冊 part-3、全3ページ
- 内容区分:編年本文・和歌
- 写本所載年代:正平二十二年/貞治六年(1367年)
- 明治期活字本:PDF第12~13画像付近
- 第一次判読の確度:中
- 公開前の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
第1ページ右丁には、前の南帝系図に付属するとみられる細字注記が残る。
通常本文は、第1ページ左丁の「南方紀伝」から始まる。
南朝正平二十二年、北朝貞治六年。
二月五日、関東の宮方・平一揆、兵を起こして武州河越城に楯籠る。
足利基氏の病気と鎌倉方の対応に関する数行が続くが、逐字未確定。
卯月二十六日、基氏死して、氏満幼稚なれば、〔有力武将らこれを補佐す〕。
閏六月十七日、葛山備中次郎、武州河越城を攻め落とす。
平一揆、伊勢国へ上る。
その子孫、亀山に住し、関一党となるという系譜伝承を記す。
「今上御製」「関白良基」「為定卿か」と読まれる和歌記事を載せる。歌本文は未確定。
第3ページには「夏四月二十三日」「春氏」「河州」「八幡」「正儀」と読める語があり、河内・八幡方面の軍事記事へ移る。
第3ページ末尾は次partへ続き、主語・勝敗・人物の所属は未確定。
校訂本文――公開用仮本文
南方紀伝。
正平二十二年/貞治六年。
二月五日、関東の宮方ならびに平一揆、兵を挙げ、武蔵国河越城に楯籠る。
鎌倉方、これを討たんとして軍勢を催す。
このころ、足利基氏、病あり。関東の軍事・後継に関する記事あり。ただし数行、なお未確定。
四月二十六日、基氏、死す。
子の氏満、幼稚なれば、有力の家臣らこれを補佐す。補佐者の人名、なお未確定。
閏六月十七日、葛山備中次郎、河越城を攻め落とす。
平一揆の一部、伊勢国へ移る。
その子孫、伊勢国亀山に住し、関一党となるという。
今上御製一首あり。歌本文ならびに「今上」の人物、未確定。
関白良基、為定卿と読まれる人物に関する和歌あり。歌の帰属・本文、未確定。
夏四月二十三日、春氏と読まれる人物の記事あり。
河州・八幡・正儀と読まれる軍事記事へ続く。
〔河越城陥落後の処理、平一揆敗北、河内方面の戦いへ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第12~13画像付近には、関東宮方・平一揆の河越城籠城、足利基氏の死、氏満への継承、河越城陥落、平一揆の伊勢移動、宮廷和歌に対応する記事が漢文調で収録されています。
活字本は、写本の説明的な仮名書きを短い漢文調へ圧縮しています。
写本では「葛山備中次郎」という河越城攻略者の具体名が目立ちますが、活字本では河越城の陥落記事が簡潔に整理されています。
御製・関白良基・為定卿の和歌は、写本では大字の見出しによって独立して配置されます。活字本では編年本文中へ組み込まれ、版面構成が異なります。
写本第1ページ右丁に残る南帝系図末尾の細字と同じ配置は、活字本では確認しにくくなっています。
写本と活字本・作業台帳の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本・作業注記 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 河越事件の年次 | 正平二十二年/貞治六年(1367年) | 作業台帳では一般的年代を翌1368年と注記 | 写本年次を保持し、年代差を別注記とする |
| 河越城攻略者 | 葛山備中次郎を具体的に記す | 活字本は河越城没落を簡潔に記す | 写本独自の具体名として保存する |
| 足利基氏の死 | 「卯月二十六日、基氏死して」 | 活字本では人名・日付を簡潔に列記 | 四月二十六日の死を暫定本文へ採用する |
| 氏満 | 「氏満幼稚なれば」と説明 | 継承記事を圧縮 | 具体的年齢を本文で断定せず「幼い氏満」とする |
| 平一揆の子孫 | 亀山に住し、関一党となる | 同趣旨を短く整理 | 確定系譜ではなく写本の伝承として掲載する |
| 御製・公家和歌 | 大字見出しで独立して配置 | 活字本文中へ組み込む | 写本の版面構成を記録する |
| 第1ページ右丁 | 南帝系図末尾の細字が残る | 同じ配置を確認しにくい | 通常本文から分離し、系図資料として扱う |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 第1ページ右丁 | 後村上・長慶・後亀山周辺の系譜細字 | 行順と人物ごとの注記を分離できない | 低 |
| 冒頭の挙兵記事 | 二月五日、関東宮方・平一揆、河越城に楯籠る | 助詞・動詞の一部を前後関係で補っている | 中 |
| 基氏の病気記事 | 基氏病気・氏満名代に関する記事か | 数行が薄く、構文と行動を確定できない | 低 |
| 氏満の補佐者 | 上杉憲顕らか | 人名・語順を写本から完全には確認できない | 低~中 |
| 葛山備中次郎 | 葛山備中次郎 | 「葛」の字が崩れ、実名・所属も未確認 | 中 |
| 関一党 | 伊勢亀山の関一党 | どの家系へ続くかを系譜史料で確認していない | 中 |
| 今上御製 | 御製一首 | 「今上」の人物と歌の五句を確定できない | 低 |
| 関白良基 | 二条良基か | 歌の作者・返歌者・歌会での役割が不明 | 中 |
| 為定卿 | 為定/為邦/為秀 | 人物名の字形と歌の帰属が不明 | 低~中 |
| 第3ページの日付 | 夏四月二十三日 | どの年の記事か、年号標題との関係が未確定 | 中 |
| 人物名 | 春氏 | 細川氏春等への人物同定は未確定 | 低 |
| 河州・八幡 | 河内国・八幡方面の軍事記事 | 具体的な戦場・軍勢・勝敗が分からない | 低~中 |
| 正儀 | 楠木正儀か | 名字と前後文章の接続が不明瞭 | 中 |
| 第3ページ末尾 | 軍事記事が次partへ続く | 主語・敵味方・勝敗を確定できない | 低~中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第2冊part-3の全3ページを、一つの範囲として確認した。
- 第1ページ右丁の細字を通常本文から分離し、前節の南帝系図に付属する補注として整理した。
- 通常本文が第1ページ左丁の「南方紀伝」から始まることを確認した。
- 河越城籠城、足利基氏の死、氏満幼少、河越城陥落、平一揆の伊勢移動を一続きの編年記事として整理した。
- 写本の正平二十二年/貞治六年という年次を変更しなかった。
- 作業台帳が指摘する一般的年代との一年差は、史料注記として分離した。
- 「卯月二十六日、基氏死して」「氏満幼稚なれば」を、比較的明瞭な本文として採用した。
- 氏満の具体的年齢は写本本文に明示されていないため、主本文では断定しなかった。
- 上杉憲顕らの補佐は補読候補とし、写本の確定人名とはしなかった。
- 葛山備中次郎を、写本が記す河越城攻略者として保存した。
- 平一揆の子孫が伊勢亀山の関一党になったという記事を、確定系譜ではなく写本の伝承として扱った。
- 今上御製・関白良基・為定卿の和歌は、歌本文を推測で復元しなかった。
- 第3ページの春氏・河州・八幡・正儀記事は、次partとの接続を確認したが、主語・勝敗になお未解決部分があるため保留した。
- 河越城陥落後の処理と河内方面の戦闘は、次の第3節へ続くものとして区切った。
3.三つの政権の代替わり――義詮・後村上天皇の死と義満
対象年代:正平二十二年~正平二十四年/貞治六年~応安二年(1367~1369年)
対応史料:手書き写本第2冊 part-4/明治期活字本PDF第13画像・印刷24~25ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
part-3から続く冒頭二行、最勝講争闘の死傷表現、義満の元服日・加冠者、上杉入道と読まれる人物、南朝の皇位継承者名、長親の服喪歌には、写本と活字本の相違または判読保留があります。
この節の概要
関東では、河越城に立て籠もった平一揆が敗れ、宇都宮氏綱も降参しました。幼い足利氏満を中心とする鎌倉府は、有力武将の補佐を受けながら支配の立て直しを進めます。
京都では、最勝講という仏教法会の場で衆徒の争いが起こりました。その後、室町幕府の将軍・足利義詮が亡くなり、若い足利義満が後継者となります。
義満と氏満は、それぞれ京都と鎌倉で元服しました。義満の元服日は、写本が4月16日、明治期活字本が4月15日としており、一日の相違があります。
義満はさらに将軍に任じられ、若い将軍を中心とする新しい幕府体制が始まりました。
同じ時期、南朝では後村上天皇が亡くなり、新しい天皇へ皇位が継承されました。ただし、継承者の実名は、写本が「寛成親王」、活字本が「熙成親王」としており、重要な本文異同があります。
巻末近くには、長親と記される人物の服喪歌が置かれています。父と天皇を失った悲しみを、涙で乾かない藤衣に重ねた歌とみられますが、和歌の全文はまだ確定していません。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨を、記事の順序と相互関係が分かるよう説明文へ展開したものです。写本の逐字本文に対する最終的な全訳ではありません。
前partの河内・八幡方面の記事から続く
このpartの冒頭二行は、前part末尾にあった河内・八幡方面の軍事記事から続いている。
前partには、「河州」「八幡」「正儀」と読める語があり、楠木正儀に関係する戦いである可能性が考えられた。
しかし、part-4冒頭は連綿が強く、前後を続けても、誰が進軍し、誰と戦い、どちらが勝ったのかを完全には確定できない。
そのため、この第3節では、前の戦闘記事が続いていることだけを示し、冒頭二行の具体的な勝敗・人物関係は推測で補わない。
河越城陥落後の関東
関東では、宮方・平一揆が立て籠もった河越城が陥落した。
河越城の陥落は、幼い足利氏満を中心とする鎌倉方にとって、支配を安定させるための大きな出来事だった。
ただし、反抗勢力が河越城の陥落だけで完全に消えたわけではない。
関東各地には、平一揆や宮方に関係する武士、また鎌倉方と対立する地方勢力が残っていた。
このため鎌倉方は、落城後も周辺の有力武士を降伏させ、幼い氏満の支配を認めさせる必要があった。
平一揆の敗北
河越城を失った平一揆は、関東における主要な軍事拠点を失った。
前節では、敗れた平一揆の一部が伊勢国へ移り、その子孫が亀山の関一党になったという伝承が記されていた。
このpartにも河越城陥落後の処理が続くが、誰が討たれ、誰が逃れ、誰が降伏したかという詳しい区分は、冒頭の難読部分を含むため確定していない。
したがって、平一揆が敗れて関東の組織的な抵抗が弱まったという大筋を本文とする。
宇都宮氏綱が降参する
河越城陥落後、宇都宮氏綱も鎌倉方へ降参した。
氏綱は関東の有力武士であり、その去就は鎌倉府の支配に大きく関係した。
有力武士が抵抗を続ければ、幼い氏満の政権は安定しない。
反対に、氏綱が降参し、鎌倉府の支配を受け入れれば、周囲の武士にも大きな影響を与える。
ただし、氏綱がどの場所で、誰を仲介として、どのような条件で降参したかは、現在の作業台帳要旨では確認できない。
本ページでは「宇都宮氏綱が降参した」という確認できる内容までを扱う。
鎌倉府の若い後継者・氏満
足利基氏が亡くなった後、関東の支配はその子・氏満へ引き継がれた。
前節の写本は、氏満について「幼稚なれば」と記していた。
氏満は、河越城陥落と有力武士の降参が続く中で、関東の指導者として位置づけられていった。
しかし、氏満自身がすべての軍事・政治判断を行ったのではなく、有力家臣や上杉氏などの補佐を受けていたと考えられる。
このpartには「上杉入道」と読まれる可能性のある人物も現れるが、実名と記事中の役割は確定していない。
上杉入道と読まれる人物
鎌倉府関係の記事には、「上杉入道」と読める可能性のある人物が記されている。
氏満の補佐、宇都宮氏綱の降参、関東の軍事処理などに関係する人物である可能性がある。
しかし、法名・実名・官職のどこまでが書かれているかを確定できていない。
そのため、特定の上杉氏人物へ置き換えず、「上杉入道と読まれる人物」として判読保留に残す。
最勝講の場で争いが起こる
関東の記事に続き、京都の最勝講に関する事件が記される。
最勝講は、仏教経典を講じ、国家の安泰などを祈る法会である。
本来は宗教的な儀式の場だったが、この時には参加した衆徒の間で争いが起こった。
写本は「衆徒闘争して……死せり」と読める文章を記す。
ただし、誰が死亡したのか、負傷者と死亡者の両方がいたのか、数字や人物名が続くのかを確定できていない。
そのため、現代語訳では「衆徒の争いによって死傷者が出たとみられる」と限定して表現する。
宗教儀礼の場でも武力衝突が起こる
最勝講の記事は、当時の争いが城や戦場だけで起こったのではないことを示す。
大寺院の僧侶や衆徒も、それぞれの寺院・勢力・権益を背負って行動していた。
国家安泰を祈る法会であっても、参加者同士の対立が激しくなれば、武力衝突へ発展することがあった。
ただし、争いの原因、対立した寺院・集団、処分の内容は、現在の要旨では確定していない。
足利義詮が亡くなる
京都では、室町幕府を率いていた足利義詮が亡くなった。
義詮の死により、幕府は次の将軍を中心とする新しい体制へ移らなければならなくなった。
明治期活字本は、義詮の死去記事について、写本より詳しく享年などを記している。
しかし、現在の写本作業台帳に保存されているのは、義詮が亡くなり、義満への継承が進んだという要旨である。
そのため、写本で逐字確認していない享年・病名・臨終の状況を主本文へ補わない。
義詮の死後、義満が後継者となる
義詮の後を継ぐ人物として、その子・足利義満が位置づけられた。
しかし、義満もまだ若く、元服や将軍就任の儀式を経て、正式な政治的立場を整える必要があった。
幕府の有力武将や公家は、義満を中心とする新しい体制を作り、義詮死後の政治的な空白を防ごうとした。
この継承は、京都の幕府における世代交代だった。
足利義満の元服
義満は元服し、成人した武士としての姿を整えた。
元服とは、少年が髪形・服装・名前などを改め、社会的に成人として扱われるための儀式である。
将軍家の後継者にとって、元服は個人的な成長の儀式ではなく、政権の継承を内外へ示す政治的な意味を持った。
ただし、義満の元服日には、手書き写本と明治期活字本で相違がある。
元服日は写本4月16日・活字本4月15日
手書き写本は、義満の元服日を四月十六日と記す。
明治期活字本は、四月十五日と記す。
一日の差ではあるが、儀式の日付を確定するうえでは重要な本文異同である。
現在の校訂では、一方を誤記と決めず、
写本四月十六日/活字本四月十五日
として両方を保存する。
義満の加冠者
元服では、成人の髪形に整え、冠を着ける役割を担う人物がいた。
写本の第一次判読では、義満の加冠者を細川頼之と読む可能性がある。
一方、明治期活字本は、関白において加冠したと読める内容を示す。
武家の後見者と、公家社会の高位者のどちらが儀式を行ったのかによって、元服儀礼の意味も変わる。
しかし、現段階では人物を一人に確定できないため、「加冠者は未確定」とする。
足利氏満の元服
関東では、足利氏満も元服した。
氏満は、父・基氏が亡くなった時には幼かったが、元服によって鎌倉府の指導者としての形式を整えていく。
京都で義満が元服し、関東で氏満が元服したことは、足利一門の二つの政治拠点が、同時期に若い後継者へ移ったことを示す。
ただし、氏満の元服日、加冠者、儀式の場所などの細部は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
義満が将軍に任じられる
元服後、義満は将軍に任じられた。
これにより、義詮から義満への将軍職の継承が正式な形を整えた。
ただし、義満が若かったため、就任直後から一人で幕府政治のすべてを決めたわけではない。
有力武将・側近・公家との関係を通じ、若い将軍を支える政治体制が必要だった。
この節では、義満の長い政治活動の始まりとなる将軍就任までを扱う。
後村上天皇が亡くなる
南朝では、後村上天皇が亡くなった。
後村上天皇は、後醍醐天皇の死後に南朝の皇位を継ぎ、長い戦乱の中で南朝を支えてきた。
その崩御により、吉野の南朝も次の天皇へ皇位を引き継がなければならなくなった。
京都の幕府で義詮から義満へ、鎌倉府で基氏から氏満へ、南朝で後村上天皇から新帝へと、三つの政治的中心で世代交代が相次いだ。
南朝の皇位継承
後村上天皇の後、皇子が南朝の皇位を継いだ。
しかし、その皇子の実名について、写本と活字本は一致しない。
手書き写本は「寛成親王」と読める名を記す。
明治期活字本は「熙成親王」と記す。
一字の違いではあるが、皇位継承者の人物同定に直接関わる重要な異同である。
「寛成」と「熙成」
写本の「寛」と活字本の「熙」は、全く同じ意味の字ではない。
写本の崩し字を活字化する際に読み違えた可能性、活字本が別系統の写本を用いた可能性、写本側に異なる人物伝承が残った可能性などが考えられる。
しかし、現在の資料だけでは原因を確定できない。
そのため本ページでは、新帝の一般的な実名へ統一せず、
写本「寛成親王」/活字本「熙成親王」
という史料上の異同をそのまま保存する。
南朝は新しい天皇のもとで続く
後村上天皇が亡くなっても、南朝そのものが終わったわけではない。
新しい天皇が皇位を継承し、吉野を中心とする南朝の政治と軍事は続いた。
しかし、後村上天皇の時代に南朝を支えた人物の高齢化・死去、各地の軍事拠点の減少など、南朝を取り巻く状況は変化していた。
次節では、戦いを続ける一方で、南北朝の和平を探る動きが現れる。
長親の服喪歌
このpartの末尾近くには、長親と記される人物の和歌が置かれている。
作業台帳では、父と天皇の喪に服する悲しみを詠んだ歌として整理している。
暫定的には、
三年まで ほさぬ涙の 藤衣は……
と始まる歌と読まれている。
「藤衣」は、喪に服する際の衣を表すとみられる。
涙が絶えず、喪服が乾くこともないほどの深い悲しみを詠んだ歌と理解できる。
ただし、歌の後半と仮名一字ごとの形には再確認が必要であり、完全な和歌本文としては掲載しない。
「三つの政権」の意味
この節では、京都・鎌倉・吉野で相次いだ代替わりを一つの流れとして扱う。
- 京都の室町幕府:足利義詮から足利義満へ
- 関東の鎌倉府:足利基氏から足利氏満へ
- 吉野の南朝:後村上天皇から新しい天皇へ
三者は同じ制度ではないが、それぞれが京都・関東・南朝を動かす政治的中心だった。
『南方紀伝』は、これらの交代を別々の歴史として完全に分けず、同じ年代に起きた出来事として一続きに記している。
若い義満・氏満と、新しく皇位を継いだ南朝天皇が並び立つことで、南北朝争乱は新しい世代へ引き継がれた。
流れが分かる現代語訳
河越城が落ちると、関東で鎌倉方に反抗していた平一揆は大きな拠点を失った。
有力武士の宇都宮氏綱も降参し、幼い足利氏満を中心とする鎌倉府は、関東の支配を立て直していった。
京都では、最勝講という仏教の法会で衆徒が争い、死傷者が出たとみられる。
その後、室町幕府の将軍・足利義詮が亡くなった。
義詮の後継者となった足利義満は元服した。
ただし、その日付は、写本では4月16日、明治期活字本では4月15日となっている。
義満に冠を着けた人物も、細川頼之と読む可能性と、関白とする活字本の記述があり、まだ確定していない。
