『南方紀伝』巻五では、明治期活字本に収録された応永34年末(1427年)から長禄2年(1458年)までの記事を扱う。足利義持の死、籤引きによる足利義教の選定、永享の乱、結城合戦、嘉吉の変、禁闕の変、後南朝の抵抗、享徳の乱、堀越公方の成立、神璽奪還、赤松氏再興までが記されている。
本ページは、明治期活字本PDF第25~32画像を、活字A-01~A-08の全8節に分けて公開するためのページである。各節は、活字本の画像1枚・印刷本文約2ページに対応する。
巻一~四では、手書き写本と明治期活字本を照合して公開用本文を作成した。しかし、今回確認した手書き写本4冊には、巻五相当部分に直接対応する本文が確認されていない。第1節の冒頭に限り、写本第4冊末尾の赤松満祐上洛記事と活字本第25画像冒頭が重複する。
そのため巻五では、手書き写本の翻刻ではなく、明治期活字本の第一次解読・校訂・現代語訳を中心に掲載する。活字本の人名・日付・地名・和歌・系譜には未確定箇所があるため、一般的な通史や系譜に合わせて無断で修正しない。
巻五の書誌上の注意:明治期活字本の本文は全5巻構成であり、巻五相当部分は長禄2年まで続く。一方、手書き写本第4冊は応永34年で終わり、近藤瓶城の巻末識語も『南方紀伝』を応永34年までの書として説明する。
本サイトでは、この違いを写本4冊・本文5巻の伝本・底本・巻立て上の未解決問題として扱う。活字本巻五を「後世に加えられた付録」「後から追加された補遺」「増補部分」などとは断定しない。
本文の公開状態:活字本巻五相当部分は第一次解読済みであるが、公開前の逐字再校訂と他史料との比較を必要とする。本ページの「活字本文」は第一次解読の要旨であり、「校訂・読み下し本文」も公開用仮本文である。
巻末識語との区別:PDF第33画像右丁の近藤瓶城識語は、明治期編集者による書誌説明であり、巻五本文そのものではない。同画像左丁から始まる「菊池伝記総目録」も、『南方紀伝』とは別の収録史料である。
明治期活字本巻五相当部分の冒頭を見る / 翻刻・校訂・現代語訳の方針を見る / 写本4冊・本文5巻の書誌問題を見る
巻五目次
- 義持の死と籤引き将軍――後花園天皇践祚と北畠満雅の討死
応永34年末~正長2年(1427~1429年)/永享5年挿入記事あり/活字本part-A1 - 義教政権の展開――延暦寺弾圧と持氏・憲実の不和
永享2~8年(1430~1436年)/活字本part-A2 - 永享の乱――持氏父子の自害と春王丸・安王丸の逃亡
永享9~12年(1437~1440年)/活字本part-A3 - 結城合戦――義教の強権政治と持氏遺児の処刑
永享12年~嘉吉元年(1440~1441年)/活字本part-A4 - 嘉吉の変――義教暗殺・赤松氏追討と禁闕の変
嘉吉元~3年(1441~1443年)/活字本part-A5 - 後南朝の抵抗――足利成氏の鎌倉公方就任と義成の将軍宣下
嘉吉3年~宝徳2年(1443~1450年)/活字本part-A6 - 畠山氏家督争いと享徳の乱――成氏による憲忠殺害と鎌倉喪失
宝徳2年~康正元年(1450~1455年)/活字本part-A7 - 堀越公方と神璽奪還――赤松政則の出仕と活字本文終結
康正元年~長禄2年(1455~1458年)/活字本part-A8
1.義持の死と籤引き将軍――後花園天皇践祚と北畠満雅の討死
対象年代:応永34年末・正長元~2年(1427~1429年)/永享5年(1433年)の挿入記事あり
対応史料:管理No.活字A-01・活字本part-A1/明治期活字本PDF第25画像(印刷48~49頁)
公開状態・書誌上の注意:明治期活字本巻五相当部分の第一次解読に基づく公開用仮本文である。本節には、今回確認した手書き写本4冊に直接対応する写本本文がない。
PDF第25画像冒頭の赤松満祐上洛記事までは、手書き写本第4冊part-12の末尾と重複する。その直後から活字本だけに残る記事へ移るが、この範囲の底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定である。
正長元年の記事へ入る前に、永享5年とされる九州記事が挿入されている。そこに現れる少弐政資・大内政弘という人名は年代と合わない可能性があり、少弐満貞・大内持世などの誤刻候補もある。本ページでは活字本文の人名を保存し、一般的な系譜へ無断で修正しない。
後花園天皇の選定に一休の和歌が関係したという話は、活字本文が伝える伝承として掲載する。同時代の皇位決定過程を確定する史実とは断定しない。
この節の概要
本節の冒頭は、巻四末尾の赤松満祐上洛記事と重複する。手書き写本第4冊は、この赤松満祐の記事と大型朱印二顆で終わるが、明治期活字本では、その後も記事が続いている。
重複部分の直後には、永享5年とされる九州の記事が置かれる。しかし、本文に現れる少弐氏・大内氏の人名は、永享5年という年次と合わない可能性がある。この九州記事が、後から挿入された記事、順序の入れ替わった記事、または人名の誤刻であるかは確定していない。
その後、本文は正長元年へ戻る。前将軍足利義持は重病となり、後継となる将軍を明確に定めないまま亡くなった。
幕府では、将軍家の候補者の中から籤によって次の将軍を選ぶことになった。籤に選ばれたのは、僧侶となっていた義円であった。
義円は還俗し、活字本文では義宣と読まれる名を名乗ったとみられる。後に足利義教となる人物である。ただし、活字本文に見える三十五歳という年齢は、別の計算では三十六歳となる可能性もあり、確定していない。
同じころ、称光天皇も後継となる皇子を残さず崩御した。朝廷では皇位継承者を選ぶ必要が生じ、伏見宮家の彦仁王が皇位を継いだ。これが後花園天皇である。
活字本文は、この皇位継承に一休の和歌が関係したという伝承を記す。和歌には「常盤木」「木寺」「竹の末」「伏見」などと読める語が含まれるが、歌句は伝承によって異なり、完全な本文は確定していない。
また、「嵯峨の南帝若宮」と読まれる皇族に関する記事もある。ただし、小倉宮などの旧南朝系皇族の誰を指すのかは確定していない。
正長2年には、義宣と読まれる人物が正式に将軍となり、後の足利義教として幕府政治を担うことになる。元服または加冠に関係する人物と儀式には未確定箇所がある。
旧南朝方に近い北畠満雅への追討も行われた。満雅は幕府方の軍勢と戦って討死したと記される。
討伐軍の人物名は、「土岐」と「世保持頼」と読めるが、一人の名字・実名を表すのか、土岐氏と世保持頼という二者を表すのか、文章の区切りが未確定である。
本節末尾には、皇統について論じる記事が置かれる。「後光厳院」「後崇光院」などに見える院号があるが、字形と文脈を確定できていない。
情報を省略しない詳細現代語訳
赤松満祐の上洛記事までは写本と重なる
本節の最初には、赤松満祐が京都へ上ったという記事がある。
この部分は、手書き写本第4冊part-12の末尾と重複している。写本では満祐の上洛日を十二月十七日、明治期活字本では十一月十七日と記しており、月に異同がある。
手書き写本第4冊は、この赤松満祐上洛記事と大型朱印二顆をもって終了する。
しかし、明治期活字本では満祐上洛記事の直後にも文章が続く。ここからが、今回の写本4冊に直接対応する本文を確認できていない範囲である。
永享5年の九州記事が編年順から外れて置かれる
赤松満祐の記事の直後には、永享5年とされる九州の記事が置かれている。
しかし、その後には正長元年・正長2年の記事が続く。永享5年は正長年間より後であるため、この部分は通常の年代順には並んでいない。
記事には、少弐政資・大内政弘と読める人名が現れる。ところが、この二人の名は永享5年という年次と合わない可能性がある。
作業台帳では、少弐満貞・大内持世など、別の人物名の誤刻である可能性も示されている。しかし、現段階では一つへ直さない。
この九州記事が、もともとの本文に後から加えられたものか、別の位置から移ったものか、明治期活字本の底本にすでに存在したものかは分からない。
そのため、本ページでは「永享5年と記された九州記事が編年順から外れて挿入されている」と説明し、人名・事件内容を確定しない。
正長元年、足利義持が重病となる
本文は正長元年の記事へ移る。
前将軍足利義持は重い病気となった。義持の子で将軍だった足利義量は、すでに若くして亡くなっていたため、将軍家には明確な後継者がいなかった。
義持は、自分の生前に次の将軍を指名しなかったと読める。病状が悪化する中で、幕府の有力者たちは後継者を決める必要に迫られた。
ただし、義持が後継者指名を拒んだ理由、候補者について述べた言葉、重病となった具体的な日付は、今回の作業台帳では確定していない。
足利義持が亡くなる
足利義持は、そのまま亡くなった。
義持の死によって、幕府は将軍不在の状態となった。将軍家の後継者を、義持の存命中の明確な指名によらず選ばなければならなくなったのである。
義持の死去日・法名・葬送などについて、活字本文にはさらに情報が含まれる可能性があるが、今回の台帳には逐字確定本文として保存されていないため補わない。
次の将軍を籤で選ぶ
幕府では、将軍家の候補者の中から次の将軍を選ぶため、籤が用いられた。
籤は、人の判断だけでは決めにくい問題について、神仏の意思を受ける方法として用いられることがあった。
ここで選ばれたのが義円である。義円は足利義満の子で、寺院に入り僧侶となっていた人物であった。
ただし、活字本文に候補者全員の名前がどのように列挙されているか、籤を引いた場所、籤を作った人物、実際に籤を取り出した人物などは、今回の第一次解読要旨からは確定できない。
本ページでは、「幕府が籤によって後継者を決め、義円が選ばれた」という大筋を採用する。
義円が還俗する
籤で選ばれた義円は、僧侶の身分を離れ、武家へ戻ることになった。
僧侶をやめて俗人に戻ることを、還俗という。
活字本文では、還俗後の名を義宣と読む可能性がある。この人物が、後の将軍足利義教である。
ただし、「義宣」という名と「義教」への改名がどの段階の記事に属するのかは、逐字再校訂が必要である。
義宣の年齢は三十五歳か
活字本文には、義宣と読まれる人物の年齢を三十五歳とする記事がある。
しかし、一般的な年齢計算では三十六歳となる場合があり、数え年・満年齢・生年の取り方、または活字の誤刻を再確認する必要がある。
本ページでは、活字本の本文値として「三十五歳」と記されることを注記し、実年齢を確定しない。
称光天皇が崩御する
幕府で後継者選びが行われたのと近い時期、朝廷でも大きな継承問題が起こった。
称光天皇が崩御したのである。
称光天皇には、皇位を継ぐ皇子がいなかった。そのため、朝廷も新たな天皇をどの皇統から迎えるかを決める必要があった。
崩御の日付・享年・葬送については、今回の作業台帳には公開用の逐字確定情報がないため補わない。
伏見宮家の彦仁王が選ばれる
新しい天皇として選ばれたのは、伏見宮家の彦仁王であった。
彦仁王は皇位を継ぎ、後花園天皇となった。
足利義持が後継者を残さず亡くなったため幕府が籤によって将軍を選んだのに対し、称光天皇が皇子を残さず亡くなったため、朝廷は伏見宮家から皇位継承者を迎えたことになる。
ただし、彦仁王が選ばれた正式な手続、評議参加者、候補となった皇族の一覧は、今回の台帳だけでは確定できない。
後花園天皇の践祚日
後花園天皇が皇位を継いだ日について、活字本文は「二十日」とも「二十七日」とも読める。
数字の七が不明瞭であるため、現段階では一方へ統一しない。
本ページでは、具体的な日を本文へ固定せず、「称光天皇崩御後、彦仁王が践祚した」と説明する。
吉田従一位守房の記事
皇位継承に関係する記事の中には、「吉田従一位守房」と読まれる人物が現れる。
しかし、「守房」という実名には異読の可能性があり、この人物が皇位継承の評議・奏上・使者などのどの役割を担ったのかも確定していない。
そのため、公開用仮本文では、吉田従一位守房と読まれる人物が皇位継承記事に関係して現れることまでを記す。
一休の和歌による皇位選定という伝承
活字本文は、後花園天皇の選定に一休の和歌が関係したという話を記す。
歌には、「常盤木」「木寺」「竹の末」「伏見」などと読める語が含まれるとみられる。
しかし、一休の和歌は伝承によって歌句が異なる。今回の活字本文だけから、完全な和歌を一つに確定することはできない。
また、この和歌によって実際に皇位継承者が決定されたという話を、同時代の確実な政治手続とは断定しない。
本ページでは、後花園天皇の即位を説明する後世伝承または説話的記事として扱う。
嵯峨の南帝若宮
活字本文には、「嵯峨の南帝若宮」と読まれる人物に関する記事がある。
旧南朝系の皇族、小倉宮などに関係する人物である可能性があるが、どの皇族を指すのかは確定していない。
この若宮が後花園天皇の対抗候補であったのか、別の政治記事として置かれているのかも、文章の区切りを再確認する必要がある。
そのため、「嵯峨の南帝若宮と記される皇族記事がある」とし、人物名・系譜・政治的立場を一つに決めない。
正長2年、義宣が将軍となる
正長2年、義宣と読まれる人物は、正式に将軍となった。
この人物は後に足利義教と呼ばれる。
籤によって選ばれた僧侶出身の人物が、還俗・元服・任官を経て幕府の将軍となったのである。
ただし、将軍宣下の具体的な月日、元服の加冠役、義宣から義教への改名時期は、活字本文の逐字再校訂が必要である。
加冠役と元服記事
義教の元服または将軍就任に関係して、加冠役とみられる人物の記事がある。
加冠役は、元服する人物に冠や烏帽子を着ける重要な役を指す。
しかし、誰が加冠を行ったのか、活字本文の人名と官職の区切りは、今回の台帳では確定されていない。
そのため、義教の正式な政治的出発に元服・加冠の記事が伴うことまでを示し、人物名を補わない。
北畠満雅への追討
旧南朝方に近い北畠満雅は、幕府と対立していた。
活字本文では、北畠満雅を討つため幕府方の軍勢が派遣されたと記される。
討伐軍の人物名は、「土岐」と「世保持頼」と読める。
しかし、これが土岐氏と世保持頼という二人または二勢力を指すのか、「土岐世保持頼」という一人の人物名のように続くのか、文章の区切りが不明である。
そのため、本ページでは「土岐・世保持頼と読まれる幕府方の軍勢」とし、人物関係を確定しない。
北畠満雅が討死する
北畠満雅は、幕府方の軍勢との戦いで討死した。
満雅は、南北朝合一後も皇位継承問題をめぐって幕府へ反発した北畠氏の中心人物として、巻四にも登場していた。
巻四では満雅の最初の挙兵と伊勢の城の攻防が記されたが、活字本巻五相当部分では、満雅が最終的に討死する記事まで進む。
ただし、合戦地、討死日、満雅を直接討ち取った人物、同行者、討死後の北畠氏の処置については、今回の台帳には公開用確定情報がないため補わない。
皇統に関する議論
本節末尾には、皇統の系譜と正統性に関係するとみられる文章が置かれている。
院号は「後光厳院」または「後崇光院」と読む可能性があるが、活字の字形と文脈の再確認が必要である。
この文章が、後花園天皇の皇統を説明するものか、旧南朝方の主張を記すものか、北畠満雅討死に対する論評なのかは確定していない。
そのため、「皇統を説明・論評する文章が続く」とし、院号・論旨を一方へ決めない。
幕府と朝廷で同時に起きた後継問題
本節では、幕府と朝廷の双方で、直系の後継者がいないという問題が起こった。
- 幕府:足利義持が後継将軍を明確に定めず亡くなり、籤で義円が選ばれた。
- 朝廷:称光天皇が皇子を残さず崩御し、伏見宮家の彦仁王が後花園天皇となった。
活字本文は、二つの後継者選定を続けて記し、その後に旧南朝系皇族、北畠満雅、皇統論の記事を置いている。
ただし、幕府と朝廷の後継者選定が同じ論理・手続によって行われたとするものではない。事件を理解するための公開用整理である。
流れが分かる現代語訳
- 第25画像の冒頭は、巻四末尾の赤松満祐上洛記事と重なっている。
- その直後には永享5年の九州記事が置かれるが、正長元年より後の年の記事が先に挿入されており、人名にも年代上の問題がある。
- 正長元年、前将軍足利義持は重い病気となり、後継将軍を明確に定めないまま亡くなった。
- 幕府は籤を用いて次の将軍を選び、僧侶だった義円が選ばれた。
- 義円は還俗し、義宣と読まれる名を経て、後の足利義教となった。
- 活字本文は義宣の年齢を三十五歳とするが、別の計算では三十六歳となる可能性がある。
- 同じころ、称光天皇も皇子を残さず亡くなった。
- 朝廷では伏見宮家の彦仁王が選ばれ、後花園天皇となった。
- 後花園天皇の選定には一休の和歌が関係したという伝承が記されるが、確実な同時代史実とは断定できない。
- 「嵯峨の南帝若宮」と記される旧南朝系皇族の記事もあるが、人物は確定していない。
- 正長2年、義宣は将軍となり、後の足利義教として幕府政治を担うことになった。
- 幕府は北畠満雅を追討し、満雅は戦いで討死した。
- 討伐軍の「土岐・世保持頼」という人名は、一人か二者か分からない。
- 本節末尾には皇統を論じる記事があるが、後光厳院・後崇光院のどちらを指すかは未確定である。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は活字本文の記事を理解するための説明であり、手書き写本の直接的な評言ではない。
- 足利義持:室町幕府の前将軍。息子の義量が先に亡くなったため、義持の死後、将軍家には明確な後継者がいなかった。
- 義円:足利義満の子で、寺院に入っていた人物。籤によって将軍候補に選ばれ、還俗した。
- 義宣・足利義教:還俗後の義円に関係する名前。活字本文では義宣と読まれるが、後に足利義教として将軍となる。改名の具体的な順序は再確認が必要である。
- 籤引き将軍:義円が籤によって選ばれたことから、後世、足利義教を説明する際に用いられる表現。本ページの節題は公開用の事件整理である。
- 称光天皇:後継となる皇子を残さず崩御した天皇。そのため、別の皇族から皇位継承者を選ぶ必要が生じた。
- 彦仁王・後花園天皇:伏見宮家から皇位を継いだ人物。践祚日は活字本文で二十日・二十七日の両方に読める。
- 一休の和歌:後花園天皇の選定に関係したと活字本文が伝える和歌伝承。歌句には異同があり、選定の確実な同時代記録とは断定しない。
- 南帝若宮:「嵯峨の南帝若宮」と記される旧南朝系皇族とみられる人物。小倉宮などとの関係は未確定である。
- 吉田従一位守房:皇位継承記事に現れる人物名候補。守房の実名と事件内での役割は確定していない。
- 北畠満雅:旧南朝方と深い関係を持つ北畠氏の人物。巻四では挙兵と伊勢の城の攻防が記され、本節では最終的な討死が記される。
- 土岐・世保持頼:北畠満雅追討軍に関係する人名候補。一人の人物名か、二つの勢力・人物を指すかは未確定である。
- 皇統論:本節末尾に置かれる皇位継承・皇統の正統性に関する文章。後光厳院・後崇光院の字形と論旨を再確認する必要がある。
- 編年外挿入:正長元年の記事の前に、後年の永享5年記事が置かれること。追記・錯簡・編集上の移動などの可能性があるが、原因は未確定である。
- 巻五相当部分:明治期活字本では第5巻として続くが、今回の写本4冊には対応本文がない。成立・底本・伝本系統は未解決である。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:活字A-01
- 区分:活字本part-A1
- 明治期活字本:PDF第25画像・印刷48~49頁
- 対象年代:応永34年末・正長元~2年(1427~1429年)/永享5年(1433年)の挿入記事あり
- 内容区分:写本接続・将軍継承・皇位継承
- 作業状態:第一次解読済み
- 判読・校訂保留:8件
- 写本との関係:冒頭の赤松満祐上洛記事までは第4冊part-12と重複。その直後から直接対応する写本本文なし
- 書誌上の位置づけ:活字本巻五相当部分。成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定
活字本文――第一次解読の要旨
以下は明治期活字本文の逐字全文ではなく、作業台帳に保存された第一次解読の要旨である。
- 赤松満祐の帰洛記事までは、手書き写本第4冊末尾と共通する。
- その直後に、永享5年と記される九州記事が編年順から外れて置かれる。
- 九州記事には少弐政資・大内政弘と読める人名があるが、年代と合わない可能性がある。
- 正長元年、足利義持が重病となり、後継将軍を明確に定めないまま亡くなったことを記す。
- 幕府が籤によって後継者を選び、僧侶の義円が選ばれたことを記す。
- 義円が還俗し、義宣と読まれる名を経て、後の義教となったことを記す。
- 義宣の年齢を三十五歳と記すが、年齢計算には再確認が必要である。
- 称光天皇が皇子を残さず崩御したことを記す。
- 伏見宮家の彦仁王が皇位を継ぎ、後花園天皇となったことを記す。
- 後花園天皇の選定に一休の和歌が関係したという伝承を記す。
- 嵯峨の南帝若宮と読まれる旧南朝系皇族の記事を記す。
- 吉田従一位守房と読まれる人物を皇位継承記事の中に記す。
- 正長2年、義宣と読まれる人物が将軍となったことを記す。
- 北畠満雅への追討と、満雅の討死を記す。
- 土岐・世保持頼と読まれる討伐軍の人物名を記すが、文章の区切りは未確定である。
- 末尾に皇統に関する議論を記すが、後光厳院・後崇光院の字形と論旨は未確定である。
校訂・読み下し本文――公開用仮本文
以下は、作業台帳に保存された出来事の順序を整理した公開用仮本文であり、活字本文の逐字翻刻ではない。
赤松満祐の上洛記事までは、手書き写本第4冊末尾と重なる。
その後、永享5年と記された九州記事が置かれる。ただし、少弐・大内両氏の人名と年次には不整合があり、記事の本来の位置は未確定である。
正長元年、足利義持は重病となり、後継将軍を定めないまま死去した。
幕府は籤によって後継者を選び、僧侶であった義円が選ばれた。
義円は還俗し、義宣と読まれる名を経て、後の足利義教となった。活字本文は年齢を三十五歳とするが、再確認を要する。
称光天皇は皇子を残さず崩御した。
伏見宮家の彦仁王が皇位を継ぎ、後花園天皇となった。践祚日は二十日・二十七日の両方に読める。
皇位継承に一休の和歌が関係したという伝承が記されるが、和歌の逐字と伝承の成立は未確定である。
嵯峨の南帝若宮、吉田従一位守房と読まれる人物に関係する記事があるが、人物比定と行動内容は確定しない。
正長2年、義宣と読まれる人物が将軍となった。後の足利義教である。
幕府は北畠満雅を追討し、満雅は戦いで討死した。
討伐軍には土岐・世保持頼と読まれる人物が関係するが、一人か二者かは未確定である。
末尾には皇統に関する議論が置かれるが、院号と論旨の逐字は確定しない。
手書き写本との対応
PDF第25画像冒頭の赤松満祐上洛記事までは、手書き写本第4冊part-12末尾と重複する。
写本では満祐上洛日を十二月十七日、活字本では十一月十七日とする月の異同がある。
手書き写本第4冊は、この上洛記事と大型朱印二顆で終了する。活字本はその直後も続くが、今回確認した写本4冊には、永享5年九州記事以後へ直接対応する本文がない。
この違いをもって、写本の欠落、活字本巻五の後世追加、別系統本文などの一つへ断定することはできない。写本4冊・本文5巻の未解決の書誌問題として扱う。
書誌・本文上の主要な問題
| 論点 | 確認内容 | 公開版での扱い |
|---|---|---|
| 写本との重複位置 | 赤松満祐上洛記事まで第4冊末尾と重なる | 重複部分と活字本のみの部分を分離して説明する |
| 巻五の位置づけ | 写本4冊に対応本文がなく、近藤瓶城識語は応永34年までと説明する | 活字本巻五相当部分として独立管理し、付録・補遺とは断定しない |
| 永享5年九州記事 | 正長元年記事より前に置かれ、人名も年代と合わない可能性がある | 編年外挿入記事として保存し、正しい位置・人名を推測で修正しない |
| 籤引き将軍 | 義円が籤によって選ばれたとする | 大筋を採用し、候補者一覧・籤の場所・実施者は補わない |
| 後花園天皇選定 | 伏見宮家の彦仁王が践祚する | 践祚日は二十日/二十七日の異読を残す |
| 一休の和歌 | 皇位選定に関係したという伝承を記す | 説話・伝承として扱い、和歌全文を推測で復元しない |
| 南帝若宮 | 嵯峨の旧南朝系皇族とみられる | 小倉宮など特定人物へ確定しない |
| 北畠追討軍 | 土岐・世保持頼と読める | 一人・二者の区切りを保留する |
| 皇統論 | 後光厳院/後崇光院と読める院号を含む | 院号と議論の主旨を確定しない |
判読・校訂に自信のない箇所
- 永享5年九州記事:少弐政資・大内政弘と読めるが、人物の年代が永享5年と合わない可能性がある。少弐満貞・大内持世などの誤刻候補もある。
- 義宣の年齢:活字本文は三十五歳とするが、一般的な年齢計算では三十六歳となる場合がある。
- 南帝若宮:「嵯峨の南帝若宮」と読まれる。小倉宮など旧南朝系皇族との関係は未確定である。
- 一休の和歌:常盤木・木寺・竹の末・伏見などの語を含むとみられるが、伝承ごとに歌句が異なる。
- 吉田従一位守房:守房の実名に異読候補があり、皇位継承記事内での役割も未確定である。
- 後花園天皇の践祚日:二十日または二十七日と読める。数字の七が不明瞭である。
- 北畠討伐軍:土岐・世保持頼と読めるが、一人の人物名か二者か、文章の区切りが分からない。
- 皇統論:後光厳院・後崇光院のどちらを指すか、活字字形と文脈を再確認する必要がある。
復刻作業記録
- 活字本巻五作業台帳の管理No.活字A-01を再検索した。
- 対象をPDF第25画像・印刷48~49頁として確認した。
- 赤松満祐上洛記事までが手書き写本第4冊part-12と重複することを確認した。
- 写本と活字本の満祐上洛月の異同を、写本十二月・活字本十一月として保存した。
- 重複記事の直後から、今回の写本4冊に直接対応する本文がないことを明記した。
- 活字本巻五を後世の付録・補遺・増補とは断定していない。
- 永享5年九州記事が正長元年記事より前に挿入される編年上の問題を明記した。
- 少弐政資・大内政弘を、年代不整合があるまま確定人名とはしていない。
- 足利義持の重病・死去と、後継将軍不在の問題を整理した。
- 籤による義円選定を採用したが、候補者一覧・籤の場所・実施者を補っていない。
- 義円の還俗、義宣・義教の名前の関係を、再校訂が必要なものとして扱った。
- 義宣の年齢三十五歳を活字本文値として保存し、実年齢へ無断修正していない。
- 称光天皇崩御と、彦仁王の後花園天皇践祚を整理した。
- 後花園天皇の践祚日を二十日・二十七日の一方へ確定していない。
- 一休の和歌伝承を同時代の確実な政治手続とはしていない。
- 一休の和歌全文を推測で作成していない。
- 嵯峨の南帝若宮を小倉宮など特定の皇族へ確定していない。
- 吉田従一位守房の実名・役割を確定していない。
- 義宣の将軍就任と後の義教との関係を整理した。
- 元服・加冠役の人物を推測で補っていない。
- 北畠満雅追討と討死を掲載したが、合戦地・日付・直接の討ち手を補っていない。
- 土岐・世保持頼を、一人または二者の一方へ統一していない。
- 皇統論の後光厳院・後崇光院を確定していない。
- 活字本文欄は「第一次解読の要旨」とし、存在しない逐字翻刻を作成していない。
- 校訂・読み下し本文は「公開用仮本文」とし、台帳にない古文・漢文を新たに作成していない。
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2.義教政権の展開――延暦寺弾圧と持氏・憲実の不和
対象年代:永享2~8年(1430~1436年)
対応史料:管理No.活字A-02・活字本part-A2/明治期活字本PDF第26画像(印刷50~51頁)
公開状態・書誌上の注意:明治期活字本巻五相当部分の第一次解読に基づく公開用仮本文である。今回確認した手書き写本4冊には、本節に直接対応する本文がない。
本節の「延暦寺弾圧」は、山門大衆との合戦と、その後の処分をまとめた公開用の節題である。処分日は二月四日・二月二十四日の両方に読めるため、具体日を一方へ確定しない。
近衛左大臣に関係する記事、大内氏・河野氏の人名、富士遊覧地、大和の攻撃地、義勝・義成の母、明使の人名には未確定箇所がある。一般的な系譜・年表・地名比定に合わせて無断で修正しない。
本節の「義教の強権化」「鎌倉府内部対立の始まり」という説明は、作業台帳が記事全体を整理したものであり、活字本文に同じ表現がそのまま記されているとは限らない。
この節の概要
本節は、永享2年から永享8年までの、足利義教政権・寺社・西国の戦乱・鎌倉府の記事を扱う。
最初に、旧南朝方とみられる勢力の降参が記される。その一方で、近衛左大臣と読まれる人物や、紀伊国での動きに関係する難読記事も置かれている。
将軍足利義教は、伊勢神宮と高野山へ参詣し、さらに富士方面を遊覧したと記される。富士遊覧中の場所は「兎岩寺」とも読めるが、寺名・地名とも確定していない。
西国では、大内盛見の死に関係する記事があり、大内氏・河野氏に関係する人名が続く。ただし、大内持盛・河野通久などと読まれる候補には、系譜と官職上の再確認が必要である。