関東の氏満も元服し、京都と鎌倉では、若い足利一門の後継者が政治の中心に立つことになった。
義満は、その後、将軍に任じられた。
同じころ、吉野では後村上天皇が亡くなり、新しい天皇が南朝を継いだ。
ところが、新帝の実名は、写本では「寛成親王」、活字本では「熙成親王」と異なっている。
このため、本サイトでは、どちらか一方を正しい名前として勝手に選ばず、二つの表記を残す。
長親と記される人物は、父と天皇を失った悲しみを和歌に詠んだ。
歌には、三年たっても涙で乾かない藤衣という表現があるとみられる。
こうして、京都の幕府、関東の鎌倉府、吉野の南朝では、ほぼ同じ時期に指導者が交代した。
南北朝の戦いは終わらず、新しい世代へ引き継がれていった。
人物・用語・史料注記
足利義詮
室町幕府を率いていた将軍です。この節で死去が記され、子の義満へ政権が引き継がれます。享年などの細部は活字本の方が詳しく、写本の逐字再確認が必要です。
足利義満
義詮の後継者です。この節では元服と将軍就任が記されます。元服日は写本4月16日・活字本4月15日と異なります。
足利氏満
足利基氏の子で、幼くして関東の支配を継ぎました。この節では元服が記され、鎌倉府の指導者としての形式を整えます。
宇都宮氏綱
関東の有力武士です。河越城陥落後に降参したことが記されますが、降参の場所・条件・仲介者は現在の要旨では確定していません。
最勝講
仏教経典を講じる法会です。この節では、法会の場で衆徒の争いが起き、死傷者が出たとみられます。具体的な死傷表現は判読保留です。
元服
少年が髪形・服装・名前などを改め、成人として扱われるための儀式です。政治家・武将の後継者の場合、政権継承を示す重要な政治儀礼でもありました。
加冠者
元服の際に冠を着ける役割を担う人物です。義満の加冠者は、写本では細川頼之と読める可能性がありますが、活字本は関白とするため確定していません。
後村上天皇
後醍醐天皇の後を継いで南朝を支えた天皇です。この節で崩御が記され、南朝は次の皇位継承へ進みます。
寛成/熙成
後村上天皇の後継者として記される皇子の実名異同です。写本は寛成、明治期活字本は熙成とします。人物同定に関わるため、一方へ統一しません。
長親の服喪歌
父と天皇への喪に関係するとみられる和歌です。「三年までほさぬ涙の藤衣は……」と暫定的に読まれますが、歌の全文は確定していません。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第2冊 part-4、全3ページ
- 対象年代:正平二十二年~正平二十四年/貞治六年~応安二年(1367~1369年)
- 内容区分:編年本文
- 明治期活字本:PDF第13画像・印刷24~25ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 公開前の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
part-3末尾の河内・八幡・正儀と読まれる軍事記事から続く。
冒頭二行は連綿が強く、主語・戦場・勝敗を確定できない。
河越城陥落後の平一揆関係記事を記す。
宇都宮氏綱、降参する。
最勝講において衆徒の争いが起こり、死傷者が出たとみられる。ただし逐字未確定。
足利義詮、薨去する。
足利義満・氏満、元服する。
義満元服の日、写本は四月十六日とする。
義満の加冠者は細川頼之と読める可能性があるが、未確定。
義満、将軍に任じられる。
後村上院、崩御する。
皇位継承者を、写本は寛成親王と記す。
長親の服喪歌を載せる。「三年までほさぬ涙の藤衣は……」と暫定判読。
校訂本文――公開用仮本文
前partの河内・八幡方面の軍事記事より続く。ただし冒頭二行、なお未確定。
河越城落ち、平一揆敗る。
宇都宮氏綱、降参す。
最勝講において衆徒争闘し、死傷ありとみらる。ただし死亡・負傷の別、人数、人物未確定。
足利義詮、薨ず。
その後、足利義満、元服す。
元服の日、写本は四月十六日、活字本は四月十五日とす。
加冠者、写本は細川頼之とも読め、活字本は関白とする。なお定まらず。
足利氏満も元服す。儀式の日付・加冠者は未確定。
義満、将軍職を継ぐ。
後村上院、崩御す。
皇子、南朝の皇位を継ぐ。写本は寛成親王、活字本は熙成親王と記す。
長親、父および天皇の喪に関係するとみられる和歌を詠ず。
「三年まで ほさぬ涙の 藤衣は……」
〔日吉神輿・南禅寺争論、宗良親王信濃下向の記事へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第13画像・印刷24~25ページ付近には、河越城陥落後の関東記事、宇都宮氏綱の降参、最勝講争闘、足利義詮の死、義満・氏満の元服、義満の将軍就任、後村上院崩御と南朝皇位継承に対応する記事が収録されています。
活字本は、義詮の享年や最勝講の記事を、写本の第一次判読より詳しく記しています。
一方、義満の元服日は活字本四月十五日で、写本四月十六日と一日異なります。
義満の加冠者についても、写本では細川頼之と読む可能性があるのに対し、活字本は関白において加冠したと読めるため、確定していません。
南朝の皇位継承者は、写本「寛成親王」、活字本「熙成親王」と異なります。
長親の服喪歌は活字本によって一部を補える可能性がありますが、写本の仮名一字ごとの最終確認が必要です。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| part冒頭 | 前partから二行続くが連綿が強い | 記事を漢文調に整理 | 戦場・主語・勝敗を確定せず、接続記事として保持する |
| 最勝講争闘 | 「衆徒闘争して□死せり」と読める | 死傷記事を写本より詳しく記す | 「死傷者が出たとみられる」と限定する |
| 義満元服日 | 四月十六日 | 四月十五日 | 重要な日付異同として両方を保存する |
| 義満の加冠者 | 細川頼之と読める可能性 | 関白において加冠と読める | 加冠者を確定しない |
| 義詮の記事 | 薨去を簡潔に記す | 享年などを詳記 | 写本で確認できない細部を主本文へ補わない |
| 皇位継承者 | 寛成親王 | 熙成親王 | 人物名の重要異同として両方を保存する |
| 長親服喪歌 | 仮名の続き書きで一部難読 | 歌句を補える可能性 | 全文を確定せず、冒頭の暫定読みのみ示す |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 第1ページ右冒頭 | part-3から続く二行 | 連綿が強く、主語・戦場・勝敗を確定できない | 低 |
| 最勝講争闘 | 衆徒闘争して□死せり | 負傷・死亡の別、主語、人数が不明 | 低~中 |
| 義満元服日 | 四月十六日/四月十五日 | 写本と活字本で一日異なる | 中 |
| 義満加冠者 | 細川頼之か/関白か | 写本と活字本で儀式担当者が異なる可能性 | 低 |
| 関東関係者 | 上杉入道 | 実名・法名・記事中の役割が未確定 | 低 |
| 皇位継承者 | 寛成親王/熙成親王 | 人物同定に関わる重要な本文異同 | 中 |
| 長親服喪歌 | 三年までほさぬ涙の藤衣は…… | 仮名一字ごとの形と下句を再確認する必要がある | 低~中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第2冊part-4の全3ページを一つの範囲として確認した。
- part-3末尾の河内・八幡・正儀関係記事から、part-4冒頭二行への接続を確認した。
- 接続後も冒頭二行の構文が確定しないため、具体的な勝敗・人物関係を補わなかった。
- 河越城陥落、平一揆敗北、宇都宮氏綱降参を、関東の鎌倉府再編として整理した。
- 最勝講争闘は、死亡・負傷の別と人数を確定せず、「死傷者が出たとみられる」とした。
- 足利義詮の死から義満への継承を、京都幕府の代替わりとして整理した。
- 氏満の元服を、基氏死後の鎌倉府における後継体制整備として整理した。
- 義満元服日は、写本四月十六日・活字本四月十五日の両方を保存した。
- 義満の加冠者は、細川頼之説と活字本の関白記事が一致しないため、人物を確定しなかった。
- 後村上院崩御と皇位継承を、南朝の代替わりとして整理した。
- 皇位継承者は、写本「寛成」・活字本「熙成」を一方へ統一しなかった。
- 長親の服喪歌は、冒頭句の暫定読みを保存したが、歌全文を推測で復元しなかった。
- 京都幕府・鎌倉府・南朝の三者で相次いだ世代交代を、この節の公開用主題とした。
4.南北朝和平交渉――宗良親王の信濃下向と細川頼之の提案
対象年代:正平二十四年~建徳元年/応安二年~応安三年(1369~1370年)
対応史料:手書き写本第2冊 part-5/明治期活字本PDF第13左~14右画像・印刷25~26ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
宗良親王の和歌、佐々木雪江と読まれる人物、大風の日付、満詮帰京の日付、本田陣・香坂高宗・上松、南朝関係国の「志摩」、粉河寺へ続く記事には、写本と活字本の相違または判読保留があります。
この節の概要
京都では、日吉社の神輿が都へ入り、南禅寺をめぐる寺社間の争いが起こりました。寺院と神社は宗教施設であると同時に、多くの土地・人・権益を持つ政治勢力でもありました。
南朝方では、顕信と記される人物が出家し、宗良親王は信濃方面へ向かいました。親王は和歌を詠みながら各地を移動し、大河原などを拠点として活動します。
信濃では、本田陣・香坂高宗・上松と読まれる地名・人物に関係する戦いが起こりました。しかし、雪が深くなったため、軍事行動を続けられず、戦いは中断したと整理されています。
その一方で、室町幕府の細川頼之は、南北朝の戦争を終わらせるための和平条件を示しました。皇統を交替させること、南朝方の領地を認めること、官位や待遇を整えることなどが話し合われたとみられます。
しかし、南北双方が納得する形にはならず、交渉は成立しませんでした。
写本は、この時点で南朝方に関係していた二十余国を列挙します。ただし、これは各国全域を南朝が完全に支配していたという意味ではなく、南朝方の武士・城・勢力が存在した国をまとめた可能性があります。
和平交渉がまとまらなかった後も、河内・紀伊では戦いが続きます。節の末尾は、敗れた宇都宮勢が粉河寺へ入るとみられる記事へ続きます。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、記事の順序と関係が分かるよう説明文へ展開した現代語訳です。写本の逐字本文に対する最終的な全訳ではありません。
後村上天皇崩御後の時代
前節では、京都の室町幕府、関東の鎌倉府、吉野の南朝で、相次いで指導者が交代した。
京都では足利義詮から足利義満へ、関東では足利基氏から足利氏満へ、南朝では後村上天皇から次の天皇へと代替わりが進んだ。
しかし、指導者が新しい世代へ替わっても、南北朝の対立は終わらなかった。
各地ではなお戦いが続き、京都では寺社勢力の争いも起こっていた。
この節では、戦争を続ける動きと、和平によって終わらせようとする動きが同時に現れる。
日吉神輿が都へ入る
京都では、日吉社の神輿が都へ入った。
神輿は神を乗せるものと考えられており、神輿を都へ運び入れる行為には、朝廷や幕府へ強く要求を訴える意味があった。
写本は、日吉神輿の入洛を南禅寺に関係する争論と結びつけて記している。
ただし、誰が神輿を担ぎ、どの寺院・僧侶と対立し、幕府がどのような処置を取ったのかという細部は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
本ページでは、日吉社側が神輿を都へ入れ、南禅寺をめぐる争いについて政治的な解決を求めたという大筋を示す。
日吉社と南禅寺をめぐる争い
日吉社と南禅寺の問題は、単なる宗教上の考え方の違いではなかった。
寺院と神社は、土地・建物・人員・収入・朝廷や幕府との関係を持つ大きな組織だった。
そのため、寺社の地位や権利をめぐる争いは、京都の政治にも影響を与えた。
写本では神輿入洛の記事が大きな政治事件として編年本文に記されている。
ただし、争論の具体的な原因・要求・解決条件は、逐字本文を再確認した後に整理する必要がある。
顕信が出家する
この時期、顕信と記される人物が出家した。
第1冊以来の人物関係からは、北畠顕信を指す可能性が高い。
しかし、今回の作業台帳に保存されているのは「顕信出家」という記事の要旨であり、法名・寺院・出家の理由までは確定していない。
そのため、本ページでは「顕信と記される人物が出家した」とし、法名やその後の活動を推測で補わない。
南朝を支えてきた人物が出家することは、南朝勢力の世代交代や軍事力の変化を考えるうえでも注目される記事である。
宗良親王の和歌
宗良親王に関係する和歌も記されている。
作業台帳では、「帰りわびたる雁の一行」と読める部分を含む歌として登録されている。
しかし、歌の上句・下句、どこで句が切れるか、詞書と歌本文の境界には未確定部分がある。
「雁の一行」は、空を一列に飛ぶ雁の姿と、手紙の一行を重ねる表現である可能性も考えられる。
ただし、逐字本文が確定していないため、現段階で歌意を一つに決めず、旅・帰郷・消息に関係するとみられる和歌として扱う。
宗良親王が信濃へ向かう
宗良親王は、再び信濃方面へ向かった。
宗良親王は第1冊末尾でも、遠江・駿河・甲斐・信濃・越中方面を移動していた。
この旅も、名所を見るだけの旅行ではなく、南朝方の武士を集め、軍事的・政治的な拠点を作るための移動だった。
しかし、信濃の武士がすべて南朝方だったわけではなく、幕府方との戦いを続けなければならなかった。
宗良親王は、和歌を詠む皇族であると同時に、地方の南朝勢力をまとめる象徴として活動した。
伊勢方面でも戦いが続く
宗良親王の信濃下向と並行して、伊勢方面でも合戦が続いていた。
伊勢は北畠氏と南朝皇族の活動に深く関係する地域だった。
しかし、今回のpartでは、戦場名・指揮者・勝敗の一部が不明瞭である。
そのため、伊勢において南朝方と幕府方の戦いが行われたことを確認できる内容とし、具体的な城や討死者を推測で補わない。
伊勢戦線が続いていたことは、南北朝和平が提案される一方で、各地の戦争は止まっていなかったことを示す。
大風が吹く
九月、非常に強い風が吹いた。
この大風によって、鎌倉の大仏殿が倒壊したと記されている。
ただし、大風の日付は手書き写本と明治期活字本で一致しない。
写本は九月二日と読める。
明治期活字本は九月三日と記す。
一日の差ではあるが、災害記録を確定するうえで重要な異同である。
現在の校訂では、写本九月二日・活字本九月三日として両方を保存する。
鎌倉大仏殿が倒壊する
大風によって倒れた建物は、鎌倉大仏を覆っていた大仏殿とされる。
『南方紀伝』は、政治・戦争だけでなく、風・雪・地震・火災などの災害も年代順に記録している。
大きな寺院建築の倒壊は、宗教施設の被害であるだけでなく、当時の人々にとって異変や時代の不安定さを感じさせる出来事だったと考えられる。
ただし、倒壊した建物の範囲、人的被害、再建の経過は、このpartの要旨からは確認できない。
満詮が帰京する
十月には、満詮と記される人物が京都へ帰った。
しかし、その日付にも写本と活字本の相違がある。
写本は十月十二日と読める。
明治期活字本は十月十三日と記す。
満詮がどの場所から帰京し、どの軍事・政治活動を終えて戻ったのかは、現在の要旨だけでは確定できない。
そのため、本ページでは、満詮の帰京と日付異同のみを示す。
佐々木雪江と読まれる人物
この範囲には、佐々木雪江と暫定的に読んでいる人物名も現れる。
「雪江」が実名・法名・号のどれに当たるのか、また「佐々木」と一続きの人物名であるかは確定していない。
寺社争論、軍事行動、使者などのどの記事に関係する人物かも再確認を要する。
このため、現代語訳の主本文へ具体的な行動を入れず、判読保留事項として保存する。
信濃の大河原をめぐる攻防
宗良親王が活動した信濃では、大河原をめぐる戦いが起こった。
大河原は、第1冊末尾の宗良親王紀行にも現れた地名である。
この時期には、単なる旅の滞在地ではなく、南朝方の軍事拠点またはその周辺地域として記事に現れる。
しかし、大河原の城・館・陣所の具体的な位置、指揮者、攻撃側と守備側の構成は確定していない。
本ページでは、宗良親王側と幕府方とみられる勢力が、大河原周辺で攻防を続けたという大筋を示す。
本田陣
信濃の戦いには、本田陣と読まれる陣所が現れる。
「本田」が地名・名字・土地所有者の名のどれに当たるかは確定していない。
また、本田陣が南朝方の陣なのか、幕府方の陣なのかも、現在の作業台帳要旨だけでは決められない。
そのため、信濃戦線に存在した陣所名の暫定読みとして保存する。
香坂高宗
信濃の記事には、香坂高宗と読まれる人物名が現れる。
第1冊末尾の宗良親王紀行にも、同じ人物名とみられる語があった。
宗良親王を支援した信濃の武士である可能性があるが、今回の写本での行動・所属・役割は完全には確定していない。
そのため、「宗良親王側の武士」と断定せず、大河原攻防に関係する人物として暫定的に示す。
上松と読まれる場所
大河原周辺の記事には、上松と読まれる地名も現れる。
現在知られる地名へ比定できる可能性はあるが、写本の字形と戦闘経路を確定するまでは断定しない。
本田陣・香坂高宗・上松は、一続きの軍事記事に置かれているとみられる。
しかし、人名・地名・陣所をどこで区切るかに問題があるため、公開用仮本文では個々の行動を詳述しない。
大雪によって戦いが中断する
信濃の戦いは、雪のため続けることが難しくなった。
山間部や高地で雪が深くなれば、軍勢の移動だけでなく、食料・馬・武器を運ぶことも難しくなる。
攻撃側は長期間陣を維持できず、守備側も外部との連絡を失う危険があった。
作業台帳では、大河原方面の戦いが雪によって中断したと整理している。
このことは、中世の戦争が兵士の数だけでなく、季節・天候・道路・補給に大きく左右されたことを示している。
戦争を終わらせるための動き
各地で戦いが続く一方、京都では南北朝の対立を話し合いによって終わらせようとする動きが現れた。
その中心人物として、細川頼之の名が記される。
頼之は、南朝方と北朝・幕府方がどのような条件で和平できるかを示したとされる。
ただし、写本は仮名交じりの文章で条件を詳しく説明し、明治期活字本は漢文調に圧縮している。
そのため、細かな語句・主語・提案者と回答者の関係には、逐字再校訂が必要である。
和平案の第一の問題――皇統
和平案では、南朝と北朝の皇統をどのように扱うかが大きな問題となった。
作業台帳では、両方の皇統が交替して皇位を継ぐことに関係する条件として整理されている。
南朝方にとって、皇統の正統性は戦いの中心的な理由だった。
そのため、単に戦闘を停止するだけでなく、今後どちらの皇統が天皇となるかを決めなければ、根本的な解決にはならなかった。
ただし、何代ごとに交替するのか、最初にどちらが皇位を継ぐのかという具体的な条文は、現在の台帳要旨では確定していない。
和平案の第二の問題――領地
南朝方の武士や公家が持っていた領地をどうするかも重要な問題だった。
長い戦争の間に、南朝方の所領が幕府方の武士へ与えられたり、逆に南朝方が地方の土地を支配したりしていた。
和平が成立しても、土地を失うのであれば、南朝方の武士は納得しにくい。
一方、すでにその土地を支配している幕府方の武士から所領を取り上げれば、幕府内部で新たな反発が起こる。
写本の和平条件には、南朝方の領地または勢力圏を認めることに関係する説明があると整理されている。
和平案の第三の問題――官位と待遇
南朝方の皇族・公家・武士を、和平成立後にどのような官位・地位で扱うかも問題となった。
南朝方の人物を反逆者として処罰するのか、これまでの官位を認めるのか、新たな地位を与えるのかによって、和平後の政治秩序は大きく変わる。
作業台帳は、官位や待遇も和平条件に含まれていたと整理している。
しかし、具体的に誰へどの官位を与えるという個別条件は、現段階では確定していない。
南朝側にも和平を考える理由があった
南朝は各地に味方を持っていたが、長い戦争によって有力な皇族・公家・武将を失っていた。
信濃・伊勢・河内・紀伊・九州などに拠点が残っていても、それぞれの地域は遠く離れていた。
援軍と食料を送り合うことも難しく、幕府方の大軍へ長期間対抗し続けることは容易ではなかった。
そのため、南朝の皇統・領地・官位が一定程度認められるのであれば、和平を検討する余地があったと考えられる。
ただし、これは和平案の内容から整理した説明であり、個々の南朝人物がどのような意見を持っていたかは、写本本文から確定していない。
幕府側にも和平を考える理由があった
幕府側も、全国各地の南朝勢力と戦い続けるには、多くの軍勢・食料・費用が必要だった。
信濃・伊勢・河内・紀伊・九州などで戦いが続けば、幕府に従う武士へ繰り返し出陣を命じなければならない。
長い戦争は、幕府内部の武士の不満や、地方支配の不安定化にもつながる可能性があった。
そのため、細川頼之が条件を示して和平を試みたことは、幕府側にとっても戦争を終わらせる利益があったことを示す。
ただし、頼之が単独で案を作ったのか、将軍義満やほかの有力者と相談したのかは、現在の作業台帳要旨では確定していない。
和平交渉は成立しなかった
細川頼之の和平案は、最終的な合意には至らなかった。
皇統・領地・官位は、いずれも南北双方にとって簡単には譲れない問題だった。
一方の条件を認めれば、もう一方が自分たちの正統性・権利・恩賞を失う可能性がある。
また、京都で和平条件を決めても、各地で実際に城や土地を守っている武士が従うとは限らなかった。
このため、和平の提案が行われても、戦争を直ちに止めることはできなかった。
南朝方に関係する二十余国
和平交渉の記事の中で、写本は南朝方に関係する国々を列挙する。
その数は二十余国とされる。
しかし、二十余国すべてを南朝が国単位で完全に支配していたと理解するのは適切ではない。
一つの国の中でも、南朝方の城・武士・寺社が存在する一方、別の地域は幕府方が支配していることがあった。
したがって、この国名列挙は、南朝方の勢力・支持者・拠点が存在した国を示すものとして慎重に扱う。
国名列挙の「志摩」
南朝関係国の列挙には、志摩と読める国名が含まれる可能性がある。
しかし、写本の文字が薄く、前後の国名との区切りにも問題がある。
また、志摩国全体を南朝が支配したという意味なのか、志摩国内に南朝方勢力がいたことを示すのかも区別する必要がある。
このため、公開用本文では「志摩を含むと読める二十余国」とし、国全体の完全支配とは説明しない。
和平案が南朝の勢力圏を示す理由
和平条件を決めるためには、南朝方がどの地域に勢力を持っているかを確認する必要があった。
南朝方の拠点がある国を把握しなければ、どの領地を認め、どの武士を和平の対象とするかを決められない。
そのため、二十余国の列挙は単なる地理説明ではなく、和平後の領地処理に関係する資料だった可能性がある。
ただし、写本がどの資料に基づいて国名を列挙したのかは確定していない。
活字本だけにある報恩護国院建立記事
明治期活字本には、報恩護国院の建立に関係する記事がある。
しかし、今回の手書き写本part-5では、同じ記事を確認できない。
写本側で記事が省略されたのか、活字本の底本にだけ存在したのか、別の場所へ移されたのかは分からない。
したがって、報恩護国院建立を写本本文へ補い入れず、
明治期活字本にのみ確認できる記事
として異同欄に記録する。
建徳元年・応安三年へ
本文は、南朝年号の建徳元年、北朝年号の応安三年の記事へ進む。
和平交渉が成立しなかったため、各地の戦いは続いた。
河内・紀伊は、南朝にとって重要な軍事拠点が残る地域だった。
幕府方はこれらの地域へ軍勢を送り、南朝方の城・寺院・武士を攻撃した。
ただし、各軍勢の指揮者・人数・攻撃日には判読保留があるため、主本文では大きな流れを中心に示す。
河内方面の戦い
河内では、南朝方と幕府方の戦いが続いた。
河内は楠木氏など南朝方の勢力と関係する地域であり、南北朝の対立が長く残った。
しかし、今回のpartでは、どの城を誰が守り、どの軍勢が攻撃したかを完全には確定できない。
このため、「河内方面で戦闘が続いた」という確認できる範囲にとどめる。
具体的な人物名・城名は、活字本の版面と次partを再照合した後に補う。
紀伊方面の戦い
紀伊でも、南朝方の拠点に対する攻撃が行われた。
紀伊には寺院や山地の拠点があり、軍勢が籠もって抵抗する場所となった。
part-5末尾から次のpart-6冒頭にかけて、宇都宮と記される軍勢と粉河寺に関係する記事が続く。
ただし、宇都宮勢がどの戦いで敗れ、誰に追われて粉河寺へ入ったのかという因果関係は、次partとの接続を含めて再確認が必要である。
宇都宮勢が敗れる
節の末尾には、宇都宮と記される軍勢が敗れたとみられる記事がある。
その後、粉河寺へ入ったと読める文章へ続く。
しかし、「宇都宮」が一族全体・特定の武将・軍勢の呼称のどれに当たるかは確定していない。
また、粉河寺へ入ったことが逃亡・籠城・祈願・再集結のどれを意味するかも、次part冒頭の文章を含めて検討する必要がある。
そのため、この節では「宇都宮勢が敗れ、粉河寺へ入ったとみられる」と限定して示す。
粉河寺の記事へ続く
part-5の最後の文章は、part-6冒頭へ続いている。
次partでは、粉河寺の観音に関係する立願と読まれる文章が現れる。
しかし、誰が立願したのか、宇都宮勢の敗北とどのようにつながるのかは確定していない。
このため、粉河寺の立願・戦後処理は次の第5節で扱う。
和平と戦争が同時に進む
この節の大きな特徴は、和平交渉と地方戦争が同時に記されていることである。
京都では細川頼之が南北朝を終わらせる条件を考えていた。
しかし、信濃・伊勢・河内・紀伊では、武士たちが実際に戦い続けていた。
中央で合意を作ろうとしても、地方の土地・城・一族の問題を解決できなければ、戦争は終わらない。
この時の和平案が成立しなかった後も、南北朝の戦いは長く続くことになる。
流れが分かる現代語訳
京都では、日吉社の神輿が都へ運び込まれ、南禅寺をめぐる争いが起こった。
寺や神社は、宗教施設であるだけでなく、多くの土地や人を持つ大きな勢力だった。
そのため、寺社の争いは朝廷や幕府が対応しなければならない政治問題となった。
南朝方では、顕信と記される人物が出家し、宗良親王は信濃へ向かった。
宗良親王は和歌を詠みながら、南朝に味方する武士と拠点を求めて移動した。
信濃の大河原などでは戦いが起こったが、雪が深くなり、軍勢を動かせなくなったため、戦いは中断した。
九月には大風が吹き、鎌倉の大仏殿が倒れた。
ただし、その日は写本では9月2日、活字本では9月3日となっている。
満詮が京都へ戻った日も、写本では10月12日、活字本では10月13日と一日違う。
このころ、室町幕府の細川頼之は、南北朝の戦争を終わらせるための条件を示した。
和平案では、南朝と北朝の皇統を交替させること、南朝方の領地を認めること、官位や待遇を整えることなどが問題となった。
しかし、皇位・土地・官位は、どれも南北双方が簡単には譲れない問題だった。
そのため、話し合いはまとまらなかった。
写本は、この時に南朝方と関係していた国が二十余国あったと記す。
ただし、二十余国のすべてを南朝が完全に支配していたという意味ではない。
その国の中に、南朝方の城や武士が存在したという意味も含まれると考えられる。
和平が成立しなかったため、河内・紀伊では戦いが続いた。
宇都宮勢とみられる軍勢は敗れ、粉河寺へ入ったと記される。
次の節では、粉河寺の記事、懐良親王の明国への使者、今川貞世の九州下向へ進む。
人物・用語・史料注記
日吉神輿
日吉社の神を乗せる神輿です。神輿を都へ運び入れることは、寺社側が朝廷や幕府へ強く要求を訴える手段となることがありました。この節では南禅寺をめぐる争論に関係します。
南禅寺
京都の大寺院です。この節では、日吉社側との争論に関係する寺院として記されます。争いの具体的な原因・要求・決着は逐字再確認が必要です。
顕信
この節で出家が記される人物です。北畠顕信を指す可能性がありますが、法名・寺院・出家理由は現在の作業台帳要旨では確定していません。
宗良親王
後醍醐天皇の皇子です。この節では和歌と信濃下向が記され、大河原方面の南朝活動に関係します。
大河原
宗良親王の信濃における活動に関係する場所です。第1冊末尾では旅の滞在地として、この節では軍事拠点または戦場として現れます。
細川頼之
室町幕府側の政治を担った人物です。この節では、南北朝の和平条件を示した人物として記されます。提案の逐字全文と交渉相手は再校訂が必要です。
皇統の交替
南朝と北朝の両方の皇統が、交替して皇位を継ぐという考えです。この時点の和平案に関係しますが、具体的な順序・期間・条文は確定していません。
南朝関係国二十余国
写本が南朝方に関係する国として列挙する二十余国です。国全体の完全支配とは限らず、南朝方の城・武士・寺社・地域勢力が存在した国を含むものとして慎重に扱います。
報恩護国院
建立記事が明治期活字本にありますが、今回の手書き写本part-5では確認できません。写本本文へ補入せず、活字本だけにある記事として記録します。
粉河寺
紀伊方面の戦いと、宇都宮勢の敗北後の記事に現れます。誰が何のために寺へ入り、観音へ立願したのかは、次partとの接続を含めて再確認が必要です。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第2冊 part-5、全3ページ
- 対象年代:正平二十四年~建徳元年/応安二年~応安三年(1369~1370年)
- 内容区分:編年本文・和平交渉
- 明治期活字本:PDF第13左~14右画像・印刷25~26ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 公開前の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
正平二十四年/応安二年の記事。
日吉神輿、入洛する。
南禅寺をめぐる寺社争論に関する記事を記す。
顕信、出家する。
宗良親王の和歌を載せる。「帰りわびたる雁の一行」と読める部分があるが、全文未確定。
宗良親王、信濃方面へ下向する。
伊勢において合戦あり。
九月、大風あり。鎌倉大仏殿倒壊す。日付は写本九月二日と読める。
満詮、帰京する。日付は写本十月十二日と読める。
佐々木雪江と読まれる人物の記事あり。人物・行動未確定。
信濃大河原方面において攻防あり。
本田陣・香坂高宗・上松と読まれる人名・地名・陣所が現れる。
雪のため軍事行動を続けられず、戦いを中断したとみられる。
細川頼之、南北朝和平の条件を示す。
皇統の交替、南朝方の領地、官位・待遇等をめぐる条件とみられる。
和平交渉、成立せず。
南朝方に関係する二十余国を列挙する。志摩を含む可能性あり。
建徳元年/応安三年の記事へ進む。
河内・紀伊方面において戦いあり。
宇都宮勢とみられる軍勢、敗れて粉河寺へ入ると読める。
末尾は次partの粉河寺・観音立願記事へ続く。
校訂本文――公開用仮本文
正平二十四年/応安二年。
日吉神輿、入洛す。南禅寺をめぐる寺社争論あり。
顕信と記される人物、出家す。
宗良親王の和歌あり。「帰りわびたる雁の一行」と読める部分あり。ただし全文未確定。
宗良親王、信濃の方へ下向す。
伊勢において合戦あり。戦場・人物・勝敗、なお未確定。
九月、大風あり。鎌倉大仏殿倒壊す。
大風の日、写本は九月二日、活字本は九月三日とす。
満詮、帰京す。
帰京の日、写本は十月十二日、活字本は十月十三日とす。
信濃大河原の辺において攻防あり。
本田陣・香坂高宗・上松と読まれる記事あり。ただし人名・地名・陣所の区切り未確定。
雪深く、軍勢の進退かなわず、戦いを中断したとみらる。
細川頼之、南北朝和平の条件を示す。
両皇統の交替、南朝方所領の扱い、官位・待遇等を議すとみらる。
されども、和平成立せず。
南朝方に関係する二十余国を列挙す。ただし各国全域の支配を意味するとは限らず。
建徳元年/応安三年。
河内・紀伊において合戦あり。
宇都宮勢とみられる軍勢、敗れて粉河寺へ入る。
〔粉河寺観音への立願、紀伊戦後、南朝の対明外交へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第13左~14右画像・印刷25~26ページ付近には、日吉神輿と南禅寺の争論、宗良親王の信濃下向、伊勢・大河原方面の戦い、細川頼之の南北朝和平案、南朝関係国、河内・紀伊方面の戦いに対応する記事が収録されています。
和平条件について、写本は仮名交じりの文章で比較的詳しく説明し、活字本は漢文調に圧縮しています。
鎌倉大仏殿を倒した大風の日は、写本九月二日・活字本九月三日と異なります。
満詮の帰京日は、写本十月十二日・活字本十月十三日と異なります。
活字本には報恩護国院の建立記事がありますが、手書き写本part-5では対応記事を確認できません。
南朝方の二十余国については、写本・活字本とも国名を列挙しますが、写本では薄字・崩し字・国名間の区切りに問題があります。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 鎌倉大仏殿倒壊の日 | 九月二日と読める | 九月三日 | 重要な日付異同として両方を保存する |
| 満詮帰京の日 | 十月十二日と読める | 十月十三日 | 一日の異同候補として両方を保存する |
| 和平条件 | 仮名交じりで条件を比較的詳しく説明 | 漢文調に圧縮 | 内容の大筋を統合し、逐字表現の差を注記する |
| 報恩護国院建立 | 対応記事を確認できない | 上杉兵部による建立記事を載せる | 活字本だけにある記事として扱い、写本へ補入しない |
| 南朝関係国 | 二十余国を和文で列挙 | 国名を漢文調で列挙 | 勢力の存在を示すものとし、各国全域支配とは説明しない |
| 志摩 | 志摩と読める可能性がある | 国名として確認できる可能性 | 写本字形を再確認するまで暫定表記とする |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 宗良親王の和歌 | 帰りわびたる雁の一行 | 上句・句切れ・詞書と歌本文の境界を活字本に依存している | 低~中 |
| 人物名 | 佐々木雪江 | 名字・法名・実名の区切りと記事中の役割が不明 | 低 |
| 大風の日付 | 九月二日/九月三日 | 写本と活字本で一日異なる | 中 |
| 満詮帰京の日付 | 十月十二日/十月十三日 | 写本と活字本で一日異なる | 中 |
| 信濃戦線 | 本田陣・香坂高宗・上松 | 地名・人名・陣所の具体的区切りと所属を確定できない | 低~中 |
| 南朝関係国 | 志摩を含む二十余国 | 薄字と国名の区切りに問題があり、支配範囲の解釈にも注意が必要 | 中 |
| part末尾 | 宇都宮敗軍して粉河寺へ入る | 次part冒頭の立願記事との主語・因果関係が未確定 | 中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第2冊part-5の全3ページを、一つの編年範囲として確認した。
- 前partの後村上院崩御・皇位継承・長親服喪歌から、日吉神輿入洛記事へ続く接続を確認した。
- 日吉神輿と南禅寺の争論を、寺社勢力が京都政治へ影響を与えた記事として整理した。
- 顕信の出家は確認したが、法名・寺院・出家理由を推測で補わなかった。
- 宗良親王の歌は、「帰りわびたる雁の一行」という暫定句を保存したが、全文を復元しなかった。
- 宗良親王の信濃下向、大河原攻防、本田陣・香坂高宗・上松の記事を一続きの信濃戦線として整理した。
- 雪によって軍事行動が中断したという作業台帳の要旨を採用した。
- 鎌倉大仏殿倒壊日は、写本九月二日・活字本九月三日の両方を保存した。
- 満詮帰京日は、写本十月十二日・活字本十月十三日の両方を保存した。
- 細川頼之の和平案を、皇統・領地・官位待遇をめぐる交渉として整理した。
- 和平案の具体的条文・交替順序・対象人物は、台帳要旨を超えて推測しなかった。
- 南朝関係国二十余国を、各国全域の完全支配とは解釈しなかった。
- 志摩の文字は、国名列挙に含まれる可能性を残しつつ判読保留とした。
- 活字本だけにある報恩護国院建立記事を、写本本文へ補入しなかった。
- 河内・紀伊戦から宇都宮勢の敗北・粉河寺への移動へ続く接続を確認した。
- 粉河寺観音への立願記事は次part冒頭に続くため、主語・因果を確定せず次節へ送った。
5.南朝の対明外交――懐良親王の遣使と今川貞世の九州下向
対象年代:建徳元年~文中二年/応安三年~応安六年(1370~1373年)
対応史料:手書き写本第2冊 part-6/明治期活字本PDF第14画像・印刷26~27ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
粉河寺観音への立願、伊勢合戦の「世保」、懐良親王・宗良親王の和歌、和泉合戦の武将名と勝敗、明使の発言に現れる「鎮西親王/関西親王」には、判読保留があります。
また、円覚寺炎上後に活字本だけが載せる「南帝譲位・吉野没落」記事は、写本本文へ補い入れません。
この節の概要
前節末尾では、紀伊方面で敗れた宇都宮勢とみられる軍勢が粉河寺へ入ったところまでが記されていました。
この節の冒頭では、粉河寺の観音に関係する立願と、宇都宮・畠山と記される勢力の紀伊での戦いが続きます。ただし、誰が何を祈願したのか、宇都宮方と畠山方のどちらが攻撃側だったのかは、まだ確定していません。
建徳二年の記事では、後村上天皇の供養と、それに関係する和歌が記されます。さらに、九州で活動していた懐良親王が明国へ使者を送り、外交関係を築こうとしたことが記されています。
懐良親王と宗良親王の和歌も、それぞれ二首とみられる形で置かれていますが、いずれも全文の確定には至っていません。
一方、室町幕府側は今川貞世を九州へ向かわせました。九州では、懐良親王を中心とする南朝勢力と、幕府方による支配回復の動きが向かい合うことになります。
京都・鎌倉では、天龍寺・円覚寺などの寺院火災も記されます。その後、明国の使節が京都へ来て、九州の皇族に関係する発言をしたとみられます。
この時期の明国との外交は、京都の幕府だけが一つの窓口となっていたわけではありません。九州の懐良親王も明へ使者を送り、明国側も日本国内に複数の政治勢力がある状況へ対応していたことが、この節の記事配置から読み取れます。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、記事の順序と相互関係が分かるよう説明文へ展開した現代語訳です。写本の逐字本文に対する最終的な全訳ではありません。人物名・和歌・勝敗を確定できない部分は、推測で補っていません。