足利義教と赤松満祐の間には、早い段階から対立が生じた。満祐は京都を離れて播磨へ退いたが、後に赦免されたと記される。
九州では合戦が起こった。関係した人物・一族の実名と所属には不明点があり、現在の公開用本文では、大内氏らに関係する九州合戦として大筋を示す。
同じ範囲には大地震も記録される。ただし、発生日・被害地域・建物被害などの詳細は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
義教政権と延暦寺の山門大衆との関係も悪化した。山門大衆との合戦が起こり、義教は延暦寺側へ厳しい処分を行ったと整理される。
ただし、処分の日付は二月四日とも二月二十四日とも読める。また、処分された人物・処分内容・命令の経過は、逐字再校訂を必要とする。
将軍家では、足利義勝と義成が生まれた。母は「裏松重光の女」と読まれるが、家名・実名の字形には再確認が必要である。
大和国では、越智氏に関係する攻撃記事が置かれる。攻撃地は香久山・楯寺・岡寺などと読めるが、城・寺・陣所の区切りが確定していない。
明国からの使者に関する記事もあり、使者名は潘賜と読まれる。ただし、活字の実名字形を再確認する必要がある。
関東では、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実が、信濃への対応をめぐって意見を異にするようになった。
この不和は、直ちに全面的な戦争へ発展した記事ではないが、後の永享の乱へつながる鎌倉府内部の対立の始まりとして、次節へ続く。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された活字A-02の第一次解読要旨をもとに、記事の順序と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。明治期活字本文の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
活字本巻五相当部分の第2区分
本節は、明治期活字本PDF第26画像・印刷50~51頁に当たる。
年代は永享2年から永享8年と整理され、足利義教政権、寺社との関係、西国の戦乱、将軍家の後継者、鎌倉府内部の対立が続けて記される。
今回確認した手書き写本4冊には、この範囲へ直接対応する本文がない。
そのため、写本との本文比較ではなく、活字本文の第一次解読と、書誌上の注意を中心に公開する。
旧南朝方とみられる勢力が降参する
本節の初めには、旧南朝方とみられる勢力が降参した記事が置かれる。
しかし、誰が誰に降参したのか、降参した人物の実名、場所、条件は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
南北朝が合一した後も、各地には旧南朝方・宮方と呼ばれる勢力が残っていたことは、巻四から続けて記されている。
本ページでは、旧南朝方勢力の降参記事があるという範囲を示し、人物・場所・条件を推測で補わない。
近衛左大臣に関する難読記事
同じ付近には、近衛左大臣と読まれる人物に関係する記事がある。
暫定的には、南帝と呼ばれる旧南朝側の皇族から離れ、紀州で兵を起こしたようにも読める。
しかし、近衛左大臣の実名、行動の主語、紀州の城名・地名を確定できていない。
また、旧南朝勢力の降参記事と同じ事件なのか、別の反乱記事なのかも分からない。
そのため、「近衛左大臣・南帝・紀州に関係する難読記事」として判読保留に残す。
足利義教が伊勢へ参詣する
将軍足利義教は、伊勢神宮へ参詣した。
この参詣は、義教が将軍として寺社・朝廷社会の中で自らの立場を示す記事として、作業台帳では整理されている。
ただし、参詣の日付、同行者、道筋、伊勢で行われた儀礼、祈願の内容は、現在の要旨からは確定できない。
本ページでは、義教の伊勢参詣を編年記事として保存し、儀式の細部を補わない。
高野山へ参詣する
義教は、高野山にも参詣した。
伊勢参詣と高野参詣は、義教の寺社参詣記事として同じ範囲に置かれている。
しかし、伊勢から高野へ続けて向かったのか、別の時期にそれぞれ参詣したのかは、現在の作業台帳要旨だけでは確定できない。
高野山での宿所・法会・参詣目的・供奉者も補わない。
富士方面を遊覧する
義教は、富士方面を遊覧したと記される。
作業台帳では、伊勢・高野参詣とともに、義教が各地へ赴き、その権威を示す記事として整理されている。
ただし、遊覧の出発地、道筋、富士のどの場所まで行ったのか、同行者、滞在期間は確定していない。
そのため、「富士方面を遊覧した」という大筋を本文とする。
「兎岩寺」と読まれる場所
富士遊覧の記事には、「兎岩寺」と読まれる場所が現れる可能性がある。
しかし、寺院名なのか、岩・山・地域を表す地名なのか、活字が不鮮明である。
一般的な富士遊覧の経路や寺社名に合わせて、別の地名へ置き換えることはしない。
公開用仮本文では、場所を具体的に示さず、判読保留欄に「兎岩寺」と暫定読みを残す。
大内盛見の死
西国の記事では、大内盛見が亡くなったことが記される。
ただし、死去の日付、戦死・病死などの死因、場所、同行者は、今回の第一次解読要旨では確定していない。
この後には、大内氏と河野氏に関係する人名・官職が続くとみられる。
そのため、大内盛見の死を本文の大筋として掲載し、その後の人物関係は判読保留とする。
大内氏・河野氏の人名
活字本文には、大内持盛・河野通久などと読める人名候補がある。
また、「持盛」「刑部大夫」と読める語が、名字・実名・官職のどこで区切られるかも明確ではない。
人物の系譜と官職を再確認しなければ、一人の人物名なのか、複数人物の列挙なのかを確定できない。
本ページでは、大内氏・河野氏に関係する記事があることを示し、確定した人物一覧は掲載しない。
赤松満祐と義教の間に対立が生じる
将軍足利義教と赤松満祐の間には、早い段階から対立が生じたと記される。
しかし、対立の直接の原因、義教の命令、満祐側の主張、仲介者などは、現在の第一次解読要旨では詳しく確定していない。
後の嘉吉の変を知る立場から、この時点の対立を直ちに将軍暗殺の計画へ結びつけることはしない。
本節では、義教政権初期に赤松満祐との緊張が記されていることを示す。
赤松満祐が播磨へ退く
赤松満祐は京都を離れ、播磨へ退いた。
播磨は赤松氏の重要な基盤となる地域であるが、活字本文が退去の理由をどのように説明しているかは再校訂が必要である。
満祐が幕府へ正式に反乱したとするのか、処分を恐れて帰国したのか、命令によって退いたのかは、現在の要旨だけから一つへ確定しない。
そのため、「義教との対立後、満祐が播磨へ退いた」と限定して説明する。
赤松満祐が赦免される
その後、赤松満祐は赦免された。
しかし、誰が仲介し、どのような条件で赦免されたのか、所領・官職がどのように扱われたのかは、現在の作業台帳には詳しく保存されていない。
本ページでは、播磨への退去と赦免を一続きの記事として掲載する。
この時点では、義教と満祐の対立がいったん収まったとみられるが、完全な信頼関係が回復したとは断定しない。
九州で合戦が起こる
九州では、複数の武士・一族が関係する合戦が起こった。
大内氏に関係する軍勢・人物が記事に現れるが、人名と官職の判読には問題が残る。
合戦場、攻撃側と防御側、勝敗、討死者、戦後処分は、現在の第一次解読要旨からは確定できない。
そのため、「九州合戦」として編年上の存在を示し、詳細な軍事経過を推測で補わない。
大地震が起こる
この範囲には、大地震の記事も置かれている。
しかし、具体的な月日、震動した地域、倒壊した建物、死傷者は、現在の台帳要旨では確認できない。
一般的な地震年表から日付・震源・被害を補うことはしない。
活字本文が大地震を重要な編年記事として記していることまでを掲載する。
延暦寺の山門大衆と幕府が衝突する
義教政権と延暦寺の山門大衆との関係は悪化した。
活字本文には、山門大衆との合戦が起こったとみられる記事がある。
「山門」は、この文脈では延暦寺を指す表現として作業台帳では整理されている。
ただし、合戦場所、幕府軍の大将、山門側の指導者、軍勢数、死傷者は、現在の要旨では確定していない。
義教が延暦寺側へ厳しく対応する
合戦の後、義教は山門大衆・延暦寺側へ厳しい処分を行ったと整理される。
この処分は、本節の節題では「延暦寺弾圧」と表現している。
ただし、活字本文が「弾圧」という現代語を用いているわけではない。
また、処分対象・処分内容・赦免の有無などは、逐字再校訂を必要とする。
処分日は二月四日か二十四日か
山門大衆への処分日とみられる数字は、二月四日とも二月二十四日とも読める。
「廿」の有無または活字の不鮮明さによって、日付を確定できない。
本ページでは具体的な処分日を本文に入れず、二月四日/二十四日の異読候補を原文資料欄に残す。
一般的な延暦寺関係年表に合わせて、一方へ無断で修正しない。
義教の政治姿勢
本節では、義教が伊勢・高野へ参詣して権威を示す一方、赤松満祐や延暦寺へ強硬に対応する記事が並ぶ。
作業台帳は、この流れを義教政権の強権化として整理している。
ただし、義教の政治全体を、この一画像だけで評価することはできない。
本ページでは、活字本文に参詣・対立・処分が続けて置かれていることを示し、後の事件を原因として逆算しすぎない。
足利義勝が生まれる
将軍家では、足利義勝が生まれた。
しかし、誕生した具体的な日、母の実名、誕生儀礼、幼名などは、現在の作業台帳要旨では確定していない。
母については、「裏松重光の女」と読まれる候補がある。
家名・実名の活字が不鮮明であるため、確定した母方系譜とはしない。
足利義成が生まれる
同じ範囲には、足利義成の誕生記事も置かれる。
義勝・義成という将軍家の男子が生まれたことは、義教政権の後継者問題に関係する重要記事として整理される。
ただし、二人の誕生記事の具体的な月日、母が同一人物かどうか、本文と系譜注記の区切りは、再確認を必要とする。
本ページでは、義勝・義成の誕生を採用し、母方の細かな系譜を確定しない。
大和で越智氏に関係する攻撃が行われる
大和国では、越智氏に関係する攻撃記事が置かれている。
攻撃地は、香久山・楯寺・岡寺などと読める。
しかし、三つすべてが別の場所なのか、城・寺・陣所が混在しているのか、語句の区切りを確定できない。
また、誰が越智氏を攻撃したのか、越智氏が攻撃側だったのか、勝敗・戦後処分も不明である。
そのため、「大和で越智氏に関係する軍事記事がある」とし、具体的な戦闘経過を補わない。
明国からの使者
明国からの使者に関する記事も置かれている。
使者名は「潘賜」と読まれる。
しかし、実名の活字を再確認する必要があり、確定した使者名とはしない。
来日目的、持参した文書・贈物、上陸地、面会者、帰国日は、現在の台帳要旨には保存されていない。
本ページでは、「潘賜と読まれる明使の記事がある」という範囲を示す。
足利持氏と上杉憲実
本節の末尾では、関東の鎌倉府における足利持氏と上杉憲実の記事へ移る。
足利持氏は鎌倉公方、上杉憲実は関東管領として、鎌倉府の政治を担っていた。
しかし、信濃への対応・介入をめぐって、二人の考えが一致しなくなった。
どちらが積極的な介入を主張し、どちらが反対したのかという具体的な発言は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
信濃への対応をめぐる不和
信濃の問題は、鎌倉府の支配範囲・軍事行動・京都の幕府との関係に関わる問題だったと考えられる。
しかし、活字本文が信濃のどの事件・人物・所領争いを指しているかは、現在の作業台帳要旨では詳しく確定していない。
そのため、本ページでは「信濃への対応をめぐって、持氏と憲実が不和となった」とする。
不和の具体的な原因・使者・軍勢派遣・評定内容は、次の逐字再校訂と他史料照合を必要とする。
鎌倉府内部対立の始まり
本節では、持氏と憲実の関係が悪化し始めたことまでが記される。
この段階で、二人が直ちに全面戦争を始めたわけではない。
しかし、鎌倉公方と関東管領の意見対立は、鎌倉府の政治を大きく不安定にする問題となった。
次の第3節では、一時的な和解、持氏の子の元服、持氏による憲実追討、幕府の持氏追討、永享の乱へ進む。
本節に並ぶ三つの動き
本節の主要記事は、次の三つに整理できる。
- 義教政権:伊勢・高野参詣と富士遊覧、赤松満祐・延暦寺への強硬な対応
- 将軍家・西国:義勝・義成の誕生、大内盛見の死、九州・大和の軍事記事
- 鎌倉府:信濃への対応をめぐる足利持氏と上杉憲実の不和
義教が京都を中心に権力を強めようとする一方、関東では鎌倉府内部の対立が始まっていた。
ただし、これは作業台帳に保存された記事群を理解するための公開用整理であり、活字本文の直接的な総括ではない。
流れが分かる現代語訳
- 本節は、永享2年から永享8年までの義教政権・寺社・西国・関東の記事を扱う。
- 最初に、旧南朝方とみられる勢力の降参が記される。
- 近衛左大臣・南帝・紀州に関係するとみられる記事もあるが、人物名と場所は確定していない。
- 足利義教は伊勢神宮と高野山へ参詣し、富士方面を遊覧した。
- 富士遊覧中の場所は「兎岩寺」とも読めるが、寺名か地名か分からない。
- 西国では大内盛見の死が記され、大内氏・河野氏に関係する人名が続く。
- 義教と赤松満祐の間に対立が生じ、満祐は播磨へ退いたが、後に赦免された。
- 九州で合戦があり、同じ範囲には大地震も記録された。
- 義教と延暦寺の山門大衆が衝突し、義教は延暦寺側へ厳しい処分を行ったとみられる。
- 処分日は二月四日とも二月二十四日とも読め、確定していない。
- 将軍家では、足利義勝と義成が生まれた。
- 二人の母は「裏松重光の娘」とも読めるが、家名と実名は未確定である。
- 大和では越智氏に関係する軍事記事があり、香久山・楯寺・岡寺と読める場所が記される。
- 明国からの使者は潘賜と読まれるが、実名を再確認する必要がある。
- 関東では、信濃への対応をめぐって足利持氏と上杉憲実の意見が合わなくなった。
- この不和が、次節の永享の乱へつながる鎌倉府内部対立の始まりとなる。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は活字本文の記事を理解するための説明であり、手書き写本の直接的な評言ではない。
- 足利義教:前節で籤によって選ばれ、還俗して将軍となった人物。本節では伊勢・高野参詣、富士遊覧、赤松満祐・延暦寺への対応が記される。
- 旧南朝勢力の降参:本節冒頭に置かれる記事。降参した人物・相手・条件は未確定である。
- 近衛左大臣の記事:南帝・紀州での挙兵に関係するとみられるが、実名・主語・城名を確定できていない。
- 伊勢・高野参詣:義教による寺社参詣。具体的な儀式・道筋・供奉者は、現在の第一次解読要旨では確認できない。
- 富士遊覧:義教が富士方面へ赴いた記事。「兎岩寺」と読まれる場所は未確定である。
- 大内盛見:西国の記事で死去が記される人物。死去日・場所・死因は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
- 大内氏・河野氏:大内持盛・河野通久などと読める候補があるが、系譜・官職・人物区切りに問題がある。
- 赤松満祐:義教と対立して播磨へ退いた後、赦免されたと記される。対立原因と赦免条件は未確定である。
- 山門大衆:延暦寺に属する僧兵・衆徒などを指す表現として整理される。合戦と処分の細部は再校訂が必要である。
- 延暦寺弾圧:山門大衆との合戦と、その後の厳しい処分をまとめた公開用表現。活字本文の事件名ではない。
- 足利義勝・義成:本節に誕生記事が置かれる将軍家の男子。母は裏松重光の娘と読まれる候補があるが、字形未確定である。
- 越智氏:大和の軍事記事に現れる一族。香久山・楯寺・岡寺と読まれる攻撃地との関係は未確定である。
- 潘賜:明国からの使者名として暫定的に読まれる。実名字形を再確認する必要がある。
- 足利持氏:鎌倉公方。本節末尾で、信濃への対応をめぐって関東管領上杉憲実と不和になる。
- 上杉憲実:関東管領。鎌倉府の政治を支えたが、信濃への対応をめぐって持氏との意見対立が始まる。
- 信濃介入:持氏・憲実の対立原因として作業台帳に整理される問題。具体的な事件・軍勢・当事者は再確認が必要である。
- 鎌倉府内部対立:本節では不和の開始までを扱い、全面的な永享の乱は次節で扱う。
- 活字本巻五相当部分:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がなく、成立・底本・伝本系統は未確定である。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:活字A-02
- 区分:活字本part-A2
- 明治期活字本:PDF第26画像・印刷50~51頁
- 対象年代:永享2~8年(1430~1436年)
- 内容区分:義教政権・寺社・関東
- 作業状態:第一次解読済み
- 判読・校訂保留:7件
- 写本との関係:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文なし
- 書誌上の位置づけ:活字本巻五相当部分。成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定
活字本文――第一次解読の要旨
以下は明治期活字本文の逐字全文ではなく、作業台帳に保存された第一次解読の要旨である。
- 永享2~8年の災害・任官・参詣・戦乱を記す。
- 旧南朝方とみられる勢力の降参を記す。
- 近衛左大臣・南帝・紀州に関係するとみられる記事を記すが、人物と場所は未確定である。
- 足利義教の伊勢参詣・高野参詣・富士遊覧を記す。
- 富士遊覧地として「兎岩寺」と読まれる候補がある。
- 大内盛見の死を記す。
- 大内氏・河野氏に関係する人物を記すが、人名・官職の区切りは未確定である。
- 赤松満祐と義教の初期対立、満祐の播磨退去と赦免を記す。
- 九州合戦を記す。
- 大地震を記す。
- 山門大衆との合戦と、延暦寺側への処分を記す。
- 山門処分日は二月四日・二月二十四日の両方に読める。
- 足利義勝・義成の誕生を記す。
- 二人の母は裏松重光の娘と読まれるが、字形未確定である。
- 大和の越智氏に関係する攻撃記事を記す。
- 攻撃地は香久山・楯寺・岡寺などと読めるが、区切りは未確定である。
- 潘賜と読まれる明使の記事を記す。
- 信濃への対応をめぐる足利持氏と上杉憲実の不和を記す。
校訂・読み下し本文――公開用仮本文
以下は、作業台帳に保存された出来事の順序を整理した公開用仮本文であり、明治期活字本文の逐字翻刻ではない。
永享2年から8年にかけて、旧南朝方とみられる勢力が降参した。
近衛左大臣・南帝・紀州に関係する記事があるが、人物名・城名・事件内容は未確定である。
将軍足利義教は、伊勢神宮・高野山へ参詣し、富士方面を遊覧した。
富士遊覧地には「兎岩寺」と読まれる場所があるが、寺名・地名は未確定である。
西国では大内盛見が亡くなった。大内氏・河野氏に関係する人物記事が続くが、人名・官職は確定しない。
義教と赤松満祐の間に対立が生じ、満祐は播磨へ退いた。その後、満祐は赦免された。
九州で合戦があり、大地震も記録された。ただし、合戦経過と地震被害は未確定である。
義教政権と延暦寺の山門大衆が衝突し、合戦と厳しい処分が行われた。
処分日は二月四日または二月二十四日と読まれ、確定していない。
将軍家では足利義勝・義成が生まれた。母は裏松重光の娘と読まれるが、字形未確定である。
大和では越智氏に関係する軍事記事があり、香久山・楯寺・岡寺と読まれる場所が記される。
潘賜と読まれる明使の記事があるが、実名は再確認を必要とする。
関東では、信濃への対応をめぐり、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実が不和となった。
この不和は、後の永享の乱へ続く鎌倉府内部対立の始まりとなる。
手書き写本との対応
今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
したがって、本節では写本翻刻・写本との本文異同表を設けず、明治期活字本の第一次解読要旨、公開用仮本文、判読保留、書誌上の注意を掲載する。
対応写本が確認できないことをもって、写本の欠落、別冊の消失、活字本巻五の後世追加、別系統本文などの一つへ断定することはできない。
活字本巻五相当部分の成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは、写本4冊・本文5巻の未解決の書誌問題として扱う。
書誌・本文上の主要な問題
| 論点 | 活字本文・台帳の状態 | 公開版での扱い |
|---|---|---|
| 対応写本 | 今回の手書き写本4冊には直接対応する本文なし | 活字本巻五相当部分として独立管理する |
| 旧南朝勢力 | 降参記事と、近衛左大臣・南帝・紀州の難読記事がある | 同一事件とは断定せず、人物・場所を保留する |
| 義教の参詣・遊覧 | 伊勢・高野・富士の記事を記す | 大筋を採用し、行程・供奉者・儀礼を補わない |
| 富士遊覧地 | 「兎岩寺」と読める | 寺名・地名の一方へ確定しない |
| 大内氏・河野氏 | 人名・官職・系譜の区切りが不明瞭 | 確定した人物一覧を作らない |
| 赤松満祐 | 義教との対立、播磨退去、赦免を記す | 後の嘉吉の変を前提に暗殺計画へ結びつけない |
| 山門大衆処分 | 二月四日/二月二十四日の異読候補 | 具体日を確定せず両候補を保存する |
| 義勝・義成の母 | 裏松重光の娘と読めるが不鮮明 | 母方系譜を確定しない |
| 大和の攻撃地 | 香久山・楯寺・岡寺と読める | 城・寺・陣所の区切りを保留する |
| 明使 | 潘賜と読める | 実名を暫定読みとして扱う |
| 持氏・憲実の不和 | 信濃への対応をめぐる対立を記す | 具体的な主張・軍事行動を推測せず、次節へ接続する |
判読・校訂に自信のない箇所
- 近衛左大臣の記事:「南帝を離れて紀州に起つ」と暫定的に整理されるが、人物の実名、主語、城名・地名が未確定である。
- 大内氏・河野氏の人名:大内持盛・河野通久、持盛・刑部大夫などと読めるが、系譜・官職・人物区切りを再確認する必要がある。
- 富士遊覧地:「兎岩寺」と読まれる。寺名・地名・岩場などのいずれに当たるか不明である。
- 山門大衆処分日:二月四日または二月二十四日。数字の「廿」の有無を確定できない。
- 義勝・義成の母:「裏松重光の女」と読まれるが、家名・実名の活字が不鮮明である。
- 大和の攻撃地:香久山・楯寺・岡寺と読めるが、城・寺・陣所の区切りと、越智氏との関係が未確定である。
- 明使人名:潘賜と読まれるが、実名字形を再確認する必要がある。
復刻作業記録
- 活字本巻五作業台帳の管理No.活字A-02を確認した。
- 対象を活字本part-A2・PDF第26画像・印刷50~51頁として確認した。
- 対象年代を永享2~8年として整理した。
- 今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がないことを明記した。
- 活字本巻五を後世の付録・補遺・増補とは断定していない。
- 旧南朝勢力の降参記事を採用したが、降参者・相手・条件を補っていない。
- 近衛左大臣・南帝・紀州の記事を、確定した事件として復元していない。
- 義教の伊勢・高野参詣と富士遊覧を採用した。
- 参詣日・行程・供奉者・儀礼内容を資料外から補っていない。
- 富士遊覧地の「兎岩寺」を、既知の寺院・地名へ置き換えていない。
- 大内盛見の死を採用したが、日付・死因・場所を補っていない。
- 大内氏・河野氏の人名を、系譜へ合わせて一方へ確定していない。
- 赤松満祐と義教の初期対立、播磨退去、赦免を整理した。
- この時点の対立を、後の義教暗殺計画と断定していない。
- 九州合戦を採用したが、軍勢・合戦場・勝敗を補っていない。
- 大地震を採用したが、日付・震源・被害を補っていない。
- 山門大衆との合戦と処分を、公開用に「延暦寺弾圧」と整理した。
- 「延暦寺弾圧」が活字本文の固有事件名ではないことを明記した。
- 山門処分日を二月四日・二月二十四日の一方へ確定していない。
- 義勝・義成の誕生を採用したが、具体的な誕生日を補っていない。
- 二人の母を「裏松重光の娘」と確定せず、暫定読みとして扱った。
- 大和の越智氏関係記事を採用したが、攻撃側・防御側・勝敗を補っていない。
- 香久山・楯寺・岡寺を、確定した三つの戦場とはしていない。
- 明使潘賜を暫定人名として扱い、来日目的・文書・贈物を補っていない。
- 信濃への対応をめぐる持氏・憲実の不和を確認した。
- 持氏・憲実の具体的な主張や軍勢派遣を、資料外から補っていない。
- 本節を、永享の乱へ続く鎌倉府内部対立の開始として整理した。
- 活字本文欄を「第一次解読の要旨」とし、存在しない逐字翻刻を作成していない。
- 校訂・読み下し本文を「公開用仮本文」とし、台帳にない古文・漢文を新たに作成していない。
関連ページへのリンク
3.永享の乱――持氏父子の自害と春王丸・安王丸の逃亡
対象年代:永享9~12年(1437~1440年)
対応史料:管理No.活字A-03・活字本part-A3/明治期活字本PDF第27画像(印刷52~53頁)
公開状態・書誌上の注意:明治期活字本巻五相当部分の第一次解読に基づく公開用仮本文である。今回確認した手書き写本4冊には、本節に直接対応する本文がない。
本節の「永享の乱」は、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立、幕府による持氏追討、持氏・義久らの自害までをまとめた一般的な事件名である。活字本文に、この節題がそのまま付けられているわけではない。
賢王丸の元服と義久への改名は、京都の将軍から偏諱を受けない形で行われたと作業台帳では整理されている。ただし、元服儀礼・命名経過・京都側との交渉の逐字は確定していない。
斯波氏の家督記事、御製、憲実追討者、幕府側の追討大将、箱根合戦の武将、持氏の法名、金沢での自害者一覧、朝鮮使の人名には未確定箇所がある。一色伊予守と読まれる記事も追加確認を要する。
この節の概要
前節末尾では、信濃への対応をめぐって、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の意見が合わなくなった。
本節では、二人がいったん和解した後、持氏の子・賢王丸の元服をきっかけとして、再び対立が深まっていく。
賢王丸は元服し、義久と名乗った。作業台帳では、京都の将軍足利義教から一字を受けずに改名したことが、京都の幕府との断絶を決定的にしたと整理されている。
ただし、義久の元服日、加冠役、命名者、偏諱を受けなかった経過は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
持氏は、関東管領上杉憲実を討とうとした。憲実追討に向かった人物は、一色時永または一色直兼などと読めるが、実名を確定できていない。
上杉憲実は鎌倉を離れ、幕府へ援助を求めたとみられる。将軍足利義教は、持氏を朝敵として追討する命令を出した。
幕府側の追討大将は、上杉持房と読める可能性がある。しかし、官職と実名の活字が不鮮明であるため、確定した大将名とはしない。
幕府方と鎌倉府方は、箱根・足柄・府中などで戦った。箱根の戦いには、横地・勝間田・熊谷・寺尾と読まれる武士が現れるが、所属と人名の区切りは再確認が必要である。
戦いの結果、持氏方は敗れ、鎌倉御所は焼けたと記される。
持氏は称名寺へ入り、出家した。法名は道継または道謙と読めるが、字形を確定できていない。
上杉憲実は、持氏の命を助けるよう幕府へ願ったと整理されている。しかし、その願いは受け入れられず、持氏方への追討は続いた。
持氏は永安寺で自害したと記される。持氏の叔父に当たる満貞と、持氏の子・義久にも自害記事が置かれる。
義久の自害場所は報国寺と整理されるが、持氏・満貞・義久それぞれの記事の場所・順序には逐字再校訂が必要である。
金沢でも、一色直兼・上杉憲直以下十二人と読まれる人々が自害したと記される。ただし、人名一覧と十二人の内訳は確定していない。
持氏の幼い子である春王丸と安王丸は、この時点では逃れた。二人は後に結城氏朝らに奉じられ、次節の結城合戦へ進む。
同じ範囲には、朝鮮からの使者と、一色伊予守に関係するとみられる記事も置かれている。朝鮮使の名は高仁宗・尹仁甫と読めるが、活字の再確認が必要である。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された活字A-03の第一次解読要旨をもとに、記事の順序と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。明治期活字本文の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
永享9年以後の記事
本節は、永享9年から永享12年までの記事を扱う。