前節の粉河寺記事から続く
前節の末尾では、紀伊方面で宇都宮と記される軍勢が敗れ、粉河寺へ入ったとみられるところで文章が終わっていた。
このpartの冒頭は、その粉河寺の記事から直接続いている。
粉河寺の観音に関係する立願、すなわち願いを立てて祈ることが記されているとみられる。
しかし、写本の文章では主語が明確ではない。
宇都宮勢が観音へ立願したのか、別の人物が宇都宮勢に関係する願いを立てたのか、寺院建立を約束したのかを確定できていない。
そのため、本ページでは「粉河寺の観音に関係する立願記事」とし、願主と願いの内容を断定しない。
宇都宮・畠山の紀伊戦
紀伊では、宇都宮・畠山と記される勢力に関係する戦いが続いた。
前partからの接続を含めると、宇都宮勢の敗北と、畠山方とみられる軍勢の活動を記している可能性がある。
しかし、宇都宮が特定人物の名字なのか、一族・軍勢全体を指すのかは確定していない。
畠山についても、実名・官職・戦闘での役割を完全には読めていない。
このため、紀伊において宇都宮・畠山と記される勢力が戦ったという大筋を示し、攻撃側・守備側・勝敗の細部は保留する。
紀伊の寺院が軍事拠点となる
粉河寺の記事は、寺院が祈りの場であるだけでなく、戦乱時の避難先・集結地・籠城地となり得たことを示している。
敗れた軍勢が寺へ入り、そこで再び兵を集めたり、祈願を行ったりした可能性がある。
ただし、『南方紀伝』のこの箇所が粉河寺での籠城を明確に記しているのか、寺へ一時的に入っただけなのかは判読できていない。
したがって、粉河寺を確定した城郭拠点とは説明せず、戦後の軍勢と観音立願に関係する場所として扱う。
東福寺に関係する処分
この範囲には、東福寺に関係する処分の記事がある。
しかし、処分を受けたのが僧侶なのか、寺院内の役職者なのか、寺領・建物などに対する処置なのかは、現在の作業台帳要旨では確定していない。
処分を命じた主体も、朝廷・幕府・寺院内部のいずれであるかを確認できていない。
そのため、本ページでは、東福寺に関係する処分記事が置かれていることを示すにとどめる。
事件の原因と処分内容は、写本画像と活字本第14画像の逐字再照合後に補う。
建徳二年・応安四年
本文は、南朝年号の建徳二年、北朝年号の応安四年の記事へ進む。
この年の記事には、戦闘だけでなく、先帝の供養、皇族の和歌、九州から明国への遣使が置かれている。
『南方紀伝』は、軍事・政治・宗教儀礼・和歌・外交を分けず、同じ年に起こった出来事として年代順に記している。
後村上天皇の供養
建徳二年の記事には、先帝を供養する行事が記されている。
作業台帳では、後村上天皇の供養に関係する記事として整理している。
活字本との比較では、先帝の三回忌に関係する和歌が置かれているとみられる。
ただし、写本本文で「三回忌」の数字・行事名・法会の場所を完全には確認できていない。
そのため、本ページでは「後村上天皇を供養する行事」とし、法会の日付・場所・参列者は断定しない。
供養の場で和歌が詠まれる
後村上天皇の供養には、和歌が添えられている。
亡くなった天皇をしのぶ気持ち、南朝の苦しい状況、皇統を受け継ぐ決意などに関係する歌である可能性がある。
しかし、写本の仮名は連綿が強く、歌の作者・五句の区切り・掛詞を確定できていない。
明治期活字本では片仮名によって歌が示され、補読の助けとなるが、活字本文をそのまま写本の歌とは扱わない。
和歌全文は、写本画像と活字本を一字ずつ照合した後に掲載する。
懐良親王の和歌
この範囲には、懐良親王の和歌が二首とみられる形で記されている。
懐良親王は九州で南朝方の中心となって活動していた。
歌は、九州での長い戦い、故郷・吉野との距離、南朝皇族としての思いなどに関係する可能性がある。
しかし、現在確定しているのは、懐良親王の名と和歌が置かれていることまでである。
上句と下句、二首の境界、詞書は未確定であり、一般的な懐良親王の歌から本文を補うことはしない。
宗良親王の和歌
宗良親王の和歌も二首とみられる形で記されている。
宗良親王は信濃など東国方面で活動し、多くの和歌を詠んだ人物として、第1冊以来たびたび登場している。
しかし、このpartの歌は連綿が強く、全文を確定できていない。
懐良親王の歌と宗良親王の歌が、同じ供養・同じ歌会・別々の場所から寄せられた歌のどれに当たるかも、詞書の確定が必要である。
このため、歌の存在と作者名を暫定的に示し、本文・歌意の断定は避ける。
離れた地域で活動する二人の親王
懐良親王は九州、宗良親王は信濃など東国方面で活動していた。
二人の活動地域は遠く離れていたが、どちらも後醍醐天皇の皇子として地方の南朝勢力を支えていた。
『南方紀伝』が二人の和歌を同じ年代記事へ置くことで、各地へ分かれた南朝皇族の文化的・政治的なつながりを記そうとした可能性がある。
ただし、これは記事配置からの整理であり、写本が二人の直接的な歌の贈答を記していると断定するものではない。
懐良親王が明国へ使者を送る
懐良親王は、九州から明国へ使者を送った。
遣使とは、政治的な目的を持たせて使者を外国へ派遣することである。
使者は、送り主の意思を伝え、相手国の回答を持ち帰る役割を担った。
しかし、この写本範囲では、派遣された使者の実名、出発地、船、贈り物、明国へ伝えた文書の全文までは確定していない。
したがって、懐良親王が明国との外交関係を持つために使者を送ったという大筋を本文とする。
九州の南朝勢力が外交を行う
懐良親王による遣使は、九州の南朝勢力が国内の戦争だけを行っていたのではないことを示す。
九州から海を越えて明国へ使者を送り、自分たちの立場を外国へ伝えようとしていた。
ただし、明国側が懐良親王をどのような称号・地位で扱ったかは、明使の発言に現れる親王名の異同を含め、慎重に確認する必要がある。
本ページでは、懐良親王の遣使を、南朝九州勢力による対明外交として整理する。
宇都宮氏綱が亡くなる
この時期、宇都宮氏綱が亡くなったことも記されている。
氏綱は、前の河越城事件後の記事で降参した人物として登場していた。
しかし、このpartにおける死去の日付・場所・年齢・後継者は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
そのため、宇都宮氏綱の死去が記されることを示し、詳しい人物伝は補わない。
有力武士の死は、一族内部の継承だけでなく、関東と幕府の政治関係にも影響を与える出来事だった。
伊勢合戦と「世保」
伊勢方面でも合戦が記されている。
その記事には、「世保」と暫定的に読んでいる語が現れる。
「世保」が人名・名字・地名・氏族名のどれに当たるかは確定していない。
別の字形・読みである可能性も残る。
このため、伊勢で南朝方と幕府方の戦いが続いていたという範囲を本文とし、「世保」を特定人物や現在地へ置き換えない。
和泉方面の合戦
和泉方面にも合戦記事がある。
作業台帳では、楠木・淡輪などと読める武将名が関係する可能性を示している。
しかし、人名の境界、どちらの軍勢に属するか、誰が勝ち誰が敗れたのかを確定できていない。
このため、本ページでは、和泉方面で合戦が行われたことを示し、武将名と勝敗を断定しない。
写本と活字本を行単位で再校勘した後、人物名を補う。
幕府が今川貞世を九州へ向かわせる
室町幕府側は、今川貞世を九州へ向かわせた。
写本は「伊予守今川貞世」と、官職を伴う具体的な表記をしている。
明治期活字本では、「予州」などの略した表記によって示される。
今川貞世の九州下向は、幕府方が九州の軍事・政治状況へ直接対応しようとした動きとして整理できる。
ただし、任命の日付、同行した武将、九州へ到着するまでの経路は、このpartの要旨だけでは確定できない。
九州で二つの勢力が向き合う
九州では、懐良親王を中心とする南朝勢力が活動していた。
そこへ幕府方の今川貞世が下向することで、九州の戦いは新しい段階へ進む。
懐良親王は明国へ使者を送り、海外との関係を作ろうとしていた。
一方、幕府は軍事・政治の担当者を九州へ送り、九州国内の支配を立て直そうとしていた。
この節では、南朝の外交と幕府の軍事派遣が同じ年代記事として並べられている。
天龍寺で火災が起こる
京都では、天龍寺の火災が記されている。
しかし、火災の日付、出火場所、焼失した建物、人的被害は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
写本は、政治・軍事・外交だけでなく、大寺院の火災も同じ年代の重要事件として記録している。
本ページでは天龍寺に火災があったことまでを示し、焼失範囲は補わない。
円覚寺も炎上する
鎌倉では、円覚寺の炎上が記されている。
円覚寺火災の記事は、写本と明治期活字本の本文構成を比較するうえで重要である。
手書き写本は、円覚寺炎上を記した後、南朝文中二年/北朝応安六年の記事へ進む。
一方、明治期活字本は、円覚寺炎上後に、南帝の譲位や吉野の没落に関係するとみられる記事を置く。
このまとまった記事は、今回の写本part-6では確認できない。
活字本だけにある「南帝譲位・吉野没落」記事
明治期活字本には、円覚寺炎上後、南帝の譲位と吉野の情勢に関係するとみられる記事がある。
しかし、写本はその記事を載せず、直ちに次の年号へ進む。
この違いには、次のような可能性がある。
- 今回の写本またはその底本で記事が省略された
- 活字本が用いた別系統の写本にだけ記事があった
- 写本の別の冊・別の位置へ記事が移された
- 書写途中に本文の一部が脱落した
現段階では原因を決められない。
したがって、活字本の記事を写本本文へ補い入れず、「活字本にのみ存在するまとまった記事」として異同欄に保存する。
建長寺の大学寮
建長寺に関係する大学寮の記事も記されている。
明治期活字本では、その施設・院を「西来院」と号したことが比較的明瞭に記される。
一方、写本では「西来院」に当たる文字が不明瞭で、別の院名にも読める可能性がある。
そのため、公開用本文では「建長寺の大学寮に関する記事」とし、「西来院」は活字本による補読候補として示す。
文中二年・応安六年
本文は、南朝の文中二年、北朝の応安六年の記事へ進む。
この年には、明国から来た使節に関係する記事が置かれている。
明使は京都へ来て、日本国内の皇族・政治勢力に関係する発言をしたとみられる。
しかし、その発言の逐字全文、発言相手、通訳、幕府側の回答は確定していない。
作業台帳では、明国との外交主体をめぐる記事として整理している。
明国使節が京都へ来る
懐良親王が九州から明国へ使者を送った一方、明国の使節は京都へも来た。
このことから、明国との通信・交渉が一つの政治勢力だけを通じて行われていたわけではないことが分かる。
九州には懐良親王を中心とする南朝勢力があり、京都には足利幕府と北朝があった。
ただし、明国側がそれぞれをどのような地位で認識していたかについては、明使発言の原文を確定したうえで検討する必要がある。
「鎮西親王」か「関西親王」か
明使の発言には、親王を指す名称が現れる。
手書き写本では、「鎮西親王」と仮に校訂している。
文意からは、九州で活動する懐良親王側の皇族を指す可能性がある。
しかし、明治期活字本では「関西親王」とも読める字形・表記になっている。
「鎮西」と「関西」では、地理的な意味と人物の呼び方が異なる。
そのため、一方へ統一せず、写本「鎮西親王」仮校訂/活字本「関西親王」にも見える、という異同を保存する。
明国から見た日本の複数勢力
この節では、懐良親王の遣使、今川貞世の九州下向、明使の京都来訪が同じ範囲に並ぶ。
記事の並びからは、明国との外交が、九州の南朝勢力と京都の幕府という複数の政治主体に関係していたことが見えてくる。
ただし、どの側が明国から正式な代表と認められていたかという評価は、この写本要旨だけからは確定できない。
本ページでは、異なる勢力がそれぞれ明国との関係を持とうとしていた複雑な状態として説明する。
九州戦線は次節へ続く
今川貞世が九州へ向かったことで、幕府方と九州南朝勢力の戦いはさらに本格化する。
次の第6節では、北朝の皇位継承問題と並行して、今川・大内勢と菊池・松浦勢の戦い、小弐冬資の討伐などが記される。
つまり、懐良親王の外交と今川貞世の下向は、この節だけで完結する出来事ではなく、その後の九州戦線へ直接続く。
流れが分かる現代語訳
紀伊では、宇都宮・畠山と記される軍勢の戦いが続いていた。
敗れた軍勢は粉河寺へ入り、観音に願いを立てたとみられる。
ただし、誰が何を願ったのかは、まだはっきり読めていない。
建徳二年には、亡くなった後村上天皇を供養する行事と和歌が記された。
九州で活動していた懐良親王は、明国へ使者を送った。
懐良親王は、九州の南朝勢力を外国にも認めてもらおうとしたと考えられるが、使者の名や交渉文書の内容は、この写本範囲からは分からない。
懐良親王と宗良親王の和歌も記されているが、歌の全文はまだ確定していない。
一方、室町幕府は今川貞世を九州へ向かわせた。
九州では、懐良親王を中心とする南朝方と、九州の支配を回復しようとする幕府方が向き合うことになった。
この間、京都の天龍寺と鎌倉の円覚寺では火災が起こった。
円覚寺火災の後、明治期活字本には南帝の譲位や吉野に関する記事があるが、手書き写本には載っていない。
そのため、活字本の記事を写本本文へ勝手に付け加えることはしない。
その後、明国の使節が京都へ来た。
使節の発言には「鎮西親王」と読める皇族名が現れるが、活字本では「関西親王」にも見える。
この時期、明国との外交は京都の幕府だけで行われていたのではなかった。
九州の懐良親王も明へ使者を送り、京都にも明国の使節が来ていた。
日本国内に南朝・北朝・幕府など複数の勢力がある中で、外国との交渉も複雑になっていたのである。
人物・用語・史料注記
懐良親王
後醍醐天皇の皇子で、九州の南朝勢力を中心となって支えた人物です。この節では明国への遣使と和歌が記されます。使者の実名・交渉文書・和歌全文は未確定です。
宗良親王
信濃など東国方面で南朝方の活動を続けた後醍醐天皇の皇子です。この節にも和歌二首とみられる記事がありますが、全文は確定していません。
遣使
政治的な目的を持たせた使者を外国へ送ることです。使者は書状や贈り物などを届け、相手国の回答を持ち帰りました。この写本では、具体的な使者名・文書内容は未確定です。
今川貞世
幕府方から九州へ向かった武将です。写本は「伊予守今川貞世」と比較的具体的に記します。下向の日付・同行者・経路は、現在の台帳要旨では確定していません。
粉河寺
紀伊戦後の宇都宮勢とみられる軍勢と、観音への立願記事に現れる寺院です。願主・願いの内容・軍勢の滞在目的は未確定です。
後村上天皇の供養
建徳二年の記事に、先帝をしのぶ供養と和歌が記されます。作業台帳では後村上天皇の供養として整理していますが、法会の日付・場所・三回忌表現の逐字確認が必要です。
建長寺大学寮・西来院
建長寺に関係する施設の記事です。明治期活字本は「西来院」と明記しますが、写本では院名が不明瞭なため、活字本による補読候補として扱います。
鎮西親王/関西親王
明使の発言に現れる皇族の呼称です。写本では「鎮西親王」と仮校訂していますが、活字本は「関西親王」にも見えます。文意上は九州の懐良親王側に関係する可能性がありますが、一方へ統一しません。
写本の省略
円覚寺炎上後、活字本には南帝譲位・吉野没落に関する記事がありますが、写本にはありません。別系統の底本、書写時の省略・脱落などの可能性があるため、活字本から写本本文へ補入せず、本文差として記録します。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第2冊 part-6、全3ページ
- 対象年代:建徳元年~文中二年/応安三年~応安六年(1370~1373年)
- 内容区分:編年本文・外交・和歌
- 明治期活字本:PDF第14画像・印刷26~27ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 公開前の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前part末尾の宇都宮勢敗北・粉河寺入寺記事から続く。
粉河寺観音に関係する立願を記す。ただし、願主・願文・建立との関係は未確定。
宇都宮・畠山と記される勢力の紀伊戦を記す。
東福寺に関係する処分記事を記す。処分対象・理由・主体は未確定。
建徳二年/応安四年の記事へ進む。
後村上院の供養と、先帝をしのぶ和歌を記す。
懐良親王の和歌二首とみられる記事を記す。
宗良親王の和歌二首とみられる記事を記す。
懐良親王、明国へ使者を送る。
宇都宮氏綱、死去する。
伊勢において、「世保」と読まれる人物・地域・氏族に関係する合戦あり。
和泉において合戦あり。楠木・淡輪等と読まれる武将名が現れる可能性があるが、所属・勝敗未確定。
伊予守今川貞世、九州へ下向する。
天龍寺、火災あり。
円覚寺、炎上する。
写本は円覚寺炎上後、活字本にある南帝譲位・吉野没落記事を載せず、次の年号へ進む。
建長寺大学寮に関する記事あり。西来院と読まれる院名は活字本で明瞭。
文中二年/応安六年。
明国使節、京都へ来る。
明使の発言に「鎮西親王」と読める皇族名あり。ただし活字本は「関西親王」にも見える。
校訂本文――公開用仮本文
前partの粉河寺記事より続く。
粉河寺観音に関する立願あり。ただし願主・願意、なお未確定。
宇都宮・畠山と記される勢力、紀伊において戦う。
東福寺に関する処分記事あり。対象・理由、未確定。
建徳二年/応安四年。
後村上院の供養あり。先帝をしのぶ和歌を載す。
懐良親王・宗良親王の和歌、それぞれ二首とみらる。ただし歌本文・詞書・歌順、未確定。
懐良親王、明国へ使者を遣わす。
宇都宮氏綱、死す。
伊勢において合戦あり。「世保」と読まるる語あり。ただし人名・地名・氏族名の別、未確定。
和泉において合戦あり。武将名・勝敗、なお未確定。
伊予守今川貞世、九州へ下向す。
天龍寺、火災あり。
円覚寺、炎上す。
建長寺大学寮に関する記事あり。活字本はこれを西来院と号す。
文中二年/応安六年。
明国使節、京都へ来る。
明使、「鎮西親王」と読まるる皇族に関して発言す。ただし活字本は「関西親王」にも見え、なお未確定。
〔北朝皇位継承評議、今川・大内勢と菊池・松浦勢の九州戦へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第14画像・印刷26~27ページ付近には、紀伊戦、後村上院供養、懐良・宗良親王の和歌、懐良親王の明国遣使、今川貞世の九州下向、天龍寺・円覚寺の火災、明使来訪に対応する記事が収録されています。
先帝供養の和歌は、活字本では片仮名によって本文が示され、写本和歌を補読する手がかりとなります。
今川貞世について、写本は「伊予守今川貞世」と記し、活字本は「予州」などの略した表現を用います。
建長寺大学寮の記事では、活字本が「号西来院」と明記しますが、写本の院名は不明瞭です。
明使の発言に現れる皇族名は、写本では「鎮西親王」と仮校訂できますが、活字本は「関西親王」にも見えます。
また、活字本は円覚寺炎上後に南帝譲位・吉野没落に関係する記事を載せますが、手書き写本はその部分を省略し、直ちに文中二年/応安六年へ進みます。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 先帝供養の和歌 | 仮名の連綿が強く、一部難読 | 片仮名で歌本文を掲載 | 活字本を補読に使うが、写本本文として無条件には採用しない |