中心となるのは、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立、京都の幕府による持氏追討、持氏父子の最期である。
同じ範囲には、斯波氏の家督、天皇の御製、朝鮮使、一色氏などに関係する記事も置かれている。
ただし、今回確認した手書き写本4冊には、この範囲へ直接対応する本文がないため、明治期活字本の第一次解読に基づいて整理する。
斯波氏の家督に関する記事
本節の初めには、斯波氏の家督に関係するとみられる記事がある。
活字は「治部大夫義郷」「千代徳」「義敏」などと読める可能性がある。
しかし、誰が亡くなり、誰が家督を継ぎ、幼名千代徳と義敏がどのような関係にあるのかを確定できていない。
本文と系譜的な割注が連続している可能性もあり、人物名・官職・幼名の区切りを再確認する必要がある。
そのため、公開用本文では、斯波氏の家督継承記事があることだけを示し、具体的な人物関係を確定しない。
御製とみられる和歌
活字本文には、天皇の御製とみられる和歌が置かれている。
歌は「かたうつす」と読める語から始まる可能性がある。
しかし、助詞・仮名・句切りに異読があり、完全な和歌本文を確定できていない。
歌の詠作時期、詠者、題、持氏・憲実の事件との関係も、現在の作業台帳要旨では明らかでない。
そのため、和歌全文を推測で復元せず、「御製とみられる和歌記事」として判読保留に残す。
持氏と憲実がいったん和解する
前節では、信濃への対応をめぐって、足利持氏と上杉憲実の不和が始まった。
本節では、二人がいったん和解したと記される。
しかし、和解を仲介した人物、条件、誓約、持氏と憲実が交わした言葉は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「一時的に関係が修復された」という範囲を本文とする。
この和解は長く続かず、持氏の子の元服をきっかけとして、再び対立が深まった。
賢王丸が元服する
足利持氏の子・賢王丸は元服した。
元服は、少年が成人としての名前・装束・身分を得る儀式である。
しかし、元服の日、場所、加冠役、烏帽子親、参列者などは、今回の作業台帳には公開用確定情報として保存されていない。
本ページでは、賢王丸が元服したことを採用し、儀式の詳細を資料外から補わない。
義久と名乗る
元服した賢王丸は、義久と名乗った。
作業台帳では、京都の将軍足利義教から一字を受けずに、持氏側が独自に名を定めたことが、京都との関係を悪化させたと整理されている。
上位者の名前の一字を与えることを偏諱という。
ただし、持氏が実際に偏諱を求めたのか、義教が拒否したのか、持氏側が最初から求めなかったのかという交渉過程は、この第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「偏諱を受けない形で義久と名乗ったと整理される」と限定して説明する。
京都との断絶が深まる
鎌倉公方家の後継者の元服は、鎌倉府内部だけの儀式ではなかった。
京都の幕府との主従関係、将軍からの一字、鎌倉公方の政治的自立などに関わる問題だった。
義久の元服・改名をめぐって、持氏と憲実、さらに持氏と義教の関係が悪化したと作業台帳では整理されている。
ただし、活字本文が「京都との断絶」という現代語を用いているわけではない。
事件の流れを理解するための公開用説明として扱う。
持氏が上杉憲実を討とうとする
持氏は、関東管領上杉憲実を討とうとした。
憲実追討に関係する人物は、一色時永または一色直兼などと読める。
しかし、実名の活字が不鮮明であり、一色氏のどの人物を指すのか確定していない。
また、その人物が追討軍の大将だったのか、使者・奉行・別の記事の人物なのかも再確認が必要である。
本ページでは、「一色氏とみられる人物が憲実追討に関係した」とする範囲にとどめる。
上杉憲実が鎌倉を離れる
持氏から攻撃される危険が高まると、上杉憲実は鎌倉を離れたとみられる。
しかし、出発の日、退いた場所、同行者、持氏方の追跡、京都への連絡方法は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
憲実は、京都の幕府へ持氏の行動を知らせ、援助を求めたと整理される。
ここから、鎌倉府内部の対立は、京都の将軍を巻き込む戦争へ広がっていく。
足利義教が持氏追討を命じる
将軍足利義教は、足利持氏を追討する命令を出した。
作業台帳の中学3年生向け要旨では、持氏が息子を京都の許可なしに元服させ、憲実を攻めようとしたため、義教から朝敵として討伐された流れとして整理されている。
ただし、追討命令の正式な文書、持氏を朝敵と認定した手続、朝廷と幕府の役割分担は、今回の作業台帳要旨だけでは確定できない。
そのため、「義教が持氏追討を命じた」という大筋を本文とする。
持氏追討軍の大将
幕府側の持氏追討軍の大将は、上杉持房と読める可能性がある。
しかし、「持房」の実名字形と官職が不鮮明である。
上杉氏の一人を指すことは考えられるが、外部系譜に合わせて人物を確定することはしない。
公開用本文では「上杉氏とみられる幕府方の大将」とし、原文資料欄に上杉持房候補を保存する。
箱根方面の戦い
幕府方と持氏方は、箱根方面で戦った。
箱根は、京都方面から鎌倉へ向かう交通路と軍事上の重要地点に当たる。
活字本文には、横地・勝間田・熊谷・寺尾と読まれる武将名が現れる。
しかし、誰が幕府方で、誰が持氏方なのか、人名が一人ずつ独立しているのか、名字と地名が混在しているのかを確定できていない。
そのため、箱根合戦の具体的な軍勢配置・勝敗・討死者を推測で補わない。
足柄・府中でも戦う
戦いは、箱根だけでなく、足柄・府中と読まれる地域にも広がった。
しかし、箱根・足柄・府中の戦いが同日に行われたのか、軍勢が順番に移動して戦ったのかは確定していない。
府中がどの地域の府中を指すのかも、今回の第一次解読要旨だけからは確定できない。
本ページでは、「箱根・足柄・府中などで戦いが行われた」とする大筋を示す。
持氏方が敗れる
幕府方の軍勢が進み、持氏方は敗れた。
ただし、どの合戦で大勢が決したのか、持氏方の主力がどこで崩れたのか、降参・逃亡した武将は誰かを、現在の台帳要旨では確定できない。
持氏は鎌倉で戦い続けることが難しくなり、やがて出家して助命を求める方向へ進む。
鎌倉御所が焼ける
戦いの中で、鎌倉御所は焼失したと記される。
しかし、誰が火を放ったのか、戦闘による延焼なのか、持氏方が自ら焼いたのかは、今回の第一次解読要旨では確認できない。
焼けた建物の範囲、死傷者、宝物・文書の被害も不明である。
そのため、鎌倉御所焼失という大筋のみを掲載する。
持氏が称名寺で出家する
戦いに敗れた持氏は、称名寺へ入った。
そこで持氏は髪を下ろし、出家したと整理されている。
出家は、戦いをやめて命を助けてもらう意思を示す行動となる場合があった。
ただし、出家の儀式、戒師、同席者、出家後の滞在日数は、現在の要旨では確定していない。
持氏の法名
持氏の法名は、道継または道謙と読める。
二つの候補は字形が近く、活字の一字を確定できないために生じている。
本ページでは法名を一方へ統一せず、「道継/道謙」として判読保留に残す。
一般的な人物事典の法名へ合わせて、活字本文を無断で修正しない。
上杉憲実が助命を願う
上杉憲実は、持氏の命を助けるよう幕府へ願ったと作業台帳では整理されている。
憲実は持氏と対立していたが、持氏を殺すことまでは望まなかったと読むことができる。
ただし、助命嘆願の書状、使者、義教の回答、助命条件などは、今回の要旨では確認できない。
そのため、「憲実が持氏の助命を願ったが、追討は止まらなかった」という大筋を示す。
持氏が永安寺で自害する
持氏は、永安寺で自害したと記される。
ただし、自害の日付、永安寺へ移った経過、最期の言葉、介錯者などは、現在の作業台帳要旨では確定していない。
称名寺での出家によっても助命されず、鎌倉公方足利持氏の政権はここで終わった。
この最後の表現は事件の結果を説明するための公開用整理であり、活字本文の逐字評言ではない。
足利満貞の自害
持氏に関係する人物として、足利満貞の自害記事も置かれる。
満貞は、以前の巻で奥州へ派遣された足利氏人物として登場していた。
しかし、本節での自害場所、持氏との行動関係、同時に自害した人物は、今回の第一次解読要旨では確定していない。
本ページでは、持氏方の崩壊に伴い満貞にも自害記事があることを示す。
義久が報国寺で自害する
持氏の子・義久も自害した。
自害場所は報国寺と整理されている。
ただし、義久が報国寺へ入った経過、父持氏との時間的な前後、自害の日付・方法は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
元服して間もない義久も命を失い、持氏の直系後継者の一人がここで失われた。
金沢で十二人が自害する
金沢では、持氏方の武士たちが自害したと記される。
人名は、一色直兼・上杉憲直以下十二人と読める。
しかし、一色直兼・上杉憲直という実名、十二人全員の姓名、官職、所属は再確認が必要である。
「以下十二人」が、自害者の総数を指すのか、列挙された人物以外に十二人いたことを指すのかも確定していない。
そのため、「一色・上杉氏関係者ら十二人と読まれる人々が金沢で自害した」と限定して掲載する。
春王丸・安王丸が逃れる
持氏の子である春王丸と安王丸は、この時点では自害せず、逃れた。
二人がどの経路で逃げ、誰に保護され、どこへ向かったのかは、現在の第一次解読要旨では詳しく確定していない。
しかし、二人が生き延びたことは、永享の乱後にも持氏の血統を支持する勢力が残ることにつながった。
次節では、結城氏朝父子が春王丸・安王丸を奉じ、幕府方と戦う結城合戦へ進む。
朝鮮使の記事
同じ範囲には、朝鮮からの使者に関する記事もある。
使者名は、高仁宗・尹仁甫と読める。
しかし、活字の実名字形を再確認する必要があり、確定した姓名とはしない。
来日の目的、持参した文書・贈物、到着地、面会者、帰国日は、現在の作業台帳要旨には保存されていない。
そのため、「高仁宗・尹仁甫と読まれる朝鮮使の記事がある」という範囲を示す。
一色伊予守に関する記事
作業台帳の要旨には、一色伊予守に関する記事も追加確認対象として挙げられている。
しかし、どの事件に関係する人物か、実名、行動内容、前後の記事との接続を確定できていない。
一色氏は憲実追討者・金沢自害者の候補にも現れるが、これらを同一人物と断定しない。
そのため、一色伊予守の記事は判読保留として保存し、主本文へ具体的な行動を入れない。
永享の乱がもたらした結果
永享の乱によって、鎌倉公方足利持氏の政権は崩壊した。
持氏・義久らが命を失い、持氏方の武士にも多数の自害者が出た。
一方、春王丸・安王丸は逃れ、持氏の血統を支持する勢力は完全には消えなかった。
京都の幕府は持氏を倒したが、関東の問題そのものを解決できたわけではない。
持氏の遺児を奉じる結城氏の挙兵によって、戦いは次の結城合戦へ続く。
本節の流れ
- 一時的な和解:持氏と憲実の関係がいったん修復する。
- 元服問題:賢王丸が元服して義久と名乗り、京都との関係が悪化する。
- 憲実追討:持氏が上杉憲実を討とうとする。
- 幕府介入:義教が持氏追討を命じ、箱根・足柄・府中などで戦いが起こる。
- 持氏方の崩壊:鎌倉御所が焼け、持氏は出家するが助命されない。
- 自害:持氏・満貞・義久らが自害し、金沢でも持氏方武士が自害する。
- 遺児の逃亡:春王丸・安王丸が逃れ、結城合戦へ続く。
流れが分かる現代語訳
- 鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実は、前節で対立した後、いったん和解した。
- しかし、持氏の子・賢王丸の元服をきっかけに、二人の関係は再び悪化した。
- 賢王丸は義久と名乗った。
- 作業台帳では、京都の将軍義教から名前の一字を受けずに改名したことが、京都との対立を深めたと整理されている。
- 持氏は上杉憲実を討とうとした。
- 憲実追討に関係した人物は一色時永・直兼などと読めるが、実名は確定していない。
- 憲実は幕府へ助けを求めたとみられる。
- 将軍足利義教は、持氏を朝敵として追討するよう命じた。
- 幕府方と持氏方は、箱根・足柄・府中などで戦った。
- 箱根の戦いに現れる横地・勝間田・熊谷・寺尾などの武将は、所属と名前の区切りを再確認する必要がある。
- 持氏方は敗れ、鎌倉御所は焼けた。
- 持氏は称名寺へ入り、出家した。
- 法名は道継または道謙と読め、まだ確定していない。
- 上杉憲実は持氏の命を助けるよう願ったとみられるが、追討は止まらなかった。
- 持氏は永安寺で自害した。
- 足利満貞と、持氏の子・義久にも自害記事が置かれ、義久は報国寺で自害したと整理される。
- 金沢では、一色・上杉氏関係者ら十二人と読まれる人々も自害した。
- 持氏の幼い子・春王丸と安王丸は逃れた。
- 二人は次節で結城氏に奉じられ、幕府と戦うことになる。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は活字本文の記事を理解するための説明であり、手書き写本の直接的な評言ではない。
- 永享の乱:足利持氏と上杉憲実の対立をきっかけに、京都の幕府が持氏を追討した戦いを示す一般的な事件名である。
- 足利持氏:鎌倉公方。上杉憲実を討とうとした後、幕府から追討され、出家したものの永安寺で自害したと記される。
- 上杉憲実:関東管領。持氏と一時和解したが、義久の元服をめぐって再び対立し、持氏から追討される。
- 賢王丸・足利義久:持氏の子。元服して義久と名乗った。元服・命名が京都との対立を深めたと作業台帳では整理される。
- 偏諱:将軍など上位者が、自分の名の一字を下位者へ与えること。義久は義教からの偏諱を受けない形で名乗ったと整理されている。
- 一色氏の人物:憲実追討に関係した人物として、時永・直兼などが候補となるが、実名は未確定である。
- 足利義教:京都の室町幕府将軍。持氏を追討するよう命じ、永享の乱へ介入した。
- 持氏追討大将:上杉持房と読める可能性があるが、実名・官職を確定できていない。
- 箱根・足柄・府中の戦い:幕府方と持氏方が戦った地域。戦闘順序、軍勢配置、個々の勝敗は未確定である。
- 横地・勝間田・熊谷・寺尾:箱根合戦に現れるとみられる武将名。所属・人名区切りを再確認する必要がある。
- 称名寺:敗れた持氏が入り、出家したと整理される寺院。出家儀礼の細部は未確定である。
- 持氏の法名:道継または道謙と読める。字形異読のため一方へ確定しない。
- 永安寺:持氏が自害した場所として活字本文に現れる。
- 足利満貞:持氏方の崩壊に伴って自害記事が置かれる足利氏人物。自害場所・日付は未確定である。
- 報国寺:持氏の子・義久が自害した場所として整理される。
- 金沢の自害者:一色直兼・上杉憲直以下十二人と読めるが、人名一覧・人数の意味を再確認する必要がある。
- 春王丸・安王丸:持氏の幼い子。永享の乱では逃れ、次節の結城合戦で結城氏に奉じられる。
- 朝鮮使:高仁宗・尹仁甫と読まれる使者の記事。姓名・来日目的は未確定である。
- 一色伊予守:作業台帳で追加確認対象とされる人物記事。ほかの一色氏人物との同一性は確定していない。
- 活字本巻五相当部分:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がなく、成立・底本・伝本系統は未確定である。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:活字A-03
- 区分:活字本part-A3
- 明治期活字本:PDF第27画像・印刷52~53頁
- 対象年代:永享9~12年(1437~1440年)
- 内容区分:永享の乱
- 作業状態:第一次解読済み
- 判読・校訂保留:主要8件
- 写本との関係:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文なし
- 書誌上の位置づけ:活字本巻五相当部分。成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定
活字本文――第一次解読の要旨
以下は明治期活字本文の逐字全文ではなく、作業台帳に保存された第一次解読の要旨である。
- 斯波氏の家督に関係する記事を記すが、人物関係は未確定である。
- 「かたうつす」以下と読まれる御製を記すが、和歌の逐字は未確定である。
- 足利持氏と上杉憲実の一時的な和解を記す。
- 持氏の子・賢王丸の元服と、義久への改名を記す。
- 元服・改名を契機として、持氏と憲実、持氏と京都の幕府の対立が深まる。
- 持氏が上杉憲実を追討しようとしたことを記す。
- 憲実追討に関係する人物は、一色時永・直兼などと読めるが未確定である。
- 将軍足利義教が持氏追討を命じたことを記す。
- 持氏追討軍の大将は上杉持房と読める可能性がある。
- 箱根・足柄・府中における合戦を記す。
- 箱根合戦に横地・勝間田・熊谷・寺尾と読まれる武将が現れる。
- 鎌倉御所の焼失を記す。
- 持氏が称名寺へ入り、出家したことを記す。
- 持氏の法名は道継または道謙と読める。
- 上杉憲実による持氏の助命嘆願があったと整理される。
- 持氏が永安寺で自害したことを記す。
- 足利満貞・義久らの自害記事を記す。
- 義久は報国寺で自害したと整理される。
- 金沢で一色直兼・上杉憲直以下十二人と読まれる人々が自害したことを記す。
- 持氏の子・春王丸と安王丸が逃れたことを記す。
- 高仁宗・尹仁甫と読まれる朝鮮使の記事を記す。
- 一色伊予守に関係するとみられる未確定記事がある。
校訂・読み下し本文――公開用仮本文
以下は、作業台帳に保存された出来事の順序を整理した公開用仮本文であり、明治期活字本文の逐字翻刻ではない。
永享9年以後、足利持氏と上杉憲実は一時和解す。
持氏の子・賢王丸、元服して義久と号す。
この元服・改名、京都の将軍より偏諱を受けざる形にて行われたと整理され、持氏と京都との対立深まる。
持氏、上杉憲実を追討せんとす。
一色氏とみらるる人物、憲実追討に関係す。ただし実名未確定。
憲実、鎌倉を離れ、京都の幕府へ援助を求むとみらる。
将軍足利義教、持氏追討を命ず。
幕府方の追討大将、上杉持房と読まるる可能性あり。ただし実名・官職未確定。
幕府方と持氏方、箱根・足柄・府中等にて戦う。
箱根合戦に横地・勝間田・熊谷・寺尾と読まるる武将あり。ただし所属・人名区切り未確定。
持氏方敗れ、鎌倉御所焼失す。
持氏、称名寺へ入りて出家す。
法名、道継または道謙と読まる。
上杉憲実、持氏の助命を願うとみらるるも、追討止まず。
持氏、永安寺にて自害す。
足利満貞にも自害記事あり。
持氏の子・義久、報国寺にて自害すと整理さる。
金沢において、一色直兼・上杉憲直以下十二人と読まるる者、自害す。ただし人名・人数未確定。
持氏の子・春王丸、安王丸は逃る。
朝鮮使、高仁宗・尹仁甫と読まるる人物来る。ただし姓名未確定。
一色伊予守に関する未読記事あり。
〔春王丸・安王丸を奉ずる結城合戦へ続く〕
手書き写本との対応
今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
したがって、本節では写本翻刻・写本との本文異同表を設けず、明治期活字本の第一次解読要旨、公開用仮本文、判読保留、書誌上の注意を掲載する。
対応写本が確認できないことをもって、写本の欠落、別冊の消失、活字本巻五の後世追加、別系統本文などの一つへ断定することはできない。
活字本巻五相当部分の成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは、写本4冊・本文5巻の未解決の書誌問題として扱う。
書誌・本文上の主要な問題
| 論点 | 活字本文・台帳の状態 | 公開版での扱い |
|---|---|---|
| 対応写本 | 今回の手書き写本4冊には直接対応する本文なし | 活字本巻五相当部分として独立管理する |
| 斯波氏家督 | 治部大夫義郷・千代徳・義敏などと読める | 人物関係・家督継承を確定しない |
| 御製 | 「かたうつす」以下と読める和歌を収録 | 歌句を推測で復元しない |
| 義久の元服 | 京都からの偏諱を受けない形での改名と整理される | 交渉過程を断定せず、対立深化の契機として説明する |
| 憲実追討者 | 一色時永・直兼などと読める | 一色氏の特定人物へ確定しない |
| 持氏追討大将 | 上杉持房と読める可能性 | 実名・官職を保留する |
| 箱根合戦 | 横地・勝間田・熊谷・寺尾を列挙 | 所属・区切り・勝敗の細部を確定しない |
| 持氏の法名 | 道継/道謙 | 両候補を保存する |
| 金沢自害者 | 一色直兼・上杉憲直以下十二人 | 人名一覧・人数の意味を確定しない |
| 朝鮮使 | 高仁宗・尹仁甫と読める | 姓名を暫定読みとして扱う |
| 一色伊予守 | 作業台帳要旨で追加確認対象 | ほかの一色氏人物と同一視しない |
判読・校訂に自信のない箇所
- 斯波氏家督記事:治部大夫義郷・千代徳・義敏などと読めるが、誰が家督を継いだのか、人物関係を確定できない。
- 御製:「かたうつす」以下と読めるが、助詞・仮名・句切りに異読があり、和歌全文を確定できない。
- 憲実追討者:一色時永・一色直兼などと読めるが、実名と役割は未確定である。
- 持氏追討軍の大将:上杉持房と読める可能性があるが、官職・実名の活字が不鮮明である。
- 箱根合戦の武将:横地・勝間田・熊谷・寺尾と読めるが、所属・人名区切りを再確認する必要がある。
- 持氏の法名:道継または道謙。字形異読のため一方へ確定できない。
- 金沢自害者:一色直兼・上杉憲直以下十二人と読めるが、人名一覧と人数の意味を確定できない。
- 朝鮮使:高仁宗・尹仁甫と読めるが、使者名の活字を再確認する必要がある。
追加確認対象:一色伊予守と読まれる記事について、実名・行動内容・ほかの一色氏人物との関係を確認する必要がある。
復刻作業記録
- 活字本巻五作業台帳の管理No.活字A-03を確認した。
- 対象を活字本part-A3・PDF第27画像・印刷52~53頁として確認した。
- 対象年代を永享9~12年として整理した。
- 今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がないことを明記した。
- 活字本巻五を後世の付録・補遺・増補とは断定していない。
- 斯波氏の家督記事を確認したが、義郷・千代徳・義敏の関係を確定していない。
- 御製とみられる和歌を確認したが、全文を推測で復元していない。
- 前節末尾の持氏・憲実不和から、本節の一時和解へ接続した。
- 賢王丸の元服と義久への改名を採用した。
- 元服日・加冠役・烏帽子親・命名者を資料外から補っていない。
- 偏諱を受けない形での改名という作業台帳の整理を採用したが、交渉経過を断定していない。
- 持氏による憲実追討を採用した。
- 憲実追討者を一色時永・直兼の一方へ確定していない。
- 憲実が京都の幕府へ援助を求めた流れを整理した。
- 義教による持氏追討命令を採用した。
- 持氏追討大将を上杉持房と確定していない。
- 箱根・足柄・府中の戦いを一続きの軍事過程として整理した。
- 箱根合戦の横地・勝間田・熊谷・寺尾の所属を確定していない。
- 鎌倉御所焼失を採用したが、出火原因・焼失範囲を補っていない。
- 持氏の称名寺出家を採用したが、出家儀礼の詳細を補っていない。
- 持氏の法名を道継・道謙の一方へ統一していない。
- 上杉憲実による持氏助命嘆願を採用したが、書状・条件を補っていない。
- 持氏の永安寺自害を採用したが、日付・最期の言葉・介錯者を補っていない。
- 足利満貞の自害記事を採用したが、場所・日付を確定していない。
- 義久の報国寺自害を採用したが、父持氏との時間的前後を確定していない。
- 金沢自害者を一色直兼・上杉憲直以下十二人と暫定的に保存した。
- 十二人の姓名・人数の数え方を確定していない。
- 春王丸・安王丸の逃亡を確認し、次節の結城合戦へ接続した。
- 朝鮮使高仁宗・尹仁甫を暫定人名として扱った。
- 一色伊予守の記事を、ほかの一色氏人物と無条件に同一視していない。
- 活字本文欄を「第一次解読の要旨」とし、存在しない逐字翻刻を作成していない。
- 校訂・読み下し本文を「公開用仮本文」とし、台帳にない古文・漢文を新たに作成していない。
関連ページへのリンク
4.結城合戦――義教の強権政治と持氏遺児の処刑
対象年代:永享12年~嘉吉元年(1440~1441年)
対応史料:管理No.活字A-04・活字本part-A4/明治期活字本PDF第28画像(印刷54~55頁)
公開状態・書誌上の注意:明治期活字本巻五相当部分の第一次解読に基づく公開用仮本文である。今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
本節の「結城合戦」は、持氏の遺児である春王丸・安王丸を奉じた結城氏の挙兵と、幕府軍による結城城包囲・落城までをまとめた一般的な事件名である。活字本文に、この節題がそのまま付されているわけではない。
一色氏・土岐氏の処刑、北畠顕雅との和睦、大覚寺義昭の最期については、人物名・場所・記事の区切りに未確定箇所がある。一般的な年表・人物系譜・合戦史に合わせて、活字本文を無断で修正しない。
持氏遺児の処刑について、活字本文は五月十六日、春王丸十五歳・安王丸十三歳と読める可能性があるが、日付・年齢には他史料との異同がある。そのため、公開用主本文では具体的な日付・年齢を確定しない。
この節の概要
前節では、鎌倉公方足利持氏と、その子義久らが自害し、持氏の幼い子である春王丸・安王丸が逃れた。
本節では、結城氏朝父子が春王丸・安王丸を奉じて兵を挙げる。結城氏は、持氏の遺児を中心として鎌倉府を再び立てようとした勢力として、作業台帳では整理されている。
幕府は関東各地の軍勢を動員し、結城城を四方から包囲した。包囲軍には多数の武将が参加したとみられるが、人名・所属・配置は逐字確定していない。
結城合戦が続く一方、将軍足利義教は、有力守護である一色氏・土岐氏の人物を処刑したと記される。
一色氏の人物は一色義貫と読む可能性が高いが、活字本文と系図的な注記には義実・義範などの異読候補がある。
土岐氏の人物は土岐持頼と整理されるが、記事中の「東池田」と読める語が、人名・地名・一族名のどれに当たるかは確定していない。
作業台帳は、この二人の処刑を、義教が有力守護を疑いによって処分する政治と関係づけて整理している。ただし、処刑理由・讒言・命令の経過は逐字再校訂を必要とする。
伊勢では、幕府と北畠顕雅との間に一時的な和睦が成立したとみられる。
北畠顕雅・教具、大河内城・多気城に関係する記事があるが、親子・養子・家督関係と所領の対応は確定していない。
旧南朝方に関係する記事では、大覚寺義昭が南帝と読まれる皇族とともに計画を進めたとみられる。
南帝は寛成親王と読む候補があるが、人物比定には不確定要素が残る。
義昭は幕府の追及を逃れて移動し、最後には討たれたと記される。最期の場所は薩摩とも日向とも伝わり、この活字本文だけでは一方へ確定できない。
義昭の最期には、和歌三首と重代の太刀に関する記事が伴うとみられる。ただし、和歌の句切り・語句、太刀の名・所有者・処置は確定していない。
やがて幕府軍は結城城を攻め落とした。春王丸・安王丸は捕らえられ、処刑されたと記される。
活字本文は処刑日・年齢を具体的に記す可能性があるが、他史料との異同があるため、本ページでは「捕らえられ、処刑された」という大筋を主本文とする。
持氏の遺児を中心として鎌倉府を再建しようとした動きは、結城城の落城と遺児の処刑によって敗れた。
同時に、義教が有力守護・親族・旧南朝方の人物を次々に処分する政治が並行して記され、次節の嘉吉の変へ続く。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された活字A-04の第一次解読要旨をもとに、記事の順序と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。明治期活字本文の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
春王丸・安王丸が逃れた記事から続く
前節では、足利持氏と義久らが自害した一方、持氏の幼い子である春王丸・安王丸は逃れた。
本節は、この二人を支持する関東の武士が兵を挙げる記事へ続く。
春王丸・安王丸は、父持氏の血統を受け継ぐ人物として、鎌倉府の再建を望む勢力の中心に置かれた。
ただし、二人が永享の乱後にどこへ逃れ、どのような経路で結城氏のもとへ入ったのかは、今回の作業台帳要旨では確定していない。
結城氏朝父子が兵を挙げる
結城氏朝と、その子とみられる人物は、春王丸・安王丸を奉じて兵を挙げた。
活字本文は、結城氏朝父子の挙兵を結城合戦の中心記事として記している。
しかし、父子のうち誰が軍事上の中心となったのか、挙兵の日、最初に集まった武将、軍勢数は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