| 今川貞世の表記 | 伊予守今川貞世 | 予州などと略記 | 写本の具体的な人物表記を主本文で採用する |
| 円覚寺炎上後 | 直ちに文中二年/応安六年へ進む | 南帝譲位・吉野没落等の記事を載せる | 最重要の本文省略として記録し、写本へ補入しない |
| 建長寺大学寮 | 院名が不明瞭 | 「号西来院」と明記 | 西来院は活字本による補読候補として注記する |
| 明使発言の親王名 | 鎮西親王と仮校訂 | 関西親王にも見える | 外交主体に関わる重要異同として両方を保存する |
| 紀伊・和泉合戦 | 仮名交じりで人物・勝敗が不明瞭 | 漢字で人名を補える可能性 | 活字本で再校勘するまで人物・勝敗を断定しない |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 粉河寺観音の記事 | 宇都宮に立願と称し | 誰が何を立願したのか、建立との関係を確定できない | 低 |
| 伊勢合戦 | 世保 | 人名・地名・氏族名のどれに当たるか不明 | 低 |
| 懐良親王の和歌 | 二首とみられる | 上句・下句・二首の境界・詞書が未確定 | 低 |
| 宗良親王の和歌 | 二首とみられる | 連綿が強く、全文・歌順・詞書を確定できない | 低 |
| 和泉合戦 | 楠木・淡輪等か | 武将名、所属勢力、勝敗の係り方が不明 | 低~中 |
| 明使発言の皇族名 | 鎮西親王/関西親王 | 写本・活字本で文字が異なる可能性があり、外交主体の解釈に影響する | 低~中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第2冊part-6の全3ページを、一つの編年範囲として確認した。
- 前part末尾の宇都宮勢敗北・粉河寺入寺記事と、part-6冒頭の観音立願記事の接続を確認した。
- 接続後も願主・願意が確定しないため、粉河寺観音立願の具体的内容を補わなかった。
- 宇都宮・畠山の紀伊戦、東福寺処分を確認したが、人物関係・処分内容は保留した。
- 建徳二年の後村上院供養と和歌を確認した。
- 懐良親王・宗良親王の和歌は、それぞれ二首とみられることを記録したが、全文を推測で復元しなかった。
- 懐良親王の明国遣使を、九州南朝勢力による対明外交として整理した。
- 宇都宮氏綱の死去、伊勢・和泉合戦を確認したが、日付・武将名・勝敗を補わなかった。
- 今川貞世の九州下向を、幕府側による九州への軍事・政治対応として整理した。
- 写本の「伊予守今川貞世」という具体的表記を保存した。
- 天龍寺・円覚寺の火災を確認した。
- 円覚寺炎上後、活字本にのみ南帝譲位・吉野没落記事があることを、最重要の本文差として記録した。
- 活字本だけの記事を写本本文へ補い入れなかった。
- 建長寺大学寮の院名「西来院」は、活字本による補読として明示した。
- 明使の京都来訪と、親王に関係する発言を確認した。
- 明使発言の親王名は、写本「鎮西親王」仮校訂/活字本「関西親王」にも見えるとして、一方へ統一しなかった。
- 懐良親王の遣使・今川貞世の九州下向・明使の京都来訪を、複数の外交・政治主体が並立する状況として整理した。
6.北朝の皇位継承――九州戦線と後村上院九年忌
対象年代:文中二年~天授三年/応安六年~永和三年(1373~1377年)
対応史料:手書き写本第2冊 part-7、全3ページ/明治期活字本PDF第14左~15画像・印刷27~29ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
後光厳院崩御後の北朝皇位継承評議、九州戦線、小弐冬資の討伐、大嘗会延期、後村上院をしのぶ和歌、宗良親王の千首和歌、世泰親王の死を扱います。
北朝皇位評議の和文、九州合戦の日付、大嘗会延期の理由、後村上院の七年忌/九年忌、世泰親王の母・埋葬記事には未確定箇所があります。
この節の概要
前節では、懐良親王の明国遣使、今川貞世の九州下向、明国使節の京都来訪が記されていました。
本節では、京都の北朝で皇位継承問題が起こる一方、九州では今川貞世ら幕府方と、菊池・松浦などの勢力との戦いが続きます。
後光厳院が崩御すると、北朝の次の天皇を誰にするかが評議されました。
写本には、崇光院第一宮と後光厳院第一宮に関係するとみられる文章があります。しかし、助詞・主語・評議を行った人物を完全には確定できていません。
作業台帳では、幕府が北朝皇位継承に介入した記事として整理されています。ただし、評議の逐字と各候補を支持した人物は再校訂が必要です。
新しい天皇の大嘗会に関係する記事もありますが、儀式は延期されたとみられます。延期理由は写本の仮名が強く続け書きされており、確定していません。
九州では、今川了俊・大内義弘と、菊池・松浦勢に関係する合戦が記されます。
戦場は「世振山」と記される可能性があります。ただし、地名の正式な表記と、各軍勢の具体的な配置は再確認を必要とします。
合戦の日付は三月三日とも二十九日とも読めます。明治期活字本は三月三日としますが、写本字形を確定できていないため、一方へ統一しません。
同じ九州戦線では、小弐冬資が討たれたことも記されています。
しかし、討伐に至る詳しい経緯、討った人物、場所、日付は、現在の第一次判読要旨では確定していません。
南朝側の記事では、後村上院をしのぶ法要と和歌三首が記されます。
この法要は、明治期活字本では後村上院九年忌とされますが、写本の数字は七にも見えるため、七年忌/九年忌の異読を残します。
宗良親王が千首の和歌を詠んだ、またはまとめたとみられる記事も置かれています。ただし、千首和歌の開催場所・目的・参加者・献上先は確定していません。
さらに、山崩れとみられる災害記事と、「南方御遊」と読まれる南朝宮廷の記事があります。
南方御遊の日付は、写本では七月までしか明確でなく、活字本は七月七日と記します。
節の末尾には世泰親王の死去記事があります。母を従二位教子とし、如意輪寺の近くに葬られたとする可能性がありますが、細字と人物への係り方は再確認が必要です。
文章は次のpart-8の興良親王の記事へ続きます。ただし、世泰親王の記事がどこで終わり、興良親王の記事がどこから始まるかは確定していません。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、記事の順序と相互関係が分かるよう説明文へ展開した現代語訳です。写本の逐字本文に対する最終的な全訳ではありません。
前節の明国使節記事から続く
前節の末尾では、明国から来た使節が京都へ入り、九州の皇族に関係する発言をしたとみられる記事が置かれていた。
その親王名は、写本では「鎮西親王」、明治期活字本では「関西親王」にも見え、外交の相手を確定できていなかった。
本節は、その外交記事に続いて、京都の北朝皇位継承、九州での戦争、南朝の追善和歌を記す。
国内の皇位継承と地方の戦争、南朝宮廷の文化的な営みが、同じ年代の出来事として並べられている。
後光厳院が崩御する
北朝では、後光厳院が崩御した。
天皇または上皇が亡くなると、次に誰が皇位を継ぐかを決めなければならない。
しかし、皇位継承は皇族内部だけで決められる問題ではなく、朝廷の公家、院、室町幕府などの政治関係にも影響された。
写本は、後光厳院崩御後の継承問題を、比較的長い和文で説明しているとみられる。
明治期活字本では、この経過が短い漢文調に圧縮されている。
二人の皇子に関係する評議
皇位継承の候補として、崇光院第一宮と後光厳院第一宮に関係する文章がある。
しかし、二人を正式な候補として並べたのか、どちらか一方を推す意見に反対者がいたのか、文章の助詞と主語を確定できていない。
また、「第一宮」がそれぞれの院の第一皇子を示すのか、別の宮号・呼称を含むのかも再確認が必要である。
そのため、本ページでは、崇光院第一宮と後光厳院第一宮をめぐって北朝の皇位継承が評議されたという範囲を示す。
幕府が北朝の皇位継承へ関わる
作業台帳では、この評議を、室町幕府が介入した北朝皇位継承として整理している。
幕府にとって、どの皇族が天皇となるかは、朝廷との関係や自らの政治的な正当性に関わる問題だった。
ただし、将軍足利義満がどの候補をどのような言葉で支持したのか、評議へ直接出席したのか、使者を通じて意見を伝えたのかは、現在の第一次判読要旨では確定していない。
そのため、幕府の関与という大筋を示し、具体的な発言・命令・評議参加者を資料外から補わない。
北朝の新しい皇位継承
評議の後、北朝では新しい天皇へ皇位が継承されたとみられる。
しかし、今回の作業台帳要旨では、践祚の日付、儀式、院宣、候補者間の調整を逐字確定していない。
そのため、一般的な皇統表から名前・日付を補わず、後光厳院崩御後に北朝の皇位継承が行われたという範囲を本文とする。
写本と活字本の文章構成の違いについては、原文・復刻資料欄で分けて記録する。
大嘗会が延期される
新しい天皇に関係して、大嘗会が延期されたとみられる記事が置かれる。
大嘗会は、新たに即位した天皇に関係する重要な儀式である。
しかし、写本では延期理由を説明する仮名部分の連綿が強く、理由を確定できない。
費用・準備・政治状況・災害などの可能性を外部史料から推測して、本文へ補い入れることはしない。
本ページでは、大嘗会の延期が記されることまでを本文とし、延期理由は判読保留とする。
九州では今川貞世の戦いが続く
京都で皇位継承が進む一方、九州では今川貞世の軍事活動が続いていた。
前節では、幕府が伊予守今川貞世を九州へ下向させたことが記されていた。
本節では、今川貞世の軍勢と、九州で抵抗する南朝方・地域勢力との戦いが記される。
ただし、写本では軍勢名・地名・日付が続けて書かれており、すべての主語と所属を確定できていない。
今川了俊・大内義弘と菊池・松浦勢
九州合戦には、今川了俊・大内義弘と、菊池・松浦勢に関係する人名・氏族名が現れる。
今川了俊は、前節で九州へ下った今川貞世と同じ人物を示す呼称として、作業台帳では扱われている。
しかし、大内義弘・菊池氏・松浦勢が、それぞれどの戦闘で、どのように配置されたかは逐字再校訂を必要とする。
そのため、今川・大内勢と菊池・松浦勢に関係する九州合戦があったという大筋を示し、個々の軍勢数・進軍経路・勝敗を補わない。
世振山と読まれる戦場
九州合戦の場所は、「世振山」と読まれる可能性がある。
しかし、正式な地名表記、山・峠・周辺地域のどこを指すかは確定していない。
既知の九州地名へ機械的に置き換えず、写本・作業台帳の表記を暫定的に保存する。
戦場の現在地や軍事経路は、九州関係史料・地誌との照合後に検討する。
九州合戦の日付
九州合戦の日付は、写本では三月三日とも二十九日とも読める。
明治期活字本は三月三日と記す。
写本の「三日」と「二十九日」では日付が大きく異なり、別の戦闘を指す可能性も含めて検討する必要がある。
そのため、公開用本文では具体的な日を確定せず、
写本は三月三日/二十九日の両方に読め、活字本は三月三日とする。
という異同を保存する。
小弐冬資が討たれる
九州戦線では、小弐冬資が討たれたことも記される。
小弐氏は九州の有力な武士であり、その去就は幕府方・南朝方・地域勢力の関係へ大きな影響を与えるものだった。
しかし、この写本範囲では、小弐冬資が討たれるまでの詳しい経緯、討った人物、場所、日付を完全には確定していない。
そのため、「小弐冬資が討たれた」という確認できる範囲にとどめる。
一般的な九州戦史に基づいて、会見・謀略・討手などの具体的な場面を補うことはしない。
九州の戦争が長期化する
今川貞世が九州へ下っても、九州の戦いがすぐに終わったわけではなかった。
菊池氏・松浦勢など、幕府方へ抵抗する勢力が存在し、大内氏・小弐氏などの有力武士の動きも複雑に関係していた。
ただし、すべての氏族を単純に南朝方・幕府方の二つへ固定することはできない。
時期・地域・一族内部の事情によって立場が変わる場合があるためである。
本ページでは、『南方紀伝』が記す九州戦線の大きな流れを示し、確定できない所属関係は保留する。
後村上院をしのぶ法要
南朝側では、後村上院をしのぶ法要が行われたとみられる。
後村上院は、後醍醐天皇の後を継ぎ、長い戦争の中で南朝を支えた天皇だった。
その死後も、南朝宮廷では年忌法要を行い、和歌によって追悼した。
この写本には、後村上院の忌日に関係する三首の和歌が記されていると整理される。
ただし、法要の場所・参加者・和歌作者をすべて確定できているわけではない。
七年忌か九年忌か
後村上院の年忌について、写本の数字は七にも九にも見える。
明治期活字本は九年忌と記す。
作業台帳では、活字本によって九年忌と仮校訂しているが、写本の原字を完全には確定していない。
そのため、公開用本文では、
後村上院の九年忌とみられるが、写本は七年忌にも読める。
と説明し、写本字形の問題を残す。
後村上院をしのぶ三首の和歌
後村上院の年忌には、三首の和歌が記されたとみられる。
歌は、亡き天皇への悲しみ、南朝の現在、皇統を守る思いなどに関係する可能性がある。
しかし、現在の作業台帳要旨には、三首の逐字本文・作者・詞書が確定した形では保存されていない。
活字本の片仮名本文を補助にできる可能性はあるが、写本の草書仮名を確認せずに歌全文を作ることはしない。
本ページでは、後村上院をしのぶ三首が存在することと、追善和歌であるという大筋を示す。
宗良親王の千首和歌
宗良親王に関係する千首和歌の記事も置かれている。
千首和歌は、多数の題に基づいて千首の歌を詠む、またはまとめる大規模な和歌活動を指すものと考えられる。
宗良親王は第1冊以来、旅・戦争・哀悼・宮廷行事に関係する多くの和歌を残した人物として記されてきた。
しかし、この千首和歌をどこで、誰と、どのような目的で行ったのかは、現在の要旨では確定していない。
南朝天皇へ献上したのか、追善・祈願・歌会のためだったのかも断定しない。
戦乱の中でも和歌活動が続く
九州で戦いが続く一方、南朝宮廷では年忌和歌や千首和歌が行われていた。
『南方紀伝』は、戦争と和歌を別々の歴史として分けず、同じ年に起こった重要な出来事として並べる。
南朝方にとって、和歌は個人の感情を表すだけでなく、宮廷文化・皇統・亡くなった人々の記憶を残す手段でもあったと理解できる。
ただし、この説明は記事配置からの公開用整理であり、写本が同じ言葉で和歌の政治的意味を論じているわけではない。
山崩れが起こる
この範囲には、山崩れとみられる災害記事がある。
しかし、発生した場所、日付、崩れた山、死傷者、建物・道路への被害は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
そのため、特定の災害記録へ結びつけず、「山崩れが起きたとみられる」とする。
写本が政治・軍事・文化とともに災害も年代順に記録していることを示す記事として保存する。
南方御遊
写本には、「南方御遊」と読まれる記事が置かれている。
「南方」は南朝側を、「御遊」は天皇・皇族を中心とする宮廷の遊宴・音楽・和歌などの催しを指す可能性がある。
しかし、この御遊が具体的にどのような行事であったか、参加者、場所、目的は確定していない。
そのため、「南朝宮廷に関係する御遊の記事」とし、歌会・管弦・宴の一つへ限定しない。
南方御遊の日付
南方御遊の日付は、写本では七月まで確認できるが、具体的な日が不明瞭である。
明治期活字本は七月七日と記す。
そのため、主本文では「七月」とし、七月七日は活字本による補読として注記する。
活字本の数字を、写本で確認された日付として無条件に採用しない。
山名師義の記事
明治期活字本には、山名師義に関係する記事があり、享年を五十三歳と記す。
しかし、写本では享年の文字が不明瞭、または同じ情報を確認しにくい。
そのため、山名師義の享年五十三歳は、活字本が持つ追加情報として扱う。
写本本文へ無断で補い入れず、写本と活字本の情報量の差として異同欄へ記録する。
世泰親王が亡くなる
本節の末尾近くでは、世泰親王が亡くなったとみられる。
世泰親王は、第2冊冒頭の南帝系図にも記されていた皇族である。
系図では後村上天皇以後の人物群に置かれていたが、系譜線と世代関係は確定していなかった。
この編年記事では、世泰親王の死去に加え、母・埋葬場所に関係する細字が置かれているとみられる。
世泰親王の母
世泰親王の母は、従二位教子と読める可能性がある。
しかし、「教子」の字形、位階、どの人物への注記であるかを完全には確定していない。
母方の父・家柄などが続いている可能性もあるが、今回の第一次判読では読み切れていない。
そのため、「母は従二位教子と読まれる」とする暫定注記にとどめる。
如意輪寺の近くに葬られたか
埋葬場所について、「如意輪寺の傍」と読める可能性がある。
しかし、寺名・助詞・埋葬を表す動詞を確定できていない。
如意輪寺そのものの境内を指すのか、周辺地域を指すのかも分からない。
そのため、「如意輪寺付近に葬られたと読める」として判読保留に残す。
興良親王の記事へ続く
part-7の末尾は、次のpart-8にある興良親王の記事へ続く。
しかし、世泰親王の死去・母・埋葬の記事がどこで終わり、興良親王の記事がどの語から始まるかは確定していない。
主語を示す人物名が省略され、細字がページをまたいで続くためである。
そのため、本節では世泰親王の記事までを扱い、興良親王の死去と宗良親王の和歌は次の第7節へ送る。
本節に並ぶ三つの動き
本節の記事は、次の三つの大きな流れに整理できる。
- 京都の北朝:後光厳院崩御後の皇位継承評議と大嘗会延期
- 九州:今川・大内勢と菊池・松浦勢の戦い、小弐冬資の死
- 南朝宮廷:後村上院年忌の和歌、宗良親王の千首和歌、南方御遊、世泰親王の死
北朝では新しい皇位継承が進み、九州では軍事的な争いが続き、南朝では亡き天皇・皇族をしのぶ和歌が詠まれていた。
『南方紀伝』は、これらを別々の歴史として分けず、同じ年代の中で進んだ政治・戦争・文化として記録している。
流れが分かる現代語訳
北朝では、後光厳院が亡くなり、次の天皇を誰にするかが話し合われた。
候補として、崇光院第一宮と後光厳院第一宮に関係する文章が記されている。
しかし、誰がどちらを支持したのか、写本の文章はまだ完全には読めていない。
室町幕府も北朝の皇位継承に関わったとみられる。
新しい天皇に関係する大嘗会は延期されたが、延期された理由は確定していない。
九州では、今川了俊・大内義弘と、菊池・松浦勢に関係する戦いが続いた。
戦場は「世振山」と読まれる可能性がある。
合戦の日は三月三日とも二十九日とも読め、活字本は三月三日としている。
同じ九州戦線では、小弐冬資が討たれた。
ただし、討たれるまでの詳しい経緯と場所は、この写本の第一次判読では確定していない。
南朝では、後村上天皇をしのぶ年忌法要が行われ、三首の和歌が記された。
活字本は九年忌とするが、写本の数字は七にも見える。
宗良親王が千首の和歌を詠んだ、またはまとめたとみられる記事もある。
さらに、山崩れと「南方御遊」と読まれる南朝宮廷の記事が置かれている。
南方御遊の日付は、写本では七月までしか明確でなく、活字本は七月七日とする。
本節の終わりでは、世泰親王が亡くなったとみられる。
母は従二位教子、埋葬場所は如意輪寺付近と読める可能性があるが、まだ確定していない。
文章は、次の第7節にある興良親王の死と、宗良親王の哀悼歌へ続く。
人物・用語・史料注記
後光厳院
北朝の皇位継承記事の起点となる人物です。本節では崩御後、次の天皇をめぐる評議が記されます。
崇光院第一宮/後光厳院第一宮
北朝皇位継承評議に現れるとみられる二つの皇族呼称です。助詞・主語・支持者の関係を確定できていないため、どちらがどのように候補となったかを断定しません。
大嘗会
新たに即位した天皇に関係する重要な儀式です。本節では延期記事が置かれますが、延期理由は未確定です。
今川貞世・今川了俊
幕府から九州へ下った人物です。前節では「伊予守今川貞世」と記され、本節の九州合戦では今川了俊として整理されています。
大内義弘
九州合戦で今川方に関係して現れる人物です。軍勢の具体的な配置・行動・日付は再校訂が必要です。
菊池・松浦勢
九州合戦に現れる地域勢力です。すべての人物・一族の所属を一律に固定せず、活字本文・九州史料との再照合を必要とします。
世振山
九州合戦の戦場名として暫定的に読まれる地名です。正式表記・現在地・戦闘範囲は未確定です。
小弐冬資
九州の有力武士です。本節では討たれたことが記されますが、討伐の経緯・場所・討手は、現在の第一次判読要旨では確定していません。
後村上院九年忌
後村上院を追善する法要です。明治期活字本は九年忌としますが、写本の数字は七にも見えるため、七年忌/九年忌の異読を残します。
宗良親王の千首和歌
宗良親王が千首の和歌を詠んだ、またはまとめたとみられる記事です。開催場所・目的・参加者・献上先は未確定です。
南方御遊
南朝宮廷の遊宴・和歌・音楽などに関係する可能性がある記事です。写本では七月まで明確で、活字本は七月七日とします。
山名師義
明治期活字本は享年五十三歳と記します。写本では同じ情報を明瞭に確認できないため、活字本だけの追加情報として扱います。
世泰親王
第2冊冒頭の南帝系図にも現れる皇族です。本節末尾に死去記事があり、母を従二位教子、埋葬場所を如意輪寺付近と読む可能性があります。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:管理No.24
- 手書き写本:第2冊 part-7、全3ページ
- 対象年代:文中二年~天授三年/応安六年~永和三年(1373~1377年)
- 内容区分:編年本文・皇位継承・九州戦線・和歌
- 明治期活字本:PDF第14左~15画像・印刷27~29ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前partの明国使節・皇族名に関する記事から続く。
後光厳院、崩御する。
北朝の皇位継承について評議あり。
崇光院第一宮・後光厳院第一宮と読まれる皇族に関係する和文あり。ただし助詞・評議主体・支持関係未確定。
幕府が北朝皇位継承に関わったとみられる。
大嘗会延期の記事あり。延期理由は仮名連綿が強く未確定。
九州において、今川了俊・大内義弘と、菊池・松浦勢に関係する合戦あり。
戦場は世振山と読まれる可能性あり。
合戦日、三月三日または二十九日と読める。活字本は三月三日。
小弐冬資、討たれる。
後村上院の年忌法要と和歌三首を記す。
年忌の数字は九年忌とみられるが、写本は七にも見える。
宗良親王、千首和歌に関係する記事あり。
山崩れの記事あり。場所・被害未確定。
南方御遊の記事あり。写本は七月まで明確、活字本は七月七日。
山名師義に関係する記事あり。活字本は享年五十三歳と記す。
世泰親王、死去するとみられる。
母は従二位教子、如意輪寺の傍に葬ると読める可能性あり。
末尾は次partの興良親王記事へ続くが、主語・記事開始位置未確定。
校訂本文――公開用仮本文
文中二年/応安六年以後。
後光厳院、崩御す。
北朝皇位継承の評議あり。
崇光院第一宮・後光厳院第一宮に関する議論とみらる。ただし和文の助詞・評議主体、なお未確定。
幕府、北朝の皇位継承に関与すと整理さる。
新帝に関係する大嘗会、延期せらる。ただし理由未確定。
九州において、今川了俊・大内義弘と、菊池・松浦勢に関係する合戦あり。
世振山と読まるる地にて戦うとみらる。
合戦の日、写本は三月三日または二十九日、活字本は三月三日とす。
小弐冬資、討たる。
後村上院の九年忌とみらるる法要あり。ただし写本の数字は七にも見ゆ。
追善の和歌三首を載す。ただし歌本文・作者・詞書未確定。
宗良親王、千首和歌に関する記事あり。
山崩れあり。ただし場所・被害未確定。
南方御遊あり。
その日、写本は七月まで確認でき、活字本は七月七日とす。
山名師義に関する記事あり。活字本は享年五十三歳と記す。
世泰親王、薨ずとみらる。
母、従二位教子と読まる。埋葬地、如意輪寺の傍と読まるる可能性あり。
〔興良親王死去・宗良親王の哀悼歌へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第14左~15画像・印刷27~29ページ付近には、後光厳院崩御後の北朝皇位継承、九州合戦、小弐冬資の討伐、大嘗会延期、後村上院九年忌、宗良親王の千首和歌、南方御遊、世泰親王の記事に対応する本文が収録されています。
北朝皇位評議について、写本は仮名交じりの和文で経過を説明し、活字本は短い漢文調へ圧縮しています。
九州合戦の日付は、活字本が三月三日と明記します。写本は三日・二十九日の両方に見えるため、活字本を補読資料としますが、一方へ確定しません。
後村上院の年忌は、活字本が九年忌と記します。写本は七にも見えるため、活字本による仮校訂とします。
南方御遊について、活字本は七月七日と日付を明記しますが、写本では七月までしか明確に読めません。
活字本は、山名師義の享年を五十三歳と記します。写本では享年記事を明瞭に確認できません。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 北朝皇位評議 | 仮名交じりの和文で経過を説明 | 漢文調に圧縮 | 写本の説明性を保持し、主語・助詞は未確定とする |
| 九州合戦の日付 | 三月三日/二十九日と読める | 三月三日 | 写本字形未確定として両候補を保存する |
| 後村上院の年忌 | 七年忌/九年忌に見える | 九年忌 | 活字本で九年忌と仮校訂し、写本異読を注記する |
| 南方御遊の日付 | 七月まで確認できるが日が不明瞭 | 七月七日 | 主本文は七月とし、七日は活字本補読とする |
| 山名師義の享年 | 記載不明瞭 | 五十三歳 | 活字本だけの追加情報として扱う |
| 世泰親王の記事 | 母・埋葬地を細字で記すとみられる | 人物情報を漢文調に整理 | 母・埋葬地は暫定読みとして保存する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 北朝皇位評議 | 崇光院第一宮/後光厳院第一宮 | 助詞・評議主体・支持関係の逐字を確定できない | 低~中 |
| 九州合戦日 | 三月三日/二十九日 | 数字の字形が不明瞭で、活字本は三月三日とする | 低~中 |
| 大嘗会延期 | 大嘗会延期 | 延期理由を記す仮名連綿が強く、構文を確定できない | 低 |
| 後村上院年忌 | 九年忌/七年忌 | 写本数字が七にも九にも見え、活字本は九年忌とする | 中 |
| 世泰親王の母・埋葬 | 母従二位教子/如意輪寺傍 | 細字・助詞・人物への係り方を再確認する必要がある | 低~中 |
| 次partへの接続 | 興良親王記事へ続く | 世泰親王記事の終点と興良親王記事の開始位置が不明 | 中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第2冊part-7の全3ページを、一つの編年範囲として確認した。
- 前partの明国使節記事から、後光厳院崩御後の北朝皇位継承評議への接続を整理した。
- 崇光院第一宮・後光厳院第一宮と読まれる皇族名を保存した。
- 皇位評議の和文は、助詞・評議主体・支持関係を推測で確定しなかった。
- 幕府が北朝皇位継承へ関わったという作業台帳の整理を採用した。
- 大嘗会延期を採用したが、延期理由を資料外から補っていない。
- 今川了俊・大内義弘と、菊池・松浦勢に関係する九州合戦を整理した。
- 世振山を暫定地名として保存し、既知の地名へ無断で置き換えていない。
- 九州合戦日を三月三日・二十九日の一方へ統一していない。
- 活字本の三月三日を補読候補として明記した。
- 小弐冬資の討伐を採用したが、経緯・場所・討手を推測していない。
- 後村上院の年忌法要と和歌三首を確認した。
- 年忌を九年忌として仮校訂したが、写本の七年忌候補を削除していない。
- 和歌三首の本文・作者・詞書を推測で復元していない。
- 宗良親王の千首和歌を採用したが、場所・目的・献上先を補っていない。
- 山崩れの記事を採用したが、場所・被害を補っていない。
- 南方御遊を採用したが、御遊の具体的内容を歌会・管弦などの一つへ限定していない。
- 南方御遊の日付を七月七日として写本確定本文にはしていない。
- 山名師義享年五十三歳を、活字本だけの情報として分離した。
- 世泰親王の死去記事を確認した。
- 母従二位教子・如意輪寺傍を暫定読みとして保存した。
- 世泰親王記事と次partの興良親王記事の接続を確認したが、記事の境界を確定していない。
- 活字本文欄は対応記事の要旨とし、逐字未確認の文章を作成していない。
- 校訂本文は公開用仮本文とし、台帳にない古文・漢文を補っていない。
7.興良親王の死――鄭夢周来日と康暦の政変
対象年代:天授三年~天授六年/永和三年~康暦二年(1377~1380年)
対応史料:手書き写本第2冊 part-8/明治期活字本PDF第15左~16右画像・印刷29~30ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
興良親王・宗良親王の和歌、南帝御製と年号標題の配置、楠中務大輔の籠城地、天授五年の人名・官職、細川頼之の漢詩、小山義政・宇都宮基綱合戦の接続には未確定箇所があります。
活字本だけにある室町殿・花御所の記事は、写本本文へ補い入れません。
この節の概要
前節末尾の世泰親王の記事に続き、興良親王の死去と、父・宗良親王に関係する和歌が記されます。
宗良親王は、自分より先に亡くなった皇子を悲しみ、その死を和歌に詠んだと整理されています。ただし、興良親王と宗良親王のどちらが先に歌を詠み、どの歌が返歌に当たるかは、まだ確定していません。
その後、写本が「朝鮮使」と記す鄭夢周の来日記事が置かれます。前節の明国使節記事に続き、日本列島と周辺地域との外交が年代記に記録されています。
宗良親王は再び信濃へ向かいました。南朝方の武士や拠点を求める活動は続きますが、大和・紀伊でも南朝方の蜂起と籠城が起こっていました。
一方、足利義満は権大納言・右近衛大将へ昇進し、幕府の将軍であるだけでなく、朝廷の高い官職を持つ人物へ成長していきます。
幕府政治では、細川頼之が政治の中心から退きました。本ページでは、この頼之失脚を中心とする政変を「康暦の政変」と呼びます。
頼之は、政治の場を去る心境を漢詩に詠んだとみられます。節の末尾では、関東の小山義政と宇都宮基綱の戦いが始まり、次の第8節へ続きます。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、記事の順序と相互関係が分かるよう説明文へ展開した現代語訳です。写本の逐字本文に対する最終的な全訳ではありません。
世泰親王の記事から続く
前節の末尾では、世泰親王の死去が記されていた。
母を従二位教子とし、如意輪寺の近くに葬られたとする可能性のある細字もあったが、人物への係り方は確定していなかった。
part-8の冒頭は、その皇族死去記事から続き、興良親王に関係する記事へ移る。
しかし、世泰親王の記事がどこで完全に終わり、興良親王の記事がどの語から始まるかは、主語が省略されているため再確認が必要である。
本ページでは、part-8冒頭を興良親王の死去と宗良親王の和歌に関係する範囲として整理する。
興良親王が亡くなる
興良親王が亡くなった。
第2冊冒頭の南帝系図では、興良親王は宗良親王の下に置かれ、親子線で結ばれていた。
この編年記事でも、興良親王の死と宗良親王の歌が続けて置かれていることから、父子の死別に関係する記事として整理されている。
ただし、興良親王の死去日・場所・年齢・死因は、現在の作業台帳要旨からは確定できない。
そのため、一般的な皇統資料や伝承から死去事情を補わず、写本が興良親王の死を記すことまでを本文とする。
子に先立たれた宗良親王
宗良親王は、興良親王の死を深く悲しんだとみられる。
宗良親王は、南朝方の皇子として各地を移動し、信濃などで軍事・政治活動を続けていた。
その活動の中で、自分の子とされる興良親王を先に失った。
作業台帳では、この部分を「子に先立たれた宗良親王」の哀悼として説明している。
ただし、本文中の敬語・主語・詞書を完全には確定していないため、宗良親王が死の知らせをどこで受けたのかまでは断定しない。
興良親王と宗良親王の和歌
興良親王と宗良親王に関係する和歌が記されている。
作業台帳には、
涙を添へて……
苔の露……
と読める部分が保存されている。
涙・露・苔は、亡くなった人物への悲しみ、墓所、長く消えない哀悼などに関係する表現である可能性がある。
しかし、和歌では一字の違いによって、掛詞・主語・景色・心情が大きく変わる。
そのため、現在確認できる断片だけから五句を組み立てたり、既知の歌集本文を使って不足部分を補ったりしない。
贈答歌か哀悼歌か
作業台帳では、この和歌群を「興良・宗良親王の贈答」として整理している。
しかし、歌が興良親王の生前に交わされた贈答なのか、興良親王が残した歌へ宗良親王が返したのか、死後の哀悼歌として並べられたのかは確定していない。
作者名と歌の配置は読み取れる可能性があるが、詞書と歌本文の境界に異読がある。
本ページでは、父子に関係する和歌が置かれ、死別の悲しみを伝えるという大筋を示す。
南帝御製と年号標題の配置
この範囲では、「南帝御製」とみられる歌と、次の年号標題との配置に問題がある。
写本では、歌が年号の境目をまたぐように置かれている。
そのため、その御製が前の年の記事に属するのか、次の年の最初の記事なのかを判断しにくい。
これは、もとの編年記事の順序を反映したものなのか、書写時の版面配置によって年号と歌が離れたのかも分からない。
したがって、御製の作者・年代・詞書を一つに確定せず、原文資料欄で配置上の問題として記録する。
鄭夢周が来日する
写本には、「朝鮮使」とされる鄭夢周の来日が記されている。
ただし、使節の目的、同行者、到着地、誰と面会したか、どのような文書を持参したかは、現在の作業台帳要旨からは確定できない。
そのため、この節では、写本が鄭夢周を海外からの使節として記録していることを中心に扱う。
前節には明国との外交が記されており、ここではさらに朝鮮半島からの使節記事が続く。
『南方紀伝』が、国内の戦争だけでなく、日本列島と周辺地域との外交も編年記事へ収めていることが分かる。
東アジア外交の記事
前節では、懐良親王の明国遣使、今川貞世の九州下向、明国使節の京都来訪が記されていた。
この節では、鄭夢周の来日が加わる。
これらの記事は、南朝・北朝・幕府の対立が続く時期にも、海を越えた交渉が行われていたことを示す。
ただし、それぞれの使節が南朝・北朝・幕府のどの勢力と正式に交渉したのかを、このpartだけで統一的に説明することはできない。
本ページでは、複数の国内勢力と国外使節が関係する外交状況として整理する。
宗良親王が信濃へ向かう
宗良親王は、再び信濃方面へ向かった。
宗良親王は第1冊以来、遠江・駿河・甲斐・信濃・越中などを移動し、地方の南朝方をまとめようとしていた。
この時期にも、信濃は宗良親王の活動地域として記事に現れる。
しかし、今回のpartでは、信濃へ入った経路、同行者、滞在地、軍勢の規模を確定できていない。
そのため、宗良親王が信濃へ下向し、南朝方の活動を続けたという大筋を本文とする。
足利義満が権大納言となる
京都では、足利義満が権大納言へ進んだ。
権大納言は朝廷の高い官職である。
義満は室町幕府の将軍であるだけでなく、朝廷の官職を次々に得ることで、公家社会の中でも高い立場へ進んでいった。
ただし、任官の日付と前後に並ぶ人名・官職には判読上の問題がある。
写本で確実に確認できない細かな任官順序を、外部の官職表によって補うことはしない。
義満が右近衛大将となる
義満はさらに、右近衛大将と記される官職へ進んだ。
右近衛大将は、宮廷の近衛府に関係する高い武官職である。
将軍である義満が朝廷の高官を兼ねることは、幕府と朝廷の関係を考えるうえで重要である。
ただし、この節では任官記事が簡潔に置かれており、儀式・宣旨・任官理由までは説明されていない。
本ページでは、義満が朝廷内でも政治的な地位を上昇させたことを中心に説明する。
義満の政治的な上昇
義満は若くして将軍となった後、幕府内部の支配を整えると同時に、朝廷の官職も高めていった。
この節では、宗良親王が地方へ移動し続ける一方、義満が京都で高い官職を得る姿が同じ年代記事に置かれている。
南朝皇族が各地の拠点を求めて活動するのに対し、義満は京都で幕府と朝廷の両方に関わる権威を強めていた。
ただし、これは記事配置を理解するための説明であり、写本が両者を直接比較して論評しているわけではない。
活字本だけにある室町殿・花御所の記事
明治期活字本には、室町殿・花御所に関係する記事が置かれている。
しかし、今回の手書き写本part-8では、そのまとまった記事を確認できない。
記事の省略、底本の違い、書写時の脱落、別の場所への移動など、複数の可能性が考えられる。
現段階では原因を確定できないため、活字本の室町殿・花御所記事を写本本文へ補い入れない。
活字本にのみ存在する記事として、本文異同欄へ記録する。
「同月二十四日」が宙に浮く
写本には、「同月二十四日」と読める日付が残っている。
しかし、その直前に本来あった可能性のある室町殿・花御所記事が写本には見当たらない。
そのため、「同月」がどの月を受けるのか、二十四日に何が起きたのかが分かりにくくなっている。
活字本の記事を利用すれば接続を推測できる可能性はあるが、活字本の底本と写本が同じとは限らない。
したがって、写本本文では「同月二十四日」を残しつつ、前の記事が省略・脱落している可能性を注記する。
大和・紀伊で南朝方が蜂起する
大和・紀伊では、南朝方とみられる勢力が兵を挙げた。
南朝の中央勢力が弱くなった後も、大和・紀伊などには南朝方の武士・寺社・城が残っていた。
しかし、今回のpartでは、蜂起した武士の人名、城名、軍勢数、幕府方の討伐軍を完全には確定できていない。
そのため、大和・紀伊方面で南朝方の蜂起と戦闘があったという範囲を本文とする。
個々の武将名と勝敗は、活字本と地誌を再照合した後に補う。
楠中務大輔が城へ立て籠もる
大和・紀伊方面の記事には、「楠中務大輔」と読まれる人物が現れる。
この人物は、城へ立て籠もって抵抗したとみられる。
しかし、その城名を確定できていない。
数行にわたり文字が難しく、地名・城名・人物名をどこで区切るかにも問題がある。
そのため、「楠中務大輔と記される人物が、名を確定できない城へ籠もった」と限定して示す。
天授五年後半の記事が省略される
天授五年/康暦元年後半の記事は、手書き写本では大幅に短くなっている。
明治期活字本には、写本より多くの人物名・官職・事件が記されている。