本ページでは、結城氏朝父子が持氏遺児を奉じて挙兵したという範囲を本文とする。
持氏遺児を中心とする鎌倉府再建運動
結城氏の挙兵は、単に結城氏一族の所領を守るための戦いとしてだけではなく、持氏の遺児を中心として鎌倉府を再び立てようとする動きとして作業台帳では整理されている。
持氏を支持していた関東武士の中には、京都の幕府による鎌倉府の処分を受け入れず、春王丸・安王丸を新たな主君として支えようとする者がいたと理解できる。
ただし、活字本文が「鎌倉府再建運動」という現代語を用いているわけではない。
事件の政治的な意味を理解するための公開用整理として示す。
幕府が関東の軍勢を動員する
将軍足利義教は、結城氏を討つため、関東の諸勢力へ出兵を命じたとみられる。
幕府方は結城城の周囲へ軍勢を配置し、四方から包囲した。
しかし、東西南北それぞれに配置された武将名、軍勢の所属、人数、陣所は逐字確定していない。
判読保留一覧では、「四方の軍勢配置」と「多数の人名・所属」が再確認対象となっている。
そのため、公開用主本文では「幕府軍が結城城を四方から包囲した」とし、確定していない武将配置を作らない。
結城城で籠城戦が続く
結城氏は、春王丸・安王丸を城内に守りながら、幕府軍と戦った。
幕府軍の包囲は、結城氏だけでなく、持氏遺児を支える関東武士全体を抑えるための軍事行動だったと作業台帳では整理できる。
ただし、城内の兵数、兵糧、城門・曲輪、攻城方法、個々の合戦日は、今回の第一次解読要旨では確認できない。
そのため、結城城で籠城戦が続いたという大筋を示し、具体的な攻防を補わない。
結城合戦と並行して義教の処分記事が置かれる
結城城の包囲記事と同じ範囲には、将軍義教が有力守護を処分した記事が置かれている。
作業台帳は、結城合戦と、義教が有力守護・親族を疑いによって処分する政治を並行して整理している。
ただし、結城合戦と守護処刑が直接同じ計画の一部だったと断定するものではない。
活字本文の編年上、同時期の重要事件として続けて記録されていると説明する。
一色氏の有力守護が処刑される
義教は、一色氏の有力者を処刑したと記される。
作業台帳では、一色義貫と暫定的に整理している。
しかし、活字本文と系図的な注記には、義貫・義実・義範などの異読候補がある。
そのため、本ページでは「一色義貫と読まれる人物」とし、実名を完全確定しない。
処刑の場所・日付・直接の命令者・処刑を実行した人物についても、現在の台帳要旨からは確定できない。
一色氏処刑の理由
作業台帳では、義教が有力守護を疑いによって処分した政治の一例として、一色氏の記事を整理している。
しかし、具体的に何を疑われたのか、誰が訴えたのか、弁明の機会があったのかは確定していない。
そのため、「義教の命令によって処刑されたとみられる」という範囲を示し、罪状を推測で補わない。
後世の義教評価をそのまま活字本文の事実記録へ重ねないよう注意する。
土岐持頼と読まれる人物の処刑
土岐氏の有力者にも処刑記事が置かれる。
人物は土岐持頼と整理されている。
ただし、記事中には「東池田」と読める語があり、人名・地名・一族名のどれに当たるか分からない。
土岐持頼本人の別名・関係者・処刑場所を示す語なのかも確定していない。
そのため、本ページでは「土岐持頼と読まれる人物が処刑された」と限定して掲載する。
陣中での処刑
作業台帳の活字本文要旨は、一色氏・土岐氏の両守護が陣中で処刑された記事として整理している。
しかし、同じ陣で処刑されたのか、別々の軍事行動中に処刑されたのかは、今回の要旨だけからは確定できない。
また、結城城包囲軍の陣と直接関係するのかも逐字再校訂が必要である。
そのため、「軍事行動中または陣中で処刑されたとみられる」という慎重な表現を用いる。
北畠氏との一時的な和睦
伊勢の北畠氏については、幕府との間に一時的な和睦が成立したとみられる。
中心人物は北畠顕雅と整理される。
この和睦は、幕府が関東の結城合戦へ対応する一方、伊勢の北畠氏との戦いを一時停止するための戦略的な措置として作業台帳では整理されている。
ただし、和睦条件、使者、誓約、所領の扱い、期間は活字本文の逐字再確認を必要とする。
北畠顕雅・教具の記事
北畠氏の記事には、顕雅と教具と読まれる人物が現れる。
また、大河内城・多気城と読まれる拠点が記される。
しかし、顕雅と教具の続柄・家督関係、二城の所領関係、誰がどちらの城を支配したのかを確定できていない。
そのため、「北畠顕雅・教具、大河内城・多気城に関する記事」として原文資料欄へ保存する。
一般的な北畠氏系譜によって、活字本文の主語・目的語を置き換えない。
大覚寺義昭と旧南朝方の計画
活字本文には、大覚寺義昭と旧南朝方に関係する計画の記事がある。
義昭は、旧南朝系皇族・南帝と読まれる人物と関係し、幕府へ対抗する行動を計画したとみられる。
しかし、計画の目的、参加者、挙兵地、軍勢、京都または伊勢との連絡は確定していない。
そのため、「大覚寺義昭と旧南朝方が幕府へ対抗する計画に関係した」とする大筋を示す。
南帝は寛成親王か
義昭の記事に現れる「南帝」は、寛成親王と暫定的に読まれている。
しかし、旧南朝系皇族の呼称・系譜には不確定な部分が多く、この南帝を特定の一人へ確定できない。
判読保留一覧でも、この人物比定は最重要の未解決事項とされている。
そのため、公開用主本文では「南帝と記される旧南朝系皇族」とし、寛成親王候補は注記に残す。
義昭が逃れる
義昭は幕府の追及を受け、逃亡したと記される。
しかし、出発地、逃走経路、同行者、保護した勢力は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
義昭の行動が、北畠氏との和睦の前後のどちらに位置するのかも、記事配列を再確認する必要がある。
そのため、義昭が幕府の追及を逃れて移動したという範囲を本文とする。
義昭の最期の場所
義昭は最後に討たれたと記される。
最期の場所は薩摩とも日向とも伝わり、史料間に異同がある。
今回の活字本文がどちらを記しているのか、また、その地名が後世の注記によるものかを再確認する必要がある。
そのため、本ページでは国名を本文へ固定せず、「逃亡先で討たれたとみられる」とする。
義昭の和歌三首
義昭の最期に関係して、和歌三首が記されるとみられる。
一首には「花はいかに」と読める語が含まれる。
しかし、三首それぞれの句切り、助詞、語句、詠作順は確定していない。
本ページでは、和歌本文を推測で再現せず、「義昭の和歌三首が記される」と説明する。
和歌の全文は、別歌集・異本との比較を行う第二次校訂へ送る。
重代の太刀
義昭関係の記事には、重代の太刀とみられる武具の記事がある。
重代とは、代々家に伝えられたことを表す。
しかし、太刀の名、もとの所有者、義昭が所持していたのか、最期に誰へ渡したのかは確定していない。
そのため、具体的な名刀伝承へ置き換えず、「重代の太刀に関する記事」として判読保留に残す。
結城城が落城する
幕府軍の包囲を受けた結城城は、最後に落城した。
作業台帳の活字本文要旨では、結城氏朝父子の挙兵から結城城落城までを一続きの事件として整理している。
しかし、落城の日付、城門を破った軍勢、城内から逃れた者、討死者、降参者は、現在の要旨では確定していない。
そのため、「幕府軍によって結城城が攻め落とされた」という大筋を本文とする。
結城氏朝父子の結末
結城城の落城によって、結城氏朝父子を中心とする抵抗は敗れた。
ただし、父子それぞれが討死・自害・捕縛のどれに当たるのか、最期の場所と時間的な順序は、今回の台帳要旨からは確定できない。
そのため、確定していない最期の場面を物語的に補わない。
結城合戦の軍事的な結果として、持氏遺児を奉じる関東の抵抗勢力が敗れたことを示す。
春王丸・安王丸が捕らえられる
結城城の落城後、春王丸・安王丸は幕府方に捕らえられた。
二人は鎌倉公方足利持氏の子であり、結城氏が奉じた政治的な中心人物だった。
そのため、幼い人物であっても、将来再び関東武士をまとめる存在になると警戒された可能性がある。
ただし、活字本文が処刑理由をこの言葉どおりに説明しているとは限らない。事件を理解するための公開用解説である。
持氏遺児が処刑される
春王丸・安王丸は、捕らえられた後に処刑されたと記される。
活字本文は五月十六日と読める日付を記す可能性がある。
また、年齢を十五歳・十三歳と記す可能性がある。
しかし、日付・年齢には他史料との異同があり、どちらの年齢が春王丸・安王丸に対応するかも含め、再確認が必要である。
そのため、公開用主本文では具体的な日付・年齢を確定せず、活字本文値の候補として原文資料欄に保存する。
持氏の血統をめぐる戦いの終わり
永享の乱では、持氏・義久らが命を失ったが、春王丸・安王丸は逃れていた。
結城合戦では、その遺児を奉じた武士たちが幕府と戦った。
しかし、結城城の落城と遺児の処刑により、この段階の鎌倉府再建運動は敗れた。
ただし、関東における鎌倉公方の血統と支持勢力の問題が完全に消滅したわけではなく、後の巻五記事では再び鎌倉公方の設置へ進む。
義教政治への不安
本節では、結城合戦と並行して、一色氏・土岐氏、北畠氏、大覚寺義昭などへの義教政権の対応が記される。
作業台帳は、義教が有力守護・親族を疑いによって次々に処分する政治として、この記事群を整理している。
ただし、それぞれの事件には個別の事情があり、すべてが同一の理由で処分されたと断定することはできない。
本節の記事は、義教の政治に対する有力武士の恐怖や不安が高まる前段として、次の嘉吉の変へ続く。
本節の流れ
- 持氏遺児の擁立:結城氏朝父子が春王丸・安王丸を奉じて挙兵する。
- 結城城包囲:幕府軍が関東の軍勢を集め、結城城を四方から包囲する。
- 有力守護の処刑:一色義貫・土岐持頼と読まれる人物が処刑される。
- 北畠氏との和睦:幕府と北畠顕雅の間に一時的な和睦が成立するとみられる。
- 旧南朝方の記事:大覚寺義昭と南帝と読まれる皇族の計画、義昭の逃亡と最期が記される。
- 結城城落城:幕府軍が結城城を攻め落とす。
- 持氏遺児の処刑:春王丸・安王丸が捕らえられ、処刑される。
流れが分かる現代語訳
- 永享の乱で足利持氏と義久らは自害したが、幼い春王丸・安王丸は逃れた。
- 結城氏朝父子は、春王丸・安王丸を新しい主君として奉じ、幕府に対して兵を挙げた。
- 作業台帳では、この戦いを持氏の子を中心として鎌倉府を再建しようとする動きとして整理している。
- 幕府は関東の武士を集め、結城城を四方から包囲した。
- 包囲軍には多くの武将が参加したが、人名・所属・配置はまだ完全には読めていない。
- 結城合戦が続く中、将軍足利義教は一色氏・土岐氏の有力者を処刑した。
- 一色氏の人物は義貫、土岐氏の人物は持頼と読まれるが、実名と記事の区切りには未確定箇所がある。
- 幕府は伊勢の北畠顕雅と一時的に和睦したとみられる。
- 北畠顕雅・教具、大河内城・多気城の関係は、まだ確定していない。
- 旧南朝方では、大覚寺義昭が南帝と読まれる皇族と関係して、幕府へ対抗する計画を進めたとみられる。
- 南帝は寛成親王と読む候補があるが、人物は確定していない。
- 義昭は逃亡した後に討たれたと記されるが、最期の場所は薩摩とも日向とも伝わる。
- 義昭の和歌三首と重代の太刀に関する記事もあるが、詳しい語句は読めていない。
- 幕府軍は結城城を攻め落とした。
- 春王丸・安王丸は捕らえられ、処刑された。
- 処刑日は五月十六日、年齢は十五歳・十三歳と読める可能性があるが、他史料との違いがあるため確定しない。
- 持氏の遺児を奉じて鎌倉府を再建しようとした動きは、結城城落城と二人の処刑によって敗れた。
- 義教が有力者を次々に処分する政治への不安は、次の嘉吉の変へつながっていく。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は活字本文の記事を理解するための説明であり、今回確認した手書き写本の直接的な評言ではない。
- 結城合戦:足利持氏の遺児である春王丸・安王丸を奉じた結城氏が、幕府軍と戦った事件を示す一般的な名称である。
- 結城氏朝父子:春王丸・安王丸を奉じて挙兵した結城氏の人物。父子それぞれの軍事行動と最期の詳細は未確定である。
- 春王丸・安王丸:鎌倉公方足利持氏の子。永享の乱を逃れた後、結城氏に奉じられ、結城城落城後に処刑された。
- 鎌倉府再建運動:持氏遺児を中心として鎌倉府を再び立てようとした動きを説明する公開用表現である。
- 結城包囲軍:結城城を四方から包囲した幕府方の軍勢。多数の武将名・所属・配置は逐字未確定である。
- 一色義貫:義教によって処刑されたと整理される有力守護。活字本文には義貫・義実・義範などの異読候補がある。
- 土岐持頼:一色氏の人物と同じ時期に処刑されたと整理される土岐氏人物。「東池田」と読める語との関係は未確定である。
- 義教の強権政治:一色氏・土岐氏などの有力者を処分した記事を理解するための公開用表現。各処分の具体的理由は再校訂が必要である。
- 北畠顕雅:幕府と一時的に和睦したとみられる北畠氏人物。和睦条件と所領関係は未確定である。
- 北畠教具:顕雅との続柄・家督関係を再確認する必要がある人物。
- 大河内城・多気城:北畠顕雅・教具の記事に現れる城名候補。どちらの人物がどの城・所領と関係したかは未確定である。
- 大覚寺義昭:旧南朝方の計画に関係し、幕府の追及を逃れた後に討たれたと記される人物。
- 南帝:義昭の記事に現れる旧南朝系皇族。寛成親王と読む候補があるが、人物比定は未確定である。
- 義昭最期の場所:薩摩・日向の両説があり、活字本文・他史料の異同を確認する必要がある。
- 義昭の和歌三首:「花はいかに」などと読める語を含むとみられるが、句切り・語句・詠作順は未確定である。
- 重代の太刀:義昭関係記事に現れるとみられる代々伝来の太刀。名称・所有者・最期における扱いは未確定である。
- 持氏遺児処刑:活字本文では五月十六日・十五歳/十三歳と読める可能性があるが、日付・年齢には他史料との異同がある。
- 活字本巻五相当部分:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がなく、成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定である。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:活字A-04
- 区分:活字本part-A4
- 明治期活字本:PDF第28画像・印刷54~55頁
- 対象年代:永享12年~嘉吉元年(1440~1441年)
- 内容区分:結城合戦・義教強権政治
- 作業状態:第一次解読済み
- 主要判読・校訂保留:8群
- 写本との関係:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文なし
- 書誌上の位置づけ:活字本巻五相当部分。成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定
活字本文――第一次解読の要旨
以下は明治期活字本文の逐字全文ではなく、作業台帳に保存された第一次解読の要旨である。
- 足利持氏の遺児である春王丸・安王丸を、結城氏朝父子が奉じて挙兵したことを記す。
- 幕府が関東の軍勢を動員し、結城城を四方から包囲したことを記す。
- 包囲軍に多数の武将名を記すが、所属・配置・人名区切りは未確定である。
- 一色義貫と読まれる有力守護の処刑を記す。
- 一色氏の実名には義貫・義実・義範などの異読候補がある。
- 土岐持頼と読まれる人物の処刑を記す。
- 土岐氏の記事には「東池田」と読まれる難解な語がある。
- 幕府と北畠顕雅との一時的な和睦を記す。
- 北畠顕雅・教具、大河内城・多気城に関する記事を記す。
- 大覚寺義昭と旧南朝方の計画を記す。
- 南帝と記される人物は寛成親王と読む候補があるが、人物比定は未確定である。
- 義昭の逃亡と最期を記す。
- 義昭最期の場所には薩摩・日向の異同がある。
- 義昭の和歌三首と重代の太刀に関係する記事を記すとみられる。
- 幕府軍による結城城落城を記す。
- 春王丸・安王丸の捕縛と処刑を記す。
- 処刑日・年齢には五月十六日・十五歳/十三歳と読める候補があるが、他史料との異同がある。
校訂・読み下し本文――公開用仮本文
以下は、作業台帳に保存された出来事の順序を整理した公開用仮本文であり、明治期活字本文の逐字翻刻ではない。
永享12年、結城氏朝父子、足利持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じて兵を挙ぐ。
幕府、関東諸勢をして結城城を四方より囲ましむ。
包囲軍に多数の武将あり。ただし人名・所属・配置未確定。
将軍足利義教、一色義貫と読まるる人物を処刑す。
実名、義貫・義実・義範等の異読候補あり。
土岐持頼と読まるる人物にも処刑記事あり。
記事中の「東池田」と読まるる語、人名・地名・一族名の別未確定。
幕府、北畠顕雅と一時和睦すとみらる。
北畠顕雅・教具、大河内城・多気城に関する記事あり。ただし続柄・所領関係未確定。
大覚寺義昭、南帝と記さるる旧南朝系皇族とともに、幕府へ対抗する計画に関係すとみらる。
南帝、寛成親王と読む候補あり。ただし人物比定未確定。
義昭、幕府の追及を逃るるも、後に討たる。
最期の場所、薩摩または日向と伝わり、未確定。
義昭の和歌三首、重代の太刀に関する記事ありとみらる。ただし逐字未確定。
幕府軍、結城城を攻め落とす。
春王丸・安王丸、捕らえられ、処刑せらる。
処刑日は五月十六日、年齢は十五歳・十三歳と読まるる候補あり。ただし他史料との異同により確定せず。
〔足利義教の政治への恐怖、赤松満祐による嘉吉の変へ続く〕
手書き写本との対応
今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
したがって、本節では写本翻刻・写本との本文異同表を設けず、明治期活字本の第一次解読要旨、公開用仮本文、判読保留、書誌上の注意を掲載する。
対応写本が確認できないことをもって、写本の欠落、別冊の消失、活字本巻五の後世追加、別系統本文などの一つへ断定することはできない。
活字本巻五相当部分の成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは、写本4冊・本文5巻の未解決の書誌問題として扱う。
書誌・本文上の主要な問題
| 論点 | 活字本文・台帳の状態 | 公開版での扱い |
|---|---|---|
| 対応写本 | 今回の手書き写本4冊には直接対応する本文なし | 活字本巻五相当部分として独立管理する |
| 結城包囲軍 | 四方の軍勢配置と多数の武将名を記す | 所属・配置・人名区切りを確定せず、大筋のみを示す |
| 一色氏人物 | 義貫・義実・義範などの異読候補 | 一色義貫と読まれる人物とし、実名を確定しない |
| 土岐持頼記事 | 「東池田」と読まれる難解語あり | 人名・地名・一族名の一つへ確定しない |
| 北畠氏との和睦 | 北畠顕雅との一時的な和睦を記す | 条件・期間・使者を補わない |
| 北畠氏系譜・所領 | 顕雅・教具、大河内城・多気城を記す | 続柄・家督・所領関係を保留する |
| 南帝 | 寛成親王と読む候補 | 特定の旧南朝系皇族へ確定しない |
| 義昭最期 | 薩摩/日向の異同あり | 最期の国名を本文へ固定しない |
| 義昭の和歌 | 三首。「花はいかに」などの語を含むとみられる | 歌句を推測で復元しない |
| 重代の太刀 | 義昭関係記事に現れるとみられる | 名称・所有者・処置を確定しない |
| 持氏遺児処刑 | 五月十六日・十五歳/十三歳と読める候補 | 主本文では日付・年齢を確定せず、活字本文値候補として保存する |
判読・校訂に自信のない箇所
- 結城包囲軍:結城城を囲む四方の軍勢配置が記されるが、多数の人名・所属・陣所を逐字確定できていない。
- 一色氏人物:一色義貫・義実・義範などの異読候補があり、本文と系図的注記の対応を再確認する必要がある。
- 土岐持頼記事:「東池田」と読まれる語が、人名・地名・一族名のどれに当たるか分からない。
- 北畠顕雅・教具:二人の続柄・家督関係と、大河内城・多気城の所領関係を確定できていない。
- 南帝:寛成親王と読む候補があるが、人物比定には不確定要素が残る。
- 義昭最期の場所:薩摩・日向の両説があり、活字本文と他史料との対応を再確認する必要がある。
- 義昭の和歌三首・重代太刀:「花はいかに」などの歌句、三首の区切り、太刀の名称・所有者・扱いが未確定である。
- 持氏遺児処刑:五月十六日、十五歳・十三歳と読めるが、他史料との日付・年齢異同がある。
復刻作業記録
- 活字本巻五作業台帳の管理No.活字A-04を確認した。
- 対象を活字本part-A4・PDF第28画像・印刷54~55頁として確認した。
- 対象年代を永享12年~嘉吉元年として整理した。
- 今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がないことを明記した。
- 活字本巻五を後世の付録・補遺・増補とは断定していない。
- 前節末尾の春王丸・安王丸逃亡記事から、結城氏朝父子の挙兵へ接続した。
- 結城氏朝父子が春王丸・安王丸を奉じたことを採用した。
- 結城氏父子の個別の軍事行動・最期を資料外から補っていない。
- 結城合戦を持氏遺児を中心とする鎌倉府再建運動として整理したが、活字本文の固有表現とはしていない。
- 幕府軍が結城城を四方から包囲した大筋を採用した。
- 包囲軍の人名・所属・陣所を推測で確定していない。
- 一色氏の処刑記事を採用したが、義貫・義実・義範の一つへ完全確定していない。
- 一色氏人物の罪状・処刑日・処刑者を補っていない。
- 土岐持頼と読まれる人物の処刑記事を採用した。
- 「東池田」を人名・地名・一族名の一つへ確定していない。
- 一色・土岐両守護の処刑を、同じ場所・同じ日に行われたとは断定していない。
- 北畠顕雅との一時的な和睦を採用した。
- 和睦条件・使者・期間を資料外から補っていない。
- 北畠顕雅・教具の続柄を外部系譜に合わせて確定していない。
- 大河内城・多気城の所領関係を推測していない。
- 大覚寺義昭と旧南朝方の計画を採用した。
- 南帝を寛成親王へ確定していない。
- 義昭の逃亡経路・同行者を補っていない。
- 義昭最期の場所を薩摩・日向の一方へ統一していない。
- 義昭の和歌三首を推測で復元していない。
- 重代の太刀を特定の名刀へ置き換えていない。
- 結城城落城を採用したが、落城日・攻城部隊・城内の死傷者を補っていない。
- 春王丸・安王丸の捕縛・処刑を採用した。
- 処刑日と年齢を、五月十六日・十五歳/十三歳として確定本文にはしていない。
- 持氏遺児処刑を、結城合戦の軍事的・政治的終結として整理した。
- 義教の強権政治という評価と、個別事件の事実記録を区別した。
- 次節の嘉吉の変へ接続する流れを明示した。
- 活字本文欄を「第一次解読の要旨」とし、存在しない逐字翻刻を作成していない。
- 校訂・読み下し本文を「公開用仮本文」とし、作業台帳にない古文・漢文を新たに作成していない。
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5.嘉吉の変――義教暗殺・赤松氏追討と禁闕の変
対象年代:嘉吉元~3年(1441~1443年)
対応史料:管理No.活字A-05・活字本part-A5/明治期活字本PDF第29画像(印刷56~57頁)
公開状態・書誌上の注意:明治期活字本巻五相当部分の第一次解読に基づく公開用仮本文である。今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
本節の「嘉吉の変」「禁闕の変」は、記事の内容を理解しやすくするために用いた一般的な事件名である。明治期活字本文に、この節題がそのまま付されているわけではない。
活字本文は、義教の政治と義教暗殺を因果的に結びつけ、義教のもとで人々が「薄氷を踏む」ような不安を感じていたという趣旨で批評する。しかし、個々の政治判断と暗殺計画の成立過程は分けて検討する必要がある。
満祐邸の異変、暗殺参加者・義教側討死者、義教の院号、赤松追討軍、九州記事の人名、朝鮮使の囃子、義勝の元服役、禁闕の変参加者には未確定箇所がある。一般的な年表・人物系譜・外交史料へ合わせて、活字本文を無断で修正しない。
この節の概要
前節では、結城城が落ち、足利持氏の遺児である春王丸・安王丸が処刑された。また、将軍足利義教が一色氏・土岐氏などの有力者を処分した記事も記されていた。
本節の冒頭では、義教の政治について、人々が「薄氷を踏む」ように恐れて暮らしていたという趣旨の批評が置かれる。
これは、義教のもとでは、いつ処分を受けるか分からないという不安が広がっていたことを表す比喩として整理できる。ただし、活字本文の批評と、個々の政治事件の事実記録は区別して扱う。
赤松満祐の邸宅では、池の水が鳴動したとみられる異変が記される。活字は「池水鳴動」「池水鳴生」の両方に見え、現象の逐字は確定していない。
その後、足利義教は赤松満祐の邸宅で開かれた酒宴へ赴いた。酒宴の最中、満祐方の武士が義教を襲い、義教は殺害された。
暗殺に参加した者は、中村・浦上以下三百人と読める。ただし、先頭の名字、人名の区切り、三百人という人数は再確認を必要とする。
義教側では、京極道継・山名中務大輔と読まれる人物らにも討死記事がある。しかし、実名・法名・官職の区切りを確定できていない。
混乱の中で逃れた人物として「武衛義廉」と読まれる名もある。ただし、この実名は年代と合わない可能性があり、誤刻または別人物名の可能性を残す。
義教が殺害されると、幕府は大きく混乱した。やがて幕府方は赤松氏を追討するため軍勢を集めた。
赤松方の拠点である城山城が攻撃され、赤松満祐は自害したと記される。追討軍の人物名・軍勢配置・攻城経過は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
赤松氏が敗れた後、その領国・所領は幕府方の武将へ分配されたと記される。ただし、誰にどの地域が与えられたかという一覧は、今回の台帳には逐字確定されていない。
同じ範囲には九州の記事もある。少弐嘉頼または教頼、大内教世または教弘と読める人名が現れるが、人物の年代と活字表記が一致しない可能性がある。
義教の死後、幼い足利義勝が元服し、将軍となった。元服を担当した人物についても記事があるとみられるが、実名・官職は未確定である。
朝鮮からの使者が京都へ入り、その行列では片仮名で記された囃子または歌が唱えられたとみられる。ただし、歌詞の完全な逐字再現は保留されている。
足利義勝は将軍となった後、早くに亡くなった。その後、弟の義成が足利将軍家の家督を継いだ。
幼い将軍を中心とする幕府政治が続く中、旧南朝方とみられる勢力が内裏を襲撃した。これが一般に禁闕の変と呼ばれる事件である。
参加者として、楠木二郎・日野有光らと読める人物が記される。しかし、実名・系譜・参加者一覧には異同がある。
本節は旧南朝方による内裏襲撃までを扱う。襲撃後の宝剣・神璽の行方と、比叡山での鎮圧は、次の第6節へ続く。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された活字A-05の第一次解読要旨をもとに、記事の順序と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。明治期活字本文の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
嘉吉元年から三年までの記事
本節は、嘉吉元年から嘉吉三年までの記事を扱う。
中心となるのは、将軍足利義教の暗殺、赤松氏の追討、幼い義勝の将軍就任と早世、旧南朝方による内裏襲撃である。
同じ範囲には、九州の人物記事、朝鮮使の入京、行列の囃子なども記される。
今回確認した手書き写本4冊には、この範囲へ直接対応する本文がないため、明治期活字本の第一次解読に基づいて整理する。
義教の政治を「薄氷を踏む」と批評する
活字本文は、足利義教の政治について、人々が薄い氷の上を歩くような気持ちで暮らしていたという趣旨の批評を記す。
薄い氷の上では、いつ氷が割れて落ちるか分からない。
この比喩は、義教のもとでは、いつ処罰・失脚・殺害などの危険が及ぶか分からないという恐怖を表していると整理できる。
ただし、これは活字本文の政治的・道徳的な評価を説明したものであり、義教のすべての政治行動を客観的に証明する表現ではない。
本ページでは、記事が義教政治を厳しく批評していることを保存し、批評と事件の事実関係を区別する。
嘉吉の変を因果応報のように描く
活字本文は、義教が有力守護や親族を次々に処分したことと、義教自身が暗殺されたことを、因果的に結びつけるように記している。
前節までには、一色氏・土岐氏などの有力者が義教の命令によって処刑されたとみられる記事があった。
本節では、そのような政治への恐怖が赤松満祐の行動につながったという流れに整理されている。
ただし、満祐が暗殺を決意した具体的な時期、相談相手、計画文書、義教との交渉は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「活字本文は義教の恐怖政治を暗殺の背景として批評する」と限定して説明する。
赤松満祐の邸宅で異変が起こる
義教が赤松満祐の邸宅へ赴く前後には、邸内で異変が起こったとみられる記事がある。
活字は「池水鳴動」または「池水鳴生」と読める。
池の水が音を立てたことを示す可能性があるが、「鳴動」の逐字と現象の内容は確定していない。
自然現象、人工的な音、説話的な凶兆のいずれとして記されたのかも分からない。
そのため、「満祐邸の池水に関係する異変記事」として保存し、特定の原因を補わない。
赤松邸で酒宴が開かれる
赤松満祐は、自らの邸宅で酒宴を開いた。
将軍足利義教は、この酒宴へ赴いた。
しかし、義教を酒宴へ招いた名目、宴席の参加者、演能・音楽・料理などの内容は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
本ページでは、赤松満祐邸で酒宴が開かれ、義教が出席したという大筋を本文とする。
酒宴の最中に足利義教が襲われる
酒宴の最中、赤松満祐方の武士が足利義教を襲った。
義教は、この襲撃によって殺害された。
襲撃の合図、最初に斬りかかった人物、義教の席の位置、暗殺までの詳しい動作は、今回の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、物語的な暗殺場面を資料外から補わず、「酒宴中に義教が襲われ、殺害された」とする。
満祐方の暗殺参加者
暗殺に参加した者として、中村・浦上以下三百人と読める記事がある。
しかし、最初に記される名字が本当に中村であるか、中村・浦上が二人または二氏を表すかは再確認が必要である。
また、「三百人」が暗殺そのものに参加した人数なのか、赤松邸を守った軍勢の総数なのかも確定していない。
そのため、「中村・浦上以下三百人と読まれる赤松方の人々」とし、確定した暗殺者一覧とはしない。
義教側の討死者
襲撃では、義教に従っていた武士にも討死者が出た。
人名は京極道継・山名中務大輔と読める。
しかし、「道継」が実名・法名のどちらに当たるか、山名中務大輔の実名が何であるかは確定していない。
また、両者が酒宴の場で討死したのか、その後の戦闘で死亡したのかも、逐字再校訂を要する。
本ページでは、「京極・山名氏関係者と読まれる義教方の人物にも討死記事がある」とする。
「武衛義廉」と読まれる逃亡者
襲撃の混乱から逃れた人物として、「武衛義廉」と読まれる名がある。
しかし、「義廉」という実名は記事の年代と合わない可能性がある。
「武衛」が斯波氏に関係する官職的呼称である可能性はあるが、特定の人物へ比定できていない。
そのため、誤刻・異本・後世の人名置換などの可能性を残し、「武衛義廉と活字に見える逃亡者」として保存する。
将軍殺害後の幕府の混乱
現職の将軍が有力守護の邸宅で突然殺害されたため、幕府は大きく混乱した。
将軍の命令を受けて政務を行っていた武将・奉行たちは、直ちに新しい政治方針を決めなければならなくなった。
ただし、暗殺直後の評定参加者、最初に軍勢を動かした人物、京都市中の警備などは、現在の台帳要旨には逐字確定されていない。
本ページでは、将軍殺害によって幕府が混乱し、その後、赤松追討へ動いたという流れを示す。
足利義教の院号
義教の死去記事には、院号とみられる文字が記される。
活字は「普広院」または「普光院」と読める。
一字の異同があり、現段階では一方へ確定できない。
そのため、公開用主本文では院号を用いず、原文資料欄で「普広院/普光院」と併記する。
幕府が赤松氏追討を決める
幕府は、将軍を殺害した赤松満祐と、その一族・軍勢を追討することを決めた。
各地の武将が赤松氏を攻めるため動員されたとみられる。
しかし、追討軍の大将、各方面の軍勢配置、出発日、進軍経路は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、追討軍の人物一覧を資料外から補わず、「幕府方の軍勢が赤松氏を追討した」とする。
城山城が攻撃される
赤松方の拠点として、城山城が攻撃されたと記される。
城山城という名称は、作業台帳の活字本文要旨に保存されている。
ただし、包囲開始日、城内の兵数、攻城軍、城門・曲輪、落城までの戦闘経過は確定していない。
そのため、「幕府方が城山城を攻撃した」という大筋を本文とする。
赤松満祐が自害する
幕府軍の追討を受け、赤松満祐は自害した。
この自害によって、満祐を中心とする赤松方の抵抗は軍事的な中心を失った。
ただし、自害の日付・場所・同行者・介錯者・最期の言葉は、今回の作業台帳要旨では確定していない。
本ページでは、赤松満祐の自害という大筋を掲載し、最期の場面を物語的に補わない。
赤松氏の領国が分配される
赤松氏が敗れた後、その領国・所領は幕府方へ分配されたと記される。
これは、追討に参加した武将への恩賞や、旧赤松領の新しい支配体制に関係する記事とみられる。
しかし、誰にどの国・郡・所領が与えられたのかという対応表は、今回の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「赤松領が幕府方へ分配された」とし、分配先を推測で補わない。
九州記事に年代と人名の問題がある
同じ範囲には、九州の少弐氏・大内氏に関係する記事が置かれる。
少弐氏の人物は、嘉頼または教頼と読める。
大内氏の人物は、教世または教弘と読める。
しかし、これらの人名は、記事の年代と人物の活動時期が一致しない可能性がある。
そのため、一般的な系譜に合わせて名前を一方へ修正せず、少弐嘉頼/教頼・大内教世/教弘という活字上の候補を保存する。
足利義勝が元服する
義教の死後、その子である足利義勝が元服した。
義勝はまだ幼く、将軍家の政治を一人で動かせる年齢ではなかったと、作業台帳では幼少将軍として整理されている。
しかし、元服の日、場所、加冠役、烏帽子親、改名前の幼名などは、現在の第一次解読要旨では確定していない。
本ページでは、義勝の元服を採用し、儀式の詳細を補わない。
義勝の元服を担当した人物
義勝の元服には、加冠・理髪・奉行などを担当した人物の記事があるとみられる。
しかし、人物名・官職・役割の区切りを確定できていない。
そのため、外部の元服記録から特定の人物名を補わず、「義勝の元服役に関する記事」として判読保留に残す。
足利義勝が将軍となる
元服した義勝は、室町幕府の将軍となった。
現職将軍義教が突然殺害されたため、幼い義勝が急いで将軍家を継ぐ必要があったと整理できる。
ただし、将軍宣下の日、朝廷の使者、幕府評定、義勝を補佐した人物は、今回の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「義勝が将軍となった」という活字本文の大筋を掲載する。
朝鮮使が京都へ入る
朝鮮からの使者が日本へ来て、京都へ入ったと記される。
活字本文は、使節の行列と、その際の音楽・囃子を記しているとみられる。
しかし、使者の姓名、来日の目的、持参した文書・贈物、入京日、宿所は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
本ページでは、「朝鮮使が入京した」という大筋を本文とする。
朝鮮使行列の囃子
朝鮮使の行列では、片仮名で記された囃子または歌が唱えられたとみられる。
しかし、片仮名の歌詞は句切り・発音・意味を確定できていない。
日本側が朝鮮語の音を片仮名で写したものか、日本側の囃子であるかも、現在の台帳だけでは判断できない。
そのため、歌詞を推測で復元せず、「朝鮮使行列の片仮名囃子記事」として保存する。
足利義勝が早くに亡くなる
将軍となった足利義勝は、早くに亡くなった。
活字本文は、幼い将軍の早世を重要な編年記事として記している。
しかし、死去の日、享年、病名、死去した場所、法名は、今回の作業台帳要旨には逐字確定されていない。
そのため、「義勝が将軍就任後、早世した」という範囲を本文とする。
義成が足利将軍家を継ぐ
義勝の死後、その弟である義成が足利将軍家の家督を継いだ。
本節では家督継承までが記され、義成の元服・正式な将軍就任は後の範囲へ続く。
義成がどの時点で家督を認められ、誰が政務を補佐したのかは、現在の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「義勝の早世後、義成が将軍家を継いだ」という大筋を示す。
幼い当主が続く幕府
義教が暗殺された後、義勝・義成という幼い人物が相次いで将軍家の中心となった。
作業台帳は、この状況を幼君政権の不安定化として整理している。
しかし、幕府の不安定さが禁闕の変を直接引き起こしたと、活字本文が明記しているとは限らない。
義教暗殺・赤松氏追討・義勝早世が続いた後に、旧南朝方の内裏襲撃が起こったという記事の流れとして説明する。
旧南朝方が内裏を襲う
嘉吉三年、旧南朝方とみられる人々が内裏を襲撃した。
この事件は、一般に禁闕の変と呼ばれる。
「禁闕」は皇居・内裏を意味し、皇居が武装した集団に襲われた事件である。
ただし、襲撃の開始時刻、侵入経路、警備側の人数、内裏内の戦闘経過は、今回の第一次解読要旨では確定していない。
禁闕の変の参加者
襲撃参加者として、楠木二郎・日野有光らと読める人物が記される。
しかし、楠木二郎の実名、日野有光との関係、参加した旧南朝系皇族・武士の一覧には異同がある。
「等」とされる他の参加者についても、完全な姓名・人数を確定できていない。
そのため、「楠木二郎・日野有光らと読まれる旧南朝方の人々」として掲載する。
内裏襲撃後の記事は次節へ続く
活字本文では、内裏が襲撃された後、宝剣・神璽などの神器の行方に関係する記事へ続く。
しかし、その具体的な移動と、襲撃者の鎮圧はPDF第30画像にまたがる。
そのため、本節では内裏襲撃までを中心に扱い、神器の行方・比叡山での鎮圧・旧南朝方のその後は次の第6節で扱う。
本節に並ぶ三つの政変
本節には、次の三つの大きな政変が続けて記される。
- 嘉吉の変:赤松満祐邸の酒宴で足利義教が殺害される。
- 赤松氏追討:幕府軍が赤松氏を攻め、満祐が自害し、赤松領が分配される。
- 禁闕の変:旧南朝方が内裏を襲撃し、神器の行方をめぐる事件へ続く。
その間に、義勝の将軍就任と早世、義成の家督継承、朝鮮使入京なども記されている。
一人の強い将軍を中心とする政治から、幼い当主を周囲の有力者が支える政治へ移った時期に、幕府・赤松氏・旧南朝方をめぐる大きな事件が続いたと整理できる。
ただし、この整理は作業台帳に保存された記事群を理解するための公開用説明であり、活字本文の直接的な総括ではない。
流れが分かる現代語訳
- 活字本文は、足利義教の政治について、人々が薄い氷の上を歩くように恐れていたと批評する。
- 義教に処分されることを恐れた赤松満祐は、自分の邸宅で酒宴を開き、義教を招いた。
- 酒宴の前後には、池の水が音を立てたとみられる異変記事もあるが、逐字は確定していない。
- 酒宴の最中、赤松方の武士が義教を襲い、義教を殺害した。
- 暗殺参加者は中村・浦上以下三百人と読めるが、人名と人数は再確認が必要である。
- 義教側でも京極・山名氏関係者とみられる人物が討死した。
- 逃れた人物として「武衛義廉」と読める名があるが、年代と合わない可能性がある。
- 現職の将軍が突然殺されたため、幕府は大きく混乱した。
- 幕府は赤松氏を追討し、城山城を攻撃した。
- 赤松満祐は自害した。
- 赤松氏の領国は幕府方へ分配されたと記されるが、具体的な分配先は確定していない。
- 同じ範囲には九州記事があるが、少弐氏・大内氏の人名は年代と合わない可能性がある。
- 義教の死後、幼い足利義勝が元服し、将軍となった。
- 朝鮮使が京都へ入り、行列では片仮名で記された囃子が唱えられたとみられる。
- 義勝は将軍となった後、早くに亡くなった。
- 弟の義成が足利将軍家を継いだ。
- 幕府の当主が幼い状態で交代する中、旧南朝方が内裏を襲撃した。
- 襲撃者には楠木二郎・日野有光らと読まれる人物がいたが、実名・系譜は確定していない。
- 内裏襲撃後の神器の行方と襲撃者の鎮圧は、次の第6節へ続く。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は活字本文の記事を理解するための説明であり、今回確認した手書き写本の直接的な評言ではない。
- 嘉吉の変:赤松満祐の邸宅で開かれた酒宴中に、将軍足利義教が殺害された事件を示す一般的な名称である。
- 足利義教:籤で選ばれて将軍となった人物。活字本文はその政治を「薄氷を踏む」ような恐怖政治として批評する。
- 薄氷を踏む:いつ氷が割れるか分からない危険な状態を表す比喩。義教のもとで人々が処分を恐れたという活字本文の評価を示す。
- 赤松満祐:酒宴へ義教を招き、義教暗殺に関係した赤松氏の人物。幕府の追討を受け、後に自害した。
- 池水の異変:満祐邸で「池水鳴動/池水鳴生」と読まれる記事。現象の逐字と意味は未確定である。
- 暗殺参加者:中村・浦上以下三百人と読めるが、名字・人数・参加範囲は未確定である。
- 義教側討死者:京極道継・山名中務大輔と読める人物。実名・法名・官職を再確認する必要がある。
- 武衛義廉:襲撃時の逃亡者として活字に見える名前。年代と合わない可能性があり、誤刻候補として扱う。
- 普広院/普光院:足利義教の院号として読める二候補。活字表記の一字異同を保存する。
- 城山城:赤松氏追討で幕府方に攻撃されたと記される赤松方の拠点。
- 赤松領分配:赤松氏敗北後、その領国・所領が幕府方へ分配された記事。具体的な分配先は未確定である。
- 九州人名:少弐嘉頼/教頼・大内教世/教弘と読めるが、人物年代と活字表記に不整合がある。
- 足利義勝:義教の子。義教暗殺後に元服し、将軍となったが、早くに亡くなった。
- 義勝の元服役:義勝の加冠・理髪・奉行などに関係する人物記事とみられるが、実名・役割は未確定である。
- 朝鮮使入京:朝鮮からの使節が京都へ入った記事。行列の囃子が片仮名で記されるとみられる。
- 朝鮮使の囃子:片仮名で記された歌詞。発音・句切り・意味を確定できず、逐字再現を保留する。
- 足利義成:義勝の弟。義勝の早世後に足利将軍家の家督を継ぎ、後の範囲で元服・将軍就任へ進む。
- 禁闕の変:旧南朝方とみられる勢力が内裏を襲撃した事件を示す一般的な名称である。
- 楠木二郎・日野有光:禁闕の変参加者として読まれる人物。実名・系譜・参加者一覧には異同がある。
- 活字本巻五相当部分:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がなく、成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定である。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:活字A-05
- 区分:活字本part-A5
- 明治期活字本:PDF第29画像・印刷56~57頁
- 対象年代:嘉吉元~3年(1441~1443年)
- 内容区分:嘉吉の変・禁闕の変
- 作業状態:第一次解読済み
- 判読・校訂保留:8件
- 写本との関係:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文なし
- 書誌上の位置づけ:活字本巻五相当部分。成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定
活字本文――第一次解読の要旨
以下は明治期活字本文の逐字全文ではなく、作業台帳に保存された第一次解読の要旨である。
- 足利義教の政治について、人々が「薄氷を踏む」ように恐れていたという趣旨の批評を記す。
- 赤松満祐邸で、池水鳴動または池水鳴生と読まれる異変を記す。
- 赤松満祐邸の酒宴で、足利義教が襲撃され、殺害されたことを記す。
- 満祐方の参加者を、中村・浦上以下三百人と記すとみられる。
- 義教側の討死者として、京極道継・山名中務大輔と読まれる人物を記す。
- 逃亡者として、武衛義廉と読まれる人物を記すが、年代不整合の可能性がある。
- 義教の院号を、普広院または普光院と記す。
- 幕府による赤松氏追討を記す。
- 城山城の攻撃と、赤松満祐の自害を記す。
- 赤松氏の領国・所領が幕府方へ分配されたことを記す。
- 九州記事に、少弐嘉頼/教頼・大内教世/教弘と読まれる人名を記す。
- 足利義勝の元服と将軍就任を記す。
- 義勝の元服役に関する人物記事を記すとみられる。
- 朝鮮使の入京と、行列の片仮名囃子を記す。
- 足利義勝の早世を記す。
- 足利義成が将軍家の家督を継いだことを記す。
- 旧南朝方とみられる勢力による内裏襲撃を記す。
- 禁闕の変参加者として、楠木二郎・日野有光らと読まれる人物を記す。
校訂・読み下し本文――公開用仮本文
以下は、作業台帳に保存された出来事の順序を整理した公開用仮本文であり、明治期活字本文の逐字翻刻ではない。
嘉吉元年。
将軍足利義教の政治、人々これを恐れ、薄氷を踏むがごとしと評せらる。
赤松満祐の亭に、池水鳴動とみらるる異変あり。ただし逐字未確定。
赤松満祐、邸内に酒宴を設け、将軍足利義教これに赴く。
宴中、赤松方の武士、義教を襲い、これを殺す。
参加者、中村・浦上以下三百人と読まる。ただし名字・人数未確定。
義教方に京極道継・山名中務大輔と読まるる討死者あり。
武衛義廉と読まるる人物、逃る。ただし年代不整合あり。
義教の院号、普広院または普光院と読まる。
幕府、赤松氏追討の軍を起こす。
城山城を攻め、赤松満祐、自害す。
赤松氏の領国・所領、幕府方へ分配せらる。ただし分配先未確定。
九州に少弐・大内氏関係記事あり。
少弐嘉頼または教頼、大内教世または教弘と読まる。ただし人名年代未確定。
足利義勝、元服して将軍となる。
元服役に関する人物記事あり。ただし実名・役割未確定。
朝鮮使、京都へ入る。
使節行列に片仮名の囃子あり。ただし歌詞の逐字未確定。
足利義勝、早世す。
弟義成、足利将軍家の家督を継ぐ。
嘉吉三年、旧南朝方とみらるる者、内裏を襲う。
参加者、楠木二郎・日野有光等と読まる。ただし実名・系譜未確定。
〔内裏襲撃後の神器の行方、比叡山での鎮圧、後南朝の抵抗へ続く〕
手書き写本との対応
今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
したがって、本節では写本翻刻・写本との本文異同表を設けず、明治期活字本の第一次解読要旨、公開用仮本文、判読保留、書誌上の注意を掲載する。
対応写本が確認できないことをもって、写本の欠落、別冊の消失、活字本巻五の後世追加、別系統本文などの一つへ断定することはできない。
活字本巻五相当部分の成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは、写本4冊・本文5巻の未解決の書誌問題として扱う。
書誌・本文上の主要な問題
| 論点 | 活字本文・台帳の状態 | 公開版での扱い |
|---|---|---|
| 対応写本 | 今回の手書き写本4冊には直接対応する本文なし | 活字本巻五相当部分として独立管理する |
| 義教政治批評 | 「薄氷を踏む」とする恐怖政治批評を記す | 事件記事と編者・伝承上の政治評価を区別する |
| 満祐邸の異変 | 池水鳴動/池水鳴生 | 現象の逐字・原因を確定しない |
| 暗殺参加者 | 中村・浦上以下三百人 | 名字・人名区切り・人数を保留する |
| 義教側討死者 | 京極道継・山名中務大輔 | 実名・法名・官職を確定しない |
| 逃亡者 | 武衛義廉 | 年代不整合を明記し、特定人物へ確定しない |
| 義教院号 | 普広院/普光院 | 両候補を保存する |
| 赤松追討 | 城山城攻撃・満祐自害・赤松領分配を記す | 追討軍・攻城経過・領地分配先を補わない |
| 九州人名 | 少弐嘉頼/教頼・大内教世/教弘 | 年代不整合を残し、一般的系譜へ合わせて修正しない |
| 義勝元服 | 幼少義勝の元服と将軍就任を記す | 元服役・儀式・具体的年齢を確定しない |
| 朝鮮使の囃子 | 片仮名歌詞を記す | 発音・歌詞・意味を推測で復元しない |
| 禁闕の変参加者 | 楠木二郎・日野有光等 | 実名・系譜・参加者一覧を確定しない |
| 節の終点 | 旧南朝方による内裏襲撃を記す | 神器の移動・襲撃者鎮圧は次節へ送る |
判読・校訂に自信のない箇所
- 池水の異変:「池水鳴動」または「池水鳴生」と読める。現象の逐字と意味を確定できない。
- 満祐方の暗殺参加者:中村・浦上以下三百人と読めるが、先頭名字、人名の区切り、人数の意味を再確認する必要がある。
- 義教側討死者:京極道継・山名中務大輔と読めるが、実名・法名・官職に不確定箇所がある。
- 逃亡者:武衛義廉と読めるが、記事年代と人物年代が合わない可能性があり、誤刻候補である。
- 義教の院号:普広院または普光院。活字表記の一字異同を確定できない。
- 九州人名:少弐嘉頼/教頼・大内教世/教弘と読めるが、人物年代と活字表記に不整合がある。
- 朝鮮使の囃子:片仮名で記された歌詞の句切り・発音・意味を確定できず、完全な逐字再現を保留する。
- 禁闕の変参加者:楠木二郎・日野有光らと読めるが、実名・系譜・参加者一覧に異同がある。
復刻作業記録
- 活字本巻五作業台帳の管理No.活字A-05を確認した。
- 対象を活字本part-A5・PDF第29画像・印刷56~57頁として確認した。
- 対象年代を嘉吉元~3年として整理した。
- 今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がないことを明記した。
- 活字本巻五を後世の付録・補遺・増補とは断定していない。
- 前節末尾の義教強権政治の記事から、「薄氷を踏む」とする義教政治批評へ接続した。
- 義教の政治評価と、個々の処刑・暗殺事件の事実記録を区別した。
- 嘉吉の変を単純な因果応報の確定史実として扱っていない。
- 満祐邸の池水異変を採用したが、鳴動・鳴生の一方へ確定していない。
- 池水異変を特定の自然現象・凶兆へ置き換えていない。
- 赤松満祐邸で酒宴が開かれ、義教が出席した大筋を採用した。
- 酒宴の名目・参加者・演目を資料外から補っていない。
- 義教が酒宴中に襲撃され、殺害されたことを採用した。
- 暗殺場面の合図・斬撃・席次などを物語的に補っていない。
- 暗殺参加者を中村・浦上以下三百人と暫定的に保存した。
- 三百人すべてが直接暗殺に加わったとは断定していない。
- 義教側討死者を京極道継・山名中務大輔の確定人名として扱っていない。
- 逃亡者「武衛義廉」の年代不整合を明記した。
- 武衛義廉を特定の人物へ無断で置き換えていない。
- 義教の院号を普広院・普光院の一方へ統一していない。
- 将軍殺害後の幕府混乱と、赤松氏追討への移行を整理した。
- 赤松追討軍の武将一覧・進軍経路を推測していない。
- 城山城攻撃を採用したが、攻城日・兵数・城構造を補っていない。
- 赤松満祐の自害を採用したが、日付・場所・最期の言葉を補っていない。
- 赤松領分配を採用したが、具体的な分配先を作成していない。
- 九州人名を少弐嘉頼/教頼・大内教世/教弘の一方へ確定していない。
- 年代不整合を一般的な系譜によって無断修正していない。
- 足利義勝の元服・将軍就任を採用した。
- 義勝の具体的な年齢・元服日・加冠役を補っていない。
- 朝鮮使の入京を採用したが、使者名・文書・贈物・宿所を補っていない。
- 朝鮮使行列の片仮名囃子を推測で復元していない。
- 義勝の早世と義成の家督継承を整理した。
- 義成の正式な将軍就任を本節へ先取りしていない。
- 旧南朝方による内裏襲撃を禁闕の変として整理した。
- 禁闕の変が活字本文の固有節題ではないことを明記した。
- 楠木二郎・日野有光を確定した参加者一覧とはしていない。
- 神器の移動と襲撃者鎮圧は、次のpart-A6へ送った。
- 活字本文欄を「第一次解読の要旨」とし、存在しない逐字翻刻を作成していない。
- 校訂・読み下し本文を「公開用仮本文」とし、作業台帳にない古文・漢文を新たに作成していない。
関連ページへのリンク
6.後南朝の抵抗――足利成氏の鎌倉公方就任と義成の将軍宣下
対象年代:嘉吉3年~宝徳2年(1443~1450年)
対応史料:管理No.活字A-06・活字本part-A6/明治期活字本PDF第30画像(印刷58~59頁)
公開状態・書誌上の注意:明治期活字本巻五相当部分の第一次解読に基づく公開用仮本文である。今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
本節の「後南朝」は、南北朝合一後も旧南朝系皇族・武士が神璽を保持して抵抗を続けたとされる動きを説明するための公開用表現である。活字本文中の「南皇」「南皇宮」などが、どの皇族を指すかは確定していない。
禁闕の変後の神器について、宝剣は取り戻されたと整理される一方、神璽は旧南朝方へ持ち去られたとみられる。ただし、内侍所の辛櫃を取り戻した人物名、神器の移動順序、保管場所には再校訂が必要である。
足利成氏の記事は、宝徳元年の記事が本来の編年位置より前へ挿入された可能性がある。また、「将軍より一字を与えられた」と読める記事の将軍・授与時期・改名経過は確定していない。
大疫病の記事は「一日千人」と読める本文値を記すが、現代的な統計による正確な死者数とは断定しない。
この節の概要
前節では、旧南朝方とみられる人々が内裏を襲撃した。一般に禁闕の変と呼ばれる事件である。
本節では、内裏襲撃後の宝剣・神璽の行方と、襲撃者たちの鎮圧が記される。
宝剣は取り戻されたと整理されるが、神璽は旧南朝方に持ち去られたとみられる。
内侍所の辛櫃を取り戻した人物は、「佐々木黒田判官」と読める。しかし、佐々木黒田判官という一人の称号なのか、佐々木氏の人物と黒田判官という二人なのかは確定していない。
内裏を襲った日野有光らは比叡山方面へ逃れた後、幕府方によって鎮圧・処分されたとみられる。
しかし、処分された人物の一覧、戦闘場所、誰が討ち取ったのかという細部は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
旧南朝方は、神璽を保持したまま抵抗を続けた。吉野や八幡山に関係する再挙兵の記事が置かれている。
その中心人物は「南皇」「後亀山院第一皇子」などと記される可能性があるが、人物・親子関係・系譜は未確定である。
同じ記事群には、熊谷氏・楠木氏と「妙湛原」と読まれる場所に関係する説話的な文章もある。ただし、文全体の逐字は確定していない。
近江では、佐々木宗体・五郎時綱と読まれる人物の記事が置かれる。宗体が法名で時綱が実名なのか、別々の人物を指すのかは確定していない。
加賀では富樫氏の守護争いが起こり、加賀国の支配が分割されたとみられる。
活字本文の人名は富樫教親・安高と読めるが、同時代史料の成春・泰高と異なる可能性があり、一般的な系譜へ合わせて修正しない。
関東では、足利持氏の子である成氏が鎌倉へ入り、鎌倉公方となった。
成氏は将軍から名前の一字を与えられたと読める。しかし、この記事が本来どの年に属するのか、どの将軍から一字を受けたのかという文脈には再確認が必要である。
紀伊では、旧南朝系の皇族とみられる「南皇宮」と、楠木第二郎と読まれる人物が抵抗した。
幕府方は湯浅城と読まれる拠点を攻撃し、紀伊の旧南朝方を討ったと整理される。
ただし、南皇宮の人物比定、楠木第二郎の実名、湯浅城の攻防経過は確定していない。
京都では、足利義成が元服し、将軍となった。義成は後に義政と呼ばれる人物であり、第八代将軍として整理される。
元服・将軍宣下の具体的な日付、加冠役、改名の経過は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
本節の末尾には大疫病が記され、「一日千人」が亡くなったと読める。
ただし、この数字は活字本文が示す被害規模の表現として保存し、現代的な統計上の実数とは断定しない。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された活字A-06の第一次解読要旨をもとに、記事の順序と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。明治期活字本文の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
禁闕の変の記事から続く
前節末尾では、嘉吉三年、旧南朝方とみられる人々が内裏を襲撃した。
襲撃には、楠木二郎・日野有光らと読まれる人物が参加した。
本節は、襲撃者が内裏から逃れた後、宝剣・神璽がどこへ移されたのかという記事から続く。
ただし、襲撃者一覧、内裏への侵入経路、神器を持ち出した人物は、活字本文の逐字再確認を必要とする。
宝剣と神璽が内裏から持ち出される
禁闕の変では、神器に関係する品が内裏から持ち出されたと記される。