しかし、活字本だけにある文章をすべて写本へ補うことはできない。
活字本が別系統の写本を底本としていた可能性や、現在の写本で記事が脱落した可能性があるためである。
本ページでは、写本で確認できる記事だけを主本文とし、省略された可能性のある内容は異同欄へ分離する。
天授五年の人名・官職
天授五年の記事には、富山入道義深・上杉伊予守などと読まれる可能性のある人名・官職が現れる。
しかし、姓・実名・官職の区切りを活字本に頼っている部分が多い。
また、人物がどの事件に関わり、どちらの勢力に属するかも完全には確定していない。
そのため、これらを確定人物として現代語訳へ入れず、原文資料欄の判読保留事項として保存する。
細川頼之が政治の中心から退く
幕府では、細川頼之が政治の中心から退いた。
頼之は、前の南北朝和平交渉の記事で、和平条件を示した人物としても登場していた。
この節では、頼之が幕府政治の中心的な地位を失い、京都を離れたとみられる過程が記される。
ただし、反頼之側の人物名、政変の直接的な原因、義満がどのような判断を下したかは、写本では大幅に省略されている可能性がある。
そのため、細川頼之が失脚し、政治の場を退いたという大筋を本文とする。
康暦の政変
本ページでは、細川頼之が政治の中心から退いた一連の事件を「康暦の政変」と呼ぶ。
写本そのものが、この見出しを付けているわけではない。
これは、現在の読者が記事の内容を理解しやすいように付けた公開用の名称である。
写本では、頼之失脚と漢詩が簡潔に記され、政変に参加した人物・要求・処分の全体像は省略されている。
したがって、一般的な政変の経過を本文へ詳しく補わず、『南方紀伝』に確認できる頼之失脚を中心に説明する。
細川頼之の漢詩
細川頼之の失脚記事には、漢詩が添えられている。
作業台帳では、政治の中心から退く頼之の心境を表す詩として整理している。
漢詩本文はおおむね読める状態にあるが、写本の逐字・句読・活字本との細かな差を最終確認する必要がある。
そのため、この公開用仮本文では、詩を完全な確定本文として掲載しない。
漢詩の存在と、頼之が政治を去る心境を詠んだとみられることを説明する。
政変後も義満の政治は続く
細川頼之が失脚しても、足利義満を中心とする幕府そのものが終わったわけではない。
義満は高い朝廷官職を持ち、幕府内の有力者を入れ替えながら政治を続けた。
この節では、頼之の失脚が、義満政権内部の人事と勢力関係が変わる転換点として置かれている。
ただし、後任者や政変後の役職配置は、今回の写本範囲では確定できないため補わない。
関東で小山氏と宇都宮氏が戦う
節の末尾では、舞台が関東へ移る。
小山義政と宇都宮基綱に関係する合戦が始まる。
両者は関東の有力武士であり、その衝突は鎌倉府の支配にも関わる事件となった。
ただし、part-8末尾は「基綱……」と続く途中で切れており、戦闘結果は次のpart-9冒頭へ続いている。
このため、第7節では小山義政・宇都宮基綱の戦いが始まるところまでを扱う。
宇都宮基綱の記事は次partへ続く
part-8の末尾では、宇都宮基綱の名とみられる文章が途中で終わっている。
part-9冒頭には、基綱の討死と小山義政討伐へ続く記事が置かれる。
しかし、基綱の出陣・戦闘・討死のどこまでがpart-8に属するかは、文章の切れ目を再校訂する必要がある。
そのため、具体的な討死経過と小山義政への処分は、次の第8節で扱う。
この節に並ぶ四つの変化
この節には、性格の異なる四つの変化が同じ年代の出来事として並んでいる。
- 南朝皇族:興良親王の死と宗良親王の哀悼
- 対外関係:鄭夢周の来日
- 京都政治:義満の昇進と細川頼之の失脚
- 関東軍事:小山義政と宇都宮基綱の戦い
南朝皇族が次第に失われる一方、義満は京都で政治的地位を高め、幕府内部では新たな政変が起こった。
さらに、国外から使節が来日し、関東では有力武士同士の戦いが始まった。
『南方紀伝』は、これらを別々の歴史へ分けず、一つの年代の中で起きた出来事として記録している。
流れが分かる現代語訳
興良親王が亡くなった。
第2冊冒頭の南帝系図では、興良親王は宗良親王の子として描かれている。
宗良親王は、自分より先に亡くなった子を悲しみ、その思いを和歌に詠んだとみられる。
歌には「涙を添へて」「苔の露」と読める部分があるが、全文はまだ確定していない。
その後、写本が「朝鮮使」と記す鄭夢周が来日した。
前の節では明国との外交が記され、この節では朝鮮半島からの使節が記されている。
宗良親王は再び信濃へ向かい、南朝方の活動を続けた。
一方、京都では足利義満が権大納言・右近衛大将となり、朝廷の中でも高い地位へ進んだ。
大和・紀伊では、南朝方とみられる武士が兵を挙げた。
楠中務大輔と記される人物も城へ立て籠もったとみられるが、城名はまだ読めていない。
幕府では、政治を支えてきた細川頼之が失脚した。
この事件を、現在では康暦の政変と呼んでいる。
頼之は政治の中心を去る時の心境を漢詩に詠んだとみられる。
ただし、写本は政変の詳しい経過を大きく省略している可能性がある。
節の終わりでは、関東の小山義政と宇都宮基綱の戦いが始まる。
基綱の討死と小山義政への追討は、次の第8節へ続く。
人物・用語・史料注記
興良親王
第2冊冒頭の南帝系図では、宗良親王の子として親子線で結ばれています。この節で死去と父子の和歌が記されますが、死去日・場所・年齢は未確定です。
宗良親王
後醍醐天皇の皇子です。この節では興良親王の死に関係する和歌と、信濃への下向が記されます。和歌全文と詞書は確定していません。
鄭夢周
写本が「朝鮮使」と記す来日使節です。来日の目的・同行者・交渉相手・文書内容は、現在の作業台帳要旨からは確定できません。
権大納言
朝廷の高い官職です。義満が将軍職だけでなく、公家社会の官職も高めていったことを示す記事として記されます。
右近衛大将
宮廷の近衛府に関係する高い武官職です。この節では義満の政治的な上昇を示す任官として記されます。
細川頼之
幕府政治を担った人物です。前の和平交渉記事にも登場しました。この節では失脚と漢詩が記されますが、政変の詳しい経過は写本で大きく省略されている可能性があります。
康暦の政変
細川頼之が政治の中心から退いた一連の事件を示す公開用の名称です。写本にこの事件名が書かれているわけではありません。
楠中務大輔
大和・紀伊方面の蜂起記事に現れる人物です。城へ立て籠もったとみられますが、城名・実名・戦闘結果は未確定です。
小山義政・宇都宮基綱
関東の有力武士です。第7節末尾から両者の戦いが始まり、宇都宮基綱の討死と小山義政への追討は次の第8節へ続きます。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第2冊 part-8、全3ページ
- 対象年代:天授三年~天授六年/永和三年~康暦二年(1377~1380年)
- 内容区分:編年本文・和歌・外交・幕府政変
- 明治期活字本:PDF第15左~16右画像・印刷29~30ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 今後の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前part末尾の世泰親王記事から続く。
興良親王、死去する。
興良親王・宗良親王に関係する和歌を記す。
「涙を添へて……」「苔の露……」と読める部分あり。ただし逐字・句切れ・作者と歌の対応は未確定。
南帝御製とみられる和歌あり。年号標題をまたぐ配置のため、所属年次未確定。
朝鮮使鄭夢周、来日する。
宗良親王、信濃へ下向する。
足利義満、権大納言・右近衛大将へ進む。
活字本にある室町殿・花御所記事を、写本は載せない。
写本に「同月二十四日」とあるが、前の記事が省略された可能性があり、「同月」の受ける月と事件が不明瞭。
大和・紀伊において南朝方とみられる勢力、蜂起する。
楠中務大輔と読まれる人物、城へ籠もる。ただし城名未確定。
天授五年後半の記事は、写本では大幅に省略される。
富山入道義深・上杉伊予守等と読まれる人名・官職あり。ただし活字本への依存が大きく、未確定。
細川頼之、失脚する。
頼之の漢詩を載せる。本文はおおむね読めるが、逐字・句読の最終確認が必要。
小山義政・宇都宮基綱の合戦記事へ続く。
末尾は「基綱……」で切れ、次partの討死記事へ続く。
校訂本文――公開用仮本文
天授三年/永和三年以後。
興良親王、薨ず。
宗良親王、興良親王の死に関係する和歌を詠ず。また興良親王の歌とみられる一首あり。
「涙を添へて……」「苔の露……」と読める句あり。ただし全文未確定。
南帝御製あり。ただし年号標題との配置に問題あり、所属年次未確定。
朝鮮使鄭夢周、来日す。
宗良親王、信濃へ下向す。
足利義満、権大納言・右近衛大将に任ず。
写本に「同月二十四日」とあり。ただし直前の記事が省略された可能性あり。
大和・紀伊において、南朝方とみられる勢力、兵を挙ぐ。
楠中務大輔と記される人物、城に籠もる。城名、なお未確定。
天授五年/康暦元年後半の記事、写本では大幅に省略される。
細川頼之、政治の中心を退く。
頼之、漢詩を詠ず。詩文の逐字・句読、なお最終確認を要す。
関東において、小山義政と宇都宮基綱、戦う。
〔宇都宮基綱討死、小山義政討伐へ続く〕
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第15左~16右画像・印刷29~30ページ付近には、興良親王・宗良親王の和歌、鄭夢周来日、宗良親王信濃下向、義満の昇進、大和・紀伊蜂起、細川頼之失脚、小山・宇都宮合戦に対応する記事が収録されています。
活字本は、写本では省略されている室町殿・花御所の記事を載せます。
この省略によって、写本に残る「同月二十四日」がどの記事へ続くのか分かりにくくなっています。
また、天授五年後半について、活字本は写本より多くの人物名・官職・事件を収録しています。
ただし、活字本だけにある記事を写本本文へ一括して補うことはしません。
細川頼之の漢詩は、活字本によって本文・句読を補強できますが、写本の逐字確認を優先します。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 興良・宗良親王の和歌 | 仮名の連綿が強く、作者と歌の対応に問題 | 歌句を補える可能性 | 活字本を補助にするが、全文を確定しない |
| 南帝御製と年号 | 御製が年号標題をまたぐように配置 | 記事順を整理する可能性 | 所属年次を確定せず、配置上の問題として保存する |
| 室町殿・花御所 | 対応記事なし | まとまった記事を掲載 | 活字本だけの記事として扱い、写本へ補入しない |
| 同月二十四日 | 前の記事がないため「同月」が宙に浮く | 室町殿・花御所記事との接続が考えられる | 脱落・省略の可能性を注記し、月と事件を断定しない |
| 天授五年後半 | 記事を大幅に省略 | 人物・官職・事件を詳しく記す | 活字本の全文を写本本文へ補わない |
| 細川頼之の漢詩 | 本文はおおむね読めるが、逐字・句読に再確認余地 | 漢字と句の区切りを補強できる | 確定詩文としての掲載は再校訂後とする |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 興良・宗良親王の歌 | 涙を添へて……/苔の露…… | 逐字・句切れ・作者と返歌の対応に異読がある | 低~中 |
| 御製と年号標題 | 南帝御製 | 歌が年号をまたぎ、記事順か版面配置か判断できない | 低 |
| 楠中務大輔 | 城へ籠もる | 籠城地の城名と前後数行を確定できない | 低 |
| 天授五年の人名・官職 | 富山入道義深・上杉伊予守等 | 姓・実名・官職の区切りを活字本に依存している | 低 |
| 細川頼之漢詩 | 本文おおむね判読 | 写本逐字と句読の最終確認が必要 | 中 |
| part末尾 | 小山義政・宇都宮基綱合戦 | 「基綱……」で切れ、討死記事との接続を再校訂する必要がある | 中 |
復刻作業記録
- 手書き写本第2冊part-8の全3ページを、一つの編年範囲として確認した。
- 前part末尾の世泰親王記事から、興良親王死去記事への接続を確認した。
- 興良親王と宗良親王の和歌を、父子の死別に関係する歌として整理した。
- 「涙を添へて」「苔の露」という暫定句を保存したが、和歌全文を推測で復元しなかった。
- 南帝御製と年号標題の位置関係に問題があるため、御製の所属年次を確定しなかった。
- 写本が朝鮮使とする鄭夢周の来日を、東アジア外交記事として整理した。
- 宗良親王の信濃下向を確認したが、経路・同行者・滞在地を補わなかった。
- 義満の権大納言・右近衛大将への昇進を、朝廷内における政治的上昇として整理した。
- 活字本だけにある室町殿・花御所記事を、写本本文へ補い入れなかった。
- 写本の「同月二十四日」は、前の記事が省略されたため宙に浮く可能性があることを記録した。
- 大和・紀伊蜂起と楠中務大輔の籠城を確認したが、城名・勝敗を断定しなかった。
- 天授五年後半の記事が写本で大幅に省略されていることを、重要な本文差として記録した。
- 富山入道義深・上杉伊予守等は、活字本への依存が大きいため確定人名とはしなかった。
- 細川頼之の失脚を、公開用には康暦の政変として整理した。
- 頼之の漢詩は大筋を確認したが、確定した詩文として全文掲載しなかった。
- part-9冒頭との接続を確認し、小山義政・宇都宮基綱合戦の結果は次節へ送った。
8.小山義政の最期――『新葉和歌集』と第2冊巻末
対象年代:天授六年~弘和二年/康暦二年~永徳二年(1380~1382年)
対応史料:手書き写本第2冊 part-9、全4ページ/明治期活字本PDF第16右~17右画像・印刷30~32ページ付近
公開状態:第一次判読・第一次校訂
大内弘世・関白左大臣に関係する記事と和歌、七月二十四日の記事、『新葉和歌集』の説明と上部小書、足利氏満の陣所、巻末後筆、二顆の大型朱印には未確定箇所があります。
手書き写本第2冊は弘和二年/永徳二年で本文を終えますが、明治期活字本は弘和三年以後も続きます。この区切りを写本固有の冊分けとして保存します。
この節の概要
前節末尾から、小山義政と宇都宮基綱の戦いが続きます。宇都宮基綱は戦いで討死し、鎌倉府は小山義政を追討しました。
写本は、この戦いを「裳原合戦」と呼ぶとみられます。活字本は基綱の討死から小山方への攻撃を簡潔に記すため、戦いの区切りと名称に差があります。
小山義政は追い詰められ、最後には自害または討死したと整理されています。ただし、最期の場所・日付・同行者などの細部は、現在の作業台帳要旨だけでは確定していません。
京都では、足利義満が内大臣、さらに左大臣へ進みました。将軍である義満が公家社会でも非常に高い官職を得ていく過程が記されています。
南朝では、宗良親王が中心となって南朝方の和歌をまとめた『新葉和歌集』が献上されたと記されています。戦争で失われていく南朝皇族・公家・武士の歌を、後世へ残そうとする文化的な事業でした。
弘和二年/永徳二年には、寺社の火災、和泉の土丸・藤代城をめぐる戦い、二条良基の再任と和歌が置かれます。
本文の後には、後世の書き込みとみられる巻末後筆、大型朱印二顆があります。これらは活字本には収録されず、写本の旧蔵者や書写・伝来を考えるための重要資料です。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された第一次判読の要旨をもとに、記事の順序と関係が分かるよう説明文へ展開した現代語訳です。写本の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。未確定の人物・日付・和歌・地名は推測で補っていません。
小山義政・宇都宮基綱の戦いから続く
前節の末尾では、関東の有力武士である小山義政と宇都宮基綱の戦いが始まった。
文章は「基綱……」というところで切れ、このpartの冒頭へ続いている。
前後を続けて読むと、宇都宮基綱が小山方との戦いで討死したことが記されていると整理できる。
ただし、part-8末尾とpart-9冒頭のどの語を一つの文として結ぶかには、なお再校訂の余地がある。
そのため、公開用本文では、宇都宮基綱の討死から小山義政追討へ進む大きな流れを示し、戦闘の逐字経過は確定本文としない。
宇都宮基綱が討死する
宇都宮基綱は、小山義政方との戦いで討死した。
基綱の死は、宇都宮氏の一族だけでなく、関東を治める鎌倉府にとっても大きな事件だった。
有力武士同士の私的な争いであっても、一方の当主が討死すれば、周辺の武士・所領・鎌倉府との関係へ影響が及ぶ。
ただし、基綱がどの場所で、どのような戦闘の中で討死したのか、写本の第一次判読では完全には確定していない。
裳原合戦
写本は、この戦いの始まりを「裳原合戦」と呼ぶとみられる。
しかし、「裳原」の文字・読み・現在地との対応は、原画像による再確認が必要である。
明治期活字本は、基綱の討死から小山義政への攻撃を漢文調に簡潔に続け、写本ほど合戦名を目立たせていない。
そのため、本サイトでは「写本が裳原合戦と呼ぶとみられる」と限定し、確定した戦場名とはしない。
鎌倉府が小山義政を追討する
宇都宮基綱が討死すると、鎌倉府は小山義政を追討することになった。
鎌倉府にとって、小山義政の行動を放置すれば、関東の有力武士が独自に戦争を起こしても処罰されないことになる。
そのため、鎌倉府は軍勢を動かし、小山義政の勢力を抑えようとした。
ただし、追討軍の全参加者・進軍経路・軍勢数は、現在の作業台帳要旨からは確認できない。
本ページでは、宇都宮基綱の討死を受けて、鎌倉府が小山義政を追討したという範囲を本文とする。
足利氏満の陣所
小山義政追討の記事には、鎌倉公方足利氏満の陣所とみられる語が現れる。
作業台帳では、「飯陣」または「大御堂」などと読む可能性が登録されている。
しかし、地名・寺社名・陣を敷いたことを示す動作語のどれに当たるのかは確定していない。
したがって、氏満が追討軍を指揮または統括した可能性を示しつつ、具体的な陣所名は本文へ採用しない。
小山義政が追い詰められる
鎌倉府の追討を受け、小山義政は次第に追い詰められた。
小山方の城や拠点が攻撃され、一族・家臣が離散または敗北していったとみられる。
しかし、今回の写本4ページでは、すべての城名・合戦日・降伏者を完全には確認できない。
また、小山義政の最期を自害・討死・敗死のどの言葉で記しているかにも再確認が必要である。
そのため、現代語訳では「小山義政は追討を受け、最後には命を失った」と整理する。
関東小山氏の一つの終点
作業台帳では、この一連の記事を「関東小山氏の終焉」と整理している。
ただし、これは小山氏という一族すべてがこの時に完全に消滅したという意味ではない。
小山義政を中心とする政治・軍事勢力が追討によって崩れたことを示す整理である。
その後の小山氏関係者の記事は第3冊以後にも現れるため、一族全体の断絶とは説明しない。
河野亀王丸の記事
小山義政追討の記事の後には、河野亀王丸と記される人物の記事が置かれている。
しかし、河野亀王丸がどの地域・一族・事件に属する人物か、今回の作業台帳要旨だけでは確定できない。
小山義政の記事と直接つながる人物なのか、別地域の同年記事へ移ったのかも再確認が必要である。
そのため、本ページでは「河野亀王丸の記事が続く」とのみ示し、具体的な行動・系譜・処分を推測しない。