作業台帳では、宝剣と神璽の行方を区別して整理している。
宝剣は比較的早い段階で取り戻されたとみられる。
一方、神璽は旧南朝方が持ち去り、その後も保持したと整理される。
ただし、宝剣・神璽・辛櫃が同時に持ち出されたのか、それぞれ別の人物が運んだのかという移動順序は確定していない。
内侍所の辛櫃が取り戻される
内侍所の辛櫃を取り戻した人物として、「佐々木黒田判官」と読まれる名がある。
辛櫃は、重要な品を収めるための箱を指す。
しかし、「佐々木黒田判官」が一人の人物を表すのか、佐々木氏の人物と黒田判官という二人を表すのか、文章の区切りが分からない。
また、辛櫃の中に何が入っていたのか、どこで取り戻したのかも、現在の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「佐々木黒田判官と読まれる人物または人々が、内侍所の辛櫃を取り戻した」と限定して掲載する。
宝剣は戻り、神璽は持ち去られる
作業台帳では、宝剣は朝廷側へ戻った一方、神璽は旧南朝方が持ち去ったと整理されている。
この違いは、禁闕の変から長禄年間の神璽奪還まで続く重要な問題である。
ただし、今回の活字本文が「宝剣」「神璽」をどの字で表記し、誰がどの時点で所持したと説明しているかは、第二次校訂を必要とする。
本ページでは、神器移動の大筋を示し、移動日・経路・保管者を推測で補わない。
日野有光らが比叡山方面へ逃れる
内裏襲撃後、日野有光らは比叡山方面へ逃れたとみられる。
しかし、逃走経路、同行者、比叡山のどの場所へ入ったのかは確定していない。
旧南朝方の皇族・武士・公家が、同じ場所へ逃れたのか、複数の集団に分かれたのかも分からない。
そのため、「襲撃者の一部が比叡山方面へ逃れた」という大筋を本文とする。
比叡山で襲撃者が鎮圧される
幕府方は、比叡山方面へ逃れた襲撃者を追討した。
日野有光らは討たれ、または捕らえられて処分されたとみられる。
ただし、戦闘が行われた場所、幕府方の大将、日野有光以外の処分者、処刑方法は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
そのため、「比叡山方面で禁闕の変の襲撃者が鎮圧・処分された」とする範囲にとどめる。
神璽を持つ旧南朝方の抵抗は続く
比叡山で襲撃者が鎮圧された後も、神璽は朝廷へ戻らなかったと整理される。
旧南朝方は、神璽を保持することによって、自らの皇統の正統性を示そうとした可能性がある。
ただし、この政治的意味を活字本文が同じ言葉で論じているとは限らない。
本ページでは、神璽を保持した旧南朝方の抵抗が続いたという記事の流れとして説明する。
「南皇」と記される皇族
旧南朝方の中心人物は、「南皇」と記される。
活字本文は、後亀山院の第一皇子と説明している可能性がある。
しかし、人物名・親子関係・世代が確定しておらず、特定の旧南朝系皇族へ比定できない。
作業台帳では、この人物比定を最重要の判読・校訂保留としている。
そのため、公開用主本文では「南皇と記される旧南朝系皇族」とし、後亀山院第一皇子候補は注記に残す。
吉野で旧南朝方が再び兵を挙げる
旧南朝方は、吉野に関係する地域で再び兵を挙げたとみられる。
吉野は、南朝の拠点として前巻までにも登場している。
しかし、今回の挙兵を指揮した人物、軍勢数、城・寺院・山中の拠点は確定していない。
そのため、「南皇と記される皇族を中心に、吉野方面で再挙兵した」とする大筋を示す。
八幡山に関係する挙兵記事
旧南朝方の記事には、八幡山と読まれる場所も現れる。
しかし、八幡山が吉野の一地点なのか、別地域の山・城・寺社を指すのかは確定していない。
吉野の挙兵と八幡山の記事が同じ軍事行動に属するのか、異なる時期の挙兵なのかも再確認が必要である。
本ページでは、吉野・八幡山に関係する旧南朝方の再挙兵記事として保存する。
飯高山に関係する記事
同じ記事群には、飯高山と読まれる場所が現れる。
しかし、飯高山が戦場・籠城地・寺社・移動経路のいずれに当たるのかは、現在の第一次解読要旨では確定していない。
一般的な後南朝関係地名へ合わせて別の地名に修正することはしない。
原文資料欄に、旧南朝方の軍事記事に関係する暫定地名として残す。
熊谷氏・楠木氏に関する説話
活字本文には、熊谷氏・楠木氏に関係する説話的な文章が置かれる。
場所は「妙湛原」と読める可能性がある。
しかし、人物名、行動、地名、記事全体の意味を逐字確定できていない。
史実上の合戦記事なのか、人物の勇敢さ・忠節を語る伝承なのかも判断できない。
そのため、主本文へ具体的な物語を作らず、「熊谷・楠木氏に関する未確定の説話記事」として保存する。
近江佐々木氏の記事
近江では、佐々木氏に関係する記事が置かれる。
人名は、宗体禅門・五郎時綱と読める。
しかし、宗体が法名で時綱が実名なのか、宗体禅門と五郎時綱という別の人物なのかを確定できていない。
また、旧南朝方の挙兵との関係、幕府方としての軍事行動、所領争いなど、記事の具体的内容も再確認を必要とする。
そのため、「佐々木宗体・時綱と読まれる近江佐々木氏の記事」として掲載する。
加賀で富樫氏の争いが起こる
加賀国では、富樫氏の一族間で守護職・領国支配をめぐる争いが起こったとみられる。
活字本文では、富樫教親・安高と読める人物が現れる。
しかし、同時代史料に現れる成春・泰高という人名との間に異同がある。
誤刻・異本・別名・後世の置き換えのいずれに当たるかは確定していない。
そのため、活字本文値として教親・安高を保存し、一般的な富樫氏系譜へ無断で修正しない。
加賀の守護支配が分割される
富樫氏の争いを受け、加賀の守護支配が分割されたとみられる。
しかし、加賀国を南北・東西などに分けたのか、守護職と所領を別々に与えたのかは確定していない。
誰がどの地域を支配したのかという具体的な対応も、現在の第一次解読要旨では確認できない。
そのため、「富樫氏二人に加賀の支配が分けられたとみられる」という範囲を本文とする。
足利成氏の記事が編年外に置かれる
本節には、足利成氏が鎌倉へ入る記事が置かれる。
作業台帳では、この成氏記事が宝徳元年の記事として、本来の編年位置より前へ挿入された可能性を指摘している。
原史料の追記、錯簡、明治期刊本の編集、異本の本文配置など、複数の可能性がある。
そのため、現代語訳で年代順へ無断移動せず、成氏記事が編年上の問題を含むことを明記する。
足利成氏が鎌倉へ入る
足利持氏の子である成氏は、鎌倉へ入った。
永享の乱・結城合戦で持氏方が敗れた後、鎌倉府の公方は不在となっていた。
成氏が鎌倉へ入ったことにより、足利持氏の血統を継ぐ鎌倉公方が再び置かれたと整理できる。
ただし、成氏の入鎌倉日、同行者、京都幕府との交渉、関東武士の対応は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
成氏が鎌倉公方となる
成氏は、鎌倉公方として関東を治める立場となった。
しかし、正式な就任儀礼・任命文書・関東管領との関係は、この範囲には詳しく記されていない。
また、後の享徳の乱を知る立場から、この時点の成氏と上杉氏の関係を最初から対立だけで説明することはしない。
本節では、持氏の子成氏によって鎌倉府が再び成立したという大筋を示す。
将軍から名前の一字を与えられる
成氏は、将軍から名前の一字を与えられたと読める。
上位者が自分の名前の一字を与えることを、偏諱という。
しかし、どの将軍から一字を与えられたのか、元の名前、改名の時期、記事の挿入位置との関係は確定していない。
そのため、「将軍より一字を受け、成氏と名乗ったと読める」とし、授与者・時期を断定しない。
紀伊で旧南朝方が抵抗する
紀伊国では、旧南朝方とみられる勢力が抵抗を続けた。
その中心人物として、「南皇宮」と記される皇族と、楠木第二郎と読まれる人物が現れる。
しかし、南皇宮がどの旧南朝系皇族を指すのか、楠木第二郎の実名・系譜・役割は確定していない。
吉野方面の南皇と紀伊の南皇宮が同一人物であるかどうかも、現段階では判断できない。
そのため、別の記事群として慎重に扱う。
湯浅城が攻撃される
紀伊の軍事記事では、湯浅城と読まれる拠点が攻撃された。
しかし、旧南朝方が湯浅城へ籠もったのか、幕府方の拠点を攻撃したのか、主語・目的語を完全には確定できていない。
攻撃した幕府方の武将、城主、落城日、戦後処分も未確定である。
そのため、「紀伊の旧南朝方に関係して湯浅城の攻撃が記される」と限定して掲載する。
紀伊の旧南朝方が討たれる
幕府方は、紀伊で抵抗した旧南朝方を討ったと整理される。
しかし、南皇宮・楠木第二郎が討死・逃亡・捕縛のどれに当たるのかは確定していない。
旧南朝方の軍勢全体が滅びたのか、一部が別地域へ逃れたのかも分からない。
本ページでは、「紀伊の旧南朝方に対する討伐が行われた」という記事の大筋を示す。
足利義成が元服する
京都では、足利義成が元服した。
義成は、前節で足利義勝の早世後に足利将軍家の家督を継いだ人物である。
しかし、元服の日、場所、加冠役、烏帽子親、改名前の幼名は、現在の作業台帳要旨では確定していない。
そのため、義成の元服という大筋を掲載し、儀式の詳細を資料外から補わない。
義成が将軍となる
元服した義成は、室町幕府の将軍となった。
作業台帳では、第八代将軍就任として整理されている。
義成は後に義政と呼ばれる人物である。
ただし、将軍宣下の具体日、朝廷の使者、幕府の奉行、名を義政へ改めた時期は、今回の第一次解読要旨では確定していない。
本節では、義成が元服し、正式に将軍となったという範囲を扱う。
鎌倉公方と京都将軍が並び立つ
この節では、関東で足利成氏が鎌倉公方となり、京都で足利義成が将軍となった。
どちらも足利氏の政治的な中心であったが、京都の幕府と鎌倉府は別の政治組織として動いていた。
ただし、本節の時点で両者が直ちに戦争状態にあったとするものではない。
次節では、成氏と上杉氏の対立が深まり、享徳の乱へ進む。
大疫病が起こる
本節末尾には、大疫病の記事が置かれる。
活字本文は、一日に千人が亡くなったと読める数字を記す。
しかし、「一日千人」が実際に一人ずつ数えられた正確な死者数なのか、非常に多くの死者が出たことを強調する表現なのかは判断できない。
疫病の名称、流行地域、期間、身分別の死者、幕府・朝廷の対策も、現在の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「活字本文は一日千人と記す」とし、現代的な統計上の実数とは断定しない。
本節に並ぶ三つの政治的な流れ
本節の記事は、次の三つの流れに整理できる。
- 後南朝の抵抗:禁闕の変で神璽を持ち去った旧南朝方が、吉野・八幡山・紀伊などで抵抗を続ける。
- 鎌倉府の再建:足利持氏の子・成氏が鎌倉へ入り、鎌倉公方となる。
- 京都将軍家の再建:足利義成が元服し、室町幕府の将軍となる。
旧南朝方が神璽を保持して抵抗を続ける一方、京都と鎌倉ではそれぞれ新しい足利氏の政治的中心が成立した。
ただし、この三つの動きが一つの計画や直接的な因果関係によって結びついていたと、活字本文が明記しているわけではない。
作業台帳に保存された同時期の記事群を理解するための公開用整理である。
流れが分かる現代語訳
- 禁闕の変では、旧南朝方とみられる人々が内裏を襲い、神器に関係する品を持ち出した。
- 宝剣は取り戻されたとみられるが、神璽は旧南朝方に持ち去られた。
- 内侍所の辛櫃を取り戻した人物は「佐々木黒田判官」と読めるが、一人の名前か二人か分からない。
- 日野有光ら内裏襲撃者の一部は比叡山方面へ逃れた後、幕府方によって鎮圧・処分されたとみられる。
- しかし、神璽は戻らず、旧南朝方は神璽を保持して抵抗を続けた。
- 旧南朝方は、吉野・八幡山などで再び兵を挙げたと記される。
- 中心となった「南皇」は後亀山院の第一皇子と読める可能性があるが、人物は確定していない。
- 熊谷氏・楠木氏と「妙湛原」に関係する説話もあるが、文章全体を読めていない。
- 近江では、佐々木宗体・五郎時綱と読まれる人物の記事がある。
- 二つの名が同一人物か別人かは確定していない。
- 加賀では富樫氏の一族争いが起こり、加賀の支配が分けられたとみられる。
- 人名は教親・安高と読めるが、成春・泰高とする別史料との違いがある。
- 関東では、足利持氏の子・成氏が鎌倉へ入り、鎌倉公方となった。
- 成氏は将軍から名前の一字を与えられたと読めるが、どの将軍か、記事がどの年に属するかは再確認が必要である。
- 紀伊では、南皇宮と楠木第二郎と読まれる旧南朝方の人物が抵抗した。
- 湯浅城に関係する攻撃が行われ、紀伊の旧南朝方が討伐されたとみられる。
- 京都では足利義成が元服し、室町幕府の将軍となった。
- 義成は、後に義政と呼ばれる人物である。
- この時期には大疫病も起こり、活字本文は一日に千人が亡くなったと記す。
- ただし、一日千人という数字を現代的な正確な統計とは断定できない。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は活字本文の記事を理解するための説明であり、今回確認した手書き写本の直接的な評言ではない。
- 禁闕の変後の神器:宝剣は取り戻され、神璽は旧南朝方へ持ち去られたと整理される。移動日・経路・保管者は未確定である。
- 内侍所辛櫃:内侍所に関係する重要な箱。奪還者は「佐々木黒田判官」と読めるが、一人か二者か分からない。
- 日野有光:禁闕の変参加者として前節に現れ、本節では比叡山方面で処分されたとみられる人物。
- 後南朝:南北朝合一後も旧南朝系皇族・武士が抵抗を続けた動きを説明するための一般的な表現である。
- 南皇:神璽を保持した旧南朝系皇族とみられる人物。後亀山院第一皇子と記される可能性があるが、系譜は未確定である。
- 吉野・八幡山:旧南朝方の再挙兵に関係するとみられる地名。二つの記事の関係は未確定である。
- 飯高山:旧南朝方の記事に現れる暫定地名。戦場・拠点・寺社のいずれに当たるか分からない。
- 熊谷・楠木説話:妙湛原などと読める語を含む記事。人物・地名・文意の逐字を確定できていない。
- 佐々木宗体・時綱:近江佐々木氏の記事に現れる名前。宗体禅門と五郎時綱が同一人物か別人か未確定である。
- 富樫教親・安高:加賀守護争いの記事に現れる活字上の人名候補。同時代史料の成春・泰高との異同がある。
- 足利成氏:足利持氏の子。本節では鎌倉へ入り、鎌倉公方となったと記される。
- 成氏記事の挿入:宝徳元年の記事が本来の編年位置より前へ置かれた可能性があり、追記・錯簡・編集上の移動などを検討する必要がある。
- 将軍より一字:成氏が将軍から偏諱を受けたと読める記事。授与者・時期・改名前の名は未確定である。
- 南皇宮:紀伊の旧南朝方に関係する皇族とみられる呼称。吉野の南皇との同一性は確定していない。
- 楠木第二郎:紀伊旧南朝方の記事に現れる人物名候補。実名・系譜・行動は未確定である。
- 湯浅城:紀伊旧南朝方の討伐記事に現れる城名候補。攻撃側・防御側・攻防経過は未確定である。
- 足利義成:義勝の弟。前節で足利将軍家を継ぎ、本節で元服・将軍就任が記される。後に義政と呼ばれる。
- 大疫病:活字本文は一日に千人の死者と記す。史料上の本文値として保存するが、正確な統計実数とは断定しない。
- 活字本巻五相当部分:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がなく、成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定である。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:活字A-06
- 区分:活字本part-A6
- 明治期活字本:PDF第30画像・印刷58~59頁
- 対象年代:嘉吉3年~宝徳2年(1443~1450年)
- 内容区分:後南朝・鎌倉府再建・義政就任
- 作業状態:第一次解読済み
- 判読・校訂保留:8件
- 写本との関係:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文なし
- 書誌上の位置づけ:活字本巻五相当部分。成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定
活字本文――第一次解読の要旨
以下は明治期活字本文の逐字全文ではなく、作業台帳に保存された第一次解読の要旨である。
- 禁闕の変後の宝剣・神璽の行方を記す。
- 宝剣は取り戻され、神璽は旧南朝方に持ち去られたと整理される。
- 内侍所辛櫃の奪還者として、佐々木黒田判官と読まれる人物または人々を記す。
- 禁闕の変参加者である日野有光らの比叡山方面での鎮圧・処分を記すとみられる。
- 神璽を保持する旧南朝方の抵抗を記す。
- 南皇と記される人物を、後亀山院第一皇子と説明する可能性がある。
- 吉野・八幡山に関係する旧南朝方の再挙兵を記す。
- 飯高山と読まれる場所に関係する記事を記す。
- 熊谷・楠木氏、妙湛原と読まれる語に関係する説話記事を記す。
- 近江佐々木氏の記事に、宗体禅門・五郎時綱と読まれる人物を記す。
- 加賀の富樫氏の争いと、守護支配の分割を記す。
- 富樫氏の人名を教親・安高と記すとみられるが、成春・泰高との異同がある。
- 足利持氏の子・成氏が鎌倉へ入り、鎌倉公方となったことを記す。
- 成氏が将軍より名前の一字を受けたと読める記事を記す。
- 成氏記事には、本来の編年位置より前へ置かれた可能性がある。
- 紀伊の南皇宮・楠木第二郎と読まれる人物に関する記事を記す。
- 湯浅城の攻撃と、紀伊旧南朝方の討伐を記す。
- 足利義成の元服と将軍就任を記す。
- 大疫病を記し、死者を一日千人とする本文値を記す。
校訂・読み下し本文――公開用仮本文
以下は、作業台帳に保存された出来事の順序を整理した公開用仮本文であり、明治期活字本文の逐字翻刻ではない。
嘉吉三年、禁闕の変により、神器に関係する品、内裏より持ち出さる。
宝剣は取り戻さるるも、神璽は旧南朝方へ持ち去らるとみらる。
内侍所の辛櫃、佐々木黒田判官と読まるる人物または人々により取り戻さる。
ただし、人名の区切り、辛櫃の内容、奪還場所未確定。
日野有光等、比叡山方面へ逃れ、後に鎮圧・処分せらるとみらる。
旧南朝方、神璽を保持して抵抗を続く。
南皇と記さるる旧南朝系皇族、後亀山院第一皇子と説明される可能性あり。ただし人物・系譜未確定。
吉野・八幡山等にて旧南朝方再び兵を挙ぐとみらる。
飯高山、熊谷・楠木氏、妙湛原等に関する未確定記事あり。
近江佐々木氏に、宗体禅門・五郎時綱と読まるる人物記事あり。ただし実名・法名の対応未確定。
加賀において富樫氏争う。
富樫教親・安高と読まるる人物に、加賀の守護支配を分かつとみらる。ただし成春・泰高との人名異同あり。
足利持氏の子・成氏、鎌倉へ入り、鎌倉公方となる。
成氏、将軍より一字を受くと読まる。ただし授与者・時期・記事挿入位置未確定。
紀伊に南皇宮・楠木第二郎と読まるる旧南朝方の記事あり。
湯浅城に関する攻撃あり、紀伊旧南朝方討たるとみらる。ただし人物・戦闘経過未確定。
足利義成、元服す。
義成、室町幕府の将軍となる。後の義政なり。
この頃、大疫病あり。
活字本文は一日千人死すと記す。ただし史料上の本文値として保存し、実数性は確定せず。
〔足利成氏と上杉氏の対立、畠山氏家督争い、享徳の乱へ続く〕
手書き写本との対応
今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
したがって、本節では写本翻刻・写本との本文異同表を設けず、明治期活字本の第一次解読要旨、公開用仮本文、判読保留、書誌上の注意を掲載する。
対応写本が確認できないことをもって、写本の欠落、別冊の消失、活字本巻五の後世追加、別系統本文などの一つへ断定することはできない。
活字本巻五相当部分の成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは、写本4冊・本文5巻の未解決の書誌問題として扱う。
書誌・本文上の主要な問題
| 論点 | 活字本文・台帳の状態 | 公開版での扱い |
|---|---|---|
| 対応写本 | 今回の手書き写本4冊には直接対応する本文なし | 活字本巻五相当部分として独立管理する |
| 神器の移動 | 宝剣は回収、神璽は旧南朝方へ持ち去られたと整理される | 移動日・経路・保管者を確定しない |
| 辛櫃奪還者 | 佐々木黒田判官 | 一人の称号か二者かを保留する |
| 南皇 | 後亀山院第一皇子と記される可能性 | 特定の旧南朝系皇族へ比定しない |
| 熊谷・楠木説話 | 妙湛原等と読める | 文意・人物・場所を推測で復元しない |
| 近江佐々木氏 | 宗体禅門・五郎時綱 | 実名・法名・同一人物性を確定しない |
| 富樫氏 | 教親・安高と読めるが、成春・泰高との異同あり | 一般的系譜へ合わせて無断修正しない |
| 成氏記事 | 宝徳元年記事が編年上先取り挿入された可能性 | 年代順へ無断移動せず、挿入問題を注記する |
| 成氏の偏諱 | 将軍より一字を受けたと読める | 授与者・時期・改名前名を確定しない |
| 紀伊旧南朝方 | 南皇宮・楠木第二郎・湯浅城を記す | 皇族・人物・攻防経過を確定しない |
| 義成将軍就任 | 元服・将軍宣下を記す | 具体日・加冠役・改名時期を補わない |
| 大疫病 | 一日千人の死者と記す | 史料本文値として保存し、正確な統計実数とは断定しない |
判読・校訂に自信のない箇所
- 内侍所辛櫃の奪還者:「佐々木黒田判官」と読めるが、一人の称号・名字・官職なのか、佐々木氏人物と黒田判官の二者なのか分からない。
- 南皇:後亀山院第一皇子と記される可能性があるが、人物名・親子関係・皇統上の位置を確定できない。
- 熊谷・楠木説話:妙湛原などと読める語を含むが、文章全体の逐字・人物・地名・事件内容が未確定である。
- 佐々木宗体・時綱:宗体禅門・五郎時綱と読めるが、法名・実名の対応と同一人物性が未確定である。
- 富樫氏:教親・安高と読めるが、同時代史料に見える成春・泰高との異同を解決できていない。
- 足利成氏記事:宝徳元年の記事が編年上先取りされている可能性があり、「将軍より一字」の授与者・時期も未確定である。
- 紀州の南皇宮:南皇宮・楠木第二郎と読めるが、皇族の比定、楠木氏人物、湯浅城との関係を確定できない。
- 大疫病の死者数:「一日千人」と読めるが、活字本文上の数字であり、現代的な統計上の実数性は別途検討を要する。
復刻作業記録
- 活字本巻五作業台帳の管理No.活字A-06を確認した。
- 対象を活字本part-A6・PDF第30画像・印刷58~59頁として確認した。
- 対象年代を嘉吉3年~宝徳2年として整理した。
- 今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がないことを明記した。
- 活字本巻五を後世の付録・補遺・増補とは断定していない。
- 前節末尾の禁闕の変から、宝剣・神璽の行方へ接続した。
- 宝剣回収・神璽持ち去りという作業台帳の整理を採用した。
- 神器の移動日・経路・保管者を推測で補っていない。
- 内侍所辛櫃の奪還者を佐々木黒田判官と暫定的に保存した。
- 佐々木黒田判官を一人・二者の一方へ確定していない。
- 日野有光らの比叡山方面での鎮圧を採用したが、処分者一覧・戦闘場所を補っていない。
- 旧南朝方が神璽を保持して抵抗を続けたという大筋を採用した。
- 「後南朝」が活字本文の固有節題ではなく、公開用表現であることを明記した。
- 南皇を後亀山院第一皇子へ確定していない。
- 吉野・八幡山・飯高山を確定した一連の戦場とはしていない。
- 熊谷・楠木説話を推測で復元していない。
- 妙湛原を既知の地名へ無断で置き換えていない。
- 佐々木宗体・五郎時綱を同一人物・別人の一方へ確定していない。
- 富樫教親・安高という活字本文候補を保存した。
- 富樫氏の人名を成春・泰高へ無断修正していない。
- 加賀の守護支配分割を採用したが、具体的な地域配分を補っていない。
- 足利成氏記事の編年外挿入の可能性を明記した。
- 成氏記事を現代語訳内で無断に年代順へ移動していない。
- 足利成氏の入鎌倉と鎌倉公方就任を採用した。
- 成氏の入鎌倉日・正式な任命手続を補っていない。
- 「将軍より一字」の授与者・時期を確定していない。
- 紀伊の南皇宮・楠木第二郎を特定人物へ比定していない。
- 吉野方面の南皇と紀伊の南皇宮を無条件に同一人物とはしていない。
- 湯浅城の記事を採用したが、攻撃側・防御側・落城日を補っていない。
- 紀伊旧南朝方への討伐を採用したが、討死者・逃亡者を確定していない。
- 足利義成の元服・将軍就任を採用した。
- 義成の具体的な元服日・将軍宣下日・加冠役を補っていない。
- 義成と後の義政との関係を説明したが、改名時期を確定していない。
- 大疫病の記事を採用した。
- 一日千人を活字本文値として保存し、正確な統計上の実数とはしていない。
- 活字本文欄を「第一次解読の要旨」とし、存在しない逐字翻刻を作成していない。
- 校訂・読み下し本文を「公開用仮本文」とし、作業台帳にない古文・漢文を新たに作成していない。
関連ページへのリンク
7.畠山氏家督争いと享徳の乱――成氏による憲忠殺害と鎌倉喪失
対象年代:宝徳2年~康正元年(1450~1455年)
対応史料:管理No.活字A-07・活字本part-A7/明治期活字本PDF第31画像(印刷60~61頁)
公開状態・書誌上の注意:明治期活字本巻五相当部分の第一次解読に基づく公開用仮本文である。今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
本節の「享徳の乱」は、鎌倉公方足利成氏による関東管領上杉憲忠の殺害をきっかけとして、成氏方と上杉方・幕府方との戦いが長期化した事件を示す一般的な名称である。明治期活字本文に、この節題がそのまま付されているわけではない。
畠山氏の後継問題は、畠山義就・政長をめぐる家督争いとして整理される。ただし、活字本文に列挙される武将の所属、戦闘場所、細川勝元・山名宗全との関係には逐字再校訂を必要とする箇所がある。
府中合戦の勝敗は、活字本文が「成氏敗」とも「成氏勝」とも読め、一般に整理される戦況と逆になる可能性がある。本ページでは一方へ確定せず、活字本文の誤刻・異読候補として保存する。
赤松彦五郎は則尚と読む候補があるが、実名末字が不鮮明である。上杉顕房の自害地も「夜瀬」「瀬谷」の両方に読めるため、具体的な地名を一方へ統一しない。
この節の概要
前節では、足利持氏の子・成氏が鎌倉へ入り、鎌倉公方となった。
本節の初めには、成氏方と上杉方との初期の衝突が記される。江の島またはその海浜に関係する合戦とみられるが、冒頭の「同二十日」、月名、地名、助詞の接続には再確認が必要である。
この衝突の後、成氏と上杉氏の間には一時的な和睦が成立したと、作業台帳では整理されている。
ただし、和睦条件、仲介者、誓約、関東管領との関係がどこまで修復されたのかは、現在の第一次解読要旨では確定していない。
同じ範囲には、夢窓国師へ追号を贈ったとみられる記事が置かれる。追号は「仏統国師」と読めるが、完全な追号の文字列は再確認を必要とする。
また、丹後国の海中に何かが現れたとみられる異変記事もある。しかし、出現した物・生物・光・現象のいずれを記すのかは確定していない。
京都では、畠山持国の後継者をめぐる問題が起こった。
後継候補をめぐる争いは、畠山義就・畠山政長の家督争いとして発展したと整理される。
畠山氏内部の争いには、遊佐河内守などと読まれる武将が関係する。しかし、どの人物が義就方・政長方のどちらに属したのか、戦闘場所と人名の区切りは逐字確定していない。
この畠山氏の家督問題は、細川勝元・山名宗全の政治関係とも結びついたと作業台帳では整理されている。
両者は協力・接近する記事と、対立する記事の両方に関係するとみられるが、個々の記事の主語・時点・目的は再確認を必要とする。
山名宗全には、将軍または幕府の意向に背いたことを理由とする処分記事が置かれる。しかし、具体的に何に反対したのか、処分内容・期間・所領への影響は確定していない。
山名宗全の処分と関連して、赤松氏再興をめぐる動きも記される。
赤松彦五郎と記される人物が登場し、則尚と読む候補がある。この人物は赤松氏再興を目指したとみられるが、実名末字と具体的な行動経過は未確定である。
関東では、足利成氏が関東管領上杉憲忠を襲撃し、殺害した。
この事件をきっかけとして、成氏方と上杉方との戦いが本格化した。これが一般に享徳の乱と呼ばれる。
戦いは武蔵国へ広がり、立川原・府中・岡部原などと読まれる場所で合戦が起こった。
ただし、各合戦の順序、軍勢の所属、勝敗、討死者については活字本文の逐字再校訂が必要である。
府中合戦では、活字本文の成氏の勝敗が一般的な戦況と逆になっている可能性があり、誤刻候補として保留する。
上杉顕房と読まれる人物には、自害記事が置かれる。自害地は「夜瀬」または「瀬谷」と読めるが、地名を確定できていない。
赤松彦五郎と記される人物は敗死したと整理される。しかし、則尚という実名、敗死地、戦った相手は逐字確定していない。
幕府方・上杉方の圧力によって、足利成氏は鎌倉を保つことができなくなった。
成氏は鎌倉を失い、古河へ移る過程に入ったと作業台帳では整理される。
本節は成氏の鎌倉喪失までを中心に扱い、五十子陣や古河公方・堀越公方の並立は次の第8節へ続く。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された活字A-07の第一次解読要旨をもとに、記事の順序と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。明治期活字本文の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
足利成氏が鎌倉公方となった記事から続く
前節では、足利持氏の子・成氏が鎌倉へ入り、鎌倉公方となった。
持氏の時代には、鎌倉公方と関東管領上杉氏との対立が永享の乱へ発展していた。
成氏の鎌倉府でも、成氏と上杉氏との関係は安定しなかったとみられる。
本節冒頭には、成氏方と上杉方との初期の衝突に関係する記事が置かれている。
江の島・海浜に関係する合戦
活字本文には、「同二十日・海浜合戦」と読める記事がある。
作業台帳では、江の島合戦に関係する記事として整理している。
しかし、「同二十日」の月、江の島という地名が本文にどのように接続するか、海浜合戦の助詞・主語を確定できていない。
また、成氏方・上杉方のどちらが攻撃側だったのか、勝敗、軍勢数、討死者も現在の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「江の島またはその海浜に関係する合戦があった」とする範囲にとどめる。
成氏と上杉氏が一時的に和睦する
初期の衝突後、成氏方と上杉方の間には、一時的な和睦が成立したと整理される。
しかし、誰が仲介したのか、和睦条件、関東管領の権限、鎌倉府内の所領・役職をどのように扱ったのかは確定していない。
また、後の上杉憲忠殺害を知る立場から、この和睦を最初から偽りの和睦だったと断定することはしない。
本ページでは、活字本文の流れに従い、成氏・上杉氏が衝突後にいったん関係を修復したと説明する。
夢窓国師の追号記事
同じ範囲には、夢窓国師へ追号を贈ったとみられる記事がある。
追号は「仏統国師」と読める。
しかし、「仏統国師」だけで完全な追号となるのか、前後に別の字が付くのかは再確認が必要である。
追号を贈った主体・日付・儀式も、現在の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「夢窓国師に仏統国師と読まれる追号を贈った記事」として保存する。
丹後の海中異変
丹後国では、海中に何かが現れたとみられる異変記事が置かれる。
しかし、出現した物が魚・海獣・漂流物・光・火・別の自然現象のいずれであるかは確定していない。
出現した日、場所、目撃者、被害の有無も、現在の作業台帳には保存されていない。
そのため、一般的な海洋怪異伝承へ当てはめず、「丹後海中の未確定な異変記事」として原文資料欄へ残す。
畠山持国の後継問題
京都では、畠山持国の後継者をめぐる問題が起こった。
活字本文は、畠山氏の家督が誰に継承されるかという争いを記していると整理される。
後継候補として、畠山義就・政長に関係する記事が続く。
ただし、持国が当初誰を後継者とし、いつ判断を変更したのか、幕府がどの段階で介入したのかは、今回の第一次解読要旨では確定していない。
本ページでは、畠山持国の後継問題から、義就・政長の家督争いが生じたという大筋を示す。
畠山義就・政長の家督争い
畠山義就・政長は、畠山氏の家督をめぐって対立したと整理される。
この争いには、畠山氏の一族だけでなく、家臣・国人・幕府の有力者が関係した。
活字本文には、遊佐河内守などと読まれる武将名が現れる。
しかし、各武将が義就方・政長方のどちらに属するのか、戦闘場所、行動内容の逐字は確定していない。
そのため、確定した両派一覧を作らず、「遊佐河内守らと読まれる武将が家督争いに関係した」とする。
細川勝元・山名宗全との関係
畠山氏の家督争いは、細川勝元・山名宗全の政治関係とも結びついたと作業台帳では整理されている。
両者が畠山氏の異なる候補を支援したのか、時期によって立場を変えたのかという具体的な対応は、現在の第一次解読要旨だけでは確定できない。
また、細川・山名両氏がこの時点から一貫して敵対していたと断定することもできない。
本ページでは、畠山氏の分裂が細川・山名両氏を含む幕府政治の対立へ広がったという範囲を示す。
応仁の乱へつながる問題
作業台帳の中学3年生向け要旨では、畠山氏の後継争いを、後の応仁の乱の火種の一つとして説明している。
しかし、本節の時点で応仁の乱がすでに始まっていたわけではない。
畠山義就・政長の家督争いが長く解決せず、細川・山名などの有力者の対立と結びついていったことを、後の戦乱の前段として整理する。
この説明は記事の歴史的な意味を理解するための公開用解説であり、活字本文の直接的な予言・総括ではない。
山名宗全が処分される
山名宗全には、幕府から処分を受けたとみられる記事が置かれる。
処分理由は「上意に背く」と読める内容に関係する。
しかし、宗全が具体的にどの命令へ従わなかったのか、畠山氏家督・赤松氏再興・別の政治問題のどれに関係するのかは確定していない。
処分が所領没収・出仕停止・隠居・追放などのどれに当たるかも、現在の第一次解読要旨では分からない。
そのため、「山名宗全が上意に背いたとして処分されたとみられる」と限定して掲載する。
赤松氏再興をめぐる動き
嘉吉の変後、赤松氏は幕府の追討を受け、領国を失っていた。
本節には、赤松氏の再興を目指す人物・軍勢の記事が置かれる。
その中心人物として「赤松彦五郎」と読まれる名が現れる。
作業台帳では則尚と読む候補を示しているが、実名の末字が不鮮明である。
そのため、「赤松彦五郎と記され、則尚と読む可能性のある人物」として扱う。
赤松彦五郎が敗死する
赤松彦五郎と記される人物は、赤松氏再興のための行動中に敗死したと整理される。
しかし、戦場、相手方の軍勢、敗死日、同行者は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
また、この人物を赤松則尚と完全に確定することもできない。
本ページでは、赤松彦五郎の敗死という活字本文の大筋を保存し、具体的な人物比定・合戦経過を補わない。
足利成氏が上杉憲忠を襲う
関東では、鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を襲撃した。
上杉憲忠は、この襲撃によって殺害されたと記される。
しかし、襲撃場所、成氏が命令した経過、直接手を下した人物、憲忠方の抵抗は、現在の作業台帳要旨では詳しく確定していない。
そのため、「成氏が憲忠を襲撃・殺害した」という本節の中心的な大筋を示し、具体的な暗殺場面を資料外から作らない。
享徳の乱が始まる
関東管領上杉憲忠の殺害をきっかけとして、成氏方と上杉方との戦いが本格化した。
この長期的な関東の内乱は、一般に享徳の乱と呼ばれる。
上杉氏の一族・家臣・関東各地の武士が成氏へ対抗し、京都の幕府も関東の戦いに関わったと整理される。
ただし、本節に記される全武将を成氏方・上杉方・幕府方へ完全に分類することはできない。
本ページでは、憲忠殺害から武蔵各地の合戦、成氏の鎌倉喪失までを、享徳の乱初期の記事として扱う。
立川原の合戦
戦いは武蔵国へ広がり、立川原と読まれる場所で合戦が起こった。
しかし、合戦日、両軍の大将、軍勢数、勝敗、討死者は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
府中・岡部原の記事と同じ軍事行動の一部なのか、別の時期の合戦なのかも再確認が必要である。
そのため、「立川原で成氏方・上杉方に関係する合戦があった」という範囲を本文とする。
府中の合戦
武蔵国府中とみられる場所でも合戦が起こった。
この合戦の勝敗について、活字本文は「成氏敗」とも「成氏勝」とも読める。
作業台帳では、一般的に整理される戦況と逆になる可能性があるため、誤刻候補として最重要保留にしている。
そのため、公開用主本文では成氏の勝敗を確定せず、「府中で合戦があり、活字本文の勝敗表記に問題がある」とする。
一般的な享徳の乱の年表へ合わせて、活字本文値を無断で修正しない。
岡部原の合戦
岡部原と読まれる場所にも合戦記事が置かれる。
ただし、岡部原の現在地、両軍の所属、立川原・府中との時間的な順序を確定できていない。
同じ日に行われた連続合戦なのか、数か月・数年を隔てた別の戦いなのかも、今回の第一次解読要旨だけでは判断できない。
本ページでは、武蔵の戦乱を示す地名の一つとして岡部原を保存する。
上杉顕房の自害
上杉顕房と読まれる人物には、自害記事が置かれる。
自害地は「夜瀬」または「瀬谷」と読める。
活字の一字・語順に問題があり、既知の地名へ一方的に比定することはできない。
また、どの合戦の後に自害したのか、同行者・自害日も確定していない。
そのため、「上杉顕房と読まれる人物が、夜瀬/瀬谷と読まれる場所で自害した」と限定して掲載する。
成氏が鎌倉を失う
成氏方と上杉方・幕府方との戦いが続き、成氏は鎌倉を保つことができなくなった。
活字本文は、成氏が鎌倉を失う過程を記していると整理される。
しかし、鎌倉を離れた具体日、退出経路、同行者、鎌倉を占領した軍勢は、今回の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、「成氏は鎌倉を失った」という大筋を本文とする。
成氏が古河へ移る過程
作業台帳の校訂・読み下し要旨では、成氏が鎌倉から古河へ移る過程として、本節の記事を整理している。
ただし、鎌倉喪失と古河への移動が同じ日に行われたとは限らず、途中の滞在地・軍事拠点は確定していない。
本節では成氏の鎌倉喪失までを中心とし、古河公方としての体制形成は次節の記事とともに扱う。
京都の幕府は、成氏に対抗する新しい鎌倉公方を東国へ送ろうとし、関東に二人の公方が並び立つ問題へ進む。
京都と関東で進む分裂
本節では、京都と関東の両方で政治的な分裂が進んだ。
- 京都:畠山義就・政長が家督を争い、細川勝元・山名宗全を含む幕府政治の対立へ広がる。
- 関東:足利成氏が上杉憲忠を殺害し、上杉方との享徳の乱が始まる。
畠山氏の分裂は後の応仁の乱へ、成氏と上杉氏の戦いは古河公方・堀越公方の並立へつながる問題として、作業台帳では整理されている。
ただし、本節の時点で後のすべての戦乱が決定していたとするものではない。
同時期に京都・関東の政治秩序が不安定になっていく過程を理解するための公開用説明である。
流れが分かる現代語訳
- 足利成氏が鎌倉公方となった後、成氏方と上杉方は江の島または海浜に関係する場所で戦ったとみられる。
- 合戦の日付は「同二十日」と読めるが、月名・地名・文章の接続は確定していない。
- 両者は、初期の衝突後にいったん和睦したと整理される。
- 同じ範囲には、夢窓国師へ「仏統国師」と読まれる追号を贈った記事がある。
- 丹後の海中にも異変が現れたと記されるが、何が現れたのかは分からない。
- 京都では、畠山持国の後継者をめぐる争いが起こった。
- 畠山義就と政長が家督を争い、遊佐河内守らと読まれる武将も両派に関係した。
- どの武将が義就方・政長方のどちらに属したかは、まだ完全には読めていない。
- 畠山氏の争いは、細川勝元・山名宗全を含む幕府政治の対立へ広がった。
- 作業台帳では、この家督争いが後の応仁の乱の火種の一つになったと説明している。
- 山名宗全は「上意に背いた」として処分されたとみられるが、具体的な理由は分からない。
- 赤松氏を再興しようとする動きもあり、赤松彦五郎と記される人物が登場する。
- この人物は則尚と読む候補があるが、実名末字は確定していない。
- 赤松彦五郎は再興のための行動中に敗死したと整理される。
- 関東では、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を襲撃し、殺害した。
- 憲忠殺害をきっかけとして、成氏方と上杉方との長い享徳の乱が始まった。
- 戦いは武蔵へ広がり、立川原・府中・岡部原などで合戦が起こった。
- 府中合戦では、活字本文の成氏の勝敗が通説的な戦況と逆になっている可能性があり、確定していない。
- 上杉顕房と読まれる人物は、夜瀬または瀬谷と読まれる場所で自害したとみられる。
- 戦いの結果、足利成氏は鎌倉を保てなくなった。
- 成氏は鎌倉を失い、古河へ移る過程に入った。
- 次節では、五十子陣、古河公方に対抗する足利政知の東国下向、堀越公方の成立へ進む。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は活字本文の記事を理解するための説明であり、今回確認した手書き写本の直接的な評言ではない。
- 江の島合戦:成氏方と上杉方の初期衝突として整理される記事。「同二十日・海浜合戦」の月・地名・助詞は未確定である。
- 夢窓国師の追号:「仏統国師」と読まれるが、完全な追号文字列と授与日・授与主体を再確認する必要がある。
- 丹後海中異変:丹後国の海中に何かが現れたとみられる記事。出現物・現象の内容は未確定である。
- 畠山持国:後継者問題をきっかけとして、畠山義就・政長の家督争いが生じたと整理される人物。
- 畠山義就・政長:畠山氏の家督を争った二人。両派に属する武将・所領・合戦場所の逐字には未確定箇所がある。
- 遊佐河内守:畠山家督争いに関係する武将名候補。義就方・政長方のどちらに属するか、記事ごとの再確認が必要である。
- 細川勝元・山名宗全:畠山氏家督問題に関わる幕府の有力者。両者の協力・対立の時点と具体的な支援関係は未確定である。
- 応仁の乱への前史:畠山氏の分裂が細川・山名の対立と結びついたことを説明する公開用整理である。
- 山名宗全の処分:「上意に背く」と読める理由による処分記事。具体的な命令・処分内容は未確定である。
- 赤松彦五郎:赤松氏再興を目指したとみられる人物。則尚と読む候補があるが、実名末字は不鮮明である。
- 赤松氏再興:嘉吉の変後に没落した赤松氏を復活させようとする動き。本節の彦五郎の試みは敗北し、後の神璽奪還による再興とは区別する。
- 足利成氏:足利持氏の子で鎌倉公方。本節では上杉憲忠を殺害し、享徳の乱を始め、鎌倉を失う。
- 上杉憲忠:関東管領。足利成氏の襲撃によって殺害されたと記される。
- 享徳の乱:上杉憲忠殺害をきっかけとして、足利成氏方と上杉方・幕府方が長く戦った関東の内乱を示す一般的な名称である。
- 立川原・府中・岡部原:享徳の乱初期の武蔵合戦に現れる地名。戦闘順序・軍勢・勝敗は再校訂を必要とする。
- 府中合戦の勝敗:活字本文は成氏敗/成氏勝の両方に読め、一般的な戦況と逆になる可能性がある。
- 上杉顕房:自害記事が置かれる上杉氏人物。自害地は夜瀬/瀬谷と読め、地名未確定である。
- 成氏の鎌倉喪失:享徳の乱の中で成氏が鎌倉を維持できなくなり、古河へ移る過程を示す。
- 活字本巻五相当部分:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がなく、成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定である。
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史料情報
- 管理番号:活字A-07
- 区分:活字本part-A7
- 明治期活字本:PDF第31画像・印刷60~61頁
- 対象年代:宝徳2年~康正元年(1450~1455年)
- 内容区分:畠山家督・享徳の乱
- 作業状態:第一次解読済み
- 判読・校訂保留:8件
- 写本との関係:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文なし
- 書誌上の位置づけ:活字本巻五相当部分。成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定
活字本文――第一次解読の要旨
以下は明治期活字本文の逐字全文ではなく、作業台帳に保存された第一次解読の要旨である。
- 足利成氏と上杉氏との初期衝突と、一時的な和睦を記す。
- 江の島または海浜に関係する合戦を記す。
- 「同二十日・海浜合戦」と読めるが、月・地名・助詞の接続は未確定である。
- 夢窓国師に「仏統国師」と読まれる追号を贈る記事を記す。
- 丹後国の海中異変を記すが、出現物・現象は未確定である。
- 畠山持国の後継問題を記す。
- 畠山義就・政長の家督争いを記す。
- 遊佐河内守等と読まれる畠山両派の武将を記すが、所属・戦闘場所は未確定である。
- 畠山氏の分裂と、細川勝元・山名宗全の政治関係を記す。
- 山名宗全が上意に背いたとして処分されたとみられる記事を記す。
- 赤松氏再興に関係する赤松彦五郎の記事を記す。
- 赤松彦五郎は則尚と読む候補があるが、実名末字は不鮮明である。
- 赤松彦五郎の敗死を記す。
- 足利成氏による関東管領上杉憲忠の襲撃・殺害を記す。
- 成氏方と上杉方による享徳の乱の開始を記す。
- 武蔵の立川原・府中・岡部原合戦を記す。
- 府中合戦の成氏の勝敗には異読・誤刻候補がある。
- 上杉顕房の自害を記し、自害地は夜瀬/瀬谷と読める。
- 足利成氏が鎌倉を失い、古河へ移る過程を記す。
校訂・読み下し本文――公開用仮本文
以下は、作業台帳に保存された出来事の順序を整理した公開用仮本文であり、明治期活字本文の逐字翻刻ではない。
宝徳二年以後、足利成氏方と上杉方、江の島または海浜に関係する場所にて戦うとみらる。
記事冒頭、「同二十日・海浜合戦」と読まる。ただし月・地名・助詞の接続未確定。
両者、後に一時和睦すと整理さる。ただし条件・仲介者未確定。
夢窓国師へ、仏統国師と読まるる追号を贈る記事あり。
丹後国海中に異変あり。ただし出現物・現象未確定。
畠山持国の後継をめぐり、畠山義就・政長、家督を争う。
遊佐河内守等と読まるる武将、両派に関係す。ただし所属・戦闘場所未確定。
畠山氏の争い、細川勝元・山名宗全等の政治関係と結びつくと整理さる。
山名宗全、上意に背くとして処分せらるとみらる。ただし理由・処分内容未確定。
赤松彦五郎と記さるる人物、赤松氏再興を図るとみらる。
実名、則尚と読む候補あり。ただし末字不鮮明。
赤松彦五郎、敗死すと整理さる。
関東において、足利成氏、関東管領上杉憲忠を襲い、これを殺す。
これより成氏方と上杉方との戦い起こる。一般に享徳の乱と呼ばる。
立川原・府中・岡部原等にて合戦あり。
府中合戦の成氏の勝敗、活字本文に異読・誤刻候補あり。確定せず。
上杉顕房と読まるる人物、夜瀬または瀬谷と読まるる地にて自害すとみらる。
成氏、鎌倉を失い、古河へ移る過程に入る。
〔五十子陣、古河公方・堀越公方の並立、神璽奪還へ続く〕
手書き写本との対応
今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
したがって、本節では写本翻刻・写本との本文異同表を設けず、明治期活字本の第一次解読要旨、公開用仮本文、判読保留、書誌上の注意を掲載する。
対応写本が確認できないことをもって、写本の欠落、別冊の消失、活字本巻五の後世追加、別系統本文などの一つへ断定することはできない。
活字本巻五相当部分の成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは、写本4冊・本文5巻の未解決の書誌問題として扱う。
書誌・本文上の主要な問題
| 論点 | 活字本文・台帳の状態 | 公開版での扱い |
|---|---|---|
| 対応写本 | 今回の手書き写本4冊には直接対応する本文なし | 活字本巻五相当部分として独立管理する |
| 江の島合戦 | 「同二十日・海浜合戦」と読める | 月・地名・助詞・勝敗を確定しない |
| 夢窓追号 | 仏統国師 | 完全な追号文字列と授与主体・日付を保留する |
| 丹後海中異変 | 海中に何かが現れたとみられる | 出現物・自然現象の一つへ置き換えない |
| 畠山家督派閥 | 遊佐河内守等の武将名を記す | 義就方・政長方の所属と戦闘場所を確定しない |
| 細川・山名との関係 | 畠山氏分裂が細川勝元・山名宗全の政治関係と結びつく | 個々の支援関係・時点を推測で固定しない |
| 山名宗全処分 | 上意に背く内容に関係 | 具体的な命令・処分理由・内容を確定しない |
| 赤松彦五郎 | 則尚と読む候補 | 実名末字を保留し、確定人名とはしない |
| 憲忠殺害 | 成氏が上杉憲忠を襲撃・殺害 | 大筋を採用し、具体的な襲撃場面を補わない |
| 府中合戦 | 成氏敗/成氏勝の異読候補 | 勝敗を確定せず、誤刻候補として保存する |
| 上杉顕房自害地 | 夜瀬/瀬谷 | 地名を一方へ統一しない |
| 成氏の鎌倉喪失 | 鎌倉から古河へ移る過程として整理 | 具体日・移動経路を補わず、次節へ接続する |
判読・校訂に自信のない箇所
- 江の島合戦冒頭:「同二十日・海浜合戦」と読めるが、月名、江の島・海浜の地名関係、助詞の接続を確定できない。
- 夢窓追号:「仏統国師」と読めるが、完全な追号文字列と授与日・授与主体を再確認する必要がある。
- 丹後海中異変:海中に現れた物・生物・光・自然現象のいずれを記すか分からない。
- 畠山家督派閥:遊佐河内守等と読まれる武将の所属、義就方・政長方の別、戦闘場所の逐字を確定できない。
- 山名宗全の処分:上意に背いたと読めるが、具体的にどの命令・政治問題へ反対したのか分からない。
- 赤松彦五郎:則尚と読む候補があるが、実名末字が不鮮明であり、人物比定を確定できない。
- 府中合戦の勝敗:成氏敗/成氏勝の両方に読め、一般的な戦況と逆になる可能性があるため、誤刻候補として保留する。
- 上杉顕房の自害地:夜瀬または瀬谷と読める。地名の字形と現在地への比定を確定できない。
復刻作業記録
- 活字本巻五作業台帳の管理No.活字A-07を確認した。
- 対象を活字本part-A7・PDF第31画像・印刷60~61頁として確認した。
- 対象年代を宝徳2年~康正元年として整理した。
- 今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がないことを明記した。
- 活字本巻五を後世の付録・補遺・増補とは断定していない。
- 前節の足利成氏鎌倉公方就任から、成氏・上杉氏の初期衝突へ接続した。
- 江の島・海浜に関係する合戦を採用したが、日付・地名・勝敗を確定していない。
- 初期衝突後の一時和睦を採用したが、条件・仲介者を補っていない。
- 夢窓国師の追号を仏統国師と暫定的に保存した。
- 追号の完全な文字列・授与日・授与主体を推測していない。
- 丹後海中異変を採用したが、出現物・現象を作成していない。
- 畠山持国の後継問題と義就・政長の家督争いを整理した。
- 持国の後継指定・変更過程を資料外から補っていない。
- 遊佐河内守等の武将を義就方・政長方へ無条件に分類していない。
- 畠山氏分裂と細川勝元・山名宗全の政治関係を整理した。
- 細川・山名が一貫して特定の一派を支持したとは断定していない。
- 畠山家督争いを応仁の乱への前史として説明したが、活字本文の直接的な予言とはしていない。
- 山名宗全の処分記事を採用したが、具体的理由・処分内容を補っていない。
- 赤松氏再興に関係する赤松彦五郎の記事を採用した。
- 赤松彦五郎を則尚へ完全確定していない。
- 赤松彦五郎の敗死を採用したが、戦場・相手・日付を補っていない。
- 足利成氏による上杉憲忠殺害を採用した。
- 憲忠殺害の具体的な襲撃方法・実行者を資料外から補っていない。
- 憲忠殺害を享徳の乱開始の中心事件として整理した。
- 立川原・府中・岡部原の武蔵合戦を採用した。
- 各合戦の日付・軍勢・順序を確定していない。
- 府中合戦の勝敗を成氏勝・成氏敗の一方へ修正していない。
- 通説的な戦況と逆になる可能性を、誤刻候補として明記した。
- 上杉顕房の自害地を夜瀬・瀬谷の一方へ統一していない。
- 足利成氏の鎌倉喪失を採用した。
- 成氏が鎌倉を離れた具体日・経路・占領軍を補っていない。
- 成氏が古河へ移る過程を整理し、古河公方・堀越公方の記事は次節へ送った。
- 活字本文欄を「第一次解読の要旨」とし、存在しない逐字翻刻を作成していない。
- 校訂・読み下し本文を「公開用仮本文」とし、作業台帳にない古文・漢文を新たに作成していない。
関連ページへのリンク
8.堀越公方と神璽奪還――赤松政則の出仕と活字本文終結
対象年代:康正元年~長禄2年(1455~1458年)
対応史料:管理No.活字A-08・活字本part-A8/明治期活字本PDF第32画像(印刷62~63頁)
公開状態・書誌上の注意:明治期活字本巻五相当部分の第一次解読に基づく公開用仮本文である。今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
本節は活字本巻五相当部分の最終区分である。長禄2年の神璽奪還・赤松政則出仕の記事で本文が終わるが、近藤瓶城の巻末識語は『南方紀伝』の収録範囲を応永34年までと説明する。活字本巻五の成立・底本・伝本上の位置づけは未確定である。
分倍・二宮合戦、五十子陣、畠山氏両派の戦い、足利政知の東国下向については、軍勢の所属・勝敗・人名・日付に未確定箇所がある。一般的な関東戦乱史や畠山氏系譜へ合わせて、活字本文を無断で修正しない。
神璽奪還について、活字本文は赤松遺臣が旧南朝方を欺く計略を用いたと伝える。本ページでは活字本文が伝える事件として掲載し、潜入方法・会話・襲撃場面を資料外から補わない。
神璽還御日は八月晦日と読めるが、他史料との日付異同候補がある。赤松政則の系譜、神璽還御を祝う万里の漢詩も逐字再校訂を必要とする。
この節の概要
前節では、鎌倉公方足利成氏が上杉氏・幕府方との戦いによって鎌倉を失い、古河へ移る過程に入った。
本節冒頭には、前頁から続く関東合戦の記事が置かれる。分倍・二宮と読まれる場所で戦いがあったとみられるが、どの軍勢が戦い、どちらが勝ったのかは確定していない。
上杉方は五十子に陣を置いたと記される。五十子陣は、享徳の乱における上杉方・幕府方の重要な軍事拠点として整理される。
ただし、陣を築いた日、参加した武将、城郭・陣所の構造、成氏方との具体的な戦闘経過は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
同じ範囲には、久我家の文書が焼失したとみられる記事がある。人物名は久我通向公と読めるが、実名の下二字が不鮮明である。
京都・河内では、畠山義就・政長両派の戦いが続いた。誉田・遊佐・本折などと読まれる人名・地名が現れるが、所属と文章の区切りを確定できていない。
関東では、京都の幕府が足利政知を新しい公方として東国へ送った。
しかし、政知は鎌倉へ入らず、伊豆国堀越に滞在したと記される。これにより、古河の足利成氏と、堀越の足利政知という二人の公方が並び立つ状況となった。
政知の下向日は十二月二十四日または二十六日と読めるため、具体日を一方へ確定しない。
同じころ、水鳥に関係する異変と、猿沢池の水色に関係する異変が記される。猿沢池は血のような色になったと読める可能性があるが、怪異記事の逐字と意味は再確認を必要とする。
その後、記事の中心は、禁闕の変で旧南朝方に持ち去られた神璽の奪還へ移る。
旧南朝系の皇族は「後醍醐天皇より三世」と記される可能性がある。しかし、どの皇族を指すのか、系譜と人物名は確定していない。
赤松氏の遺臣である石見太郎と記される人物らは、赤松氏を再興するため、旧南朝方のもとへ入り込んだとみられる。
三条実量と読まれる人物も記事に現れるが、旧南朝方・朝廷・赤松方のどの立場で何を行ったのかは確定していない。
活字本文は、赤松遺臣が旧南朝方を欺き、神璽を奪い返したという大筋を伝える。
襲撃・奪還に関係した人物として、真島・衣笠・中村弾正らと読まれる名前が挙げられる。しかし、完全な人数・姓名・所属は確定していない。
奪還された神璽は朝廷へ戻された。還御日は八月晦日と読めるが、他史料との異同があるため、公開用主本文では日付を確定しない。
この功績によって、赤松氏は再興を許されたと整理される。
赤松政則は幕府へ出仕した。政則の系譜には、性存法師・三郎法師丸と読まれる名前が記されるが、年齢・親子関係・改名の時系列が圧縮されており、再確認が必要である。
神璽の還御を祝う万里の漢詩も収録されるとみられるが、漢詩本文は逐字確定していない。
明治期活字本の本文は、神璽奪還と赤松政則の出仕・赤松氏再興の記事で終わる。
ただし、これが『南方紀伝』本来の終点であるのか、異なる伝本に由来する続きであるのか、刊本編集時に組み込まれた本文であるのかは未解決である。
情報を省略しない詳細現代語訳