大内弘世と関白左大臣の記事
第1ページには、大内弘世・関白・左大臣に関係するとみられる記事がある。
和歌二首が近くに置かれているとみられるが、日付・人物・和歌の対応を確定できていない。
大内弘世が和歌の作者なのか、関白・左大臣に関係する歌会や贈答に登場するのかも不明である。
そのため、大内弘世・関白左大臣・和歌二首を、それぞれ確定した一つの事件へ組み立てず、判読保留として保存する。
足利義満が内大臣となる
京都では、足利義満が内大臣へ進んだ。
義満はすでに将軍であり、権大納言・右近衛大将などの朝廷官職も得ていた。
このpartでは、さらに内大臣・左大臣へ進むことが記される。
武家政権の長である将軍が、公家社会の最高層に近い官職を得ることは、義満の政治的地位が京都で大きく高まっていたことを示す。
ただし、任官の日付・儀式・辞令の細部は、現在の第一次判読では確定していない。
義満が左大臣へ進む
義満は内大臣に続き、左大臣へ進んだと記される。
将軍職と高い朝廷官職を同時に持つことで、義満は幕府の武士だけでなく、朝廷・公家社会にも強い影響力を持つようになっていく。
ただし、内大臣と左大臣の記事が同じ年の連続任官なのか、年をまたぐのかは、年号標題と日付の逐字確認を要する。
本ページでは、義満が内大臣・左大臣へ進んだという作業台帳の要旨までを扱う。
七月二十四日の記事
第2ページ右側には、七月二十四日と読める記事がある。
参内または宮廷儀礼に関係する文章である可能性がある。
しかし、主語・動詞・行き先・参加者を逐字で確定できていない。
義満の任官記事や『新葉和歌集』献上の記事との前後関係も再確認が必要である。
そのため、七月二十四日という日付だけを暫定的に保持し、具体的な儀礼内容を本文へ補わない。
『新葉和歌集』がまとめられる
南朝では、南朝方の人々が詠んだ和歌をまとめた『新葉和歌集』に関する記事が記される。
作業台帳では、宗良親王が南朝の歌を集め、後世へ残したものとして整理している。
南朝の皇族・公家・武士には、戦死・病死・配流・漂泊などによって失われた人物が多かった。
その人々の和歌をまとめることは、文学作品を作るだけでなく、南朝を支えた人々の記憶を残す意味も持っていたと考えられる。
ただし、これは作業台帳の整理を説明したものであり、写本が編纂目的をこの言葉どおりに論じているとは限らない。
『新葉和歌集』の献上
完成した『新葉和歌集』は、南朝の天皇へ献上されたとみられる。
しかし、献上の日付、献上者、受け取った天皇の呼称、儀式の場所は、現在の要旨だけでは完全には確定できない。
本ページでは、南朝方の和歌集が編纂され、宮廷へ献上されたという大筋を示す。
写本の説明文は、活字本より和文で詳しく書かれているため、今後も逐字再校訂を進める必要がある。
収録した歌人・歌の範囲
写本には、『新葉和歌集』へどのような人々の歌を収めたかを説明する文章があるとみられる。
皇族・公家・武士などの区分を説明している可能性があるが、語の区切りを確定できていない。
上部には小さな書き込みがあり、井伊谷に関係する注記とも考えられるが、本文・傍書・後筆のどれに当たるか不明である。
そのため、収録者の範囲や上部小書の意味を、現在の主本文へ具体的に組み込まない。
活字本は説明を漢文調に圧縮する
手書き写本は、『新葉和歌集』の成立・収録範囲・作者層を、説明的な和文で記しているとみられる。
明治期活字本では、その説明が短い漢文調に圧縮されている。
内容の大筋は対応するが、写本にだけ残る説明語や主語が失われている可能性がある。
そのため、本サイトでは活字本の簡潔な文章へ置き換えず、写本の和文説明を優先して再校訂する。
南朝の和歌を残す意味
南朝は軍事的には厳しい状況にあり、各地の拠点や皇族・有力武士を次第に失っていた。
その中で和歌を集めることは、自分たちの宮廷文化と歴史を残す行為でもあった。
戦いの勝敗だけではなく、南朝方の人物が何を感じ、どのような言葉を残したかを、後世へ伝えることができる。
『南方紀伝』が『新葉和歌集』の記事を詳しく置くことも、南朝の歴史を軍事だけでなく文化の面から記録しようとした姿勢の一つとして理解できる。
弘和二年・永徳二年
本文は、南朝年号の弘和二年、北朝年号の永徳二年の記事へ進む。
この年には、寺社の火災、和泉方面の戦い、二条良基の再任と和歌が記される。
政治・軍事・文化・災害が、同じ年の記事として並べられている。
寺社で火災が起こる
弘和二年/永徳二年には、寺社の火災が記されている。
しかし、現在の作業台帳要旨では、すべての寺社名・出火日・焼失範囲を確定できていない。
そのため、具体的な建物名や被害規模を一般的な寺社史から補うことはしない。
写本が、同年の重要事件として寺社火災を記録していることまでを本文とする。
和泉で南朝方の抵抗が続く
和泉では、南朝方と幕府方の戦いが続いた。
南朝の中央勢力が弱くなった後も、和泉・河内・紀伊などには、南朝方の城・武士・地域勢力が残っていた。
このpartでは、土丸城・藤代城と読まれる城をめぐる戦いが記される。
ただし、二城の正式な表記、攻撃側・守備側、落城日、城主名は再確認を要する。
土丸城の戦い
作業台帳では、土丸城に関係する戦いとして整理している。
南朝方の抵抗拠点だった可能性があるが、今回の要旨だけでは城主・軍勢・勝敗を断定できない。
そのため、「土丸城をめぐって戦いがあった」とし、城の陥落・保持を一方へ確定しない。
地名・城名は、写本画像・活字本・地域の城郭資料を再照合する必要がある。
藤代城の戦い
藤代城と読まれる城も、同じ和泉方面の記事に現れる。
土丸城と藤代城が同じ軍事作戦の中で攻撃されたのか、別の日の合戦なのかは未確定である。
また、後の写本には「雨山・藤代城」と読まれる別の記事も現れるため、同じ城・地域を指すかを継続して確認する必要がある。
本ページでは、弘和二年の和泉戦線に藤代城が現れるという範囲を記録する。
二条良基の再任
京都では、二条良基の再任に関する記事が記される。
作業台帳では「二条良基再任」と整理しているが、どの官職への再任であるかは、逐字本文を改めて確認する必要がある。
関白への再任に関係する可能性があるものの、現在の主本文では官職を断定しない。
この再任記事には、良基の和歌も添えられている。
二条良基の老いの歌
作業台帳では、二条良基の歌を、老いを詠んだ和歌として説明している。
長い年月を重ね、政治の場へ再び戻ること、年齢によって衰えていく身体や時間を意識した歌である可能性がある。
しかし、歌の逐字全文・詞書・掛詞は確定していない。
写本では草書仮名で巻末近くに配置され、活字本では片仮名によって全文が掲載されている。
本サイトでは活字本を補読に使うが、写本の仮名を確認するまで確定した和歌全文としては掲載しない。
手書き写本第2冊は弘和二年で終わる
二条良基の和歌などを記した後、手書き写本第2冊の編年本文は弘和二年/永徳二年で終わる。
これは、現在残る物理的な第2冊の明確な終点である。
しかし、『南方紀伝』全体の本文がこの年で終わるわけではない。
第3冊は弘和三年/永徳三年以後の記事から始まるため、物語は次冊へ継続する。
活字本は弘和三年以後も続く
明治期活字本では、弘和二年/永徳二年の記事の後も、そのまま弘和三年以後の記事が続いている。
活字本の版面だけを読むと、弘和二年の位置が大きな巻末であることは分かりにくい。
一方、手書き写本ではここで物理的な冊が終わり、巻末後筆と朱印が置かれている。
この差は、写本4冊と活字本5巻の関係を考えるうえで重要である。
そのため、活字本に合わせて第3冊の記事を第2冊へ繰り上げず、写本の冊分けを保存する。
巻末後筆
本文終了後には、本文とは異なる小さな文字で書かれた後筆がある。
明徳年間に関係する語が含まれる可能性があるが、朱印・裏写り・文字の薄れによって全文を読めていない。
本文を書いた人物自身の追記なのか、後世の書写者・所蔵者が加えたものなのかも確定していない。
そのため、編年本文へ組み込まず、写本の成立・書写・伝来に関係する巻末資料として分離する。
大型朱印二顆
巻末には、大型の朱印が二つ押されている。
しかし、印文を確定できておらず、印主・旧蔵者・所蔵機関を特定できない。
朱印は、本文の内容そのものではないが、この写本が誰の手を経て伝わったかを調べる重要な手がかりとなる。
明治期活字本には、巻末後筆と大型朱印に対応する資料は収録されていない。
本サイトでは、印文を推測して文字化せず、画像資料とともに将来の検討課題として保存する。
第2冊の終わり
こうして手書き写本第2冊は、関東の小山義政追討、義満の公家官職上昇、『新葉和歌集』、和泉戦線、二条良基の和歌によって本文を終える。
第2冊の前半では、後村上天皇・義詮・基氏の死と、義満・氏満・南朝新帝への代替わりが記された。
中盤では、南北朝和平交渉、懐良親王の対明外交、今川貞世の九州下向、北朝皇位継承問題が扱われた。
後半では、興良親王の死、義満の昇進、細川頼之の失脚、小山義政の追討、『新葉和歌集』の成立へ進んだ。
その後に置かれた後筆・朱印は、物語の続きではなく、この写本が書き写され、所蔵され、伝えられてきた過程を考える資料である。
流れが分かる現代語訳
関東では、小山義政と宇都宮基綱が戦った。
宇都宮基綱は戦いで命を失った。
鎌倉府は小山義政を危険な反抗者と考え、追討軍を出した。
小山義政は次第に追い詰められ、最後には命を失った。
ただし、最期の場所・日付・詳しい経過は、この写本の第一次判読では確定していない。
京都では、足利義満が内大臣、さらに左大臣へ進んだ。
義満は将軍であるだけでなく、朝廷の中でも非常に高い地位を持つようになっていった。
南朝では、宗良親王が中心となり、南朝方の人々が詠んだ和歌を『新葉和歌集』としてまとめたと記される。
戦争で亡くなった皇族・公家・武士の歌を集めることは、南朝の歴史と文化を後世へ残すことでもあった。
弘和二年/永徳二年には、寺社の火災と、和泉の土丸城・藤代城をめぐる戦いが記された。
二条良基の再任と、老いを詠んだとみられる和歌も置かれている。
この年の記事で、手書き写本第2冊の本文は終わる。
しかし、明治期活字本は弘和三年以後もそのまま続く。
写本の巻末には、後から加えられたとみられる小さな文字と、大型の朱印が二つある。
これらは活字本には載っておらず、この写本を誰が書き写し、誰が持っていたのかを調べるための重要な資料となる。
人物・用語・史料注記
小山義政
関東の有力武士です。宇都宮基綱との戦いの後、鎌倉府から追討されます。最期の場所・日付・表現は再校訂が必要です。
宇都宮基綱
小山義政と戦い、討死したと記される関東の武士です。part-8末尾からpart-9冒頭へ文章が続くため、討死までの構文は再確認が必要です。
裳原合戦
小山義政・宇都宮基綱の戦いについて、写本が用いるとみられる合戦名です。文字・正式な読み・現在地は未確定です。
河野亀王丸
小山義政追討後の記事に現れる人物です。どの事件・地域・一族に属する人物かは、現在の要旨だけでは確定できません。
足利義満の内大臣・左大臣就任
将軍義満が朝廷の非常に高い官職へ進んだことを示す記事です。任官日と記事の細かな順序は再確認が必要です。
『新葉和歌集』
南朝方の皇族・公家・武士などの和歌をまとめた和歌集です。この写本では成立・収録者・献上に関する説明が和文で記されますが、一部の小書と語の区切りは未確定です。
宗良親王と『新葉和歌集』
作業台帳では、宗良親王が南朝方の和歌をまとめ、後世へ残した事業として整理されています。献上の詳細と写本説明の逐字本文は再校訂が必要です。
土丸城・藤代城
弘和二年/永徳二年の和泉戦線に現れる城です。城名・城主・攻守・勝敗には再確認が必要です。
二条良基
公家・歌人として、この節に再任記事と和歌が記されます。再任された官職と和歌の全文は未確定です。
巻末後筆
本文終了後に、別の時期・別の筆者が書き加えた可能性のある文章です。明徳年間に関係する語がある可能性がありますが、全文を判読できていません。
大型朱印二顆
第2冊巻末に押された二つの大型朱印です。印文・印主・旧蔵者は未確定ですが、写本の伝来を考えるための重要資料です。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 手書き写本:第2冊 part-9、全4ページ
- 対象年代:天授六年~弘和二年/康暦二年~永徳二年(1380~1382年)
- 内容区分:編年本文・『新葉和歌集』・巻末後筆・蔵書印
- 明治期活字本:PDF第16右~17右画像・印刷30~32ページ付近
- 第一次判読の確度:中
- 公開前の再校訂:必要
写本翻刻――第一次判読の要旨
前part末尾の小山義政・宇都宮基綱合戦から続く。
宇都宮基綱、合戦において討死する。
写本は合戦の開始を「裳原合戦」と記すとみられる。
鎌倉府、小山義政を追討する。
氏満の陣所に関する語あり。「飯陣」「大御堂」等とも読めるが未確定。
小山義政、追い詰められ、最期を迎える。ただし場所・日付・逐字表現未確定。
河野亀王丸の記事あり。人物関係・事件未確定。
大内弘世・関白左大臣に関係するとみられる記事と和歌二首あり。日付・作者・歌本文未確定。
足利義満、内大臣、さらに左大臣に任じられる。
七月二十四日の記事あり。参内・儀礼記事とも考えられるが逐字未確定。
『新葉和歌集』の編纂・収録者・献上に関する説明あり。
上部小書あり。収録者区分または井伊谷関係注記とも考えられるが、本文所属未確定。
弘和二年/永徳二年。
寺社火災の記事あり。
和泉において土丸城・藤代城に関係する合戦あり。
二条良基、再任の記事あり。和歌一首を載せる。
手書き写本第2冊の編年本文、弘和二年/永徳二年で終了する。
本文後に巻末後筆と大型朱印二顆あり。
校訂本文――公開用仮本文
天授六年/康暦二年以後。
宇都宮基綱、小山義政と戦い、討死す。
写本、これを裳原合戦と記すとみらる。ただし地名・字形、なお未確定。
鎌倉府、小山義政を追討す。
足利氏満の陣所に関する記事あり。地名・語義、未確定。
小山義政、追討を受け、最期を迎う。場所・日付・表現、なお未確定。
河野亀王丸の記事あり。人物関係、未確定。
大内弘世・関白左大臣ならびに和歌二首に関する記事あり。日付・作者・歌本文、未確定。
足利義満、内大臣に任じられ、さらに左大臣に進む。
七月二十四日、参内・儀礼に関する記事とみらる。ただし逐字未確定。
宗良親王、南朝方の和歌を集め、『新葉和歌集』を編すとみらる。
同集、南朝宮廷へ献上さる。
収録者・作者層を説明する和文ならびに上部小書あり。ただし語の区切り・本文所属、未確定。
弘和二年/永徳二年。
寺社に火災あり。
和泉土丸城・藤代城に関係する合戦あり。城名・攻守・勝敗、なお未確定。
二条良基、再任す。和歌あり。ただし官職・歌本文未確定。
ここに手書き写本第2冊の編年本文終わる。
巻末後筆・大型朱印二顆あり。
明治期活字本――対応記事の要旨
明治期活字本PDF第16右~17右画像・印刷30~32ページ付近には、宇都宮基綱の討死、小山義政追討、義満の内大臣・左大臣任官、『新葉和歌集』、弘和二年の記事、和泉合戦、二条良基の和歌に対応する本文が収録されています。
活字本は、基綱の討死から小山義政追討へ簡潔に接続します。写本は裳原合戦の開始を明記するとみられ、事件の組み立て方に差があります。
『新葉和歌集』について、写本は収録範囲・作者層を和文で説明し、活字本は漢文調に圧縮しています。
二条良基の和歌は、写本では草書仮名で巻末近くへ配置され、活字本では片仮名によって全文を載せます。
手書き写本第2冊は弘和二年/永徳二年で終わりますが、活字本は弘和三年以後も同じ本文の流れとして続きます。
巻末後筆と大型朱印二顆は、活字本に対応する資料がありません。
写本と活字本の主要な相違
| 箇所 | 手書き写本 | 明治期活字本 | 現在の判断 |
|---|---|---|---|
| 裳原合戦 | 合戦の始まりと名称を明記するとみられる | 基綱討死から小山攻撃へ簡潔に接続 | 写本の合戦名を暫定的に保存する |
| 『新葉和歌集』説明 | 収録範囲・作者層を和文で説明 | 漢文調に圧縮 | 写本の説明的な文章を優先して再校訂する |
| 二条良基の和歌 | 草書仮名で巻末近くに配置 | 片仮名で全文掲載 | 活字本で補読し、写本の配置と仮名を保存する |
| 第2冊の終点 | 弘和二年/永徳二年で本文終了 | 弘和三年以後も続く | 写本固有の冊分けとして最重要資料とする |
| 巻末後筆 | 本文後に後筆あり | 収録なし | 編年本文と分け、書写・伝来資料として保存する |
| 大型朱印二顆 | 巻末に二顆あり | 収録なし | 写本独自の旧蔵・伝来資料として保存する |
判読・校訂に自信のない箇所
| 対象 | 暫定読み | 問題点 | 確度 |
|---|---|---|---|
| 大内弘世・関白左大臣記事 | 大内弘世・関白左大臣・和歌二首 | 日付・人物・作者と歌の対応が未確定 | 低 |
| 七月二十四日の記事 | 参内・儀礼記事か | 主語・動詞・行き先・参加者を確定できない | 低 |
| 『新葉和歌集』説明・上部小書 | 収録者区分/井伊谷注記か | 語の区切りと本文・傍書・後筆の別が不明 | 低 |
| 足利氏満の陣所 | 飯陣/大御堂等か | 地名・寺社名・動作語のどれか判別できない | 低~中 |
| 巻末後筆 | 明徳年間に関係する語を含む可能性 | 朱印・裏写り・薄字によって全文判読困難 | 低 |
| 大型朱印二顆 | 印文未確定 | 印主・旧蔵者・所蔵系統を特定できない | 低 |
復刻作業記録
- 手書き写本第2冊part-9の全4ページを、編年本文・和歌・巻末資料を含む一つの範囲として確認した。
- 前part末尾の小山義政・宇都宮基綱合戦から、基綱討死記事への接続を確認した。
- 接続後も討死までの逐字構文に再確認余地があるため、戦闘経過を推測で補わなかった。
- 写本が「裳原合戦」と合戦名を記すとみられることを、活字本との事件構成差として記録した。
- 小山義政追討を、関東小山氏の政治・軍事勢力の終焉として整理したが、小山氏一族全体の断絶とはしなかった。
- 足利氏満の陣所は、「飯陣」「大御堂」等の候補を一方へ確定しなかった。
- 河野亀王丸の記事は、人物関係・地域・事件を推測で補わなかった。
- 大内弘世・関白左大臣・和歌二首は、日付と作者の対応が未確定のため主本文へ具体的に組み込まなかった。
- 義満の内大臣・左大臣任官を、公家官職における政治的上昇として整理した。
- 七月二十四日の記事は、参内・儀礼の可能性を示すにとどめた。
- 『新葉和歌集』の記事を、宗良親王が南朝方の和歌を後世へ残した文化事業として整理した。
- 写本の和文説明を優先し、活字本の漢文調本文へ置き換えなかった。
- 上部小書は、収録者区分・井伊谷注記等の可能性を残し、本文へ統合しなかった。
- 土丸城・藤代城を和泉戦線の城として整理したが、城主・攻守・勝敗を断定しなかった。
- 二条良基の再任官職と和歌全文を確定しなかった。
- 二条良基の和歌は、活字本で補読可能でも、写本の草書仮名を再確認するまで全文掲載しなかった。
- 手書き写本第2冊が弘和二年/永徳二年で終わることを、活字本との最重要差として記録した。
- 弘和三年以後の記事を第2冊へ繰り上げず、第3冊との物理的な冊境を保存した。
- 巻末後筆を編年本文から分離し、書写・成立・伝来資料として扱った。
- 大型朱印二顆の印文を推測で復元せず、将来の印譜照合対象とした。