以下は、作業台帳に保存された活字A-08の第一次解読要旨をもとに、記事の順序と関係が分かるよう説明文へ展開したものです。明治期活字本文の逐字全文に対する最終的な全訳ではありません。
前頁から続く関東合戦
前節では、足利成氏方と上杉方・幕府方との戦いが武蔵国へ広がり、成氏が鎌倉を失った。
本節冒頭は、前頁から続く関東合戦の記事から始まる。
場所は分倍・二宮と読める。
しかし、分倍と二宮が二つの戦場を示すのか、一続きの地名・軍事行動なのかを確定できていない。
また、成氏方・上杉方・幕府方のどの軍勢が戦い、どちらが勝ったのかも、前頁との接続を含めて再確認する必要がある。
そのため、「分倍・二宮と読まれる場所で関東合戦が続いた」という範囲にとどめる。
上杉方が五十子に陣を置く
上杉方は、五十子と呼ばれる場所に陣を置いたと記される。
この軍事拠点は、一般に五十子陣と呼ばれる。
成氏が古河方面を拠点とするようになる一方、上杉方・幕府方は五十子陣を関東での重要な拠点としたと整理できる。
ただし、陣の築造日、築いた人物、参加した上杉氏諸家、軍勢数、施設の構造は、今回の第一次解読要旨では確定していない。
本ページでは、活字本文が五十子陣を記すことを保存し、詳しい軍事配置を資料外から補わない。
関東に長期的な対立構造が生まれる
足利成氏が鎌倉を失っても、成氏方の勢力が直ちに消滅したわけではなかった。
成氏方と上杉方・幕府方は、それぞれ異なる拠点を持って戦いを続けた。
五十子陣の記事は、享徳の乱が一度の合戦では終わらず、関東各地で長期化したことを示すものとして整理できる。
ただし、この説明は活字本文の記事を理解するための公開用整理であり、本文が同じ表現で戦争構造を論じているわけではない。
久我家文書が焼失する
同じ範囲には、久我家の文書が焼失したとみられる記事が置かれる。
人物名は「久我通向公」と読める。
しかし、「通向」の下二字は不鮮明であり、正確な実名を確定できていない。
どの火災・戦闘・事故によって文書が焼けたのか、焼失した文書の種類と量も、現在の作業台帳要旨では確認できない。
そのため、「久我通向公と読まれる人物に関係して、久我家文書が焼失したとみられる」と限定して掲載する。
畠山義就・政長の戦いが続く
京都・河内では、畠山義就・政長の家督争いが続いた。
前節では、畠山氏の分裂が細川勝元・山名宗全らを含む幕府政治の対立と結びついたと整理されていた。
本節では、両派が実際に軍勢を動かし、戦った記事が置かれる。
しかし、個々の戦闘日、場所、勝敗、和睦・撤退の経過は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
誉田・遊佐・本折と読まれる参加者
畠山氏両派の戦いには、誉田・遊佐・本折などと読まれる名前が現れる。
しかし、これらが名字・地名・一族名のどれに当たるのか、活字の区切りが明確ではない。
また、どの人物が義就方・政長方のどちらに属したのかを完全には確定できていない。
そのため、確定した両派一覧を作らず、「誉田・遊佐・本折等と読まれる人々が戦いに関係した」とする。
畠山氏の争いが続く意味
畠山氏の家督争いは、一族内部だけで解決されなかった。
将軍・管領・有力守護・畠山氏家臣がそれぞれ異なる候補を支持したことで、京都・河内の政治と軍事に影響を与え続けたと整理できる。
ただし、本節の記事だけから、後の応仁の乱の全原因を畠山氏の争いだけに求めることはできない。
後の大規模戦乱へ続く複数の問題の一つとして説明する。
足利政知が東国へ下る
京都の幕府は、足利政知を新しい公方として東国へ送った。
成氏が幕府・上杉方と戦い、鎌倉を失ったため、幕府は成氏に代わる関東支配者を置こうとしたと整理できる。
しかし、政知が東国へ出発した日、同行した武将、幕府から与えられた命令、最初の目的地は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
本ページでは、「足利政知が新しい公方として東国へ下った」という大筋を本文とする。
政知の下向日は二十四日か二十六日か
政知の東国下向日は、十二月二十四日または二十六日と読める。
活字の数字に異読があり、一方へ確定できない。
本ページでは具体的な日付を主本文へ入れず、原文資料欄で二十四日/二十六日の両候補を保存する。
一般的な足利政知年表へ合わせて、活字本文を無断で修正しない。
足利政知が伊豆堀越にとどまる
政知は東国へ下ったが、鎌倉へは入らず、伊豆国堀越に滞在したと記される。
政知が鎌倉へ入れなかった理由、関東武士の反応、成氏方との軍事的な関係は、今回の第一次解読要旨では詳しく確定していない。
伊豆堀越を拠点とした政知は、一般に堀越公方と呼ばれる。
ただし、「堀越公方」が活字本文の固有表現であるとは限らず、事件を理解するための一般的な呼称として用いる。
古河公方と堀越公方が並び立つ
足利成氏は鎌倉を失った後も、古河を拠点として関東の公方を称する立場にあったと整理される。
一方、幕府が東国へ送った足利政知は、伊豆堀越にとどまった。
この結果、関東には古河の成氏と堀越の政知という、二人の公方が並び立つ状況が生まれた。
ただし、両者が同じ範囲を実際に支配したわけではなく、支持した武士・支配地域・幕府との関係は異なっていたと考えられる。
本ページでは、京都の幕府と足利成氏の対立が、公方の分裂という形へ進んだことを公開用に説明する。
水鳥に関する異変
同じ範囲には、水鳥に関係する異変記事が置かれる。
しかし、水鳥が大量に集まったのか、死んだのか、異常な行動をしたのかという具体的内容は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
活字本文が自然現象として記すのか、政治的な凶兆として記すのかも判断できない。
そのため、「水鳥に関する未確定の異変記事」として保存する。
猿沢池の異変
猿沢池にも異変が起こったと記される。
池の水が血のような色に見えたという趣旨に読める可能性がある。
しかし、実際の水色の変化、原因、期間、目撃者は、今回の第一次解読要旨では確定していない。
本ページでは、活字本文が伝える怪異・災異記事として掲載し、特定の自然科学的現象へ置き換えない。
神璽奪還の計画
活字本文の後半は、旧南朝方が保持していた神璽を奪い返す計画へ移る。
神璽は、嘉吉三年の禁闕の変で旧南朝方に持ち去られたと、前の節で整理されていた。
赤松氏の遺臣たちは、神璽を取り戻すことによって幕府・朝廷への功績を立て、赤松氏を再興しようとしたと活字本文は伝える。
ただし、この計画を立てた中心人物、幕府との事前の約束、計画開始日などは、現在の第一次解読要旨では確定していない。
南皇の系譜
神璽を保持していた旧南朝系皇族は、「後醍醐天皇より三世」と記される可能性がある。
しかし、後醍醐天皇から数えてどの皇子・皇孫に当たるのか、具体的な人物名は確定していない。
前節までに現れた南帝・南皇・南皇宮との同一性も、現段階では判断できない。
そのため、「後醍醐天皇より三世と記される旧南朝系皇族」とし、特定人物へ比定しない。
赤松遺臣の石見太郎
神璽奪還に関係する人物として、石見太郎と記される人物が現れる。
作業台帳では赤松遺臣として整理される。
しかし、実名・官職・赤松氏内部での立場・神璽奪還計画での具体的な役割は確定していない。
そのため、「赤松遺臣の石見太郎と記される人物」として活字本文値を保存する。
三条実量と読まれる人物
同じ記事には、三条実量と読まれる人物も現れる。
しかし、実名の活字、皇族・朝廷・赤松遺臣との関係、事件中の行動を確定できていない。
神璽を保持する側、奪還を計画する側、または事件を報告する側の人物なのかも再確認が必要である。
そのため、主本文へ具体的な役割を入れず、判読・校訂保留として残す。
旧南朝方のもとへ入り込む
赤松遺臣は、旧南朝方のもとへ入り込み、相手を信用させたと活字本文は伝える。
作業台帳では、旧南朝方を欺いて神璽を取り戻した事件として整理されている。
しかし、どのような身分・目的を名乗って接近したのか、何を約束したのか、どのくらいの期間をかけて信用を得たのかは確認できない。
そのため、「赤松遺臣が計略によって旧南朝方へ接近した」という範囲を示し、具体的な会話・変装・約束を作らない。
旧南朝系皇族が襲撃される
神璽奪還の過程では、神璽を保持していた旧南朝系皇族と、その周囲の人々が襲撃されたと記される。
しかし、襲撃された皇族の実名、場所、襲撃時刻、同行者、被害者の結末は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
そのため、人物の生死や具体的な戦闘場面を資料外から補わず、「旧南朝方への襲撃が行われた」とする。
真島・衣笠・中村弾正ら
襲撃と神璽奪還に関係する人物として、真島・衣笠・中村弾正などと読まれる名前が挙げられる。
しかし、真島・衣笠が名字・地名のどちらに当たるか、中村弾正の実名、全参加者の人数は確定していない。
また、すべてが赤松遺臣であるのか、協力した別勢力を含むのかも分からない。
そのため、完全な襲撃者一覧とはせず、活字本文に見える暫定人名群として保存する。
神璽が奪還される
赤松遺臣は、旧南朝方が保持していた神璽を奪い返した。
禁闕の変以来、朝廷から失われていた神璽が戻ることになったと、活字本文は事件を整理している。
ただし、神璽を直接手にした人物、保管場所から持ち出した方法、奪還後の移送経路は確定していない。
本ページでは、神璽奪還という大筋を採用し、具体的な奪取場面を推測で補わない。
神璽が朝廷へ戻される
奪還された神璽は、朝廷へ戻されたと記される。
還御日は八月晦日と読める。
しかし、他史料には異なる日付がある可能性があり、活字本文の日付も再確認を必要とする。
そのため、公開用主本文では「神璽が朝廷へ戻された」とし、八月晦日は活字本文値候補として原文資料欄に保存する。
神璽奪還によって赤松氏が再興される
神璽を奪還した功績によって、赤松氏は再興を許されたと整理される。
赤松氏は嘉吉の変で足利義教を殺害した後、幕府の追討によって没落していた。
赤松遺臣は、朝廷の神器を取り戻すという大きな功績を立てることで、赤松氏の復活を目指したと活字本文は伝える。
ただし、神璽奪還前に幕府から再興の約束があったのか、奪還後にどの会議・文書で再興が認められたのかは確定していない。
赤松政則の系譜
赤松氏を継ぐ人物として、赤松政則が記される。
系譜記事には、性存法師・三郎法師丸と読まれる名前が現れる。
しかし、性存法師と三郎法師丸が同一人物の異なる時期の名前なのか、親子・兄弟など別の人物なのかを確定できていない。
年齢・親子関係・出家・還俗・改名の時系列が圧縮されている可能性もある。
そのため、赤松政則の系譜を外部系図に合わせて書き換えず、活字本文の圧縮された系譜記事として注記する。
赤松政則が幕府へ出仕する
赤松政則は、幕府へ出仕したと記される。
この出仕によって、赤松氏は再び幕府政治の中へ復帰したと整理できる。
ただし、出仕日、将軍との対面、与えられた官職・所領、同行者は、現在の第一次解読要旨では確定していない。
本ページでは、「赤松政則が出仕し、赤松氏再興へ進んだ」という大筋を本文とする。
神璽還御を祝う万里の漢詩
神璽が朝廷へ戻ったことを祝う漢詩が記されるとみられる。
作者は万里と読まれる。
しかし、漢詩の題・本文・句切り・作者名の完全な表記は逐字確定していない。
そのため、漢詩本文を推測で作成せず、「万里による神璽還御賀詩とみられる記事」として保存する。
明治期活字本文の終わり
活字本巻五相当部分は、神璽奪還と赤松政則の出仕・赤松氏再興の記事で終わる。
年代は長禄2年(1458年)まで進んでいる。
一方、今回確認した手書き写本第4冊は、応永34年(1427年)の赤松満祐上洛記事で終わる。
さらに、PDF第33画像の近藤瓶城識語も、『南方紀伝』を元弘元年から応永34年までの書と説明している。
そのため、長禄2年まで続く活字本巻五相当部分が、本来の巻五、異なる伝本の続編、別の編集段階の本文などのどれに当たるかは未解決である。
本サイトでは、後世の付録・補遺・増補の一つへ断定せず、「活字本巻五相当部分」として公開する。
巻五が描く三つの分裂と再編
巻五の最終節には、次の三つの大きな動きが並ぶ。
- 関東:古河公方足利成氏と堀越公方足利政知が並び立つ。
- 京都・河内:畠山義就・政長両派の家督争いが続く。
- 朝廷・赤松氏:旧南朝方から神璽が奪還され、その功績によって赤松氏が再興される。
京都・関東の政治秩序が分裂する一方、神璽の還御によって朝廷の神器問題は一つの区切りを迎え、赤松氏は政治的な復活を果たしたと活字本文は構成している。
ただし、この総括は活字A-08の記事群を理解するための公開用整理であり、活字本文の直接的な評言ではない。
流れが分かる現代語訳
- 足利成氏が鎌倉を失った後も、成氏方と上杉方・幕府方の戦いは続いた。
- 分倍・二宮と読まれる場所でも合戦があったが、軍勢の所属と勝敗は確定していない。
- 上杉方は五十子に大きな陣を置いた。
- 同じ範囲には、久我家の文書が焼けたとみられる記事もある。
- 京都・河内では、畠山義就と政長の家督争いが続いた。
- 誉田・遊佐・本折などと読まれる人々が戦いに関係したが、どちらの側に属したのかは完全には読めていない。
- 京都の幕府は、足利成氏に代わる新しい関東公方として、足利政知を東国へ送った。
- 政知の下向日は十二月二十四日とも二十六日とも読める。
- 政知は鎌倉へ入らず、伊豆の堀越にとどまった。
- このため、古河の足利成氏と、堀越の足利政知という二人の公方が並び立った。
- 同じころ、水鳥や猿沢池に関する異変も記された。
- その後、記事は禁闕の変で旧南朝方に持ち去られた神璽の奪還へ移る。
- 神璽を保持した旧南朝系皇族は、「後醍醐天皇より三世」と記される可能性があるが、人物は確定していない。
- 赤松遺臣の石見太郎らは、赤松氏を復活させるため、旧南朝方のもとへ入り込んだとみられる。
- 活字本文は、赤松遺臣が旧南朝方を欺いて神璽を取り戻したと伝える。
- 襲撃には真島・衣笠・中村弾正らと読まれる人々が関係したが、完全な姓名・人数は分からない。
- 取り戻された神璽は朝廷へ戻された。
- 還御日は八月晦日と読めるが、他史料との違いがあるため確定しない。
- 神璽を取り戻した功績によって、赤松氏は再興を許された。
- 赤松政則は幕府へ出仕した。
- 政則の系譜には性存法師・三郎法師丸と読まれる名があるが、親子関係・改名順序は未確定である。
- 神璽還御を祝う万里の漢詩も記されるが、詩の全文はまだ確定していない。
- 明治期活字本の本文は、長禄2年の神璽奪還と赤松氏再興の記事で終わる。
- この巻五相当部分と、応永34年で終わる写本4冊・近藤瓶城識語との関係は、まだ解決していない。
人物・用語・史料注記
事件を理解するための公開用解説:以下は活字本文の記事を理解するための説明であり、今回確認した手書き写本の直接的な評言ではない。
- 分倍・二宮合戦:前頁から続く関東合戦。場所・軍勢所属・勝敗を前後頁と合わせて再確認する必要がある。
- 五十子陣:享徳の乱で上杉方・幕府方が置いたと整理される軍事拠点。築造日・参加武将・構造は未確定である。
- 久我通向公:久我家文書焼失の記事に現れる暫定人名。実名の下二字が不鮮明である。
- 畠山義就・政長:畠山氏の家督を争った二人。本節でも両派の戦闘が続く。
- 誉田・遊佐・本折:畠山氏両派の戦いに現れるとみられる名前。名字・地名・所属の区切りは未確定である。
- 足利政知:京都の幕府から新しい関東公方として東国へ送られた人物。鎌倉へ入らず、伊豆堀越に滞在した。
- 堀越公方:伊豆堀越を拠点とした足利政知を示す一般的な呼称である。
- 古河公方:鎌倉を失った後、古河を拠点とした足利成氏を示す一般的な呼称である。
- 二公方の並立:幕府と対立する足利成氏と、幕府が送った足利政知が、関東の異なる地域を拠点とした状態を示す。
- 水鳥・猿沢池異変:本節に記される怪異・災異記事。現象の逐字・原因・政治的意味は未確定である。
- 南皇の系譜:「後醍醐天皇より三世」と記される可能性があるが、どの旧南朝系皇族を指すかは確定していない。
- 石見太郎:神璽奪還に関係する赤松遺臣と整理される人物。実名・官職・具体的身分は不明である。
- 三条実量:神璽奪還記事に現れると読まれる人物。実名・立場・行動内容は未確定である。
- 真島・衣笠・中村弾正:旧南朝方への襲撃と神璽奪還に関係する暫定人名。完全な人数・姓名・所属は未確定である。
- 神璽還御:禁闕の変で持ち去られた神璽が朝廷へ戻されたこと。活字本文は八月晦日と読めるが、他史料との異同候補がある。
- 赤松氏再興:赤松遺臣による神璽奪還の功績によって、嘉吉の変後に没落した赤松氏が再び幕府へ出仕する動き。
- 赤松政則:赤松氏再興後に幕府へ出仕した人物。性存法師・三郎法師丸を含む系譜記事は時系列が圧縮されている。
- 万里の漢詩:神璽還御を祝う賀詩とみられる漢詩。題・本文・句切り・作者名表記は逐字未確定である。
- 活字本文終結:PDF第32画像・印刷63頁の長禄2年記事で巻五相当部分が終わる。
- 活字本巻五相当部分:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がなく、成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定である。
原文・復刻資料を開く
史料情報
- 管理番号:活字A-08
- 区分:活字本part-A8
- 明治期活字本:PDF第32画像・印刷62~63頁
- 対象年代:康正元年~長禄2年(1455~1458年)
- 内容区分:堀越公方・神璽奪還・赤松再興
- 作業状態:第一次解読済み
- 判読・校訂保留:10件
- 写本との関係:今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文なし
- 書誌上の位置づけ:活字本巻五相当部分の最終部。成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは未確定
活字本文――第一次解読の要旨
以下は明治期活字本文の逐字全文ではなく、作業台帳に保存された第一次解読の要旨である。
- 前頁から続く関東合戦を記す。
- 分倍・二宮と読まれる場所での合戦を記すが、軍勢所属・勝敗は未確定である。
- 上杉方・幕府方の五十子陣を記す。
- 久我家文書の焼失と、久我通向公と読まれる人物を記す。
- 畠山義就・政長両派の戦いを記す。
- 誉田・遊佐・本折等と読まれる参加者を記すが、所属・人名区切りは未確定である。
- 足利政知の東国下向を記す。
- 政知の下向日は十二月二十四日または二十六日と読める。
- 足利政知が伊豆堀越に滞在したことを記す。
- 古河の足利成氏と堀越の足利政知が並び立つ状況を記すと整理される。
- 水鳥・猿沢池に関係する異変を記す。
- 旧南朝系皇族を「後醍醐天皇より三世」と説明する可能性がある。
- 赤松遺臣の石見太郎と読まれる人物を記す。
- 三条実量と読まれる人物に関係する記事を記す。
- 赤松遺臣が旧南朝方へ入り込み、相手を欺いて神璽を奪還したと伝える。
- 襲撃者として、真島・衣笠・中村弾正等と読まれる人名を記す。
- 奪還された神璽が朝廷へ戻されたことを記す。
- 神璽還御日は八月晦日と読めるが、他史料との異同候補がある。
- 神璽奪還の功績による赤松氏再興を記す。
- 赤松政則の出仕を記す。
- 赤松政則の系譜に、性存法師・三郎法師丸と読まれる名前を記す。
- 神璽還御を祝う万里の漢詩を記すとみられる。
- 長禄2年の赤松氏再興記事で活字本巻五相当部分が終わる。
校訂・読み下し本文――公開用仮本文
以下は、作業台帳に保存された出来事の順序を整理した公開用仮本文であり、明治期活字本文の逐字翻刻ではない。
康正元年以後、関東において成氏方と上杉方・幕府方との戦い続く。
分倍・二宮と読まるる場所に合戦あり。ただし軍勢所属・勝敗未確定。
上杉方、五十子に陣を置くとみらる。
久我家文書焼失の記事あり。
久我通向公と読まるる人物あり。ただし実名下二字不鮮明。
河内・京都において畠山義就・政長両派戦う。
誉田・遊佐・本折等と読まるる人々、戦いに関係す。ただし所属・人名区切り未確定。
京都の幕府、足利政知を新たな公方として東国へ下向せしむ。
下向日、十二月二十四日または二十六日と読まる。
政知、鎌倉へ入らず、伊豆堀越に留まる。
古河の足利成氏と、堀越の足利政知、関東に並び立つ形となる。
水鳥・猿沢池に関する異変記事あり。ただし現象の逐字未確定。
長禄年間、旧南朝方が神璽を保持す。
旧南朝系皇族、後醍醐天皇より三世と記さるる可能性あり。ただし人物比定未確定。
赤松遺臣の石見太郎等、赤松氏再興のため旧南朝方へ接近すとみらる。
三条実量と読まるる人物に関する記事あり。ただし役割未確定。
赤松遺臣、計略を用いて旧南朝方を欺き、神璽を奪い返すと記さる。
真島・衣笠・中村弾正等と読まるる人物、襲撃・奪還に関係す。ただし完全な姓名・人数未確定。
神璽、朝廷へ戻さる。
還御日、八月晦日と読まる。ただし他史料との異同候補あり。
神璽奪還の功により、赤松氏再興を許さると整理さる。
赤松政則、幕府へ出仕す。
政則の系譜に、性存法師・三郎法師丸と読まるる名あり。ただし系譜・年齢・時系列未確定。
万里による神璽還御賀詩とみらるる漢詩あり。ただし逐字未確定。
長禄二年、神璽奪還・赤松政則出仕の記事をもって、活字本巻五相当部分終わる。
手書き写本との対応
今回確認した手書き写本4冊には、本節へ直接対応する本文が確認されていない。
手書き写本第4冊は応永34年(1427年)の赤松満祐上洛記事で終わる。本節は康正元年~長禄2年(1455~1458年)を扱い、写本終点から約30年後の記事に当たる。
明治期活字本では、この範囲が本文巻五として連続する。一方、PDF第33画像右丁の近藤瓶城識語は、『南方紀伝』を元弘元年から応永34年までの書と説明する。
対応写本が確認できないことをもって、写本の欠落、別冊の消失、活字本巻五の後世追加、別系統本文などの一つへ断定することはできない。
活字本巻五相当部分の成立・底本・伝本系統・巻立て上の位置づけは、写本4冊・本文5巻の未解決の書誌問題として扱う。
書誌・本文上の主要な問題
| 論点 | 活字本文・台帳の状態 | 公開版での扱い |
|---|---|---|
| 対応写本 | 今回の手書き写本4冊には直接対応する本文なし | 活字本巻五相当部分の最終部として独立管理する |
| 分倍・二宮合戦 | 前頁から関東合戦が続く | 軍勢所属・勝敗・地名の区切りを確定しない |
| 久我家文書焼失 | 久我通向公と読まれる人物を記す | 実名下二字と焼失原因を確定しない |
| 畠山氏両派 | 誉田・遊佐・本折等を記す | 人名・地名・所属の一つへ固定しない |
| 足利政知下向 | 十二月二十四日/二十六日 | 具体日を一方へ確定しない |
| 堀越公方 | 政知が伊豆堀越に滞在 | 古河公方との並立を公開用に説明する |
| 怪異記事 | 水鳥・猿沢池の異変 | 特定の自然現象・凶兆へ断定しない |
| 南皇系譜 | 後醍醐天皇より三世 | 特定の旧南朝系皇族へ比定しない |
| 石見太郎・三条実量 | 神璽奪還記事に現れる | 実名・身分・役割を確定しない |
| 神璽奪還 | 赤松遺臣が旧南朝方を欺いて奪還したと伝える | 活字本文が伝える事件として掲載し、計略の細部を補わない |
| 襲撃者一覧 | 真島・衣笠・中村弾正等 | 完全な姓名・人数・所属を確定しない |
| 神璽還御日 | 八月晦日 | 他史料との日付異同候補を明記し、主本文では確定しない |
| 赤松政則系譜 | 性存法師・三郎法師丸 | 親子関係・改名・年齢・時系列を保留する |
| 万里の漢詩 | 神璽還御賀詩 | 漢詩本文を推測で復元しない |
| 活字本文終結 | 長禄2年の神璽奪還・赤松氏再興記事で終了 | 近藤瓶城識語の応永34年終点との関係を巻末書誌注記で説明する |
判読・校訂に自信のない箇所
- 分倍・二宮合戦:前頁から続く関東合戦。地名の区切り、成氏方・上杉方・幕府方の所属、勝敗を確定できていない。
- 久我通向公:「通向」と読めるが、実名下二字が不鮮明である。久我家文書焼失との具体的な関係も未確定である。
- 畠山合戦参加者:誉田・遊佐・本折等と読めるが、人名・地名・所属が多数混在している。
- 足利政知下向日:十二月二十四日または二十六日。活字の数字異読を解決できていない。
- 南皇系譜:「後醍醐天皇より三世」と読める可能性があるが、人物名・親子関係を確定できない。
- 石見太郎・三条実量:石見太郎の実名・赤松氏内での身分、三条実量の実名・事件中の役割を確定できない。
- 襲撃者一覧:真島・衣笠・中村弾正等と読めるが、完全な人数・姓名・所属は未確定である。
- 神璽還御日:八月晦日と読めるが、他史料との日付異同候補がある。
- 赤松政則系譜:性存法師・三郎法師丸と読めるが、年齢・親子関係・出家・改名の時系列が圧縮されている。
- 万里の漢詩:神璽還御を祝う賀詩とみられるが、題・作者名表記・詩本文を逐字確定できていない。
復刻作業記録
- 活字本巻五作業台帳の管理No.活字A-08を確認した。
- 対象を活字本part-A8・PDF第32画像・印刷62~63頁として確認した。
- 対象年代を康正元年~長禄2年として整理した。
- 今回確認した手書き写本4冊には直接対応する本文がないことを明記した。
- 本節が活字本巻五相当部分の最終区分であることを確認した。
- 活字本巻五を後世の付録・補遺・増補とは断定していない。
- 前節の成氏鎌倉喪失から、分倍・二宮合戦と五十子陣へ接続した。
- 分倍・二宮合戦の軍勢所属・勝敗を確定していない。
- 五十子陣を採用したが、築造日・参加武将・構造を補っていない。
- 久我家文書焼失の記事を採用したが、焼失原因・文書内容を補っていない。
- 久我通向公の実名を確定していない。
- 畠山義就・政長両派の戦いを採用した。
- 誉田・遊佐・本折等を一方の派閥へ無条件に分類していない。
- 足利政知の東国下向と伊豆堀越滞在を採用した。
- 政知下向日を十二月二十四日・二十六日の一方へ統一していない。
- 政知が鎌倉へ入れなかった具体的理由を資料外から補っていない。
- 古河公方・堀越公方の並立を公開用に説明した。
- 水鳥・猿沢池の異変を採用したが、自然現象・凶兆の一方へ断定していない。
- 南皇を「後醍醐天皇より三世」とする活字本文候補を保存した。
- 旧南朝系皇族を特定人物へ比定していない。
- 石見太郎を赤松遺臣として暫定的に整理したが、実名・身分を補っていない。
- 三条実量と読まれる人物の役割を確定していない。
- 赤松遺臣が旧南朝方へ接近し、欺く計略を用いたという活字本文の大筋を採用した。
- 潜入方法・会話・変装・約束を資料外から作成していない。
- 旧南朝系皇族への襲撃を採用したが、人物の生死・具体的な襲撃場面を補っていない。
- 真島・衣笠・中村弾正等を確定した全参加者一覧とはしていない。
- 神璽奪還を採用したが、直接の奪取者・移送経路を補っていない。
- 神璽還御日を八月晦日として確定本文にはしていない。
- 他史料との日付異同候補を明記した。
- 神璽奪還の功績による赤松氏再興を採用した。
- 再興の事前約束・幕府評定・所領配分を推測していない。
- 赤松政則の出仕を採用した。
- 性存法師・三郎法師丸の系譜を外部系図に合わせて再構成していない。
- 万里の神璽還御賀詩を推測で復元していない。
- 長禄2年の神璽奪還・赤松政則出仕記事で活字本文が終わることを確認した。
- 活字本文の長禄2年終点と、写本・近藤瓶城識語の応永34年終点を区別した。
- 次のPDF第33画像右丁を本文ではなく、近藤瓶城による巻末書誌識語として分離した。
- PDF第33画像左丁から始まる「菊池伝記総目録」を『南方紀伝』本文へ含めていない。
- 活字本文欄を「第一次解読の要旨」とし、存在しない逐字翻刻を作成していない。
- 校訂・読み下し本文を「公開用仮本文」とし、作業台帳にない古文・漢文を新たに作成していない。
関連ページへのリンク
巻五書誌注記――活字本文の終点と近藤瓶城識語
活字本巻五相当部分は、PDF第25画像から第32画像までに収録され、長禄2年(1458年)の神璽奪還・赤松政則出仕の記事で終わる。
今回確認した手書き写本第4冊は、応永34年(1427年)の赤松満祐上洛記事で終了する。活字本第25画像冒頭には同じ赤松満祐帰洛記事があるが、その直後から写本に直接対応する本文が確認されていない範囲へ移る。
PDF第33画像右丁には、明治33年(1900年)6月の近藤瓶城識語があり、『南方紀伝』を後醍醐天皇の元弘元年から称光院の応永34年までの書と説明する。この説明と、長禄2年まで続く活字本巻五相当部分との関係は明らかになっていない。
本サイトでは、活字本巻五を後世の付録・補遺・増補と断定しない。写本4冊・本文5巻の巻立て、活字本が用いた底本、異なる伝本系統、編集時の本文配置などを含む未解決の書誌問題として扱う。
PDF第33画像左丁から始まる「菊池伝記総目録」は、刊本で『南方紀伝』の後に収録された別史料であり、巻五本文には含めない。